<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?><FictionBook xmlns="http://www.gribuser.ru/xml/fictionbook/2.0" xmlns:l="http://www.w3.org/1999/xlink"><description><title-info><genre>antique</genre><author><first-name>Amagi</first-name><last-name>Chiaki</last-name></author><book-title>Vermillion</book-title><lang>ru</lang></title-info><document-info><author><first-name>Amagi</first-name><last-name>Chiaki</last-name></author><program-used>calibre 7.13.0, fb2cut 2.5.4, fb2cut 2.6.2</program-used><date>8.6.2025</date><id>11828e05-88f3-4825-9c37-9a339c65c6d8</id><version>1.0</version></document-info><publish-info><year>0101</year></publish-info></description><body><section><p>Vermillion 朱き強弓のエトランジェ</p><p>Amagi Chiaki</p><p>DEMONDAL ―硬派すぎるゲームシステムの北欧産VRMMO。スキルもレベルもインベントリも便利なギルドも存在しない、その無駄なリアリティは最早VR生活シミュレータ。そんなゲーム内で、廃人プレイヤーかつ騎射の達人として知られる主人公・ケイは、ある日相棒のロシアンNINJAと共にゲームそっくりの世界に転移する。元々リアルだった世界は、正真正銘の”現実”へ。転移の真相を探る二人は、知らず知らずのうちに世界の暗部へと踏み込んでいく。これは、生きる意味を再び手にした青年が、愛する人と彷徨い旅する物語。</p><p>参考資料 ：タアフ～ユーリア</p><p>私が小説を執筆する上で、参考にした写真（私が撮ったモノ）です。</p><p>主に武器や城塞、風景などがメインになると思います。本作を読まれる上でイメージを膨らませるのにご活用ください。</p><p>サーベル</p><p>ケイ＆アイリーンが使っているサーベルのイメージです。</p><p>金属製の、刃が引かれていない観賞目的の一振りでしたが、実際に手に持ってみると刀身が細い割にずっしりと重かったです。</p><p>ちなみに よく切れる刀剣と言えば日本刀 というイメージが先行しがちですが、実際のところ西洋のサーベルも切れ味はかなり鋭かったようです。</p><p>金属製のシャンデリア</p><p>アンティーク市場で なるほど！ と思わされた一品。</p><p>船を象った意匠の、金属製のシャンデリアです。両側に燭台になる部分があります。</p><p>シャンデリア と聞いてしまうと、どうしてもガラス製のきらきらとした物をイメージしがちですが、言われてみれば裕福な庶民向けにこういった商品も存在したはずですよね。</p><p>このシャンデリアはアンティークなので、古くから実際に人々の生活に使われてきたのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。</p><p>ベネットら、村長の家の居間に下がっているのは、これの樹木の意匠バージョンとお考えください。</p><p>サティナ・城郭のイメージ</p><p>フランス南部、エグモルトという名前の城郭都市の城壁です。</p><p>サティナの街の城壁は、これをイメージしております。圧倒的重量感。実用性重視で無骨なところがそそられますね。</p><p>サティナ・城門正面のイメージ</p><p>同じくエグモルトの城門から。サティナの街の門のイメージはこんな感じです。</p><p>右下で壁と格闘している筆者の姿をご覧頂ければ、壁のデカさが伝わりやすいかと。これ攻めろって言われたら正直絶望感が……</p><p>サティナの街・城門裏のイメージ</p><p>正門を裏側から見るとこんな感じです。ちなみに街の四方にこういった門が一か所ずつあります。</p><p>門は二重構造となっており、外側の扉に加えて内側には落とし格子があります。例え最初の門が突破されても中には容易く踏み込めない構造で、敵を足止めしている間に上から煮えた油やら何やらが降り注いできます。</p><p>サティナの街並みのイメージ</p><p>城壁の上から。奥に見えるのは海ではなく運河です。</p><p>ヨーロッパはこういった古い町並みが今もそのまま残っているので、その点羨ましいですね。</p><p>サティナの街並みのイメージ２</p><p>ついでにもう一枚、パシャリ。</p><p>シュナペイア湖と神殿のイメージ</p><p>スロベニアのブレッド湖より。</p><p>作中のシュナペイア湖と、湖の真ん中にある小島の精霊の神殿は、ここからインスパイアしたものです。</p><p>湖の神殿のイメージ</p><p>湖の上、手漕ぎボートから小島を撮った一枚です。小島にはキリスト教の教会があります。作中の神殿のイメージはこんな感じ</p><p>湖の神殿・入口の階段のイメージ</p><p>ボートで接岸できる、小島の入り口の写真です。</p><p>岩山の上の領主の城その１</p><p>同じく、スロベニアのブレッド湖から。作中のユーリアの城は、こんなイメージです。</p><p>岩山の上の領主の城その２</p><p>別角度より、もう一枚。</p><p>ユーリアの町のイメージ</p><p>↑の城から撮った一枚。作中のユーリアの、周囲のイメージはこんな感じです。ただ、山はもうちょっと大きくて、遠くにある感じかな？</p><p>森の小道</p><p>岩山の上の城まで行く途中の道。作中では特に登場しませんが、雰囲気が良かったので、ここに載せます。</p><p>参考資料 ：ウルヴァーン～</p><p>ウルヴァーンの街並み</p><p>イタリア中央部の町、オルヴィエートより。</p><p>比較的背の高い建物が台地に密集している、という点で、非常にウルヴァーンっぽい町です。</p><p>写真では台地であることが分かり辛いと思いますが、街並みのイメージを掴んで頂ければ幸いです。</p><p>ウルヴァーンの街並みその２</p><p>同じくオルヴィエートより。</p><p>歴史ある建物がガッツリ密集してるのは、何と言うか浪漫です。</p><p>ちなみにこの２枚の写真は、町で一番高い時計塔の上から撮影しました。</p><p>ウルヴァーン城壁イメージその１</p><p>フランス南部の町、カルカッソンヌより。</p><p>要塞都市……城塞都市？　の遠景写真です。</p><p>ライトアップが圧巻ですが、ウルヴァーンはこれを何倍にも大きくしたイメージでしょうか。</p><p>山の上にそびえ立っているのでかなり高い位置にあります。</p><p>ウルヴァーン城壁イメージその２</p><p>外縁部の城壁の内側より。左手側から十メートルくらい下が地面になります。こんなもんどうやって攻めろと……</p><p>ウルヴァーン城壁イメージその３</p><p>城壁の内側にあるお城です。堀と橋でさらに防御力がUP。今は菜園になってるようですが。</p><p>注目すべきは画面真ん中の塔ですね。木材で物見櫓の部分が再現されています。城壁のポツポツと開いている穴は、銃眼ではなく櫓を組むための支点として機能していたことが分かります。</p><p>ウルヴァーン城壁イメージその４</p><p>塔の上から見下ろす写真。</p><p>ウルヴァーン城壁イメージその５</p><p>丘の下側より一枚。</p><p>とある木立のイメージ</p><p>特に名前があるわけでもない、ただの木立。</p><p>馬鎧</p><p>北の大地編、護衛戦士の重装騎兵のイメージです。</p><p>作中では写真のような板金鎧ではなく、鱗鎧(スケイルメイル)で防御している設定なので見かけはかなり違いますが……あくまでイメージということでひとつ。</p><p>頂き物 ：イラストコーナー</p><p>ちょっとネタバレ感もあるので、ご注意ください！</p><p>一狩り行こうぜ！？</p><p>アイリーン服装</p><p>ケイ＆アイリーン</p><p>“死神”</p><p>木靴</p><p>Runner in the Dusk</p><p>モリセット隊の皆さん</p><empty-line/><p>0. DEMONDAL</p><p>なだらかな起伏が続く、緑の草原。</p><p>抜けるような青空にはふわふわと羊雲が浮き、涼やかな風が吹き抜ける。</p><p>そんな牧歌的な風景の中に、しかし、場違いに荒々しく駆ける騎馬の姿があった。</p><p>その数、十騎。</p><p>突出して駆ける二騎に、それを追う八騎。</p><p>先行する二騎は、同じ革のマントを羽織り、同種と思しき褐色の馬に乗っていた。</p><p>片方だけはパンパンに膨れた重たそうな革袋を鞍にくくりつけていたが、おおよそ二人とも装備は統一されているようだ。</p><p>それに対して、残りの八人の見てくれは酷い。</p><p>馬の種類は雑多。</p><p>装備は革鎧、ボロ布、もしくは半裸。</p><p>武器も簡素な弓や骨製の槍、錆びついた剣といった、お粗末なものばかり。</p><p>てんでばらばらな構成だ。両の目を欲望の光にぎらつかせている、という点においては、八人とも似通っていたが―。</p><p>逃げる側と追う側の構図。</p><p>両者の距離は、刻一刻と縮まっていく。</p><p>逃がすな、追えーっ！</p><p>やっちまえッ！</p><p>回り込めーッ！</p><p>追う側の八騎が、手にした得物を振り上げ、口汚く叫び声を上げた。</p><p>スラング混じりの汚い英語。たまに、下品な罵声が混じる。</p><p>装備と品性の両面でまさしく、『追剥』や『荒くれ者』といった言葉がお似合いの連中だが、そんな粗野な様子とは裏腹に、騎馬の連携には見事なものがあった。</p><p>逃げる側の二騎を追い立てるようにして、八騎はそれぞれ扇状に展開。</p><p>騎馬同士の距離を一定に保ち、またたく間に半包囲網を形成した。</p><p>射かけろッ！</p><p>中央を駆ける、比較的まともな革鎧の装備の男が―どうやら追剥たちの頭目らしい―槍を振り上げて叫ぶ。</p><p>その声を受けて、両翼に展開していた四人の射手が、簡素な短弓に矢をつがえた。</p><p>FUCK YOU(死にさらせ)！！！</p><p>右翼、顔面に刺青を入れた射手の男が叫ぶ。</p><p>それを合図に、残りの三人も弓を引き絞り、一斉に矢を放った。</p><p>矢羽が立てる細い風切音。</p><p>それを耳にして、ちらっと後ろを振り返った二騎は一瞬でその軌道を見切り、巧みな手綱さばきで次々と矢を回避する。</p><p>追剥の弓の腕と、逃げる騎手の手綱さばき。その技量の差が如実に表れていた。</p><p>二騎の標的は無傷のままに、矢だけがいたずらに消費されていく。</p><p>……チッ。右のを狙え！</p><p>頭目は舌打ちし、部下たちに指示を飛ばす。たちまち、狙いが右側の一騎に集中した。</p><p>元々、右側の騎馬は鞍に大きな革袋を括りつけており、左に比べて動きが鈍い。集中砲火を浴びた騎手は果敢に回避を試みるも、苛烈さを増した弾幕には抗しきれず、ついに乗騎が矢を受けてしまう。</p><p>！！</p><p>尻に矢が刺さった馬は、いななきを上げ派手に転倒。</p><p>鞍の革袋が開き、青い液体が詰まった瓶がばらばらと地面に零れ落ちる。</p><p>肝心の騎手は直前に鞍から飛び降りたらしく、草原に身を投げ出して受け身を取ったのか、ほぼ無傷であった。</p><p>一騎墜ちたぞォ！</p><p>ヒャッハー殺せェ！</p><p>が、そこに、猛スピードで馬を駆る無法者たちが迫る。</p><p>ハッハハハ、死ねえッ！</p><p>追剥の頭目は残虐な笑みを浮かべ、地面に這いつくばる獲物に向け真っ直ぐに槍を突き出した。</p><p>鋭い槍の穂先が、ぎらりと凶悪な光を放つ。</p><p>迫る凶刃。</p><p>飛び起きた騎手はマントを翻し、一目散に逃げ始めた。</p><p>それを見て、馬鹿め、と頭目はせせら笑う。</p><p>成る程、確かにその足の速さには、目を見張るものがある。</p><p>だが、所詮は徒歩(かち)、スピードの乗った馬に対抗できるようなものではない。</p><p>あっという間に距離を詰めた頭目は、逃走する獲物の無防備な背中に、容赦なく槍を突き込んだ。</p><p>研ぎ澄まされた槍の穂先は、呆気なく革製のマントをとらえ、突き刺さる。</p><p>しかし―軽い。軽すぎる。</p><p>手応えのない槍に、風に吹かれたマントがまとわりつく。</p><p>空振った、と理解した。</p><p>その瞬間、頭目の乗騎は鋭いいななき声を上げ、がくんと前につんのめる。</p><p>転倒。</p><p>たまらず鞍から放り出され、そのまま草原の大地に背中から叩き付けられた。</p><p>ぐえっ</p><p>しこたま背中を打った衝撃で、蛙のような声が出る。</p><empty-line/><p>その拍子に槍を取り落としてしまったが、頭目はそれに構わず素早く立ち上がり、腰の鞘から長剣を引き抜いた。</p><p>見れば、自分の乗騎が、左前脚を斬り飛ばされてもがき苦しんでいる。</p><p>そしてその傍らに―黒い影。</p><p>敵の正体を視界に収めた頭目の目が、驚愕にカッと見開かれた。</p><p>おッ、お前はッ！</p><p>動揺する頭目をよそに、黒い影は黙したまま、半身にサーベルを構える。ただ、その青い瞳を、すっと細めて。</p><p>それは、金髪碧眼の少年だった。</p><p>女と見紛うばかりに小柄な体躯、精悍な顔立ちに鋭い目つき。</p><p>長く伸ばした金髪は、邪魔にならぬよう後頭部で束ねてある。</p><p>右手に何の変哲もないシンプルなサーベルを構える少年だったが―その装いは、異様の一言。</p><p>黒づくめ。</p><p>頭部には黒鉄の額当て。口元を覆い隠す黒のマフラー。</p><p>全身を包むのはぴったりとした布製の黒衣で、手足には黒革の籠手と脛当て。</p><p>腰の帯には黒塗りのダガーを差し、極め付けに背中には、黒塗りのサーベルの鞘を背負っていた。</p><p>その姿は、まさしく―</p><p>―“NINJA”！</p><p>頭目は呻くようにして叫ぶ。</p><p>“忍者”。</p><p>それも、純粋な日本製《メイド・イン・ジャパン》の”忍者”ではなく。</p><p>外国人が勝手にイメージを膨らませて創り出したような、何かちょっと間違えてる、“NINJA”。</p><p>“NINJA”！　“NINJA”のアンドレイ！？</p><p>Holy Shit(なんてこった)！！　本物か！？</p><p>あの一瞬でマントを身代わりに……！</p><p>周囲の手下たちにも、動揺が広がる。</p><p>“NINJA”のアンドレイ。</p><p>彼は、この世界でも屈指の有名人だった。</p><p>その個性的すぎる見かけと―それでも、確かな実力から。</p><p>アンドレイという強敵の出現におののく手下をよそに、動揺の波が引いていち早く立ち直った頭目は、じりじりと全身の血が沸き立つのを感じた。</p><p>闘志。</p><p>強者に挑戦したい。</p><p>己の力を試したい。</p><p>そんな、純粋な欲求。</p><p>……アンタとは一度、戦ってみたいと思ってたんだ……！</p><p>驚愕の表情を、獰猛な笑みに染め直し。</p><p>すっ、と正眼にロングソードを構えた。</p><p>瞬間、アンドレイの姿が黒くブレる。</p><p>銀閃が横切った。</p><p>ぱすん、という衝撃。斬られた、とわかった。</p><p>は？　と声を上げようとして、気付く。</p><p>声が出ない。</p><p>見れば、視界の端、己の首から赤い血しぶき(エフェクト)。</p><p>おそらく、『声帯』が破壊されたのだ。</p><p>『頸動脈』も断ち切られている。</p><p>速く、それでいて正確、かつ、致命的な一撃。</p><p>呆気に取られたまま、頭目はただ、 はええ と口を動かした。</p><p>その瞬間、多量の出血により『失血死』判定を受けた頭目は、どさりと人形のように地に倒れ伏し、そのまま物言わぬ『肉塊』と化した。</p><p>お頭ァ！</p><p>てめェッよくもッ！</p><p>頭目の死に、怖気づくよりもむしろ激昂した二人の追剥が、馬首を巡らせてアンドレイに迫る。</p><p>得物はそれぞれ槍と棍、両者ともに長柄の武器だ。</p><p>アンドレイを左右から挟み込むように、騎馬で全力の突進をかける。</p><p>対するアンドレイは、右手にサーベルを構え、左手で黒塗りのダガーを引き抜いた。</p><p>おらアァァァッッッ！！</p><p>死ねええぇぇぇッッ！！</p><p>武器を振り上げた騎乗の追剥が、左右から迫る。</p><p>一見すると絶体絶命の状況だったが、当のアンドレイは落ち着いたものだった。</p><p>彼は知っていた。</p><p>自分が一人でないことを。</p><p>カァン！　と、乾竹を割ったような快音が、蒼天に響き渡る。</p><p>何だ？</p><p>追剥の一人、槍を構えていたもじゃ髭の男が、怪訝な顔で首を巡らせた。</p><p>風切音。</p><p>次の瞬間、ドチュンと湿った音を立てて、もじゃ髭の頭部が吹き飛んだ。</p><p>その首の付け根から、噴水のように血しぶき(エフェクト)が噴き上がる。確かめるまでもなく『即死』判定。『肉塊』と化し、だらりと力を失った首無しの体が、ゆっくりと傾いて馬上から転がり落ちた。</p><p>動体視力に優れた者ならば、知覚できたはずだ。</p><p>遥か後方より飛来した矢が、追剥の首に突き刺さり、それを千切り飛ばしたことを。</p><p>何だと！？</p><p>棍棒を振り上げ、今にもアンドレイに突撃しようとしていた追剥は、突然の相方の死に思わず馬の足を止める。</p><p>何が起きた。見やる。後方。</p><p>マントをはためかせ、ひとり駆ける騎兵の姿。</p><p>アンドレイと共に逃げていた、残りの一騎。</p><p>精緻な装飾の革鎧に身を固め、頭部には羽根飾りのついた革の兜、口元を布で覆っているために顔はよく見えず、かろうじて分かるのは、それが黒い瞳を持つ青年であるということのみ。</p><p>武装として、腰にひと振りのサーベルを佩いていたが、ひと際目を引くのは、左手に構える朱色の弓だ。</p><p>騎乗で扱うには少し大き目の、異様な存在感を放つ複合弓。</p><p>草原の緑に、鮮やかな朱色がよく映える。</p><p>優美な曲線を描く弧―それは、陽光を浴び妖しく煌めいていた。</p><p>―殺せッ！</p><p>しばし呆然としていた追剥たちだったが、すぐに我に返り怒りの声を上げる。</p><p>が、黒目の青年は、既に新たな矢をつがえていた。駆け足に揺れる馬上、一息に弦を引き絞り、放つ。</p><p>カァン！　と快音再び、一筋の銀光と化した矢が、唸りを上げて追剥に襲い掛かった。</p><p>腹の底に響くような、肉を打つ重低音。</p><p>アンドレイと相対していた棍棒使いが、弾かれたように馬上から吹き飛ばされる。</p><p>その左胸に突き立つは、白羽の矢。</p><p>的確に心の臓を捉えた、致命の一撃(クリティカルヒット)。</p><p>どさり、と地に落ちた棍棒使いは、己の革鎧をいとも容易く突き破った矢に、ただただ呆然と視線を落とす。</p><p>No shit(ウソだろ)…！</p><p>小さく呟いたのを最後に生命力(HP)が底を尽き、追剥はただの『肉塊』と化した。</p><p>野郎ッ、なんて腕だ！</p><p>腕だけじゃねえ、あの弓もヤバい！</p><p>OK, 俺に任せなッ！！</p><p>浮足立つ追剥の中、板金仕込みの革鎧で武装した比較的重装備の男が、木製の円形盾を掲げながら勢いよく飛び出した。</p><p>カモォォン、ファッキンアーチャ―ッ！！</p><p>挑発的な雄叫びをあげながら、比較的重装備男が突撃する。</p><p>ガンガンとメイスで円形盾を叩き鳴らす姿は、まるで ここに射掛けてみろ とでも言わんばかりだ。</p><p>……</p><p>対する黒目の青年は、少しだけ目を細め、きりきりと弦を引き絞る。</p><p>快音。</p><p>凄まじい勢いで撃ち出された銀光が、馬鹿正直に、真正面から盾持ちの追剥へと迫る。</p><p>ろくに視認すら出来ぬ矢の速さ、しかし、真正面であればこそ見切るのは容易い。</p><p>にやりと好戦的な笑みを浮かべた追剥は、あらかじめ身構えていたこともあり、余裕を持って盾で受ける。</p><p>が。</p><p>破砕。</p><p>一撃で盾の表面を叩き割った矢は、そのまま裏側の持ち手を貫通し、勢いを減じることなく直進。</p><p>追剥の革鎧に仕込まれた板金を、紙きれのようにブチ抜いた。</p><p>Oh……ッ！</p><p>矢の威力に自身の突進の力が合わさり、盾持ちの男はビリヤードの玉のように勢いよく吹き飛ばされる</p><p>血しぶき(エフェクト)をきらきらと撒き散らしながら、放物線を描いて宙を舞い、地面に叩きつけられた。</p><p>ぴくりとも動かない。無論、『即死』だった。</p><p>主を失ってもなお、歩みを止めなかった騎馬が、パカパカと足音を響かせながら、黒目の青年のそばを駆け足で通り過ぎていく。</p><p>……ジェームズがやられたーッ！</p><p>ヤバい、あのアーチャーはヤバい！</p><p>もうダメだ、逃げろーッ！</p><p>底知れぬ弓の威力、そしてその化け物じみた使い手を前に、完全に戦意を喪失した追剥たちは馬首を巡らせて一目散に逃走し始める。</p><p>対する黒目の弓使いも馬を走らせ、緩やかに迫撃を開始した。</p><p>弓の狙いを逸らすため、必死でジグザグに走りランダムな機動を取る追剥たち。</p><p>だが、その努力はすべて無駄に終わった。</p><p>快音が再び鳴り響くこと、二度、三度。</p><p>銀光が閃き、そのたびに追剥が馬上から叩き落とされていく。</p><p>あっという間に三騎が射殺された追剥たちだったが、最後の一騎は運が良かった。</p><p>矢の直撃を受けるも、肩に刺さったおかげで辛うじて即死は免れたのだ。</p><p>矢傷を負った追剥はそのまま馬を走らせ、丘陵の向こう側へと姿を消していった。</p><p>……</p><p>深追いはせずに、小高い丘の上で青年は馬の足を止める。</p><p>弓に矢をつがえたまま、頭を巡らせて周囲に視線をやった。</p><p>東には、地平線の果てまで続く、緑の丘陵地帯。</p><p>時たまぶわりと風が押し寄せて、さわさわと葉擦れの音を運んでくる。</p><p>西には、うっすらと霞んで見える雄大な山脈と、そのふもとに広がる森林。</p><p>森の手前、肩に矢が刺さったまま、必死で逃げる追剥の姿が小さく見えた。</p><p>鷹並みの視力を誇る、青年の視界の中、西へ西へと駆ける追剥の後ろ姿が小さくなっていく。</p><p>警戒を続けること、数十秒。</p><p>伏兵や新手の存在はないと判断し、青年はアンドレイの元へと戻っていった。</p><p>…………</p><p>矢が尻に刺さって痛そうにしている、褐色の馬のそば。</p><p>アンドレイは、がっくりと地に膝をつき、項垂れていた。</p><p>……大丈夫か？</p><p>訛りのない流暢な英語。矢を矢筒にしまい、弓を膝の上に置いた青年が、馬上から声をかける。</p><p>大丈夫じゃねえ！！</p><p>黒目の青年の言葉に、キッと顔を上げたアンドレイが悲痛な叫びで答える。こちらも英語で、Rの発音にはきついロシア語訛りが入っていた。</p><p>見ろ！　これを！　酷い有り様だ！</p><p>アンドレイは勢いよく立ちあがり、芝居がかかった仕草で、周囲に散らばった大量の瓶を示して見せる。</p><p>柔らかな草原の地に転がるそれらは、しかし、放り出された衝撃からか、ほとんどが割れていた。無事な物はほとんど見受けられず、中に詰まっていた青色の液体も多くが流れ出てしまっている。</p><p>―High-POT(ハイポーション)がおじゃんだ！　ほとんど……ほとんど全部だぞ！　せっかく安く買えたのにっ！　しかも”ウルヴァーン”まであと少しもないってのにっ！　あんまりだっ、こんなの、あんまりだっ！　これじゃ……これじゃ、大赤字じゃないか……</p><p>言っているうちにどんどんテンションが下がっていき、しまいには よよよ と泣き崩れて再び膝をつくアンドレイ。</p><p>対する黒目の青年は、そんな彼を憐みの目で見ながらも、やれやれと小さく頭を振る。</p><p>……だから『欲張るな』と言ったんだ。買占めて転売なんざ、あこぎなことを考えるからこうなる</p><p>だって、だってさぁ！</p><p>せめて、馬が重量オーバーにさえなってなけりゃ、逃げ切れた。違うか？</p><p>ぬぐっ……</p><p>青年の指摘に、アンドレイが言葉を詰まらせる。</p><p>馬の重量オーバーはやめておけ、という忠告を押し切って、無理やり大量のポーションを載せたのは、他ならぬ彼自身だったからだ。</p><p>……っていうか、お前が最初っから弓で射かけとけば、追剥(コイツら)も引いたかもしれないじゃないか！　なんでもっと早く攻撃してくれなかったんだよ！</p><p>己の不利を悟ったアンドレイが立ち上がり、大仰な身振り手振りを交えて論点をずらそうとする。しかし、</p><p>おいおい、お前を『護衛』として雇ったのは誰だ？</p><p>ぬっ</p><p>考えてもみろ、『依頼主』が『護衛』を守るなんて愉快な話があるか？</p><p>ぐっ</p><p>第一、置いていかれなかっただけでも感謝して欲しいもんだ。お前を置いていけば、俺はノーリスクで悠々と逃げ切れたんだからな</p><p>ぐぬぬっ</p><p>手痛く反撃を食らって、悔しそうな顔で呻く。</p><p>どうにか言い返そうと口を開くも、反論の余地は無いと悟ったのか、そのままがくりと膝をついた。</p><p>まったく、護衛頼んだのはこちらとはいえ、何度置いていこうと思ったことか。ただでさえこっちは『貴重品』持ってるってのに……</p><p>独り言のように呟きながら、青年がぽんぽんと、膝の上の弓を叩いて見せる。</p><p>くっ……くそっ、ケイ、お前のせいだ！　お前が護衛なんて頼むから！　珍しく頼みごとされたと思って、引き受けたのが間違いだった！　断っておけばポーションになんて手ぇ出さずに済んだのに！　畜生っ！　畜生っ……！！</p><p>吐き捨てるように言ってのけ、再びテンションが下降したアンドレイは、骨が抜けたかのように脱力。</p><p>どさりと力なく倒れ伏して、いじいじと地面を指先でいじくり始めた。</p><p>八つ当たりもいいところだ。『ケイ』と呼ばれた黒目の青年は、ため息一つ。</p><p>視界の遥か彼方、うっすらと見える雄大な山脈を眺めながら、</p><p>『知らんがな……』</p><p>漏れ出た呟きは、日本語だった。</p><p>1. ケイ</p><p>情報科学に革命が起き、情報処理技術が劇的に躍進したのが、おおよそ二十年前。</p><p>そして生体科学が発展し、仮想現実、すなわちVR技術が実用化されたのが十年前。</p><p>現在、世界には、VR技術を応用した様々なコンテンツが溢れかえっている。</p><p>北欧系のデベロッパに開発されたVRMMORPG DEMONDAL も、そんなコンテンツのひとつだ。</p><p>“中世ファンタジー風、リアル系MMORPG”―</p><p>そう銘打たれたこのゲームは、世界最高峰の物理エンジンを実装しており、全フィールド対人戦無制限(FreePvP)、死亡時に全ての所持品（肉体を含む）をその場にドロップ、プレイヤーの挙動を自動化する類のアビリティの排除、プレイヤー名やHPバーなどほぼ全てのゲーム的要素の不可視化、などなど、なかなかに尖った仕様で知られている。</p><p>開発会社いわく、『我々は極限にまで、ファンタジックなリアリティを追求した』。</p><p>DEMONDAL は、ゲーム的要素の強い他のVRゲームとは一線を画し、最早VR生活シミュレータといって差し支えないほどのリアルさを誇っている。</p><p>ゲーム内でメニュー画面を開くと、 ログアウト GMコール 現実世界の時刻 の三つしか表示されない、と聞けば、そのリアル志向ぶりがよくわかるだろう。</p><p>が、そんなリアル系VRゲームの先鋭たる DEMONDAL だが、悲しいかな、『極限にまで追求されたリアリティは万人受けしない』という真理の、典型的な見本でもある。</p><p>他のゲームとは違う、システムのシビアさ―特に、戦闘・生産を問わず、自動化されたアビリティの類が存在しないことが、一般人にとって大きな障害となっていた。</p><p>ゲーム内での全ての行動が現実並みに地味、かつ、その難易度が高く、他のゲームに比べてハードルが突き抜けて高いのだ。</p><p>DEMONDAL のアクティブなプレイヤー人口は、多く見積もっても二万人強。</p><p>他のVRネットゲームのタイトルが、最低でも五万人以上のアクティブ人口を持つことを考えると、その少なさがよく分かるだろう。</p><p>しかしその分、シビアでリアルな『世界』を求める猛者、変人、廃人が、高い敷居などものともせずに世界中から集まっている。</p><p>世界で最も濃い(・・)VRMMO。</p><p>それが、 DEMONDAL だ。</p><p>乃川圭一《のがわけいいち》― DEMONDAL の世界では主に『ケイ』の名前で知られる彼も、そんなクソッタレな世界を愛する廃ゲーマーの一人だ。</p><p>……それにしても、さっきの連中。かなり気合の入った追剥(・・)だったな</p><p>弓を片手に馬を走らせながら、ケイは後ろに追随するアンドレイに声をかける。</p><p>追剥たちを撃退してから、既に十分が経過しようとしていた。周囲の景色は、短草の茂る丘陵地帯から、木々が散見される疎林地帯へと変わってきている。</p><p>ケイたちの本拠地、“ウルヴァーン”の村が近づいてきた証拠だ。</p><p>あと二十分も走れば着くだろう。</p><p>そうだな……。ありゃ多分、追剥RP(ロールプレイ)用の別キャラだろうな</p><p>まだPOT(ポーション)大量喪失の衝撃が抜けきれないのか、やや沈んだ口調で首肯するアンドレイ。</p><p>そんな彼とは対照的に、矢傷をPOTで完治させた彼の乗騎は、大量のお荷物から解放されて足取りも軽やかだ。</p><p>ため息をひとつついたアンドレイは、陰鬱な気分を振り払うように頭を振り、言葉を続ける。</p><p>少なくともあの連携は、新規(ニュービー)じゃあねえ。かなり訓練しないと、ああはいかないぜ</p><p>ああ、なかなかいいチームワークだった。アレでアーチャーの腕が良かったら、危なかっただろうな</p><p>ま、リーダーが死んだあとは、ただの烏合の衆だったけどよ</p><p>そこまで言ったアンドレイは、マフラーの下、ふと怪訝な顔で首を傾げた。</p><p>……でも、オレのことは知ってたのに、お前のことは知らなかったな？　別ゲーの連中か？</p><p>“NINJA”スタイルの第一人者、かつ DEMONDAL 有数のサーベル使いとして抜群の知名度を誇るアンドレイ。</p><p>彼ほどではないが、実はケイも、ゲーム内ではそこそこ有名なプレイヤーだ。</p><p>もはやゲームの中に住んでるんじゃないか、と言われるほどにぶっ通しでログインし続ける廃人っぷりもさることながら、歴戦の戦闘狂をして一目を置かせる騎射の達人であり、また DEMONDAL で数少ない日本人プレイヤーとしても知られている。</p><p>いや、多分、“コイツ”のせいだろう</p><p>ひょい、とケイは左手の弓―見事な朱色の複合弓を掲げて見せた。</p><p>死亡時に所持品の全てをその場にドロップする DEMONDAL の世界において、死亡による装備の紛失や、それを狙う強盗・追剥プレイヤーの出現は日常茶飯事。</p><p>そのため、プレイヤーの大多数は、その装備をローコストで代替可能な量産品で固めており、高級品あるいは一点ものの装備を普段から使う者は非常に少ない。</p><p>ケイもその例に漏れず、武具も防具も、普段は最高性能からは少し劣る程度の量産品でまかなっている。</p><p>特に弓は、取り回しが悪く馬上では扱いづらい代わりに、高威力で長い射程を持つ大型の複合弓を愛用しており、弓騎兵としては異様な大弓は、『ケイ』のトレードマークとして知られていた。</p><p>が、しかし。今日に限っては勝手が違う。</p><p>朱色の複合弓。</p><p>“飛竜(ワイバーン)“の翼の腱と、“古の樹巨人(エルダートレント)“の腕木。</p><p>二つの極めて貴重な素材を用いて作成された、おそらく DEMONDAL の世界に二つと存在しない、最高の威力を誇る弓だ。</p><p>腕利きの弓職人に作成を依頼していたのだが、今日、遂に完成し、先ほど海辺の町”キテネ”で受け取ったばかりの逸品だった。</p><p>その銘を、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“という。</p><p>サイズは馬上で扱うには少々大きめだが、普段ケイが扱う大弓に比べるとコンパクトで、取り回しはそれだけ楽になっている。</p><p>が、その張力は、ただの大弓と比較にならぬほど強い。</p><p>もちろん、威力と射程も段違いだ。</p><p>演習場で試射した結果、“竜鱗通し”から放たれた矢は、二百メートル先の板金鎧を完全に貫通し、反対側へと突き抜けた。</p><p>これは理論上、二百メートル圏内であれば、ゲーム内で最高の強靭性を誇る”竜の鱗”を打ち抜く威力だ。</p><p>故に、ついた銘が”竜鱗通し”。</p><p>現状、ゲーム内で一点ものな上に、破格の威力を持つこの美しい朱塗の弓は、間違いなく大弓に代わって『ケイ』の新たなトレードマークになることだろう。</p><p>ちなみに、まだ余分な素材はあるので、ケイはその気になればあと二つ、この弓を作成することができる。</p><p>他のプレイヤーに奪われる可能性を鑑みても、割と気軽に持ち出せるのだ。その点においても、“竜鱗通し”はポイントが高かった。</p><p>ショボい木の盾だったけど、叩き割って鎧まで貫通したのには笑ったな。やっぱすげえわ、その弓</p><p>そうだろう、そうだろう</p><p>自分で作成したわけではないが、アンドレイに手放しに誉められ、ご満悦なケイ。</p><p>流石は”死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》”……死神様には相応しい武器、だな？</p><p>…………</p><p>が、アンドレイのからかいに一転、渋面を作る。</p><p>“死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》”。</p><p>幾つかあるケイの渾名の中で、おそらく最も広まっているものだ。</p><p>かの有名な殺人鬼、“切り裂きJACK《ジャック・ザ・リッパー》“をもじったこの渾名は、ケイと交戦した者のあまりの死亡率の高さから名付けられた。</p><p>元々、威力の高い大弓を馬上でも難なく使いこなすケイは、弓騎兵として他のプレイヤーから頭抜けた実力を持つ。</p><p>その狙いは正確無比、風を読むセンスは天性のもので、大弓から放たれる矢は生半可な防具では防げず、獲物を確実に死に至らしめる。</p><p>故に、死神。</p><p>ついでに日本人なので、つなげて死神日本人。</p><p>誰が呼び始めたのかは定かでないが、その分かりやすさからあっという間に広がり、当初付けられていた”鎧通し(スティンガー)”、“大弓使い(ラージアーチャー)“などの渾名を駆逐。</p><p>現在ではさらに縮まり、“ザ・ジャップ”とさえ呼ばれる始末だ。</p><p>呼んでいる者たちにはあ(・)ま(・)り(・)悪意はないのだろうが、いち日本人として、 ジャップジャップ と呼ばれるのは、あまり良い気持ちはしない。</p><p>……早く別の渾名が欲しいな</p><p>遠い目で、素朴な願望を呟くケイ。</p><p>そうだなー。新しい渾名がつくといいなー</p><p>その背後、頭の後ろで腕を組んだアンドレイは、どこか投げやりな調子で同意する。</p><p>正直なところ。</p><p>“竜鱗通し”を得たことにより、ケイと交戦する者の死亡率はさらに上がったわけで。</p><p>しかも、この弓を常時持ち歩くとなれば、それを狙う強盗も増えることだろう。つまりその犠牲者は増える一方。</p><p>（“死神”の名がもっと広がるだけじゃないか？）</p><p>口には出さなかったが、密かにそう思うアンドレイであった。</p><p>†††</p><p>馬で駆けること、さらに十分。</p><p>疎林地帯を抜けたケイたちは小さな川に沿って、上流の方へと進んでいた。</p><p>目の前には、岩が剥き出しの高い崖に挟まれた、峡谷の入り口。</p><p>この峡谷、その名も”ウルヴァーン・ヴァレー”という。</p><empty-line/><p>プレイヤーメイドの要塞村”ウルヴァーン”へと続く、最も便利な道として活用されている。</p><p>この谷を抜け、崖道を登って行けば、数分とせずに村へと着くはずなのだが―</p><p>……霧？</p><p>訝しげに眉をひそめたケイは、手綱を引いて馬の足を止めた。</p><p>霧。</p><p>進行方向、峡谷の入り口から向こう側は、全て乳白色の霧に覆い尽くされていた。まるでミルクが空気中に溶け込んで漂っているかのように、先が見通せない、濃い霧。</p><p>……妙だな</p><p>ああ。天気は良いぜ</p><p>ケイの呟きに、快晴の空を見上げたアンドレイが答える。</p><p>リアル志向の DEMONDAL では、当然のように天候も再現されており、『霧』という現象そのものは珍しくもなんともない。</p><p>だが、リアル志向だ(・)か(・)ら(・)こ(・)そ(・)、晴れ渡った昼下がりに、唐突に霧が立ち込めている理由が分からない。</p><p>……“幻覚の霧”？</p><p>アンドレイがケイの方を向いて、ゲーム内で最もメジャーな幻覚系の魔術を挙げる。</p><p>しかし、ケイは頭を振ってそれを否定した。</p><p>いや、それはないだろう。俺たちの魔術耐性を考えてみろ</p><p>……こんなに濃くは見えないな</p><p>ああ、少なくともプレイヤーには無理だ。それに、俺の第六感(シックスセンス)に反応がない</p><p>注意深く周囲に視線をやりながら、ケイは言った。</p><p>“第六感(シックスセンス)”。</p><p>リアル志向の DEMONDAL の中でも数少ない、ゲーム的な要素の一つだ。</p><p>日本人からすると、『殺気』と聞けば、馴染み深い概念かもしれない。</p><p>さっくり言ってしまえば、自分を害する『攻撃』が放たれた際、それに対して背筋がゾクゾクするような『悪寒』が発生するシステムだ。そしてその『攻撃』には、一般的に、実害のない幻覚系の魔術も含まれる。</p><p>ケイの第六感に反応なし、か。となると魔術師の仕業じゃないな</p><p>アンドレイが顎に手を当てて、ふむむ、と唸り声を上げる。</p><p>“第六感”―聴覚と触覚を融合し、新たに創られた、文字通り第六の感覚。</p><p>実際のところ、どうしてもこのシステムに馴染むことが出来ず、機能をオフにしてしまうプレイヤーも少なくない。</p><p>だが、ひとたび順応さえすれば、これほど頼りになる感覚はない、とケイは思う。</p><p>弓を扱い、遠距離からの射撃戦に主眼を置くケイは、殺気を感知する技能と、攻撃時に精神を平静に保ち、逆に殺気を隠す技能に長けている。公式で設定されているわけではないが、プレイヤーたちは前者を”受動感気(パッシブセンス)”、後者を”隠密殺気(ステルスセンス)“と呼ぶ。</p><p>ケイの場合、特に”受動(パッシブ)“が神がかった領域にあり、ほんの僅かな殺気であっても感知が可能だ。例え背後からの不意打ちであっても、大概の攻撃は事前に対処できる。その代わり殺気に敏感すぎるため、刺激的な混戦は苦手としているが―</p><p>兎も角、そんなケイであっても、この霧からは『殺気』が感じられない。</p><p>……まあ、“妖精”以外の契約精霊で、幻覚系の魔術があるなら話は別だ。仮に、脅威度も敵性意思もゼロ設定の魔術があったら、俺でも感知は出来ないぞ</p><p>矢筒から矢を抜き取りながら、ケイ。</p><p>お前は何か感じないか？　アンドレイ</p><p>Nope(なんにも). 知ってるだろ、オレは”受動(パッシブ)“は苦手なんだよ。第一お前に分からないモンが、オレに分かるわけがない</p><p>しゃらりと、背の鞘からサーベルを抜き放ち、アンドレイが肩をすくめる。</p><p>サーベルによる白兵戦のほか、撹乱や奇襲なども得意とする”NINJA”ことアンドレイは、意図的に強烈な殺気を放ち相手を威圧する”能動発気(アクティブセンス)“と、殺気を抑える”隠密殺気(ステルスセンス)”、その両方を極めた近接格闘の達人だ。</p><p>対極に位置する二つの技能、“能動(アクティブ)“と”隠密(ステルス)“が変幻自在に入り乱れ、そこに軽業(アクロバット)のような変態機動が加わるのがアンドレイの戦闘スタイル。</p><p>敵を翻弄し、リズムを切り崩し、場の空気を支配する。</p><p>が、自らイニシアティブを握っていくこの戦闘スタイルゆえ、アンドレイは”受動(パッシブ)“を使う機会がほとんどない。その殺気を感知する能力は、お粗末なレベルに留まっていた。</p><p>あくまで”上級プレイヤーにしては”という但し書きはつくが、少なくとも、ケイと比べられるレベルではない。</p><p>けど、この霧があからさまに怪しいのは分かるぜ、流石にな</p><p>全くだ。どうしたものか</p><p>少なくともケイの知る限り、ウルヴァーンヴァレーに霧が立ち込める、という現象はこれまで起きた試しがない。天気が悪かった日も含めてだ。</p><p>しかし DEMONDAL は、イベントやアイテム、モンスターの追加など小ネタ的なアップデートが予告なしで行われることがある。</p><p>この霧も、おそらく新たに追加された『何か』であると考えられた。</p><p>……迂回するのが、一番リスクは少ないな</p><p>でもココ通らなかったら三十分は食うぜ？</p><p>アンドレイがわざとらしく、素っ頓狂な声を上げる。</p><p>ウルヴァーンヴァレーを通れないとなると、ここからは崖を迂回し、険しい山道を登る以外に村へアクセスする方法はない。</p><p>んじゃ突っ込むか？</p><p>ケイ……なんでお前、そう極端なんだ</p><p>冒険してなんぼだろ？　それに、そういうお前も乗り気じゃないか？</p><p>ふっ、まあな。殆どのポーションを失ったオレに、もはや怖いものなどない！</p><p>えっへん、と自虐的に胸を張るアンドレイ、しかし小首を傾げて、</p><p>でもいいのか？　万が一があったら、その弓……</p><p>勿論、失くしたくはないが、予備の素材はあるしな。それに何かヤバいことがあったら、次はお前を置いて逃げるさ</p><p>この野郎っ</p><p>アンドレイがおどけてサーベルを振り上げた。笑みを浮かべたケイは、それから逃れるように馬を走らせる。</p><p>さて、ちょっくら行ってみようか相棒</p><p>おうよ</p><p>笑いながら、二人はそのまま霧の中へと入っていった。</p><p>2. 霧の中</p><p>見渡す限りの、乳白色の世界。</p><p>濃いな……</p><p>常歩でゆっくりと馬を進ませながら、ケイはいつでも矢を放てるように弓を構え、周囲に神経を張り巡らせる。</p><p>頭上から降り注ぐ陽光のおかげで明るくはあるものの、視界はぼんやりと霞み、見晴らしは非常に悪い。</p><p>五メートルほど先から急激に見えづらくなり、十メートル先に至っては殆ど何も見えなかった。乳白色のヴェールからぬっと姿を現す木々の影に、先ほどからケイはぎょっとさせられてばかりいる。</p><p>霧を構成する粒子の一粒一粒が、つぶさに見えるような錯覚。</p><p>ぼやけた視界のせいで、頭の中までぼんやりしていくような。</p><p>そんな、不快な感覚があった。</p><p>アンドレイ、着いてきてるか</p><p>おう。たまに見失うけどな</p><p>……はぐれるなよ？</p><p>気をつけるさ。流石に面倒だ</p><p>本当に大丈夫か、とケイはすぐ後ろに追随するアンドレイに目をやる。ぱっかぱっかと揺れる馬上、アンドレイはサーベルでぽんぽんと肩を叩きながら、興味深げに周囲を見回していた。</p><p>すげえな、この霧。現実(リアル)でもこんなのお目にかかったことねえよ</p><p>……お前の御国は、霧はよく出るのか？</p><p>あー、……いや。霧はあんまし、どっちかっつーと雪だな</p><p>ロシアだよな？</p><p>ああ、シベリアだ</p><p>シベリアか……寒そうだ</p><p>冬は軽く－３０℃はいくぜ</p><p>そいつは勘弁だな、寒いのは苦手だ</p><p>一旦、会話が途切れる。</p><p>……やはり魔術か？　自然現象にしては、濃すぎる気がする</p><p>そうだなー。けどMob(モンスター)が魔術使っても、敵性意思は発生するだろ？　そしたら、お前の第六感(シックスセンス)で感知できるはずだ</p><p>となると、脅威度がゼロ設定の、未発見の魔術か……？　いや、俺たちの魔術耐性を考えると、この濃さで脅威度ゼロは無いだろう</p><p>“幻覚”じゃなくて、実際に霧を発生させてる、って可能性もあるぜ？</p><p>……だとしたら、かなり上位の精霊だな。契約できれば儲けモノだが……二人で戦うのは、ぞっとしないな</p><p>……攻撃的(アクティブ)Mobじゃないことを祈るぜ</p><p>アンドレイがお手上げのポーズを取る。</p><p>が、突然、ぎょっとしたように顔を強張らせ、左手で腰の投げナイフを引き抜いた。</p><p>……</p><p>どうした、アンドレイ</p><p>一瞬、アンドレイが発した鋭い殺気を感知し、馬の歩みを止めたケイは弓を構えつつ尋ねる。</p><p>投げナイフを左手に、アンドレイは困惑したような顔で、ぽつりと答えた。</p><p>……声が聴こえた</p><p>……声？</p><p>思わず、ケイは眉をひそめる。</p><p>『視力強化』の呪印を刻んだ両の瞳ほどではないが、極限までステータスを高めたアバターとして、ケイの耳もかなりの高性能を誇っていた。</p><p>しかし、先ほどから、声など聴こえてはいない。</p><p>……何だ……何だ、今の……</p><p>……落ち着け。なんだか嫌な感じがする</p><p>壊れた機械のように、せわしなく視線を彷徨わせるアンドレイ。</p><p>その姿に、言い知れぬ不安を覚えたケイは、思わずそう口にして―自分の発言に戸惑った。</p><p>“嫌な感じがする―”</p><p>何を馬鹿な、と。一笑に付したい気分だった。</p><p>確かに DEMONDAL には”第六感(シックスセンス)“という、『悪寒』を発生させるシステムが存在する。だがそれはあくまで、鳥肌が立つような、ゾクゾクとした『感覚』を再現するもの。</p><p>断じて、根源的な不安を呼び起こすような―</p><p>ヒトの感情に、直接影響を及ぼすようなものでは、ない。</p><p>しかし、他でもない今。</p><p>ケイは得体の知れない何かが、足元からじりじりと這い上がってくるような―そんな、感覚に襲われていた。</p><p>……アンドレイ、俺には何も聴こえない</p><p>そんな筈はない！　ほら……まただ！</p><p>微かに怯えの表情を浮かべたアンドレイが、鋭い声を上げる。</p><p>ケイも聴こえるだろ！？</p><p>……いや、聴こえないぞ</p><p>事実、何も聞こえない。だが、アンドレイはそうではないようだった。</p><p>嘘だ！　なんでだよッ！！</p><p>本当だ、落ち着けっ</p><p>なんで聴こえないんだ！　ほら、また―</p><p>その瞬間。</p><p>言葉を続けようとしたアンドレイは、かっと目を見開いて、硬直した。</p><p>…………</p><p>……アンドレイ？</p><p>……誰だッ！！</p><p>サーベルを振り上げたアンドレイが、周囲を見回し、叫ぶ。</p><p>誰だッ！！　何処にいる？！</p><p>アンドレイッ</p><p>誰だ？！　なんで、なんでッ―</p><p>怯えきった顔で、アンドレイは絶叫した。</p><p>―なんでオ(・)レ(・)の(・)名(・)前(・)を(・)知(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)？！</p><p>……は？</p><p>何を言っているんだコイツは。と、思わずケイの思考が一瞬停止する。</p><p>……。アンドレイ、いい加減に落ち着い―</p><p>ぐるんと、アンドレイがこちらに顔を向けた。</p><p>その瞬間、ケイの背筋に冷たいものが走る。</p><empty-line/><p>ア(・)ン(・)ド(・)レ(・)イ(・)の(・)視(・)線(・)は(・)、ケ(・)イ(・)を(・)素(・)通(・)り(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。</p><p>明らかに、目の焦点があってない。能面のように表情が抜け落ちた顔は、紙のように白かった。リアルな造形とはいえ、高々ゲームのアバター―にも関わらず、背筋が凍るようなおぞましい何かが、そこにあった。</p><p>…………</p><p>無言のまま、アンドレイが左手を振り上げる。きらりと光る投げナイフ。</p><p>ぶわりと、アンドレイの黒衣が膨れ上がるような錯覚が、</p><p>いや、ちょっと待</p><p>左腕がブレた。</p><p>鋭く刺すような殺気。ケイは慌てて身をかがめた。</p><p>ビッ、と空を切り裂いて、ケイの頭を銀色の刃がかすめる。</p><p>おいっ、ふざけるなっアンドレイ！！</p><p>思わず怒鳴るが、アンドレイは意に介さず、そのままきょどきょどと周囲に視線をやり、</p><p>くそっ、何処だ。アイツ、何処に行きやが、あああああ、あ、あ、あ、消え、消え</p><p>うわ言のように呟きながら、馬上で寒さに凍えているかのように、己の身を掻き抱く。その体は冬山の遭難者のように、カタカタと細かい震えを起こしていた。</p><p>流石に心配がピークに達したケイは、ひらりと鞍から飛び降り、アンドレイに近づこうとした。</p><p>が、その瞬間、ぴたりと震えを止めたアンドレイが、再び腰から投げナイフを引き抜く。</p><p>来るか、と咄嗟に身構えたが、アンドレイはケイとは明後日の方向を向いて、</p><p>そこかッ！</p><p>ナイフを投じた。</p><p>風切音。</p><p>しかし、何もないところへ投げられたナイフは、当然、何者をも捉えない。</p><p>乳白色のヴェールに、呑まれて、消える。</p><p>普通なら地面に刺さるなり、崖の岩肌に弾かれるなり、何らかの音がするはずだったが、霧の世界は不気味なほどに静かなままだった。</p><p>また、また、消えた……</p><p>泣きそうな表情で俯いて、アンドレイが小さく呟く。</p><p>その表情に憐憫を、そして理解不能な状況に怒りを覚えたケイは、たまらず、腹の底から声を振り絞って、叫んだ。</p><p>おいッ、アンドレイッ！　しっかりしろ！！</p><p>その声に、はっとアンドレイが顔を上げる。</p><p>……ケイッ！！</p><p>叫び返すアンドレイはしかし、振(・)り(・)返(・)っ(・)た(・)。</p><p>―ケイがいる方向とは、真逆に。</p><p>ケイ！　何処に行ってたんだ！</p><p>心なしか安堵の色が滲む声で、アンドレイがほっと溜息をつく。</p><p>全く、ビビらせやがって……</p><p>ああそうさ、さっきから変な声がしてたんだ</p><p>いや、幻聴じゃねえよ。ホントだって</p><p>それよりお前、何処に行ってたんだよ？　けっこー怖かったんだぜ？</p><p>え？　さっきからここにいた？　嘘つけ、絶対いなかっただろ</p><p>からからと笑うアンドレイ。</p><p>―いや、冗談ではない。</p><p>おい……おいっ！！　アンドレイ！！！</p><p>楽しげに会話するアンドレイに、ケイは全身が総毛立つのを感じた。</p><p>お前、誰(・)と話してるんだ！</p><p>ふっ、とアンドレイが、こちらを見た。</p><p>焦点のあっていない目。</p><p>……なあ、今、また声が聴こえなかったか？</p><p>彷徨う視線。</p><p>なあ、ケイ。…………ケイ？</p><p>再び、振り返ったアンドレイが、 あれ？ と戸惑いの声を上げる。</p><p>おい、今度は何処行ったんだよケイ！　悪ふざけは止めてくれ！</p><p>ふざけてんのはお前だ！　俺はここにいる！</p><p>……！　そっちか！</p><p>明後日の方向を向いたアンドレイが、手綱を握り馬の横腹を蹴った。</p><p>ヒヒン、と鳴いたアンドレイの馬が、駆け足で走り始める。</p><p>ケ―イッ！　待ってくれ―ッ！</p><p>違う！　それ(・・)は俺じゃないッ！　止まれ、アンドレイ！！</p><p>必死で叫ぶ、</p><p>アンドレイッッ！！！</p><p>少年の後ろ姿が、霧に呑まれた。</p><p>蹄の音が遠のいていき―消える。</p><p>…………</p><p>一人残されたケイは、ただ、呆然と立ちすくんだ。</p><p>……。！</p><p>数秒、あるいは数十秒。はっと我に返る。</p><p>追わなければ、と思った。</p><p>正直、気味の悪い、この得体の知れない状況に、ログアウトするなりキャラチェンジするなりしたい気分だったが。</p><p>このまま放っておけるほど、アンドレイは付き合いの浅い相手ではなかった。</p><p>何かがヤバい、と。ケイは、直感していた。</p><p>くそっ、アンドレイの馬鹿野郎</p><p>手間かけさせやがって、と毒づきながら、手綱を引いて馬に飛び乗ろうとした。</p><p>……？</p><p>だが、引いた手綱が全く動かない。首を傾げたケイは、手綱をたどるようにして視線を動かし、馬に目をやる。</p><p>……ミカヅキ？　どうした</p><p>名を呼びながら、異変を感じたケイは愛馬に向き直った。</p><p>手綱を握ったまま、乗騎―ミカヅキの顔を見るも、ミカヅキはまるで剥製にでもされてしまったかのように、微動だにしない。</p><p>……おーい、ミカヅキ？</p><p>ひらひらと、ミカヅキの顔の前で手を振る。普段なら、飼い主であるケイをトレースするように、首なり目なりを動かすはずだ。</p><p>が、ミカヅキは真っ直ぐ前を見たまま、全く動かなかった。</p><p>……どうなってんだ</p><p>バグか？　とケイはため息をつく。</p><p>やっぱりログアウトしようか、とさえ思った。</p><p>なんだかもう、この場をすぐに去ってしまいたい、と。</p><p>ぶるるっ</p><p>そう思った矢先、まるでエラーを起こしたコンピュータが再起動を果たしたかのように、ミカヅキが鼻を鳴らして首を振った。</p><p>おお、戻ったか、良かった</p><p>ぶるるっ、ぶるるっ</p><p>ほっと一息つくケイをよそに、ミカヅキは鼻を鳴らす。</p><p>ぶるるっ、ぶるるっ、ぶるるるるっ</p><p>すぐに、何かがおかしい、と気付いた。</p><p>ぶるるるるっ、ぶるるるるるるるっ</p><p>頭をぶんぶんと振りながら、ミカヅキは鼻を鳴らし続ける。</p><p>ぶるるるるるるるるるるるるるるるるる―</p><p>終いには、まるで壊れた玩具のように、ブレて見えるほど激しく首を振り回し、そのいななきはまるでエンジン音のようで、</p><p>……ミ、ミカヅキ？</p><p>恐る恐る、ブレまくる顔に手を伸ばし―</p><p>ぴたり、と。</p><p>ケイの手が触れる寸前で、ミカヅキはその動きを止めた。</p><p>……</p><p>ミカヅキの目が、すっとケイを捉え、その口が開き、</p><p>ミ”　カ”　ツ”　キ”　ィ</p><p>ひび割れた低音の声が、</p><p>うおっ！？</p><p>ぎょっとしたケイは、思わず後ろに飛び退ろうとして、足をもつれさせその場に尻もちをつく。</p><p>…………</p><p>意味が分からない。唖然としたまま、阿呆のように口をぽかんと開けるばかりで、言葉は何も出なかった。</p><p>普通、ペットは喋らない。</p><p>当たり前だ。所詮は馬。</p><p>人間の声は出ないし、出せない。</p><p>出せない、筈だった。</p><p>…………</p><p>剥製のようなミカヅキの顔が、真正面から、こちらを見つめる。</p><p>ガラスのような目の玉が。</p><p>じっと、ケイを見つめたまま、動かない。</p><p>ぐわんぐわんと、視界が揺れるような。</p><p>口の中が、からからに乾いていくような。</p><p>そんな錯覚が、ケイを襲った。</p><p>……ぶるるっ</p><p>どれほどの時間が経ったか。</p><p>再び、鼻を鳴らしたミカヅキは、ケイからふっと目を逸らした。</p><p>そのまま踵を返し、主人であるケイを置いて、霧の中へと駆け去っていく。</p><p>だんだんと遠ざかる蹄の音は、やがて聴こえなくなった。</p><p>静寂。</p><p>…………</p><p>呆気に取られたケイだけが、ひとり残される。</p><p>かひゅーっ、と。</p><p>ケイの喉が、大きくかすれた音を立てる。</p><p>ようやく肺機能が復活したケイは、このとき初めて、己が呼吸を止めていたことに気が付いた。</p><p>しばし、尻もちをついたまま、浅い呼吸を繰り返す。</p><p>静謐な霧の世界に、ぜえぜえと喘ぐような声が、響いて、吸い込まれて、消えていった。</p><p>……落ち着け。……落ち着け、落ち着け……</p><p>己に言い聞かせるように、小さく呟きながら。</p><p>胡坐をかいて座り直したケイは、胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をした。</p><p>ようやく心臓の動悸が治まったあたりで、ふう、と大きくため息をつき、頭痛をこらえるように眉間を抑える。</p><p>黙考すること、数秒。</p><p>……。落ちよう</p><p>ケイは、この状況から逃れ去ることを選択した。あまりにも、気味が、悪かった。</p><p>顔面蒼白のまま、ケイはログアウトするため、思考操作でメニュー画面を呼び出そうとした。</p><p>しかし、いつもなら特に意識せず実行していた操作が、上手くいかない。</p><p>何度メニューを呼び出しても、出てこなかった。</p><p>……なんで出てこないんだよ</p><p>ぼそりと、呟く。</p><p>まさかこのまま。</p><p>ログアウトできずに―。</p><p>ふと、そんな考えが脳裏をかすめる。背筋に、ぞっと冷たいものが走った。</p><p>誰もいない。</p><p>一人きりで、霧の中。</p><p>じわりと体の表面が熱くなり、体の芯は逆に冷えていくような、そんな感覚。</p><p>……くそっ。なんで上手くいかないっ</p><p>苛立たしげに呟きながら、頭を振って再び思考操作を試みる。失敗。試みる。失敗。試みる。</p><p>失敗。</p><p>……っ！！</p><p>焦りと苛立ちがピークに達そうとした、まさにその瞬間、ケイの眼前に音もなく、半透明のウィンドウが現れた。</p><p>無機質な白色の画面には、いつものように、現在時刻とGMコール、そしてログアウトの表示が三つ、浮かんでいた。</p><p>目線でのカーソルコントロールを試みると、これまでの無反応が嘘だったかのように、メニュー画面は快適な操作性を示す。</p><p>まるで、いつも通りだった。</p><p>……よかった</p><p>それを見たケイは、ほっと安堵のため息をつく。</p><p>正直なところ、状況が不気味すぎて、『心霊現象にでも巻き込まれてしまったのではないか』、と。</p><p>そんな他愛もない妄想が、心の中で膨れ上がって、どうしようもなくなっていたのだ。</p><p>……ゲームの中なのにな</p><p>強がるように鼻で笑いながら、ケイは『Logout』のボタンに手を伸ばし。</p><p>触れた。</p><p>ノ”　カ”　ワ”　ケ”　イ”　イ”　チ”</p><p>その瞬間、ケイの真後ろから。</p><p>ひび割れたような低音の声が、吐き気を催すような強烈な殺気が、</p><p>！？？</p><p>何故に本名、不気味な声、凄まじい殺気、意味が分からずに、転がるようにしてケイは立ち上がり、地面を蹴って距離を取り、振り返りながら弓を構え、矢をつがえ、弦を引き絞り、</p><p>しかしそこで動きを止めた。</p><p>人がいた。</p><p>まるで死人のように、真っ白な肌。</p><p>なぜか全裸だった。いや、股間に生殖器が見当たらないあたり、全裸といっていいものか。まるで宇宙人のように。つるつるとした体。</p><p>頭部には、一切毛髪は見当たらなかった。というよりも、人形(ヒトガタ)はしているが、これを人と呼んでいいものか。</p><p>顔はのっぺらぼうのように、まっさらで。</p><p>ただ、目のあるところに、黒い穴が二つ。</p><p>―</p><p>一瞬の思考の空白、 何だコイツは という、純粋な疑問が脳裏を駆け巡る。</p><p>と、人形(ヒトガタ)の顔、ちょうど、口に当たる部分が、ぐぱりと横に裂けて、</p><p>ヨ”　ン”　タ”</p><p>ぐわんと、視界が揺れた。</p><p>がくりと、その場に膝を</p><p>そこで、意識が途絶えた。</p><p>3.</p><p>ぼんやりと、夢を見ていた。</p><p>幼い頃に、友達と外で遊んでいる夢。</p><p>無邪気に、楽しそうに。</p><p>鬼ごっこだろうか。走り回る自分の姿。</p><p>さらりと砂のように。</p><p>溶けて消えた。</p><p>白い部屋。</p><p>窓の外を眺めていた。</p><p>翼を広げた鳥が、羽ばたいていく。</p><p>青い空に描く軌跡を、ただ目で追った。</p><p>清潔なベッドの上。ぴくりとも動かずに。</p><p>動けずに。</p><p>そっと瞳を閉じる。</p><p>視界が青く染まる。</p><p>たゆたう水色の世界。</p><p>息は苦しくない。</p><p>そ(・)う(・)い(・)う(・)風(・)に(・)、出(・)来(・)て(・)い(・)る(・)。</p><p>怖くはなかった。</p><p>沈んでいく。自分の内側へと。</p><p>深く、深く―</p><p>†††</p><p>―しばらく、歩き続けたと思う。</p><p>目の前に、鏡があった。</p><p>何も映っていない、鏡。</p><p>いや。</p><p>目を凝らせば、見えてくる。</p><p>浮かび上がってくる。</p><p>黒い髪、黒い目。</p><p>精緻な装飾を凝らした革鎧。</p><p>羽根飾りのついた兜。</p><p>腰にはひと振りのサーベルに、矢筒。</p><p>そして左手には、朱塗りの、強弓。</p><p>……俺だ</p><p>ぽつりと呟いた言葉は、確かに響いた。</p><p>それと認識した瞬間、はっきりと形を成す。</p><p>ケイ。</p><p>かつて、自分が名付けた。</p><p>そして、今までを共に生きてきた。</p><p>……俺の、身体(からだ)</p><p>ぐっと、拳に力を込めた。</p><p>絶えず収縮する筋肉の躍動を。</p><p>全身を駆け巡る血潮の流れを。</p><p>末端まで広がる神経の瞬きを。</p><p>強く、感じ取る。</p><p>いつの間にか、目の前の鏡は消え去っていた。</p><p>代わりに、真っ直ぐと道が伸びている。</p><p>心なしか、自分の周囲がにぎやかに感じた。</p><p>元気に駆け回る馬の姿や。</p><p>羽衣をまとった少女の姿。</p><p>まるで走馬灯のように。</p><p>それらの影を、幻視した。</p><p>行こう、と。</p><p>誰に言うとでもなく、呟いて。</p><p>その一歩を、踏み出した。</p><p>4. アンドレイ</p><p>―ケイ！　ケイっ！</p><p>声がする。</p><p>起きろ！　おいケイ！　起きろってば！</p><p>ぐらぐらと、三半規管が身体の揺れを訴える。</p><p>どこか懐かしい感覚だ。</p><p>幼い頃、船に乗って酷く酔ったときのそれに似ていた。</p><p>……やめろ、揺さぶるな</p><p>吐き気をこらえて呻きながら、うっすらと目を開ける。</p><p>！！　目が覚めたのか！</p><p>視界に飛び込んできたのは、オレンジ色の―これは、夕焼けに染まった空だろうか。そして、自分を心配げに見下ろす、黒い影。</p><p>金髪碧眼。黒鉄の額当てに、全身を覆う黒装束。</p><p>ひとりの”NINJA”が、そこにいた。</p><p>……ここは？</p><p>自分が仰向けに倒れていることに気付き、ケイはゆっくりと上体を起こす。</p><p>周囲を見回した。茜色に染まる、一面の草原。</p><p>振り返ると、背後にはごつごつとした、大きな岩山がそびえ立っている。</p><p>草原はともかくとして、この岩山には見覚えがない。</p><p>……どこだ、ここ</p><p>オレにも分からねえんだ！</p><p>寝起きのように霞みがかった思考のまま、ぽつりと呟いたケイの言葉に、NINJAが反応する。きついロシア訛りの英語。</p><p>気付いたらここにいて……でっ、でも、見てくれよケイ！　ほらこれッ！　どう考えてもおかしいんだ！</p><p>NINJAはそう言って、足元の草を引っこ抜いて見せた。</p><p>草の根に付着していた土が、ぽろぽろと地面に零れ落ちる。</p><p>……何だと？</p><p>あ(・)り(・)え(・)な(・)い(・)。</p><p>ぼんやりとしていた頭が、一気に冴えた。驚愕に目を見開いたケイも、手元の草に手を伸ばす。</p><p>無造作に引き千切った。</p><p>ぶちぶちと、繊維がちぎれる感触が指先に伝わる。</p><p>草の青臭さが、土の匂いが、鼻腔をはっきりと刺激した。</p><p>指先に付着した草の汁を、舐めとってみる。</p><p>もちろん、苦かった。</p><p>……そんな、バカな</p><p>手の中の草は、引き千切っても消えることはなく。</p><p>五感すべてに、その存在を訴えかけてくる。</p><p>地面の土も、その粒子の一粒一粒に至るまでが、全て知覚できた。</p><p>なっ！？　おかしいだろ！？</p><p>あ、ああ</p><p>必死の形相で詰め寄ってくるNINJAに、少し気圧されながらも、ケイは頷いた。</p><p>いくら世界最高峰の物理エンジンを誇る DEMONDAL といえども、土壌や雑草などのオブジェクトへの干渉は、幾つかの例外を除いて大幅に制限されている。そんな微細な物体の運動までを演算しようとすると、情報量が多くなりすぎて処理が追いつかなくなるからだ。</p><p>故に、ゲーム内では、特定のアイテムを除いて、植物や地面は『不干渉オブジェクト』、すなわち『破壊不可能』に設定されている。</p><p>―設定されている、はずだった。</p><p>それがどうだ。</p><p>今、ケイの手の中には、ちぎられた葉がたしかに存在している。</p><p>ぶわり、と草原の風が吹きつけて、手の平から草を吹き飛ばした。</p><p>ざあぁ、と草擦れの音を立てて、湿り気のある草と土の匂いが運ばれてくる。</p><p>くるくると風に舞う草を、ケイはただ呆然と目で追った。</p><p>視線を上にやれば、茜色に染まる岩山。</p><p>その岩肌が所々、きらきらと瞬いているように見える。</p><p>露出した鉱石の一部が、夕日の光を反射しているのだ。</p><p>さらに頭上を仰げば、夕暮れの空に雲がたなびいている。</p><p>ゆっくりと形を変えていくそれは、断じてグラフィックの使い回しなどではない。</p><p>風によって為される、自然の造形。</p><p>かつてないほどに、圧倒的な。</p><p>圧倒的すぎる、情報量だった。</p><p>―そう、それはまるで、</p><p>現実(リアル)……</p><p>ありえない、と真っ先に理性は否定する。</p><p>もしここが現実であるならば。</p><p>この体は、何なのだ。</p><p>籠手も革鎧も、腰のサーベルも。</p><p>足元に放り出されていた朱塗の弓も、全てが『ケイ』のものだ。</p><p>ひょっとすれば、いや、ひょっとしなくとも、顔も『ケイ』のままだろう。</p><p>……メニュー画面が出てこないんだ。何度やっても</p><p>傍らで、NINJAが震える声でそう言った。</p><p>何かを堪えるかのように拳を握りながら、俯いてじっと地面を見ている。</p><p>…………</p><p>困惑の表情で、ケイはNINJAを見た。</p><p>メニュー画面が出てこない、という情報も大切だが。</p><p>この黒装束に身を包んだ人物も、ケイの混乱を助長させる一因であった。</p><p>……？　ど、どうしたんだよ、ケイ</p><p>黙りこくるケイに、そして他(・)人(・)を(・)見(・)る(・)か(・)の(・)よ(・)う(・)な(・)よそよそしい視線に、NINJAが気付く。</p><p>いや、その―</p><p>言い出そうとして、口をつぐむ。</p><p>逡巡することしばし。</p><p>……何だよ、どうしたんだ？</p><p>う、うぅむ</p><p>意を決して、ケイは問いかけた。</p><p>お前、―誰だ</p><p>……は？</p><p>なに言ってんだコイツ、と。</p><p>呆気にとられたNINJAの口から、間抜けな声が出る。</p><p>―おいおい、ショックで頭がイッちまったのか？　勘弁してくれよケイ！　いや、気持ちは分かるけどな？</p><p>こいつは参ったぜ、と言わんばかりに、ぺちんと額を叩いて見せ、</p><p>アンドレイ！　“NINJA”のアンドレイだ！　……忘れたとか、言わないよな？</p><p>雨の日に捨てられた子犬のような、不安げな顔でケイの表情を伺う。</p><p>アンドレイ。</p><p>予想できていた答えだ。</p><p>（いや、それは分かるんだが）</p><p>違う、俺が聞きたいのはそこじゃない、とケイは眉間を押さえる。</p><p>ケイのことを『ケイ』と親しげに呼び、かつ、全身黒ずくめで背中にサーベルを背負っている人物など、ケイの交友関係の中には一人しか存在しない。というより、 DEMONDAL の全プレイヤーの中でも、一人しかいないだろう。</p><p>しかし、それでも。</p><p>目の前の”NINJA”と、ケイの知る『アンドレイ』とでは、決(・)定(・)的(・)に(・)、異(・)な(・)る(・)点(・)が(・)あ(・)る(・)。</p><p>……OK, 『アンドレイ』</p><p>顔を上げたケイの視線が、真っ直ぐに『アンドレイ』を捉える。</p><p>真剣な眼差し。</p><p>な、何だよ</p><p>その、気を悪くしないで欲しいんだが</p><p>おう</p><p>ひとつ、お前に聞きたいことがある</p><p>……何だ？</p><p>あくまで、確認なんだがな？　その……</p><p>まどろっこしい奴だな、何だよ！？</p><p>普段のケイらしからぬ、奥歯に物が挟まったかのような勿体ぶり方に、『アンドレイ』が声を荒げる。</p><p>ケイは、困惑の表情のまま、おずおずと問いかけた。</p><p>……なんでお前、『女の子』になってんの？</p><p>……へっ？</p><p>本日二度目の間抜け顔。『アンドレイ』の動きが止まる。</p><p>……何言ってんだよ？</p><p>いや、だって、それ……</p><p>ケイが指差す先をたどり、『アンドレイ』も視線を落とす。</p><p>自分の胸元に。</p><p>より正確に言うならば―胸(・)の(・)ふ(・)く(・)ら(・)み(・)に(・)。</p><p>……ぇあっ？</p><p>奇声。『アンドレイ』の目が点になる。</p><p>えっ？　なんで？　えっ？</p><p>恐る恐る、といった風に、『アンドレイ』が自らの控え目な胸に手をかける。</p><p>むにゅ、むにゅ、と。</p><p>……あ、ある</p><p>どこか呆然と、呟く。</p><p>そして、はっ、と何かに気付いた様子で、そのまま股間に手を伸ばした。</p><p>もぞ、もぞ、と。</p><p>……な、ない</p><p>何が。ナニがである。</p><p>……なんで？</p><p>知らんがな</p><p>忍者のコスプレをしたひとりの少女(・・)が、そこにいた。</p><p>†††</p><p>火打石で火を起こすのは、実はさほど難しくはない。</p><p>よく揉みほぐした麻綿と、乾燥した火口、それに火打金があれば完璧だ。きちんと手順さえ守れば、子供でも容易く、そして意外なほど素早く火を起こすことができる。</p><p>まず、片手に火打石と火口を併せて持ち、逆の手で擦りつけるようにして火打金を振り下ろす。</p><p>飛び散った火花が火口につけば、それを麻綿でくるみ、息を吹きかけるなり軽く振るなりして空気を送り込む。</p><p>すると白い煙が立ち上り、数十秒も待てば燃え始めるだろう。</p><p>これで、火種の出来上がりだ。あとはそれが消えないうちに、あらかじめ用意しておいた枯れ枝や枯れ葉で火を育てていけばよい。</p><p>よし、できた</p><p>焚き木の火勢が安定したことを確認し、ケイは満足げに頷いた。</p><p>火打石セットを腰のポシェットに仕舞い、手を擦り合わせながら頭上を仰ぎ見る。</p><p>……冷えてきたな</p><p>仄暗く染まりつつある空。太陽は既に地平の彼方へと沈み、代わりに星々が瞬き始めていた。今宵は新月か。頭上に生い茂る枝葉の隙間、僅かに覗く空は、どこまでも暗い。</p><p>草原に面した、木立の中。崩れかけた石造りの廃屋の影で、ケイは粛々と、野営の準備を進めていた。</p><p>遭難したときに最も大切なのは、大まかでも周囲の地形を把握することだ―と、何かの本で読んだことがある。その定石に基づいて、ケイは混乱から立ち直ったあとは、すぐに周辺の探索を実行した。</p><p>そして見つけたのが、岩山の南に広がる深い森と、その入り口に佇む廃墟だ。そこには崩れかけた二面の石壁と朽ちた屋根が残るのみであったが、タイルの床のおかげで体を横たえられるだけの充分なスペースがあった。それでいて周囲には程よく草木が茂り、旅人たちの姿を覆い隠してくれる。</p><p>あくまでゲーム内での経験則ではあるが―草原のように開けた場所で、暗い中、火を焚くのは危険を伴う。見晴らしがよければ炎は目立ち、何かよからぬものを引き寄せかねないからだ。</p><p>人か、獣か、―あるいはそれ以外の何かか。分からない。何も分からない。しかし、警戒には値する。</p><p>マントの前を打ち合わせ、ケイはほぅっと溜息をついた。揺らめく焚き火の明かりが、廃墟に長い影法師を作る。時折吹きすさぶ風は、凍える夜の訪れを予感させた。本来ならば、こんな見知らぬ土地で火を焚きたくはなかったのだが、暖も取らずに過ごすには、今宵は少々肌寒い。</p><p>また、暗いのもいけなかった。『視力強化』の呪印を持つケイは、星明かり程度でも充分に闇を見通せるが。ケイの『相方』は、そうもいかないだろう。</p><p>……さて、</p><p>視線を戻す。焚き火を挟んだ対面。</p><p>平石の上にちょこんと腰かけて、火に当たり暖を取る人物。</p><p>彼女(・・)に向けて、ケイはぎこちなく笑みを浮かべた。</p><p>寒くはないか？　お(・)姫(・)様(・)</p><p>……お姫様(プリンセス)はよせ</p><p>Rにきついロシア訛りの入った英語。ケイのからかいの言葉に、憮然として答えたのは、『アンドレイ』―もとい、金髪のコスプレ忍者少女だった。</p><p>……それと、別に寒くはない</p><p>ぼそり、と付け加えて、むすっとした顔のまま目を逸らす。</p><p>薄手の黒装束と革のマントだけだったが、それほど寒がっているようにも、強がっているようにも見えなかった。</p><p>（そういえばこいつ、ロシア人だったな）</p><p>この程度の気温では『寒い』の範疇に入らないのだろう。ひとり納得して、 ならいいが と返す。</p><p>…………</p><p>しばし、沈黙。</p><p>焚き木が爆ぜる音だけが小さく響く。</p><p>お互いに何かを話したいが、何を話せばいいのか、と。</p><p>そんな、遠慮にも似た、迷いのある空気。</p><p>しかし黙り込んでいるうちに、早くも焚き木が燃え尽き始めていた。追加で焚き木を放り込み、ケイはおもむろに口を開く。</p><p>……なあ、そろそろ、話さないか</p><p>ん。そう、だな……</p><p>ぼんやりとした雰囲気で、少女は答えた。</p><p>……本当に、『アンドレイ』なんだよな？</p><p>疑うような言い方になってしまうのは、仕方のないことだろう。平石の上、体操座りで爪先を眺める彼女に、ケイは今一度問う。</p><p>ああ、そうなる。オレは、『アンドレイ』だ</p><p>ゆっくりとした口調で、少女は肯定した。</p><p>それは、お前は本当は女だったが、ずっと男キャラを使ってた、ということか？</p><p>その解釈であってるぜ</p><p>うぅむ……</p><p>それを聞いて、嘆息とも、溜息ともつかぬ呼気が、ケイの口から洩れる。</p><p>ゲーム内で、ケイが”NINJA”アンドレイと出会ったのは、今から2年ほど前のことだ。</p><p>最初に近づいてきたのはアンドレイの方だった。生粋の忍者スキーであるアンドレイは、ケイが『日本人である』というだけで、なんとなく興味を持って接触してきたのだ。</p><p>話してみれば意外に意気投合し、互いにソロプレイヤーであったこともあり、それ以来何かと一緒につるんできた。しかし、</p><p>女だったとは、なあ</p><p>その中の人が異性であるとは、ついぞや考えたこともなかった。</p><p>―女々しい野郎だ、とは常々思っていたが。</p><p>でも、なんでわざわざ男キャラ使ってたんだ？</p><p>そりゃあ女キャラだと筋力低いし。NINJAするなら、男の方がいいかな、って……</p><p>たしかにな</p><p>昨今のゲームでは珍しいことだが、 DEMONDAL においては、男女のアバターに明確な能力差が存在する。</p><p>基本的に、男キャラの方が身体能力全般に優れており、対して、女キャラは手先の器用さに補正がかかる代わりに、筋力などのステータスが伸びにくい。</p><p>つまり、純粋な戦闘職を選ぶならば、男キャラの方が明らかに有利な仕様というわけだ。女キャラは本来、細工などの生産系で本領を発揮するが、大工などでは筋力も要求されるので、女キャラならば生産全てに向いている、とはいえない。</p><p>もちろん、キャラクターの種族や血統によってはその限りでなく、また女キャラにのみ高い適性を示す魔術なども存在するが、何処となく不平等感が漂うのは事実だ。</p><p>このアバターの性能差は、ゲーム内外で様々な議論を呼んだが、結局 DEMONDAL の運営会社がそのスタンスを変えることはなかった。下手な平等主義で世界観を歪めることはせずに、あくまでリアリズムに徹したのは、 DEMONDAL らしいといえばらしい選択といえよう。</p><p>余談だが、男キャラにも弱点はある。</p><p>股間に攻撃がヒットすると大ダメージを受け、高確率で気絶(スタン)状態になってしまう。ちなみにこれは他の人型モンスターの雄にも有効だ。</p><p>あと、わざわざ女だってバラしても、良いこと無いだろうし。だから黙ってたんだ</p><p>なるほど。既に『アンドレイ』のときから人気だったしな、お前。中身が女だってバレたら、もっと面倒なことになっていただろう……</p><p>……よしてくれ</p><p>ケイの言葉に、心底気持ち悪そうな顔を浮かべる少女。</p><p>端正な―というより、耽美系の顔立ちをしていた『アンドレイ』が、その道の諸兄らから根強い支持を受けており、ファンクラブまで存在していたのは DEMONDAL では有名な話だ。</p><p>祭り上げられた本人は迷惑そうにしていたが、キャラを作り直して雲隠れしようにも、既に結構育ててしまったあとだったので、やむなく育成を続行したらしい。</p><p>……それにしても</p><p>目の前の金髪忍者ガールを眺めながら、ケイはしみじみと、</p><p>今の姿だと、アンドレイって呼ぶのはやっぱり違和感があるな……</p><p>その言葉に、少女は渋い顔をした。</p><p>……『アイリーン』</p><p>ん？</p><p>『アイリーン』。オレのホントの名前</p><p>ちら、と少女―アイリーンは、顔を上げてケイに視線を合わせた。</p><p>アイリーン……か</p><p>青色の瞳を、見つめ返す。</p><p>小柄で華奢な体躯に、すっと通った鼻筋。</p><p>猫科の動物を思わせる、釣り目がちな瞳。</p><p>艶やかな金髪は長く伸ばされ、邪魔にならないよう、後頭部で束ねてある。</p><p>（こうしてみると、『アンドレイ』の面影もあるな……いや、『アンドレイ』が『アイリーン』に似せてあるのか）</p><p>キャラメイクのときに、無意識に自分の姿を投影してしまったのか。</p><p>……あんまりジロジロ見るなよ</p><p>などとケイが考えていると、アイリーンは顔を少し赤くして目を逸らしてしまった。</p><p>あ、すまん</p><p>なあ。……ケイは、どうなんだ？</p><p>……どう、とは？</p><p>名前とか</p><p>ああ。俺の名前は、『圭一』だよ。ケイイチ</p><p>枯れ枝を手にとって、地面に『KEIICHI』と書いた。</p><p>ケイチ？</p><p>んー。ちょっと違うな、ケイイチ、だ</p><p>ケ、イ、チ</p><p>ゆっくり言っただけじゃねえか。ケ、イ、イ、チ</p><p>ケェ、イィ、チ</p><p>あー、まあそんな感じ</p><p>……言いにくい。ケイの方がいい</p><p>ばっさりと本名を否定するアイリーン。同じ母音が連続する『ケイイチ』は、外国人には発音し辛いだろうな、とケイも思う。</p><p>別に俺は『ケイ』でいいよ。呼びやすい方で呼んでくれ</p><p>リアルでもそう呼ばれてたし―という言葉は、呑み込んだ。</p><p>焚き火の炎に視線を落したまま、再び沈黙が訪れる。</p><p>何を話すべきなのか。考えが、うまくまとまらない。</p><p>ゆらめく炎を眺めていると、全てがどうでもよく思えてしまう。思考を停止させたままでいるのが、心地よい。</p><p>ふと顔を上げると、アイリーンはぼんやりとした表情で、両足のふくらはぎをむにむにと揉み解している。焚き火の明かりを照り返す、艶やかな金髪を眺めていたケイであったが、それに気付いたアイリーンがちらりと視線をよこした。</p><p>……ケイは全然、顔変わってないんだな。……元から、そういう顔、なのか？</p><p>少し遠慮がちに、しかし好奇心には勝てなかった、といった様子で、アイリーンがおずおずと尋ねてきた。</p><p>顔か……</p><p>ぺたりと、自分の頬を撫でる。先ほど、腰の短剣を鏡代わりに確認しようとしたが、思ったほど刃がピカピカではなかったので、ぼんやりとしか見えなかった。</p><p>それでも、アイリーンが『変わっていない』というのなら、そうなのだろう。きっと、ゲーム内での『ケイ』の顔のままなのだ。</p><p>しかし、それが実際の顔なのか、と聞かれると。</p><p>……分からない。リアルでは、鏡なんてもう何年も見てないからな……</p><p>えっ</p><p>遠い目で呟いたケイの言葉に、アイリーンがぎょっとした顔で硬直する。</p><p>“死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》”、弓使いのケイ。</p><p>死神の異名をとるほどの、恐るべき弓の腕前で知られるケイだが、それと同時に DEMONDAL で指折りの廃プレイヤーとしても有名だ。</p><p>事実、準廃人のアイリーンから見ても、ケイの廃人っぷりは半端ではない。ログインしたときに、ケイがいなかった試しがないのだ。</p><p>二十四時間ぶっ通しでログインし続けている、という噂も、あながち嘘ではないのかもしれない、と。アイリーンも、薄々そうは思っていたのだが―</p><p>そうは思っていたのだが、年単位で鏡を見ていないレベルとなると。</p><p>そっ、そうか……</p><p>笑顔が引きつり、目が泳ぎだすアイリーン。一気に挙動不審になる彼女に、ケイは思わず苦笑いした。</p><p>（……まあ、そうなるよな）</p><p>ケイのあまりの廃人っぷりに引いてしまったのか。</p><p>それとも、こ(・)ち(・)ら(・)の(・)事(・)情(・)を察して、思い切り地雷を踏んでしまった、と動揺しているのか。</p><p>別にケイ自身は、アイリーンにどう思われようともそこまで気にしないのだが―常人ならば、気まずく感じてしまうのは道理だろう。</p><p>（しかし、タイミング的にはちょうどいいかも知れないな）</p><p>いずれにせよ、現状を考えるには、避けては通れない話題だ。</p><p>アイリーン</p><p>ん？！　な、なんだ？</p><p>そろそろ、本題に入ろうと思うんだが</p><p>お、おう</p><p>真剣な雰囲気のケイに、アイリーンが表情を堅くして居住まいを正す。</p><p>…………</p><p>いや、別にそこまで畏まらなくても</p><p>自分から真剣に切り出しておきながら、借りてきた猫のような豹変っぷりに、思わずケイは吹き出してしまった。</p><p>それにつられて、アイリーンも小さく笑う。</p><p>特に意味もなく、二人でくすくすと笑いあってから、 いや、すまん とケイは言葉を続けた。</p><p>それで、本題ってのは、今の俺たちの状況についてだ</p><p>……ここが何処なのか。そして何故、オレたちはここに居るのか、って話か？</p><p>Exactly(その通り)</p><p>話が早い。</p><p>なかなかその話題に踏み込めずにいたのは、どうやらケイだけではないようだった。</p><p>5. 骨董品</p><p>オレたちの現状、か</p><p>桜色の唇を指先でなぞりながら、アイリーンが呟いた。</p><p>状況が特殊だから何とも言えないが、考えられる可能性は、せいぜい二つぐらいのものだろう、と俺は思っている</p><p>OK, 言ってみな。オレ様が聞いてやるぜ</p><p>抜かせ</p><p>どうやらアイリーンも、『アンドレイ』の調子が戻ってきたらしい。結構なことだ、と笑いながら、ケイは指を一本立てた。</p><p>まあ、そこまで大したものじゃない。まずは一つ、『俺たちは依然として DEMONDAL をプレイ中である』</p><p>次に二本目、</p><p>そして二つ、『俺たちは何故かゲームの中から飛び出していて、ここはどこか別の場所である』</p><p>まあ、妥当なとこだな</p><p>平凡だろ？　だが俺の想像力では、これが限界だ</p><p>そうなのか？　ふふん、ケイ、オレには『三つ目』があるぜ</p><p>ほう、お聞かせ願おうか</p><p>アイリーンはドヤ顔で指を三本立て、</p><p>三つ目。『オレは DEMONDAL をプレイ中に寝落ちしていて、実はこれは夢である』</p><p>……、なるほど。あり得るな、存外まともなアイディアだ</p><p>存外ってなんだオイ</p><p>ケイはふむふむと頷いた。アイリーンが心外そうにしているがそこは気にしない。</p><p>夢オチ、という可能性。</p><p>焚き火の光と、その炎の暖かさを直に感じていると、 これほどリアルな夢があるのか？ とは思わないでもない。</p><p>しかし―自分が挙げた最初の二つに比べれば、よほど現実味のある話だ。</p><p>夢なのかどうか。</p><p>それを確かめるために、ケイはひとつ、古典的な方法に頼ることにした。</p><p>ぬんッ</p><p>……。なにやってんだよ</p><p>み(見)へ(て)わ(わ)か(か)は(ら)は(な)い(い)か(か)？　ほ(ほ)っ(っ)へ(ぺ)は(た)を(を)つ(つ)へ(ね)っ(っ)へ(て)い(い)ふ(る)ん(ん)は(だ)</p><p>全力で。高STR(筋力)の本領発揮だ。</p><p>……うむ。めっちゃ痛い。だが目は覚めない。従ってこれは夢ではない。Q.E.D.(証明終了)</p><p>しばらく抓って真っ赤になった右頬から手を離し、真面目くさった表情のまま言う。</p><p>……。少なくともケ(・)イ(・)の(・)夢ではない、ということが証明されちまったか</p><p>呆れ顔でそれを見届けたアイリーンは、 夢オチなら気が楽だったんだがなぁ と残念そうにしながら、腰の帯から投げナイフを一本抜き取った。</p><p>おい、ナイフ使うのか？</p><p>それを見て、驚きの声を上げたのはケイだ。まるで注射でもするかのような気軽さで、アイリーンは左腕の袖をまくり始めていた。</p><p>まあな。オレ、……夢の中で何回か、痛い思いはしたことあるけど、結局最後まで目は覚めなかった。どうせやるなら、これくらいは思い切らないとダメだろ</p><p>いやいやいや、だからと言ってナイフはやりすぎだろう、傷が残ったらどうするんだ。力が不安なら俺が抓ってやるぞ？　痛いぞ？</p><p>……いや、別にいいよ。遠慮しておく</p><p>鬱血して紫色に腫れ始めているケイの右頬を見て、アイリーンは静かに遠慮した。</p><p>まあそれに、今更傷なんてな……</p><p>小さく呟きながら、左腕の内側に軽くナイフを押し当てようとする。が、</p><p>…………</p><p>どうした？</p><p>そのまま、腕を凝視して、動かなくなってしまった。</p><p>いや、……なんでもない</p><p>怖気づいた、というわけではないらしい。袖をそっと元に戻したアイリーンは、左手のグローブを外して、躊躇うことなく手の平にナイフの刃を這わせる。</p><p>……ッ</p><p>……どうだ？</p><p>メッチャ痛い。血も出てきた</p><p>ぽたり、ぽたりと。</p><p>アイリーンの手から、赤い滴が零れ落ちる。</p><p>さてさて、困ったぞケイ。これで夢オチの可能性が完全に消えた</p><p>まあ、流石に夢じゃあないだろとは、最初から思っていたがな……。というかそれ大丈夫か。お前かなりざっくり切(や)ったんだな</p><p>う、うん……正直思ったより切れた。腕やめといて良かったかもしれない</p><p>アイリーンの手の平の皮膚は、数センチにわたってぱっくりと切れていた。肉にきれいな切れ目が入り、じわじわと血が滲み出る様子は見るからに痛そうだ。</p><p>ちょっと待て、たしか包帯がポーチに……</p><p>いや、いい。POT(ポーション)を試してみたい</p><p>腰のポシェットに手を伸ばすケイを止めて、アイリーンは岩陰に向かって チッチッチッ と舌を鳴らした。</p><p>廃墟の、苔生した石造りの壁。柔らかな地面の上に、二頭の馬が寝転がっていた。</p><p>ケイの愛馬『ミカヅキ』と、アイリーンの乗騎『サスケ』だ。</p><p>アイリーンの舌打ちの音を聞いて、サスケの方が 呼んだ？ と言わんばかりにつぶらな瞳を向けてくる。</p><p>アイリーンによると、彼女が草原で目を覚ましたときには、サスケが隣に寝転んでのんびりと草を食んでいたらしい。</p><p>気が付けば草原のど真ん中、自分一人と馬一頭。</p><p>そんな状態で、ケイの姿も見当たらず、最初はかなり動転したそうだが、そこへミカヅキが颯爽と駆けてきて、ケイが倒れている岩山のそばまで誘導してくれたそうだ。</p><p>そういう意味で、ケイもアイリーンもミカヅキに多大な恩があるわけだが、当の本人（？）はクールに決めておりまるで気にする風もない。今もアイリーンには見向きもせずに、もっしゃもっしゃと草を咀嚼していた。</p><p>サスケに歩み寄ったアイリーンは、鞍に括り付けたままの革袋から、ハイ・ポーションを一瓶取り出した。</p><p>さーて、どうなるかな、っと。ゲームなら、シュワワッと一瞬で治るんだけど……</p><p>焚き火に戻ってきて平石の上に座り直し、アイリーンが片手で器用にコルクを抜く。</p><p>そぉっと、手の平に向けて瓶を傾ける様を、ケイも興味津々に覗きこんだ。</p><p>とろみのある水色の液体が垂れて、傷口に触れる。</p><p>その瞬間。</p><p>ジュゥゥッ！！　と鉄板が肉を焼くような音を立てて、一気に傷口が泡立った。</p><p>ヴぉにゃ―ッッ！！！</p><p>奇声を上げてアイリーンが飛び上がる。その手から空中に放り出されたポーションは、ケイが咄嗟にキャッチした。ふたがなかったので、少し中身がこぼれてしまったが。</p><p>ぁ―ッ！　～～～ッッ！！！</p><p>悲鳴を振り絞ったあとは声すら出せず、手を押さえて悶絶するアイリーン。尋常ならざる苦しみっぷりに、 おい、大丈夫か と歩み寄ったケイは、少し逡巡してから、その背中をゆっくりとさすってやった。</p><p>ナイフで手を切ったときより、よほど痛そうに見えるのだが、気のせいだろうか。あの傷口の泡立ち方は、オキシドールでの消毒を彷彿とさせた。ケイが知っているゲーム内のポーションは、傷口に振りかけるとシュワワッと爽やかな音がして、傷が治って終わりだったのだが。</p><p>時間にして数十秒。</p><p>冷や汗を垂らして、ぜえぜえと喘ぐアイリーンの背中をさすりながら、</p><p>……落ち着いたか？</p><p>……うん</p><p>それで、どんな感じだ？</p><p>ヤバい。ものすごく痛かった</p><p>それは見れば分かる。俺が聞いてるのは傷の方だ</p><p>お、おう</p><p>恐る恐る、といった風に、アイリーンが手を広げると。</p><p>治ってる、……けど</p><p>……。傷は、残るんだな……</p><p>うん……</p><p>傷口は、ふさがってはいたが、新しい皮膚が白い線のようにくっきりと浮き出て見えていた。</p><p>ポーションといえば、傷すら残さずに完治、というイメージだったのだが。</p><p>その場になんとも、微妙な空気が流れる。</p><p>……まあ、まあ。まだ手の平で良かったじゃないか。あんまり目立たないし</p><p>そ、そうだな</p><p>もう痛くはないんだろ？</p><p>ああ。ちょっと肉が張る感じはするけど、問題ない。……やっぱりちょっと深く切りすぎちまったか</p><p>左手を握ったり広げたりを繰り返しながら、アイリーンが小さくぼやく。</p><p>そんな彼女をよそに、焚き火を挟んだ対面に座り直しながら、ケイは手の中のポーションの瓶を興味深げに観察していた。</p><p>……これ、飲んだらどうなるんだろうな</p><p>そりゃあ、体力が回復するだろう。……多分</p><p>ケイの呟きに、答えるアイリーンの言葉が尻すぼみになる。</p><p>…………</p><p>おいやめろ、期待のこもった目で見るな！</p><p>アイリーン。お前はデキる奴だと、俺は信じている</p><p>オレはモルモットじゃねえ！</p><p>チッ</p><p>『チッ』じゃねえよ！　人体実験はもうごめんだぞ！</p><p>はぁ。意気地のねえ野郎だな……</p><p>意地はもう張っただろっ次はテメェのターンだ！</p><p>膝をぺしぺしと叩きながら、ぷんすか怒るアイリーン。なんだかんだ言いつつも 次はケイが体を張るべき というアイリーンの主張はもっともだったので、毒見(あじみ)はケイが担当する運びとなった。</p><p>…………</p><p>どうだ？</p><p>ポーションを少しだけ口に含み、渋い顔をするケイに、心なしかワクワクした表情でアイリーンが問いかける。</p><p>うむ……そうだな。体力が回復してるかどうかは、正直よく分からない。だが、心なしか体が温まって、手足の冷えが幾分か解消された気はする。あと、石の上に座りっぱなしで痛くなってた尻が、楽になった。ひょっとすると、腰痛や肩こりにも効くのかもしれないな</p><p>冷え症のジジイのレビューかよ！！　そうじゃなくて！　いや、それも大事だけど！　味はどうなんだ味は</p><p>……昔VRショップで試食したリコリス飴に似てるな。あれから甘み成分を抜いて、ミントとショウガをぶち込んだらこんな風味になるんじゃないか？　あとちょっと苦い。それに何故か知らんけど炭酸っぽい、口に入れた瞬間シュワワッてなる。とろみのある炭酸ってどうなんだコレ</p><p>聞くからに不味そうだな</p><p>ああ。不味い。凄く不味い</p><p>しかも舌の奥の方に、エグい後味がずっと残るタイプの不味さだった。渋い顔のまま、ケイはポーションの瓶にふたをはめ直す。</p><p>一方のアイリーンは、 お前も試してみるか？ とケイが話を振ってこないか、戦々恐々と身構えていたのだが、このポーションはそんな風に茶化す気分にもなれないほど不味かった。</p><p>……さて、アイリーン</p><p>ポーションの瓶を弄びながら、ケイはおもむろに口を開く。空気の変化を察したアイリーンは、小さくため息をついた。</p><p>……楽しい現実逃避(おしゃべり)の時間は、もう終わりか？</p><p>ああ。残念だがな。そろそろ真剣に考えないとヤバい</p><p>すっかり暗くなってしまった夜空を見上げながら、ケイは真面目な顔を作る。</p><p>アイリーン。ついさっき気付いたんだけどな。ここがどこなのかを考える上で、重要な手掛かりになるものを発見した</p><p>いつの間に？　何だ、それは</p><p>あれだ</p><p>アイリーンの問いかけに、ケイは頭上を指し示した。</p><p>ハスニール 、 ワードナ 、 ニルダ</p><p>空をなぞるように、指を動かしながら、</p><p>ドミナ 、 カシナート 、それに イアリシン</p><p>それは、何かの名前のようであった。</p><p>……何の話だ？</p><p>小首を傾げるアイリーン。対するケイの答えは、簡潔だった。</p><p>星だよ</p><p>遥か彼方、無数に輝く星々に視線を合わせたまま、ケイは答える。</p><p>星座が……星の配置が、 DEMONDAL の世界と全く同じなんだ、ここは</p><p>ケイの言葉に、思わずアイリーンは夜空を振り仰ぐ。</p><p>しかし、満天の星空を眺めても、それはアイリーンにとってただの『星空』に過ぎず、地球のそれとの違いなどさっぱりわからなかった。</p><p>マジなのか？</p><p>ああ。あの緑色の星が ハスニール 、それを中心に構成されるのが”栄えある名剣”座だ。その隣の赤色の星が ワードナ 、周りを囲むオレンジ色の星々と”神秘の魔除け”座を形作ってる。あの青色の星は ニルダ で、一直線に続く星と共に”守護の御杖”座を―</p><p>ああ分かった分かった、もう結構だ。……でもなんでそんなに詳しいんだ、公式のフォーラムでもwikiでも、星座なんて見たことねえぞ</p><p>気にしたこともなかったから、見逃しただけかもしれねえけど、と言いながらアイリーンは星空に目を凝らす。</p><p>無理もない。隠しクエストで手に入る情報だからな。星座も、その意味も―“占星術”の存在に至っては、知ってる奴は魔術師より少ないだろうな</p><p>“占星術”？　ってかおい、隠しクエストってなんだ</p><p>“ウルヴァーン”から”ダリヤ平原”を抜けて北に行くと、森があるだろう？　その奥に小屋で一人暮らししてる婆さんのNPCがいるんだが、ポーションなり薬草なりで腰痛の治療をしてやると、その礼代わりに教えてもらえるんだよ。実は、イベントやら天候やらは、星と連動してるらしくってな。ゲーム内で俺の天気予報が良く当たってたのは、そういうわけだ</p><p>なんだって！</p><p>たしかに、ケイの天気予報は良く当たっていた、とアイリーンは振り返る。てっきり風向きや雲の様子から予想しているのだろう、と思っていたのだが、まさか星にその秘密があったとは。</p><p>薄情だぜケイ！　なんでオレにも教えてくれなかったんだよ！</p><p>憤るアイリーンに、ケイは心外そうな顔で、</p><p>教えようとしたぞ？　でもお前が『興味ない』って断ったんだろうが</p><p>えっ</p><p>思わずアイリーンは固まった。慌ててそのことを思い出そうとするも、ケイに出会ってからの二年間、占星術に関する話題など全く思い当たる節がない。</p><p>……マジで？　身に覚えがねえんだけど</p><p>一年ぐらい前だったか。“ウルヴァーン”の酒場で俺が『おいアンドレイ、神秘的な星々の法則に興味はないか？　大いなる宇宙の真理がお前を待っているぞ』って言ったら、『興味ない、そういうのは他を当たれ』って……</p><p>明らかに誘い方が悪(ワリ)ぃよッ！！　新興宗教の教祖かテメェは！！　ああ思い出したさ、あんときか！　またぞろお前の分かりづらいボケだと思ってスルーしたんだよッそういうことだったのかチクショウッ！</p><p>毒づきながら、アイリーンがガシガシと髪をかきむしる。</p><p>はぁ。まあいいや。それで？</p><p>……俺は、</p><p>ケイは、少しばかり躊躇の色を見せたが、</p><p>俺は、ここが DEMONDAL の世界なんじゃないか、と思う</p><p>はっきりと、言った。</p><p>……そいつはまた、飛躍したな。つまり何か、ここは DEMONDAL にそっくりな、異世界ってわけか？</p><p>言い換えれば、そういうことだ</p><p>……。最近のANIMEでそういうやつがあった気がするな。ゲームをやってる最中に、ゲームの中の世界にト(・)リ(・)ッ(・)プ(・)しちまう、ってストーリーだ。ケイも観たか？</p><p>いや。あいにくと、アニメはあんまり詳しくなくてな</p><p>へっ、ロシア人の方が日本人より詳しいってのも、変な話だな。まあ、いい。それでだ、そんなトリップが実際にあるとなると―トリップしちまってるのは、手前の頭の方じゃないか、ってオレは思うわけだ。告知なしに神アップデートが来ていて、リアリティが劇的に向上、同時に起きたシステム障害でログアウトできない……って考えた方が、よほど現実味があるぜ</p><p>もちろん納得できない部分も多いけどな、と、真摯な表情でアイリーンは言う。ケイの意見に反対する、というよりも、議論のための問題提起。</p><p>それは俺も考えた。だがな、アイリーン。そ(・)っ(・)ち(・)の(・)方(・)が(・)現(・)実(・)味(・)が(・)あ(・)る(・)か(・)ら(・)こ(・)そ(・)、俺はそれがあり得ないと思うんだ</p><p>アイリーンの顔を見据える。</p><p>アイリーン。お前のVR環境は、“External”と”Implant”のどっちを使ってる？</p><p>えっ？　……そりゃあ、普通に”External”だが</p><p>ケイの唐突な質問に、アイリーンが面食らったかのように答えた。</p><p>現在、VR環境機器は、二種類に大別される。</p><p>“External(外付け式)“と”Implant(埋め込み式)“だ。</p><p>外付け式とは文字通り、体の外部から脳と神経系に作用を及ぼし、VR環境を実現するタイプのことだ。外部の機器の組み替え・交換により、機能や性能を自由に調節できるので、拡張性に優れている。</p><p>対する埋め込み式は、直接体内に埋め込み、脳神経に作用するタイプのことだ。クローン技術で形成された神経系と、電子機器で構成された機械系。それらのハイブリッドの生体コンピュータであり、肉体に直接埋め込むという仕様から交換が難しく、拡張性に乏しいという欠点がある。</p><p>埋め込み式の方が外付け式よりも情報を正確に伝達できる、という利点はあるものの、拡張性の欠如は如何ともしがたく、また部品同士が干渉してしまうため外付け式と埋め込み式は併用ができない。</p><p>現在では、性能上の問題から外付け式が一般的であり、埋め込み式を使っていた人間も除去・交換手術を受けて外付け式に切り替えるパターンが多い。</p><p>―ごく一部の、例外を除いて。</p><p>俺は、“Implant(埋め込み式)“だ</p><p>ケイは言葉を続ける。</p><p>正確には、“IBMI-TypeP”を使ってる</p><p>“TypeP”！？　マジかよ、VRマシン最初期の骨董品じゃねえか</p><p>そうさ、骨董品だ。残念ながら、使い続けてる</p><p>……。ってことは</p><p>まあ、お前も勘付いてるだろうとは思うが</p><p>ふぅ、と細く息を吐きだした。</p><p>俺は、寝たきりの病人でな。“Fibrodysplasia Ossificans Progressiva”―進行性骨化性線維異形成症。筋肉が骨に変わっちまう奇病だ。発症したのはもう、１５年も前か。５年前ぐらいから、体も動かなくなった</p><p>…………</p><p>圧倒されたように押し黙るアイリーンを前に、しかしケイの述懐は止まらない。</p><p>今の現(・)実(・)の(・)俺(・)は、生命維持槽にプカプカ浮いてる骨と神経系の塊さ。VRマシンの臨床試験に参加したのが１２年前、試験は見事に成功し、俺はVRマシンの実用化に大きく貢献した―が、その代わりにマシンの生体部品が、当初の予想よりも広い範囲で神経と癒着・結合しちまって、もう交換できないんだ</p><p>ケイの表情は、穏やかだった。全てを受け入れた顔。</p><p>……それ以来、ハードもソフトも、継ぎ接ぎみたいに何度か更新して、今までどうにか誤魔化してきた。けど、それも、３年前の更新が最後になった</p><p>３年前、っていったら……</p><p>ああ、そうさ。 DEMONDAL のサービス開始の年だ</p><p>ケイの口の端が、儚い笑みにほころぶ。</p><p>『かつてないほどのリアリティ』、その売り文句に俺は飛び付いた。一日のほぼ全てをVR空間で過ごす俺にとっては、リアリティのある他人との交流こそが、一番求めてやまないものだった。賭けみたいなものだったよ、マシンの更新手術は。家族にも主治医にも、担当の大学教授にも、全員に反対された。俺の体はもうボロボロで、更新手術に耐えられるかどうか、わからなかったんだ。でも俺が、『リアリティがどうしても欲しい、それがないなら、これ以上無為に生きても辛いだけだ』って我儘を言ったら、最後にはみんな折れてくれた</p><p>夢を見るような目つきで、ケイは語る。</p><p>実際、 DEMONDAL のリアリティは、凄かったよ。草原の風も、風が運んでくる葉擦れの音も、太陽の温かさも。動植物の造形、NPCの挙動、自分の肉体の感覚、目に入ってくるもの、触れられるもの、 DEMONDAL の全てが、今までのゲームとは比べ物にならないくらい、“リアル”だった。俺の欲していた、ほとんど全てのものが、 DEMONDAL には揃っていた―でも、それが限界だった</p><p>アイリーンに視線を合わせ、ケイは静かに微笑んだ。</p><p>俺のマシンは、 DEMONDAL に最適化されてる。オンボロでも、少しの余裕を残して、ゲームがつつがなく動くようにな。でも、それが限界なんだ、アイリーン。例え、どんな神アップデートが来ても、どんな技術革新があっても―</p><p>足元の砂を手ですくい、指の隙間からさらさらと零れ落ちる砂粒に、見惚れる。</p><p>―俺の骨董品(マシン)じゃ、この情報量は処理しきれない</p><p>絶対に、とケイは言葉を結んだ。</p><p>…………</p><p>アイリーンは、何も言えなかった。</p><p>……とまあ、辛気臭い話になっちまったが、俺の身の上話はどうでもいい。俺が言いたかったのは、こ(・)の(・)世(・)界(・)がゲームの中だろうと異世界だろうと、どちらも俺からすればブッ飛んだお話だ、ってことさ。勿論、俺のマシンでも軽々と動くような、神アップデートが来たんならそれはそれで問題ない。システム障害なんてすぐに復帰するだろうし、それまで待てばいいだけの話だ。だから、俺から提案したいのは―って、なんだおい、泣いてんのか</p><p>ぐすぐすと涙を零し始めたアイリーンに、ケイが上擦った声を出す。</p><p>べっ、……違っ、泣いてなんか……</p><p>いや、泣いてるじゃねえか</p><p>顔を手で隠すアイリーンの仕草に、ケイは苦笑いしながら、歩み寄ってぽんぽんとその背中を叩く。</p><p>別にお前が泣くことはない。一昔前なら、俺も泣いてたかもしれない。だが今はVR技術があるからな、別に不幸じゃないさ</p><p>これ、違っ……違う、ケイに、同情し、てる、わけじゃ……</p><p>大丈夫だって、良いから良いから</p><p>ぐずるアイリーンの肩を抱いて、赤子をあやすようにその頭を撫でる。なんで俺がこいつを慰めてるんだろうな、と考えると可笑しくて、ケイは忍び笑いを止めることができなかった。</p><p>……いや、悪かった。もう大丈夫だ</p><p>数分とせずに落ち着いたアイリーンが、肩にかかったケイの手を撫でる。もう一度、ぽんぽんとその肩を叩いてから、ケイはアイリーンの対面に座り直した。</p><p>…………</p><p>焚き火越しに目が合うと、アイリーンは恥ずかしそうに顔をそむけ、</p><p>……思う所があったんだ。ケイが可哀そう、とか、そういうことで泣いたんじゃない</p><p>そうか</p><p>うん、まあ……そういうことなんだ。だから、気にしないでくれ</p><p>もどかしそうに言うアイリーンに、ケイはくすりと笑みを返す。</p><p>いいさ。話を続けよう</p><p>おう。それで、提案したいこととか、何とか言ってたよな？</p><p>大したことじゃないけどな。俺が提案したいのは、『ここが DEMONDAL に似た異世界である』と仮定して行動しよう、という、それだけのことさ。もしここがゲーム内で、システム障害でログアウトできないだけなら、数日もすれば解決するだろう。アイリーン、プライベートな質問で悪いが、お前一人暮らしか？</p><p>いや。家族がいる</p><p>なら安心だ、娘がいつまで経ってもゲームを止めないとあれば、飯の時間にでもなれば家族がマシンを引っぺがしに来るだろうさ。アニメとは違って、マシンを外そうとした瞬間に脳ミソが爆発、なんてこともないしな</p><p>おい、お前アニメ詳しくないって嘘だろ？</p><p>どうだか</p><p>二人でくすくすと笑いあう。</p><p>まあ、そんなわけで、ここがゲームなら慌てる必要はない。が、もしここが『異世界』なら……</p><p>ち(・)ょ(・)っ(・)と(・)は(・)慌てる必要があるな</p><p>そういうことだ。最悪を想定して動け、というセオリー通りに行こう</p><p>結論を出したところで、ケイはふぅ、と小さくため息をついた。口の中がからからだ。珍しく長口上をぶちまけたせいで、喉が渇いているらしい。</p><p>……アイリーン、水持ってないか</p><p>水か？　サスケの荷袋の中に、水筒があったと思う</p><p>『備えあれば憂いなし』、だな</p><p>ソナエ……？</p><p>いや、こっちの話だ。ちょっと水貰うぞ、喉が渇いた</p><p>立ち上がって、 ぼくの名前呼んだ？ と言わんばかりに小首を傾げるサスケに近寄り、その荷袋の中を漁る。</p><p>それにしても、これからどうする？</p><p>水筒を探すケイに、背後からアイリーンが声をかけた。</p><p>うーむ。どうしたものか</p><p>いつまでもここで、ってわけにもいかねぇだろ？</p><p>喉も渇く。尻も痛い。となると、やはり人里を探すしかないか</p><p>やっぱそうなるよな</p><p>あーあ、と面倒くさそうにアイリーンが声を上げる。</p><p>果たして、水筒は荷袋の一番底にあった。ごちゃごちゃと詰まったポーションの瓶を押しのけて、袋から引きずり出す。</p><p>（あってよかった）</p><p>振って確認するまでもなく、中身は十分に入っているようだ。希少かつそれ以上にクソ不味いポーションで喉の渇きを癒すのは御免だったので、アイリーンが水筒を携帯していたのは僥倖としか言いようがない。</p><p>その場に腰を下ろして、焚き火に当たりながら、少しずつ中身を流し込む。</p><p>（……やはり、ゲームとは思えないな）</p><p>液体が喉を通りぬけていく感覚。VR技術で再現されているとは、とても思えないようなリアルさ。</p><p>先ほど、ケイは『異世界であると仮(・)定(・)し(・)て(・)行動しよう』と言った。</p><p>だが、正直なところ、ここは異世界だろうと、ケイは半ば確信していた。</p><p>―そうであることを望んでいた、とも言うが。</p><p>ケイのそばで寝転んでいたミカヅキが、のそりと首を動かして、ケイの膝に頭を載せてきた。どうやら、枕代わりにしようという魂胆らしい。ゲーム時代からミカヅキのＡＩは飼い主(ケイ)に遠慮しないタイプであったが、異世界に来てからその図太さに磨きがかかっているようだ。</p><p>こやつめ、と苦笑しながら、その首筋を撫でてやる。人間よりも高い体温、チクチクと指先を刺激する硬い毛、皮膚の下で脈打つ血潮の流れ―ただ体表に手を当てただけでも、既にこれだけの情報量がある。</p><p>これこそが現実。そうでなければ何なのだ、と、もはや感動すら覚えるほどだ。耳の裏をコリコリと掻いてやると、ミカヅキは気持ちよさそうに目を細めた。</p><p>（しかし、何でこんなことになったんだか）</p><p>再び、水筒で口を湿らせながら、ケイは考える。</p><p>（たしか―ここに来る前は）</p><p>海辺の町”キテネ”で、朱塗の弓を受け取ったのだ。そして、</p><p>（追剥に襲われて、撃退して）</p><p>そのあと―。</p><p>（そのあと……どうしたんだっけか）</p><p>思い出せない。</p><p>アイリーン</p><p>ん？</p><p>俺たち、ここに来る前って、何してたんだっけか。“キテネ”から戻ってくる途中、追剥に襲われて、それを返り討ちにしたのまでは憶えてるんだが……</p><p>……そういえばそうだな。なんで忘れてるんだ</p><p>あごに手を当てて、アイリーンが考え込む。</p><p>……追剥を倒して……それからちょっと進んで……“ウルヴァーンヴァレー”に……</p><p>そのとき同時に、二人ともが思い出した。</p><p>霧だ！</p><p>何故忘れていたのか。</p><p>そう、ウルヴァーンヴァレーに謎の霧が立ち込めていたのだ。</p><p>そして霧の中に揃って突入して―。</p><p>それから―</p><p>…………</p><p>それから―。</p><p>……くそっ、思い出せない</p><p>ケイは毒づいた。</p><p>何か。</p><p>何かがあったのだ。</p><p>はっきりと思い出せないが、霧の中で、何(・)か(・)に―</p><p>ぶるるっ</p><p>と、短く鼻を鳴らす音に、ケイの思考が遮られる。</p><p>……？　どうした、ミカヅキ</p><p>見れば、ミカヅキがいつの間にか半身を起こし、首を巡らせて周囲の様子を窺っていた。その両耳はせわしなく動き、先ほどまでは眠たげだった瞳も今は剣呑に細められている。</p><p>ケイは知っていた。この表情、この動き。ここに来る前、ゲームの時代から、ミカヅキのAIに組み込まれていた。</p><p>―何かを、警戒する動作。</p><p>傍らに置いてあった 竜鱗通し に、ケイはそっと手を伸ばす。</p><p>……どうかしたか？</p><p>焚き火を見つめていたアイリーンがそれに気付き、不安げな様子を見せる。分からん、とだけ短く答えて、ケイはおもむろに立ち上がった。</p><p>ミカヅキが警戒してる。……獣かな</p><p>仮にこの世界が DEMONDAL に準じているのであれば、狼などがいても不思議ではない。それほど深い森ではないので、一人では手に負えないような、凶暴なモンスターは出てこないと信じたいが―。</p><p>腰の矢筒のカバーを外しながら、暗闇を見透かそうと目を見開く。炎の明かりの届かぬそこは、常人では知覚の及ばぬ領域。しかし、まばたきほどの間に、ケイの瞳は限界まで瞳孔を開き、即座に環境に適応する。</p><p>…………</p><p>北側の森には、特に異常は見受けられない。時折コウモリや小動物の影が見えるが、それだけだ。</p><p>では翻って、木立の向こう、南側の草原はどうか。</p><p>夜風に揺れる茂み。―いや、違う、風のせいではない。</p><p>何かが、いる。</p><p>その瞬間、首筋に焼け付くような感覚が走った。</p><p>ほぼ同時、カヒュン、というかすかな音。</p><p>考えるより先に体が動いた。咄嗟に身を伏せる。手を伸ばせば届く距離、風を切る音。かつん、と背後の壁に、一本の矢が当たって跳ね返った。</p><p>―何者かに矢で射られた</p><p>―なぜ攻撃してきたのか</p><p>―数は、方向はどちらか</p><p>脳裏を駆け巡る思考。が、それを遮るようにして新たな殺気。</p><p>弾かれたようにそちらを見やる。鳴り響く微かな音。手練の一撃か。巧妙な”隠密殺気(ステルスセンス)”。辛うじて感知するも、即座に悟る。</p><p>これは自分を狙ったものではない。</p><p>殺気の向かう先、その軌道を辿れば―金髪の、少女。</p><p>アイリーン、避け―</p><p>どすっ、と。肉を打つ、鈍い音。</p><p>……え？</p><p>その呟きは、さも不思議そうに。きょとん、とした表情で、アイリーンは自分の胸を見下ろした。</p><p>右胸に―矢が一本、生えていた。</p><p>信じられない、という風に。目を見開いて。</p><p>こちらを見る。なにが、と。問いかける視線。</p><p>……ぁ</p><p>ぐらりと、その身を傾けた少女は、</p><p>アイリーンッ！</p><p>―糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏した。</p><p>6. 逃走</p><p>ケイの行動は早かった。</p><p>クソッ！</p><p>毒づきながら、足元の焚き火を蹴り飛ばす。焚き木の炎が散らされ、辺り一面を暗闇が覆い隠した。</p><p>アイリーンっ</p><p>素早く駆け寄り、抱きかかえ、転がり込むようにして廃墟の石壁の裏に身を隠す。</p><p>俗に言う”お姫様抱っこ”の体勢―しかし、肝心のお姫様(ヒロイン)の胸に矢が突き立っているようでは色気もクソもない。腕の中にすっぽりと収まるアイリーンの華奢な体は、驚くほどに軽かった。</p><p>しっかりしろ</p><p>ささやくようなケイの呼びかけに、アイリーンは答えられない。苦悶に顔を歪ませて、ハァッ、ハァッと浅く短く呼吸を繰り返している。手の平を這う、ぬるりとした血の感触に、ケイは顔を青褪めさせた。</p><p>―失敗した。</p><p>焚き火の明かりを隠すため、こうして木立に身を潜めていたが―その考えが甘かったということが、最悪の形で示されてしまった。</p><p>（ゲームの中でさえ、警戒が必要だったっていうのに……！）</p><p>盗賊NPC、火を恐れない夜行性のモンスター、あるいはPK(プレイヤーキラー)。夜に、しかも少人数で不用意に目立つ行為は、ゲーム内ですら危険だった。</p><p>ま(・)し(・)て(・)や(・)異(・)世(・)界(・)と(・)も(・)な(・)れ(・)ば(・)。</p><p>せめてもう少し、草原側にも目を向けていれば、とケイは己の迂闊さを呪う。アイリーンは『視力強化』の紋章を刻んだケイほどは夜目も効かないし、“受動殺気(パッシブセンス)“にも長けていない。最高レベルの視力、弓という遠距離攻撃の手段、そして殺気に対する感受性。それらを兼ね備えたケイこそが、警戒役を引き受けて然るべきだった。</p><p>少なくとも、暢気におしゃべりを楽しんでいる場合ではなかった―</p><p>ぐらぐらと視界が揺れるような感覚と共に、自責の念に押し潰されそうになるが、</p><p>う……ケ、イ……</p><p>腕の中、額に脂汗を浮かせたアイリーンが小さく呻く。それを見て、ぐるぐると渦巻いていたケイの頭の中が、すっと冷えた。</p><p>（―今は、どうするかだ）</p><p>時間が惜しい。思考を切り替えた。</p><p>そっと壁の陰から頭を出して、辺りの様子を窺う。焚き火の光が失われた今、夜の木立は僅かな星明かりに照らされるばかり。それは、ほぼ暗闇に等しい空間であったが―強化されたケイの瞳は、そこに潜むものを鮮やかに映し出した。</p><p>（三人、……五人、いや六人。見える範囲でこれか）</p><p>草陰にうずもれるように蠢き、徐々に距離を詰めようとする人の影。壁の死角も考慮すると、伏兵があと二、三人はいると見ていい。完全に囲まれていた。</p><p>この襲撃者が何者なのか―ということは、この際おいておく。</p><p>重要なのは、連携する程度に知性があり、弓矢を保持した人型生物に包囲・攻撃されている、という事実だ。</p><p>……Oй……Пoчe……y……</p><p>細かい震えを起こしながら、アイリーンがうわ言のように呟く。よく聞き取れず、意味は分からなかった。ぼんやりとした目つき、焦点が合っていない。暗がりで見えないが、顔色も悪そうだった。</p><p>喋らなくていい、じっとしてろ</p><p>耳元に囁きながら、どうするべきかを考える。</p><p>―決断は、早かった。</p><p>ミカヅキ、サスケ、来い</p><p>呼びかけに、ぶるるっとミカヅキが答える。アイリーンの傷に障らないよう慎重に、しかし素早く、ケイはミカヅキに跨った。</p><p>アイリーン、ちょっとの辛抱だ。耐えてくれ</p><p>ケイの言葉は届いたのか。アイリーンは小さく何事かを呟きながら、曖昧に頷いた。</p><p>行くぞッ！</p><p>ミカヅキの横腹を蹴る。果たして褐色の馬は、いななきの声ひとつ洩らさずに、滑るようにして走り出した。</p><p>馬だッ</p><p>逃げるぞッ！</p><p>壁の裏から飛び出したケイたちの姿に、伏せっていた襲撃者たちが立ち上がる。</p><p>カヒュカヒュン、と弓の鳴る音。</p><p>ケイの顔が強張る。咄嗟に手綱を引き、ミカヅキの進路を横にずらした。</p><p>唸りを上げて、一瞬前までケイの胴があった空間を、黒い矢羽が引き裂いていく。</p><p>（やってくれるッ！）</p><p>少なくとも一人は、腕のいい弓使いがいる。振り返れば、黒い革鎧を装備した男たちが、手に手に武器を振り上げて騒ぎ立てていた。</p><p>ケイは手綱を操り、木立の間を縫うようにしてジグザグに不規則機動を取り始める。生い茂る木々が障害物になったこともあり、襲撃者たちの狙いに迷いが生じたらしい。追加で放たれた矢はどれも見当違いの方向へと逸れ、虚しく木の幹に突き刺さる。</p><p>見た限りでは、騎乗生物の影もない。―逃げ切れる、とケイは確信した。</p><p>そのまま木立を抜け、草原を東に突き進む。</p><p>（……さて、となると治療だが、どうしたものか）</p><p>ケイは心配げに腕の中の少女を見やった。馬の揺れに耐えるように、苦しげに眉根を寄せるアイリーン。</p><p>右胸の矢傷。辛うじて動脈の位置からは逸れているものの、鏃の形状によっては血管が傷ついている可能性もある。少なくとも肺に穴が開いているのは確実だ。このままでは呼吸もままならない。また、これだけの傷を抱えたまま馬に揺られるのは、お世辞にも体に良いとは言えないだろう。</p><p>しかし、先に治療するという選択肢はなかった。</p><p>確かにポーションを使えば、傷そのものはすぐに完治するかもしれない。だが、先ほどの手の平の傷を治した際の苦しみ方を考えると、これほどの重傷を治療した場合、すぐに復帰するのはおそらく不可能だろう。最悪、痛みで気絶してしまう可能性すらある。</p><p>治療中は完全に無防備。その後も、気絶したアイリーンを庇いながら戦う羽目になるかもしれない―そういった諸々を考慮すると、おのずと安全な選択肢は限られていく。</p><p>すなわち、逃げる。</p><p>周囲の地形は既に把握済みだ。このままミカヅキに駆けさせていれば、追っ手は完全に撒けるはず。ある程度進んでから、アイリーンに治療を施して再び距離を取ってもいい。</p><p>もしくは、容体が安定したところでサスケにアイリーンを任せて、ケイが単独で遊撃に回るという手も―</p><p>バウッ、バウッ</p><p>と、背後から響いた獣の鳴き声に、ケイの思考が妨げられる。</p><p>弾かれたように振り返れば、地を這うように駆ける、三つの大きな黒い影。</p><p>―“狩猟狼(ハウンドウルフ)”！</p><p>黒色のぼさぼさとした毛並み、ぴんと尖った耳に、星明かりの下でも不気味に輝く両眼。首にはめられた革の首輪が、野生ではなく調教(テイム)された個体であることを示す。</p><p>ハウンドウルフ。別名、“黒き追跡者(ブラックシーカー)”。</p><p>ゲーム内で、攻撃補助用のペットとして、非常に人気の高かったモンスターだ。その凶暴性から調教が難しく、手懐けるのは至難の業とされていたが、一度懐けば従順になり、決して主人を裏切らず、あらゆる局面で有能に立ち回る。</p><p>大柄な体躯、それに見合わぬ俊敏さ、底知れぬスタミナに、高い攻撃力。</p><p>そして何よりも恐るべきは、その追(・)跡(・)力(・)だ。</p><p>狼としての嗅覚をフルに生かし、どこまでも執拗に獲物を追い続ける。馬の駆け足程度の速さならば一晩中でも走り、三十分ほどならば馬の襲歩にすら追随が可能。</p><p>例え地の果てまで行こうとも、『臭い』が残っている限り、彼らから逃れる術はない。ハウンドウルフが自ら追跡を止めるのは、主人の笛に呼び戻されたときか、獲物の喉笛を喰い千切ったときだけだ。</p><p>そんな、死神の先駆とでもいうべき黒き獣が―三頭。</p><p>……こいつは、</p><p>厄介だ。ケイは思わず舌打ちした。じりじりと距離を詰めながら、狼の群れがそうするように、散開し追い立ててくるハウンドウルフ。時折、三頭のうちいずれかが足を止めて、夜空に遠吠えを上げている。そうやって『獲物』の位置を知らせるよう、訓練されているのだろう。</p><p>一瞬前までは気楽な逃避行だったのが、今や手に汗握る狩猟劇に様変わりだ。しかも、ケイは『狩られる』側―後ろを走るサスケも、怯えの色を見せている。</p><p>クソッ、弓さえ使えりゃな……</p><p>左腕にアイリーンを抱きかかえたまま、狼たちを睨み、ケイは忌々しげに毒づいた。</p><p>平素であれば、弓騎兵のケイにとって、ハウンドウルフは恐るるに足る相手ではない。</p><p>馬型の騎乗生物の中で最高性能を誇るバウザーホース(ミカヅキ)を駆り、百発百中の弓の腕前をもってすれば、ハウンドウルフなど足が速いだけの『的』にすぎない。むしろ、図体がデカくて逃げない分、草原の兎より仕留め易いぐらいだ。</p><p>が、今はアイリーンで片腕が塞がっている。先ほどから色々と試みているのだが、ぐったりとした彼女を腕無しで支える術がない。ゲームでは常に弓で戦ってきたケイにとって、この状況は想定外と言ってよかった。</p><p>仮に、これがゲームであれば、ケイは即座にアイリーンを放り出すだろう。</p><p>地面に激突した衝撃で死ぬかも知れないし、もしくはハウンドウルフに食い殺されるかも知れない。しかし、その隙に弓を使えば、一瞬でこの黒い獣どもを殲滅できる。</p><p>その後で―生死を問わず―アイリーンを回(・)収(・)し、治療するなり拠点で再受肉(リスポーン)させるなりすればいい。それならば能力低下(デスペナ)も所持品紛失(アイテムロスト)も免れる。なんのデメリットもない。</p><p>しかし、それが現実となると―。</p><p>（放り出すわけにはいかないよな）</p><p>腕の中、馬の揺れに耐えるように眉を寄せるアイリーン。</p><p>か弱い少女を捨て置く、ましてや馬から地面に投げ捨てるなどと、そんな鬼畜の所業はやれと言われてもできないだろう。</p><p>（ここが DEMONDAL の世界なら、復活も可能かもしれんが……）</p><p>ゲームに似(・)て(・)い(・)る(・)だ(・)け(・)の異世界、という可能性もある以上、無茶はできない。ぶっつけ本番で試すには、あまりにもリスクが高すぎた。</p><p>ウォン、オンッ！</p><p>吠え声。そうやって考えている間にも、ハウンドウルフたちがじりじりと追い上げてきている。</p><p>全力で駆けるこの黒き追跡者たちは、瞬間的な足の速さにおいて、今のミカヅキを上回っているのだ。</p><p>ゲーム内の馬型の騎乗生物では最高の速度、最高レベルのスタミナ、そして優れた走破性能を誇るバウザーホース―ミカヅキだが、いかんせんこの種族、加重に弱い。パワータイプではなく、スピードタイプなのだ。アイリーンという同乗者が一人増えただけで、最高速がガクンと落ちていた。</p><p>おいミカヅキ、根性出せ！　お前の速さはこんなものじゃないはずだ！！</p><p>無茶言うな、と言わんばかりにミカヅキがちらりとケイを見る。これでも、よく走っている方だ。筋肉の密度が尋常ではないケイは、見かけに比してかなり重い。そこに重量オーバーで同乗者が加わっているのだから、既にいっぱいいっぱいの状態だった。</p><p>（……逃げ切るのは無理だな）</p><p>分かってはいたが、改めて悟ったケイの目が遠くなる。そもそも、ここで少々加速したところで、ハウンドウルフの追跡は止まらない。先ほどから、アイリーンが腰の帯に差している投げナイフが、ちらちらと目に入る。</p><p>残念ながらケイは、ナイフ投げが不得手だ。練習したことはあるが、実戦ではまともに刺さった試しがない。</p><p>ましてや今は揺れの激しい馬上、動く目標に投げつけてみたところで、牽制にすらならないだろう。</p><p>（……手持ちのカードで勝負するしかない、か）</p><p>腰のポシェットに手を伸ばす。取り出したのは、ウズラの卵ほどの大きさの、鉛玉。</p><p>礫(つぶて)だ。</p><p>対人用のお守り代わりに持ち歩いていたもの。全身が分厚い毛皮で覆われた獣には効果が薄いが、無いよりはマシだろう。</p><p>せめて額にブチ込めれば……</p><p>右手側のハウンドウルフに狙いを定める。鐙(あぶみ)を踏むケイの足の動きから、その意図を察したミカヅキが、やや時計回りに円を描くよう馬首を巡らせた。</p><p>急激に接近してくるケイたちに、件のハウンドウルフは飛びかかって食らいつかんと、走りながら姿勢を低くする。</p><p>そしてぐっと脚に力を込め、まさにミカヅキに牙を剥こうとした、その瞬間。</p><p>ケイは右手を振り下ろす。</p><p>ビッ、と腕が空を切る音。最適化された動作、並はずれた筋力、それらを合わせた礫が至近距離から放たれる。</p><p>野生の動物をして反応する暇すら与えずに、人外の威力を秘めた礫がハウンドウルフの顔面に炸裂した。</p><p>ぎゃんッ！</p><p>鼻づらに強烈な一撃を見舞われたハウンドウルフは、短く悲鳴を上げてその場にひっくり返る。地面の上で鼻を押さえてのた打ち回る獣の姿が、すぐに後方へと流れて小さくなっていった。</p><p>一頭が戦線離脱―とケイの気が若干緩もうとしたところで、 ぶるるっ とミカヅキの警戒の声。見れば左手、いつの間にか至近距離まで迫っていた一頭が、こちらに飛びかかろうと既に身構えていた。</p><p>（―いかん！）</p><p>礫を取り出すのは間に合わない、と判断したケイの右手が、腰の短剣に伸びる。</p><p>ハウンドウルフが地を蹴るのと、ケイが短剣を引き抜くのが同時。</p><p>いかに俊敏な狼といえど、空中で姿勢を変えることは出来ない。ハウンドウルフの首筋に、ケイは真っ直ぐ短剣を突き出した。</p><p>肉を裂き、短剣の刃が首筋の骨に食い込む感触。ぐぼっ、と湿り気のある音が、狼の喉から漏れる。しかし、明らかな致命傷を受けてもなお、怯む様子すら見せないハウンドウルフは、ケイの右腕に牙を立てようと大きく顎を開いて首を巡らせた。</p><p>その執念、そして闘争心に驚きながらも、ケイは咄嗟に短剣から手を離す。</p><p>喉元の支えを失った黒き狩人は、ケイに噛みつくことはかなわずに、そのまま夜の草原に叩きつけられて事切れた。</p><p>残るは一頭……！</p><p>後方、追い縋る最後のハウンドウルフを見やり、ポシェットを探る。</p><p>残りの礫は、二つ。</p><p>そのうちの一つを右手に構え、慎重に狙いを定めた。</p><p>ぐルルル……</p><p>警戒するように唸り声を上げたハウンドウルフは、姿勢を低くしながら小刻みに軌道を変え、ケイを翻弄しようと試みる。</p><p>彼は知っていたのだ。ケイの右手から、何か危険なモノが放たれるということを。そして不用意に近づけば、自らのそれよりも鋭く長い爪に、手痛い反撃を貰うであろうということも。</p><p>まったく、賢しらな獣だった。そのことに感心すると同時に、忌々しくも思う。</p><p>ゲームみたいに、大人しく狩られていればいい……！</p><p>そう、吐き捨て。黒き獣。睨みつける。</p><p>（―死ねッ！）</p><p>最大級の殺意を込めて、全身に力を漲らせた。</p><p>！！</p><p>物理的な圧力すら感じさせる濃厚な殺気。全身の毛が逆立つような指向性のある悪意。思わず震え上がったハウンドウルフの体が一瞬、硬直する。</p><p>その、間隙。</p><p>ケイの右腕がブレた。</p><p>ビシュッと鉛の礫が空を切る。ケイが全力で投じた、必殺の一撃。</p><p>しかし幸か不幸か。ケイは目測を誤った。</p><p>ハウンドウルフの額を狙って投じた礫は、僅かに耳を掠めて、その背中に命中する。</p><p>毛皮越しに鉛が肉を打つ、痛そうな音。が、獣にとってその程度の痛みは、むしろ神経を逆撫でするものでしかなかった。先ほど、ケイに『恐れ』を抱いてしまったことを否定するかのように、牙を剥いた狼は激しく吠えかかりながら突進してくる。</p><p>“能動発気(アクティブセンス)“は苦手だな……</p><p>慣れないことして手元が狂ったか、とため息をつくケイ。礫は外れ、血走った獣が目の前にまで迫っているというのに、その態度は落ち着いたものだった。</p><p>なにせ、決着はもう、ほとんど着いているのだ。</p><p>完全にケイに気を取られていた狼が、も(・)う(・)一(・)頭(・)の存在を思い出したのは、視界の端に褐色の毛並みが映ったときだった。</p><p>ぶるるォッ！</p><p>ハウンドウルフの後方から、いななきを上げながらサスケが猛然と突っ込んでくる。思わずぽかんと口を開いて呆気に取られる狼。その無防備な横腹に、サスケは右前脚の蹄を容赦なく叩きこんだ。</p><p>キャンバス地が破れるような音を立てて、黒い毛並みの腹が切(・)り(・)裂(・)か(・)れ(・)る(・)。口から血反吐を吐いてよろけた狼に、止めとばかりにサスケの後足キックが炸裂。ハウンドウルフは、腹から臓物を撒き散らしながら吹き飛んでいった。</p><p>Well Done(よくやった)!</p><p>ケイの快哉の声を聞いて、 ふふん、ぼく強いでしょ とでも言いたげに得意げな顔をするサスケ。その足の裏、かかと部分の裏側に展開されていた鋭い骨の刃が、音もなく畳まれてただの蹄に擬態した。</p><p>バウザーホース。</p><p>馬型の騎乗生物の中では最高レベルの性能を誇る彼らだが、厳密には馬ではない。高いレベルで馬に擬態した、凶暴な雑食性のモンスターだ。手懐けるのはハウンドウルフ以上に難しいとされ、仮に使役に成功したとしても、その扱いには注意を要する。</p><p>……ミカヅキ、お前もよくやった。ありがとうな</p><p>ぽんぽんと、ミカヅキの首筋を叩いて、労をねぎらう。言われるまでもないわ、とでも言いたげに、ちらりとケイを見て鼻を鳴らすミカヅキ。</p><p>こうやってきちんと感謝の念を示さないと、ヘソを曲げるのがバウザーホースだ。ゲーム内のAIですらそうだったのだから、いわんや異世界をや。どうにか人里を見つけられたなら、野菜にせよ肉にせよ、何かしら豪勢な餌を用意するべきだろう。</p><p>（……だが、今はアイリーンの治療が先だな）</p><p>不安げに眉根を寄せて、ケイは嘆息する。それはそれで、考えると気が重い。</p><p>ミカヅキを早足で駆けさせながら、左手に広がる草原と右手側の森を見比べたケイは、―しばし迷ってから、森の方へと馬首を巡らせた。</p><p>これから行う『治療』に不安を隠せないケイを乗せ、ミカヅキはゆっくりと暗い雑木林に踏み込んでいった。</p><p>†††</p><p>雑木林の中は、ほぼ真っ暗闇だった。頭上に生い茂る木の葉のせいで、わずかな星明かりすら遮られている。</p><p>（これだけ暗ければ、人間に奇襲されることはないだろ）</p><p>並みの人間の夜間視力では、歩くことすらままならないはずだ。それでいてこの雑木林は、背が高く幹の細い木々が植生の大部分を占めており、先ほどの木立に比べて視界が開けている。</p><p>ケイが充分に警戒し続けている限り、獣相手でも遅れを取ることはないはずだ。現に、ケイと同様『視力強化』の紋章を持つミカヅキは問題ないようだが、何の強化も施されていないサスケはかなり歩きにくそうだ。今はケイが手綱を引いて誘導している。</p><p>さて……この辺でいいか？</p><p>数百メートルほど分け入ったあたりで、ミカヅキの足を止める。周囲を見回しても、視界圏内に生物は見受けられない。ミカヅキも平然としているので、頭上を含めた感知圏内にも、敵対者は存在しないと考えられた。</p><p>アイリーン。聴こえてるか？</p><p>額に浮き出た汗をぬぐってやりながら、声をかける</p><p>где……кто……？</p><p>目を閉じたまま、悪夢にうなされているかのようにアイリーンが小さく呟くが、発音が不明瞭な上にロシア語なので何を言っているのかさっぱり分からない。</p><p>アイリーンを抱えて、ゆっくりと地面に降り立つ。枯葉と腐植土の上にマントを敷き、そっと華奢な身体を横たえた。</p><p>よし。ミカヅキ、サスケ、警戒は任せる</p><p>ミカヅキが鼻を鳴らして答え、サスケがキリッとした表情で周囲をきょろきょろと見回し始める。暗闇の中、サスケにはほとんど何も見えていないはずなのだが。</p><p>さて、と</p><p>水筒の水で軽く手を洗い、アイリーンの傷を検める。黒装束のせいで傷口が見えないので、布地を切り裂くために短剣を取り出そうとするが鞘には何もない。そこで、先ほどの戦闘で短剣はハウンドウルフに道連れにされてしまったことを思い出す。</p><p>仕方が無いのでアイリーンの投げナイフを一本拝借し、黒装束の胸元を切り裂いていく。</p><p>……ふむ</p><p>流石に矢が生えているとなると、いたいけな少女の胸元を覗いても、邪な感情は湧いて出なかった。</p><p>……あと二センチ上に刺さってたら、右鎖骨下動脈がやられてたなコレ</p><p>肋骨の間にするりと入り込むようにして、矢は刺さっていた。傷口の形状からするに、鏃は『刃』や『返し』が付いたタイプではなく、シンプルな円錐状、ないしそれに近い形であることがわかる。つまり、矢を抜くときに、傷が広がる危険性が低い。</p><p>いずれにせよ、一刻も早く傷を塞いでしまいたいところだが、矢を引っこ抜く前に少しでも体力を回復してもらった方が良いだろうと考えたケイは、</p><p>アイリーン。聴こえるか？　ポーション飲めるかー？</p><p>耳元で呼びかけるも、反応は芳しくない。アイリーンは先ほどからずっとうわ言を呟いているのだが、かすれ声な上にどうやらロシア語だった。</p><p>仕方がないので、口元にポーションを少しずつ垂らす。が、</p><p>……не вкусно……</p><p>顔をしかめたアイリーンの唇から、そのほとんどが零れ落ちてしまう。何を言ってるかは分からなかったが、おそらく 不味い と言っているのだろう。いずれにせよ、ずっと意識が混濁した状態が続いており、ろくに意思の疎通も図れていない。</p><p>（……いや、しかし考えようによっては、これは好都合(チャンス)なんじゃないか）</p><p>そこで、ポーションを片手に、ケイははたと考え直す。</p><p>ポーションによる治療は、どうやら多大な苦痛を伴うらしい。手のひらの切り傷を直しただけで、アイリーンは冷や汗だらだらの状態になっていた。それが、胸に突き刺さった矢を抜き、その穴を塞ぐとなると―どれほどの痛みに苛まれるのか想像もしたくない。</p><p>……意識が朦朧としてるうちに、さっさと終わらせた方が本人のため、か……？</p><p>しばし考えて、決断する。</p><p>よし、ひとり頷いたケイは、籠手を外して袖をまくった。念のため、何本か予備のポーションもすぐに使えるよう膝元に置き、ふぅっと息を吐いて矢に手をかける。</p><p>…………</p><p>ゲーム内ならば、今までに幾度となく矢を抜いてきたが、現実でそれをやるとなると流石に重みが違った。傷口を押さえる左手に、アイリーンの胸の鼓動が伝わってくる。</p><p>深呼吸。</p><p>行くぞ</p><p>覚悟を決め、ケイは傷を広げないよう慎重に、しかし苦痛を軽減するため大胆に、ズヌッと矢を引き抜いた。</p><p>ぅうッ……！？</p><p>途端、苦痛に顔をしかめたアイリーンが、うめき声とともに身をよじる。傷口から、黒っぽい血が溢れ出してきた。静脈血。動脈は切れていない。</p><p>さて、怨むなよアイリーン……</p><p>お前のためだからな、と呟きながら、ケイはそっと、ポーションの瓶を傾けた。</p><p>とろみのある水色の液体が垂れて、―傷口に触れる。</p><p>ッ！！！！</p><p>ジュッ、と肉の焼けるような音が響き、アイリーンがかっと目を見開いた。</p><p>ぎッ―！！！！</p><p>絶叫とともに、跳ね上がるようにして暴れ出した体を、慌てて押さえつけつつポーションを垂らし続ける。ポーションが足りずに、中途半端に傷が塞がってしまうのが、一番避けるべき事態だった。</p><p>ぉぁぁ―ッッッッ！！！！</p><p>よほどの痛みなのか、小柄な少女とは思えないような馬鹿力で、アイリーンはケイの腕をはねのけようとする。そしておおよそ乙女が上げるものとは思えぬような、獣の咆哮のような絶叫。</p><p>すまんッ、アイリーンッ、落ち着けッ許せッ！</p><p>アイリーンの胸元、水色のポーションは、まるで意思を持つスライムか何かのように、怪しく蠕動しながら傷口に潜り込んでいった。アイリーンの体の中から、鍋の湯が沸騰するときのそれに似た、ゴポゴポという不気味な音が響いてくる。</p><p>やがて、暴れていたアイリーンの体の動きが細かな痙攣に変わり、見開かれた瞳はいつの間にかぐるんと裏返って、完全に白目になっていた。</p><p>げほっ、ごぼっ！</p><p>時たまアイリーンが咳き込むたびに、口から固まりかけた血液と思しき、赤黒い塊が吐き出される。そしてそれがあらかた出終わった後は、ポーションが揮発したのだろうか、口と鼻から蒸気とも湯気とも知らぬ気体がもくもくと立ち上り始めた。</p><p>……ぁっ……ぅ……</p><p>最後に、体の痙攣が収まってきたあたりで、口からぶくぶくと泡を吹き始める。ポーションと同じ、うっすらとした水色の泡。</p><p>………………</p><p>あまりにも壮絶なありさまに、呼吸をするのも忘れてドン引きしていたケイだが、すぐにハッと気を取り直し、慌ててアイリーンの脈を取る。</p><p>……良かった。生きてる……</p><p>ぴくん、ぴくんと痙攣しながら泡を吹き続けているので、よくよく考えれば生きているのは当たり前だった。しかし自分で『アイリーンの心臓が動いている』という事実を確かめて、ケイはようやく一息つく。</p><p>次に傷口を確認すると、手のひらの切り傷と同様、白い傷跡は残っているが、穴そのものは完全に塞がれているようだった。</p><p>胸に耳を当てて呼吸音も確認する。少し早目だが、規則正しい鼓動の音が聴こえるのみで、呼吸器関連の異常な音は聴こえない。</p><p>ひとまず安心、か……</p><p>とりあえず、いつまでたっても白目のままなのは、あまりにも気の毒だったので、そっと瞼を閉じてやる。</p><p>……こっちでは大怪我だけはしないように、気をつけよう</p><p>―さもなくば、これと同じ目に。ケイはぼそりと呟いた。</p><p>ぶるるっ</p><p>同感だ、と言わんばかりに、ミカヅキが小さく鼻を鳴らした。</p><p>……ん？</p><p>そこで、ふと顔を上げる。</p><p>視界の彼方。</p><p>先ほどまで真っ暗闇だった雑木林の果てに、光が見える。</p><p>ゆらゆらと揺れる、オレンジ色の光。</p><p>見ているうちに、ひとつ、ふたつと、数が増えていく。</p><p>“鬼火(ウィル・オ・ウィスプ)“か……？</p><p>下位精霊の一種を疑ったが、すぐにそうではないことに気付く。</p><p>あれは、人工の火。松明の明かりだ。</p><p>細かく移動していることから、何者かが松明を掲げて歩き回っていることは間違いないのだが、流石に遠すぎるのと暗すぎるのとで、持ち手までよく見えない。</p><p>……さっきの連中、じゃあないよな</p><p>方向が逆だ。それに、徒歩で先回りしたにしては、速過ぎる。</p><p>…………</p><p>どうするべきか。</p><p>しばし迷って、結論を出す。</p><p>行ってみよう。ミカヅキ、頼む</p><p>アイリーンを抱えた状態で、再びミカヅキに騎乗した。兜をかぶり直し、口布をつけて顔を隠しつつ、一応の武器の確認をする。短剣が無くなり、礫を二つ消費したが、それ以外は全部揃っている。問題ない。</p><p>よし、と小さく頷いてサスケの手綱を手に取り、ケイはミカヅキの横腹を軽く蹴った。常歩でゆっくりと歩いていく。ほとんど速度は出ていない上、地面も柔らかい腐植土なので、蹄の音は立たない。</p><p>歩き出してみれば、彼我の距離はそれほど離れてはいなかった。距離が縮まるごとに、その明かりの詳細が見えてくる。</p><p>……村か</p><p>それは、雑木林の中、空き地を切り開いて作られた小規模な村だった。</p><p>一軒の大きめのログハウスの前で、松明を持った数人の村人が、慌ただしく行き交っているのが見える。みな清潔な服を身にまとい、血色や肉付きも悪くない。小さな村ではあるが、それなりに良い暮らしをしているのだろうか。</p><p>向こうはまだ、こちらの存在に気付いていない。接触するにせよ隠れるにせよ、その判断はケイに委ねられていた。それぞれのメリットとデメリットをしばし考えながら、ケイは腕の中のアイリーンを見やる。</p><p>（……やはり野宿は避けたいな）</p><p>苦しげな表情。アイリーンは体力を消耗している。可能であれば、せめて彼女にだけでも、暖かい寝床を用意したいという想いがあった。</p><p>……よし、行こう</p><p>万が一に備え、サーベルだけはすぐに抜けるよう、抱えたアイリーンの位置を調整しておく。改めて気合を入れなおし、ケイはミカヅキを駆けさせた。</p><p>先ほどとは違い、柔らかい土を踏みしめる鈍い足音が響く。最初に気付いたのは、村の広場にいた犬だ。ケイたちの方を向き、激しく吠え掛かる。</p><p>……おいっ、何か来てるぞッ！</p><p>みんなッ集まれ！</p><p>篝火だ！　篝火もってこい！</p><p>遅れて足音を聴きつけたのだろう、にわかに村人たちが慌て始める。</p><p>（……英語か。少なくとも言葉は通じるな）</p><p>そう思っている間に篝火がいくつも設置され、勢いよく燃え盛る炎が村の周囲をにわかに明るく照らし出した。あり合わせの武器や農具を手に、十人ほど村人が、ケイの方を向いてそれぞれに得物を構える。</p><p>ミカヅキの手綱を軽く引き、駆け足から常歩ほどの速度に落としつつ、ゆっくりと村に接近していく。</p><p>武器を構えていた村人のうち、短槍を構えた精悍な顔つきの男が進み出て、</p><p>止まれ！　何者だ！</p><p>と、誰何を投げかけてきた。</p><p>ケイたちが DEMONDAL の世界に転移してきてから、数時間。</p><p>―第一村人、遭遇である。</p><p>ちなみに、作中でケイやアイリーンが話しているのは、基本的に英語です。</p><p>7. Tahfu</p><p>篝火にくべられた薪が、ぱちりと音を立てる。</p><p>―何者だ！</p><p>前方、十歩ほどの距離を隔てて、短槍を手にした男はケイを見据える。その顔に浮かぶは緊張の色。</p><p>ケイを射抜く猜疑の眼差し。周囲の男たちも似たような様相で、棍棒や鋤、伐採用の手斧などあり合わせの武器を手に、いつでも動けるよう中腰で構えている。</p><p>完全な臨戦態勢。全員、ケイに対する警戒心を隠そうともしていない。</p><p>（……随分と物々しいな）</p><p>たかが自分ひとりに大仰な―とは思ったが、自分が姿を現す前から起き出して騒いでいたことを鑑みるに、他に何か警戒すべきことがあったのかもしれない。その辺も把握しておきたい、などと考えつつ、ケイは口を開いた。</p><p>夜分に失礼する。俺は旅人だ。決して怪しい者ではない</p><p>とりあえず、敵対者ではないことを第一に、宣言する。</p><p>『怪しい者ではない』……？</p><p>大真面目なケイの発言に、男たちがざわめいた。</p><p>新月の暗い夜。滅多に人の出歩かない時間帯。</p><p>闇から松明も持たずに、馬に乗って現れた男。</p><p>全身を覆う革鎧。腰に剣、手には弓の重装備。</p><p>布で口元を隠しているため顔立ちは分からず。</p><p>挙句、その左腕には年頃の少女を抱いている。</p><p>額に汗を滲ませ、病人のように顔色の悪い娘。</p><p>着ているのは、見たこともない異国の黒装束。</p><p>しかもまるで、誰(・)か(・)に乱暴されたかのように。</p><p>襟元が切り裂かれ、白い胸元が露出していた。</p><p>…………</p><p>―はっきり言って、怪しすぎる風体であった。</p><p>……だから、何者だ</p><p>ややトーンの下がった声で、男たちの中心、短槍を握り直した若者が問う。</p><p>……端的に言うと、つい先ほど賊に襲われて、逃げてきた</p><p>困ったように肩をすくめつつ、ケイはかいつまんで現状を説明する。</p><p>霧に呑まれ、気付いたら見知らぬ場所におり、日が沈んでしまったので野営していたところを盗賊と思しき一団に襲撃され、雑木林に逃げ込んだ。そして暗闇の中で松明の光を見つけたので近づいてきた―といった具合に。</p><p>嘘は一切ついていない。ただ、ケイたちが DEMONDAL という『ゲーム』のプレイヤーであった、という事実をぼかし、あくまで普通の旅人であったかのような言い方をする。</p><p>……つまり、あんたの目的は、何だ？</p><p>ケイの話を聞いて、その精悍な顔に警戒と困惑の入り混ざった表情を浮かべた村人は、僅かに短槍の穂先を下げて問いかける。</p><p>ああ……見ての通り、連れの体調が悪い。彼女のために身体を休める場所があれば、と考えていた折、ちょうど松明の明かりが見えたものだからな。そちらこそ、こんな時間になんで急に起き出して騒いでたんだ？</p><p>今度は逆に、ケイが疑問を投げかける。</p><p>……それには、おれが答えよう</p><p>のんびりとした、低い男の声。</p><p>ケイの右手側。弓を手にした一人の男が、ちょうど死角になっていた小さな家の陰から、のっそりと姿を現した。</p><p>随分と濃い顔立ちをした男だ。顔の下半分を覆う、とび色のあごひげが渋い。実直で真面目そうな顔つきに、がっしりとした体格。茶色のぴったりとした服で身を包み、羽根飾りのついた革の帽子をかぶっていた。</p><p>マンデルという。……この村の狩人だ</p><p>濃い顔立ちの男―マンデルは、そう言って軽く帽子を持ち上げる。</p><p>ケイだ。よろしく</p><p>そういえば名乗るのを忘れていた、と思いながら目礼したケイは、弓使いの性か、自然とマンデルの持つ弓に視線が吸い寄せられた。</p><p>シンプルな作りのショートボウ。艶やかな仕上げの木製で、持ち手の部分には黒ずんだ布が幾重にも巻かれている。村人たちも何人かは弓を持っているが、他と比べてマンデルのそれは、もっと使い込まれている印象を受ける。おそらく、その弓を日常的に狩りの道具として用いているのだろう。</p><p>そして次に目を止めたのは、マンデルの帽子。正確に言えば、その帽子についている羽根飾りだった。マンデルはマンデルで、ケイが装備する革兜、それについた羽根飾りにじっと視線を注いでいる。</p><p>…………</p><p>一瞬、二人の目線が交差した。</p><p>ふっと、どちらともなく笑みを浮かべる。無言のシンパシー。困惑の表情を浮かべる周囲の男たち。</p><p>……それで、おれたちが騒いでいた理由だが</p><p>何事もなかったかのように真顔に戻り、マンデルは話を続ける。</p><p>つい先ほど、突然、凄まじい獣の咆哮が聞こえてな。みな、それに叩き起こされたのさ。……凶暴なモンスターかもしれない</p><p>モンスター？</p><p>ああ。この季節になると、たまに森や山の方から、人里に下りてくることがある。寝込みを襲われては、たまらんからな。……今夜は、交代で番をすることになるだろう</p><p>それで男衆が出張っているわけだ、とマンデルは周囲の村人たちを示して見せた。</p><p>ケイ、あんたは、向こうから来たんだろう？　……何か、いなかったか？</p><p>うーむ……特に、そういった野獣の類は見かけなかったが</p><p>思い返すも、心当たりはなかった。強いていうならば、襲撃者たちがけしかけてきた狩猟狼(ハウンドウルフ)くらいのものだが、雑木林にまでは辿り着いていない。</p><p>こんな暗闇じゃ、例えモンスターがいても見えないだろう</p><p>間延びした空気で会話するケイとマンデルに、苛立ちの混じった声で、短槍使いの男が口を挟む。</p><p>ミカヅキ―馬たちも警戒していなかったから、少なくとも周辺には何もいないはずだ。一応、俺もこいつも、夜目は利く方でな</p><p>ぽんぽんと、ミカヅキの首筋を叩いた。</p><p>篝火の向こうの暗闇と、自信満々のケイとを見比べて、村人たちが胡散臭そうな顔をする。マンデルはただ、生真面目な顔で そうか と頷いていた。</p><p>―お話中のところ、失礼する</p><p>ざっざっと砂利を蹴る足音。村の中央から、人の気配がこちらへ向かってくる。</p><p>暗がりから姿を現したのは、腰の曲がった白髪の老人と、小太りの中年の男だった。</p><p>ようこそ、旅の御方。“タアフ”の村のまとめ役をやっておる、ベネットだ</p><p>その息子、ダニーという</p><p>白髪の老人・ベネットは顔に小さく笑みを浮かべ、その息子らしい小太りの男・ダニーは尊大な態度で、それぞれ名乗った。</p><p>（なるほど。村長と次期村長のお出ましか）</p><p>あまり不躾にならないように気をつけながら、二人を観察する。</p><p>村長のベネットは、好々爺然とした老人だ。一見すると人が良さそうに見えるが、ハの字に垂れた眉の下、両の瞳がさり気なくケイの全身を観察している。直感的に、『タヌキ親父』という言葉が思い浮かんだ。</p><p>対して、その息子のダニーには、特に思うところがない。小太りな、だらしない体形も相まって、良くも悪くも『ただの偉そうな男』というイメージだ。ある意味お互い様とはいえ、ベネットとは対照的に、臆面もなくじろじろと不躾な視線を向けてきている。特にその視線は、腕の中のアイリーンに集中しているように思われた。</p><p>（それにしても”タアフ”の村、か……）</p><p>ゲーム内では聞いたことのない名前だ。やはりゲームそのものではないか、と思いを巡らせつつも、ケイは口を開く。</p><p>馬上より失礼。俺はケイイチ＝ノガワ。ケイイチが名(ネーム)、ノガワが姓(サーーネーム)だ。騒がせてしまったようで申し訳ない</p><p>顔布を外したケイは、毅然とした態度で名を名乗った。ケイの言葉に、村人たちが小さくざわつく。ベネットは張り付けたような笑顔のまま表情を変えなかったが、ダニーはぴくんと眉を跳ね上げて心なしか顔を強張らせた。</p><p>……ノガワ殿。我らが村に、如何様な目的でいらしたので？</p><p>丁寧な語調で問いかけるベネットは、愛想笑いを崩さない。</p><p>『ケイ』で結構だ。先ほども話したが、連れの体調が優れない</p><p>腕の中の少女に視線を落とす。額に汗を滲ませて、 うぅん…… とうなされているアイリーン。</p><p>こんな状態では、野宿を強いるのも忍びなくてな。できれば彼女だけでも、ゆっくりと休ませてやりたいのだが……</p><p>どうだろう？　と目で問いかける。</p><p>勿論、相応の礼はしよう</p><p>なるほど、なるほど</p><p>ベネットがゆっくりと相槌を打った。</p><p>たしかに、お連れの方はご気分の優れぬ様子。しかしなにぶん、ここは小さな村でしてのう……。お役に立てるものがあるかどうか。村の者たちに聞いて参りますがゆえ、少々お時間をいただければ</p><p>構わない、助かる</p><p>いえいえ、なんのなんの。それでは……ダニー、クローネン、手伝え</p><p>すぐに戻って参りますので、と会釈しながら、ベネットが背を向けて歩き出す。その後ろにダニーと、短槍を構えていた精悍な顔つきの男―クローネンというらしい―が続いた。</p><p>彼らを馬上から見送りながら、ケイはふと、どことなく似通った雰囲気のクローネンとベネットの後ろ姿に目を止め、</p><p>……マンデル</p><p>ん？　……なんだ</p><p>あのクローネンと呼ばれていた、短槍使いの男も、村長の血縁なのか</p><p>ああ、あいつも息子さ。……長男のダニー、次男のクローネンだ</p><p>そうか。ありがとう</p><p>納得しながら、少し年が離れている兄弟だな、と考えていたケイは、周囲の村の男たちが渋い顔をしているのには、気付かなかった。</p><p>†††</p><p>ケイからは見えぬ暗がりまで歩いたところで、ベネットは さて、 と話を切り出す。</p><p>クローネン。たしかお前の家には、空いてる寝台があったな？</p><p>親父！　まさかあいつを村に入れるつもりなのか？</p><p>そのつもりじゃが</p><p>声を荒げるクローネンに、 いかんのか？ と首を傾げるベネット。</p><p>親父たちも話を聞いてただろう！　もしもあいつ自身が、盗賊の一味だったらどうするんだ！</p><p>クローネンが最も心配しているのは、その点についてだった。</p><p>盗賊に襲われて、命からがら逃げおおせた被害者―を装った団員を、あらかじめ標的の村に潜り込ませ、内部から破壊工作を行い、その混乱に乗じて襲撃する。</p><p>一部の盗賊団がこの手口で荒稼ぎしているという噂を、クローネンは村に訪れた行商人たちからたびたび聞いていたのだ。</p><p>はぁ……何を騒いでいるのかと思えば、そんなことか。まったく、お前でも思いつくようなことを、俺や親父が考えなかったとでも思っているのか？</p><p>それに対し、ダニーが肩をすくめて、これ見よがしに溜息をついて見せる。これだから出来の悪い弟は、とでも言わんばかりの雰囲気だ。</p><p>お前の考えはもっともじゃが、クローネン。わしゃその可能性は低いと思っとる</p><p>怒るでもなく馬鹿にするでもなく、ベネットは淡々と、</p><p>最近、そういった手合いの輩がおることは、わしも知っておるよ。しかし、潜入させるにしては、あのケイとかいう若者は怪しすぎるんじゃ。草原の民の格好をしとる癖に、名乗りで家名(サーネーム)ときた。怪しいなんてもんじゃないわい。それに、たかが囮役に、あれだけの装備を持たせる余裕があるなら―最初から盗賊なんぞやらんでも、充分食っていけるじゃろ</p><p>親父の言うとおりだ。俺が盗賊なら、もう少し貧相でま(・)と(・)も(・)な(・)奴を送り込む</p><p>顎を撫でながら、ダニーが言葉を引き継いだ。</p><p>お前は見る目が無いから分からんだろうがな、クローネン。あのケイという男の装備、全身どれも一級品だぞ</p><p>……そうなのか？</p><p>兄に指摘されて初めて、クローネンは自分が『ケイ』という男の持ち物に、全く気を回していなかったことに気が付いた。</p><p>村長であるベネットは勿論のこと、その跡を継ぐダニーも、村の代表者として様々な品に触れているため、自然と物を見る目が鍛えられている。その鑑定眼が、初対面の相手を見極める際の観察眼としても、一役買っているのだ。</p><p>ベネットは目を細めて、ケイが身に着けていた装備品に思いを巡らせる。</p><p>あの革鎧、恐ろしいほどに丁寧な仕立てじゃった。それに、見たこともないような素晴らしい装飾―胴体だけでも、銀貨１０枚は下らんじゃろうて</p><p>銀貨１０枚！？</p><p>その見立てに、素っ頓狂な声を上げたのはクローネンだ。銀貨１０枚といえば、平均的な農民一人、その一年分の食費に匹敵する。</p><p>革鎧って、高くてもせいぜい銀貨１枚とか、そのくらいのものじゃないのか？</p><p>バカ、それはなめし皮を重ねて縫い合わせただけの、安物の値段だ。あの男の鎧は硬化処理がしてある奴で、作る手間も防御力も、安物とは比べ物にならん。まず、ものとしての格が違うんだ。それにあの細かいレリーフ。前、街に買い出しに行ったとき、武具も服飾も色々と見て回ったが、あんなに洒落た装飾は見かけなかった。芸術品としても十分に価値がある</p><p>よほど腕のいい職人が仕立てたんじゃろうな。金を積んだからといって、すぐに買えるような代物でもなさそうじゃ。……それにダニー、気付いたか。あの馬</p><p>おお、見事な馬だったな！</p><p>ぱしん、と手を叩いて、ダニーはケイたちの馬を評する。</p><p>艶の良い毛並みに、賢そうな顔つき、それに並みの馬では比較にならん体格！　名馬というのは見たことがないが、ああいうのを言うんだろうな。しかもそれが二頭！</p><p>言われてみれば、とクローネンも思い返す。あのケイという男が乗っていた馬は、たしかにかなり上等な部類に入るのではなかろうか。</p><p>村でも一頭、荷馬車のための馬を飼っているが、それと比較するのもおこがましいほどに、あの褐色の馬たちは全身に力が満ち満ちていた。</p><p>そう、馬自体も大したものじゃが……あの馬たちが着けておった額当てよ。二頭とも、タリスマンが埋め込んであったわい</p><p>タリスマン？</p><p>ダニーとクローネンが異口同音に聞き返す。</p><p>わしも、本物には二度しかお目にかかったことはないがの。魔除けの護符じゃ。縁起物ではない、魔力が込められた本物よ。幻術や、魔性の者どもの力を弱め、持ち主を守るという。わしですら込められた魔力が感じ取れるんじゃ、よほど強力な代物なんじゃろう</p><p>ほっほっほ、と声を上げて笑うベネット。</p><p>一般に、特別な才能がある場合や、魔術師のように過酷な修業を積んだ場合を除いて、人間の魔力は歳をとるごとにゆるやかに増大し、五十代を過ぎたあたりから劇的に伸び始める。</p><p>それに伴って魔力に対する知覚も研ぎ澄まされていき、歳をとればとるほど、人はそういった『魔』のものを鋭敏に察知できるようになるのだ。臨終の間際ともなれば、その知覚は精霊たちの御許にまで近づくという。</p><p>ゆえに、タアフ村でも指折りの高齢者であるベネットは、タリスマンに込められた魔力を、僅かに感じ取れたのだ。</p><p>タリスマン、か</p><p>クローネンは顎に手を当てて、ふーむと息をついた。</p><p>―凄いのは分かるのだが、いまいち実感が湧かない。</p><p>それが、クローネンの正直な感想だった。</p><p>今まで二十余年の歳月を生きてきたクローネンだが、『魔力が込められた品』などという代物には、ついぞやお目にかかったことがない。もちろん、そういったものが貴重であることは理解しているし、魔道具をこしらえるためには大金が必要であることも、行商人たちから聞いた話で知っていた。</p><p>しかし、あまりにも自分と関わり合いのない話なので、その凄さに実感が伴わない。</p><p>……あの男、本当に何者なんだ</p><p>一方でその兄、ダニーは事態を深刻に受け止めたようであった。</p><p>親父。ひょっとするとあの男、本当に貴人なのかも知れんな</p><p>そうじゃのぅ</p><p>飄々とした態度のまま、ベネットがあごひげを撫でる。</p><p>鎧もそうじゃが、タリスマンこそ、金を積めばすぐ手に入るという代物ではないしの</p><p>そんなもんを馬にまで持たすのは……</p><p>やはり、相応の地位におらんと無理じゃ</p><p>馬には持たせたが自分の分はない、ってこともないだろうしな</p><p>じゃのう。連れの女子(おなご)にも持たせておると考えて、タリスマンが４つ。……あの男が身につけとる物だけで、この村の全員が一年間遊んで暮らせるわい</p><p>そうだ！　連れといえば、あの女も只者じゃないな！</p><p>ぬふーっ、と鼻息を荒くしたダニーの相好が、だらしなく崩れる。</p><p>あのきめの細かい、染みひとつない真っ白な肌！　それに長く伸ばされた、艶やかで美しい金髪！　平民じゃありえない、あれは絶対に貴族の係累だ！</p><p>にわかに興奮状態に陥る小太りの男の姿に、クローネンは露骨に、ベネットは表情を変えずに、それぞれ小さくため息をつく。</p><p>（村一番の美人を娶った癖に……女好きも困ったもんだ）</p><p>歳の離れた兄を見るクローネンの目は、冷たい。ダニーが街に買付けへ行くたびに、娼館の香水の残り香を漂わせて帰ってくることは、村の公然の秘密だった。村の金を横領しているわけではなく、生産品を相場よりも高く売り付け、それで出た利益を使っているのだから、誰も文句は言えないのだが。</p><p>なあ親父、草原の民にも貴族っているのか？</p><p>脱力感に襲われる体を、槍にもたれかかるようにして支えながら、クローネンはベネットに問いかけた。</p><p>おらん。基本的に、連中は氏族ごとに固まっておるからの。それぞれの氏族の族長と、それらを束ねる長老がおるだけじゃ</p><p>それじゃあ、あのケイって奴は……</p><p>顔には氏族の紋様の刺青も入れとらんし、名乗り方も妙じゃった。草原の民ということはまずなかろう。……なんでわざわざ、草原の民のような格好をしておるのかは、わしも知らん。あの者、いったい何処から来たんじゃ？</p><p>本人も分からないらしい。旅の途中で霧に呑まれて、気が付いたら『岩山』の近くにいた、って話だ。何か神秘的な現象に巻き込まれたのかもしれない、と言っていたが</p><p>そう言うクローネンに、ベネットは胡乱な目を向ける。そして、自分の息子が、怪しい旅人の言葉をほぼそのまま受け取っていることに気付き、半ば愕然とした、それでいて半ば諦めたような顔をした。</p><p>……まあええわい。向こうは向こうで、聞かれたくない事情でもあるんじゃろう。さて、そういうわけで、これからのことじゃが。これ、ダニー！　話を聞かんか！</p><p>ひとりニタニタとした笑みを浮かべて、心ここにあらずといった様子のダニーを、現実に呼び戻す。</p><p>おお、すまん親父。ついボーッとしていた</p><p>……はぁ。最初の質問に戻るが、クローネン。お前の家には予備の寝台があったな？</p><p>ああ。一応、いつでも使えるようにはしてあるはずだ</p><p>クローネンは小さく頷いた。ほとんど物置のようにしている小さな部屋だが、綺麗好きの妻が日頃から掃除はしている。</p><p>よし。ならばお前の家に、あの連れの女子を預ける</p><p>なんだって！　親父、うちにも客人用の寝室があるだろう！　なんなら、シンシアを叩き起こしてもいい、そうすれば寝台がさらに一つ空く！</p><p>再び鼻息を荒くしたダニーが、ベネットの言葉に噛みついた。</p><p>明日の朝が辛くなる。愛しの妻(シンシア)は寝かせておいてやれ</p><p>対するベネットの返しは素っ気ない。</p><p>それでクローネン、お前にはひとつ頼みたいことがある。あの女子を預けるから、その見張りをして貰いたいんじゃ</p><p>……見張り？</p><p>看病、ではなく、見張り。その言葉の違和感に、クローネンは眉をひそめた。</p><p>そう、見張りじゃ。十中八九ないとは思うが……あの者たちが、盗賊の一味であった場合のためじゃ</p><p>真剣な表情のベネットに、自然とダニーとクローネンの顔も引き締まる。</p><p>あんな小娘でも、人目を盗んで抜け出せば、村に火を掛けて回るぐらいのことはできるからの。クローネン、お前なら力も強いし、腕も立つ。仮にあの娘が盗賊だったとしても、お前が付いておけば押さえこめるじゃろう</p><p>もちろんだ、あんな小娘には負けようがない</p><p>自信満々な笑みを浮かべて、クローネンは頷いた。</p><p>うむ。もっとも、あの様子で本当はそんな元気があるのなら、病人の役者としては一級じゃが……</p><p>ケイの腕に抱かれていた、体調の悪そうな少女の顔を思い浮かべて、ベネットは小さく呟いた。</p><p>まあ、ええわい。それであの、ケイとかいう男は、いつもの来客と同じように、うちへ招く。そして念のため、護衛としてマンデルを呼ぶんじゃ</p><p>……マンデルを、うちへ？</p><p>ダニーが露骨に嫌そうな顔をする。</p><p>仕方なかろう。マンデル以上に、この村で腕が立つ者もおるまい？　腕力然り、弓の扱い然り</p><p>まあ……そうだが</p><p>渋々、といった風に認めるダニーだが、それでも不満らしく、表情はぶすっとしたままだった。しかし、そんな子供じみた抗議には見向きもせずに、厳しい表情のベネットはただ、決定事項を告げる。</p><p>うむ、それではそういうことじゃ。お前たち、くれぐれも立ち入った話を聞くでないぞ。あんなな(・)り(・)をしているということは、それ相応の理由があるということじゃ。そして、そんな理由なんぞには、関わらん方が良いに決まっておる。なるたけ丁寧に迎え入れ、付かず離れず世話をし、貰えるものを貰って、可能な限り早く去って頂く。そのことをゆめゆめ忘れるな</p><p>おう</p><p>わかった</p><p>何はともあれ了解の意を示す息子たちに、うむ、と重々しく頷いた。</p><p>―さて、</p><p>くるりと振り返り、曲がってしまった腰をぽんぽんと叩きながら、ベネットは顔に笑みを張り付ける。</p><p>いつまでも客人を待たせるわけにもいかん。お出迎えと行こうかの</p><p>好々爺然とした愛想の良いひとりの老人は、招かれざる客の待つ方へ、ゆっくりと歩き出した。</p><p>8. 死神</p><p>ケイが案内されたのは、村の中で一番大きな家だった。</p><p>申し訳ありませんな、こんな田舎の村では、大したおもてなしも出来ませんで</p><p>いやいや、とんでもない。こんな真夜中に突然、こちらとしても申し訳ない限りだ</p><p>ランプの明かりが照らす居間。ベネットにテーブルの席を勧められながら、ケイは何食わぬ風を装っていたが、実は内心かなり恐縮していた。</p><p>（お忍びの身分の高い人間、とでも解釈してくれているみたいだが……）</p><p>明らかに、ただの旅人をもてなす態度ではない。それ自体は狙い通りだったのだが、相手も謝礼を期待しているとはいえ、夜中にここまでの歓待を受けるのはどうにも居心地が悪かった。</p><p>ミカヅキとサスケは家の前の杭につないであり、相変わらず意識の戻らないアイリーンは、別宅に寝台の空きがあるということで、そこで厄介になっている。</p><p>最初は、病人のように顔色の優れないアイリーンを心配して、ケイも傍にずっと付いていようとした。しかしクローネンが 自分が世話役をする と強く主張したこともあって、思い切って彼を信用し村長らの歓待を受けることにしたのだ。</p><p>（敵意は感じられなかったしな）</p><p>責任を持って世話をする、と言ったクローネンの生真面目な顔を思い出す。ゲーム内では殺気の感知に長けていたケイだが、生来より人の悪意にもかなり敏感な性質(たち)だ。クローネンは、ケイに対してはまだ警戒心を解いていなかったが、少なくとも体調の悪いアイリーンには同情的であった。悪いようにはすまい、というのがケイの判断だ。</p><p>また、彼が独り身の男であれば別の心配もあっただろうが、既婚者で幼い娘もいるらしいので、その点もあまり心配はしていない。それでも万が一、『何か』があればケイは大暴れするつもりだが―それも態度で示しているので、向こうも心得ているだろう。</p><p>ささ、どうぞどうぞ。我が村の豚を使った燻製肉になります</p><p>媚びるような笑みを顔に張り付けた長男坊、ダニーが、肉の塊を載せた皿や木製のゴブレット、干し果物やビスケットなどを、これでもかとテーブルに並べ始める。最初の尊大な態度とは随分な変わりように、ケイは思わず笑いそうになった。ベネットが これはなかなかに美味ですぞ といいながら、ナイフで手ずからに肉を切り分けていく。</p><p>そしてこちらは、近隣の村の葡萄を使った酒になります。去年は十年に一度の当たり年でしてな。近年にない良い出来といえましょう。さあ、どうぞ</p><p>……ありがたい</p><p>その間に、ダニーが葡萄酒を注いだゴブレットを勧めてくる。</p><p>流石はタヌキ親父とその息子、といったところか。押しつけがましくなく、それでいて妙な間を作らない、実に見事な連携だった。接待慣れしている、という印象。こんな夜分に突然やってきた者を相手に、ここまで手際良く対応できる辺り、年季というものを感じさせられる。</p><p>（……しかし、これは、飲んでも平気なものだろうか）</p><p>流されるまま思わず手に取ったゴブレットの中、とぷんと揺れる赤色の液体を眺めて、ケイはひとり逡巡した。本物のアルコールを口にするのは、幼い頃に飲んだ甘酒以来だ。加えて現状だと、不用意に飲み食いすると一服盛られやしないか心配してしまう。</p><p>（こ(・)の(・)体(・)なら大丈夫だとは思うが……）</p><p>アルコールは、問題ないはずだ。また、薬を盛られたとしても、『身体強化』の紋章を刻んだこの身なら、よほど強力な毒でない限り耐性がある。</p><p>あるには、あるのだが。</p><p>ケイが香りを楽しむふりをして時間を稼いでいると、何かを察した風のダニーが、自分のゴブレットにも葡萄酒を注ぎ、 それではお先に と口をつけた。</p><p>（……大丈夫っぽいな）</p><p>自分用のゴブレットにだけあらかじめ毒を―という可能性もあったが、ダニーから緊張や悪意を読み取れなかったので、ケイも踏ん切りをつけた。</p><p>そっとゴブレットを傾ける。少しだけ、口に含む。酒精の香りと、滑らかな葡萄の風味が、ふわっと鼻から抜けるようにして広がった。</p><p>…………</p><p>いかがですかな？</p><p>こちらを覗き込むように、ダニーとベネットが首を傾げる。体格こそ似ていない二人であるが、その笑顔を見ると、なるほど親子だと思わされた。</p><p>……口当たりがとてもよく、飲みやすい葡萄酒だ</p><p>そうですか、それはよかった</p><p>ケイの返答に、ほっとしたように―おそらくこれも演技だろうが―顔を見合わせる村長親子。</p><p>（危ねえ、むせそうになった）</p><p>この葡萄酒、度数はかなり低めだったが、やはり慣れない『酒』であることには変わらず、肺の空気が逆流しそうになった。口の中で転がすうちに何とか慣れてきたので、少しずつなら問題なく飲めるが、ジュースのようにとはいかない。</p><p>肉と合わせると、また味わいが違いますぞ</p><p>と、肉を程よいサイズにカットしたベネットが、皿をずいと目の前に寄せてくる。</p><p>『こちら』に来てから、まだ水とポーションと葡萄酒しか口にしていない。空腹を自覚し始めていたケイは、嬉々として皿の肉をつまんだ。</p><p>おお、これは……</p><p>凝縮された肉の旨みと、程よい脂が舌の上で踊る。燻製肉独特の濃い木々の香り、塩味そのものはかなりキツめだったが、そこに少しずつ、葡萄酒を流し込むと―ベネットの言葉に嘘偽りはなかった。</p><p>口に残った脂を、濃い目の味を、アルコールで洗い流すことの心地よさ！　ＶＲ技術では再現しきれない、本物の味覚。久しく味わうことの出来なかった食物に、ケイは感動しながら舌鼓を打った。</p><p>……なあ、村長</p><p>そんなケイの隣、のんびりとした、低い男の声が響いた。</p><p>一つ聞きたいんだが。……なんで、おれまで呼ばれてるんだ？</p><p>濃い顔立ちの男―マンデルは、眠そうに目を擦りながら、村長に尋ねる。</p><p>―</p><p>一瞬の空白。笑顔のベネットから、首筋をちりちりと焼くような、微弱な『殺気』がもれ出るのをケイは感知した。</p><p>……なに、聞くところによれば、ケイ殿は盗賊に襲われたとのこと。それも、ここからそう離れておらん場所でじゃ。村で一番腕が立つお前に、わしらと一緒に話を聞いておいて欲しかったんじゃよ、念のためにの</p><p>……なるほど</p><p>その返答に納得したのか、マンデルはぼんやりと眠たげな表情のまま、ケイの前の肉をちらりと見やる。</p><p>小腹が空いたな。おれもつまんでいいか？　……ケイ殿</p><p>ああ、もちろん。あと『ケイ』でいいぞ</p><p>……ありがたい</p><p>もぐもぐと二人で燻製肉を堪能する。一人だけで食べるのは気まずかったので、ケイとしては歓迎だ。マンデルも気にする風はない。</p><p>うむ。……これは酒が欲しくなるな</p><p>そして肉を飲み込んでの第一声がこれだ。ちなみにマンデルには水しか供されていない。頭痛を堪えるように額を押さえるダニー、その横でベネットは相変わらず笑顔のままだったが、口の端が引きつっていた。</p><p>その……そういうわけで、賊についてお話を伺えませんかの？　ケイ殿</p><p>マンデルを華麗にスルーし、ベネット。</p><p>もちろん。と言っても、俺もすぐに逃げ出したから、そんなに詳しくは話せないが</p><p>葡萄酒をちびちびとやりながらも、かいつまんで襲撃された際の状況を説明する。場所、賊の数、その装備や練度。</p><p>……“狩猟狼(ハウンドウルフ)“ですと？</p><p>神妙な面持ちで話を聞いていた一同だったが、ケイが調教(テイム)された狼に追われたくだりを話したところで、その顔色が変わった。</p><p>……ああ。二頭は殺した。一頭は運良く鼻を潰せたから、この村まで追ってくることはないと思う</p><p>臭いを辿ってこられることを恐れているのだろう、と解釈したケイは、そう言ってベネットたちの懸念を払拭しようとするが、村長親子の顔色は冴えない。マンデルも肉を食べる手を止めて、難しい顔をしていた。</p><p>（何だこの地雷を踏んでしまった感）</p><p>一瞬で重苦しいものに変わった、場の空気に困惑する。</p><p>ハウンドウルフが、どうかしたのか</p><p>い、いえ……あの獣は調教が難しく、それを使役する盗賊団となりますと、その、限られてきますから……のう？</p><p>ベネットとダニーと顔を見合わせて、ぎこちない笑みを浮かべた。 わかるでしょ？ と言わんばかりの態度。</p><p>（そう言われてもな）</p><p>分からん、知らん。</p><p>この世界に来てから僅か数時間。こちらの盗賊事情など知るはずもない。</p><p>……『イグナーツ盗賊団』</p><p>腕を組んだマンデルが、ぼそりと低い声で呟く。</p><p>…………</p><p>まさか、ご存じないので？</p><p>知ったかぶりをするか、素直に尋ねるか、逡巡している間にベネットに見破られる。</p><p>恥ずかしながら、聞いたことがない</p><p>なんと</p><p>それは</p><p>呆気に取られたように、互いに顔を見合わせる村長親子。</p><p>イグナーツ盗賊団は、“リレイル”地方一帯を中心に活動する、大盗賊団さ。近頃は、昔に比べると大人しくなった、という話だが……それでも規模が大きすぎて、未だにどこの領主も、迂闊に手が出せないらしい。……ここらじゃ、知らない奴はいないよ</p><p>マンデルが真顔で、静かに解説する。言外に、 お前は何処から来たんだ と聞かれている気がしないでもないが、その茫洋とした表情からは真意が読み取れない。ただ外野のベネットとダニーが、顔をひきつらせてマンデルに微弱ながらも殺気を放っているのが印象的だった。</p><p>しかし村長親子の態度よりも、ケイには気になることがある。</p><p>ここは、リレイル地方なのか？</p><p>ケイの問いかけに、マンデルは妙な顔をしつつも、ああ、と頷いて肯定した。</p><p>リレイル地方。</p><p>ゲーム内においては、マップの南西部のエリア一帯がまとめて、そう呼ばれていた。</p><p>平原や草原、丘陵や森林などの緑豊かな地形がその大半を占めており、要塞村”ウルヴァーン”、港町”キテネ”など重要な活動拠点が存在する、ケイのホームとでもいうべき地方だ。</p><p>……村長。妙なことを聞いて申し訳ないんだが</p><p>はぁ。なんでございましょう</p><p>まだ妙なことがあるのか？　とその顔には書いてあった。</p><p>この村の近くにある、大きな町の名前を教えてくれないか</p><p>町、ですか</p><p>ベネットがふぅむ、と息をつきながら腕を組む。</p><p>まあ、一番近いのは東にある”サティナ”の町でしょう</p><p>指をぴんと立てて見せて、代わりに答えるダニー。</p><p>サティナ、か……</p><p>やはり、聞いたことがない。ケイの顔が少しばかり曇る。</p><p>それと、北に行けばウルヴァーンがありますな</p><p>ウルヴァーンッ！？</p><p>が、それに続いたベネットの言葉に、にわかにテンションが上がる。突然大声を出したケイに、他の三人がぎょっと身を引いた。</p><p>いや、失礼、取り乱した。ウルヴァーンといえば、要塞―</p><p>村の、と言おうとして、違和感に言葉を止める。</p><p>（……。俺は『大きな町(・)を教えてくれ』、と言ったはずだが）</p><p>ゲーム内でのウルヴァーンは、確かに大掛かりな工事を経て作られたプレイヤーメイドの村ではあったが、完成したそれそのものは規模としては小さなものだった。</p><p>そうです</p><p>こくりと頷いたのは、ダニー。</p><p>―要(・)塞(・)都(・)市(・)ウルヴァーンですよ</p><p>咀嚼し、理解するのに、数秒を要した。</p><p>……要塞都(・)市(・)？</p><p>ええ、要塞都市</p><p>……要塞村(・)でなく？</p><p>ベネットとダニーが、そろってブッと噴き出した。</p><p>ハハハ……なんともはや。ウルヴァーンが『村』なら、我らがタアフはさしずめ、犬小屋か何かですかな</p><p>いや、本当に。規模も人口も、比べるのもおこがましいという奴ですよ</p><p>ないない、と手を振りながら小さく笑う村長親子。</p><p>どうやらゲーム内とは違い、ウルヴァーンはその規模を変えて、『都市』として存在しているらしい。葡萄酒のゴブレットを揺らしながら、ケイは考える。ウルヴァーンが存在するということは、つまり―</p><p>となると、西にずっと行けば港町キテネがあるわけかな</p><p>そうです。“港湾都市キテネ”―ケイ殿は、キテネはご存じで？　私は数度しか訪れたことがありませんが、あそこは良い街でした。特に歓楽街</p><p>ぐへへ、とダニーの顔がだらしなく崩れる。気色の悪い笑みを浮かべる小太りの男から、つっと目を逸らしてケイは、</p><p>村長。差し支えなければ、この周辺の地図など見せてくれまいか</p><p>地図……ですか。少々お待ち下され</p><p>よっこいせ、と立ち上がったベネットが、テーブルの上の燭台を手に取って奥の部屋へと消えていく。</p><p>……あいにくと、大まかなものしかございませんが</p><p>構わない。ありがとう</p><p>戻ってきたベネットから羊皮紙を受け取り、テーブルの上に広げる。</p><p>……なるほど</p><p>たしかに、大(・)ま(・)か(・)な(・)地図だった。</p><p>随分と昔に描き出されたものなのだろう。古びた羊皮紙の上、タアフの村を中心に周辺の大雑把な地形、そして家や城などのマークがぽつりぽつりと描かれている。</p><p>東のこれが、サティナの街か。北の城がウルヴァーン、西の港がキテネ……。この家のマークは、周辺の村か？</p><p>そうなりますな。ミリア村、マザフ村、ラネザ村……</p><p>……距離はどうなっている？　ある程度、正しいのだろうか</p><p>正しさとしては概ね……といったところですかな。例えば、東の街サティナには、歩いても半日もかかりませんがの。倍の距離があるキテネまでは、１日はかかりましょう</p><p>ふむ……なるほど、ありがとう</p><p>改めて地図に視線を落とす。</p><p>タアフ‐サティナ間が半日として、それぞれの街との距離を考えると、キテネまでは徒歩で１日、北に少し離れたウルヴァーンまでは３日といったところか。</p><p>もちろん、その途中には森や山谷などの障害となる地形が広がっているため、実際に行こうとするともう少し時間がかかるだろうが。</p><p>要塞都市ウルヴァーンと港湾都市キテネの、地図上での距離を測る。</p><p>ウルヴァーン‐キテネ間は、歩くと大体３、４日か</p><p>地図に従えば、そうなりますな</p><p>行商人の護衛に話を聞いたことがありますが、ウルヴァーンからキテネまでは、馬で早駆けすれば半日ほどの距離だそうですよ</p><p>妄想の世界から帰ってきたダニーが、横から口を挟んだ。ウルヴァーン‐キテネ間の馬での所要時間は、ケイが一番知りたかった情報でもあった。</p><p>なるほど、ありがとう</p><p>顎を撫でながら、考え込む。</p><p>（ゲームに比べて、色々とスケールが大きくなってるな……）</p><p>要塞村が要塞都市に。港町が港湾都市に。そして、ゲームでは馬で３０分ほどだった道程が、半日がかりに。</p><p>３０分の道のりが１２時間の道のりに変わったからといって、単純にマップの広さが２４倍になった、とはいえないのが馬という移動手段の面白いところだ。</p><p>自動車とは違い、馬はトップスピードのまま走り続けることはできない。３０分間だけ走るのと、半日を通して走るのとでは、その移動可能距離に大きな差が出てくる。</p><p>ゲーム内では、バウザーホースの性能に物を言わせ、ミカヅキたちは通常の馬の駈足(ギャロップ)に匹敵する速度で、３０分間ノンストップで駆け続けることが出来た。標準的な馬の駈足は、時速３０ｋｍ。つまり、ゲームにおけるウルヴァーン‐キテネ間の実質的な距離は、おおよそ１５ｋｍ弱となる。</p><p>しかし半日を通して走り続けるとなると、どんな馬でも、バウザーホースですらも、ずっと駈足を維持することはできない。途中で休憩を挟んだり、ペース配分のため速度を落としたりする必要が出てくる。そういったロスを加味すると、『この世界』でのウルヴァーン‐キテネ間の距離は、おおよそ１５０ｋｍ強と考えられる。</p><p>つまり、ゲーム内と『この世界』のスケール感の差は、比率にして１０倍といったところではなかろうか。</p><p>（ゲームの DEMONDAL のマップ全体が１０倍になったとして……『ここ』は最大で、ブリテン諸島くらいの面積になるわけか？）</p><p>ブリテン諸島。要はイギリス。馬では縦断するのにも一苦労するレベルの広大さだが、それでも『世界』というくくりから見ると、その程度の面積では小さすぎる。</p><p>ここが DEMONDAL に限りなく似ている異世界であるならば、おそらくゲーム内では行けなかった海や山脈の向こう側に、設定上のみ存在していたエリアや大陸が存在していると考えるべきだ。</p><p>…………</p><p>思案顔で黙りこくるケイに声をかけるのも躊躇われ、沈黙がその場に降りる。</p><p>アイリーンが回復したら、まず『村』から『都市』へとスケールアップしたウルヴァーンに見に行ってみるべきか……などと考えていたケイだが、</p><p>―</p><p>外から聴こえてきた微かな音に、ふっと顔を上げる。</p><p>……誰か来てるな</p><p>マンデルもケイとほぼ同時に気づいたらしく、振り向いて扉の外へと意識を向けていた。</p><p>ざっざっざっ、と何者かが、小走りで村長の家に接近する足音。</p><p>―失礼しますっ！</p><p>バンッと家の扉が乱暴に押し開かれる。</p><p>扉の外、顔面蒼白で息を荒げていたのは、そばかす顔の若い女だった。</p><p>ティナ、どうしたんじゃ。そんなに慌てて</p><p>村長！　大変なんです！</p><p>ベネットの問いかけにヒステリックな叫びを返した女は、ばっとケイの方に向き直り、</p><p>旅の御方！　大変なんですッ！　すぐに来てください！！　早くッ</p><p>今にも泣きそうな顔で、ぐいぐいと袖を引っ張ってケイを外に連れ出そうとする。</p><p>ま、待たんかティナ！　何があったんじゃ、説明せいッ！</p><p>ベネットが一喝すると、半狂乱だった女は一瞬黙り込み、</p><p>お連れの方が、アイリーン様が、―</p><p>おずおずとケイの方を見やる。</p><p>息を、―息を、されてないんです！</p><p>†††</p><p>血相を変えて、走る。</p><p>アイリーンッ！</p><p>どばんッ、と扉を蹴破らんばかりの勢いで、その狭い部屋に飛び込んだ。</p><p>中には、二人。小さな寝台に横たえられたアイリーンと、その前でおろおろとうろたえるクローネン。</p><p>どけェッ！！</p><p>狼狽して何かを言おうとするクローネンを乱暴に突き飛ばし、アイリーンに駆け寄る。</p><p>アイリーン……ッ！　おいっ、しっかりしろ、アイリーン！</p><p>ぺしぺし、と軽く頬をはたくが、全く反応がない。口の上に手をかざすも、―呼気は、感じられなかった。</p><p>ランプの暖色の光に照らされてなお、アイリーンの顔は紙のように白い。まるで人形を目の前にしているような嫌な感覚。胸が早鐘を撞くように軋む。</p><p>まさか、なぜ。顔色が悪いとは思っていたが、傷はもう完治しているはずなのに―</p><p>―くそっ！</p><p>左胸に耳を押し当てた。</p><p>…………</p><p>何も聴こえない……、いや。</p><p>とくん、と小さな、今にも消えそうな、鼓動。</p><p>まだ生きてる……！</p><p>腰のポシェットをまさぐり、ポーションの小瓶を取り出した。焦りに震える手をなだめすかし、コルクを抜いて、アイリーンの口に流し込む。</p><p>数秒。</p><p>……けふっ</p><p>顔を歪めたアイリーンが、僅かに身じろぎしてむせた。その頬に、僅かに赤みが戻る。</p><p>なっ、息を吹き返した……！？</p><p>まるで神の奇跡でも目の当たりにしたかのように、驚愕の声を漏らすクローネン。そこへ、ぎょろりと振り返ったケイの鋭い視線が突き刺さる。</p><p>……貴様、何をした</p><p>おっおれは何もしていない！！</p><p>地獄の底から響いてくるような底冷えのする声、そしてじりじりと空気が焼けつくような濃密な殺気に、震え上がったクローネンが無実を訴える。</p><p>事実、クローネンは、何(・)も(・)し(・)て(・)い(・)な(・)い(・)。</p><p>おれはただっ、その娘が汗をかいてたからっ、ね、熱もあるようだったし、布を濡らして熱冷ましにしようと……</p><p>手の中の、濡れた手拭いをケイに見せる。</p><p>ほっ、本当に少しの間だったんだ！　元々、体調は悪そうだったが、少し目を離して、戻ってきたら、どんどん弱っていって……ティナがあんたを呼びに行った頃には、呼吸も、もう、ほとんど……</p><p>しどろもどろになりながら、弁明するクローネン。</p><p>その狼狽っぷりを見て、逆に少し冷静さを取り戻したケイは、クローネンが何かをしたわけではなさそうだ、と考えを改めた。アイリーンに追加でポーションを飲ませつつ、</p><p>……すまない。少し、動転していた</p><p>いや、わかってくれたんなら、いいんだが</p><p>おっかない殺気をひっこめたケイに、クローネンがほっと胸を撫で下ろす。</p><p>（……それにしても、何でこんなことに）</p><p>無意識に噛みしめた下唇が白くなる。顔色が戻ってきた代わりに、再び額に汗を浮かべ始めたアイリーンを前に、疑念が再び湧き上がってきた。</p><p>傷は、完全に治っている。それは間違いない。</p><p>腰の矢筒からアイリーンが射られた矢を抜いて観察するも、矢じりが体内に取り残されたまま、ということもありえなさそうだ。</p><p>（ポーションが足りてない？　いや、一瓶飲ませれば生命力は完全に回復するはずだ、それに完全に回復していなかったとしても、瀕死の状態にまで追い込まれる理由が―）</p><p>―瀕死の状態にまで、追い込まれる。</p><p>はっ、と顔を上げたケイは、右手に握った襲撃者の『矢』を凝視した。</p><p>―全くもう、こんな夜中になんだってんだい</p><p>―すまんの、しかし事態が事態での</p><p>と、部屋の外がにわかに騒がしくなる。</p><p>ぎぃっと扉が開き、杖をついてローブを羽織った老婆が、中に入ってきた。</p><p>まったく旅人なんざ、とんだ迷惑―ひぇぇぇええぇっっ！！！</p><p>入ってきて早々、ぶつぶつ文句を言っていた老婆は、ケイと視線を合わせた瞬間に奇声を上げて腰を抜かしその場に尻もちをついた。</p><p>アンカ婆さん、どうした！？</p><p>あっ、あんらまぁ、これは……</p><p>慌てて駆け寄るクローネンに構わず、へたり込んだ老婆は目を見開いて、そのしわくちゃな顔に驚愕の表情を浮かべている。</p><p>婆様、どうしたんじゃ</p><p>遅れて、やや疲れ顔のベネットが部屋に入ってきた。</p><p>こ、こちらが旅の御方かい？　ベネット</p><p>そうじゃ、そうじゃ。……ケイ殿、この婆様はうちの村の薬師ですじゃ</p><p>ヒッ、ヒヒヒッ、薬師なんて大層なもんじゃない、ただの呪い師さね。アンカ、と申しますじゃ、お見知りおきを……旅の御方</p><p>クローネンの手を借りてよろよろと起き上がり、おぼつかない足取りで薬師の老婆は寝台に近づく。</p><p>……この娘っ子は、いったい何がどうなっとるんかえ？</p><p>実は……</p><p>クローネンが、大雑把に状況を伝える。</p><p>ふむ……旅の御方、何か心当たりは</p><p>……つい先ほど、賊に矢で射られた</p><p>アンカの婆様に、ケイは賊が放った矢を渡した。</p><p>これは……。しかし、どこを射られたのか、傷跡が見当たらんが……</p><p>ここだ</p><p>矢を撫でながら不思議そうな顔をするアンカに、アイリーンの胸元を示して見せる。ポーションによって修復され、新しい皮膚が白く残った傷跡。</p><p>これで治療した</p><p>それは……！？</p><p>ケイの手の中の、瓶に僅かに残された水色の液体。視線を釘付けにしたアンカが、はっと息を呑む。</p><p>ご存じか。ハイポーションだ</p><p>高等魔法薬(ハイ・ポーション)ですと！！</p><p>オウム返しに、しわがれ声で叫んだアンカが、再びへなへなとその場にへたり込む。</p><p>……あんまり驚かさんで下され、旅の御方。心の臓が止まるかと思いましたわい</p><p>あ、ああ、すまない……っと、失礼</p><p>そこまで驚くようなことか、と怪訝に思いつつ、また顔色が悪くなってきたアイリーンの口にすかさずポーションを垂らす。</p><p>しかし、この矢で、この症状……</p><p>唸るように言ったアンカが、アイリーンの額に浮いた汗を指先で拭いとり、口に含む。</p><p>……苦い</p><p>賊は、イグナーツ盗賊団である可能性が高いそうじゃ</p><p>……なるほどの</p><p>すっ、とケイを見据えたアンカは、 旅の御方、 と姿勢を正して切り出した。</p><p>この娘の症状、これは……この矢に、『毒』が塗られていたのではないかと</p><p>…………</p><p>ケイの口から、重々しい吐息が漏れる。</p><p>やはりそうなるか、と。</p><p>そうなってしまうか、と。</p><p>リアル路線を謳う DEMONDAL には、当然のように毒も存在した。</p><p>即効性のものから遅行性のもの、即死させるものから体を麻痺させるものまで、何種類もの毒薬があり、それは対人戦闘や狩りなどで積極的に利用されていた。</p><p>しかし、その毒の大半は、空気に触れるとあっという間に劣化してしまう性質のものが多く、有効活用するためには使用する直前まで密閉容器に保存しておかなければならない、という制約があった。</p><p>強力ではあるが、その扱いには細心の注意が求められ、それでいて手間がかかる。</p><p>それが、 DEMONDAL のゲーム内における、『毒』の立ち位置であった。</p><p>ケイの場合は、素の弓の攻撃力が高すぎるのと、いちいち矢を放つ前に矢じりに毒を塗布する手間がわずらわしいのとで、ほとんど毒を利用してこなかった。</p><p>そして―これが最重要だが―ゲーム内においては、毒を受けた後の発汗や発熱といった生理的反応が、存在しなかったのだ。</p><p>そのため、今回のアイリーンの症状を、ケイは『毒』によるものだと即座に結び付けることができなかった。せいぜい、痛みによるショックでうなされている、と。</p><p>その程度の認識だった。</p><p>もしも―。</p><p>もしも、クローネンが、アイリーンの傍に付いていなかったら。</p><p>そう考えると、ケイは、背筋にゾッと薄ら寒いものが走るのを感じた。</p><p>ケイも、最初はアイリーンの傍についておくつもりだったが、ひょっとすると疲れで自分自身すぐに寝付いてしまったかもしれない。そうすれば、朝に目を覚ますと、アイリーンが毒にやられて冷たくなっていた、などということも―。</p><p>婆さん。……この症状が毒によるものだ、というのは、俺もそう思う。……だが、何の毒だと思う？</p><p>アンカの目をまっすぐ見つめながら、ケイは問いかける。</p><p>毒による継続ダメージ。絶望的な状況だ。毒は自然治癒せず、またポーションでも治せない。</p><p>しかし、仮にこの『毒』が、 DEMONDAL のゲーム仕様に準拠したものであるならば、まだ、対策の立てようはある。ポシェットを探ったケイは、その中から小さな金属製のケースを取り出した。</p><p>ここに解毒薬がある。それぞれ”隷属(スレイヴリ)”、“夢魔(インクブス)”、“単色(モノクローム)“系統の特効薬だ</p><p>“隷属(スレイヴリ)”</p><p>“夢魔(インクブス)”</p><p>“単色(モノクローム)”</p><p>ゲーム内では『三大対人毒』とまで呼ばれた、対人戦闘において最もメジャーな系統の毒だ。上級プレイヤーにも通用する毒性を持ち、そしてある程度の使い勝手も兼ね揃えた毒は、多少成分が違えどもこの三系統の派生であることが多かった。</p><p>この娘―アイリーンは、こう見えて毒にはかなりの耐性がある</p><p>アイリーンは、各種毒物に対する耐性や、肉体の強靭性が飛躍的に上昇する『身体強化』の紋章を、その身に刻んでいる。</p><p>だから、生半可な毒は効かない。矢じりにちょっと塗りたくった程度の量で、こいつの生命力を削り切ることができる毒は、この三種類ぐらいしかないはずなんだ</p><p>そして、それぞれの毒は対応した特効薬を飲めば、すぐに中和され無害になる。</p><p>……ならば、その薬を三つとも飲ませれば……</p><p>それはできない……</p><p>ケイは絞り出すように言う、</p><p>飲み合わせが悪いんだ。間違えた特効薬を飲めば、激しい拒否反応が起きる</p><p>少なくともゲーム内では、誤った特効薬を服用するとショック症状が起き、むしろ容体の悪化を招いた。万全の状態であればまだしも、今のアイリーンは体が弱りすぎている。ロシアンルーレットを試して、万が一のとき、拒否反応に体が耐え切れるか分からない。</p><p>だから、アイリーンがどの毒にやられているのか、見極めないといけないんだ</p><p>藁にもすがる思いで、ケイは問いかける。</p><p>婆さん。アイリーンは、どの毒にやられてると思う……？</p><p>口を開きかけたアンカは―</p><p>…………</p><p>つっ、と、目を逸らして俯いた。</p><p>やはり分からないか、と。歯を食いしばる。</p><p>ゲーム内。</p><p>ゲーム内であれば。</p><p>この三つの毒は、簡単に見分けがつく。それぞれ継続ダメージに加えて、特徴的な効果があるからだ。</p><p>“隷属(スレイヴリ)“系統は、感覚が鈍り、体が異常に重く感じられる。</p><p>“夢魔(インクブス)“系統は、毒を受けた時点で、『昏迷』状態となる。</p><p>“単色(モノクローム)“系統は、視覚から色彩感覚が失われ、また視野狭窄も併発する。</p><p>身体の動きを麻痺させるような毒もあるが―ゲーム内では、アバターの動きは制限されても、プ(・)レ(・)イ(・)ヤ(・)ー(・)が(・)意(・)識(・)を(・)失(・)う(・)こ(・)と(・)は(・)な(・)い(・)。</p><p>つまり、毒を受けた本人が、症状を自己申告できたわけだ。</p><p>体が重くて動かないならば　“隷属(スレイヴリ)”。視野狭窄が生じれば”単色(モノクローム)”。そして、自己申告できない、すなわち会話が不可能な状態に陥っていれば、“夢魔(インクブス)“といった風に―。</p><p>それで充分だった。あとは周囲の者が、対応する特効薬を与えてやればよかった。</p><p>しかし、今。</p><p>アイリーンの意識は、混濁したまま戻らない。</p><p>本人に、どのような毒の症状が表れているのか、確認することが、出来ない。</p><p>……個人的には、意識を失ってるから、“夢魔”系統が怪しいんじゃないかと思う</p><p>ぽつぽつと、ケイは静かに言葉を続ける。</p><p>しかし断言もできない。“隷属”系統も身体感覚を鈍らせる以上、それが重症化して意識が混濁しているという可能性もある</p><p>“単色”系統を除いたところで、確率は２分の１。</p><p>……どうすればいいんだ</p><p>ケイの呟きに、しかし部屋の面々は沈黙したままだった。</p><p>数分か、あるいは数十秒か―再び顔色が悪化しつつあったアイリーンに、手持ちのポーションを全て飲ませたケイは、すっと立ち上がった。</p><p>ちょっと待っててくれ</p><p>お、おい……</p><p>クローネンの制止も聞かず、小走りでベネットの家に戻る。</p><p>玄関口、杭につながれていたミカヅキが、 ぶるるっ と鼻を鳴らしてケイを出迎えた。</p><p>……大変なことになった。本当に間抜けだな……毒かもしれないなんて、少し考えれば分かったろうに……</p><p>はぁ、と重いため息をつくケイ。サスケが だいじょうぶ？ と心配げに、顔を覗き込んでくる。</p><p>……大丈夫。アイリーンは助けるさ</p><p>サスケの鼻づらを優しく撫でてやり、ケイはぎこちなく微笑んだ。鞍に取りつけてあった革袋を取り外して、再びアイリーンの元へと戻る。</p><p>……お若い方よ。どうなさるおつもりか</p><p>ゆらゆらと揺れるランプの光。枕元でアイリーンの汗をぬぐっていたアンカが、悲痛な声で尋ねてきた。</p><p>婆さん。少し頼みがある</p><p>……ワシにできることなら、何なりと</p><p>こ(・)れ(・)をアイリーンに。顔色が悪くなるたびに、飲ませてやってくれ</p><p>革袋を、アンカの足元の床に、そっと置く。</p><p>怪訝な顔で袋を開き、中を覗き見たアンカが―、はっと息を呑んだ。</p><p>十数本にも及ぶ、ハイポーションの瓶。</p><p>そして、これだ</p><p>ポシェットから取り出したのは、金属製の小さなケース。それからそれぞれ色の違う丸薬を数粒つまんで、そっとアンカに手渡した。</p><p>……俺(・)が(・)戻(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)ら(・)、どれか一つを、アイリーンに飲ませてやってくれ</p><p>ケイの言葉に、全員が目を剥いた。</p><p>ケイ殿！？</p><p>お若いの、まさか！</p><p>ケイは小さく笑う。</p><p>分からないんだったら……使った奴に聞くのが、一番早い</p><p>頼んだ、と言い残して。</p><p>背後からの声には耳を貸さずに、ケイは足早に部屋を出た。</p><p>†††</p><p>お、おい、ケイ！！</p><p>ベネットの家の前、ミカヅキの手綱を引いていくケイを、クローネンが呼びとめる。</p><p>無茶だ！　いくら装備が良いからって！</p><p>ケイは答えず、ひらりとミカヅキに飛び乗った。</p><p>……随分と騒がしいが</p><p>ぬっ、と建物の陰から、マンデルが姿を現す。</p><p>ケイ。……相手は、十人近いんじゃなかったのか</p><p>そうだな、大体そのくらいだろう</p><p>だから無茶だ！　一人でそんな人数相手に、勝てるわけがない！　しかも聞いたぞ、賊はあのイグナーツ盗賊団なんだろ！？</p><p>槍を振り上げて、クローネンが叫ぶ。</p><p>じゃあ、何だ。ついてきてくれるか？</p><p>えっ。それは……</p><p>ケイのからかい混じりの返しに、短槍使いの男はぐっと声を詰まらせた。</p><p>冗談さ。俺一人で十分だ。こちらは騎兵、向こうは数が多いとはいえ所詮は徒歩……弓のいい練習になるよ</p><p>楽観的に言ってのけるケイ、しかしクローネンとマンデルは顔を曇らせる。</p><p>しかし、こんな新月の夜に……</p><p>眉をひそめたクローネンは、思わず空を振り仰いだ。夜の真の暗さの前には、星明かりすら闇に呑まれるかのようだ。こんなに暗闇の中、単騎で駆けるなど自殺行為以外の何物でもない。</p><p>―少なくとも、クローネンにとっては。</p><p>しかしケイは笑って見せる。</p><p>だから、心配しなくても大丈夫だ。ほら、</p><p>無造作に矢筒から矢を引き抜き、一切のた(・)め(・)も気迫も感じさせずに、すっと空へ向けて弓を引き絞った。</p><p>快音。</p><p>ギィッ、と鋭い鳴き声が頭上から聴こえてきたかと思うと、ぼとりと黒い塊が地面に落ちる。</p><p>―それは、矢に射抜かれた、一羽の蝙蝠だった。</p><p>…………</p><p>胴体を貫かれ、ばたばたともがき苦しむ蝙蝠。クローネンとマンデルは顎が外れんばかりにぽかんと口をあけて、絶句した。</p><p>言ったろう？　夜目は効く方なんだ</p><p>馬上から、蝙蝠の矢を引き抜き回収したケイは、にやりと口の端を釣り上げる。</p><p>……それじゃあ、行ってくる</p><p>唖然としたままの二人をおいて、ケイはミカヅキの横腹を軽く蹴った。</p><p>いななきの声ひとつ漏らさずに、滑るようにして褐色の馬は走り出す。</p><p>その馬上で揺られながら、ケイは顔布で口元を覆い隠し、今一度その左手に朱塗の弓を握り直した。</p><p>……急ぐぞ。頼んだ、ミカヅキ</p><p>主の声に、忠実なる駿馬は短く鼻を鳴らして応える。</p><p>果たして、新月の宵闇に。</p><p>―死神は、放たれた。</p><p>9. 会敵</p><p>火の中で小枝が爆ぜて、ぱちりと音を立てる。</p><p>木立の中、焚き火を囲み、男たちは思い思いの格好で身体を休めていた。</p><p>火に当たり暖を取る者、地面にマントを敷き寝転がる者、堅焼きのビスケットをかじる者、壁に寄りかかり周囲を見張る者―。</p><p>盗賊団『イグナーツ』の構成員たちだ。肌の色も髪の色も、体格も民族も、てんでばらばらな寄せ集めの集団。しかし、全員が黒染めの革鎧に身を包み、『片方の瞳が白く濁っている』という点で不気味に似通っていた。</p><p>風のそよぐ、肌寒い新月の夜。盗賊たちは見張りの一名を除き、程よく肩の力を抜いてリラックスしている。だが同時に、その表情にはどこか覇気がなく、皆、ぼんやりと眠たげな様子だった。</p><p>それは、―悪く言えば、シ(・)ケ(・)た(・)面というやつだ。</p><p>はぁ～あ</p><p>焚き火の前、平石の上に腰かけた痩せぎすな男が、大きな溜息をつく。</p><p>陰気な男だ。シケた面をした盗賊たちの中でも、際立って暗い雰囲気を漂わせている。</p><p>栄養状態がよろしくないのか、はたまた、元からそういう骨格なのか。痩せこけた頬に落ち窪んだ眼窩と、まるで髑髏のような顔立ち。薄暗い焚き火の明かりが投じる陰影に、伸ばしっ放しのぼさぼさな長髪も相まって、その姿はまるで幽鬼か何かのようだ。</p><p>盗賊よりも墓守でもしている方が、よほど似合いそうなこの男。その名をモリセットという。イグナーツ盗賊団が実働隊、九人の手下を率いる隊長だ。</p><p>はぁ～……</p><p>小枝に刺した燻製肉を焚き火で炙りながら、モリセットは再び溜息をついた。どんよりとした不自然な白と黒のオッドアイに、じゅうじゅうと脂を滲ませる肉が映り込む。ある程度炙ったところで、くるんと手を返し、今度は反対側にもじっくりと火を通し始めた。</p><p>……なぁ、モリセットよぉ</p><p>モリセットの対面、胡坐をかいて座る小太りの男が、間延びした声で話しかけた。</p><p>なんだ</p><p>ちら、と目だけを動かして、モリセットは答える。</p><p>あんまりなぁ、焼きすぎると、おいら、脂がもったいないと思うんだぁ</p><p>これでいいんだ。……贅沢だろ</p><p>ぽたぽたと滴り落ちる肉の脂を眺めながら、モリセットは暗い笑みを浮かべた。</p><p>程よく脂の抜けた肉が好きなんだよ、俺は</p><p>……んだども、その調子だと、『程よく』どころか、からからになっちまうぞぅ？</p><p>それが、俺にとっての『程よい』加減よ</p><p>もったいねぇなぁ。そんなだから、モリセットはいつまでたってもガリガリなんだぁ</p><p>呆れたような、諦めたような口調でお手上げのポーズを取る。</p><p>ほっとけ。生まれてこの方、不便はしてねえよ</p><p>ぶっきらぼうに返すモリセット。そうしている間に、肉は程(・)よ(・)い(・)加減に仕上がっていた。炙るのを止め、ふうふうと息を吹きかけてから、がぶりと勢いよくかぶりつく。</p><p>……腹、減ったなぁ。モリセット、おいらにも肉、分けておくれよぅ</p><p>悪いな、これで最後だ</p><p>あぁ～。んじゃあ、一口だけでも―</p><p>手下が最後まで言い終わる前に、大口を開けたモリセットは肉を全て口に詰め込んだ。</p><p>あぁ～～～！</p><p>そんな目で見ても、無いもんは無いぞ</p><p>くっちゃくっちゃと口を動かしながら、モリセット。</p><p>くそぅ。モリセットだけ、ずるいぞぅ</p><p>……。あのな、ラト。こちとら食料は公平に分配してんだ。テメェの食い物の管理くらいテメェでしやがれ</p><p>ずる呼ばわりされたモリセットが、小太りの手下―ラトをジト目で見やる。意地汚く指をくわえるラトは、周囲の仲間たちに、</p><p>おぅい、誰か、肉持ってないかぁ肉</p><p>わりぃ、もう食っちまった</p><p>俺も品切れだ</p><p>ビスケットならあるぞー</p><p>仲間の返答に、 はぁ…… と今度はラトが深刻な溜息をつく。</p><p>みんなしてよぅ、シケてんなぁ</p><p>仕方ねーだろ。獲物逃がしちまったんだから……</p><p>しょぼくれたモリセットとラトは、再び顔を見合わせて、小さく溜息をついた。</p><p>数時間ほど前のこと。</p><p>モリセットたちは近くの岩山の陰で、人目を避けて野営の準備をしていた。しかし、手下の一人が木立で揺れる明かりを見つけたので、直ちにこれを襲撃することにしたのだ。</p><p>こんな新月の夜に自分から目立つ真似をするなど、襲ってくれと言っているようなものだ。ちょうど、手持ちの食料も少なくなってきていたことだし、盗賊としてこれを見逃す手はない。</p><p>獲物は二人。奇妙な組み合わせだった。異国の黒装束に身を包んだ金髪の少女―それもかなり器量良しの―と、草原の民風の格好をした青年。たったの二人で大して周囲を警戒することもなく、煌々と火を焚いていた。まさに鴨が葱を背負っているような状態。</p><p>対するモリセットたちは、総勢十名。先手を取って包囲し、矢を射掛ければ逃しようのない容易い獲物―のはず、だったのだが。</p><p>まさか、パヴエルがしくじるとはなぁ</p><p>……いや、ホントすんません</p><p>ラトのぼやきに、焚き火に当たりながらビスケットをかじっていた若者―パヴエルが、申し訳なさそうに頭を下げる。</p><p>茶色の巻き毛に、割と端正な顔立ち、目の下にははっきりとした隈。片目が白濁しているのは周りと一緒だが、他の団員と比べるとまだ濁り具合が薄かった。傍らには、簡素な短弓と矢筒。今回の襲撃の一番手を担い、初撃の矢を放ったのが、他でもないパヴエルだ。</p><p>あれは、相手が悪かったと思うしかないな</p><p>そう言って、モリセットは静かに首を振る。パヴエルは、仲間に加わってからまだ日が浅く、盗賊としての動きが身に付いていない。今回は相手が少数で、さらに油断していたこともあり、経験を積ませようとしたのだが―</p><p>あの野郎、避けやがった</p><p>腕を組みながらモリセットは唸る。パヴエルが矢を放った、まさにその瞬間に、あの黒髪の青年は弾かれたように身体を逸らした。音で攻撃を察知したのではなく、攻撃の際に漏れ出た僅かな殺気を感じ取り、矢の射線そのものを回避してみせたのだ。</p><p>あの距離で勘付くなんてなぁ。まぐれじゃないよなぁ</p><p>ありゃあ、分かって避けてただろ。俺が女の方を狙ったときも、直前に気付きやがったからな……</p><p>顎を撫でながら、渋い顔をするモリセット。あのように油断しきった状態から即座に回避行動を取るのは、熟練した戦士でも難しい。パヴエルは新入りではあるが、ずぶの素人ではない。モリセットも自分の技量にはそれなりの自信がある。しかしあの青年は、軽々とそれらを凌駕してみせた。</p><p>あの野郎。俺の矢に勘付けるくらいなら、女を庇うくらいのことはしやがれってんだ。それならあの娘は殺さずに済んだし、野郎は片付くしで万々歳だったんだが……</p><p>パヴエルの矢が軽々と回避されたのを見て、青年は手強いと早々に見切りをつけたモリセットは標的を少女の方に変更した。</p><p>本来ならば、野郎なんぞに用は無いので、青年の方はさっさと殺しつつ、残った少女を皆で楽しむつもりだったのだが―モリセットは、お楽しみの少女を生かすことよりも、食料や貴重品などを奪うことに重点を置いたのだ。</p><p>が、この目論見は、見事に頓挫した。矢傷を負った少女という足手まといを連れながら、青年はモリセットたちの包囲を突破し、追手の狩猟狼(ハウンドウルフ)まで撃退してしまったのだ。</p><p>逃げ出されるのはまだ想定内だったが、まさかハウンドウルフまでやられるとは思っていなかった。頭痛を堪えるように、モリセットは額を押さえる。</p><p>ああ……。十人がかりで二人を襲っておいて、逃げられた上に虎の子のハウンドウルフも二頭死なせちまった……。お頭になんて報告すりゃいいんだ……</p><p>壁の陰、鼻を腫らした状態で寝そべる、唯一生きて戻ってきたハウンドウルフに目をやりながら、</p><p>クソッ、あの野郎、次に見かけたら絶対殺してやる</p><p>……まあ、済んでしまったことは、仕方ないんだぁ</p><p>再び鬱々としたオーラを漂わせ始めたモリセットに、ラトは小さく肩をすくめた。</p><p>あーあ。でもよ、あの女も勿体ねえよな</p><p>寝転がっていた手下の一人が、夜空を眺めながら口惜しそうに呟く。</p><p>だなぁ。あれ、かなりの上玉だったぜ</p><p>あの長～い金髪。……貴族みてえだったな</p><p>案外、お忍びだったりして</p><p>それに反応して、他の手下たちも口を挟んだ。</p><p>まあ、もう生きちゃいねえんだろうけど……毒矢食らっちゃあな</p><p>オレは別に死んでてもいいけどな。明日あたり探したら、死体くらいは見つかるかも</p><p>死体はねーよ、流石に萎える</p><p>それが美人だとイケるもんだぜ、人形みたいでな</p><p>美人だろうがブサイクだろうが、穴がありゃ一緒だろ</p><p>でも一日経つと微妙じゃね？　硬くなってさ……</p><p>口の端に薄く笑みを浮かべた男たちが、やいのやいのと喋り出す。</p><p>（……流石に、そろそろ娑婆に出ないとな）</p><p>そんな手下たちを観察しながら、モリセットは考えた。思えばここ数週間、部外者との接触を極力避けて、リレイル地方を縦断してきた。皆―自分も含めて―女に飢えているのだ。それなりに付き合いのある手下たちだ、この程度で暴走するとも思えないが、溜め込んだままの状態はよろしくない。</p><p>（あるいは、今回でそれを解消できれば、と思ってたんだがな……）</p><p>異国の装束に身を包んだ少女。殺したのは少々勿体なかったかな、とはモリセット自身も思わないでもない。結局、性欲の解消はおろか食料の一つ、銅貨の一枚すら手に入らずにハウンドウルフを二頭も失ってしまった。</p><p>（こりゃお頭に絞られるな……）</p><p>モリセットの溜息は留まるところを知らない。</p><p>盗賊稼業をやるなら利益を出せ、被害は出すな、というのが盗賊団の頭領の指示だ。犠牲を払って利益を取り、それで採算を合わせるのではなく、犠牲が出るくらいならそもそも襲うな、と。</p><p>正直なところモリセットは、たかが二人、それも若い男女の組み合わせ相手に、こんな手痛い犠牲を払う羽目になるとは、これっぽっちも思っていなかった。</p><p>（パヴエル一人に任せたのは、失敗だったか）</p><p>今回の失敗の反省点を洗い出す。</p><p>（どうせなら弓を持った全員で、一斉にあの野郎を狙えばよかった）</p><p>青年が身に着けていた革鎧に必要以上に傷がつくのを嫌って、練習代わりにパヴエル一人に任せたのが失敗だった、と反省する。</p><p>モリセットの隊のうち、弓を装備しているのは彼自身を含めて六人。六人で同時に、そして程よく狙いをばらして射掛ければ、流石にあの男も避けきれなかっただろう。そして矢が一本でもかすれば、鏃に塗りたくった毒で無力化できる。</p><p>間抜け面の若造なんぞ、パヴエル一人で仕留めきれるはず―という、油断があった。</p><p>（忘れた頃にやってくるもんだな、油断ってぇのは……）</p><p>薄く笑ったモリセットは、空を見上げて、ふぅーっと細く長く息を吐き出した。</p><p>もはやそれは溜息ではない。次からは気をつけて全力で殺しにかかろう、と結論を出したところで、反省タイムは終了した。</p><p>さて、と気分を入れ替えたモリセットは、ぱんぱんと手を叩きながら、</p><p>よーし、てめーら。そろそろ―</p><p>寝るぞ、と手下たちの猥談を止めようとした。</p><p>カァン！　と乾いた音が響く。</p><p>何だ今の、とモリセットが怪訝な顔をするのとほぼ同時、ボグンッという鈍い音が、</p><p>ぼオッ</p><p>見張りをしていた手下が、水気のある奇声を発して激しくその身を痙攣させた。</p><p>おい、どうし―</p><p>慌ててそちらを見やったモリセットの口が、驚愕にあんぐりと開かれる。</p><p>壁に寄りかかって見張りを担当していた手下―今や壊れたからくり人形のように痙攣する男の顔面に、黒羽の矢が突き立っていた。</p><p>いや、それは、ただ刺さっているのではない。頭蓋を完全に貫通し、背後の石壁にまで突き刺さっている。</p><p>文字通り男は、矢によって壁に縫いとめられていた。</p><p>なっ―</p><p>即死。あり得ない威力。</p><p>矢が石に刺さるなど。弩砲(バリスタ)でもこう容易くは―</p><p>モリセットが混乱に囚われている間に、再び乾いた快音が響き渡る。</p><p>―来るぞッ正面！</p><p>はっと我に返ったモリセットに言われるまでもなく、手下たちがさっと身を低くした。が、それを嘲笑うかのように、身をかがめた手下の一人、その胴体に無慈悲な矢が突き刺さる。</p><p>ぐおアッ</p><p>肉が引き裂け、骨の砕ける音。</p><p>背骨を折り砕かれた手下が、ぐにゃりとあり得ない方向に胴を曲げながら、吐血して倒れ込んだ。赤黒い血の泡をぶくぶくと口角に浮かばせる男は、まだ息こそあるものの―これは助からないと、モリセットは即座に見切りをつける。</p><p>素早く、足元の弓と矢筒を拾い上げた。</p><p>壁！　隠れろッ！</p><p>モリセットの号令一下、男たちは壁の陰に向かって素早く移動する。壁まで、ほんのわずか、十歩にも満たない距離。しかしその間にも、カァン、カァンと、背後から乾いた音が襲いかかり、その数の分だけ手下たちが倒れ伏していく。</p><p>モリセットのすぐ後ろでも、手下の一人がうなじを撃ち抜かれた。肉の引き千切れた首から噴水のように血が迸る。それを背中に浴びながらも振り返ることなく、モリセットは身を投げ出すようにして壁の裏側に滑り込んだ。</p><p>―クソッ、何だってんだッ！</p><p>間一髪で逃げおおせたモリセットは、大きく息をつくと同時に全身からどっと嫌な汗が噴き出るのを感じた。唯一の生き残りのハウンドウルフが、木立の闇に向かって唸り声を上げながら、モリセットに身を擦り寄せてくる。そのぼさぼさの毛を撫でつけて、モリセットは必死に荒い呼吸を抑えようと努めた。</p><p>隊長、今の、何っすか！？</p><p>知らんッ！</p><p>運よく生き残ったらしい、青ざめた顔のパヴエルの問いかけに、吐き捨てるようにして答える。自分と同様、壁の陰に隠れて身を縮こまらせる手下たちに視線を走らせ、その数を数えた。無事に逃げおおせたのは、―六人。</p><p>（ジャック、ホリー、グレッグ、ネイハム、四人もやられちまったのか！）</p><p>思わず漏れそうになった呻き声を、無表情の下に飲み込んだ。</p><p>最初、見張りを担当していたネイハムが矢を受けてから、まだ数十秒と経っていない。壁の陰に身を隠すまでのほんの僅かな間に手下のほぼ半数が矢を受けていた。しかも、そのことごとくが手の施しようのない致命傷。</p><p>っぐ……うぅ……</p><p>壁の向こう側から呻き声。まだ息のある者もいるのか。モリセットは壁の陰からそっと顔を出し、周囲の様子を窺った。</p><p>カァン、と。</p><p>慌てて顔を引っ込めると、モリセットの鼻先を白羽の矢が掠めていった。</p><p>危ッ……</p><p>上体を仰け反らしたモリセットは、腰を抜かしたように尻餅をつく。近い。ぞっとして背筋を振るわせるモリセットをよそに、矢は真っ直ぐにそばの木へと突き立った。</p><p>ブウゥゥン……と蜂の羽音に似た、振動音。生木に深く深く突き刺さった矢が、凄まじい着弾の衝撃に震えている。生身で受ければひとたまりもない―それは手下たちが証明してしまった。生半可な盾や鎧では紙のように食い破られてしまうだろう。</p><p>……モリセット、これは、マズい相手だぞぅ</p><p>ラトが低い声でぼそりと呟き、腰の鞘から短剣を抜き放つ。取り回しに優れた、良質のショートソード―しかし敵の弓の威力に比するとあまりにも頼りなさげだ。</p><p>とんでもない弓、だなぁ……</p><p>ああ。だが……</p><p>ラトの声に頷きつつ、未だ震える矢を睨みつけるモリセット。その額をつっと冷たい汗が伝った。とんでもない弓。確かにその通りだ。化け物じみた威力に、神がかった狙撃の精度。自身もいっぱしの弓使いであるだけに、それはよく分かる。</p><p>だが、何よりもモリセットが危機感を覚えているのは、</p><p>（殺気が微塵も感じられねえ……！）</p><p>これほどの威力を持つ弓であるにも関わらず、確実に命を奪い去る殺意に満ちた一撃であるにも関わらず。</p><p>感知できないのだ。その攻撃が。これの意味するところは―敵は、モリセットの技量を遥かに凌駕する使い手であるということ。</p><p>おかげでこの矢が何処から射られたものなのか、大まかな方向しか見当がつかない。弓の音と、着弾までの時間差から、かなり距離が置かれていることだけは確かだ。しかしその距離をものともせずに、確実に中ててくる技量。</p><p>ラト。何か感じ取れたか</p><p>いんや。その様子だと、モリセットもダメかぁ？</p><p>ああ</p><p>とんでもない化け物だなぁ</p><p>違いねえ。何者だ？　盗賊か？</p><p>引きつった笑みを浮かべるモリセットに、間延びした声を努めて維持するラトは、</p><p>分からね。……だども、相手は一人だと思うぞぅ</p><p>自信なさげなラトの推測は、そうであって欲しいという、ある種消極的な願望も多分に含んでいた。だが、それはおそらく正解だろうと、モリセットの勘が告げる。</p><p>（クソッ、俺らを襲っても盗る物なんてロクにねえぞ……！？）</p><p>しかもムサい男所帯だ。これほどの弓の腕前の持ち主なら、盗賊などしなくても充分に食っていけるはず。なんでわざわざ自分たちなんかを―</p><p>腹立ち混じりにそう考えていたモリセットだったが、そのときふと、木に突き刺さったままの矢に目を止めた。一点の汚れもない、白羽の矢。</p><p>（……待てよ、最初にネイハムを殺(や)ったのは、たしか黒羽の矢だったはず）</p><p>腰の剣を抜き、そっと壁の陰から突き出す。よく手入れしてある刃は、鏡のように周囲の景色を映し出した。襲撃者の矢に倒れた手下たちを見やると、その身体に突き立っているのもまた白羽の矢。</p><p>（黒い矢羽……）</p><p>モリセットの視線が、自然と、自分の矢筒に吸い寄せられる。</p><p>ぎっしりと詰まった、黒羽の矢束。</p><p>……まさか</p><p>たらり、と額を嫌な汗が流れる。</p><p>一本だけの黒羽の矢。</p><p>草原の民が得意とする、弓という得物。</p><p>モリセットを凌ぐ高い技量に、今宵この場所で襲撃してきたという事実。</p><p>それらの要素が絡まりあい、一つの推論へと収束していく。</p><p>あの野郎……ッ！</p><p>草原の民の格好をした青年。</p><p>成る程、『彼』ならば、モリセットたちを襲う理由は、充分すぎるほどにある―</p><p>（仇討ちに戻ってきやがったのかッ！）</p><p>―襲う相手を、間違えた。</p><p>苦虫を潰したような顔で、モリセットは天を振り仰いだ。</p><p>だが、いつまでも悔やんでいる暇はなかった。自分ひとりならまだしも、モリセットは手下たちの五人の命を預かる隊長だ。ここに隠れていたところで、壁は二面しかない。側面に迂回するぐらいのことは、子供でも思いつく。</p><p>（遮蔽物―林の方に逃げるしかねえな）</p><p>南の森は、矢を防ぐには絶好の場所かもしれないが、夜に踏み込むには木々が生い茂りすぎている。東西に広がる木立の方が、人の身には歩きやすいだろう。ではそのどちらへ逃げるか、とモリセットが考えを巡らせたところで、再び夜空に快音が響き渡った。</p><p>回り込まれたか、と肝を冷やしたが、自分たちに矢が飛んでくることはなく、ボフンッという音と共に焚き火の明かりが吹き飛ばされる。火勢が弱まり、暗闇が下りてきた。</p><p>（……矢で焚き火を吹き飛ばした？）</p><p>なぜ、と考えながらも、目を瞬いて暗闇に適応しようと試みる。そして不意に、『奴』も夜目が効く様子だったと思い当たり、モリセットはおぼろげに敵の考えを読み取った。</p><p>パヴエル、点眼しとけ。奴が仕掛けてくるぞ</p><p>はっ、はい</p><p>モリセットの言葉に、パヴエルが慌てた様子で懐を探る。取り出したのは、小さな金属製の容器。ふたを開け、白い液体を一滴、左目に垂らした。その薄く白濁した瞳に液体が触れた瞬間、パヴエルは うっ と苦しげな声を洩らす。液体は、とある猛毒を改良して作られた目薬で、点眼し続ければ色の見分けがつかなくなる代わりに、フクロウのように夜目が効くようになる。モリセットを含め隊の全員は、これを片目に点眼していた。</p><p>おい、煙玉持ってる奴いるか？</p><p>二個あるっす</p><p>オレも二個持ってます</p><p>一個だけなら……</p><p>続いたモリセットの問いかけに、口々に手下たちが答える。</p><p>よし。すぐにでも奴は迂回してくるはずだ。ちっとでも怪しい音がしたら、順番にばら撒きながら反対側に逃げるぞ</p><p>敵意を剥き出しに、唸るようにしてモリセット。</p><p>クソッお陰でとんでもねえ散財だ！　あの野郎、絶対ブッ殺してやる……ッ</p><p>腰のポーチから取り出した、直径五センチほどの球体に目を落とし、モリセットは鬱々と呪詛の言葉を吐く。</p><p>と、その瞬間、モリセットたちから見て東の茂みが、ガサガサと派手に音を立てる。それに混ざって聴こえる蹄の音―</p><p>来たぞッ東だ、最初は俺が撒く！　お前たちは走れ！</p><p>球体についていた紐を引っ張り、投げる。</p><p>これでも食らいやがれッ</p><p>煙玉(スモーク)。地面に叩きつけられたそれは、勢いよく灰色の煙を噴き出した。続いて手下たちが一つずつ投じ、廃墟の周辺はあっという間に濃い煙に包まれる。</p><p>視界を遮るよう手際よく煙玉を投げながら、モリセットたちは西に向かって一目散に逃げ始めた。</p><p>ワンテンポ遅れて、煙の尾を引くケイとミカヅキが、咳き込みながら煙幕の中から飛び出てくる。</p><p>ゲホッゴホッなんだこれッ！？</p><p>顔の前で手を振って煙を振り払いながら、慌てた様子でケイ。少なくともゲーム内にはこんな形の煙幕は存在しなかった。幸いなことに、煙に毒の成分は含まれてないらしい。</p><p>木立の奥、未だ濃く立ち込める灰色の煙を睨む。</p><p>…………</p><p>顔布の下の険しい表情。</p><p>先ほど、『襲撃者はケイである』という正しい推測をしたモリセットであったが、一つだけ大きな勘違いをしていた。</p><p>ケイの目的は仇討ちではなく、ましてや盗賊の皆殺しでもない。</p><p>モリセットたちが使った毒の種類を特定すること。</p><p>そして一刻も早く、アイリーンに解毒剤を処方すること。</p><p>その二つこそがケイの考える全てであり、他のことに気を回す余裕などなかった。むしろ、刻一刻とアイリーンが弱っていく現状、焦りすら感じていたといっていい。</p><p>周囲を見回して敵がいないことを確認したケイは、素早くミカヅキから下りて空き地に転がる盗賊たちを見て回った。</p><p>……死んだか</p><p>まるで他人事のように、ぽつりと呟く。身体に矢の突き刺さった四人。最初に仕留めた見張りは別としても、他の三人は即死ではなかった。念のため、使いかけのポーションを一瓶持ってきていたので、意識さえあれば助命を餌に、毒について聞き出せないかと考えていたのだが―。</p><p>……時間を無駄にした</p><p>緊張と焦りの色を濃くし、再びミカヅキに飛び乗る。矢筒から矢を引き抜いていつでも放てるように準備しつつ、盗賊たちの跡を追って木立に突っ込んだ。</p><p>（絶対に逃がさん……！）</p><p>煙幕は想定外だったが、追跡に支障はない。煙を辿っていけば逃げた方向は分かるし、ケイの視力を持ってすれば暗い木立の中でも盗賊たちを見つけられる。森の中では騎兵のアドバンテージ―機動力こそ活かし辛いものの、それでも構いやしないと思った。逃げるのであれば何処までも追いかけて、漏れなく矢を叩き込んでくれる。</p><p>アイリーンを救うことが至上命令であるケイにとって、盗賊の生死など心底どうでもいいことだった。裏を貸せば、情報さえ聞き出せるなら、生き残りは一人でも構わない―</p><p>……いた</p><p>早速ひとり、視界に捉える。時折こちらを振り返り、木の根に足を取られそうになりながら、必死で逃げる痩せぎすの男。きりきりと弓の弦を引き、ケイはどす黒い感情の赴くままに、迷いなくその背中に狙いをつける。</p><p>快音。</p><p>左手の強弓より放たれた銀光が、唸りを上げて盗賊に襲い掛かった。</p><p>しかし弓の音を耳にしてびくりと身体をすくませた男は、そのまま足を何かに引っ掛けて盛大に転んだ。男の頭上すれすれを、致命の一撃が切り裂いていく。身体を起こして、ますます必死に逃げ始める男。運の良い奴だ、とケイは嗤う。だが次はない、と矢をつがえる。胸の奥で、ぐらぐらと悪意が煮え滾るようだ。それは狩りの高揚に似ていた。</p><p>―強いてこのときの、ケイの失敗を挙げるとするならば。</p><p>それは、最初に四人を仕留め、迫撃の勢いに酔ううちに、『自分こそが狩る側である』と確信してしまったことだろう。</p><p>だが、こうして無様に逃げ惑う盗賊もまた、本来は他者を喰らう獣だ。</p><p>その性質は残忍。冷酷にして狡猾。</p><p>連携し、群れで追い込む狩りこそが―彼らの本領であり、真骨頂。</p><p>木立のどこかで、ピィッと指笛の音が響いた。</p><p>何だ、と思考するより早く、 オゥンッ！ と獣の鳴き声。</p><p>ミカヅキの足元の茂みから、夜の闇より黒い、大きな塊が飛び出してくる。</p><p>ハウンド―！？</p><p>体格の良い黒毛の狼が、大口を開けてミカヅキの前脚に喰らいついた。牙が食い込み爪で引き裂かれ、ミカヅキが悲鳴のようないななき声を上げて急停止する。暴れる馬上、必死でバランスを取りつつ、ケイは弓を引き絞った。</p><p>銀光が閃く。</p><p>水気のある音と共に、狼の胴を白矢の矢が撃ち抜いた。地面に縫い付けられ、吐血しながら身を震わせるハウンドウルフ。盛大にいなないたミカヅキが仕返しとばかりのその頭蓋骨を踏み抜き、蹄で粉砕する。飛び散る赤い色。</p><p>だが―奇襲はそれで終わりではなかった。ギリッと何かが軋む音に、ケイはハッと顔を上げる。前方、十歩ほどの距離。茂みから、木の陰から、革鎧に身を包んだ盗賊たちが姿を現した。短槍使いが一人、剣士が一人、弓使いが二人。</p><p>弓使いたちの背後、ケイが追いかけていた痩せぎすの男(モリセット)もまた、その手に弓を引き絞る。</p><p>毒の滴る鏃―</p><p>―やれッ！</p><p>その顔を凄惨な笑みで彩った、モリセットの号令一下。</p><p>鋭い風切り音とともに、一斉に毒矢が放たれた。</p><p>つよい（確信）</p><p>追伸. 2018/09/06</p><p>10. 逆境</p><p>―これは、捌ききれない。</p><p>ひと目見て即座に、ケイは悟った。</p><p>仮初(ゲーム)の、しかし豊富な戦闘経験が告げる。</p><p>自分はまだいい。矢の一、二本は避けられるだろう。だがミカヅキが避けるには―その体が、投影面積が大きすぎる。</p><p>身体を捻って一本は回避し、続くもう一本は右手の篭手で弾き飛ばした。が、最後の矢がミカヅキの胴体に突き刺さる。</p><p>―ッ！！</p><p>苦痛に身体をよじり倒れ伏すミカヅキ。その動きに逆らわず、ケイも半ば振り落とされるような形で転がり落ちた。柔らかな森の大地で受身を取り、衝撃を殺したケイはばさりとマントを翻して立ち上がる。</p><p>騎兵が地に落ちた。快哉を上げた盗賊たちが、武器を振り上げて殺到しようするが―</p><p>不意にその足が止まった。</p><p>貴様ら</p><p>低く抑えられた声から、滲み出る怒りの色。顔布の下、獣のように歯を剥き出しにしたケイは、燃え滾るような血走った瞳で盗賊たちを睥睨した。</p><p>ぶわりと。</p><p>澱んだ空気の森に、重たい風が吹き付ける。</p><p>ケイを中心に爆発した濃密な殺気に、圧倒されたモリセットたちは思わず息を呑んだ。</p><p>が、それも一瞬のこと。</p><p>まばたきほどの間に、ケイの強烈な殺気はぱたりと鳴りを潜めた。</p><p>唐突に。跡形もなく。</p><p>静かに佇むケイは、何も感じさせなかった。怒気も覇気も殺気もなく。</p><p>ただ茫洋として地を踏みしめる、まるで人形のような存在感―</p><p>（いや、違う！）</p><p>矢を引き抜こうとする体勢のまま固まったモリセットは、全身をぶるりと震わせた。背筋に焼けつくような感覚が走る。</p><p>これは、そう。</p><p>危機感だ。</p><p>胸の奥底で、直感(シックスセンス)が警鐘を鳴らしている。</p><p>それは、何も感じ取れないからこそ不味いと。それは、自分を超越した何かが、そこに潜んでいることの証左であると―</p><p>カァン、カンッと。</p><p>風にたなびくマントの下、軽やかに響く快音の二重奏。</p><p>前触れもなく、唐突に、革の生地を突き破った二筋の銀閃が奔る。</p><p>避―</p><p>けろ、というモリセットの警告を過去のものとして、眼前、弓を構えていた手下が二人、弾け飛んだ。</p><p>一人は額をかち割られ。</p><p>一人は右肩を粉砕され。</p><p>まるで独楽のように空中でくるくると―、そのまま地に叩き付けられる。</p><p>―ッぎやあああああああぁぁァァ！</p><p>衝撃で矢が折れ、肩の傷口をさらに抉られた弓使いが絶叫した。右肩を押さえて地面をのた打ち回る彼は、自分の身に何が起きたのかをまだ正確に把握できていない。風に翻弄される木の葉のように、濁流に呑まれた小魚のように、圧倒的な武を前にして無力。</p><p>（……何も、感知できなかった）</p><p>口の中がからからに乾いていた。モリセットの額からたらりと汗が滴り落ちる。</p><p>目と鼻の先に射手がいるにも関わらず。</p><p>風圧を感じるほどの至近距離であったにも関わらず。何も、感じられなかった。</p><p>これはひょっとすると、夢か幻ではないかと。そんな、現実感をも殺すほどの凄まじい一撃。</p><p>かろうじて理解できたのは、この青年がマントの下に弓を構え、視覚的にも射線の予測を出来なくした上で、またたく間に殺気のない矢を二連射してみせたということだ。</p><p>（なんて野郎だ……！）</p><p>そんなまるで曲芸のようなことを、実戦で事も無げに実行してみせた。とんでもない奴に手を出してしまった、と嘆くことも後悔することも、今のモリセットには許されない。粘り気すら感じる冷たい空気の中で、弓を握る手に力を込める。</p><p>（こいつに弓を使わせたら不味い）</p><p>あの乾いた音が鳴り響くたびに、手下が一人また一人と倒れていく。</p><p>そして―その『次』が、自分でない保証など。</p><p>ッ殺せェ―！！</p><p>自身の怯えを振り払うかのように、モリセットは腹の底から雄叫びを上げた。と同時に、新たに矢をつがえ、放つ。</p><p>おおよそモリセットがその痩身から発したとは思えぬ大音量に、硬直していた手下たちもハッと我に返る。慌てて剣を構え突撃する剣士、それに合わせて併走する短槍使い。</p><p>飛来した矢を事も無げに右手で払い落とし、冷めた目で 竜鱗通し を構えるケイ。前方の盗賊のうち次の標的を見定めようとするが、</p><p>（……待てよ）</p><p>ふとした違和感。目の前の盗賊たちを数えた。</p><p>弓使いが三人。短槍使いが一人。剣士が一人。</p><p>（―もう一人は、何処にいる？）</p><p>生き残りは、全部で六人いたはず―</p><p>ぴりっ、と背筋に微かな悪寒が走る。</p><p>上だ。樹上を見やれば、視界に大写しになる銀色に輝く刃、小柄な人影―</p><p>くぅッ！？</p><p>バク転をするように背後に向かって飛ぶケイ、その顔面に鋼の刃が襲い掛かった。裂かれる顔布、左の頬をびりびりと冷たいような熱いような感覚が走る。地に身を投げ出し、距離を取るためにごろごろと転がったが、襲撃者はその隙を逃がさない。</p><p>死ねッ！</p><p>それは、ショートソードを構えた小太りな男だった。体格に見合わぬ俊敏さで、あっという間に間合いを詰める。</p><p>短剣使いのラト。その見かけによらず身軽さと隠密技術を兼ね備え、奇襲・撹乱を得意とするモリセット隊随一のアタッカーだ。ケイが決定的な隙を見せるまで樹上で息を潜めていたが、満を持して牙を剥く。</p><p>突撃するラト、ぎらりと輝く凶刃。ケイの弓を封じるため、近接戦闘を挑む構えか。</p><p>その狙い通り、弓での迎撃は間に合わない―左手で 竜鱗通し を握り締めたまま、ケイは右手で腰のサーベルを抜き放つ。</p><p>シッ！</p><p>鋭い呼気と共にラトが刺突を繰り出した。対するケイは無言のまま、横殴りの一撃をその刃先に叩きつける。</p><p>ギィィンと甲高い音、暗い木立が火花の色に染まった。豪快に短剣が弾かれ、ケイの膂力に目を見開くラト。しかしそのまま驚きに囚われることなく、左手で黒塗りのナイフを引き抜き、ケイに向かって突き出した。</p><p>―踏み込みが浅い。まるで苦し紛れの一撃だ。身を引いて至近距離からのナイフを悠々と回避するケイ、だがその瞬間にラトはにやりと笑った。</p><p>キンッ、と金属音。肌を刺すような危機感。</p><p>ケイが反応するより早く、ナイフに仕込まれたバネが、勢いよく刃を射出する。</p><p>（弾道ナイフ？！）</p><p>何とか身体を傾け、あわやというところで直撃は避けた。首の皮が切り裂かれて焼け付くような痛みが走る。体勢が崩れたケイに、追い討ちを仕掛けるラト。ケイのサーベルの牽制を紙一重でかわし、容赦なくショートソードを振るう。</p><p>ぐうぅッ！</p><p>ケイの口から苦痛の声が漏れる。左肩の革鎧の隙間に刃がねじ込まれた。肉が抉られ、強烈な痛みに思わず弓を取り落とす。</p><p>力任せに体当たりを仕掛け、何とかラトを弾き飛ばしたものの、その背後からは長剣を振り上げた剣士と短槍使いが迫る。</p><p>これは―、まずい。自由の利かぬ左腕。素早く立ち上がった目の前の短剣使い(ラト)、その背後の短槍使いは槍ごと突進してくる構えだ。そして横の剣士の突撃も充分に勢いが乗り、一人離れた弓使い(モリセット)も虎視眈々とこちらを狙っている。</p><p>おそらく全員でタイミングを合わせて攻撃してくるだろう。特に脅威的なのは目の前の短剣使いと、距離を置いた弓使い。いずれかを迎撃すれば、他の攻撃をまともに喰らう羽目になる。さらに逃げを打つか―いやそれもまずい。立て直しがきかないままではいずれにせよジリ貧に―</p><p>ゆっくりと流れる時間の中、ケイは選択を迫られる。どの攻撃を受けるか、あるいは、いなすのか。</p><p>ぶるるぅォ！！</p><p>だがここで、倒れていたミカヅキが一石を投じる。口から血の泡を噴きながらも最期の力を振り絞り、半身を起こしてケイと対峙するラトに後ろ足を向けた。</p><p>それにラトが気付くのと、強烈な蹴りが放たれるのが同時。</p><p>ぶぅんと不気味な唸りを上げた蹄が、ラトの顔を直撃した。</p><p>ぼぐゥッ</p><p>おおよそ人の声とは思えぬくぐもった音を立てて、ラトの顔面が崩壊する。赤黒い血と肉片をばら撒きながら、小太りな身体が吹き飛んでいった。きりもみしながら、頭からぐしゃりと地面に落ちる―バウンドし、激しく痙攣を繰り返す肉体。</p><p>ラトぉッ！</p><p>こいつっ、よくもッ！</p><p>額に青筋を浮かべたモリセットが、ミカヅキに向かって矢を放つ。胴体に黒羽の矢が突き立ち、断末魔の悲鳴を上げたミカヅキは、今度こそ力尽きたようにどうと倒れた。</p><p>ケイの頭に、かぁっと血が上る。</p><p>貴様ァッ！</p><p>憤怒の形相。左頬を切り裂かれ血に塗れたケイの顔は、地獄の悪鬼が如き様相を呈している。だが、その姿は同時に満身創痍。どくどくと血を流す左腕はだらりと垂れ、得物は右手に握り締めるサーベルのみ。圧倒的に自分らが優勢であると知るモリセットたちは、ケイの気迫にも怯える様子を見せなかった。</p><p>ハッハハ、悔しいか！　嬲り殺しにしてやるッ！</p><p>残忍な笑みを浮かべて弓を引き絞るモリセット。短槍使いと剣士もまた、引きつったような笑みを浮かべている。</p><p>対するケイは、―逃げた。</p><p>くるりと踵を返し、モリセットの狙いを惑わすように、木々の陰に隠れながら走る。</p><p>ッ待ちやがれ！</p><p>慌てて追いかける剣士と短槍使い。</p><p>モリセットはひとり冷静に、その場から矢を放つ。</p><p>音と殺気で攻撃を察知し、小刻みに動いて矢を回避。ケイはモリセットを中心にして、円を描くように走った。その間にサーベルを口に咥え、右手で腰のポーチを探る。</p><p>取り出したのは、ひとつのガラス瓶だ。</p><p>その中でとぷんと揺れる、青色の液体―使いかけの高等魔法薬(ハイポーション)。</p><p>半分しか残っていないが、肩の傷を治療するには、これだけでも充分すぎるはずだ。瓶のコルクを親指で外す。</p><p>地面に目を走らせ、目当てのものを見つけた。</p><p>そちらに向かって走りながら、何度か深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたケイは肩の傷にポーションをぶちまける。</p><p>その瞬間、視界が真っ白に染まった。</p><p>『―痛えええええええええええぇぇぇええェェェェッッッッ！！！！！』</p><p>日本語。絶叫。</p><p>腹の底から絞り出したような、空気がびりびりと震える大音量。</p><p>ひとり叫ぶケイの右肩から、白い湯気のようなものが凄まじい勢いで立ち昇った。</p><p>激痛。</p><p>最早、そんな言葉では生ぬるい。</p><p>まるで肩の傷に塩を擦りこまれ、細胞をぷちぷちと針で潰されていくかのような。</p><p>やすりで肉を抉り、磨り潰され、熱した火箸で神経を引きずり出されるかのような。</p><p>今は怒りも憎しみも焦りも、全てが遥か彼方に吹き飛んでいた。吼える。目の前が白くなるような、痛覚の奔流。</p><p>ぐッうおおおおおおおおおおおおオオオオオオォォァァァァァァァァッッッッッ！</p><p>驚いたのはモリセットたちだ。追いかけていた満身創痍の青年がいきなり絶叫したかと思うと、肩から得体の知れない気体を噴き上げて猛烈に苦しみ始めたのだ。</p><p>ジュウウゥッ、と焼けた鉄を水に突っ込んだような音と共に、迸る涙をぬぐいもせずに慟哭する。口に咥えていたサーベルが地に落ちてカランと音を立てた。その肩から立ち昇る湯気のようなものが何なのか、理解の追いつかないモリセットたちは呆気に取られる。あるいは、彼らの目がケイ並みに良ければ、肩の傷口が真新しい白い皮膚に覆われていく様を見て取れたかもしれないが。</p><p>ぜえ、ぜえと。</p><p>……貴様ら、</p><p>肩で息をするケイは、ぎろりと目の前の盗賊たちを睨みつける。涙に濡れ、血走った両眼、開かれた瞳孔にモリセットの顔が映り込む。</p><p>―まとめてブッ殺すッ！</p><p>痛みを全て怒りに転化し、八つ当たりのように宣言。</p><p>乱暴にサーベルを拾い上げ、大地を蹴る。</p><p>停滞していた戦いの火蓋が、再び、切られた。</p><p>11. 対価</p><p>一瞬の間隙、そして突然の戦闘再開。</p><p>先に我に返ったのは短槍使いの男だ。腰だめに槍を構えて、迎撃の態勢を整える。</p><p>対するケイは右手にサーベルを構え、弓使い(モリセット)の存在を意識しつつも、剣士と短槍使いの間で視線を彷徨わせた。</p><p>そして、その黒い瞳が、すっと剣士に照準を合わせる。</p><p>たなびくマントの影、キンッ、と澄んだ音を立て、左手の指でポーションの瓶を弾く。剣士の顔を目掛けて、ガラス瓶がきれいな放物線を描いた。</p><p>それは投擲ですらない、ただ指で弾き飛ばしただけの攻撃。速度も殺気も威力も中途半端、だが中途半端であるが故に注意を引き付ける。</p><p>！</p><p>反射的に動いた剣士の長剣が、瓶を空中で叩き落とした。</p><p>破砕。</p><p>割り砕かれた瓶が細かな破片を飛び散らせ、その幾つかが剣士の顔に振りかかる。目には入らなかったが鋭利な破片が顔を切り裂き、剣士は うおッ と声を上げて一瞬たたらを踏んだ。</p><p>死ねやゴラァッ！</p><p>それをよそに、短槍使いの男が槍を繰り出す。弓を持たぬケイであれば、自分一人でも何とかなると思ったのか。あるいはケイの剣の腕は、短剣使い(ラト)にいいようにしてやられる程度で、それほど脅威ではないと軽んじたのか。</p><p>実際のところ、それはあながち的外れでもない。ラトには不意を突かれたとはいえ、事実としてケイは剣を苦手としている。</p><p>―弓(・)に(・)比(・)べ(・)れ(・)ば(・)。</p><p>うおおおッッ！</p><p>鋭い槍の一突き。短槍使いを睨みつけたケイは、横殴りのサーベルをもってそれの返答とした。サーベルの刃が短槍の柄を叩き、けたたましい金(・)属(・)音(・)が鳴り響く。柄を砕き折る勢いでサーベルを振るったにも関わらず、まるで傷一つ付かない短槍。</p><p>金属製。短槍使いの得物は、刃から柄に至るまで、その全てが合金で構成されていた。普通の槍に比べればかなり重量があるはずだが、木製に見せかけた塗装と、軽々と扱う短槍使いの技量が、その材質をケイにそれと悟らせなかったのだ。</p><p>眉をひそめるケイに動揺を見て取ったのか、にやりと口の端に笑みを浮かべた短槍使いは強引に槍を振るう。サーベルに弾かれて僅かに狂った軌道を腕力で修正し、穂先をケイに向かって勢いよく突き込んだ。</p><p>力押し。腕力に自信があるが故の選択。</p><p>しかし次の瞬間、それが悪手であったことを悟る。咄嗟にサーベルの刃の背に左手を添えたケイが、短槍使いを遥かに上回る膂力をもって、力比べを挑んできたからだ。</p><p>―おおおおぉぉッ！？</p><p>尋常でないケイの腕力を感じ取り、短槍使いはサーベルを撥ね退けようと全身全霊で力を込める。</p><p>しかし、押せない。</p><p>びくともしない。</p><p>むしろ槍の構えを無理やり押し広げられている。ただ槍にサーベルを添えられただけにも関わらず、ケイと短槍使いの攻防は一瞬で逆転していた。</p><p>がりがりと音を立てて、火花を散らすサーベルが槍の柄の上を滑走する。迫る鋼の刃。短槍使いが身を引くよりも早く、力任せに槍の防御を押しのけたケイが神速で懐へと踏み込んだ。</p><p>剣の間合い。レールのように槍の柄を奔ったサーベルが、短槍使いの手元へと辿り着き、当然のようにその指を切り飛ばす。</p><p>しかし刃は止まらない。指が地に落ちるよりも速く、サーベルが短槍使いの足の間に割って入る。鋼の凶器が男の内股を薙ぎ、左大腿動脈が切り裂かれ赤い血潮が噴き出した。</p><p>だがそれでも尚、無慈悲な剣舞は止まらない。ようやくケイの速さに知覚が追いついた短槍使いが、悲鳴を上げようと口を開く。だがその声が絞り出されるよりも先に、跳ね上がった刃が返す刀で首筋を撫でた。頸動脈を裂く、致命の一撃。</p><p>ごぽりと喉から湿った音を立てながら、血飛沫を撒き散らす短槍使い。力なく地に倒れ伏す彼に、しかし目もくれることもなくケイは半身を翻す。</p><p>真っ直ぐにサーベルを突き出した受けの構え。我流ではなく、明らかに修練を積んだと分かる滑らかな動き。</p><p>一瞬の間に、ケイはもう一人の剣士に対する防御態勢を整えていた。</p><p>ふッ……ざけるなァァァッ！</p><p>長剣を掲げて打ちかかりながら、突き動かされるようにして剣士の男は叫ぶ。</p><p>今しがた斬り捨てられた男は、隊でも随一の力自慢だった。合金製の槍を軽々と扱う膂力、そして長時間戦えるスタミナを兼ね揃えた、自他共に認める槍使いだった。</p><p>それが。</p><p>一瞬、投擲物に気を取られ、視線を戻したときには、サーベルの錆と消えていた。</p><p>まさに鎧袖一触。</p><p>なんという武威。なんという―理不尽。</p><p>（弓に加えて剣も一級だとッ！？）</p><p>剣士として、理不尽を感じずにいられない。こんな若さの青年が、何故これほどまでの力を―</p><p>しかし、それも当然といえば当然のことだ。</p><p>限りなく中世に近いファンタジー世界、 DEMONDAL 。文明の利器に甘やかされることなく育ったこの世界の住人たちは、無論、現代人よりも身体能力に秀でている。特に荒事を生業とするモリセットら一味は、膂力やスタミナにおいて、この世界の一般人をも大きく上回っていた。</p><p>が、対するケイは、その世界をモチーフとしたおとぎ話の国(VRMMO)からやってきた、最高の戦士の中でもさらに上位の存在だ。</p><p>その身体能力は、一言で言うなら化け物。</p><p>控え目に言っても人外クラスだ。</p><p>加えてケイは、ゲーム内でひたすら洗練され続けてきた汎用剣術を修めている。</p><p>プレイヤー同士が動画サイトで情報を共有し、合理的に数学的に、そして人間工学的に研ぎ澄まされてきたえ(・)げ(・)つ(・)な(・)さ(・)の結晶。</p><p>心臓や肝臓などの急所は当然として、全身の動脈や金的、眼球なども積極的に狙っていく。場合によっては武器を放棄することも想定されており、徒手格闘すらも『剣術』の範疇のうちに含まれる。</p><p>ケイの場合は筋力に優れるので技巧よりも力に重点を置き、守勢に回りつつもカウンターで急所を狙う、防御的な殺人剣がその基本だ。</p><p>ゲーム内では初歩の初歩とされる剣術だが、ケイはこれを完全にものにしており、上級プレイヤー相手に豊富な戦闘経験も積んでいる。基本ゆえに奇をてらった戦法には弱い節があるものの、ケイの”受動(パッシブ)“と併せれば、一対一で普通に戦う分には、滅多な相手に負けることはない。</p><p>―そう、例えば、目の前の剣士のような、普通の相手には。</p><p>くそがぁッ！</p><p>怒鳴りつけながら、上段に構えた長剣をケイ目がけて振り降ろす男。</p><p>自暴自棄とも取れる正面からの攻撃。殺気を感知するまでもなく、当然のように流れるように、そして機械的にケイは対応する。</p><p>上段から迫る長剣に、迎撃のサーベルを叩きつけた。防御というよりもむしろ、武器そのものを破壊するかのような手荒な一撃。</p><p>ギイィン、と鈍く刃が共鳴し、夜闇に火花が飛び散る。</p><p>ぐッ！？</p><p>刃がぶつかり合った瞬間に、剣士の手に長剣が吹き飛びそうになるほどの衝撃が襲う。鍔迫り合いになどなりようもなく、ただ弾かれる長剣。</p><p>そこで、その衝撃を逃がして回避行動を取るなり、別の手を打つなりすればよかったのだが―無理やり体勢を修正しようとしたのが彼の運の尽きだった。</p><p>中途半端に力の篭った構えに、ケイがぐいと割って入る。左手の篭手で剣を押しのけ、無理やりこじ開けるようにして肉薄した。そして突き込むサーベル、革鎧の隙間の喉元に鋭い刃が吸い込まれる。</p><p>こっぉ</p><p>喉を刺し貫かれ、カッと目を見開いた剣士は、そのままぐるりと目を裏返らせた。その身体から力が抜けるのと、微弱な殺気がケイを貫くのとが同時。即座にサーベルで串刺しにした死体を前面に掲げるケイ。</p><p>ドッ、と軽い衝撃が死体越しに伝わる。盾代わりにした剣士の背中に黒羽の矢が刺さっていた。</p><p>何なんだよ……何なんだよお前はァッ！？</p><p>見れば、最後の一人、引きつった顔のモリセット。ずっと弓で剣士を援護しようと構えていたのだが、ケイが射線に気を払い、剣士を盾にするように立ち回っていたため、ロクに矢を放つことができなかったのだ。</p><p>悲鳴のように叫びながら、弓を引き絞る。</p><p>その場にサーベルごと死体を打ち捨てたケイは、転がるようにして迫撃の一矢を避けた。そして、あらかじめ目星をつけていた『それ』を、拾いながら立ち上がった。</p><p>ケイの手に握られたそれを見て、今度こそモリセットは顔から血の気を引かせる。</p><p>朱色(あかいろ)の、弓。</p><p>木立の中、ほぼ無きに等しい星明かりを受けて尚、その朱塗りは美しくあでやかに。</p><p>矢がつがえられた。</p><p>ぎりぎりぎりと。まるで地獄の門が顎(あぎと)を開くが如く。</p><p>弦が引き絞られる。狙いはぴたりと、モリセットへ。</p><p>定められた。</p><p>モリセットの顔面をだらだらと冷や汗が伝う。その手から力が抜けて弓がこぼれ落ちた。触れた空気が弾けそうなほどに、張りつめた殺意がケイの全身から溢れ出している。</p><p>―What(何か) do you say(言うことはあるか)?</p><p>問いかけられたモリセットは、媚びへつらう笑みを浮かべようとして、失敗し。</p><p>それでも引きつった笑みに近い顔で、</p><p>I’m sorry(ごめんなさい)</p><p>カァン、と。</p><p>快音とほぼ同時、銀光がモリセットの右膝を撃ち抜いた。</p><p>―ッ！</p><p>声にならない叫び。膝小僧を貫くように、関節をまとめて破壊され、右足はその機能を喪失した。足をあらぬ方向へと折り曲げながら、モリセットは地面に這い蹲る。</p><p>―ぁ！　ぉ―ッッッ！</p><p>あまりの激痛に、しかし痛みのあまりもがくことすら出来ず、ひきつけを起こしたように身体を震わせ絶叫するモリセット。そんな彼をよそに、ケイはゆっくりと歩み寄りながら、新たな矢を引き抜いて弓につがえた。</p><p>しばし待つ。</p><p>肺の中の空気を根こそぎ絞り出し、呼吸もままならず喘ぐモリセットに、ケイは再び声をかけた。</p><p>お前にチャンスをやろう。俺の質問に答えろ</p><p>その言葉に、モリセットは脂汗にまみれた顔を上げ、じろりと目を細めてから悔しげに頷いた。</p><p>簡単な質問だ。お前たちが使っている毒の名前と系統を教えろ</p><p>……毒の名は 鴉の血 。系統は”隷属”だ……！</p><p>かすれた声で、モリセットが答える。“隷属”系統―村に残してきた解毒剤の一つが当てはまる。ケイは、自身の表情が変わりそうになるのを必死で抑えた。</p><p>……毒、あるいは解毒剤は、手元にあるか？</p><p>油断無く、いつでも矢を放てるように注意しながら、重ねて問う。</p><p>ある、両方とも……</p><p>胸元を探ったモリセットが、睨むようにケイを見上げながら、目の前に金属製と木製のケースを一つずつ置いた。</p><p>大きい方が毒、小さい方には、解毒剤が入っている……</p><p>分かった。もう少し前に押し出せ、俺が足で取れるように</p><p>弓をちらつかせながらケイ。この期に及んで、モリセットはそれ以上怪しい素振りを見せなかった。大人しく差し出されたケースをおもむろに拾い上げる。</p><p>大きい方のケースは、ガラス製の容器を木細工で覆ったものだ。中にはとろみのあるドス黒い液体。なるほど、見るからに『毒』という感じの代物だった。</p><p>対してもう一つの小さいケースは、ケイが持っているそれに近い丸薬入れだ。中には、ケイの持つ解毒剤より一回り小さい、白い錠剤がぎっしりと詰まっていた。</p><p>…………</p><p>しばし考え、ぱちんと丸薬入れのふたを閉めたケイは、毒薬入れを開けて無造作に自分の矢を突き入れた。かき混ぜる。鏃に付着するどす黒い液体―そして、自然にそれを弓につがえ。</p><p>放つ。</p><p>軽い音が共に、モリセットの左ふくらはぎに矢が突き立った。暗い木立に、再びかすれた悲鳴が響き渡る。</p><p>―なっ、なんでっ</p><p>お前が本当のことを言っているか確かめたい</p><p>いよいよ顔面を蒼白にして呻くモリセットに対し、淡々と言い放ったケイは、自前のポーチから赤色の丸薬を取り出した。無造作に、モリセットの眼前に放り投げる。</p><p>死にたくないなら飲め。それも”隷属”系の特効薬だ</p><p>…………</p><p>ハッハッ、と荒い息遣いのモリセットは、しばし視線を丸薬とケイの間で彷徨わせた。</p><p>しかし結局、のろのろとした動きでそれをつまみ、口に入れ、飲み込む。よほど酷い味なのか、顔を歪ませたモリセットがえずくような声を上げる。</p><p>…………</p><p>数秒、数十秒と過ぎても、モリセットの体調に異変はない。毒は隷属系、という事実に嘘はないようだった。このとき初めて、ケイは少し気を緩める。</p><p>……どうやら本当らしいな</p><p>……当たり前だ、……この期に及んで、つまらん嘘など……</p><p>足の傷の失血が響いてきたか、青白い顔でモリセット。</p><p>……その素直なところは評価する</p><p>じゃ、じゃあ……</p><p>わずかに希望の色を見せるモリセット。ケイは無言のまま、矢筒から新たな矢を引き抜いた。それを見たモリセットは再び滝のように冷や汗を流し始める。</p><p>お前に、もう用はない</p><p>なぁっ！？</p><p>無慈悲なケイの言に、モリセットが目を剥いた。</p><p>たっ、助けてくれるッて……</p><p>『助ける』とは一言も言っていない。『チャンス』と言っただけだ</p><p>冷たく言い放ち、ぎりぎりと音を立てて弓を引き絞る。</p><p>お前には『正直に真実を話すチャンス』をくれてやっただろう</p><p>そんな……</p><p>ケイの目を見て、そこに一切の希望がないことを悟ったのだろう、モリセットは唇をわななかせる。死神の足音が、すぐそこまで迫っていた。</p><p>そんなッ……あんまりだ……！</p><p>憎々しげなモリセットの呟きに、ケイは表情を険しくする。</p><p>……もはや、抵抗するすべを失った相手だ。</p><p>本当に殺すのか？　と心の中で。</p><p>そんな風に、ささやく声が。</p><p>だが、逃がすのは論外だし、手当をしなければどうせ死ぬ。</p><p>そして手当をしてやる時間も義理もない。</p><p>ならば。</p><p>―そもそも、こいつは俺を、俺たちを殺そうとしたのだ。</p><p>そう、自分に言い聞かせ。</p><p>ためらいを振り払った。</p><p>心を鬼にした。それを自らに強いる。</p><p>……許すわけにはいかない。死ね</p><p>快音。</p><p>モリセットが最期に見たのは、自身に迫る銀色の光。</p><p>そして弓を構えるケイの背後に、なぜか、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。</p><p>ひどく無邪気で、それでいて妖しい笑顔を浮かべる少女の姿を。</p><p>瞬間、水音を立て視界が真っ赤に染まり、意識が弾け飛んだ。</p><p>どちゃり、と地に崩れ落ちるモリセットを背に、ケイは急いでミカヅキの元へと走る。</p><p>全く身じろぎしない、褐色の毛並みのバウザーホース。その傍らに膝を突き、名前を呼んで首元に手を当てたケイは、しばしの沈黙のあと クソッ と毒づいて下唇を噛んだ。</p><p>ミカヅキの身体に、生命の鼓動はなかった。</p><p>抜け殻のようになったミカヅキ。目を閉じたまま、口から少量の血の泡を吐いて、息絶えている。</p><p>ミカヅキの胴に刺さった矢を見たときから薄々思ってはいたが、例え毒矢でなくとも、これはもう助からなかったかも知れない。狙い澄ましたかのように、腎臓と肝臓のある位置がやられていた。ポーションが数瓶はないと、とてもではないが治療しきれなかったであろう。</p><p>……痛かったろうな。ごめん</p><p>たてがみを撫で、語りかける。遺体を目の前にして、今更のようにじくじくと罪悪感が湧いて出てくるが、ケイには乗騎の死を悼む時間がなかった。</p><p>村の方角を見やる。</p><p>立ち上がろうとして、ふらついた。体が妙に重いことに気付く。</p><p>肉体的にも、精神的にも、ケイは限界寸前まで疲弊していた。当然かもしれない。異世界で、人生で初めてだらけのことに直面し、とうとう殺人にまで手を染めてしまった。</p><p>（……いや、だが、これはおかしい）</p><p>ただ疲れたにしては―妙な感覚がある。まるで、バケツに開いた穴から少しずつ水が漏れ出ていくような、そんな感覚が。</p><p>そこで、はっと気付いた。</p><p>（まさか……毒か？）</p><p>ケイ自身、盗賊たちとの戦闘で少なからず負傷している。思い出すのは短剣使い、無意識のうちにケイは首の傷に手を伸ばした。</p><p>奇襲や暗器のナイフなど、あのような搦め手を使う男が、毒の使用を避けるとは考えにくい。傷はそれほど深くないので、毒も微量しか盛られなかったのだろう。念のため、ポーチのケースから、赤色の丸薬を取り出して飲み込んだ。</p><p>……ぅぇ</p><p>たしかに、酷い味だった。ポーションなど比較にならないほど。吐き気を催したが、若干、身体が軽くなったような気もした。思い込み(プラシーボ)効果に過ぎないかも知れないが……。</p><p>……さて、</p><p>改めて村の方角を向き、ケイは考える。ここからタアフの村までは、ミカヅキをトップスピードで走らせて十分弱かかった。人の足ではどれほど時間を食うか―自分が村に戻るまで、アイリーンがもつか。</p><p>厳しいな……</p><p>ふぅ、と小さく溜息をついたケイは、そっと右手を首元に伸ばす。こうなれば、最終手段を使うしかない。ごそごそと首の周囲をまさぐり、篭手越しに細いチェーンを探り当て、ケイは胸元からネックレスを引きずり出す。</p><p>銀のチェーンの先には、薄緑色に透き通った、親指の爪ほどもある大粒のエメラルド。</p><p>それだけでひと財産になるような、最高級の品だ。ケイは右手にぶら下げたそれを眺め、ミカヅキの遺体に視線を移した。</p><p>……ミカヅキがいるんだから、お前も来てるんだろ</p><p>頼むぞ、と祈るような呟き。</p><p>Mi dedicas al vi tiun katalizilo.</p><p>囁くように”宣之言(スクリプト)“を唱え、そっとエメラルドに口づける。</p><p>直後。</p><p>くすくすくす、と。</p><p>押し殺したような、小さな笑い声が聴こえた。</p><p>何処から、とも言えない。</p><p>くすくす、くすくす、と。</p><p>草原の葉を揺らす風の音とともに。</p><p>ケイの周りを、あらゆる方向から、取り囲むように。</p><p>― Kei ―</p><p>耳元。</p><p>― Vi estas vere agrabla ―</p><p>耳朶を蕩かすような、甘えた囁き。</p><empty-line/><p>ピキッ、と小さな音が響いた。</p><p>手元。ぶら下げたチェーンの先、エメラルドに無数の傷が走っている。</p><p>見る見るうちに亀裂は数を増やし、緑から白へと色が変わっていくエメラルド。</p><p>やがて、パキンと砕け散ったそれは、砂よりも細かな粒子へと姿を変え、吹き抜けた風に誘われて夜闇の中に溶け去って行く。</p><p>それを見届けたケイは、虚空に向かって、その名を呼んだ。</p><p>Maiden vento, Siv.</p><p>すう、と呼吸を整えて、</p><p>Vi aperos(顕現せよ).</p><p>瞬間、ケイは身体の中からごっそりと、何か大切なものが奪い去られるのを感じた。</p><p>†††</p><p>ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……</p><p>ランプの炎が揺れる、薄暗い部屋の中。</p><p>ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……</p><p>しわがれた老女の声が、単調に文言を紡ぐ。</p><p>タアフの村、クローネン宅の一室。</p><p>小さな寝台の上に、熱に侵され未だ意識の戻らぬアイリーンが寝かされていた。そして寝台を囲むように、村人が四人。彼らはケイが出て行ったあとから、まんじりともせずに、その帰りを待ち続けていた。</p><p>一人は、寝台の近くに椅子を置き、発熱でうなされるアイリーンの世話を焼く、村一番の高齢者にして呪い師・アンカだ。</p><p>彼女は先ほどからずっと、村に伝わる治癒の文言を唱えながら、水で濡らした布でアイリーンの額に浮いた汗を丁寧に拭っていた。時折、急激に顔色の悪くなるアイリーンに、ケイから預けられたポーションを少しだけ服用させるのも、彼女の役割だ。</p><p>……アンカ婆さん、大丈夫か。もう夜も遅いし、なんだったら俺が代わるが</p><p>そんなアンカに、遠慮がちに声をかけたのは、壁際に控えていた村長の次男・クローネンだ。</p><p>いんや。この程度、どうってことないさね。心配しなさんな</p><p>アンカのゆっくりとした言葉に、 そうか、 と引き下がったクローネンは、どこか残念そうにすら見える。</p><p>元々、アイリーンの看病というよりはむしろ、彼女が盗賊団の一味であることを考慮して『見張り』の役割を与えられていたクローネンだったが、盗賊の仲間どころかアイリーンが本当に毒で死にかけていると知ったあとはひどく同情的で、今は自分から積極的にアイリーンの世話をしようとしていた。</p><p>自分が、自分こそがケイからアイリーンの世話を仰せつかったのだ、と使命感に燃えるアンカに、やんわりと助力を断られ続けられているが。</p><p>…………</p><p>アイリーンを心配する二人組をよそに、壁に寄りかかるようにして、ぼんやりと虚空を眺めているのは、特徴的な濃い顔立ちをした猟師・マンデルだ。</p><p>相変わらず彫の深い顔立ちのせいで、黙っていると何を考えているのか傍目にはよく分からない。ただ、今の彼は、ポーションのおかげで何とか命を繋いでいるアイリーンよりはむしろ、盗賊への戦闘に飛び出していったケイのことを心配していた。</p><p>あの、暗闇の中で蝙蝠を撃ち抜いて見せた弓の腕があれば、滅多なこともあるまいとは思いつつも、それでもやはり落ち着かない気分だった。そしてそれを考えて、連想するのはケイの持つ見事な朱塗りの弓だ。</p><p>あの矢を放つ際の音からして、かなり張りの強い弓であるはず。ケイが帰ってきたら触らせて貰えないだろうか、などと思考が若干呑気な方向に逸れていく。</p><p>そしてそんなことを考えているうちに、再びケイの安否が気になり、心配しては弓のことを考え……という思考のループを、マンデルは延々と繰り返していた。</p><p>……はぁ</p><p>部屋の隅、小さな溜息が響く。他の三人とは少し距離を取り、椅子に座って腕を組んだまま憮然とアイリーンを眺めているのは、村長のベネットだ。</p><p>（惜しい……）</p><p>アンカが、残り少なくなってきたポーションをアイリーンに飲ませるたびに、苦虫を噛み潰したような顔をする。</p><p>ベネットの気持ちを一言で表すならば、『勿体ない』だ。</p><p>致死の毒に侵され、死にかけている小娘を延命させるためだけに、目の前で極めて貴重な高等魔法薬(ハイポーション)が浪費されていく。これがあれば、タアフの村だけではなく、近隣の村も含めて毎年どれだけの子供が病や怪我で死なずに済むか、ベネットには考えるだに口惜しかった。</p><p>ケイは盗賊たちから毒の種類を聞き出し戻ってくる、とは言っていたが、それは流石に無理だろうというのが、ベネットの考えだ。</p><p>人数差の問題もあるが、そもそも悪名高い”イグナーツ盗賊団”を相手にしているのがまずい。ここ数年は大人しくしているようだが、一時期は”イグナーツ”の名を聞くだけでも歴戦の傭兵たちが尻ごみするほどに凶悪な武装集団だったのだ。</p><p>ケイは質の良い馬を持っているので、あるいは逃げ帰ることくらいはできるかもしれないが、仮に話を聞くために戦闘に陥ったならば、ケイは生きて帰って来ないだろうとベネットは予測している。</p><p>そこにきて、余所者の小娘のためだけにポーションを浪費―。</p><p>（口惜しい……）</p><p>ぎり、と歯噛みしながら、ひとり嘆く。</p><p>実は先ほど、ベネットは他三人に、アイリーンにポーションを飲ませるのをやめよう、と提案していた。あえて回復させずに毒で死なせてしまい、ケイが帰ってきた場合は ポーションを使い果たしてしまったので、治療しようがなく死んでしまった と説明しつつ、実際には何本かのポーションをネコババしてしまってはどうか、と。</p><p>しかしこれは、三人全員に止められた。</p><p>あのお方は必ず帰ってくる！　と根拠なしに言い張るのがアンカ。</p><p>それは流石に酷い、と人が良すぎることをぬかすのが、クローネン。</p><p>そして、 俺じゃアイツ相手に嘘をついてバレない自信がない といって加担することを拒んだマンデル。</p><p>三者三様ではあったが、あのマンデルをして、かなり強硬な態度で反対されてしまったので、ベネットも渋々引き下がったのだが。</p><p>（それにしても、のう）</p><p>惜しい。あまりに惜しい、と。</p><p>アイリーンにポーションを飲ませるアンカの後ろ姿を見ながら。ベネットの表情がさらに渋くなる。</p><p>（……まぁ、仕方がないのかのぅ）</p><p>はぁ、と今一度、小さく溜息をつこうとした―その瞬間。</p><p>びゅごう、と。</p><p>家の外で、風が吹いた。</p><p>……？</p><p>ただ、風が吹いただけ、のはずだったのだが。</p><p>何か違和感を感じたベネットは、羊皮紙で塞がれた窓に、すっと視線をやる。</p><p>ぱさ、ぱさ、と。</p><p>不自然に、窓の羊皮紙が動く。</p><p>なにか―冷たい空気が。</p><p>突如、ごうっと音を立てて、部屋の中に一瞬だけ突風が吹き荒れた。</p><p>うおっ！？</p><p>なんじゃ！</p><p>それぞれ、驚きの言葉を口に。部屋にまで不自然に入(・)っ(・)て(・)き(・)た(・)強い風に、部屋の中を照らしていたランプの火が、全て吹き消された。</p><p>真っ暗になった部屋の中―何も見えない。</p><p>はずが。</p><p>その暗闇の向こう側に、ベネットは、そして部屋に待機する一同は。</p><p>ひとりの、羽衣をまとった、あどけない雰囲気の少女の姿を幻視した。</p><p>うおおおッ！？</p><p>なんだお前は！！</p><p>動揺して素っ頓狂な声を上げる男性陣。が、それに対してアンカだけは、</p><p>せっ、精霊様じゃああああああぁぁ！！</p><p>無邪気な笑みを浮かべる少女の姿に、テンション爆上げで絶叫する。</p><p>精霊！？　これが……？</p><p>まるで幽霊か化け物のようだ。『そこにいる』はずなのに上手く知覚できない、存在そのものが希薄に感じられる『何か』の出現に、神聖さよりもむしろ不気味さを感じてしまったベネットは思わず疑わしげな声を出す。</p><p>そんなベネットたちの姿に、くすり、と口元をほころばせた少女は、</p><p>― En la nomo de miaj abonantoj, mi transdonu lian mesagxon ―</p><p>あどけない雰囲気には不釣り合いなほど、艶やかな声で一同に告げた。</p><p>おお、ありがたやありがたや……</p><p>婆様、何を言っているのか、分かるのかっ？</p><p>羽衣の少女が何を言ったのか全く理解できなかったベネットは、両膝を床に突き手を擦り合わせて有難がり始めたアンカに勢い込んで尋ねるも、</p><p>分かるわけないさね、精霊語だよこれは！</p><p>気の抜けそうな返答に、ずりっと椅子から滑り落ちそうになった。</p><p>分からんのに、ありがたがっとるのか！</p><p>このような美しい精霊様がおっしゃることぞ、ありがたいお言葉に違いないさね！</p><p>そんな馬鹿な、と思わず呆れたベネットが、さらに言葉を続けようとしたとき、</p><p>『―聞こえるか？　ケイだ、アンカの婆さん、聞こえるか』</p><p>部屋の中に、『ケイ』の声が響き渡った。</p><p>―ケイ！　ケイなのか！？</p><p>目を見開いたマンデルが、大きな声で問う。</p><p>『―時間がないので手短に言う。俺の契約精霊に、声を運んで貰うことにした。毒の系統は”隷属”で、特効薬は赤色の丸薬だ。アンカの婆さん、特効薬は、赤色の丸薬だ。一粒でいいから飲ませてやってくれ、頼んだ』</p><p>ケイ、今お前はどうしてるんだ！　どこにいる！？</p><p>マンデルが少女に向かって問いかけるも、少女も、ケイも、何も答えない。</p><p>― Jen cio ―</p><p>ただ、それだけ、短く告げた少女は。</p><p>ごうっ、と部屋の中に再び風を巻き起こし。</p><p>次の瞬間には幻のように消えていた。</p><p>…………</p><p>呆気に取られて、しばし、部屋の中が沈黙に包まれる。</p><p>……赤色の丸薬！</p><p>最初に我に返ったのは、やはりというべきか、アンカであった。</p><p>クローネン！　火じゃ！　明かりを！</p><p>あっ、ああ、わかった！</p><p>アンカに命じられたクローネンが、どたどたと慌てて部屋を出ていき、すぐに外から火種を取って戻ってきた。</p><p>ランプに火を灯し、光源を確保。</p><p>アンカは懐を探って、ケイから預かっていた丸薬を取り出す。</p><p>―そして、あった。確かにあった。</p><p>赤色の、丸薬。</p><p>お連れの方を、今お助けしますぞ……！</p><p>震える手で、それをつまみあげたアンカは、アイリーンの唇を開き、少量の水とともに飲み込ませる。</p><p>果たして―アイリーンは。</p><p>†††</p><p>数十分後、タアフの村に、汗まみれになった一人の男が走って戻ってきた。</p><p>ケイだ。</p><p>脳筋戦士(ピュアファイター)の分際で魔術を行使したせいで、魔力の反動で危うく死にかけたケイだが、その直後に無理を押し通して数キロの道のりを全力疾走したため、吐き気と疲労の二重苦で息も絶え絶えであった。</p><p>頬を切り裂かれ、右肩も血塗れ、顔面は蒼白で幽鬼じみた雰囲気を漂わせるケイに、警戒を担当していた村人たちも村長を呼ぶことすらせず黙って道を開けた。</p><p>ふらふらになりながらも、村の中を駆け抜ける。砂利道を抜け、見覚えのある小さな家、クローネンの家へ飛び込んだ。</p><p>アイリーンッ</p><p>ばん、と小さな部屋の扉を開けると、蝋燭の薄明かりの中、寝台を取り囲んでいた四人の村人たちがサッと振り向いた。</p><p>どッ、どうなッ、アイリーンッ</p><p>ケイ殿、落ち着いて下され</p><p>寝台脇の椅子から立ち上がったアンカが、酸素不足に喘ぐケイの手を引いて、寝台の横までいざなった。</p><p>貴方のご尽力で―助かりましたぞ</p><p>寝台の上。</p><p>穏やかな顔で、すやすやと寝息を立てる、アイリーンの姿があった。</p><p>……ああ</p><p>へたり込むようにして、寝台の横で膝を突き、ケイは泣きそうになりながらアイリーンの髪を撫でた。</p><p>指に伝わる、確かな暖かみ。生きている。</p><p>―よかった。</p><p>色々と考えることも、後悔することも、あるが。</p><p>どうにかアイリーンだけは、助けられた。</p><p>よかった、……ほんとうに、</p><p>ほっと安堵の溜息をつくと同時。</p><p>ふらりと力なく、寝台に突っ伏したケイの意識もまた、泥のような疲労に引きずられ。</p><p>そのまま、暖かで心地よい闇の中へと沈んでいった。</p><p>12. 遺物</p><p>少しばかりグロい部分があるかもしれませんので、苦手な方は注意です。</p><p>夢すら見ない、深い眠りだった。</p><p>はっ、と突然、覚醒するようにしてケイは目を覚ます。</p><p>水の底から水面へ、一気に引き上げられたかのような感覚。窮屈な寝台の上、目に飛び込んできたのは木造の梁が剥き出しになった天井。ぼんやりとした眠気の残滓を振り払い、ケイはがばりと上体を起こす。</p><p>そこは、こぢんまりとした部屋だった。</p><p>開け放たれた窓からは、穏やかな太陽の光が差し込んでいる。埃のない、清潔に保たれた空間。しかし木箱(チェスト)や虫除けの乾燥ハーブの束、折りたたまれた毛皮など、所狭しと詰め込まれた雑多な生活物資が、物置然とした印象を与える。</p><p>どこか―見覚えが、あった。</p><p>（あれ、ここってアイリーンが寝かされてた部屋じゃ……）</p><p>たしか、クローネン、村長の次男の家だったはず。しかし小さな部屋の中に寝台は一つしかなく、そして当然のように、ケイは一人でそれを占有していた。</p><p>アイリーン。</p><p>……何処行った！？</p><p>叫びながら飛び起きようとした矢先、左の頬を不意に襲った鋭い痛みに、 おぅふ…… と呻いたケイは動きを止め、恐る恐るといった様子で顔に手を伸ばした。</p><p>ざらりとした感触と、疼くような痛み。どうやら左頬には湿布のような、包帯のようなものが当てられており、かさぶたのようにくっついているらしい。そこでケイは、昨夜、盗賊と交戦中に短剣で切り裂かれた頬の傷を、そのまま放置していたことを思い出した。</p><p>（誰かが手当てしてくれたのか……）</p><p>触れた指先に、つんと鼻の奥にしみるような薬液の匂いが付いている。おそらくは村の薬師を兼ねている、呪い師のアンカの手によるものだろう。口の中、舌で頬をつついて痛みを再確認したケイは、これからはしばらく喋るのにも物を食べるのにも苦労しそうだ、と少しばかりブルーになった。</p><p>いやしかし、そんなことはどうでもいいのだ、今は。</p><p>アイリーン。アイリーンどこ行った。</p><p>寝床から抜け出し、バンッと勢いよく扉を開いて部屋の外へ出る。</p><p>が、それほど大きくはない上に、構造も単純なクローネンの家だ。扉を開けると、すぐそこは居間だった。部屋の真ん中に置かれた食卓、席について今まさにスープを食べようと、スプーンを手に あーん と大口を開けた幼女と、ばっちり目が合った。</p><p>…………</p><p>ケイは扉を開け放った格好のまま、幼女はスプーンを口に運びかけた姿勢のまま、それぞれ固まる。</p><p>可愛らしい女の子だった。歳は三、四歳といったところだろうか。肩まで伸ばした栗色の癖毛、あどけなさを漂わせる顔にはそばかすが散っており、とび色をした両の瞳は、ケイに視線を釘付けにして大きく見開かれている。まるで森の中で熊にでも遭遇してしまったかのような固まり具合。</p><p>……やぁ</p><p>ぎこちなく、笑みを浮かべたケイは、とりあえず幼女の緊張をほぐそうと、片手を上げて対話を試みる。</p><p>しかしケイは、自分の現在の格好をすっかり失念していた。</p><p>重武装な上に、装備は自他問わぬ血液でデコレーション済み、この世界の住人の中では頭抜けて筋肉質で大柄な体格と、頬の傷のせいで引きつった笑みは威嚇の表情にしか見えず、それは、いたいけな幼女を怯えさせるには充分に凶悪な様相で、</p><p>キャ～～～～ァ！</p><p>一拍置いて、本人としては必死な、可愛らしい悲鳴を上げた幼女は、椅子から飛び降り ママーッ！ と叫びながら、とてとてと家の外へ走り出ていった。右手にスプーンを握りしめたまま。</p><p>あとには、しょんぼりと手を下ろすケイと、食卓の上で湯気を立てるスープだけが残される。</p><p>しばらくして、ぱたぱたと家の外から近づいてくる足音。</p><p>お目覚めになったんですね。お早うございます</p><p>家の中に入ってきたのは、そばかす顔の若い女だった。洗い物でもしていたのだろうか、濡れた手を前掛けで拭きながらぺこりと頭を下げる。</p><p>どこかで見たことがあるぞ、とケイはしばし考え、このそばかす顔の女は、昨夜村長の家で歓待を受けていた際、アイリーンが死にかけていることを伝えにきた者であることを思い出す。状況から考えるに、クローネンの妻だろうか。</p><p>お早う。申し訳ない、どうやら娘さんを酷く怖がらせてしまったようだ</p><p>おどけたように肩をすくめ、戸口に目をやった。</p><p>扉の外から半分顔を覗かせていた幼女が、さっと扉の裏に隠れる。</p><p>いえ、うちの子はあまり、村の外の人には慣れていませんから……緊張しているんでしょう。ジェシカ、出ておいで</p><p>やっ！</p><p>ジェシカと呼ばれた幼女の声が、扉の外から返ってきた。こりゃ嫌われたもんだ、とケイも苦笑する。</p><p>あ、わたしは、クローネンの妻のティナです</p><p>俺はケイだ、よろしく。ところで、少々聞きたいんだが、昨夜、俺の連れがここで厄介になっていたと思う。彼女は今どこにいるんだろうか？</p><p>お連れの方でしたら、村長の家に</p><p>ハキハキと答えたティナの言葉に、ケイはほっと安堵の息を吐いて、</p><p>そうか、もう意識は戻ったか……</p><p>あ、いえ、まだ眠られたままみたいです</p><p>えっ？</p><p>意識を取り戻したので村長の家に招かれている、と解釈したのだが、違ったようだ。ではなぜ自分と場所をチェンジしたのか、と問えば、</p><p>その、昨日夫たちが倒れたケイさんを運ぼうとしたのですが、重くてなかなか動かせず、代わりにお連れの方は凄く軽かったので、ケイさんをウチに泊めてお連れの方を村長の家に移した方が楽という結論に……</p><p>成る程、それは……ご迷惑をおかけした</p><p>がたいがデカい、筋肉質、完全武装、と三拍子そろえば、それは重いだろう。見れば、篭手や脛当て、兜など幾つかの装備は外されているようだが、革鎧の胴やその下の鎖帷子だけでも十分に重量はある。</p><p>しかし、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を含め、外された装備はどこに行ったのだろうか。</p><p>あ、お預かりしている武具は、村の革細工の職人が手入れをしてるはずです。お義父さ―村長が命じたとか</p><p>腰の鞘があったあたりに手を伸ばし、さり気なく視線を彷徨わせたケイに、目ざとくその意図を察したティナが告げる。</p><p>そうか、ありがたい</p><p>物が物だけに盗られるとも思っていないが、はっきりと知らされるとやはり安心できるものだ。</p><p>（しかし……、もしこの村が悪人ばかりだったら、俺が意識を失った時点でアイリーン共々身ぐるみを剥がされていても、おかしくなかったわけか）</p><p>村ぐるみの追剥。</p><p>ゲーム内にはそこまで酷い罠は存在しなかったが、中世の資料などでは度々その存在が言及されている。もし、このタアフの村がその一つであったならと考えると、なかなかに恐ろしいものがある。</p><p>たまたま善人が多かったからよかったものの、一歩間違えば危なかった、と振り返る。やはり昨夜の自分は、冷静なつもりだったが、何かしら動転していたのだろうか。</p><p>…………</p><p>突然、ケイが厳しい顔で考え込んでしまったので、何か機嫌を損ねるようなことでもあったのかと、真意を量りかねたティナが困惑の表情を浮かべた。</p><p>しかし、その沈黙が長くなる前に、</p><p>よお、目が覚めたのか</p><p>戸口から声をかけてきたのは、ピッチフォーク―四、五本の歯を持つ熊手のような農具―を肩に担いだクローネンだった。額に薄く汗をかいているところを見るに、農作業をしていたのか。</p><p>ああ、ぐっすりと眠ったおかげで、随分と元気になったよ。迷惑をかけた</p><p>なに、気にするな</p><p>ケイの謝意に、小さく笑みを浮かべるクローネン。昨夜に比べると随分とフレンドリーな様子に、おや、とケイは小さく首を傾げる。</p><p>そういや、あんたが目を覚ましたら、話があるって親父が言ってたんだ。来るか？</p><p>村長の家か？</p><p>そうだ</p><p>アイリーンの様子も見に行きたいケイとしては、是非は無い。</p><p>ああ、行こう</p><p>重々しく頷いたその瞬間、ケイのお腹がぐぅぅ、と盛大に音を立てた。</p><p>…………</p><p>何が起きたのか理解できないケイ、目をぱちくりさせるクローネン。ティナが ふっ と声を出し、震えながら口を押さえてケイに背を向けた。</p><p>おなかすいたの？</p><p>いつの間にか、クローネンの影に隠れるようにして足にしがみついていたジェシカが、舌足らずな声で聞いてくる。</p><p>どうやら、そのようだな</p><p>まるで他人事のケイの返答に、噴き出したクローネンとティナが声を上げて笑う。ケイとしては至極真剣に、幼少期以来の 空腹で腹が鳴る という現象に感心していたのだが、その真面目くさった態度が尚更笑いを誘うらしい。</p><p>ティナ、まだスープはあったな？</p><p>笑いを噛み殺しながら、クローネンが尋ねた。</p><p>ええ、あるわよ</p><p>この腹ペコの客人に昼食を。俺は親父を呼んでくる</p><p>わしゃわしゃとジェシカの頭を撫でつけてから、クローネンはそそくさと家を出て行った。家の外から押し殺したような笑い声。残されたジェシカが、スプーンをキャンディーのように舐めながら、くりくりとした目でケイを見上げている。</p><p>その、お席にどうぞ。庶民のスープですけど、お口に合うかどうか</p><p>かまどの鍋から木の器にスープをよそったティナが、ケイに笑いかけた。今更のように恥ずかしくなったケイは、赤面しながら ありがとう と席に着く。</p><p>おなかぺこぺこ～</p><p>ジェシカもケイの対面に座り直し、テーブルの下で足をぶらぶらとさせながら、スープを食べ始めた。</p><p>ケイもティナから木のスプーンを受け取り、供されたスープを口に運ぶ。黄色の、とろりとした液体。口にした瞬間、ざらっとした舌触りと、仄かな甘みのある素朴な香りが広がった。塩以外に調味料は使っていないようだが、素材が良いからか、野菜の旨みが生きている。</p><p>……美味しい。これは？</p><p>かぼちゃのポタージュです。パンと一緒にどうぞ</p><p>そう言って、ことりとテーブルに置かれる堅焼きのパンの籠。かなり堅いが、スープに浸してふやかすと食べやすいようだ。</p><p>野菜と穀物中心のさっぱりとした食事だったが、一口味わった途端に猛烈な空腹を自覚したケイは、頬の痛みも忘れてモリモリと食べ始める。</p><p>食べながら、ジェシカが全くパンに手を伸ばさないことを不思議には思ったが、どうやら幼い彼女にとって堅焼きのパンは食べづらいので、代わりにスープに穀物を入れリゾットのようにして食べているらしい。</p><p>にこにこと鍋をかき混ぜるティナは、時折申し訳なさそうに器を空にするケイにお代りを継ぎ足しながら、そんな二人の様子を見守っていた。</p><p>戻ったぞ～</p><p>クローネン宅から村長の家までは、それほど離れていない。しかしある程度ケイが落ち着くタイミングを計っていたのだろう、たっぷりと時間を置いてからクローネンが戻ってきた。</p><p>ケイ殿、お目覚めになられたのですな</p><p>杖を突きながら、ベネットが中に入ってくる。その背後には、愛想笑いを浮かべたダニーの姿もあった。</p><p>おじーちゃん！</p><p>ちょうど食べ終わっていたジェシカが、スプーンを置いて きゃー と声を上げる。</p><p>おお～ジェシカや～、今日も元気かのぉ～</p><p>普段から好々爺然とした笑顔を張り付けているベネットだったが、この時ばかりは本当にだらしなく相好を崩し、 おじいちゃんだよ～ と言いながら孫娘の額にぶちゅ～っとキスの雨を降らせる。あごひげがくすぐったそうにしながらも、キャッキャとはしゃいでいるジェシカ、そんな祖父と孫の姿を穏やかな笑顔で見守るクローネンとティナの夫婦。</p><p>しかし、そんな穏やかな雰囲気の中でただ一人、ダニーだけはどこか、取ってつけたような乾いた笑みを浮かべているのが、ケイには印象的だった。</p><p>さて、ジェシカや。もうお腹も一杯になったじゃろう、お友達と遊んでおいで</p><p>おじーちゃんは？</p><p>あとで一緒に遊んであげよう。でも今は、このお兄さんとお話をしなければならないんじゃよ</p><p>ん～……わかった</p><p>意外と聞き分けの良いジェシカは、そのままぴょんと椅子から飛び降りて、ぱたぱたと外に走り出ていく。</p><p>……可愛いお孫さんだ</p><p>間違いありませんな</p><p>ケイの言葉に、うむ、と重々しく頷くベネット。</p><p>その間にも、食器を手早く片付けたティナが、あらかじめ沸かしていたお湯で人数分のハーブティーを淹れ、 洗い物をしてきますね と食器を手に、さり気なくその場から席を外す。</p><p>後には、男たちだけが残った。穏やかな団らんの空気が、自然と引き締まっていく。</p><p>さて、ケイ殿。お身体の調子はいかがですかな</p><p>ケイの対面の席に着きながら、ベネット。ダニーがその横の椅子に腰を下ろし、クローネンはケイの隣で椅子を引いた。</p><p>すこぶるいい。今しがた、馳走になったおかげで腹も膨れたし、大変美味だった。それと、この傷を治療してくれたのは、アンカの婆さんかな</p><p>思い出したように、ずきずきと痛む頬の傷を撫でながら、ケイ。</p><p>そうですじゃ。あの婆の特製軟膏は、効きますぞ。流石に、ケイ殿のポーションには敵いませんがの</p><p>そうか、あとでお礼を言わねばな……。それと村長、俺の武具の手入れまで手配してくれた、と彼の妻から聞いたが</p><p>ケイが隣のクローネンを見やりながら言うと、ベネットはにこりと笑みを浮かべて、</p><p>せっかくのお見事な武具が、返り血で痛みかねませんからの。僭越ながら村の職人に手入れをしておくよう、命じておったのです。とはいえ、こちらの独断となってしまいましたが―</p><p>いや、こちらとしても助かった。ありがとう</p><p>それならば僥倖ですじゃ。困ったときはお互い様と言いますからの……ああ、あとでその胴鎧も修繕しておくよう、命じておきましょうぞ</p><p>愛想よく話を進めるベネット。それに付き合って愛想笑いを張り付けたケイは、タダより恐ろしいものはないな、と心の中で呟いた。</p><p>それで、話があるとのことだが</p><p>おお、そうでしたの</p><p>ケイの言葉に、ベネットがぽんと手を打ってみせる。わざとらしいというよりも、予定調和な言動。</p><p>話とは、昨日の盗賊のことですじゃ。昨夜は、詳しいお話を伺おうにも、お疲れの様子でしたからの……</p><p>申し訳ない</p><p>お気になさらず。して、事の顛末をお聞かせ願えますかな</p><p>もちろん</p><p>ベネットたちに、昨夜、村を出た後のことを話して聞かせる。ミカヅキを駆り現場に戻り、そのまま野営していた盗賊たちを襲撃したこと。その戦闘でミカヅキを失った代わりに、盗賊たちを全滅させたことなど。</p><p>全滅……</p><p>ケイの言葉を反芻するかのように、ベネット。</p><p>十人近い敵を相手にして戦闘に勝利し、なおかつ全滅させるなど、にわかには信じがたい話だ。しかし、少なくとも何人かを殺害しているのは、ケイが浴びた返り血を見れば明らかだった。</p><p>成る程。話は分かりました、……場所は、『岩山』の近くなのですな？</p><p>そうだ</p><p>賊どもの死体は、いかがなされましたかの？</p><p>そのまま放ってきた。色々と値打ちのありそうなものもあったが、回収する時間も余裕もなかったからな</p><p>ケイがそう言うと、ベネットとダニーの目がきらりと輝いた。思わず苦笑しそうになる。この話の方向性が見えてきた。</p><p>となれば、やはり回収しに行くべきでしょうな</p><p>……そうだな。案内しよう</p><p>ふぅむ、しかしケイ殿は昨日の戦いお疲れでしょう、今日はゆっくり休まれては如何ですかな</p><p>そうです、『岩山』であれば場所はわかりますし、わざわざケイ殿のお手を煩わせるまでもありませんぞ</p><p>ベネットが言い、ダニーがそれに乗っかる。</p><p>それに対し、少しばかり影のある哀しげな表情を作ったケイは、</p><p>馬を、そのまま置いてきているのでな。まずは直接、弔ってやりたい</p><p>なるほど。そういうことでしたら……</p><p>これ以上、ついてくるなとも言えない。</p><p>いやはや、お手数ですがケイ殿、案内をお願いしてもよろしいですかな</p><p>もちろん、俺に是非は無い。この村の人々には大変よくしてもらっているし、このぐらいはしないとな</p><p>ははは、と朗らかに笑った一同は、物資回収の準備をするために一度解散する運びとなった。</p><p>クローネンは人手を集めに。ケイは胴鎧の修繕と、残りの武具を回収するために革職人の所へと向かう。</p><p>……『この村の人々には大変よくしてもらっている』、か。言ってくれるわい</p><p>自宅へ引き返しながら、ベネットは隣のダニーにぼやくようにして呟いた。それを受けて、小さく肩をすくめたダニーは、</p><p>案外、本当に馬を弔いたいだけかも知れんぞ、親父</p><p>さてな</p><p>長年を馬と共に過ごす生粋の草原の民ならともかく、どこか胡散臭く感じられてしまうのが、あのケイという男だった。</p><p>まあ、いずれにせよ、そこまで甘くはなかろうさ</p><p>たしかにの</p><p>流石に少しわざとらしすぎたかの、とベネットは苦笑する。そんじょそこらの追剥と違って、イグナーツ盗賊団ほどの規模の盗賊団ならば、そこそこ質の良い武具を使っているはずだ。あわよくば剣の一、二本でも誤魔化せれば、と思っていたのだが、そうは問屋がおろさないらしい。</p><p>まあ、なるようになるじゃろ。取れるだけの物は取ってこい、ダニー</p><p>分かってる。荷馬車を使うぞ、親父</p><p>ほくそ笑む親子二人は、体格こそ違えど、やはり似たような顔をしていた。</p><p>†††</p><p>革職人に胴鎧を預け、代わりに籠手や脛当て、兜などを受け取ったケイは、村長の家に戻っていた。</p><p>ケイが訪問した際、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を惚れ惚れと見つめていた年配の革職人は、 この弓に使われている皮膜は何なのか としきりに尋ねてきた。</p><p>正直に 飛竜(ワイバーン)の翼の皮膜だ と答えたケイだが、大笑いした職人はさもありなんといった風に何度も頷き、 そりゃ見たこともないわけだ！ と随分と面白がっていた。どうやら冗談だと思ったらしい。</p><p>逆にそのあと、ケイの革鎧一式が森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)の革だと知った途端、職人がおっかなびっくりな手つきで革鎧を扱いだしたことが、ケイには可笑しかった。</p><p>（人を驚かせたいなら、適度な現実味がないとダメってことだな）</p><p>荒唐無稽すぎるのも考えものだ、とケイは思う。</p><p>ちなみに、森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)とは、地域を問わず深い森の奥に棲む大型の爬虫類で、ソロで遭遇すれば逃げるのが一番と言われる上位のモンスターだ。</p><p>その名の通り、深みがかった青緑色の表皮を持つ森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)は、成体ともなればその体長は１０メートルを優に超える。</p><p>熊型の巨大モンスター、大熊(グランドゥルス)と双璧を成す森の王者だ。</p><p>特筆すべきはその機動力だろう。バカでかい巨体から鈍重なイメージがあるが、その見かけに反して森を駆けるのがとにかく速い。木が耐えきれれば木登りすら可能なので、その踏破性は言わずもがなだ。少なくともケイの足では振りきれない相手といえる。</p><p>強靭な革はなかなか攻撃を通さず、分厚い肉は衝撃にも強い。太い腕も、鋭い爪も、長い尻尾もギザギザに尖った歯も、全てが脅威ではあるが、何よりも強力なのはその巨体と重量そのものだ。体当たりやのしかかりを食らえば、どんなプレイヤーでも即死は免れない。しかも、歯の隙間から血液の凝固を妨げる毒が分泌されているので、少しでも噛まれると出血が止まらなくなるというオマケつきだ。顎のサイズの関係で、毒が活きる前に胴体をごっそりと食い千切られ即死するパターンがほとんどだが。</p><p>ともかく、特定の地域に行かねばエンカウントしない飛竜(ワイバーン)と違い、人里と生活圏がかぶる森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)の方が、こちらの世界では現実的な脅威として認知されているのだろう。実際のところ、地を這う竜といっても過言ではない実力を持つモンスターだ。</p><p>一度獲物を追いかけ始めると猪突猛進なところがあるので、地形を駆使した罠さえ張れば、狩ること自体は不可能ではない。ゲームでは、上級者向けの、比較的手に入れやすい防具の素材として普及していた。が、狩るのが可能とはいえ、入念に準備をしたプレイヤーのパーティーでも、度々事故死は発生しうる。</p><p>ゲームならば笑いごとで済むが、現実(リアル)となった今では、後衛のケイですら相手取りたくないモンスターだった。</p><p>ケイ殿、戻られましたか</p><p>村長の家には、まだダニーもクローネンもおらず、ベネットがひとりテーブルの上で帳簿を広げているのみだった。</p><p>ああ。とりあえず、職人に胴鎧を預けてきた</p><p>成る程。……その鎖帷子も見事なものですな</p><p>革の籠手、脛当て、兜に鎖帷子といった出で立ちのケイを見て、ベネットが感心した声を出す。革職人の所で、鎖帷子にこびりついていた血を濡れた布で拭いてきたので、その細やかな鎖の質感がさらに際立って見えた。</p><p>この帷子には何度も命を救われているよ</p><p>撫でつけると、しゃらしゃらと音を立てる冷たい金属が心地よい。</p><p>ところで、皆が集まるまで、アイリーンの様子を見ておきたいのだが、よろしいか</p><p>もちろんですとも。こちらへ</p><p>よっこいせ、と席を立ったベネットに案内され、奥の部屋へと通される。書籍や、巻物の類が収められた本棚。お洒落な装飾の施された木箱(チェスト)。床には落ち着いた緑色の絨毯が敷かれ、そして、クローネンの家のそれよりも、明らかに上質な大きな寝台の上。</p><p>眠り姫は、そこにいた。</p><p>すやすやと、静かな呼吸を繰り返す様は、まるで本当にただ眠っているかのようだった。普段ポニーテールにまとめていた髪はほどかれ、黄金の糸のようにして枕元に広げられている。汚れていた黒装束を、誰かが替えてくれたのだろう、今は清潔な白い薄手の服を身にまとっていた。血色を取り戻した顔に、苦しみや痛みの色はない。穏やかな陽光の差し込む部屋の中、それはまるで完成された一枚の絵画のようだった。</p><p>アイリーン</p><p>枕元まで歩み寄り、膝をついてそっとその頭を撫でる。僅かに身じろぎをしたように見えた―気がしたが、それはケイの願望がもたらした錯覚だったのかも知れない。</p><empty-line/><p>今朝、何か、うわ言のようなことをおっしゃっていました</p><p>突然、すぐそばから、か細い声。ぎょっとして見やれば、ベッドの対面、静かに佇む女性の姿があった。</p><p>美しい女性だ。</p><p>全体的に華奢な身体のライン。ただの農村の村人とは思えないほどに肌の色は白く、亜麻色の髪も艶やかに手入れがなされていた。すっと通った鼻筋。穏やかな笑みを浮かべる唇。淑やかさと色気を両立させた目元には、ひとつ、泣きぼくろがあった。そのせいかは分からないが、これほどの美しさにもかかわらず、どこか線の細い、薄幸の雰囲気を漂わせている。</p><p>異国の言葉のようで、何をおっしゃっているのかは分かりませんでしたが……</p><p>少し、申し訳なさそうに言葉を続けた女性は、</p><p>……申し遅れました。ダニーの妻の、シンシアです</p><p>声を出せずにいたケイを見て、しゃなりと、淑やかに礼をして見せた。</p><p>あ、ああ。ケイという者だ。よろしく</p><p>我に返ったケイが慌てて目礼を返すと、くすり、とシンシアは笑った。</p><p>いや、すまない。全く気が付かなかった</p><p>それだけ、お連れの方が心配でいらっしゃったのですね</p><p>静かな部屋の中に、シンシアの優しげな声が響く。</p><p>そう……だな。やはり、そうだろう。あなたが、アイリーンの世話をしてくださっているのだろうか</p><p>今朝からですが、そうなります</p><p>そうか……ありがとう</p><p>ケイの心のこもった謝意に、シンシアはやはり静かに、 いえ、 と一言だけ答えた。</p><p>と、そのとき、部屋の外からのしのしと足音が近づいてくる。</p><p>ケイ殿！　準備が整いましたぞ！　参りましょう！</p><p>ばん、と扉を開けて入ってきたのは、上機嫌なダニーだ。腹の贅肉を震わせてノリノリなダニーを見て、この男はどう足掻いても絵にならないな、とケイは思った。</p><p>いやはや、お連れの方―アイリーン殿は、やはりお美しいですな！　まるで女神のようではないか……！　ああ、ケイ殿、いつまでも見つめておられたいお気持ちは十分にわかりますが、そろそろ参りませんと日が暮れてしまいますぞ！</p><p>何が楽しいのか、身振り手振りを交えて声を張り上げるダニー。自分の妻を前に他の女をベタ褒めするのはどうか、と思ったケイだが、シンシアはアイリーンの髪を愛おしげに撫でるのみで、特に反応は見せなかった。</p><p>そうだな、行こうか</p><p>鎖帷子の位置を直しながら、ケイは立ち上がる。</p><p>シンシアさん、アイリーンを頼む</p><p>はい、と目礼を返すシンシア。</p><p>アイリーンに目をやり、 行ってくる と小さく呟いたケイは、マントを翻して部屋を後にした。</p><p>回収作業に向かうのは、総勢で八人。</p><p>ケイ、クローネン、ダニー、マンデル、そして村の自警団の男衆が四人だ。ケイはサスケに乗り、ダニーと数人は荷馬車、残りは徒歩で現場へ向かう。</p><p>手綱を、括り付けていた棒から外す際、 どこへいくの？ と目をぱちくりさせていたサスケに、ケイはただ一言、 ミカヅキを迎えに行くよ とだけ告げた。</p><p>ミカヅキ、という単語に反応したのか、嬉しそうに尻尾を揺らすサスケを見て、ケイはなんとも、居た堪れない気持ちになった。</p><p>森を抜け、草原を突き進む。</p><p>昨夜とは打って変わって、現場への道のりはなんとも平和なものだ。</p><p>天気は快晴、風は穏やか。真っ青な空には羊雲がぽつぽつと浮かんでいる。</p><p>徒歩の村人たちに速度を合わせ、ぱっかぱっかと蹄の音を響かせるサスケの上、ゆっくりと草原の道なき道を進んでいると、まるでピクニックにでも出かけているかのような錯覚に陥った。</p><p>しかし、現場の廃墟に近づくにつれ、そんな平和な錯覚も徐々に薄れていく。</p><p>まず、異常として感じ取られたのは、ガァガァ、ギャァギャァと、耳をつんざくような鳴き声だ。</p><p>鳥。</p><p>どこからこんなに集まったのか、と。</p><p>疑問に思わざるを得ないほどの、鳥の大群。</p><p>大地を覆い尽くす勢いで、鳥たちが『何か』を啄んでいる。</p><p>そして、それが見える距離まで近づいたあたりで、空気に混ざる死臭が、明らかにその存在感を増す。穏やかな陽光の降り注ぐ草原の真ん中、しかし、局所的に、視覚も嗅覚も聴覚も、不協和音を奏でるように否応なく異常を知らせてくる。</p><p>鳥たちの蠢く木立の廃墟。</p><p>鳥葬、という言葉を、ケイは連想した。</p><p>ええい、邪魔だ邪魔だ！　消えろ！</p><p>荷馬車から降りたダニーが、棒を振り回して鳥を追い払う。突然の闖入者に食事を邪魔され、恨みがましい声を上げた鳥たちが、バサバサと騒々しく翼をはばたかせ飛び立っていった。</p><p>羽根のヴェールが取り払われ、死体の様相が露わになる。</p><p>…………</p><p>一同は、一瞬、言葉を失った。</p><p>空き地に転がる四人の盗賊。</p><p>爆発に巻き込まれたかのように、撒き散らされた血肉。</p><p>一夜が明け、鳥に食い荒らされたことを鑑みても、その体の損壊具合は異様であった。</p><p>頭蓋骨を矢で岩に縫い留められている者。</p><p>首が半ばから引きちぎれたようになっている者。</p><p>肋骨ごと心臓を射抜かれ、胸部がごっそりと陥没している者。</p><p>胴体が異様に折れ曲がり、口から臓物をぶちまけている者に至っては、人が人に何をどうすればこんなことになるのか、見当もつかない。</p><p>実感が湧かない。</p><p>目玉をほじくられ、皮膚と肉を剥ぎ取られ、鳥に無残にも食い荒らされた顔面からは、とてもではないが、末期(まつご)の表情を推し量ることなどはできない。</p><p>しかし例外なく、限界にまで開かれた口蓋からは、今にも死者たちの断末魔の叫びが聴こえてきそうで―。</p><p>うぇ、と誰かが嘔吐(えず)く。</p><p>動きを止めた人間たちに、これ幸いとばかりに戻ってきた数羽の鳥たちが、再び死体をつつき始めた。</p><p>大きな一羽の黒いカラスが、食い破られた腹をつんつんと啄む。傷口に頭を突っ込んで、そのままずるりと大腸を引きずり抜いた。</p><p>でろん、と力なく垂れるそれは、血の気が抜けてもなお、赤く濡れて。</p><p>くちゃくちゃと咀嚼するカラスの黒い瞳が、馬上のケイをじっと見つめた。</p><p>―</p><p>ケイは、こみあげる嘔吐きに、耐える。</p><p>濃厚な死臭と、赤と黒で彩られた血と肉の光景。これだけで既に、生理的に、充分な吐き気を催す。</p><p>ましてやそれが、自分の手によるものともなれば。その事実が、そっとケイの首に手を添える。</p><p>馬上、顔を青くしたケイは、静かに空を見上げた。</p><p>後悔などない。罪悪感も、おそらくない。最初の一人を手に掛けた時点で、そんなものは全部投げ捨てた。</p><p>そもそも自分は被害者だ。殺すに足る正当な権利も、理由もある。この盗賊たちは死んで当たり前な存在だと心から思うし、それを殺した自分に責められるいわれはないのだとも考える。</p><p>考えるのだが。</p><p>それでも、単純に気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。</p><p>おぇぇ、と耐えきれなくなった若い村人が、膝を突きながら草原に胃液をぶちまける。それにつられるようにして、他の村人も口元を押さえ、何人かはやはり耐えきれずに、吐いた。</p><p>吐かなかったのは、顔色を悪くしたダニーと、同じく気分の悪そうなクローネン、そしてこんな状況下でもいつも通りに見えるマンデルだ。</p><p>ケイ、</p><p>マンデルが静かに、ケイを見やる。</p><p>次からは、もう少し上品に殺した方がいい。……その方が、片付けが楽だ</p><p>そしてケイの返事は待たずに、手近の比較的損壊の少ない死体に近寄って、躊躇うことなく遺品を漁り始めた。</p><p>…………</p><p>クローネンが黙ってそれに続き、ダニーは おい、お前らしっかりせんか！ と声を張り上げて他の村人たちを叱咤する。</p><p>……ああ</p><p>低い声で答えたケイは、静かにサスケから降り、誰も手をつけようとしない、一番悲惨な状態の遺体に近づいた。罪や責任といった、様々な言葉や考え方はあるが、少なくとも事実そのものはこういった形で付いて回るのだろう―。</p><p>むせ返るような血臭に辟易としながらも、ふとこちらを見守る鳥たちを見やり、皮肉げに口の端を吊り上げる。立つ鳥跡を濁さず、とはよく言ったものだ。</p><p>その後、ケイたちはその手をどす黒く汚し、革鎧や剣などの武具、指輪などの装飾品、そして銅貨銀貨を回収した。空き地の端に小さな穴を掘り、四人ともまとめて埋葬する。</p><p>ケイはもとより村人たちも、疲れ果てて既にげっそりとしていたが、残念ながらこれで終わりではなかった。案内のケイを先頭に、今度は西へと突き進む。</p><p>第二の現場へと到着した。こちらの死体は空き地のそれに比べると、まだマシな状態だった。のろのろと村人たちが作業に取り掛かる中、サスケの手綱を引いたケイはゆっくりと『それ』に歩み寄る。</p><p>―酷い有様だ。たった一晩が経っただけなのに、見事な毛並み、逞しい筋肉、それらの見る影もなかった。</p><p>胴体に受けた矢傷を起点にして、はらわたを食い破られている。皮肉なのは、残っていた毒にやられたのか、その周囲で鳥や小動物が死んでいることだ。</p><p>近づいてみれば、腐植土から這い出た無数の虫が、蠢きながら体内の肉に群がっているのが見える。額当てのおかげで顔面の損傷がそれほどでもないのが、唯一の救いか。</p><p>すまん</p><p>すっかり冷たくなってしまった鼻づらを撫でながら、ケイは呟いた。</p><p>すまん、ミカヅキ。昨日は、……助けてくれてありがとう</p><p>昨夜の、最期の力を振り絞ったミカヅキの援護がなければ、この場で骸を晒していたのはケイの方だったかもしれない。改めて申し訳なさと、感謝の想いが募る。</p><p>ぶるる、と。</p><p>ケイの横で鼻を鳴らしたサスケが首を傾げ、鼻先でつんつんと横たわる亡骸をつつく。</p><p>目を閉じ、しばしの黙祷を捧げたケイは、ぽんぽん、とサスケの首筋を優しく叩いてから さて、 と立ち上がった。</p><p>ミカヅキの世話もしたいところだが、盗賊達から剥ぎ取りもせねばなるまい。自分だけは愛馬の死を嘆き、後は他人任せというわけにもいかないだろう。</p><p>だが静かな気持ちで目を転じたところで、頭をざくろのように弾けさせた死体が視界に入り、思い出したように吐き気がぶり返した。</p><p>……うッ</p><p>歯を食い縛る。意地でも、吐くものかと。しばらく呼吸を整えてから、ケイは敢えて、そのグロテスクな死体に歩み寄り、遺品を剥ぎ取り始めた。</p><p>よーし、値打ちのありそうな物は見逃すなよ！　それと革製品は丁寧に扱え、これ以上傷をつけるな！　首元や手もしっかり確かめるんだぞ、装飾品があれば高く売れる―</p><p>相変わらず指示だけは達者なダニーの声を聞き流し、機械的に作業を進める。脛当てを剥ぎ取り、篭手を外し、胴鎧を脱がせ、懐を漁り、集めた物品をまとめて、森の外で待機する荷馬車まで運ぶ。</p><p>そのうち、服や手が血で汚れても何も感じなくなった。嗅覚も触覚も、感情すらも麻痺させて、何も考えないように、ただ手を動かす。</p><p>気が付けば荷馬車には、血塗れの防具や武器類が山積みになっていた。</p><p>―死体はどうする</p><p>あらかた片付いたところで、誰とはなしに、ぼそりと呟いた。</p><p>森だからな、そのままでもいいだろう。……誰もこんなところには入ってこない</p><p>若干疲れた様子で、マンデルが言う。片付けにうんざりしていた全員が、一も二もなく賛同する。どうせ盗賊の死体だ、野晒しにしたところで誰も悲しまない―</p><p>最終的に、革防具や長剣、合金製の短槍、指輪や首飾りなどの装飾品に加え、銀貨の詰まった財布なども獲得したケイたちは、血塗れになって村へと引き返していった。</p><p>―盗賊たち、四(・)人(・)分(・)の死体を、森の中に残して。</p><p>13. 強者</p><p>わああぁぁ、と。</p><p>包み込むように、響き渡る歓声。</p><p>無数の白い光が瞬いた。</p><p>星々と喩えるには、眩しすぎる閃き。</p><p>目の前に広がる、柔らかな床。</p><p>12m×12mの、正方形。</p><p>ここは、妖精たちの舞い踊る舞台。</p><p>自分もまた、妖精のひとりになる。</p><p>チャイコフスキー。白鳥の湖。</p><p>流れるような、しとやかな調べ。</p><p>身体が自然と、動き出す。</p><p>軽やかに、踊るように、舞うように。</p><p>たんっ、と。</p><p>最後の着地を、決める。</p><p>割れんばかりの、喝采。</p><p>会心の出来に、自然と笑みが浮かぶ。</p><p>やった、と言葉がこぼれ出た。</p><p>今まで積み重ねてきたものが。</p><p>今ここで、遂に報われたのだと。</p><p>そう思い、金色の輝きを確信した。</p><p>途端に。</p><p>場面が切り替わる。</p><p>ばぁんと横殴りの衝撃。</p><p>輝かしい全てが吹き飛んだ。</p><p>砕かれて。粉々に。磨り潰されて。</p><p>熱い。痛い。まるで、燃えるように。</p><p>ひしゃげた鉄と、ガソリンの匂い。</p><p>割れたガラス、黒い煙。</p><p>視界が暗転する。</p><p>暗い部屋。</p><p>モニタの輝きだけが照らす部屋。</p><p>膝を抱えて、座る。</p><p>丸く、短くなった脚。</p><empty-line/><p>逃げた。</p><p>逃げ続けた。</p><p>出ておいで、という呼びかけに。</p><p>耳を塞いだ。</p><p>良い天気だよ、という声に。</p><p>カーテンを閉じた。</p><p>逃げた。</p><p>逃げ続けた。</p><p>仮想の世界に。</p><p>仮初の世界に。</p><p>身駆を求めて。</p><p>過去を求めて。</p><p>駆ける。</p><p>駆け続ける。</p><p>霞む視界を。</p><p>白い霧の中を。</p><p>行きついた先には、</p><p>行きついた先には、きっと、</p><p>―真っ白な、血の気のない、</p><p>ア”イ”リ”ーン”、</p><p>黒い空洞が、見つめる。</p><p>ア”イ”リ”ーン”、ロ”ハ”チ”ェ”フ”ス”カ”ヤ゛</p><p>†††</p><p>―ああぁぁッッ！？</p><p>ぜえぜえと荒い呼吸、冷たい汗が額を伝う。</p><p>寝台の上、目を見開いて飛び起きたアイリーンは、がばりとシーツを跳ねのけて両足をまさぐった。細い指が、太腿を伝い、ふくらはぎを撫で、足首に触れる。</p><p>…………</p><p>たしかな、肉と骨の感触。</p><p>足首から先を握ったアイリーンは、そこで、拍子抜けしたように。</p><p>ふっと顔から表情が抜けたまま、しばし呆然とする。</p><p>……、あれ</p><p>そこで初めて、我に返り、周囲をきょろきょろと見回した。</p><p>それほど大きくはない部屋だ。</p><p>緑色の絨毯。レリーフの刻まれた木箱(チェスト)。古びた巻物や書物が詰められた本棚。ガラスの嵌っていない窓からは、穏やかな陽光が差し込んでいる。窓の外には、木造平屋建ての質素な家屋がぽつぽつと、その向こう側には緑豊かな森が広がって見えた。</p><p>……何処だ、ここ</p><p>ぽつりと呟いた。ふと身体を見下ろして、自分が黒装束ではなく、白い薄手のワンピースを身に纏っていることに気付く。服の上から身体を撫でると、ブラは無かったが、下は穿いていた。</p><p>―どうして、こんな服を着てるのか。</p><p>そんな疑問が脳裏をよぎる中、服を撫でる手が右胸に触れた瞬間。</p><p>ズグンッ、と身体の芯に響くような痛みが、フラッシュバックする。</p><p>あっ</p><p>思い出した。</p><p>霧を越え、草原を惑い、木立の中、焚き火の薄明かりに照らされた夜の風景を。胸に突き立った矢。自分を抉り取った痛みの記憶。</p><p>それはまるで、他人事のように現実離れしていて、頭の中に、おぼろげな、混濁した心象(イメージ)を描き出した。</p><p>しかし、曖昧な記憶の中でも、ひとつだけは、はっきりと憶えている。</p><p>声。</p><p>自分の名前を呼ぶ声。</p><p>……ケイ？</p><p>ひとり部屋の中、か細い声でその名を呼ぶ。</p><p>しかし、当然のように返事はない。ただ窓の外から時折、鳥の鳴き声が聞こえる他は、しん、と静まり返った空間。</p><p>ぎゅ、とシーツの端を握りしめ、心細げな表情を浮かべたアイリーンは、再び落ち着きなく周囲を見回し、ふと部屋の扉に目を留めた。</p><p>絨毯と同じ、濃い緑色に塗装された木の扉。</p><p>数秒の逡巡。こくり、と生唾を飲み込み、意を決したアイリーンは、音を立てないようにそっと寝台から降りた。覚束ない足取りで、壁に手を突きながらふらふらと歩き、ゆっくりと扉を押し開く。</p><p>ギィィッ、と想像していたよりも大きな軋み。</p><p>びくびくしながらも、部屋の外へ出る。</p><p>そこは、リビングのような大きめの部屋だった。部屋の真ん中には大きなテーブル、天井には樹木を象った意匠の金属製のシャンデリア。足元は絨毯ではなく、粗めの木材を打ちっ放した木の床だった。絨毯に比べると薄汚れており、素足ではあまり歩きたくはなかったが、アイリーンに選択の余地はない。</p><p>窓を見る。やはりガラスの嵌っていない、質素な作りの窓。もうひとつ、テーブルの反対側には扉があったが、どうやらこれは玄関らしい。</p><p>家の外に出るかどうか。</p><p>アイリーンは、迷う。</p><p>自分が何処に居るのか確認はしたいし、でも裸足だし、そもそも誰がいるのか分からないし、と。</p><p>しかしそうやって迷っているうちに、扉の方がギィッと音を立てて開く。</p><p>……あら</p><p>入ってきたのは、線の細い、色白の美人だった。腕に抱えた籠の中には、綺麗に畳まれた衣服が積み重なっている。</p><p>お目覚めになられたのですね</p><p>突然の遭遇に固まって動けないアイリーンに対し、色白の女性―シンシアは、にっこりと優しげに語りかけた。</p><p>あっ、あのっ、はい</p><p>シンシアの柔らかな笑みに少し緊張が解け、なんとか動きを取り戻したアイリーンはこくこくと頷いて返す。</p><p>良かったです。お連れの方が、随分と心配しておられましたから……</p><p>……連れ？　連れって、ケイのこと！？</p><p>そうです、ケイ様です</p><p>……そっか、……ケイ、居るんだ</p><p>テーブルに籠を置きながら、慈しむような微笑みのシンシアに肯定され、ほっと肩の力が抜ける。</p><p>はい。今は、出かけておられますが、そろそろお戻りになる頃合いかと</p><p>そっか。……ありがと</p><p>安心したのと同時に、ふらりと、足に力が入らない自分を感じた。</p><p>なんだか―身体が、重い。</p><p>……お加減が優れないのですか？　まだ、身体が弱っておられるのでしょう。お休みになられた方が―</p><p>心配げなシンシアが全てを言い終わる前に、家の外からがやがやと騒がしげな声が聞こえてくる。</p><p>あら、噂をすれば……。アイリーン様、ケイ様がお戻りになられたようです</p><p>がらがらと荷馬車の近づいてくる音を耳にしたシンシアが、にっこりと笑った。アイリーンが ホント！？ と顔を輝かせる。そんな少女の姿に、今は休むよりもケイと会った方が元気が出るかもしれない、とシンシアは他愛のないことを考えた。</p><p>自分が微笑ましげな目で見られているとはつゆ知らず、アイリーンはそそくさと家の扉を開ける。</p><p>ケイ！　戻って―</p><p>きたのか、と。</p><p>続けようとした元気な声が、しぼんだ。</p><p>赤黒い行進。</p><p>目に飛び込んできたのは、疲れ切った表情で歩いてくる男たちと、がらがらと音を立てる荷馬車、そして馬にまたがった一人の青年だった。</p><p>青年。バウザーホースを駆り、右手に朱色の弓を持った彼は、間違いなくケイだ。</p><p>しかし、籠手や胴の鎖帷子はどす黒く汚れ、その表情は遠目にも険しい。アイリーンが知るケイのアバターそのままの、どこが変わったかと問われても答えられない、それでもアイリーンが知っているケイとは、明らかに何かが違う顔つき。</p><p>―ケイであるのは、間違いない。でも自分が知っていたケイではない。</p><p>そんな確信めいた困惑が、声をかけることを躊躇わせる。</p><p>！　アイリーン！？</p><p>が、困惑している間に、ケイの方が立ち尽くすアイリーンに気付いた。</p><p>アイリーン！！　目が覚めたのか！</p><p>先ほどまでの厳しい表情は何処へやら、顔を輝かせたケイがひらりと馬から飛び降り、アイリーンに駆け寄ってくる。</p><p>―っと、この格好じゃ不味いな</p><p>そのまま抱きつきかねない勢いだったが、自分の体を見下ろして立ち止まった。</p><p>片や、真っ白なワンピース姿。</p><p>片や、どす黒く血で汚れた姿。</p><p>数歩。</p><p>近いが、手は届かない。</p><p>そんな距離。</p><p>…………</p><p>顔を見合せたまま、お互いに、どこか困惑したような笑みを浮かべる。</p><p>その、オレ、眠ってたみたいだな？</p><p>あはは、とぎこちなく笑ったアイリーンに、 そうだな、 と調子を取り戻したケイが頷いた。</p><p>丸一日寝てたぞ。体の調子はどうだ？　昨日のこと、憶えてるか？</p><p>ん……体は、多分、大丈夫だ。昨日のことは、焚き火のトコまでは憶えてるけど、そのあとはあんまり</p><p>矢を食らったのは？</p><p>憶えてる。そこらへんから、ちょっと夢を見てたみたいに曖昧な感じがする</p><p>そうか……</p><p>……もしかして、ポーション、使ったのか？</p><p>右胸の、矢が刺さっていたところを撫でながら、アイリーン。</p><p>ああ。憶えてないのか？</p><p>幸運なことにな</p><p>ということは、ポーションで治療した痛みも記憶にないというわけだ。けろりとした表情のアイリーンに、それは確かに幸運だ、とケイは少しばかり安心する。</p><p>自分で肩の傷を治してみて分かったが、ポーションの痛みは尋常ではない。忘れられるものなら、頭の中から消去してしまいたい経験だ。肩を切り裂かれた傷でさえ拷問じみた苦痛だったのだから、肺を貫通した傷が内側から治療されていく痛みは一体どれほどのものか。想像するだに恐ろしい。</p><p>ぶるるっ</p><p>と、ケイに置いていかれたサスケが、ぱかぱかと二人の元までやってきた。つぶらな目で げんきー？ と問いかけるように、アイリーンの頬をべろべろと舐める。ふさふさと揺れる尻尾。</p><p>あははっ、こら、くすぐったい……って、あれ？</p><p>じゃれるサスケに笑い声を上げていたアイリーンだが、ふと気付いた。</p><p>なんでケイがサスケに乗ってんだ？　ミカヅキは？</p><p>その言葉に、ふっ、とケイの表情が翳る。</p><p>……あいつは、死んだよ</p><p>え、と声を上げるアイリーンに、ケイはサスケの鞍を示して見せる。折り畳まれて括りつけられた、褐色の皮。</p><p>盗賊に矢で射られてな。……さっき、形見を回収してきた</p><p>額当てに、タリスマンに、鬣。そして、綺麗なまま残っていた尻の部分の皮。亡骸の残りは、自然に任せることにした。</p><p>……この皮で、財布でも作って貰うかな</p><p>はは、と口の端を無理に釣り上げた笑みは、どこか痛々しい。</p><p>そ、そっか。だ(・)か(・)ら(・)そんな、血で汚れてるみたいな……そんなことになっちまったんだな？</p><p>ああ、だ(・)か(・)ら(・)だ。ちょっとな</p><p>皮の剥ぎ取りは、マンデルに手伝って貰いながら、ケイ自身でやった。そのせいで血に汚れているというのは、嘘ではない。</p><p>でも……“再受肉(リスポーン)”、は？</p><p>アイリーン</p><p>眉をひそめて尋ねてきたアイリーンに、ケイは表情を引き締めた。</p><p>そこらへんの話は、後でしよう。とりあえず、中で待っててくれ。すぐに行くから</p><p>ただ、一言だけ、そっと歩み寄ったケイは、アイリーンの耳に囁く。</p><p>……一日過ごして分かったが。ここは、</p><p>―ゲームじゃない。</p><p>†††</p><empty-line/><p>『さて、何から話そうか』</p><p>身づくろいをしてさっぱりと小奇麗になったケイは、椅子に腰を下ろしおもむろにそう切り出した。</p><p>村長宅、一番奥の寝室。</p><p>現在、部屋の中にはケイとアイリーンの二人きりだ。ダニーたちには、アイリーンとしばらく話をする旨を伝えてある。</p><p>寝台の上で胡坐をかいていたアイリーンが、ケイの言葉にぴくりと眉をひそめた。</p><p>『……なんで精霊語(エスペラント)？』</p><p>『ここの住人に聞かれたくないからだ。Just in case.』</p><p>念のためな、と英語を混ぜたケイは、小さく肩をすくめた。</p><p>『つまりCode(暗号)ってわけか』</p><p>『そういうことだ。英語以外の俺達の共通言語ってコレだけだろ。分からない単語は英語でいい』</p><p>『オーライ。ところで、魔術って使えんの？』</p><p>『使える』</p><p>アイリーンの問いかけに、ケイは断言する。</p><p>『精霊もこっちには来ているらしい。ただ、魔力を吸い取られる感覚はヤバかった。あれは確実に寿命が縮まってる。もう少しで気絶するところだったし、魔力が切れたら死ぬっていう仕様が、どういう意味だったのかを理解した』</p><p>『ってことは、ケイは魔術使ったのか？』</p><p>『……ああ。少し野暮用でな』</p><p>つっ、と視線を逸らすケイ。</p><p>何に使ったのか、尋ねようとしたアイリーンだったが、ケイのむっすりとした雰囲気にどこか壁を感じ、聞きあぐねる。</p><p>『―まあ、魔術の話は後でいいとして。問題は”この世界”のことだ』</p><p>強引に話の流れを修正し、ケイは真っ直ぐにアイリーンを見据えた。</p><p>『俺は最終的に、この世界はゲームではなく、 DEMONDAL に似た別の世界だろう、という結論に達した』</p><p>『……ふむ』</p><p>『根拠は、まあ、色々だ。感覚がリアルすぎる。汗やら血やらの細部までが全て再現されている。それにNPC―というか、この世界の住人の言動がAIとは思えない。エトセトラ、エトセトラ、だ』</p><p>『なあ、ケイ。昨日って結局あの後、どうなったんだ？』</p><p>アイリーンの、どこか不安げな質問。ケイはふぅ、と静かに息を吐き出した。</p><p>『そうだな、』</p><p>かいつまんで、事の顛末を説明する。アイリーンを抱えて逃げ、狩猟狼(ハウンドウルフ)を撃退し、ポーションで傷を治療、そしてタアフの村に辿り着き―</p><p>村長の家に厄介になったことや、アイリーンの毒が判明したこと。そして毒の種類を特定するために、盗賊たちに逆襲したことを、ケイは、伝えた。</p><p>『…………』</p><p>アイリーンの顔が、曇る。</p><p>『盗賊は、やっぱり、殺したのか？』</p><p>『ああ。……何人かは、な』</p><p>『そっか』</p><p>神妙な表情で、考え込むように、アイリーンは俯いた。</p><p>『…………』</p><p>どう、言葉を繋げたものか。ケイは迷う。</p><p>別に、恩を着せたいわけではないのだ。ケイ自身が選択したことだし、ケイの中では、ある程度の割り切りはもう済んでいる。</p><p>だから、アイリーンにまで、変な罪悪感を背負いこんで貰いたくはない。</p><p>それを言葉にしたいのだが、どう言えばいいのかが分からない。何を言っても、アイリーンに気を遣わせそうで。</p><p>しかし、考えている間に、アイリーンの方がふっと顔を上げた。</p><p>『その……ケイ、』</p><p>『ん？　なんだ』</p><p>蒼い瞳が、ケイを見据えて、揺れる。</p><p>『……ありがと。助けてくれて』</p><p>はにかむような笑みは、どこかぎこちなかったが。</p><p>言葉はすっと、胸に沁みた。</p><p>『……なに。まあ、その、なんだ、』</p><p>ぽりぽりと頬をかいたケイは、敵わないな、と笑う。どう足掻いても、相手に気を遣わせてしまうのか。しかも、自分の気が少し楽になっただけで、結局は何も出来ていない。</p><p>どうにも、自分勝手な野郎だ、と。</p><p>ふっ、と笑ったケイは、尊大に腕を組んでふんぞり返り、</p><p>『―存分に感謝するが良い！』</p><p>『うお、いきなり態度がでかくなった！』</p><p>大仰にアイリーンが引いてみせ、顔を見合わせた二人は、くすくすと小さく笑いあう。</p><p>『まあ、そういうわけで、ゲームじゃないだろうと思ったわけだ。ゲームにしちゃあ色々と―出(・)来(・)過(・)ぎ(・)てる』</p><p>『こう言っちゃなんだけど、オレも本気でこれがゲームだとは思ってなかったよ』</p><p>アイリーンは小さく肩をすくめた。</p><p>『技術が発達すれば、これくらいリアルなVR空間も再現できるかもしれない。けど、今それがいきなり実用化されるのは、流石にちょっとありえないよな』</p><p>ベッドのシーツをひらひらとさせながら、ぼやくようにして、その視線はどこか遠く。</p><p>『まあな。……それと関連して、“こっち”とゲームの違いなんだが、どうやら復活はナシみたいだ。当たり前っちゃ当たり前なんだが』</p><p>仮に誰でも”再受肉(リスポーン)“できる世界なら、『殺し』がもっと軽い扱いになるはずだ。しかし、周囲の村人や盗賊たちを見るに、そういった考え方はなさそうだ。皆、地球の人々と同じくらい、死に敏感だった。</p><p>『そっか……じゃあ、死なないようにしないとな……』</p><p>窓の外の風景を眺めながら、しみじみと呟くアイリーン。その内容が、あまりにも当たり前すぎて、ケイには何処か可笑しくすら感じられた。</p><p>……ん？</p><p>と、そのとき、扉の外側からコツコツと、足音が近づいてくる。</p><p>―ケイ殿。呪い師のアンカにございまする</p><p>コンコン、と扉をノックしながら、しわがれた老婆の声。</p><p>ああ、アンカの婆様か</p><p>椅子から立ち上がったケイは扉を開け、杖をついた老婆を部屋の中に招き入れた。</p><p>申し訳ありませぬ、お邪魔虫でしたかのぅ？</p><p>いやいや、ちょうど話も終わったところだ―アイリーン、こちらは、お前が寝込んでる間、ずっと世話してくださった、村の薬師の、アンカの婆様だ</p><p>どうも、迷惑をかけたらしい。ありがとう</p><p>いえいえ、お気になさらずとも</p><p>アイリーンに礼を言われたアンカは、その微笑みを目にして ……お美しや と小さく呟いた。しわくちゃになった顔に埋もれる小さな瞳に、アイリーンの姿が映り込む。子供のようにきらきらと、未知への好奇心に輝く瞳。</p><p>ケイに椅子に座らせて貰いながら、アンカは手にしていた袋を差し出した。</p><p>ケイ殿。お預かりしていたポーションにございます</p><p>おお、ありがとう</p><p>そういえばポーションのことを失念していた、とケイは受け取りながら引きつった笑みを浮かべる。思わず中身を検めると、満タンの瓶が数本に、半分ほどまで使った瓶が一本。そこまで劇的に減っているというわけではない。</p><p>タヌキには指一本触れさせておりませんぞ</p><p>……タヌキ？</p><p>ベネットのことにございます</p><p>アンカの言葉に、ケイは苦笑を抑えきれなかった。たしかにあの爺ならば、ネコババしかねない。</p><p>村長といえば、彼から聞いたが、俺の頬の手当てもしてくださったようだ。改めてありがとう</p><p>大したことにはござりませぬ。わたくしめの調合した傷薬です、ポーションほどの効き目はとてもとても……。ポーションをお使いした方がよろしかったでしょうかぇ？</p><p>いや、ポーションが勿体ない。手当の件、感謝する</p><p>ポーションを使えば、この程度のかすり傷は即座に治る。が、傷薬では致命傷は治せない。アンカがポーションを温存してくれたことに、ケイは素直な感謝の意を示した。</p><p>身に余る御礼にございまする……。さて……、ケイ殿</p><p>んんっ、と咳払いをしたアンカが、真っ直ぐにケイを見据え、居住まいを正す。</p><p>この度は、厚かましながら、二つ、お願いがございまする</p><p>……なんだろうか</p><p>ケイの眉が下がった。この誠実な、礼儀正しい老婆に、ケイは素直に好感を抱いている。アイリーンの面倒を見てもらった恩もあるし、何か願いがあるならば極力聞いてあげたい、とは思っていた。</p><p>しかし、やはりそれは、願いの中身に依る。</p><p>……ひとつは、ポーションのことにございまする</p><p>言いにくそうに、しかしはっきりと言葉を紡いだアンカに、 やはりそうきたか とケイは思った。二人の会話に、ほぼ置物と化していたアイリーンも、さもありなんという顔をしている。</p><p>病や怪我で、人は死ぬものにございまする。それが自然の運命、逆らえるものにはございませぬ。―しかしながら、生まれたばかりの赤子が、熱に侵され、息を引き取って行くのは、あまりにも虚しく、辛いものにございます……</p><p>ずるり、と椅子から床へ滑り落ちるように、アンカは平伏した。</p><p>今年、出産を予定している女が、村には三人ほどおります。そのうち、何人の赤子が大きくなれるかは、わたくしめにはわかりませぬ。ケイ殿。その魔法薬が、何物にも代えがたい、貴重なものであることは理解しております。しかし、どうか、ほんの僅かな量に構いませぬ。弱った赤子を助けられる程度のポーションを、お与え下されませぬか……</p><p>よしてくれ、婆様</p><p>床に額を擦り付けるアンカを、ケイは抱え上げて椅子に座り直させる。</p><p>手を組んで俯いた、小さな、あまりに弱々しい老婆を前に、ケイは細く長く息を吐き出した。</p><p>―ポーションは、生命線だ。</p><p>ゲーム内でさえ、素材や生産設備の関係で、高等魔法薬(ハイポーション)は希少性が高かった。この世界の住人を見るに、こちらでのポーションの希少性は更に高いようで、再入手の手立てがあるのかどうかすら、わからない。</p><p>―ここで情に流されるか、自分たちの命を優先するか。</p><p>考えるまでもないことだ。自ずと結論は出る。</p><p>……すまない。婆様</p><p>ケイは静かに、頭を下げた。</p><p>これは……流石に、我々が持っていたい</p><p>その言葉に、アンカは痛々しい表情で、ゆっくりと首を振った。</p><p>いえ……最初から、わかっており申した。対価として要求致すには、あまりに過ぎたものであることは……お気になさらないでくだされ、ケイ殿。ただの老いぼれの、世迷いごとにございます</p><p>すまない……</p><p>潔いアンカの言葉。ケイの中で申し訳なさが募る。</p><p>しかし、―耐えた。</p><p>……で、もう一つの方の願いってーのは？</p><p>場に沈黙が降り、飽和する寸前の絶妙なタイミングで、能天気を装ったアイリーンの一言が響く。</p><p>おお……もうひとつ、これも厚かましい願いにございますが、</p><p>表情を幾分か明るく回復させたアンカは、ケイとアイリーン二人に、</p><p>―実はケイ殿に、精霊語のご指南を賜りたいのです</p><p>アンカの申し出に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。</p><p>……というと？</p><p>真にお恥ずかしながら、わたくしめは村の呪い師でありながら、精霊語の素養がありませぬ。村に伝わる精霊様への呪いの文言が、正しいものなのかどうかすら、分からぬのです</p><p>ここでアンカは、まるで周囲に人がいないか気にするかのように、</p><p>……正直なところ、病人にいくら祈りを捧げても、効能があるとは思えぬのでございます。ゆえに、文言そのものが間違えているのではないかと……</p><p>小さな声で、囁いた。</p><p>その程度ならば、お安い御用だが</p><p>ケイは事も無げに答える。ポーションに比べれば、どうということはない頼みごとだった。</p><p>本当にございますか！　ありがとうございまする……</p><p>再び床に平伏しそうになったアンカを、ケイとアイリーンは慌てて止めた。</p><p>†††</p><p>アンカへの精霊語(エスペラント)の指導をさっくりと終わらせたケイは、腹が減ったというアイリーンの世話を再びシンシアに頼んでから、村長の家を後にした。村長のベネットは、まだ帰っていないようだ。おそらく約束通り、孫娘のジェシカと遊んでいるのだろう。</p><p>祈りの文言を添削され、ついでに有用な幾つかの動詞や指示語、精霊が好む触媒などもまとめて教わったアンカは、鬼気迫る様相でそれらを紙に書き取り、感涙に咽び泣きながら帰っていった。</p><p>教えた側のケイとしては、喜んで貰って嬉しくはあるものの、正直なところ複雑な心境だ。契約精霊を抜きにした”呪術”など、精霊語が正しかったところで、どれほどの効果があるものかわかったものではないからだ。</p><p>魔術も呪術も、精霊語で精霊に話しかけて自分の願いを告げ、魔力や触媒を捧げることにより何らかの目的を達成してもらう、という点で、その本質は変わらない。</p><p>ただ、『喚べば精霊が応えてくれる』のが契約精霊ありきの魔術で、『いるかどうかも分からない精霊に取り敢えず頼む』のが呪術、と定義されている。</p><p>有体に言えば、呪術は不確実なのだ。</p><p>精霊は、何処にでも存在するし、何処にも存在しない。例えば、ケイが契約している精霊 風の乙女 は、風の吹く場所になら何処へでも顕現し得る。</p><p>彼女は一陣の風であると同時に、大気全体の流れでもある。 風の乙女 のうち個体名を『シーヴ』と名乗る者は、契約したことにより今はケイ一人に注目しているが、本来ならば風の吹く場所全てを知覚していた存在だ。</p><p>その広大すぎる知覚の中で、ひとりの人間が祈りを捧げたところで、いちいちそれに注目する理由が、彼女にはない。</p><p>故に、精霊の気を引くために、呪術においては『精霊が好む空間』を演出することが何よりも大切らしいが、実際問題、そういった細かいテクニックを、ケイは知らなかった。</p><p>なぜなら、ゲームの DEMONDAL において、“呪術”は設定やNPCの話においてのみ示唆される存在で、実際にはプレイヤーがそれを使用することはできなかったからだ。ゆえに解析も、推測すらもできない。</p><p>ケイに出来たのは、うろ覚えのNPCの話を参考に、割と顕現しやすい低位の精霊が好む触媒を、アンカに教えることぐらいのことだった。</p><p>（……まあ、それでも、ないよりはマシか）</p><p>村の中の砂利道を歩きながら、考える。</p><p>年齢的にそこそこに魔力があると考えられるアンカが、正しい精霊語で祈りを捧げれば、それなりに精霊の注目を集める、かもしれない。</p><p>ケイとしては、宝くじに当たる確率が若干上がった、ぐらいに受け止めて貰いたかったのだが、今後の呪術に大いに期待を寄せているアンカを見ると、なんとも申し訳ない気分になる。</p><p>そんなことを考えている間に、村の中心の広場に到着した。</p><p>タアフ村の中で唯一、石畳が敷かれている空間。</p><p>中央に井戸を配し、普段は洗い物や水汲みなどで生活の中心となる場所に、今は整然と盗賊から回収した武具が並べられていた。</p><p>広場を取り囲むように、手の空いている村人たちがぐるりと見物に集まっている。村の生活ではお目にかかれないような武器防具に、大人から子供まで、男たちはみな目を輝かせていた。そんな彼らに、仕方がないわね、と言わんばかりの呆れた視線を向ける、洗い物の籠を手にした村の女たち。</p><p>もっとも、死体回収に向かった面子、クローネンやマンデルたちは、やはり死体の記憶を引きずっているのか、はしゃぐ気にもなれないようだったが。</p><p>おや、ケイ殿。お話はもう終えられたのですかな</p><p>石畳の上の武具をじっくりと見定めていたダニーが、ケイに愛想笑いを向けてくる。</p><p>ああ。そちらは、首尾はどうだろうか</p><p>上々です。流石はイグナーツ盗賊団、装備の質もなかなかですぞ</p><p>そうか</p><p>ごまをするように揉み手のダニー。鷹揚に頷いたケイは、並べられた長剣にちらりと目をやった。</p><p>（……成る程、さすがに一番質がいい奴は取らないでおいたか）</p><p>あらかじめ目をつけていた、最も質の良かった長剣は、そのまま地面に置いてあるのを確認する。しかし体感的に、少々剣全体で見ると、どうにもその数が少ないような気がした。おそらく、ケイがアイリーンと話している間に、ど(・)こ(・)か(・)へ(・)誰(・)か(・)が(・)持ち去ったのだろう。</p><p>苦笑交じりに、そんなことを考えていたケイだったが。</p><p>ふと、剣のそばに並べられていた革鎧に目をつけて、その顔色を変えた。</p><p>胴鎧が―八つ。</p><p>いかがなさいました？　ケイ殿</p><p>……ダニー殿。一つ尋ねたいのだが、この鎧は、これで回収されたもの全てか？</p><p>えっ</p><p>ケイの問いかけに、ひい、ふう、みいと鎧の数を数えたダニーは、</p><p>ええ、これで合っている筈です。きっかり八人分。あの場にあった賊(・)の(・)死(・)体(・)の(・)数(・)と(・)一(・)致(・)し(・)ま(・)す(・)の(・)で(・)</p><p>……そう、か</p><p>―足りない。</p><p>昨夜ケイが戦った盗賊は、全部で十人。</p><p>（―二人、逃したのか）</p><p>歪みそうになる表情を、必死に押し固める。</p><p>今すぐサスケに飛び乗って、現場をもう一度確認しに行こうかとも思ったが、不思議そうな顔でこちらを覗き込むダニーを見てやめた。この業突く張りの男が余計な死体を見逃すはずがないし、第一、ここで怪しまれるべきではない、と。</p><p>（……せめて、逃げた奴の所持品、ナイフでも何でもいい、それがあれば 追跡 が出来るんだが、）</p><p>整然と並べられた武具を前に、ううむ、と唸る。魔術の行使に必要な触媒の宝石(エメラルド)は、もうひとつある。『逃亡者』が使っていた武具なり道具なりがあれば、それに染みついた魔術的な『匂い』を頼りに、風の吹く場所に居る限り 風の乙女 でその位置を暴くことが可能だが。</p><p>肝心の、その『持ち物』がどれなのかが、わからない。</p><p>だからといって、手当たり次第に試すわけにもいかない。純戦士(ピュアファイター)であり、魔術の使用を前提としていないケイには、触媒も、魔力も、全てが足りていなかった。</p><p>…………</p><p>訝しげにこちらを見るダニーをよそに、顎を撫でながら、ケイは考えを巡らせた。</p><p>……ふむ。これら戦利品についてだが</p><p>しばらくして、唐突に話を切り出したケイは、目をつけていた長剣に歩み寄り、おもむろにそれを拾い上げる。</p><p>昨夜の戦闘で、ケイのサーベルは刃の付け根が歪み、すっかり使い物にならなくなっていた。元々、力任せに『叩き切る』使い方しかできないケイは、サーベルのような『斬る』タイプの剣と相性が悪い。</p><p>それでもわざわサーベルを使っていたのは、相方であるアンドレイに万が一のときすぐに渡せるようにするためだが―現状のケイには壊れにくい、頑丈な長剣が必要だった。</p><p>しゃらり、と鞘から白刃を抜き放つ。</p><p>手になじむ重さの剣だ。刃渡りは八十センチほど、刃は程よく肉厚で、切れ味も悪くなさそうに見える。試しに、片手で振り回してみた。</p><p>ビッ、ピゥッ、と鋭い風切音。</p><p>がやがやと騒がしかった村人たちが、その剣圧にぴたりと押し黙った。</p><p>（……速い）</p><p>一振りの速さに、思わず目を見張ったのがクローネン。</p><p>（……ブレないな）</p><p>寸分の軸の乱れもなく、ぴたりと止められた剣を見て、ケイの底知れぬ膂力を推し量ったのがマンデル。</p><p>ダニー殿</p><p>な、なんでしょう</p><p>この剣と、回収した銀貨は頂戴いたす</p><p>抜き身の剣を手にしたまま、ケイは有無を言わせぬ口調で言い放った。</p><p>その代わり、残りの武具や、装飾品は丸ごと差し上げよう。随分と世話になったからな。よろしいか？</p><p>なっ！</p><p>ダニーが目を剥いたのは、ケイの申し入れが想像以上に破格のものだったからだ。盗賊たちの銀貨は、それなりの財産になる金額ではあったが、武具や装飾品を全て売り払った際に見込まれる収入は、それを上回るものだ。周囲の村人たちも、おお、とどよめきの声を上げる。</p><p>はっ、はい！　勿論です！！</p><p>そうか。ならばよかった……ところで、気のせいかもしれないが、剣の数が少々足りない気もするな。まだ、鍛冶屋が手入れをしているのだろうか？どうでもいいことだが、銀貨に数(・)え(・)間(・)違(・)い(・)がないことを祈っているぞ、ダニー殿</p><p>ケイがにこりと笑いかけると、興奮で赤らんでいたダニーの笑顔が、僅かに青ざめて引きつった。</p><p>そんな彼をよそに、夕焼けに染まり始めた空を見上げ、ケイは小さく溜息をつく。</p><p>……今日は、なんだか疲れが抜けきれていないようだ。すまない、あとは任せてもよろしいかな</p><p>も、勿論です</p><p>ありがとう。戻る、といってもダニー殿の家だが、俺は失礼するよ</p><p>ぱちん、と剣を鞘に戻したケイは、ダニーに背を向けてきた道を引き返し始めた。</p><p>（……正直、残りの武具やら装飾品やらも勿体ないが、換金する時間の方が惜しい）</p><p>ダニーたちの話によれば、近いうち、具体的にはあと一週間ほどで、行商人たちが村にやってくる。</p><p>そのときに武具やら装飾品などを売り払い、盗賊たちから奪った品を現金に換えるか、あるいは諸々の物資と物々交換するのがケイにとっては理想的だったのだが、敵を逃がしたとなればそうも言っていられなくなった。</p><p>相手は、地方一帯に名を轟かせるような盗賊団だ。昨夜戦った連中の腕前からして、あれが本隊ということもあるまい。おそらくはせいぜいが一部隊。</p><p>となれば―かなりの確率で、報復の攻撃があるはず。</p><p>（装飾品も……指輪がヤバそうだしな）</p><p>持ち運びが楽な装飾品類は持っていくのもアリだったが、盗賊たちがはめていた指輪のうち、妙に画一的なデザインのものがあったことが気にかかる。</p><p>（仮に、アレが盗賊団の印的な指輪だったら、持ってるだけで逆に俺の方が 追跡 を喰らう可能性もあるしな……）</p><p>ある程度大きな武装集団ともなると、魔術師の一人や二人がいてもおかしくない。</p><p>かといって、 その妙に似た感じの指輪以外の装飾品だけ貰うわ というのは、いかにも怪しい。よって、装飾品類は全てダニーたちに譲った方が自然だった。</p><p>（……まあいい、銀貨全部と長剣だけでも悪くない収入だ）</p><p>あとは。</p><p>（アイリーンが本調子に戻り次第、村を出よう）</p><p>右手に握る剣の鞘に、ぎり、と力がこもる。</p><p>明るかった森が、黄昏の中で鬱蒼と暗く染まっていく。</p><p>ケイは、なんとも言えない胸騒ぎを抱えたまま、急ぎ足でアイリーンの待つ家へと戻っていった。</p><p>作中でようやく24時間が経過しました。</p><p>皆様の感想を、お待ちしております。</p><p>14. 狩人</p><p>さぁぁぁ、と。</p><p>広がりのある葉擦れの音が、風に運ばれてくる。</p><p>草原。地平線の果てまで続く、緑の大地。</p><p>抜けるような青空に、ひつじ雲がふわふわと漂う。</p><p>（……平和だな）</p><p>サスケに跨り、ぐるりと周囲を一望したケイは、漠然とそう思った。</p><p>目に優しい、心休まる風景―といってもよい。</p><p>しかし胸の奥。燻り続ける、焦りに似た何か。</p><p>とぐろを巻く陰鬱な感情が、ちくちくと胸を刺す。</p><p>爽やかな風が吹き抜けても、尚(なお)。</p><p>ケイの心は、晴れなかった。</p><p>―と。</p><p>視界の果て。</p><p>茶色の小さな影が、草むらでもぞもぞとうごめく。</p><p>……見つけた</p><p>またか。……早いな</p><p>ケイの呟きに、隣で轡を並べていたマンデルが、呆れの表情を作った。彼の跨る村の駄馬の鞍には、血抜きを済ませた兎が何羽も括りつけられている。どこか乾いた笑みを浮かべるマンデルをよそに、ケイは足でぽんとサスケの腹を蹴り、弓に矢をつがえた。</p><p>ぱっかぱっかと、緩やかに前進を始めた馬上。しっかりと狙いを定めたケイは、ぎりぎりと弦を引き絞る。</p><p>快音。</p><p>突如として響き渡った鋭い音に、耳を立てた兎が草むらからひょっこりと顔を出し、何事かと周囲を見回した。そこへ、勢いよく銀色の光が突き刺さる。</p><p>キュィッ、と短い悲鳴を上げて矢の餌食となった兎の、周囲にいた仲間たちが文字通り脱兎のごとく逃げ出した。</p><p>仕留めた</p><p>風が吹いてるんだぞ。……よくもまぁ、あの距離でやれる</p><p>何気ないケイの報告に、額を押さえたマンデルの言葉はもはや嘆きに近い。二人揃って馬を進ませ、後足で空を蹴るようにしてもがいていた兎を拾い上げた。</p><p>悪いな</p><p>胴体に刺さっていた矢を引っこ抜き、血を払い飛ばしながらケイ。すかさずマンデルが横からナイフを差し出して、その兎の首を掻き切った。</p><p>ぴちゃぴちゃばしゃ、と緑の大地にこぼれ落ちる赤い液体を眺めながら、ケイは自分の手の中で、小さな命が暖かみを失っていくのを感じる。</p><p>……さて。こんなとこか</p><p>そうだな。……そろそろ、村に戻ったほうがいい</p><p>ケイから受け取った兎を鞍に括りつけながら、マンデルが草原を見渡して言った。</p><p>盗賊たちの剥ぎ取りに向かった、その翌朝。</p><p>本来ならば、すでに村を逃げ去っていたはずの、ケイは。</p><p>何故か―草原で、兎狩りをしていた。</p><p>†††</p><p>昨夜のこと。</p><p>盗賊を逃したことを悟ったケイは、アイリーンにああ言おう、こう言おうと考えを巡らせながら、村長の家に引き返していた。</p><p>おいアイリーン、話が―</p><p>ばん、とノックもせずに扉を開け、居間に入ったケイの目に飛び込んできたのは、しかし、</p><p>おねーちゃん、あ～ん</p><p>ん～ん、これ美味いな！</p><p>これこれジェシカ、こぼれとるぞ</p><p>アイリーン様、お代りはありますので、遠慮なさらず食べてくださいね</p><p>お、ありがと！</p><p>ジェシカを膝に乗せて、夕食を食べさせて貰っているアイリーンに、孫好きのひとりの祖父の顔になったベネット、そしてそんな三人を慈しむように見つめるシンシアの姿だった。</p><p>テーブルを囲んだ、まるで家族のように、和気藹々とした団らんの光景―。</p><p>あ、ケイ！　おかえり！</p><p>口の端にパン屑をくっつけた、アイリーンの無邪気な笑顔を見て、ケイは、何も言えなくなってしまった。</p><p>お帰りなさい。ケイ様も、いかがですか。ご夕食はまだでしたでしょう</p><p>あ、ああ……ありがとう</p><p>シンシアに促されるままに、ケイもまたアイリーンの真向かいの席に着く。隣に座るベネットが、目ざとくケイの腰の長剣に気付いたが、そのまま何も言わずにつっと目を逸らした。愛しの孫娘の前では、計算高い村長ではなく、ひとりの祖父のままでいたいらしい。</p><p>（……まあ、どうせこの状況じゃ話も切り出せないしな）</p><p>とりあえず大人しく夕食を頂こうか、とケイは肩の強張りを自覚して、小さく息をついた。</p><p>どうぞ。お口に合えばよいのですが</p><p>ケイ、シンシアさんのスープ美味しいぞ！</p><p>野菜スープや堅パン、火で炙った塩漬けの豚肉。それらの皿を並べたシンシアが、どうぞ、とにこやかに語りかけてくる。シンプルながらも栄養バランスの良さそうなメニュー。かぐわしい香りが鼻腔を刺激する。</p><p>しかしそれらを前にしても、食欲は全く、湧かなかった。</p><p>食わねば失礼、というよりも、食えるうちに食っておけ、という精神で、ほとんど味も分からぬままに、ケイは無理やり食事を詰め込んだ。</p><p>手早く食器を片付けたシンシアが、ジェシカをクローネンの元に送り届けるため家を出たので、ケイとアイリーン、それにベネットの三人だけが居間に残される。</p><p>村長、盗賊たちの物資についてだが、この剣と銀貨は俺が貰い受ける。その代わり、残りのものは全て、そちらにお任せすることにした</p><p>ほぉ……それは、それは</p><p>ケイの申し出に、意外そうな顔をしたベネットは、 ありがたい話ですのぉ と呟きつつもゆっくりと髭を撫でつける。その目には喜色というよりもむしろ、猜疑の色。なぜそこまで都合のよい申し出を？　とケイの話の裏を読み取ろうとするかのように。</p><p>―この村の人々の御蔭で、俺達は随分と救われた。その礼と考えれば、これでも安いくらいだ</p><p>大袈裟すぎない程度に愛想笑いを張り付けて、ケイは歯の浮くような台詞を口にした。だが嘘はついていない。『命の値段に比べれば安すぎる』という一点において、皮肉にも、それは偽らざる本心だった。</p><p>……勿体ないお言葉ですじゃ</p><p>一応、ケイの善意によるものと解釈したのか、納得した様子でベネットは頷いた。</p><p>いやちょっと待てよケイ、でも剣と銀貨だけじゃ少なすぎないか？</p><p>そこで、横から口を挟んだのはアイリーンだ。</p><p>鎧とか、かさばるヤツはいらないと思うんだけどさ。矢とか生活物資とか、そこらへんのは貰っといた方がいいんじゃね？</p><p>…………</p><p>矢は、遺品回収の際にこっそりと質のいい物を選りすぐって補給はしていたが、生活物資に関してはその通りだった。</p><p>ぱちぱちと目を瞬いたケイが、困り顔でベネットを見やると、老獪な村長は思わずといった様子でくつくつと喉で笑う。</p><p>いやはや。そちらのお嬢様の方がしっかりとなされておりますな、ケイ殿</p><p>……うぅむ</p><p>しかしながら、お気持ちは分かり申した。代わりと言っては何ですがの、生活物資に関しては、こちらで工面しておきましょうぞ</p><p>……ありがたい</p><p>素直に、頭を下げる。ケイとしては、 剣と銀貨だけは頂戴いたす！ とドヤ顔で言ってのけた直後だけに、地味に恥ずかしかったが仕方がない。</p><p>むっすりとした表情のケイが可笑しかったのか、アイリーンがからからと笑い始め、それに同調するようにして、ベネットも厭らしさのない含み笑いを洩らす。</p><p>笑いの波が引いたあと、そこには、静かな沈黙が訪れた。</p><p>……どうすっかなぁ、この後</p><p>ぽつりと、テーブルに頬杖をついたアイリーンが、小さく呟く。</p><p>それについてなんだが、アイリーン</p><p>その話題を待っていたと言わんばかりに、身を乗り出すケイ。</p><p>ウルヴァーンに行こうと思うんだ</p><p>……えっ、ウルヴァーンって存在すんの！？</p><p>思わず声を上げたアイリーンが、ベネットを見やって あ と自分の口を押さえる。ベネットはぴくりと眉を動かした以外は、特に反応を見せなかった。 存在する という言い方は、『こちら』の世界の住人には、少々妙な発言だったかもしれない。</p><p>村長。申し訳ないのだが、今一度、地図を見せて頂けないだろうか</p><p>よろしいですとも</p><p>ベネットに地図を取ってきてもらい、アイリーンに見せる。“タアフの村”、“城塞都市ウルヴァーン”、“港湾都市キテネ”などの位置情報を説明しつつ、それとなく『こちら』の地形がゲーム比１０倍の広さになっていることなども伝えた。</p><p>へぇ……</p><p>指先で唇を撫でながら、興味深げに地図に見入るアイリーン。</p><p>俺としては、早ければ明日の朝にでも、ウルヴァーンに向かって出発したいと思うんだが。どうだ、アイリーン</p><p>興味をそそることには成功した。このまま押せば、アイリーンには事実を伏せたまま、村を早く出れるのではないか。</p><p>そう思ったケイだが、期待は裏切られる。</p><p>……ごめん、ケイ。実は、ちょっとな、</p><p>申し訳なさそうに、歯切れの悪いアイリーン。</p><p>―なんかさ、体に力が入らないんだよ</p><p>その言葉に、ケイは固まった。</p><p>結論から言うと、ケイたちはあと一、二日、村に留まることとなった。</p><p>原因は、アイリーンの体調不良だ。体に痛みもなく、意識もはっきりとしているアイリーンだが、毒の後遺症なのか、体力が回復しきっていないのか、酷く体が重く疲れやすい状態が続いているらしい。</p><p>出来れば、もうちょっと休んでからにしたい。このままじゃ、あんまりにも、ケイの足手まといだ……</p><p>そうか……</p><p>寝室でベッドに横たわり、表情に影を落とすアイリーン。</p><p>薄暗い部屋の中。アイリーンと二人きりになったケイは、迷う。</p><p>リビングから寝室にまで移動するのにも、アイリーンは壁に手をついて、ふらふらと力なく歩いていた。成る程これは重症だ、とひと目で分かる頼りなさ。現状、数歩も歩けばフラついてしまうアイリーンは、身体能力において一般人以下の状態といえる。ともすれば幼女(ジェシカ)とすらいい勝負だろう。</p><p>ケイは考える。サスケに二人乗りして移動する予定だったが、万が一、何者かと戦闘状態に陥った際は、アイリーンが自力で動けなければ困ったことになる。戦え、とまでは言わないが、少なくとも、逃げたり隠れたりできる程度には。</p><p>このままの状態で外へ連れ出すのは、少々リスクが高い。</p><p>勿論、村に留まったまま盗賊の逆襲を受けるくらいならば、逃げ出した方がまだマシではあるが。少なくとも幾ばくかの休養は必須。</p><p>（明日発つのは、どちらにせよ厳しい、か）</p><p>ふぅ、と一息ついたケイは、考えをまとめた。</p><p>―そう、だな</p><p>顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべる。</p><p>まあ、ここ一日二日くらいは、様子を見ようか。丸一日寝込んでたから、体が弱ってるんだろう。ひょっとしたら、ポーションの副作用かもしれないし、ゆっくり食っちゃ寝してれば、すぐに良くなるさ</p><p>お、おう</p><p>唐突に、やたらポジティブなことを言い出したケイに、しばしアイリーンは目をぱちくりとさせたが、</p><p>……まあ、そうだよな！　ゆっくり休んで、とっとと治しちまおう！　よし、となればオレは寝るぜ、ケイ！</p><p>にひひ、と調子を合わせて笑顔になり、掛け布団を顔までずり上げた。</p><p>―今は、盗賊の件は、伏せておく。</p><p>ケイは、そう決めた。</p><p>襲撃の可能性は、ろくに身動きを取れない以上、今のアイリーンが悩んでも仕方のないことだ。いらぬ心労を抱えたままでは、治りも遅くなるだろう。</p><p>だから、今は、アイリーンには心配をさせないでおく。</p><p>建前の中に、独善を含んでいることは自覚しつつも、ケイはそう決めた。</p><p>（……まあ、今は体調を整えることに集中して貰わないと、な）</p><p>これからどうなるか分からん、と思いつつ、ケイはぽんぽんとアイリーンの頭を撫で、 さて、 と立ち上がる。</p><p>それじゃあ、俺はクローネンの家に戻ろう。……また明日、だな</p><p>うん。また明日</p><p>ランプの明かりを吹き消し、ドアのノブに手をかけたケイは、ふと思い出したかのように振り返る。</p><p>そういえば、アイリーン。この間は婆様が来たから聞きそびれたが、魔術に関してだ。こっちには触媒も持ってきてるよな？</p><p>ん？　……一応、こっちに来る前には、充分に使える量は持ってたぜ。ってか、ホントに魔術って使えんの？</p><p>俺に使えて、お前には使えないってこともないだろ</p><p>小さく肩をすくめたケイは、アイリーンを見つめて、</p><p>体調が回復したら、試してみると良い。充分に使える量って、大体どれくらいだ？　 顕現 なら、何回ぐらい使える？</p><p>顕現 か、アレ消費デカいもんなー。触媒全部に魔力も使って、二回くらいが限界じゃね？</p><p>……そうか、まあ、そんなもんか</p><p>となると、 追跡 できるのも二回。ケイと合わせても三回。</p><p>（触媒は温存しといた方がいいか……）</p><p>逃げた盗賊を 追跡 しようにも、遺された大量の物資の中から、たった三回で当たりを引けるとも思えない。アイリーンの触媒は、ケイのエメラルドよりは入手しやすいが、小さな村で大量に工面できるものでもなかった。ここで賭けに出るよりは、手元に置いておいた方が良いだろう。</p><p>それにしても、何で急に触媒の話？</p><p>いや、これからウルヴァーンに行くにしても、ルートを考えないといけないからな。用意する物資について考えてたんだ、そのついでさ</p><p>小首を傾げるアイリーンに、半笑いで答えて誤魔化した。</p><p>……そっか</p><p>納得はしたのか、ふわぁ、と小さく欠伸をしつつ、仰向けから横向きになったアイリーンは、</p><p>おやすみ、……ケイ</p><p>……おやすみ。アイリーン</p><p>ぱたり、とドアを閉じ。</p><p>そのまま村長宅を辞去したケイは、クローネンの家に戻った。</p><p>クローネンたちとの挨拶もそこそこに、割り当てられた小さな部屋に引っ込んで、置いてあった鎖帷子を、静かに身にまとい始める。</p><p>（多分、今夜は大丈夫だと思うが……）</p><p>帷子の上からベルトを締め、次に革鎧を着込みながら、思考を巡らせた。</p><p>二人の盗賊が何処へ逃げたのかは分からないが、仮に本隊なり他の団員なりと合流し逆襲を仕掛けるにしても、たった一日では時間が足りないだろう。</p><p>そして、いくら早急に手勢を揃えられたとしても、連中が白昼堂々仕掛けてくるとは考えにくい。</p><p>早くて、明日の夜。</p><p>それ以降は時間が経てば経つほど危ない、というのが、ケイの考えだ。</p><p>（幸いなのは、村人が夜警を組んでることか……）</p><p>獣が出たとか出ないとかで、現在、タアフの村の住人は警戒態勢にある。男衆が火を焚き、交代で夜に見張りをやっているので、図らずも、夜襲に備えのある状態となっているのだ。</p><p>（だから、仮に夜襲を仕掛けられたとしても―）</p><p>ギュッ、と革の手袋の調子を確かめながら、ケイは暗闇を睨みつける。</p><p>（―村人が抵抗している間に、脱出できる）</p><p>包囲されたところで、暗闇はケイの味方だ。継続的な狙撃で包囲網に穴をあけ、他の村人を囮にすれば、逃亡は難しくない。</p><p>難しくはない―。</p><p>……。クソッ</p><p>陰鬱な気分を振り払うように頭を振ったケイは、ばさりとマントを羽織り、兜をかぶる。</p><p>腰に矢筒をつけ、弓を持てば、完全武装の戦士がそこにいた。</p><p>細く息を吐き出して、ケイは弓を抱えたまま、粗末な寝台にゆっくりと腰を下ろす。</p><p>ギシィィッ……とやや不安になる木材の軋みをやり過ごし、そっと壁に背を預けて、目を閉じた。</p><p>（…………）</p><p>静かだ。</p><p>（……そもそもが杞憂かも知れない）</p><p>とっぷりと暗闇に身を浸していると、ふと、そんな思いが頭をよぎる。瞼の裏に浮かぶのは、もはや随分と昔のことに感じられる、昨夜の戦闘だ。</p><p>（全員、殺したつもりだった）</p><p>手の内にこびりついた感触。一人残らず、矢を叩き込むか、剣で叩き切るかはしたはずだ。それこそ、確実に殺したと思えるほどに。今回逃げた二人も、運良く息があっただけのことだろう。重傷か、瀕死か―ロクでもない状態なのは、まず間違いない。</p><p>（草原にも、森にも、獣はいる。無事に逃げ切れるとは限らない……）</p><p>手負いで、移動手段もない人間が二人。血の匂いに惹かれてきた狼の群れにでも遭遇すれば、助かる見込みは限りなく低い。</p><p>（だから……何事も、なければ良い……）</p><p>徐々に。</p><p>思考が、有耶無耶になっていくのを感じる。</p><p>そのまま。</p><p>まどろみと覚醒を繰り返しながら、ケイは、</p><p>―</p><p>窓から差し込む薄明かりに、いつの間にか、自分が何事もなく一夜を明かしたことを悟った。</p><p>……来なかったか</p><p>安堵の溜息というには、少々重い。</p><p>疲労は蓄積しているが、さりとて今からひと眠りする気分にもなれない。ただ、外の空気が吸いたかった。だるさの抜け切らない体を引きずって、ケイは部屋から出る。</p><p>……早いな。どうしたんだ、その格好</p><p>外へ出ると、農具を手に抱えたクローネンに見咎められた。どんよりと、昏(くら)い目をした完全武装のケイに、何処となく及び腰な、訝しげな顔。</p><p>まだ日は昇り切っておらず、空は依然として薄暗い。にも拘らず既に仕事の準備とは、農民の朝は早い、ということか。</p><p>働き者なのだな、とどこか斜に構えた心で感心しつつ、この有り様をどう説明したものか、まるで他人事のようにぼんやりと考えを巡らせる。</p><p>―草原に、狩りにでも行こうと思ってな</p><p>左手の弓をちらりと見せ、言う。</p><p>……随分と重武装なんだな</p><p>そうでもない。普通だよ</p><p>真顔のまま言い切って、そそくさとその場から立ち去った。</p><p>向かうは、サスケを預かって貰っている厩舎だ。村の駄馬と共に、寝っ転がってのんびりと干し草を食んでいたサスケを連れ出し、村を出る。</p><p>木立を抜けながら、狩りのついでに周囲の地形把握でもしておくか、とケイが考えていたところで、背後から近づいてくる蹄の音。</p><p>おーい、ケイ</p><p>追い縋ってきたのは、村の駄馬に跨ったマンデルだった。</p><p>クローネンから聞いたぞ。……狩りに行くんだってな</p><p>速度を落としたケイに併走したマンデルは、ケイの顔を真っ直ぐに見詰め、</p><p>……おれも行っていいか？</p><p>†††</p><p>地形把握のため草原を走り回り、ついでに兎も仕留めたケイは、マンデルと共に村へ引き返していた。</p><p>ぱっかぱっかと、村の駄馬に足並みをそろえ、ケイたちはゆっくりと木立を進む。</p><p>……うぅむ</p><p>駄馬の鞍に揺られながら、遂に最後まで出番のなかったショートボウを片手に、マンデルが唸り声を上げた。</p><p>ケイは、凄いな。……普通、これだけの兎を狩るには、もっと時間がかかる</p><p>鞍にまとめてくくり付けた兎を、ぽんぽんと叩く。</p><p>そうか？</p><p>そうさ。……普通は、な</p><p>あまりにも平然としたケイの態度に、マンデルは小さく肩をすくめた。</p><p>本来、草原の兎は、狩るのはそれほど容易(たやす)くない動物なのだ。</p><p>まず、発見するのが難しい。生息数は多いものの、野山で暮らす種よりも体が小さいため、草陰に隠れてしまうと非常に見えづらいのだ。</p><p>そして、仮に見つけられたとしても、今度は弓で仕留めるのが難しくなる。草原の兎は非常に臆病で、自分よりも大きな生物の接近を認めると、すぐに逃げ出してしまうのだ。マンデル曰く、草原の兎を確実に仕留めるには、弓よりもむしろ罠を使う方が一般的であるらしい。</p><p>これだけの弓の腕があれば、猟師としても、戦士としても、引っ張りだこだろう。……狩りをするだけでも充分に食っていける</p><p>……そうかな</p><p>そうだとも。これは、凄いことだぞ、ケイ。……自分の腕で、どんな時でも、家族を養っていける、ということだ</p><p>なるほど。……家族、か</p><p>マンデルの言葉に、ケイはふと顔を上げる。</p><p>マンデルって、家族は、どうなんだ？</p><p>今は、娘二人と一緒に暮らしている。……妻は二人目の娘を産んだときに、熱病にかかって死んでしまったよ</p><p>それは……</p><p>いや、いいんだ。……もう十年も前の話だ</p><p>申し訳なさそうにするケイに、マンデルが気にするなと手を振った。</p><p>お袋は、俺が結婚するより前に流行り病に倒れた。……親父は、一昨年までは現役の猟師で、元気にしてたんだがな、</p><p>あごひげをさすったマンデルは、静かな目で森の奥を見やる。</p><p>ある日、『ちょっと見回りに行ってくる』と森へ出かけて行ったきり、帰って来なかった。探しても遺品の一つ、骨の一本も見つからない。……まあ、森に人が呑まれるなんてのも、そう珍しい話じゃないからな。死んだと思うことにした</p><p>そ、そうか</p><p>まあ、おれはこんなところだ。……ケイは、どうなんだ？</p><p>俺の家族か……</p><p>マンデルに話を振られ、馬上に揺られるケイは遠い目をする。最後に直接、家族と顔を合わせたのは、何年前のことだろうか。</p><p>親父に、お袋に、弟が一人。別に変わり映えのしない、普通の家族だったさ</p><p>普通の家族、か？</p><p>そう言うマンデルの目は、何処か疑わしげだ。</p><p>ああ</p><p>しかしそれを意に介さず、ケイはただ頷いた。</p><p>本当に、『平々凡々』という言葉がお似合いの、普通の家族だった。むしろその『普通』の中で、ケイの存在だけが浮いていたように感じる。</p><p>少し気弱なところのあるサラリーマンの父に、パートで働いていた面倒見の良い母。</p><p>引きこもりがちだった弟に関しては、 おれも兄ちゃんみたいだったら思い切りゲームできたのに と言われケイがブチ切れて以来、まともに連絡を取っていないので今はどうしているのか知らないが。</p><p>なあ、ケイ。……ケイは、草原の民の出なのか</p><p>と、元の生活に思いを馳せていたところへ、マンデルが問いかけてくる。</p><p>……。あー、それは、</p><p>そこらへんの『設定』はまだ考えていなかったので、ケイは咄嗟の答えに詰まった。ゲームの設定、キャラクターメイキングの際に選択した出自を答えるのであれば、『草原の民』と言っても良かったのだが。</p><p>いや、言えないなら良いんだ</p><p>しかし、ケイの躊躇いをどう解釈したのか、マンデルはすぐに発言を引っ込める。</p><p>独り言を言うとだな。まあ、なんで草原の民の格好をしているのかは、知らないが。……顔に部族の刺青が無い時点で、少なくとも成人の儀を受けていない、外れ者であるのは間違いないわけだ</p><p>そう言われて、思わず自分の顔に手を伸ばす。と同時に、ゲーム内の草原の民のNPCは、ことごとく顔に刺青を入れていたことを思い出した。</p><p>ちら、とマンデルが横目でケイを見やる。ケイは黙ったまま、目で話の続きを促した。</p><p>もう十数年も前の話になる。ダリヤ草原一帯を治める”ウルヴァーン”のクラウゼ公に、恭順を示すかどうかで、草原の民が内紛を起こした。……その争いのとばっちりを受けた平原の民は多い。そのせいでここらでは、草原の民の受けがあまり良くないんだ</p><p>……ふむ</p><p>一応は決着が着いた今でも、部族同士で揉めることはあるらしいし、盗賊まがいの不義を働く草原の民もいると聞く。連中は、人質を取らないからな。怨みも買いやすい。そういうわけで。……もしおれがリレイル地方を旅するなら、草原の民の格好はしないよう、気をつけるだろうな</p><p>……なるほど</p><p>最初に村に入った際、警戒態勢にあったとはいえ、やたらと村人たちの態度が敵対的だったのは、そういう理由もあったのかと納得した。</p><p>元々ケイの纏う防具類は『草原の民』風のものが多いが、これは単純にキャラの出自が草原の民だったのと、親しかった革防具職人がそういったデザインを好んで使っていたからだ。</p><p>独特の紋様や、羽根飾りを多用する様式はケイの好みでもあったのだが、それが他者へ悪感情を及ぼすのであれば、話は変わってくる。</p><p>となれば、アレか……この羽根飾りとかは外した方がいいか</p><p>そうだな、そうすれば大分……なんというか、マシになる。兜のは、そのままでもいいと思うが</p><p>革鎧の各所、特に肩当てに取りつけられた特徴的な装飾が、エキゾチックな雰囲気を演出するのに一役買っている。これを外しただけでも、随分と質素な見かけになるだろう。</p><p>……あと、顔布もやめておけ、あれはあからさまに怪しい</p><p>そう、だな</p><p>顔布は戦闘においては、表情を読まれないという利点があったのだが、普通に旅する分には外しておいた方が良いかもしれない。</p><p>色々と考えることがあるな、とケイは小さく溜息をつく。それにしても、草原の民がここの住人に嫌われていたとは、ついぞ見当もつかなかったことだ。</p><p>ありがとう、マンデル。そこら辺の事情には疎くてな</p><p>そうだと思っていた。……気にするな</p><p>……。別に、出自を隠しているわけではないんだが、俺とアイリーンは、ちょっと事情が特殊でな。説明できないというより、し辛いんだ。すまない</p><p>いや、いい。……だから、気にするな</p><p>気取らない態度で、マンデルがひらひらと手を振った。</p><p>こんな見ず知らずの自分に、親切にも忠告してくれた思いやりが、痛い。</p><p>盗賊の件が、ちらりと脳裏をよぎった。ケイの心に、何とも言えない申し訳なさが募っていく。</p><p>暗く落ち込んだケイの顔を、憂いを帯びた表情でマンデルが見やる。</p><p>……そうだ、ケイ。ひとつ頼みたいことがあったんだ</p><p>ん、なんだ？</p><p>その弓。……触らせてもらえないか</p><p>ああ。お安い御用だ</p><p>興味津々な視線を向けるマンデルに、ケイは横からひょいと”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を手渡す。</p><p>受け取った瞬間にマンデルの手が、くんっと跳ね上がった。ほぅ、と小さく声を上げたマンデルは、その見た目を裏切る弓の軽さに目を丸くする。</p><p>そして、その軽さを裏切るほどに、</p><p>ぐっ……</p><p>固い。“竜鱗通し”を構えたマンデルが、一息に弦を引こうと試みた。軋みを上げる弓。胸元近くまで引き絞ったマンデルはしかし、顔を真っ赤にするもそれを維持しきれず、すぐに弦を元に戻す。</p><p>なんて張りだ。おれにはとても使えない。……指が千切れるかと思ったぞ</p><p>手袋もなしに使ってたら、指の肉がズタズタになるからな</p><p>弓を使って一番ダメージを受けるのは、弦を引く指だ。“竜鱗通し”の張力は、特に普通の弓のそれよりも強い。ゲームには痛覚が存在しなかったので、素手でも指の肉が削ぎ落ちるまで扱えていたが、現実だと痛みで使えた物ではないだろう。</p><p>しかし、この軽さでこの張力。表面の皮の質感も、見たことがない。……一体、何で出来てるんだこの弓は</p><p>それは疑問というよりはむしろ、感嘆の声。申し訳なさを押し殺し、無理に小さく笑みを浮かべたケイは、</p><p>古の樹巨人(エルダートレント)の腕木を骨組みに、飛竜(ワイバーン)の腱を使っている。表皮は飛竜の翼の皮膜だ</p><p>正直に答えた言葉に、一瞬、動きを止めたマンデルが手の中の弓を二度見した。</p><p>……</p><p>おっかなびっくり、といった様子で、ゆっくりとケイに”竜鱗通し”を返してくる。</p><p>……とんでもない代物だな</p><p>信じるのか？</p><p>ここでおれを担ぐ理由がないし、嘘と断じるには、この弓はあまりにも化け物じみている。……それに、</p><p>ふっと、マンデルの目が遠くなった。</p><p>―クラウゼ公が戦装束にしていた”竜鱗鎧《ドラゴンスケイルメイル》“と、この弓の表皮の色がそっくりだ</p><p>クラウゼ公って、……貴族だろ？　会ったことがあるのか？</p><p>いや、遠目に見たことがあるだけだ。……十年以上前の話さ</p><p>懐かしむような、それでいて何処か寂しげな。口の端に薄く笑みを浮かべたマンデルは、小さく肩をすくめた。</p><p>いや、それでもやっぱり、ケイは凄いな。その弓がどれほどの価値を持つのか、おれには見当もつかない。竜の朱き強弓を手にした、風の精霊を従える戦士、か。新月の宵闇から現れ、悪の盗賊団を征討し、麗しき少女の命を救う。……吟遊詩人が好みそうだ</p><p>まるでおとぎ話じゃないか、と、そう言ってマンデルは、静かに笑った。</p><p>―そんな立派なもんじゃない。</p><p>おとぎ話の主人公なら、そのまま悪の親玉まで倒してしまうのだろうが。</p><p>そうか、な</p><p>湧きあがる感情を押し殺し。</p><p>ケイは、引きつったような笑みを浮かべることしか、できなかった。</p><p>ちなみに、前々回登場したグリーンサラマンデルというモンスターですが、こいつのモデルはコモドドラゴン（コモドオオトカゲ）という爬虫類です。</p><p>作中のモンスター『森大蜥蜴』は、コモドドラゴンの見かけに、10tトラック並の大きさ、そしてあぜ道を走る軽トラくらいの機動力を持つとお考えください。</p><p>15. 村人</p><p>暑苦しいような、重苦しいような。</p><p>何とも形容しがたい、不快な感覚。</p><p>夢現(ゆめうつつ)のぼやけた頭のまま、アイリーンは『それ』を振り払う。ぶよん、としたものに手がブチ当たり、 んごぉッ と妙な声が聴こえた気がした。</p><p>……ん</p><p>薄く目を開くと、木の梁が剥き出しになった天井が見える。ああ、そうか、自分は眠っていたのだと。頭の中、流れていく状況認識。</p><p>ベッドの上、ゆっくりと上体を起こす。</p><p>むにゃむにゃ、と寝惚け眼のまま、部屋の中を見回した。</p><p>……お、お目覚めですか</p><p>そして緑のドアの前、額に脂汗を浮かべて畏まる小太りの男―ダニーと目が合う。</p><p>……。！？</p><p>眠気が吹き飛んだ。</p><p>―なぜ、コイツがここにいるのか。</p><p>寝室に、さほど親しくもない男が入り込んでいた、という事実。</p><p>例えそれが家主であったとしても。違和感を伴った気味の悪さ。</p><p>不意に、先ほど手にブチ当たった、ぶよんとした感触が甦る。</p><p>ぞわりと、背筋に悪寒が走った。</p><p>……</p><p>身体を守るようにシーツを掻き抱き、黙ったまま目つきを険しくするアイリーンに、さらに顔色を悪くしたダニーは ちょ、朝食の用意はできております と言ってそそくさと部屋から出て行った。</p><p>ばたんっ、と扉の閉まる音。</p><p>ほぼ同時、シーツをめくり、アイリーンは全身をぺたぺたと触って、何か異常はないか確かめた。</p><p>―大丈夫。</p><p>特に異変はない。</p><p>……何だったんだアイツ</p><p>思い出したように、両腕に鳥肌が立つ。</p><p>……きもっ</p><p>生理的な嫌悪感。寒気を堪えるように、両腕をさすった。</p><p>そわそわと、酷く落ち着かない気分になったアイリーンは、不安げに視線を彷徨わせ、窓の外を見やる。</p><p>森の緑が目に入り、少し平静を取り戻すとともに、ふと ケイに会いに行こうかな と思い立った。</p><p>ベッドから降りて、借り物の木靴を履く。木から削り出したシンプルなデザインのそれは、サイズが合ってないのでぶかぶかだったが、表面が滑らかに仕上げられているので履き心地は悪くない。</p><p>あの、脂ぎった男が居間にいたら嫌だったので、アイリーンは緑の扉は使わず、窓枠を乗り越えて直接外へ出た。</p><p>カポカポ、カポンと。</p><p>木靴の音を立てながら、穏やかな陽光を浴び、土がむき出しの道を行く。</p><p>（……体が軽いな）</p><p>歩きながら、アイリーンは昨日に比べ、明らかに体の調子が良いことに気付いた。自然と窓枠を乗り越えられた時点で気付くべきだったが、しっかりと足腰に力が入るのだ。</p><p>ふふっ、と小さく笑みがこぼれ、自然と足取りも軽くなる。</p><p>（えーと、ケイは何処にいるんだっけ）</p><p>確か―クローニンだかクローネンだか、そんな感じの名前の、村長の次男の家にいたはずだ。</p><p>それは、憶えているのだが。</p><p>彼の家が何処にあるのか、思い出す以前に、そもそも全く知らないということに気が付いた。</p><p>……えーと、</p><p>どうしたものか、とその場でうろうろしていると、村の中心の方から、壺や革袋を抱えた女たちが歩いてくるのが見えた。姦しく響く話し声。</p><p>……あら、アイリーン様。いかがなされたのですか、こんなところで</p><p>その集団の端、いつも通り柔らかな笑みを浮かべたシンシアが、アイリーンに目を止めて声をかけてくる。それに続いて他の女たちもアイリーンの存在に気付き、先ほどまでの姦しさはどこへやら、ハッとした表情で猫をかぶったように大人しくなった。</p><p>ケイに、会いに行こうと思った、んだけど……。何処にいるか、分かんなくって</p><p>面と向かって問われると、なんだか、ただ ケイに会いに行く というのが、気恥ずかしく感じられた。アイリーンは目を泳がせて、しどろもどろに答える。</p><p>その、何とも初々しい雰囲気に、村の女たちが あらぁ～ とはやし立てるような声を上げ、さらに羞恥心を煽られたアイリーンは自分の頬がかぁっと熱くなるのを感じた。</p><p>あっ、ケイ様でしたら、うちに！</p><p>そんな中、 はいはいはい！ と元気に手を上げたのは、そばかす顔の若い女だ。</p><p>あなたは？</p><p>クローネンの妻の、ティナです！</p><p>水の入った壺を抱えた、そばかす顔の女―ティナは、アイリーンにぴょこんと一礼して見せた。</p><p>我が家はこちらになります、というティナに連れられて、カポカポと村の中を歩いていく。案内されてみれば、クローネンの家は拍子抜けするほどに近かった。 狭い家ですが、どうぞ と中へ招き入れられる。</p><p>ケイ様は、早朝に狩りに出かけられたようです。でも、もう日も高いですし、そろそろお戻りになる頃かと</p><p>そうだったんだ</p><p>居間に通され、テーブルの席に着いたアイリーンは、さりげなく部屋の中を見回した。ティナの言葉通り、村長の家に比べればやや手狭で質素だが、板張りの床には塵ひとつ落ちておらず、かなり清潔な印象を受ける。</p><p>これなら裸足で歩いてもいいな、などと思いながら、テーブルの下でカポカポと木靴を動かして暇を潰した。そんなアイリーンをよそに、ティナは壺の水を鍋へ移して、かまどで火を起こして、と何やら忙しそうだ。</p><p>―今、お茶を淹れますので</p><p>ああ。ありがとう</p><p>乾燥ハーブの束を手に微笑みかけるティナに、彼女が自分のためにお湯を沸かそうとしていると気付き、アイリーンは軽く会釈して礼を言う。</p><p>……</p><p>しばしの沈黙。ぱちぱちと、かまどの焚き木が弾ける音だけが響く。</p><p>テーブルに肘をついてぼんやりとしていると、頭に浮かぶのはやはり、先ほどの『アレ』だった。</p><p>脂ぎった男の顔が脳裏をよぎり、すぐに消え、代わりに柔らかで線の細い、慈しむような微笑みが思い起こされる。</p><p>……なんでシンシアさんは、結婚したのかな</p><p>ぽつりと、率直な疑問が口を衝いて出た。</p><p>シンシアとダニー。少なくとも、見かけだけでいえば、到底お似合いとはいえないような夫婦だ。ダニーにそれほど人間的な魅力があるとも思えないし、その美しさから引く手数多だったであろうシンシアが、なぜ、よりにもよってダニーと結婚することを選んだのか、純粋に疑問だった。</p><p>あ～……義姉さんは、色々と気の毒ですよね</p><p>アイリーンの独り言に、したり顔のティナ。</p><p>気の毒？</p><p>望んだ結婚ではないんですよ。殆ど身売りみたいなもんです</p><p>……というと？</p><p>僅かな興味の色を覗かせて小首を傾げると、 ここだけの話ですよ という常套句で声をひそめたティナは、</p><p>もう十年近く前の話になりますけど。義姉さんの妹さんが、熱病にかかってしまったんです。街に行けば治療薬は手に入ったんですけど、それが物凄く高価で……。義姉さんの家は裕福じゃなかったので、どうしたものか困っていたところに、あの男が、</p><p>ティナの『あの男』という言葉には、かなり棘があった。</p><p>―『親(・)類(・)な(・)ら(・)助けることもできるんだがなぁ』なんて、金をちらつかせながら言い出したんですよ。その時、義姉さんには、両想いの恋人がいたことを知りながら！</p><p>……へぇ、それは</p><p>つまり、妹を救うために、恋人を捨ててダニーの元へ嫁いだということか。</p><p>うーん、と唸り声を上げたアイリーンは、眉をひそめて何とも居た堪れない表情を浮かべた。</p><p>……それで、その妹さんは、助かったの？</p><p>……はい。そ(・)の(・)時(・)は(・)</p><p>頷くティナの顔は、渋い。</p><p>でも病気が治って一か月もしないうちに、森の外れで運悪く獣の群れに襲われて、亡くなりました</p><p>うわぁ</p><p>しかも、それを知っての第一声が、言うに事欠いて『金が無駄になった』ですよ。それも義姉さんの前で……あの豚野郎</p><p>ぶ、豚……</p><p>直球だが的確な言い様。不覚にもツボに入ったアイリーンは一瞬、顔をひきつらせる。</p><p>それにしても、シンシアを義姉と呼ぶならばダニーは義兄なわけだが、ティナは随分と彼を嫌っているようだ。</p><p>……彼のこと、嫌ってるんだ</p><p>そりゃもう！　この村でアイツが好きな奴なんていませんよ！</p><p>腰に手を当てたティナは、ぷんぷんと擬音が聴こえてきそうな勢いで頬を膨らませた。</p><p>いつも偉そうに人を顎で使ってくるし、その割に自分は仕事しないし！　家に閉じこもってばかりで、たまに外に出たかと思えば、ただぶらぶら散歩してるだけだったり、街に遊びに行ったり。しかも話によると娼館通いしてるらしいですよ、金で義姉さんを娶った癖に……。義姉さんには気の毒だけど、子供がいつまで経っても出来ないのも、みんな天罰だって言ってます</p><p>そこまで早口で言ってから、ティナは小さくため息をついた。</p><p>はぁ。将来、あれが村長になるのかと思うと、気が重い……いっそのこと、ウチのダンナが村長になってくれたらいいのに</p><p>ぷすーっ、と息を吐くティナの言葉に、アイリーンの表情が渋いものとなる。</p><p>金で買った婚姻。嫌われ者。娼館通い。</p><p>アイリーンの中で、ただでさえ印象最悪だったダニーの評価が、さらに下降していく。そして、自分は少なくともあと一日、この村に―村長の家に―留まるという事実が、ずっしりと心にのしかかってきた。</p><p>あの、ティナさん</p><p>はい？</p><p>実は、ここだけの話、</p><p>声をひそめたアイリーンは、先ほどの『アレ』を、ティナに打ち明けた。</p><p>ええッ！？</p><p>ダニーが部屋に居た、というくだりで、目を見開いて顔を青ざめさせたティナは、</p><p>だだだ、大丈夫だったんですか！？</p><p>多分……。何もされてないと思うけど……</p><p>何か、どろどろしたものとか、かけられてませんでした？！</p><p>そ、それも多分大丈夫……</p><p>うええ、と顔をしかめながら、アイリーンは首を振った。</p><p>はぁ～まさかあの豚、客人にまで……？</p><p>頭痛を堪えるように、額を押さえたティナ。光彩の開いた瞳で、ゆらりと、台所の肉切り包丁を見やる。</p><p>いっそのこと……そうだわ、そうすればクローネンが村長に……</p><p>いっ、いや！　個人的には、ただ泊まる家を変えられないかなって……！</p><p>打算と欲望の色に瞳を濁らせ始めたティナに、アイリーンは慌てて声を上げた。 いやですねー、冗談ですよー と朗らかな笑みを浮かべるティナだが、冗談なのか本気なのか、なかなか判断に迷うところだった。</p><p>と、そのとき、ばたんと音を立てて外への扉が開かれる。</p><p>おーいティナ、いるか―って、あれ</p><p>草刈り鎌を手に、手拭いで汗を拭きながら家に入ってきたのは、クローネンだった。居間の椅子にちょこんと腰かけるアイリーンに目を止めて、ぱちぱちと瞬きしたクローネンは、</p><p>……なんでウチに姫さんが？</p><p>あなたぁいいところに！　ちょっと聞いてよ、酷いのよ！！</p><p>ぷふぁぁっと振り返って目を輝かせたティナが、獲物に食らいつく猟犬のように距離を詰め、ことの顛末を説明する。</p><p>―と、いうわけなのよ！　あなた、これはチャンスよ！</p><p>ティナは鼻息も荒く、</p><p>徹底的に糾弾して、アイツを次期村長の座から蹴落としてやりましょう！</p><p>…………</p><p>頭痛を堪えるように、ぺしっと額を押さえ天を仰いだクローネン。小さく溜息をつき、無言のまま、ティナの額をスコーンッと草刈り鎌の柄で叩いた。</p><p>あだぁッ！？</p><p>……すまない、姫さん。ちょっと待っててくれ</p><p>申し訳なさそうなクローネンは、額を押さえて うごぉぉぉ と呻くティナの腕を掴み、そのままずるずると家の外まで引きずっていく。</p><p>あ、うん……</p><p>ひとり、残されたアイリーンは、半ば呆然としたまま。</p><p>……あ、お湯沸いてる</p><p>しゅーしゅーと、鍋の蓋から吹き出る湯気の音だけが、静かに響いていた。</p><p>†††</p><p>ちょっと、痛いじゃない、何すんのよ！</p><p>静かにッ、あんまりでかい声を出すな！</p><p>家の外。声を荒げるのは、額を赤くしてお冠のティナに、負けじと彼女を睨みつけるクローネンだ。</p><p>頼むから、あんまり騒ぎを大きくしないでくれ……！</p><p>なんでよ、千載一遇のチャンスだわ！</p><p>チャンス？　チャンスだと！</p><p>はっ、とクローネンは乾いた笑みを浮かべた。</p><p>姫さんはともかくとして、あのケイとかいう男は化け物だ！　下手にことを荒立てて、怒りを買ったら何をされるか分からん！</p><p>豚野郎に全部かぶって貰えばいいじゃない、別にアイツが殺されたってわたしは構わないわ</p><p>お前な……！</p><p>ティナのあんまりな言い様に、思わずクローネンは顔を引きつらせる。</p><p>あんなのでも一応、俺の兄貴なんだぞ！</p><p>知ってるわよ！　わたし、貴方のことは好きだけどあいつは嫌いだわ。大嫌い</p><p>ぷい、と顔をそむけるティナ。</p><p>幼少期、両親の生業である養豚を手伝っていたティナは、当時ガキ大将だったダニーに幾度となく『豚臭い』とからかわれて泣かされており、今でもそれを相当根に持っている。ただの農民の癖に、水浴びや掃除が潔癖症一歩手前まで習慣化してしまったのも、そのせいだ。</p><p>お前が兄貴を嫌ってることは知ってる。だがそれとこれとは話が別だ、兄貴が死んだら誰が村長を継げる！？</p><p>……っあなたよ！　あなた以外に誰がいるっていうの！？</p><p>信じられない、と言わんばかりに頬を紅潮させ、声を裏返らせるティナ。しかし対するクローネンの表情は、げっそりと、どこかうんざりしたように。</p><p>―自分には無理だ。</p><p>その想いは、どこまでも苦々しい。</p><p>クローネンは、自覚しているのだ。自分には、ダニーの代わりは務まらないと。</p><p>たしかに、ダニーには人間的な欠点が多い。</p><p>まず村の若年層には好かれていないし、女がらみとなると途端に理性を失くす節がある。その上、大飯食らいで、意地汚く、欲深で、守銭奴。そして何かにつけて尊大な態度を取り、それに反感を抱く村人は、実際のところかなり多い。</p><p>“自分でも、村長は務まる”</p><p>“むしろ、皆に慕われている自分の方が、ダニーよりも村長に相応しい”</p><p>そう考えていた時期が、クローネンにもあった。周囲の友人に持ち上げられ、調子に乗っていたのか。あるいはダニーは嫌われているという事実が、背中を押したのか。それとも単純に、ダニーを村長に推し、自分には目もくれない父親(ベネット)への反発心だったのか。いずせによ、クローネンは成人するまで、自分の方がずっと村のまとめ役に向いていると、そう信じて疑っていなかった。</p><p>しかし本格的に、村の運営に関わる仕事に触れたとき。</p><p>おのずと、悟ってしまった。</p><p>片や、幼い頃より、書物や商人たちの話から見聞を広め、ずっと勉学に励んできたダニー。</p><p>片や、勉学を放り出し、友人たちと一緒に野山を駆けずり回って遊んでいた、自分。</p><p>頭の地力が、知識量が。</p><p>余りにも―違いすぎた。</p><p>たしかにクローネンには、読み書きや計算の素養がある。怠けて途中で放り出したとはいえ、椅子に無理やり縛り付けられるようにして、ある程度の教養をベネットから叩き込まれていたからだ。</p><p>ゆえに税の計算や帳簿の管理など、村長として要求される最低限の業務は、こなすことができる。</p><p>しかしそれはあくまで、『最低限』。村の代表として、もっと重要な業務は他にある。</p><p>例えば、商人から適正価格で商品を購入したり。</p><p>あるいは、村の生産品を適正価格で販売したり。</p><p>また、それらをこなすための人脈を開拓したり。</p><p>知識も、経験も、咄嗟の機転も、全てが足りないクローネンには、上手く出来ないようなことばかりだった。しかし、そんな煩雑な仕事を、ダニーはまるで商人のように難なくこなす。</p><p>それを間近で見せつけられたクローネンは、己の不甲斐なさに、そして兄との決定的な能力差に、ただ、打ちのめされた。</p><p>しかも。それをこなした上で、ダニーは金策も忘れていなかった。</p><p>行商人たちの話から、あるいは街の片隅でのさり気ない会話から、拾い上げた情報を分析・統合し、市場の傾向や物価の動向を予想する。</p><p>そして農作物の作付けを調整したり、価格が高騰しそうな物品を買いしめたり、流行り病を察知してあらかじめ薬を準備したり―そういったダニーの情報処理能力は、クローネンからすればもはや、異次元の領域であった。</p><p>“商人の家に生まれていればよかった”</p><p>ある日、ダニーがぽつりとこぼした言葉だ。ダニーには確かに、商才がある。それは、ただの田舎村の村長として使い潰すには少々惜しいと、クローネンも心底からそう思えるほどに、素晴らしい才能だ。</p><p>仮に、長男でなければ。あるいは、ベネットに教え込まれた、次期村長としての責任感がなければ。</p><p>ダニーは商人として独り立ちし、とっくの昔に村を去っていたかもしれない。しかし現実には、彼は彼なりに村のことを思って、タアフの地に留まっている。</p><p>タアフの村は、近隣の村に比べて、豊かだ。</p><p>質の良い農具に、酒や甘味などの嗜好品。いざという時のためには、様々な種類の薬も揃っているために、急な病気や怪我にも対応でき、村人を死なせずに済むことが多い。</p><p>物質的に、精神的に、ゆとりのある生活。しかしこの『豊かさ』は、その殆どがダニーの手によるものであることを、クローネンは知っている。彼が稼ぎだした金が、それらを買うのに充てられているところを、すぐ傍で目の当たりにしてきたからだ。</p><p>そしてベネットからダニーへ、代替わりを見守ってきた村の年寄たちも、それを分かっている。ベネットの代よりも、明らかに向上した生活水準。決してベネットが無能であったわけではない。ただ、『金を稼ぐ』という一点において、ダニーがベネットの追随を許さぬ才能を発揮しただけのこと。それらが分かっているだけに、ダニーの尊大な態度を受け入れ、彼が村長となることを支持しているのだ。</p><p>それだけの権利が、実績が、ダニーにはあると、認めているから。</p><p>……俺には、無理だ</p><p>クローネンは、ゆっくりと首を振る。</p><p>俺には、兄貴の代わりは務まらない</p><p>なんで！？　あなたなら出来るわ、わたしも手伝うし、皆もあなたの方が良いって言ってるし―！</p><p>そういう問題じゃない</p><p>本当に、単純に、能力が足りていないのだ。いくらティナが手伝おうと、皆が協力してくれようと、それは埋めようのない差だった。</p><p>あるいは。</p><p>皆のまとめ役として、クローネンが形だけの村長として収まり、ダニーが裏方として働く、という形が構築できれば、それは理想的であるのかも知れない。</p><p>しかし、それはほぼ確実に実現しないだろうと、クローネンは思う。</p><p>なぜなら、ダニーは『村長になるために』、この村に留まっているからだ。幼い頃より次期村長として育てられたダニーは、『自分が村長になる』ということを、半ば当然と受け止めている節がある。それは責任感であり、ある種の諦念だ。その、『当然』という想いのみが、ダニーを村に縛り付けている。</p><p>それが無くなれば、果たして、どうなるか。</p><p>十中八九、ダニーは村を出るだろう。プライドの高い彼が、冴えない弟の陰で裏方に徹することなど、許容できる筈もないのだから。第一、村にしがみつかずとも、既に構築した人脈と自身の才能で、ダニーは商人として充分に食っていける。</p><p>村に残る理由が、見当たらなかった。</p><p>そしてダニーが出て行ったあとの村には、ただ頼りないクローネンだけが残される―。</p><p>薬も酒も、いずれは無くなる。農具は買い替えなければならない時が来る。</p><p>そのとき、新たにそれを調達するだけの金を、クローネンは捻出することができない。タアフの村は、再び近隣の村と同じ生活水準にまで、戻らざるを得なくなるだろう。決して貧しくはないが、豊かでもない。そんな暮らしに。</p><p>それは―極力、避けるべきだ。</p><p>だから、何度も言ってるだろう。お前が手伝ってくれたところで、どうにもならないんだ！</p><p>なんで……なんでそんなこと言うのよ！　やってみなければわからないじゃない！</p><p>俺には分かるんだ！　俺とお前なんかが一緒に知恵を捻ったところで、兄貴の頭には敵わないんだよ！！</p><p>悔しげに顔を歪ませたティナに、クローネンはなんとも言えないもどかしさと、苛立ちを胸に募らせる。</p><p>おそらくティナは、自分の夫が、よりにもよって自分が最も嫌いな男に、劣っているのが嫌なのだ。そしてただ劣っているだけではなく、それを本人が認めていることが、どこまでも気に食わないのだろう。だからこうやって癇癪を起こす。</p><p>それが―クローネンには、どうしようもなく苛立たしい。</p><p>ティナも含めて、村の若い衆の多くは、ダニーの功績を理解できない。理解しようともしない。</p><p>尊大な態度。人使いが荒い。肉体労働をしない。</p><p>確かにそれらは欠点でもあるが、その上っ面だけに目をやって、中身を全く評価しようとしないのだ。</p><p>仮にクローネンが、いかにダニーが有能であるかを説明しても、彼らはただ感情に任せて、すぐさまそれを否定する。曰く、やれば自分たちにもできる。曰く、それほど大したことではない。根拠も経験も知識もなく、ただ感情に任せてそう言い張る。</p><p>何処までも幼稚で、救いようがないほどに無知だった。さしものクローネンも、嫌気が差す。</p><p>ともすれば、彼らをいつも馬鹿にしている、尊大な兄の心境が理解できてしまう程度には―。</p><p>……はぁ。もういい。この話は終わりだ</p><p>大きく溜息をついて、ひらひらと手を振ったクローネンは、有無を言わさぬ口調でそう言い切った。</p><p>―自分は、裏方に徹する。</p><p>クローネンは、そう心に決めている。村の自警団のまとめ役として皆の不満を受け止め、ダニーと村の若い衆の間を取り持つ、橋渡しの役目を果たすのだと。</p><p>それこそが、自分がこのタアフの村に一番貢献できる在り方であると、クローネンはそう考えている。</p><p>願わくば、最愛の妻くらいにはこれを理解してもらいたかったのだが、―不満たらたらの表情のティナを見て、クローネンは再び小さく溜息をつき、嫌な考えを振り払うように首を振った。</p><p>……ティナ。お前は兄貴が殺されても構わないと言ったがな。そもそも事を荒立てると、兄貴一人の命じゃ済まされない可能性もある。だから極力穏便に、謝り倒してでもやり過ごす必要があるんだ</p><p>そんなこと、分かんないじゃない！</p><p>『分からない』で済まされるか馬鹿！　仮に法外な賠償を要求されても、あのケイとかいう男に逆らえる奴はこの村にいないんだぞ！？　あ(・)の(・)マンデルでさえだ！　そうなったとき、お前に責任が取れるのか！？</p><p>……それは、</p><p>分かったなら黙ってろ。……姫さんには、俺から謝っておこう。兄貴は……いや、姫さんも会いたくはないだろうしな、向こうが望むなら謝らせるが……いずれにせよ、穏便に片付くことを祈るしかないか。ウチ以外に寝室に空きがある家、あったかな……</p><p>…………</p><p>ブツブツと額を押さえて考え込むクローネンを、ティナは、ただ恨みがましい目でじっと睨みつけていた。</p><p>が、ふっと、その視線がクローネンの背後へと逸れる。</p><p>……あ。戻ってきた</p><p>なに？</p><p>ティナの呟きに、クローネンはばっと後ろを振り返った。すると、村の入り口の方に、馬に跨ったケイとマンデルの姿。</p><p>帰ってきたのか……</p><p>こんなときに限って良いタイミングだ、と乾いた笑みを浮かべるクローネン。</p><p>ケイの隣に轡を並べるマンデルを見やり、続いてティナへちらりと視線を向けて、小さく溜息をついた。</p><p>―ティナも、マンデルを見習ってほしいもんだ。</p><p>しみじみと、そう思う。</p><p>ここらでは名の知れた弓と短剣の名手であり、かつて”戦役”では手柄を立てたマンデルは、村の中でも特に一目置かれた存在だ。</p><p>指折りの発言権と、タアフの皆に対する大きな影響力を持つ彼ではあるが、今のところ、クローネンではなくダニーが村長になることを支持している。</p><p>理由は、 ダニーの方が、より優秀であるから だ。</p><empty-line/><p>勿論、自分と比較して、の話ではあるが、クローネンはそれを気にするつもりはない。むしろ、マンデルのなんと理知的なことか、と感涙を禁じえないほどであった。</p><p>本来ならば、マ(・)ン(・)デ(・)ル(・)こ(・)そ(・)が(・)最(・)も(・)ダ(・)ニ(・)ー(・)を(・)憎(・)ん(・)で(・)い(・)る(・)筈(・)な(・)の(・)に(・)―そんな彼を差し置いて、ただ感情に振り回されるだけのティナには、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいところだが。</p><p>（今はそれどころじゃない、か）</p><p>とりあえず。ケイの怒りを買わないように、細心の注意を払って謝罪しなければならない。</p><p>（……ああ。なんで俺だけ、こんな気苦労を……）</p><p>自分が決めたこととはいえ、なんともやり切れない思いを抱えたクローネンは、自分を落ち着かせるかのように静かに深呼吸。</p><p>……はぁ</p><p>そしてその日、何度目になるか分からない、小さな溜息をついた。</p><p>†††</p><p>村に戻ると、クローネンにいきなりその場で平伏されたので、ケイはかなり困惑した。</p><p>なんでも話によると、ダニーがアイリーンの寝込みを襲おうとしたらしい。</p><p>何……？</p><p>それを聞いたケイが、夜叉の形相に変貌するのを見て、アイリーンが 待て待てケイ！ と慌てて話に割り込んでくる。</p><p>アイリーン曰く、別に襲われたわけではないようで、ただ目を覚ましたら部屋にダニーがいた、というだけの話らしい。</p><p>それはそれでどうかと思ったケイだが、アイリーンが気にしないと言うので、そこまで深刻に事態を捉えるのはやめにする。ただ、泊まる家は変えたいという要望にはこたえて、最終的にアイリーンとケイがそれぞれ家をチェンジすることとなった。ケイの代わりにアイリーンが来ると聞いて、ジェシカがはしゃいでいたのが印象的だった。</p><p>ベネット宅へと移ったケイは、アイリーンは気にしないと言ったものの、家で顔を合わせるたびにダニーへプレッシャーをかけ続けた。そのため、夕食時、シンシアが冷や汗を浮かべる程度に、緊張感のある空気になってしまったのはご愛嬌だ。</p><p>食後は、またぞろ部屋に引きこもって昨夜のように待機するつもりだったのだが、ベネット宅の寝台があまりに寝心地が良すぎて、完全武装であったにも関わらずケイはそのまま熟睡してしまった。幸いなことに、盗賊たちの夜襲はなかったのだが。</p><p>そして、翌朝。</p><p>クローネンの家の前、村人風のだぼだぼのズボンに、革のベストを羽織ったアイリーンが、 よっほっ と声を出して体を動かしていた。</p><p>どうだ？　調子は</p><p>傍で見守るケイの問いかけに、アイリーンは答えず、ただ小さく笑みを浮かべる。</p><p>たんっ、と。</p><p>地を蹴った助走。砂利ッ、という足音を置き去りにして、一陣の風が吹き抜ける。</p><p>踏み込み。側転。ロンダート。そこから繋がる連続のバク転。</p><p>ダンッ、とひと際大きな音を立てて、跳ね上がる身体。見上げるような跳躍。</p><p>あざやかな、後方伸身宙返り、三回捻り。</p><p>ぴたりと、その着地は、ブレることもなく。</p><p>ゆっくりと顔を上げたアイリーンは、にっと悪戯っ子のような笑みを浮かべ、</p><p>悪くないね！</p><p>そうか</p><p>うむ、と腕を組んで満足そうに頷くケイの横で、見守っていたクローネンとティナが、あんぐりと口を開け固まっていた。</p><p>わーおねーちゃんすごーい！！</p><p>へっへへーそーだろそーだろー</p><p>足元にじゃれついてくるジェシカに、得意げなアイリーン。キャッキャと楽しげなジェシカに応えるようにして、次々に宙返りやバク転などを披露する。</p><p>（この調子なら、もう大丈夫だな）</p><p>快復―と言っていい。これならば、万が一の事態に巻き込まれても、柔軟に対応できるはずだ、と確信した。</p><p>ケイは、出立を決意する。</p><p>その後、アイリーンがいなくなると聞いて泣き出したジェシカを宥めたり、ベネットから用意して貰った食料や生活物資を受け取ったりと。</p><p>なかなかに手間取ったが、日が高く昇り切る前に、ケイたちはなんとか出立の準備を終えた。</p><p>短い間だったが、村長、世話になったな</p><p>村はずれ。見送りに来たベネットたちに囲まれながら、ケイは背後の森を見やる。</p><p>ここから木立を抜け、小川に沿った道を東へと辿って行けば、サティナの街へ着く。目的地は城塞都市ウルヴァーンではあるが、安全のためにケイたちは街道を辿り、幾つかの街や村を経由していくことにしたのだ。</p><p>短い間だったが、楽しかったぞ、ケイ</p><p>ああ、マンデル、俺もだ</p><p>マンデルと握手を交わしながら、ケイは笑いかける。</p><p>いやはや、お名残り惜しいですのぅ</p><p>髭を撫でながら、至極残念そうな表情を浮かべるのはベネットだ。本当は、ケイたちがさっさと村を出て行ってくれるので、ほっと一安心しているところだが、そんな内心はおくびにも出さない。</p><p>本当に。こちらとしても後ろ髪をひかれる思いだよ</p><p>ケイも笑顔を張り付けたまま、それに答える。</p><p>それと、手紙の件は、ありがとうございます。よろしくお願い致しますぞ</p><p>なに、お安い御用だ</p><p>頭を下げるベネットに、ひらひらと手を振ってポシェットから封筒を取り出すケイ。</p><p>何でも、ベネットの娘はサティナの街の職人の家へ嫁いでいるらしく、ケイたちが街に寄るならば、ついでに手紙の配達を頼まれたのだ。本来ならば行商人に頼むらしいが、配達料を取られるとのことで、あわよくばそれを浮かせようという魂胆なのだろう。</p><p>確かに届けよう。サティナの街の、キスカ嬢でよかったな？</p><p>『嬢』というような歳でもありませんがの</p><p>ほっほっほ、と笑い声を上げるベネット。</p><p>その隣、腰を曲げた呪い師のアンカが、楚々と進みでる。</p><p>ケイ殿、</p><p>懐から幾つかの水晶の欠片を取りだしたアンカは、</p><p>Bondezirojn. La grandaj spiritoj benos vin.</p><p>しわがれた声で、朗々と唱える。</p><p>ぱきん、と水晶がひび割れ、緩やかな風が吹いた。</p><p>アンカの手の平から風にすくわれた水晶が、きらきらと光り輝きながら、空へと散って行く。</p><p>くすくす、という無邪気な笑い声を、ケイは聞いた気がした。</p><p>―あなたの旅路に、幸多からんことを</p><p>祝福を終え、どこか得意げな顔で、アンカ。</p><p>……ありがとう、婆様</p><p>ありがとな！　アンカ婆さん！</p><p>一礼したケイとアイリーンは、おもむろにサスケに跨る。ケイは鞍に、アイリーンはその後ろ、ケイの背中にぴったりとくっつくようにして。</p><p>加えて生活物資まで載せられたサスケが お、おもい と言わんばかりに困り顔でケイを見やるが、最高速で飛ばすわけではないので、旅路に支障はないはずだ。 すまん、頼むぞサスケ とケイが首筋を撫でると、サスケは しかたない と言わんばかりに鼻を鳴らして溜息をついた。</p><p>ぽん、とケイが脇腹を蹴ると、サスケはゆっくりと進み始める。</p><p>それじゃーなー、みんなー！　元気でなー！</p><p>ケイの背後、アイリーンが見送りの村人たちへ手を振って叫んだ。 元気でなー！ とそれに返す言葉が聴こえてくる。</p><p>ぱっかぱっかと。響く蹄の音。木立に入り、見送りの姿も見えなくなったアイリーンは、サスケの背中に座り直した。</p><p>……良い人たちだったなぁ、ケイ？</p><p>……そうだな</p><p>アイリーンの無邪気な声に、ふっと、ケイは肩の力を抜く。</p><p>また、来れるかな？</p><p>しかし、続けて投げかけられた問いに、しばし、言葉を失った。</p><p>……来れるさ</p><p>しばらく間をおいてから。</p><p>ケイは、静かに答えた。 また今度来ようぜ！ というアイリーンの声を、聞き流しながら―。</p><p>この世界に転移してから、おおよそ二日。</p><p>村での休息を終えたケイたちは、サティナの街を目指して、出発した。</p><p>以上、タアフの村編でした。</p><p>16. 公平</p><p>さらさらと。</p><p>小川のせせらぎが、耳に心地よい。</p><p>穏やかな昼下がりの陽光。照らされた水面はきらきらと美しく。</p><p>木立を吹き抜ける清涼な風が、さわさわと葉擦れの音を運んできた。</p><p>兜を脱いだケイは、木陰に腰を降ろして、ふぅ、と小さく溜息をつく。</p><p>タアフの村を発ってから、はや数時間。</p><p>超過重量で辛そうなサスケの体調を鑑みて、ケイとアイリーンは木立でしばしの休息を取っていた。</p><p>川に首を突っ込んで、がぶがぶと水を飲んでいたサスケが、 ぷはぁッ！ と盛大に一息をつく。それを尻目に、ケイはバックパックをごそごそと探り、包み紙の中から堅焼きのビスケットを取り出してぼりぼりとかじり始めた。</p><p>はぁ。……さすがに三、四時間も乗ってると、キツいなぁ～</p><p>ケイの隣、木の根っこに腰かけたアイリーンが、首をゴキゴキと鳴らしながら大きな溜息をつく。</p><p>そうだな。……流石にダレてきた</p><p>水筒の水でビスケットを飲み下し、ややげっそりとした顔でケイ。どちらかといえば、 かったるい というニュアンスのアイリーンに対し、ケイの言葉は少々切実だ。</p><p>タアフの村から今まで、何事もなかった。</p><p>かれこれ数時間、小川を辿るようにして東へ進んでいるが、右手には森、左手には草原を望む田舎の道は、驚くほどに穏やかで、のどかだった。</p><p>通行人は、時たま森の獣や草原の兎を見かけるくらいのもので、行きずりの旅人や隊商に出会うこともない。一度、タアフよりも貧相で小さな規模の村も見かけたが、胡散臭げにこちらを見る住人に手を振っただけで、接触することもなかった。</p><p>欠伸が出るほどに、平和で退屈な道のり。</p><p>しかしこんな状況下でも、ケイは自分に予断を許さなかった。</p><p>どんなに平和に見えても、森の中から唐突に、凶暴なモンスターが飛び出してくるかもしれない。茂みの暗がりに、草原の草陰に、盗賊や追剥が潜んでいるかもしれない。</p><p>いつ、どこから現れるとも知れぬ敵に備えて、即時に矢を放てるよう、ケイは弓を手に警戒し続けていたのだ。</p><p>少数での旅路に警戒が不可欠なのは、ゲーム内でも同じこと。しかしゲームでの移動時間は、どんなに長くてもせいぜいが一時間だったのに対し、ケイはもう三時間以上、神経を尖らせ続けている。</p><p>背中側に座るアイリーンが後方を見張っているので、負担は幾分か軽減されているものの、殺気の感知はやはりケイの領分だ。いずれにせよ全方位に気を払う必要があり、しかも実際に、危険に曝されるのは自分たちの命となると、精神的な重圧もひとしおだった。</p><p>流石にそろそろ、集中力が持たない。</p><p>ゆえにこの休息は、サスケだけではなく、ケイにも必要なものといえた。ビスケットをかじる今も、ケイはもちろん警戒を続けているが、移動しながら次々と現れる地形に注意を払い続けるのと、一点に留まって周囲を警戒するのとでは、心理的負担が全く違う。</p><p>―あと十分ほど休憩したら、出発するか。</p><p>小川の澄んだ水を眺めながら、ぼんやりと考えていると、横でアイリーンが立ち上がる気配。</p><p>……ケイ、大丈夫か？</p><p>こちらを覗き込むように。視界に、アイリーンの心配げな顔が大写しになる。</p><p>……問題ない。気を張ってたから、ちょっと疲れただけだ</p><p>はは、と小さく笑って見せると、 ……そっか と呟いたアイリーンは、表情を曇らせたまま木の根の上に座り直した。</p><p>しばし、互いが互いの様子を探り合うような、そんな沈黙が流れる。</p><p>なんとなく気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、視線を泳がせたケイは、首元に垂らした白い顔布をそっと撫でつけた。</p><p>それは、盗賊との戦闘で駄目になった元の一枚の代わりに、シンシアが出立前に贈ってくれたものだ。シンプルな白い布地に、一筋の赤い模様。彼女は裁縫が得意らしく、左端の頬にあたる部分には、赤い糸を使った可憐な花の刺繍が施してある。</p><p>これで可愛い雰囲気になりますよ、というのはシンシアの言だが―たしかに、刺繍そのものはよく出来ており、とても可愛らしいのだが、一応は戦装束である顔布にチャーミングな装飾を施すあたり、何か独特な彼女のセンスを感じる。</p><p>マンデルから忠告を受けた以上、ケイが顔布を使う時が来るとすれば、それは殆どの場合、対人戦闘を意味するのだが―。</p><p>小さく溜息をついて頭を振ったケイは、薬液が乾いてパリパリになった頬の包帯を撫でながら、ちらりと横を見やる。</p><p>木の根に腰かけるアイリーンは、足の爪先を伸ばしたり曲げたりしながら、頭上を見上げて木漏れ日に目を細めていた。風避けのマントに、刺繍の入った頭のスカーフ、さらさらと風に揺れるポニーテール。黒革の籠手に、革のベスト、ベージュのチュニックからすらりと伸びる脚は、“NINJA”の黒装束と脛当てに包まれている。</p><p>手足の防具を着けている、背中にサーベルを背負っている、という二点を除けば、『余所行きに少しおめかしした村娘』という印象だ。しかし、そんな可憐な旅装束に、ケイはむしろ渋い顔をする。</p><p>……なあ、アイリーン</p><p>ん？　どした？</p><p>やっぱり、鎖帷子、着ておかないか？</p><p>革鎧の隙間から覗く鎖帷子を、じゃらじゃらと鳴らしてみせた。</p><p>―軽装過ぎる。</p><p>ケイが今、最も懸念しているのは、他でもないアイリーンの防御力の低さだ。</p><p>革防具はおろか、布防具と呼べるものすら着けず、普段着のままでいるのは余りにも無防備なのではないかと。言外にそう指摘するケイに、対するアイリーンはなんとも微妙な表情で答えた。</p><p>……やめとく。重いし、サイズ合わないし、重いし、重いし……</p><p>いや、しかしなぁ。この間みたいに矢で射られたらと思うと……</p><p>アレは油断してただけだ！　今なら避けるなり弾くなりできるさ！</p><p>……本当か？</p><p>できるって！</p><p>……本当に？</p><p>なんだよその目は！　いや、説得力がない自覚はあるけどさッ！</p><p>なんなら試してみるかウラーッ、とサーベルの柄に手をかけるアイリーンを まあまあ と落ち着かせながら、ケイは唸る。</p><p>たしかに、アイリーンの技量ならば、視界圏内から飛来する矢に対応することは、そう難しくないだろう。それは『アンドレイ』の時代から付き合いがあるので分かる。受動感気(パッシブセンス)が苦手といっても、あからさまな攻撃は探知できるわけだし、見てから捌くなり避けるなりするだけの反射神経もあるはずだ。ケイが全方位に受動(パッシブ)の網を張っており、アイリーンは一方向にだけ集中していればよい現状、よほどの事態でなければ遅れを取ることもないとは、ケイも思う。</p><p>思うのだが。</p><p>う～む、しかし、どうにも不安なんだよな……</p><p>気持ちはわかるけどさ……でもオレから機動力とったら、何も残らないだろ？　特に女の身体に戻ってから、さらに筋力落ちたっぽいし。体重も軽くなったみたいだから、ただ動く分には問題ないんだけどさ……</p><p>気だるげにゆっくり立ち上がったアイリーンが、 よっ と身をかがめて垂直に跳び上がる。</p><p>ふわりと。</p><p>まるで重力を感じさせない動きで頭上の木の枝を掴み、くるりと逆上がりの要領で回転して、枝の上に降り立つ。</p><p>ケイが足を掛ければ、確実に折れてしまうであろう細さの枝。しかしアイリーンは、僅かに木の葉を揺らしただけだった。</p><p>アイリーンの身体能力の秘訣は、何と言ってもその体重の軽さにある。筋力の強さの割に、体重が異様に軽いのだ。</p><p>キャラクターの『生まれ』は細身な体格の『森林の民』を選び、三つの紋章枠のひとつをどマイナーな『身体軽量化』で潰してまで減量、さらに『身体強化』『筋力強化』の紋章で最低限の筋力を確保し、各種戦闘系のマスタリーによって運動能力の底上げを図る。</p><p>そうして誕生したのが、極限までに機動力に特化した軽戦士、“NINJA”アンドレイだ。防御はまさしく紙そのものだが、身軽さにおいては他の追随を許さぬ、まさしく浪漫の塊。</p><p>ゲーム内では、型にさえはまれば爆発的な強さを発揮するキャラクターであったが―しかし、話が現実となると、そうも言っていられなくなる。</p><p>……ゲームの中なら、矢が刺さろうが腕がもげようが動けていたが……現実だとそうもいかないぞ</p><p>そりゃあ分かってるけどさ。でも仮に、防具のおかげで生き残れたとしても、重さのせいで逃げ切れずに捕まって嬲りモノ、なんてのは御免だぞ？</p><p>それは……まぁな。難しいところだ……</p><p>ぽりぽりと頭をかきながら、ケイは困り顔。だがそこで、アイリーンの『嬲りモノ』という言葉で、ふと考える。</p><p>―仮に、強盗や追剥の類がケイたちに襲撃を仕掛けるのであれば、ひと目で美人と分かるアイリーンよりもむしろ、ケイを優先的に攻撃するのではないだろうか。</p><p>そして初日に遭遇した盗賊たちも、最初の一矢はケイに放ってきたことを思い出した。</p><p>（初撃がアイリーンに行かないんなら、機動力があった方がいいか……）</p><p>不意打ちでも初手を凌げれば、アイリーンはその機動力で逃げ切れるし、撹乱や攻撃に回ることもできる。ケイは鎖帷子を着けたままなので生存率が上がる。</p><p>……そうだな。身軽なままでいる方がベターか</p><p>うん、オレもそう思う</p><p>木の上で腕を組み、うんうんと頷いたアイリーンは、どこか視線を遠くして小さく溜息をついた。</p><p>あぁ。……こんなことなら、“竜鱗(ドラゴンスケイル)“着けてくりゃ良かったなぁ……</p><p>“竜鱗鎧《ドラゴンスケイルメイル》”―飛竜の鱗を縫い付けて作る、今のアイリーンが装備できる防具の中で、おそらく最高の防御力を誇る鎧だ。布地をベースとしているため動きを阻害せず、鉄よりも堅牢な飛竜の鱗はしかし羽のように軽い。デッドウェイトが命取りとなる軽戦士にとって、それは最高の相性を持つ鎧といえた。</p><p>飛竜の鱗は極めて貴重な素材なので、充分な量を確保できずに、『アンドレイ』は胸から胴の一部を守れる程度の鎧しか作れなかったが、それでも他の追随を許さないその性能から、どんなサイズであれ”竜鱗鎧”は軽戦士垂涎の一品であった。</p><p>ゲーム内でアンドレイは、その鎧を後生大事に銀行に預けており、紛失(ドロップ)の心配がない武道大会や特定のイベント以外では、決して持ち出すことはなかった。</p><p>今の状況下であの鎧があれば、どれほど頼もしかっただろうかと、ケイは考える。</p><p>こんな状況になるなんざ、予想できる奴はいないだろ。仕方がないことだ</p><p>まぁーな。その点ケイはラッキーだったな……良い弓持ってて</p><p>違いない。……どうだ、鱗取りに、“飛竜”でも狩りに行くか？</p><p>弓を持ち上げてケイがそう言うと、アイリーンは ハッ と乾いた笑みを返した。</p><p>冗談。命がいくつあっても足りねーよ……。今のケイがあと100人と、オレが50人くらいいたら考えるかな。あと弩砲(バリスタ)と投石機(カタパルト)が最低5機ずつは欲しい</p><p>それに水系統の純魔術師(ピュア・メイジ)もな</p><p>あーそっか、魔術師も必要か……</p><p>無理だな……と。</p><p>二人揃って遠い目をする。</p><p>“飛竜”は、空飛ぶ宝の山だ。</p><p>骨や鱗は防具に。</p><p>牙や爪は武器に。</p><p>眼球は高位の魔術触媒に。</p><p>内臓は魔法薬や霊薬の材料に。</p><p>中でも”飛竜”の血には、飲めば身体能力が強化されるという、プレイヤーが死亡しない限り半永久的に持続するバフ効果があるので、生産職から戦闘職まで全てのプレイヤーがその恩恵を求めてやまない。</p><p>しかし、 DEMONDAL のサービス開始から三年。プレイヤーの手による”飛竜”の討伐は、未だに片手で数えられる程度しか確認されていない。</p><p>その数、僅か五頭。</p><p>大手の傭兵団(クラン)が連合を組んで討伐に成功した三頭と、 DEMONDAL サービス開始二周年記念、三周年記念のイベントでそれぞれ討伐された二頭のみだ。</p><p>何故、これほどまでに少ないのか―理由はいくつかあるが、最も大きいのは、まず”飛竜”が強すぎることだろう。</p><p>でかい、空を飛ぶ、火を吐く。</p><p>“飛竜”の特徴を端的に表せばこうなるが、その強さは、もはや凶悪というレベルではない。</p><p>まず、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“並の巨体は、それ自体が既に凶器だ。さらに全身が最高の防具の代名詞たる”竜鱗”で覆われており、弱点らしい弱点といえば眼球や鼻の穴、鱗が存在しない口腔くらいしか存在しない。</p><p>そこに加えて、飛行能力と、炎の吐息(ブレス)だ。</p><p>“飛竜”は戦闘中、滅多に地上には降りて来ない。獲物が息絶えるか、腹にため込んだ可燃性の粘液が底を突くまで、目標の上空を旋回しつつブレスを浴びせ続けるという、その優位性を最大限発揮できる戦い方を好む。</p><p>つまり、どうにかして”飛竜”を空から叩き落とさなければ、ブレスに蹂躙されるのみで、そもそも『戦い』にすらならない。</p><p>そこで必要とされるのが、弩砲(バリスタ)や投石機(カタパルト)といった攻城兵器だ。囮役が”飛竜”を射線上に誘い込み、投網やロープを投射して翼に絡みつかせ、地面に叩き落としてタコ殴りというのが、“飛竜”狩りの定石とされている。これは、落下時に大きなダメージを期待できるので、かなり有効な戦術だ。ある傭兵団(クラン)が討伐した一頭に至っては、勢いよく頭から地面に突っ込んだ結果、首の骨が折れて即死したらしい。</p><p>しかし、有効な戦術であるといっても、飛行中の”飛竜”に原始的な兵器を命中させるのは容易ではなく、そもそも命中したところで上手いこと翼が封じられる保証はない。攻城兵器の攻撃が不発に終わり、再装填を終える前に全てが焼き尽くされ、撤退せざるを得なくなった、というのはよく聞く話だ。</p><p>そして、地に堕ちたところで竜は竜、翼が封じられても炎の吐息(ブレス)は健在で、その火力は地上戦においても如何なく発揮される。例え地上戦力が充実していても、水系統の魔術師の加護がなければ、全員仲良く消し炭にされて終わりだ。</p><p>“飛竜”を引き付けられる優秀な囮役。</p><p>対空弾幕を張るに足る十分な数の攻城兵器。</p><p>攻城兵器を運用できるだけの人員。</p><p>地上で”飛竜”と交戦する屈強な戦士団。</p><p>“飛竜”のブレスを軽減できるだけの、豊富な魔力を持つ水系統の魔術師。</p><empty-line/><p>そしてこれらを揃えられる組織力・資金力をもってして、ようやく、“飛竜”と戦うためのスタートラインに立てる。</p><p>ワープ魔法やチャットの類が存在しない DEMONDAL では、まず頭数をかき集めて集団行動を取るだけでも一苦労だ。さらに、大勢のプレイヤーがお祭り気分で集う周年記念のイベントならばともかく、平時の”飛竜”狩りでは敵対組織の妨害や嫌がらせも予想され、道中では他モンスター（“森大蜥蜴”、“大熊”）や盗賊NPCなどとも遭遇しうるので、いずれにせよ一筋縄ではいかない。</p><p>“飛竜”狩りを企画して、それを実行に移せるだけのプレイヤー集団は、ゲーム内にも数えるほどしか存在しないのが現状だ。</p><p>加えて、ゲーム内のマップの探索が進むにつれ、 深部(アビス) と呼ばれる森や高山の奥地で、老衰して死に場所を選ぶ”飛竜”の姿が確認されるようになった。狩りに大規模な戦力を動員するよりも、 深部 の探索に人員を割いた方がコスパが良いと判明したので、近年では”飛竜”狩りをわざわざ決行する傭兵団(クラン)は減少傾向にある。</p><p>余談だが、ケイの”竜鱗通し”の材料は、サービス開始三周年記念の”飛竜”狩りイベントで手に入れたものだ。</p><p>普段はいがみ合う傭兵団(クラン)同士も、忌み嫌われるPKすらも、皆が手を取り合って一致団結し、果敢に”飛竜”に立ち向かっていくのがこのイベントの醍醐味だ。長年の確執を水に流し、同じ戦場に立つ戦友として助け合い、あるいは肩を並べて一心に剣を振るう。オンラインゲームの原点、ひとつの世界のプレイヤーとして共に戦う高揚が、連帯感が、そこにはあった―</p><p>“飛竜”を倒すまでは。</p><p>“飛竜”が息絶えると同時に、その連帯感にひびが入り、呆気なく砕け散って崩壊するのは、このイベントのお約束だ。</p><p>お友達ごっこは終わりだぜ と暴れ出すPKたち、竜の血を飲もうと殺到するプレイヤーの群れ、それらを横殴りになぎ倒す弩砲(バリスタ)や投石機(カタパルト)の砲弾。敵対組織に向けて攻撃魔術がぶっ放され、矢の雨が降り注ぎ、竜の上によじ登って意味もなく雄叫びを上げていたプレイヤーが飛来した投斧(ハチェット)に打ち倒される。</p><p>そんな混沌とした空気をよそに、ケイは竜の血を口にし、翼の腱を剥ぎ取り、ついでに隣のプレイヤーをぶち殺して翼の皮膜を奪い取り、いつの間にか死んでいたアンドレイの遺体を担いで、その場から脱出することに成功した。</p><p>それが、十日ほど前の出来事だ。幸いなことにイベント以降、ケイは一度も死亡していない。“竜鱗通し”の使用感を鑑みるに、竜の血の効能は、『こちら』の世界にも持ちこされているようだった。</p><p>（アイリーンの言うとおり、俺はかなりラッキーだったな……）</p><p>ケイの元々の筋力では、“竜鱗通し”はどうにか実戦でも扱えるというレベルで、ショートボウのような気軽な運用は到底望むべくもなかった。</p><p>竜の血の身体強化は死ぬまで有効だが、再受肉(リスポーン)の存在しない『こちら』では、それで十二分に役に立つ。</p><p>（俺は充分ラッキーだ……無い物ねだりをしても仕方がない、か）</p><p>とりあえず今は、自分のできるベストを尽くそう、とケイはひとり頷く。</p><p>結局その後、さらに十分ほどのんびりしたところで、ケイたちは再び出発した。</p><p>サスケの背中に揺られながら、ケイはちらりと後ろを見やり、</p><p>そうだ、アイリーン。次の町に着いたら、盾を買おう</p><p>盾？　何に使うんだ？</p><p>決まってるだろ、お前のためだよ。飛び道具対策だ</p><p>……え～</p><p>ケイは前方を見張っていたが、声だけでアイリーンの嫌そうな顔が容易に想像できたので苦笑する。</p><p>いらねーよ、重いし……</p><p>邪魔な時は捨てればいいだろ</p><p>え～……</p><p>あとレザーアーマーも買おう、最低限の胸部だけ守るヤツ。お前の胸のサイズに合うのがあればいいな</p><p>んー、小柄な男向けのヤツなら、普通に使えると思う……って、だからいらねーっての！！</p><p>ぽこぽこと、抗議の拳が背中を叩く。ははは、と声を上げて笑いながら、ケイはひとり、弓を握る手に力を込めた。</p><p>†††</p><p>それから、しばらくして。</p><p>相も変わらず、周囲への索敵に神経を擦り減らすケイに、見かねたアイリーンが、街道を北に外れることを提案した。</p><p>曰く、小川を併走するように草原を突っ切って行けば道に迷う心配もなく、それでいて視界が開けるので、不意打ちを受ける可能性もぐっと減る、と。</p><p>よくよく考えてみればその通りで、ケイたちは馬車を抱えているわけでもなし、必ずしも整備された街道の上を行く必要はない。</p><p>アイリーンの助言通り道を北側に外れたケイは、草原の大地が描く緩やかな丘陵を眺めながら、しばしの心休まる旅路を満喫していた。</p><p>―しかし。</p><p>安らかなる時は、唐突に終わりを告げる。</p><p>あっ</p><p>後方を見張っていたアイリーンが、小さく声を上げた。 どうした と振り返ったケイは、見やる。</p><p>左手後方。距離は、五百メートルほどの彼方か。</p><p>草原の丘を越えて、続々と姿を現す黒い騎馬。</p><p>その数、八騎。</p><p>…………</p><p>二人の沈黙が、緊張を孕んだ。片手で輪を作り、それを望遠鏡のように覗き込みながら、ケイはさらに目を凝らす。</p><p>黒い騎馬を駆る者たち―細やかな紋様と、羽根飾りで彩られた革鎧。アジア系を彷彿とさせる濃い顔立ちには、独特なうねりを描く黒い刺青。何人かは、顔布を着けているようだった。</p><p>間違いない。草原の民だ。</p><p>不意に、脳裏にマンデルの言葉が甦る。</p><p>『―盗賊まがいの不義を働く草原の民もいると聞く』</p><p>ぐっ、と内臓を掴まれたかのような不安感が、腹の奥底から湧き上がる。</p><p>件の草原の民もケイたちの姿に気づいたらしく、数人がこちらを向いて、何やら言葉を交わしているのが見えた。</p><p>……絡まれたら厄介だ。街道に戻るぞ</p><p>う、うん</p><p>こくこくと、アイリーンが不安げに何度も頷く気配を背に、ケイはサスケを加速させて街道の方へと手綱を引いた。</p><p>ちらりと後ろを振り返ると、草原の民は、何故か、こちらへ馬首を巡らせ、</p><p>なんか、追ってきてるんだけど</p><p>そう言うアイリーンの声は、微かに震えている。それをよそにケイの瞳は、彼らが矢筒の口の覆いを取り外しているところを、捉えた。</p><p>…………</p><p>ハァッ、ハァッという、サスケの苦しそうな呼吸音が響く。</p><p>……連中、なかなか良い馬に乗ってやがる</p><p>舌打ち交じりのケイの言葉は、苦々しい。度々、振り返って確認するごとに、少しずつ彼我の距離が近づいていた。サスケにかなり無理をさせているにも関わらず―やはり、超過重量が、不味い。</p><p>オ、オレのせいだ、街道から外れようなんて、言ったから……</p><p>落ち着け、お前のせいじゃない</p><p>顔面蒼白なアイリーンに、間髪いれずケイは声をかける。</p><p>街道にいたら、気付かずに奇襲されていた可能性もある。早い段階で見つけられて、むしろ良かったぐらいだ</p><p>口ではそう言うものの、本当にそうだったかは、分からない。</p><p>ぺろりと唇を舐めたケイは、首に垂らしていた顔布をずり上げつつ、鋭い視線で周囲を見回した。顔布の赤い花の刺繍が、ひらひらと風に揺れる―。</p><p>そしてふと、前方に生い茂る木立に目を止めたケイは、</p><p>……アイリーン</p><p>っ、うん</p><p>前、見えるか。あの木立</p><p>うん</p><p>あそこで、悪いが、ちょっと降りてくれ</p><p>……えっ？</p><p>困惑の声。</p><p>もちろん、置いてくわけじゃないぞ。サスケを楽にしてやりたくてな</p><p>戦うのか？</p><p>ああ。連中は、どうやらヤル気のようだからな</p><p>ふん、とケイが小さく鼻を鳴らすと、アイリーンは、 そうか、分かった、……分かった と呟いた。</p><p>オレは……どうする。隠れとけばいいのか？</p><p>そうだ。連中に気付かれないよう降りて、じっとしておいてくれ。あとは俺が何とかする</p><p>…………</p><p>アイリーンは、何も言わない。そうしている間にも、目の前に木立が迫る。</p><p>そろそろだ、準備しろ。速度緩めるぞ</p><p>いや、大丈夫だ。速度はそのままで突っ切ってくれ</p><p>きっぱりとしたアイリーンの返答は、声こそは硬かったものの、それでも芯のしっかりと入ったものだった。</p><p>お前が身軽でよかったよ、鎖帷子を着てなくて正解だったな</p><p>そーだろ？　だから何度もそう言ってるじゃねーか</p><p>全くだ。次の町に着いたら、一杯おごるぜ、相棒</p><p>ケイの軽口に、アイリーンは ハッ と笑い声を返す。</p><p>楽しみにしてるよ、相棒</p><p>がさりと、サスケが茂みを突き破り、木立に突入した。</p><p>狭まる視界。</p><p>木々の幹に、緑の葉に、ケイたちの姿が覆い隠される。</p><p>行けッ</p><p>あいよッ！</p><p>たんっ、とアイリーンがサスケの背中を蹴り、空中に浮かびあがった。</p><p>勢いもそのままに、革の手袋でしっかりと木の枝をつかみ、そのままくるりと身体を回転させつつ、ぱっと手を離した。</p><p>水平方向の運動エネルギーを回転で相殺し、別の枝へと跳び移ったアイリーンは、体勢が安定すると同時に素早い動きで、さらに樹上へと登っていく。</p><p>（……見事だな）</p><p>横目でそれを見送ったケイは、こんな状況下にあっても、感嘆の念を禁じえない。あれほどの勢いで跳び移ったにも関わらず、樹木は風にそよいだ程度しか揺れていなかった。この視界の悪さならば、ケイ並の視力でもない限り、絶対にバレることはない、と確信する。</p><p>続いてケイが、鞍に括りつけられていた荷物を次々に取り外していくと、見る見るうちにサスケの足取りが軽くなっていった。</p><p>木立を、抜ける。</p><p>ぶわりと、広がる視界。</p><p>何も遮る物のない、草原の大地。</p><p>どうやら襲撃者たる草原の民は、ケイが木立の中に居座る可能性を考慮していたらしい、二手に分かれて木立を挟み込み、包囲するようにして前進していた。</p><p>その数は、変わらず八騎のまま。アイリーンには気付いていないようだと、ケイはひとまず安心する。彼らは真っ直ぐに突き抜けたケイの姿を確認するや否や、小魚の群れがそうするように、再び合流して追いかけてきた。</p><p>カヒュッ、カカヒュッカヒュンと、乾いた連続音。</p><p>鈍い殺気を背中で感じ取り、弾かれるように振り返ったケイは、己の”受動感気(パッシブセンス)“の導くままに左手を振るう。</p><p>パシッ、という音を立てて、ケイに命中するはずだった矢が、朱色の弓に叩き落とされた。他の矢は近くをかすめ飛びつつも、ケイ・サスケ両者とも害することなく、草原の大地に突き刺さる。</p><p>（―射かけて、来たな？）</p><p>心の中で、問いかけた。</p><p>こちらから、先制攻撃を仕掛けるつもりは、なかった。なぜなら、本当に敵かどうか、分からなかったからだ。</p><p>しかし他でもない彼ら自身が、彼らの意志を、立ち位置を表明した。ならば、それに対する返答は、ひとつしかあるまい。</p><p>ばくん、ばくんと、心臓の鼓動の音。熱い血潮が全身を駆け巡り、頭の中は燃え滾るようだった。それでいて世界は冷たく、鋭く、どこまでもフラットに収束していく。</p><p>右手で、矢筒から一気に、三本の矢を引き抜いた。</p><p>上体を逸らし、仰向けに寝転がるようにして、サスケの背に身を横たえる。</p><p>遥か後方、天地逆転した視界の中で、ケイの瞳に八騎の敵が映り込んだ。</p><p>迷いなど、在る筈もない。</p><p>かき鳴らす、まるで楽器のように、左手の強弓。蒼穹に響き渡る死神の音色、三重奏。</p><p>草原の民の戦士たちは、閃く銀色の光を知覚した。</p><p>瞬間。</p><p>先頭から順番に、三人が吹き飛んだ。</p><p>―え？</p><p>呆気に取られた後続の、一瞬の思考の停止は、ケイに上体を起こし次の矢をつがえる時間を与えた。</p><p>馬鹿なッ！</p><p>草原の民の一人、壮年の戦士が愕然とした表情で叫び、そしてそれが最期の言葉となった。馬の頭部を貫通した矢がその胸に突き立ち、馬上から身体を吹き飛ばしたのだ。</p><p>ッ、散れェ―ッ！！</p><p>顔布で表情を隠した戦士のひとりが、逼迫した声で仲間たちに叫ぶ。動きに変化をつけなければ、ただのよい的であると。</p><p>それとほぼ同時、カァンッ！　と小気味よく響く、快音。</p><p>弓の音を耳にして、慌てた顔布の戦士は乱暴に手綱を引いた。主(あるじ)の唐突な指示にも、よく躾けられた草原の民の馬は応える。身体を傾け、速度を殺さずに左へ転進、見事な回避運動を取って見せた。</p><p>―そして、そこへ吸い込まれるように、突き立つ矢。</p><p>苦痛のいななきと共に崩れ落ちる騎馬、馬上から投げ出された騎手は、 えっ とただ間の抜けた声を上げた。</p><p>―なんで。回避運動を取ってたのに。</p><p>呆然としたまま、地面に勢いよく叩きつけられる。パキバキィッ、と派手に骨が折れ砕ける音、ごろごろと転がりながら後方へ、景色と共に流れ去っていく。</p><p>そ、んな</p><p>一部始終を見ていた残りの戦士たちの全身から、どっと冷や汗が噴き出た。</p><p>弓(・)の(・)音(・)が(・)鳴(・)っ(・)て(・)か(・)ら(・)の回避であったにも関わらず、矢は狙いを違わずに、標的へ突き刺さった。</p><p>これでは―これでは、まるで、未来が見えているかのようではないか。</p><p>残りの三人ともが、得体の知れない恐怖に捕らわれて身震いする。</p><p>だが、ケイからすれば、それは大したことではない、ただのテクニックだった。</p><p>単純に、視たのだ。</p><p>散れ と叫んだ直後、顔布の戦士の瞳が左へ動いたのを。</p><p>そして手綱を握る左腕の筋肉が、右腕よりも先に硬直するのを。</p><p>視線や筋肉の動きから、次の手を予測する。</p><p>そんな、近接格闘ならば誰もが使うような技術を、ケイはただ単に、その強力な視力をもって、弓の射程範囲にまで拡張しただけに過ぎない。</p><p>が、そんな理屈など知る由もない残りの三人からすれば、それは未知との遭遇、異次元の恐怖であった。</p><p>クソッ、化け物めッ！</p><p>叫んだ一人が矢をつがえ、弓を一息に引き絞り、放つ。</p><p>しかし、それはケイを命中することなく僅かに横に逸れ、代わりに反撃の一矢を呼び寄せた。ドパッ、と水気のある音を立てて首が千切れ飛び、血飛沫が吹き上がる。</p><p>ヒッイィイイイィィィッッ！</p><p>だっダメだっ逃げ―ッッ！</p><p>残りの二人が泡を食って手綱を引き急制動をかけるが、反時計回りに旋回しつつ弓を構えていたケイに、それは悪手以外の何物でもなかった。</p><p>カン、カァンと。</p><p>それぞれの馬が体勢を整えるよりも速く。</p><p>飛来した矢によって、二人の騎手の頭が弾け飛んだ。</p><p>……こんなもんか</p><p>どちゃっ、と馬上から滑り落ちる遺体を尻目に、ぽつりと呟く。</p><p>ケイが最初の一矢を放ってから、おおよそ二十秒。</p><p>草原の民の襲撃者、八騎を相手取った戦闘は、終了した。</p><p>しかしケイは、それでも気を抜かずに、馬上から、明らかに死亡していると分かる死体以外に、一本ずつ矢を打ちこんでいく。止めの一撃。前回、盗賊を逃がしてしまった反省からだ。例えひと目で瀕死と分かる状態であったとしても、確実に息の根を止める。</p><p>また、生き残った馬も同様に、反抗的な態度、及び逃走の意志が見受けられた場合は、容赦なく射殺する。馬は賢い動物だ。下手に生かしたまま逃すと、草原の民の居住地まで戻って仲間を呼んできかねない。『こちら』に来たとき、離れ離れであったケイとアイリーンを、引き合わせてくれたミカヅキのように。</p><p>淡々と、機械的に後始末を進めていたケイだったが。</p><p>ある一人の草原の民の戦士を見て、その動きを止める。</p><p>倒れ伏した愛馬の横で、地面にへたり込んだ一人の戦士―ケイが、回避運動を先読みして矢を命中させた、顔布の戦士だった。</p><p>見れば、落馬の衝撃でやられたのか、右腕と左脚が、妙な方向にねじ曲がっていた。</p><p>重度の骨折―しかし、死に至るほどではない。そんな状態。</p><p>地面に座り込んだまま、痛みを堪えるように荒い呼吸で、涙目になりながらも戦士はキッとケイを睨みつけた。</p><p>……女、か</p><p>ぽつりと。思わず、といった様子で、ケイの口から言葉が漏れる。</p><p>顔布の戦士は、ケイよりも少し年下程度の、若い女だった。</p><p>顔には当然のように、草原の民特有の、黒い紋様が刺青で彫り込まれている。しかし、それでも目鼻の作りがはっきり分かる、アジア系の濃い顔立ちの美人だった。よくよく見れば、革の胸当てを押し上げる胸のふくらみや、女性らしい曲線を描く腰つきが目に入る。</p><p>ずぐん、と。</p><p>血の匂いに麻痺した脳髄の奥で、何か痺れるような甘い感覚が鎌首をもたげるのを、ケイはおぼろげに自覚した。</p><p>…………</p><p>恐ろしく無表情のまま、じっとこちらを見つめるケイに何を思ったのかは知らないが、身体を引きずるようにずるずると後退した女は、左手で腰の湾刀を抜き放ち、ケイに向けて構える。</p><p>ふるふると揺れる刃先、ケイを睨みつける釣り上がったまなじりから、涙が一筋こぼれ落ちた。</p><p>くっ……、こっ、殺せッ！</p><p>震える声で、叫ぶ。</p><p>―言われるまでも、ないことだった。</p><p>我に返ったように。</p><p>無言のまま矢をつがえたケイは、女の顔面に向けて無造作に一撃を叩き込んだ。</p><p>ズチュッ、という湿った音を立て、矢じりが女の右目に深く深く潜り込む。耳と鼻から血を噴き出した女は、糸が切れた操り人形のように仰向けにひっくり返り、そのままカクカクと細かく身体を痙攣させた。命の残滓と呼ぶには、あまりに滑稽な姿。</p><p>まるで酔っ払いでもしたかのように、ぐらぐらと視界が揺れている。戦闘時とは異なる、妙に大きく聴こえる心臓の鼓動。この、胸を締め付ける感覚が何なのか、判断しかねたケイは、ただ空を見上げて深呼吸を繰り返した。</p><p>……ケーイ！</p><p>と、遠くから、アイリーンの声。弾かれたように前を見やれば、木立の方から、心配げな表情のアイリーンがぱたぱたと駆けてきている。</p><p>……終わった、のか？</p><p>周囲に散在する死体を前に、青白い顔のアイリーンは、呟くようにして問うた。</p><p>ああ。全滅だ</p><p>顔布の位置を直しながら、明後日の方向に目をやったケイは、簡潔に答える。</p><p>そ、そっか……。うっ</p><p>風の向きが変わり、風下になったアイリーンに、鮮血の香りが一気に吹き付けた。口元を押さえ、思わず俯いたアイリーンが、さらに足元に転がっていた女の死体を見て目を見開く。</p><p>……女？</p><p>……ああ。顔布をしてたから、そうとは気付かなかった。だから、手加減も出来なかった</p><p>目を逸らしたまま、ケイは早口でそう言った。</p><p>アイリーンと目を合わせるのが、怖かった。</p><p>…………</p><p>……俺は、他を見てくる</p><p>沈黙に耐えかねて、そそくさと、ケイは他の死体の場所へと移動し、物品漁りを開始した。金目の物を集めていると、数分としないうちにアイリーンが側にやってきて、近くの死体にしゃがみこんだ。</p><p>……オレも、手伝う</p><p>いや、いい。アイリーンはしなくてもいい</p><p>紙のように白い顔のアイリーン。明らかに無理をしているのがバレバレだったので、ケイは軽い感じを演出しつつ、その提案を却下した。</p><p>でっでも、ケイだけにやらせるなんて、そんな、</p><p>あー、それじゃあアレだ、馬が逃げないように見張っといてくれないか。サスケの近くにいるヤツら</p><p>もっしゃもっしゃと、近くで草を食むサスケを指差して、ケイ。サスケの周囲では、三頭の馬が尻尾を振りながら、サスケと同じように草を食んでいる。草原の民の乗騎の中でも、特に従順な性格の馬だ。</p><p>この三頭は生かして連れて行くことにしたので、アイリーンにはその見張りを担当してもらうこととなった。</p><p>……なあ、ケイ</p><p>ん？</p><p>草原の民の矢筒から質のいい矢を選別していると、アイリーンが声をかけてくる。</p><p>何だ？</p><p>『こっち』の世界だと、女も、普通に戦うのかな</p><p>……さあな。分からん</p><p>分からない、としか言いようがなかった。真面目に答えるにはデータが少なすぎるし、今のアイリーンには、答えたくなかった。</p><p>ただ、まあ……男だろうが女だろうが、死ぬときは死ぬんだろうな、『こっち』の世界は……</p><p>ケイが独り言のように呟くと、アイリーンは そっか と短く返した。</p><p>最終的に、多数の質の良い矢に、まずまずの量の銀貨銅貨、そして装飾品など金目の物を手に入れたケイたちは、捕えた馬にも可能な限り生活物資や武具なども載せてから、再び東へ向けて出発した。</p><p>ケイはサスケに、アイリーンは特に性格が穏やかな一頭に乗り、他二頭は荷物の運搬役に用いることになった。</p><p>道中、あまり会話もないままに、街道に併走するようにして草原を突っ切ること、一時間弱。</p><p>丘陵地帯から平地に移り、視界が開けてきたところで、巨大な川―“モルラ川”と、大きな城壁を持つ街が見えてきた。</p><p>近隣の村々の生産物が集積され、多くの商人や職人でにぎわう街。</p><p>ケイとアイリーンは、城郭都市”サティナ”に到着した。</p><p>2013/09/12 交易都市→城郭都市に変更</p><p>幕間. Laneza</p><p>―どうにも、寂れた村だった。</p><p>ダリヤ平原の遥か南、森の奥に切り開かれたささやかな土地。</p><p>そこに、ひっそりと隠れるようにして、“ラネザ”の村はあった。</p><p>人口五十人に満たないこの小さな村は、極限にまで過疎化が進んだ限界集落だ。過去の戦役で村を連れ出された若者たちは、奇しくも従軍を経て外の世界を知り、あまりにも閉塞的な生まれ故郷に嫌気がさして、その殆どが村には帰って来なかった。</p><p>村に戻ってきたのは、外での生活の口が見つからなかった者と、戦死者の遺品だけ。</p><p>残った住人のみでの村の再興には限界があり、元々大した特色もなく、しかも街道から大きく外れていたラネザの村は、あっという間に廃れていった。</p><p>時代から取り残された村。</p><p>税務官ですら、税の徴収に来るのを忘れてしまうような、辺境の地。</p><p>ここ十年で人口はさらに落ち込み、住民の半分以上が老人となってしまった今、ラネザ村の消失は、時間の問題と言えた。村人たちに、それを自力で解決する方法は残されていない。交通の便も金回りも極端に悪いこの村を、わざわざ訪ねる物好きなど、そもそも存在しなかった。</p><p>―彼(・)ら(・)を除いては。</p><p>森を貫く一本道、ずるずると身体を引きずるようにして、互いで互いの身体を支え合いながら、のろのろと歩く二人組の姿があった。</p><p>一人は、右肩にどす黒く変色した包帯を巻いた、背の高い茶髪の男。</p><p>もう一人は、顔の下半分を黒布で覆い、杖代わりの木の棒にすがりつくようにしながら、ぎこちなく歩くやつれた男だ。</p><p>二人ともが、全身黒ずくめだった。足には黒染めの革の脛当て、腕には同じく黒革の小手。右肩を負傷した男は長剣を、もう一人は血塗れの短剣を、それぞれに腰に差しているが、それ以外には何も荷物を持たなかった。その身一つで、命からがら逃げ出してきた―そんな、印象。</p><p>人目を避けるようにして、男たちは薄暗い森の中を進む。過疎化の進んだ村には、殆ど人影は見えなかった。しかしそれでも、何人かの村人は彼らの姿を見咎め、―そのまま何も見なかったことにするかのように、目を逸らす。</p><p>そんな村人たちに構うことなく、男たちは歩き続けた。村外れに向かって森を抜けると、やがて開けた空間に出る。</p><p>そこは、墓地であった。</p><p>ぽつぽつと等間隔で並ぶ、草花に覆われた盛り土。墓標代わりに打ちつけられた木の棒、その間を縫うように、よろよろと墓守の家に向かった。</p><p>墓守の家―堅牢な造りの、大きな家だ。村の小さな木造の家々とは違い、質の良い石材でしっかりと基礎が組まれている。寂れた過疎集落の墓守にしては、分不相応なまでに贅沢な住処。</p><p>二人組のうち、右肩を負傷していた方が、なけなしの力を振り絞るように、左手で玄関のドアノッカーを打ち鳴らす。</p><p>一定のリズムを持って叩かれるそれは、明らかに符丁とわかる特殊なノックだった。家の中でガタガタと椅子を引く音が響き、扉が僅かに開かれる。</p><p>隙間から外を窺うように顔を出したのは、灰色の髪に長いあごひげを蓄えた、まるで隠者のような老人だ。立っているのもやっと、と言わんばかりにボロボロな状態の二人組を見て、老人は僅かな動揺を顔に浮かべつつ、ひとまず彼らを中へと招き入れる。</p><p>パヴエル？　それに―そっちはラトか？　どうしたんじゃその格好は</p><p>……隊長が、死んだ。俺たち以外は、皆、やられた……</p><p>居間に入ると同時に老人が問いかけ、右肩を負傷した茶髪の男―パヴエルが、喘ぐように答えた。 何だと…… と眉をひそめる老人をよそに、短髪の男は右肩を押さえながら、壁に背を預けてずるずると床に座り込む。木の棒にすがりながらよろよろと歩くもうひとりの男―ラトは、 ぉぉぉぅ…… と苦痛の呻きを上げながら、居間の椅子にゆっくりと腰を下ろした。</p><p>信じられん……。モリセットめ、あやつ、くたばりおったか……</p><p>…………</p><p>パヴエル、一体何があった。モリセット(あやつ)はそうそうヘマをするような男ではなかろう？　襲う相手を間違えたか？　それとも、逆に襲撃を受けたのか？</p><p>…………</p><p>老人の問いに、しかし『パヴエル』と呼ばれた短髪の男は、俯いたまま答えない。</p><p>おい、パヴエル？</p><p>若干慌てた老人が、しゃがんでパヴエルの顔を覗き込むと、どうやら話を始める前に気を失ってしまったらしい。</p><p>首筋に手を当て、パヴエルの呼吸と脈があることを確かめた老人はしかし、それがごくごく弱いものであると気付いて これは不味いぞ とやおら立ち上がった。</p><p>ロミオー！　こっち来い！</p><p>ぱんぱんと手を叩きながら声を上げる。 はいッ！ と奥の部屋から返事が聞こえ、茶色の癖っ毛を跳ねさせた小間使いの少年が、居間にひょっこりと顔を出した。</p><p>ロミオ、ギスラン先生を呼んでこい。急患が二人だ、そう伝えろ</p><p>わっ、わかりました</p><p>居間の負傷者二名にぎょっとした顔をしつつ、ロミオと呼ばれた少年が駆け足で家を飛び出していく。</p><p>しかし……モリセットが死んだか……</p><p>あごひげを撫でながら、虚空を睨むようにしていた老人だったが、ふと、黙ったまま椅子に座り、昏(くら)い目で床をじっと見つめるラトに目を止めた。</p><p>……ラト、お前もずいぶんやつれてるな。一瞬、誰だか判らなかったぞ。どこを怪我した？　足をやられたのか？</p><p>……</p><p>その問いかけに、ラトはゆっくりと、顔を覆っていた布を取り外した。布の下から露わになった『傷』に、老人は口元を押さえ うっ と数歩後ずさる。</p><p>でろり、と。</p><p>垂れ下る、赤黒い、ぐしゃぐしゃに崩壊した肉の塊。ところどころに散らばる白い欠片が、折り砕かれた歯と骨であることに、数秒してから気付く。</p><p>ラトの、顔から下半分が、消失していた。</p><p>口腔から喉の奥にかけてが、丸見えになっている。僅かに、傷だらけになりながらも、残っている舌が蛇のように蠢いていた。 やぁぇ、ぁぁぅ と、ラトが言葉にならない呻き声を上げるたび、だらだらと唾液が糸を引いて垂れていく。</p><p>―やつれるはずだ。</p><p>老人は思う。こんな、『口』ともいえない口では、ろくに物が食べられるわけがない。旅の糧食として重宝される堅焼きのビスケットなど、もってのほかだ。極限にまで磨り潰した粥ですら、食べるのは厳しいだろう。</p><p>……一体、お前たちは何とやり合ったんだ</p><p>思わず、といった様子で老人が呟くと、 あぃうあああぁッ！！ と叫んだラトのまなじりが釣り上がった。</p><p>あぃぅああぁぅああッ！　あぃぅ、おおぃぇあぅ、おおぃえああぅッッ！</p><p>顔の残った部分を真っ赤にし、だらだらと口腔から唾液を垂らしながら。</p><p>おおぃぇあぅゥッッ！　ええぁいいッおおぃぇぁっぅおあいぅゥッ！！！</p><p>叫びとも悲鳴ともつかぬ声を上げ、ラトが腰からさっと短剣を引き抜いた。びくり、と身体を硬直させた老人だったが、ラトはその短剣をバンッ！　と乱暴に、机の上に叩きつけただけだった。</p><p>鈍い、くすんだ銀色の刃。こびりついたどす黒い血。ハウンドウルフの血―。</p><p>おぇぁ、あぃぅぉえんぁ</p><p>……すまん、何が言いたいのか分からん</p><p>困惑の表情で、及び腰の老人は首を横に振る。</p><p>おぇぁ、あぃぅぉ……あぃぅぉ、あぃぅぉあぃぅおぉぉおおおぉッッ！　おおおおぉオオオォぁぃぁぁっォォォッッッ！</p><p>バンバンバンと狂ったようにテーブルを叩きながら、ラトは首をめちゃくちゃに振り回し、駄々っ子のようにただ叫ぶ。</p><p>おおぃぇあゥッ！　おおぃぇあゥッ！　おおぃぇ、おおぃぇあぅウッ！　おおぃぇあぅウぅぅぅッッッ！　おおぃぇあぅ、おおぃぇぁぅッ、おおぃぇあぅウッ！　おおぃぇあぅウウウウウウウウぅぅッ！</p><p>しばらく叫び続けていたラトだったが、やがてその言葉は勢いを失くし、ただ昏い瞳で床を見つめ、何事かを呟くのみとなった。</p><p>老人は、ただそれを、引き攣った顔で眺めていた。</p><p>その後、小間使いの少年が連れてきた村の薬師―という名目の、専属の医者に二人を任せ、老人は浮かない顔で自室に引きこもる。</p><p>机の前、安楽椅子を揺らしながら、額を押さえて はぁ…… と大きな溜息をついた。</p><p>……まったく。モリセット隊は壊滅、ラトランドは気狂い、何が起きたかを知るパヴエルは重体、か</p><p>近頃は暇だ、などと思っていたらこれだ。こんな厄介事は御免だ、ともう一度溜息をつきつつ、</p><p>まあ、とりあえずの報告はせねばなるまいて……</p><p>机の引き出しから、小さな紙切れを一枚取り出した。羽ペンを手に、老人は目を細めながら、紙面に何事かを書きつけていく。</p><p>……ふむ</p><p>そして羽ペンをインク差しに戻したとき、紙切れにはびっしりと幾何学的な模様が描かれていた。</p><p>引き出しからもう一枚、今度は羊皮紙を取り出した老人は、紙切れの内容と羊皮紙の内容を見比べるようにして、念入りに目を通していく。</p><p>よし</p><p>数度の確認を終えた老人は、ローブの胸ポケットからホイッスルを取り出し、窓の外に向けてそれを吹き鳴らした。</p><p>ピィーッという甲高い音が、外の鬱蒼とした森に響き渡る。</p><p>やがて、バサバサと羽音を立てて、大きな黒い鴉が森の中から現れた。窓枠にしっかりと止まり、まるで血のような赤い瞳でこちらを見つめる。その右脚には、革製の小さなポーチのようなものが、ベルトで括りつけてあった。</p><p>さぁ、仕事の時間だぞ</p><p>チッチッチッ、と舌を鳴らしながら、老人は机の上に置いてあったサラミを一切れ手に取り、鴉に食べさせる。鴉が首を振ってそれを飲み込もうとする間に、右脚のポーチの中に紙切れを仕舞った。</p><p>これでよし、と。……さて、</p><p>んんっ、と咳ばらいをした老人は、鴉の眼前に右手をかざし、</p><p>―Al la kastelo.</p><p>ぎらり、と赤い瞳を輝かせた鴉は、ばさりとその翼を広げた。</p><p>ガァーッ、ガァーッと耳障りな鳴き声を上げながら、空へ向かって羽ばたいていく。それを見守りながら、老人はゆっくりと安楽椅子に座り直した。</p><p>気流を捉え、天高く昇った鴉は、二度、三度。</p><p>上空を旋回し、その進路を真っ直ぐ南へと取った。</p><p>老人の視界の中、高みを羽ばたく鴉は、まるで黒い砂粒のようで。</p><p>そのまま見る見る間に、空の果てへと、飛び去っていった。</p><p>パヴエルくんです（元気な頃の）。</p><p>追記. 2018/09/06</p><p>改稿しました。パヴエルくんのヴィジュアルは改稿前の描写に基づいております。</p><p>改稿前はオッドアイではありませんでした。</p><p>17. Satyna</p><p>―では、一週間後にまた鑑札を切り替えるように。次ッ！</p><p>大きな声が響き渡り、ぞろぞろと、長い行列が僅かに前へ進む。</p><p>あぁ～……。いい加減、待ちくたびれたぜ</p><p>全くだ</p><p>その列の中ほど、騎乗で隣り合ったケイとアイリーンは、うんざりとした表情で溜息をついた。ケイたちの前後に並ぶ、馬車の手綱を握る商人や馬に跨った傭兵、家畜を連れた農民と思しき人々も、みな同様に待ちくたびれた顔だ。</p><p>サティナの街に辿り着いてから、およそ一時間。</p><p>草原の民の襲撃の後は、特に何のトラブルにも見舞われなかったケイとアイリーンであったが―サティナで二人を待ち受けていたのは、正門前での長蛇の列、まさかの交通渋滞だった。</p><p>城郭都市サティナ。</p><p>四方に堅固な石造りの壁を備え、東に雄大なモルラ川を望むこの街は、周辺の村々の租税や生産物が集積する一大交易拠点だ。</p><p>モルラ川を介した河川舟運に加え、東西南北の街道が交差するという地形の妙、さらに良質な木材の生産地であることも加わって、職人や商人たちが一堂に会するリレイル地方南部の経済の中心地といえた。</p><p>サティナの城郭には、玄関口として四方に大きな市門が設けられている。モルラ川の船着き場専用である東側を除いた、西・南・北の市門が陸からのアクセス経路だ。</p><p>サティナから西、タアフの村の方角から来たケイたちは、当然のように西門をくぐろうとしたのだが―そこで、門番から待ったが掛かった。</p><p>曰く、家畜や馬の類は、鑑札なしで門を通すことはできないとのこと。ひとまず南の正門に行き、一頭当たりにつき所定の金額を払った上で、鑑札の発行手続きをする必要があるらしい。</p><p>要は、家畜及び騎乗生物にかけられる税金だ。</p><p>城郭の外には、サティナ北西部のスラム街を除き家屋が存在しない。スラムに馬を預けられるような施設があるはずもなく、かといって外に放置も論外だったので、ケイたちは南の正門に向かわざるを得なかった。</p><p>そして目にしたのが件の長蛇の列、というわけだ。</p><p>鑑札を手に入れるために、大人しくケイたちも並んだが、かれこれ一時間以上待たされているというのに未だ門まで辿り着けていない。手続きが煩雑なせいもあるのだろうが、税金を払えない者や横入りを試みる者のせいでもトラブルが頻発しており、鑑札の発行が更に遅延している。そこに加えて、一部の特権階級と思しき者たちは、列を無視して優先的に手続きを済ませ門をくぐっていくので、苛立ちは募る一方だった。</p><p>しかし、待っていれば、その時はいつか訪れる。</p><p>―では、以上の点に気をつけるように。次ッ！</p><p>前にいた荷馬車の商人が手続きを終え、とうとう次はケイたちの番だ。</p><p>門の下では、短槍を手にした数人の衛兵が、厳しい面持ちで門の前後を固めていた。</p><p>衛兵たちの装備は白染めの革鎧で統一されており、胸当てには心臓の上あたりで交差する左寄りの十字が描かれている。その白と黒のコントラストは、どこか日本の警察のパトカーを連想させた。</p><p>……お前、草原の民か？</p><p>衛兵の一人、この場の責任者らしい年配の黒ひげを蓄えた男が、胡散臭げな視線でケイを見やる。</p><p>いや、違う。この顔を見ればわかるだろう</p><p>サスケから降りながら、ケイは自分の顔を指差してあっけらかんと答えた。ケイの顔に草原の民の刺青はなく、装備している鎧は羽飾りの類などを排除してあるので、独特の紋様を除けば普通の革鎧とそう大して変わらない。</p><p>ふン。随分と多く、草原の民の武具を持っているようだが。これはどうした？</p><p>ここに来る途中で襲われてな。返り討ちにして剥ぎ取った</p><p>……全部か？</p><p>ああ。八人だった</p><p>二頭の馬に満載された武具を、じろじろと観察していた黒ひげの衛兵だったが、それらにこびり付いたどす黒い血に目を細め、鼻を鳴らした。</p><p>……まあ、いい。お前たち、どこから来た？</p><p>タアフの村から</p><p>目的は？</p><p>手紙の配達を頼まれた。後は買い出しやら何やら……色々だ</p><p>腰のポーチから、ベネットに託された封筒を取り出して見せる。</p><p>貸してみろ</p><p>ケイから封筒を受け取った黒ひげが、封蝋―ケイは知る由もないが、村や街ごとに模様が決まっている―を指で軽く撫で、裏側のベネットのサインを確認した。</p><p>ふン、まあ、本物のようだな。最後に軽く所持品を検査するぞ、いいな？</p><p>それは確認というよりも、命令だった。数人の若い衛兵が手際良く馬の荷物をチェックする傍ら、ぽんぽんと軽くボディーチェックのようなものも為される。</p><p>何のチェックだ、これは？</p><p>麻薬だよ。最近サティナ(ウチ)で流行ってんだ、取り締まりを強化しろとのお達しでね</p><p>ケイのチェックを終えた黒ひげが、小さく肩をすくめた。</p><p>さあ、じっとしてろ！</p><p>えぇっ、オレもかよ？！</p><p>ケイの隣、若い衛兵がアイリーンににじり寄る。ぎょっとしたアイリーンは、思わずといった様子で壁際に逃げた。</p><p>おいッ、逃げるな！　貴様、さては何か隠し持ってるな！？</p><p>こんな薄着で何をどこに隠せってんだよ！？</p><p>薄手のチュニックをひらひらとさせながら、赤い顔でアイリーン。しかしそれをよそに、手をわきわきとさせた若い衛兵が、じりじりと距離を詰める。目をぱちくりとさせたケイが困り顔で黒ひげの衛兵を見やると、 ふぅン と溜息をついた彼は、</p><p>おいニック！　そんな鼻の下伸ばして、下心丸出しの顔してたら嫌がられるに決まってンだろうが！　俺のお袋でも嫌がるぞ、今のお前はな！</p><p>こつん、と若い衛兵の頭を小突き、その言いように周囲の衛兵たちがどっと笑い声を上げた。</p><p>悪いが嬢ちゃん、これも規則でな</p><p>ケイに対するそれよりも幾分か柔らかい態度で、黒ひげの衛兵が手際よくアイリーンの全身をチェックしていく。それに対しアイリーンは、ただ人形のように固まっていた。</p><p>よぅし、特に変な物は持ってないな</p><p>紳士的かつ事務的に、さっさとチェックを終わらせた黒ひげは、ぱんぱんと手を払いながら小さく笑みを浮かべる。</p><p>さてと、それじゃあ金勘定といきま―</p><p>―隊長！　こいつら変なもん持ってます！</p><p>馬の荷物を検めていた衛兵が叫んだ。笑みを消し、 はぁ？ と声を上げる黒ひげ。アイリーンの乗騎、荷袋から引きずり出されたのは、青い液体の詰まったガラス瓶―高等魔法薬(ハイポーション)だ。ケイとアイリーンが同時に、 あ という顔をする。</p><p>お前ら、……何だコレ。本当に『変なモノ』だな</p><p>部下の衛兵からガラス瓶を受け取り、軽く振って内容物を確認した黒ひげが、興味深げにとろみのある青い液体を日の光にかざす。明らかに自然界には存在しないタイプの青色、『変なモノ』といえば確かにその通りだが―少々顔を引きつらせたケイは、</p><p>それは万能の治療薬だ。それなりに貴重なものだし、丁重に扱って欲しい。あと直射日光は極力避けてくれ、劣化する</p><p>……治療薬、ねえ。薬か……</p><p>ふン……、と再び胡散臭げな表情に戻り、黒ひげがじろりとケイを見やった。</p><p>（素直にポーションだと言ってもいいが……）</p><p>ケイは考える。『こちら』の世界では DEMONDAL のゲーム内よりも、ポーションの希少性が更に上がっているらしかった。これは正真正銘ハイポーションであり、ケイにやましいことは何一つとして無いのだが、ここで素直に教えてしまうと、のちのち厄介なことに巻き込まれる気がしてならない。</p><p>（……ええい、これは治療薬だ！　俺は嘘は言っていないぞ！）</p><p>開き直ったケイは、しっかりと背筋を伸ばし、 そうだ、ただの治療薬だ と断言した。</p><p>ふン、そうか……</p><p>しばし、ケイとポーションを訝しげに見比べていた黒ひげだったが、何を思ったのか、片手の書類を傍らの簡易机の上に置き、おもむろに瓶のコルク栓を引き抜いた。 あっ と声を上げ、思わず身を乗り出すケイとアイリーン。それをよそに、すんすんと鼻をひくつかせて、その匂いを確かめる。</p><p>…………</p><p>しばしの逡巡。</p><p>おいやめろ、と無意識に呟くケイ、そしてそれを無視するように、黒ひげは瓶を傾けて、クイッと一口。</p><p>（おいいぃぃオッサンンンンッッ！！！）</p><p>（生命線があああぁぁぁァァッッ！！！）</p><p>のおおおおおと声にならない抗議の声、</p><p>ブフゥォ何だコレ不味ゥ！？</p><p>そして盛大にそれを噴き出した黒ひげが、あまりの不味さに身体を仰け反らせる。その勢いでこぼれそうになり表面張力の限界に挑むポーション、それを見て うわぁ！ と悲鳴を上げるケイとアイリーン。</p><p>隊長！？</p><p>大丈夫ですか！？</p><p>それ毒か何かなんじゃ……</p><p>いっいや大丈夫だがッ味ッ、味ィッ！　オェェッ！</p><p>えずいた黒ひげが身体をくの字に曲げ、その手の中の瓶が再び危うい角度に傾く。 あああッ！ とさらに悲鳴を上げるアイリーン、 まず蓋閉めろ！ と怒鳴りながら貴重な魔法薬を無駄遣いされたことに殺意を覚えるケイ。</p><p>……っあー、『良薬は口に苦し』とは言うが、ンふッ、これはまたとんでもない不味さだな</p><p>しばらくして口の中が落ち着いたのか、げっそりとした表情の黒ひげは、コルクで瓶に蓋をしつつ頭を振った。未だ怒り冷めやらぬケイは、乱暴にその手から瓶を奪い取り、後生大事に荷物袋に仕舞い込む。一口分無くなってしまったが、ひとまずは無事に返ってきたポーションに、ほっと胸を撫でおろすアイリーン。</p><p>……少なくとも、これは麻薬ではないな。何かしらの薬、ってのは本当だろうが……全く、病人だか何だか知らんが、それを飲まされるヤツは相当に不幸だな……まぁいい。</p><p>よし、とっとと鑑札の発行済ませるぞ</p><p>……いいんすか？</p><p>いいんだよ。少し口に含んだだけだが、異様に不味かっただけで、あとは特に異常もなかったしな</p><p>若い衛兵の問いかけに、肩をすくめた黒ひげは それに、 と言葉を続ける。</p><p>仮に得体の知れない新種の麻薬だったとしても、規則に定められた麻薬(ヤク)の一覧にコレは入っていない。一覧に入っていない以上、俺達にはこれを取り締まる義務はなく、逆に権利もないって寸法だ……。</p><p>さて、待たせたな。手続きを終わらせるぞ……ちゃんと金は持ってるんだろうな？</p><p>互いに、何処かうんざりしたような雰囲気で、鑑札の発行手続きは始まった。</p><p>サスケと他の馬三頭分の税金に鑑札の発行代金、合わせて銅貨45枚を支払い、帳簿にサインをし、さらにしばし待たされてから、ケイたちはようやく一週間有効な鑑札を手に入れる。</p><p>ケイたちが手綱を引いて門を潜り抜けたとき、サティナの街に到着してから、すでに二時間半が経過しようとしていた。</p><p>†††</p><p>夕暮れ。</p><p>サティナ市内北東部、商人街の一角で宿を取ったケイたちは、宿屋一階の酒場で席についていた。</p><p>結局、宿屋を探している間に、日が暮れてしまった。</p><p>宿を取る、と一言で言えば簡単だが、実際に探してみると、これがなかなか難しい。ネックになったのは、やはりケイたちが連れている四頭の馬だ。商人と職人の街だけあって、サティナには至るところに宿屋があったが、清潔さ、治安の良さ、そして余裕のある厩舎、その全てが揃った宿となると、流石に限られていた。</p><p>さっさと宿を取り、その後は手紙の配達、次にアイリーンのために防具屋を物色―などと考えていたケイであったが、実際のところそんな余裕はなかった。街中で野宿するわけにもいかず、必死で探し回った結果、少し割高な宿を取る羽目になってしまったが、まあ致し方があるまいとケイは考える。</p><p>何はともあれ、無事に宿が取れたことを祝して……</p><p>カンパーイっ</p><p>向かい合わせのテーブル。いぇーい、と笑顔を浮かべたケイとアイリーンは、なみなみとエールの注がれた木のジョッキをこつんっと打ち鳴らした。</p><p>ぐび、ぐびっ、と。</p><p>エールを喉に流し込み、ジョッキを置いた二人は、 う～ん と何とも微妙な表情を浮かべる。</p><p>冷えてないな……</p><p>冷えてねェな……</p><p>ぬるい。ぬるいのだ。酒場の空気よりはひんやりとしているが、決して冷たくはない。爽快感皆無の喉越し。</p><p>……ま、当たり前か</p><p>何を期待してたんだろうな、オレたちは……</p><p>小さく肩をすくめるケイ、真顔で遠い目をするアイリーン。この世界には、冷蔵庫など存在しない。せいぜいが、ひんやり涼しめな地下室があるくらいのものだ。</p><p>あるいは、熱系統に強い高位の魔術師がいれば話は別かもしれないが―今のケイたちには、望むべくもない。</p><p>……ケイの『シーヴ』で何とかならない？</p><p>たかがエール冷やすのに幾ら使うつもりだ</p><p>若干の期待を込めてこちらを見るアイリーンに、ケイは呆れ顔で首のチェーンをちゃらちゃらと鳴らして見せる。魔術を行使するための触媒、大粒のエメラルドは、今持っている一つで最後だ。そもそも複数あったところで、こんなことに使うのは論外だが。</p><p>しかしシーヴで冷やすのはちょっと厳しいぞ、『分子の動きを止めて空気を冷却しろ』なんざ、精霊語(エスペラント)でどう言えばいいのか見当もつかん</p><p>う～ん。難しいな……</p><p>あと仮に言えたところで、精霊が理解するかどうかは別問題だしな……</p><p>たしかに……残念、無理か</p><p>そんなことを話していると、ケイたちのテーブルにトレイを抱えた給仕の娘がやってきた。</p><p>はい、お待ちどぉ。ソーセージの盛り合わせに三種のチーズ、スープ二人前、あとパンね～</p><p>おお～</p><p>腹減った！</p><p>手際良く、娘が木の器をテーブルの上に並べていく。肉汁を垂らし、香ばしい匂いを漂わせるソーセージに釘付けになるアイリーン、娘がかがんだ際に見える胸の谷間に視線が吸い寄せられるケイ。</p><p>ごゆっくりぃ～</p><p>ぱちり、とケイにウィンクした娘は、手をひらひらとさせながら厨房の奥へと戻っていった。 さあ、早く食べようぜケイ！ と急かすアイリーンに、ふりふりと揺れる娘の尻を眺めていたケイは ああ…… と生返事を返す。</p><p>イタダキマス！</p><p>ぺし、と合掌したアイリーンが おっ、これウマい！ と食べ始めたので、はっと我に返ったケイも、慌ててフォークに手を伸ばした。</p><p>それから存分に飲み食いし、満腹になったケイたちは二階の部屋へと引き返す。</p><p>部屋は、広めの四人部屋を二人で使う、という贅沢をしていた。ケイたちの泊まる”BlueFish”亭は裕福な庶民向けの宿屋なので、大商人や貴族向けの高級宿とは違い、個室などは存在しない。部屋は二人部屋、四人部屋、大部屋（雑魚寝）の三種類のみだ。</p><p>そしてケイたちの場合、二人連れではあるものの、草原の民から奪った武具などの大荷物を抱えていたため、二人部屋だと狭すぎて荷物の置き場所がなく、苦肉の策として運良く空いていた四人部屋を取っていた。</p><p>あ～今日は疲れたな～</p><p>部屋の中、入って左手のベッドにアイリーンがダイブする。そして、スプリングの利いたマットレスではなかったがために、ドスッと音を立ててモロに衝撃を食らい うっ と痛そうな声を上げた。</p><p>ケイはそんなアイリーンに苦笑しながら、手にしていたランプを天井の鎖にぶら下げる。揺れる炎の薄明かりが、仄かに部屋を照らし出した。床や余ったベッドの上に、所狭しと置かれた荷物。雨戸の閉じられた窓、わずかな隙間から、殆ど暗くなった夕焼けの空が見える。外から聴こえてくる、酔っ払いの喧騒に、吟遊詩人の歌声。</p><p>腰に付けていた長剣の鞘と”竜鱗通し”を入れていた布製のケースを枕元に置き、ケイも右側のベッドに腰掛けた。</p><p>ほっ、と。</p><p>強張っていた身体から、硬い芯が抜けていくような。そんな安心感があった。</p><p>……ホント、疲れたな</p><p>ぽつりと呟いた言葉には、万感の思いがこもっている。今朝、それこそ十数時間前に出発したというのに、タアフの村を出たのがもう随分と前の出来事のように感じられた。</p><p>ぅん……</p><p>小さく、呻き声を返したアイリーンは、すりすりと枕に顔を擦り寄せて、見るからに眠たそうだ。</p><p>もう寝るのか？</p><p>ん……ねむい。……シャワー、したいけど、ないし……水浴びも、ちょっと……ここじゃやだ……</p><p>あー、そうだなぁ</p><p>“BlueFish”亭は石造りの三階建て、上から見ると口の字をしている。真ん中の部分の空き地に井戸とトイレがあり、水浴びならばそこですることになるわけだが、それが四方の客室の窓から丸見えになっているのだ。この世界の住人ならばともかく、まだ『こちら』の環境に慣れていないアイリーンには、少々酷だろう。少なくともケイの知る限り、アイリーンに露出癖はない。</p><p>まぁいいや……、とりあえず今は、ねる……</p><p>むにゃ、とシーツを手繰り寄せたアイリーンは、眠気に抗うのをやめて本格的な睡眠態勢に入った。エールのあとは専ら、葡萄酒の杯をかぱかぱと空けていたアイリーンだったが、流石のロシア人といえどもほろ酔い気分になってしまったらしい。疲れていたのもあるだろうが、すぐにすやすやと寝息を立て始める。</p><p>おーい、アイリーン……。寝ちまったのか？</p><p>ケイが声をかけても、全く反応はない。</p><p>…………</p><p>沈黙。</p><p>喧騒から離れた静けさとともに、ゆったりと時間が流れ出す。</p><p>ランプの火のか細い灯り。薄暗い部屋の中。</p><p>しかしケイの瞳には、アイリーンの姿が鮮やかに浮かび上がる。</p><p>寝台に横たわる細い体。シーツに浮かび上がる、しなやかで女性的な腰のライン。その身が羽のように軽く、そして柔らかいことを、抱きとめたことのあるケイは感覚として知っている。ふわりと、花のように蠱惑的な香りが鼻腔をくすぐった。アルコールのせいだろうか、アイリーンの寝顔も、微かに赤らんで見えた。ポニーテールのままほどき忘れた金髪、白く覗くうなじ、白磁のようになめらかな肌。頬にかかる前髪が、唇から洩れる呼気に揺れている。唇。桜色の、艶めかしく、まるで花弁のように可憐な―</p><p>……んぅ</p><p>むにゃむにゃ、とアイリーンが寝返りを打った。</p><p>その頬にかかる金髪を、指で払ってあげようとしていたケイは、はっと我に返ってアイリーンから距離を取る。</p><p>そして、まるで誘蛾灯に誘われる羽虫のように、自分が彼女に吸い寄せられていたことに気付いた。</p><p>……いかん</p><p>ぺし、と額を叩いたケイは、困ったような顔でアイリーンを見下ろす。</p><p>『……。無防備すぎんだよ』</p><p>ぼそりと、日本語で。溜息をつき、こめかみを押さえたケイは、 アンドレイアンドレイアンドレイアンドレイ…… と呪文のように唱えた。</p><p>……よし。寝よう</p><p>フッとランプの火を吹き消し、勢いもそのままにベッドに横たわる。もぞもぞと、アイリーンに背を向けて、暗闇の中そっと目を閉じた。</p><p>やはり、何だかんだ言って、ケイも疲れていたのだろう。</p><p>……ぐぅ</p><p>何かに思い悩む暇も、思い悩まされる暇もなく、吸い込まれるようにして深い眠りへと落ちていった。</p><p>†††</p><p>翌日。</p><p>慣れない旅の疲れから、結局昼前まで揃って惰眠を貪っていたケイたちであったが、一日寝て過ごす訳にもいかなかったので、何とか気持ちを奮い立たせ行動を開始した。</p><p>一階の酒場で遅めの朝食(ブランチ)を取り、街へ繰り出す。アイリーンの防具や盾を見繕ったり、ミカヅキの遺品の皮を加工する職人を探したりと、やらなければならないことは沢山あるが、まずはベネットに頼まれた手紙の配達を終わらせてしまうことにした。</p><p>壁の内側、碁盤目状に区画整理されているサティナの街は、十字に走る大通りを境に、大きく四つの地区に分けられる。</p><p>まず、南の正門から入って右手側、真ん中から南東の区画が、貴族や大商人の邸宅が並ぶ高級市街だ。壁際の角の部分には堅固な造りの領主の館があり、また壁の外側にはモルラ川の水を引いて造られた人工湖と、その真ん中にそびえる防御用の塔がある。仮に外敵がサティナを攻撃した場合、この小さな湖と防御塔を攻略しない限りは、領主の館がある南東側を容易く攻めることができないというわけだ。</p><p>逆に、正門から入って左手側、南西のエリアは、商店が立ち並ぶ商人街となっている。ありとあらゆる種類の店が開かれており、日々あらゆる商品が捌かれるそこは、サティナの街の中で最も活気に満ち溢れた区画といえよう。</p><p>その対角線上、街の北東部、東の船着き場の門から最も近いエリアは、物作りの中心地たる職人街だ。職人たちが腕を振るう工房の他、酒類の醸造所や食料・物資の倉庫街も兼ねており、静かながらも賑々しい雰囲気を漂わせている。</p><p>そして最後が、北西部の旧市街だ。ここには職人見習いや別の区画で働く小間使いたち、あるいは公益奴隷たちの住処があり、サティナの中で最も混沌とした空気のエリアとなっている。北西部の壁の外側、地面に埋め込まれるようにして走る下水道の周囲にはスラム街が形成されているため、それに引きずられた旧市街の治安は、他の区画に比べるとあまり良いとはいえない。</p><p>ベネット曰く、手紙の届け先である娘のキスカは、木工職人の元に嫁いだらしいので、ケイとアイリーンはひとまずサティナの職人街へ向かった。</p><p>この街、衛兵(ガード)がホント多いよなぁ</p><p>人通りの少ない静かな道。そこですれ違った警邏の三人組を見て、アイリーンが感心した声を出す。</p><p>街の中では、頻繁に白い革鎧の三人組を見かけた。治安維持のために、警邏隊を組んでいる衛兵たちだ。門番同様、白染めの革鎧を装備する彼らは、腰に警棒とレイピアを差し、周囲に油断なく鋭い視線を向けている。</p><p>装備が統一されているのは、潤沢な資金の証。</p><p>そのきびきびとした所作は、訓練が行き届いていることを表す。</p><p>城郭都市サティナ、その組織力の一端だ。</p><p>すまない、そこの方、我々は『キスカ』という女性を探しているんだが……</p><p>あ、お爺さん、ここら辺で『キスカ』って名前の女の人、知らない？</p><p>そんな調子で、住人たちに聞き込みを続けたケイとアイリーンは、結果としてキスカが『モンタン』という名の職人と結婚していること、その『モンタン』の家が職人街の西側にあることを突き止めた。</p><p>一路、職人街の西へと向かう。</p><p>えーと、大通りから一本右手側、だったか？</p><p>パラディー通りだろ。あ、見っけた、アレだ</p><p>パラディー通りの十二番、十二番っと……</p><p>壁に記された数字のタイルを辿っていくと、とうとう目的地に到着した。</p><p>茶色のレンガで組まれた、二階建ての家。</p><p>軒先に吊るされた看板は、テーブル型にくり抜かれた板に、三本の矢の模様―</p><p>間違いない。聞いていた『モンタン』の工房の特徴に一致する。</p><p>さて、と。着いたみたいだが……</p><p>手の中の手紙をひらひらとさせながら、しかし工房を前に、ケイは困惑顔だ。</p><p>なんか……あれだな？　ケンカしてる？</p><p>小首を傾げたアイリーンが、端的に状況をまとめた。</p><p>モンタンの、工房前。</p><p>ケイとアイリーンが出くわしたのは、何やら顔を真っ赤にして言い争う、二人の男の姿であった。</p><p>城郭都市サティナ編、スタートです。</p><p>18. 職人</p><p>―ですから、まず前の分を返してから言ってください！</p><p>工房の前。茶色のバンダナを締めた細身の男が、声を荒げた。</p><p>それができないから、こうして頭を下げてるんだろう！？</p><p>それに対し、黒い癖毛のゴツい体格の男が顔を真っ赤にして応じる。</p><p>前もそう言ってたじゃないですか！　これでもう何回目ですか！</p><p>じゃあどうしろってんだ、俺に飢え死にしろってのか！？</p><p>飢え死にする前に、まだ出来ることはあるでしょう！？　身の回りの物を売るなり、家を売るなり！　ちょっとは努力して下さいよ！</p><p>してるさっ！　俺なりに努力してる！　だが家だけは勘弁してくれ、あれを売るのは最終手段だ！　頼むよッ、本当に困ってんだ！</p><p>その台詞も何回目ですか！　もう帰ってください！</p><p>お前ッ、兄弟子に向かってその言い方はないだろうッ！</p><p>うんざりとした様子のバンダナ男に、口角泡を飛ばす勢いで詰め寄るゴツい男。</p><p>（……金の話か？）</p><p>（みたいだな）</p><p>それを遠巻きに見守りながら、ケイとアイリーンはひそひそと言葉を交わす。</p><p>先ほどから言い争う二人を眺めているが、どうやら 金を貸してほしい 貸すつもりはない という押し問答を繰り返しているようだ。バンダナ男のうんざりした様子を見るに、おそらくこれは、一度や二度のことではないのだろう。しかも借りた分はまだ返済していないと見える。 次にまとめて返すから！ とゴツい男は言い張っているが、傍目から見ても信用度はゼロだった。</p><p>―ああ、わかったよ、お前の気持ちはわかった！</p><p>と、その時、大声を上げたゴツい男が、腕を組んでどっかとその場に座り込んだ。</p><p>お前が力を貸してくれないなら俺は終わりだ！　路地裏で野たれ死ぬくらいなら、このまま、ここで死んでやるッ！</p><p>道の真ん中で胡坐をかき、そのまま石のように動かない。うわぁ、と呆れ顔のアイリーン、 とんだ開き直りだな…… とケイも閉口する。</p><p>……ああ、もう</p><p>なんと鬱陶しい、と言わんばかりの顔をしたバンダナ男が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえて溜息をついた。</p><p>そしてその拍子に、道の外れに佇むケイとアイリーンの姿に目を止める。</p><p>……ん、なんだ。お客さんか？</p><p>続いて、座り込んでいたゴツい男もケイたちに気付き―ニィッ、と厭らしい笑みを浮かべた。</p><p>あ～……お取り込み中のところ、大変申し訳ない。モンタン氏の工房は、ここで合っているだろうか？</p><p>遠慮がちにケイが問いかけると、</p><p>ああそうさ！　ここが腕利きの職人、モンタン様の工房よォ！　千客万来で羨ましい限りだなァ、ああ？</p><p>ゴツい男がへらへらと笑いつつ、横目でバンダナ男を見やる。</p><p>……私が、モンタンですが。何か御用ですか？</p><p>忸怩たる表情で、バンダナ男―モンタンがケイたちに向き直る。ケイは一瞬、答えに詰まった。とてもではないが、呑気に 郵便でーす などと言い出せない険悪な空気。何より、先ほどからニヤニヤと厭らしい笑みを向けてくる、ゴツい男の存在が気になって仕方がない。ちらりとそちらに目をやるケイ。</p><p>それは一瞬、ほんの一瞬の沈黙であったが、ケイの視線から、その困惑を敏感に感じ取ったモンタンは、</p><p>ああっ、もう……！　すみません、少々お待ちを</p><p>くるりと背を向け、乱暴に工房の扉を開けて中へと消えていく。がさがさ、と棚を探るような音、</p><p>ほらっ、これでいいでしょう！</p><p>苛立ちも露わに、再び姿を現したモンタンが、座り込むゴツい男の眼前に小さな巾着袋を投げつけた。袋の口が開き、ちゃりんちゃりんと音を立てて、数枚の銀貨が石畳にこぼれ落ちる。</p><p>それで最後です！　もう貴方に義理立てするつもりはありません、二度とです！</p><p>侮蔑の色を隠しもしないモンタンに、しかしこぼれた銀貨を拾い集めながら、ゴツい男は卑屈な笑みを浮かべ、</p><p>へへっ……。ありがとう、ありがとうよ。これできっと、どうにかなる。流石は俺の頼りになる弟弟子だ……。必ず、借りは返すぜ</p><p>その言葉に、 どうだか と言わんばかりに鼻を鳴らしたモンタンは、厳しい表情のまま口を真一文字に結び、何も答えない。</p><p>ゴツい男は大事そうに巾着袋を懐に仕舞い、ヘコヘコとしながら旧市街の方へと去っていった。</p><p>……はぁ</p><p>憂鬱な溜息をつき、バンダナを外したモンタンは、ばさりとくすんだ金色の髪をかき上げて、改めてケイに向き直った。</p><p>すみません。お見苦しいところを</p><p>ああ、いや……</p><p>それで、どんなご用件で？</p><p>爽やかな営業スマイルを浮かべるモンタンに、ケイは思わず顔を引きつらせる。これはこれで、呑気に 郵便でーす と言い辛い空気。</p><p>こちらこそ申し訳ない、それほど大した要件ではなかったんだ……。俺の名前はケイという。実は先日、タアフ村に立ち寄った際に、ベネット村長からあなたの奥さん宛てに、手紙を預かっていたのだが……</p><p>恐る恐る、手の中の封筒を見せる。ケイからそれを受け取ったモンタンは、裏側のサインを見て おっ！ と声を上げた。</p><p>久しぶりだなぁ、お義父さんからか！　わざわざ届けて下さったんですか？　ありがとうございます</p><p>予想に反して、思わぬ喜びようだ。頭をぼりぼりとかいたケイは、気まずげに視線を逸らし、</p><p>いや、すまなかった。ただの手紙の配達だったのに……</p><p>え？</p><p>先ほどの……。結果として、俺が急かした形になってしまったから、金を貸す羽目になったしまったのかと……</p><p>ゴツい男が去って行った旧市街の方を見やりながら、ケイがそう言うと、モンタンは ああ と得心したように頷いた。</p><p>いえ、お気になさらず。こちらが貸さないと見ると、本当にあそこから動きませんからね、あの人は……。商売の邪魔になりますし、遅かれ早かれ、貸すことにはなったと思います</p><p>諦めたような顔で、小さく笑うモンタン。</p><p>ところで、お二人はタアフの村からいらっしゃったんですよね？　お義父さんはご壮健でしたか？</p><p>ああ、ベネット村長ならば、お元気そうだった</p><p>そうですか、何よりです。……よろしければ、妻に村の様子を話してやって頂けませんか？　もうしばらく里帰りもしていないので、村の話を聞ければ妻も喜ぶでしょう</p><p>モンタンの言葉に、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。</p><p>オレは構わないぜ？</p><p>ならいいか</p><p>手紙を届けた後は、職人街の防具屋や革製品屋を見て回る予定だったが―モンタンが職人ならば、ミカヅキの皮を加工するのに、腕のいい革職人を紹介してもらえるかもしれない。</p><p>ここで仲良くなっておくに越したことはないな、と踏んだケイは、モンタンの申し出を受けることにした。 立ち話もなんですから、中へどうぞ と招き入れられ、ケイとアイリーンは言われるがままに工房へと上がり込む。</p><p>すっきりと、洗練された空間。</p><p>職人の工房と聞いて、勝手に雑然とした作業スペースをイメージしていたが、モンタンのそれはケイの想像と全く異なっていた。</p><p>上品にコーディネートされた精巧な木工細工や、レースで飾り付けられたお洒落な家具。板張りの床には木屑なども落ちておらず、奥の作業場も整理整頓が行き届いている。工房、というよりはむしろ商店といった印象。ケイは幼い頃に訪れた、家具屋のショールームを連想した。</p><p>おーい、キスカー！　お義父さんから手紙だぞーっ！</p><p>モンタンが奥の部屋に呼び掛けると、 はーい と声が返ってくる。パタパタと足音を立てて、白い前掛けで手を拭きながら出てきたのは、ややふっくらとした体格の若い女だった。</p><p>父さんから手紙！？　久しぶりね！　……あら、お客さん？</p><p>この方たちが、手紙を届けてくださったんだ</p><p>それはまぁ！　わざわざありがとうございます。キスカです</p><p>ケイたちにぺこりと一礼するキスカ。肩のあたりで切りそろえられた栗色の髪が、さらさらと揺れる。栗毛―ダニーやクローネンとも同じ色。ベネットは白髪だったので分からなかったが、これが彼女らの家系の髪色なのかもしれない。</p><p>いや、気にすることはない。俺達もついでに立ち寄っただけだからな……</p><p>そう言うケイをよそに、モンタンから手紙を受け取ったキスカが、 ボリスは？ と小声で尋ねる。渋い顔で 帰らせたよ と答えるモンタン。ふぅん、と曖昧に頷きながら、キスカは手紙の封を切って熱心に読み始めた。</p><p>（……ボリス？）</p><p>（さっきの男のことじゃね？）</p><p>こちらも小声で、ケイとアイリーン。</p><p>…………</p><p>手紙を読みふけるキスカ、それを見守るモンタン。大きく開かれた窓から、そよ風が吹き込む。二人に釣られるようにして、ケイたちも無言だ。アイリーンは興味津々に、天井からぶら下げられた木製の風鈴―風が吹き込むたびに、ころんころんと木琴のような優しい音を立てる―を触ってみている。なんとなく、その姿は、猫じゃらしに手を伸ばす猫を連想させた。</p><p>暇なので、ケイも工房の中を見て回る。ニスが塗られ、ぴかぴかに磨き上げられた木のテーブル。滑らかな縁を撫でつけると、蔦の装飾の彫り込みが、するすると指に心地よい。レースのテーブルクロス、その上に整然と並べられた木工細工。木の枝にとまる鳥を模した置物、風に吹かれて向きを変える風車の飾り。いずれも繊細で、精巧な造りだ。モンタンの腕前が見て取れる。</p><p>壁の方へと、目を転じた。これもモンタンの作品なのだろうか、絵の入っていない額縁がいくつも飾られていた。素朴でありながら、しかし安っぽくはなく、中の絵を引き立てるであろう控え目なデザイン。</p><p>（……基本、金持ち相手の商売か）</p><p>凝った装飾の家具といい、実用性のない置物といい、いずれも一般人は手を出さないような物ばかりだ。おそらく富裕層に金払いの良い客がいるのだろう―とそんなことを考えていたケイは、ふと工房の隅の壁面に飾られた、『それ』に目を止める。</p><p>―矢だ。</p><p>金箔で豪奢な装飾を施されたもの、矢じりが特殊な形状をしているもの、質素だが堅実な拵えとなっているもの。</p><p>様々な種類の矢が、壁に掛けられていた。</p><p>……何か、お気に召す物がありましたか？</p><p>と、すぐ傍から声。はっとして見やれば、ニコニコと笑顔を浮かべたモンタンが横から覗き込んでいる。</p><p>ああ……矢も作られているんだ、と思ってな。つい見ていた</p><p>思ったより、矢を眺めるのに熱中していたらしい。モンタンの接近には全く気が付かなかった。小さく笑みを浮かべ、照れたように頭をかきながらケイが答えると、苦笑したモンタンは、</p><p>矢『も』作っている、というより……それが本業ですね</p><p>ほう、それは。本職だったのか</p><p>矢だけ作っていても、やっぱり食っていけませんからね。……最近では、どっちが本業か分からない始末ですが</p><p>これは、触っても？</p><p>もちろん、どうぞ</p><p>許可を得て、壁の隅に掛けられていた、シンプルな拵えの一本に手を伸ばす。</p><p>ほう……</p><p>手に取った瞬間、すぐにそれと分かる高品質。</p><p>しっかりとした密度の木材は、頑丈さの証。十分なしなりは、折れにくさを保証する。細く鋭く、返しの付いた矢じりは、一度獲物に突き刺さればなかなか抜けにくい。滑らかに磨き上げられた表面は摩擦を軽減し、放たれる際には威力を殺さず、また矢本体が獲物の肉に深く突き刺さり易くする。先端と末端の理想的な重心のバランス、これは矢が飛ぶときのブレを最小限に抑えるものだ。白い矢羽から覗き込むように見上げると、曲がらず、一寸のブレなく、真っ直ぐに矢が伸びているのが見て取れた。</p><p>これは……良い矢だ</p><p>思わず洩れる感嘆の声。</p><p>弘法筆を選ばず―とは言うが、弓使いは少なくとも矢を選ぶ。</p><p>弓の個性、引きの強弱や若干の歪みには慣れで対応できても、命中精度に直結する矢は、そうも言っていられないからだ。真っ直ぐに飛ぶか、あるいは、風に流されるにしても、『自分が思い描いた通りに風に乗る』ことが矢には要求される。</p><p>その点、ケイが手に取った矢は、理想的なものだった。使われている材料、加工の技術、どちらも共に申し分がない。</p><p>お気に召したようで、何よりです。ケイさんは、弓が専門なのですね？</p><p>ははっ、やっぱり分かるかな</p><p>街中ということもあって、ケイは鎧を着けずに軽装のままでいるが、腰には長剣と、布ケースに入れた”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を下げている。街での重要度が低い弓をわざわざ携帯している時点で、それがケイにとって大事であることを喧伝しているようなものだ。考えずとも、ひと目で弓使いだと予想できる。</p><p>弓を持たれていたので、そうではないかと思っていましたが。最初にその矢を手に取られたので、確信しましたね。本業の方は必ず、まず最初にその一本をチェックされるんです</p><p>そう言われてみれば、確かにケイが手にした一本は、陳列された矢の中で最も実用的なものだった。他の矢は、勿論品質は充分なのだろうが、どちらかというと装飾を重視しているきらいがあり、使い勝手の面でケイの好みではない。成る程、本業の弓使いであれば、自然とこの一本に惹かれようというものだ。</p><p>こう言うと語弊があるが、やはり多くの弓使いがこの矢を買っていくのだろうか？</p><p>そうですね、近隣の村の狩人や、知り合いの傭兵たちは……。タアフ村の猟師の方も、以前来られた際に、十数本お買い上げになられましたよ</p><p>タアフ村……マンデルか？</p><p>ご存知でしたか。そうです、マンデルさんです</p><p>そうか、マンデルも……</p><p>ほぉ、と感心したような声。ケイの中でモンタンの評価が更に上がる。</p><p>……</p><p>じっくりと手の中の矢を観察するケイに、黙ってそれを見守るモンタン。正直なところ、ここまでくればモンタンのペースだったが、それに乗せられるのも悪くない、と思うケイであった。</p><p>……ちなみに、お値段は？</p><p>にやりと笑みを浮かべたケイの問いかけに、モンタンも笑顔で返す。</p><p>十本セットで、銅貨六十枚です</p><p>ほう</p><p>一本で銅貨六枚。相場は高くても銅貨二枚、安ければ小銅貨五枚ほどでも取引されることを考えれば、かなり吹っ掛けた値段だ。勿論、稀に見るレベルの高品質であることも加味すれば、ある程度高値でも納得は出来るが。</p><p>ただし、三十本お買い上げ頂いた場合は、革製の矢筒もお付けいたします。……ケイさんは、馬には乗られますか？</p><p>ああ。騎射は得意だ</p><p>そうですか、それはちょうど良かった</p><p>そう言いながら、モンタンは近くの戸棚から、ずるりと大型の矢筒を取り出した。</p><p>これです。私の作成した普通サイズの矢であれば、四十五本まで入ります。必要ならば、馬の鞍へ取り付けることもできますよ。私の知人が作成したもので、頑丈さは折り紙つきです</p><p>ほうほう</p><p>それもまた、手に取って確認する。縫い目がしっかりとしており、モンタンの言葉通り頑丈そうだ。ミカヅキの皮の加工はこの職人に頼むか、と考えたケイは、</p><p>―よし、買おう。三十本で頼む</p><p>おお、ありがとうございます</p><p>全く迷いのないケイに、少し驚きつつモンタンは頭を下げる。</p><p>ところで、この矢筒を作った職人を紹介してもらうことは可能だろうか</p><p>ええ、知人ですので。……何かご入り用で？</p><p>うむ、実は馬の尻の皮があるんだが、思い入れのある品なので、腕のいい職人に加工してもらいたいんだ</p><p>なるほど。そういうことでしたら、是非はありません。後ほどご紹介いたしましょう</p><p>ありがとう</p><p>商談が成立したところで、矢の在庫を取りにモンタンが奥の部屋へ行こうとするが、そこでケイが呼びとめる。</p><p>すまない。もうひとつ、聞きたいことがあるんだが</p><p>何でしょう？</p><p>先ほど、『普通サイズの矢』と言っていたが、これよりも長い、大きめのサイズの矢はあるのだろうか</p><p>長い矢、ですか</p><p>ああ。というのも、これを見てほしい</p><p>布ケースから、弦を取り外した状態の”竜鱗通し”を取り出す。弦を外したとき、複合弓は逆向きに反り返ってCの字になるので、実際よりも少しコンパクトに見える。しかしケイが弦を張り直すと、“竜鱗通し”の全貌を見たモンタンが眉をひそめた。</p><p>……大きめの弓ですね。矢の長さが足りないのでしょうか</p><p>流石は職人だけあって、ひと目でケイの言わんとすることに気付く。</p><p>足りない、というわけではないんだ。この弓は張りが特に強いから、普通に使う分には普通の矢でも問題ない。だが仮に、この弓のポテンシャルを最大限に発揮しようとすれば―</p><p>―弦をもっと引く必要がある、と</p><p>言葉を引き継いで、ふむふむと頷くモンタン。</p><p>その弓、触らせて頂いても？</p><p>ああ</p><p>ケイが”竜鱗通し”を手渡すと、受け取った瞬間にモンタンの手がカクンッと跳ね上がった。 うおっ と驚きの声、マンデルの時と同様に、その見た目を裏切る軽さに意表を突かれたのだろう。</p><p>随分と軽い弓ですね……って、なんだコレ堅っ！？</p><p>弦を引いてみようと、手を掛けたモンタンの顔が驚愕に歪んだ。</p><p>言っただろう、その弓は張りが強い</p><p>ドヤ顔のケイをよそに、どうにか弦を引っ張ってみせようとするモンタンは、顔を真っ赤にして ぐ、ぬ、ぬ…… と唸り声を上げる。</p><p>しばらく生温かくそれを見守っていたケイだったが、意外と負けず嫌いなのか、いつまで経っても止めようとしないモンタンに、流石に心配になってストップをかけた。</p><p>……無理はしない方が良い、特に素手では。下手すると指がダメになる</p><p>くそっ、なんて弓だ……！</p><p>結局、肘を少し過ぎたあたりまでしか引けなかったモンタンは、 イテテ…… と右手を振りながら悔しそうにしている。</p><p>……これはまた、凄い弓ですね。私も仕事柄、弓の扱いはある程度心得ているのですが……ここまで歯が立たない弓は初めてです。失礼を承知でお尋ねしますが、ケイさんはこれを、実戦で使われているんですよね？</p><p>何処か疑わしげなモンタンに、不敵な笑みを見せたケイは、ぐっと”竜鱗通し”を耳のあたりまで引いて見せた。</p><p>すっ、凄いっ、そんなにも軽々と……！</p><p>目を見開き、唖然とするモンタン。その清々しいまでの驚きように、ケイのドヤ顔は留まるところを知らない。</p><p>いやはや……しかし、事情はよく分かりました！　大きめのサイズの矢ですが、幾つか心当たりがあるので少々お待ち下さい</p><p>心なしか鼻息を荒くしたモンタンは、ケイの返事も待たずに奥の部屋へとすっ飛んで行く。バタバタ、ガタガタと棚や引き出しを漁る音、しばらくして大量の矢束と共に、きらきらと顔を輝かせたモンタンが帰ってきた。</p><p>お待たせしました！　実は私、新しいタイプの矢も色々と研究しているのですが、いくつかの試作品も一緒にお持ちしました</p><p>ほう、それはそれは</p><p>まずは、大きめのサイズの矢です。元々はロングボウのために仕立てたものですが、その弓にはちょうど良いかと</p><p>手渡されたのは、今使っているものよりも長めの、青染め羽がついた矢だ。試しに弓につがえてみると、ちょうど耳のあたりまで引くことができた。ギリギリと、両腕にかかる負荷に全身が軋む。耳元まで引いたまま維持するのはケイでも辛く、この矢で悠長に狙いをつける余裕は流石になさそうだった。―ただしその分、かなりの威力が期待できる。</p><p>これも悪くない。ただ贅沢を言うなら、矢じりがもう少し細い方が好みだな。打撃力よりも貫通力を重視したい</p><p>細めですか……例えば、こんな感じでしょうか</p><p>ああそうだな、その矢じりは良い感じだ</p><p>幸い、替えがあります。お時間さえ頂ければ、交換致しますが？</p><p>素晴らしい、お願いしよう。……ちなみに、交換料は？</p><p>サービスでございます</p><p>慇懃に頭を下げてみせるモンタン。二人で顔を見合わせて笑いあう。この時点で、両者ともにかなりノリノリであった。</p><p>よし、この長矢も買おう。在庫は？</p><p>その一本を含めて十二本ですね</p><p>買った。全部だ</p><p>ありがとうございます</p><p>……それで、他は？　これで終わりじゃないんだろう？</p><p>もちろんですとも。次にお見せしたいのはこちらになります</p><p>モンタンが差し出したのは、先ほどの長矢ほどではないが、少し長めの赤羽の矢だった。特筆すべきは、その太さだ。普通の矢よりもひと回りほど太い。また、矢じりは特徴的な円錐形でいくつもの穴が開けられており、その形はどこか注射針を連想させた。</p><p>これは……中が空洞になっているのか</p><p>はい。これは大型の獣狩りを想定した矢になります。矢じりに開けられた穴は、矢の中の空洞を通じて、末端の穴まで繋がっています</p><p>……成る程、刺さりっ放しでも出血を強いる仕組みか！</p><p>ご明察です。効果のほどは言わずもがなでしょう。ただ、中が空洞なせいで体積の割に軽く、風に流されやすい上、通常の弓ではあまり威力が出ないという欠点があるのですが……その弓ならば、と思いまして</p><p>面白い。何本ある？</p><p>試作品ですので、三本ほど</p><p>買った。三本ともだ</p><p>ありがとうございます。続きましては、こちらの矢を―</p><p>流れるような所作で、次々と矢を取り出すモンタン、 面白い！ 買った！ とその場の勢いで次々に買い取るケイ。二人揃って徐々にテンションを上げ、試作品の即売会はさらにヒートアップしていく。</p><p>やーねぇ、ウチの人ったらまた悪い癖が……</p><p>とうの昔に手紙を読み終えていたキスカが、頬に手を当てて溜息をつく。</p><p>あ、ああ……</p><p>その隣、キスカの言葉に曖昧に頷いたアイリーンは、引きつった笑みを浮かべていた。</p><p>最初の長矢や出血矢はともかく、そのあとの試作品はどう考えても金の無駄だ。例えば、今披露されているメロディが切り替わる鏑矢などには、明らかに実用性がない。</p><p>（あまり、お金の無駄遣いはしない方が……）</p><p>今後のことも考えると、そう忠告したいアイリーンであったが、そもそも支払いに使われている銀貨は、ケイがこの世界に来てから盗賊やらと戦って獲得したものだ。その使い道に、アイリーンが口を出す権利はない。</p><p>（それに、普段は滅多に衝動買いなんてしないもんな……）</p><p>これほどまでに、ケイが勢いで物を買うのは珍しい。</p><p>（ひょっとして、ストレスが溜まってんのかな……）</p><p>そう考えると、もはや、アイリーンには何も言えなかった。</p><p>ママー、おなか空いたー</p><p>と、そのとき、アイリーンの後ろから子供の声。</p><p>振り返れば、十歳ほどの可愛らしい少女が、奥の部屋から顔を出している。</p><p>あら、リリー。もう帰ってきたの？</p><p>うん！　今日は、いつもより早くおわったの</p><p>キスカの問いかけに、『リリー』と呼ばれたその少女は、元気に頷いた。</p><p>えーと……？</p><p>ああ。うちの娘のリリーです</p><p>小首を傾げるアイリーンに、キスカが お客さんよ、ご挨拶なさい とリリーを促す。</p><p>はじめまして、リリーです。十さいです</p><p>ぺこりと、一礼してリリー。子供好きのアイリーンは、その可愛らしいお辞儀に思わず微笑んだ。</p><p>初めまして。アイリーンっていうんだ、よろしくね</p><p>リリーの目線までしゃがみこみ、優しげな口調で言ったアイリーンに、リリーもはにかんだ笑みを浮かべる。</p><p>続いてご紹介したいのはこの矢です！</p><p>何だこれは！　随分と複雑な機構だが……</p><p>ふふふ、これこそが私の自信作、『一本で多人数を制圧すること』を想定した矢になります！</p><p>何だって！？　いったいどんな仕組みが―</p><p>そんなアイリーンたちをよそに、ケイとモンタンは大盛り上がりだ。</p><p>……一度ああなっちゃうと、ウチの人ってば長いのよねぇ。リリー、そろそろおやつにしましょうか。アイリーンさん、もしよかったら奥で一緒にお茶でもいかが？</p><p>うん。喜んで……</p><p>キスカの提案に、アイリーンは苦笑しながら頷く。</p><p>―結局、趣味人たちの熱い狂宴は、そのまま日が暮れるまで続いた。</p><p>†††</p><p>サティナ北西部、スラム。</p><p>壁の外、街から伸びる下水道に、しがみつくようにして広がるこの貧民街は、壁の内側に入れない無法者や、被差別民たちの巣窟だ。</p><p>下水道―石板で囲まれ蓋をされているとはいえ、臭いまでは完全に防げない。吐き気を催すような悪臭、隙間から漏れ出る汚水、極めて不衛生な悪環境。</p><p>しかしそんな薄汚れた道を、一人の男が行く。</p><p>手入れを怠り、ぼさぼさに伸びた黒い癖毛。随分と着古しているのか、すっかり色の褪めてしまった衣服。その目つきは何処かおどおどと落ち着きなく、ゴツい身体を縮こまらせるようにして、速足で歩いていた。</p><p>男の名前を、『ボリス』、という。</p><p>サティナの街で、かつて矢の生産に携わっていた―『元』職人。</p><p>スラムの中の複雑な路地を、ボリスは迷うことなくずんずんと進んでいく。右から左へ、左から右へ。あばら家が形成する、まるで迷路のような小道。</p><p>どれほど歩いたであろうか。ボリスはスラムのさらに西、人通りの少ない寂れた通りに出た。</p><p>猫背のまま、あばら家に寄りかかり、小さく溜息をついて足を休める。見回せば、周囲に人影はほとんど見当たらない―ほんの、数人を除いて。</p><p>小さな椅子に腰かけた、怪しげな雰囲気の老婆。ボロボロの小汚い机に、水晶の欠片や動物の骨を並べている。小銅貨の入った皿を置いているあたり、物乞いの傍ら占い師でもしているのか。ボリスがすぐそばに立っていても、俯いたまま、彫像のように動かない。</p><p>そして道の反対側には、地べたに座り込んだ、険悪な目つきの薄汚い男たち。錆びついた剣を大事そうに抱える彼らは、その顔に黒々とした刺青を刻んでいた。十年前の戦役で故郷を追われ、浮浪者に堕ちた草原の民か。</p><p>あるいは―。</p><p>きっ、と鋭い視線を向けられたボリスは、慌てて男たちから目を逸らした。</p><p>…………</p><p>街の喧騒は遠く、よどんだ空気は重く。路地裏を吹き抜ける風は、かすかな緊張を孕んでいる。</p><p>ただ、不穏な静けさだけが、そこにはあった。</p><p>…………</p><p>たんたん、たんたんたん、たん、と。</p><p>その沈黙を打ち消すように、ボリスは足を踏みならす。</p><p>たんたん、たんたんたん、たん、と。</p><p>まるで暇を潰す子供のように。</p><p>……そこなお方</p><p>そのとき初めて、老婆が動いた。</p><p>緩慢な動作で、ボリスの方を向いた老婆は、にやりと、黄ばんだ歯を剥き出しにして、笑う。</p><p>……鴉を、見らんかったかね。鴉を</p><p>その問いかけに、ボリスはやや緊張しながら、 ああ、見た とだけ答えた。</p><p>そうかえ。わしも、見た。黒い鴉じゃ……</p><p>げっげっげ、と不気味に笑う老婆の瞳は、白く濁っている。その盲(めしい)た瞳で、何を見たというのか―。</p><p>……座りなされ。未来を、占ってしんぜよう……</p><p>老婆の言葉通りに、ボリスは対面の席に着く。ギシッ、と小さな椅子の軋む音。 お手を拝借 と言う老婆へ、黙って右手を差し出した。枯れ枝のように細い腕が、ボリスの手を撫でつける。</p><p>……。白じゃ</p><p>ぼそりと、老婆が告げた。</p><p>白の、羽じゃ。気をつけなされ。彼の者は、主(ぬし)に、死を運んでくる……</p><p>その不吉な言葉に、ボリスはごくりと生唾を飲み込んだ。</p><p>白い羽を避ければ、大丈夫なのか</p><p>……そうさの</p><p>曖昧に頷く老婆が、撫でつける手を引いたとき。</p><p>ボリスの手の平の上には、小さな金属製のケース。</p><p>さぁ……行きなされ。残された時間は、あと、僅か……</p><p>ケースを懐に仕舞い、無言で立ち上がったボリスは、足早にその場を去った。</p><p>背中に、剣を抱えた男たちの、じっとりとした視線を感じながら―。</p><p>来た道を、ただ引き返す。</p><p>夕暮れの、薄汚れた小道。しばらく歩いて、前方に見えてきたのは、サティナの街の城郭だ。スラムと旧市街を繋ぐ小門の前には、南の正門ほどではないが、街に入るために列をなす人々の姿があった。</p><p>黙って、ボリスも最後尾に並ぶ。列は、五人ずつに小分けして、チェックを受けているようだった。短槍を装備した、厳しい面持ちの衛兵たち。ボリスは落ち着きなく、たんたん、たんたんたん、と貧乏ゆすりをする。まるで、待ちくたびれた子供のように。衛兵の一人が、そんなボリスを胡散臭げに眺めていた。少しずつ、だが着実に、列は進んでいく。</p><p>次ッ！　五人、入れッ！</p><p>ボリスの番が来た。前に一人、後ろに三人。ぞろぞろと小門の中に入る。</p><p>よし、全員その場で靴を脱げ！　両手は頭の後ろだッ！</p><p>門の中、仁王立ちになって叫ぶ一人の衛兵。他の衛兵たちとは違い、金属製の胸甲を着けている。その兜には、白い羽飾り―上級将校、隊長格の証だ。一瞬、身体を強張らせたボリスは、白羽の隊長格と目が合いそうになったので、慌てて俯いた。</p><p>……ん？</p><p>しかし、その様子を怪しいと思ったのか。ざっざっ、と足音を立てて、ゆっくりと隊長格がボリスに近づいてくる。</p><p>口の中が、からからに乾いていた。必死に、祈る。</p><p>ただ、目立たないようにと。その辺に転がる石のようであれと―。</p><p>貴様ッ、何を隠しているッ！！</p><p>恫喝の声。思わず顔から血の気が引いたが、しかし、その声はボリスに向けられたものではなかった。</p><p>見れば、隣。ボロ布をまとったような格好の痩せた女が、衛兵に殴り倒されている。</p><p>隊長！　この女、靴の中にこんなものを……</p><p>衛兵の一人が、隊長格に小さな革袋を差し出した。厳めしい表情でそれを受け取った隊長が、袋を広げて中を検める。</p><p>さらさらと、こぼれ落ちる白い粉。</p><p>指先についた粉を舐め、ぺっとそれを吐き出した隊長格は、</p><p>……麻薬だ</p><p>わっわたしは知りません！　身に覚えが―</p><p>ええい、黙れッ！　じたばたするなッ！</p><p>震える声で叫ぶ女を、衛兵たちが警棒で更に殴りつける。</p><p>やめろッ！　それ以上殴るな！</p><p>が、隊長格が衛兵たちと女の間に割って入り、ただちに暴行を止めさせる。縋るような目つきで隊長格を見る女に対し、門の内扉をくいと顎でしゃくって見せた彼は一言、</p><p>連行しろ</p><p>ガシッと、屈強な衛兵が二人、女の両脇を掴んで無理やり立たせる。</p><p>そいつには幾つか、聞きたいことがある。丁重に扱えよ……今(・)は(・)殺(・)す(・)な(・)</p><p>その、まるで虫けらを見るような酷薄な目に、顔面を蒼白にした女はがたがたと震え出した。</p><p>いっ、いやッ！　違うのっ、本当に知らないの！　助けてっ、誰かッ、誰かぁ！</p><p>クソッ、暴れるな！</p><p>連れて行けッ！</p><p>半狂乱になった女が暴れ出すが、しかし抵抗もむなしく、城壁の内側の詰所へと連行されていく。</p><p>……馬鹿な奴だ、あれで奴隷落ちだろ……</p><p>……いや……最近はさらに厳しく……</p><p>……運び人……例外なく斬首……</p><p>……“尋問”の最中に死なない限りは……</p><p>それを見ていた順番待ちの人々が、ひそひそと言葉を交わすが、隊長格の大きな咳払いに、皆ぴたりと口を閉ざす。</p><p>さあ、じっとしてろよ</p><p>ボリスの前にも、一人の衛兵がやってきた。乱暴な手つきで、足元から上へとボディチェックがなされる。それをじっと見つめる白羽の隊長格。衛兵の探る手が、遂に懐の金属ケースに、触れた。</p><p>……</p><p>緊張の一瞬。しっかりと、服の上からケースの形を確かめた衛兵は―顔を強張らせるボリスをちらりと見やり、そのまま手を離す。</p><p>この男も、異常ありません</p><p>振り返り、隊長格に何食わぬ顔で告げる衛兵は、先ほどのボリスの貧乏ゆすりをじっと見つめていた一人であった。</p><empty-line/><p>うむ、ならば通ってよし</p><p>重々しく頷いた隊長格は、興味を失ったようにボリスから視線を外す。細く長く息を吐き出したボリスは、靴を履き直し、ゆっくりと小門を抜けた。</p><p>―次の五人、入れッ！</p><p>隊長格の声を遥か後方に聞き流しながら、一本二本奥の裏路地に入り、ボリスはようやく安堵の溜息をつく。</p><p>（危なかった……）</p><p>その顔は、げっそりとやつれていた。夕闇に包まれた薄暗い、しかしスラムよりは格段に清潔な路地を、死人のような足取りでのろのろと歩く。</p><p>やがて、仄かな明かりの洩れる、小さな酒場へと辿り着いた。</p><p>……エール</p><p>カウンターの席に座り、抑揚のない声で主人に注文をつける。樽から木のジョッキに琥珀色の液体が注がれ、乱暴に目の前に置かれた。</p><p>よう兄弟。調子はどうだ</p><p>ジョッキに口を付けようとしたところで、一人の痩せた男が慣れ慣れしく、ボリスの隣の席に座って話しかけてくる。</p><p>……上々さ</p><p>陰気な口調で答えたボリスは、カウンターの下、懐から取り出したケースを隣の男へ差し出した。何食わぬ顔でそれを受け取る男。</p><p>そいつぁ何よりだ。どうだ？　上さんの機嫌は？</p><p>……女房なら、とっくの昔に逃げ出してるよ</p><p>はははは、そういやそうだったな。悪い悪い、忘れてたぜ</p><p>意地の悪い笑みを浮かべながら、男は金属製のケースを仕舞い、代わりに小さな革袋をボリスの目の前に置く。</p><p>侘びということで、今日はオレの奢りだ。たっぷり呑んでくれよな</p><p>それじゃあまたな、と言いつつ男は席を立ち、そのまま酒場を出て行った。</p><p>……</p><p>のろのろと、緩慢な動きで、ボリスは革袋の中身を確かめる。</p><p>鈍い輝きを放つ銅貨が、数十枚。</p><p>銀貨一枚には、少し足りない。かさばりはするが、それほど価値はない。そんな枚数。</p><p>……これだけか</p><p>ぽつりと小さく呟いた。これがお前の命の値段だ。そう告げられたような気がして。</p><p>……くそッ</p><p>ジョッキをあおり、エールを流し込む。苦い安酒はどうしようもなく不味いが、それでも呑まずにはいられない。銅貨数十枚。普通に働くよりはいい稼ぎだが、それでも借金を返すには遥かに足りなかった。あと数回、あるいは十数回、この仕事を繰り返さなければならない。</p><p>……エール</p><p>ぼそりと、空になったジョッキを差し出しつつ、ボリスは天井で揺れるランプの薄明りをぎろりと睨みつけた。</p><p>先ほど、自分が運んだ金属製のケース。あれの中身が売り捌かれるとき、実際に幾らになるのかは、ボリスには想像もつかない。しかし、末端価格でいえば、銀貨の十枚や二十枚では収まらないはず。</p><p>それなのに、自分の手取りは、銀貨一枚にも満たない。</p><p>……くそッ！</p><p>エールをあおる。悲しかった。虚しかった。先ほどケースを渡した男の名前すら、ボリスは知らないのだ。今日はまだ運が良かったが、一歩間違えれば、ボリスも先ほどの女と同じ末路を辿る。トカゲの尻尾、その末端も末端。自分のあまりの小物さに、吐き気すら催した。世の中不公平だと嘆きつつも、脳裏をよぎるのは楽しかった時代。まだ、自分が職人として、活躍できていた時代。</p><p>……あの頃は良かった</p><p>ぽつりと。呟くと同時に思い描いたのは、モンタンの顔。</p><p>なんで、アイツはああなのに、俺は……！</p><p>ぎり、とジョッキを握る手に、力がこもる。</p><p>お前も一度、味わってみろってんだ……</p><p>この、安酒の味を。</p><p>場末の、うらぶれた小さな酒場。</p><p>腐った男が吐き出した毒は、薄暗い闇の中に、溶けて消えていった。</p><p>トリスタンは、作中では名前が出てきませんが例の売人の男です。</p><p>アヒトは書籍版２巻のキャラなので、Web版には登場しておりません。</p><p>本当にありがとうございました。</p><p>（※ちなみにアヒトは草原の民です。作中世界の草原の民たちはこんな感じです）</p><p>ちなみに、作中世界での貨幣単位は、</p><p>小銅貨10枚＝銅貨1枚</p><p>銅貨100枚＝小銀貨10枚＝銀貨1枚</p><p>銀貨100枚＝小金貨10枚＝金貨1枚</p><p>となっております。</p><p>19. 仕事</p><p>ぴょこぴょこと。</p><p>金髪のポニーテールを揺らし、ケイたちの前を歩いていた幼い少女が、くるりと笑顔で振り返った。</p><p>こちらがサティナのシンボル、『サン＝ディルク時計台』でーす</p><p>幼い少女―リリーが示した石造りの時計台を見上げ、ケイとアイリーンは おおー と感嘆の声を上げてみせる。</p><p>これは42年まえ、いまの領主さまが生まれたときに、先代さまが記念に建てられたものなんだよ。おもりがおちる力で歯車を回す、『じゅーすい式』って方式で動いてるんだ！　領主さまのまほうの時計を見て、毎日めしつかいたちが時間をあわせてるから、とっても正確なの！</p><p>へぇ～そうなんだ</p><p>リリーは物知りだなぁ</p><p>ケイとアイリーンに口々に褒められて、リリーは えっへん と得意げだ。</p><p>モンタンの工房を訪ねた、翌日。</p><p>ケイたちはリリーに連れられて、サティナの街を歩き回っていた。</p><p>もちろん歩き回るといっても、ただ街を観光しているわけではない。リリーの案内で、モンタンと懇意にしている職人たちの所を訪ねて回っているのだ。ケイの背中には既に、先ほど防具屋で購入した、合金張りの薄い木製の盾が背負われている。矢を弾く程度には頑丈だが、それほど重くはなく、アイリーンにも使い易い優れた一品。モンタンの知り合いということで少し値引きして貰えた。</p><p>じゃー次は、コナーおじさんのとこに行くよー</p><p>コナーおじさんってのは、なんの職人なんだっけ？</p><p>かわー！</p><p>アイリーンの問いかけに、リリーが元気よく答える。</p><p>昨日は結局夜までモンタンの工房に入り浸り、夕食にまで招かれたケイとアイリーンであったが、ケイがモンタンと意気投合している間に、アイリーンはキスカ・リリー親子とすっかり仲良くなっていた。奥の部屋でお茶をご馳走になり、リリーと手毬や歌などで遊んだ後は、ちゃっかり裏庭を借りて一緒に水浴びまで済ませたらしい。その人懐っこさ、要領の良さには、ケイも恐れ入る。</p><p>ふんふんふん～ふんふんっとぅっとぅるとぅーかちゅーしゃー♪</p><p>アイリーンから教わったらしい、うろ覚えのロシア民謡を口ずさむリリー。モンタン譲りのくすんだ金色の髪は、昨日までは三つ編みのおさげにしていたが、水浴びのあとにアイリーンの真似をしてポニーテールに変えたそうだ。アイリーンの手を引いてトコトコと歩く姿は、顔のつくりこそ少々違うものの、まるで歳の離れた姉妹のようだ。 リリーはホント可愛いな～ と笑顔のアイリーン。</p><p>本来ならば、この案内役はモンタン本人がする予定だったのだが、今朝工房を訪ねたところ、貴族関連で急な仕事が入ったらしく、モンタンもキスカも準備にてんてこ舞いになっていた。</p><p>そこで、代わりとなったのがリリーだ。昨夜のうちにアイリーンを おねーちゃん と慕うようになっていたリリーは、快く案内役を引き受けてくれた。ついでとばかりに、張り切って街の見どころを紹介する親切心を、ケイとアイリーンは微笑ましげに見守っている。</p><p>つづいて、こちらが初代領主さま、『パトリック＝ハイメロス＝サティナ＝バウケット伯』の銅像でーす</p><p>おおー</p><p>街の広場、仁王立ちで空を指差す良い笑顔の男の銅像を見上げ、ケイとアイリーンは再び感嘆の声を上げてみせた。</p><p>サティナの観光は、今しばらく続く―。</p><p>それにしてもリリーは、随分と街の歴史に詳しいんだな</p><p>名所をあらかた見終わり、職人街の一角を歩きながら、感心した様子でケイは言った。</p><p>それはお世辞ではなく、本心からの言葉だ。リリーは、その年齢ゆえに言い回しこそ少々つたないものの、名所の解説には専門的な単語が頻繁に登場し、またその歴史的背景もよく理解しているようだった。両親がイギリス系でバイリンガルのアイリーンは、問題なくリリーの話を理解できているようだったが、後天的な英語話者であるケイには分からない語彙も多く、そのたびに十歳児に解説を頼む羽目になるのは何とも情けない気分だ。</p><p>アイリーンの手を引いて歩くリリーは、 ふふん と得意げな笑みで、</p><p>マクダネルせんせーの塾で、いっぱい勉強してるの！</p><p>マクダネル？</p><p>うん。コーンウェル商会で、『めきき』をしてる学者さん。歴史にとってもくわしいんだよ！</p><p>小首を傾げるケイに、意気揚々とリリー。コーンウェル商会といえば、昨夜の夕食時にも話題に挙がっていたが、確かモンタンの取引先の中でも最大手の商会のはずだ。</p><p>ほう。塾に通わせてもらってるのか</p><p>うん。一年くらい前に、パパの知り合いが、せんせーを紹介してくれたの。ママに読み書きは教わってたから、お話をしてみたら、『なかなか見どころがある』って、せんせーが。いまは、歴史と算数をやってるよ！　お友達もできたし……</p><p>と、そこで、楽しげだったリリーの顔が曇る。</p><p>でも、おかねもちの家の子は、ときどきパパのこと馬鹿にするから、あんまりすきじゃないな……</p><p>お父さんのこと馬鹿にするのかー。それは悪い子だな！</p><p>わしゃわしゃと、アイリーンが元気づけるように、リリーの頭を両手で撫で回した。くすぐったそうに身をよじらせたリリーが、お返しとばかりにアイリーンの脇腹に手を伸ばす。 あひゃひゃやめてッ脇腹は弱ッあはははっ！ と悶絶するアイリーンを、ケイは後ろから生温かい目で見守っていた。</p><p>……でも、『おおきくなったらお友達にはなれないから、今のうちに仲よくしときなさい』って、ママが言ってたー。だから、仲よくするの</p><p>偉いな！　それがいい</p><p>リリーは、大人だな……</p><p>えへへ、わたしおとなー！</p><p>そんなことを話しているうちに、職人街の東、目的の革工房に到着した。</p><p>コナーおじさーん！　お客さんだよー！</p><p>木の扉を開けながら、リリーが大きな声で呼びかける。革製品独特の湿った匂い。</p><p>薄暗い工房の奥で、革を太い針で縫いつけていた職人が、リリーの姿を認めてにっこりと微笑んだ。</p><p>おや、リリーか。今日も元気かー？</p><p>うん！　おじさんは？</p><p>元気いっぱいさ！</p><p>革を机に置き、ふんっ、と力こぶを作りながら登場したのは、五十代前半ほどの樽のような体形の男―革職人のコナーだ。革の前掛けを盛り上げて、でっぷりと突き出た腹は絵に描いたようなビール腹、白髪は両側の生え際が大幅に後退しており、それは俗に言う、Ｍ字禿げという奴だった。</p><p>それで、お客さんかね？</p><p>うん、パパがね、コナーおじさんに紹介して、って</p><p>ほうほう、なるほどな。いらっしゃい、お二人さん。モンタンの紹介とあっちゃぁ、無下にはできねえな</p><p>ニカッ、と野性味のある笑顔で、右手を差し出すコナー。そのゴツゴツとした職人の手を握り返しながら、 よろしく、ケイだ オレはアイリーン と簡単に挨拶を済ませる。</p><p>それで、用件は？</p><p>うむ、実はこの皮の加工をお願いしたいんだが―</p><p>と、ケイが持参していたミカヅキの皮を取り出したところで、ゴーン、ゴーンと時計台の鐘の音が響き渡る。 あっ と声を上げたリリーが、くいくいとアイリーンの服の袖を引っ張った。</p><p>おねーちゃん、おにーちゃん、ごめんね。わたし、そろそろおうちに帰る</p><p>そうなのか？</p><p>うん。午後から、せんせーの塾があるの。ごはんたべて用意しないと</p><p>そっかー</p><p>至極残念そうなアイリーンが、 おうちまで送ろうか？ と提案するも、リリーは首を横に振った。</p><p>だいじょーぶ、そんなに遠くないし。ひとりでも帰れるよ！</p><p>そっかー。わかった、気をつけてな！</p><p>うん！　コナーおじさん、おねーちゃんたちをよろしくね。おにーちゃんも、またねー！</p><p>リリーはポニーテールを揺らし、ぱたぱたと慌ただしげに走り去って行った。</p><p>……本当に大丈夫か？</p><p>旧市街ならともかく、ここらは衛兵(ガード)が多い。近所もみんな顔見知りだしな、悪いこたぁできねえよ</p><p>それでもまだ心配げなアイリーンに、肩をすくめながらコナー。心配しなさんな、と笑って肩を叩かれ、 そうか と渋々、アイリーンは納得の様子を見せる。</p><p>話の腰が折れたな、それで？</p><p>ああ、この皮なんだが、思い入れのある品でな……</p><p>その後、しばらくコナーと話し合った結果、ミカヅキの皮は非常に質が良いとのことで、ケイとアイリーンにそれぞれ一つずつの革財布を作ることとなった。</p><p>それで、どのくらいで出来る？</p><p>そうさな、……まあ余裕を見て四日ほど貰おうか</p><p>ケイから受け取った銅貨と小銀貨を、手の中で転がしながらコナーが答える。</p><p>四日か……思ったより長い。処理が不味かったか？</p><p>いや、処理は上等だが、なめしがまだ不十分だな。このままだと長持ちしねえぞ。せっかく質が良いんだし、大事な物なら時間をかけるべきじゃねえか？　まあ、どうしてもというなら早目に仕上げるが</p><p>どうする？　と問いかけるコナー。ケイがアイリーンを見やると、</p><p>……せっかくだし、時間かけてやって貰った方がいいんじゃねえの？</p><p>そうだな、俺もそう思う。……お願いしよう</p><p>任せな</p><p>それなら早速、と作業に戻ろうとするコナーを、ケイは ちょっと待ってくれ と呼び止める。</p><p>すまない、それともう一つ。実は今、手元に草原の民の武具一式が八人分あるんだが、買い取り先に心当たりはないだろうか？</p><p>八人分……ねえ。どうやって手に入れた？</p><p>……サティナに来る途中で襲われたから、返り討ちにして剥ぎ取った</p><p>正直なケイの回答に、コナーは眉を寄せて困った顔をした。</p><p>死人の、それも草原の民の武具か……。悪いが、好き好んで買う奴がいるとは思えねえな</p><p>……やっぱりダメか</p><p>ケイの表情も渋くなる。というのも、先ほど立ち寄った防具屋でも、買い取りを断られていたからだ。</p><p>昨夜の夕食後に、モンタンへ話を持ちかけた際も、その反応がイマイチだったので薄々感づいてはいたが。</p><p>需要がない。</p><p>人気がない。</p><p>草原の民の武具が、全くウケないのだ。</p><p>そもそも連中の武具は、質自体はそれほど良くねえからなぁ。湾刀は切れ味こそ良いが、刃が硬いせいで折れやすい。革鎧も、装飾は素晴らしいが、柔らかめに仕立ててあるせいで肝心の防御力が低い。</p><p>強いて言うなら、複合弓だな。あれは馬上でも扱い易いから、傭兵の中には、好んで使う奴もいるらしい。だがそういう物好きな連中は、大抵もう自前のを揃えてるからな……</p><p>鎧も武器も、売り捌くには厳しいか</p><p>だなぁ。特にこのところは、武具全般が値下がり気味でな。そこそこの物が新品で安く買えるってぇのに、わざわざ中古を使おうって奴は―</p><p>―いないだろう、な</p><p>半ば諦めの表情で、ケイはぼりぼりと頭をかきながら溜息をついた。</p><p>確かに剥ぎ取りのとき、質が微妙だとは思ったんだよな……自分が欲しくない物を、他人が欲しがる道理はない、か</p><p>違いねえ。辺境の村ならともかく、この街だとちょいと厳しいな。見習い職人の練習作やら、製作過程で傷が付いた失敗作やらがゴロゴロしてる。質が悪い中古品なんざ、売り物にならんよ</p><p>小さく溜息をついたコナーは、そこでふと遠い目をする。</p><p>実際のところ、厳しいんだよなぁこの界隈は。“戦役”のときは、特需で掃いて捨てるほどいた職人も、今じゃ随分と減っちまった。腕が二流で脱落した奴、見切りをつけて農民に戻った奴、安売り合戦で自滅して大借金こさえた奴―色々いるな</p><p>お手上げのポーズを取り、脇に吊り下げられていた革のマントをぽんぽんと叩いた。</p><p>かくいう俺も、近頃は日用品ばかりで、革鎧なんざ長らく仕立ててねえ。せいぜい傭兵の常連客が、たまに修繕や手入れのために、自前の鎧を持ち込むくらいのもんよ。適当に武器防具を作ってりゃ、気楽に食っていけたのは、もう遠い昔の話さ</p><p>今は、不景気なのか</p><p>不景気というより、平和なんだよ。単純に、武具を買う必要がねえ。戦役が終わってからしばらくは、ボロ装備の更新のためにまだ売れていたんだが、今は、なぁ……。</p><p>使わないから壊れない、壊れないから替えが要らない、替えが要らないから新しい物は買わない……ま、当然の流れだわな</p><p>成る程</p><p>でも、全く売れないってわけでもないんだろ？</p><p>工房の隅、マネキンに着せられた小奇麗な革鎧一式を指差して、アイリーンが横から口を挟む。</p><p>んー、そうだなぁ嬢ちゃん。売れるには売れるが、それだけで食っていくには辛い、ってとこか。俺は独り身だからまだ何とかなるが、最近はどこも副業で何かしら別の物を作ってるよ。俺しかり、モンタンしかり……まあモンタンは本業でもかなり儲けてるから別格だが</p><p>やはり彼は、かなり上手くやってる方なんだな</p><p>ああ、そりゃあもう！　戦役が終わったあとに、本業で売り上げを伸ばしたのは多分アイツだけだろうさ</p><p>おどけたような笑みで肩をすくめたコナーが、前掛けのポケットから取り出したパイプを口にくわえる。</p><p>……っふー。元々、単価の低い矢は、安くしようにも限界があるからな。周りの職人が借金こさえてまで、安かろう悪かろうの値下げ合戦をする中で、アイツだけが質を高めて高級路線に切り替えたのさ。お蔭で貴族やら大商人やら、金払いの良い固定客を捕まえられたってわけだ。</p><p>モンタンが成功したと聞いて、後追いで値段を上げる奴らもいたが、質が伴わないことには意味がねえ。腕のいいほんの数人は生き残ったが、他はすぐに消えていった。周りの流れに逆らう胆力、需要を見抜く先見の明、上客を満足させるだけの腕前……全く、アイツは大した奴だと思うよ</p><p>ランプの火をパイプに移し、ぷかぷかと煙を吐き出しながら、コナーは腰をさすって椅子に座り込んだ。</p><p>あーいてて……この歳になるとガタがきていけねえ</p><p>ああ、すまないな。長話に付き合わせてしまって</p><p>ははっ、俺が勝手に喋ってただけさ、気にすんな</p><p>申し訳なさそうな顔のケイに、手をひらひらとさせるコナー。</p><p>まあ話が逸れたが、悪いな、そういうわけで俺には武具の買い取りはできねえや</p><p>そうか……残念だが、詳しい話を聞けて良かったよ。それじゃあそろそろ―</p><p>あ、いや、ちょっと待て。俺のところでは無理だが、捨て値になってもいいなら、処分出来る場所は知ってるぞ</p><p>炭の欠片を手に取り、コナーが紙切れに何かを書きつける。</p><p>ほら、これが住所だ。旧市街の北、ブノワ通りの5番、ちょうどスラムとの出入り口あたりだな。</p><p>ここに廃品回収屋がある。殆ど金にはならねえが、捨てるよりはマシだと思うぞ。ちょいとばかしガラの悪い場所だが、まあ兄ちゃんなら大丈夫だろ。一応武装はしておいた方がいい、ここらほど衛兵が多くねえからな</p><p>ブノワ通り……旧市街の北、だな？　あとで行ってみよう、ありがとう</p><p>なぁに、いいってことよ。それくらいしか出来なくてすまんな</p><p>コナーから紙切れを受け取って、 それではまた、四日後に と、ケイたちは工房を後にした。</p><p>†††</p><p>夕焼けに染まる街。</p><p>城壁に日光を遮られ、薄暗くなった表通りを、幼い少女は早足で進む。</p><p>（今日はちょっと遅くなっちゃった……）</p><p>塾帰り。アイリーンを真似たポニーテールをぴょこぴょこと揺らし、道をうろつく酔っ払いや傭兵の姿に不安げな顔をしながら、リリーは家路を急いでいた。</p><p>ただいまー</p><p>裏口の扉を開けて居間に入る。するとそこには、明かりもつけずに、ぐったりとテーブルに突っ伏す両親の姿があった。</p><p>おかえり、リリー……</p><p>今日は遅かったのね……</p><p>薄暗い家の中、生気のない二人の声が響く。</p><p>今日は歴史だったから、マクダネルせんせーの『わるいくせ』が出たの</p><p>ああ、だから遅くなったのか。あの人の歴史好きは大概だからね……</p><p>アナタは人のこと言えないでしょ</p><p>パパとママは、どうだったの？</p><p>リリーの問いかけに、モンタンとキスカは疲れ切った笑みを浮かべた。</p><p>大変だった……まったく、在庫が20本しかないのに、30本も装飾矢を納入なんて無茶な話だよ。装飾をたった一日で10本も仕上げたのは、生まれて初めてだな……</p><p>何とか間に合ってホントに良かったわ。ビューロー家は大得意様だし……</p><p>でも次からは、せめて二日は余裕見てもらいたいよね。心臓に悪い……</p><p>パパもママもおつかれさま！</p><p>死人のように脱力しきった二人に、リリーは努めて明るい声をかける。</p><p>あー。ほんとに疲れたわー、こんなに働いたのいつぶりかしら……。あら、もうすっかり暗くなっちゃったのね。リリーごめんね、今からママご飯の用意するから。もうちょっと待っててね</p><p>いやキスカ、しなくていいよ。今日は久々に、みんなで外に食べに行こう</p><p>ぱんぱん、と服に付いた木屑をはたき落としながら、表情を明るくしたモンタンが椅子から立ち上がった。</p><p>せっかくだから豪勢に、『ミランダ』なんてどうだい？</p><p>えっ、パパほんと！？</p><p>アナタ、いいの！？</p><p>モンタンの提案に、驚いたリリーとキスカの言葉が重なる。</p><p>レストラン『ミランダ』といえば、サティナの街では五本指に入る最高級の店だ。庶民が出入りできる店、と限定すれば、街で一番のレストランと言ってもいい。シェフの腕前は掛け値なしの一級、その味は貴族の舌をも唸らせ、現にサティナの領主の係累も、お忍びで度々訪れていると専らの噂だ。</p><p>そして当然のように、『ミランダ』の料理は、庶民からすれば目玉が飛び出るほどに高い。</p><p>しかしモンタンは、妻と娘を安心させるように、</p><p>ああ、構わないさ。今日の仕事でかなり稼げたし、昨日ケイさんが矢の試作品をあらかた買い取ってくれたからね。懐にはかなり余裕があるんだ</p><p>火打石でランプに火を灯しながら、ほくほく笑顔のモンタン。</p><p>……そうね、たまには贅沢もいいかもしれないわ</p><p>わーい、やったー！　パパありがとー！！</p><p>はっはっは、いやぁケイさんの腰のケースを見て、弓使いだとはすぐに分かったけど、あそこまで金払いが良い人だとは思わなかったなぁ。ホント、中まで入って貰って正解だったよ</p><p>ランプの仄かな明かりの中、モンタンは悪戯っ子のようにぺろりと舌を出して見せる。妻に故郷の話を聞かせてやってほしい、という建前でケイを工房に招いたものの、結局のところ、タアフ村の話など全くしていないのだ。</p><p>さあ、そうと決まればおめかししないとね！　流石にこんな格好でミランダには行けないよ</p><p>わたしも着替えてくるわ。もちろん、リリーもオシャレしないとね！</p><p>やったー、オシャレするー！</p><p>キャッキャと嬉しそうなリリーの姿に、先ほどの疲れも吹き飛んだ様子で、モンタンとキスカの足取りも軽い。</p><p>濡らした布で身体を拭き清め、髪型を整えるなどして身繕いし、モンタンは重要な取引で大商人相手に着る一張羅を、キスカは庶民でも分不相応にならない程度のシンプルなドレスで着飾る。リリーは可愛らしいエプロンドレスを着せてもらい、髪には赤いリボンをつけて大はしゃぎしていた。</p><p>それじゃあ二人とも、忘れ物はないね</p><p>ないわよ</p><p>だいじょうぶー！</p><p>ランプを片手に、懐へ銀貨の入った巾着を仕舞い、護身用の小刀を持ったモンタンが、厳重に家の扉に鍵をかける。</p><p>隣家の住人に出掛ける旨を伝え、留守の家に注意を払ってもらうよう頼み、モンタンたちは意気揚々と夕焼けに染まる道を歩き出した。</p><p>職人街から南、高級市街へと向かう。</p><p>さぁて、何を食べようかな</p><p>今日のメニューは何かしらね</p><p>わたし、ビーフシチューが食べたーい！</p><p>親子三人、リリーを真ん中にして手を繋ぎ、仲良く大通りを歩いていく。</p><p>先ほどまで寂しげに感じられた夕暮れの街が、一転、どこか優しげに微笑んでいるかのようだ。</p><p>滅多にない豪勢な食事に期待を膨らませ、弾むような足取りのリリー。</p><p>調子を合わせて自らもはしゃぎつつ、その姿を愛おしげに見守るキスカ。</p><p>そして、そんな愛する妻と娘に、慈しむような笑みを向けるモンタン。</p><p>―おだやかで、あたたかな家族の団らんが、そこにはあった。</p><p>その姿はきらきらと眩しく、微笑ましく。</p><p>日の暮れた、薄明かりの中にあってさえ。</p><p>まるで、本当に、輝いているかのようで。</p><p>それを。</p><p>大通りの、はるか彼方より。</p><p>呆然と。</p><p>あるいは、悄然と。</p><p>薄闇の中に身を置いて、じっとりと見つめる男の姿があった。</p><p>―ボリスだ。</p><p>…………</p><p>今しがた、寿命を削る思いで検問を突破したばかりの、懐に金属製のケースを潜めたボリスは、食い入るようにモンタンたちの後ろ姿を見つめていた。</p><p>ぎりぎりと。</p><p>軋み、響いたのは、何の音。</p><p>……くっ、</p><p>込み上げる言葉を呑み込んで。</p><p>ボリスはくるりと踵を返し、薄汚れた路地を走る。</p><p>ひた走る。</p><p>辿り着いたのは、裏町の寂れた小さな酒場。</p><p>……エール</p><p>いつものように、カウンターの席にどっかと腰を下ろし、ぶっきらぼうに注文した。</p><p>ごん、と目の前にジョッキが置かれるや否や、乱暴にそれをつかみ取って、ごくごくと不味いエールを飲み下した。</p><p>腹の奥底で。</p><p>ぐるぐると回る、煮え滾るように熱い。</p><p>燃えるような、どろどろとした何か。</p><p>―よう、兄弟。良い呑みっぷりだな</p><p>と、二杯目のエールを頼もうとしたところで、隣の席に痩せた男が腰を下ろす。</p><p>……あんたか</p><p>いつもの男だった。陰気な顔をしたボリスは、いつものように、カウンターの下で金属のケースを手渡す。</p><p>ハハッどうした、随分とシケた面じゃねえか</p><p>そう笑いつつ、男がすっとボリスの前に革袋を置いた。馴れ馴れしい様子の男を半ば無視するように、ボリスは黙って袋の中身を確認する。</p><p>いつもより軽い。中を見ると、鈍い銅と、僅かに銀の輝き。</p><p>！</p><p>だがよくよく確認すれば、それは銀貨ではなく、ただの小銀貨であった。</p><p>…………</p><p>やはり合計すると、銀貨一枚には、ギリギリ満たない。</p><p>そんな量。</p><p>どうした、それだけじゃ不満って顔だな？</p><p>耳元で、意地の悪い声。はっとして横を見やれば、痩せた男がニヤニヤと陰険な笑みを浮かべていた。</p><p>そっ、そんなことは、</p><p>誤魔化すようにエールのジョッキを手に取り、しかしすぐにそれが空であることに気付く。</p><p>……そんなことは、ねえよ……</p><p>俯いて、小さく呟いたボリスであったが、そのジョッキを握る手が、力のこもる余り白くなっているのを、隣の男は見逃さなかった。</p><p>ふっ、と薄い笑みを浮かべた男は、指先でとんとん、とカウンターを叩く。</p><p>ちゃりん、と銅貨が数枚、ボリスの前に置かれた。</p><p>―付いてきな、ボリス</p><p>そう、短く言って。男が席を立ち、酒場を出て行く。</p><p>呆気にとられた顔で、その背中を見送ったボリスは、固まったまま。</p><p>しかしすぐに、目の前の銅貨が酒代であることを察し。</p><p>そして、この『仕事』に携わって以来、初めて男から『名前』を呼ばれたことに気付き、ガタガタと慌ただしく席を立った。</p><p>遅いぜ、まさか俺が待たされるとは思ってなかった</p><p>酒場の外、壁に寄りかかるようにして、皮肉な笑みを浮かべる男。</p><p>す、すまねえ、ちょっとびっくりしちまって、う、動けなかったんだ。すまねえ、ほんとにすまねえ</p><p>……ふっ。まあいいさ</p><p>しどろもどろに謝るボリスに、鼻で笑った男は、 付いてきな と再び歩き出す。ボリスは黙って、その背中についていった。</p><p>…………</p><p>沈黙。ただ、カツカツと、靴の踵が石畳を打つ音だけが響く。</p><p>―本来、あの酒場は。</p><p>サティナの街の暗部、ならず者たちが集まって、互いで互いの声を打ち消し合い、聞かれると少々都合の悪い話をするために設けられた場所だ。</p><p>それを。</p><p>こうやって、さらに外へ連れ出されるということは。</p><p>…………</p><p>ボリスは、自分の胸の内に、恐れとも期待とも知れぬ、不思議な高揚感が広がっていくのを感じた。</p><p>……俺もさ、</p><p>歩きながら、前の男が唐突に口を開く。</p><p>昔は、『運び』をやってたんだ。今のお前みたいにな</p><p>そこで足を止め、街の片隅、暗い路地の一角で壁にもたれかかる。</p><p>だから、大体お前がどんなことを考えてんのかは、分かる。『銀貨一枚は安すぎないか？』『俺の命の値段はそんなものなのか？』……と、まあ、こんなところだろ</p><p>……っ</p><p>楽しむような、それでいて、どこか試すような口調に、ボリスは言葉を詰まらせた。</p><p>そしてその沈黙は―どこまでも雄弁な肯定。</p><p>……そう硬くなるなよ。別に責めてるわけじゃねえんだ</p><p>にやにやと。男が顔に張り付けた笑みは、相変わらず意地が悪い。しかしすぐにその笑みを引っ込めて、男は鋭い表情で言い放った。</p><p>はっきり言うが、ボリス。お前の命の値段は銀貨一枚以下だ</p><p>そのあんまりにもあんまりな言い様に、ボリスは言葉を失う。しかしそこで、 ただし、 と男は言葉を付け加えた。</p><p>―それには、『今のお前の』、という条件が付く</p><p>懐から金属製のケースを取り出し、ひらひらとそれを見せつけるように、振る。</p><p>これはな。お前がどう思ってるかは知らないが、マジで頭の中から理性を吹っ飛ばすような、ヤバい代物なんだ。そんじょそこらの組織がチマチマと運んでる、チンケな『粉』とは格が違う。―なんつったって、たったこれだけの量で、金貨一枚に届こうかって値が付くんだからよ</p><p>金……ッ！？</p><p>がこん、とボリスの顎が落ちた。全く、想像の埒外の高値。庶民ならば十年は食っていける額。金貨一枚、金貨いちまい、きんかいちまい、その言葉が脳髄に沁み渡り、自分がそれを運んでいたという事実に、今更のように背筋が震えた。</p><p>だが、お前の手取りは、銀貨一枚以下だ。なんでだか分かるか？</p><p>……わ、わからねえ</p><p>真っ直ぐに瞳を覗きこまれ、ボリスは熱に侵されたかのようにただ首を振った。</p><p>教えてやるよ。それはな、必ずしもお前である必要がなかったからだ。これを運ぶのがな</p><p>その言葉を、口の中で反芻する。反芻する間にも、男は言葉を続ける。</p><p>ボリス、お前は確かに、命を賭けてる。だがな、その『命を賭ける役』は、必ずしもお前である必要はないんだよ。命を賭ける、そいつぁ大したことだ。しかし覚悟さえあればガキでも出来るような仕事だ、違うか？</p><p>それよりももっと重要な仕事がある。例えば、衛兵を買収するのは誰だ？　運ばれたブツを安全に売り捌くのは誰だ？　さらに言うなら、そもそも『これ』を生産してるのは？　それをサティナまで運ぶのは？　全体の行程を管理するのは？　そもそもの資金を提供するのは？　……考え出したらきりがねえ。もしこれらを全部一人でこなせたら、ボリスよ、お前は金貨を独り占めできるぜ</p><p>……む、むりだ。そんな……そんなことを、独りでだなんて……</p><p>そう、無理だ。だから分担してやるしかない。そしてお前は、その末端、一番どーでもいい仕事をやってたんだよ</p><p>そんな……</p><p>男の容赦ない言葉に、怒りとも、哀しみとも、虚しさとも知れぬ感情が、込み上げて、胸の中で、ごちゃごちゃになっていく。</p><p>途方に暮れたように俯くボリス、それをよそにケースを懐にしまった男は、代わりに平たい金属製の酒瓶―スキットルを取り出し、蓋のコルクを抜いた。</p><p>きゅぽんっ、と小気味の良い音。酒瓶の中身を一口、口に含んだ男が、 お前もどうだ？ と差し出してくる。</p><p>渡されるままに、ボリスも瓶を傾けた。そして中の液体が舌に触れた瞬間、思わず目を見開く。</p><p>……美味い</p><p>ぽつりと。呟く言葉と共に、芳醇で、鼻の奥にすっと抜ける、甘いアルコールの香り。</p><p>久しく口にしていなかった、上等な酒の味。</p><p>ボリス。お前は今まで、糞つまらないどーでもいい仕事をやってきた</p><p>酒瓶を取り戻し、蓋を閉めた男が、</p><p>だが、それも今日で終わりだ</p><p>真っ直ぐに、ボリスを見つめる。</p><p>―組織は、この街から手を引くことを決定した</p><p>えっ！？</p><p>男の言葉に、ボリスはがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。</p><p>そっ、それは、ほっ本当に―</p><p>しっ、でかい声出すんじゃねえ馬鹿</p><p>顔をしかめる男に、慌てて口を押さえるボリス。</p><p>……いいか、よく聞け。正直、最近のサティナの警備は厳しすぎるんだ。買収やら何やらでどうにかやり繰りしてるがよ、はっきり言って割に合わねえんだわ、この街</p><p>……それは、たしかに、わかるが</p><p>―なら、自分はどうなるのだ。</p><p>まだ、借金の返済は終わっていない。自分の分け前に多少の不満はあったが、それでもこの仕事がなくなれば困る。</p><p>まるで足元の地面ががらがらと崩れ去っていくような、そんな感覚。</p><p>というわけでだ、ボリス。お前、うちに来い</p><p>しかし、続けざまに投げかけられた言葉に、ボリスの思考は完全に停止した。</p><p>……へ？　来いって、それはつまり……街を出ろと？　なんで？</p><p>理解が追いついた瞬間、頭をよぎったのは、喜びではなくむしろ当惑。なぜ自分が？　という、信じきれない、信用しきれない、そんな疑念を伴った黒い感情。</p><p>お前に見込みがある……というと、はっきり言ってかなり語弊がある。正直そこまで甘い話でもないんだが、</p><p>そう前置きして、男は肩をすくめた。</p><p>ボリスお前、気付いてねえのか。今回で10回目なんだよ、お前が仕事をこなすのは</p><p>……言われてみれば</p><p>今まで散々やらせといて何だが、この仕事は生存率が低い。実はお前以外にも運び人はいたんだが、何人かは捕まってな、</p><p>さっ、と親指で首を掻き切る動作。ボリスの顔から血の気が引いた。</p><p>まあそういうわけで、運にせよ実力にせよ、お前は栄えある10回目を生き延びたという実績があるわけだ。―これが理由の一つ。次に、そこに至るまで、仕事の秘密を保ち続けた―という信用が一つ。そして最後、これが一番重要なんだが、</p><p>にやり、と男は意地の悪い笑みを浮かべ、</p><p>『ウチ』のことを知ってる奴を、このまま生(・)か(・)し(・)て(・)放置なんざ出来ないんだわ</p><p>その言葉の意味を理解したとき―ボリスの顔は紙のように白くなった。</p><p>……提案、というより、命令か</p><p>拒否権はあるぜ？　酷く高くつくけどな、割に合わねえ話さ</p><p>しかし……俺には、借金が……</p><p>踏み倒しちまえ、そんなもん。今更なんでそんな真面目なんだよ</p><p>ボリスは黙って、頭の中で考えを巡らせる。</p><p>そもそも、ボリスがこの街を離れられなかったのは、持ち家があるという事実と、イマイチな矢作りの腕しかなかったのが原因だ。</p><p>借金を踏み倒して逃げようにも、中途半端な職人の腕前では、人脈のない見知らぬ街では生きていくことはできない。</p><p>……次の街でも、俺は運び人なのか</p><p>いいや。もうちっとまともな働き方をしてもらう。……具体的には、まあ俺の仕事の見習い、手伝い、雑用、そんなとこだな</p><p>簡単だろ、と笑う男。意地の悪い、しかし厭らしさはない笑み。</p><p>……ほ、本当か</p><p>10回も、薄氷を踏む思いで命を賭け続けてきたボリスからすれば、それは、</p><p>……信じられねえ、やりたい、俺はやりたいッ</p><p>まるで、天国のような話だった。</p><p>よし。……とはいえ、まだすぐの話じゃねえ。早くても一週間後くらいだ、それまでに諸々、身の回りの整理はしておきな</p><p>お、おう！</p><p>興奮に身体を震わせるボリスに、しかし、男は ああそうだ、 と思い出したかのように、</p><p>……忘れてたわ。もう一つだけ、簡単な仕事がある</p><p>…………</p><p>動きを止めて、胡散臭げな表情をするボリス。</p><p>いや、そんな顔するなって。『運び』に比べりゃカスみたいな仕事さ</p><p>……というと？</p><p>実はな。さるお方に納品する予定だった奴隷のガキがよ、この間死んじまったのよ</p><p>……奴隷？</p><p>薬関連ではなく、唐突に飛び出た『奴隷』という単語に、首を傾げるボリス。</p><p>ウチでは奴隷も扱ってんのさ。……もちろん、非合法のやつな。んでまあ、これが結構急な話でよ、納品するのに代わりの奴隷が必要なんだが、</p><p>んふぅ、と鼻で溜息をついた男は、そこで表情を曇らせる。この男の、貼り付けたような笑顔以外の表情は初めて見たな、とボリスはそんなとりとめのないことを考えた。</p><p>その『さるお方』ってのが、……早い話が、変態でよ。器量良しのメスガキじゃねえと、満足できねえタチなんだわ。器量良しの『女』なら幾らでもいるんだが、ガキは今手元になくてな……というわけで、今度スラムへ人狩りに行こうって話なんだが、お前も来るだろ？</p><p>まるで、ピクニックにでも誘うような、気軽な口調。</p><p>それは確かに―非合法ではあるが―麻薬の密輸に比べれば、『カスみたいな仕事』であった。</p><p>が、しかしその話を、ボリスは途中から、殆ど聞いていなかった。</p><p>頭の中に浮かんだのは、それは―</p><p>光り輝くような、幸せそうな、とある家族の―</p><p>…………</p><p>沈黙したままのボリスに、男はにやりと、意地の悪い笑みを、</p><p>どうしたボリス、そんな悪い顔して</p><p>……その、メスガキってぇのは、</p><p>昏い目は、どす黒く汚れ、濁っている。</p><p>メスガキってぇのは、スラムで探さなきゃならねえのか？</p><p>……薄汚れた物乞いのガキの顔を、イチイチ確認すんのは手間だからな。別にスラムには拘らねえぞ？</p><p>その返答に―笑みを一層濃くしたボリスは、 へ、へへ と、引きつったような声を上げた。</p><p>―心当たりがある</p><p>夜は、更けていく。</p><p>20. 誘拐</p><p>昼下がり。サティナの街の大通りは、多くの人々で賑わっていた。</p><p>馬の手綱を引いて、宿場を探す傭兵。</p><p>革の荷物袋を抱えた、身なりの良い商人。</p><p>浮浪者と思しき、汚い格好の子供。</p><p>黒い貫頭衣に身を包んだ、公益奴隷。</p><p>そんな雑踏をすり抜けるようにして、リリーはひとり、軽やかな足取りで塾へ向かう。</p><p>ケイたちの案内を務めた、その翌日のこと。</p><p>相変わらずアイリーンの真似で、髪型は今日もポニーテールだ。リリーが一歩を踏み出すたびに、頭の後ろで青いリボンが揺れる。</p><p>―おーい、リリー。元気かー？</p><p>と、その時。背後から聴こえてきたのは、野太い男の声。</p><p>思わず足を止めて振り返れば、そこにはぎこちなく笑みを浮かべるボリスがいた。</p><p>……おじちゃん</p><p>ぱちぱちとゆっくり目を瞬かせて、表情を曇らせるリリー。その声に滲む、微かな警戒と困惑の色。</p><empty-line/><p>“ボリスとは、あまりお話しちゃいけないよ”</p><p>悲しげなモンタンの顔と、その忠告が頭をよぎる。</p><p>よお。……こうやって直接会うのは、随分と久しぶりだな</p><p>はにかんだように頬をぽりぽりとかきながら、明後日の方向を見やるボリス。</p><p>その言葉通り、こうしてリリーとボリスが顔を合わせるのは、随分と久しぶりのことだった。リリーの記憶が正しければ、最後に口を利いたのはもう一年も前のことになるだろうか。ボリス本人は何度も家へ金を借りに来ているのだが、ここ最近リリーは昼間は塾に通っている。昔に比べるとお互いに、とんと会う機会が無くなってしまったのだ。</p><p>……どうしたの。おじちゃん</p><p>父親の忠告はあったが、さりとて目の前にいる人を無視するわけにもいかず、ボリスに向き直ったリリーは、上目遣いでスカートの裾をぎゅっと握った。</p><p>正直なところ。</p><p>リリーは今でも、ボリスのことを嫌ってはいない。</p><p>どうしても嫌いになれない、というべきだろうか。勿論リリーも、近頃のボリスは金の無心に来るばかりで、父親を困らせていることは知っている。</p><p>それでもリリーの心の奥底には。</p><p>ありし日の、『優しいボリスのおじちゃん』のイメージが、いまだに強く焼き付いて離れないのだ。</p><p>幼い頃、モンタンやキスカが共に仕事に忙殺され、リリーの面倒を見る余裕がなかったとき。</p><p>二人に代わって世話を焼いてくれたのが、他でもないボリスであった。</p><p>今よりも明るく、まだ真面目だった頃のボリス。幼いリリーの我がままに付きあって、よくお馬さんごっこやおままごとで遊んでくれた。近所のいじめっ子に泣かされたときは、自分のことのように怒ってくれたこともあった。ボリスの肩車に乗せられて、散歩した川沿いの遊歩道。夕日に照らされた道で、モンタンたちには内緒で買ってくれた蜂蜜飴の味。</p><p>そんな―セピア色に彩られた記憶。</p><p>身なりは汚く髪はぼさぼさで、目つきもすっかり悪くなってしまったボリスに、当時の面影はない。だが、だからこそリリーの幼心にも、 おじちゃんも大変なんだろうな という、おぼろげな同情心のようなものがあった。</p><p>いや、な。実はな</p><p>声をひそめたボリスは周囲の視線を気にするように、リリーの目線までしゃがみ込んで、懐から小さな革袋を取り出して見せる。</p><p>ちゃら、と。</p><p>金属の擦れ合う音。</p><p>実はな―モンタンにそろそろ、お金を返しに行こうと思うんだ</p><p>えっ、ホントっ！？</p><p>ボリスの言葉に、リリーの表情がぱっと明るくなった。</p><p>ああ。実は最近、ようやく仕事が上手く行きそうなんだよ</p><p>わあ、すごいすごい！　良かったね、おじちゃん！</p><p>ありがとうよ。今までは、モンタンに世話になりっ放しだったからな……そろそろ、恩を返さないと</p><p>革袋を懐に仕舞いつつ―ニィッ、と笑う。</p><p>きっと、パパも喜ぶよ！　……おじちゃんは、何のおしごとをしてるの？</p><p>ははっ……、それはヒミツさ</p><p>ぱちりとウィンクをしたボリスは、 ところで、 とリリーを見下ろした。</p><p>リリーはこれから何処に行くんだい？</p><p>わたしは、今から塾にいくの！</p><p>塾か。リリーはお勉強頑張ってるんだな。……しかしその塾ってぇのは、どこでやってるんだい？</p><p>高級市街の、コーンウェルさんのお屋敷だよ！</p><p>なるほどねえ。それで、夕方くらいまでお勉強なんだろう？</p><p>うん！　だいたい、夕方の四時くらいにはおわるけど</p><p>へえ！　そいつぁ凄い、俺だったらそんなに長い間、机に座ってじっとしてられねえや。……いつも塾には、一人で行ってるのかい？</p><p>うん。最初の頃は、パパかママが送ってくれてたけど、わたしはもうおとなだから、一人で大丈夫なの！</p><p>ははっ、偉いなぁ。リリーもすっかり大きくなったんだな！</p><p>えっへんと胸を張るリリーに、すっと目を細めるボリス。</p><p>よし、それじゃ頑張っているリリーに、</p><p>ごそごそとズボンのポケットを探り、 ほら、 とボリスが右手を差し出した。</p><p>ご褒美を上げよう。飴ちゃんだよ</p><p>わあー、おじちゃんありがとう！</p><p>小さな飴玉の包み紙を受け取り、飛び跳ねて喜ぶリリー。</p><p>さぁて、というわけで、俺はそろそろ行くよ。リリーもお勉強頑張ってな</p><p>うん！　おじちゃんも、おしごと頑張ってね！</p><p>ああ―</p><p>背を向けて歩き出していたボリスは、にっこりと振り返った。</p><p>―頑張るよ。それじゃあ、またな</p><p>またねー！！</p><p>雑踏に消えるボリスの背中を見送って、リリーも意気揚々と塾へ向かう。</p><p>歩きながら、飴玉の包み紙を開けた。琥珀色の、丸い飴玉。さっそく口の中に放り込むと、蜂蜜の芳醇な香りとまろやかな甘みが、いっぱいに広がった。</p><p>……ふふっ</p><p>飴を舌の上で転がしながら、リリーは楽しそうに微笑む。元々軽やかだった足取りが、今ではまるでスキップのようだ。</p><p>嬉しかった。</p><p>ボリスがまた、昔のように戻ったことが。</p><p>（これでパパも、おじちゃんのこと見直すかな）</p><p>まるで自分のことのように、誇らしくて。</p><p>リリーは信じていた。</p><p>再び、ボリスとモンタンが仲良く出来る日が来る、と。</p><p>全てが幸せな方向へ向かっていると―</p><p>その時リリーは、信じていたのだ。</p><p>†††</p><p>高い！　銀貨30枚はぼったくりだろ！？</p><p>いーや、これ以上びた一文負からねえ！！</p><p>サティナ北東部の川沿い、街の外の船着き場にて、ケイは船頭と言い争っていた。</p><p>下流の町”ユーリア”までだぞ！　ウルヴァーンまでなら兎も角、川の流れに乗っていくだけなのに何でこんなに高いんだ！</p><p>バッキャロー！　馬四頭も乗っけたら、どんだけ場所取ると思ってんだ！！　こちとら乗せる品物は山ほどあんだよ、貰うもんは貰わねーと採算が合わねえ！！</p><p>だからって銀30は吹っ掛けすぎだろ！　なんだ、アンタらは金銀財宝でも運ぶつもりなのか！？</p><p>そんな割の良いもん運びたくても運べねーよ！！　普通に資材やら家具やら積んでりゃ、銀30くらいすぐにならぁ！！</p><p>口角泡を飛ばす勢いで、額を突き合わせ騒ぎ立てる二人。ケイに胡乱な視線を向けつつ船に資材を積み込みこんでいく船乗りたち、 あーあー という顔でオロオロと見守るアイリーン。</p><p>あーわかった！　もう結構だ！　悪いが他を当たらせてもらうッ！</p><p>こちとらテメェみたいなのは願い下げだ！　とっとと行った行ったァッ！</p><p>しばらくして、交渉決裂というよりもケンカ別れに終わったケイは、シッシッと手を振る船頭に背を向けて、のしのしと歩き出す。</p><p>クソッ不愉快だッ、どいつもこいつも吹っ掛けてきやがる！</p><p>足元見てるよなぁ、これで三人目か……</p><p>肩を怒らせるケイの横、アイリーンが小さく溜息をついた。</p><p>ことの発端は、『ウルヴァーンには船でも行ける』という情報だった。</p><p>昨日、旧市街で武具を叩き売ったあと、ケイたちはウルヴァーンへ向かう隊商に合流すべく、護衛の仕事を探すことにした。</p><p>タアフからの道中で草原の民の襲撃を受けたことで、このまま二人旅を続けるのは危険だと判断したためだ。隊商やその護衛の戦士たちと共に移動すれば、襲撃される可能性をぐっと減らすことができる。</p><p>しかし。</p><p>結論から言えば、ケイたちは護衛の仕事はおろか、被護衛対象として金を払ってすら、隊商に加えてもらうことができなかった。</p><p>何故か。</p><p>それはひとえに、ケイたちの『信用の無さ』が原因だ。</p><p>基本的に冒険者ギルドや魔術的な何かによる、気軽な身分証明の存在しないこの世界では、業種に関わらず仕事とは人に頼んで紹介してもらうものだ。ゲーム内では、簡単な頼みごとをしてくるNPCの仕事を何度かこなし、その信用度を上げていくことで、護衛などの難易度の高い仕事が解放される仕組みとなっていた。</p><p>そしてこちらの世界に転移してから四日、当たり前だが異邦人(エトランジェ)であるケイたちに後ろ盾は存在しない。サティナに限れば、矢職人のモンタンは『顔見知り』ではあるが、あくまで顧客と店主の間柄に過ぎず、彼がケイの人となりを保証することはないだろう。</p><p>よって、素性も明らかではなく、保証人もおらず、ケイは草原の民のような顔つきで、アイリーンに至っては粗暴な性質で知られる『雪原の民』訛りの英語を話すとなれば、仲間に加えたくないと思われても仕方のないことだった。なまじ、ケイがぱっと見で屈強な戦士と判るだけにタチが悪い。仮にケイがならず者だった場合、獅子身中の虫どころの騒ぎではなくなるからだ。</p><p>それでも豪商の一人は、ウルヴァーンまでの道中、アイリーンを『貸す』ことを条件にケイたちを受け入れることを提案したが、当然のようにその話は蹴った。そして結局、合流する隊商が見つからずに、途方に暮れていたところで聞きつけたのが、『陸路ではなく水路でもウルヴァーンには行ける』という情報だった。</p><p>サティナは”モルラ川”に面した都市であり、そのため下流―北への河川舟運が盛んに行われている。それに便乗して川を下れば、陸路よりも遥かに速く、そして安全に移動できるのだ。</p><p>しかしスピーディに川を『下れる』のは、ウルヴァーンとサティナの中間に位置する”シュナペイア湖”までの話。そこから北上するには、今度はウルヴァーンの側から流れてくる”アリア川”を遡上していかなければならない。</p><p>ウルヴァーンもまた、サティナと同様、高地に位置する都市なのだ。</p><p>基本的に風力と人力で川の流れに逆らうことになるので、川を遡上するのはお世辞にも速いとは言えない。よって、シュナペイア湖の町ユーリアからは、陸路に切り替えなければならないが―それでも陸路を半分に短縮できるならば、それに越したことはないとケイは考えていた。</p><p>考えていたのだが。</p><p>そこで立ちふさがったのが、まさかの『運賃』の問題であった。</p><p>こちらが大所帯とはいえ、銀貨30枚は舐めてるよなぁ</p><p>……全くだ</p><p>頭の後ろで手を組んで、ぼやくようにアイリーンが言う。その隣を歩くケイの言葉には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。</p><p>先ほどから、船着き場の船主たちに何度も交渉しているのだが、ケイたちはことごとく運賃を吹っ掛けられている。銀貨30枚などというのはまだ生温い方で、銀貨50枚、果ては金貨に近い額を要求してくる者まで、様々だ。</p><p>銀貨30枚前後が相場―ということは流石にあるまい、とケイは考える。今のケイたちにならば払えない額ではないが、そもそも銀貨30枚といえば、庶民の成人男子の三年分の食費に等しい。先ほどの船頭は、普通に荷を運べばそれくらいにはなると豪語していたが、家具やら資材やらを運ぶだけでそんなに稼げるはずがない。</p><p>業突く張りなのか、よそ者には意地悪なのか、あるいは単純に面倒で船に乗せたくないだけなのか―いずれにせよ、世知辛い話だ。</p><p>その後も手当たり次第に船頭へ声をかけて回ったが、結局銀貨30枚を下回る額は提示されることなく、ケイたちは徒労感に苛まれながら宿屋に戻ることとなった。</p><p>ああ……なんだか、無駄に疲れた</p><p>だなー</p><p>二人して、うだーっとそれぞれのベッドに身を横たえる。出掛ける前にたらふく昼食を詰め込んだのが、ちょうど消化の時間と重なったのか、眠気が酷い。</p><p>…………</p><p>しばし、ぼーっと天井を眺めるだけの沈黙が続く。しんしんと降り積もっていく、弛緩した無気力感。</p><p>……なあ、ケイ</p><p>ぽつりと、アイリーンがケイを呼んだ。</p><p>うん？</p><p>ウルヴァーンに、行ってさ。……そのあとケイは、どうするつもりなんだ？</p><p>ちらりと横を見ると、向こう側のベッドで、寝返りを打ったアイリーンがじっとこちらを見つめていた。</p><p>そう、だな……</p><p>天井に視線を戻したケイは、小さく呟いて、ぼんやりと考えを巡らせる。</p><p>要塞都市ウルヴァーン。別名、『公都』。</p><p>領主エイリアル＝クラウゼ＝ウルヴァーン＝アクランド公が居城を構える巨大都市にして、北の異民族に睨みを利かせるリレイル地方の最前線。城郭都市サティナや港湾都市キテネなど、幾つかの大都市を従えアクランド連合公国を形成する―</p><p>昨日、聞き込みで収集した情報だ。</p><p>……まずは、ウルヴァーンにあるらしい『公都図書館』とやらに行ってみようか。利用料はかなり割高って話だが、一般人にも開放されているようだし、こちらの歴史や伝承を調べてみたいと思う。なぜ俺たちがこの世界に来たのか、何か、手がかりがつかめるかも知れないからな</p><p>『ここ』が異世界であるのは良いとしても、この世界に転移した原因はいまだ謎のままだ。ゲーム内で濃霧の中に突入した後、そこで何が起きたのか―ケイもアイリーンも一切憶えていない。</p><p>このまま何も分からずじまいなのは、どうにも気持ちが悪かった。</p><p>何者かがケイたちを召喚したのか。</p><p>あるいはその他の『何か』に起因する超常現象なのか。</p><p>せめて原因が何であるか、見当くらいはつけておきたいというのが、ケイの考えだ。</p><p>それで……それを調べて、どうするんだ？</p><p>……うぅむ</p><p>続けざまのアイリーンの問いかけに、 痛いところを突かれた と言わんばかりに唸ったケイは、自分もごろりと寝返りを打って青い瞳を見つめ返す。</p><p>正直なところ、その後どうするかは、……決めてない。今さら何言ってんだ、と思うかもしれないが、俺もまだ混乱してるんだ</p><p>様子を窺う。真摯な表情を変えないアイリーンに、ケイは言葉を続けた。</p><p>元々、『少しでも長生きして、一秒でも長くゲームを楽しむ』くらいにしか、考えてなかったからな俺は……</p><p>ケイにとって、 DEMONDAL は、もはや生きる目的だった。</p><p>この三年間は、ゲームが人生だった、とさえ言ってもいい。</p><p>それが突如として現実化したことで―生きる目的が何なのか、分からなくなってしまったのだ。</p><p>だから、思いつかない。思い描けない。これからの自分の将来が……</p><p>うん……オレも、同じだな。どうすればいいのか、分かんないんだ。自分が、どうしたいのかも……</p><p>茫然たる表情で、アイリーンが呟く。</p><p>……難しいな</p><p>視線を逸らし、ベッドから起き上がったケイは、窓に寄りかかって商店街の雑踏に目を落とす。</p><p>今日は良い天気だ。</p><p>店主と値引き交渉を白熱させる旅人に、飾られた織物をじっくりと値踏みする商人。果物の入った籠を背負って早足で歩いていく農民、その間をすり抜けるようにして走り回る子供たち。</p><p>と、一人の小さな男の子が石畳に蹴躓き、膝を擦りむいて大声で泣き出した。わらわらとその周囲に子らが集まり、通りがかった大人に慰められ、男の子はぐずりながらも友達に手を引かれて、そのまま歩き去っていく。</p><p>なあ、ケイ。ケイは、帰ろうとは……思わないよな</p><p>背後から、遠慮がちに投げかけられたアイリーンの声。</p><p>……思わないな。例え元の世界に帰れるとしても、俺はこっちで生きるよ</p><p>そっか……そうだよな……</p><p>ケイが振り返ると、アイリーンはうつ伏せになってぐりぐりと枕に顔をうずめていた。</p><p>……アイリーンは、どう思う？</p><p>オレか。……オレは、どうだろうな</p><p>しばし、動きを止めるアイリーン。</p><p>数秒ほどで、バッと顔を上げて、</p><p>わかんない！</p><p>わかんないか</p><p>うん。……オレも、ケイほどじゃないけどさ、特にリアルが充実してたってわけでもないし</p><p>一瞬、ふっと遠くなる視線。</p><p>そう言われてはたと気づく、アイリーン―もといアンドレイも、ほぼ丸一日ログインし続けるような、立派な廃人だったことに。</p><p>麗しく、まだ若いこの少女もまた、仮想世界へ引き籠るに至る『何か』を抱え込んでいたのだとすれば―</p><p>―そうか</p><p>ケイは小さく肩をすくめ、おどけるような笑みを浮かべた。アイリーンにもきっと、色々あるのだろう。ケイのように こちらで生きる と即答しない分、まだ悩む余地はあるのだろうが、それでも本人が話さないなら、敢えて聞き出す必要もないとケイは思う。</p><p>まあ、何も急いで結論を出すことはない。俺はどちらかというと、選択の余地がないだけだからな……</p><p>……そうだな。何も今、答えを出さなくてもいいわけか。そもそも、帰れるかどうかも分かんないわけだしな！　よし！　保留保留！</p><p>上体を起こし、腕を組んでうんうんと頷くアイリーン。無理やりテンションを切り替えている感はあるが、言っていること自体は至極正しい。帰る帰らないの前に、そもそもどうやってこの世界に来たのかすら分かっていないのだ。</p><p>それに―</p><p>（……俺たちの肉体は、今どうなってるのか）</p><p>果たして自分は生きているのだろうか―と。</p><p>そんな疑問も浮かんだが、口には出さなかった。</p><p>よし！　そうと決まれば、ダラダラしてても仕方がないな！　ケイ、オレに提案があるぜ！</p><p>アイリーンがバッと挙手する。</p><p>ん、何だ？</p><p>とりあえず馬二頭くらい売り払おうぜ！　二人旅で四頭は多すぎる。船主が吹っ掛けてきてたのは確かだろうけど、馬が場所とるってのも正論だと思うんだ</p><p>……そうだな。四頭いると維持費も馬鹿にならないし、ここで売るってのもアリだろう。ただ問題は……</p><p>渋い顔で、ケイは部屋の中を見回した。贅沢にも二人で使う四人部屋。草原の民の武具を全て処分したため、かなりすっきりと広く見える。が、モンタンの矢にそれを収める大型の矢筒が幾つか、野宿を想定した小さな鍋に三脚、毛布やテントなど細々とした生活雑貨も新たに買い足したため、依然として所持品は多い。</p><p>馬二頭でこれ全部運ぶのか……</p><p>う、う～ん。何とかなるだろ？</p><p>いや、そりゃ何とかはなると思うんだが</p><p>問題は、その配分だ。</p><p>こうして改めて冷静になって見てみると―荷物の大部分を、矢と矢筒が占めていることに気付く。</p><p>気付かされる。</p><p>…………</p><p>乾いた笑みを浮かべ、壁際の数本の矢筒を見つめるケイ。それを察したアイリーンが よっ とベッドから起き上がり、矢を物色し始めた。</p><p>矢筒から抜き出したのは、カラフルな彩色の一本―メロディが変わるという売り文句の鏑矢だ。日の光にかざすように、手の中で弄んでいたアイリーンはボソリと一言、</p><p>……コレ、何の役に立つんだろ</p><p>……何かしらの役に立つだろ</p><p>目を逸らしつつ、答えるケイ。</p><p>そうか？</p><p>も、勿論。例えば……ほら、その、アレだ</p><p>言葉を探す。</p><p>……合図とか</p><p>いつ誰に使うんだよ</p><p>ぺしっ、とアイリーンのツッコミが脇腹に入る。</p><p>いや、それ以外にもだな。例えば……ほら、敵の注意を引きつけたりとか！　野獣相手とかだと効果的だと思うぞ、一応攻撃にも使えるし……とは思うが、それなら最初から普通の矢の方が……うん……</p><p>何やら軟体動物のように手を動かしつつ、フォローしようとして自滅の方向へ向かうケイに、曖昧な笑みを浮かべたアイリーンは最早何も言わなかった。</p><p>と、その時、</p><p>―ん</p><p>突然、首筋にピリッとした鋭い感覚が走り、弾かれたようにケイは振り返る。</p><p>……</p><p>どうした、ケイ？</p><p>……いや、</p><p>気のせいだろうか。何か、視線のようなものを感じたのだが。</p><p>窓から顔を出して外を見回すも、特に変わったものは見受けられなかった。ただ、向かいの屋根にいた鴉が一羽、ガァッと一声鳴いて飛び去っていく。</p><p>なんか見られた気がしたんだが</p><p>気のせいだろ。ってかケイ、何だよこの矢！　一体どんな使い方するんだコレ</p><p>訝しげなケイをよそに、アイリーンが次に取り出したのは、やたらとゴテゴテした機械仕掛けの矢だった。その先端には矢じりの代わりに、金属製のケースのようなものが取り付けられている。</p><p>ああ、それか！　それはモンタン氏の自信作だ。なんとたった一本で、多数の敵を制圧できるという代物さ</p><p>……どうやって？</p><p>うむ。実はその先端のカートリッジには、びっしりと小さなダーツが入っているんだ。ワイヤーとバネ仕掛けで、ダーツが前方へ放射状にばら撒かれる、という仕組みさ。早い話が散弾だな。仕掛けが作動する距離は、５ｍから１５ｍまで、このツマミで調整できるようになっているらしい</p><p>へ、へえ</p><p>したり顔でとくとくと解説するケイに、若干気押されたかのようなアイリーン。</p><p>……ただ、ダーツという特性上、貫通力に限界がある。相手が盾を持ってたり、革防具より硬い鎧を装備してたら、ほとんど効果がなくなるのが玉にきず……</p><p>何だよそれ全然ダメじゃん！！</p><p>ビシィッ、と突っ込みが脇腹に入る。</p><p>やっぱりコレ微妙じゃーん返品しようよーケイー</p><p>いっいやっ、あれだけ気前よく大人買いした手前、そういうわけにもだな……</p><p>目を泳がせるケイに、面白がったアイリーンがずいずいと攻勢に出る。</p><p>別にいいじゃん返品しちゃえばー！</p><p>しかしそれだとモンタン氏に悪い気が……</p><p>気にしないって！　向こうも商売なんだからさ！</p><p>う、うーむ</p><p>使えないなら意味ないし、『冷静に考えたらやっぱりいらなかった』って言えばいいじゃん？</p><p>そ、それもどうかな……</p><p>矢の実用性の有無、返品の是非を巡って、二人して騒々しく話し合う。</p><p>そうこうしている間に、先ほど感じた違和感のことなどは、すっかり忘れ去っていた。</p><p>†††</p><p>そして、日が暮れ始める頃。</p><p>夕食を食べつつ話し合った結果、明らかに役に立ちそうにない幾つかの矢は返品することになり、ケイたちは再びモンタンの工房へと向かった。</p><p>うぅむ……やはり申し訳ないな……</p><p>だいじょーぶだって、気にすんなよケイー</p><p>モンタンの工房に近づくにつれ、気まずさが募って足取りが重くなるケイに、全く気にする様子を見せないアイリーン。遠慮や思いやりの気持ち云々というよりも、国民性の違いが如実に表れている。</p><p>そんな中、大通りを歩いている際に、ケイはふと店じまいを始めつつある青果の露天商に目を止めた。</p><p>そうだ、手土産の一つでも……</p><p>……だから、気にし過ぎだっつの</p><p>どこまでも弱気なケイに、思わず苦笑するアイリーン。とは言いつつも、二人揃って露店を物色し、アイリーン曰くリリーの好物だという熟れたサクランボをどっさりと買いこんで、それを手土産にすることにした。</p><p>工房に着く。</p><p>日が沈みかけ、暗くなりつつあるというのに、モンタンの家には明かりも付いておらず、どこかひっそりとした雰囲気だった。</p><p>失礼する、俺だ、ケイだ</p><p>こんこん、と表の扉をノックするも、暗い工房の中から返事はない。</p><p>……留守っぽい？</p><p>分からん</p><p>首を捻りつつドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。</p><p>……モンタンー？　いるかー？</p><p>遠慮がちに、ドアを開けて工房の中に入る。すると奥の部屋の方でガタガタッと音が響き、モンタンがふらふらと姿を現した。</p><p>ケイさん。すいません気付きませんで……</p><p>……お二人さん共、いらっしゃい……</p><p>モンタンに続いて、キスカも奥から顔を出す。二人とも、顔色が優れない。どこかやつれたような、憔悴したような、そんな表情だった。</p><p>ああ……すまない、何かお取り込み中だっただろうか</p><p>二人の様子からただならぬ雰囲気を感じ取り、たじろぎながらもケイが尋ねると、</p><p>いえ！　そんな……そんなことは、無いです。お気になさらず</p><p>強い語調で、モンタンが否定する。</p><p>……して、ご用件は？</p><p>有無を言わさぬ口調、というべきか、それ以上の追及を許さぬ確固たる態度で、極めて事務的にモンタンは言葉を続けた。</p><p>うむ……いや、言い辛いんだが、実は、昨日帰ってからよく考えた結果な……</p><p>腰から大型の矢筒を取り外しながら、ケイが要件を切り出すにつれ、モンタンの表情が険しくなっていく。何とも言えない気まずさを感じながら、ケイは話を進めていた。</p><p>あの、キスカ</p><p>そんなケイをよそに、さくらんぼの入った紙袋を手に、アイリーンがキスカに話しかける。</p><p>ええアイリーン。どうしたの</p><p>これ。さくらんぼなんだけど</p><p>顔色の悪いキスカを気遣うように、そっと袋を差し出した。ぼんやりと夢遊病者のような動きでそれを受け取るキスカ。</p><p>ちょうど、美味しそうなのが、露天商で売ってたんだ。みんなで食べるといいと思って……ほら、たしかリリーの好物だったよな？</p><p>手の中の袋を見つめていたキスカが、その言葉に、はっと顔を上げる。</p><p>……そういえば、リリーは、いないのか？</p><p>ふと思いついたように。アイリーンのそれは、外の暗さを鑑みての、何気ない質問だった。</p><p>…………</p><p>しかし、顔面を蒼白にして唇をわななかせたキスカは、腰が抜けたようにへなへなと、その場に座り込んでしまう。</p><p>うっ……、ぐっ……</p><p>え？　えっ？</p><p>紙袋を胸に抱え、ぽろぽろと瞳から涙をこぼし始めたキスカに、ぎょっとして硬直するアイリーン。</p><p>キスカッ</p><p>妻が泣き出してしまったことに気付き、気遣うようにモンタンが駆け寄る。モンタンに背中を撫でられ、キスカは紙袋を抱えたまま、おいおいと声を上げて泣き始めた。</p><p>……何か、あったのか</p><p>…………</p><p>恐れ慄くようなアイリーンの問いかけに、しかし、モンタンは黙して俯いたまま、何も答えない。</p><p>リッ、リリーが、リリーが……、</p><p>泣きじゃくりながらキスカ、</p><p>……リリーが、拐われたんです……</p><p>アイリーンがはっと息を呑み、ケイは表情を険しくした。白状した妻に、モンタンは額を押さえて頭を振る。</p><p>どういうことだ</p><p>…………</p><p>黙って立ち上がったモンタンが、奥の部屋に消えた。がさがさ、と何かを探る音、ほどなくその手に二通の封筒を持って、戻ってくる。</p><p>……いつもなら、リリーが帰ってくる時間のことでした。ドアがノックされたので、表に出てみると、誰もおらずにこの手紙が残されていました</p><p>そう言って差し出す、一通の封筒。アイリーンが受け取り、ケイが後ろから覗き込む。薄暗い工房の中、手紙は非常に読みづらいが、しかしケイの瞳はそれをものともせずに文面を克明に読み取った。</p><p>殴り書いたような、わざと字体を崩したような、汚い字。そこには、『娘の身柄を預かった』『このことは衛兵には知らせるな』『身代金として金貨一枚』などいった脅迫文が並べられていた。</p><p>金貨一枚だと……？</p><p>その、あまりに高額な身代金に唖然とするケイ、</p><p>衛兵には、衛兵にはもう知らせたのか！？</p><p>焦燥に駆られたような、そんな表情でモンタンに突っかかるアイリーン。</p><p>……知らせ、ようとしました。しかし……</p><p>苦々しい顔で、モンタンは説明する。</p><p>勿論、この手紙を受けて大いに動揺したモンタンとキスカは、たまたま家の前を通りがかった警邏中の一人の衛兵に、やはりこの件を相談しようとしたらしい。</p><p>しかし、衛兵に声を掛けようと扉を開けた瞬間、玄関前に置かれていた二通目の封筒に気付いたのだそうだ。</p><p>それが、これです</p><p>手ずから二通目を開け、その文面を見せてくる。『衛兵に言おうとしたな』『次は無い』『次にしようとすれば、娘の命は無いものと思え』などと書いてあった。</p><p>それと……これが……</p><p>震える手で封筒から取り出したのは、一房の、モンタンのそれにそっくりな、茶色がかった金髪。</p><p>―リリーの髪の毛。</p><p>監視、されてるんです。身動きがとれません。仮に私が衛兵に接触すれば、彼らにはそれが分かるんです……</p><p>ガタガタと、凍えたようにその身を震わせるモンタン。</p><p>その手紙にある通り、誘拐犯は、明日の未明にスラムの入り口あたりに、身代金を持ってこいと要求しています。這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で駆けずり回って、出来る限り資金は集めましたが、それでも金貨一枚には遠く及びません……</p><p>ふっと、顔を上げたモンタンの、その瞳は虚無にも似た絶望の色に染まっていた。</p><p>ケイさん。後生です</p><p>力なく。膝をついたモンタンが、</p><p>―お金を。お金を貸して下さい……っ！</p><p>ケイの足元に、すがりつくようにして、</p><p>ほんの少し。ほんの少しでもいいんです。金貨一枚は無理でも、少しでも多く身代金を用意できれば、リリーは返してもらえると思うんです。だから、だからっ！</p><p>涙ながらに、訴える。</p><p>お願いです、お金を貸して下さい……っ</p><p>…………</p><p>ケイは、閉口した。</p><p>―返品どころの、騒ぎではなかった。</p><p>薄暗い工房の中、モンタンとキスカがすすり泣く声だけが響く。</p><p>……すまない。今、手持ちがこれだけしかないんだ</p><p>懐を探ったケイは、銀貨を五枚取り出して、モンタンの手に握らせた。</p><p>はっ、と目を見開いたモンタンは、</p><p>こ、こんなに！　ありがとう、ございます！　ありがとうございます！！</p><p>顔をくしゃくしゃにして、鼻水まで垂らしながら、何度もケイに頭を下げた。</p><p>―本当は。</p><p>懐に、もっと銀貨はあるのだが。</p><p>（これは……多分、ダメだな）</p><p>誘拐された子供が、そのまま確実に生かされていると―特に、この世界においてそう思えるほど、ケイは楽観主義者ではなかった。そして仮に生きていたにせよ、身代金を払ったところで、無事に帰ってくる確証もないのだ。</p><p>募金、あるいは慈善事業。</p><p>そんな単語が脳裏をよぎる。この場を凌ぎ、自分の中である程度の決着を図る、妥協のライン。</p><p>何度も何度も礼を言うモンタンとキスカの言葉を、どこか冷めた心で聞き流す。</p><p>しかし、ふと横を見ればアイリーンが、食い入るような目で作業テーブルの上に置かれた便箋を。</p><p>さらに言うなら―『茶色がかった一房の金髪』を、見つめているのに気付く。</p><p>…………</p><p>そっと手を伸ばしたアイリーンは、モンタンたちに気付かれないように、髪の毛を幾本か回収した。</p><p>ふっ、と。</p><p>青い瞳が、一瞬ケイを見やる。</p><p>……ケイ。オレは先に戻るぜ</p><p>あっ、おい！　アイリーン！</p><p>ケイの制止も聞かずに、アイリーンは走って工房を出て行った。</p><p>おい、アイリーン！</p><p>ケイが宿屋に戻る頃には、アイリーンは既に黒装束に着替え終わり、背中にサーベルを背負っていた。</p><p>アイリーン、お前何を考えてるんだ！</p><p>そんなの決まってる！　助けに行くのさ！</p><p>ケイの問いかけに、 お前こそ何を言うんだ という顔で即答するアイリーン。</p><p>……ッ</p><p>その答えが予想できていただけに、ケイは頭痛を堪えるように、額を押さえて天を仰いだ。そんなケイをよそに、アイリーンは投げナイフのベルトをつけ、手にはグローブを、足には脛当てをと、着々に戦闘態勢を整えていく。</p><p>……いいか、落ち着け。落ち着けアイリーン。俺たちは今、ゲームの世界にいるんじゃない</p><p>そんなことは、分かっている</p><p>いいや、お前は分かってない！　『助けに行く』とは簡単に言うがな、それがどういう意味かお前は理解していない！</p><p>澄ました態度のアイリーンに、思わずケイの口調が荒くなった。</p><p>お前が考えていることは分かる！　 追跡 で髪を使えば、リリーの位置は簡単に分かるからな！　だがアイリーン、今回の件は、話を聞く限りだと単独犯じゃないぞ！　お前が助けに行くというのなら、十中八九、犯人たちと戦うことになるだろう！</p><p>きっ、とその端整な顔を睨みつけた。</p><p>そうなったとき、お前に人が斬れるかッ？</p><p>……悪人相手に、容赦するつもりはない</p><p>一瞬の間。しかし言い切る。だがケイはそれを、アイリーンの躊躇いの表れであると取った。</p><p>……覚悟はご立派だがな、アイリーン。本当にそれができるかどうかは、別問題だ</p><p>出来るさ。オレは今クールだが、同時に怒ってもいるんだぜ、ケイ。身代金が金貨一枚だなんて、リリーを帰すつもりがないとしか思えない。オレにはそれが許せねえ</p><p>見返す、その青い目のまっすぐさに、ケイは思わずたじろぎそうになる。</p><p>しかしそうなる前に、瞳は揺れ、アイリーンは気まずげに視線を逸らした。</p><p>……勿論、これはオレの勝手だよ。だから、ケイを巻き込むつもりはない。『コレ』はオレが一人でやる</p><p>……何？</p><p>ぴくりと、ケイの眉が跳ね上がった。</p><p>心に、微かな苛立ちが走る。</p><p>―違う。そうじゃない。</p><p>―そういうことじゃない。</p><p>市街戦は、ケイには都合が悪い。だが逆に、オレにとっては得意なフィールドさ。時間帯もいい感じだし、オレ独りでも―</p><p>アイリーン</p><p>独白するように言葉を続けるアイリーン、その両肩を掴み、ケイは瞳を覗き込んだ。</p><p>……</p><p>戸惑ったようなアイリーンの表情を、至近距離で眺めながら、しばし迷う。何をどう言うか。</p><p>……アイリーン。ここは、ゲームの世界じゃない、リアルなんだ。ゲームと違って、何が起きるか分からない。一瞬の油断が、ほんの少しの読み違えが、致命的なんだぞ。怪我で済まずに……死ぬかもしれない。本当にそれが、わかってんのか……？</p><p>囁くような、懇願するようなケイの口調に、アイリーンの表情は硬い。</p><p>しかし同時に。それは何処までも、真摯なものであった。</p><p>……ケイに、一度命を助けられておいて、何言ってるかって思うかもしれないけどさ。それでも、オレは、……リリーを放ってはおけないよ。ゲームの世界じゃないなら、尚更だ。リリーはNPCじゃない、生きた人間なんだ。オレは彼女を助けるよ</p><p>なんでだ。なんでなんだ、別に頼まれたわけでもないのに……俺たちには、関係ないじゃないか……</p><p>『関係ない』だって！？</p><p>信じられない、という顔をしたアイリーンが、ケイの腕を振りほどく。</p><p>『関係ない』わけがないだろう！　オレたちはもう、彼らと関わり合ってるんだぞ！？　『関係ない』なんてことはないんだ、ケイ！</p><p>もどかしげに、首を振ったアイリーンは、言葉を続ける。</p><p>オレは……オレには、『力』がある。リリーを探して、救い出せるだけの力が！　もちろん、危険なのは分かってるさ。死ぬかもしれないし、オレ自身、人を殺めることになるかもしれない。……それでも、</p><p>それでも、と自分の考えを反芻した。</p><p>オレに、それが出来るなら。オレに、誰かが救えるなら。オレはそれをやるべきだ。出来るだけの力があるのに、見なかったことにして、尻尾を巻いて逃げるのは、それは、―</p><p>俯き、声を絞り出すように、</p><p>―『ひとでなし』のすることだよ</p><p>がつん、と。</p><p>頭を殴りつけられたような衝撃が、ケイを襲った。</p><p>無知、であるが故に言える、純粋な言葉。</p><p>しかしその純度の高い正義感は、今のケイには鋭すぎた。</p><p>歯を食いしばって俯くアイリーンには、愕然とするケイの表情が見て取れない。</p><p>…………</p><p>どすん、という音にアイリーンが顔を上げると、ケイは顔を押さえて、力なくベッドに腰を降ろしていた。</p><p>……勝手にしろ</p><p>暗く沈んだぶっきらぼうな口調に、自分の放ったことばが、ケイを酷く傷つけたことを悟る。</p><p>そして悟ったがゆえに、これ以上は何も言えなかった。ここでケイの機嫌を取るようなことを口にすれば、二人の間の溝がさらに深まると、直感的に察してしまったから。</p><p>……ごめん</p><p>ただ一言、謝った。</p><p>…………</p><p>ケイは無言のままだったが、のろのろと腰のポーチに手を伸ばし、中から『それ』を引き抜いてアイリーンに放り投げる。</p><p>慌ててアイリーンが受け止めると、それは、ガラスの瓶だった。</p><p>中で、とろりと粘性のある、青い液体が揺れている。</p><p>―ハイポーション。</p><p>……持ってけ</p><p>視線を逸らしたまま、ケイは呟くようにして言う。</p><p>……ありがとう</p><p>短く、答え。</p><p>たんっ、と小さな音が響く。</p><p>ケイが顔を上げたとき、そこにはもう、少女の姿はなかった―</p><p>人々の営みを、その眼下におさめ。</p><p>屋根を踏みしめた、黒装束の少女。</p><p>ぶわりと。</p><p>建物の壁に煽られ、吹き寄せる冷たい風。</p><p>黒いマフラーが流れ、たなびき、はためく。</p><p>―見やる。</p><p>城郭の外、西に広がる草原の大地。</p><p>黄昏の太陽が―沈みゆく。</p><p>見上げれば、月。</p><p>銀色に輝ける夜の女神。</p><p>茜色から、群青へと。</p><p>空はその貌(かお)を、変えゆく。</p><p>再び見つめる地平線。</p><p>太陽は―沈んだ。</p><p>さあ……オ(・)レ(・)た(・)ち(・)の時間だ</p><p>小さく呟いた、少女。</p><p>懐より取り出すは、水晶の欠片。</p><p>祈るように。願うように。</p><p>一瞬、瞑目した少女は、</p><p>Mi dedicas al vi tiun katalizilo.</p><p>その手より欠片を、落(おと)す。</p><p>重力に引かれる、透明な結晶。</p><p>とぷん、と。</p><p>それは、足元の影に呑まれ。</p><p>ざわざわ、ゆらゆらと。</p><p>蠢き、揺らめく。</p><p>魔性のもの。</p><p>Maiden krepusko, Kerstin.</p><p>呼吸を整え。</p><p>少女は、喚(よ)ぶ。</p><p>Vi aperos(顕現せよ).</p><p>果たして、逢魔が時。</p><p>―黒き影はそれに応えた。</p><p>21. 救出</p><p>耳元で風が唸る。</p><p>夕闇の街。</p><p>夜景が後方へ流れ去っていく。</p><p>黒装束の少女は、駆ける。</p><p>家々の屋根を、たんっ、とんっ、と。</p><p>軽い足音だけ置き去りにして。</p><p>足元から伸びる黒い影。</p><p>魚……鳥……猫……あるいは人の腕。</p><p>楽しげに、跳ねるように、泳ぐように。</p><p>目まぐるしく姿を変えながら、道を指し示す。</p><p>黄昏の乙女『ケルスティン』。</p><p>薄明を司る、宵闇と残光の化身。</p><p>アイリーンは、精霊の導きに従って、リリーの元へと向かっていた。</p><p>ケルスティンは陰を往き、影を操る精霊だ。</p><p>陽が沈んだ後の、それでいて完全な暗闇ではない、限られた環境下でしか顕現できない儚い存在。</p><p>ケイが契約を結ぶ中位精霊・風の乙女『シーヴ』に比べると、物理的な干渉能力は遥かに劣り、また影を操るという特性上、直接的な攻撃力は無いに等しい。</p><p>が、そうであるが故に消費魔力が少なく、また触媒を選り好みもしないため、術の行使にほとんどコストがかからない。扱いに癖があり、使いどころが限定されるので、純魔術師(ピュアメイジ)には向かないとされるが―魔術はあくまで補助的なものとする魔法戦士(ニンジャ)にとって、それはおあつらえ向きの契約精霊といえた。</p><p>……ここか</p><p>旧市街の一角。</p><p>屋根の上で身をかがめ、アイリーンはひと気のない寂れた通りを望む。足元の影は手の形を取り、真っ直ぐに目の前の建物を指差していた。</p><p>薄汚れた路地に面した、石造りの二階建て。飾り気も何もない、倉庫のような構造だ。一階と二階の窓からは、それぞれ明かりが漏れている。探るまでもなく、建物全体から人の気配。特に一階からはわいわいと、男たちの騒ぐ賑やかな声も聴こえてきていた。</p><p>ひらりと身体を跳ねさせて、通りの向こう側の屋根へと飛び移る。助走もなしに軽々と三メートルを越える跳躍、四つん這いになって音もなく瓦の上に着地した。四足のまま、そろそろと気配を消して慎重に窓に忍び寄る様は、まるで猫科の肉食動物のようだ。</p><p>屋根の縁に足を引っ掛けて、蝙蝠のように逆さにぶら下がったアイリーンは、そっと雨戸の隙間から中の様子を覗き見る。</p><p>（……意外と片付いてんな）</p><p>第一印象。</p><p>それは、がらんどうな、生活感のない空間だった。ほとんど家具の類も見当たらず、ただ殺風景にフローリングの床が広がっている。部屋の片隅には小さなテーブルと椅子が置かれ、卓上のランプの明かりで読書をする優男が一人。奥には下への階段があり、賑やかな声と男たちの揺れる影が見て取れる。</p><p>…………</p><p>ぱら、ぱらと優男が本のページをめくる音だけが響く。雨戸の外の忍者にはまるで気付く様子もなく、どうやら二階に居るのは彼一人のようだ。それからしばらく観察するも優男は読書に熱中したままで、これ以上は特に情報は得られそうにないと判断したアイリーンは、そっと窓から離れた。</p><p>腰のポーチから鉤縄を取り出し、屋根の端に引っ掛けて地上へ降下。今度は通りとは反対側の、勝手口の前に降り立つ。</p><p>微かに匂うアルコール臭。近づいてみれば一階は相当に騒がしい。中ではかなりのどんちゃん騒ぎが繰り広げられているようだ。それでも気取られないよう、細心の注意を払いながら、アイリーンは慎重に一階の窓を覗き込む。</p><p>（！　あれは……）</p><p>アイリーンの顔に浮かぶ、驚きと困惑の色。部屋には、酒を片手にテーブルを囲み、大盛り上がりの男が七人ほど居た。皆、身なりの汚いごろつきばかりであったが―その中に見知った顔が一人。</p><p>（―ボリス！　なんでこんなとこに）</p><p>ごろつきに肩を組まれ、酒に酔った赤い顔で大笑いしているゴツい体格の男。ボサボサの黒い癖毛にぎょろぎょろとした目つき。</p><p>間違いない、数日前に工房の前で見かけたボリスその人であった。</p><p>窓から離れたアイリーンは、壁にもたれかかって小さく唸る。</p><p>（……あの野郎が一枚噛んでやがるのか）</p><p>リリーは賢い子だ。頭の回る彼女が、滅多なことで犯罪に巻き込まれるはずがないと、モンタンたちに話を聞いてからアイリーンは疑問に思っていた。</p><p>身内による犯行。</p><p>今のボリスを『身内』と考えて良いものかはさて置き―彼が誘拐に関わっていたのだとすれば、リリーが油断してしまってもおかしくはない。</p><p>（アイツ、金を借りたり散々世話になってるくせに、恩人の娘を誘拐するとはどういう了見だ……！？）</p><p>困惑は、呆れに変わり、やがて怒りの炎と燃え始める。</p><p>これは一発ぶん殴らねば気が済まない、と思うアイリーンであったが、怒りに任せて正面から殴り込みをかけるような真似はしなかった。</p><p>…Kerstin</p><p>小声で、足元の揺らめく影に呼び掛ける。</p><p>Kie estas Lily?</p><p>アイリーンの問いかけに、影が人の手の形を取り、壁をスクリーン代わりにしてすっと上を指差した。</p><p>……二階(unua etago)？</p><p>『 Neniu 』</p><p>ちゃうちゃう、と手を振った影が、流麗な筆記体となり答える。</p><p>じゃあ一階(teretago)？</p><p>『 Neniu 』</p><p>……屋根裏(tegmento)とか？</p><p>『 Neniu 』</p><p>ええー</p><p>ならどこだよ！！　というツッコミをぐっと堪え、冷静に考える。</p><p>中二階(interetago)……隠し部屋か？</p><p>『 Jes 』</p><p>筆記体の後、ビッと親指を立てる黒い手の形を取り、ケルスティンは揺らめいて普通の影に戻った。</p><p>（隠し部屋か……）</p><p>なかなか凝った真似をしやがる、と独りごちながら、しかしアイリーンは密かに安心する。わざわざ隠し部屋に監禁するということは、つまりリリーはまだ生きているということだ。仮に、リリーの居場所は地面の下、などと示されていれば、アイリーンも流石に冷静ではいられなかったかもしれない。</p><p>（さて、どうするかな）</p><p>腕を組んで、考え込む。</p><p>ここで奇襲を仕掛け、建物を制圧してしまうか。</p><p>あるいは戦闘を避けてリリーの救出を試みるか。</p><p>（……殴り込みをかけて全員ボッコボコにして、リリーを隠している場所を吐かせてから助け出す……）</p><p>自身の鬱憤も晴らせることを考えると、それはなかなかに爽快なアイデアだ。しかし諸々のリスクを考え合わせた結果、最終的にアイリーンは、 スマートにリリーだけを救出できるなら、それに越したことはない という結論に達した。</p><p>Kerstin, mi dedicas al vi tiun katalizilo.</p><p>懐より、大粒の青緑色の宝石(ラブラドライト)を取り出し、とぷんと、足元の影に沈める。</p><p>Vi priskribas la plankon plano de ci tiu domo, kaj vi diros al mi la pozicio de Lily.</p><p>建物の石壁に手をつき、</p><p>Ekzercu(執行せよ).</p><p>瞬間、建物の輪郭を影が走った。</p><p>おそらく、内部の人間で、『それ』に気付いた者はいない。</p><p>部屋の隅で、テーブルの裏で、あるいは自分の足元で、黒い影がかすかにさざめいたことになど―。</p><p>アイリーンの眼前に影が立ち上がる。漆黒の線により、建物の内部構造が3DCGのように描画されていく。日も暮れた夕闇の中で、黒い立体モデルは非常に見辛いが、それでも間取りや人間の位置は把握できた。</p><p>倉庫のような広めの造りで、間取りに特に奇妙な点はない。一階にはごろつきが七人、二階にいるのは優男一人だけのようだ。しかし、肝心のリリーが―彼女の隠されている場所が、見当たらなかった。</p><p>Kie estas Lily?</p><p>アイリーンの問いかけに、地面から浮かび上がった漆黒の手が、ちょいちょいと立体モデルの中ほどの、真っ黒な箱状のスペースを指差す。</p><p>……</p><p>それは、二階の優男のすぐ傍、床下に隠された小さな空間だった。隠し部屋―と呼ぶには、あまりに狭い。中が描画されずに真っ黒であるのは、そこに一切の光源がないことを示す。</p><p>つまり、リリーは、身動きも取れないほどに狭く、真っ暗な小部屋に監禁されているのだ。</p><p>アイリーンの顔が、険しいものになる。これが、いたいけな子供に対する仕打ちか、と。狭く暗い空間に閉じ込められたリリーが、どれほど恐怖を感じていることか、想像するだけで胸が締め付けられるようだった。しかもそれを為した上で、飲めや歌えやの宴会だ。</p><p>まさしく、下衆の極み。</p><p>拳の一発では済まされまい。</p><p>胸の奥底で燃え盛る怒りは、まさしく義憤と呼ぶにふさわしい。窓から漏れる一階の明かりを、アイリーンはぎろりと睨みつけた。今すぐにでも雨戸をぶち破って暴れ出したい気分であったが、どうにか呼吸を整え、連中をボコるのは後回しと自分に言い聞かせる。</p><p>ひとまずは、リリーの救出が先だ。</p><p>くんっ、と身をかがめ、軽く地面を蹴る。垂直な石壁のごく僅かな凹凸を足場に、隣の建物との壁と壁の合間をタンッタタンッと素早く駆け登った。</p><p>降り立つ、屋根の上。</p><p>鉤縄を回収しつつ、先ほどケルスティンが炙り出した建物の間取りを思い描く。</p><p>（中二階の隠し部屋、か……入口は二階にあるのかな）</p><p>先ほどのように、二階の窓に取りついて、雨戸の隙間から優男を睨みつける。独りきりで読書する彼は、おそらく隠し部屋の番も兼ねているのだろう。―それにしても、幼い少女を監禁しておいて、あんな澄ました顔で本に読みふけるとは、一体どういう神経をしているのか。</p><p>改めて、憤りの感情が燻り出す。青い瞳に、めら、と獰猛な光が宿った。</p><p>（……まあ、いい。奇はてらわず、順当に、）</p><p>黒いマフラーの下、冷静さを取り戻すように、表情を消す。</p><p>（―正々堂々、忍び込もうか）</p><p>雨戸の留め金に、手をかけた。</p><p>……キィィ。</p><p>うん？</p><p>本を読んでいた青年は、金属の軋むか細い音に、ふと顔を上げる。</p><p>見れば、テーブルのすぐそばの雨戸が、開け放たれていた。</p><p>まるで風に吹かれたかのように、ゆらゆらと揺れる戸の留め金。微かな空気の流れが、そっと頬を撫でる。</p><p>……おかしいな</p><p>何故、独りでに開いているのか。</p><p>今日はそんなに風も吹いていないはずだが、―と。</p><p>本を片手に席を立ち、窓から顔を出して周囲を確認するも、夜の空気はむしろ静かに、穏やかに、風は強いどころかそよいですらいなかった。</p><p>……。妙なこともあるもんだ</p><p>どこか、空恐ろしげに。</p><p>小さく呟いた青年はしかし、名状しがたい嫌な予感を振り払うように、頭を振ってそっと雨戸を閉める。</p><p>その瞬間、視界が黒色に染まった。</p><p>んグッ！？</p><p>困惑の叫びはくぐもり、遠くへは響かない。天井から背後に降り立ったアイリーンが、顔面にマフラーを巻き付けたのだ。混乱した青年がそれを振りほどこうと、しゃにむに顔をかきむしる間に、アイリーンは素早く正面に回り込んで両の拳を構えた。</p><p>全身のばねを使って、打ち放つ。</p><p>ドッドンッと鳩尾を抉る二連撃、青年の胴がくの字の折れ曲がる。一瞬、身体が浮き上がるほどの衝撃に、ごぷりと逆流した胃液がマフラーを汚す。喉に詰まる吐瀉物、呼吸をも許さぬ激痛、呻き声すら出せない青年は、ただ腹を押さえてがくりと膝をついた。その姿はまるで、断罪の時を待つ咎人のように―そこへ、止めの回し蹴りが側頭部に炸裂し、青年はそのままボーリングのピンのようになぎ倒される。</p><p>One down(一丁上がり)…</p><p>振り抜いた足をすっと降ろして、アイリーンは小さく呟いた。床の上、ぴくりとも身じろぎをしない青年を前に、その言葉はあまりに素っ気ない。ともすれば酷薄とすら取れる容赦のなさ、しかし、これでもアイリーンは手加減している方だった。ゲーム時代より筋力が低下しているとはいえ、肉体のスペックを限界まで引き出す格闘術は健在だ。全力で蹴りを放っていれば、優男の細い首など簡単に折れ砕けていただろう。</p><p>さて、リリーはどこかな……</p><p>もはや男になど興味の欠片もなく、アイリーンは目を細めて床に視線を走らせる。ケルスティンの 探査 によれば、テーブルから数メートル離れた床下に、隠しスペースがあるはずだ。</p><p>……ここだな</p><p>それは、すぐに見つかった。床板をよくよく注意して見れば、一部分にだけ不自然な切れ込みが入っていることが分かる。短剣の刃をそこへねじ込むと、てこの原理で板は呆気なくはがれた。</p><p>こいつぁ楽勝だぜ、と嬉々として床板を取り外すアイリーンであったが、すぐにその顔から表情が抜け落ちる。</p><p>床板の下から、重厚な金属製の蓋が現れたのだ。</p><p>見るからに頑丈そうな造りだった。がっちりと組まれた留め金は金庫を連想させる。つるりとした表面に一か所だけ、直径二センチほどの歯車状のスリットが開いていたので、そこへ指を突っ込んでダメ元で引っ張ってみた。</p><p>……まあ、ダメだよな</p><p>開かない。予想通りビクともしない。十中八九、このスリットは鍵穴だろう。NINJAの嗜みとして、簡単な構造の錠前ならばアイリーンでも開錠できたのだが、手持ちの道具でこの金属製の蓋をどうにかするのは無理そうだった。</p><p>無言で立ち上がったアイリーンは、床に倒れ伏した優男を軽く蹴り飛ばして、未だ意識がないことを確かめてから持ち物を探り始める。酸っぱい吐瀉物の臭いに辟易としながらも、上着やズボンのポケットを手当たり次第にひっくり返した。</p><p>…………</p><p>しかし、この鍵穴に対応するような代物は、何も見つからない。ポケットから金属製の鍵は出てきたものの、この鍵穴には小さすぎる。仕方がないので、部屋の棚なども粗方漁ってみたが、結局めぼしいものは見当たらなかった。当の優男から鍵の在り処を聞き出そうにも、マフラーをはぎ取ってみると完全に白目を剥いて泡を吹いており、頬をはたこうが鼻をつまもうが一向に目を覚ます気配がない。</p><p>（……どうしよっか）</p><p>床に胡坐をかいて、膝の上に頬杖を突く。しばしの思考の停滞。この『蓋』に対して 追跡 を使い、鍵の位置を探り出すという手もあったが、それをすると手持ちの触媒をほとんど使い切ってしまう。かといってこのまま、手当たり次第に探すのも時間の無駄に思われた。</p><p>どうするか。</p><p>『ガッハハハハ……！』</p><p>『あーはっはっはっ！』</p><p>そうしている間にも、階下から響いてくる、ごろつきどもの笑い声。</p><p>……</p><p>じっとりと、目を細めたアイリーンは、やおら立ち上がり。</p><p>背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。</p><p>―同じ魔術を使うなら。</p><p>まだ、こちらの方がよい、と。</p><p>（ま、結局こうなるか……）</p><p>胸元から触媒の水晶の欠片を取り出しながら、アイリーンは渋い顔でひとり肩をすくめる。階下、ランプの炎に揺れる男たちの影を見やった。</p><p>刃の具合を確かめるように、ひゅんひゅんとサーベルを回す。</p><p>―問題ない。ビッ、と空を裂いて振り下ろした一刀は、ぶれることなく。</p><p>かすかな殺気を余韻に残し、ぴたりと止まる。</p><p>……待っててな、リリー。すぐに助けるから</p><p>小さく、呟き。</p><p>アイリーンは一切の躊躇いなく、</p><p>そのまま階下へ、身を躍らせた。</p><p>†††</p><p>日が暮れてから、どれほどの時間が経ったか。</p><p>そんなことを気にする奴は、ここにはいない。一階で酒を酌み交わすごろつきたちは、夜はまだまだこれからだ、と言わんばかりに大いに盛り上がっていた。</p><p>―そんで、ソイツを裸にひん剥いて、表に逆さ吊りにしてやったってワケよぉ！</p><p>ヒーッヒッヒッヒ、ひでぇ話だ！</p><p>ガッハハハハハ！　完全にとばっちりじゃねえか！！</p><p>大して面白くもない酔っ払いの話に、大して可笑しくもないのに大笑いする酔っ払い。酒さえ入っていれば猫が歩いても面白い。飲んでは笑い、笑っては飲む。最初、この場に呼ばれたときは緊張気味だったボリスも、今ではすっかり上機嫌でエールをがぶ飲みする始末だ。</p><p>渦巻くような男たちの熱気に、むっとするアルコールの匂い。</p><p>そこへ酒飲み特有の高すぎるテンションが入り混じり、部屋はまさしく混沌の様相を呈していた。</p><p>しかし、そんな乱痴気騒ぎに、突如として姿を現す、黒づくめの闖入者。</p><p>……あん？</p><p>最初にそれに気付いたのは、階段の真向かいに座っていた一人だった。 酒は充分だが女っ気が足りねえ と、そう考えていた矢先のこと。ジョッキに新たに継ぎ足したエールを、ぐいと喉に流し込もうとしたまさにその瞬間、階段から姿を現した黒装束の美少女に目を奪われる。</p><p>しばし、呆けたように動きを止める男。傾けたジョッキから、だばだばとエールがこぼれおちる。</p><p>―へへっ</p><p>ああ、自分は酔っ払いすぎて、妙なものが見えているのだと。そう判断した男は、にへらとだらしない笑みを浮かべて、改めてぐいぐいと酒をあおり出した。</p><p>逆に面食らったのはアイリーンだ。第一発見者が騒ぎもせず、へらへら笑いながら再び呑み始めるのは予想外だった。しかしすぐに気を取り直して、左手に握っていた水晶の欠片を足元の影に叩きつける。</p><p>Kerstin!</p><p>精霊を喚(よ)ぶ声に、何事かと驚いたごろつきたちが、一斉にアイリーンの方を見やった。</p><p>階段下に佇む、黒装束の少女。</p><p>その背後、薄闇の向こう。</p><p>ごろつきたちは、穏やかな微笑を浮かべる、貴婦人の姿を幻視した。</p><p>呆気にとられる男たちをよそに、アイリーンは素早く左手で印を切る。</p><p>Kage, Matoi, Otsu.</p><p>視界、男たちの姿を指でなぞった。</p><p>Vi kovras(覆い隠せ)!</p><p>アイリーンの足元。</p><p>ヴン、と影が震える。</p><p>それに共鳴するように。</p><p>男たちの影。</p><p>さざめき、うごめき。</p><p>弾け飛ぶ。</p><p>漆黒の濁流。</p><p>それは無音。</p><p>だが轟音を錯覚させるほど。</p><p>爆発的に。</p><p>男たちの全身を、包み込んだ。</p><p>うわあああぁぁッ！？</p><p>何だコリャァああ！！</p><p>ヒイイイィィッッ！？</p><p>一瞬で、その場は大混乱に陥る。ごろつきたちからすれば、突如として足元から湧き出た黒い影(バケモノ)に丸飲みにされたのだ。</p><p>驚きのあまり椅子ごと倒れる者、影を振り払おうと暴れる者、混乱と恐れで身動きすら取れない者―男たちの反応は様々であったが、実際のところ、ケルスティンの『影』に直接的な害はない。混乱の少ない者から順に、視界が奪われたことを除いては、特に影響がないことに気付くだろう。</p><p>だが、それを許すアイリーンではない。</p><p>部屋の中。</p><p>一息に、踏み込む。</p><p>一人目。椅子から転げ落ち、床に這いつくばっている男。程よく足元にあった頭をサッカーボールのように蹴り飛ばす。ゴン、と鈍い音、一撃で昏倒。</p><p>二人目。椅子ごと倒れて、後頭部を打ったのか、頭を抱えて呻く男。太腿に刃を突き刺し、サックリと足を封じる。</p><p>三人目。影を振り払おうと躍起になって暴れる男。得物を振るって右腕を切り裂き、傷の痛みに動きを止めたところで、その頭部に苛烈な殴打。サーベルのナックルガードと柄頭でタコ殴りにする。</p><p>四人目。身がすくんで動けないのか、椅子に座りっぱなしの男。流れるような回し蹴りを頭に叩き込み、壁際まで吹き飛ばす。</p><p>五人目。そろそろ術の効力が切れかけているのか、まとわりつく影が薄れている男。這いずるように出入り口まで辿り着いていたので、動けないようふくらはぎを撫で斬りにする。</p><p>六人目―と、テーブルを囲むごろつきたちを、反時計回りに制圧してきたアイリーンであったが、ここで気付く。床にへたり込み、顔から影を振り払おうとしているのは、他でもない、</p><p>テメェ、ボリスッ！！</p><p>視界を潰されたまま、いきなり誰かに名を呼ばれ、びくりと身体を震わせるボリス。アイリーンはその胸倉を引っ掴んで、引きずり起こすように無理やり立たせた。</p><p>ヒッ、だっ、誰だッ……何だッ！？</p><p>怯えながらも、胸倉を掴む手を引き剥がそうと抵抗するボリスであったが、サーベルを床に突き立てたアイリーンは、お構いなしにその顔面を張り倒す。</p><p>パァン！　と鋭い音が響き、脳天を揺さぶられたボリスは、ふらりと壁に手をついた。幸か不幸か、その一撃で顔面の影が振り払われ、一瞬白目を剥いたボリスはしかし、すぐに視界を回復させる。</p><p>が、その瞬間、 ヒッ と息を詰まらせた。</p><p>……今のが、リリーの分だ</p><p>文字通り、目を白黒させるボリスが見たのは、―背筋の凍るような、冷たい表情。しかし青い瞳には、めらめらと怒りの炎が燃えるようで、</p><p>ぶぅんと、</p><p>唸る左のアッパーカットが、もじゃひげの顎に炸裂した。</p><p>がッ！？</p><p>のけぞる。まぶたの裏で星が散る。切れた口の中、広がる血の匂い。</p><p>これはモンタンの分ッ</p><p>叫んだアイリーンは、間髪入れずに右拳を振りかぶり、</p><p>ごぶぅ……ッ！？</p><p>抉り込むようなボディブロー。ごぷりと腹の酒が逆流する、</p><p>これがキスカの分ッ！</p><p>腹を押さえてふらふらと後ずさるボリスを前に、すっ、と右脚を引く。</p><p>構える。</p><p>そしてこれが、</p><p>ぐるんっ、と身体を回転させ、打ち放つ。</p><p>―オレの分だッ！！！</p><p>全力。</p><p>必殺の回し蹴り。</p><p>ボリスの鳩尾に、突き刺さった。</p><p>―ッ！！</p><p>もはや、悲鳴すら出ない。まるで冗談のように吹き飛ばされたボリスは、そのまま石壁にゴッ、ビタアァァンと激突する。</p><p>ぁ、ッげ……</p><p>ずるずると。壁にもたれかかって尻もちをついたボリスは、目を裏返らせて酒を吐き出しつつ、それでも何かを求めるように手を彷徨わせ、</p><p>……ォぼ</p><p>そのまま何も掴むことはなく力尽き、自らの吐瀉物の上にどちゃりと倒れ伏した。</p><p>……ふン</p><p>目を細め、ただ鼻を鳴らすアイリーン。</p><p>―あぁッ、クソッ、チクショウッ、何だってんだよコレは！！</p><p>その時、最後に残されていた一人が、ようやく顔にまとわりついていた影を振り払うことに成功する。</p><p>……あ？</p><p>しかし、視界が回復すると同時に、動きを止めた。見回せば、無事なのは自分だけ。周囲には、まさしく死屍累々といった様子で倒れ伏す仲間たち。</p><p>さて、ナイスなタイミングだな</p><p>目の前には、床からサーベルを引き抜いて、ぽんぽんと刃の背で肩を叩く、正体不明の黒装束の美少女。</p><p>その笑みは、少女の美貌には不釣り合いなまでに獰猛で。</p><p>思わず、尻もちをついたまま後ずさったごろつきは、無意識のうちに、媚びるような愛想笑いを浮かべていた。</p><p>すっ、と喉元に、サーベルの刃が突きつけられる。</p><p>―テメェに、訊きたいことがある</p><p>男にできたのは、ただ阿呆のようにコクコクと頷くことだけであった。</p><p>†††</p><p>真っ暗な、狭い空間。</p><p>手足は縛られ、口には猿ぐつわをかまされ。</p><p>体操座りの格好のまま、身じろぎもできない。</p><p>（なんで……こんなことに、なったんだろ）</p><p>虚ろな瞳で、ぼんやりと。</p><p>リリーは、闇の中、視線を彷徨わせる。</p><p>―気が付けば、ここにいた。</p><p>帰り道のこと。今日、塾はいつも通りに終わったのだが、帰宅自体は遅くなった。コーンウェル商会の御曹司であり、塾では机を並べて勉強する仲の、『ユーリ』という男の子がリリーを引き止めたのだ。</p><p>リリーとしては早く帰りたかったのだが、父親の大得意様であるコーンウェル商会、その跡継ぎの好意を無碍にするわけにもいかない。美味しいお茶を頂きつつ、大して興味もない詩や文学の話を聞き流したが、暇(いとま)を告げて屋敷を出る頃には、すっかり遅くなってしまった。</p><p>リリーの身を心配して、ユーリが護衛と共に家まで送ることを提案したが、早く帰りたかったのと、独りでも大丈夫だと思ったのと、御曹司に送迎をさせるなどとんでもないという理由から、断っていた。</p><p>それが、間違いだった。</p><p>あの時、その言葉に素直に従っていれば、と。今となっては、そう思う。</p><p>リリーがいつものように、大通りを歩いていたときのことだった。一人の見知らぬ少年が、声をかけてきたのだ。</p><p>身なりは悪くないが、何だか目つきが悪いという印象の、リリーよりも少し年上の男の子だった。曰く、 ボリスのおじちゃんが、仕事の祝いに家まで料理を持っていこうとしているが、多過ぎて持てないのでリリーに手伝って欲しい とのこと。</p><p>正直なところ、変な話だとは思った。ボリスの家が旧市街で、夜歩くには危ないことも知っていた。</p><p>しかし、朝の件もあり、 おじちゃんも一人じゃお金を返し辛いし、理由をこじつけて一緒に行って欲しいのかな などと深読みしたリリーは、その誘いにまんまと乗ってしまったのだ。</p><p>ボリスの家まで送ってくれるという男の子が、ポケットから 食べる？ と蜂蜜飴を取り出したのも、大きかったかもしれない。それを頬張りながら、男の子に連れられて、リリーは意気揚々と旧市街に踏み入っていった。</p><p>そして―そこからの記憶が、曖昧なのだ。うらびれた路地を歩いている途中で、口の中で蜂蜜飴が砕け、変な味の粉末が出てきたのまでは憶えている。その後は、ぐにゃぐにゃと視界が回り、まるで夢の中にいるようで、気が付けばここに閉じ込められていた。</p><p>（わたし……どうなっちゃうんだろ……）</p><p>死んだような無表情で、何度も自問を繰り返す。自分が誘拐されて、監禁されているらしいということは、薄々察していた。泣いて、叫んで、もがいて―既に、体力も気力も使い果たしている。</p><p>（怖いおじさんたちに連れられて……むりやり働かされるのかな……）</p><p>真っ先に連想したのは、“奴隷”や”身売り”といった言葉だった。鞭を持った『怖いおじさん』に、鉱山のような場所で、重労働を強いられるイメージ。</p><p>それに匹敵する―あるいは、それよりも恐ろしいことを想像するには、リリーはまだ幼すぎた。</p><p>しかし、そうであったとしても、怖くてたまらないことに変わりはない。猿ぐつわを噛みしめ、 えぐっ と小さくしゃくりあげる。もはや泣き過ぎて、涙は枯れてしまったのだろうか、真っ赤になった瞳からは何もこぼれ落ちなかった。</p><p>（パパ……ママ……助けてよぅ）</p><p>もうわがままも言わないし、もっとお勉強も頑張るし、言うこともよく聞くから、と。</p><p>（会いたいよぅ、パパ、ママぁ……）</p><p>暗闇の中、顔をくちゃくちゃにして。</p><p>ただ祈り。声も出さずに、泣く。</p><p>―と。</p><p>頭上で、ガキンッ！　という大きな音が鳴った。</p><p>飛び上がらんばかりに驚いて、上を向く。続いて、ギリギリギリ……と金属同士が擦れる音。突然の状況の変化に、目を見開いたリリーは、処刑の時が近づいた死刑囚のようにガタガタと震え始める。</p><p>ガコンッと頭上に光の隙間が生まれ、徐々にそれは広がっていく。頼りない暖色の明かりに、 外だ とだけ思った。</p><p>ここから出られる、のか。</p><p>あるいは出(・)さ(・)れ(・)る(・)―のか。</p><p>……ん―ッ！！　んん―ッッ！！</p><p>唐突に、恐怖の感情が再燃したリリーは、ほとんど身動きが取れないにも拘わらず、最後の力を振り絞って何かに抗うように身をよじらせた。</p><p>リリーッ！　リリーッ！！</p><p>が、どこか聞き覚えのある優しい声に、その動きを止める。</p><p>リリーッ！　大丈夫か！？</p><p>見れば、四角形に切り取られた頭上から、こちらを覗き込むアイリーンの顔があった。</p><p>無事か！？　待ってろ、すぐに出してやるからな！</p><p>かがみ込んだアイリーンは、右手を伸ばしてリリーの背中の縄を掴む。そして、その細腕からは想像できないような力強さで、一気にリリーを引き上げた。</p><p>ひでぇ、こんな小さな子に……なんて真似しやがる</p><p>猿ぐつわと、手足をキツく拘束する縄に、目つきが険しくなるアイリーン。一方でリリーはいまだに理解が追いつかず、目をぱちくりとさせている。</p><p>短剣で縄を切断したアイリーンは、手早くリリーの猿ぐつわを取り払った。</p><p>助けに来たぞ、リリー。もう、大丈夫だ</p><p>安心させるように、穏やかな笑みを浮かべて、アイリーンはわしゃわしゃとリリーの頭を撫でる。数秒して、 どうやら自分は助かったらしい と悟ったリリーは、</p><p>……ふぇっ</p><p>真っ赤な瞳に、枯れたと思っていた涙がみるみる溜まっていく。</p><p>お……ねえぢゃああぁぁぁああん！！！！</p><p>よしよし。怖かったな</p><p>ふらふらと、アイリーンの胸元にすがりついて、火がついたように泣き始めるリリー。一瞬、それに釣られて泣きそうな顔をしたアイリーンは、そっと瞳を閉じてその小さな体を抱き締める。</p><p>大丈夫。……もう大丈夫だから</p><p>涙と鼻水で、リリーの顔は酷いことになっていた。赤子をあやすように、ゆっくりと身体を揺らす。時折、泣き過ぎてむせるリリーの背中を、アイリーンは優しくさすってあげた。</p><p>……さ。もう、泣きやんで。せっかくの可愛いお顔が台無しだよ、リリー</p><p>えぐっ、おねえぢゃ、おねえぢゃん</p><p>パパとママが待ってるから。……おうちに帰ろう</p><p>うぅ……ぅん、帰るぅ……</p><p>手を引かれて立ち上がり、目を擦りながらリリーはコクコクと頷く。それを見て、アイリーンは小さく微笑んだ。リリーは可哀そうだったが、とにかく無事に助かって良かった。</p><p>長時間にわたって監禁されていたせいで、足取りの覚束ないリリーを背負い、階段を降りて行く。途中、呻き声を上げて倒れ伏す男たち―特に、気絶してひっくり返ったままのボリスを見て、背中のリリーがはっと息を呑んだが、気にせずに居間を突っ切って玄関から表に出た。</p><p>さて、お家はどっちかな</p><p>とりあえず、現在位置は旧市街の真ん中あたりだ。日が沈んだときの記憶を頼りに方角に当たりを付け、とりあえず大通りに出れば間違いあるまい、と判断したアイリーンは、街の中心部に向かって歩いていく。</p><p>しかし、歩き始めて一分も経たないうちに、</p><p>……なんだアレ</p><p>前方に、揺れる大量の明かり。石畳を走る大人数の足音と、ガチャガチャと金属の装備が擦れ合う音。</p><p>道の向こう側から駆けてきたのは、ランタンを掲げた衛兵の一団だった。</p><p>あっ！　アイリーン！！</p><p>そして、その中から、ひょっこりと顔を出したのは、</p><p>―ケイ！？</p><p>思わず、背中のリリーをずり落としそうになりながら、アイリーンは素っ頓狂な声を上げる。</p><p>衛兵の中から飛び出てきたのは、全身フル装備で持てるだけの矢筒を抱え、ハリネズミのようになったケイであった。かなり走り回ったのか、革兜の下、顔は上気し、汗の浮いた額には髪の毛が張り付いている。</p><p>無事か！！？</p><p>食らいつかんばかりの勢いで、ずいと詰め寄ってくるケイに気圧され、呆気にとられながらもアイリーンは頷いた。</p><p>お、おう……</p><p>……もう終わったみたい、だな。遅すぎたか……</p><p>アイリーンの背中のリリーを見て、安堵のため息を吐きつつも、気が抜けたように膝に手をつくケイ。その背後、 リリーッ！　リリーッ！ と聞き覚えのある声が響く。</p><p>……！　パパーッ！</p><p>目を見開いたリリーが、アイリーンの背中からぴょこんと飛び降りて、声のする方へと駆けていく。</p><p>衛兵たちの一団の後ろから、フラフラになりながらも、モンタンが走り出てきた。</p><p>リリーッ！！　無事だったかい！？</p><p>パパー！　パパぁーッ！！</p><empty-line/><p>モンタンの腕の中に、飛び込むようにしてリリー。二人揃って道の真ん中にずるずると座り込み、そのまま声を上げて泣き始める。</p><p>よかった！　本当に、無事でよかった！　ああ、リリー……！</p><p>パパぁーッ！　こわかったよぉーッ！</p><p>ひしと抱きしめ合う親子二人を、穏やかな表情で、アイリーンとケイは見守っていた。</p><p>あ～。その、なんだ</p><p>しかし、そこで横から声がかけられる。顔を向ければ、そこには衛兵の一人。年配の、立派な黒ひげを蓄えた男だ。</p><p>あっ、アンタはあの時の……！</p><p>黒ひげを指差して、アイリーン。彼は、サティナの街の検問を抜ける際、主にポーションの件で『世話になった』衛兵の一人であった。</p><p>兜を外してぼりぼりと頭をかいた黒ひげは、困ったような顔で、</p><p>すまないが、状況の説明を求めたいんだが</p><p>ああ……まあ、見ての通りだ</p><p>リリーとモンタンの方を示し、ケイは小さく肩をすくめた。</p><p>アイリーンが、子供の救出に成功したのさ</p><p>いや、まあ、そりゃ見れば分かるが……</p><p>輪をかけて困り顔になった黒ひげは、胡散臭げな視線をアイリーンに向ける。</p><p>……腕利きの魔法戦士が救出に向かった、とは聞いていたが。このお嬢ちゃんが？</p><p>ああ、そうだ。彼女がその魔法戦士さ。……アイリーン、結局、リリーはどこで監禁されていたんだ？</p><p>この通りを真っ直ぐ、歩いて一分もしないところの、倉庫みたいなヤツ。中にごろつきが八人いたから、とりあえず死なない程度に痛めつけておいた。……あと、ボリスもグルだった</p><p>……なんだと？</p><p>最後、小声で付け足した情報に、ケイは眉をひそめて表情を険しくする。ますます訳が分からない、といった様子の黒ひげは、半信半疑ながらも追求は諦めたようで、 おい、お前ら！　誘拐犯の住処は近いらしいぞ！ と周囲の部下に声をかけていた。</p><p>ってか、ケイもケイだよ。どうしてここに？</p><p>アイリーンの問いかけに、ケイは自嘲するように乾いた笑みを浮かべる。</p><p>……まあ、お前が出て行ったあと、衛兵に連絡して、モンタンを説得して……援護なり何なりが、出来ればと思ってな。尤も、来るのが遅すぎたみたいだが……</p><p>いや、それもだけど。何で、この場所が分かったんだ？</p><p>首を傾げるアイリーンに、気まずげな表情で、つと視線を逸らすケイ。</p><p>その背後。</p><p>ランタンの明かりに照らされた宵闇の空に。</p><p>アイリーンは、妖艶な笑みを浮かべる、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。</p><p>え、ええー？</p><p>唖然としたアイリーンの顎が、がこん、と落ちる。</p><p>……触媒(エメラルド)使ったのかよ？　無駄すぎる……！</p><p>……。いいんだよ、別に！</p><p>しばし、渋い顔をしたケイであったが、開き直ったようにアイリーンを見据えて、</p><p>宝石の一つや二つ、いつでも買える！　だが、</p><p>だが……、と。</p><p>黒い瞳を揺らし、口を開いたケイは―そのまま何も言えずに、再び目を逸らした。</p><p>まあ、その、なんだ。……遅くなって、すまん</p><p>すっと、頭を下げる。ケイの思わぬ行動にぱちぱちと目を瞬かせたアイリーンであったが、やがて しょうがないな という顔になって、コツンとケイの頭を小突いた。</p><p>……別にいいよ。来てくれただけでも、嬉しいし。それに……</p><p>出発前、自分の言葉が、ケイを傷付けてしまったらしいことを、思い出す。</p><p>…………</p><p>しかし、どうだろう。今ここでそれを謝ると、問題を蒸返すことにならないだろうか。</p><p>今は―。</p><p>唇を引き結んだアイリーンは、ぽん、とケイの肩に手を置いて、笑顔を作った。</p><p>ま、本当に『来てくれただけ』、だけどな！　気持ちは嬉しいけど、はっきり言って今回はクソの役にも立ってないぜ！</p><p>くっ、事実だけに言い返せない……！！</p><p>はっはっは、と笑うアイリーンを前に、悔しそうな顔をするケイ。</p><p>だいたい何だよその格好！　戦争でもおっぱじめる気か？　そんなに矢持ってても、使い切れねえだろ！</p><p>そんなことはない、何かに役に立つかも知れないじゃないか！　ほっとけ！</p><p>市街戦で弓は使えねぇだろー</p><p>いざとなれば壁ごとブチ抜くつもりだったさ！</p><p>やいのやいのと、騒がしく。そのそばでは、おいおいと泣く親子二人。さらにそれを取り巻く衛兵たちの輪。</p><p>兜をかぶり直しつつ、夜空の月を見やった黒ひげは、</p><p>……はぁ。早く帰りてぇ</p><p>ただ、小さく溜息をついた。</p><p>†††</p><p>その後、衛兵たちの手によって、ボリスら誘拐犯一味は全員が御用となった。</p><p>調べてみると、建物内部からは麻薬など非合法の物品が次々と見つかり、実は大規模な麻薬組織のアジトであったことが判明した。ボリスは、その組織の下っ端だったらしい。</p><p>厳しい取り調べにより、芋づる式に構成員が捕縛され、ボリスを含むその殆どが打ち首となった。斬首を免れた残りの者は奴隷に落とされ、鉱山やサティナ北西部の汚物処理村で、死ぬまで強制労働を課せられるそうだ。</p><p>ただ、全ての構成員が口にしていた、まとめ役の『細身の男』については、『トリスタン』という名前が分かったのみで、他には何も情報が得られなかった。どれだけ市内を捜索しても見つからないため、既にサティナから脱出している可能性が高いそうだ。</p><p>モンタン一家はというと、今回の一件で、全員が心身ともに疲れ果てていた。</p><p>特にリリーは大きなショックを受けているようで、しばらくは塾にも行かず、家でゆっくりと過ごすとのこと。モンタンも、しばらくは休業するそうだ。</p><p>当分は、家族水入らずで過ごすつもりです</p><p>ケイに借りた銀貨を返しながら、モンタンは無理やり笑みを浮かべて、しみじみとそう言った。 本当に、ありがとうございました と、アイリーンの手を握って、何度も頭を下げていたのが印象的だった。</p><p>ケイたちは、事件の後も、三日間サティナに滞在した。</p><p>革職人のコナーに任せていたミカヅキの皮の仕上がりを待つのと、護衛の仕事を探すためだ。</p><p>今回の一件を通し、幸か不幸か、ケイたち―主にアイリーンだが―は、『評判』という形で信用を得ることに成功した。</p><p>悪人たちのアジトに颯爽と殴り込み、誘拐された子供を見事救い出した正義の魔法戦士。そしてそれがうら若き乙女ともなれば、評判にならないわけがない。アイリーンの武勇伝はあっという間にサティナの街に広がり、前日に仕事を探したときとは打って変わって、逆に商人の方から護衛を頼まれるほどの人気ぶりであった。</p><p>その中で最も大手だったのが、モンタンの得意先でもあるコーンウェル商会だ。何でも、商会の御曹司のユーリという少年は、誘拐当日にリリーを遅くまで屋敷に引きとめていたらしく、それが誘拐の一因になったのではないかと、自責の念に苛まれているそうだ。同時に、リリーを無事に助け出したアイリーンには深く感謝しているようで、救出の翌日には宿屋まで、本人が直々に多額の謝礼を届けに来た。</p><p>謝礼はユーリ少年のポケットマネーから出ているとのことだったが、それがなんと金貨数枚分に匹敵するほどの大金だった。驚いたのはケイもアイリーンも同じで、有難く頂戴しようとはしたものの、正直なところ、それほどの大金を手渡されるとそれはそれで持ち運びに困る。</p><p>魔術の行使にエメラルドや水晶などの触媒を消費した、と言うと、聡い少年はすぐにその意図を察し、金貨一枚ほどの現金を残していったあと、残りの額に相当する宝石類が翌日に届けられた。ケイが 顕現 を二回使えるだけのエメラルドに、アイリーンが枯渇の心配をしなくて済むほどの上質な水晶とラブラドライト。『宝石の一つや二つなど～』というケイの言葉が、思いのほか早く実現した形だ。</p><p>ちなみにユーリは、リリーが塾通いを再開する際に、護衛を付けることを画策しているらしく、アイリーンをコーンウェル商会専属の護衛として雇うことを提案してきた。男の護衛だとリリーが怖がるかもしれないが、アイリーンならばリリーと知己である上に、器量・力量ともに問題ないというわけだ。謝礼とは別に、これまた目が飛び出るような報酬が提示されたのだが、ケイもアイリーンもサティナに留まるつもりはないので、断腸の思いでその話は断った。</p><p>護衛の話が無くなって、ユーリは至極残念そうにしていたものの、ケイたちがウルヴァーンに向かう予定であることを知ると、すぐに仕事の口を利いてくれた。サティナから街道を北上し、ウルヴァーンまで陸路で向かう隊商の護衛。それも、かなり報酬の良い、数日前までは考えられないような破格の待遇だ。今まで全く接点のなかった少年に、ここまで世話になるとは、流石にケイも予想外だった。</p><p>（―情けは人のためならず、か）</p><p>出立の朝。サティナの北門前にて、ケイはその言葉の意味を考えずにはいられない。</p><p>目の前では、今回護衛として参加する隊商の面々が、積荷の最終チェックを行っていた。ケイとアイリーンは準備万端で、ケイはサスケに、アイリーンは新たに『スズカ』と名付けた草原の民の馬に跨っている。ちなみに残りの二頭は、コーンウェル商会経由で売却済みだ。</p><p>おねえちゃん……行っちゃうの</p><p>うん、ごめんな。どうしても、ウルヴァーンに行かないといけないんだ</p><p>ケイの隣では、アイリーンとリリーが、別れの挨拶をしている。</p><p>…………</p><p>申し訳なさそうなアイリーンに、リリーはただ俯いた。 行かないで とも言わない。ダダをこねて泣きもしない。ただ、無表情で、黙り込んだまま―。これはこれで、来るものがある。</p><p>そうだ。リリーには、これを上げよう</p><p>スズカからひらりと飛び降りて、アイリーンはリリーの目線までしゃがみこんだ。</p><p>……これは？</p><p>お守りさ</p><p>アイリーンがリリーの手に握らせたのは、チェーンに吊り下げられた紅水晶(ローズクォーツ)の結晶だった。</p><p>昨日の夜、作っておいたんだ。魔法をかけておいたから、日が沈んだ後なら、一度だけオレを呼ぶことができる。だからもし、また何か危ない目にあったとしても、それで呼んでくれれば、すぐに助けに来られるよ</p><p>尤も、『呼ぶ』といっても、瞬間移動ができるわけではない。ただ局所的な 顕現 を利用して、ごくごく短い間、会話ができるだけの代物だ。他にもお守りを起点に、遠距離から影を送り込むくらいのことは出来るかも知れないが、所詮は子供だましの域を出ない。</p><p>しかし、その言葉は、まさしく魔法のように劇的に作用した。瞳に輝きを取り戻したリリーは、大切そうに、ぎゅっとお守りを握りしめる。</p><p>……おねえちゃん、ありがとう</p><p>精一杯、健気な笑みを浮かべて礼を言うリリーであったが、その瞳にみるみる涙が溜まっていき、すぐに表情が崩壊した。</p><p>おねえちゃあぁぁん……</p><p>……よしよし</p><p>胸に顔をうずめて静かにすすり泣くリリーの頭を、そっとアイリーンが撫でつける。ケイはそれを、馬上から黙って見守っていた。</p><p>……ケイさん</p><p>と、リリーたちを邪魔しないように、ケイの横にモンタンとキスカがやってくる。</p><p>やあ、どうも</p><p>流石に馬上のままでは失礼なので下馬しようとするが、モンタンがそれを押しとどめた。</p><p>ケイさん。今回は、本当にありがとうございました</p><p>……俺は何もしていない。礼なら、アイリーンの方に頼む</p><p>頭を下げるモンタンたちに、ケイは困ったように微笑んだ。苦笑い、と形容するには、少々苦すぎる味。</p><p>アイリーンさんには、もう何度もお礼を言いましたし。いえ、というか勿論、回数の問題ではないんですが……</p><p>自分の言葉を否定するように、慌てて手を振るモンタンをよそに、キスカが一抱えほどあるバスケットを差し出した。</p><p>サンドイッチです。こんなもので申し訳ないですけど、今日のお昼にでも、アイリーンさんとどうぞ</p><p>おお、それは有難い。……バスケットごと頂いても？</p><p>ええ、もちろんです</p><p>ありがとう</p><p>バスケットをサスケの鞍に括りつけつつ、笑顔で答える。その間に、気を取り直したモンタンが中型の矢筒を取り出した。</p><p>すいません、何だか捻りがなくて申し訳ないんですが……何本か追加で、長矢を仕上げておきました。是非使ってください</p><p>おお、これは……。矢は、既に沢山あるんだが……いいのか？</p><p>もちろんですとも</p><p>深々と頷くモンタン。実際のところ、矢は本当に沢山ある。モンタンから買い占めたものがその殆どだが、問題はその体積だ。ケイの腰、サスケの鞍の両側、サスケの背中、と合計で四つも矢筒がある。しかもそのうち三つがかなり大型のものだ。</p><p>……ありがたく、頂戴しよう。ただ、矢筒は充分に空きがあるから、矢だけ頂いてもよろしいか</p><p>ええ、どうぞどうぞ</p><p>矢だけを抜き取って、腰の矢筒に仕舞う。心なしか、他のものよりもさらに丁寧に仕上げられている気がした。</p><p>よーし。それじゃあそろそろ出発するぞー！</p><p>隊商の先頭から、声が上がる。商人たちが荷馬車に乗り込み、護衛の戦士たちは馬上で背筋を伸ばす。</p><p>出立の、時が来た。</p><p>それでは、そろそろ</p><p>ええ。……お元気で</p><p>本当に、ありがとうございました</p><p>ケイに向かって頭を下げたモンタンとキスカは、最後の機会とばかりにアイリーンにも別れの挨拶をしに行った。</p><p>モンタンたちと、名残惜しそうに会話するアイリーン。それから視線を剥がし、ケイはぼんやりと、晴れ渡った空を見上げる。</p><p>がらがら、と車輪の音を立てて、隊商の荷馬車がゆっくりと進み始めた。</p><p>ぽん、とサスケの脇腹を蹴り、ケイも前進する。</p><p>おねーちゃーん！　またねー！！</p><p>おう、元気でなー！　絶対また来るからなー！！</p><p>ケイの隣、アイリーンが背後のリリーたちに向かって大きく手を振っている。</p><p>この世界に転移してから、おおよそ十日。</p><p>なぜ、自分たちは、この世界にやってきたのか。</p><p>その謎を解き明かすために、ケイとアイリーンは旅立つ。</p><p>目指すは、北。リレイル地方の中心部。</p><p>―要塞都市、“ウルヴァーン”だ。</p><p>本当にありがとうございます……！！</p><p>幕間. Lily</p><p>…………</p><p>段々と小さくなる隊商の影を、幼い少女は、物悲しげにじっと見つめていた。</p><p>……リリー</p><p>傍に寄り添う父親が、そっとその手を握る。</p><p>さあ、そろそろおうちに帰ろう</p><p>……うん</p><p>今日のお昼はビーフシチューにしましょう。ね？</p><p>反対側の手を母親に引かれ、少女はゆっくりと歩き出す。</p><p>時折振り返って背後を見やるも、雑踏の中で、遥か彼方の隊商が見えるはずもなく。</p><p>やはり浮かない顔で、少女は小さく溜息をつくのであった。</p><p>…………</p><p>両親は、そんな少女に、心配げな様子で顔を見合わせる。</p><p>……リリー。何か欲しいものがあったら、遠慮なく言うんだよ。パパが何でも買ってあげるからね</p><p>大通りの商店街に差し掛かったあたりで、何とか娘を慰めようと、父親が努めて明るく話しかけた。</p><p>欲しいもの、と言われて、少女はふと思い出す。</p><p>事件に巻き込まれる直前のこと。身なりはいいが目つきの悪い、少し年上の男の子から貰った、琥珀色の甘いモノ―</p><p>……ねえ、パパ</p><p>少女は、父親の服の袖をくいくいと引っ張った。</p><p>ん？　なんだい？</p><p>あのね、わたし―</p><p>狂おしいまでに、あの味を思い出す。</p><p>―わたし、蜂蜜飴たべたい</p><p>幕間. 根城</p><p>―話は、数日前まで遡る。</p><p>リレイル地方南部。</p><p>辺境の村ラネザよりさらに南、凶暴な獣たちの徘徊する深い森の奥。</p><p>村の住人たちが 深部(アビス) と呼び、決して足を踏み入れることのない、危険な領域に。</p><p>ひっそりと、『それ』は佇んでいる。</p><p>……</p><p>樹海を蛇行しながら流れる川。</p><p>その水面を、滑るように小舟が進んでいく。</p><p>しん、と沁み入る静けさの中に、時折、さざ波の音だけが響く。</p><p>小舟に乗るのは、五人。いずれも、黒い外套に身を包んだ男達。</p><p>船尾にて、ゆったりと櫂を漕ぐ者。</p><p>クロスボウを抱え、周囲を警戒する者。</p><p>舳先に吊るした香炉の火が、消えないよう見張る者。</p><p>残りの二人は、舟の真ん中で、身を寄せ合うようにして座り込んでいた。</p><p>そこに、一切の会話はない。会話する余裕がない、というべきか。真ん中の二人は俯いたまま身じろぎもせず、他の者はそれぞれの役割に集中していた。あるいは、彼らにとっても、ここは油断できない場所なのかもしれない。例え獣避けの香を焚き染めていたとて、それは絶対の安全を保証するものではないのだ。</p><empty-line/><p>どれほどの時間が経ったか―。</p><p>延々と、同じ場所を通り続けているのではないかと。そう錯覚してしまうほどに代わり映えのしなかった景色が、徐々にその様相を変え始める。</p><p>樹木の密度が薄くなり、代わりにごろごろとした石材が散見されるようになった。地面に横たわる苔むした石柱。崩壊しひび割れた巨大な石壁。遺跡、あるいは廃墟。そんな言葉を連想させる。かつて、ここで何かが栄え、そして滅び去った跡―。</p><p>と、頭上より、バサバサと羽音が聴こえてきた。</p><p>同時に、小舟を丸ごと覆い隠すような、巨大な影が差す。思わず全員が空を見上げると、三羽の黒い鳥が舟を取り囲むように旋回していた。そのうちの一羽が包囲の輪を外れ、ゆっくりと小舟に接近してくる。</p><p>ばさり、ばさりと吹き荒れる風。穏やかだった川面が、風圧に吹き散らされる。近づいて見れば、圧倒されるほどにその鳥は大きかった。両脚の爪は短剣のように鋭く、嘴はぎざぎざの歯が生えた恐ろしげなもので、体長はおそらく十メートルを優に超えるだろう。まさしく、怪鳥とでも呼ぶべき存在。</p><p>―Ni honoras la nigra dentego!</p><p>小舟の舳先、香炉の火の見張り役だった男が、片手に金属製のメダルを掲げて高らかに叫ぶ。</p><p>ずん、と音を立てて、近くの石壁に降り立った怪鳥は、翼を畳みながら首を傾げてそちらを覗き込んだ。握り拳ほどもある大きな赤い瞳が、じっとメダルを捉えて動かない。</p><p>ごくり……と、真ん中に座り込んでいた男の一人が、生唾を飲み込む音が響く。</p><p>……ガァ</p><p>ほどなくして、怪鳥は興味を失ったように視線を外し、一声鳴いて再び翼を広げた。来たときと同じように羽音を響かせながら、頭上の二羽と共に何処ともなく飛び去っていく。</p><p>……おっかねぇ</p><p>怪鳥の後ろ姿を見送りながら、ほっと溜息をつくように、先ほど生唾を飲み込んだ男。風にフードがあおられて、その相貌が露わになっていた。短く刈り込んだ茶髪に、こけた頬、げっそりとやつれた顔。歳の頃はまだ若い、二十代前半ほどであろうか。</p><p>青年の名を、『パヴエル』という。</p><p>壊滅したモリセット隊の、数少ない生き残りの一人だ。右肩の傷は未だ癒えておらず、出血で弱った身体には力が入らない。そんな衰弱した状態であるにも関わらず、ベッドから外に連れ出され、さらに化け物のような鳥には睨まれて、肝を冷やしたパヴエルの顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。</p><p>……あぅぇえぉぁ</p><p>その隣では、布で口元を隠したラトが、ぼんやりとした表情で何かを喋っている。それが意味のある言葉なのか、あるいはただ赤子のように声を上げているだけなのか。本人が気狂いになってしまった今では、確かめる術すらない。</p><p>そんな二人をよそに、小舟は再び進み始める。舳先の男は、落ち着いた様子で懐にメダルを仕舞っていた。香炉の火は突風で吹き消されていたが、これ以上、獣避けの香の必要はない。</p><p>ここから先は、彼らの縄張り(テリトリー)だ。</p><p>視界が開け始める。見やれば、川の上流。小高い丘の上に、ひっそりとたたずむ建築物の影。がっしりとした石造りの外壁が連なり、幾重にも水堀が取り囲む中、控え目な高さの尖塔がそびえる。苔むして古びてはいるが、明らかに人の手が入っている、堅牢な要塞建築。</p><p>―『それ』に、名前は付けられていない。</p><p>だが、それを知る者は単純に、『城』とだけ呼ぶ。</p><p>獣の跋扈する樹海と、黒き翼の怪物に守護され、滅び去った古代の都市の中心部に、静かにそびえ立つ古城。</p><p>イグナーツ盗賊団。</p><p>その、知られざる本拠地だ。</p><p>†††</p><p>水門を潜り抜け、城の中へと通されたパヴエルにラトは、無口な黒服の男たちに連れられて、尖塔の一つを登っていった。</p><p>肩を貸してもらいつつ、フラフラになりながらも、塔の頂上へと辿り着く。目の前には、複雑な装飾の施された、重厚な木製の扉。その両側には、まるで岩のように微動だにしない、全身鎧で武装した衛兵の姿がある。</p><p>―ここを『城』だとするならば、中に居るのは、あるいは『王』か―</p><p>そう考えたパヴエルの、顔色がさらに悪くなる。下っ端に過ぎない彼にとって、『城』を訪れるのはこれが初めてであったし、そもそも昨日までは、その所在地すら知らなかったのだ。ましてや盗賊団の首領になど、お目にかかったこともない―</p><p>額に冷や汗が浮き上がり、口の中はからからに乾いていた。今のパヴエルには、隣で白痴のように呆けた表情をしているラトが、ただただ羨ましく見えて仕方がない。</p><p>……お頭、連れてきました</p><p>黒服の一人が、控え目に扉をノックする。 通せ と中からくぐもった声。パヴエルの緊張は、この時ピークに達した。</p><p>ギィッ、と軋みながら、扉が開かれる。入らないという選択肢はない。もうどうにでもなれ、と半ば自棄になったパヴエルは、黒服たちと共にその中へ足を踏み入れた。</p><p>―それほど、広くはない部屋だ。</p><p>ふかふかの赤い絨毯が足音を吸いこむ。そこは拍子抜けするほどにこじんまりとした空間だった。しかし塔の最上部の一室だけあって、解放感が素晴らしい。まず目に入ったのは、窓の木枠にはめられたガラスだ。透明で混じり気がなく、真っ直ぐに成型された品。それは、貴族の館でもお目にかかったことのないほどに、上質なものだった。</p><p>よく来たな</p><p>窓の前、執務机に向かっていた男が、羽根ペンを動かしながらふっと顔を上げる。その眼光に射竦められ、パヴエルは人形のように硬直した。</p><p>大男。</p><p>彼を形容するのに、これ以上に相応しい言葉があろうか。</p><p>全身の盛り上がった筋肉。まるで山のような存在感。手の中の羽根ペンが、ともすれば玩具のように見えてしまうほど太い腕。どことなく熊を連想させる彫りの深い顔立ちは、 公国の将軍だ と言われれば信じてしまいそうなほどに、威厳に満ち溢れている。</p><p>外の衛兵は要らないんじゃないか、と瞬間的にパヴエルはそう思った。ただ椅子に座っているだけなのに、空気が渦巻くような力強さがひしひしと伝わってくる。モリセット隊を壊滅させた、謎の弓使いとはまた別種の、絶望にも似た圧倒的強者の風格。</p><p>―カァ</p><p>部屋の片隅、止まり木の鴉が一声鳴き、気圧されていたパヴエルはハッと我に帰る。</p><p>は、はいっ</p><p>背筋をぴんと伸ばし、慌てて答えるパヴエルに、大男は薄く笑みを浮かべた。</p><p>モリセット隊のパヴエルに、そっちはラトランド、だったな？　さっそく詳しい話を聞かせてもらいたいところだが―先にこれを終わらせちまおう。少し待ってもらっていいか</p><p>も、もちろんです</p><p>こくこくと頷くパヴエル、大男はニカッと野性味のある笑顔を見せて、机の上の書類に視線を戻す。</p><p>しばし、紙の上を羽根ペンが走る音だけが響く。緊張に凝り固まったまま、パヴエルはちらちらと部屋の観察を試みた。上質な赤い絨毯、ボードゲームの置かれた丸テーブル、上品な仕上げの木の椅子に、書物や巻物がぎっしりと詰められた本棚。</p><p>部屋の隅に飾られているのは、大男に相応しい巨大な鎧だ。普通の板金鎧(プレートメイル)よりも重厚な、質実剛健な造りのそれは、幾多の戦いを潜り抜けてきたのか、あちこちに修繕の跡や傷が見られた。その隣には、壁に無造作に立てかけられた戦鎚(バトルハンマー)。これも随分と使い込まれたものなのだろう、きちんと手入れがなされているにも関わらず、全体がどす黒く鈍い光を放っていた。</p><p>……クゥ</p><p>そこでふと、止まり木の黒い鴉と目があう。首を傾げて、身を乗り出すように、こちらを覗き込む赤い瞳。そこに、まるで心を見透かすような、得体の知れない知性の光を見た気がして、薄気味が悪くなったパヴエルはそっと目を逸らした。</p><p>―よし、こんなもんか</p><p>最後にさらさらとサインをし、羽根ペンをインク入れに戻した大男が、ばさりと書類の束を傍らの黒服の男に差し出す。</p><p>いつものように頼む。お前たちは下がっていいぞ</p><p>畏まりました</p><p>大男に促され、付き人の黒服たちが恭しく部屋を辞する。ぱたん、と扉の閉まる音。残されたのは大男にパヴエル、ラトの三人だけとなった。</p><p>はぁ～、まったく、肩がこる……</p><p>ごりごりと首を鳴らしながら、肩を回す大男、</p><p>さて、待たせたな。これでゆっくり話ができる</p><p>机の上で手を組み、改めてパヴエルたちに向き直る。その野生的な体格に不釣り合いなほど理知的な―そうであるからこそ底が知れない―目に見据えられ、パヴエルはびくりと身体を震わせた。</p><p>……むっ</p><p>が、緊張して顔色の悪いパヴエルに、何を思ったのか大男は顔を険しくする。</p><p>そういえば、お前たちは負傷しているんだったか？</p><p>…………</p><p>え、ええ……</p><p>厳しい表情の大男に、呆けたように何も言わないラトの隣、自分は何かやらかしたのかと戦々恐々としながら、パヴエルは小さく首肯した。</p><p>パヴエルの返答に、渋い顔になった大男は、</p><p>むぅ、そいつぁ悪いことをした。立ちっ放しだと辛いだろ、ちょっと待て</p><p>やおら立ち上がり、部屋の隅、丸テーブルの傍らに置いてあった椅子を二脚、ひょいと抱え上げて持ってくる。</p><p>ほれ、とりあえずこれにでも座れ</p><p>そっ、そんなっ、大丈夫ですっ</p><p>なーに、減るもんでもなし、気にすんな</p><p>何でもない顔で、 ほれほれ と椅子を勧める大男。頭目が手ずから椅子を用意するという事態に驚愕し、ひたすらに恐縮するパヴエル。しかしそんな彼をよそに、 おおおぉぉぅ と呻きながらラトがさっさと腰を下ろしてしまったので、おっかなびっくりで席に着いた。</p><p>よしよし、それでいい</p><p>満足げに頷きながら、大男はどっかと自分の椅子に身を投げ出し、くいと首を傾げる。</p><p>さて、二人とも、改めてよく来たな。俺がイグナーツ盗賊団の頭目、『デンナー』だ</p><p>堂々たる名乗り。</p><p>―デンナー。</p><p>その名を聞いて、パヴエルは動きを止めた。</p><p>吸い寄せられるように、部屋の隅に立てかけられた、使い込まれたバトルハンマーに視線をやる。</p><p>デンナー……“巨人”の『デンナー』？</p><p>思わず、といった様子で、口からこぼれ出た言葉。それには答えず、大男―デンナーは、ただその笑みを濃くする。</p><p>……すっすいません、自分は、パヴエルです</p><p>目上の人間を前に呆然とする、という失態に気付いたパヴエルは、すぐに気を取り直して姿勢を正した。</p><p>……それと、こいつが、ラトランドです。口をやられてうまく喋れないのと、その、ちょっと頭がイカレちまったみたいで……</p><p>うむ、報告でもそう聞いている</p><p>机の引き出しから書類を取り出して、それを眺めながら顎ひげを撫でつけるデンナー。</p><p>たしか、タアフの村の近く、だったな。弓使いの男に奇襲されて、モリセット隊は壊滅、モリセットの野郎も死亡、と……</p><p>はい</p><p>詳しい話を聞かせてくれ</p><p>真面目な顔のデンナーに促され、ぺろりと唇を湿らせたパヴエルは、順序立てて最初から話し始める。二人組の旅人を襲撃したこと、それを逃がしてしまったこと、野営の最中で奇襲を食らったこと―。</p><p>デンナーは時折それに質問を挟みつつ、手元の紙にメモを取りながら、真剣な顔で話を聞いていた。</p><p>なるほど、な……モリセットの最期はどうだった？</p><p>すいません。自分は気絶していたもので、分かりません</p><p>……そうか、ならいい。気にするな</p><p>申し訳なさそうに小さくなるパヴエルに、 何でもない という顔で手をひらひらさせるデンナー。</p><p>……そして、これが、</p><p>気まずさを払拭するように、パヴエルはそっと、胸元から『それ』を取り出した。黒い布に覆われた物体。ことん、と机の上に置く。</p><p>デンナーはおもむろに手を伸ばし、その布を剥ぎ取った。中から姿を現す、鈍い銀色の刃。</p><p>―ハウンドウルフの血で汚れた、短剣。</p><p>ハウンドウルフに刺さってたんで、多分、襲撃者の所持品かと……。逃げる途中で見つけたんで、回収しておきました</p><p>……うむ。でかした</p><p>短剣を手に取り、陽光に照らすように眼前に掲げる。指先で刃を弾くと、ぴぃんと澄んだ音が響いた。</p><p>しばらく無言で手の中の短剣をいじっていたデンナーは、顔を上げてふいに正面からパヴエルを見据える。</p><p>パヴエル。お前、魔術について知識はあるか</p><p>えっ？　……いえ、ありません。精霊語で精霊にお願いして、奇跡が起こせるってこと以外は、特に……</p><p>ふむ。こういうとき、敵の所持品を探しておくってのは、モリセットに教えられていたことか？</p><p>はい。それが手がかりになるかもしれないから、と隊長にはいつも言われてました</p><p>そうかそうか。あいつも上手くやってたんだな</p><p>何度も頷くデンナーは、上機嫌なようでどこか寂しげでもあるという、不思議な表情をしていた。</p><p>―わかった。二人とも、報告ご苦労だったな</p><p>立ち上がったデンナーが、ぱんぱんと手を鳴らす。すぐさま扉が開かれて、黒服のメイドが二人、しずしずと入室してきた。</p><p>二人に部屋を用意しろ。それと滋養の付く食べ物もな。ああ、一人は口がダメになっているから、そこは気を利かせろよ</p><p>かしこまりました、デンナー様</p><p>恭しく頭を下げたメイドたちは、 こちらへ とパヴエルたちを部屋の外に誘う。</p><p>えっ、いや、そのっ</p><p>唐突な、まるで客人のような扱いに、目を白黒させるパヴエル。助けを求めるようにデンナーを見やると、彼はニカッと口の端を吊り上げ、</p><p>なあに、休暇みたいなもんだ。こんな辺鄙な場所だが、ゆっくりするといい。傷が癒えたら、またそれになりに働いてもらうがな</p><p>ガッハッハ、と声を上げて笑う。</p><p>困惑の表情を浮かべつつも、ありがとうございます、と頭を下げたパヴエルは、結局一言も喋らなかったラトと共に、メイドたちに連れられて部屋を辞した。</p><p>ぱたん、と扉が閉じ、部屋にはデンナーと、赤い瞳の鴉だけが残される。</p><p>デンナーはどっかと椅子に腰を下ろし、行儀悪く執務机の上に足を投げ出した。</p><p>……どう思う、親(・)父(・)？</p><p>手の中で短剣を弄びながら、独り言を呟くように。</p><p>カァ～</p><p>部屋の鴉が一声鳴き、澄まし顔で毛づくろいの真似をする。</p><p>親父。俺までからかうのはやめてくれ</p><p>カァ～カァ～、カぁ～カッカッかッかッかッ！</p><p>その鳴き声が、途中からしわがれた老人のそれに変わっていく。</p><p>……そうさの。かッかッ、まぁ、只者ではあるまいて</p><p>鴉は翼をはためかせ、止まり木から執務机へ。ぎょろり、と蠢いた赤い瞳が、デンナーを見据える。</p><p>黒い鴉。</p><p>瞳が燃えるような赤であることを除けば、見た目は何の変哲もない、ただの鳥。</p><p>それがまるで、当然であるかのように、鴉は朗々と喋り出す。</p><p>凡人ならば、モリセットの坊主に、奇襲された時点で『詰み』じゃろう。それをいなし、逆襲を仕掛け、なおかつ十人の隊を壊滅させたとなると……その力量を疑う余地はあるまい。問題はむしろ、</p><p>『何故そんな使い手が、そんなところに居たのか』</p><p>じゃのう</p><p>深々と頷く鴉に対し、デンナーは手元の書類に目をやった。ボリボリと頭を掻きながら嘆息する。</p><p>おかしいよなぁ。黒装束をまとった金髪碧眼の乙女に、草原の民風の弓使いの男。しかも男の方がかなりの使い手ともなれば、目立たないはずがねえんだが</p><p>海辺の町ならともかく、タアフの村は内陸部じゃからのう。モリセット隊と接触する前に、近くの街なり村なりで話題に上るはずじゃ</p><p>ああ。それなのに調べても調べても、全く情報が出てこないってのが解せねえ</p><p>ばさり、と書類を机の上に放り出し、デンナー。紙面上には、近隣の街や村々に潜り込んだ構成員の報告が、事細かに記されていた。</p><p>うむ。何者かの、作為を感じるの。不自然であるということは、そういうことじゃ。あくまで、魔術師としての勘じゃがの……</p><p>親父の勘は良く当たる。どこが怪しいと思う？</p><p>タアフの村と言えば、バウケット領じゃろ？　ならばサティナしかあるまいて</p><p>ま、ウチの『客』じゃないデカい街といえば、サティナくらいのもんだしな……</p><p>しばし、考え込むように、一人と一羽は沈黙した。</p><p>……まあいい、すぐに分かることさ。親父、いつものように頼む</p><p>相分(あいわ)かった、鳥たちに探させよう……</p><p>黒羽の鴉は、短剣の前、ばさりと翼を広げる。</p><p>Barono de nigregaj, Stina.</p><p>ぎらりとその瞳が光る、</p><p>Vi sercas la mastro… ekzercu!</p><p>呼びかけに呼応するように、卓上の刃が微かに鳴動した。</p><p>ふむ……</p><p>鴉の両目が、まるでカメレオンのようにぎょろぎょろと目まぐるしく蠢く。しかし、それも長くは続かず、視線はすぐに一点へ定まった。鴉は真っ直ぐに東を向いて、小さく首を傾げる。</p><p>―見つけた。サティナじゃ</p><p>ほう、やはりな。となると、その『弓使い』とやらは、あの街の回し者か。サティナの何処に居る？　高級市街なら、領主に雇われた傭兵でまず間違いないと思うが</p><p>これは……妙じゃの。商人街かのう、何の変哲もない宿屋におるわい。ふぅむ、黒装束ではないが、金髪の女子も連れておる。背中を向けておるので本人の顔は見えぬが―</p><p>実況するように、虚空を見つめながら、鴉はさらに言葉を続けようとした。が、その時、机の短剣がカタカタと震えだし、部屋の空気がぞわりと異様な雰囲気を孕んだ。</p><p>む、いかんッ</p><p>鴉の声に、焦りの色が浮かぶ。ばさりと翼を翻して、目の前の短剣から飛び退った。</p><p>― Sinjoro ―</p><p>部屋の中。</p><p>― Kion vi volas, huh ? ―</p><p>無邪気な、それでいて妖艶な、声が。</p><p>轟々と窓の外、風が吹き荒れる。ガタガタと揺らされる窓枠。何か不吉な予感に襲われたデンナーは、咄嗟に床に伏せた。</p><p>突風が、吹きつける。</p><p>けたたましい音を立てて、部屋の窓が割り砕かれた。飛び散るガラスの破片、ばさばさと舞い散る書類、獣の咆哮のように唸りながら、吹きこみ渦巻き荒れ狂う風。</p><p>こ、これはッ！</p><p>吹き飛ばされないよう、机の上で必死に張り付きながらも、鴉は見た。</p><p>―放置されていた短剣に、見る見る間にひびが入っていき、ボロボロに崩れ去っていく様を。</p><p>！　待て！</p><p>慌てて短剣に近寄ろうとしたところで、バシンッと音を立てて、鴉はまるで見えない手にはたかれたように、部屋の端まで弾き飛ばされる。</p><p>親父ッ！</p><p>大事ない！　しかし―！</p><p>身を起こしたデンナー、その目の前でざらざらと、砂のように短剣が崩壊した。その細かな粒子は風に巻き上げられ、虚空へ誘われるように溶けて消えていく。</p><p>― Gis la revido ―</p><p>鈴の鳴るような、悪戯っ子のような、笑いを含んだ声。巻き上がる風の中に、デンナーはひとりの、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。</p><p>そして唐突に、風は止む。</p><p>…………</p><p>後には呆気にとられたようなデンナーと、部屋の隅で羽根を散らし、頭痛を払うように首を振る鴉だけが残された。</p><p>……親父、いったいどういうことだこりゃ</p><p>めちゃめちゃになった部屋の惨状に、唇を尖らせたデンナーが、咎めるような目で鴉を見やる。しかし茫然と口を開けた鴉は、</p><p>……かッ</p><p>ただ、息を詰まらせたような声を、</p><p>かッ、かッかッ、カカカッッ、カッハハハハハハッ！！</p><p>興奮してばさばさと翼を動かしながら、引き攣ったように笑い始める。</p><p>かッかッかッ、彼奴め、気付きおった！　わしの『眼』に気付きおったぞ！　カカカッ、傑作！！　こいつは傑作じゃ！</p><p>俺には面白くもなんともないんだが……どういうことだ</p><p>書類を整理しながら、憮然とするデンナー。羽ばたいて、デンナーの肩に止まった鴉は、その横顔を覗き込むように、</p><p>魔術師じゃよ</p><p>そっと、囁いた。</p><p>件の弓使いの男は、魔術師じゃ。大精霊の加護を受けておる</p><p>大精霊？</p><p>いかにも。“妖精”や”鬼火”なんぞの子供騙しではない、強大な元素の精霊よ。この場合は、十中八九、風じゃろうが</p><p>何が可笑しいのか、鴉はくっくっくと再び喉を鳴らす。</p><p>勘弁してくれよ、親父が油断したおかげで部屋はこの有り様だぞ……</p><p>デンナーは額を押さえて、小さく溜息をついた。窓ガラスは粉砕され、家具や調度品は倒され、書類やら何やらが散乱し、部屋はまるで竜巻の直撃を受けたかのようだ。</p><p>くふッ、かッかッ。すまんのぅ、いやはや。……あの若者、興味が湧いた</p><p>トンと机に飛び降りて、鴉。ぎらぎらと輝くその双眸には、知性のそれとはまた別種の、何ともおぞましい輝きがある。</p><p>欲しい。あの精霊の力、是が非でも欲しい。どうにかして、我が物としたい。それに……。 Tiuj kiuj insidas en la sablo… alie gi estus unu el la vizitantoj…</p><p>焦点の定まらぬ目で何事かをぶつぶつと呟く鴉に、書類をまとめ上げながらデンナーは再び小さく溜息をついた。</p><p>……まあ、いいさ。とりあえず結論として、件の弓使いはサティナの関係者と見てもいいか</p><p>そうさの。凄腕の弓使い、それも魔術師など、その辺に林檎のようにごろごろと転がってはおるまい。わしら(イグナーツ)への対策として雇われた傭兵か、あるいは……。いずれにせよ、ただの偶然ということはなかろうて</p><p>うむ、と頷いたデンナーは、ぱんぱんと手を鳴らす。</p><p>すぐに扉が開かれ、黒服のメイドがしずしずと入ってくる。人形のような澄まし顔をしていた彼女たちであったが、部屋の惨状を見て、流石にその表情を変えた。</p><p>デンナー様、これは……</p><p>うむ。ちょっとした手違いで、悪戯っ子が入ってきちまってな……お前たち、掃除は任せたぞ</p><p>は、はい……</p><p>本気とも冗談とも取れぬ態度、おどけたように肩をすくめるデンナーに、メイドたちは困惑しながらも頷いた。ばさり、と飛んできた鴉をその腕に止めて、</p><p>それじゃあ、俺は屋根裏に戻る。何かあったら呼べ</p><p>かしこまりました</p><p>頭を下げるメイドたちを尻目に、デンナーは部屋を後にする。</p><p>……しかし、あの部屋の扉も、考えようによっては不便だな</p><p>カァ</p><p>複雑な装飾の施された、木の扉。螺旋階段を登る前に、ちらりと見やってデンナーはひとり小さくごちた。ただの扉に見えるそれは、実は盗聴対策として、一部の限られた音しか通さない魔法がかけられている。密談には好都合だが、裏を返せば、中で何が起きても外の人間には分からない。</p><p>螺旋階段を、登る。</p><p>かつかつ、とブーツの踵が石段を打つ音だけが響く。パヴエルが最上階だと思っていた執務室だが、その上には実は小さな屋根裏部屋がある。デンナーが自分以外の立ち入りを禁じている、完全にプライベートな空間だ。</p><p>階段の上、小さな木の扉の鍵を開けて、デンナーは屋根裏部屋に入る。デンナーの巨体には不釣り合いなほど狭い部屋には、大きめの寝台にこじんまりとした本棚、それに止まり木と、小さなサイドテーブルだけがあった。</p><p>さて、どうするかね、親父</p><p>デンナーの問いかけに、止まり木に移った鴉が首を傾げる。</p><p>……サティナへの対応かの？</p><p>それも、だが、イグナーツのことさ。……この『盗賊ごっこ』も、そろそろ終いにしていいんじゃねえか</p><p>寝台に腰かけ、肘をついて手を組んだデンナーは、真っ直ぐに赤い瞳を見つめた。</p><p>時間は充分にかけた。種も充分に蒔いた。奴隷商の仕事も、せこいクスリの商売も、諜報の真似ごとも、もううんざりだ。</p><p>最近は、サティナも取り締まりを強化してきたからな。割に合わねえから、ウチもあの街からは手を引くことを決めたばかりだ。ここで示し合わせたように、向こうが敵対行動に出てきたのも、何かのサインじゃないかと思ってな</p><p>……頃合い、かの</p><p>ああ</p><p>ぽつりと呟くような鴉に、デンナーは深々と頷く。くっく、としわがれた声で、鴉は喉を鳴らした。</p><p>……正直なところ、わしも、伝書鳩の役にはもう飽き飽きでのぅ</p><p>それは、今のお(・)ま(・)ま(・)ご(・)と(・)を止めても終わらないぜ。むしろ、今よりもっと忙しくなるんじゃないか</p><p>意地の悪い笑みを浮かべるデンナー。</p><p>まあ、件の弓使いのこともあるしの。相応に準備せねばならん</p><p>ああ……だがそろそろ、取りかかろう</p><p>相分かった。となればデンナー、わしは少し戻(・)る(・)ぞ(・)。『此奴』の世話は頼んだ</p><p>分かった</p><p>デンナーが頷くと、止まり木の鴉の瞳から、すっと赤い色が抜けて薄くなった。</p><p>……カァーッ、カァーッ</p><p>一声、二声。首を振りながらきょろきょろと周囲を見回す様子は、まるでただの鳥だ。</p><p>それを見ながら、デンナーは独り嘆息する。</p><p>まったく、モリセットの野郎。これからってときに死んじまいやがって……</p><p>イグナーツ盗賊団の構成員は数知れないが、その中でもモリセットは、デンナーとは十数年の付き合いになる最古参の『仲間』の一人だ。</p><p>思い描くのは、数週間前、幹部クラスの集まりで最後に顔を合わせたときのこと。</p><p>―お頭、俺たちがこれ以上、『盗賊』を続ける意味はあるんですかい？</p><p>モリセットはデンナーに、このように問うた。</p><p>イグナーツ盗賊団は、その名の通り、盗賊団だ。</p><p>しかし旗揚げから十余年。商売柄、女子供を攫うこともあり、その関係で盗賊団は奴隷商とのつながりを得た。限りなくブラックに近いグレーの領域ではあったが、そこで表社会への間口を確立したのだ。</p><p>それを契機に、デンナー達は、様々なものに関わり合っていった。その巧みな隠密行動から密輸や密売にも手を染め、合法・非合法を問わず薬品も扱うようになり、それらのカモフラージュとして真っ当な商売にさえも手を出した。近頃では、自分がイグナーツの手先であるということを知らずに、働いている者も多いことだろう。</p><p>そして、魔術を介した通信と活動範囲の広さは情報収集を助け、さらなる組織の拡張を可能とした。今では幾つかの街と裏取引を行い、イグナーツ盗賊団は諜報組織の真似ごとまでしている。</p><p>―巨大な、それでいて組織化された、公国の裏社会の大部分を占める存在。</p><p>それが、イグナーツ盗賊団の現状だ。</p><p>その組織の全体像を、把握している者は非常に限られている。モリセットは、そんな数少ない構成員の一人だった。彼がデンナーに疑問を呈したのは、イグナーツ盗賊団の莫大な資金源において、盗賊稼業の占める割合が余りに少なく、殆ど儲けがなかったことだ。</p><p>詰まる所、今となっては、盗賊稼業は『無駄』に過ぎぬのではないかと。</p><p>……俺たちは、“盗賊”である必要があったんだよ</p><p>しかしデンナーは、このように答えた。</p><p>所詮は盗賊だが、ついでに諜報の真似もしている。そんな姿勢を、立場を、演出しなきゃならなかったんだ</p><p>イグナーツは巨大で、強大な組織だ。しかし『表』の連中に無駄な警戒心を掻き立てて、全て敵に回してしまうと、それを相手に戦い切れるほど組織としての体力がない。</p><p>故に、油断させなければならない。所詮はただの、盗賊であると。</p><p>また、各々の街との取引のうちには、『手を結んだ領地内での活動は自粛する』というものも含まれていたため、示威行為としてもやはり”盗賊稼業”は必要だった。</p><p>―盗賊をやるなら、利益を出せ。</p><p>―その代わり、被害は出すな。</p><p>犠牲を払って利益を取り、それで採算を合わせるのではなく、犠牲が出るくらいならそもそも襲うな、と。デンナーはそう、モリセットに指示していた。</p><p>モリセットは特別に強いわけではないが、用心深く、狡猾な男だ。欲を出すことも調子に乗ることもなく、ついこの間まで、淡々とその任務をこなしていたわけだが、</p><p>まったく、死んじまいやがって</p><p>ぽつりと、寂しげに。</p><p>……まあ、それももう終わりだ</p><p>顔を上げ、デンナーは寝台横のサイドテーブルを、そっと撫でた。</p><p>音もなく、テーブルの表面に、幻のように地図が浮かび上がる。主要な大都市が全て収められ、リレイル地方の詳細な地形が記された、本来であれば国の最高機密とされてもおかしくないレベルの地図。</p><p>その上に、同じような幻の旗(フラグ)が立ち上がり、表面をびっしりと埋め尽くした。港湾都市キテネ、城郭都市サティナ、鉱山都市ガロン、要塞都市ウルヴァーン―それらの街に突き立つ、色や形の異なる無数の旗。デンナー達が仕掛け、ばら蒔いた、『種』の証―。</p><p>おもむろに腰を上げ、窓の外を見やる。</p><p>地平の果てまで広がる、緑の景色。</p><p>森と、そこに埋もれた、廃墟の姿。</p><p>これまで、色々なものを手に入れてきた―</p><p>巨大な盗賊団の首領として、デンナーはおおよそこの世に存在する、ほぼ全てのものを獲得してきた。</p><p>様々な金銀財宝を略奪し、女を手に入れ、金を手に入れ―今ではこうして、一城の主にまでなった。</p><p>しかしそれでも。</p><p>まだ、奪い取ったことのない、ものがあった。</p><p>振り返る。そこに浮かび上がる、幻の地図。</p><p>―アクランド連合公国。</p><p>さあ、</p><p>にやりと。</p><p>男は、獣のような、獰猛な笑みを浮かべた。</p><p>―国盗りを、始めようか</p><p>運命の歯車は、回り出す。</p><p>22. 護衛</p><p>緩やかに蛇行しながら、北へと流れるモルラ川。</p><p>その川べりに茂る、青々とした木々の間を抜けるようにして、焦げ茶色のレンガで舗装された道が真っ直ぐに伸びる。</p><p>“サン＝アンジェ街道”</p><p>城郭都市サティナから、“公都”こと要塞都市ウルヴァーンまで。リレイル地方の南北を結ぶ、陸上通運の大動脈だ。</p><p>おりこうさんのマイケルは～、今日もげんきに馬車をひく～</p><p>早朝にサティナを発ったケイたちであったが、日はすでに高く昇り、隊商はそろそろ次の村に到着しようとしている。ここまで特に変わったこともなく、欠伸が出るほどに平和で、のんびりとした旅路だった。</p><p>もうかたほうのダニエルは～、ふきげんそうに見えるけど～、ほんとはとってもやさしいのよ～</p><p>隊商は二頭立ての馬車六台から成り、商人たちと、その家族や見習いが十数名、それにケイとアイリーンを含む護衛が合わせて八名の構成だった。動きは鈍いが、盗賊にせよ野獣にせよ、迂闊には襲い掛かれないような大所帯。</p><p>おひさまぽかぽか～、風も気持ちいい～、でもわたしは～、とっても～とっても～、た・い・く・つぅ～う～</p><p>小鳥のさえずりに、がらがらと回る車輪の音。それらに混じって、幼い歌声が響く。サスケに跨り、馬車の速度に合わせてゆっくりと進むケイの横、荷台の幌の影からひょっこりと、浅黒い肌の少女が顔を出した。</p><p>ねえ。わたしのお歌、どう？</p><p>―良いんじゃないかな</p><p>上手だと思うぜ</p><p>曖昧に頷くケイの隣で、草原の民の黒馬(スズカ)に跨るアイリーンが、優しい微笑みとともに頷いた。</p><p>えへへー。そうでしょー</p><p>にぱっ、と顔を輝かせた少女は、そのまま御者台によじ登り、足をぶらぶらとさせながら らんらら～おなかがすいた～ と歌い始める。韻もへったくれもないような即興の歌詞であったが、無邪気にメロディを口ずさむ姿には、それだけで見る者を和ませるような微笑ましさがあった。</p><p>エッダは本当に、お歌が好きだな</p><p>御者台で手綱を握る太っちょの男が、『エッダ』と呼ばれた少女の頭をわしゃわしゃと撫でつける。</p><p>きっと、お父さんに似たのよ？</p><p>はっはっは、そうかいそうかい</p><p>歌うのをやめて首を傾げるエッダに、楽しそうに声を上げて笑う男。</p><p>男の名を、『ホランド』という。</p><p>コーンウェル商会に所属する商人の一人で、この隊商の責任者だ。ケイたちからすれば、今回の護衛(しごと)の直接の雇用主ともいえる。でっぷりとした太鼓腹、どう見ても悪人には見えない垂れ目、トレードマークはきれいに整えられたちょび髭だ。隊商の皆からは、『シェフ』と呼ばれて親しまれているらしい。</p><p>といっても、これは英語で言うところの『料理長』ではなく、彼の生まれの高原の民の言語(オン・フランセ)で『長』という意味だ。扱っている商品のほとんどが食料品なのと、ホランド自身が美食家であることも、この呼び名と無関係ではないだろうが。</p><p>歳の頃は三十代前半といったところで、エッダのやりとりを見る限りでは、どうも彼女の父親にあたる人物のようだ。しかし、ホランド自身は肌が白く、顔立ちもエッダとは似ても似つかない。何か事情があるのだろうか、と勘繰るケイをよそに、ホランドはぽんぽんと腹を叩いて肩をすくめた。</p><p>そうだな、父さんもそろそろお腹が空いてきたぞ。だけど、もうすぐ次の村に着くから、エッダは中に戻っておきなさい。お兄さんたちの仕事を邪魔してはいけないよ</p><p>んん～</p><p>肯定とも否定ともとれぬ声。ホランドに優しく背中を叩かれながら、エッダは御者台に肘をついて、じっとケイたちを観察する。</p><p>凛々しい褐色の毛並みの馬を駆る、黒髪の精悍な若者。エッダのそれよりもさらに深い黒色の瞳を持ち、筋肉質で引締った体格をしている。全身を精緻な装飾の革鎧で覆い、左手には朱色の弓、腰には長剣、馬の鞍にはいくつか大型の矢筒を括りつけていた。</p><p>その頑強そうな肉体に比して、顔は不釣り合いなほどに童顔であったが、左頬に走る真新しい刀傷が、何とも言えない凄みを醸し出している。湖面のように静かな眼差し―どことなく、暗い雰囲気を漂わせているきらいはあるものの、エッダは不思議と 怖いひとだ という印象は抱かなかった。</p><p>その弓使いの青年の隣にいるのは、黒馬に跨る金髪の少女だ。エッダとは対照的な真っ白な肌に、透き通るような青い瞳。金糸で編まれたような髪はリボンで後頭部にまとめられ、陽射しを浴びてきらきらと輝いていた。その身にまとうのは質の良い麻のチュニック、裾からは黒いズボンを履いた脚がすらりと伸びる。</p><p>あるいは、お忍びの貴族の令嬢が庶民の格好をしていると言われても、信じてしまいそうなほどに可憐な姿―しかし、背中に背負われたサーベルと木の盾が、手足の革の籠手と脛当てが、彼女もまた戦いに携わる者であることを如実に示している。エッダの視線に気づき、 うん？ と首を傾げて微笑む様子からは、彼女が戦士であることなど想像もつかないのだが。</p><p>……ねえ、お姉ちゃん</p><p>おもむろに口を開いたエッダは、</p><p>お姉ちゃんが、魔法使いって、本当？</p><p>興味津々なエッダを前に、アイリーンは ふふん と胸を張った。</p><p>ああ。そうだぜ、魔法使いだ！</p><p>へぇ、すごーい！　ねえねえ、魔法ってどんなの？　見せて見せて！</p><p>ん、んー。それはだな……</p><p>しかし、続いて投げかけられた無邪気な要望に一転、アイリーンは困り顔で、さんさんと輝く太陽を見上げる。</p><p>アイリーンが契約を結ぶ”黄昏の乙女”ケルスティンは、その名の通り、日が暮れてから本領を発揮する精霊だ。陽射しの届かない地下深くならともかく、昼間に野外で 顕現 することはできない。それでも一応、簡単な術の行使ならば昼間でも可能なのだが、普段のコスパの良さの反動のように触媒と魔力を馬鹿食いしてしまう。</p><p>実質的に、アイリーンは昼間に魔術が使えないのだ。</p><p>そしてこれは、明確な弱点の一つであり、大きな声で喧伝するようなことでもない。</p><p>む～……</p><p>こらこらエッダ、お姉さんがもっと困っているだろう</p><p>どうしよっかな、と唸るアイリーンを見て、ホランドがすかさずフォローを入れた。</p><p>そもそも魔法使いに魔術の秘奥をせがむのは、商人に仕入れ先を尋ねるようなものだ。あまり無理を言ってはいけないよ</p><p>えー、だって、見てみたいもん</p><p>うーむ、まあ父さんも気持ちは分かるけどな！　仕入れ先にせよ、魔術の秘奥にせよ</p><p>ちら、とアイリーンに期待の眼差しを向けるホランド。これではどちらの味方なのか分からない。</p><p>アイリーンは口を尖らせて、時間を稼いでいるつもりなのか、明後日の方向に目を泳がせている。</p><p>……今は移動中だし、夕方、野営の準備が終わった後とか、ゆっくり時間のあるときにでも見せてあげたらどうだ？</p><p>ケイが横から提案すると、 それだ！ と言わんばかりにアイリーンがびしりとケイを指差した。</p><p>そうだな。今は仕事中だからな。後でなら見せてやってもいいぜ？</p><p>えっ、ほんと！？</p><p>ああ。夕飯が終わったあと、ちょっとだけ、な</p><p>指先の隙間で ちょっと を強調しつつ、アイリーンは茶目っ気たっぷりにウインクして見せる。脳筋戦士のケイとは違い、アイリーンは魔力が強い。太陽さえ沈んでしまえば、子供騙しの簡単な術なら触媒なしでも行使できるのだ。</p><p>わーい、やったー！　ありがとう！</p><p>おおー、言ってみるもんだなぁ</p><p>エッダとホランドが、 いぇーい と御者台でハイタッチする。夕飯の後の楽しみが増えたぞ、とはしゃぐ二人を見て、これでは魔術師というより手品師扱いだな、と思わずケイは笑う。しかし、アイリーンは得意満面の笑みを浮かべているし、当人が満足ならいいことだ。</p><p>さあさ、エッダ。わがままも聞いて貰えたことだし、中に戻っておきなさい。もうちょっとで次の村だからね</p><p>はーい</p><p>今度は聞き分け良く、荷台の方へ戻っていくエッダ。ニコニコとそれを見届けたホランドは、その笑顔のままアイリーンに向き直った。</p><p>いやはや、ありがとう、ありがとう。行商の旅というのは、どうにも退屈なもんでね。遊び盛りのあの子は、随分と刺激に飢えているようだよ</p><p>分かるぜ。あんぐらいの子だったら、そりゃそうだろうな</p><p>全く。しかし、本当に良かったのかね？　自分で言い出しておいて何だが、魔術師は滅多に自分の業を見せないと聞く</p><p>大丈夫。見せてもいいものしか見せないから</p><p>あっけらかんとしたアイリーンの言葉に、 こいつは一本取られた とホランドは苦笑した。</p><p>なるほど、そこは商人と変わらない、か</p><p>今回はエッダの顔に免じて、特別に見物料は取らないでおくぜ</p><p>はっは、これは敵わないな</p><p>ぱしっと額を叩いて、ホランドが笑いだすが、そこに背後から響く蹄の音が混じった。</p><p>おーい、ホランド！　ちょっと待ってくれ！</p><p>見れば後方、馬に乗った傭兵が、こちらに向かって手を振りながら駆けてきている。</p><p>おお、ダグマル。どうした？</p><p>どうしたもこうしたもないよ、トラブルだ</p><p>ケイたちの横までやってきて、騎乗で肩をすくめる傭兵。それは眉毛が濃い、よく日に焼けた中年の男だった。</p><p>『ダグマル』と呼ばれた彼は、この隊商では傭兵のまとめ役をやっており、ケイたちの直接の上司に当たる人物だ。ホランド曰く幼馴染だそうで、悪友とでもいうべき関係なのだろう、お互いにかなりフランクな口調で話している姿が、朝から度々見かけられていた。</p><p>何が起きた？</p><p>ピエールんとこのオンボロ馬車が、今になってイカれやがった。何でも、車軸がガタついて動けねえらしい。今、皆で修理してるが、これがしばらくかかりそうでよ。少しの間待っておいて欲しいんだわ</p><p>……それは仕方ない。が、ピエールはいい加減、新しい馬車を買うべきだな</p><p>全くだ。けどアイツ、金がねえからなぁ</p><p>やれやれと嘆息したダグマルは、しかしすぐに気を取り直してケイを見やった。</p><p>それでだ、ケイ。お前たしか力自慢だったよな？　ちょっと後ろに行って、修理を手伝ってやってくれないか。馬車を支えるのに人手が必要でよ</p><p>分かった、問題ない</p><p>助かる。俺は前の奴らにも知らせてくる、この分だと村に着くのは遅れそうだな</p><p>再び小さく肩をすくめ、ダグマルは慌ただしく前方へと駆けていく。それを見送りながら、ケイはアイリーンに”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を手渡した。</p><p>というわけで、俺は後ろに行くが……。邪魔になりそうだから、預かってくれ</p><p>あいよ</p><p>ありがとう</p><p>弓はアイリーンに任せ、ケイは馬首を巡らせて後方へと向かった。</p><p>ホランドの幌馬車から後ろに一台、二台、トラブルを抱えているのは、どうやら最後尾の馬車のようだ。商人の男と数人の見習いたちが荷台から重い荷物を降ろしつつ、工具や木材の切れ端を手に、後輪に群がるようにして慌ただしく修理を進めている。</p><p>ダグマルから、人手が足りないと聞いたが</p><p>おお、ありがたいっ</p><p>顔を真っ赤にして、荷台を持ち上げるように両手で支えていた商人が、救世主を見るような目でケイを見た。しかし同時に、その腕からふっと力が抜け、馬車の下で荷台を支えていた男が ぬぉっ と唸り声を上げる。</p><p>すっ、すまない、支えてくれないか！？</p><p>任せろ</p><p>商人の悲鳴のような声に、ケイはすぐさまサスケから飛び降りて、代わりに荷台を支え持った。ぐっ、と腰を入れて両腕に力を込めると、まだ少なくない量の商品を載せているにも関わらず、荷台は軋みを上げて僅かに浮き上がる。</p><p>おっ、軽くなった</p><p>下から荷台を支えていた短髪の青年が、嬉しげな声を出す。しかし、よくよく見るとこの男、どうやら商人の見習いではなさそうだった。板金付きの革鎧で身を固めている上に、腰には短剣の鞘が見受けられる。体つきも商人のそれではなく、実戦的に鍛えられた戦士の肉体だ。</p><p>（護衛か？　しかし初めて見る顔だな）</p><p>腕に力を込めつつ、ケイは記憶を辿って首を傾げた。今朝、サティナを出発する前に、ケイたちは他の護衛と顔を合わせている。しかしどうにも、この青年には見覚えがない。短く刈り上げた金髪に、薄い青の瞳。肌は白く、全体的に色素が薄いように感じられる。目つきが妙に鋭く威圧的であることを除けば、その顔立ちは整っていると言っていいだろう。ピアスだらけの左耳が非常に印象的なので、仮に一度でも会っていれば、記憶に残っていない筈がないとケイは考える。</p><p>護衛の傭兵ではなく、誰かの個人的な用心棒なのか。</p><p>あるいは行商に同行しているだけの旅人なのか。</p><p>ケイが考えを巡らせていると、ふと、その青年と目が合った。</p><p>あんた、なかなか、腕っ節が強いな</p><p>どこか―挑戦的な、好戦的な。そんな物騒な光を、瞳の中に見た気がした。</p><p>……そいつはどうも</p><p>おどけるように肩をすくめて、ケイはそれをやり過ごす。</p><p>ようし、ここに板を差しこめ！</p><p>釘！　釘もってこい釘！</p><p>こっちにも角材回してくれ！</p><p>周囲の男達の騒がしい声を聞き流しながら、荷台を支える手に意識を集中させた。</p><p>だが、ケイが視線を逸らしても尚。</p><p>金髪の青年はじっと、野性的な目でケイを見つめ続けていた。</p><p>†††</p><p>結局、隊商の一行が次の村に到着したのは、それから数時間後のことであった。</p><p>言わずもがな、原因は最後尾の馬車だ。実は、ケイが手助けに行ってから、十分としないうちに応急処置そのものは終わったのだが、車軸の傷みが思いのほか不味かったらしく、馬車はカタツムリのような速度しか出せなくなっていた。</p><p>言うまでもなく、これは他の商人たちにはいい迷惑だ。しかし、同じ隊商の仲間である以上、そのまま置いて行くわけにもいかない。</p><p>結果として一行は、その馬車に足並みをそろえる羽目になってしまった。</p><p>本来ならば、次の村には正午過ぎに到着するはずで、村で遅めの昼食を摂ったのち再出発する予定―だったのだが、実際に村に着いたのは、日がそれなりに傾いてからのことだった。ケイとアイリーン、それにエッダは、出発前にキスカから貰ったサンドイッチを昼食にしていたが、その他の面々は亀の歩みとはいえ移動中だっただけに、軽く何かをつまむことしかできず、村に着いた時点で相当な空きっ腹を抱えていた。</p><p>遅延の原因になった『ピエール』という商人が、ホランドを含む全員から総スカンを食らったのは言うまでもない。</p><p>村はずれの広場。</p><p>円陣を組むように馬車を停めた中心、隊商の皆は粛々と野営の準備を進めていた。今、ケイたちがいるのは街道から少し外れた小さな村なので、当然のように全員が休めるような宿泊施設は存在しない。しかし再出発するにはもう暗すぎるということで、今日はここで一夜を明かす運びとなった。</p><p>ふぇっふぇっふぇっふぇ……</p><p>テントを立てたり、荷物を整頓したりする皆をよそに、焚き火にくべられた大鍋を皺だらけの老婆がかき混ぜていた。</p><p>さぁて……ここに、コレを……</p><p>ローブの胸元から、何やら粉末を取り出してぱらぱらと鍋に投じる。さらに追加で薬草を放り込みつつ、ぐつぐつと沸騰する鍋を大べらでかき回して、老婆は ふぇーっふぇっふぇっふぇ と奇怪な笑い声を上げていた。</p><p>……オレなんかより、あの婆様の方がよっぽど魔女っぽいだろ</p><p>テントを張りながら、老婆の方を見やって、アイリーンがぽつり呟いた。</p><p>奇遇だな、俺も全く同じことを考えていたところだ</p><p>テントを挟んで反対側、地面に杭を叩き込みつつ、ケイ。ハンマーを傍らに置いて、杭にテントのロープを結びつけつつ、ちらりと広場に目を向ける。</p><p>湯気を立てる大鍋をかき回す、怪しい皺だらけの老婆。もちろん魔女などではない、この隊商で薬師をしているホランドの親類だ。『ハイデマリー』という名前らしいが、隊商の皆からは『マリーの婆様』、あるいは単に『婆様』と呼ばれて親しまれている。齢は七十を超えているとのことで、この世界の基準からすると、かなり長生きの部類といえた。</p><p>婆様、まだなのか？</p><p>テントを張り終えて手持無沙汰になったと見える、商人の一人がそわそわとした様子で声をかけた。</p><p>ふぇっふぇっふぇ、焦るでない、もう少しで完成じゃ……</p><p>ハイデマリーの返答に、おお、とどよめく男達。先ほどからハイデマリーが大鍋と格闘しているのは、何か薬品を精製しているわけではなく、皆の為に夕飯のリゾットを作っているのだ。</p><p>徐々に漂い始めた、食欲を刺激する、複数のハーブが混ぜ合わせられた良い匂い―。</p><p>ふぇっふぇ、よし、ここにキノコを入れれば、出来あがりじゃよ……！</p><p>ハイデマリーはローブのポケットから、乾燥させたキノコを直に取り出し―衛生面は大丈夫なのかと不安になるケイとアイリーンであったが―それを鍋に投じようとする。</p><p>わ！　わ！　わ！　待て、待て！　キノコはやめろ、キノコはダメだ！</p><p>しかしその瞬間、広場の反対側からホランドが矢のようにすっ飛んできて、ハイデマリーの手から乾燥キノコを勢いよく叩き落とした。</p><p>ああっ！　なんじゃ、何をするんじゃ！</p><p>それはこっちの台詞だ婆さん！　いい加減、何度言ったら分かるんだ！　おれはキノコがダメなんだよ！</p><p>だーからって、はたき落とすことは無いじゃないかね！　苦手なら避けて食べればいいんじゃ！</p><p>ダメなんだ！　中に入ってるの見ただけで、もう鍋の中身全部が食べられないんだ！</p><p>はァーッ！　子供じゃあるまいし、いい歳した大人が恥ずかしくないのかね！</p><p>だ・か・ら！　これには深いワケが……って、勘弁してくれよ、この説明ももう何回目か分からんぞ！　耄碌したか婆さん！</p><p>なんじゃとーッ！？</p><p>木べらを振り上げてお冠のハイデマリー、頭痛を堪えるように額を押さえるホランド、二人は鍋を挟んで、やかましく口喧嘩を始める。やれやれといった様子で、空きっ腹をなだめつつ、それを見守る周囲の者。</p><p>ホランドの旦那はそんなにキノコがダメなのか？</p><p>らしいな</p><p>……あー、これな、ちょっとワケがあるんだわ</p><p>どこか呆れた様子のケイとアイリーンに、近くに居たダグマルが渋い顔をした。</p><p>というと？</p><p>いやな。俺とホランドが幼馴染なのは知ってるだろ。アイツも小さい時は、普通にキノコ食えてたんだよ。だけど俺がガキのとき、ホランドと森に出かけてよ、一緒にキノコ狩りをしたんだが……、</p><p>ぽりぽり、と気まずげに頬をかき、</p><p>俺が間違えて、毒キノコを採っちまってな。それをホランドが食べちまったんだ。三日三晩、熱にうなされて、何とか一命は取り留めたが……それ以来キノコというもんがダメになっちまったらしい</p><p>それは……</p><p>ダグマルの解説に一転、ケイたちは気の毒そうな顔をする。</p><p>トラウマって奴か</p><p>TRAUMA？　何だそれは</p><p>肉体的・精神的なショックで、心に負わされる傷のことさ。戦場で死にかけた兵士が戦えなくなったり、食あたりで旦那みたいにキノコが食えなくなったり……そういうのを『トラウマ』っていうんだ</p><p>へえ、そいつは知らなかった</p><p>アイリーンの解説に、感心したように頷くダグマル。</p><p>そんなケイたちをよそに、ホランドとハイデマリーは、キノコを入れない方向で決着を付けたらしい。今夜のメインのリゾットが、ようやく完成した。</p><p>腹を鳴らしながら、木の器を片手に、焚き火の周囲に集まる隊商の面々。ケイたちも同様に用意していた器にリゾットをついでもらって、テントの傍の木の下で食べ始める。</p><p>しかしアレだな、たまに単語が通じないもんだな</p><p>もしゃもしゃとリゾットをかき込みながら、アイリーン。当たり前だが、ケイもアイリーンも、今現在話しているのは英語だ。</p><p>ああ。ゲームの中だと考えもしなかったが、同じ英語といっても、言語として成立の仕方が違うんだろう</p><p>頷いて答えたケイに、アイリーンは自前のサラミを齧りつつ、ふむと一息ついて首を傾げた。</p><p>『トラウマ』って、ラテン語起源だっけ？</p><p>いや、たしかギリシア語だったと思う。ゲーム内に、ギリシア語圏はなかったからな……多分ギリシア語そのものが存在しないんじゃないか</p><p>DEMONDAL は、北欧のデベロッパが開発したゲームであり、運営会社はイギリス資本であった。プレイヤー人口の八割以上はヨーロッパ圏の住人だったため、ゲームの主言語は英語に設定されていたが、それと同時に雪原の民(ロスキ)、高原の民(フランセ)、海原の民(エスパニャ)など、幾つかのヨーロッパ言語に対応したエリア・民族も実装されていたのだ。</p><p>だけど、旦那らが話すフランス語って、起源を辿ればラテン語だろ。んでもって、ラテン語も元を辿れば、ギリシア語に行きつくんじゃなかったっけ？</p><p>うーむ。『トラウマ』みたいにダイレクトな形じゃないにせよ、英語にもギリシア語起源の語彙は多い筈だからな。こっちの言語がどういう形で成立したのか、言語学的に興味はあるな……</p><p>ウルヴァーンの図書館で、そういうのも調べてみたら、面白いかも知れないぜ？</p><p>時間があったら挑戦してみたいところだ……が、学術的な英語は俺にはちょっと難しいんだよな</p><p>器の中身を食べきって、ケイは小さく溜息をついた。</p><p>ケイは、後天的な英語話者だ。</p><p>VR技術の黎明期、世界中の似たような境遇の患者たちと交流するために、ケイは比較的幼い頃より、コツコツと英語を学んできた。おかげで、というべきか、普通の日本人の子供よりも遥かに、生きた英語や、その他のヨーロッパ言語に触れる機会があったのだ。英語に限っていえば、日常生活に支障のないレベルで、訛りなどもなく流暢に喋れるようになっている。しかし、基本的に実地での叩き上げによる語学力ゆえに、殆ど縁の無い学術的な英語は苦手としていた。</p><p>俺はバイリンガルじゃないからな……アイリーンが羨ましいよ</p><p>バイリンガルっつっても、オレも、英語は完璧ってワケじゃないんだぜ？</p><p>羨望の眼差しを向けるケイに、照れたような表情で肩をすくめるアイリーン。</p><p>あくまで、オレの母語はロシア語だからな……はぁ、ロシア語が懐かしいぜ</p><p>おどけた様子で、わざとらしく、アイリーンは溜息をついて見せる。</p><p>そこに、唐突に。</p><p>―Тогда давай поговорим на русском со мной</p><p>背後から投げかけられた言葉。</p><p>弾かれたように二人は振り返る。</p><p>……お前は、</p><p>ケイは、言葉を呑みこんだ。</p><p>そこにいたのは、薄く笑みを浮かべて、木の幹に寄りかかった金髪の男。</p><p>―昼下がり、馬車の修理の際に見かけた、あの青年だった。</p><p>Ты говоришь на русском языке！？</p><p>驚きの表情で、アイリーンが問いかける。</p><p>Да, я русский</p><p>したり顔で頷く青年。アイリーンはさらに、</p><p>Я удивлена! Я не дубала, что есть русский в этом караване</p><p>Ага, но это правда. Меня зовут Алексей, а Ты?</p><p>Меня зовут Эйлин</p><p>Эйлин？ звучит по-английски</p><p>Именно так. Это потому, что мои родители англичане…</p><p>喜色満面で、ロシア語会話を繰り広げるアイリーンと青年。</p><p>…………</p><p>ひとり、取り残されたケイは、その顔に紛れもなく困惑の表情を浮かべていた。</p><p>―っと、すまん、ケイ、</p><p>ほどなく、ケイが置いてけぼりを食らっているのに気付き、アイリーンが英語に戻す。</p><p>いやいや、その……、驚いたな。雪原の民なのか</p><p>ぎこちなく笑みを浮かべながら、ケイは金髪の青年を見やった。</p><p>ああそうだ。あんたとは、昼にはもう会ったよな</p><p>ニヤッ、と口の端を釣り上げて、青年はケイに手を差し出す。</p><p>よろしく、おれの名前はアレクセイ。雪原の民の戦士だ</p><p>……俺は、ケイという。よろしく頼む</p><p>ぐっ、とアレクセイの手を握り、簡単に自己紹介を済ませる。アレクセイは、かなり握力が強かった。</p><p>アレクセイも、護衛なのか？</p><p>いや、おれは戦士だが、護衛として雇われてはいない。ただ、ピエールの旦那とは個人的な知り合いでな、ウルヴァーンまで馬車に乗せて貰えることになったのさ</p><p>そうか、なるほど……</p><p>曖昧に頷きつつ、ケイは次の話題を探そうとする。</p><p>しかし、それよりも早く、アレクセイがアイリーンに向き直った。</p><p>Но я был удивлен, потому что я никогда не думал, что такая красивая девушка находится здесь</p><p>…Хватит шутить</p><p>Я серьезно. На самом деле удивительно</p><p>再び始まる、異言語の応酬。流れるような会話に、口を挟む余地は感じられない。</p><p>楽しげに話す二人をただただ眺めながら、ケイは無言のまま、顔に愛想笑いのようなものを張り付けていた。</p><p>おーいケイ、ちょっといいか</p><p>と、その時、焚き火の向こう側から、ダグマルがケイを呼んだ。</p><p>すまんが、今日の夜番と仕事の件で話がある。ちょっと来てくれ</p><p>あ、ああ、分かった</p><p>上司の呼出とあっては仕方ない、ケイはやおら立ち上がる。そして、迷ったように視線を揺らして、アイリーンの方を向いた。</p><p>―それじゃあ、ちょっと行ってくる</p><p>Честно говоря, Я не принадлежу к… あ、うん。Я не принадлежу к никакому клану в этом регионе….</p><p>ちら、とケイを見やり、しかしアレクセイとの会話を継続するアイリーン。</p><p>ケイは、一瞬だけ―アレクセイが、面白がるような表情を向けてきた気がした。</p><p>…………</p><p>何とも言えない、疎外感のようなもの。</p><p>それを、ぐっと、腹の奥底に追いやって、ケイは二人に背を向けた。</p><p>†††</p><p>ぱちぱちと爆ぜる焚き火の明かりを、エッダはつまらなさそうな顔で眺める。</p><p>…………</p><p>ちら、と焚き火の向こう側に目をやった。</p><p>小さな木の下で、親しげに語り合うひと組の男女。</p><p>アイリーンと、アレクセイ。</p><p>……魔法、見せてくれるって言ったのに</p><p>ちぇ、と唇を尖らせる。実は先ほどからエッダは、魔法が披露される時間を待っているのだが、アイリーンたちの話が一向に終わる気配を見せない。</p><p>直接頼みに行こうか……とは思うものの、アイリーンと話している革鎧の青年が、どうにも恐ろしく感じられた。顔つきのせいか、雰囲気のせいか。あるいは―どうやら彼が、雪原の民であるらしいためか。</p><p>（でも、お姉ちゃんは、別に怖くないもんな）</p><p>雪原の民の言葉を、流暢に話すアイリーン。それでも彼女には、『優しいお姉さん』という印象しか抱かなかった。</p><p>だが、その相手の男は、何だか怖い。粗野な獣というか、そんな雰囲気を感じる。</p><p>（……もう一人のお兄ちゃんは、怖くないのにな）</p><p>昼からアイリーンとずっと一緒に居た黒髪の青年は、まだ優しい瞳をしていたのに、と。</p><p>しかし、その黒髪の青年も、今はテントの中にいる。</p><p>先ほどダグマルと話しているのを小耳に挟んだが、彼は今晩、遅くに夜番を担当するらしい。それに備えて、早目に睡眠を取るとのことだった。</p><p>寝る前にアイリーンに挨拶をするも、あまり相手にしてもらえず、すごすごと寂しげにテントに入っていく様は、まるで餌を取り損ねて巣穴に戻る熊のようだった。</p><p>（お兄ちゃんとお姉ちゃんは、どういう『関係』なんだろう？）</p><p>ふと、エッダはそんなことを考えた。</p><p>― 友達 なのか。</p><p>―あるいは、 恋人 なのか。</p><p>ただの友達にしては親しげだったわ、とエッダはにらむ。ませた興味と、純粋な好奇心のままに、エッダは二人の仲を夢想する。</p><p>……うーん</p><p>首を傾げて空を見上げるも、そうしている間に眠気が襲ってきて、最終的には ま、いいや と軽く流した。</p><p>……エッダや。そろそろ、おねむかい？</p><p>ふわり、と暖かいものに包まれる。</p><p>……おばあちゃん</p><p>振り返るまでもなく、分かる。だぼだぼのローブ、皺だらけの細い腕、ふんわりとしたお日様の残り香。背後から、ハイデマリーに抱き締められているのだ。</p><p>まだ、眠くないもん</p><p>ふぇっふぇ、そうかいそうかい</p><p>強がるエッダに、ハイデマリーは、ただ小さく笑った。</p><p>……ねえ、おばあちゃん</p><p>ううん？</p><p>雪原の民っていうけど、『雪原』ってどんなところなの？</p><p>……そうだねぇ</p><p>膝の上に座るエッダの髪を撫でながら、ハイデマリーはしばし考える。</p><p>雪原は、“公都”ウルヴァーンよりさらに北、国境を超えた『北の大地』に広がる地域で、山々に囲まれた険しい土地じゃよ。まあ、とてもとても、寒いところじゃ。夏は涼しいが、冬は長く、厳しい。そこに住まう人々、雪原の民は、その環境にも負けない強い人々と聞く</p><p>へぇ。でもなんで、その人たちは、そんな寒いところに住んでるの？</p><p>遥かな太古の時代には、緑豊かな土地であったとか……何故、今も住み続けているか、といえば、やはり先祖から受け継いできた土地だから、かのう</p><p>ふぅん</p><p>……ああ。それに、彼らの使う秘術も関係するかもしれん</p><p>ひじゅつ？</p><p>―『紋章』、と呼ばれておる。多大な命の危険を代償に、獣の魂をその身に宿し、人とは思えぬような力を発揮する業、らしいんじゃが。詳しいことは、わたしも知らないよ</p><p>魔法みたいなものなのかな</p><p>エッダの独り言のような問いに、ハイデマリーは小さく唸る。</p><p>雪原の民の一族でも、限られた人間しか使えぬそうじゃ。ただし、その使い手に『紋章』を贈られた戦士は、普通の戦士とは比べ物にならないほどに強くなる、ということだけは確かじゃの</p><p>知ってるの？</p><p>昔、のぅ。一度だけ、『紋章』を刻まれたという、雪原の民の戦士に会ったことがある。それはそれは、鬼神の如き強さじゃった。『北の大地』には、そんな戦士がごろごろいるんだとか</p><p>ハイデマリーの言葉に、エッダは目を輝かせた。</p><p>すごいなー、行ってみたい</p><p>ふぇっふぇ、それは少し、危ないかもしれんのぅ</p><p>指でエッダの巻き毛をとかすようにして、ハイデマリーはゆっくりと頭を撫でる。</p><p>かの”戦役”より昔、その『紋章』の秘術を巡って、公国は雪原の民に戦争を仕掛けたんじゃ。今では、“戦役”のせいで、公国内では殆ど忘れられておるがの。殴った側はすっかり忘れても、殴られた側はその痛みを忘れない―かの地では未だに、公国に対する深い恨みが残っていると聞く</p><p>そう、なんだ</p><p>曖昧に頷いたエッダは、</p><p>……むずかしいね</p><p>ぽつりと、小さく呟いた。</p><p>そうだね、エッダには、少し難しいかもしれん。みんな、大人のすることじゃよ</p><p>……じゃあ、わたしも、大人になったらするの？</p><p>ふぇっふぇっふぇ。それは、エッダ次第だねぇ</p><p>頭を撫でられる心地よさに、身を任せたエッダは、ふぁ、と小さくあくびをする。</p><p>さあさ、エッダや。夜はもう遅い……そろそろお眠りなさい</p><p>……まだ眠くないもん</p><p>ふぇっふぇ、そうかい</p><p>ハイデマリーは、ただ小さく笑った。</p><p>夜は暖かく、深く、全てを包みゆく。</p><p>その闇の中に、おだやかな眠りを誘い、</p><p>しずかに、ゆったりと、すぎていった。</p><p>はい、というわけで隊商護衛編スタートです！</p><p>23. 言語</p><p>翌朝。</p><p>隊商は再び、予定よりも少し遅れて出発した。</p><p>原因は言わずもがな、ピエールの馬車だ。村の鍛冶屋に手を借りて入念に修理した結果、普通に速度を出しても問題ないレベルまで直ったものの、代わりにかなり時間を食ってしまったのだ。</p><p>何かあったら今度は置いていくぞ―というのは、隊商の長(シェフ)たるホランドの言葉である。</p><p>ガラガラガラと、車輪の転がる音。</p><p>サスケの背に揺られるケイは、何の因果か、ピエールの馬車の横にいた。</p><p>いやぁ、ケイ君が居てくれると心強いなぁ</p><p>馬車の手綱を握りながら、ニコニコと笑顔を向けるピエール。彼は二十代後半ほどの痩せの男で、見習いから叩き上げで馬車を持った若手の行商人だ。が、商売を始めたばかりで資金力がないせいか、はたまたその貧相な体格のせいか、ホランドや他の商人たちと比べると、どうにもみみっちい印象を受ける。</p><p>また何かあったら、その時はお願いするね！　頼りにしてるよケイ君</p><p>……そいつはどうも</p><p>ピエールの言葉に生返事をして、ケイは気取られない程度に小さく溜息をつく。</p><p>要は、配置転換であった。</p><p>昨日、ピエールはケイの腕力にいたく感動したようで、いざという時のフォローの為に、ケイを傍に置いてもらえるようホランドに頼んでいたらしい。そして特に断る理由を持たなかったホランドは、あっさりとそれを承認してしまったのだ。</p><p>そもそもケイとアイリーンは、元は必要とされていなかった人員、この隊商における余剰戦力だ。本来ならばただの旅人として参加するところを、コーンウェル商会のコネによって、給金を受け取れる『護衛』の立場にねじ込んでもらったに過ぎない。</p><p>つまるところホランドからすれば、ケイの配置は、割とどうでもいいのだ。それが中央であろうとも、後方であろうとも。</p><p>（―まあ、それはいいんだが、）</p><p>むぅ、とケイは難しい顔をした。じっとりとした目で見やる、数十メートル先。</p><p>スズカに跨るアイリーン―と、その横をついて歩く金髪の青年。</p><p>（……アイツが前に行かなくていいだろ！）</p><p>言うまでもない、アレクセイだ。</p><p>旅人として隊商に参加する彼は、戦士ではあるが護衛ではなく、従って給料を受け取らぬ代わりに特別な義務も発生しない。せいぜい隊商が襲撃を受けた際に助太刀をするくらいのもので、後は皆に迷惑をかけぬ限り、何をしていてもいいのだ。</p><p>今は能天気に頭の後ろで手を組んで、大股で歩きながら、楽しげにアイリーンに話しかけている。</p><p>И так, ты знаете?</p><p>Что?</p><p>Когда он был маленьким …</p><p>風に流されてくる、楽しげな二人の会話。ロシア語なので何を話しているのかはさっぱりだが、朝からずっとこの調子だった。</p><p>…………</p><p>なんとも―、落ち着かない気分。 アイリーンが誰かとロシア語で話している 、言葉にしてしまえばただそれだけのこと。しかしその”それだけ”が、気にかかって仕方がない。会話の内容が分からないからか、アレクセイが妙に馴れ馴れしいからか、もしくは―。</p><p>もしくは……。</p><p>……ふぅ</p><p>小さく溜息をつく。</p><p>もやもやと胸の奥底から湧き上がる、この釈然としない感情を、どう処理したものか。孤独な馬上でケイは、ひとり頭を悩ませていた。</p><p>あるいは、ケイが二人の様子をよく観察していれば。</p><p>会話の大部分をアレクセイが占めており、アイリーンは質問を挟みつつも、基本的に相槌を打っているだけ、ということに気付けたのかもしれないが―。</p><p>どうしたんだい、ケイ君。元気がないように見えるけど</p><p>ぼんやりとしていると、横から声をかけられる。</p><p>見れば右手、心配げにこちらを覗き込むピエールの顔。</p><p>……いや、</p><p>一瞬、 お前のせいだよ！ と言いたい衝動に駆られたが、頭を振ったケイは手をひらひらとさせて誤魔化した。</p><p>そんなことはない。いつも通り元気さ</p><p>そうかい？</p><p>ああ</p><p>そこでふと、昨夜のアレクセイの言葉を思い出す。</p><p>“ピエールの旦那とは個人的な知り合いでな”</p><p>……なあ、ピエール、ひとつ聞きたいんだが</p><p>ん？　なんだい？　僕が知ってることなら、何でも聞いておくれよ</p><p>人懐っこい笑みを浮かべるピエールに、悪い奴じゃないんだがなぁ、と苦笑しつつ、</p><p>昨夜、アレクセイが言ってたんだが、あなたは彼と個人的な知り合いなんだろう？　どんな風に知り合ったんだ？</p><p>ああ、アレクセイか。彼はね、僕の命の恩人なんだよ</p><p>命の恩人？</p><p>思わぬ言葉が飛び出てきた。興味深げなケイをよそに、ぴょるん、とした控え目なカイゼル髭を撫でつけながら、ピエールはどこか遠い目をする。</p><p>二年前のことだったかなぁ。僕がまだ見習いだったときの話さ。師匠の馬車に乗って、モルラ川より東で行商をしてたんだけどね、街道からちょっと外れたあたりで、盗賊に襲われてさ</p><p>ほうほう</p><p>後方から、弓矢の奇襲だったかな。それで運悪く、二人いた護衛の片方が即死、もう片方も怪我しちゃってね。……一応、ほら、僕ら商人も戦うからさ</p><p>ひょい、と御者台の傍らに置いていたショートボウを、持ち上げて見せるピエール。</p><p>師匠と、怪我した護衛と、僕ら見習いが何人か……。全員戦う覚悟は出来てたんだけど、いかんせん相手が多くてね。七、八人はいたと思う、しかもけっこう強そうでさぁソイツら。こりゃもうダメかな、と諦めかけた、まさにその時！</p><p>手綱を放り出して、ピエールは大袈裟に天を仰ぐ。</p><p>道の向こう側から、地を這うように、放たれた矢のように、猛然と駆けてくる少年が一人ッ！　……それが彼さ。あの時は、今より背も低かったし子供っぽかったけど、本ッ当に強かったなぁ。こう、バッタバッタと……あっという間に五人を討ち取っていったよ。残りの賊は、こりゃ敵わないと尻尾捲いて逃げていった</p><p>ほう、それは……やるな</p><p>ケイの口から漏れ出たのは、紛れもなく本心からの言葉。現在、アレクセイは十八歳ほどに見える。それが二年前の話となると、当時の彼は十六にも満たない、子供といってもいい年頃だろう。話を聞く限りでは機先を制したようだが、それでも大の大人を五人も殺害するのは、容易なことではない。</p><p>なかなかに侮れぬ―と、そう思うケイの目は鋭い。</p><p>あの光景は目に焼き付いて離れないよ。本当に強かった……それから近くの村によって、師匠がお礼とばかりに宴会をして。僕は、見習いだったから、特に何もできなかったけど。次に会った時は、何かお礼をしたいなと考えていたんだよ</p><p>そして、つい先日、サティナの街で偶然アレクセイと再会した―というわけだ。</p><p>なるほど、な……。しかし、すごい偶然だな。街道のはずれで、彼のような強者に出会い、その助太刀で九死に一生を得るとは……</p><p>だねえ、僕もそう思わずにはいられないよ</p><p>しかし、奴は雪原の民だろう？　なんだってこんな辺鄙な場所に、しかも一人で？</p><p>ケイの疑問に、ピエールはしたり顔で頷きながら、</p><p>何でも、成人の儀を兼ねた武者修行の旅らしいよ。話によると彼は、優秀な戦士にのみ許される、『紋章』をその身に刻んでいるらしい</p><p>……ほう</p><p>相槌を打つケイの声が、真剣味を増した。</p><p>『紋章』は、少なくとも DEMONDAL のゲーム内においては、雪原の民が編み出したとされる秘術であった。いわゆる一種の魔術で、精霊の力を借り、野獣の魂をその身に封じて肉体を強化する業。</p><p>プレイヤーがそれを獲得するには、雪原の民の居住地を訪れ、長老より課せられる厳しい試練―課金アイテムにより難易度の軽減が可能―に打ち勝つことが必要であった。おそらく、術の形態や試練の内容は、この世界においても同じだろう、とケイは予想する。</p><p>それが余所者に開放されているかは謎だが―。</p><p>ともあれ、課金と廃プレイの併せ技により、ケイは現在『視力強化』『身体強化』『筋力強化』の三つの紋章をその身に刻んでいる。</p><p>対人戦闘において、紋章の有無は大きな能力差を生む。年端もいかぬアレクセイが、複数の盗賊相手に大立ち回りできたのも、それに依るところが大きいだろう。おそらく、『筋力強化』か『身体強化』か―運動能力を底上げする紋章を、その身に刻んでいると見て間違いない。</p><p>紋章を得た雪原の民の戦士は、二年ほど各地を放浪して、武勇を磨かなければならないらしい。二年前に僕らと別れた後、一人で鉱山都市ガロンまで向かって、東の辺境で魔物や未開の部族と戦ってたんだって。……あ、あと、</p><p>思い出した、と言わんばかりに、ピエールはニッコリと笑みを浮かべた。</p><p>アレクセイの場合、新しい血を入れるために、お嫁さん探しも兼ねてるんだってさ</p><p>……ほーう</p><p>相槌を打つケイの声が、僅かにその温度を下げた。</p><p>へっへっへ、どうしたケイ</p><p>ピエールを挟んで反対側。馬上で黙って話を聞いていたダグマルが、ケイの顔を見て笑い声を上げる。</p><p>そんなに気になるのか？　お前の嫁さんが</p><p>面白おかしげな顔で、ダグマルは前方に、ちらりと意味ありげな視線を送った。</p><p>目を瞬かせること数秒、 your wife(お前の嫁さん) が、アイリーンを指し示していることに気付き、</p><p>別にっ、そういうわけではない</p><p>ぶんぶんと手を振りながら、早口なケイの否定に、 本当か？ と笑みを濃くするダグマル。その笑顔にムッとしながら―なぜ自分がムッとしているのか疑問に思いつつ―ケイは、自分を落ちつけるように大きく咳払いをした。</p><p>―別に、彼女は俺の妻じゃないし、恋人でもない。そもそも俺たちはそ(・)う(・)い(・)う(・)関係じゃないんだ</p><p>へっ？</p><p>ケイの言葉に、ダグマルが気の抜けたような声を出す。</p><p>……つってもお前、あの娘と一緒のテントで寝てるだろ</p><p>まぁ、それは、そうだが……</p><p>返す刀のダグマルの指摘に、渋い顔をする羽目になったのはケイだ。</p><p>昨夜、ケイとアイリーンは、同じテントの中で眠った。</p><p>夜番の関係でケイが先に眠りについたこともあり、揃ってテントにINしたという感覚は薄いが、添い寝に近い至近距離で一緒に寝ていたのは事実だ。</p><p>一人より二人の方が色々な面で安全だから―ケイ以外に知り合いがいないから―持てる荷物の量に限りがあってテントが一つしかないから―理由は色々とあるが、少なくとも、『別々に寝る必要性を感じなかった』のは、これもまた事実といえるだろう。今まで散々、宿屋で同じ部屋を取っておいて、何を今更という話ではあるのだが。</p><p>一緒のテントで寝てはいるが……、その……、接触とか、そういうのはないぞ</p><p>……マジで言ってんのか？</p><p>ああ</p><p>重々しく頷くケイに、 理解不能 といった表情で、顔を見合わせるダグマルとピエール。やがて、ダグマルは何かを察したように、</p><p>そうか……お前、男色だったのか。今度からケイじゃなくてゲイって呼ぶわ</p><p>違うッ、そういうわけでもないッ！</p><p>サスケの上からずり落ちそうになりながら、思わず声を荒げる。</p><p>いや、だって。……なあ？</p><p>ダグマルに同意を求めるような目を向けられ、うんうんと頷いたピエールは、</p><p>あんな美人と一緒で、何もないってのもねえ、変な話じゃないか。僕はてっきり、彼女とは恋仲なのかと思っていたけど</p><p>……親しい友人ではあるが、恋人ではない</p><p>だけどよケイ、お前あんな娘と一緒に寝て、何とも思わねえのかよ？</p><p>信じらんねえ、という顔のままでダグマルがぐいと体を乗り出した。</p><p>普通、あれだけの美人が無防備にしてりゃ、突っ込むだろ？　男なら</p><p>左手で輪っかを作り、右手の指を差し込むジェスチャー。</p><p>いや、それは……</p><p>僅かに顔を赤らめて、ごにょごにょとケイの返事は、要領を得ない。</p><p>正直なところ。</p><p>ケイも男だ。</p><p>アイリーンのような美少女を前にして、何も思わないわけがない。</p><p>そしてこれは、目下のところ、ケイが直面している最大の問題でもあった。</p><p>アイリーンとアレクセイ。二人が話しているのを見ていると、胸の内にもやもやとした感覚が湧き上がってくる。</p><p>疎外感、危機感、不安感。</p><p>これらを表現するに足る言葉は、頭の中にいくつも浮かびあがる。だが、その中で最もシンプルで、かつ強力なのは、やはり『嫉妬』ではないかとケイは思う。</p><p>―では、何故こうも、嫉妬してしまうのか？</p><p>アレクセイに対するライバル意識だ、と。己の胸に手を当てて、 これが、恋……？ と自問するのは容易い。</p><p>しかし、アイリーンに対して抱いているある種の執着が、果たして純粋に恋慕の情によるものなのか。</p><p>それが、ケイには分からない。疑っている、と言ってもよかった。</p><p>―あるいは、アイリーンに欲情しているのを、『恋』に昇華することで正当化しようとしているだけではないか、と。</p><p>そう思えて、仕方がない。単純に、性欲に振り回されているだけなのではないか。そのはけ口を求めるため、アイリーンを好きだと思おうとしているのではないか。</p><p>だとすれば、それは―彼女に対して失礼だと、ケイは思う。</p><p>元々、『こちら』に来る前のケイは、それほど性欲が強いタイプではなかった。</p><p>ピークは、おそらく十代半ばだろう。その後も人並にはあったのだが、末期症状の進行で生殖器にも影響が出始め、二十を過ぎたあたりから急激に醒めていった。転移直前のケイは、興味はあるがムラムラはせず、毎日が殆ど賢者タイムと言ってもいいような有り様だった。</p><p>しかし、この世界で新たな肉体を得て、十日と少しが経過しようとしている。</p><p>健全過ぎる肉体は、日に日にその欲求を増しているようにすら感じられた。サティナに滞在していたときは、人知れず自分で処理する方向で何とかしていたが、隊商には基本的にプライバシーがない。これは、非常に厳しい状況だった。</p><p>それでも、何とか耐えようとしていた理性は、アレクセイの登場により崩壊しようとしている。アレクセイとアイリーンの間に割って入りたい。自分だけを見ていて欲しい。もっとアイリーンと話していたい。そんな衝動的な欲求に、身を任せたくなる。だがその直後に、こうも思ってしまうのだ。</p><p>（俺は本当に、アイリーンが『好き』なんだろうか）</p><p>アイリーン、もといアンドレイとは、二年前からの付き合いになる。お互いに廃人で、仮想空間の中とはいえ、多くの時間を楽しく過ごしてきた。</p><p>しかし、それはあくまで『友人』としてだ。親密ではあるが、良くも悪くも、それだけの関係。ケイは、アンドレイのことを、ずっと男だと思っていた。</p><p>それが、『こちら』に来て、女の子だと分かって―。</p><p>だからといって、十日と経たずに、急に『好き』になるのは如何なものか。</p><p>（……結局、それは、身体目当てなんじゃないか……）</p><p>突き詰めていくと、そういう結論に、辿り着かざるを得ない。</p><p>う～ん……</p><p>眉間にしわを寄せて、急に難しい顔で考え始めるケイ。</p><p>…………</p><p>ダグマルとピエールは再び顔を見合わせて、小さく肩をすくめた。</p><p>†††</p><p>日が、とっぷりと沈むころ。</p><p>夕暮れまでに次の村に辿り着けなかった隊商は、街道の路肩に馬車を寄せて、野営の準備を進めていた。</p><p>この辺りは木々の密度も薄いし、それほど危険な獣もいない。が、だからこそ人間に関しては分からんからな……</p><p>夜番は、気合を入れていこう。皆を三組に分けて、ローテーションで三か所に一人ずつでいいと思うが</p><p>ホランドやダグマルなど、主だった者が集まり、今夜の番について話し合っている。横目でそれを見ながら、ハンマーを片手に、ケイは粛々とテントの設営を行っていた。</p><p>さて、今日はオレも流石に番をするのかな？</p><p>ケイがロープを結ぶ間、反対側から布地を支えながら、心なしかワクワクしたような顔でアイリーンが言う。</p><p>昨晩は村の中で野営をしたので、比較的安全だということで、夜の番は少人数で行われた。ケイは運悪くそれに当たってしまった一人だが、アイリーンは朝までたっぷりと睡眠を取れたようだ。しかし、それはそれで、本人としては不満足だったらしい、夜番があるかも、と期待する無邪気な表情は、まるでキャンプに来た子供のようにも見える。</p><p>アイリーンは変わらないな、と和んだケイは、穏やかな笑みを浮かべて首肯した。</p><p>旦那らの話を聞く限りだと、今晩は増員するみたいだからな。ま、昨日グースカ寝てた分、キツいのを回されるんじゃないか？</p><p>ゲエー。そいつは勘弁！</p><p>朗らかに笑いながら、テントを張り終える。ぱんぱん、とマントの裾をはたいて立ち上がったケイは、</p><p>さて、と……。んじゃあそろそろ飯かな。マリーの婆様は―</p><p>ヘイ、アイリーン！！</p><p>威勢のいい呼びかけに、ケイの言葉は上書きされた。</p><p>やはり来たか……とうんざりした様子で振り返るケイ。その隣で、 オイヨイヨイ…… と一瞬天を仰ぐアイリーン。</p><p>то ты будешь делать сегодня вечером?</p><p>良い笑顔でテンション高めにやってきたのは、案の定アレクセイだった。</p><p>Ничего делать …</p><p>Серьезно? В противном случае, в первую очередь мы будем есть вместе―</p><p>楽しげなアレクセイに、それに合わせて笑顔のアイリーン。そしてそれを前に憮然とするケイと、三人を遠巻きに見守る隊商の面々と。</p><p>―それじゃあまあ、ローテーションはこんなところか</p><p>そうだな。盗賊は恐ろしい、用心するに越したことはない……</p><p>相変わらず、夜番について話し合うホランドたち。その会話を聞き流しつつ、そっぽを向いて焚き火の炎を眺めていたケイであったが、ゆらゆらと揺れる影を見ているうちに、ちょっとしたアイデアと、ささやかな悪戯心が芽生えた。</p><p>…………</p><p>にやり、と意地の悪い笑みを浮かべて、アイリーンに向き直る。</p><p>『なあ、アイリーン。話し込んでるところを済まないが、ちょっといいか』</p><p>うぇっ？</p><p>アレクセイに構わず、強引に話に割り込んできたケイに、アイリーンはぱちぱちと目を瞬かせた。</p><p>『もちろんいい、けど……』</p><p>困惑の表情、</p><p>『……でも、なんで精霊語(エスペラント)？』</p><p>自分もエスペラント語で返しながら、アイリーンが首を傾げる。前にもこんなやり取りあったな、と苦笑いしつつ、ケイは腕を組んだ。</p><p>『うむ。というのも、魔術の話題だから、他人にはあまり聞かれたくなくてな』</p><p>『ああ、そういうこと。あっ、そういえばエッダに魔法見せてあげるんだった……』</p><p>完全に忘れてたぜ、と言わんばかりに、ペシッと額を叩くアイリーン。視界の端、唐突に始まった異言語の応酬に、目を白黒させているアレクセイが、ケイの瞳には小気味よく映った。</p><p>『まあ後でいいや。それで？』</p><p>『そうだな、エッダの話にも関連するが、お前の魔術に関してだ』</p><p>表情を真面目なものに切り替えて、ケイは話を切り出す。思い付きではあるが、ただのアレクセイに対する意趣返し、というわけでもないのだ。</p><p>『なあ、アイリーン。お前のケルスティンで、夜番の代わりというか、警戒用のセンサーみたいな術って使えると思うか？』</p><p>『……ふむ』</p><p>ケイの問いかけに、指先で唇を撫でながら、しばし考え込むアイリーン。</p><p>『……ゲーム内なら NO だったが……この世界だと分からない。できるかも知れない、とは思うな』</p><p>『うーむ、やはりそうか。俺も同意見だ』</p><p>『何か、こっちに来てから、精霊が賢くなった気がするんだよなー。ケルスティンの思考の柔軟性が上がったというか』</p><p>『だな、俺のシーヴも、心なしか素直になった気がする』</p><p>うんうん、と二人で頷き合う。</p><p>DEMONDAL の魔術は、他ゲーに比べると少々異質だ。日本人にとっては、“魔術”と言うよりもむしろ、“召喚術”と呼んだ方がしっくりくるかも知れない。術を行使する主体がプレイヤーにではなく、契約精霊にあるのがその特徴だ。</p><p>ゲーム内においては、まず”精霊”と呼ばれるNPCが存在し、プレイヤーは特定の条件をクリアすることで精霊と契約できるようになる。契約を交わした暁には、魔力や触媒を捧げることで、精霊に力を『行使してもらえる』ようになる、というのが基本的なシステムだ。</p><p>ゲーム内では、この仕様はよく、『職人』と『客』の関係に例えられていた。『職人』が”精霊”で、『客』が”プレイヤー”、『客』が支払う『代金』が”魔力”だ。</p><p>例えば、ここにお菓子職人がいたとする。客は これこれこういったお菓子が欲しい と注文し、代金を支払う。金が多すぎれば職人はお釣りを返し、注文されたお菓子を客に渡す―これが、 DEMONDAL における魔術の、入力から出力までの一連の流れだ。</p><p>ここでお金だけでなく、小麦粉やバターなども一緒に持って行って、 これを上げるから少し安くしてくださいな と交渉するのが、魔術でいうところの”触媒”にあたる。職人は、それが欲しければ受け取って割引するし、いらなければ受け取らず無慈悲に代金を徴収する。代金がマイナスになれば、内臓を売り飛ばされてそのまま死んでしまうが、これが魔力切れによる”枯死”だ。</p><p>ちなみに、お菓子職人のところに、板きれを持って行って お金も払うから、これで家を建ててくれ と交渉することもできる。受けるか受けないかはその職人次第、仮に受けたところで代金をボッタくられるかもしれないし、そもそも完成しないかもしれない。完成したところで専門外なので、その品質は保証できない。ただし、似たような分野のことであれば―洋菓子職人に和菓子を頼んでみる、など―案外、なんとかなる、かもしれない。</p><p>これらのプロセスを全て精霊語(エスペラント)でこなさなければならないのが、 DEMONDAL の魔術の難しいところだ。精霊は基(・)本(・)的(・)に(・)エスペラント語しか解さず、他に指示の出しようがないため、プレイヤーの語彙と文法力が術の複雑性・柔軟性に直結する。</p><p>その上、精霊のAIは意図的にアホの子に設計されていたので、精霊への指示は分かりやすく、かつ簡潔でなければならなかった。これがなかなかの曲者で、出来の悪い翻訳ソフトに上手く訳文を作らせるような、そんなコツと慣れが要求されることも多々あった。</p><p>『だけど、今はそんなことはない。なんつーか、うまく意志疎通を図れるというか、明らかにケルスティンの物分かりが良くなった気がする』</p><p>そう言うアイリーンに、ケイは重々しく頷いた。</p><p>『ああ。だから、警戒アラームみたいな高度な術も、抽象的な指示でこなせるんじゃないかと思ってな……』</p><p>仮に、ゲーム内でケイたちが望むような術を構築するならば、敵味方の判別方法や細かい範囲、持続時間など各種パラメータを考える必要性があり、プログラミングのような高度かつ繊細な『呪文』が要求されるはずだ。</p><p>だが、精霊がアホの子AIではなく、柔軟な思考が可能になった今ならば―。</p><p>『なるほど……幸い、触媒は腐るほどある。試してみる価値はありそうだな』</p><p>にやりと笑って、アイリーンは胸元から、水晶の欠片の入った巾着袋を取り出した。</p><p>よーし、じゃ、やってみるか！</p><p>ああ。ただその前に、とりあえずホランドに相談しておくか……</p><p>おう、だな！</p><p>二人は意気揚々と、ホランドのところへ向かっていく。</p><p>…………</p><p>あとには、ポカンとした表情の、アレクセイ一人が残された。</p><p>結果として。</p><p>ホランドは魔術の使用を快諾し、それに応えたアイリーンは、わずか 顕現 一回分の水晶を代償に術の構築に成功した。</p><p>具体的には、隊商の馬車群を中心に半径五十メートルの範囲で、獣や部外者が侵入すればケルスティンが影の文字で教えてくれる、という術だ。明日の朝日が差すまで有効らしいが、奇襲を受けるリスクを大幅に減らせることを考えると、素晴らしいコストパフォーマンスといえた。</p><p>とぷんと影に呑まれる水晶や、影絵のようにダンスを披露するケルスティンの姿を見て、エッダは飛んだり跳ねたりの大喜びだった。そんな娘の喜びようもあってか、今後この術式を使う際、消費される触媒代はホランドがもつらしい。水晶のストックに余裕はあるとはいえ、願ってもない申し出だ。</p><p>また、この術で夜番の労力が大幅に削減されたので、功労者のアイリーンはローテーションから外され、昨日遅めに番をこなしたケイも今日の夜番は免除となった。</p><p>夕食後、興奮気味のアレクセイが凄い勢いでアイリーンに話しかけていたので、何とも鬱陶しかったが、それほど腹は立たなかった。</p><p>比較的、穏やかな気持ちのまま、ケイは眠りに落ちていくのだった―</p><p>†††</p><p>パチッ、パチッと音を立てて、焚き火の小枝が爆ぜる。</p><p>～♪</p><p>横倒しにした丸太にリラックスした様子で腰かけ、鼻歌を歌いながら、火の中に小枝を投げ込む金髪の青年。</p><p>～♪　～～♪</p><p>ぽきぽきと小枝を手折りながら、自身が醸し出す陽気な雰囲気の割に、鼻歌のメロディはどこか物悲しく、哀愁に満ちている。</p><p>～～♪</p><p>手元に、小枝がなくなった。手持無沙汰になった青年は、傍らに置いた砂時計の残量を確認し、ふっと視線を上げる。</p><p>…………</p><p>焚き火を挟んで反対側に、腰かける老婆と、褐色の肌の少女。</p><p>……お嬢ちゃん</p><p>にやり、と野性的な笑みを浮かべた青年―アレクセイは、語りかけた。</p><p>そろそろ寝なくっていいのか？</p><p>……まだ、眠くないの</p><p>褐色肌の少女―エッダは、後ろから自分をかき抱くハイデマリーの手を握りながら、はっきりと返した。</p><p>強がっている風、ではない。そのきらきらとした目は、馬車の幌に映し出された影に固定されている。</p><p>まるで影絵のように、くるくると踊る、ドレスで着飾った人型の影。</p><p>これ、すげえよなぁ。暇つぶしにはぴったりだ</p><p>口の端を釣り上げて、子供のように純粋な笑顔で、アレクセイは頷いた。ちらり、と見やるは、一つのテント。寝静まった、物音ひとつ立てないテント―。</p><p>しかしまさか、アイツまで魔術師だったとはね……</p><p>…………</p><p>アレクセイの呟きには、誰も答えなかった。</p><p>……～♪</p><p>退屈した様子のアレクセイは、踊る影を見ながら、再び鼻歌を歌い始める。</p><p>アレクセイ。ひとついいかの</p><p>アレクセイの鼻歌が一周したあたりで、ハイデマリーがおもむろに口を開いた。</p><p>ん、なんだい、婆さん</p><p>その歌、よい旋律じゃ……なんという名の曲なのかね</p><p>これか。『GreenSleeves』って曲だよ</p><p>……ほう？　雪原の言葉の歌じゃないのかえ</p><p>ああ。平原の言葉の曲さ</p><p>薄く笑みを浮かべ、姿勢を正したアレクセイは、すっと軽く息を吸い込んだ。</p><p>Alas, my love, you do me wrong,</p><p>To cast me off discourteously.</p><p>For I have loved you for so long,</p><p>Delighting in your company.</p><p>Greensleeves was all my joy</p><p>Greensleeves was my delight,</p><p>Greensleeves was my heart of gold,</p><p>And who but my lady greensleeves…</p><p>哀愁と、情熱と、かすかなほろ苦さ。</p><p>深みのあるテナーの歌声が、静かに響き渡る。</p><p>宵闇にまどろむ者たちを、起こさぬよう、優しく、穏やかに。</p><p>……すごーい</p><p>ぺちぺちぺち、と控え目な拍手をするエッダ。ハイデマリーもそれに続き、何度も何度も頷いていた。</p><p>まことに、良い曲、じゃ。……しかし、一度も聴いたことがない。平原の民の歌、なんじゃろう？</p><p>う～ん、平原の言語の歌だけど、雪原の民に伝わる歌だ。……遥かな昔、霧の彼方より現れた異邦人(エトランジェ)が、我が一族に遺していったと聞く</p><p>……霧の彼方？</p><p>……エトランジェ？</p><p>ああ。一口に『北の大地』と言っても、色々あるんだよ</p><p>興味津々な二人に気を良くしたのか、得意げな顔をしたアレクセイは、焚き火から燃えさしの枝を取って、地面に地図を描き始めた。</p><p>北の大地―って呼ばれてるけど、公国から見て北、って意味だからな。北の大地も東西南北で分けられるのさ。北は、延々と果てしなく雪原の続く、白色平野。夏でも雪は溶けず、その果てまで辿り着いたものはいないと言う。南、というか中央は、いろんな部族が集まってる。冬は寒いが、まあ悪くない土地だ。西は、海に近くて、かなり住み易い。塩もあるし、魚も獲れるし、交易だってできる。雪原の民同士で取り合いが起きるくらい、いいところさ。そして、東―</p><p>簡単な地図の東側を、さっと丸く囲った。アレクセイは声をひそめ、</p><p>ここは、魔の森と呼ばれている……年がら年中、いつ行っても、霧が立ち込めている不気味な森なんだ……</p><p>今までの陽気な調子とは打って変わって、おどろおどろしい声色の語りに、エッダがはっと息を呑んだ。</p><p>賢者の隠れ家……悪魔の棲む森……いろんな呼び名があるけどな。一つ確かなのは、ここが本当に、ヤバい場所だってことだ……</p><p>……どう、どうヤバいの？</p><p>恐れ慄くようなエッダに、難しい顔をしたアレクセイは、しばし呼吸を溜めてから話し始める。</p><p>……これは、俺のじい様から聞いた話だがな</p><p>まるで寒さを堪えるように、二の腕をさすりながら、</p><p>じい様が若かったとき……、やっぱりほら、男だからよ。自分の勇敢さとか、そういうのを証明したくなったらしい。十歩入れば気が狂う、とまで言われる霧の中にどれだけ入っていけるか、試してみようとしたらしいのよ。</p><p>だが、じい様は、魔の森のヤバい噂は色々と聴いててな。やれ、方向感覚を失わせる火の玉だとか……やれ、人間の声を真似て道を誤らせようとする化け物だとか……そういうのに対抗するために、せめて道にだけは迷わないようにって、ロープを持っていくことにしたんだと</p><p>アレクセイは、ひも状の何かを腰に巻きつける動作をして見せた。</p><p>こうやって腰にロープを巻いてさ。もう片方は、森の入口の木に、がっしり縛り付けておく。そうすれば、ロープの長さの分は、中に入って戻ってこれるって寸法よ。念には念を入れて、何重にも木の幹に片方のロープを巻き付けて、準備は万端、じい様は霧の中に入っていった……</p><p>祈るように手を組んで、アレクセイはしばし黙り込む。</p><p>だが……それは、入ってすぐのことだった</p><p>ごくり……とエッダが生唾を飲み込んだ。</p><p>なんと俺のじい様は……入ってすぐだってのに、小便がしたくなっちまったらしい</p><p>……えっ？</p><p>だから、小便。漏れるほどじゃあねえが、何だか気になる。って、そんな感じだったらしい。でもよ、泣く子も黙る魔の森で、立ち小便するほど俺のじい様は馬鹿じゃねえや。入ってすぐだったってこともあるし、とりあえずロープを辿って入口まで戻ることにしたのよ。それで、何の問題もなく、霧の外まで出て、さあ小便を……ってところで……、じい様は気付いちまった……</p><p>すっと、薄青の瞳が、エッダを見据える。</p><p>あれだけ……念には念を入れて、硬い結び目で何重にも括りつけてたロープがよ……ほどけてたんだと。まるで、手品みたいにな……</p><p>…………</p><p>もちろんじい様は一人だった……十歩も行かず、入って、戻っただけだぜ？　周りには自分以外、人(・)っ(・)子(・)一人いやしねえ……それだけでもチビりそうだったのに、じい様は、さらに妙なモノに気付いちまったんだ……</p><p>……なに……？</p><p>なんだかよ。結ったばかりの新品のロープが、ひどく黒く薄汚れて見えたんだと。それで手にとって、よく見てみたら……</p><p>アレクセイは、指の隙間を三センチほど開けて見せた。</p><p>こんぐらいの大きさの……手形が、びっしり……まるで手の汚ねぇ小人が、それで遊んでたみたいにな……</p><p>……！</p><p>しかもその手形……結びつけてた部分だけじゃなかった……よくよく見れば、ほどけた先から、辿って……辿って……自分が腰につけてる方まで、びっしり……それでじい様は、『まさか！』と思って、腰のロープを急いでほどいたんだ。すると……</p><p>……、すると……？</p><p>案の定……、腰んとこまで、手形は辿り着いてやがった……。急に、恐ろしくなったじい様は、もう死に物狂いで、着てた革鎧を脱ぎ棄てた……そしたらよ、</p><p>アレクセイの瞳は、まるで死んでいるようだった。</p><p>鎧の。背中一面。手形がびっしり。ぺたぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺた……</p><p>…………</p><p>じい様は言ってたよ。あの時もし、小便に戻ってなかったら……全身に手形をつけられてたら、自分はどうなってたんだろう、って……</p><p>…………</p><p>ぱちっ、と焚き火の小枝が、爆ぜた。</p><p>……それ、ほんとなの……</p><p>消え入りそうな声で、エッダが尋ねる。アレクセイは真顔で、 ああ と頷いた。</p><p>これに関しては、与太話でも何でもねぇ。少なくとも『手形』は本当にあった話だ。なんで断言できるかっつーと、俺も現物を見たからだ。俺のじい様は、勇敢にも、そのロープと革鎧を家まで持って帰ってきたんだよ</p><p>えっ</p><p>気味が悪過ぎて何度も捨てようかと迷ったらしいが、これがないことには証拠にならねえから、と気合で家まで運んだらしい。途中で恐ろしい目にもあったらしいがな……まあ、それはまた今度にしておくとして</p><p>もっ、もういい！　もういいよ！</p><p>泣きそうな顔で、ぷるぷると首を振るエッダ。</p><p>まあ……そういうわけで、魔の森はマジでヤバい。踏み入った者の半分は、帰ってこねえ。帰ってきたとしても、大抵のヤツは頭がおかしくなっちまってる。霧の中は、化け物や、この世ならざるものが、ウヨウヨしてんのさ……</p><p>アレクセイはぶるりと体を震わせた。</p><p>だから俺も、霧の中にだけは、絶対に立ち入らねえ。この世ならざるものなんて……どうやって太刀打ちすりゃいいんだか……恐ろしい。……っつーわけで。ってか、なんでこんな話になったんだっけ</p><p>霧の……エトランジェの話じゃなかったかの？</p><p>あっ、そうだそうだ、そうだった！</p><p>ハイデマリーの指摘に、ぱんっと膝を打ってアレクセイ。今までの空気を払拭するように、つとめて明るい声を出す。</p><p>まーそれで、魔の森な。あれの唯一の良いところは、中の化け物どもが外に出て来ねえってとこだ。裏を返せば、霧の中から出て来る奴は、化け物じゃあない、多分。言い伝えによると、『入ってないのに出てくる異邦人』ってのがいるらしい。どこか、遠いところから、霧の中に紛れ込んじまった奴ってのがな……</p><p>それが、例の歌を遺していったのかえ</p><p>そうさ。まあ、かなり昔のことらしいから、本当かどうかは分からねえけどな……</p><p>俺は現物を見ないと信じないタイプでね、とアレクセイは肩をすくめた。</p><p>……ま、そーいうわけで。お嬢ちゃん、そろそろ寝た方がいいんじゃねえか</p><p>すっかり大人しくなってしまったエッダに、苦笑いしながらそう尋ねる。</p><p>……おばあちゃん</p><p>心細げな表情で、ハイデマリーを見やるエッダ。ちょいちょい、と何かを求めるように、ローブの袖を引っ張っている。</p><p>はいはい。一緒に寝ようかね</p><p>うん……</p><p>ハッハッハ、良い子はおやすみ。ま、霧の化け物は、魔の森から出てこられねえ。お嬢ちゃんには害はないから、安心しな</p><p>うん……。お兄ちゃん、おやすみ……</p><p>しょんぼりとした表情のまま、ハイデマリーにしがみついて、エッダは荷馬車に用意された寝床へと入っていった。</p><p>……さて、暇だ</p><p>砂時計の砂は、まだ余っている。一人きりになって、改めて時間を持て余したアレクセイは、とりあえず暇潰しの為に馬車の幌へと目をやった。</p><p>ん、あれ？　いねえ</p><p>が、先ほどまで踊っていたはずの影絵の貴婦人は、どこにも見当たらなくなっていた。</p><p>それじゃあエッダ、おやすみ</p><p>おやすみ、おばあちゃん……</p><p>馬車の中、ハイデマリーと隣り合わせで、エッダは頭から布団をかぶっていた。</p><p>…………</p><p>隣に感じる、ハイデマリーの温かさが心強い。が、今日聞いた話は、幼いエッダには、少々強烈過ぎた。</p><p>もし、布団の外側に、『手形』が来てたらどうしよう―。</p><p>そんな、根拠のない恐怖に駆られ、なかなか顔を出すことができない。</p><p>しかし、季節は初夏の、それほど寒くはない夜。頭を出さずに布団の中に潜り込んでいると、当然のように、暑くなる。</p><p>（……大丈夫だよね、お兄ちゃん、お化けは森の外に出れないって行ってたし……）</p><p>暑さには代えられず。どうにか自分を励まし、勇気を奮い立たせたエッダは、ぎゅっと目を瞑ったまま布団から顔を出した。</p><p>頬を撫でる、ひんやりと心地の良い夜気。くふぅ、と息を吐き出し、蒸れていない新鮮な空気を楽しむ。</p><p>…………</p><p>徐々に、眠気が襲ってきた。そうだ、今日は魔法のせいで、少し夜更かししていたんだと。そんなことを考えつつ、うつらうつらしていたエッダであったが―。</p><p>ふと、何かの気配を感じ。</p><p>半覚醒状態のまま、目を開いた。</p><p>視界に飛び込んできたのは―黒。</p><p>馬車の幌をびっしりと埋め尽くす、黒く小さな手形―</p><p>―きッ！</p><p>くわっ、と顔を強張らせたエッダは、そのまま目をぐるりと裏返させて、気絶した。</p><p>……んっ。……エッダや。何か言ったかえ</p><p>…………</p><p>……寝言かえ……</p><p>…………</p><p>あとには、悪戯を終えてくるくると踊る、影絵の精霊だけが残った。</p><p>ちなみに、元々DEMONDALの開発会社は精霊語をラテン語にするつもりだったのですが、ラテン語が難しすぎて心が折れ、急遽もっとシンプルで例外規則のない、人造言語な（＝ネイティブがいないのでスタートライン的に平等）エスペラント語をチョイスした、というどうでもいい設定があります。</p><p>決して、作者がラテン語やろうとして心折れたわけじゃありません。ほんとですよ！　……ほんとですよ！</p><p>24. Yulia</p><p>ぼんやりと、薄暗い。</p><p>木のポールに支えられた布地を眺めて、自分がふと目を覚ましていることに気付く。</p><p>テントの中、ぱちぱちと目を瞬いたケイは、小さく欠伸をしながら上体を起こした。</p><p>（……朝か）</p><p>入口の布の切れ間から漏れ出る、蒼ざめた冷たい朝の光。おそらく、太陽もまだ顔を出していないような早朝だろう。空気の流れが微かに肌寒く、テントの布越しに鳥たちの鳴き声が聴こえる。</p><p>眠気を払うように頭を振って、ふと傍らに目を落とした。テントの支柱を挟んで反対側、アイリーンがマットの上に身を横たえている。上着を丸めた即席の枕に、ほどかれて広がる金髪、その寝顔はすやすやと健やかで、自分の身体を抱えるように毛布にくるまっていた。</p><p>体が丸まっているということは、少し、寒いのだろうか。そう思ったケイは、自分の毛布をはぎ取り、そっとアイリーンに掛けてやった。</p><p>……んぅ</p><p>もぞもぞと身じろぎをして、軽くポジションを変えるアイリーン。起きたかな、と一瞬身構えるケイであったが、アイリーンはそのまま毛布を手繰り寄せ、顔を埋めて幸せそうに眠り続ける。</p><p>……ふふ</p><p>思わず、笑みがこぼれた。出来ることなら、このままずっと寝顔を眺めていたい気分。しかし、目を覚まさないのをいいことに、乙女の寝顔を覗き見るのも如何なものかと思い直し、鋼の意志で視線を引き剥がした。さもなくば、目のあたりにかかった髪を指で払ってあげたい、白磁のような頬に触れてみたい―と、そんな欲求が際限なく湧いて出てしまう。</p><p>枕元に転がしていた剣の鞘を手に取り、そっとテントの外に出た。</p><p>ひんやりと、湿り気を含んだ風が頬を撫でる。白んだ空、たなびく巻き雲―その卓越した視力で朝焼けの星空をざっと眺めたケイは、 今日も晴れか と小さく呟いた。</p><p>すぅ、と息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込む。しばし、呼吸を止めて、体温に馴染ませた呼気を、ゆっくりと吐き出した。</p><p>身体の隅々にまで芯が通り、力が満ち満ちていくような感覚。循環、という言葉を思い起こす。</p><p>腰のベルトに剣を引っ提げて、軽く体を動かした。起き出している隊商の面々に おはよう、おはよう と声をかけながら、モルラ川の河原へと向かう。</p><p>現在、隊商の野営地は下流に位置しているが、相変わらず川の水は驚くほど綺麗だった。水をすくって口をゆすぎ、ついでにぱしゃぱしゃと顔を洗うと、水の冷たさに眠気の残滓が洗い流されていく。現代の地球では有り得ないほどに透き通った水面には、小魚の泳ぐ姿が見て取れた。上流のサティナのような大都市が、下水道を整備して汚物処理を徹底し、汚れた水を川に垂れ流さないよう気を付けている成果だろう。</p><p>基本的に、この世界では様々な技術が発達している。とある事情で火薬が存在せず、そのせいで武器こそ剣と弓のレベルに留まっているものの、冶金技術や衛生観念は、中世ヨーロッパのそれとは比較にならない。特に農業、土木建築、薬理などの分野においては、いわゆる『現代知識チート』で何とかなりそうなものは、おおよそ全て実現されている。宗教や政治などに束縛されず、自然に技術が進歩した結果だ。</p><p>……これでお手軽な魔法でもあれば、もっと楽になるんだがな</p><p>顔を洗ったは良いが、タオルを持ってくるのを忘れたことに気付き、頬から水を滴らせながら渋い顔をするケイ。こんなとき、気軽に風なり火なりを起こして乾燥させることができれば、まさしく『ファンタジー』といった感じなのだが―実際には、高価なエメラルドを一つ犠牲にする羽目になる。</p><p>しかしそんな世界、 DEMONDAL というゲームを選んだのは他でもない、ケイ自身だ。自分が好き好んでやった結果である以上、納得するほかない。</p><p>尤も、ある程度のプレイののち、異世界に転移することが確定していたならば、もっとライトなゲームをやりこんでいただろうが……</p><p>仮に他のゲームで遊んでいたらどうなっていたのか、なぜ自分たちはこの世界にきてしまったのか。疑問は尽きないが、考えてもキリがないし、生産性もない。</p><p>シャツで顔を拭ったケイは、気を取り直して腰の剣を抜いた。</p><p>ここ数日、ケイは実戦から遠のいている。</p><p>ここまで、隊商の護衛とは何だったのかと、そう思わずにはいられないほどのんびりとした旅路だった。勿論、平和なのは歓迎するべきことだ、ゲームと違って本当に命の危険があるのだから。とはいえ、その間に腕が鈍るのも頂けない。平和とは即ち、戦いに備える時間のことを言うのだ―</p><p>真っ直ぐに、虚空に剣を突き出す。刃を盾とした、防御の構え。</p><p>朝もやの漂う川のほとりで、空気が鋭さを増していく。その黒い瞳は、ありし日に戦った誰かを視ていた。前方、数歩の距離。敵意を持った存在が、焦点を結ぶ。</p><p>一瞬の静止ののち、ケイは動いた。</p><p>想定するのは、槍だろうか。長物の刺突をいなすように、ケイの剣先が揺れる。ゆるやかに弧を描く刃、巻き込むように、受け流すように。返す刀が踏み込みと共に唸る。振り下ろす動きが足の筋を断ち、ひるがえった一閃が首筋を撫でた。</p><p>ひゅん、と余韻を残し、下がること二歩、三歩。剣が突き出され、再び防御の構えが完成する。相対していた心像(イメージ)は霞がかかった朝焼けの中に、ぐらりと崩れて霧散していった。</p><p>息をつく間もなく、次。今度の相手は長剣か、上段、中段、下段と多彩な攻撃を受け流すように、滑らかな足捌きで得物を振るう。</p><p>無心。限りなくフラットな心境。</p><p>型をなぞるように、身体が動く。まとわりついた朝もやが、渦巻き、あるいは斬り裂かれる。くんっ、と剣を跳ね上げる動きは、梃子の原理で相手の武器を弾き飛ばす。すかさず、そこに叩き込まれるコンパクトな刺突。控え目にすら見えるそれは、しかしちょうど身体の中心を捉える高さ。心の臓を抉り取る、致命の一撃だ。そして流れる水が集まるかの如く、再び完成する防御の構え。</p><p>目まぐるしく、想定される状況を変えながら、ケイは身体を動かし続けた。十分にも満たない、僅かな時間。長いようで短い、それでいて濃い、そんな凝縮された空間の中で、一心に仮想の敵を斬る。荒々しくも研ぎ澄まされた、不思議な調和がそこにはあった。</p><p>しかし―それも、終わりに近づいた頃。</p><p>ぴんっ、と弦楽器をつま弾くような、微かな殺気が場を乱す。</p><p>咄嗟に、感覚の導くままに、振り向いて横薙ぎに剣を払った。</p><p>パシンッ、と音を立てて、飛来した木の枝が両断される。</p><p>なんだこれは、と眉をひそめるケイをよそに、パチパチとやる気のない音が響く。</p><p>やあ、お見事お見事</p><p>顔を上げたケイが見たのは、薄く笑みを浮かべて拍手する、金髪の青年。</p><p>―アレクセイだ。</p><p>……何の真似だ</p><p>剣を鞘に収めながら、憮然とした表情でケイは問う。急に物を投げつけられて、不快に思わない人間がいようか。</p><p>悪い悪い。あんたの剣が、あんまりにも綺麗だったから……突っついてみたくなっちまったのさ。俺はトランプのタワーがあったら、つい崩してしまうタイプでね</p><p>悪びれる風もなく、おどけた様子で肩をすくめるアレクセイ。しかしケイが何か反応を示す前に、すかさず言葉を続ける。</p><p>それにしても、あんたの剣はお飾りじゃなかったんだな。よほどの使い手に師事してたんだろう、見事な剣技だったよ。羨ましいぜ</p><p>……そいつはどうも</p><p>合理的だし、俺にも参考になる部分があった……けど、おいそれと他人に見せつけるような代物でもないなぁ</p><p>お前が勝手に見たんだろうが</p><p>それもそうか。ま、気を付けなってこった。世の中には、俺より悪い奴がたーくさんいるからな、何をどう盗まれるか分かったもんじゃないぜ……？</p><p>そう言う笑顔は、どこか挑発的だ。心の内に不快感が募る。</p><p>……御忠告、痛みいる。それで？　話が終わりなら、失礼させてもらうが</p><p>つれないねえ</p><p>あくまで一線を引いたケイの態度に、へらへらと笑うアレクセイであったが、その目は真剣な光を帯びていた。</p><p>……ひとつ、聞きたいことがある</p><p>アレクセイが笑みを引っ込め、ぴん、と指を一本立てる。</p><p>はっきりと言うが、俺はアイリーンに惚れている。そこで知りたいのは、彼女とあんたの関係だ。単刀直入に聞かせてもらうが、アイリーンは、あんたの女なのか</p><p>その、あまりに直球すぎる物言いに、思わずケイは言葉を詰まらせた。</p><p>……なかなか、ダイレクトな質問だな</p><p>まあな。だが俺も、こう見えて結構本気なわけよ。もし彼女があんたの女なら、こっちにもそれなりの”礼儀”と”作法”ってもんがある</p><p>かつてないほどに、真摯な態度でアレクセイは言う。その真っ直ぐな視線はケイから毒気を抜き、逆にある種の誠実さをもたらした。困り顔で目を泳がせたケイは、</p><p>アイリーンは、俺の……、親しい女友達(ガールフレンド)だ。だが、恋愛関係にあるかと問われると、……難しいな</p><p>なんつーか、俺の所見なんだが。あんたら、『恋人同士』って感じはしないんだよなぁ。あんたらの関係はむしろ……、そう、ちょうど『お姫さま』と、『それを守る騎士』って間柄に見える</p><p>我ながら言い得て妙だ、とひとり何度も頷くアレクセイ。対するケイは、苦虫を潰したような顔をしていた。</p><p>……あれ。もしかして、本当にお姫様と騎士だったりする？</p><p>はっ、まさか。俺が騎士階級の人間に見えるか？</p><p>見かけで判断できるほど、人を見る目に自信はないんでね。まーそもそも、騎士サマなんざ数えるほどしか会ったことないし、お姫様に至っては殆ど見かけたことすらない。比較なんざしようがないのさ……でも、あんたら二人とも、なかなかにミステリアスだからね。だからこそ分からねえ</p><p>へらへらと笑顔を取り戻したアレクセイは、今度は何か探るような視線を向けてくる。</p><p>アイリーンが言ってた―『故郷が懐かしい』ってな</p><p>その言葉に、ケイは息を呑む。アレクセイは観察するような目を外さないまま、</p><p>それで俺は、『なら、一度帰ればいい』って言ってやったのさ。そしたら、『もう、帰れないかもしれない』って、彼女、悲しそうにしてたぜ。アイリーンは、故郷について多くを語らないが、少なくとも俺の知る部族の出ではなさそうだ。……あんたら二人とも、随分と遠くから来たみたいだな</p><p>アレクセイの口調からは、カマをかけるような、あわよくば情報を聞き出そうという思惑が端々に感じられる。が、ケイはそれよりも前に、軽いショックを受けていた。</p><p>（アイリーンは、そんなことを話していたのか……）</p><p>故郷のことなど―アイリーンのリアルに関わる情報など、ケイは殆ど知らない。ケイが知っているのは僅かに二つ、アイリーンがロシア人で、シベリアに暮らしていた、ということぐらいのものだ。</p><p>（『故郷が懐かしい』だなんて……そんな様子、全然見せてくれなかったし……帰りたいだなんて、一言も―）</p><p>―聞いていない。</p><p>ま、まあ、話せない事情があるんなら、いいんだけどな</p><p>ケイの、思いのほか深刻な雰囲気の沈黙を、どう受け取ったのかは分からないが、アレクセイは少々慌てた様子だ。</p><p>いや……別に……</p><p>そういうわけで、アイリーンがあんたの女じゃないってんなら、俺は好きにやらせてもらうぜ</p><p>曖昧に頷くケイをよそに、手をひらひらとさせながら、アレクセイは逃げるようにその場を去っていった。</p><p>沈黙したケイはひとり、河原の倒木に腰を下ろす。</p><p>水面を眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせた。この、胸の内の、寂しさのようなもの。</p><p>（……詰まるところ、アイリーンも、一人の人間だってことだ）</p><p>彼女も彼女なりに考え、彼女なりに行動する。ケイのように、元の世界に帰ると、あと何年生きれるか分からない、という差し迫った事情でもない限り、郷愁の念に駆られてしまうのも当然というものだろう。</p><p>ケイは、元の世界に未練がない。両親に二度と会えないのは、残念と言えないでもないが、ここ数年はリアルで顔を合わせてはいないし、数日に一度メールでやり取りをする程度の仲だった。また、幼い頃より病室に閉じ込められていたことも相まって、故郷や文化に対する思い入れも薄い。今は元いた世界を失った悲しみよりも、新たな肉体を手に入れられた歓びの方が、大きいのだ。</p><p>その他の友人たちと連絡を取れなくなったのも、それはそれで残念だったが― ここ最近で一番仲の良かった、アイリーンが一緒にいるしな という考えに至り、ケイはそこでハッとさせられた。</p><p>アイリーンの存在が、自分の中で、大きな心の支えになっている。</p><p>その事実に、今さら気付かされたからだ。</p><p>（……もし、この世界に来たときに、アイリーンが一緒に居なかったら）</p><p>自分は、どうなっていただろうか。ケイは想像してみる。</p><p>一応、それなりに、生きていけたであろうとは思う。タアフ村のマンデルではないが、弓の腕さえあれば、傭兵なり狩人なりで生活の糧を得ることはできる。</p><p>だが、果たしてそれは、楽しい人生だろうか。</p><p>今の自分のように、この世界を楽しもうと、前向きになれただろうか。</p><p>（……いや、きっと、なれなかった）</p><p>独りなら、不安に呑み込まれていた。なぜ自分がここに居るのか、何をどうやっていけばいいのか―今でも、将来に対する懸念材料は尽きない。それを踏まえたうえで、ケイが前向きでいられるのは、同じ境遇のアイリーンという存在に、自分の悩みや不安を吐露できていたからだ。彼女の前向きさやユーモアのセンスに、どれだけ救われてきたか分からない。</p><p>それがなければ、今でも暗い夜には、独りで震えていたに違いない。</p><p>（だが……俺は、どうなんだろう）</p><p>翻って、自分の立場を考える。</p><p>アイリーンにとって、この『乃川圭一』という人間は、どういった存在なのか……。</p><p>そのことに思いを馳せると、ケイはまるで、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。</p><p>サティナで、乗せてもらう船が見つからず、宿屋でくだを巻いていたとき―二人で今後のことを話して以来、アイリーンは、不安を漏らさなかった。</p><p>彼女はいつも明るく振舞っており、そしてケイは、そのことに微塵も疑問を抱いていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、それは不自然だ。</p><p>（アイリーンに、不安がないわけないじゃないか……）</p><p>何をどうすればいいのか分からない、とアイリーンは言っていた。自分がどうしたいのか分からない、とも。</p><p>しかし―それだけの筈がない。家族はどうしているのか。元いた世界とこちらの世界に時間のズレはあるのか。元の世界の肉体はどうなっているのか。そもそも帰れるのか、帰れないのか。</p><p>そういった不安を前に、途方に暮れた状態のことを、 どうすればいいのか分からない と、彼女は表現していただけではないのか。</p><p>話しさえしてくれれば、いつでも相談には応じるのに―とは思わないでもないが、ケイはそこで、ある恐るべき仮説に辿り着いてしまう。</p><p>あるいは自分は、乃川圭一という男は。</p><p>もはやアイリーンにとって、悩みを打ち明けるに値しない存在なのではないかと―。</p><p>思い返すは、サティナの街での一件だ。リリーが誘拐され、その救出の是非を巡って、アイリーンと対立した夕べのこと。</p><p>勿論、ケイもリリーを助けたくなかったわけではないが、怪我や死のリスクを鑑みて、殴り込みには消極的だった。結果的にアイリーンが先行し、見事リリーを救い出したわけだが、―今となっては、あの時の自分が、みみっちく感じられて仕方がない。</p><p>結果論であるということは分かっている。また、リスクを恐れて慎重に立ち回ることが、間違いだと思っているわけでもない。</p><p>しかし―あの時、『見捨てる』という選択肢を、アイリーンは『ひとでなし』のすることであると断じた―</p><p>失望されたのか、と。</p><p>ケイは、恐れる。自分には相談せず、アレクセイには話をしていた、というのは、そういうことではないのか。実は、アイリーンは明るく見せかけているだけで、あの笑顔の下で自分を軽蔑しているのではないかと。</p><p>まさかとは思うが、そう考えると、背筋に震えが走るようだった。</p><p>締め付けられる心が、彼女には、彼女だけには嫌われたくないと、叫ぶ。</p><p>『……どうすればいい』</p><p>呟く日本語(ことば)は、誰にも届かず。ただ、陰鬱な溜息だけがこぼれる。</p><p>昨夜、精霊語(エスペラント)でアレクセイに意趣返しのような真似をしたが、こうしてみるとただ虚しいだけだ。アレクセイと、自分とを比べて、やはりネイティブには敵わないのか、と。そう思いたいような、思いたくないような、複雑な心境だった。</p><p>『俺は、どうしたいのか……』</p><p>アイリーンに嫌われたくない、というのだけは確実だが……。</p><p>考え込んでいるうちに、野営地の方から賑やかな声が聴こえ始める。</p><p>見れば、いつの間にか、太陽が顔を出していた。思ったよりも時間が経っていたらしい。もう一度溜息をついて、ケイは重い腰を上げる。</p><p>（……どんな顔をして会えばいいのか、分からなくなってきた）</p><p>この頃、―いや、この世界に来てから、ケイはアイリーンとの距離を測りかねている。しかし、今日はそれが一段と酷くなりそうだった。</p><p>朝日を受けて、川の水面がきらきらと輝く。</p><p>しかし、その煌めきはただただ眩しいだけで。</p><p>美しさとして楽しむ余裕は、今のケイにはなかった。</p><p>†††</p><p>野営地に戻ると、アイリーンは既に目を覚ましており、 グッモーニン、ケイ！ といつもと変わらぬ様子で、愛嬌たっぷりに挨拶してきた。</p><p>その、『変わらない感じ』にホッとしつつも、不安感は完全に拭いきれず、ケイはどこかぎこちなく おはよう と返してしまった。アレクセイが話しかけてきたのを良いことに、どうにかこうにか、誤魔化したが。</p><p>軽い朝食を摂ってから、隊商は再び出発した。</p><p>ホランド曰く、早目に次の村を通過し、今日中に湖畔の町”ユーリア”に辿り着くのが目標らしい。</p><p>ケイはというと、昨日と同じように、最後尾のピエールの馬車の横でサスケの手綱を握っている。前方には相変わらず、スズカに跨るアイリーンと、それについて歩きお喋りをするアレクセイの姿があった。</p><p>…………</p><p>ケイはただ、黙って、それを見ていた。</p><p>次の村に到着したのは、出発してから二時間後のことだ。</p><p>昼前の、中途半端な時間帯。村人との商売のために、軽く一時間ほど滞在するそうだが、ピエール曰くこの村は『美味しい』商売相手ではないらしい。村に滞在するのも、物流のための慈善事業のようなもので、用事が終わり次第すぐに出発するとのことだった。</p><p>当然、村に居る間は、護衛たちの休み時間となるわけだが―ケイは、ダグマルに許可を取り、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“片手に、近くの原っぱに出かけることにした。</p><p>ケイ、どこに行くんだ？</p><p>……ちょっと、昼飯の準備で、狩りにな。弓も使わないと腕が鈍る</p><p>サスケに跨ろうとしたところでアイリーンに見咎められたが、動揺を悟られないように極力素っ気なく答えて、さっさと村を出る。</p><p>あまり時間をかけると、隊商の皆を待たせてしまうかもしれないので、野兎三羽と大型の鳩に似た鳥を一羽仕留め、手早く血抜きを済ませてから村に戻った。</p><p>アイリーンは、アレクセイと話をしているのではないか、と予想していたケイであったが、どうやら木陰で寝転がって昼寝をしているようだ。アレクセイは川べりで暇そうに、村で買ったらしいビワに似た果物を食べている。独りで出掛けたのは自分のくせに、その事実に少しホッとしながら、ケイはハイデマリーに狩ってきた獲物を手渡した。</p><p>……どうした、ケイ。シケた面してんじゃねえか</p><p>手持無沙汰になって、サスケの傍でぼんやりとしていると、赤い顔をしたダグマルが陽気に話しかけてくる。その手には小さめの壺、近くに寄ってみれば微かに酒臭い。どうやら葡萄酒を直呑みしているらしい。</p><p>まだ昼にもなってないぞ、いいのか、そんなに呑んで</p><p>なぁに、かまやしねえ。どうせすぐにユーリアに着くしな。それに、ここらは盗賊も獣も出ねえんだ</p><p>……馬から落っこちても知らんぞ</p><p>そこまで酔っ払いはしねえよ</p><p>ガッハッハ、と大笑いするダグマル。しかしその言葉とは裏腹に、そこそこ出来あがっているようにも見える。それほど酒には強くない体質なのか。</p><p>（酔っ払いの相手は面倒なんだがな……）</p><p>さりとて、他にやることもなし。ケイはダグマルの話に付き合うことにした。</p><p>で、ケイ。お前、ユーリアじゃ一発『買う』つもりかい？</p><p>……何をだ？</p><p>何、って。……そりゃナニをだよ</p><p>怪訝な顔をするケイに、ぐへへと下衆な顔で笑うダグマル。しかし、いつまでもケイが察さず、きょとんとしたままなので、呆れたように天を仰いだ。</p><p>なんだオメエ、知らねえのか。ユーリアといえば、屈強な船乗りや傭兵が集まる町だ。男が集まる所にゃ、女も集まる。……色街だよ、色街！</p><p>ここにきて、ダグマルの『買う』という言葉に合点がいく。</p><p>……なんだって急に、そんな話を</p><p>平静を装って返すも、興味がゼロといえないのも、ケイの辛いところだ。</p><p>別に急でもねえよ、みんな楽しみにしてるぜ？　お前も、色(・)々(・)と(・)溜まってるだろうからよ、先輩の親切心よぉ</p><p>ぐへへへ……と意味深に、アイリーンが昼寝している方向を見やって、ダグマルが再び下衆な顔で笑いかけてきた。</p><p>……いや、いいよ。気持ちはありがたいが</p><p>冷静に考えると、病気とかも怖いし―と、口には出さないでおいたが、丁重にお断りする。</p><p>上玉の揃ってる、良い宿を知ってるんだが……</p><p>俺には、必要のないことだ。気にしないでくれ</p><p>そうか……</p><p>くい、と葡萄酒の壺を傾けたダグマルは、ケイに憐れむような目を向けた。</p><p>薄々そうじゃないか、とは思ってたがな。お前やっぱりアレか、不能(インポ)か</p><p>それは違うッ！</p><p>その後、やたら絡んでくるダグマルと言い合いをしているうちに、出発の時間となった。</p><p>†††</p><p>村を出てから数時間、昼食の休憩を挟みつつ、隊商は一路ユーリアへと向かう。</p><p>北に向かって進むごとに、地形は徐々に起伏のあるものへと変わっていく。草原は平野に、平野は丘に、モルラ川も緩やかに蛇行を始めた。</p><p>ダグマルはやはり酒に弱いらしく、馬の上でフラフラになっていたが、その言葉の通り旅路に支障はないようだ。日が傾く頃には、一行は湖畔の町ユーリアに到着した。</p><p>ユーリアの特徴は、なんといっても隣接しているシュナペイア湖だろう。サティナから流れてくるモルラ川と、ウルヴァーンから流れてくるアリア川。その二つが交わる交通の要所であり、物資の一時的な集積地、及び船乗りや商人に対する歓楽街として機能している。</p><p>町としての性格上、サティナに比べると開放的で、堅固な城郭などは擁していない。また、歓楽街が町の大部分を占める上に、衛兵の数も少ないので、治安はそれなりに悪いようだ。</p><p>だが、湖のそばの岩山に領主が城を構えており、城壁の中にはユーリアの騎士や傭兵が詰めているそうで、有事の際への備えは万全とのこと。</p><p>それじゃあ、明後日の昼、十二時の鐘が鳴る時に、この広場に集合だ。解散！</p><p>町はずれの広場。ホランドの声を受け、がやがやと傭兵たちが町に散っていく。隊商は、ユーリアに二日間滞在する予定だ。その間は各自宿屋に泊ることとなり、今回の場合、宿泊費は自腹となる。</p><p>よし、それじゃあケイ、オレたちも行こうぜ</p><p>あ、ああ……</p><p>ケイはアイリーンに強引に腕を引かれ、商人街の一角を歩いていた。勿論、サスケとスズカも一緒だ。</p><p>さて、厩舎のある、そこそこの宿屋となると……</p><p>きょろきょろと、周囲を見回しながら歩くアイリーン。宿屋の密集する商人街だけに、『ＩＮＮ』と書かれた看板は山ほどあるが、逆により取り見取りすぎてどれを選べばいいのか分からない状態だ。</p><p>見当がつかないな。ホランドの旦那に聞いておくべきだったか</p><p>かもなぁ</p><p>ケイの言葉に、ちと急ぎ過ぎたかな、とアイリーンが渋い顔をする。</p><p>結局、割高なのは覚悟で、派手な装飾がされたガチョウの看板が目印の、小奇麗な宿を取ることとなった。</p><p>ようこそ、“GoldenGoose”亭へ。お二人様で？</p><p>酒場を兼ねたそこそこに清潔なホールで、女将と思しき中年の女性が、見事な営業スマイルを向けてくる。</p><p>ああ、それと馬を二頭頼む</p><p>小間使いにサスケとスズカを任せ、ケイたちは早速部屋を取ることにした。</p><p>それで、何人部屋が空いてる？</p><p>アイリーンの問いかけに、女将が台帳を開く。ケイの顔に、緊張の色が浮かんだ。</p><p>……そうですね。二人部屋が一つと、大部屋が一つ。あと、個室も二つ空いてますよ</p><p>女将の言葉に、（来た！）と頷くケイ。</p><p>そっか、それじゃあ―</p><p>個室で頼む</p><p>アイリーンが言う前に、ずいと割り込んだ。ケイとアイリーンの顔を見比べて、不思議そうに女将が小首を傾げる。</p><p>二人部屋の方がお得になりますが？</p><p>いや、個室がいい。……アイリーンも、いいよな？</p><p>ケイは、確認の意を込めて、アイリーンを見やった。アイリーンは少し眉をひそめ、</p><p>……うん。いいけど……</p><p>それじゃあ決まりだ</p><p>どこかホッとした様子で、カウンターにジャラリと二日分の代金を置くケイ。</p><p>（これで、ようやく一人になれる……）</p><p>ダグマルの言葉ではないが、正直なところ、ケイはかなり溜まっている。ぶっちゃけた話、発散したくてたまらないのだ。</p><p>（これで二人部屋になっちまったら、かなりやりづらいからな……）</p><p>その上、二人部屋は、色々と危険だ。サティナではずっと同じ部屋に泊り、ここ数日はさらにテントでほぼ同衾状態だったが、そろそろケイの理性が限界に近付きつつある。アレクセイ由来のストレスもあって、このまま悶々とした状態が続けば、突発的な衝動に負けてしまう可能性があった。</p><p>それで、アイリーンとの、友人関係すら崩れてしまったら―考えるだけでも恐ろしい。</p><p>（元々、二人部屋だったのも、個室がなかったからだし……俺には、俺という獣から、アイリーンを守る義務がある……）</p><p>イマイチ煮え切らない表情のアイリーンをよそに、ケイがそんなことを考えていると、</p><p>アイリーン！</p><p>聞き覚えのあるハスキーボイス。ぎょっとして、ケイとアイリーンは同時に振り返る。</p><p>見れば、そこには、荷物を抱えて、満面の笑みを浮かべるアレクセイ―</p><p>よ、よぉ……</p><p>奇遇だな、アイリーン！　俺もこの宿を取るつもりなんだ</p><p>そ、そうか。それじゃ</p><p>自分たちの荷物を抱えて、そそくさと二階に上がっていく。 あ、待ってくれよ！ というアレクセイの声を無視して、とりあえず片方の個室に、逃げるようにして入った。</p><p>……なんでヤツが……</p><p>ベッドの上に腰を下ろして、げっそりとした表情のアイリーン。</p><p>……イヤなのか？</p><p>う、う～ん。なんというか、ちょっと鬱陶しいな</p><p>身も蓋もないアイリーンの言葉を聞いて、しかし努めて平静に、ケイは そうか と首肯した。</p><p>でも最近、色々と話してたじゃないか</p><p>別に大したことじゃないよ</p><p>探るような言い方をするケイに、小さく肩をすくめて見せたアイリーンは、</p><p>さ、それよりケイ、ちょっと町を見てみようぜ！　さっきウマそうなもん売ってる屋台があったんだ！</p><p>ちょうど小腹も空いてきたことだし、それもいいなと思ったケイは、一緒に町に繰り出すことにした。宿屋のホールでアレクセイには遭遇したが、アイリーンがそれとなく理由を付け、同行は断った。</p><p>こっちの方から良い匂いがするな</p><p>金には余裕がある。食い倒れと洒落こむか</p><p>懐の財布をいじりながら、幾分か楽しそうな様子で、ケイ。街中なので武装は解いているが、腰のケースには”竜鱗通し”を、さらに財布や宝石類も、全身に分散して身につけている。</p><p>ユーリアはサティナに比べると遥かに規模の小さな町だが、その分人口密度が高いので、道を行き交う人も多い。そして通行人が多いということは、それをカモにするスリも多いということだ。“受動感気(パッシブセンス)“に長けたケイであれば、コソ泥程度にスられはしないだろうが、万が一ということもある。海外旅行の鉄則、『貴重品は分散する』は、この街においても有効だろう。</p><p>それで、その屋台ってのは？</p><p>んーと、たしかこっちに……</p><p>二人で連れだって、商人街をふらふらと歩いていると、道端から陽気な音楽が聴こえてくる。見やれば、井戸端の小さな広場に、人だかりができていた。</p><p>あれは……？</p><p>見てみようぜ！</p><p>アイリーンがケイの手を引いて、人だかりに突撃する。ケイとしては、スリが山ほど居そうな人の群れは遠慮したかったのだが、仕方がない。</p><p>ぐいぐいと野次馬を押しのけて、中心に到達するとそれは、</p><p>……大道芸人か</p><p>ぽつり、とアイリーンが呟いた。</p><p>広場に居たのは、派手な服に身を包み、笛や太鼓などの楽器を演奏する芸人達だった。</p><p>その中心には、陽気な音楽に合わせ身体をくねらせる踊り子。ゆったりとした動きで腰を振りながら、彼女は妖艶な流し目を野次馬に向けていた。</p><p>その格好は、半裸どころか、殆ど裸といっても差し支えがないほどに扇情的なものだった。股間は腰布で隠しているものの、メリハリの利いた上半身には、御情け程度の薄布と亜麻色の髪しか覆い隠すものがない上に、覆われたところも色々と透けている。しかもそれが、リズムに合わせて、ゆさゆさと揺れるのだ。いや、むしろ、 揺らしている といっていい。</p><p>群衆の中から、踊り子の前に置かれた平皿に、次々に銅貨が投げ入れられている。下品なヤジが飛べば、薄く笑みを浮かべた踊り子は、そちらに向けて挑発的な仕草で肉体美を披露し、さらに白熱した男達が歓声を上げる。その場にいた男どもは、誰も彼もが鼻の下を伸ばしていた。</p><p>そして、不幸なことに、やはりケイも男であった。</p><p>いや、数日の禁欲を強いられた後で、このような状況下に置かれ、目が釘付けになってしまったケイを、咎めるのはあまりに酷というもの。</p><p>しかし、それでも尚(なお)、彼の失敗を挙げるとするならば、それは―</p><p>…………</p><p>傍らでムスッとした表情をする、アイリーンという少女の存在を、うっかり失念してしまったことだろう。</p><p>……ん？　あれ？　アイリーン？</p><p>ふと、ケイが我に返った頃には。</p><p>その隣から、アイリーンの姿は、消えていた。</p><p>†††</p><p>何だよ、何だよっ</p><p>ぷっすりとした脹れっ面で、肩を怒らせて歩くアイリーン。</p><p>不機嫌な表情のまま、“GoldenGoose”亭に戻り、愛想笑いを浮かべた女将から荒々しく鍵を受け取って、部屋に入った。</p><p>雑然と荷物の置かれた、狭い個室。</p><p>ドサッと身を投げ出すように小さなベッドに突撃し、そのまま寝転がってボスボスと枕を殴る。</p><p>……何だよ</p><p>しばらく枕を痛めつけたあと、力尽きたようにうつ伏せになって、シーツにぐりぐりと顔を埋めた。</p><p>―最近、なんだか、ケイが冷たい。</p><p>アイリーンはそう、感じていた。</p><p>一緒に話していてもノリが悪いし、ゲーム時代のような、あけすけな態度を取らなくなった。何かを自分に隠しているような雰囲気もあるし、近頃では、会話をするときに目を合わせるのすら避けているように思われる。</p><p>（なんか、暗そうな顔してるから、せっかく町に連れ出したってのに……！）</p><p>全然楽しそうにしないばかりか、笑顔を見せたと思ったらアレだ。もう、なんというか、最悪だった。</p><p>それに―腹が立つのは、アレクセイの件。</p><p>（なんで止めないんだよ。なんで何も言わないんだよ）</p><p>アイリーンはバイリンガルの英語話者だが、やはりロシア語の方が話す分には楽だ。そのため、情報収集を兼ねて、最初はアレクセイと積極的に交流を図ったが―近頃はいい加減、鬱陶しくなってきた。なので、出来ればケイと話したかったのだが、ケイはどうやら自分を避けている。そればかりか、アレクセイが自分に話しかけてくると、澄まし顔でそれを放置して何処かに行ってしまう始末。</p><p>（何だよっ、何だよ……そんなにオレと話すのがつまんないのかよ……）</p><p>しょんぼりとした顔で、枕をぽすぽすと叩く。</p><p>二人の仲がぎこちなくなったのは、いつからだろう。</p><p>アイリーンは、考える。始まりはおそらく、サティナのゴタゴタのあと―はっきりとしたのは、やはり、この隊商に加わってからだ。</p><p>サティナのゴタゴタ―そのことに思いを馳せると、アイリーンは自分の中の怒りが、しおしおと萎びていくのを感じた。</p><p>あの時―リリーの救出の是非を巡って、ケイと対立した時。</p><p>アイリーンは、自分が ひとでなし という言葉を出したことを、今では深く悔やんでいた。この言葉がケイを傷つけてしまったのは、あの時の反応からしてまず間違いない。そして傷つくということは、『人を見捨てる』という選択肢を、アイリーンが知らぬ間に取っていたということだ。</p><p>なぜ。いつ。どこで。聞いていない以上、それは知りようがない。</p><p>しかし、推測はできる。</p><p>アイリーンが把握できていないということは、『こちら』に来た直後、矢を受けて気絶していた間か、あるいは直接戦闘に関与していない、草原の民との遭遇戦での出来事だろう。タアフの村に関することか、あるいは襲い掛かってきた草原の民にまつわることか―そこまでは分からないが、何にせよ、今さらそれを咎めようとは思わない。</p><p>彼が、好き好んで人を見捨てるタイプではないことは、アイリーン自身よく理解しているつもりだ。</p><p>ケイが何を選択したにせよ、それはきっと、断腸の思いで決めたことだろう。その間自分は、逃げるか、気絶するかしていただけだ。</p><p>そんな人間に、その行為を ひとでなし と言われて、ケイが何をどう思ったか―。</p><p>（……ひょっとするとオレ、嫌われちゃったのかな）</p><p>ぶるりと、背筋を震わせる。</p><p>実は、そう考えると、辻褄は合うのだ。</p><p>このところケイが、冷たいわけも。どこか、会話にぎこちなさが漂う理由も―。</p><p>……なんでだよ</p><p>ぽつりと、アイリーンの呟きが、虚ろに響く。</p><p>狭く、小さく―</p><p>それでも、広すぎる部屋に。</p><p>はい。というわけで今回は、けっこう書くのが難しかったです。</p><p>参考資料 の方に、イメージの写真を何枚か追加しましたので、よろしければご覧ください。</p><p>活動報告でも書きましたが、諸々の事情により親バレしちゃいまして、何故かアイリーンやケイのイラスト提供を受けることになりました。うーむ。</p><p>それと今回の作中で、大道芸人たちが演奏していた音楽のイメージは、</p><p>↑こんな感じです。演奏者は、フランスのles Dragons du Cormyrというグループの方々となります。昔の文化の再現も兼ねて、雑技団的な活動をしていらっしゃるようです。</p><p>ＨＰはこちら</p><p>いい感じの音楽だったので、思わず紹介してしまいました。</p><p>25. 湖畔</p><p>夕方、“GoldenGoose”亭の酒場。</p><p>宿泊客たちが賑やかにテーブルを囲み、酒を酌み交わしながら談笑する中。</p><p>どんよりとした雰囲気を漂わせ、ひとりカウンター席に座る青年の姿があった。</p><p>ケイだ。</p><p>目の前には、獲れたての湖の魚のムニエルや、夏野菜のスープ、柔らかめのパンにコケモモのジャム、果物の盛り合わせなど、元の世界の基準に照らし合わせても豪勢な夕食が並んでいるが、どうにも食欲が振るわなかった。ケイは先ほどから、手に持ったスプーンでスープをかき混ぜてばかりいる。</p><p>原因は言うまでもない、アイリーンの一件だ。</p><p>町中でアイリーンを見失い、慌てて探し回るも全く見つからず、まさかと思って宿屋に戻ってみれば、案の定、彼女は先に帰ってきていた。</p><p>愛想笑いを浮かべる女将に、 お連れの方はもう戻られてますよ と言われたときの、あの絶望感―。</p><p>恐る恐る、部屋の扉をノックしてみるも、返事はなく。それでも頑張って声をかけ続けてみたが、その結果、一瞬だけ顔を出したアイリーンは、</p><p>眠い！</p><p>とだけ言って、バタンと扉を閉ざしてしまった。それからは、ノックしようが声を掛けようが、取りつく島もない。</p><p>（……完全に嫌われてしまった……）</p><p>うわあああ、と頭を抱える。扉を開けた時に垣間見えた、不機嫌極まりないアイリーンの表情。現実から目をそむけるように、木のジョッキに注がれたエールをぐびぐびと喉に流し込む。美味い不味いというよりも、ただ苦いだけの液体だったが、今の自分にはお似合いな気がした。</p><p>（……どうすればいい……）</p><p>澱んだ目でスープをかき混ぜつつ、考えを巡らせるも、妙案は思いつかない。俺ってこんなに打たれ弱かったっけ、などと思いながら流し込むエール、アルコールで停滞していく思考、完全な酔っ払いの悪循環。</p><p>……お口に合いませんで？</p><p>と、カウンターの向こうにいた女将が、心配げな顔で声をかけてくる。ケイの食が全く進んでいないのを、気にかけているようだ。</p><p>いや、……そういうわけではない……ちょっと考え事を、な</p><p>そうですか。エール、お代わり注ぎましょうか？</p><p>ああ……頼む</p><p>空になったジョッキに、女将の手で壺からエールが注ぎ足される。それをちびちびとやりながら、ケイは食事を再開した。</p><p>こうやって平和な環境下で、温かく美味しい料理が食べられる―それも、仮想の味覚でなく、自分の舌で味わえる。まずは、この状況に感謝せねばならない、と思い至ったからだ。</p><p>しかし―。</p><p>（独りで食べると、なぜこうも味気ないのか）</p><p>これでは、食事というより、ただの栄養補給ではないか。独りで黙々と食べていると、食物を口に詰め込み、噛み砕き、嚥下するというプロセスが浮き彫りになってしまう。</p><p>……はぁ</p><p>最後に溜息を一つ、パンの切れ端にジャムを塗りたくって、無理やり口に突っ込み、ケイの夕餉は終了した。だが、先ほどからあることが気にかかっていたケイは、</p><p>女将</p><p>なんでしょう</p><p>何か、サンドイッチのような、時間をおいても食べられるような物はないか</p><p>ありますよ。夜食でしょうか</p><p>まあ、そんなところだ</p><p>追加で料金を支払って、ベーコンと葉物野菜を挟んだサンドイッチを作ってもらう。ついでに紙の切れ端と羽根ペンを借りて、書きつけること数語。皿とメモを手に二階へ上ったケイは、緊張の面持ちでアイリーンの部屋の前に立つ。</p><p>……アイリーン</p><p>コンコン、と軽くノックする。</p><p>…………</p><p>返事は、ない。</p><p>……その、昼間は、悪かった。ドアの前に、サンドイッチ置いとくから。腹が減ったら食べてくれ</p><p>…………</p><p>やはり、返事はなかった。ホントに寝てんのかな、と溜息をついたケイは、部屋の前にサンドイッチを置いた旨を伝えるメモを、ドアの隙間から差し込んだ。</p><p>そのまま、ふらふらと自室に戻る。</p><p>乱雑に荷物が置かれた、狭い部屋―。</p><p>この宿は、個室には備え付けのランプなどは置いてないらしい。窓から差し込むかがり火の明かり以外に光源はなかったが、強化されたケイの視力ならそれで充分だった。</p><p>どさり、と寝台に腰を下ろして、ベルトと剣の鞘、弓のケースを外し、上着を脱いで一息つく。身体の中から、緊張の糸が抜けていくような感覚。やはり、こういった安全の保証された密閉空間でないと、心からリラックスはできない。</p><p>ぼんやりと、木の板を打ち付けただけの壁を眺める。</p><p>……広い、な</p><p>ぽつり、と呟いた。</p><p>数時間前、あれだけ望んだ個室であったにも関わらず―何もする気が起きない。これでは個室を取った意味がないではないか。</p><p>（いや……部屋が共同だったら、もっと気まずいだけか）</p><p>それでも顔を合わせはする分、何らかの糸口は得られたかも知れないが。</p><p>（……考えても無駄か）</p><p>いずれにせよ、今の状況が全てだった。</p><p>考えても無駄、だから考えない。至極真っ当なロジック。</p><p>はぁ～あ</p><p>身を投げ出すように寝台に転がったケイは、何度目になるか分からない溜息をついて、そのままずるずると眠りに落ちていった。</p><p>†††</p><p>翌日。</p><p>アルコールのせいだろうか、ケイは昼前まで眠りこけていた。</p><p>う～……イテテ</p><p>ベッドで上体を起こし、額を押さえて唸り声を上げる。頭の芯がじくじくと痛み、視界がぐらぐらと揺れているようだ。昨夜は少々飲み過ぎたらしい。</p><p>取り敢えず水でも飲もうか、と身支度を整えて部屋を出る。</p><p>隣の扉を見やると、昨日置いたサンドイッチは皿ごと無くなっていた。しかし、果たしてアイリーンが食べたのか、他の客あるいは宿の従業員が持っていってしまったのかは、判断がつかない。</p><p>（……他の奴が持っていく、という可能性を考えてなかった）</p><p>やはり、昨夜の自分はアルコールのせいで思考力が低下していたらしい。万が一、アイリーンがメモを見て、ドアを開けてみたら何もなかった―などという事態が発生していたら、目も当てられない。廊下でひとり渋い顔をするケイ。</p><p>しばし、ドアの前で、アイリーンに声をかけるか迷う。</p><p>（……もう先に起きて、何処かに行ってるかも知れないしな）</p><p>自分も寝起きだし、とりあえず先に顔でも洗うか、と思い直したケイは、肩をすくめて階段を降りていった。</p><p>中庭の水桶の水で顔を洗う。そして昨日と同様、またタオルを忘れてしまったので、仕方なく便所のちり紙(ティッシュ)で水気を拭き取った。</p><p>ティッシュ―といっても、勿論これは製紙されたものではなく、『ポピュリュス』という名前の木の葉を乾燥させたものだ。本物のトイレットペーパーやティッシュには劣るものの、悪くない肌触りで様々な用途に役立つ。かくいうケイも、この世界に来てから幾度となく世話になっていた。これがなければ、この世界のトイレ事情はもっと不潔になっていただろう。トイレットペーパーに相当するものがないのは、現代人には少々辛い。</p><p>（これは本当に、 DEMONDAL 準拠で助かったな……）</p><p>手の平サイズの六角形の葉っぱを見ながら、しみじみとそう思う。</p><p>ゲーム内においても、ポピュリュスの葉はプレイヤーに馴染み深い存在だった。至る所に群生しており、入手は容易であるが、その割に需要が高くNPCに売り易いのだ。</p><p>もちろん物が物だけに、売っても大した金にはならないが、より高度な仕事を紹介してもらうための、NPCとの信頼関係の構築に一役も二役も買うのがポピュリュスの葉だった。</p><p>おそらく、 DEMONDAL の初心者が最初に手を出すお使い(クエスト)が、この『ちり紙集め』になるだろう。蛇蝎の如く嫌われる凶悪なプレイヤーキラーも、強大な傭兵団(クラン)を率いるトッププレイヤーも、かつては裸に近い格好でポピュリュスの葉を集めて回ったのだ。</p><p>（懐かしい……）</p><p>手の中の葉を眺めながら、初心者の頃を思い出して目を細める。</p><p>森で葉っぱ集めに勤しんでいたら、運悪く狼の群れに遭遇し、採取用ナイフで応戦するも手も足も出ず食い殺された思い出―</p><p>（しかしアレ、現実だったらシャレにならんな）</p><p>そう思い至って、ふと真顔に戻る。</p><p>ゲームでは、子供のNPCも小遣い稼ぎにやっている設定だったが、果たして大丈夫なのだろうか……。</p><p>そんなことをつらつらと考えながら、中庭から宿屋に戻る。が、勝手口を潜り抜けたあたりで、 おーいアレクセイ！ という呼び声を耳にして足を止めた。</p><p>おー、お前らどうした？　わざわざこんなトコまで</p><p>例のハスキーボイス。酒場の方から聴こえてくる。なんとなく、酒場からは死角となる階段の影に身を隠したケイは、そっとそちらに耳を傾けた。</p><p>いやさ、皆でこれから、湖の神殿に行ってみようって話でよ。お前もどうかなーと思って誘いに来たんだ</p><p>おそらくこの声は、隊商に参加していた若者のものだろう。他にも複数人の気配が感じられる。そういえばアレクセイは、他の若い見習い連中とも仲良さそうにしていたな、と思い当たる。</p><p>あー、水の精霊のな。いや、いいよ、俺は遠慮しておくぜ</p><p>お、そうか？</p><p>ここで、見習いが声をひそめる気配、</p><p>……“お姫様”、か？</p><p>ああ、そうさ</p><p>微かに笑いを含んだアレクセイの声は、いつもの薄笑いが目に浮かぶようだ。</p><p>実は俺も、神殿に行こうと思っててね。今日は天気も良いし、絶好のデート日和だろう？　今度こそ距離を縮めて見せるぜ</p><p>自信満々なアレクセイの言葉に、おお、と感心したような声を上げる見習い達。</p><p>けど、いいのか？　あのケイとかいう男―</p><p>なぁに、構やしねぇよ</p><p>また他の若者がおずおずと不安げに尋ねるが、アレクセイは鼻で笑い飛ばした。</p><p>本人が『自分の女じゃない』って言ってたんだ。なら遠慮することはねえさ</p><p>そうか、ならいいだろうが……</p><p>っつーことはアレクセイ、もう姫様と約束は取り付けたのか？</p><p>うんにゃ</p><p>カコン、とテーブルの上にジョッキを置く音。</p><p>朝からずっとここで張ってるんだがねぇ、お姫様はぐっすり眠られているようで……いつまで経っても起きやしねえ</p><p>朝からって……もう四時間も待ってんのか？</p><p>六時の鐘の前から待ってるから、もう五時間は過ぎたな……酒が進んでいけねえや</p><p>お、おう……</p><p>心なしかその声に、同情の色が滲む見習い達。</p><p>流石の俺も、待ちくたびれてきた。そうだ、お前らも座れよ。退屈しのぎに付き合ってくれんなら、酒の一杯でもおごるぜ</p><p>おっマジかよ。それなら遠慮なく</p><p>アレクセイの申し出に、ガタゴトと椅子を引く音が連続して響く。</p><p>よーし、そんじゃあどんどん頼め</p><p>自分は、とりあえずエール</p><p>葡萄酒で</p><p>ぼくは蒸留酒ストレートで～</p><p>オイオイ高いのはナシだぜ！</p><p>昼前、閑散としていた酒場が、にわかに騒がしくなる。</p><p>…………</p><p>気が付けばケイは、逃げ出すように、勝手口から外に出ていた。</p><p>歩く。</p><p>ずんずんと突き進むように。</p><p>当てがあるわけではない。</p><p>ただ、衝動に身を任せて、猥雑な裏通りを行く。</p><p>その表情は、煮え切らない。</p><p>悔しさと、苛立ちと、―ある種の怒りが、混じり合っているような。</p><p>（……アレクセイと比べて、俺のこの情けなさは何だ）</p><p>そんな気持ちが、胸の内で煮え滾る。</p><p>なぜ、自分はこうも肩を縮めるような生き方をしているのか。</p><p>（……そもそも俺は、こんな無駄に禁欲的な人間だったか）</p><p>―いや。</p><p>少なくとも今までは、一つのことをいつまでも抱え込むような真似はしなかった。</p><p>勿論、ゲーム時代と今とでは事情が異なるし、考えなければならないことは多い。</p><p>しかし、それに囚われたまま塞ぎ込んでしまうのは、また何か違うような気がする。</p><p>（あの、アレクセイの潔さを見ろ）</p><p>折角、この世界に来て新しく肉体を得たというのに。</p><p>もっと今の生を楽しまなくてどうする―。</p><p>……はぁ</p><p>―とは、思うものの。ケイは小さく溜息をついた。開き直って行動を起こそうにも、現状、アイリーンとは断交状態にあることを思い出したのだ。</p><p>（まず何よりも先に、アイリーンの機嫌をどうにかしないと……）</p><p>何をどうすれば良いものか。仮に、現時点で嫌われてしまっているならば、ここから挽回するのは難しそうだ。そう考えて、思わず頭を抱えたくなる。</p><p>（……しかし、なんでアイリーンはあんなに怒ったんだ）</p><p>ここにおいてケイは、根本的な疑問に思い当たった。</p><p>今までは『アイリーンが怒ったらしい』という、事象そのものにしか気を回していなかったが、そもそも、なぜあんなにも不機嫌になってしまったのか。</p><p>心当たりといえば、やはりあの大道芸人の一座しかないだろう。正確には、踊り子の扇情的な裸身に見惚れ、鼻の下を伸ばしてしまったこと。</p><p>（だが、それで不機嫌になるということは―）</p><p>―それは俗に言う、嫉妬(ヤキモチ)という奴ではないか？</p><p>であるならば、なぜ嫉妬なんか―というのは、流石にケイでも分かる。そんじょそこらの有象無象の輩に、嫉妬の感情など抱きようがない。ある程度の『興味』の対象でなければ、引き起こされない感情。</p><p>つまり―。</p><p>（……眼中にないワケじゃない、ってこと、か）</p><p>希望的観測、という言葉が真っ先に思い浮かびはしたが。</p><p>そう考えれば、まだ―希望はある。</p><p>視界が開けた。</p><p>歩いているうちに、裏町を抜けていたらしい。</p><p>目の前に広がるのは、湖畔の景色。青く澄んだシュナペイア湖。</p><p>それほど大きくはない湖だ。帆を広げた荷船が、何隻も行き交っている。そしてその真ん中には、ぷかりと浮かぶような小島。</p><p>歩けば端から端まで、数分とかからないような小ささだ。だが、生い茂る木々の間に、白い石材で造られた建物が見える。</p><p>（そういえば……神殿だとか何だとか、言ってたな）</p><p>荷船に混じって、満杯に人を乗せた大型のボートも散見された。櫂をこぐ船頭に、ローブを羽織った旅人風の乗員たち。杖を持つ者、祈るように手を組む者、湖の水を自らに振りかける者―巡礼者、という言葉を連想した。</p><p>あれが、水の精霊を祭った神殿だ。鐘楼の鐘を三回鳴らせば、願い事が叶うって言い伝えもあってな、各地から水の精霊を信仰する連中がああやって巡礼に訪れる</p><p>背後から、唐突に。</p><p>驚いて振り返れば、そこには赤ら顔で よっ と手を上げる、ダグマルの姿があった。</p><p>なんだ、あんたか</p><p>なんだとは御挨拶だな、他に言い様はねえのかよ</p><p>何がおかしいのか、けらけらと笑うダグマル。微かに漂う酒気に、ケイは顔をしかめた。</p><p>また呑んでんのか</p><p>おうよ。好きなだけ寝て美味いもん食って、酒飲んで最後は女！　これぞ傭兵の休日よ、ユーリア最高！</p><p>ヒューゥ、と歓声を上げながら、強引に肩を組んでくる。完全に酔っ払い親父の言動だ、通行人の目が痛い。</p><p>ええい、やめろ暑苦しい！</p><p>なんだよ～ノリ悪いなぁ～</p><p>ケイが無理やりその手を引っ剥がすと、拗ねたように口を尖らせるダグマル。いい歳した男にそんな真似をされても気色が悪いだけなのだが、幸いなことに、ダグマルはすぐにからかうようなニヤけ面に戻った。</p><p>で、何やってんだ？　こんなトコで独りでよ</p><p>独りで、という部分が強調されて聴こえたのは、気のせいではないだろう。 うぅむ と唸り声を上げたケイは、腕を組んで湖の方を向く。</p><p>ん……何かあったのか</p><p>怒るでもなく不機嫌になるでもなく、あくまで静かな様子のケイに、ダグマルはふざけた笑みを引っ込める。引き結んだような表情の裏側に、何か変化を感じ取ったのか。</p><p>何かが『あった』訳ではないが、『あろう』とはしているな</p><p>ほう</p><p>遠回しなケイの物言いに、興味深げなダグマルはそれでも黙って続きを待つ。</p><p>アレクセイが、アイリーンをデートに誘うつもりのようだ</p><p>そいつはまた</p><p>だが幸(・)い(・)な(・)こ(・)と(・)に(・)、奴はまだアイリーンと接触できていない</p><p>……指を咥えて見逃すつもりはない、ってことか？</p><p>さも愉快、と言わんばかりにダグマルは笑みを濃くした。湖の神殿を見据えたまま、ケイは厳しい面持ちで ああ と頷く。</p><p>今まで色々と、小難しいことを考えていたが、アレクセイを見ていたら馬鹿馬鹿しくなってきてな……俺だってアイリーンと仲良くしたいし、一緒に居たいと思う。だから、俺も馬鹿になることにした</p><p>うむ、いいんじゃないか</p><p>ダグマルのニヤけ面は、いつもよりも優しげだった。</p><p>……だが、その前に一つ、問題があってな</p><p>腕組みを解いて、ケイはダグマルに向き直る。</p><p>ダグマル、相談事があるんだが、いいだろうか</p><p>おうよ。色恋沙汰と借金に関してなら、これでも経験豊富だぜ？　何でも来いよ</p><p>そいつは頼もしいな、ありがとう。実は昨日、アイリーンを怒らせてしまったんだが……ここは素直に謝った方がいいかな。それとも、蒸し返すようなことはせず、別の事でフォローした方がいいか？</p><p>……何で怒らせたかによるな</p><p>別の女の裸につい目を奪われてな……</p><p>ああ……。まあ、素直に謝っとけ。つべこべ言わずに、ストレートにな</p><p>分かった</p><p>感謝の念を込めて目礼したケイは、ぱしんと頬を叩いて、 よし！ と自身に発破をかける。</p><p>それじゃあ、行ってくる</p><p>よしよし、頑張ってこい。……が、時にケイ、何かプランはあるのか？</p><p>……取り敢えず、あの神殿とやらに行ってみようかと</p><p>俺も興味あるしな、とケイは肩をすくめて答えた。</p><p>そうか。それなら、後であっちの船着き場に行くといい。赤い屋根の小屋に、格安で手漕ぎボートを貸してくれる爺さんがいる。ダグマルの紹介だとでも言っとけ</p><p>……ありがとう。耳寄りな情報、恩に着るよ</p><p>なぁに</p><p>手をひらひらとさせたダグマルは、バンッとケイの背中を叩き、そのままくるりと背を向けた。</p><p>幸運を祈る。結果報告、待ってるぜ</p><p>楽しみにしておいてくれ</p><p>笑顔でそう返し、ケイも歩き出した。</p><p>―まずは会って、話はそれからだ。</p><p>そもそもアイリーンが、まだ宿屋にいるか分からない。いざとなればエメラルドの使用も辞さないつもりだが―最近ロクな魔法の使い方してないな、とケイは苦笑いした。</p><p>ひょっとしたら、既にアレクセイに誘われているかも……と考えると、自然に足が速くなる。</p><p>来た道をそのまま引き返し、勝手口からコソコソと、足音を消して宿に戻った。</p><p>酒場ではまだ、見習い達がどんちゃん騒ぎを繰り広げているようだ。その中には、アレクセイの声も混じっている。どうやらアイリーンはまだ部屋から出てきていないらしい。</p><p>ゆっくりと階段を上り、緊張の面持ちで、アイリーンの部屋の前に立つ。</p><p>コンコンッ、と少し強めにノックした。</p><p>アイリーン。いるか</p><p>しばし待つ。</p><p>…………</p><p>返事はない。</p><p>アイリーン、話があるんだ</p><p>もう一度ノック。</p><p>アイ―</p><p>言いかけたところで、ガチャッとドアが開く。</p><p>何</p><p>無表情のアイリーンが、ドアの隙間からぬっと顔を出した。</p><p>じろり、とこちらを睨(ね)め付ける青い瞳に、一瞬だけたじろいだケイであったが、咳払いして姿勢を正す。</p><p>……昨日は、すまなかった。ごめん</p><p>ケイの言葉に、アイリーンの顔が、無表情から不機嫌にシフトした。</p><p>……話って、それだけかよ</p><p>いや、</p><p>ぽりぽりと頬をかき、泳ぎそうになる目を、努めてアイリーンに合わせる。</p><p>知ってるか。ここの湖の真ん中に、水の精霊を祭った神殿があるらしい</p><p>……聞いたことがある</p><p>なんでもその神殿には、三回鳴らしたら願いが叶う、っていう触れ込みの鐘があるそうだ。今日は天気もいいことだし、その―</p><p>ぴん、と空気が張り詰めるような錯覚、</p><p>―一緒に、行かないか</p><p>アイリーンは黙ったまま、口をへの字にした。</p><p>……二人で？</p><p>ああ、二人で、だ</p><p>ん……</p><p>ドアにもたれかかって腕を組み、そっぽを向くアイリーン。</p><p>やがて、顔をしかめたままニヤける、という離れ業を披露した彼女は、</p><p>……いく</p><p>そう言って、小さく、頷いた。</p><p>†††</p><p>行く準備をする、ということで、ケイはしばし部屋の外で待たされる。</p><p>といっても、数分後には出発となったのだが、部屋から出てきたアイリーンは 鏡があればいいのに と小さくボヤいていた。</p><p>下では相変わらずアレクセイ達が騒いでいるので、気配を殺して裏口から外に出る。</p><p>ついでに買い食いもしようぜケイ</p><p>賛成だ。実は起きてから何も食べてない</p><p>オレは干しレーズン食べたけど、さすがにちょっとお腹空いた</p><p>目抜き通りをぶらぶらと歩き、屋台や露店を見て回る。チーズを包んだそば粉のクレープ(ガレット)、切り売りされていた生ハムを塊ごと、口当たりの爽やかな甘めのりんご酒(シードル)に、ビワやさくらんぼなど旬の果物をどっさり。目についた美味しそうなものを、片っぱしから買い込んでいく。</p><p>あ、ところでケイ</p><p>うん？</p><p>……サンドイッチありがと</p><p>……おう</p><p>そんなことを話しながら。</p><p>荷物持ちはケイの役目だが、大通りを抜ける頃には、買い込んだ食料品は一人では持ち切れないほどの量になっていた。</p><p>俺たちはどうやら、かなり腹が減っていたらしい</p><p>買い食いってレベルじゃねえなコレ……下手したら一日しのげるぜ</p><p>何処で食べる？</p><p>ケイの問いかけに、アイリーンは顎に手を当てて うーん と唸った。</p><p>……せっかくだし、湖を見ながら食べたいな</p><p>そうだ、そういえばボートがあったな</p><p>そう考えたケイは、ダグマルに教えてもらった通り、町外れの船着き場に向かう。そして赤い屋根の小屋に住む老人に、手漕ぎボートを貸してもらった。</p><p>ボートのレンタル料は、僅か銅貨五枚。ちょっと贅沢な一日分の食費程度だ。聞くところによると、老人は湖で釣りをしつつ、信用できる人にだけボートを貸して、日銭を稼いで暮らしているらしい。</p><p>しかし、手漕ぎボートなんて初めてだな……</p><p>オレもだ。どうやるんだろ</p><p>小屋の傍のボート置き場。おっかなびっくりといった様子で、大型の手漕ぎボートに二人して乗り込む。最初にアイリーンが乗り込んだときは僅かに揺れる程度だったボートも、ケイが船着き場から足を掛けると、それだけでグラッと大きく傾いた。</p><p>……これ、乗っても大丈夫だよな？</p><p>一応、大の男が三人まで乗り込めるぞい。お前さん、かなり体格がよろしいようだが、それでも流石に二人分も重いということはあるまい？</p><p>引き攣った笑顔で不安げなケイを、杖をついた老人が笑い飛ばした。</p><p>ホレホレ、こういうのは思い切りが肝心よ。真ん中に足を掛けて、さっと乗ればよい</p><p>杖でピシピシと背中を突かれ、ケイは意を決して乗り込んだ。グラグラと揺れるボートに翻弄され、危うくバランスを崩して転倒しかけたが、姿勢を低くして何とか耐える。</p><p>あ、危なかった……</p><p>そんな大袈裟な</p><p>顔色の悪いケイを見て、アイリーンと老人がからからと笑う。</p><p>（いや、俺、泳ぎ方よくわからないんだよな……）</p><p>とは思ったものの。二人きりのボートがおじゃんになるのが嫌だったので、ケイはそのことは黙っておいた。</p><p>それではボートを漕ぐときは、荷船の進路を遮らないように気を付けるんじゃぞ。連中の船は重いから止まれんし、急に進路も変えられん。事故でも起こしたら、無条件で荷船側が有利になるから気を付けるようにな。それと、くれぐれも湖にゴミを捨ててはならんぞ。水の精霊様がお怒りになる</p><p>気を付けるよ</p><p>食料品を積みながら、老人からの注意を受ける。荷船に関しては気を付けなければならないが、元々、これほどまでに美しい湖だ。わざわざゴミを捨てて汚そうという気すら起きない。</p><p>食料よーし、乗員よーし</p><p>オールよーし</p><p>慣れない手つきでオールを握りながら、ケイは微笑みかけた。</p><p>よし、行こうぜ！</p><p>アイリーンもそれに、笑顔で応える。</p><p>気を付けて行ってくるんじゃぞ～</p><p>微笑ましげに目を細める老人に見送られながら。</p><p>ケイとアイリーンは、シュナペイア湖へと漕ぎ出していった。</p><p>26. 神殿</p><p>蒼く透き通った湖面に、映り込む羊雲。</p><p>初夏の日差しは高く、じりじりと肌を焼く。</p><p>それを慰撫するように、涼やかな風が吹き抜けた。</p><p>さざ波立つ水面に、陽光が煌めき散っていく。</p><p>そして。</p><p>そんな中、不格好に進むボートが一艘。</p><p>ケイー、ちょっと右に曲がってる</p><p>む……こうか？</p><p>違う、逆逆！　オレから見て右！</p><p>ケイの対面、くいくい、とケイの左手側を指差すアイリーン。慣れないオールの扱いに四苦八苦しながら、ケイは左腕に意識的に力を込める。</p><p>ぐいと力強く押し動かされたオールが、水面を渦巻かせながら推力を生む。水と泡の弾ける音を立てながら、ボートは緩やかに向きを変えた。</p><p>……おっけー、真っ直ぐになった</p><p>うーむ、なかなかに難しいもんだなコレは</p><p>オールを漕ぐ手は休めることなく、ケイはしみじみと呟いた。オール漕ぎは、単純に仕事として見れば大した運動ではないのだが、普段は使わない筋肉を連続して動かすので、精神的な疲労が大きい。それに加えて、漕ぎながらだと進行方向が見えないのは、思ったよりもストレスだった。</p><p>やっぱキツい？</p><p>いやキツくはないんだが。いかんせん慣れない作業だからな</p><p>やや心配げなアイリーンの問いかけに首を振って即答する。情けないと思われたくないが故に、少し意地を張ったような答え方になったが、ケイとしては嘘はついてない。腕の筋肉が張っているような感覚はあるものの、この調子ならばあと何時間でも漕いでいられそうだった。</p><p>ちなみに、本来ならばこのような手漕ぎボートは、腕よりもむしろ上半身を動かして、体全体で漕ぐものなのだが、それを指摘してくれる熟練者はこの場にいなかった。</p><p>ま、急ぐことはない。のんびりと楽しもう</p><p>これはこれで悪くない、とケイの表情は朗らかだ。ボートの後部にちょこんと腰かけたアイリーンも、にこにこと頬を緩めている。</p><p>だな！　……でもオレはちょっと小腹が空いたぜ</p><p>そう言ってアイリーンは、ガサゴソと買い物袋を漁りだした。ケイが漕ぎ続けているのをよそに、まだほのかに温かいチーズ入りのそば粉のクレープ(ガレット)を取り出し、これ見よがしにパクついて見せる。</p><p>んん～、うまい！</p><p>頬に手を当てて幸せそうなアイリーン。本当に美味しそうな顔をする。ぽやぽやという効果音すら聴こえてきそうだ。</p><p>あっ、フライング……</p><p>だってお腹すいたもん</p><p>船着き場の近くから湖の真ん中あたりまでは、荷船がせわしなく行き交っていて危ないので、神殿の近くに着いてから食べ始めようという話だった。が、そのことはもう忘れることにしたのか、 一口つまむ というレベルではなく、アイリーンはガツガツと食べ始めている。</p><p>俺も食べようかな</p><p>かく言うケイも、起きてから何も口にしていない。腹の虫の鳴き声が大きくなるのは、時間の問題だ。</p><p>ふふふ、残念ながらそれはできない！</p><p>が、意地悪な笑みを浮かべたアイリーンが、買い物袋をずるずると自分の方へ引っ張る。</p><p>ケイは漕がないとダメー</p><p>ええー……</p><p>だってこんなトコでボヤボヤしてたら危ないぜ？　ほら、言ってる間に前から荷船っ、こっちに曲がって</p><p>ガレットを持っていない方の手で、ケイの右手側を指し示すアイリーン。ちらりと振りかえって見れば成る程、前方から大型の荷船が向かってきている。</p><p>買い物袋とアイリーンとを見比べ、しょんぼりとお預けを食らった犬のような顔をしたケイは、仕方なくオールを漕ぎだした。</p><p>俺もお腹空いたな……</p><p>荷船とすれ違いながら、いじましく空腹を訴えるケイ。自分のガレットを口に詰め込んで、 やれやれ と肩をすくめたアイリーンは、</p><p>しょうがないなー。ケイも食べていいぜ</p><p>口をもごもごとさせながら、買い物袋を漁る。そして タ・タ・ター！ と謎の効果音を口ずさみながら、もう一つのガレットを取り出してすっとケイの口元に差し出した。</p><p>はい、コレ</p><p>お、サンキュ</p><p>何の考えもなしに、目の前のガレット(エサ)にかぶりつく。</p><p>ん、美味い！</p><p>ふふふ、だろー？</p><p>思わず二口、三口と続けて食べてしまうケイに、まるで自分が作ったかのように、得意げに胸を張るアイリーン。</p><p>しかし、</p><p>ヒューッ！　お熱いねぇー！</p><p>見せつけてくれるじゃねえか！</p><p>突然の冷やかすような声に、二人して動きを止めた。</p><p>見れば後方、先ほどすれ違ったばかりの荷船。</p><p>船尾に船乗りたちがゾロゾロと押しかけて、身を乗り出すようにこちらを見ていた。アイリーンが振り返った瞬間、その美貌に囃し立てる声が過熱する。</p><p>デートかーぁ？　若いねーッ！</p><p>お嬢ちゃーん！　あとで俺とお茶しなーい！？</p><p>一瞬、きょとんと顔を見合わせた二人であったが、―すぐに 今の自分たちがどう見られているか を自覚して、ぱっと目を逸らした。</p><p>いそいそと後ろの席に座り直すアイリーン。黙ってオール漕ぎを再開するケイ。相対速度の関係で、騒がしい船乗りたち(ギャラリー)はすぐに遠ざかっていった。</p><p>…………</p><p>明後日の方向に目を泳がせつつも、互いに互いの様子を探り合うような、そんな沈黙がその場に残される。</p><p>アイリーンを視界に収めつつ、透き通る水面を眺めていたケイは、</p><p>……ここは、本当に水が綺麗だな</p><p>まるで独り言であるかのように、ぽつりと呟いた。</p><p>そうだな、オレも同じこと考えてたよ</p><p>ごく自然な様子で、アイリーンも相槌を打つ。そのまま船べりから少し身を乗り出して、何処どこまでも蒼い湖を覗き込んだ。</p><p>まるで底まで透けて見えるみたいだ……</p><p>ゆらゆらと揺れる水面―ケイがオールを止めると、鏡のようになったそこに、アイリーンの顔が浮かび上がる。慣性でゆっくりと、波紋を広げながら進むボート。</p><p>ケイの目だったら、底が見えたりする？</p><p>ふと顔を上げて、アイリーンは無邪気に問いかける。</p><p>さっきまでは見えてたけど、もう見えない。ここらは深いらしいな</p><p>そっかー。大体何ｍくらいありそう？</p><p>ぱっと見た感じ、最後に見えた所は水深８ｍはありそうだった</p><p>へぇーけっこう深いんだ</p><p>そんな他愛のないことを話していると、ボートはいつしか、小島の傍にまで辿り着いていた。船着き場から少し離れた、神殿へ続く白亜の階段を眺められるポイントで、船底に食料を広げて遅めの昼食と洒落こむ。</p><p>そういえば、前にマリーの婆様が言ってたな。シュナペイア湖の伝説</p><p>ナイフで生ハムを薄く切り取りながら、アイリーンが言った。</p><p>伝説？</p><p>そう。何でも、</p><p>口の中の肉をりんご酒(シードル)で流し込んで、</p><p>この湖のどこかに、船が沈んでいるらしい。それも、金銀財宝を満載した状態で、な</p><p>ほう……事故か何かか？</p><p>いや、水の精霊に沈められたそうだ</p><p>遥か昔、シュナペイア湖のほとりで暮らしていた住人達は、我が物顔で水を使いゴミを捨て、あるいは汚水を垂れ流して、湖を汚し続けていた。</p><p>しかしある日、湖の穢れに我慢しきれなくなった水の精霊が、怒り狂って湖に渦を巻き起こした。</p><p>湖を行き交っていた船やボートは片っ端から渦に呑まれ、そのまま水底に引きずり込まれてしまった。</p><p>さらに用水路を逆流した水は田畑を押し流し、作物を全て駄目にしてしまったという。</p><p>作物がやられ、飢えに苦しんだ住人達は、それ以来決して湖は穢さぬと心に誓った。そして精霊の怒りを鎮めるために、湖の真ん中の小島に神殿を建て、崇め奉ってきた―って話らしい</p><p>で、その時の船の中に、財宝を積んだ奴があった、と</p><p>だな。婆様曰く、水の精霊が怒って湖中の船が沈められた、ってのは大体２００年くらい前のことで、歴史書にも記されている事実らしいぜ。ただ、その中に、本当にお宝を積んだ船があったのかどうかは、正確な記録が残ってないんだってさ</p><p>まあ、伝説ってそんなもんだよな</p><p>小さく肩をすくめ、アイリーンの手元のりんご酒を手に取って喉を潤す。</p><p>しかし、浪漫は感じるな。金銀財宝そのものには、それほど興味はないが……『宝探し(トレジャーハント)』という言葉の響きが良い</p><p>同感だぜ</p><p>うむうむ、と二人で腕を組んで頷き合う。</p><p>元々ケイもアイリーンも、こういった夢のある話は大好きだ。ゲーム時代から面白そうな噂を小耳に挟めば、取り敢えず現地に突撃するのが常だった。勿論、それで痛い目にもあってきたが、多少非効率であっても物事を楽しむのが、二人のスタイルだった。</p><p>ケルスティンの魔法でどうにかならないか？</p><p>オレも今、ちょうど同じこと考えてたんだよ。湖の底を 探査 すれば船の残骸くらい見つかるかもって</p><p>ケルスティンは影の精霊だ。 探査 で水中の影を描写させれば、最新のスキャンソナーに勝るとも劣らない精度で水底の地形が把握できる。</p><p>問題は触媒の量と、見つけたところでどうするか、か</p><p>うーん。水晶は、このぐらいの広さの湖なら、５ｋｇも揃えれば足りると思うけど</p><p>さくらんぼをもぎ取りながら、アイリーンが湖を見回した。</p><p>でも、仮に見つかったとして、船の残骸をどうやって引き上げようか</p><p>ゲームなら問答無用で潜るがな。……いや、こっちでも可能、か？</p><p>水底を覗き込みながら、ケイ。『紋章』で強化された、自身の身体のスペックを考えての発言だったが、それと同時に、水泳に馴染みがないからこその無謀な考えでもあった。 いや、 とアイリーンが即座に否定する。</p><p>湖の底の方は、水が物凄く冷たいらしいぜ。たまに湖で泳ぐ人が、冷たい水の流れにやられて、低体温症で死んじまうって話を聞いたことがある。リアルでやるのはやめといた方がいいんじゃね？</p><p>そうか……第一、深さも分からんしな。作業用の機械なんてものはないし、潜水服なんてもってのほか……</p><p>水系統の魔術師でもいれば、話は別なんだろう、けど……</p><p>『水の精霊の神殿』とやらに、自然と二人の視線が引き寄せられる。</p><p>……いないかなー、魔術師</p><p>うーむ。しかしアイリーンのその『伝説』を聞く限りでは、ここの水の精霊は上位精霊っぽいからな。とてもじゃないが契約できんだろ……</p><p>だよなー</p><p>揃って不満げに口を尖らせる二人。</p><p>DEMONDAL では、精霊は大雑把に下位から上位の三段階に分けられていたが、基本的に『上位』とされる精霊たちは、決まった位置に出現する代わりに契約のため無理難題を吹っ掛けてくる、もはやNPCに近い存在だった。プレイヤーが契約できるのは実質的に中位以下の精霊であり、上位精霊の提示するゲームでさえ厳しかった条件―“飛竜(ワイバーン)“の目玉を１０個もってこい、だとか―が、この世界の住人に達成できるとは到底思えない。</p><p>ちなみに、ケイが契約するシーヴは中位精霊、アイリーンのケルスティンは下位精霊に分類されている。</p><p>まあ、水系統の使い手がいたら、とっくの昔に引き上げられてるだろうな</p><p>確かに。そもそもオレが 探査 したところで残骸が見つかるとも限らねーし</p><p>お宝は無かった……なんて分かった日には興醒めだ。伝説は伝説のままにしておいた方が、夢がある</p><p>だな。やめよやめよ</p><p>そんなことを話しているうちに、ケイたちはあれほどあった食料を、すっかり食べ尽くしていた。膨れたお腹をさすりながら、胃のスペースを確保するように、二人揃ってだらしなく体勢を崩す。</p><p>うぅ……お腹いっぱいだ……もう食べられない……</p><p>食ったなぁ。美味かった</p><p>頷くケイの言葉には、万感の想いが込められている。</p><p>アイリーンと会話しながらの食事。昨夜の孤独な晩餐とは違い、味よりもむしろ話そのものに集中していたのに、ケイの心は『美味しかった』という幸福感に満ち溢れていた。</p><p>やはり食事はこうでなければ―と、最後に残ったりんご酒を少しずつ味わう。</p><p>ねむい……ふぁ</p><p>上品にあくびをして、こてんと船底に寝転がるアイリーン。</p><p>あくびって感染するよな</p><p>湧き出た眠気を噛み殺しながら、ケイは背伸びをして空を見上げた。</p><p>今日は、いい天気だな</p><p>だなぁ。……ねえ、ケイって、昼間でも星が見えたりする？</p><p>ああ。見えるぞ</p><p>マジか。いいな～どんな風に見えんの？</p><p>どんな風……と言われてもな。白い点がぽつぽつ、って感じか。それほど綺麗じゃないし、夜みたいに小さな星は見えない</p><p>へぇ～『視力強化』ってスゲェな……</p><p>寝転がったまま、アイリーンは頭の上に手をかざして、青空に目を凝らす。暫くそうやって、見えもしない星を眺め続けていたアイリーンだが、だんだんとその瞼が下がっていき、終いには、</p><p>……くぅ</p><p>小さくいびきをかき始める。</p><p>しばらく、頬杖をついてそれを眺めていたケイであったが―それはそれで乙なものだ―、あんまり遅くなってもなぁ、と思い直し、ゆらゆらとボートを揺り動かした。</p><p>はっ。……オレ寝てた！？</p><p>鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、がばりと起き上がるアイリーン。</p><p>数分くらいうつらうつらしてたみたいだが……起こして良かったか？</p><p>うん。ありがと。完全に寝るとこだった</p><p>猫のように背伸びをしながら、神殿の方を見やる。</p><p>……そろそろ行く？</p><p>そうだな</p><p>頷いて、ケイはオールを手に取った。</p><p>†††</p><p>近づいてみても、やはり『小さな島』という印象は変わらない。先導役のアイリーンにあれこれ指示されながら、木材で組まれた桟橋に接岸する。</p><p>ケイたちが食べている間に、新たに巡礼者が訪れたのだろう。船着き場には大型の渡し船が停泊しており、パイプを咥えた船頭が暇そうに煙をくゆらせていた。胡乱げな目でこちらを見る船頭に目礼しつつ、船着き場の柱にロープでボートを固定する。</p><p>さて、こんなもんか</p><p>盗まれはしないと思うけど、風で流されたりしたら笑えねえもんな</p><p>……全くだ</p><p>先ほど潜って宝探し云々言っていたものの、出来れば、足のつかない場所では泳ぎたくないケイであった。</p><p>桟橋から歩いて、白亜の石段を上がっていく。島の形状は丘のそれに近く、まるで湖面に、ひょっこりと小山が頭を出しているかのようだ。</p><p>これ……船で運んで造ったのかな？</p><p>階段の白い石材をぽんぽんと足で踏みしめながら、アイリーン。</p><p>そうだろうな。精霊の怒りを鎮めるためとはいえ、よくやるよ</p><p>全部人力だろ？　ヤバいよな……</p><p>高さにして、二階建ての家ほどだろうか。石段を登り終えると同時に、ローブに身を包んだ巡礼者たちとすれ違う。</p><p>あとに残されたのは、静謐さの漂う涼やかな空間―</p><p>わぁ……</p><p>そこに広がる光景を目にして、アイリーンが感嘆の声を上げた。</p><p>白い神殿―ギリシアのそれを彷彿とさせる単純な石柱の連続に、船を丸ごとひっくり返したような木製の屋根。水の精霊を祀る神殿ということもあってか、屋根の造形は意図的に船に似せてあるらしい。中心を走る竜骨と、屋根としては珍しい流線型がどこか非現実的で、機能美にも似た独特の雰囲気を醸し出している。</p><p>石段から神殿までは、大理石の白い石畳で一直線に舗装されていた。すっ、と伸びる白の路、周囲の緑の木々が、風にそよいでさわさわと葉擦れの音を響かせる。</p><p>蒼き湖に浮かぶこの島は、言葉通り、俗世から切り取られた非日常の空間だった。沁み入るような静けさの中に、穏やかな、それでいて背筋の伸びるような、不思議な空気が流れている。まさしくここは聖域であると、そう感じさせられた。</p><p>凄いな</p><p>ぽつりと呟いた言葉は、シンプルだが、そうであるが故に偽りがない。</p><p>悪く言えばケイは、この神殿を舐めていた。所詮は片田舎、神殿といっても、せいぜいが石造りの祠があるくらいのものだろう、としか考えていなかった。</p><p>だが実際に来てみて―精霊の威容とでもいうべきものに、圧倒されている。</p><p>……なるほど、わざわざ人が巡礼に来るわけだ</p><p>そうだな……オレたちも、中に入ってみようぜ！</p><p>厳かな雰囲気などどこ吹く風、と言わんばかりに興奮気味のアイリーンに手を引かれ、神殿の中へと足を踏み入れる。</p><p>石柱と屋根のみで構成されたそこは、どこまでも開放的な空間だった。飾り気のないタイルの床が広がり、その真ん中に、真っ白な大理石の彫像が安置されている。</p><p>一抱えもあるような大きな台座に、羽衣をまとった妙齢の美女の像。採光用の窓から光が降り注ぎ、その涼やかな笑みを照らし出している。そして彫像の前には何やら重そうな木箱が置かれ、天井からはロープが一本、ちょうど腰の高さまでぶら下がっていた。</p><p>あのロープが、『願いが叶う鐘』ってヤツかな！？</p><p>テンション高めのアイリーンは、小走りで彫像の前まで行き、躊躇なくロープを引っ張った。</p><p>からーんころんからん、と鐘の鳴る音が、頭上から響き渡る。</p><p>おおーこれだこれだ！</p><p>嬉しそうにはしゃぐアイリーン。なんとなく、ケイは日本の初詣を連想した。</p><p>願い事はいいのか？</p><p>もうしたぜ！</p><p>何を願ったんだ？</p><p>ケイの何気ない問いかけに、アイリーンはニヤリと意味深な笑みを浮かべ、</p><p>ひみつ！</p><p>そのまま、ケイに向かってあかんべえをする。そして、面食らうケイにからからと笑うばかりで、それ以上は何も言わなかった。</p><p>で？　ケイは？　どうするんだ？</p><p>やや強引に、話題を流そうとするかのように、今度はアイリーンが聞いてくる。その顔に浮かぶのは純粋な好奇心で、その他には何も読み取れない。アイリーンの態度は不思議、というか不可解だったが、まあいいかと流したケイは、顎に手を当てて考え込む。</p><p>願い、か……</p><p>何にしようか、としばし思いを馳せる。</p><p>…………</p><p>しかし、なにも思い浮かばない。</p><p>（いやいや、何かあるだろ）</p><p>そうは思うものの。</p><p>…………</p><p>やはり、なにも思い浮かばない。</p><p>（待て待て。何かあるはずだ、何か……）</p><p>つぶらな瞳でこちらを見るアイリーンの存在に、焦りのようなものを感じながらも、考えを巡らせる。</p><p>思い出すのは、二週間ほど前。まだ、ゲームの DEMONDAL で遊んでいた時代。</p><p>（俺が目標にしてたのは……そう、）</p><p>『弓を極めたい』―だとか。</p><p>『キル数2000を突破したい』―だとか。</p><p>『鳥の羽根を全種類コンプリートしたい』―だとか。</p><p>『自分も”竜鱗鎧(ドラゴンスケイル)“が欲しい』―だとか。</p><p>（……ロクなもんがないな）</p><p>我ながら、乾いた笑みが浮かぶ。『弓を極めたい』というのは兎も角、他のは余りにどうでもいいか、現実ではやりたくないことばかりだ。見事に、 DEMONDAL のことしか考えていなかった。</p><p>―いや。</p><p>ゲーム以外のことを、考えないようにしていたというべきか。</p><p>……そうか</p><p>ここに至って、ケイは気付いた。</p><p>二週間ほど前までの自分が、願っていたこと。</p><p>“生きたい”</p><p>“一秒でもいいから、長生きしたい”</p><p>切実な、真摯な、それでいて、嘆きの声を振り絞るような。そんな想い。</p><p>勿論これは、長寿を願うものではない。</p><p>消えかかっている命の灯を、少しでも長く、一秒でも長く、ただただ維持したいという、前向きでありながらも諦めを伴った仄かな夢―。</p><p>しかし今。</p><p>ケイは、ここにいる。</p><p>これ以上ないほど健全な肉体を持って、ここに居る。</p><p>（そうか、俺の願いは、もう―）</p><p>―叶っていたのか。</p><p>今更のように、ケイは笑う。</p><p>しかし、だからといって、これ以上は何も願わないのか、というと、それは違う。</p><p>（転換期にいるんだ、俺は）</p><p>過去の自分を振り返って、そう思った。</p><p>今まではずっと、『生きること』そのものに執着していた。</p><p>だが、健康な肉体を得て、『普通に生きること』が許された以上、別の何かを探さなければならない。</p><p>いや、―その何かを、探し出したい。</p><p>ただ漫然と『生きる』のではなく、『どう生きるか』を模索する―模索できる、その時が訪れたのだ。</p><p>（しかし困ったな。今急にそんなもの、思いつかないぞ……）</p><p>せめて、来る前に考えておくんだった……とは思うものの、アイリーンを誘う前までは、それどころでなかったことも思い出す。</p><p>アイリーン。</p><p>ふと、顔を上げた。</p><p>……ん？　なに？</p><p>見つめられて、小首を傾げる、美しいひとりの少女―。</p><p>（……そうか）</p><p>ケイの口元がほころんだ。</p><p>難しいことを考えずとも、今は、ひとつ願いがあるじゃないか―</p><p>おもむろに手を伸ばし、ロープを強く引っ張った。</p><p>からーんからんからんっ、と鐘は高らかに鳴り響く。</p><p>随分と長考だったな？　何を願ったんだよケイ</p><p>アイリーンの興味津々な問いかけに、</p><p>……秘密だ</p><p>ケイは、ただ笑った。</p><p>†††</p><p>その後、石像の前の箱が実は賽銭箱であったことに気付いたり、互いの『願い事』をそれとなく探り合ったり、それが由来して追いかけっこに発展したり、しかしスピードタイプのアイリーンに勝ち目はなくケイが呆気なく捕まったり、それで二人で密着してるところを不意打ちで管理人のオヤジに目撃されて恥ずかしい思いをしたり、などと色々あったが、日が傾き始めたのでケイたちは町に戻ることにした。</p><p>今日は、来て良かったな</p><p>少しは慣れてきた様子で、オールを漕ぎながらケイは、しみじみと呟く。</p><p>遠景に見送る白亜の神殿。あの場所がなければ、ここまでスムーズに、アイリーンと仲直りはできなかっただろう。心からの感謝をこめて、ケイはそっと、水の精霊に祈りを捧げた。</p><p>ああ、ホントに楽しかった</p><p>相槌を打つアイリーンも満足げだ。二人の間に、これまでのような、ぎくしゃくとした空気はなかった。</p><p>…………</p><p>不思議と苦痛ではない沈黙の中で、ただ水の音だけが静かに響く。遠目に映る小島、湖を行き交うボートに渡し船、徐々に茜色に染まりつつある空―全てが優しく、穏やかだった。</p><p>ふとした拍子に、二人の目が合う。</p><p>視線が絡み合い、気恥かしげに逸らされ、それでも再び、見つめ合う。</p><p>未だ明るい空の色に照らされ、アイリーンの顔だけが鮮やかに浮かび上がる。きらきらとした光をたたえる蒼い瞳―夜空の星なんかより、よほど綺麗だ、とケイは感じた。</p><p>なあ、アイリーン</p><p>うん？</p><p>ケイは自然と、口を開く。微笑みを浮かべて、アイリーンが応える。</p><p>何を言おうか、と言ってから考えたが、それでも自然と口は動いた。</p><p>俺さ―、実は</p><p>アイリ―ンッッッ！！！！！</p><p>突如として、響き渡る、</p><p>！？</p><p>聞き覚えのあるハスキーボイス。</p><p>弾かれたように、ケイとアイリーンは見やる。</p><p>数十メートルほどの距離。巡礼者たちを多数乗せた渡し船。</p><p>その中に、こちらに向けてぶんぶんと手を振る若者の姿―</p><p>アイリーン！　こんなトコにいたのかよぉー！！</p><p>大声で叫ぶのは、他でもない、アレクセイだった。 げェッ！ とケイとアイリーンの声がユニゾンする。</p><p>朝からずっと待ってたのに！　薄情だぜええアイリーンッッ！</p><p>そう言いながらも、どこか屈託のない笑顔で叫ぶアレクセイは、良く見れば顔が赤い。その周囲でヘラヘラしている若者たち―隊商の見習い連中だ―も同様に、どうやら酔っ払っているようだった。</p><p>ちくしょぅー遠い！　遠いよアイリーン！　今そっちに行くからなっ！</p><p>やたらといい笑顔で不穏なことを宣言したアレクセイは、あろうことか、その場でポイポイと服を―</p><p>わ！　わ！　わ！</p><p>畜生なんなんだアイツ！</p><p>顔を赤くして目を背けるアイリーン、ケイが我に返ってオールを握りしめる頃には、アレクセイは生まれたままの姿で船上で仁王立ちしており、</p><p>アッイッリ―ンッッ！！！</p><p>一声叫んでから、見事なフォームで湖に飛び込んだ。ザッパーンと上がる水しぶき。</p><p>アイリ―ンッッ！！</p><p>そしてそのまま、限りなくバタフライに近い泳法で、息継ぎの合間にアイリーンの名を呼びながら見る見る間に距離を詰める。</p><p>ケイ！　逃げて！</p><p>言われるまでもない！！</p><p>ケイも、全力でオールを漕ぎだした。</p><p>本気のケイの腕力を受けて、オールは爆発的な推力を生み出す。が、それでも尚、アレクセイが僅かに速い。それこそまるで宙を舞う蝶のように、きらきらと水滴を輝かせながら、徐々に徐々に彼我の差を縮めていく。</p><p>クソッアイツ速いッ！</p><p>ケイ、このままじゃ追いつかれる！</p><p>アイリ―ンッ！！！！</p><p>湖の水は冷たいんじゃないのか！？　低体温症は！？</p><p>そんなもん知らねーよ！！</p><p>ア―イ―リ―ンッ！！！！</p><p>渡し船の巡礼者たちや周囲の荷船の乗組員たちは、その様子を見て笑い転げていたが、特にケイはそれどころではなく笑われていることに気付きすらしなかった。</p><p>何でここでお前が出てくるんだよッ！</p><p>真っ赤な顔で必死にオールを漕ぐケイ、アイリーンの名を連呼しながら泳ぎ続けるアレクセイ。</p><p>最初は悲鳴のような声をあげていたアイリーンは、そんな二人をよそに、いつしか腹を抱えて笑っていた。</p><p>夕暮れの湖の果てに、一艘のボートと一人の姿が消えていく―。</p><p>結果。</p><p>最終的にボートに追いついたアレクセイであったが、ケイのオールがた(・)ま(・)た(・)ま(・)頭部に直撃し、一撃で昏倒させられたので、そのまま事なきを得た。</p><p>……平和な一日であった。</p><p>逆襲のアレクセイ</p><p>27. 英雄</p><p>翌日。</p><p>昼前に、隊商の面々は町外れの広場に集合した。</p><p>ケイがアイリーンと共に荷物の確認をしていると、ショートソードに複合弓で武装したダグマルが、 よっ と手を上げながら近づいてくる。</p><p>どうだケイ、調子は？</p><p>悪くないな</p><p>そうかそうか</p><p>ニヤけ面で何度も頷いたダグマルは、意味ありげな視線をアイリーンに向け、声をひそめる。</p><p>で、どうだったよ？</p><p>ケイははにかんだように笑い、</p><p>……お蔭で、上手くいったよ</p><p>おおー！　どこまでいった？　コレか？</p><p>クイクイッ、と何やら卑猥な動きをするダグマルに、ケイは一転、冷やかな目を向けた。</p><p>……そういうのは、きちんと段階を踏んで、だ</p><p>かーっ、お堅いねぇ</p><p>額をぱちんと叩いて、しばらくからからと笑っていたダグマルであったが、不意に溜息をついて表情を引き締める。</p><p>ま、それはいいとして、だ。ケイ、それにアイリーン、二人とも聞いてくれ</p><p>突然の真面目な口調、どうやら仕事の話のようだ。面食らいつつも、ケイとアイリーンは神妙な顔で耳を傾ける。</p><p>……こっからウルヴァーンまでの道のりは、今までと違って気合を入れて欲しい。途中で二つほど開拓村に立ち寄るが、そこがなかなか厄介な土地柄でな。森を切り拓いた所なもんで、昼夜問わずに獣が出やがるんだ。お蔭で盗賊の類はいないが、狩猟狼(ハウンドウルフ)の群れなんかに襲われたこともある。とにかく、隊商の荷馬車に被害を出さないことを最優先に立ち回ってくれ</p><p>いつになくダグマルが重武装なのも、それが理由らしい。</p><p>了解した</p><p>ベストを尽くすぜ……</p><p>狩りはお手の物のケイに対して、投げナイフ以外に有効な飛び道具を持たないアイリーンは浮かない顔だ。アイリーンは対人戦闘に特化したタイプなので、人型モンスター相手なら兎も角、獣の群れと戦うようなシチュエーションはあまり得意としていない。</p><p>特に嬢ちゃんの魔術、頼りにしてるからな！</p><p>ニカッと笑ったダグマルが、手をひらひらさせながら去っていく。実は昼間は魔術が使えないことを伏せているアイリーンは、何とも曖昧な表情を浮かべていた。</p><p>……ま、“飛竜(ワイバーン)“でも出張ってこない限り、大概の相手は俺が何とかするさ</p><p>自信なさげに丸まった背中をぽんぽんと叩いて、励ますようにケイ。</p><p>……そうだよな。魔術が必要な場面なんて、そうそうないよな</p><p>気を取り直したのか、木の丸盾を背負いながら、アイリーンは軽く笑い飛ばした。</p><p>隊商は、予定通りユーリアの町を出発する。</p><p>滞在中も商売に勤しんでいたホランドのようなやり手を除いて、皆この二日間で英気を養ったらしい、隊商の面々も生き生きとした様子だ。特に騎乗の護衛たちは弓を片手に周囲を警戒しているものの、互いに雑談する程度の余裕はあり、いい意味で肩の力を抜いている。</p><p>ピエールは滞在中、本格的に馬車を修理したらしく、もう故障の心配はないとのことで、ケイは本来の持ち場―ホランドの馬車の横に戻ることとなった。当然、その隣で轡を並べるのは、アイリーンだ。</p><p>それにしても、あの屋台のガレット美味かったなー</p><p>思ったよりも良い町だった</p><p>だな！　また来ようぜ！</p><p>うむ。神殿にももう一度行ってみたいしな</p><p>ケイたちの会話に以前のようなぎこちなさはなく、自然に談笑する二人の様子を、周囲は生温かい目で見守っていた。出発前、ケイがダグマルに”結果報告”をしたことにより、話が隊商中に広まっていたのは当然の帰結というべきか。幸いなのは、ケイもアイリーンも互いの会話に集中していて、自分たちが観察対象になっていることには気付いていないことだ。</p><p>ちなみにアレクセイはというと、昨日酔っ払って醜態を晒したことを気にしているのか、ピエールの馬車に乗って大人しくしていた。</p><p>要塞都市ウルヴァーンを目指して、隊商は一路北へ向かう。</p><p>大きく蛇行するアリア川を右手に捉えながら、川沿いの街道を進んでいると、まるでこれまでの道程をそのまま進んでいるかのような錯覚に陥る。ただ一つ、サティナ‐ユーリア間との違いを挙げるとすれば、それは周囲の植生だろう。林を抜ければすぐに草原が広がっていたモルラ川沿岸地域とは違い、こちらは何処までも深い森が広がっている―“ラナセル大森林”だ。</p><p>広葉樹が生い茂り、陽光が遮られた森の中は薄暗く、ケイの瞳をもってしても奥までは見通すことはできない。</p><p>しかし成る程、豊かな森だ―と思わされる。</p><p>アイリーンと話しながら森にも注意を向けているが、先ほどから幾度となく獣の姿が見かけられた。鳥は勿論のことキツネや鹿、猫に似た小型の肉食獣の姿もある。</p><p>ホランド曰く、ウルヴァーンの統治下にある”アクランド”領は、この森を開墾することで豊かな土地を確保しているらしい。木はそのまま資材になり、獣は日々の糧になる。薬草の類も豊富で、切り拓けば森の黒土は優秀な田畑に様変わりだ。これから立ち寄る開墾村も、そんな開発の最前線といえる。</p><p>はっきり言って、商売相手としては微妙だな。元々開拓村には、借金に追われた人間や、農家の次男坊、三男坊なんかが送られるものだからね。どちらかといえば貧乏人が多い</p><p>そう言ってボヤくのはホランドだ。これから立ち寄る村は、他の行商人であればスルーしてしまうほど、儲けの少ない商売相手らしい。</p><p>さりとて、彼らは物資を必要としているし、行商人は物流の担い手だ。無碍にするわけにも、いかなくてなぁ</p><p>旦那は商人の鑑だな</p><p>商談に忙殺されロクに体も休められず、疲れのせいか愚痴っぽいホランドに、アイリーンが調子を合わせて相槌を打つ。</p><p>ケイも黙って話を聞いていたが、突然、その目をチカッ、チカッと眩い光が襲った。</p><p>うおッ、なんだ？</p><p>強力だが繊細なケイの目に、その光は強すぎる。見れば、荷馬車の上でエッダが悪戯っぽい笑みを浮かべていた。その手に握られていたのは、掌サイズの金属製の円盤。</p><p>あっ、それ！　もしかして鏡！？</p><p>目ざとく気付いたアイリーンが、食らいつくように馬を荷馬車に寄せる。</p><p>うん！　鏡ー！</p><p>エッダ！！　それを持ち出すなと言ったろう！</p><p>振り返り、声を荒げるホランド。びくりと体をすくませたエッダは、 ごめんなさーい！ と言いながら、すっ飛ぶようにして幌の影に逃げていく。</p><p>ちゃんと仕舞っておきなさい！　割れたら大変なんだから！</p><p>は～い……</p><p>拗ねたような声だけが返ってくる。 まったく！ とプリプリ怒りながら、ホランドは手綱を握り直した。</p><p>旦那、アレは商品なのか？</p><p>青い瞳をきらきらと輝かせ、興味津々な様子でアイリーン。</p><p>ああ、あれはサティナから運んでいる品でね。元はといえば鉱山都市ガロンで造られたものだよ。ウチの悪さをする娘に、見つからないよう隠してたんだが……ユーリアにいる間に荷を漁ったみたいでね</p><p>そうか。高いんだろ？</p><p>まあ、……小売価格で銀貨二十枚といったところかな。サイズは小さいが、質がいいものでね。錆びないんだよ</p><p>へ～ぇ……</p><p>顎に手を当てて頷くアイリーンの顔には、 それほど高くはないな…… という考えが透けて見えていた。それにすかさず気付いたホランドは、</p><p>ああ、いや、すまない。あれは依頼された品でね、売ることは出来ないんだ</p><p>……。そっかー</p><p>あからさまにがっかりするアイリーン。 まあまあ、また縁があったらね…… など言いながら、ホランドはケイに意味ありげな目を向けた。ケイはそれに頷き返しつつ、 ウルヴァーンに着いたら、ホランドを頼ろう と密かに決意を固める。銀貨数十枚程度なら、即決で購入できるだろう。</p><p>†††</p><p>それから暫く、平和な旅路は続く。</p><p>特筆すべきことといえば、ユーリアから一時間ほどの所で、街道に彷徨い出た大きな鹿を前方の護衛が弓で仕留めたくらいのものだ。その他は何事もなく、事前にダグマルから注意されていただけに、ケイたちは拍子抜けした気分であった。</p><p>が。</p><p>夕刻、最初の村に到着した時に、そんな平和な空気は一撃で吹き飛んだ。</p><p>……何だあれは。一体どうなっている？</p><p>街道の彼方、視界に入った村の姿を見て、御者台のホランドが驚きの声を上げる。</p><p>開拓村は、周囲をぐるりと丸太の壁で囲んだ、ちょっとした小要塞とでも呼べるような村だった。</p><p>しかしその壁の一部は、まるで爆発に吹き飛ばされたかのように、大きく穴が開いて破壊されている。憔悴しきった様子の村人たちが、手に木材を抱えて修復作業を進めているのが見えた。</p><p>ひとまず隊商は村に入り、住人たちに事情を聞くことにする。</p><p>とんでもないコトになっちまった―</p><p>疲れの滲む顔で、説明を始めたのはエリドアという名の男だ。どうやらこの村の村長らしく、ケイの第一印象は、 村長にしては若い だった。おそらくは三十代後半―体格こそ筋肉質なものの、八の字になった眉のせいで常に困り顔に見えることもあり、全く頼れる風には見えない。</p><p>疲れのせいか、あるいは頭の回転がそれほど速くないのか、エリドアの説明はいまいち要領を得なかったが、話をまとめるとこういうことだった。</p><p>始まりは、一昨日の昼のこと。</p><p>村人の一人が村外れの森で、手負いの獣を見つけた。</p><p>それは体長が３ｍほどにもなる、世にも奇妙な美しい動物だった。馬に似た体躯、緑っぽい光沢を見せる美しい毛皮、鋭く尖った長い一本角。攻撃的な雰囲気を漂わせていたそれは、しかし足と腹に深い傷を受けており、村人が見つけた時点で息も絶え絶えの状態であったという。</p><p>ひと目見てただの獣ではないと察した村人は、村に仲間たちを呼びに行き、そして見事、寄ってたかって滅多打ちにして仕留めることに成功した。</p><p>これは絶対に高く売れる、と大喜びで皮を剥ぎ角を取り、腐りそうな肉は祝いと称して皆で食した。ただ焼いて塩で味付けしただけだったが、その肉は大変に美味であったらしい。</p><p>食べられそうにない奇妙な色の内臓は捨て、骨などの『残り物』は念のため倉庫に仕舞い、村人たちは大満足で眠りについた―そして、そこまでは良かった。</p><p>悲劇が起きたのは、その次の日、即ち昨日の夕暮れのこと。</p><p>森の奥から突然、凄まじい咆哮が聴こえたかと思うと、見たこともないような巨大な化け物が姿を現したのだという。</p><p>村の壁越しに、頭が見えるほど大きかったそれは―</p><p>―熊、だった。メチャクチャでかい熊だったんだ</p><p>げっそりとした様子で、エリドアは言う。</p><p>腕の一振りで木の壁を破砕したその熊は、真っ直ぐに『残り物』を置いていた倉庫に向かったが、骨と皮の余りしか残っていなかったことに怒り狂い、そのまま村人たちに襲いかかった―。</p><p>六人、食われた。男が三人、女が二人、子供が一人。丸ごと食われて、殆ど死体も残らなかった。……怪我人も二人いたが、みな朝までには死んだ</p><p>エリドアの口から訥々(とつとつ)と語られる凄惨な事件のあらましに、隊商の面々は顔を引き攣らせ、しんと静まり返る。</p><p>……どうするつもりだ？</p><p>ホランドの問いかけに、エリドアはただただ、重い溜息をついた。</p><p>今朝、ウルヴァーンに何人か行かせた。馬も食われてしまったから、仕方なく徒歩で……。しかし、そもそも、助けが来てくれるのかも分からないし、まず話を信じてもらえるかどうか</p><p>うぅむ……</p><p>崩壊した丸太の防壁を見やりながら、ホランドは唸る。確かに、３ｍはあろうかという丸太の壁よりもさらに背丈の高い熊など、俄かには信じがたい話だ。しかし、実際に破壊された壁や家々を見れば、それが法螺吹きの類でないことはすぐにわかる。</p><p>俺たちも危ないんじゃ……</p><p>逃げた方が……</p><p>囁くような声で商人たちが相談し始め、それを耳にしたエリドアの顔色が悪くなる。このまま隊商―具体的に言えばその護衛の戦士たち―に逃げられると、村が壊滅してしまうのは火を見るよりも明らかだった。</p><p>待ってくれ。おれたちを見捨てないでくれ！</p><p>……気持ちは分かるが、そんな化け物の相手なんざ、金貨を積まれたって御免だぞ</p><p>護衛の代表として口を開いたのは、ダグマルだ。崩壊した壁を見やりながら、その表情には、同情と憐憫がありありと滲み出ていた。</p><p>というか、それより早く逃げた方がいいんじゃねえか？</p><p>そ、そんな……！</p><p>そうだ、逃げよう！　我々の戦力でどうにかなる相手じゃない！</p><p>あの壁をぶち抜く相手となるとな……</p><p>村の面々も一緒に逃げたらどうだ？</p><p>後を追ってくるかもしれないぞ……</p><p>……それは困るな</p><p>おい！　俺たちに残って囮になれってか！？</p><p>周囲の村人たちも集まって話に加わり、場が騒然とし始める。</p><p>その集団からそっと抜け出して、ケイはひとり、崩れた壁の方へ歩いていった。</p><p>半ば諦めたような顔で修理を進める村人たちをよそに、まず壁の外側の地面に視線を走らせる。探すまでもなく、くっきりと残された大きな足跡。しゃがみ込んで、自分の手の平と照らし合わせたところ、『熊』の足のサイズは軽く五十センチを越えていた。</p><p>足の指の形に沿って踏みしめられた土、根っこから折り倒されている森の木々、壁に刻み込まれた巨大な爪跡、それらを注意深く観察する。</p><p>どう思う、ケイ？</p><p>背後から声。振り返るまでもない、アイリーンだ。</p><p>……そうだな。アイリーン、ちょっとあそこの壁、見てみてくれないか。毛が挟まってる</p><p>ん、どれどれ</p><p>ケイが指差さす丸太の壁、地面から２ｍほどの高さの所に、軽く助走をつけたアイリーンはぴょんと飛び上がって取りついた。軽業師でも成し得ないような跳躍に周囲の村人たちが唖然とするが、アイリーンはそれを気にすることなく、</p><p>……ビンゴ</p><p>壁の隙間に挟まっていた、数本の獣の毛を引っこ抜く。</p><p>もう暗くなってきてんのに、よくこんなもん見えたなケイ</p><p>まあな。ちょっと貸してくれ</p><p>アイリーンに手渡されたそれを、夕焼け空にかざして見る。ゴワゴワと堅く、光沢のある暗い赤色の毛。</p><p>この色の毛の熊は、……一種類しかいないよな</p><p>でも、話で聞く限りだと、ちょっと小さくね？</p><p>多分、若い個体なんだろう。こんな人里まで出てきたのもそのせいじゃないか？</p><p>なるほど……</p><p>手の中の毛に視線を落とし、森の奥を見やり、二人は共に表情を曇らせた。</p><p>どうする？　オレが 追跡 してもいいけど</p><p>日の沈んだ空を見上げて、アイリーン。</p><p>……俺たちだけで決めてもな。雇い主に相談するのが筋ってもんだろう</p><p>ケイとアイリーンの二人だけならば自分たちで好きなように対応できるが、隊商や村人たちのことを考えると勝手に振舞うわけにはいかない。二人は議論の紛糾する村の中へ戻っていく。</p><p>時間の無駄だ！　村を離れよう！</p><p>頼む、見捨てないでくれ！　助けてくれよ！</p><p>今、下手に逃げても危険じゃないか？</p><p>まだ集まっていた方が、戦いやすいかも知れないな……</p><p>いやいや危険すぎるだろう！　あの丸太の壁を一発でぶち壊す化け物だぞ？</p><p>どうやら隊商の面々も、逃げる派と村に留まる派で分かれているらしい。そこに 兎に角助けてくれ と泣きつく村人が加わり、話し合いはまさしく混沌の様相を呈していた。</p><p>すまない。幾つか聞いていいか</p><p>そんな中、ひとり場違いなほど生真面目な雰囲気を漂わせたケイは、手を挙げてエリドアに問いかける。まるで死人のように、ゆっくりと首を巡らせたエリドアは、</p><p>なんだ……？</p><p>熊についてなんだが、背丈は少なくとも４ｍ以上で、毛皮は暗めの赤っぽい色、首のまわりに斑点のような白い模様はあったか？　そして下顎の牙が異様に長く、燃えるような赤い目をしていなかったか</p><p>突然の具体的な質問に、面食らった様子のエリドア。記憶を辿るように目を細めた彼は、</p><p>……すまん、目の色は分からない、逃げるのに必死だったんだ。体毛は、赤っぽかったと思う、牙は……そうだな、下の方が長いように見えた。模様は……おい、皆！　熊の首周りに、白い斑点はあったか？　目は何色だった？</p><p>……憶えてないな</p><p>言われてみれば、あった気もするが……</p><p>おっかなくて目なんて見てねぇよ……</p><p>村人たちはボソボソと、呟くようにして口々に答える。エリドアは申し訳なさそうな困り顔になった。</p><p>……すまん。皆、よく憶えてないみたいだ</p><p>なら、吠え方はどうだった？　『グオオオォッ』と地の底から響いてくるような、そんな重低音じゃなかったか？</p><p>ああ、それは憶えている！　そんな感じだった、思い出しただけでも震え上がるような……</p><p>ケイの口真似に、エリドアはガクガクと何度も頷いた。 成る程 と腕を組んで得心するケイ。</p><p>……心当たりが？</p><p>いつの間にか静かになっていた皆を代表し、ホランドが問う。 ああ とケイは首肯して、</p><p>話を聞く限り、十中八九”大熊(グランドゥルス)“だろう</p><p>その、断定的な言葉は間違いなく、皆に幾らかの動揺をもたらした。</p><p>“大熊(グランドゥルス)”。</p><p>『陸の竜』こと”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“と双璧を為し、『森の王者』と称される巨大なモンスターだ。</p><p>普通の熊との違いは、まずその体格。次に、強靭性の高い毛皮と分厚い筋肉による、桁外れな防御力だ。生半可な武器では傷一つ付けられず、仮に皮を突破して傷を負わせられたとしても、筋肉と脂肪の層に阻まれるため致命傷には至らない。</p><p>“森大蜥蜴”のように毒があるわけでもなく、“飛竜”のようにブレスを吐くわけでもないが、“大熊”はその防御力と腕力でシンプルかつ絶大な強さを誇る。また、猪突猛進な”森大蜥蜴”とは違って知能も高く、待ち伏せや撤退、罠の回避や足跡を使ったミスリード、岩や木を投擲して遠距離攻撃、など人型モンスターに匹敵する戦術行動を取れるため、ゲーム内では非常に戦い辛い相手としてプレイヤーたちから恐れられていた。</p><p>そして、その辺の事情はこちらの世界でも同じなようで、アイリーンを除く全員が、“大熊”の名を聞いてぎょっと身を仰け反らせる。</p><p>……“大熊”？</p><p>まさか、有り得ない</p><p>流石にそれは……</p><p>しかし、それも一瞬のこと。隊商の面々はすぐに気を取り直して、 そんな筈はない とケイの考えを一笑に付した。</p><p>深部(アビス) の獣が、こんな場所に出るわけがない。いくら森を切り拓いたと言っても、ここは街道に近い人里だぞ</p><p>疑わしげなエリドアに、ケイは頷きながらも、</p><p>確かに、普通はこんな所までは出てこない。しかし基本的に、―これは”大熊”に限った話じゃなく、全ての熊に言えることだが―、連中は獲物への執着心が強いからな。一度食うと決めたら、何処までも追いかけてくる。</p><p>御宅らが仕留めた『緑色の獣』は、特徴からして 深部 に棲む”イシュケー”というモンスターだ。肉が美味く内臓は栄養価が高い。おそらく、“大熊”に追われて逃げてきたんだろうな</p><p>じゃ、じゃあ……村が襲われたのは、俺たちがイシュケーを殺したから、なのか？</p><p>うーむ。いずれにせよ、近くまでやってきていたのは事実だ。遅かれ早かれ、同じ結果にはなった、かも知れないな</p><p>そうか……近くにまで来られた時点で、運の尽きだったのか……クソッ</p><p>エリドアは眉根を寄せて、悲痛な表情で嘆いている。ケイとしても、同情の念は禁じえないが、少なくともイシュケーが村襲撃の一因となったことは否定のしようがない。</p><p>……理屈は分かったが、ケイ。“大熊”ってのは、小山ほどもある巨大なモンスターじゃないのか？　話を聞いた限りだと、今回の奴は小さすぎるように思えるんだが……その、『“大熊”にしては』、という意味でだが</p><p>完膚なきまでに粉砕されている村の倉庫を見やりながら、それでも信じきれない様子のダグマル。 小山ほどもある という表現を聞いて、ケイは思わず苦笑した。</p><p>“大熊”の成獣は、確かに見上げるほどにデカいが、それでも体長７ｍは越えないよ。それでも充分デカいっちゃデカいが……ここを襲ったヤツは、大きさからして、まだ巣立ったばかりの若い個体だろう。老練な”大熊”は自分の縄張りから出て来ないし、そもそも獲物を逃がすようなヘマはしないだろうからな。それにさっき、暗赤色の獣の毛を見つけたが、この色も”大熊”特有のものだ</p><p>まるで、見たことがあるような言い方だな？</p><p>……まあな</p><p>半信半疑なダグマルの言葉に対し、ケイは小さく肩をすくめるにとどめた。</p><p>兎も角、いずれにせよ相手は一撃で壁をぶっ飛ばすような化け物だ。逃げるにしても戦うにしても、早目に決断することをお勧めする。連中は夕暮れや朝方の、薄暗い時間帯に一番活発に動くからな</p><p>ケイが茜色に染まる空を見上げながらそう言うと、皆はいよいよ困った様子で顔を見合わせる。</p><p>私は……隊商の責任者として、リスクは極力避けたいのだが、さりとて村の人々を見捨てたくもない</p><p>先ほどから、隊商の皆と村人たちとの間で板挟みになっていたホランドが、ぽつりと率直な考えを漏らした。</p><p>ケイ、意見を聞かせてくれないか。君はどうしたらいいと思う</p><p>そうだな……</p><p>しばし、皆の注目を浴びながら、考えを巡らせる。とはいえ、方針は既に決まっていた。アイリーンに目で問いかけると、真剣な顔で頷き返す。</p><p>……俺は、戦うことを提案する</p><p>当然のように、周囲はざわついた。 危険だ！ と騒ぐ商人たちを、ホランドがすかさず手で制して黙らせる。</p><p>理由は？</p><p>逃げるのが難しい、というよりもむしろ危険だ。熊は鼻が効くし、荷馬車は暗い中だと殆ど身動きが取れないだろう？　夜、それも移動中に”大熊”に襲われるってのも、ぞっとしない話だ。それならばまだ、『来る』と分かっているこの村で迎撃した方がやり易い</p><p>う～む……。それは尤もだが</p><p>馬を二、三頭、囮として村に置き去りにして、その間に逃げるという手も考えたがな。馬やら馬車やらが犠牲になる上に、これは時間稼ぎにしかならない。人を食らったということは、人の肉の味を憶えたということだ。遅かれ早かれ、腹を空かせれば隊商の匂いを辿って追ってくるだろう。となれば次に被害を受けるのは、北の村か、あるいはユーリアの町か……いずれにせよ、戦いは避けて通れない。他の奴らになすりつけることは出来るかも知れないが</p><p>至極あっさりとした口調でえげつないことを言うケイに、アイリーンは苦笑し、ホランドは渋い顔だ。彼としても、村人は見捨てたくないが、隊商の荷馬車を犠牲にするわけにもいかないだろう。さりとて、他の人々になすりつけるのも頂けない。</p><p>しかし、戦って勝てる相手か？</p><p>今までずっと、集団の隅で黙って話を聞いていたアレクセイが、おもむろに厳しい表情で疑問を呈する。</p><p>おれは、東の辺境で何度か『大物』狩りにも参加してきたが、それは大がかりな罠と数十人規模の人手、そしてよく練られた作戦があって初めて成功するものだったぞ。入念な準備を経ても、何人もの犠牲者が出ていたのに、ましてや今回の相手はあの”大熊”だ。現状のおれたちの戦力でロクな準備もなしに、どうにか出来るのか？</p><p>出来るぜ</p><p>ケイに代わり、アイリーンが答えた。</p><p>特に”大熊”は、オレの魔術と相性がいい。そして、ケイの弓は”大熊”の皮を貫通する。時間はかかるかもしれないが、オレたち二人だけでも倒せる相手だ</p><p>断定的に、そしてどこか誇らしげに、アイリーン。</p><p>その言葉通り、魔術が使える時間帯ならば、“大熊”はアイリーンにとって御しやすい相手といえる。影を操り纏わりつかせることで、一方的に視覚を奪い去れるからだ。あとは盲滅法に暴れる”大熊”を、ケイが遠距離から削り殺せばいい。</p><p>例え生命力の強い”大熊”でも、心臓や脳を破壊されれば一撃死もあり得る。暴れている間に村の施設に多少被害が出るかもしれないが、残りの者は遠巻きに見守ってさえいれば、巻きこまれることもないだろう。相手が群れていると魔術の対象が増え、魔力と触媒の都合上そうそう使えないが、この卑怯極まりない戦術は、単体相手ならば殆ど全てのモンスターに有効だ。</p><p>しかし、『目潰し』が通用しない敵も、やはり存在する。それが”森大蜥蜴”を含む爬虫類系のモンスターだ。熱感知器官を有する彼らは、元々目が悪いことも相まって、視覚を封じても正確な攻撃を繰り出してくる。</p><p>そういった側面から、今回の相手が”森大蜥蜴”ではなく”大熊”だったのは、ある意味で僥倖と言えた。</p><p>なるほど、魔術があったか……</p><p>どうにかなるかも知れんな……</p><p>アイリーンの魔術に絶大な―過剰とすら言える信頼を置いている隊商の面々は、幾らかの希望を見出したようで表情を明るくする。対して、事情を知らぬ村人たちは、大言壮語する金髪の少女とそれに納得する商人たちを見て、むしろ不安の色を濃くしていた。</p><p>この娘は何を言ってるんだ？　あの化け物をたった二人でだと？</p><p>えっへん、と胸を張るアイリーンに、胡散臭げな目を向ける村人たち。</p><p>いや、このお嬢さんは、実はこう見えて実は魔術師でな</p><p>それも、大規模な麻薬組織を一人で壊滅させた腕利きだぞ</p><p>すかさず商人たちが知った顔でフォローを入れるが、それでも怪しむような雰囲気は消えない。</p><p>ま、百聞は一見にしかずと言う。お嬢ちゃん、一丁かましてやりな！</p><p>先ほどまでの怯えは何処へやら、調子に乗った商人の一人がアイリーンを煽る。一体何をかましてやれというのか。しかしアイリーンもそれに乗っかり、</p><p>そうだな。とりあえず、熊野郎の位置でも探ろうか。今どこに居るのかが分かれば、作戦も立てやすいだろ？</p><p>そう言って、ケイの手から”大熊”の毛を拝借し、逆の手で胸元から触媒を取り出す。</p><p>Mi dedicas al vi tiun katalizilo.</p><p>とぷん、と足元の影に、水晶の欠片が呑み込まれる。</p><p>Maiden krepusko, Kerstin. Vi sercas la mastro, ekzercu!</p><p>ぶるりとアイリーンの影が震え、真っ直ぐな漆黒の線となって森の方へ伸びた。 追跡 の魔術。村人たちは目を丸くして、商人たちはワクワクした様子で、ケイは無表情で、それぞれ見守る―</p><p>―って、あれ？</p><p>しかし、すぐに人型に戻った影を見て、アイリーンが間抜けな声を上げた。アイリーンの足元で、お手上げのポーズを取って見せた影絵の淑女は、近くの地面に指で字を描く。</p><p>『 Antau okuloj 』</p><p>浮かび上がった文字に、ケイとアイリーンは同時に顔を引き攣らせた。</p><p>なんだ？　どうした？</p><p>何て書いてあるんだ？</p><p>皆の質問に答えるよりも早く。</p><p>ズン、と。</p><p>森の奥から、重い音。</p><p>どうやら、お喋りが過ぎたようだな……</p><p>冷静なケイの呟きをよそに、壁の修復をしていた村人たちが、この世の終わりが訪れたかのような顔で村の中に戻ってくる。</p><p>ズン、ズンと近づいてくる地響き。そこに、木々の倒れるメキメキという音が混ざる。</p><p>……ご本人のお出ましだぜ</p><p>はっ、と笑みを浮かべるアイリーン。</p><p>森の暗闇から、赤い瞳の化け物が、ぬっと姿を現した。</p><p>―デカい。</p><p>その場に居合わせた者の思考は、その一言に集約される。</p><p>暗赤色の毛皮。首周りの白い斑点模様。盛り上がった肩の筋肉。口から突き出た鋭い牙。一本一本が草刈り鎌ほどもある長い爪。</p><p>体長は、優に４ｍを越えるだろう。若い個体―とケイは言ったが、『森の王者』と称されるに相応しい力強さが、周囲の空間に滲み出ている。</p><p>村の手前で立ち止まった”大熊”は、人間たちを睥睨するかのように目を細めた。</p><p>そして、グオオオオッと威嚇するかのように、凄まじい声量で、吠える。</p><p>空を圧する轟音に、護衛の戦士は震え上がり、商人と村人は腰を抜かし、荷馬車の馬たちが恐慌状態に陥った。</p><p>下肢にぐっと力を込めた”大熊”は、さらなる咆哮を上げながら、土煙を巻き上げて村に突撃する。木材で修復されかけていた壁の穴を文字通り木っ端微塵にし、人間たちには目もくれず、目指すは村の奥。並べられた荷馬車と、それに繋がれた馬達。</p><p>獣は、腹を空かせていた。</p><p>そして昨日喰らった、獲物の味を思い返していた。</p><p>―貧弱な二足歩行の猿よりも、肥え太った四足獣を。</p><p>なんと素晴らしいことか、今日の狩り場にはご丁寧にも、ずらずらと旨そうな獲物が並べられている。歓喜の咆哮を上げながら、“大熊”は走った。</p><p>それに対し、ケイは動く。</p><p>ピィッ、と吹き鳴らされた指笛に、近くの小屋の陰にいたサスケがいち早く馳せ参じる。その背に飛び乗りつつ、しばし右手を彷徨わせたケイは、鞍の矢筒から一本の矢を抜き取った。やたらとカラフルな装飾の、ややぼってりとしたデザイン―矢職人モンタン特製の『鏑矢』だ。</p><p>一息に引き絞り、打ち放つ。</p><p>ピューィピーッピロロロロと賑やかに、“大熊”の鼻先に鏑矢が飛来する。隠すつもりのない一撃、身を刺すような殺気、思わず反応した”大熊”は反射的に前脚で矢をはたき落とした。</p><p>折り砕ける鏑矢、しかし獣の足は止まる。胡乱げな赤い視線の先、そこには褐色の馬に跨る弓騎兵。自らの威容に怯えもせず、ただ醒めた目を向けてくる一人と一頭。</p><p>その、あまりにも冷静な態度が、森の王者の誇りに傷を付けた。先ほどの鋭い殺気も、あるいは十二分に脅威であったか。彼は、目の前の小さき者を、『敵』であるとはっきり認識した。</p><p>改めてケイに向き直り、“大熊”が全身の毛を逆立たせる。後ろ足で立ち上がり、万歳をするかのように両手を天に掲げた。それは、己の身体をさらに大きく見せるための威嚇行動。がぱり、と真っ赤な口腔が開かれ、</p><p>―！！！</p><p>再び、鼓膜が破れそうな咆哮。幾人かの村人が気を失い、隊商の馬が逃げ出そうと暴れ始める。</p><p>しかしそんな中、ただ一頭、サスケだけが”大熊”の目の前で平然としていた。</p><p>あるいは、彼はよく知っていたのだ。</p><p>自分の背に跨る主人の方が。</p><p>吠えるしか能の無い獣より、余程おっかないということを―。</p><p>サスケの背で、ケイは弓を引く。そこにつがえられた、青い矢羽の矢。モンタンに特注した、ロングボウ用の『長矢』だ。</p><p>“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の最高の威力を引き出すために、全力で弦を引き絞ったケイは、冷徹な目で”大熊”を睨む。</p><p>ぴぃんッ、と冴え渡った空気の中、周囲の者たちは、ケイと”大熊”の間に引き結ばれた一本の線を幻視した。</p><p>解き放つ。</p><p>銀光が迸る。</p><p>真っ直ぐに、しかし”隠密(ステルス)“により一切の殺気を持たぬそれが、“大熊”の左胸に吸い込まれた。</p><p>―オオオォォ！？</p><p>驚愕とも困惑ともとれる叫びと共に、胸に手を当てた”大熊”が大きくよろめく。そしてそのまま転がるようにして、森の方へと遁走し始めた。</p><p>が、数歩と走らぬうちに、その脚からふっと力が抜け、顔面から地面に崩れ落ちる。</p><p>ズ、ズンッと地面を揺らす音。呻き声を上げながら、もぞもぞともがいた”大熊”はしかし、ごぽりと鮮血を吐き出した。徐々にその動きを弱々しいものにして、やがて完全に動きを止める。</p><p>ふむ、</p><p>用意していた第三の矢を、矢筒に仕舞いながらケイは呟く。</p><p>―どうやら、運良く心臓を破裂させたみたいだぞ</p><p>まるで他人事。ぽかんと口を開けていた皆の頭に、その言葉が沁み入っていく。</p><p>そして―時間と共に、それが理解へと変わる。</p><p>おお……おおおおお！</p><p>最初に快哉の叫びを上げたのは、護衛の戦士の一人だった。そして理解の追いついた者から順に、頬を紅潮させて叫び始める。おっかなびっくりで”大熊”の死体に近づくホランド、未だ呆気に取られたままのダグマル、他の村人と抱き合って涙を流すエリドア、 たった一矢で”大熊”を仕留めるなんて、聞いたことがねえぞ！ と大興奮のアレクセイ。</p><p>ただ、熱狂する面々をよそに、</p><p>……オレの出番ねーじゃん</p><p>アイリーンは一人、ケイに向けて苦笑いしていた。</p><p>†††</p><p>その後は、ケイの指示のもと、“大熊”の解体タイムとなった。</p><p>ここ一番の脅威は駆逐したものの、村の壁に大穴が開いていることには変わりないので、盛大に篝火を燃やしながらの作業だった。毛皮は極力傷を付けないように剥ぎ取り、魔道具の材料となる目玉をくり抜き、牙や爪も採取しつつ、薬の材料になる一部の内臓を保存する。元が巨体なだけに作業は困難を極めたが、村人と護衛の戦士と商人見習い総出で力を合わせ、何とか無事に終わらせることが出来た。</p><p>生ける伝説とも言える”大熊”の素材。特に毛皮は、莫大な利益を生むだろう、というのがホランドの見立てだった。</p><p>こんなに状態の良い毛皮があるか！　剥製にしたらとんでもない値がつくぞ……！</p><p>ウルヴァーンに着いたら期待していてくれ、とホランドは興奮気味だ。</p><p>今回、この”大熊”はケイが独力で仕留めたものなので、そこから生まれる利益はケイが独占する運びとなったが、それに異議を申し立てる者は一人もいなかった。熊の肉を鍋にして焚き火を囲みつつ、商人たちが酒を振るまい、一同は夜遅くまで宴会と洒落こんだ。</p><p>そして、宴もたけなわになった頃。</p><p>皆に英雄として持ち上げられ、しこたま酒を呑まされたケイは、べろんべろんに酔っ払ってテントの中に寝転がっていた。</p><p>あ～、もうダメだ～、呑めない、ぐるぐる回る～</p><p>ケイはだらしないなーもうダウンかよ</p><p>顔を真っ赤にしてうんうん唸るケイの隣で、こちらも呑み過ぎて少々顔の赤いアイリーンが、くすりと頬をほころばせた。</p><p>……いやぁ。それにしてもケイ、よくやったな</p><p>う～ん。まさかな～俺も、一撃で倒せるとは思わなかった～。運が良かったな～</p><p>にへら、と上機嫌な笑みを浮かべるケイ。酔っ払ってはいるが、その言葉は、紛れもなく本心からのものであった。</p><p>あそこでなぁ～、ヤツがトチ狂って威嚇してきたからなぁ、やりやすかった～</p><p>あんなおいしいシチュエーション、滅多にないよなぁ</p><p>だなぁー、そうじゃなきゃ、心臓なんて狙い撃ちに出来んよ～</p><p>最初に放った鏑矢のように、普通に矢を放っただけでは、空中ではたき落とされてしまうだろう。“大熊”には、それが出来るだけの身体能力と反射神経がある。しかし今回の”大熊”はまだ若く、経験が足りていなかった。仮に老練な個体であったならば、飛び道具で攻撃してきたケイを前に、隙を見せつけるような真似はしなかったであろう。</p><p>半笑いを顔に張り付けたまま、しばしテントの布地を見つめていたケイだが、不意に 決めた！ とアイリーンに向き直る。</p><p>なあ、アイリーン。俺、決めたよ</p><p>うん？　何をだ？</p><p>俺は、狩人になろうと思う！</p><p>突然のケイの宣言に、アイリーンは目を瞬かせた。</p><p>……っていうと？</p><p>今回みたいに、害獣に困っている人たちを助けて回るのさ</p><p>どうだ、素敵だろ、と言いながら、ケイは子供のように無邪気に笑う。</p><p>―満ち足りた気分だった。</p><p>今までの人生を振り返って、ここまで他人に褒められ、感謝されたことがあったであろうか、とケイは酔った頭で考える。</p><p>今までは、どちらかというと、ただ生かされているだけの生だった―。</p><p>それを後生大事に抱えて、まるで消えかけの蝋燭の火を守るかのように、いつ吹くとも知れぬ突風に怯えながら、ケイは生きてきた。</p><p>しかしただ漫然と、平和と安全の中で、それを守るだけで朽ちていく生は、果たして生と呼べるのか。</p><p>―それはあるいは、死んでいるのと大して変わらぬのではないか。</p><p>それに対して今はどうだ―と、ケイはそんな風に考える。こんなにも充実している。輝いている。世界がきらきらと祝福してくれているかのように。</p><p>リスクを抱えて、赤の他人の為に自身の身を危険に晒そう、などと、少し前の自分なら思いもしなかっただろう。だが今は、『命を賭ける』という言葉に、陶然とするような魅力すら感じていた。</p><p>みんなに褒められて、感謝されて、生きていけるなんて……素敵じゃないか</p><p>承認欲求―という言葉が、脳裏をかすめた。だが、構いやしないと思った。それの何が悪い。どうしていけない―。</p><p>うん。いいと思う。本当に、素敵だと思うよ</p><p>優しい口調で、アイリーンは肯定した。にこにこと、慈しむような笑みとともに。</p><p>ひどく強烈な眠気に襲われながら、ケイは微笑み返した。</p><p>だろう？　……だからさ、アイリーンも、……応援してくれ</p><p>うん。応援する</p><p>……ありがとう</p><p>笑みを浮かべたまま、吸い込まれるようにして、ケイは眠りに落ちていった。</p><p>ふふっ</p><p>愛おしげに、その寝顔を見守るアイリーン。</p><p>……おやすみ、ケイ</p><p>そっと手を伸ばして、優しく、ケイの頭を撫でた。</p><p>†††</p><p>とある幌馬車の荷台で、幼い少女は布団にくるまっていた。</p><p>ぱちぱち、と篝火の火が弾ける音。少女は手の中で鏡を弄びつつ、幌に炎の明かりを反射させて遊んでいた。</p><p>―と、鏡の中に、長衣を羽織った老婆の姿が映り込む。</p><p>おや、エッダや。まだ眠ってないのかい？</p><p>……おばあちゃん</p><p>よっこらせ、と荷馬車に這い上がってくるハイデマリー。鏡をそっと枕元に伏せながら、エッダは小さく寝返りを打った。</p><p>ふふ。だめじゃないか、それで遊んじゃあ</p><p>優しくたしなめたハイデマリーが、鏡を取り上げて荷台の箱の中に仕舞う。</p><p>ホランドに見つかったら怒られるよ</p><p>……気を付けるから大丈夫だもん</p><p>これこれ</p><p>ふてぶてしいエッダに、思わず苦笑するハイデマリー。エッダの隣で布団にくるまって、長い溜息をつく。</p><p>……今日は、本当に驚いたねぇ</p><p>ねー！</p><p>エッダは目をきらきらと輝かせている。</p><p>ケイのおにいちゃん、すごかった！</p><p>―“大熊”が姿を現したとき、エッダは幌馬車に乗っていた。</p><p>こちらに全力で向かってくる化け物の姿に、気絶しそうなほど恐怖した。</p><p>だが、そうであるからこそ、“大熊”の前に立ちはだり、たったの一矢で仕留めてしまったケイが英雄のように見えた。</p><p>―いや。</p><p>間違いなく、エッダにとって、ケイは物語の中の英雄そのものであった。</p><p>全くだね。彼は本当に、大した人物だよ……</p><p>同じく、命拾いをしたハイデマリーも、口にこそ出していないがエッダと同じ感想を抱いていた。</p><p>…………</p><p>しばし、沈黙が続く。エッダは興奮した様子で、何度も何度も寝返りを打っていた。</p><p>……眠れないのかい？</p><p>……うん。どうしても、今日のことかんがえちゃうの</p><p>幼い心に、ケイのおにいちゃん、かっこよかったな、という考えが浮かび上がる。</p><p>そして次に、アイリーンの笑顔が浮かび、それは儚くも脆く崩れ去った。</p><p>……ね、おばあちゃん。何か、お話してよ</p><p>お話、ねえ</p><p>エッダのリクエストに、ハイデマリーは ふむ としばし考え込んだ。</p><p>……そうだね。それじゃあ、『現身の鏡』の伝説を、お話してあげようかね</p><p>うつしみのかがみ？</p><p>そう。これは不思議な鏡と、とある男の物語さね。……昔々あるところに、一人の男が居た―</p><p>ハイデマリーは、語り出す。</p><p>その男はとても体が弱くて、いつもベッドに寝てばかりいた。ほとんど動くことも出来なかった彼は、英雄の話が大好きで、竜を倒した騎士や、戦争で活躍した戦士の話を、家族にせがんでばかりいた。</p><p>だけどある日、彼の暮らしていた国で本当に戦争が起きて、生活は苦しくなり、家族が彼に構う時間は、だんだんと少なくなっていった。暇を持て余した彼は、仕方なく日がな一日、空想をして楽しんで、いつしか、夢の中で遊ぶようになった。</p><p>夢の中では、彼は英雄だった。戦争で活躍する立派な戦士だった。強く、勇敢で、今の自分とは、似ても似つかぬほど逞しい身体。自分はそうであると思い込んで、彼は一日の殆ど全てを、夢の中で過ごしていた―</p><p>ハイデマリーの穏やかな語り口に、エッダは小さく眉根を寄せた。</p><p>……悲しいね。そのひと</p><p>ハイデマリーは、小さく笑う。</p><p>……そうだね、そのままだったら、彼はただの悲しい人だった。</p><p>でもある日、彼は不思議な夢を見る。一枚の、自分の身の丈ほどもある、大きな鏡。それと向かい合う夢だった。</p><p>鏡には、ひとりの勇ましい戦士が映っていた。それを見た彼は、『ああ、これこそが自分だ』と、そう思ったんだよ。その戦士は、日ごろ彼が夢見て、自分自身だと思い込んでいた、空想の姿そのままだった。</p><p>そして、その夢から目を覚ました時―彼の身体は、夢にまで見た戦士のものに、本当に変わっていた</p><p>ここで、一息つく。</p><p>……彼が夢で見たのは、『現身の鏡』。古の時代に天の使いによってもたらされ、そして喪われたという伝説の遺失物。</p><p>その鏡は何処までも無垢で、人の魂の姿を映し出すという。彼は、長い長い間、夢を見過ぎたせいで、魂そのものが変わってしまっていたのさ</p><p>……だから、自分が思っていたような、英雄になっちゃったの？</p><p>そう……『英雄の姿』を、彼は手に入れた。そして、彼は自分が空想していた通りに、まるで英雄のように強かった―。</p><p>元気になった彼は、自分が思い描いていたように、意気揚々と戦争に出かけていった。そして名を上げ、武功を上げ、見る見る間に出世していった……</p><p>へぇ！　それでそれで？</p><p>……そして彼は、戦争で死んだ</p><p>ハイデマリーの一言に、エッダの笑顔が固まった。</p><p>……なんで？</p><p>流れ矢に当たって、死んでしまったんだよ。彼は英雄のように強く、英雄のように活躍したが、物語そのままの英雄―主人公では、なかったんだよ。彼はどんなに強くても、一人の人間に過ぎなかった……だから、偶然で、つまらないことで、死んでしまった</p><p>…………</p><p>やはり人間、身の丈に合った生き方がある、という話だねぇ……</p><p>ふぇっふぇ、と声をあげて、ハイデマリーは小さく笑う。対して布団をかぶったエッダは、 むぅ と難しい顔をした。</p><p>……ケイのおにいちゃんは、英雄かな</p><p>やがて、ぽつりと。</p><p>頭上の幌と、篝火の炎に揺れる影を眺めながら、エッダは呟いた。</p><p>……どうだろうねぇ</p><p>答えたハイデマリーは、</p><p>……そうだね。彼は、英雄だよ</p><p>そう言って、優しくエッダの頭を撫でた。</p><p>少なくともわたしらにとっては、ね……。今日の彼は、本当に勇敢だった。彼なら英雄になれると、わたしはそう思うよ。</p><p>さ、エッダや。そろそろ眠りなさい。明日の朝も、早いんだからね</p><p>……うん</p><p>大人しく目を閉じて、エッダは布団をかぶり直す。</p><p>……おやすみ</p><p>おやすみなさい</p><p>夜は、更けていく―。</p><p>†††</p><p>翌日、酷い二日酔いに苦しみながらも、隊商は村を出発した。</p><p>村人総出で、見送りをされながらの出立だった。少し気恥ずかしく、頭痛を抱えてはいたものの、ケイはそれに快く応えた。</p><p>昨日決意したことを、改めて心に強く刻みつけながら―</p><p>そこからは、再び拍子抜けするほどに、平和な道のりだった。</p><p>特にこれといった獣に遭遇することもなく、一日をかけて、夕方には次の村に到着する。</p><p>漏れなくそこでもケイの英雄譚が語られ、巨大な”大熊”の毛皮が披露され、一時は村中の人々がケイの元に集まり、村娘にチヤホヤされるケイにアイリーンが嫉妬し―等々あったものの、おおむね問題なく一日は終わった。</p><p>『それ』が起きたのは、翌朝のこと―</p><p>早朝、目を覚ましてテントから出たケイを、出迎える青年の姿があった。</p><p>アレクセイだ。いつになく真剣な表情。</p><p>どうしたのか、と訝しむケイを前に、アレクセイは腰の短剣を抜いた。</p><p>きらりと輝く銀色の刃を眼前に掲げ、重々しく口を開く。</p><p>―雪原の民の戦士、セルゲイの子、アレクセイ</p><p>朗々と、響き渡る低い声、</p><p>貴殿、朱弓の狩人ケイは、共にひとりの乙女を追い求む、我が恋敵である</p><p>は？　と混乱するケイを置き去りして、アレクセイは口上を続けた。</p><p>故に、我が祖、アレクサンドルの名に於いて、</p><p>じっと、水色の瞳が見つめる、</p><p>―貴殿に、決闘を申し込む</p><p>それなりの”礼儀”と”作法”ってもんがある。</p><p>28. 決闘</p><p>―貴殿に、決闘を申し込む</p><p>アレクセイの言葉に、ケイは二の句が継げなかった。</p><p>ゲーム内であれば決闘と称して、一対一(タイマン)での勝負を持ちかけられたことは何度もあったが―リアルでやられるのは流石に初めてだ。</p><p>返答や如何に？</p><p>短剣を突き付けたまま、飽くまで慇懃な態度のアレクセイ。その様子を見るに、万が一にも冗談ということはあるまい。</p><p>未だ混乱のさなかにあるケイと、堅い表情を崩さぬアレクセイ。しかも片方が抜き身の短剣を突き付けているとあれば、ただならぬ二人の雰囲気を察したのか、隊商の面々や村人たちがわらわらと周囲に集まってくる。</p><p>どうしたどうした？</p><p>恋敵同士で決闘だとさ</p><p>ほう、痴情のもつれかね</p><p>ひそひそと言葉を交わす野次馬たち。彼らの視線にこの上ない居心地の悪さを感じながらも、ケイは 決闘？ とオウム返しにする。</p><p>然り</p><p>ケイの目を真っ直ぐに見据えたアレクセイは、重々しく頷いた。</p><p>なんでまた急に</p><p>貴殿は、我が恋敵であるが故に</p><p>それ以上の言葉は不要、と言わんばかりの不遜な態度に、ケイも閉口せざるを得ない。</p><p>あーあー出やがった、雪原の民の悪い癖だよ……！</p><p>と、野次馬の片隅、ダグマルが頭痛を堪えるように頭を抱える。</p><p>……悪い癖、というと？</p><p>決闘だよ！　トラブルがあれば決闘！　色恋沙汰で決闘！　犬が吠えても決闘！</p><p>呆れ果てた表情で、ダグマルは天を仰いだ。</p><p>何でもかんでも、腕っ節だけで解決しようとすんのさ。恋愛関連は特にそれがヒドい。雪原の民は一夫多妻制で、『強い男こそ良い嫁を貰うべき』って考え方でな。決闘による略奪婚も容認されてるんだよ。いい女がいれば婿の座を巡って、もれなく奪い合いが起きるって寸法だ</p><p>は、はぁ……</p><p>ダグマルの解説に、ケイはただ、気の抜けた相槌を打つしかない。どちらかといえば、恋愛に関してはロマンチストなケイからすれば、到底有り得ないような考え方だ。</p><p>……しかし実際のところ、どうなんだそれは。俺たちが闘ったところで、最終的に相手を選ぶのはアイリーンじゃないのか</p><p>仮に全く関係のない男が勝利したところで、それが女性の心にどう響くというのか。あるいは雪原の民の間では、選ばれる側の意思が介在する余地は無いのだろうか。眉根を寄せて、ケイは率直な疑問を口にする。</p><p>それに対しアレクセイは、ここにきて初めて慇懃な態度を崩し、 さも当然 と言わんばかりに肩をすくめて見せた。</p><p>惚れた男が情けなくボコボコにされりゃあ、百年の恋だって冷めるだろ？</p><p>おどけるような薄ら笑いと、瞳の中に踊る悪意の光。</p><p>……ほう</p><p>静かに、そして微かに。口の端を吊り上げて、ケイは曖昧な笑みを浮かべる。面と向かって言い放つということは、つまりはそういうことだろう。</p><p>安い挑発だ、と平静を保とうとしながらも、胸の内側にどろりとしたものが広がるのを止められない。ケイは決して喧嘩っ早い性質ではないが、これは少々頂けなかった。この軽薄な態度も、自分が勝つと信じて疑っていない傲慢さも、アイリーンを景品扱いしているところも、その全てが気に食わない。</p><p>―というか元からコイツは、何かと癪に障る奴だったな。</p><p>“不倶戴天”という言葉を連想する。</p><p>一瞬の瞑目ののち―その表情をさらに濃いものとして、ケイは悪感情を抱くことに躊躇いを捨て去った。</p><p>それぞれ趣の異なる笑みを浮かべて―</p><p>沈黙のままに、二人の男は対峙する。</p><p>ぴん、と張り詰めた空気は俄かに冷たく。</p><p>立ち込めた朝靄も凍りつくかのようだ―</p><p>…………</p><p>最初は面白半分に二人を取り囲んでいた野次馬たちも、今では足元から這い上がってくるような寒気に口を閉ざし、固唾を飲んで見守るばかり。</p><p>……ま、まあ、と言ってもそれは雪原の民の風習だ。ケイは……あー、その、草原の民か平原の民か知らないが、とにかく出自は別だろ。ここは北の大地じゃないし、となれば、別に決闘に応じる必要は無いわけで―</p><p>へらへらと半笑いを浮かべたダグマルが、二人の間に割って入る。</p><p>受けて立ったところで、ケイにはメリットもないし、応じる必要なんかどこにも―</p><p>そうだ、別に応じる必要はない</p><p>指先で短剣を弄びながら、腕を組んだアレクセイが、ダグマルの声にかぶせるようにして言う。</p><p>北の大地なら、決闘から逃げれば、もれなく臆病者の謗りを受けることになる。が、あんたは雪原の民じゃないし、そもそも、“大熊(グランドゥルス)“を一矢の下に討ち取った英雄だ……。今回の決闘を断ったところで、誰もあんたのことを臆病者扱いはしないだろうさ</p><p>ケイの眉根がぴくりと動く。朗々と語られるアレクセイの言葉は、どこか反語的であるように感じられた。</p><p>―なので、こちらから条件を付けさせて貰おう</p><p>すっ、と。</p><p>アレクセイは指を三本、立てて見せる。</p><p>一つ。おれの武器は、剣と盾のみとする</p><p>まず、己の得物に制限を科した。</p><p>二つ。決闘は、五十歩の距離から始めるものとする</p><p>その上で、間合いを投げ捨てる。そして、</p><p>三つ。代わりにあんたの武器は、自由とする。剣でも、お得意の弓矢でも、好きに使うといいさ</p><p>不敵な笑みで彩られたアレクセイの宣言に、野次馬たちが大きくどよめいた。特に、ケイの弓の威力を直に目の当たりにしている隊商の面々は、 命知らずな…… と驚きの表情を浮かべている。</p><p>……舐められたもんだな。弓だと手加減できないぞ</p><p>知らずと、ケイの口から、そんな言葉がこぼれ出ていた。</p><p>うっかり手が滑れば―と、攻撃的なニュアンスを漂わせる呟きに、アレクセイは小さくお手上げのポーズを取る。</p><p>接近戦だと、余りにもあんたに不利だ。弓使いに剣で勝っても面白くも何ともないし、あんたの『全力』を打ち破らないと意味がない。―それに、</p><p>ニィッ、とその笑みが凶暴さを増す。</p><p>―勝負の後に、『弓さえあれば』なんて言い出されたら面倒だ。言い訳の余地は潰しておかないとな</p><p>……。大した自信だ</p><p>まぁーな。たしかに、あんたの弓は脅威的だ。しかし雪原の戦士は、剣も盾も弓も槍も斧も、全て扱えてようやく一人前とされる。その中でおれが剣と盾を選んだ理由ってのを、あんたに身を持って教えてやるよ</p><p>ほう。それは楽しみだ。しかし……ご自慢の剣だか盾だか知らないが、叩き壊されても文句は言うまいな？</p><p>ハハッ。ということはこの申し出、受けて貰えるのか？</p><p>心から嬉しそうに―アレクセイの表情は、もはや獣のそれだ。改めて問われたケイは、今一度リスクとリターンを心の秤にかける。</p><p>それが、余りにも軽く、無に等しいものであるにも拘らず―天秤はがくりと片方に傾いた。</p><p>メリットがないことなど、分かり切っている。</p><p>実際のところ、癪に障る話だ。断れば、アレクセイは大人しく身を引くだろう。だが代わりに、ケイのメンツには傷が付くことになる。逆に、受ければ、アレクセイの思う壺だ。奴の掌の上で踊らされるのかと思うと、それだけで腹が立つ。</p><p>―どっちに転んでも腹立たしいなら、ブン殴れるだけ闘った方がマシではないか。</p><p>醒めた、それでいて沸騰するような心情で、ケイはそんなことを考える。ここまで挑発されて受けて立たなければ、男が廃るというものだ。</p><p>（それに、―俺は狩人だ）</p><p>ケイは、狩人として身を立てることを決めた。それも、ただの猟師ではなく、“大熊”のようなモンスターを相手取る『大物狩り』として。</p><p>―ならば、目の前の狂犬如き、始末できずに何とする？</p><p>―ちょぉぉっと待ったぁぁ！！</p><p>意を決してケイが口を開こうとした瞬間、外野から叫び声が上がった。どすどすと足音を立てて、ホランドが駆け寄ってくる。</p><p>決闘だと！？　責任者を置いて、勝手にそんな話を進められても困る！</p><p>咎めるような口調のホランド、その怒りの矛先は、どちらかといえばアレクセイに向いているようだ。</p><p>いや、これはおれたち二人の問題だ。あんたには関係がない</p><p>関係ないわけがあるか！　私はこの隊商の責任者で、彼は護衛の戦士だ！　あと半日とはいえ、まだ仕事が残ってるんだぞ！</p><p>そう、あと半日なのが問題なんだ。今を逃したら闘い辛くなる</p><p>お冠のホランドなど、どこ吹く風のアレクセイ。</p><p>隊商はこのまま北上すれば、半日とせずに要塞都市ウルヴァーン―その外縁部に到着する。護衛任務が正式に完了するのは市街区に入った後であるため、決闘を挑むにしても、適切な場所が見つけ辛くなることをアレクセイは懸念しているのだろう。</p><p>その点、現在隊商が逗留しているこの開拓村は、都市部に近いので比較的安全で、尚且つ広い場所も見つけやすい。先ほど提示した条件で決闘を挑むならば、成る程、この村に居る間が好機であるといえた。ウルヴァーンに着いた後に、再び外へ出向いて決闘を―という手も勿論あるが、わざわざそんな面倒な真似をしてまで、ケイが決闘に応じるかはまた別問題だ。</p><p>しかし―</p><p>仮に、彼が仕事に支障をきたすような事態になれば、代わりにおれが護衛をやろう。勿論、報酬はいらない</p><p>まだ何かを言い募ろうとするホランドに、面倒くさそうに頭を掻いたアレクセイが向き直る。</p><p>また、他にも何か問題が起きた場合は、おれがそれに関する全責任を負うことを、祖アレクサンドルの名に於いて誓う</p><p>短剣を掲げたアレクセイの宣誓に、ホランドは困り顔で視線を彷徨わせた。</p><p>……なあ。ダグマル、どう思う</p><p>……俺に振られても、なあ</p><p>こちらも渋い顔で、ダグマル。</p><p>正直、個人的には、お互い同意の上ならさっさと終わらせてくれ、って話なんだが……正(・)規(・)の(・)手(・)続(・)き(・)を踏まないトラブルの方が、よっぽど面倒だからな</p><p>じっとりとした目で、アレクセイとピエールを見やるダグマル。アレクセイは素知らぬ顔だが、野次馬の中に居たピエールは気まずげに視線を逸らした。</p><p>……一応、護衛のまとめ役としての意見を聞きたい、ダグマル</p><p>う～む。まあ、こっちの脳筋野郎はどうでもいいとして、問題はケイか。一昨日の村みたく、“大熊”なんて出現すりゃ話は別だが、……それ以外なら、ケイ抜きでも支障はないな。元々六人でやってたわけだし、いざとなりゃ姫さん(アイリーン)の魔術もある</p><p>そうか、……二人とも。人死には出さないんだろうな？</p><p>髭を撫でつけながら、どこか疑わしげな様子で、ケイとアレクセイを見やる。</p><p>…………</p><p>それに対し、二人の若者は不気味な沈黙で答えた。</p><p>おいおい……なら当然、許可は出せないぞ</p><p>気を付けよう</p><p>善処するぜ</p><p>即答する二人。やれやれと頭を振ったホランドは、 勝手にしたまえ と溜息をつく。</p><p>それでは、改めて……</p><p>上機嫌なアレクセイは、ゆっくりとケイに向き直った。</p><p>貴殿に、決闘を申し込む</p><p>いいだろう、受けて立つ</p><p>堂々たる宣言に おお…… と聴衆たちがどよめき、アレクセイは満足げに頷く。</p><p>よし。条件は、さっきの通りでいいな。場所に関しては―</p><p>ん～なんだよもう煩いなー</p><p>―と、背後のテントがガサゴソと。</p><p>振り返れば、アイリーンが目を擦りながら外に出てきていた。</p><p>……って、あれ？</p><p>対峙するケイとアレクセイに、テントを取り囲む野次馬たち。場のただならぬ雰囲気に気付いたアイリーンは、ぱちぱちと目を瞬かせる。</p><p>……どういう状況？</p><p>説明を求めるようにこちらを見やる彼女に、ケイは ふむ と考えて、</p><p>すまんが、お前を巡ってちょっと決闘することになった</p><p>†††</p><p>当然のように、アイリーンは反対した。</p><p>意味分かんねえよ！　オ、オレを、めめめ巡って決闘だなんて、そんな……！</p><p>村人に借りた納屋の中、ゴスゴスッ、とケイは脇腹にツッコミの嵐を食らう。怒るやら恥ずかしがるやらで、アイリーンは大変な有様だ。</p><p>まったく！　勝手に大事な話を進めやがって！　こっちの気持ちも考えろってんだ！　そ、それにオレは、……今さら、そんなことしなくたって……</p><p>頬を染めて、指先をいじりながら、何やら一人照れ始めたアイリーンをよそに、ケイは深刻な顔でじゃらじゃらと鎖帷子を着込む。</p><p>すまん。あそこまで挑発されると、我慢ならなかった</p><p>腰のベルトに剣を差しながら、その声に幾らかの後悔を滲ませて、ケイはアイリーンに謝った。決闘のせいで隊商の出発が少し遅れており、アイリーンを含む多方面に迷惑をかけている。時間が経って頭が冷えるにつれ、あの場面ではスルーした方が大人な対応であった、と思い直し始めたのだ。</p><p>しかし、それと同時に『正規の手続きを踏まないトラブルの方がよっぽど面倒』という、ダグマルの言葉も思い出してしまう。</p><p>万が一、アレクセイが暴挙に出たらどうなることか―。有り得ない、とは言い切れないのが、あの男の厄介なところだ。アイリーンは高レベルの自衛能力を備えているので、ちょっとやそっとの事では攫われないだろうが、その過程で何が起きるのか―</p><p>（―クソッ、つまりは全部アイツが悪い！）</p><p>苛立たしげに革鎧を装着し、グローブをはめるケイ。一方で、その腰の剣の鞘や矢筒に目を落としたアイリーンは、心配げな顔で、</p><p>……真剣勝負、なんだろ？</p><p>そう、だな</p><p>やっぱり、止めない？</p><p>それも考えたんだが</p><p>アイツは多分、口で言っても聞かないだろ、と。ケイの言葉に、アイリーンはさもありなんという顔で、 クソッ、全部アイツが悪い！ とケイと同じような結論に達した。</p><p>ケイは……怪我、とか……、しないでくれよ</p><p>安心しろ。俺はむしろ、どうすればアイツを怪我させないで済むか、逆に心配してるところだ</p><p>革兜をかぶりながら、ケイはシニカルな笑みを浮かべる。</p><p>―弓で手加減をするのは、本当に難しい。</p><p>ケイとしても、決闘には勝ちたいが、アレクセイを殺してしまいたいわけではない。</p><p>しかし、生半可な攻撃では、奴は止まらないと予想している。</p><p>だからといって、充分な威力を秘めた一撃では、今度は致命傷になってしまう。</p><p>そして―これが最重要だが、アレクセイ如きのために、残り少ない魔法薬(ポーション)は使いたくない。</p><p>困ったもんだ、全く</p><p>最後に首元で顔布の紐を結びながら、ケイはおどけて小さく肩をすくめてみせる。</p><p>…………</p><p>それでも、アイリーンの不安げな表情は消えない。くしゃくしゃと、艶やかな金髪を撫でつけたケイは、 大丈夫 と安心させるように、軽く言ってのける。</p><p>弓さえ使えれば、剣士に負けることはない。さ、あまり皆を待たせても何だからな。ちゃっちゃと行って、ちゃっちゃと終わらせよう</p><p>装備を点検し、問題がないことを確認したケイは、アイリーンと連れ立って納屋を後にした。</p><p>目指すは、村はずれの川沿い。五十歩の距離を真っ直ぐに取れ、かつ足場が悪くないという条件の下、河原が果たし合いの場として選ばれたのだ。</p><p>辿り着いてみれば、隊商の面々がほぼ全員と、この小さな村のどこにこれだけ住民がいたのか、と思ってしまうほど多くの村人が集まっていた。鎖帷子に革鎧、そして異様な朱色の複合弓を手にした完全武装のケイの姿に、すでに酒などを酌み交わして出来あがっていた村人たちがさらに沸き立つ。</p><p>よ～ぉ、遅かったじゃねえか色男ー！</p><p>聞き慣れたダミ声。見やれば、顔を赤くしたダグマルが手を振っていた。地面に外套を敷いて座り込み、近くの村人たちと葡萄酒を酌み交わしているようだ。</p><p>待たせたかな</p><p>また呑んでるのか、と苦笑しながらも、ケイは視線を左右に彷徨わせる。集まった観衆の中に、金髪の青年の姿を探した。</p><p>……奴は？</p><p>まだ来てねえよ、お前のが先だ安心しろー！</p><p>そうか</p><p>肩から少し力を抜いて、ケイは微笑んだ。と同時に、自分がある程度、緊張していたことを自覚する。</p><p>さあさあ！　間もなく始まる世紀の決闘！</p><p>野次馬の中心では、両腕に二つの鉢を抱えたホランドが声を張り上げていた。</p><p>片や、勇猛果敢で知られる雪原の戦士、歴戦の若き傭兵、アレクセイ！　片や、巨大にして暴虐なる怪物”大熊”を、たった一矢の下に仕留めた異邦の狩人、ケイ！　希代の美少女を巡って、男の意地と意地とがぶつかり合う！　果たして、勝利の女神はどちらに微笑むのか！　さあどちらに賭ける！？　どちらに賭けるねー！？</p><p>どうやら、賭けの元締めをやろうという魂胆のようだ。ホランドに煽られた聴衆たちが、鉢に硬貨を投げ入れ、代わりにその足元から木の札を持ち去っていく。最初はあまり乗り気でなかった癖に、いざ決闘が始まるとなると、この開き直りようだ。 流石は旦那だな と笑うアイリーンの横、ケイもつられて苦笑した。</p><p>しかし、あれが噂の娘か……別嬪さんだ</p><p>そりゃ取り合いも起きるわナ</p><p>あんの長い金髪、綺麗だな～</p><p>で、革鎧の男が、“大熊”狩りの……？</p><p>弓で一撃で仕留めたんだと</p><p>少し余裕が生まれたからか、雑然とした空気の中、周囲の会話が断片的に拾えるようになる。別嬪さんか、と思ったケイは、隣のアイリーンにさり気なく視線をやった。しかし、全く同じタイミングでこちらを見たアイリーンとばっちり目があい、反射的に目を逸らしてしまう。</p><p>…………</p><p>何とも落ち着かない気分のまま、沈黙の中に沈む。</p><p>おにいちゃん……</p><p>と、ハイデマリーと一緒に、今度はエッダがやってきた。もじもじとしているような、そわそわとしているような―いつもの天真爛漫なエッダとは、何かが違う。</p><p>やあ、エッダ</p><p>声はかけたものの、それ以上何をどう話せばいいのか分からないケイ。隣のアイリーンも、似たような状況で、ただ曖昧な笑みを浮かべている。</p><p>……おにいちゃん、決闘するの？</p><p>……まあな</p><p>おねえちゃんをかけて？</p><p>ん……まあ、そうなる、な</p><p>何とも渋い顔で答えるケイに、俯いたエッダは ……そう と小さく呟いた。</p><p>明るい黒色の瞳が、ケイとアイリーンの間で揺れる―。</p><p>それは、どこか悲しげで、それでいて困惑しているような、不思議な表情だった。</p><p>……おにいちゃん、がんばってね。負けちゃダメだよ！</p><p>やがて、ぎこちなく笑みを浮かべたエッダは、ケイが何かを答える前に、背を向けてトタトタと走り去っていく。</p><p>はぁ、まったく。あの子もねえ、そうねぇ……</p><p>曲がった腰をさすりながら、ハイデマリーがくつくつと笑い声を上げた。</p><p>さて、ケイや。あんたも若いんだから、あんまり酷い怪我はするんじゃないよ。気を付けてね</p><p>それだけを言い残し、ハイデマリーもエッダの後を追ってゆっくりと歩いていった。</p><p>……何だ今の</p><p>……さあ？</p><p>ケイとアイリーンは顔を見合せて、互いに肩をすくめる。</p><p>しかし、エッダみたいな小さな子も、見物に来るのか</p><p>うーん。教育上どうよ、って思わないでもないけど</p><p>この世界だと普通なのかも知れんな……</p><p>そーだな、こっちは何かと物騒だし</p><p>気を紛らわせるように、取り留めのないことをぽつぽつと語り合う。皆の視線を一身に浴びていることに、気付かない振りをして、ただただ時が過ぎるのを待った。</p><p>そして―</p><p>待たせたな</p><p>遂に、村の方から、アレクセイが歩いてくる。</p><p>ピエールと連れだって登場した彼も、やはり、ケイと同様に重武装だ。板金付きの革鎧に、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の兜。手甲も、脛当ても、兜と同じ白っぽい金属で出来ており、狼のような動物の装飾が彫り込まれている。しかし、両者ともに相当に酷使されてきたのであろう、無数の細かな傷のせいで、浮き彫り細工の殆どが潰れて見えなくなっていた。</p><p>左腕の上腕部には直径３０cmほどの、丸みを帯びた金属製の円形盾(バックラー)。これもまた、かなり使い込まれた逸品で―何度も、主人の命を守ってきたに違いない―表面には幾筋もの刀傷が走っている。</p><p>そして、その右手に握られている、アレクセイの『剣』。無造作に肩に担がれ、ひときわ衆目を集めるそれは、形容するのに一言で足りる。</p><p>大剣。</p><p>ケイに負けず劣らず体格の良いアレクセイ、その背丈とほぼ同じ刃渡りの、長大な片刃の剣だった。振り回しやすいように長めに作られた柄、緩やかに弧を描いて反り返った刀身。片刃ということも相まって、それは何処か日本の大太刀を連想させた。</p><p>どこに持ってたんだそんなの</p><p>思わず問いかけたケイに、アレクセイは屈託のない笑顔で、</p><p>普段持ち運ぶには、ちょいと邪魔だからな。ピエールの旦那の馬車に置かせて貰ってたのさ</p><p>隣に居るピエールの背中を、左手でドンッとド突くアレクセイ。本人としては軽く叩いたつもりなのかも知れないが、金属製の盾を装備した一撃は想像以上に重く、元々細身のピエールは勢いよく前につんのめった。</p><p>ゲフッちょっアレクセイくん痛い痛い！</p><p>や、旦那、こいつぁ失敬</p><p>非難するようなピエールに、頭を掻きながら笑って誤魔化すアレクセイ。</p><p>さぁてアイリーン。この決闘で、きっとお前のハートを射止めてみせるぜ</p><p>ケイの傍らのアイリーンに、改めて向き直って爽やかな笑みを浮かべる。それに対し、アイリーンは イーッだ と顔をしかめて応えた。</p><p>うっせー！　お前なんかボコボコにされんのがお似合いだ！</p><p>ばーかばーか！　とケイの前で、容赦はないがイマイチ捻りのない罵倒を浴びせるアイリーン。その目にギラリと不穏な光を宿したアレクセイは、口の端を歪めてぺろりと唇を舐めた。</p><p>……そそるねぇ</p><p>軽薄な笑みを浮かべたまま、 よっ と無造作に、右手の大剣を振り下ろした。</p><p>数歩の距離。びゅオッ、と風を巻き込んで、ブレた刃がぴたりと止まる。</p><p>喋繰(しゃべく)り回っていた周囲の野次馬が、みな、悉く押し黙った。</p><p>それは、示威行為―とでも呼ぶべきか。</p><p>風を切り裂く鈍い音は、その凶器たり得る重みの証左。片手で振り下ろす動作、ぴたりと定まる刀身、それぞれ使い手の力量が十全のものであり、長大な刃が決して見かけ倒しでないことを如実に物語る。</p><p>おれの言葉の意味が分かったろう</p><p>どこまでも不敵に、アレクセイは嗤う。</p><p>得物にも格の違いってもんがある。そんなな(・)ま(・)く(・)ら(・)じゃ、打ち合いにもならないぜ</p><p>大剣を肩に担ぎ直し、ケイの腰の長剣に視線を注ぎながらの言葉に、ケイは小さく溜息をついた。</p><p>この期に及んで、身を引くつもりはない。別に、そこまで煽ってくれなくても結構だ</p><p>顔布を着けながら、ケイが冷めた目を向けると、アレクセイも表情を消して そうか と頷いた。</p><p>どうしようもない沈黙が、その場に降りる。</p><p>顔布で表情を隠したケイと、もはや、アイリーンさえ眼中にないアレクセイ。黙した二人の視線がぶつかり合い、弾け、渦を巻き、不気味な静けさだけが滲み出る。</p><p>二人とも、準備は良いか</p><p>いつの間にか、近くまで来ていたホランドが、どこか疲れた様子で二人に問うた。</p><p>問題ない</p><p>完璧だ</p><p>返答は、言葉少なに。</p><p>よし。……それでは、お互いに悔いなきよう。全力で闘うことだ</p><p>ホランドの言葉を受け、今一度、ケイに一瞥をくれたアレクセイは、何も言わずに兜の面頬を下ろした。ガシャン、と目元を隠すバイザーの奥、隙間から覗いた青い瞳が、真っ直ぐにケイを射抜く。ゆらりと背を向けたアレクセイに、人混みが二つに割れ、五十歩の道を譲った。その背中を見送りながら、ケイも無言のまま、おもむろに矢筒の口のカバーを取り外す。</p><p>ケイ……</p><p>唇を噛みしめたアイリーンが、ケイの左腕に手を添えた。</p><p>心配するな</p><p>顔布の下、極力優しげな笑みを浮かべて、ケイはそっと、その手に自分の手を重ねる。</p><p>負けやしないさ。信じてくれ</p><p>……分かった</p><p>不安げな、そしてやるせない表情を浮かべたアイリーンは、最後にケイの手をぎゅっと握りしめて、野次馬たちの最前列にまで下がっていく。</p><p>…………</p><p>アイリーンから、視線を引き剥がし。</p><p>ケイは思考を切り替えた。</p><p>†††</p><p>五十歩の距離。</p><p>大股で歩いて、４０ｍ強といったところか。</p><p>それほど大した距離ではない―とケイは思う。本気のアレクセイであれば、おそらく数秒とせずに詰めてくる。どうしたものか、と他人事のように考えながら、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の弦を軽く弾いた。</p><p>ぶんっ、と心地よい音が耳朶を震わせる。</p><p>元々は、まず盾を破壊して戦意を喪失させ、後遺症にならない程度に痛めつけるつもりだったのだが―。あの金属製の円形盾(バックラー)、貫徹するには骨だぞ、というのがケイの正直に思うところだ。</p><p>概して、バックラーのような小型の盾は、その防御範囲の狭さから飛び道具に弱いとされる。だが、あの使い込まれた傷だらけの盾を見るに、アレクセイも相応の技量は持ち合わせているはずだ。最初の一矢、二矢は、避けられるか捌かれるか―いずれにせよ、無効化されるとケイは予想する。</p><p>（さて、どうやって『倒す』か……）</p><p>右手で矢筒の矢を弄びながら、じっくりと戦術を吟味する。殺そうと思っても死にそうにない、ふてぶてしい態度のアレクセイ、しかしそうであるからこそ、ふとした拍子に死んでしまうかも知れない。手抜きが許される状況でもなし、ここは身から出た錆ということで、ある程度の後遺症は覚悟して貰おうという結論に至った。</p><p>視界の先―ちょうど五十歩の間合い、アレクセイがこちらに向き直る。</p><p>右肩に大剣を担いだまま、長く伸びた柄に左手を添えた。両手持ち―ちょうど左腕のバックラーが、胴体を覆い隠す位置に構えられている。腰を落とし、かすかに上体を前傾させた姿からは、手足の末端にまで満ち満ちた気が見て取れるかのようだ。</p><p>（……まるで示現流だな）</p><p>二ノ太刀要ラズ。何よりも疾く、一撃を叩き込む。そんなシンプルにして、苛烈な意志。五十歩の間合いを隔てても尚ひしひしと伝わってくる、今にも爆発しそうな戦意の高まり、ぎりぎりと軋みを上げる筋肉の躍動―。</p><p>双方とも……準備はいいな</p><p>二人の間に立ったホランド。沈黙を肯定と取ったか、ひとり頷き、</p><p>それでは……先ほども言ったが、両者ともに悔いのないように。また、今後に禍根を残さぬために、全力で闘いつつも、ある程度の手心を忘れないように。万が一、怪我などで決闘の継続が不可能であると判断された場合は―</p><p>くどい</p><p>ぴしゃりと、アレクセイの冷たい声がホランドを黙らせた。</p><p>“―これはおれたち二人の問題だ。あんたには関係がない”</p><p>不意に、アレクセイの言葉が頭の中に木霊する。そのとき無言を貫いたケイであったが、初めて、アレクセイの言う事に共感できたような気がした。</p><p>口元しか見えぬアレクセイの顔―にやりと歪んだ唇が、 さあ、始めよう と告げる。</p><p>……ああ</p><p>小さく頷いて。</p><p>ケイは矢筒から矢を引き抜いた。</p><p>つがえる。</p><p>引き絞る。</p><p>―</p><p>そこに、言葉は不要。</p><p>双方が同時に、</p><p>動いた。</p><p>アレクセイが地を蹴る。</p><p>爆発的な加速。</p><p>速い。</p><p>地を這うように、二、三歩で最高速に達した。</p><p>かすかに粉塵を巻き上げながら、アレクセイは真っ直ぐに迫る。</p><p>―まずは、小手調べ。</p><p>間髪いれず、迎撃の矢を放つ。</p><p>快音、穿たれる風。</p><p>身体の中心線を抉るように、白羽の矢が飛来する。</p><p>しかし、体を僅かに捻り、アレクセイは余裕を持ってそれを回避した。初撃はやはり見切られたか、と平坦な思考が流れていく。</p><p>続けて、第二射。</p><p>今度は避けられず、いや、回避による時間のロスを嫌ったか、無造作に掲げられた盾が矢を弾き飛ばす。ガァンッ、と硬質な音、火花を散らして明後日の方向に逸らされる。やはり並の一撃では、あの盾は貫通できないという確信。</p><p>三本。</p><p>まとめて、矢筒から引き抜いた。</p><p>構え、引き絞り、放つ。その瞬間、ケイは精密機械と化す。</p><p>カカカッ、と小気味よい連続音、強弓から銀光が閃いた。目にも止まらぬ早業、野次馬たちがどよめき、同時にそれは―殺気に強弱を織り交ぜた巧みな連撃。敢えて中途半端に込められた殺気が、彼我の距離感を狂わせる。回避行動を取り辛くさせる妙技、護衛の傭兵たちが唸った。</p><p>しかしその好敵手もまた、只者ではない。</p><p>ただちに軌道を見切り、最適解を弾き出す。一本は盾で、一本は剣で、一本は脛当てで、それぞれ受け止めた。派手に火花が飛び散り、けたたましい金属音が鳴り響く。しかし一矢足りとも彼の者を傷付けるまでには至らない。</p><p>既に間合いを詰めること、おおよそ三十歩。ニィッとアレクセイが笑みを深める。残り二十歩を数えるうちに、決着をつけねば勝機は無いと―。</p><p>（ただの矢じゃ、貫通は無理か）</p><p>静かに、ケイは分析する。決して、手加減したわけではない。今までに放った矢は全て致命傷たり得るもの。板金程度ならば容易くブチ抜く威力、しかし、アレクセイの防具は耐えた。あの、白っぽい金属―何の合金かは知らないが、相当に良質なものだろう。</p><p>（た(・)だ(・)の(・)矢(・)では、無理か……）</p><p>―ならば、其れ相応のものを。</p><p>ケイは、矢筒から抜き取った。</p><p>青(・)い(・)羽(・)の(・)矢(・)を―。</p><p>……！</p><p>見守っていたアイリーンが、まさか、と息を呑む。</p><p>“大熊”さえ一撃で絶命せしめたそれを。</p><p>決闘で、人間に対し用いるのかと。</p><p>―そう。</p><p>ケイは、矢をつがえる。</p><p>両者の距離は、残り十歩を切った。</p><p>アレクセイは、目前だ。凶暴な笑み―獲物を喰い殺さんと、不気味な沈黙の中にしかし狂犬は猛る。兜の面頬、その隙間の奥にあっても尚、水色の瞳がぎらぎらと血に飢えた光を放つ。</p><p>対するケイは、少しだけ目を細め、きりきりと弦を引き絞る。</p><p>死ぬなよ</p><p>小さく、呟いた。</p><p>―快音。</p><p>凄まじい勢いで撃ち出された銀光が、馬鹿正直に、真正面からアレクセイに迫る。</p><p>ろくに視認すら出来ぬ速さ、しかし、真正面であればこそ見切るのは容易い。</p><p>その笑みをさらに好戦的な色に染め、あらかじめ身構えていたこともあり、アレクセイは余裕をもって盾で受けた。</p><p>が。</p><p>ボグンッ！　と異様な音が響く。</p><p>矢は―</p><p>盾の中心に、突き刺さる。</p><p>丸みを帯びていた表面は無残に陥没し、矢はその裏の左腕を食い破って、あまつさえ鎧の板金と革を穿ち、胸に突き立ってようやく止まった。</p><p>がフッ</p><p>強烈な一撃を叩き込まれたアレクセイ、肺から押し出された呼気は否応なしに声となり、力の抜けた体躯がそのままぐらりとよろめいた。</p><p>しかし―</p><p>ケイが、次の矢をつがえるよりも速く。</p><p>―ははッ！！</p><p>アレクセイは―笑った。</p><p>血反吐を吐きながら―たしかに、笑った。</p><p>その腕に、背筋に、力が戻る。</p><p>口元が吊り上がり―それは、凄絶な笑みとして知覚された。</p><p>獣か。―否。</p><p>狂人か。―否。</p><p>―鬼だ。それは鬼だ。修羅の境地に至る人斬りの顔だ。</p><p>アレクセイが剣を構え直す。</p><p>ぐんっ、と両脚に力が籠る。</p><p>まるで陽炎のように、その体躯が、膨れ上がるような錯覚が、</p><p>―おおおおああああぁぁッッ！！！</p><p>吠えた。</p><p>場を塗り潰すような殺意の嵐。</p><p>ケイの全身から冷や汗が噴き出す。</p><p>アレクセイはさらに身を低くして―次の瞬間、空気がたわんだ。</p><p>その足元の地面が、爆発したかのように弾け飛ぶ。</p><p>残りの距離が、一瞬で、ゼロになった。</p><p>あああああああぁぁぁッッ！！！</p><p>ぎらりと輝いた大剣が―振り下ろされる。</p><p>ぶぅん、と不吉な音が押し寄せた。</p><p>全てを賭けた一撃。重過ぎる一撃。</p><p>込められた殺意に魂が震え、世界が裏返るかのような錯覚すら抱いた。</p><p>驚きも、恐怖も、感じる暇さえない。</p><p>ほぼ反射的に、ケイは腰の剣を抜き放った。</p><p>鞘走った鋼鉄の刃を頭上に掲げるようにして。</p><p>受け流す。いや、受け流せるよう試みる。</p><p>しかし―奇妙に引き延ばされた時の中。</p><p>ケイは、見る。</p><p>アレクセイの大剣。</p><p>右手の長剣に、ぶち当たる。</p><p>くわんくわんと震える刃。</p><p>その中に大剣が―め(・)り(・)込(・)ん(・)で(・)い(・)く(・)。</p><p>愕然とするケイの眼前―長剣が、音を立てて砕け散った。</p><p>打ち合いどころか、受け流すことさえ―</p><p>わずかに、その軌道をずらしたものの、大剣は唸りを上げてケイに襲い掛かる。</p><p>白い刃は、ケイの兜の即頭部を削り。</p><p>革鎧の肩当てを叩き切り。</p><p>そのまま、左肩の鎖帷子に食らいつく。</p><p>この一撃で、ケイは左腕を失う―</p><p>加速された思考の中、アレクセイは、己の勝利を確信していた。</p><p>ガツンッと。</p><p>衝撃とともに、刃の進撃が止まるまでは。</p><p>なっ―</p><p>異様な手応え。剣を受け止めた、その原因を目の当たりにしたアレクセイは、驚愕のあまり目を見開いた。</p><p>―異様な存在感を放つ、朱色の複合弓。</p><p>ケイの左手に構えられた”竜鱗通し”、その持ち手の部分に、大剣の刃は受け止められていた。折れるでもなく切れるでもなく、僅かに、その表面を凹ませただけで―</p><p>馬鹿な、とアレクセイは、雷に打たれたかのように動きを止める。</p><p>（鋼の長剣すら叩き折った一撃を―！！）</p><p>ただの弓が受け止めるなど―。</p><p>しかしあいにく、“竜鱗通し”はただの弓ではない。</p><p>“飛竜(ワイバーン)“の翼の腱に皮膜、そして”古の樹巨人(エルダートレント)“の腕木。</p><p>ただでさえ貴重な素材を元に、特殊な加工を経て生み出された、傑作中の傑作。</p><p>特に、持ち手には幾重にも皮膜が巻かれており、この弓のパーツの中で最も頑丈な造りとなっている。その耐久性たるや、現在のケイの所持品の中でも最上位といっても過言ではない。</p><p>得物にも格の違いがある、と言ったな―</p><p>唸るようにして。ぎりぎりと、剣の柄ごと右拳を握りしめながら、ケイは言う。</p><p>アレクセイの瞳を、睨みつけた。</p><p>―その通りだ！</p><p>唸りを上げた右のアッパーが、無防備な下顎に叩き込まれた。</p><p>ぐぁッ！？</p><p>ゴッ、と腹に響く打撃音、アレクセイの身体が跳ね上がる。</p><p>さらに、肘打ちで迫撃をしようとするケイ、しかしアレクセイはよろめきながらも左腕を振り回した。</p><p>上腕部のバックラーがケイの右肩に叩きつけられ、刺さりっ放しだった矢がケイの顔面を引っ掻いた。文字通り、刺すような痛みに一瞬たじろぐケイ、その隙に体勢を立てなおしたアレクセイは、</p><p>―おおおおおおぉぉッッ！</p><p>再び、闘志に火を付け、真っ直ぐに大剣を突き込んできた。</p><p>切れた口から血を垂れ流しながら、それでもその刺突は鋭く、十分な威力が乗っている。</p><p>しかし―刺突というチョイスが、不味かった。力任せの薙ぎ払いの方が、ケイに対しては効果的であったかもしれない。</p><p>身に染みついた剣術が導くままに、ケイは折れた刃を横から叩きつけた。火花を散らして大剣の上に刃を滑走させながら、アレクセイの懐に飛び込む。</p><p>（……来るか！？）</p><p>どこかで見た動きだ。アレクセイは思い出す、ケイがひとり、河原で剣の修練をしていた日のことを。</p><p>（折れた剣―短剣の代わりにはなる―首狙いか！）</p><p>あの日の動きを参考に、アレクセイはケイの次の一手を読んだ。このまま大剣の間合いを封じたまま、短剣術に近い動きで白兵戦を仕掛けてくるに違いないと。</p><p>しかし、アレクセイは、知らない。</p><p>ケイの汎用剣術には、剣が使いものにならなくなったときのための―</p><p>“徒手格闘”の教義も含まれているということを。</p><p>アレクセイは、知らない。</p><p>あの日、型の途中で邪魔を入れてしまったため、それを見る機会を自ら失ってしまったことを―</p><p>剣の柄を握る右手が、くんっ、と軽く曲がった。</p><p>手首のスナップで、ケイは折れた剣をアレクセイの顔面に向けて投擲する。</p><p>なにッ！</p><p>回転しながら迫る刃に、一瞬焦ったアレクセイはしかし、頭突きのような動きで兜を当てることで刃を弾き飛ばすことに成功した。</p><p>だが一瞬、注意が逸れる。</p><p>その隙に、右手がフリーになったケイが、代わりにアレクセイの右腕を掴む。</p><p>そして―全力で引っ張った。</p><p>ただでさえ、刺突によって前かがみになっていたのだ、引っ張られたことによりさらにバランスを崩す。咄嗟に足を踏ん張ろうとするアレクセイだったが、身をかがめたケイがその脚を払った。</p><p>うわッ！？</p><p>致命的―そう、致命的なまでに、アレクセイの身体が傾いた。ぐっ、と腹に力を込めたケイは、</p><p>―吹っ飛べ！！！</p><p>そのまま全力で、アレクセイを投げ飛ばした。</p><p>一本背負い―と呼ぶには、それは豪快すぎる。</p><p>アレクセイは、世界が回るのを感じた。</p><p>何が、一体、何がどうなっているのか。びゅうびゅうと唸る風の音を聞きながら、混乱する脳が現状把握に努める。しかしそれをよそに、アレクセイは、在りし日の出来事を思い出していた。家畜の豚の突進をモロに食らい、見事に吹き飛ばされた思い出。あのときも、こんなふうに世界が回って見えたっけ、と、他愛のない思考が―</p><p>背中を襲った恐ろしい衝撃に、セピア色の記憶が砕け散った。</p><p>がつんっ、と顔面を襲う衝撃。ただでさえ血塗れだった口、その唇が切れて血が噴き出した。</p><p>地面とキスをしている―その状態に気付いたのは、一拍遅れてのこと。やたらと長く感じた滞空時間、ロクに受け身すら取れず地面に叩きつけられたらしい。</p><p>―いや、それはいい、地面の方向が分かったのだから。</p><p>震える足腰に、立ち上がれ！　と命じる。</p><p>大地に手をついて、起き上がろうとしたところで―</p><p>アレクセイは、立て続けに乾いた音を聴いた。</p><p>次の瞬間、ハンマーで殴られたかのような衝撃が頭部を襲い、アレクセイの意識は闇に呑まれた。</p><p>†††</p><p>おおおおお！！！</p><p>どさり、と力の抜けたアレクセイが地面に倒れ伏すのを見届けて、周囲の観客たちが沸き立った。</p><p>あっぶねえ……</p><p>それをよそに、ケイは呼吸も荒く口元の顔布を取り去った。即座に確かめたのは、“竜鱗通し”の状態。大剣を受け止めた部分が少し凹んでいるものの、それ以外に異常は見られなかった。何度か思い切り引いてみたが、致命的な損傷もしていないらしい。</p><p>ケーイ！！</p><p>泣きそうな顔で、アイリーンが駆け寄ってくる。</p><p>大丈夫か！？</p><p>ああ、大丈夫だ、かすり傷さ</p><p>大丈夫じゃないだろ！　血が出てる！！</p><p>ぺたぺたと、ケイの顔や左肩に触れるアイリーン。</p><p>思ったより、手古摺っちまった</p><p>ピエールや見習いの若者たちに介抱されているアレクセイを見ながら、ケイはしみじみと呟いた。未だ気絶したままのびているようだが、咄嗟に”竜鱗通し”で防御していなければ、今頃あそこに転がっていたのはケイだったかもしれない。</p><p>（っていうか下手したらお互い死んでたなアレは……）</p><p>決闘を振り返って、ケイは渋い顔をする。アレクセイも大概な勢いで来ていたが、ケイも『長矢』の威力の調整を失敗していれば、何が起きたか分からない。</p><p>（気持ち弱めにしといてよかったな……）</p><p>アレクセイの鎧の胸元に開いた風穴を眺めながら、そんなことをつらつらと考える。</p><p>……ケイ？　ケーイー？</p><p>と、目の前でアイリーンが手を振っていた。</p><p>ん？　なんだ？</p><p>なんだじゃねえよ、大丈夫か？　頭打ってないか？</p><p>ケイの額に手を当てて、心配げなアイリーン。</p><p>大丈夫だ。そこまで大した傷じゃない</p><p>そうか……</p><p>うん……</p><p>ケイは微笑みを浮かべて、うるんだアイリーンの瞳を覗き込む。</p><p>…………</p><p>しばし、そのまま見つめ合っていたが、すぐに二人とも様子がおかしいことに気付いた。</p><p>静かすぎる。</p><p>恐る恐る、といった様子で、周囲を見回して見れば、</p><p>ん～ん。お熱いねぇお二人さん</p><p>ニマニマと、生温かい笑みを浮かべてこちらを見つめる、顔、顔、顔―。</p><p>ボッと、ケイとアイリーンの顔面が赤く染まる。</p><p>よーしケイ！　これで名実ともに、アイリーンはお前さんのものだ！　喜べ！</p><p>完全に酔っ払いモードのダグマルが、葡萄酒の杯を掲げながら叫ぶ。どっと沸いた野次馬たちが、それに続くように歓声を上げた。</p><p>いや～あんな美人の嫁さん、羨ましいなぁ！</p><p>なぁ！</p><p>よっめ入り！　よっめ入り！</p><p>よっめ入り！　よっめ入り！</p><p>手拍子ととも、謎のコールが始まる。ケイたちは恥ずかしいやら何やらで、困り顔のままもじもじとしていたが、</p><p>キスしろ～！</p><p>誰かが叫んで、その場の空気が変わった。男性陣は雄叫びに近い叫びをあげ、村の女性陣は黄色い悲鳴を上げる。</p><p>キース！　キース！　キース！</p><p>ぐるりと周囲を取り囲んで、手拍子と共に囃し立てる群衆。ケイとアイリーンの顔面は赤色の限界に挑もうとしている。</p><p>ケッ、ケイ！</p><p>叫んだアイリーンが、ケイの手をぐいと掴んだ。</p><p>なんだ！</p><p>逃げよう！</p><p>アイリーンに手を引かれ、ケイも走りだす。大盛り上がりの村人たちを押しのけ、二人はなんとか、包囲網を突破することに成功した。</p><p>意気地なし～！</p><p>根性見せやがれ～！</p><p>全力で逃走する二人に対し、村人たちの冷やかしは続く。</p><p>しかし、追いかけようとする者は、誰一人としていなかった。</p><p>†††</p><p>……まったく、もう！</p><p>村外れ。川沿いの木陰で、アイリーンは口を尖らせている。</p><p>怪我しないって約束しただろ！</p><p>不機嫌の理由は、主にケイの負傷だ。アイリーンの前で上半身裸になったケイは、あらかじめ準備していた薬草などで、肩の切り傷を消毒していた。</p><p>ちなみに念のため、アイリーンはポーションも持ってきているのだが、それほど重傷ではないため、今回は使わないこととする。</p><p>すまんすまん、イテテ……染みるなぁこの薬草</p><p>POTほどじゃねーだろ</p><p>顔をしかめるケイに、消毒用の軟膏を塗り込むアイリーンは容赦がない。</p><p>川のせせらぎの音を聴きながら、しばし、場を沈黙が包む。</p><p>……よし、はい終わり</p><p>肩の傷に包帯を巻いて、ぽんぽん、とケイの頭を叩くアイリーン。</p><p>ありがとう</p><p>まったく、金輪際こういうのはナシだぜ！　すっごいヒヤヒヤしたんだからな！</p><p>ポーチに薬を仕舞いながら、アイリーンは怖い顔をしてみせる。ケイはそれに笑って、しかしすぐに表情を引き締めた。</p><p>すまん。でも、お前を取られたくなかったんだ</p><p>真剣な顔のケイを、横目でチラ見したアイリーンは、ポーチを片付けながら はぁ と溜息をついた。</p><p>じゃあ、何か。今のオレは、ケイのものなのかな</p><p>……すまん。言い方が気に障ったなら謝る</p><p>感情を感じさせないフラットな言い方に、ケイは慌てて声を上擦らせた。しかし、そんなケイの様子を見て、アイリーンは逆に口元をほころばせる。</p><p>……なあ、ケイ</p><p>な、なんだ？</p><p>目の前で膝をついて、アイリーンはじっと、ケイの瞳を覗き込む。</p><p>やがて、ゆっくりと手を伸ばしたアイリーンは、ケイの右手を手にとって、―自身の胸元へと導いた。</p><p>お、おいっ</p><p>なぜ、自分はアイリーンの胸にタッチしているのか、なぜアイリーンはこんな真似を―と一気に挙動不審になるケイであったが、数秒とせずに、気付いた。</p><p>アイリーンの右胸。この、今自分が触れている部分は、かつて毒矢が突き立っていた場所であるということに―。</p><p>あの日のこと、オレ、あんまりよく憶えてないんだ</p><p>ぽつりと、アイリーンは言った。</p><p>でも、ケイがオレのこと、守ってくれたのは、憶えてる</p><p>青色の瞳が、揺れる。</p><p>なあ、ケイ……命を助けられるのって、けっこう、凄いことなんだぜ</p><p>胸元に抱いたケイの手を、アイリーンは、愛おしげに撫でた。</p><p>それに、オレは……ケイと違って、ケイが男だってこと、最初から知ってたんだ</p><p>目をぱちぱちと瞬かせるケイ。アイリーンは、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、</p><p>……こうやって、怪我したのは、嬉しくないけどさ。でも今回も体を張って、ケイは頑張ってくれたことだし、</p><p>不意に、体を寄せる。ふわりと良い香りが、鼻腔をくすぐった。</p><p>―お礼、あげないとな</p><p>アイリーンの顔が、視界に大写しになって―</p><p>ちゅっ、と。</p><p>柔らかい感触が、唇を奪った。</p><p>……え？</p><p>茫然と、ケイは。</p><p>体を離したアイリーンは―はにかんだように えへへ と笑った。</p><p>口元に手をやって、何が起きたか反芻するケイ。</p><p>やがて、『それ』が理解に変わったとき。</p><p>ケイは、自身の胸の内の感情が、</p><p>どうしようもなく、抑えが利かないものになったことを、</p><p>―はっきりと、自覚した。</p><p>†††</p><p>その日のうちに、隊商は村を出発した。</p><p>ひとりの勝者と、ひとりの敗者、</p><p>そして、ひと組の恋人たちと共に、</p><p>隊商はゆっくりと、街道を北上していく。</p><p>なぜ、自分たちは、この世界にきたのか。</p><p>どのようにして、生きていくのか。</p><p>元の世界に戻る方法は、存在するのか。</p><p>存在したところで、―元の世界に、帰るのか。</p><p>知りたいこと、考えなければならないことは、まだまだ山積している。</p><p>その手がかりを得るため、今日までケイたちは、旅を続けてきた。</p><p>果たして―進み続けること、おおよそ半日。</p><p>隊商は、要塞都市ウルヴァーンに到着した。</p><p>ちなみに作中経過時間は現在で２週間くらいです。</p><p>幕間. Urvan</p><p>要塞都市ウルヴァーン。</p><p>またの名を、『公都』。リレイル地方と北の大地との境目に位置し、アクランド連合公国の中枢を為す巨大都市。</p><p>その在り方はまさしく、『要塞都市』の名を体現している。</p><p>小高い岩山の上に築かれた領主の居城を中心に、整然と建ち並ぶ高級市街。それらを分厚い第一の城壁が取り囲み、その外側には、雑多な一般市街の街並みが壺から溢れ出したミルクのように広がっている。</p><p>市街地の外縁部には、高くそびえ立つ第二の城壁と、明らかな防御の意図をもって張り巡らされた用水路。第一城壁と比べても遜色がないほどに立派な城壁は、並大抵の攻撃ではびくともしないだろう。また、水堀としても機能する用水路は、特に騎馬民族の侵攻に対して有効であるに違いない。</p><p>街の周辺はもれなく田畑として開墾され、初夏の風にそよぐ緑の海の中に、ちらほらと農家の納屋や宿場の赤い屋根が見える。そして、見張りの兵と高い物見櫓を擁する小要塞が、大海に顔を出す小島の如く、あるいは、惑星を取り巻く衛星の如く、あちらこちらに点在して周囲へ睨みを利かせていた。</p><p>城壁だけではなく、都市圏そのものが、有機的な一つの防衛拠点として機能する―</p><p>それが、ウルヴァーンの”要塞都市”たる所以だ。</p><p>街の中心部、領主の居城。</p><p>遥か昔、ウルヴァーンが辺境の開拓村に過ぎなかった頃の名残か、過度な装飾を排した城は、機能性を重視した造りとなっている。中庭に設けられた薬草園、広めにスペースを取られた練兵場、隣接する公都図書館に、城の各所から突き出た尖塔―</p><p>その中で最も背の高い、主塔(ドンジョン)と呼ばれる塔の一室。大きな採光用のガラス窓を備えたそこに、一人の老人が居た。</p><p>長い人生の労苦が滲み出るような灰色の髪に、長く伸ばされた顎ひげ。目じりと眉間には深いしわが刻まれ、その眼光は老いてなお鋭い。金糸の編み込まれた赤色のローブを羽織り、首元には大粒の宝玉(ルビー)が嵌めこまれた魔除けのタリスマンが光る。そして、額には鈍く金色の光を放つ、王冠。</p><p>そう、彼こそが要塞都市ウルヴァーンの領主にして、アクランド連合公国を統べる者。</p><p>公王エイリアル＝クラウゼ＝ウルヴァーン＝アクランド、その人だ。</p><p>ウルヴァーンの街並みを一望できる窓を背に、執務机に向かうクラウゼは、時折小さく咳き込みながらも書類の山と格闘していた。</p><p>山積みにされた紙束のうち一枚を手に取り、内容に目を通し、さらさらとサインをし、指輪の判を押してまた次の書類へ。厳しい表情のまま、延々とその作業を繰り返す。</p><p>しかし―どれほどの時間が経ったか、書類の山が中ほどまで片付いたところで、クラウゼは口に手を当てて激しく咳き込み始めた。ゴフッ、ゴフッと肺の奥から湧き出るような、水気を伴ったいかにも苦しそうな咳。</p><p>……陛下</p><p>執務机の傍、控えていた禿頭の初老の男が、遠慮がちに声をかけた。</p><p>そろそろ、休憩されては如何ですかな</p><p>……うぅむ</p><p>羽根ペンをペン立てに戻し、背もたれに身を預けたクラウゼは、唸るようにして溜息をつく。</p><p>……そうしよう。ヴァルター、茶を。それとアントニオを呼べ</p><p>はっ</p><p>『ヴァルター』と呼ばれた禿頭の男が壁際に控えていた侍女を見やる。楚々とした仕草で頭を下げた彼女は静かに、しかし足早に、執務室を出ていった。</p><p>……はぁ。歳を取るとガタがきていかん</p><p>侍女の姿が見えなくなると同時に、肩の力を抜いて、クラウゼ。ヴァルターと二人きりになったためか、威厳に満ち溢れていた王の顔は、ひとりの老人のそれへと変わっていた。</p><p>何やら疲れた様子の公王へ、ヴァルターは励ますように声をかける。</p><p>お戯れを。陛下はま(・)だ(・)ま(・)だ(・)ご壮健であられますぞ</p><p>……余より若いそちに言われてものう</p><p>おどけるような笑みを浮かべるヴァルターに、じっとりとした目を向けながらも、クラウゼは諦め顔で溜息をつく。ともすれば慇懃無礼、不敬とすら取られかねないような言い方も、ヴァルターなりのユーモアと思いやりの精神の表れであると、長い付き合いで心得ているからだ。</p><p>アクランド連合公国宰相、ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー伯。</p><p>クラウゼがウルヴァーンの領主、ひいては公王に即位して以来、数十年を共に過ごしてきた腹心の部下の一人だ。</p><p>いやいや、最近はわたくしめも、抜け毛が気になるようになりましてな……</p><p>ぬかせ</p><p>つるつるな頭皮を撫でながらうそぶくヴァルターをよそに、鼻を鳴らしたクラウゼは大儀そうに立ち上がった。</p><p>質素なしつらえの椅子の背後、窓から差し込む陽光に目を細めつつ、眼下に広がるアクランドの大地を眺める。</p><p>…………</p><p>後ろ手を組んで景色を眺める目は、どこか遠く。寂寥感の滲むような公王の後ろ姿に、自然と口をつぐんだヴァルターは、おどけるような笑みを引っ込めた。</p><p>……近頃は、</p><p>重々しく、クラウゼは口を開く。</p><p>『ディートリヒ』に位を譲ることを考えておる</p><p>……陛下</p><p>こちらもまた、どことなく寂しげに、ヴァルターの眉が下がる。長く伸ばした顎鬚を指で梳きながら、クラウゼは言葉を続けた。</p><p>ディートリヒはまだ若いが、それ以上に、余は歳を取り過ぎた。万(・)が(・)一(・)のことを考えると、今のうちに譲位しておいた方が、火種になり辛(づら)かろう</p><p>成る程。……陛下は、完全に身を引かれるおつもりで？</p><p>いや。余は顧問役に回る</p><p>左様ですか</p><p>クラウゼの返答に、ヴァルターは楽しそうに頷いた。</p><p>いわゆる、『形だけ』という奴ですな</p><p>うむ。いくらディートリヒが聡い子だとはいえ、全てを任せるには経験が足りぬ。ここ数年、平和が続いておるが、……今は繊細な時分よ。雪原の民の件もあるし、草原の民に不穏な動きがあるとも聞く</p><p>少し、表情を厳しいものとして、クラウゼは執務机の上の報告書を手に取った。</p><p>草原の民の本拠地”リッフ”に置いた総督府から、いくつか報告が上がってきている。公国の支配に対して反抗的であった部族が、近頃になって急に大人しくなったらしい。</p><p>字面だけ見れば好ましい事態だが、長きに亘(わた)って抵抗を続けてきた輩が、昨日今日で従順になるとは考えにくい。十中八九、何かよからぬ事を企んでいる―というのが、クラウゼとヴァルターの見立てだった。</p><p>先の戦役で、ウルヴァーンの組織化された魔術師兵団の前に惨敗を喫した草原の民ではあるが、その機動力と馬上弓による攻撃力は、決して侮れるものではない。例え反乱を起こされたとて、鎮圧はそう難しくないだろうが、同時に油断も許されぬ相手だ、とクラウゼは考える。</p><p>……ところで、北の大地はどうなっておる？</p><p>報告書を書類の山に戻しながら、問いかけた。口の端を吊り上げ、シニカルな笑みを浮かべたヴァルターは、</p><p>相も変わらず、身内で小競り合いを続けているようで</p><p>うむ。それは重畳</p><p>その、小馬鹿にするような口調に、クラウゼはむしろ上機嫌で頷く。</p><p>過去には戦火を交えたこともある公国と北の大地ではあるが、現在、両者の関係はそれなりに良好だ。領土を巡って起きた紛争は、草原の民の介入もあり、北方の街を幾つか分割統治することで決着が付いている。</p><p>公国の統治に食い込まれる形になったため、当時のクラウゼとしてはあまり面白くない話であったが、南北で人の行き来が活発化し、結果的には周辺の経済が発展することとなった。ウルヴァーン側は食料品や嗜好品、医薬品などを。北の大地は一部の金属製品や優れた武具などを、それぞれ輸出している。</p><p>公国・北の大地の双方にとって、そう悪くはない関係だ。しかし、雪原の民の武力が再び、ウルヴァーンへ向けられることを恐れたクラウゼは、戦争を回避するために幾つかの手を打っておいた。</p><p>そのうちの一つが、北の大地の西部で起きている、雪原の民同士の領土紛争だ。</p><p>元来、その厳しい冬の環境で有名な北の大地だが、中でも海に面している西部は例外で、比較的温暖で実りも多く、暮らしやすい土地として知られている。</p><p>そして―そうであるが故に、争いの種になりやすい。</p><p>近年の人口増加に伴い、雪原の民は緩やかな土地不足に陥りつつある。安定的に食料を生産できる、実りの豊かな大地が求められているのだ。しかし、苛酷な北の大地において、そのような土地は、西部の他に存在しない。</p><p>そこでクラウゼは、工作員を行商人として多数送り込み、敢えて西部の豊かな部族に安く医薬品などを供給することで、生活水準の格差をさらに助長させ、部族間での対立を煽ることに成功したのだ。</p><p>そしてそれは、結果的に『紛争』という形で現れた。</p><p>ウルヴァーンの供給した医薬品やその他の技術の影響で、生活環境が改善されたためにもたらされた人口増加だが、それがまた内輪での殺し合いの種となったのだから、まさに皮肉としか言いようがない。しかし、仮にクラウゼが手出しをしていなければ、その圧力の矛先はウルヴァーンに、ひいては公国全体へと向けられていたことだろう。</p><p>雪原の民は、優秀な武具に加え、『紋章』という独自の身体強化術を保有する民族だ。今まで、せいぜい小競り合いとでも呼ぶような、小規模な軍事衝突ならば何度もあったが、民族の移動を伴う大規模な侵攻となると、どのような被害が出るかは想像もつかない。</p><p>―少なくとも今は、全面戦争は避けたい。</p><p>それが、クラウゼの考えだった。現状、公国が必要としているのは、『時』―雪原の民同士が分裂するためにかかる時間だ。元から部族間でのいさかいが絶えず、まとまりがあるとはいえない彼らであったが、それでもひとたび共通の『敵』を定めれば、足並みをそろえる余地はある。</p><p>それを、徹底的に、分断しなければならない。</p><p>自身も草原の民という不和の種を抱え込んでいる現状、一致団結した雪原の民と事を構えるのは、あまりに危険だ。仮に、公国と北の大地が全面戦争に突入すれば、千載一遇の機会とばかりに草原の民も蜂起するだろう。</p><p>流石に、リスクが大き過ぎる。それに見合うほどのリターンがあるのか、と問われれば―</p><p>（―たしかに、北の西部は、魅力的ではあるがの）</p><p>クラウゼは、視界の果てを流れるアリア川を眺めながら、遥かな大海へと想いを馳せる。</p><p>海。そして、外海へとつながる港。これこそ、“要塞都市ウルヴァーン領主”としてのクラウゼの求めるもの。</p><p>そしてあるいは、雪原の民との戦争を望む者たちにとって、その主張の根幹を為し得るものだ。</p><p>……最近は、主戦派も口喧しくなってきましたからな</p><p>クラウゼの思考を読んだのか、独り言のように、ヴァルターは呟く。</p><p>……うむ</p><p>小さく溜息をつきながら、クラウゼは再び椅子に腰を下ろした。その顔には苦々しい、精神的な疲れの色が浮かぶ。</p><p>臣下の中には、北の大地との開戦を声高に主張する者たちがいる。主に、軍閥に属する者や、軍事産業の関係者だ。軍事費(くいぶち)の確保が目的か、あるいは武具などの特需が狙いか―その思惑は様々であろうが、彼らの主張の建前を為すのが、海外への橋頭保の獲得。</p><p>即ち、北の大地西部の沿岸地域を手中に収めることだ。</p><p>自前の港を確保すれば、ウルヴァーンの地位は盤石のものとなる、と。言ってること自体は尤もなんですがな</p><p>……しかし、時期尚早よ</p><p>わたくしも陛下とは同じ考えですが……まぁ、近頃キテネが……その、何と申しましょうか、“調子に乗っている”ので、腹に据えかねている者も一定数は居るのでしょう</p><p>うぅむ……</p><p>嘆かわしい、と言わんばかりのヴァルターに、渋面を作るほかないクラウゼ。</p><p>要塞都市ウルヴァーン。</p><p>城郭都市サティナ。</p><p>鉱山都市ガロン。</p><p>港湾都市キテネ。</p><p>アクランド連合公国内の巨大都市といえば、以上の四つが挙げられるが、その中でもキテネは公国における唯一の外海への玄関口として、貿易から製塩までを一手に担い、他の都市とは一線を画した絶大な経済力を誇っている。</p><p>そう―盟主たるウルヴァーンを差し置いて、最大の経済力を、だ。</p><p>元々、軍事力のウルヴァーン、工業力のガロン、そして何事もそつなくこなすサティナ、という風にバランスが取れていたのだが、この問題のややこしいところは、実は公国の盟主は必ずしもウルヴァーンと決まっているわけではない、という一点にある。</p><p>アクランド連合公国に名を連ねる貴族たちは、ウルヴァーンの領主に対して絶対的な忠誠を誓っているわけではない。</p><p>ただ、強大な軍事力を誇るウルヴァーンが、諸侯に安全を約束することで、主従の契約を結んでいるに過ぎないのだ。</p><p>故に、称すること、『アクランド”連合”公国』。その権力は流動的で、ときには酷く曖昧ですらある。</p><p>そもそも歴史を紐解けば、ほんの百年ほど前までは、『アクランド連合公国』なる国家は存在していなかったのだ。当時はキテネを主体とした小国で、その中でもウルヴァーンは一地方都市に過ぎなかった。また、現公王たるクラウゼも、その出自を辿っていくと、かつてのキテネの領主の血筋に行きあたる。度重なる政変や異民族との衝突、そしてウルヴァーンの発展を受けて当時の領主が『遷都』し、その結果生まれたのが現在の公国なのだ。</p><p>裏を返せば―今後再び、『遷都』が起きる可能性も、ゼロではない。</p><p>とはいえ。</p><p>港湾都市キテネが絶大な経済力を誇るのも、別に今に始まったことではなく。</p><p>ウルヴァーンも、草原の民を支配して、その本拠地の岩塩の採掘権を押さえることで、塩の独占に対抗してみたり。</p><p>サティナも独自の税制を採用することで、キテネ経由の商人を牽制し、他の経済圏へのアプローチを積極的に行ったり、と。</p><p>良くも悪くも政治には関わり合いにならないガロンを除いて、それぞれいい意味で牽制と調整を繰り返し、これまでは特にこの問題が表面化することはなかった。</p><p>しかし。</p><p>ここにきて最近、キテネの領主に不穏な―どこか、野心的な影が見え隠れするようになってきた。</p><p>あの『噂』の件がなければ、と思わずにはいられませんな……</p><p>はぁ、と珍しく愁傷な顔で、ヴァルターは嘆息する。</p><p>数ヶ月前のこと。一般民衆の間で、とある噂が流行り出した。</p><p>曰く、現公王陛下は体調が優れず、間もなく崩御なさる。</p><p>曰く、跡取りのディートリヒ様は若すぎるため、代わってキテネの現領主が、公国の盟主になられる。</p><p>―と。</p><p>街角で、市場で、あるいは場末の酒場で、まことしやかに囁かれたこの噂は、異様なほどの速度で公国全土に広まった。</p><p>その不自然さ、そして単純に不敬であるという理由から、宰相ヴァルター率いる諜報部が出所を探った結果―</p><empty-line/><p>港湾都市キテネに行きついたのだ。</p><p>勿論、キテネの領主は即座にこれを否定したが、このことが判明した際、ウルヴァーンの貴族たちは、揉めた。</p><p>―これは、ウルヴァーンに対するキテネからの挑発である、と。</p><p>そう、受け取る者が少なからずいたのは、事実だ。</p><p>（……滅多なことは無い、と思いたいがのう）</p><p>顎鬚を撫でつけながら、クラウゼは考える。思い浮かべるのは、キテネの領主の顔。</p><p>（何を考えていることやら……）</p><p>年に数回、顔を合わせているが、彼は代々受け継いできた華やかな商才の割に、寡黙で実直な男という印象だった。しかし、そうであるが故に、時折何を考えているのか、推し量りにくいところがある。</p><p>論理的に考えて、実質的な軍事力に劣るキテネが公王の座を狙ったところで、無駄に金がかかるばかりでメリットと言えるメリットはない。また、キテネに『そのつもり』がないということを、クラウゼは半ば直感的に確信していた。</p><p>（しかし、そうであるとするならば、他の勢力が噂を流したことになる）</p><p>そもそも、クラウゼの体調不良は、一部の貴族にしか知られていない機密事項だ。誰かが思いつきで、ひょいと流せるような代物ではない。となると、公国内の貴族に不和の種をばらまくため、何者かが意図して噂を流した、と考えるのが自然なわけだが―</p><p>（―誰が？　そして、どのような意図で？）</p><p>その正体も謎だが、意図するところも分からない。正直、工作として噂をばら撒くならば、もっと上手いやり様がある。この場合、噂の広まり方―拡散速度があからさま過ぎるため、『工作である』と自分から喧伝しているに等しいのだ。</p><p>（誰が、何のために……？）</p><p>いくら考えても、ぐるぐると疑問が渦を巻くばかりで、胸の内側にずしりとしたものが積み重なっていくかのようだった。そして、ふいに思い出したかのように、肺の奥から湧き上がってくる、重い咳。</p><p>ゴフッ、ゴフッと激しくせき込み、クラウゼは悲観的な考えを振り払うかのように頭を振った。</p><p>（まったく、こんなことでは身が持たんな……）</p><p>―老いを感じる。口にこそ出さないが、このところは物忘れも激しい。</p><p>万が一のことがある、とは自分でも考えたくないし、出来る限り国の行く末を見守りたいとは思うものの、やはり頭がはっきりしているうちに自分は身を引くべきだ、とその思いを新たにする。</p><p>（許せディートリヒ……重荷を背負わせることになる）</p><p>まだ若い―幼いとすら言っていい、孫の顔を思い浮かべながら、老いた王は溜息をつく。</p><p>ひとつ、溜息をついて―暗い考えは、終わらせることにした。</p><p>……そう言えば、そろそろ、殿下の御誕生日ですな</p><p>それを見計らったかのように、ヴァルターが話題を振ってくる。</p><p>早いものよ、あの子ももう十四になるか</p><p>祖父の表情、と言うべきか。腕組みをしながらのクラウゼの顔は、この時ばかりは、どこまでも優しげであった。</p><p>……盛大に、祝ってやらねばならん</p><p>民への披露目も兼ねて、と呟く。</p><p>それでしたら、やはり、何か催し物を企画するべきですかな？</p><p>……そうよな、今後のことも考えると……</p><p>コツコツ、と指先で執務机を叩きながら、クラウゼは考えを巡らせる。</p><p>……腕利きの戦士は、いくらいてもいい。武道大会でも開くか？</p><p>ちら、とクラウゼが目をやると、ヴァルターは満面の笑みで答えた。</p><p>良い考えであられます</p><p>では、そのように計らえ</p><p>はっ</p><p>恭しくヴァルターが頭を下げたところで、扉の外から、足音が聞こえてくる。</p><p>クラウゼは威厳のある表情を取り戻し、ヴァルターは姿勢を正した。こんこん、と扉を叩く音。</p><p>―アントニオ様がいらっしゃいました</p><p>通せ</p><p>平坦な声で、ヴァルターが答えた。</p><p>扉が開かれ、茶器を携えた侍女と共に、一人の男が執務室に入ってくる。</p><p>丸顔で、歳は四十代前半ほどか、ぽっちゃりとした体格の男だった。幾つもの宝石が縫い付けられた煌びやかなローブ、頭頂部には羽根飾りのついた小さな帽子、ひと目で上級貴族と知れる出で立ちをしている。</p><p>陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しく……</p><p>柔和な笑みを浮かべ、仰々しく一礼する男。その名を、『アントニオ』という。クラウゼの主治医にして専属の薬師だ。</p><p>具合が悪いからこそ、そちを呼んだわけであるが</p><p>はっ、申し訳ございません……</p><p>口の端を歪めて笑うクラウゼに、柔和な笑みを引き攣らせるアントニオ。しかし、すぐに気を取り直して、侍女が準備した簡易テーブルの上に薬箱を置き、秤やカップなどを用意する。</p><p>……それでは、如何様に致しましょう</p><p>いつものように。咳が鬱陶しくてかなわん</p><p>仰せのままに</p><p>一礼し、アントニオは慣れた手つきで、薬剤を調合し始めた。粉末やシロップなどを手際良く量りとり、持参した水とともにカップの中で混ぜ合わせる。</p><p>すぐに、どろりとした濁った緑色の、いかにも不味そうな薬液が完成した。</p><p>さて……</p><p>新しく匙を手にとって、アントニオは薬液をすくい取り、口に含む。</p><p>ふむ……問題はないようです</p><p>味見、ではなく、責任を取るための毒見の性格が強い儀式。しかし当然のようにそれをクリアしたアントニオは、侍女が運んできた別の白銀のカップに、改めて薬液を注ぎ直した。</p><p>一見、何の変哲もないカップだが、見るものが見れば、その強力な魔術の波動に気付くだろう。毒を検知すれば直ちに知らせる、高価な魔道具だ。</p><p>なみなみと薬液が注がれたカップを、侍女がクラウゼの手元まで運ぶ。そこで、駄目押しのように、傍らのヴァルターがパチンと指を鳴らした。</p><p>Thorborg.</p><p>ふわりと、柔らかな金色の光が、カップの周囲を漂う。その光の中に、一同は、羽根を生やした小人の姿を幻視した。</p><p>ヴァルターは、公国の宰相であると同時に、国立魔道院で魔術を修めた優秀な魔術師でもある。毒見の術式もお手の物で、その老練な精査の眼を欺くことは、人の身ではまず不可能と言ってもいい。</p><p>カップの周囲をくるりと、舐めるようにして回った光は、そのまま二度三度と明滅してから霧散する。</p><p>……問題ありませんな</p><p>気負わない様子でヴァルターが断言して初めて、クラウゼは目の前のカップに手を付けた。</p><p>とぷん、と揺れる薬液をうんざりとした顔で一瞥し、覚悟を決めたかのように一気に喉に流し込む。</p><p>…………</p><p>顔をしかめた。凄まじいまでの苦さ、そして後味の悪さ。しかし同時に、胸の奥からつかえが取れるような、そんな爽やかな感覚があった。</p><p>……いつものことながら、そちの薬は良く効く。大儀であった</p><p>勿体なきお言葉にございます</p><p>薬の苦みも余程効いたようで、侍女が新たに白銀のカップへと注いだ、蜂蜜のたっぷりと入った口直しの紅茶を飲みながらも、クラウゼの言葉はどこか投げやりだった。それでも、アントニオは感極まったかのように平伏する。</p><p>このところ、手足が異様に冷えることがある。……何とかなるか</p><p>はい。それでしたら、薬液の調合に心当たりがございます</p><p>では、次はそのように計らえ。今後とも頼りにしておる</p><p>ははっ！　身に余る光栄……！！</p><p>薬箱を抱えたまま、終始ぺこぺことへつらい、部屋を辞するアントニオ。</p><p>その姿を、あからさまに表情に出すことはせず。</p><p>しかし、どことなく胡散臭そうに、ヴァルターは見送っていた。</p><p>†††</p><p>要塞都市ウルヴァーン、領主の城の片隅―。</p><p>日当たりの悪い地上階の一画に、その小さな部屋はある。</p><p>異様な部屋だ。壁の全面が棚で占有され、そこには所狭しと、瓶に詰められた乾燥植物や、何かの種子、得体の知れない乾物などが並べられていた。床にも足の踏み場がないほどに収納箱が置かれ、部屋に比して大きめの机には、乳鉢やすりこぎ、秤、ビーカー、カップや試験管などがぎっしりと置かれている。</p><p>そんな部屋に、ひとりの男はいた。</p><p>醜い男だった。顔は、火傷か何かで酷くただれ、片目は瞼が捲くれ上がったかのようになり、その下の瞳は白濁している。もう片方の目は酷く小さく、その顔のパーツのアンバランスさが、見る者に生理的嫌悪感を掻き立てた。やたらと腫れぼったい唇、その隙間から見える乱杭歯、異常なまでの猫背で机に向かう男は、ただ一人黙々と、すりこぎで何か不気味な紫色の骨のようなものを磨り潰している。</p><p>…………</p><p>ごりごりと、すりこぎの音だけが、部屋に響く。骨のようなものを粉末状にし、別の容器に移し替えて、また新たに磨り潰す。そんな単純な、しかし地味にきつい作業が、延々と続く。</p><p>しかし―どれほどの時間が経ったか。</p><p>部屋の外から、カツカツと、早いペースで足音が近づいてきた。</p><p>作業する手を止めた醜い男は、手慣れた様子で、フードを目深にかぶる。</p><p>間もなく訪れる主人に醜い顔を見せ、その機嫌を損ねてしまわぬように―</p><p>足音が部屋の前に辿り着くと同時、ノックも何もなく、乱暴に扉が開かれた。</p><p>無言のまま、一人の男が部屋に入ってくる。丸顔に、ぽっちゃりとした体躯、やたらと豪奢なローブ―アントニオだ。</p><p>調子はどうだ？　ん？</p><p>執務室にいたときとは打って変わって、気取った調子で声をかけるアントニオ。</p><p>は、はー。お蔭さまで、順調にごぜぇます</p><p>ん。本日も陛下は、調合した薬に大変ご満足しておられた。誇りに思うといい</p><p>ははぁ。ありがとぅごぜぇます</p><p>ぎこちない動作で、しかし醜い男は、わざとらしく頭を下げて見せる。機嫌を損ねないように。</p><p>さて。それで本題だが、陛下はこの頃、手足の冷えにお悩みのようだ。カンジントア草、リオカの実、レース豆のエキス、この辺りに効能があると思うが、どうだ？</p><p>流れるようなアントニオの言葉に、しばし男は、黙考する。</p><p>……おっしゃる通りにごぜぇます。完璧でごぜぇます</p><p>うん、やはりな。私の見立てに間違いはない</p><p>ふふん、と得意げに鼻を鳴らしたアントニオは、至極ご満悦な様子だった。</p><p>そういうわけで、うん、そうだな、三日分。今日の夜までに用意しておけ</p><p>はっ……はぁ、夜までに、でごぜぇますか</p><p>何か？</p><p>一から用意するとなると、分量的に、それはなかなかな無茶な要望だった。若干の驚きを滲ませる男に、しかしアントニオは不機嫌な顔で問い返す。慌てて、醜い男は平伏した。</p><p>いっいぃえ。確かに、夜までに、三日分でごぜぇますね</p><p>そうだ。それでいい</p><p>頷いたアントニオは、ふっと、その丸顔に見下すような笑みを浮かべる。</p><p>お前のような醜い化け物が、誰のお蔭で食うに困らずいられるか、よくよく考えることだ</p><p>は、はぁー</p><p>では、……そのように計らえ</p><p>何がおかしいのかニヤニヤと笑いながら言い放ったアントニオは、そのまま男を一瞥することもなく、乱暴に扉を閉めてさっさと出て行った。</p><p>カツカツカツ、と足音が遠のいていく。その間も、男は、頭を下げたままだった。</p><p>やがて、足音が完全に聞こえなくなってから、ぽつりと、</p><p>ふん。……自分では何も出来ねぇ、若造風情が……</p><p>毒々しさがにじみ出るような声だったが、と同時にそれは、どこか楽しげでもあった。</p><p>足を引きずりながら、棚を巡って目当ての材料を集める。葉や木の実の入った瓶を机の上に並べ、先ほどと同じように、すりこぎで擦る作業を再開する。</p><p>ごりごり、ごりごりと。</p><p>無機質でどこか暴力的な音が、響く。</p><p>―どれほどの時間が経ったか。</p><p>閉ざされた雨戸の隙間から、夕焼けの光が差し込む頃。こんこん、と扉をノックするような音が響いた。</p><p>しかし、それは扉からではなく、閉ざされた窓の方からであった。にやりと、笑みかどうかも分からない、醜い口の端を歪めて、すりこぎを置いた男は、急いで雨戸を開け放った。</p><p>そこに居たのは、一羽の鴉。</p><p>窓枠にとまった、真っ赤な瞳の鴉だった。</p><p>雨戸が開くと同時に、慣れた様子で、鴉は部屋の中へと入ってくる。とんとん、と机の上を跳ねてから、ふわりと床に降り立った。</p><p>それをよそに、醜い男は、扉の方へと向かう。慎重に、音を立てないように開き、部屋の外の様子を伺った。</p><p>―誰もいない。</p><p>そのことを確認し、そっと扉を閉める。</p><p>そして、振り返れば―部屋の中に、ひとりの黒衣の老人がいた。</p><p>異様な雰囲気の、老翁であった。</p><p>まずその背丈。漆黒のローブに包まれたそれは、のっぺりとした存在感を放つ。年老いてなお、ぴんと伸びた背筋は、その壮健さを窺わせた。短く伸ばした黒い髭に、同じように短く刈り上げた黒髪。その顔や黒衣から覗く手は皺だらけで、相当な老齢であることを示していたが、かっ、と見開かれた両の瞳は、荒々しいまでの覇気を秘めていた。血のような、燃え盛る炎のような、深紅の瞳―</p><p>―</p><p>無言のままに、老翁は軽く右手を振った。</p><p>その瞬間、世界から音が消える。</p><p>窓から、あるいは天井から、微かに聞こえていた周囲の生活音が、一切合財消え去った。音を封じる魔術を行使したのだろう、と醜い男は無知ながらも、ぼんやりと推測する。</p><p>下手に城の中で魔術を使えば、宮廷魔術師たちが直ちに検知する、と。そんな話も聞いたことがあったが、少なくとも目の前の老翁が、規格外の存在であるということだけは、はっきりと理解していた。</p><p>……さてさて、久しいのぅ。元気にしておったか？</p><p>背の低い男を覗き込むようにして、親しげに老翁は問いかける。</p><p>へ、へぇ。お蔭さまで……</p><p>暗い笑み。しかし、それは上っ面を塗り固めた媚笑ではなく、真の畏敬の念が滲み出るものだった。</p><p>そうかそうか。……陛(・)下(・)の(・)御(・)様(・)子(・)は(・)？</p><p>そして、続けざまに問われた言葉に、男は醜い笑みをさらに濃くした。</p><p>……この頃は、手足の冷えに悩まされておられるそうで</p><p>カッカッカッカ……そうか、そうか</p><p>懐から、無色透明な液体の詰まった小瓶を取り出しつつ、老翁は邪悪な笑みを浮かべる。</p><p>ならば……先(・)は(・)長(・)く(・)な(・)い(・)な(・)</p><p>その小瓶を、醜い男に、手渡した。</p><p>へ、へへぇ……</p><p>それを受け取りながら、男も引き攣ったような笑みを浮かべる。</p><p>カッカッカ、へっへっへ、と。</p><p>どろどろとした嘲笑の声が、静かすぎる部屋に響く。</p><p>やがてそれは、ばさばさという、一羽の鳥の羽ばたきの音に変わり。</p><p>それすらも遠ざかっていったあと、ゴリゴリと、再びすりこぎの音だけが響く。</p><p>何事も―</p><p>何事も、なかったかのように。</p><p>いつまでも。</p><p>29. 一夜</p><p>とうとう着いたか</p><p>ウルヴァーン外縁部、宿場町。サスケの背から降りたケイは、ぽつりと小さく呟いた。</p><p>ぶるるっ、と鼻を鳴らすサスケの首を撫でながら、遠景の要塞都市を見やる。風にそよぐ麦畑の果て、小高い丘の上にひしめく石造りの家々に、それらを取り囲む分厚い城壁。</p><p>領主の城、第一の城壁、第二の城壁と、段々に構造物が広がっていく様は、まるで街そのものが大きなひとつの岩山のようだ。</p><p>遂に、……だな</p><p>同じく、スズカから下馬したアイリーンが、そっとケイの隣に寄り添う。</p><p>アレクセイとの決闘から、おおよそ半日。</p><p>ウルヴァーンの都市圏に辿り着いた一行は、城壁の外側の宿場に逗留し、市内へ入るための準備を進めていた。</p><p>―そっちの荷は１番馬車に、割れ物はまとめて２番だ。ちゃんとリストは仕上げておけよ。あっ、毛皮の畳み方にはきちんと気を払うんだぞ、折角状態が良いんだから！</p><p>宿場町の一角に居を構える、コーンウェル商会の倉庫前にて。ホランドの指示の下、商人や見習いたちが忙しげに動き回り、積荷を別の馬車へと移し替えていた。</p><p>税金対策、であるらしい。隊商の荷馬車のまま市内に乗り入れると、馬鹿にならない租税を取られるので、経費削減の為に専用の馬車を使ってここから市内の支部までピストン輸送するそうだ。</p><p>今回も、何事もなく辿り着いたな……</p><p>いや、何事もないってこたぁねえだろ。“大熊(グランドゥルス)“出たじゃん</p><p>まぁな。でも俺ら何もしてないし……</p><p>気が付いたら終わってたもんなぁ</p><p>忙しげな商人たちを尻目に、仕事を終えた護衛たちは気楽なものだ。あとは市内で給金を受け取るのみなので、武装を解きながら、のんびりと駄弁っている。</p><p>そして、そんな彼らから距離を置き、ケイとアイリーンは二人の世界にいた。</p><p>沈黙のうちに、吹きつける風の音を聴きながら、ただただ遠くに佇む都市の姿を眺める。ようやく目的地に辿り着いたという安堵と、慣れ始めていた旅の日々が終わってしまう寂しさと、新たな環境への一抹の不安と。二人の顔には、それらが綯(な)い交ぜになった、複雑な表情が浮かんでいた。</p><p>……それにしても、アレがウルヴァーンか</p><p>しんみりとした空気を振り払うかのように、ケイは口を開く。</p><p>ゲームのとは、大違いだな？</p><p>そうだな、</p><p>それに応えて、アイリーンも小さく笑った。</p><p>ゲームの方は村だったし……こっちのと比べたら、犬小屋か何かだなありゃ</p><p>違いない</p><p>どこかで聞いたような表現に、思わず苦笑する。ゲーム内のウルヴァーンはプレイヤーメイドの要塞村―岩山の上に慎ましやかに築かれた防御拠点で、下手すれば今ケイたちのいる宿場町よりも小規模なものだった。</p><p>まさしく、比べるのもおこがましい、ってヤツだ……</p><p>笑い飛ばした湿った空気と、ぼんやり蘇る郷愁にも似た想いと。それらを胸に、ケイとアイリーンは静かに、見知らぬ街へと視線を戻す。自然と、惹かれあうようにして、手と手が重なり合った。</p><p>…………</p><p>それ以上は言葉を交わすこともなく―しかし、自分たちは同じ気持ちを共有していると。確信しながら、その手の温もりを確め合った。</p><p>―が。</p><p>おーい、ケイ！　アイリーン！</p><p>背後から投げかけられたハスキーボイスに、慌てて手をほどき、弾かれたように振り返る。</p><p>見やれば―こちらに手を振りながら、のしのしと歩いてくるアレクセイ。</p><p>その姿は、決闘の際と同じく、完全武装。あるいは、所持品すべてを身に付けた姿、というべきか。肩に担いだ業物の大剣、柄の部分には兜を引っ提げ、ケイにブチ抜かれた円形盾(バックラー)の他、鎧、脛当て、手甲を装備。そして背中には、旅装具がパンパンに詰まった背嚢を背負っている。</p><p>良い感じの雰囲気を粉砕され憮然とするケイと、 げっ と嫌そうな声を上げるアイリーン、しかし二人の様子を気にする風もなく、アレクセイは目の前までやってきた。</p><p>……もう動けるのか</p><p>問いかけるケイの声に、どこか皮肉めいた響きが込められていたのは、仕方のないことかも知れない。決闘でケイに手酷くやられ、まだ半日しか経っていないにも拘わらず、アレクセイはぴんぴんしているようだ。切れていた唇の傷は殆ど治りかけ、下顎の青痣も既にその色を薄くしつつある。“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“に貫通させられた左腕に至っては、包帯こそ巻いてあるものの、まるで痛がる素振りすら見せない。</p><p>まあな、傷の治りは早いんだ</p><p>左手をくいくいと動かしたアレクセイは、 ふんっ と筋肉に力を込める。が、その瞬間、まっさらだった包帯に、じわりと血の赤色が滲んだ。</p><p>おっと、まだ傷は塞がってなかったか</p><p>ついうっかり、とでも言わんばかりに、まるで他人事のアレクセイ。ドン引きしたらしいアイリーンが、すっと一歩後ずさる。ケイの皮肉な笑みも少々引き攣っていた。</p><p>いくら痛みに強いとはいっても、これは少々異常だろう。ともすれば、比喩的意味ではなく、全く痛みを感じていないような―</p><p>『痛覚軽減』、か</p><p>ケイの呟いた言葉に、アレクセイはふっと顔を上げる。少しだけ見開かれた両の瞳は、無理やり驚きの表情を打ち消したかのような。</p><p>紋章だろう？</p><p>違うか、と首を傾げてみせるケイ。決闘の時から見当はつけていたが、この反応を見て確信した。</p><p>『痛覚軽減』―アイリーンの刻む『身体軽量化』程ではないが、ほとんど使われていなかったマイナーな紋章の一つだ。</p><p>取得条件は比較的緩く、その効果は『痛みを軽減しノックバックや気絶の可能性を減らす』こと。しかし、ゲーム内では些細な傷でも死に直結しており、そもそも痛覚がフィードバックされることもなかったので、負傷を前提とした『痛覚軽減の紋章』は有難味が薄かった。せいぜいが魔術師プレイヤーが、被弾による詠唱失敗の可能性を減らすため、保険としてその身に刻むことがある程度のものだった。ケイも、こうしてアレクセイに出会わなければ、その存在すら忘れていたであろう。</p><p>ゲーム内では役に立たなかった『痛覚軽減』だが、翻って現実では、それなりに有用であると言わざるを得ない。ケイ自身、この世界に来てから経験した対人戦闘において、痛みのせいで行動が阻害されたり、判断を誤ったりということは度々あった。怪我の自覚が遅れる、という欠点はあるものの、攻撃力に特化したいのであれば有用な能力だ。ただでさえ勇猛果敢な戦士が痛みに鈍感になれば、果たしてどのような化学反応が起きるのか―</p><p>ちなみにアレクセイの場合、その傷の治りの早さを鑑みるに、あとは『身体強化』か、あるいはマイナーな『自然治癒力強化』の紋章を刻んでいる、というのがケイの見立てだ。</p><p>……詳しいな。いや、その通りなんだが……どこで知った？</p><p>薄く笑みを浮かべるアレクセイだが、その瞳は笑っていない。おや、地雷を踏んだかな、などと軽く思いつつ、ケイは小さく頭を振った。</p><p>知り合いの雪原の民の戦士は、お前だけじゃなくてな</p><p>へぇ。なんて名前だ？</p><p>『アンドレイ』だ</p><p>ぴくりと、黙って話を聞いていたアイリーンが、横目でケイを見る。</p><p>アンドレイ……アンドレイか。おれの知り合いにはいないな</p><p>まあ、昔の話だ。それより何か用事か？</p><p>何やら思案顔のアレクセイに、ケイは投げやりに話題を振った。</p><p>ああ、そうだった。用事があるのはケイの方なんだが</p><p>ぽん、と手を打ったアレクセイは、言葉とは裏腹にアイリーンの方を見やって愛想を振りまきつつ、背負っていた背嚢をどさりと地面に下ろした。</p><p>さて、</p><p>続いて、大剣と円形盾をケイの足元に放り出し、脛当てや手甲などの装備も順次外していく。背嚢を基礎として、ケイの目の前に積み上げられていく物資の山。</p><p>え、お前何を</p><p>困惑するケイとアイリーンをよそに、鎧を脱ぎ去ったアレクセイは、いつか湖で見せた恐るべき脱衣速度をもって、あっという間に肌着とサンダルだけの姿になった。そして、最後に右手に握りしめていた財布を、出来あがった山の上に載せる。</p><p>―これが、おれの全財産だ！</p><p>高らかに宣言し、キリッとケイを真正面から見据えるアレクセイ。</p><p>ほぼ裸一貫で腕組みをし、堂々と仁王立ちする姿は、ただでさえ衆目を集めることこの上ない。それが唐突に叫ぼうものなら、周囲の人間に注目するなと言う方が無理だった。駄弁っていた傭兵たちも、通りがかりの住民も、忙しげにしていた商人たちですらも、その手を止めて何事かとこちらを見ている。</p><p>……どういうことだ</p><p>受け取られよッ！</p><p>くっ、と悔しげに顔を歪ませるアレクセイ。</p><p>貴殿は……決闘の勝者であるが故にッ！</p><p>その言葉に、思わずケイとアイリーンは顔を見合わせた。ふるふる、と無表情で首を振るアイリーン。</p><p>いらん</p><p>それを受けたケイの答えは、簡潔明瞭だった。ずるっ、と腕組みの体勢からずっこけるアレクセイ。</p><p>何故だ！</p><p>なぜ、と言われてもな。特に魅力を感じない</p><p>困った風に、ケイはぽりぽりと頬をかきながら答える。</p><p>確かに、ケイはアレクセイと闘って勝利を収めたが、それは自身の名誉とアイリーンを守るためであった。ケイも若干負傷したが、それに釣り合うほどにはアレクセイを叩きのめしてもいる。ケイにとって、決闘は既に終わったこと―これ以上どうこうしようという気は、あまり起きなかった。</p><p>強いて言えば、アレクセイの防具―白羽(ふつう)の矢とはいえ”竜鱗通し”の一撃を弾いた合金の脛当てや手甲は、ケイの現在の防具と比しても魅力的と言えた。だが新品ならば兎も角、アレクセイのお下がりは御免蒙りたい。</p><p>迷惑料として金だけを徴収するのも考えたが、それはそれで狭量であるように感じられた。ケイが独りであればまだしも、今はアイリーンがいる。彼女の見ている前で、殊更金に意地汚くなろうという気も、また起きなかった。</p><p>まあ、なんだ。気持ちだけ受け取っておこう</p><p>し、しかし……それは困る！</p><p>にべもない答えのケイに、おろおろと弱った様子のアレクセイ。そこには普段の強気な態度など、見る影もない。それほどまでに断られるのが予想外だったのか、と面白おかしく感じながら、ケイは逆に尋ね返した。</p><p>なぜ困るんだ？　お前にも悪い話じゃないだろうに</p><p>一族の沽券に関わる。決闘の挑戦者が敗北した場合、勝者に全財産を譲るのがしきたりだ。恋慕の為に、自分から決闘を挑んでおきながら負け、その上……な、情けをかけられるなど……！</p><p>説明するうちに、アレクセイの頬が紅潮する。最後の言葉は、殆ど絞り出すかのようだった。自分が負けた、という事実もひっくるめて、それを解説させられるのが余程の屈辱なのだろう。</p><p>だから……これは、ケジメなんだ。受け取ってくれ</p><p>……成る程な</p><p>嘆願するようなアレクセイに、ケイは困った様子で兜を脱いだ。</p><p>つまり、受け取られなければ、一生の恥ということか</p><p>その通りだ</p><p>ふむ……。ならば、そうだな、</p><p>小さく溜息をついて、物憂げに前髪をかき上げたケイは、表情を真面目なものに切り替える。</p><p>―分かった。その申し出、受けよう</p><p>えっ、受けるの</p><p>ケイの隣で、心底意外そうに目を瞬かせるアイリーン。</p><p>おお、受け取ってくれるか！</p><p>それをよそに、アレクセイはぱっと顔を輝かせる。しかし同時に、荷物の山を見下ろして、少し寂しげに細められるその水色の瞳を―ケイは見逃さなかった。</p><p>ああ。ところで、……受け取ったものをどう処分しようと、それは俺の勝手なんだな？</p><p>……。ああ、勿論だ。売るなり使うなり好きにするといい</p><p>一瞬の間。しかしアレクセイは、毅然と答えた。 そうか と改めて言質を取ったケイは、重々しく頷き、</p><p>―ならば、俺は決闘の勝者として、お前にこの装備一式を譲る</p><p>言い放つ。</p><p>……え</p><p>ケイの台詞に意表を突かれ、ぽかんと間抜けな顔をする周囲の面々。</p><p>ふッ―ふざけるな！　それじゃ何も変わらないじゃないか！</p><p>すぐに、頬を紅潮させたアレクセイが、噛みつかんばかりの勢いで詰め寄るが、ケイがそれに動じることはない。</p><p>いや、俺はしかと受け取ったぞ。お前の覚悟と、誇りをな</p><p>あくまで真摯なケイの言葉に、毒気を抜かれたアレクセイは、陸に揚げられた魚のようにパクパクと口を動かした。</p><p>ケイは、異邦人だ。</p><p>無論、雪原の民の慣習などには明るくない。アレクセイがその気になれば、決闘後のやり取りはいくらでも誤魔化せたはず。</p><p>しかしそれをせずに、自ら財産の譲渡を申し出たのは、まさしく彼自身が誇りに生きている証だ。例え、それが相容れぬ、理解しがたいものであったとしても、その真っ直ぐさは称賛に値する。</p><p>最低限の生活はおろか、命の保証すらないこの世界。それも、知り合いもロクにいない異郷の地で、所持品の全てを投げ出し、他者へと明け渡す覚悟がどれほどのものなのか―</p><p>いや、清々しいまでの潔さだとケイは思う。</p><p>―感服した。その心意気、全く天晴れと言わざるを得ない。故に、貴殿に敬意を表して、これらの武具を贈りたい</p><p>朗々と語られる口上と共に、漆黒の眼光が、揺れる瞳を捉えた。</p><p>受け取られよ。誇り高き、雪原の民の戦士―アレクセイ</p><p>静かな、それでいてどこか有無を言わせないケイの言葉に、アレクセイは黙って俯いた。ぱし、と顔面を覆い隠した右手のせいで、その表情を窺い知ることはできない。</p><p>……しきたりに、従っておけば、</p><p>―全部なかったことになるとでも、思っていたのか。</p><empty-line/><p>小さな声が、ケイの耳朶にまで届く。恐れるような、わななくような―そんな訥々とした言葉が。</p><p>…………はぁぁ～</p><p>やがて、長く細く息を吐いたアレクセイは、虚脱したような表情で天を仰いだ。口元を引き結んで天上の何かを睨みつけ、ガリガリと荒っぽく頭を掻き毟る。</p><p>……分かった。有難く頂戴する</p><p>何かを悟ったように、存外、素直に頷いたアレクセイは、荷物の山から衣服を拾い上げ、黙々と着込み始めた。</p><p>それからは、先ほどの場面を逆再生するかのようだ。ズボンを履き、シャツを羽織って板金付きの革鎧を纏い、手甲と脛当てを身につける。放置されていた財布を乱暴にポケットに突っ込み、剣と盾を拾い上げ、背嚢を背負う。</p><p>そしてそこには、数分前と、見た目だけは何一つ変わらない、アレクセイの姿があった。</p><p>…………</p><p>鼻の頭をかきながら、気まずげに目を逸らしたアレクセイは、荒々しい動作で兜をかぶる。そしてそのまま面頬(バイザー)を下ろそうとしたが―動きを止めて、短く息を吐いた。</p><p>すっ、と。面頬にかけていた手を、そのままケイの前に差し出す。</p><p>―感謝する</p><p>逸らされることなく向けられた視線を、しかと受け止めながら、ケイはその手を握り返した。</p><p>アレクセイの握力は、強かった。</p><p>感謝される云われはない。俺は、俺が思ったことをしただけだ</p><p>……そうか</p><p>苦笑して、大剣を担ぎ直したアレクセイは、ケイたちに背を向ける。</p><p>……あんたには負けたよ</p><p>背中越しに、一言。ガシャリと兜の面頬を下ろし、ゆったりとした足取りで歩き始めた。</p><p>北へ。</p><p>涼やかな初夏の風が吹きつける中、その背中が段々と小さくなっていく。</p><p>結局、最後まで振り返ることなく、青年はひとり旅立っていった。</p><p>……さて、</p><p>黙ってそれを見送ったケイは、サスケの手綱を取り、兜をかぶり直す。</p><p>俺たちも、行くか</p><p>うん</p><p>言葉少なに頷いたアイリーンが、ひらりとスズカに飛び乗った。ホランドたちの呼ぶ声が聞こえる。出発の準備は整ったらしい。</p><p>―とんだ茶番だな。</p><p>などと、皮肉な想いが湧き出てきたが、不思議と悪い気はしなかった。</p><p>馬上、もう一度、ちらりと北を見やって。</p><p>隊商の皆に合流すべく、ケイも馬首を巡らせた。</p><p>†††</p><p>城門をくぐり抜け、一般市街のコーンウェル商会支部で給金を貰い、ケイたちの護衛としての仕事は完了した。</p><p>ひとり頭、小銀貨６枚に銅貨が少々。銅貨に換算してしまえば７０枚弱といったところか。</p><p>それが、隊商護衛をこなしたケイたちの、七日間につけられた値段だった。</p><p>粗食であれば一日の食費が銅貨３枚で賄えることを考えると、悪くない給料といえるだろう。アイリーンは途中から夜番に魔術を使い始めたので、その触媒代として特別手当が小銀貨２枚ほど上乗せされていた。</p><p>ちなみにホランド曰く、護衛任務で負傷した場合には、怪我の程度によって負傷手当なども出るらしい。</p><p>いや、今回はケイたちと働けてよかった。また機会があったら是非頼むぜ！</p><p>こちらこそ、色々と助かった。ありがとう</p><p>姫さんも元気でな！</p><p>そのうち会えるさ、またな！</p><p>ダグマルら護衛仲間たちは、仕事納めに呑みに行くとかで、給金を受け取るや否や連れ立って支部を出ていった。酒がないと生きていけないのか、と苦笑するケイであったが、アイリーンがぼそりと オレもウォッカ飲みたいな と言うのを聞き逃しはしなかった。</p><p>その後、ホランドと”大熊(グランドゥルス)“の毛皮の扱いについて簡単に話し合い、ケイたちも商会支部を後にする。</p><p>毛皮は好事家にかなりの額で売れると予想されているが、買い手が見つかるまで待つか、ある程度の値段で商会に売り払ってしまうか、ケイには二つの選択肢があった。前者はどれくらいの期間が開くか分からない代わりに売値が上がり、後者は買い叩かれる代わりにすぐ纏まった金が手に入る。</p><p>サティナで仕入れた情報によると、ウルヴァーンの図書館は入館料がそれなりに高くつくらしいので、極力早目に現金が欲しいケイとしては、即売り払う方向で話を進めている。</p><p>実際、どれくらい時間がかかるか分からんからな</p><p>全くだ。でも”大熊”の皮って、加工すりゃそこそこな防具になるよな？　使うってのもアリじゃないか？</p><p>俺は今ので大丈夫だ。アイリーンがいるなら、それでもいいと思うが</p><p>いや、オレもいいよ。……重いし</p><p>そんなことを話しながら、ホランドに教えてもらったお勧めの宿屋を目指して歩いていく。</p><p>夕刻、一般街を貫くメインストリートを、埋め尽くさんばかりに行き交う人々。買い物かごを抱えた女に、黒い貫頭衣を着込んだ奴隷、露天商との値引き交渉に勤しむ旅人風の男―。</p><p>サスケの手綱を引きながら、綺麗に整備された石畳の上を行くケイが気付いたのは、サティナやユーリアに比べ建物の背が全体的に高いことだ。城壁外縁部の建物から始まり、全てが基本的に三階建て以上の造りとなっている。そのせいか、中世ヨーロッパ風の街並みであるにも拘わらず、他の町に比べ何処となく先進的な雰囲気が漂っていた。</p><p>流石は”公都”、か……</p><p>おのぼりさんよろしく視線を彷徨わせているうちに、目的の宿屋へと辿り着く。デフォルメされた甲虫が、エールのジョッキを片手に首吊りしているユニークな看板―“HangedBug”亭だ。</p><p>入り口前で小間使いにサスケとスズカの世話を任せ、緑色に塗られた扉を開く。からんからん、とベルの音が鳴り、中の様子が目に飛び込んできた。</p><p>あら、こんばんは</p><p>ケイたちを出迎えたのは、綺麗に畳まれたシーツを手にした若い女だ。程よく日に焼けた小麦色の肌、肩までの亜麻色の髪をバンダナでまとめ、いかにも好奇心が強そうにくるくると動く黒色の瞳が可愛らしい。</p><p>食事、それともお泊り？</p><p>部屋を取りたい</p><p>ＯＫ、ちょっと待っててね</p><p>にこりと愛想のいい笑みを浮かべ、女はシーツを手に奥へと引っ込んでいく。“HangedBug”亭も、宿屋の例に漏れず、地上階は酒場兼食堂となっているようだ。ランプの明かりに照らされた大部屋には丸テーブルが並べられ、カウンターの内側にはグラスを磨く中年の男の姿があった。筋肉質な体格、ぼさぼさに広がった髭―ゲーム内には存在せず、おそらくこの世界も同様であろうが、ひと目見て あ、ドワーフだ と思わせられる見てくれだ。後で聞いたが、アイリーンも同じことを思ったらしい。</p><p>はいはい、お待たせ。それじゃあ……</p><p>戻ってきた女が、受付の帳簿を広げる。黒色の瞳が、ケイとアイリーンを交互に見つめた。</p><p>……相部屋でいいかしら？</p><p>……ああ</p><p>極力、気負わないように意識しながら、何でもないことのようにケイは頷く。隣にいるアイリーンの存在が、かっと熱くなるような、浮き上がるような、そんな錯覚を抱いた。</p><p>何日ほど泊られるご予定？</p><p>まだ決まってないんだが、逆に最低で何日から部屋を取れる？</p><p>別に一日でもいいわよ。ただ、一日ごとに延長はちょっと迷惑ね。一週間単位で取ったらちょっとお安くするけど？</p><p>そうか、それならまず一週間でお願いしよう</p><p>ん、ＯＫ。それじゃあ２０３号室ね</p><p>鍵を受け取り、部屋代と馬の飼料代をまとめて銀貨で支払う。 ごゆっくりー という女の声を背中に、ケイとアイリーンは揃って階段を上った。</p><p>２０３号室。</p><p>こじんまりとした、清潔感のある部屋だ。窓際の小さなテーブル、クッション付きの安楽椅子、鍵付きの木箱(チェスト)に、両サイドの壁に置かれた二つの寝台―ホランドが勧めてくれた通りに、家具などのグレードが他の宿屋に比べて高い。窓は雨戸が嵌っているだけの簡素な造りだが、通りの裏側に面しているため比較的静かな環境だ。</p><p>わっ、ベッドだ！</p><p>荷物を床に置いたアイリーンが、嬉しそうにベッドにダイブする。いつぞやのサティナの宿屋とは違い、ちゃんと詰め物がされていたので、アイリーンの身体はぽふんとマットレスに受け止められた。</p><p>あぁ～～～体が溶ける～ぅ～</p><p>ここんとこ、地面に布敷いただけだったからな</p><p>同じように荷物を下ろしながら、ほっと一息ついてケイ。ぐっぐっ、と程よい固さのマットレスの感触に、思わずその頬が緩む。行商の旅はなかなか楽しめたが、テントで眠り続けていたため身体中が凝り固まっていた。快適な寝床の存在は、素直に嬉しい。</p><p>素直に、嬉しい。</p><p>…………</p><p>いつの間にか、部屋の中には沈黙が降りていた。</p><p>テントのような布地ではなく、しっかりと壁と天井で構築された密閉空間の中にいる―そのことが、二人きりであるという事実を、改めて浮き彫りにしているように感じられた。目的地に辿り着いた安堵、達成感、高揚感、それらのもたらす気持ちの緩みもまた、そんな感覚に彩りを添えている。</p><p>装備を外したり、荷物を整理したり、雨戸の開閉の確認をしたり、と無駄に動き回って、その沈黙を誤魔化そうとするケイ。しかし、何を話すか迷っている間にも、空気は飽和へと突き進んでいく。</p><p>…………</p><p>とうとうすることがなくなって、ケイがちらりと視線をやると、枕を抱きしめてこちらを窺っていたアイリーンはまるで人形のように跳ね起きた。</p><p>ああ、そうだ</p><p>目があって、まるで思い出したかのように、ケイは口を開く。</p><p>その……ホランドの旦那に、聞き忘れたことがあった。ちょっと行ってくるが、いいか？　野暮用だからすぐ戻る</p><p>あ、うん、そう？　オレは全然いいケド</p><p>目をぱちくりさせながらも、枕を抱きしめたままアイリーンは小さく頷いた。</p><p>よし、それじゃあ行ってくる</p><p>鍵は預かっとくぜ～</p><p>任せた</p><p>ピンッ、と指で弾いたルームキーを、パシッと受け止めるアイリーン。</p><p>気を付けてな、行ってらっしゃい</p><p>ああ、またあとで</p><p>背中越しに笑いかけて、再びくつろぎモードで寝転がるアイリーンを尻目に、ケイは部屋を出て行った。</p><p>コツ、コツ、コツ……と、ブーツの足音が遠ざかっていく。寝転がったまま、アイリーンは注意深く、その音に耳を傾けていた。</p><p>―やがて、ケイが確実に宿を出たと思われる頃、アイリーンはおもむろに身を起こす。</p><p>ふむ、</p><p>腰に手を当てて、広くも狭くもない部屋を見渡すアイリーン。片隅に置かれた荷物に視線を落とし、続いて着ていたシャツを指で摘む。</p><p>……よし、着替えるか</p><p>誰に言うとでもなく。</p><p>アイリーンは荷物をひっくり返し始めた。</p><p>†††</p><p>既に暗くなりつつある道を早足で歩き、ケイは再び商会を訪ねた。</p><p>目的は、アイリーンに告げた通り、ホランドだ。</p><p>やあやあ、来ると思ってたよ</p><p>支部の片隅、商談用の小さな部屋。そわそわと落ち付かない様子のケイを、ホランドは朗らかな笑顔で出迎えた。</p><p>ならば、用件も分かっている、のかな</p><p>勿論だとも。コレだろう？</p><p>得意満面な様子で、ホランドは部屋に持参した小さな箱を開いて見せる。</p><p>その中に、真綿と共に収められていたのは、手の平サイズの四角い鏡だった。</p><p>おお……これか</p><p>そう。元々は、こっちを納品する予定だがね、客が『丸いのがいい』と言いだしたんだ。それで輸送していたのが、君らも見た丸い手鏡ってわけさ</p><p>成る程。それで、値段は？</p><p>細かい説明はどうでもいい、と言わんばかりのケイの食いつきに、ホランドは可笑しくてたまらないといった風に苦笑する。</p><p>銀貨２０枚―と言いたいところだが、身内のよしみで１５枚にまで負けておこう。ちなみにこれは原価に近いから、これ以上は負からないよ</p><p>いや、充分ありがたい。……どう支払おうか？</p><p>うーん、今ここで払って貰ってもいいし、毛皮の代金から天引きでもいい</p><p>……天引きでお願いしたい</p><p>現金はあまり使いたくない、という要望に、ホランドは快く答えた。</p><p>さて、ギフトラッピングは必要かね？</p><p>そんなものもあるのか。ぜひ頼む</p><p>にやり、と意味深な笑みを向けてくるホランドに、ケイは照れたように頬をかく。驚いたことに、近くの棚から包装紙やリボンを取り出したホランドが、手ずから鏡の入った木箱のラッピングを始めた。</p><p>……時に、旦那。“HangedBug”亭の近くで、どこかオススメのレストランはないだろうか。この際、金に糸目はつけず、良いディナーにしたいと考えているんだが</p><p>驚くほど器用に、かつ手際良くラッピングするホランドの手を眺めながら、遠慮がちにケイは尋ねる。</p><p>ん、レストランか……金に糸目はつけない、となると……いや、しかし君らは、ドレスとかは持ってないだろう？</p><p>う……残念ながら</p><p>貸衣装……は、サイズが合うのがないかもしれないし、ちょっともう遅いしな。気取らずに済む美味しい店といえば……うぅむ</p><p>“シェフ”としての本領発揮か、思わずラッピングの手を止めて真剣に考え始めるホランド。</p><p>……心当たりはあるが、問題は……Tu sais parler le francais？</p><p>唐突なホランドの言葉に、ケイはぴくりと眉を動かし、しばし目を泳がせた。</p><p>……Ouai, un petit peu</p><p>ほう、これは驚いた。なら問題ないね</p><p>高原の民の言語(フランス語)は話せるか、という問いに、少しだけ、と返したケイ。ホランドはいたく感心した様子で、何度も頷いている。</p><p>あ、ああ……だが何でまた急に？</p><p>“HangedBug”の裏側の通りにある、『ル・ドンジョン』というレストランなんだが、オーナーから給仕まで全員高原の民の出でね。それほど高くなく、抜群な味の料理を出す代わりに、ウチの言葉を話せない奴はお断りなんだ。君らも最初は断られると思うから、私の紹介だと言うといい</p><p>胸元からメモを取り出し、羽根ペンでさらさらと何かを書きつけるホランド。受け取ってみればホランドのサインと、フランス語で『丁重にもてなすように！』と書かれていた。</p><p>しかし多芸だね君は。いや、私とダグマルの会話が、それとなく分かってるみたいだったから、そうじゃないかとは思っていたんだが</p><p>それほど話せるわけじゃない。少しかじってる程度だ</p><p>肩をすくめて、控え目に答える。</p><p>幼少期より英語を学んでいるケイだが、VR機器の実用化後は、世界中の患者と交流するためその他のヨーロッパ言語も少しかじっていた。具体的にはフランス語、スペイン語、イタリア語が少々、ポルトガル語が最低限の挨拶といくつかの単語を知っている。ロシア語は手が出しづらく結局何も学ばないままだったが、現状、少しはやっておけばよかったと後悔しているのは内緒だ。</p><p>よし、これで出来た</p><p>ありがとう、完璧だな</p><p>小奇麗に飾り付けられた箱を手に、にこにことご満悦のケイ。ケイとはまた違った種類の笑みを浮かべたホランドは、励ますようにケイの背中を小突いた。</p><p>まあ、頑張りたまえ。Bonne(幸運を) chance(祈る)!</p><p>ハハッ、Merci bien(どうもありがとう)！</p><p>苦笑いしながら、箱を小脇に抱えて商会を後にする。</p><p>そして宿屋に戻る途中、このまま持って帰ってしまうとサプライズプレゼントにならないと気付いたケイは、どうにか隠そうと苦心した結果、腰の弓ケースの中に箱を収めることに成功した。</p><p>（許せ、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)”）</p><p>ケースの中で窮屈そうな相棒に、申し訳なさが募る。</p><p>戻ったぞー</p><p>宿屋にて。ケイが扉をノックすると、 お帰りー とアイリーンが鍵を開けた。</p><p>おっ</p><p>部屋の中のアイリーンを見て、ケイの目が一瞬点になる。</p><p>……着替えたのか？</p><p>うん</p><p>柔らかなランプの明かりの下、アイリーンは照れた風に微笑んだ。その身に纏うパウダーブルーのワンピースが、ひらりとケイの前で踊る。</p><p>……そんなの、持ってたっけ</p><p>えっと、実は、サティナで見つけてさ</p><p>微かに頬を染め、裾を撫でつけるアイリーンの上目遣いが、真正面からケイを射抜いた。</p><p>……似合ってるよ</p><p>……ありがと</p><p>えへへ、と笑うアイリーンを、ケイは最早直視できなかった。</p><p>その後、アイリーンに先に部屋を出て貰い、何とか鏡を隠した後、揃ってレストランへと出掛ける。</p><p>ル・ドンジョンは思ったよりも簡単に見つかった。お城の形をした看板が特徴的で、店の前にもでかでかと『Le Donjon』と書いてあったからだ。ホランドの危惧したとおり、一見さんお断りと言わんばかりに門前払いを食らいそうになったが、ホランドの書付を見せるとすんなりと中へ通された。常連と思しき客たちに奇異の目で見られつつも、案内されたのは小奇麗な個室。</p><p>ケイ、フランス語もイケるんだな！</p><p>……ちょっとだけな</p><p>控え目な言葉の割にドヤ顔のケイであったが、この後、メニューを手渡されて分からない単語のオンパレードに苦労する羽目となった。</p><p>取り敢えず最初に白ワインベースの食前酒(アペリティフ)を楽しみながら、パスタや子羊のグリル焼きなど、オーソドックスなメニューを注文する。オーダーから肝心の料理が来るまで随分と時間がかかり、その間にかなり酔っ払ってしまったが、その分クオリティは素晴らしいものだった。</p><p>前菜は生クリームと牛のひき肉、それに複数の香草を混ぜ合わせたムースだ。香り高く旨みの濃いソースが、舌の上で踊り食欲を掻き立てる。ケイはあっという間に平らげてしまったが、アイリーンはちまちまと名残惜しそうに食べていた。</p><p>続いて、パスタ。麺にコシがあり、ケイにありし日に食べた手打ちうどんを思い出させた。ケイの頼んだボロネーゼ風味と、アイリーンのカルボナーラ風味をそれぞれシェアしたが、どちらも申し分ない出来だった。特に、カルボナーラの方は、湿り気のある独特な香りの何かがふんだんに振りかけてあり、アイリーン曰くトリュフに似た食材ではないかとのことだった。</p><p>メインは子羊のグリル焼き。そしておそらくこれが、最も印象的な一品であった。一口食べ、二人とも動きを止めて、そのまま無言で完食してしまったほどに。羊であるにも拘わらず、まず肉に臭みが殆ど感じられない。ある程度の触感を維持しつつも柔らかく、噛み締めるごとに旨みが滲み出る。こってりと濃厚で、それでいてしつこさのない脂身。嚥下するごとに、もう一口、あと一口、と食べ進めてしまい、気が付けば皿の上には何も残っていなかった。</p><p>下拵えで、肉を念入りに叩いてるんだろうな</p><p>上品に口元をナプキンで拭いながら、そうじゃないとあそこまで柔らかくならない、とアイリーンは言う。確かに、ケイの方のグリル焼きには砕かれた骨の破片が混入していたので、アイリーンの推測は正しいのだろう。</p><p>デザートにはリンゴのタルト。頬っぺたが落ちそうになるほどの甘味は、勿論この世界において十二分に贅沢なものだ。そして、このところビールや葡萄酒など弱いアルコールにしか縁の無かったアイリーンも、ここぞとばかりに強めの蒸留酒を頼み、至極ご満悦の様子だった。</p><p>いやー美味しかった</p><p>また来ようぜ！</p><p>二人してほろ酔い加減のまま、良い気持ちで宿に戻る。今夜のディナーで銀貨が吹き飛んだが、それも仕方ないと納得のいく満足度だった。おそらく、またここに食べにくるのは確定事項といってもいい―ケイに至ってはル・ドンジョンで食事をすることを生きる目的にシフトしてもいい、とすら考えかけていた。</p><p>宿に戻ったあとは、交代で風呂に入る。地上階には、共用ではあるが小さな浴室が設けられているのだ。そしてこれが、ホランドが”HangedBug”亭を勧めた理由の一つでもある―まずはアイリーンが浴び、入れ替わりでケイがさっぱりと旅の疲れを洗い流した。</p><p>いやー良かった。満足、満足</p><p>ケイが部屋に戻ると、アイリーンはベッドの上でゴロゴロとしていた。風呂上がりで湿った金髪が、ケイの瞳には妙に色っぽく映る。服は再びワンピースをチョイスしたようで、微かに覗く太腿の白さが眩しかった。が、アルコールで適度に気が大きくなっていることもあり、ケイは何とか余裕を保つ。</p><p>サッパリした！　ホント良かったよ、お風呂があってさ</p><p>全くだ、俺、風呂なんて何年ぶりだったことか</p><p>タオルで髪の毛を拭きながら、しみじみと呟くケイ。 あっ という顔をするアイリーンに、すぐに今のは失敗であったと気付く。</p><p>ああ、そうだ、アイリーン。実はひとつプレゼントがあるんだ</p><p>あくまで、ふと思いついた風に、ケイは話題を変える。部屋の隅の荷袋から、おもむろに、例のラッピングされた箱を取り出した。</p><p>おっ！　何それ！　何それー！</p><p>ベッドで身を起こし、まるで幼い子供のように、テンション高めにはしゃぐアイリーン。その隣に腰を下ろしたケイは、 はい と木箱を手渡した。</p><p>……開けていい！？</p><p>当たり前だろ</p><p>何を当然のことを、と笑うケイの前で、アイリーンは慎重に、まるで爆弾を解除するかのように包装紙を剥がしていく。</p><p>そして、箱の中、真綿の下から姿を現す、鏡。</p><p>……！　鏡じゃん！</p><p>ケイと鏡を交互に二度見して、アイリーン。目をまん丸にして驚く鏡の中の自分と、しばし見つめ合ったまま、絶句する。</p><p>……鏡じゃん！</p><p>欲しがってただろう？</p><p>いや、マジで……？　やった！　ありがとう！　ありがとうケイ！</p><p>飛び上がらんばかりに喜びながら、鏡を手に、もどかしそうに、ありがとうの言葉を繰り返す。鏡を大事そうに箱の中に仕舞ったアイリーンは、満面の笑みを浮かべて、こちらに飛び込んでくる構えを見せた。</p><p>それを受けて、ケイが腕を広げると、体当たりするかのように抱きついてくる。ふわりと良い香りが漂い、一瞬視界が金色の髪で埋め尽くされた。</p><p>ありがとう！　マジで嬉しい！</p><p>どういたしまして、そこまで喜んでもらえたら、俺も嬉しいよ</p><p>小柄で華奢な体躯を、そっと抱きしめながら、ケイも相好を崩す。アイリーンは きゃー と声を上げながら、ケイの胸元にぐりぐりと額を押しつけていた。</p><p>しばらく、そのまま和気藹々と抱き合っていたが、</p><p>…………</p><p>やがて―沈黙が降りてくる。</p><p>優しく見守るようなケイと、慈しむように見上げるアイリーン。</p><p>……アイリーン</p><p>最初に、少しだけ、勇気を出したのはケイだった。ちゅっ、と祝福するかのように、アイリーンの額にそっと口づける。</p><p>くすぐったそうに体を震わせたアイリーンは、それに負けじと、背伸びをするかのようにケイの額に唇を這わせた。</p><p>同じ高さで、二人の物言わぬ瞳が、向かい合う。黒と青の視線が、絡まり合う。</p><p>…………</p><p>水が流れるかのように、引き寄せられるかのように。</p><p>キスを交わした。</p><p>ちゅっ、ちゅっと小鳥が啄ばむかのような。他愛のない、確め合うひと時。お互いの息がくすぐったく、心地よくて、笑いながらも、止めることはなく。</p><p>しかし、どちらかが、唇を甘噛みしようとして―密やかな均衡は破られた。</p><p>蕩かすような―。躊躇いは、一瞬だった。</p><p>もはや、二人を分け隔てるものは、何一つとして存在しない。</p><p>頭の芯がしびれるような感覚。まぶたの裏で星が散るような。互いが互いを求めて交わし合う。それは、鳥肌立つような官能だった。ずっと、ずっと、いつまでもこうしていたい―と。そんな願いはしかし、やがて呼吸の限界に阻まれる。</p><p>ぷはっ、と。まるで溺れかけていたものたちが、息継ぎに喘ぐかのように。互いに、みっともないほど、呼吸を乱していた。全力疾走を終えたあとのように、心臓は早鐘を打っている。</p><p>……アイリーン</p><p>華奢な体を、抱きしめる。とくんとくんと、自分と同じような早さの心音が、たまらなく愛おしかった。</p><p>止まらない、もう、止まれない。湧き上がる、燃え滾るような欲求の予感に、おののいた。</p><p>ケイ……</p><p>少し体を引き離して、アイリーンがケイを覗き込む。</p><p>透き通るような蒼い瞳は、無言のうちに語る。アイリーンもまた、震えていた。</p><p>ふっと、天井で揺れるランプに、アイリーンは不安げな目を向ける。</p><p>―と。</p><p>部屋の外、大気が動く。</p><p>窓の隙間から吹きこんだ小粋な風が、ランプの明かりを、優しくかき消した。</p><p>闇の帳が下りる。暗い―しかし、ケイの瞳は、全てを映し出す。</p><p>はっきりと、白く浮かび上がるような、狂おしいほどに愛らしい、ひとりの少女の姿を―</p><p>アイリーン</p><p>耳元で囁いて、そっと、その手を引き寄せた。</p><p>あっ……</p><p>もう、理由など、なかった。</p><p>二人はもつれ合うようにして、そのままベッドへ倒れ込む。</p><p>夜は―これからだった。</p><p>30. 受難</p><p>ゆうべはおたのしみでしたね？</p><p>小鳥のさえずりが聴こえる。</p><p>窓から差し込む朝日に、ケイはぼんやりと目を覚ました。</p><p>朝か昼かも分からない曖昧な意識、寝起き特有の倦怠感。なぜか左腕が痺れていて、ほとんど感覚がなかった。夢うつつのまま寝返りを打とうとしたところで、何かが半身に抱きついていることに気付く。</p><p>とても柔らかく、温かなもの―。</p><p>寝ぼけ眼でそちらを見やると、きらきら輝く青い瞳。ケイの左腕に頭を預けたまま、微笑むアイリーンとぱっちり目が合った。</p><p>……おはよ</p><p>微かに頬を紅く染め、照れたように視線を逸らす。はにかむ彼女を見て、昨夜のことが色鮮やかに脳裏に蘇った。ああ、そうか、自分たちは結ばれたのだ―と。そんな想いが、すとんと胸に落ちる。</p><p>……おはよう</p><p>無意識のうちに、ケイもまた口元を綻ばせていた。シーツから覗く肌色、裸の肩の上、ほどかれた金髪がさらりと流れる。吸い寄せられるように、半ば衝動的に、アイリーンの頬にそっと手を添えた。同じ人間でも、男女でこれほど違いが出るものか、と―指先に伝わるなめらかな感触に陶然とする。</p><p>心地よさそうに目を細めるアイリーンを見て、ふと芽生えた悪戯心のままに、背中から脇にかけてのラインを指でなぞった。くすぐったそうに身をよじらせたアイリーンは、甘い声を洩らしながら、お返しとばかりにケイの上に覆いかぶさってくる。</p><p>―そのまましばらくじゃれ合っていたが、既に日は高く、空腹と喉の渇きもあったため、いい加減に起き上がることにした。</p><p>ところで、大丈夫か？</p><p>麻のシャツを羽織りながら、ケイ。ベッドの上で髪をまとめようとしていたアイリーンが、髪留めの紐を口に咥えたまま小首を傾げる。</p><p>ふぁふぃふぁ(なにが)？</p><p>その……身体の調子とか</p><p>うん、悪くはないな</p><p>どこか含みのあるケイとは対照的に、至極あっけらかんとした様子のアイリーン。</p><p>……そうか、ならよかった</p><p>互いに経験のなかった者同士、色々と心配していたが、どうやら杞憂であったらしい。半ば拍子抜けした気分で、しかしほっと一安心しながら、ケイは微笑んだ。</p><p>髪を結い上げてポニーテールにし、ベッドの上でしなやかに背伸びをするアイリーン。一糸まとわぬ姿、という点を除けば、まさしくいつも通りの彼女だった。</p><p>不意に―</p><p>目の前のアイリーンも、その存在すらも、こ(・)ち(・)ら(・)に来てからの全てのことは幻ではないか―と、そんな漠然とした不安に駆られた。</p><p>実は自分は、今も生命維持槽に浮いたままで、知りもしない少女や健康な身体を夢見ているだけなのではないか、と。</p><p>無論、それはただの錯覚だ。</p><p>もしそうだったら怖いな、という子供じみた根拠のない恐れ。そういえば幼い頃は、目を覚ませば独りきりになっているのではないか、と不安でなかなか寝付けなかったことを思い出す。</p><p>今までどちらかといえば、マイナスを基準に浮き沈みするような人生だった。そのため魂まで染みついた仄暗い考えが、時たま顔を出してしまうらしい。あるいは、それは現実感を失ってしまうほどに、今のケイが幸せである証左なのかも知れないが―。</p><p>……うん？　どうした、ケイ</p><p>一瞬、遠い目をしたケイに、するりとシーツから抜け出したアイリーンが顔を覗き込んでくる。吸い込まれるようなサファイア色の瞳の中に、どこか心配げな光を認めた。</p><p>いや、</p><p>思わず、すがるようにして手を伸ばし、その肩を抱きとめる。目をぱちくりとさせながらも、アイリーンは何も言わないまま、されるがまま。</p><p>……どうしたの？</p><p>やがて、腕の中から、ケイを見上げる。</p><p>何でもない、と答えようとして、やめた。</p><p>急に不安になったんだ。何もかも夢なんじゃないか、って</p><p>体を離してそう言うと、眉を下げたアイリーンは、ケイの背中に手を回し逆にその身を引き寄せる。</p><p>オレも</p><p>こつん、とケイの胸板に額を当てて、くぐもったアイリーンの声。</p><p>オレも、たまに不安になるよ</p><p>……そっか</p><p>再び、抱き締める。感触を確め合うように。</p><p>それは、雪山で遭難した旅人たちが、互いの体温を分かち合うのに似ていた。</p><p>……ありがとう。もう大丈夫だ</p><p>やがて、ケイの方から体を引き離す。少しの名残惜しさと、冷静になって省みる気恥ずかしさと、傍にいてくれる人への感謝と―。それらが綯い交ぜになった末に、選び取ったのは、頬をかきながら視線を逸らすことだった。気まずいときや恥ずかしいとき、斜め上へと目を泳がせるのは、本人も気付いていない癖。</p><p>……うん</p><p>それを見て取ったアイリーンは、ただ、にこりと微笑んだ。素直なようでそうでもない、そんな彼のことを愛おしく思いながら―</p><p>しかし次の瞬間、眉をひそめたかと思うと、 へッきゅ と控え目にくしゃみをする。</p><p>おっと、その格好じゃ風邪引くぞ</p><p>今日は初夏にしては肌寒い日だ。慌ててシーツを引っ張ってくるケイに、 そうだな と笑うアイリーン。自然と、ふたりだけの世界は霧散してしまったが、しんみりとした空気もまた、消え去っていった。</p><p>……ところでアイリーン、今って何時頃なんだ？</p><p>さあ？</p><p>財布の中身を確認するケイの傍ら、服を着るアイリーンは動きを止めて、小さく首を傾げる。</p><p>オレが目を覚ましたときは、鐘が九つくらい鳴ってた。……けどもう１時間は経ってるよなぁ</p><p>３時間ごとに鳴らすんじゃないか？　この街は</p><p>あー。なるほど</p><p>木製の戸を開け放ち、太陽の位置を確認するアイリーン。</p><p>……１１時過ぎってトコか</p><p>まあ、そのくらいだろう</p><p>麻のシャツに綿のズボン、今日は肌寒いのでその上に革のロングベストを着込み、腰には”竜鱗通し”を収めた弓ケース、というお馴染みの街中スタイルで、ケイは手の中の部屋鍵をピンッと弾いた。</p><p>対するアイリーンは”NINJA”の黒装束で足元を固め、チュニックと革のベストといういつもの旅装で決めている。腰にはサティナで新調した短剣を差しており、サーベルや投げナイフなどの武装は、今は部屋の鍵付き木箱(チェスト)の中だ。</p><p>よし、顔洗ってから飯にしよう</p><p>入念に戸締りを確認し、部屋を出る。</p><p>……しかし、はっきり時間が分からないのって、思ったよりストレスだよなぁ</p><p>階段を降りながら、ぼやくのはアイリーンだ。特に用事があるわけではないのだが、正確な時刻が知りたいと思ってしまうのは、やはり現代人の性だろうか。</p><p>別に時間に追われてるわけではないが、気になるな</p><p>うん。時計欲しい……時計……</p><p>ぶつぶつと呟くアイリーンに、どうにも苦笑を禁じ得ない。</p><p>技術水準が比較的高い DEMONDAL 世界には、当然のように時計が存在する。時計塔のような大型のものに始まり、機械式の懐中時計は勿論のこと、時刻を表示する魔道具までその形態は様々だ。</p><p>しかしケイもアイリーンも、ゲーム内では一度たりとも時計を使ったことはなかった。</p><p>理由は単純、ゲーム内でいつでも呼び出せるメニュー画面に、常に時刻が表示されていたからだ。現実における時間と、ゲーム内の時間の両方。プレイヤーがアイテムとしての時計を必要とするのは非常に稀で、基本的にロールプレイのためのコスプレ用品か、あるいはNPCに対する贈り物としてのみ機能していた。</p><p>そう、機械式にせよ魔術式にせよ、時計は非常に高価だったが、一応それなりに需要もあったのだ。プレイヤーは殆ど必要としない時計を、逆にNPCたちは非常に有難がっており、プレゼントした場合の親密度の上昇は下級のお使い(クエスト)数百回分に匹敵するという。</p><p>キャラ育成の手間が省ける、上級者向けのアイテム。重課金戦士にして廃プレイヤーたるケイも度々世話になっていたが、 そうでもなきゃ使わねえだろこんなもん とアンドレイが笑っていたことを思い出し、どうにも皮肉な笑みを抑えられなかった。</p><p>時計か……どうにかして自作できないものか</p><p>宿屋の中庭、バシャバシャと顔を洗いながら、ケイ。ホランドに頼むにしても、時計を買うとなればかなりの出費を強いられることになる。自作できるのであればそれに越したことはないのだが―と、腰のベルトに引っかけていたタオルで顔を拭きつつ、ちらりとアイリーンに期待の眼差しを向けた。</p><p>……難しいな</p><p>対して、腕組みをするアイリーンは、渋い顔だ。</p><p>魔術式でも、やっぱり厳しいか？</p><p>いくつか問題がある。まず、詳しい作り方が分からない。次に、触媒が貴重で手に入り辛い。最後に、仮に作れたとしても、ケルスティンを使役する限り多分夜しか使えない</p><p>……うーむ</p><p>実際のところ、作り方は術式付与の応用でなんとかなると思う。『こっち』だとケルスティンも融通が効くからガッツリ呪文(スクリプト)組まなくていいし、触媒も運が良ければ見つかるかもしれないな。……でも、</p><p>日が暮れたあとしか使えない、ってのは、確かに痛いな</p><p>あるいは、夜番の為だけのものと割り切れば、需要はあるかもしれないが。</p><p>っつか、シーヴの方がいいんじゃね？　中位精霊だし</p><p>呪文の方は大体見当がつくが、風の精霊の時計ってのがイマイチ想像できないんだよな……。それに俺の場合だと、おそらく魔力が足りん</p><p>……時計作りで枯死ってのも、笑えない話だな</p><p>悟ったような顔のケイに、苦笑するアイリーン。結局、お金を溜めてから何かしらの時計を買った方が早い、という結論に達した。</p><p>アイリーンはしばし御手洗いに行くとのことで、先に一階の食堂へ。厨房で仕込みでもしているのだろう、タマネギ系のスープの濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。丸テーブルの並ぶそこは、中途半端な時間帯ということもあり、人影もまばらだった。</p><p>あら、こんにちは。お食事？</p><p>食堂に足を踏み入れると、布巾でテーブルを拭いていた若い女が愛想良く尋ねてきた。昨日ケイたちを出迎えた、小麦色の肌の美人だ。奥のカウンターには、黙々と樽から壺に酒を移しているドワーフっぽい男。どうやら酒場は、主にこの二人で回しているらしい。</p><p>ああ。昼食として簡単に食べられる物を二人分、あと水も頼む</p><p>簡単に、ね。チーズとハムのパニーニでいいかしら？</p><p>うむ。それで</p><p>OK、ちょっと待っててね</p><p>テーブルに着きながらオーダーすると、ぱちりとウィンクして奥へと引っ込んだ女は、すぐに陶器のピッチャーと木製のゴブレットを手に戻ってくる。</p><p>はい、どーぞ</p><p>ありがとう</p><p>水の注がれたゴブレットを手渡され、礼を言いつつ喉の渇きを癒す。一度杯を空けて、ピッチャーから水を注ぎ足しながら水分補給するケイを見て、むふっと何やら意味深な笑みを浮かべた女は、</p><p>昨夜はお楽しみだったみたいね</p><p>んぶゥ</p><p>ケイは鼻から水を噴き出した。</p><p>ばっ、なにをっ</p><p>ナニをって、ねえ。ここ床板薄いから</p><p>むせるケイをよそに、眼前、テーブルに肘をついた女はずいと体を寄せてくる。</p><p>ね、ね、お兄さん。あの金髪の娘とはどんな風に出会ったの？　草原の民と雪原の民のカップルだなんて、なんだかとってもロマンチック</p><p>うっとりとした表情、きらきらと好奇心に輝く瞳で顔を覗き込んでくる。しばらく咳き込んで、不意打ちからどうにか立ち直ったケイは、取り敢えず椅子ごと身を引いて距離を取った。</p><p>ゲーム時代に関わる話題は、今のところ最も突っ込まれたくない部分のひとつだ。アイリーンと話し合って、早急にそれらの『設定』を構築するべきかも知れないな、などと考えつつ、当座を凌ぐ為に口を開く。</p><p>……別に、どうということはない。数年前にとある町の酒場で知り合って、それ以来の仲だ</p><p>ふぅ～～～ん</p><p>ニマニマと笑いながら指先でテーブルをなぞる動きは、まるで次の一手を考えるチェスのプレイヤーのようだった。</p><p>ねぇ、それってどこの酒場？</p><p>ここから遥か彼方、遠く離れたところさ</p><p>……そう。ところで、雪原の民のお姫様を連れた草原の民の狩人が、南の村で”大熊(グランドゥルス)“を仕留めた、って噂を小耳に挟んだんだけど。何か知らない？</p><p>……さあな</p><p>耳の早いことで、と思いつつ投げやりに返す。ケイのやる気のなさが伝わったのか、 むっ と表情を曇らせた女は、続いてさらに問いかけようとするが、</p><p>ジェイミー、いい加減にせんかッ！</p><p>だみ声とともに、スパァンッと小気味よい音が響く。 いびゃッ！ と色気もへったくれもない声を上げて、女が飛び上がった。</p><p>痛ァッ何すんのよ！</p><p>何すんのもクソもあるかッ！　男漁りに精出す暇があるなら仕事をせんかッこのアバズレがッ！</p><p>涙目で尻をさする女―『ジェイミー』に対し、いつの間にかカウンターから出てきていたドワーフ風男が、手にしたトレイを振り上げて怒鳴る。どうやらアレで尻をはたいたらしい。</p><p>お客さんと親睦を深めてるだけなんですけど！</p><p>やかましい！　グダグダ抜かすんなら娼館に売り飛ばすぞッ！</p><p>ひぇぇごめんなさーい！</p><p>口答えを試みるも、ドワーフ風男の剣幕に脱兎の如く逃げ出すジェイミー。スカートをパタパタとはためかせながら、カウンターの奥の厨房へ引っ込んでいく。</p><p>ふぅ……</p><p>溜息を一つ、今度はぎょろりとケイを見下ろす。すわとばっちりかと顔を引き攣らせるケイであったが、 ほれ とドワーフ風男は左手に持っていた皿を無造作にテーブルに置いただけだった。</p><p>皿の上、パニーニの生地の隙間から、蕩けたチーズがはみ出る。</p><p>まったく、アイツは……目を離せば無駄話にうつつを抜かしやがる</p><p>……なに、客商売にはぴったりじゃないか</p><p>確かにその通りだが、愛想が良過ぎてもいけねえや。アイツは器量だけはいいからな。たまに勘違いする野郎が出てくんのさ……この間も一人……勿論ブッ飛ばしたが……</p><p>何を思い出しているのか、虚空を睨んで、まるで野犬が威嚇するように歯を剥き出しにして唸る男。</p><p>そ、それにしても、娼館に売り飛ばすってのは穏やかじゃないな</p><p>おっかない雰囲気に引きながらのケイの言葉に、男は鼻を鳴らした。</p><p>ふン。引き取った頃はなァ、まだ小さくて可愛げもあったもんだ。だがここんトコは色気づいてきていけねえ、無駄に身体ばかりデカくなりやがって、まったく……</p><p>自分の腰あたりの高さを示しながら、嘆いてみせる。引き取った―と言うからには、血のつながりがあるわけではないのだろう。しかし憎々しげな口調とは裏腹に、その表情は哀愁と優しさが入り混じったようなもので、ケイにはまさしく年頃の娘を持て余す父親のそれに見えた。</p><p>……まあいい。ご注文は以上で？</p><p>ああ</p><p>銅貨８枚</p><p>ぶっきらぼうな口調に戻る男。テーブルに銅貨を束ねて置くと、 毎度 とそれらを無造作に前掛けのポケットに突っ込み、のそのそとカウンターへ引っ込んでいった。ぎこちなく、足を引きずるような歩き方―。</p><p>よっと、お待たせー。これ何？</p><p>入れ違いに、アイリーンが食堂に入ってくる。</p><p>ハムとチーズのパニーニだそうだ。今来たばかりだからまだアツアツだぞ</p><p>いいな！　食べよう食べよう</p><p>いそいそとテーブルに着くアイリーン。 イタダキマース と嬉しそうにパニーニに齧りつくアイリーンを見ながら、早目の昼食と洒落込んだ。</p><p>†††</p><p>昼食後、身支度を整えた二人は、公都図書館のある高級市街区を目指して、街の中心部へと向かっていた。</p><p>ケイとアイリーンがウルヴァーンを訪れた理由は、二人が『こちら』の世界に転移した原因を探ること。</p><p>すなわち、ゲーム内に発生した謎の白い霧や、その他の超常現象にまつわる情報を公都図書館で収集することにある。</p><p>問題は入館料がいくらになるか、だな</p><p>……ああ</p><p>頭の後ろで腕を組んで歩くアイリーンの言葉に、懐の財布のずっしりとした重みを感じながら、ケイは頷いた。</p><p>公都図書館は、表向きは、貴賎の関わりなく誰に対しても開放されている。が、その代わり入館料がかなり高めに設定されており、実質的に利用できるのは貴族や裕福な商人、知識階層などに限定されているのだ。</p><p>世知辛い話だが、これは必ずしも悪いことではなく、裏を返せば利用者の質が一様に高いことを示す。また話によると図書館は、そういった知識階層の社交場(サロン)としても機能しているらしい。</p><p>貴族はさておくとしても、学者や商人などの存在は、ケイにとってもかなり魅力的だ。そういった知識人に接触を図れば、より効率良く情報を収集できるのではないか―とケイは期待している。</p><p>さて、となれば一番の問題は、やはり馬鹿高いと噂の入館料だ。具体的にいくらかかるのか―ウルヴァーンの住民たちに聞き込みを試みたが、そもそも一般人は図書館にさほど興味を抱いておらず、入館料がいくらなのかを具体的に知る者はいなかった。</p><p>というわけで、今回ケイは、手持ちの現金を全て持ってきている。金貨一枚に、銀貨が数十枚。粗食に甘んじれば、大の大人が十年は食い繋げられる額だ。</p><p>流石に、これだけあれば足りると思うんだがな……</p><p>不安げに呟きながらも、つい周囲の通行人へ必要以上に警戒の目を向けてしまうケイ。全財産を持ち歩いているのはいつものことだが、今は街中ゆえに武装を解除しており、どことなく心細い。</p><p>財があれば襲われる前提、襲われれば武力で制圧する前提で思考が回るあたり、ケイも大分この世界に馴染んできている。おっかない雰囲気を漂わせるケイに、逆に通行人の方が足を速めて、逃げる様にその場から去っていく始末だった。</p><p>ケイ……もうちょっとリラックスしろよ、それじゃ逆に怪しいぜ</p><p>むっ。普通にしてるつもりだったんだが</p><p>臨戦モードに突入しつつあるケイを、呆れ顔で諌めるアイリーン。全く自覚のない様子を見て（重症だな……）という思いを強くするが、ここ二週間の経験を振り返り、それもやむを得ないことかも知れないと思い直した。</p><p>（平和ボケするよりマシか……）</p><p>むしろアイリーン自身が、街中だからという理由で気が緩みつつあったことを自覚し、改めて気を引き締める。</p><p>そんなこんなで、無駄に切れたナイフのような空気を纏う二人であったが、公都の中心で真昼間から暴漢が出現するはずもなく、そのまま高級市街への入り口である第一城壁に辿り着いた。</p><p>ぐるりと市街を取り囲む、分厚い強固な城壁。城門から垣間見える、一般市街よりも洗練された石と煉瓦の街並み。壁の高さは六メートルほどだが、ウルヴァーンは岩山の斜面に築かれているので、下方に位置するケイたちからは体感的にもっと高く感じられた。</p><p>五十メートルごとに間隔をおいて設けられた城門には、もれなく落とし格子と鋲打ちされた木製の大扉が備え付けられ、斧槍(ハルバード)と細剣(レイピア)で武装した衛兵が二人ずつ、城壁の外を行き交う市井の民に鋭い視線を向けている。</p><p>大勢の人々で賑わう一般区に対し、城壁の近くは、まるで波が引いたかのように閑散としていた。近寄る者がいない―というべきか、城門を抜ける者も殆ど見受けられず、城壁を隔てた向こう側には、まるで別の世界が広がっているかのようだ。それを奇妙に思いつつも、ケイたちが城門をくぐり抜けようとすると、</p><p>止まれ</p><p>両脇の衛兵が斧槍を交差させて行く手を遮った。</p><p>目を引く赤色の衣の上に金属製の胸当てを装備し、派手な羽根飾りのついた兜は、面頬が仮面のように目元を覆い隠す造りになっている。その奥から覗く瞳が、威圧的にケイたちを見据えた。</p><p>見慣れぬ者だな</p><p>一級市街区へ、如何なる用か</p><p>訝しむ様子を隠しもしない、何処となく傲岸な態度。怪しまれる覚えのないケイとアイリーンは、きょとんとして顔を見合わせる。</p><p>……図書館に行こうとしているだけなんだが</p><p>ふむ、</p><p>ケイの顔、アイリーンの顔、ケイの弓ケース、アイリーンが腰に差す短剣、といった風に視線を動かした衛兵は、おもむろに口を開いた。</p><p>―許可証、あるいは身分証を提示せよ</p><p>えっ</p><p>同時に困惑の声を上げたケイたちは、再び顔を見合わせる。</p><p>図書館に行くのに、身分証が必要なのか？</p><p>一級市街区に入れるのは、市民及び許可を得た者に限られる</p><p>マジか……</p><p>また、仮に身分証があったところで、特別な許可なしに武装を内側に持ち込むことは、まかりならんぞ</p><p>事務的に、そして有無を言わせぬ口調で、交互に説明する衛兵二人組。まさか、図書館に入る前に足止めを食らうとは想定外だった。 えー…… と硬直したままのケイとアイリーンに、衛兵たちは呆れた様子で姿勢を崩す。</p><p>……そもそも、草原の民と雪原の民が、公都図書館に何の用がある</p><p>先住民と辺境の蛮族に、文字を読む風習があったこと自体が驚きだな。それにしても、城門をくぐり抜けたところで、お前たちに入館料は払えるのか？</p><p>片方の年配の衛兵は疑念を滲ませる声で、もう片方の若い衛兵は嘲るような口調で。困ったように、表情を曇らせたケイは、おもむろに片手を懐に突っ込んだ。</p><p>図書館の入館料ってのは具体的に幾らなんだ？　聞いて回ったんだが、知ってる人がいなくてな</p><p>年間、銀貨五十枚だ</p><p>ケイの問いかけに、 どうだ払えまい とばかりに胸を張る若年の衛兵。兜のせいで口元しか見えていないが、ドヤ顔をしているのが手に取るように分かった。</p><p>成る程……</p><p>懐からもったいぶって財布を抜き出し、わざとらしく中身を確認する。</p><p>払えない額じゃないな</p><p>大きく膨れた巾着袋、その口から覗く金と銀の色に、二人の衛兵が動きを止めた。ふふん、と二人の反応を堪能してから、ゆっくりと見せつけるように、再び財布を懐に仕舞い込む。</p><p>……。見かけによらんもんだ</p><p>やがて、ぼそりと年配の衛兵が呟いた。彼らが意表を突かれるのも無理はない、日本で言うならば、みすぼらしい身なりの若者がいきなり懐から数百万円の札束を取り出したようなものだ。</p><p>現状、ケイもアイリーンも服飾には全く金をかけていない。ケイの方は飾り気のない肌着と、防具としても機能する革のロングベスト。アイリーンに至ってはタアフ村で譲り受けたお古の農村娘スタイルだ。せめてケイが革鎧を含むフル装備であれば話は別なのだが、この状態では貧乏人と見られてしまっても致し方ない。</p><p>……まあ、金があるのは分かった。が、それと城門を抜けることとは、別問題だ</p><p>呆気に取られた状態から再起動を果たした若い衛兵が、やや憮然とした様子で言い切った。袖の下でも要求されれば―と考えていたケイは、己の考えが甘いことを悟る。</p><p>なあ、身分証とか許可証ってのは、どうやったら取れるんだ？　要は素性の分からない奴は入れられない、ってことなんだろ？</p><p>その時、静観していたアイリーンが、衛兵二人に無邪気に問いかけた。</p><p>……許可に関しては、我々の関知するところではない。役所に行くことだな</p><p>先に答えたのは、年配の衛兵。</p><p>役所ってーのは何処に？</p><p>城壁に沿って南に行けばいい。ここからだと歩いて十分もかからないだろう。赤煉瓦の建物で、おそらく入口に人が並んでるから、見ればすぐに分かる筈だ</p><p>分かったよ、ありがとうオッちゃん！</p><p>……なぁに、いいってことよ</p><p>アイリーンの特上の笑顔を向けられて、年甲斐もなく照れた風の衛兵。美人は得だな、などと他人事のように思いつつ、ケイも礼を言ってから、その場を辞した。</p><p>……で、どうする？</p><p>しばらく歩き、衛兵たちから離れたところで、ボソリとアイリーン。</p><p>……まあ、行ってみるしかないだろう</p><p>だな。それにしても証明書がいるだなんて聞いてないぜ……</p><p>誰か教えてくれてもよさそうなもんだが</p><p>……ホントに必要なのか？　もしかしてオレたち、体よく追い払われた？</p><p>その可能性も否定できんが……</p><p>聞き込みを試みたここの住人は勿論のこと、ホランドら隊商の面々にも、ウルヴァーンを訪れた目的が図書館であることは話している。にも拘らず、高級市街に入るために許可証が必要であることは、誰一人として口にしなかった。</p><p>……しかしいきなり騙そうとするもんかな</p><p>怪しいと思われたのか、……単純に性格が悪いのかも知れないぜ？　ここの連中、なんつーか余所者に冷たいカンジがする</p><p>少し、ふてくされたように頬を膨らませて、アイリーンが言う。それに対しケイは唸るのみで、口には出さなかったが、それは無言のうちの肯定だった。</p><p>先ほどの衛兵の若い方もそうだが、ウルヴァーン市民は、どことなく余所者を見下している感がある。聞き込みの際も、ケイたちとは殆ど目を合わせず、返答も投げやりでぶっきらぼうだった。公都の民であるという自尊心からなのか、はたまた単純に排他的なだけなのか。サティナに於いても、“戦役”の記憶から、草原の民を毛嫌いしている住人は度々見かけられたが、ここはそれに輪をかけて酷いという印象だ。</p><p>例外的に、余所者と接することが多い宿屋の従業員や、客商売に関わる商人は一様に愛想がいい。が、裏を返せば、それ以外は―</p><p>―あんまり、居心地の良い街じゃなさそうだな</p><p>オレたちには、な</p><p>ふぅ、と溜息をつくアイリーン。随分とブルーな様子だ。ひょっとすると、生まれで差別されるのに慣れていないのかもしれないな、とケイはふと、そんなことを思った。</p><p>あまり愉快でないお喋りに興じているうちに、衛兵の言っていた役所に辿り着く。</p><p>木造と石造の建築物が混在する中、赤煉瓦で統一された役所は特に目立っていた。入口付近には衛兵が立っており、扉の上には小さなウルヴァーンの旗が翻っている。赤地に竜の紋章―煉瓦然り、衛兵の装備然り、この色はウルヴァーンの象徴なのかもしれない。</p><p>入口からはみ出る形で、そこには十数人の市民が列を為していた。彼らに奇異の目を向けられながらも、最後尾に並ぶ。</p><p>そして待つ。</p><p>…………</p><p>ただ、待つ。</p><p>（……。暇だ）</p><p>このとき、二人の見解は一致していた。</p><p>当たり前だが、このような事態は想定していなかったので、暇潰しになるような物は何も持ってきておらず。</p><p>かといってすぐ近くには他人がいるので、踏み入った話もし辛い。</p><p>『―よし、精霊語(エスペラント)で話そう』</p><p>『いいな！』</p><p>切り出したケイに、アイリーンは一も二もなく乗ってきた。</p><p>『……で、何の話？』</p><p>『まあ、図書館について、かな』</p><p>突如として謎の言語での応酬を始めたケイたちに、周囲はさらに奇異の目を向けたが、二人とも気付かない。</p><p>『実際のところ、オレ、あのくらいの壁なら越えられるぜ？』</p><p>顎で第一城壁を示しながら、アイリーン。高くそびえ立つ、白塗りで凹凸もない壁だが―ゲーム時代のアンドレイの能力を思い出し、ケイはさもありなんと頷いた。アイリーンは今でも鉤爪付きのロープを持っている筈だ。</p><p>『それは最終手段だな』</p><p>『ダメか？』</p><p>『悪くないが、俺も入りたいしな』</p><p>『上からロープを垂らせばイケるんじゃね？』</p><p>『夜なら大丈夫か？　しかし、図書館が開くまでかなり待たないと……』</p><p>『うーん……そうだな。オレだけならいいケド、明るくなったあと、ケイが何処に隠れるかが問題だ……』</p><p>英語よりも貧弱な語彙を互いにもどかしく思いながら、ああだこうだと侵入計画について話し合う。そのお蔭で待ち時間もあっという間に過ぎ、三十分ほど待ってから、ケイたちの番となった。</p><p>……次ー</p><p>役所の中に入ると、区分けされた幾つかの受付のうち、疲れた様子の痩せぎすな男がケイたちを呼んだ。</p><p>粗末な腰かけが一つしかない受付。取り敢えずアイリーンを座らせ、ケイはその横に立つことにする。受付の男は胡散臭げに、じろじろと不躾な視線を向けてきた。</p><p>……用件は？</p><p>図書館に行きたいんだが、身分証も許可証もないので一級市街区に入れない。証明書取得の為に詳しい情報が欲しい</p><p>……</p><p>コツコツ、と指先で机を叩く男。</p><p>ということは、公国内で有効な身分証の類はない、と？</p><p>ない</p><p>そうか。ならばそれはウチの管轄じゃない。住民管理局に行け</p><p>えっ</p><p>ここは市庁、市民の為の役所だ。異邦人(よそもの)に対しては業務を行う権利も義務もなくてな。……というわけで、次ー</p><p>いや、ちょっと待ってくれ。その住民管理局ってのは何処にあるんだ？</p><p>話を打ち切られそうになったところで、慌ててアイリーンが話に割り込む。</p><p>……城壁沿いに東へ行けば、ウチと似たような建物がある。まあ、分からなければ付近の住民に聞くことだ。</p><p>どんくらい歩けばいい？</p><p>……十分もせずに着くだろう。さほど遠くはない</p><p>一級市街区に入るのに身分証がいる、ってのは確かなんだよな？</p><p>……ああ、戦時を除いて、規則は皆に平等だ。例えそれが王であったとしても</p><p>へえ。ところで、身分証取るのに何か注意しておく事とか―</p><p>おいッいい加減にしろテメェらッッ！！</p><p>続けてアイリーンが問いかけようとしたところで、背後から怒鳴り声。振り返る間もなくドスドスと足音が近づいてきて、ケイもアイリーンも乱暴に押しのけられた。</p><p>ゴツい体格をした、中年の男。アイリーンの代わりにどっかと椅子に腰を下ろし、ギロリとこちらを睨みつける。</p><p>人様を待たせておいて、いつまでも喋ってんじゃねえぞ！　ここは市民の為の場所だ、余所者はお呼びじゃねえ！　とっとと出て行けッこの蛮族どもが！</p><p>言うだけ言って、中年男はアイリーンに向かってペッと唾を吐き捨てた。反射的に飛び退り、すんでのところでそれを回避したアイリーンであったが、 こンのッ……！ と眉を吊り上げて逆に睨み返す。</p><p>……なんだその目は。あァ？</p><p>それが気に食わなかったのか、椅子を蹴倒してやおらアイリーンに手を伸ばす中年。しかし、一歩前に進み出たケイが、その手首をがっしりと掴んで放さない。今度は中年の視線がケイに向く。</p><p>なんだ？　テメェ、やんのかコラ</p><p>手を振りほどきながら、挑発的に語気を荒げる中年。ケイよりも少しだけ背が低いが、その代わりに恰幅が良い。この腕の筋肉の付き方―肉体労働者のそれだ。おそらく、腕っ節にそれなりの自信があるのだろう。</p><p>が、ケイはそれに構うことなく、黙って壁を顎でしゃくって見せる。</p><p>受付の真横に、大きな張り紙がしてあった。そこにでかでかと書かれているのは―</p><p>―『諍い事　厳禁』、だそうだ。張り紙も読めないのか？</p><p>ケイの冷めた言葉に、張り紙へ目をやった中年は、 ぐっ、ぬっ と言葉にならない呻き声をあげて一、二歩下がった。</p><p>しばし、張り紙とケイの間で何度も視線を往復させては、何かを言おうと口をパクパクと動かす中年。しかし、幾ら待っても何も言わないので、突発的に言語障害でも発現したのかと疑い始めたところで、</p><p>……読めないんじゃね？</p><p>ボソリと、アイリーン。</p><p>……ああ、</p><p>それで、ケイも合点がいった。</p><p>本当に読めないのか。なら仕方ないな……</p><p>確かに『こちら』の世界は、中世のヨーロッパよりは豊かで、技術も遥かに進んでいる。が、だからといって、識字率が百パーセントというわけではない。特に平民であれば、文字が読めない者も一定数いることだろう。</p><p>納得してうんうんと頷くケイを前に、中年男は顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている。</p><p>俺としては、単に『目に入っていないのか』ぐらいの意味だったんだが……</p><p>もういいよ、行こうぜ。あ(・)ん(・)ま(・)り(・)待(・)た(・)せ(・)ち(・)ゃ(・)悪(・)い(・)し、時間の無駄だ</p><p>それもそうだな。というわけで、失礼した。では</p><p>受付の男に目礼し、これ以上トラブルが大きくなる前に、とケイたちは足早に役所を出ていく。</p><p>男は拳を握りしめたまま、その場でいつまでもぷるぷると震えていた。</p><p>†††</p><p>その後、城壁沿いに歩き、“住民管理局”なる場所に向かったケイたちは、再び列に並んで一時間ほど待ち、異民族向けの許可証の取り方を問い合わせた。</p><p>が。</p><p>結果として分かったのは、許可証にせよ身分証にせよ、現時点での取得は非常に難しいということだった。</p><p>まず、許可証。これは主に、一級市街区で働く使用人や業者の人間に与えられるもので、発行権は王を含む貴族位に属している。</p><p>つまり、許可証が欲しければ貴族に頼むしかない。</p><p>そして当たり前だが、ケイたちに貴族のツテはない。現段階では実質的に不可能な方策といえた。</p><p>あるいは、これからケイたちが自分たちを貴族に売り込み、士官するなり私兵になるなりして取り入ることは可能かもしれないが、時間がかかる上に確実性はない。また、これまでの道中で散々アイリーンがその美貌を『買われ』そうになっていたことも考えると、ケイ個人の感情としては、余り試したくない方針だ。何が起きるか分からない。</p><p>では、翻って身分証はどうか。</p><p>身分証とは基本的に、都市ごとに発行されるもので、これの獲得は即ち市民権の取得と同義だ。身分証が発行された時点で、行政上の一個人としての権利が保証されるが、代わりに納税やその他義務も発生する。例えば、ウルヴァーン市内で露店を開きたいならば、市民権が必須であり、売り上げのうち数パーセントを租税とはまた別に納めなければならない。</p><p>さて、その市民権の獲得方法だが、―これがまた複雑であった。少なくとも、法律や不動産関係の語彙に限界のあるケイが、途中で理解を放棄したくなる程度に。</p><p>ウルヴァーンにおける、市民権獲得の条件を大まかにまとめると、</p><p>・会話可能な英語力、税制を理解するに足る教養、最低限の読み書きの素養</p><p>（これは異民族に対する規則）</p><p>・向こう一年間は、ウルヴァーンの都市圏内に住居が確保できていることの証明</p><p>（家屋の権利書、借家の賃貸契約書、居候の場合は大家の認可書がこれにあたる。ただし、宿屋は除くものとする。また野宿も認められない）</p><p>・三年間分の租税の前払い、あるいは四年以上のウルヴァーン市への士官経験</p><p>（士官経験として、貴族の私兵や傭兵の場合は、雇用主の証書が必須）</p><p>・公国内において犯罪歴がないこと</p><p>（一部の衛兵の詰め所で、無犯罪証明書が発行可能。足が付いたレベルの犯罪者ならば、この段階で弾かれる）</p><p>・五人以上のウルヴァーン市民の推薦状</p><p>（身元保証人としての性格が強い）</p><p>これらに加え、性別や年齢、出身や身分、貴族の推薦状の有無、ウルヴァーン市民との妻帯など、様々な条件が重なることで取得の難易度が若干変動する。ちなみにケイたちの場合、出身が草原の民あるいは雪原の民とされるので、どうしても審査の基準が厳しめになるそうだ。</p><p>その夜。</p><p>“HangedBug”亭に戻って夕食を取ったケイたちは、疲労感に苛まれながらも、部屋でダラダラと話し合っていた。</p><p>まあ……英語力はまず問題ないし、無犯罪証明書も大丈夫だろ</p><p>うむ</p><p>租税の前払いも……イケるよな？　ケイ</p><p>そうだな。“大熊”の毛皮の収入も入ってくるし、足りなければ宝石も売ればいい</p><p>となると……問題は、</p><p>住居の確保と、</p><p>市民五人からの推薦状、か……</p><p>ずっしりと、その言葉が重く二人の胸に圧し掛かる。</p><p>住居にせよ推薦状にせよ、不可能ではないだろう。ホランドあたりのツテを辿れば、案外何とかなるかもしれない。しかし、この排他的な街ウルヴァーンにおいて、その道程が平易なものでないことは、火を見るよりも明らかだった。</p><p>―これは面倒くさい。</p><p>何とも言えない憂鬱に襲われたケイは、腰かけていたベッドにどさりと身を投げ出して寝転んだ。すると、窓際で夜風に当たっていたアイリーンが、おもちゃを見つけた猫のように突撃してくる。</p><p>もうちょっと奥行って</p><p>お、おう</p><p>ケイを壁際に追いやり、背中を預ける様にして、すっぽりと腕の中に収まる華奢な体躯。</p><p>…………</p><p>しばし沈黙が、部屋を支配する。</p><p>……取り敢えず明日、ホランドの旦那でも訪ねてみるか</p><p>うん……</p><p>体の前に回されたケイの腕を、そっと掴んでアイリーンは息を吐いた。対するケイは、無意識のうちに美しい金髪を撫でながら、茫洋とした目つきでランプの灯りを眺めている。</p><p>ぼんやりと―。</p><p>ゆったりと―。</p><p>……なんかもう、どうでもいいなー</p><p>不意に。</p><p>アイリーンが、そんなことを言い出した。</p><p>ややこしいし、疲れるし。やっぱり調べ物なんて止めて、サティナに戻るってのはどうだろ。ケイは狩人で……オレは、リリーの護衛でもして……</p><p>ケイと同じ方向を向いたまま―表情を隠したまま、言葉を続ける。</p><p>別に、転移の理由なんて分からなくても、生きて、いけるしさ……</p><p>ケイは、悟った。</p><p>話す時が来た、と。</p><p>……なあ、アイリーン</p><p>頭を撫でる手を止めて、アイリーンの肩を掴む。そのまま反応される前に彼女の身体をくるりと転がして、自身に向き合わせた。</p><p>強引なケイに動揺して、微かに目を見開くアイリーン。</p><p>なっ、何</p><p>アイリーン。……お前は、どうしたい？</p><p>揺れる青の瞳を、まっすぐに見据える。</p><p>この世界に残りたいのか。……あるいは、帰りたいのか</p><p>どくん、という鼓動の音を、聴いた気がした。</p><p>……オ、レは</p><p>平素からは考えられないほど、弱々しく声を震わせたアイリーンは、ケイの視線に耐えきれなくなったかのように目を伏せる。</p><p>オレは……</p><p>沈黙を受け取ったケイは、華奢な体をそっと抱きしめた。</p><p>……俺は、アイリーンが一緒に居てくれたら、嬉しい</p><p>静かに、しかしはっきりと、ケイは告げる。胸元でアイリーンが、はっと息を呑むのが分かった。</p><p>でも、……やっぱり、アイリーンに決めて欲しい。このあと……どうしたいのかは</p><p>アイリーンは、押し黙る。だがケイはそれでも、言葉を続けた。</p><p>俺とお前じゃ、状況が違い過ぎるし、そのせいでアイリーンが悩んでるのは、分かってる。何故『こっち』に来たのかも分からないし、帰るためにはどうすればいいのかも分からない。普通の人間なら、不安で、悩むのは、当たり前のことだと思う。</p><p>俺は、……少なくとも俺は、元の世界に帰るつもりはない。けど、それでも自分が『こっち』に来た理由だけは、知っておきたいんだ。ただの”偶然”や”奇跡”なんて言葉じゃ、今回のことは、説明しきれないと思うから……</p><p>……うん</p><p>こくりと、小さく、頷いた。</p><p>それで、原因とか、帰る方法とか、……そういうのが全部分かってから、アイリーンにも決めて欲しい</p><p>ゆっくりと、頭を撫でる。</p><p>決めるのは、それからでも遅くない。だから……それまで、一緒に居よう</p><p>―できれば、それからも。</p><p>その言葉は、口に出さずに。</p><p>うん。……うん</p><p>腕の中で何度も頷くアイリーンは、いつしか、涙声になっていた。</p><p>今のケイには、何も言わずに、ただ抱きしめることしかできない。</p><p>―傲慢だろうか。</p><p>ある種の孤独の中で、ケイはひとり、物思いに沈む。</p><p>仮に―</p><p>今ここで、元の世界の全てを捨てて、自分と共に生きてくれ、と。</p><p>熱烈に訴えかければ、おそらく彼女は、それに応えてくれるだろう。</p><p>しかし。</p><p>それでいいのか。強制していいのか。自分の願いを、ただ彼女に押し付けていいのか。</p><p>うっ……っく……</p><p>悩み、苦しみ、涙を流す彼女を前に、答えは明らかだった。</p><p>これから先。</p><p>生きていくうえで、いつか必ず、何かを後悔する日がやってくるだろう。</p><p>ならば、そのときはせめて、―納得のいく形で後悔してほしい。</p><p>ケイは、そう考える。</p><p>このまま流れに任せ、この世界に留まることを選択すれば、アイリーンは必ずそれを後悔することになる。</p><p>今は良い。二人で幸せに暮らせる。だが十年後は？　二十年後は？　どうだろうか。</p><p>その時になって行動を起こそうとしても、もう遅すぎるのだ。</p><p>今しかない。</p><p>『決める』には―まだ決めていない、今しかない。</p><p>悩みに悩んで、考えに考えて、それで一つの答えを選びとれば、いつか後悔するにしても、そこにはある種の『納得』があるはずだ。</p><p>アイリーンには、そうしてほしいと、ケイは思う。</p><p>―その『答え』が、“自分と共に生きること”であれと、祈りながら。</p><p>（……とんだ自己満足だ）</p><p>心の中で、嘲笑う。『自嘲』と呼ぶには、あまりに狂おしい感情。</p><p>アイリーンに強制したくない、と言いつつも、本心では彼女が自らの手で、帰るという選択肢を捨て去ることを期待しているのだ。</p><p>そうすれば―自分が後悔せずに済むから？</p><p>自分本位、わがまま、あるいは―これを傲慢と呼ばずして、何と呼ぼう。</p><p>しかし、それでも。</p><p>アイリーンにそうして欲しいと、ケイは願う。</p><p>（もしも―）</p><p>瞳を閉じて、考える。</p><p>（アイリーンが、帰ることを望んだなら―）</p><p>そのとき―そのとき、自分は―</p><p>オレさ、</p><p>いつの間にか、泣きやんでいたアイリーンが、口を開いた。</p><p>正直、帰りたいのかどうかは、今でも分かんないんだ</p><p>怯える様に、涙を湛えた瞳が見上げる。ケイは、黙って頷いた。</p><p>……四人家族でさ。パパと、ママと、お姉ちゃんと……みんな優しくって。でも、</p><p>もぞ、と寒さを堪える様に、アイリーンは身体を丸める。</p><p>ケイも、薄々察してると思う、けど。オレ、小さいころ、体操やってたんだ。……けっこう上手くてさ、ジュニアの大会で優勝したこともある。もしかしたら、オリンピックに出れるかも、って……オレ、ずっと頑張ってたんだ。頑張ってたんだ……</p><p>明るくなっては、暗く沈む。そんな、不安定な口調。</p><p>でも、……事故でさ。足、なくなっちゃった</p><p>はは、と乾いた声で、笑う。</p><p>嘘みたいだろ。ドラマみたいな……オレも信じられなくって。もう……ダメだ、って。昔、クローン技術で移植、みたいなの、あったじゃん。だから、それに賭けてみようかなって思ってさ。テスターになろうか、とか、色々やってみようとしたけど……宗教的な問題とか、条約とかで禁止されちゃったし。時間だけは経って、身体の感覚はズレちゃうし……それでさ、ある日、『あ、もうムリだな』って。一度思っちゃったら、もうダメでさ。それからずっと、引き籠ってた</p><p>ケイの胸に顔をうずめたまま、しかし淡々とした声で。少しの間、アイリーンは黙っていた。</p><p>……『かつてないほどのリアリティ』</p><p>やがて、ぽつりと。</p><p>……この売り文句に飛びついたのって、ケイだけじゃないんだぜ</p><p>ふっと、顔を上げた。</p><p>痛々しいほどに、儚い微笑みだった。</p><p>……でも、ケイに比べたら、オレなんて全然だよ。ずっと、自分の事、悲劇のヒロインか何かだって、思ってた。……でも、『こっち』に来た日に、ケイの話を聞いて、オレ、……オレ、</p><p>そんなことはない</p><p>アイリーンの言葉にかぶせる様にして、ケイはその身を強く抱きよせた。</p><p>……そんなことはない</p><p>耳元で、繰り返す。アイリーンは、ケイを抱きしめる力を少し強くしただけで、他には何も言わない。</p><p>ケイは、何かを得る前に、全てを失った。</p><p>アイリーンは、自らが勝ち取ったものを、打ち砕かれた。</p><p>―どちらが苦しいだろう。</p><p>純粋に、思う。</p><p>究極的には、体験していないのだから、二人の例を比較することはできない。</p><p>だが―想像することは、できる。</p><p>……つらかったな</p><p>ぽつりと、ケイが呟くと、アイリーンは何も言わずに、ぎゅっと抱きついた。</p><p>強く。強く―。</p><p>…………</p><p>それからしばらく、黙っていた。</p><p>……だから、オレ、帰るのが怖いんだ</p><p>ぽつぽつと、アイリーンはその想いを吐露する。</p><p>でも……パパにもママにもお姉ちゃんにも、もう、二度と会えないのも、悲しくて</p><p>ふるふると震えていたアイリーンは、恐る恐るといったふうに顔を上げた。</p><p>……まだ、迷ってて……全然、決められない、けど……</p><empty-line/><p>溢れんばかりの涙を湛えた瞳が、ケイを見つめる。</p><p>答えが出るまで、いっしょに居てくれる？</p><p>―迷う暇など。</p><p>ああ</p><p>力強く、頷いた。</p><p>一緒に居よう</p><p>その囁きは、魂からの叫びだった。</p><p>……ありがとう</p><p>儚い笑顔は、涙の彩りとともに。</p><p>どちらからともなく、唇を重ねた。</p><p>ゆったりと―</p><p>奥底にまで触れ合うような。</p><p>心休まるひと時。</p><p>しかし今日は、二人ともが疲れ果てていた。</p><p>やがてどちらからともなく、健やかな寝息を立て始める。</p><p>夜風が吹きこみ、ランプの灯りをかき消す。</p><p>闇の帳に覆われた部屋は、ただ、穏やかさに満ちていた。</p><p>31. 大会</p><p>明くる日。</p><p>一晩ぐっすりと眠り、割と元気の出てきたケイたちは、気分を切り替えてコーンウェル商会を訪ねていた。</p><p>やあやあ、お早う二人とも。用事があると聞いたけど？</p><p>商館の一室で待たされていると、ほどなくして忙しげにホランドが姿を現した。何でも近日中に、隊商が再びサティナへ発つそうで、その準備の合間を縫って話を聞きに来てくれたらしい。</p><p>忙しいところ申し訳ない、実は―</p><p>恐縮しつつも、ケイは自分たちの現状―市民権も許可証も持たないが故に、第一城壁が越えられないことを相談した。すると、</p><p>……なんてこった。知らなかったのかい？　市民権のこと</p><p>しばし、呆けたように目を瞬かせ、ホランドは思わずといった様子で苦笑した。</p><p>……うむ。あいにくと、身の回りに知らせてくれる人がいなくてな</p><p>渋い顔で腕組みをするケイに、ホランドはさらにその苦笑の色を濃くする。</p><p>いやはや、申し訳ない。キミらは『上』からの指示で、特別に護衛として参加したもんだからね。私を含めて、多分隊商の全員が、何らかの伝手を持ってるものと思い込んでたんだろう</p><p>ああいや、そのことに文句が言いたかったわけじゃないんだ</p><p>控え目に謝るホランドに、自身の発言が皮肉とも取れたことに気付きケイは狼狽した。</p><p>―でさでさ、旦那。オレたち、どうしたらいいと思う？　税金とか住居とかは何とかなると思うんだけどさー、市民権取るには市民の推薦状とやらが必要らしいじゃん</p><p>空気が気まずくなる前に、すかさず口を挟むアイリーン。</p><p>そう……だねぇ。推薦状かぁ</p><p>旦那、書いてくれない？</p><p>いや、残念ながらそれは出来ない。書類上は、私はサティナの住人だからウルヴァーンの市民権は持ってないのさ</p><p>茶目っ気たっぷりにお願いするアイリーンに、ホランドもまたおどけた様子で肩をすくめてみせる。</p><p>そっかー、残念。出来ればだけど、他にお願いできそうな人、紹介して貰えたら嬉しいなー、なんて</p><p>ふーむ。それよりも、キミらに限っては、……もっといい方法があるかもしれないよ</p><p>ニヤリと笑みを浮かべて、ホランドは声をひそめた。</p><p>実は近々、ここウルヴァーンで、武闘大会が開かれることになったらしい</p><p>……“武闘大会(トーナメント)”？</p><p>そう。アクランド公国、ひいては諸国から勇士を募り、その武勇を競い合わせる。見事優勝した者には”公国一”の栄誉を、そうでなくても入賞すれば、賞金とウルヴァーンの名誉市民権が与えられるとか何とか……</p><p>ほう……</p><p>でも、そうなると、また闘うことになるのか？</p><p>感心したように頷くケイの隣、アイリーンは表情を曇らせる。彼女を巡って、ケイがとある脳筋戦士と決闘する羽目になったのは、記憶に新しい。</p><p>や、ケイの場合は、射的部門に出場すればいいんじゃないかな。剣や槍、馬上試合とは違って、出場者同士が直接戦うことはない筈だから</p><p>アイリーンの懸念を正確に汲み取ったホランドは、安心させるように微笑を浮かべた。</p><p>射的部門(シューティング)というからには、弓以外も？</p><p>ああ。前回、武闘大会が開かれたのは、十五年も前のことだけど、その時は弓矢に十字弓(クロスボウ)、投石紐(スリング)に至るまで、多種多様な遠距離武器が”射的”で一括りにされていたよ。基本的にやることは一緒、的当てだからね</p><p>成る程</p><p>尤も、優勝者は弓やクロスボウの使い手ばかりで、スリングは予選を突破することすら難しかったらしいけど</p><p>ということは、スリングが不利になるようなルールが？</p><p>いや、単純にここら一帯はスリングの使い手が少ないんだよ。だから弓に比べると、全体の水準がどうしても低くなりがちなんだ。貧しい村ではまだ現役と聞くけど、基本的に兵士も狩人も弓を使うからねえ</p><p>弓やクロスボウに比べると見栄えも悪いため、わざわざスリングで大会に挑む者は少ない、とホランドは言う。</p><p>投石紐(スリング)は遠心力で石や鉛玉などを打ち出す、シンプルな構造の紐状の武器だ。弓に比べると生産が容易で、道端に落ちている石ですら弾として即座に利用できるという強みがある。それでいて射程は下手な弓よりも長く、その威力も決して馬鹿には出来ない。振り回して投擲するという性質上、扱いにはある程度の習熟を要するが、入手が簡単ということもありゲーム内では無法者(アウトロー)御用達の武器であった。</p><p>拳大の石を長距離から投擲できるスリングは、投擲物そのものに質量があるため、例え鎧で身を固めていても命中すれば必ずダメージが通る。骨折、内臓破裂、あるいは武具の損壊。弓と違って片手で放てるため、使い手自身が盾を装備できるのも大きな利点だ。</p><p>馬上では扱い辛いという欠点もあるものの、集団で運用された場合、それは時として弓以上に猛威を振るう。こと打撃力という一点において、スリングは弓を圧倒するポテンシャルを秘めているのだ。</p><p>―尤も、板金鎧はおろか盾すらブチ抜く”竜鱗通し”は、そのさらに上を行く例外中の例外であるが。</p><p>（そういえば、PK(プレイヤーキラー)には、よく石投げられてたな……）</p><p>目を細めて、ケイは懐かしげにゲーム時代の思い出を反芻する。</p><p>投石、とだけ聞くとやはりチャチな印象を受けてしまうが、スリングに習熟したプレイヤーの放つそれはもはや砲弾に等しい。特に”隠密(ステルス)“に長けたプレイヤーの投擲は脅威の一言で、“受動(パッシブ)“をほぼ極めたケイですら、回避が間に合わず馬から叩き落とされたのは一度や二度ではない。</p><p>“受動”を不得手とするアンドレイはもっと酷い目にあってたな……、などと考えていたところで、コンコンとドアをノックする音が、ケイを現実に引き戻した。</p><p>お茶がはいりましたよ～</p><p>トレイの上にマグカップを載せて、部屋に入ってきたのは浅黒い肌をした幼い少女―ホランドの娘、エッダだ。</p><p>やあ、エッダ</p><p>おおー、元気してたか？</p><p>うん！　お兄ちゃん、……とお姉ちゃんも、ひさしぶり！</p><p>ケイの方を向いて、無邪気に笑うエッダ。久しぶり、とはいうものの、最後に顔を合わせてからまだ三日と経っていない。しかしこの数日で、アイリーンとの距離感が決定的に変わり、また役所を訪ね回ったことで様々な経験も積んだ。数日といえども濃密な時間―隊商で過ごした一週間が、随分と昔のように感じられるケイであった。</p><p>カップをテーブルの上に置いたエッダは、何を思ったのか、そのままケイの腕の中に潜り込んでくる。当然のように膝の上に収まるエッダに、ホランドが お話の邪魔にならないよう、部屋を出なさい と、何やら小言めいたことを言い始めたが、ケイは穏やかにそれを宥めた。</p><p>所詮は子供のすることだし、何よりも彼女は顔見知りだ。お茶汲みが終わったからといって、出ていけというのも酷な話ではないか。</p><p>ケイとしてもエッダは嫌いではないし、アイリーンも子供好きだから問題はない筈―そう思って隣を見ると、アイリーンは、大人の余裕とでもいうべき美しい微笑を浮かべていた。対するエッダは少し頬を膨らませて、そんなアイリーンを見返している。</p><p>はて、これはどうしたことか、と。そこに、正体不明の危機感を見出したケイであったが、それについて深く考える前に、 それじゃあ とホランドが口を開いた。</p><p>何はともあれ、ケイが大会に出るならまず入賞は堅いだろう。というわけでこの件に関しては、支部長に私から話を通しておくよ。参加資格として、ウルヴァーン市民一人の推薦が必要になるからな</p><p>また推薦、か</p><p>ケイの口の端が皮肉に吊り上がる。ここまで徹底していると、もう笑うしかない。</p><p>まあ街としても、大会にかこつけて、ならず者が流入してきたらたまらないからね。支部長も”大熊(グランドゥルス)“を仕留めたキミに直接会ってみたいと言っていたし、ここらでひとつ有力者とのつながりを持っておくのも、悪くないんじゃないかな？</p><p>いや、素晴らしい提案だ。何から何まですまない、ありがとう</p><p>どういたしまして。まあ私は、あと三日もすればウルヴァーンを出る……だから明日明後日までには、日程を調整しておくよ</p><p>この程度のことはなんでもない、と愛想のいい笑顔を浮かべて、カップを手に取ったホランドは一口茶をすすった。</p><p>……お兄ちゃん、何かの大会に出るの？</p><p>ああ。武闘大会に、射的部門でな</p><p>目を輝かせるエッダに、軽く頷いてみせる。決闘とは違ってただの的当て競技大会なので、ケイとしても気楽なものだ。</p><p>へぇ、すごいすごい！　いつ出るの？</p><p>膝の上でキャッキャとはしゃぐエッダ、問われたケイは答えに窮し、助けを求めるようにホランドを見やった。</p><p>えーと、旦那。詳しい日程とかは？</p><p>とりあえず、数日中に大会の開催が公布される、って話だったね。それから出場者がウルヴァーンに集う時間も鑑みて……まあ一ヶ月後といったところかな</p><p>一ヶ月か……</p><p>ケイとアイリーンは顔を見合わせる。</p><p>（（長いな……））</p><p>想像以上に、期間が開く。尤も、大会が公布されたあとに、各地から有志たちがウルヴァーンに集う手間を考えれば、このぐらいが妥当な時間かもしれない。</p><p>（どうやって過ごしたものかな……）</p><p>ケイは考える。この世界に来てから二週間と数日。二十余年の歳月に比べれば、ごくごく短い期間ではあるが、今までの人生を振り返っても指折りに密度の濃い日々であった。</p><p>だが、『ウルヴァーンに辿り着く』という第一目標を達成してしまった今、一ヶ月もの余暇をポンと渡されて―だだっ広い草原の真ん中に放り出されたかのように、呆然としてしまった感がある。隣のアイリーンのぼんやりとした表情を見るに、おそらく彼女も同じような気持ちなのだろう。</p><p>―ところで、ケイたちは図書館にどんな用事があるんだい？　今まで、公国一の図書館を見てみたい、と願望を言う人はたくさん見てきたけれども、そのために実際に市民権を取ろうとする人までは、流石にいなかったよ</p><p>何の気なしに、ごく自然な態度で、ホランドはケイたちに話を振る。しかしそれは言外に、そこまでして図書館で何を調べたいのか、と尋ねているかのようであった。</p><p>ちら、と隣に目をやると、 別にいいんじゃね？ と言わんばかりに、小さく肩をすくめるアイリーン。</p><p>短い付き合いだが、共に旅したことで、ホランドが人を陥れるような性格ではないことは分かっている。性格の善し悪しと、そこから生じ得る悪影響の有無は別問題だが、―ここは話しておくべきだろうな、とケイはおもむろに口を開いた。</p><p>……実は、俺たちは二人とも、遠い場所からやってきた異邦人なんだ</p><p>ゲームや異世界といった概念はぼかしつつ、順を追って説明する。白い霧に入り、そこで記憶が途絶え、気が付けば『こちら』の草原にいた―。</p><p>―というわけで、俺たちの身に何が起きたのか。ここは、俺たちの故郷からどれだけ離れているのか。あるいは、帰る方法はあるのか。それらの手がかりを、図書館で探したいと思う</p><p>よくよく考えれば、タアフ村でもこのことは既に話しているのだ。言ってしまえば何のことはない、などと思いつつ、テーブルの上のマグカップを手に取る。鼻腔をくすぐる、まろやかな香り―おや、これはカモミールかな、と当たりをつけた。以前、何かの機会にVRショップで飲んだことがある。</p><p>うーむ……それはなかなか、突飛な話ではある</p><p>髭を撫でながら、何かを考えるように開けっ放しの窓を見やるホランド。しばらくそのまま考え込んでいたが、やがて諦めたような顔でケイたちに向き直った。</p><p>……しかしまぁ、キミたちなら、あり得るかも知れないな</p><p>ここは、 DEMONDAL に限りなく似た世界。魔術も、奇跡も、超常現象も、その存在が客観的事実として認識されている。転移についても、話としては突飛だが、決して有り得ないとは言い切れない。</p><p>ひとまず、ホランドはケイの言うことを信用すると決めたようだ。</p><p>白い霧の異邦人(エトランジェ)、か……。図書館には、伝承や魔術、呪術について専門に取り扱う部署もあると聞く。何か手掛かりが見つかるといいね</p><p>……ねえねえ、お兄ちゃん</p><p>そのとき、エッダがくいくいと、ケイの袖を引っ張った。</p><p>わたし、知ってるよ。その”霧の異邦人”のお話</p><p>腕の中から自分を見上げる少女に、ケイは意外な思いで視線を落とす。</p><p>本当か？</p><p>うん。北の大地の東に、いつも霧が立ち込めてる深い森があって、その森から出てくる『人』は、どこか遠い場所から、霧の中に紛れこんでしまった人なんだって……</p><p>初めて聞いたな。マリーの婆様に教えて貰ったのかい？</p><p>ううん</p><p>興味深げなホランドの問いかけに、エッダはふるふると首を振る。そして、その可憐な唇から飛び出したのは、</p><p>アレクセイのお兄ちゃんに教えて貰ったの</p><p>衝撃的な事実に、ケイとアイリーンの動きが止まった。</p><p>……アレクセイ？</p><p>うん。北の大地ってどんなトコなのか聞いたら、その時に……</p><p>マジかよ……</p><p>頭を抱えたのはアイリーンだ。隊商護衛の間、情報収集のためにアレクセイから色々と話を聞いていたが、先祖や家族の自慢話、自身の辺境での武勇伝など、心底どうでもいいようなものばかりだった。</p><p>（肝心なことが聞き出せてないじゃん！！）</p><p>よもや、ここまで身近なところに、重要な手掛かりが転がっていようとは―どうせなら自分たちの境遇について詳しく説明しておけばよかった、と後悔するも、時既に遅し。</p><p>価値観がズレまくりで面白くもない長話に、延々と付き合っていた自分は何だったのかと、アイリーンは全身から力が抜けていくのを感じた。</p><p>他に何か聞いてないか！？</p><p>ズルズルと椅子からずり落ちていくアイリーンをよそに、勢い込んで尋ねるケイ。その食いつきっぷりにまんざらでもない様子で、エッダは得々と、アレクセイから聞いた話を語り始めた。</p><p>北の大地の東に広がる、悪魔の森―またの名を”賢者の隠れ家”。</p><p>十歩踏み込めば気が狂う、とまで言われる、霧に覆われた不気味な世界。</p><p>そこに巣食う得体の知れない化け物と、アレクセイの祖父の体験談。</p><p>そして、かつて霧の中から現れたという、異邦人の伝承。</p><p>ケイとアイリーンの興味を引くには、充分すぎる話だった。</p><p>その、異邦人って部分を詳しく頼む</p><p>うーん……ごめんね、そこのところは、あんまり聞いてないの</p><p>ケイに詳細を求められると、打って変わって元気を失くすエッダ。やはりダメか、と思わず失望が顔に出るケイに、 ごめんね…… と目に見えて落ち込んでしまう。</p><p>いや、気にしないでくれ、重要な手掛かりであることには違いないんだ</p><p>うーんとね、んーとね……あ、ひとつだけ、その異邦人から伝わるお歌は聴かせて貰ったよ！</p><p>どんな？</p><p>名前は……なんだったっけ。おばあちゃんは憶えてるかもしれないけど。えっとね、でもメロディは憶えてるの</p><p>目を閉じて、静かにメロディラインを口ずさみ始めるエッダ。</p><p>正直なところ、大して期待はしていなかったのだが―その、哀愁漂う物悲しい旋律を聴いて、ケイとアイリーンは全身が鳥肌立つのを感じた。</p><p>“Greensleeves”……！</p><p>二人の口から零れた名に、エッダが目を見開く。</p><p>そうそう、その名前！　二人とも知ってるの！？</p><p>興奮気味のエッダだが、ケイたちは声もなく、愕然と、顔を見合わせるのみ。</p><p>“Greensleeves”―地球では、世界的に有名な曲だ。</p><p>ケイもよく知っている。まだ小学校に通っていた頃、放課後に鳴っていた下校の音楽だった。そして、VR世界で英語を学び始めてから、イギリス人の友達に歌詞を教えて貰った曲でもある。忘れるはずがない。</p><p>ケイ……</p><p>蒼褪めた顔で、アイリーンがこちらを見る。ケイも、信じられない気分だった。今しがたのアレクセイ云々が吹き飛ぶほどの衝撃。いくら英語やロシア語が普通に使われている世界だからといって、全く同じ旋律の曲が偶然作曲されるわけがない。</p><p>そう、これは明らかな痕跡。</p><p>地球出身の誰かが残した、足跡だ。</p><p>期待が、確信に変わる。北の大地には―“霧の森”には、何かがある。</p><p>その様子だと、……故郷の歌か何かかね？</p><p>尋常ならざる様子のケイたちに、興味深げな目を向けるホランド。半ば、心ここに在らずで、ケイは曖昧に頷いた。</p><p>俺たちの故郷では、広く知られている歌だ……</p><p>そうか……</p><p>マグカップを傾けながら、ホランドが想像するのは、ケイたちの故郷だ。草原の民―に見えなくもないケイと、明らかに雪原の民の系譜と分かるアイリーン。異民族、異人種である彼ら彼女らが、普通に交流し合い同じ文化が共有される、その『故郷』とは如何なる場所であろうか―と。</p><p>……どうしよう。今すぐアレクセイのヤツを追いかけたくなってきた</p><p>うーむ、そうだな</p><p>渋い顔のアイリーンに、ケイも腕組みをして考える。</p><p>奴と離れてから三日か……馬ならすぐに追いつけるんじゃないか</p><p>アイツ徒歩だしな。大会まではどの道１ヶ月あるんだろ？　なら―</p><p>いや、ちょっと待ってほしい</p><p>アレクセイを追跡する方向で話がまとまりかけたところで、ホランドが止めた。</p><p>正直に言わせて貰うと、今から追いかけるのは現実的じゃない</p><p>ん？　でも、オレたちの馬、足はなかなか速いぜ？</p><p>それでも、三日のロスは痛い。ウルヴァーンから北の大地へは、大小合わせて五本も道があるんだ。……彼がどの方向に去って行ったか、キミらは知ってるかい？</p><p>……アイリーン、アイツの故郷って何処だ？</p><p>ケイが問いかけると、アイリーンは斜め上へと目を泳がせた。</p><p>ひ、ひがしのほう……</p><p>…………</p><p>ダメだこりゃ、とケイとホランドの視線が交錯する。</p><p>一口に東といっても、北東か南東かで随分変わる。……北の大地は広いからね</p><p>……冷静に考えれば、奴が真っ直ぐに故郷に帰った確証もないしな。エッダは他に何か聞いてないか？</p><p>ん～。聞いてない</p><p>そうか……</p><p>こんなことなら、もっと詳しく聞いときゃよかった……</p><p>頭を抱えて、机に突っ伏するアイリーン。しかし、ここでケイは閃いた。</p><p>いや待て、諦めるにはまだ早い。魔術で 追跡 すれば……！</p><p>おお、なるほど、キミらにはその手があったか！</p><p>喜色を浮かべるケイ、ぱんと膝を打つホランド。が、ギギギギと音がしそうなほどゆっくりと顔を上げたアイリーンは、半眼でケイを見やる。</p><p>ケイ。アレクセイの所持品、何かひとつでも持ってるか？</p><p>…………</p><p>決闘の後、報酬としてアレクセイから全財産を渡されそうになったが―それを断ったのは他でもない、ケイだ。その結果、 追跡 の魔術の触媒になる、アレクセイに所縁のある品は、武具はおろか銅貨一枚、髪の毛一本すら持っていない。</p><p>持っていない。</p><p>こんなことなら、何か受け取っておけばよかった……！！</p><p>今度は、ケイが頭を抱える番であった。</p><p>†††</p><p>結局、現実的ではないという理由で、アレクセイの追跡は取りやめとなった。</p><p>ホランド曰く、明日から夏至の祭りが始まるそうで、今のウルヴァーン周辺は人の出入りが非常に激しくなっているらしい。そしてそれが人探しの難易度をさらに上げているとのことだった。</p><p>ケイたちとしても、あれほど潔い別れ方をした以上、これからアレクセイを追いかけて再会するのは、いかにも間が抜けているし気まずい。また、わざわざアレクセイに拘らずとも、他に雪原の民を探して話を聞くという手があるのも大きかった。</p><p>膝の上のエッダと戯れつつ、ケイはホランドと支部長との面談についての話を詰め、ついでに決闘で折れた剣の代わりと、携行できるタイプの時計を探している旨を伝えた。</p><p>―懐中時計が欲しい？　全くブルジョワだねキミたちは</p><p>私も砂時計で我慢してるのに、とホランドは呆れたように笑っていたが、ケイたちに支払い能力があるのは確かなので、手配することを約束してくれた。今回の時計は少しだけ値引きして貰う代わりに、未だ買い取り先が確定していない”大熊”の毛皮の売値から天引きではなく、ケイが現金で払うことになっている。金貨一枚程度であれば、払えないことはないだろう。</p><p>最後に、商会系列の腕の良い鍛冶屋を教えて貰ってから、ケイたちは”HangedBug”亭へと戻っていった。</p><p>いやー、思わぬ展開になったなぁケイ</p><p>一階の酒場。アイリーンは少々疲れた様子で、だらしなくテーブルに肘をついた。</p><p>時刻は、午前１１時を回ったところか。商会を訪ねたのが８時過ぎだったので、少なくとも二時間はホランドと話をしていたことになる。</p><p>忙しいところ邪魔して済まなかったな―と思うケイであったが、長剣や高価な時計の手配など、自分自身が下手な客より金払いが良いことを思い出したので、それ以上は気にしないことにした。</p><p>ああ。まさかあのアレクセイが―雪原の民が、鍵を握っているとは思わなかった。いずれにせよ、大きな収穫だ</p><p>弓ケースの位置を直しながら、ケイも椅子に腰を下ろしてほっと一息つく。エッダのお蔭で新たな手掛かりは得たが、『転移について図書館で調べる』という当初の目標に変わりはない。ホランドも言っていたが、現段階の情報のみで北の大地に乗り込むのは性急過ぎる。ウルヴァーン周辺に住む雪原の民から伝承について聞きだしつつ、さらに学術的観点から図書館で調査を進めるのが得策だろう。少なくとも、漠然と『転移』について調べるよりは、ずっと効率よく情報が収集出来る筈だ。</p><p>…………</p><p>しばし、席に着いたまま、二人とも沈黙する。</p><p>目をやるのは、酒場の片隅。</p><p>奥の席に陣取って、テーブルに薄紙や木材、細工用の小刀などを雑多に並べ、何やら工作に勤しんでいる若い女―ジェイミーだ。</p><p>喉が渇いたので早く注文を取りに来てほしいのだが、ジェイミーはケイたちが酒場に入ってきたことにすら気付く様子がない。薄紙を切ったり、木を糊付けして紐で縛ったり、一心不乱に手元に意識を集中させている。今はドワーフ顔の店主の姿もなく、オーダーするならば彼女しかいないのだが、あまりにも一生懸命なので声をかけるのが躊躇われた。</p><p>テーブルに両手で頬杖を突いたアイリーンが、にやりとケイに笑いかける。遠慮で声をかけないケイとは違い、気付かない彼女を面白がる構えだ。ケイも、若干気持ち悪いのを承知で、アイリーンの真似をして両手で頬杖を突く。</p><p>そのままジェイミーに視線を注ぐこと数分。</p><p>うん、できたっ</p><p>独りドヤ顔で、惚れ惚れと自身の力作を手に取るジェイミー。完成したのは、木枠に薄紙を張り合わせたシンプルな構造の直方体だ。薄紙は切絵のように、所々がデフォルメされた動物の形に切り取られており、その絵柄が何処となく稚拙なことと相まって、ケイに幼い頃に小学校で作った紙製の灯篭を連想させた。</p><p>小刀を置き、ジェイミーは様々な角度から満足げに作品を眺めている。が、斜め下から抉り込むようなアングルで見ようとしたときに漸く、テーブルで頬杖を突いたままのケイたちの姿に気づいた。</p><p>ホワッ！？</p><p>奇声とともに体をのけぞらせ、椅子から転げ落ちそうになるジェイミー。そしてなぜか作品を手に持ったまま、ズドドドドと凄い勢いで駆け寄ってきた。</p><p>いっ、いつから……！？</p><p>……うーん。五分くらい前？</p><p>だな</p><p>うんうん、と頬杖をついたまま二人が頷くと、 イヤー！ と声を上げてジェイミーは手の灯篭で顔を隠す。微かに覗く頬が紅い。</p><p>ごめんなさい、気付かなくて……ご、ご注文は！？</p><p>何か軽くつまめる物と、……俺は葡萄酒の水割りにでもしようかな。アイリーンは？</p><p>オレはりんご酒で</p><p>OKOK、ちょっと待ってて～！</p><p>近くのテーブルに灯篭を置いて、ジェイミーは逃げるようにして厨房の奥へと引っ込んでいった。</p><p>（普段は強気な娘が恥じらう姿か……イイな）</p><p>先日、夜の音の件でからかわれ、そのときは何と図々しい娘だろうと思ったものだが、恥じらいの心はあるらしい。平素がハキハキとしているだけに、新鮮な感覚だ。</p><p>最近は悪い虫が―と、嘆いていた店主のことを不意に思い出す。</p><p>（俺もアイリーンがいなければヤバかったかもな）</p><p>ギャップ萌えというヤツか。いずれにせよレアなものが見れた、と満足げなケイであった。そんなケイをよそに、アイリーンは放置された灯篭に興味津々の様子だ。</p><p>はい、お待たせ～。葡萄酒の水割り、りんご酒、それとカナッペね</p><p>しばらくして、皿とカップを満載したトレイと共に、ジェイミーが戻ってきた。</p><p>やあ、これはまた豪勢なものが来たな</p><p>テーブルに置かれたカナッペの皿に、思わず感嘆の声が洩れる。一口サイズに薄く切られた堅いパンの上、チーズや野菜、ハムなどが色取り取りに盛り付けられていた。注文を取ってから偉く時間がかかるな、と思っていたのだが、これを作っていたのなら納得だ。</p><p>サービスよ、サービス</p><p>そう言ってジェイミーは笑うが、その顔からは照れが抜け切っていない。酒も頼んだ分、少々高くついたが、手間賃を含めて小銀貨数枚をまとめて払っておいた。</p><p>なあ、コレって何なんだ？</p><p>満を持して、アイリーンが灯篭を指差しながら尋ねる。ジェイミーは、諦めたように笑いながら、</p><p>それね……明日から、夏至のお祭りが始まるでしょう？　お祭りの前夜には、灯篭(ランタン)流しをするのが慣習なの。みんなで川に、灯篭や蝋燭を載せた小舟を流すのよ</p><p>へぇ～</p><p>チーズとハムのカナッペを頬張りながら、アイリーンは感心した様子だ。ケイも、精霊流しみたいなものかな、などと思いながら話を聞いていた。</p><p>しかし、そんなもの流して大丈夫なのか？　水が汚れたら精霊が怒ると聞くが</p><p>川、といえばウルヴァーンの東を流れるアリア川のことだろう。その下流にあるシュナペイア湖の、水の大精霊の伝説を思い出したケイは素朴な疑問を放つ。</p><p>ああ、それなら大丈夫。ユーリアの町の人たちが、湖にまで流れ着いた時点で死ぬ気で回収するらしいから……</p><p>そ、そうか</p><p>事も無げなジェイミーの返答に、ケイは引き攣った笑みで頷く。とんだハタ迷惑だな、とは思ったが、口には出さなかった。</p><p>今夜、私もコレ流しに行くんだけど、なんだったら一緒に見に来る？</p><p>お、いいのー？</p><p>もちろん。とってもロマンチックよ</p><p>へーいいないいな！　ありがとう！</p><p>盛り上がる二人の少女。口を挟む暇もなく、ケイの同行も決まっていたが、特に断る理由もなかったので一緒に行くことにした。</p><p>その夜。</p><p>夕食を摂ったあと、ドワーフ顔の店主―『デリック』という名前らしい―に断りを入れてから、ケイたちは揃って宿を出た。</p><p>灯篭を流しに行く、というジェイミーに当初デリックは難色を示したが、ケイとアイリーンが同行すると聞いて快くこれを許した。確かに、ジェイミーほどの器量良しの娘が、日が暮れた後に一人歩きするのはよろしくない。デリックからかけられた、 頼んだぞ という言葉が妙に重く感じられるケイであった。</p><p>ジェイミーは丸腰だが、ケイとアイリーンは念のために武装して行くことにした。アイリーンは腰に短剣を差し、ケイは彼女から借りたサーベルを吊り下げる。本来、白兵戦であればアイリーンの方に軍配が上がるのだが―その可憐な見かけが災いして、抑止力にはならないと判断したのだ。</p><p>ちなみに、ケイたち以外にも同行を申し出た客は多かったが、彼らはデリックが一睨みして黙らせた。ケイは、アイリーンと好き合っているのが一目瞭然なため、『悪い虫』にならないと判断されたのだろう。</p><p>三人揃って、とっぷりと、夕闇に沈む街を行く。</p><p>灯篭を両手で抱えるジェイミーと、右手に掲げたランプで道を照らすケイ。アイリーンは、ケイの空いた左手を握り、てくてくと隣を歩いている。</p><p>灯篭流しの前夜祭。この日の街は、たしかにどこか特別だった。通りは篝火の明かりに照らし出され、いつもとは違う貌(かお)を見せている。</p><p>東へ向かう住民たちの影が、ゆらゆらと幽鬼のように揺れていた。無数の人々の足音が、息遣いが―人の気配が満ちているそこは、しかし祭りの熱気とは程遠い。</p><p>普段、これだけの人通りがあれば、スリなり何なりを警戒するものだが―今日に限っては、そういった邪悪を許さない、厳かな空気が満ちていた。</p><p>人々のざわめきがあっても尚、静かであった。</p><p>思ったより、静かなんだな</p><p>人の流れに乗って歩きながら、ケイは隣のアイリーンに囁く。</p><p>だな……</p><p>困惑したように頷きながら、アイリーンもまた小さく答えた。口を開くのさえ憚られるような雰囲気。周囲の人々も、囁くようにして言葉を交わしている。それにつられて自然と少なくなる口数。</p><p>城門を抜け、街の外に出る。アリア川に向かって、真っ直ぐに人の列が続いていた。長い棒の先端にランタンを吊り下げた、独特な照明器具を捧げ持つ衛兵たちが、儀仗兵のように、暗い夜道を照らし人々を誘導している。</p><p>十分ほど歩いて、川岸に着いた。暗い、のっぺりとした川面―湿り気のある空気が、優しく頬を撫ぜる。</p><p>ゴーン、ゴーンと、街の方から響く、鐘の音。</p><p>連鎖的に、幾つもの時計塔が、神殿が、あるいは城の尖塔が―それぞれに鐘を鳴らし、時が来たことを告げる。</p><p>おもむろに人の列が川へ近付き、思い思いに灯篭や玩具の船を流し始めた。吸い込まれるような黒色の川面に、ぽつりぽつりと揺らめく明かりが漂い、踊り、さざ波に煌めくそれらはまるで、星空がそのまま川へと注ぎこまれたかのようだ。そして、徐々にその数を増した灯篭は、やがて大きな光の波となって流れ去っていく。</p><p>嗚呼、とケイは溜息をついた。</p><p>炎とはここまで、夜の闇に映えるものなのか。</p><p>綺麗……</p><p>シンプルに、熱に浮かされたかのように、アイリーンは感嘆の言葉を口にする。</p><p>ああ、凄いな、とケイも相槌を打とうとしたが、これ以上の感嘆は、むしろ無粋であるように感じられた。何も言わずに頷くに留め、代わりに隣のジェイミーに問いかける。</p><p>これは、古くから続く伝統行事なのか？</p><p>……そうね</p><p>抱き締めるように、腕の中の灯篭を撫でたジェイミーは、</p><p>……灯篭流しそのものは、昔からあったらしいわ。でも、祭りの前日に皆で揃ってやり始めたのは、十年前から</p><p>薄闇に、ぼう、と横顔が浮かぶ。</p><p>“戦役”で亡くなった人の為の、慰霊祭なの</p><p>しばらくして、ジェイミーの番が来た。ケイのランプから火を借り、灯篭の蝋燭に火を灯す。</p><p>そっと、水面に浮かべた灯篭は、少しの間、ジェイミーの前でくるくると回る。まるで踊るように―しかし、流れる水には逆らえず、そのまま岸から引き離されていく。漂う光の群れに合流し、下流へと流れ去っていく。</p><p>……</p><p>ジェイミーは黙してそれを見送った。ケイも、アイリーンも、また同様に。</p><p>この世界は―</p><p>現実の中世ヨーロッパに比べて、技術が発達している。が、それでも、紙も蝋燭も、庶民にとってはまだまだ高価であるはずだ。</p><p>（でも、これだけの人が）</p><p>周囲を見渡す。川岸を埋め尽くす、人、人、人―。腰の曲がった老婆の姿もあれば、親に手を引かれた幼子の姿もある。皆、普通の人々だった。むしろ、貧相でさえあった。貴族のように、着飾った者たちは、この場には存在しえなかった。</p><p>……行きましょうか</p><p>灯篭の上で踊る、不格好な動物の模様が見えなくなったあたりで、ジェイミーは川に背を向けた。</p><p>歩き出す。街の方へ向けて、ゆっくりと。</p><p>……沢山の人が死んだから、</p><p>やがて、ぽつりと、口を開いた。</p><p>気兼ねなくお祭りをするのに、何かしら建前が必要だったんでしょうね</p><p>そう言って、ジェイミーは笑う。屈託のない笑顔だった。</p><p>†††</p><p>それからの一ヶ月は、瞬く間に過ぎ去っていった。</p><p>夏至の祭りが始まると同時に、武闘大会の開催が公布され、ケイは商会の支部長と面談して推薦状を手に入れた。</p><p>そして役所で武闘大会の参加手続きを行い、そのまま衛兵の詰め所に連れて行かれ、『最低限の力量を証明する』という名目で弓の腕前を試された。結果、的を粉砕しその威力と正確さで周囲の度肝を抜くこととなったが……。</p><p>その後は、ホランドに紹介して貰った鍛冶屋で適当に頑丈な長剣を見繕ったり、移住に備えてウルヴァーンの物件を見て回ったり。</p><p>東の村が獣の被害で困っていると聞いて駆けつけたり、アイリーンと一緒に近郊にピクニックに出掛けたり、昼寝したり。</p><p>ウルヴァーン周辺に住む雪原の民を探したり、伝承について調べたり、―と。</p><p>最初は一ヶ月間も何をして過ごせば良いのか、と考えていたが、過ぎてみればあっという間だ。</p><p>ケイも、おそらくアイリーンも、想像以上に充実した日々を過ごしていた。</p><p>そして、大会当日。</p><p>革鎧で武装したケイは、草原に設けられた大きなテントの中にいた。これは射的部門の選手の控室で、ケイ以外にも草原の民や平原の民、果ては雪原の民と思しき者まで、弓や十字弓を手にした戦士たちが思い思いにくつろいでいる。</p><p>大会の舞台として選ばれたのは、ウルヴァーン近郊、大きな練兵場を備えた小要塞のひとつだ。周囲が原っぱと放牧地ということもあり、見物人も大勢つめかけている。もちろん、アイリーンと、ひょっとすればエッダやジェイミーたちも応援に来てくれているかもしれない。</p><p>しかし、一世一代の晴れ舞台―となる予定の大会であるにも拘らず、ケイの表情はどこか冴えなかった。</p><p>（どうなるかな、この大会）</p><p>当初、“竜鱗通し”と矢束だけで参加しようとしていたケイであったが、大会運営からの通達で、戦闘時と同じように革鎧で防御を固めている。</p><p>（『前回とは少し違う形で競技を進める』、と言っていたが……）</p><p>大会関係者の発言を思い出し、一抹の不安を隠せないケイ。『鎧を持っているならばこれを装備するように』というのが、運営側からの指示だった。基本的に、的当てがメインで、参加者同士が直接争うようなことはない筈だったのだが―。心なしか他の選手たちの間にも、ピリピリとした空気が流れているようにも感じられる。</p><p>（いざ決闘になったところで、負ける気はしないんだがな）</p><p>参加者を見渡して、ケイが正直に思うところだ。歴戦の傭兵、あるいは凄腕の狩人といった猛者特有の雰囲気を漂わせる者もいるが、アレクセイの覇気に比べると若干見劣りしてしまう。</p><p>とはいえ、ケイも他人を傷つけたいわけではないし、自分が怪我するのもまっぴら御免だった。かといって今更身を引くわけにもいかず―スッキリとしないまま、時間が経つのを待っているのが現状だ。</p><p>特にやることもなし、“竜鱗通し”を膝の上に置いて、矢のコンディションをチェックしていたケイであったが、</p><p>ケイ？　……ケイじゃないか！？</p><p>自身の名を呼ぶ声に、思わず顔を上げる。そして視界に飛び込んできた、とび色のあご髭の渋い、がっしりとした体格の狩人に目を見開く。</p><p>―マンデル！　マンデルか！</p><p>ケイの眼前に立っていたのは、タアフ村の狩人、マンデルであった。ぴったりとした服に革のプロテクターを付け、頭部には羽根飾りのついた革の帽子。背中には矢筒を背負い、使い込まれたショートボウを手にしていた。</p><p>久しぶりだな。……一ヶ月半ぶりか？</p><p>あ、ああ</p><p>穏やかな笑みを浮かべるマンデル。固い握手を交わしながら、ケイは馬鹿のように何度も頷いた。</p><p>マンデルも、大会に出るのか？</p><p>ああ。あわよくば入賞を、と思って来たんだが。……ケイも参加するんなら、優勝は無理だと確定してしまったな</p><p>謙遜しつつ苦笑いするマンデル、しかしケイは曖昧な笑みを浮かべたまま、自身の緊張が顔に出ないようにするのに必死だった。</p><p>すぅ、と息を整えて、覚悟を決める。</p><p>……村の皆は、元気か？</p><p>最大限の緊張と共に放たれた疑問。心臓が早鐘を打つかのようだったが、―マンデルは、事も無げにそれに答えた。</p><p>ああ。……何事もなく、みんな元気だよ</p><p>それを聞いて、ケイの全身から力が抜ける。</p><p>（……結局盗賊は、村に来なかったんだな）</p><p>心がすっと軽くなり、ケイはようやく本心からの笑みを浮かべることができた。</p><p>そうか……何か、村で最近変わったことはあったか？</p><p>そうだな。実はケイが出て行ったあと、子供が一人病気にかかってしまったんだが、アンカの婆様がまじないをかけたら、たちまち治ったんだ。……婆様が、『ケイたちが精霊語を教えてくれたお蔭だ』と泣いて喜んでたぞ</p><p>ほう！　それは良かったな。こちらとしても教えた甲斐があった。婆様の気持ちが精霊に届いたんだろう、これは凄いことだぞ、彼女は才能がある</p><p>どうやらあの呪い師の老婆は、呪術の行使に成功したらしい。純粋な驚きと共に、ケイは心から、手放しで彼女を称賛した。</p><p>あとは、……そうだな</p><p>うーむ、と考え込んだマンデルは、</p><p>……シンシアが身籠ったくらいか</p><p>ケイの脳裏に、薄幸の雰囲気を漂わせた、ひとりの女性の姿が蘇った。</p><p>シンシアって……あの、村長の息子の妻か？</p><p>そうだ。……色白で、亜麻色の髪をした、あの美人だよ</p><p>…………</p><p>反応に困る。間違いなくシンシアのことは憶えているが、同時にその夫のことも思い出したからだ。</p><p>ケイとしては、アイリーンの面倒を見てくれたシンシアには心から感謝しているのだが、村長の息子―ダニーという名前だったか―には強姦未遂疑惑があるため、あまり良い印象を持っていない。しかもアイリーン経由で、シンシアにとってはそれが望まない結婚であったことも知っている。</p><p>そ、そうか……</p><p>結局、曖昧に頷くことしかできなかった。</p><p>シンシアは今まで、子宝に恵まれなかったからな。何はともあれ、次期村長の跡取りを授かったわけだ。……めでたいことだよ</p><p>そう言うマンデルは―穏やかで、落ち着いていた。その態度にどこか違和感を覚えたケイであったが、 それは兎も角、ケイ とマンデルが話題を変える。</p><p>この間、『とある狩人が一撃で”大熊(グランドゥルス)“を打ち倒した』と聞いたんだが。……これは、ケイのことか？</p><p>ああ、―うん。まあ、そうだな</p><p>ほう！　やはりか。……小山ほどもある巨大な”大熊”だったらしいな</p><p>いや、それは流石に大袈裟だ。実際は体長五メートルほどでな―</p><p>そんなこんなで、“大熊”の話題で盛り上がっていると、外から衛兵がやってきた。</p><p>諸君！　そろそろ予選が始まる。各々、準備を整えたら外に集合してくれ！</p><p>ピリッ、とテントの空気が引き締まる。とうとう、大会が始まろうとしているのだ。</p><p>いよいよだな</p><p>ああ。……緊張してきたぞ</p><p>愛用のショートボウを撫でながら、言葉とは裏腹に、マンデルが不敵な笑みを浮かべる。ケイも同じ気持ちで口の端を釣り上げ、左手の”竜鱗通し”を握り直した。</p><p>―行くか</p><p>テントを出て、練兵場に足を踏み入れる。周囲に集まっていた見物人たちが、続々と姿を現す勇士たちに歓声を上げた。</p><p>視線を走らせると―最前列に、アイリーンが陣取っているのが見える。その隣にはホランドと、エッダの姿もあった。</p><p>ケイが軽く手を振ると、それに気付いたアイリーンは元気いっぱいに手を振り返し、終いには熱烈に投げキッスを飛ばしてくる。苦笑しながら、ケイも飛ばし返した。マンデルが横で笑っている。</p><p>それでは諸君！　予選について説明しよう！　まずは前回と同じように、五十歩の距離から標的を射て、その狙いの正確さを競い合って貰おう。次に―</p><p>選手たちの前で、衛兵の一人が説明を始めたので、そちらに意識を集中させる。</p><p>ウルヴァーン武闘大会、射的部門。</p><p>ケイにとっての栄光と権利を勝ち取る戦いが、今まさに、始まろうとしていた。</p><empty-line/><p>32. 栄光</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ、武闘大会突入。</p><p>ケイは優勝した。</p><p>他の選手が次々と棄権していく中、圧倒的差をつけての大勝利であった。</p><p>公王の孫にして次期後継者、ディートリヒ＝アウレリウス＝ウルヴァーン＝アクランド公子より直々に表彰され、褒賞の一部を受け取って帰った”HangedBug”亭では今、祝勝会と称したどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。</p><p>それでは”公国一の狩人”、ケイのさらなる栄達を願って、乾杯！！</p><p>乾杯ー！</p><p>酒場の中心、ホランドが音頭を取り、それに合わせて皆が一斉に杯を掲げた。マンデルやエッダのような知己の姿もあれば、大会で知り合った他の選手もおり、はたまたその場に居合わせただけの一般客もドサクサに紛れて宴に参加している。</p><p>そしてケイは、そんな彼らに囲まれて、ほろ酔い気分で上機嫌に杯を重ねていた。</p><p>大活躍だったなケイ！　圧倒的だったじゃないか！</p><p>ふふふ、……まあな！</p><p>左手側に陣取るアイリーンに褒められ、照れながらも鼻高々になるケイ。</p><p>予選の内容そのものは、概ね想定内だった。それほど緊張はしなかったさ</p><p>……まったく、他の選手は災難だな</p><p>テーブルを挟んで対面、蒸留酒のカップを傾けて、しみじみと呟いたのはマンデルだ。</p><p>おれは最初から、ケイのことを知っていたからまだマシだったが。……初めてお前と競う羽目になった奴らは、心底絶望しただろう</p><p>やるからには全力で、と決めていたんだ</p><p>飄々とした態度のケイに、改めてマンデルは苦笑する。</p><p>まったく。途中で棄権した奴らを、おれは責める気にはなれないよ。……あれほどの実力差を見せ付けられると、普通は心が折れる</p><p>いやでも、マンデルも凄かったじゃないか。あの短弓に、まさかあんな使い方があるとは思わなかったぞ</p><p>なに、あれは大道芸みたいなものだ。ケイだってやれば出来るはずさ。……だが所詮は小細工、ケイには敵わなかったようだな</p><p>いや、あの状況下でそれを試みた度胸と、実際に成功させた胆力は素直に尊敬するよ。俺にはとても真似できないな。正直、あの時はかなり焦った</p><p>ふっ、ならば、せめて一矢報いることには成功していたわけか。……光栄だよ、ケイに尊敬されるなんて</p><p>そういって肩をすくめるマンデルではあるが、実は大会ではケイに次いで入賞を果たしている。ウルヴァーン主催の大会であるにも関わらず、軍属の弓兵や傭兵などを差し置いて、上位入賞者のうち二名を異邦人と平民が占めるという異例の事態であった。</p><p>しかし実際のところ、おれはケイに負けてよかったかも知れない。……あのまま決勝に進んでいたらと思うと、ぞっとするよ</p><p>ああ、あれは流石に予想外だった。まさかあんな形になるとはな</p><p>普段通りの装備を、ってのがああいう意味だったとは思わなかったぜ</p><p>感慨深げなマンデル、面白がるようなケイ、呆れ顔のアイリーンと、三者三様に決勝戦を振り返る。</p><p>でも、お兄ちゃんなら大丈夫だって、わたし信じてたよ！</p><p>テーブルの下から、ケイの右手側に、ぴょこんと褐色の肌の少女が顔を出した。ホランドの娘、エッダだ。</p><p>“大熊(グランドゥルス)“だって平気でやっつけたんだし。あのくらい、お兄ちゃんならどうってことないよね！</p><p>まあ、な。練兵場の真ん中に引っ立てられて、突然アレが始まったら流石に焦ったかもしれないが</p><p>お兄ちゃん、全然慌ててなかったよね。とってもカッコよかったよ！</p><p>英雄を見るようなキラキラとした眼差しに、ケイは面映い気分で杯を揺らす。</p><p>……ありがとう。でも今回は直前に告知(アナウンス)があったからな、“大熊”のときに比べれば大分マシだ</p><p>はっはっは、そう言われちまうと、もう片方の選手は形無しだなぁ！</p><p>背後から酒臭い息。振り返ってみれば、顔を赤くしたダグマルの姿があった。</p><p>よっ、英雄！　呑んでるかい！？</p><p>ああ、呑んでるよ。あんたほどじゃないが</p><p>おどけて、手に持つ杯を示してみせる。対してダグマルは、葡萄酒の小さな壺から直呑みしているようだった。</p><p>はっはは、呑むぜー、おれは呑むぜ！　なんつったってタダ酒だからな！　な！？</p><p>え？　いや、各自で会計してもらうつもりだが</p><p>……なに？</p><p>赤ら顔のまま表情の抜け落ちるダグマルに、ケイはぷっと吹き出した。</p><p>冗談だよ、何マジになってんだ</p><p>……テメェッこのっ、ビビらせやがって！</p><p>ケイにヘッドロックを決め、葡萄酒の壺でこめかみをグリグリとするダグマル。 痛い痛い と笑いつつも、そんなに支払いが恐ろしいほど呑んでるのか、と思うケイ。しかしこの際、そんなことはどうでもよかった。</p><p>よーしみんな、改めて言うまでもないが、今日は俺の奢りだ！　呑め呑め！</p><p>ケイの宣言に、うおおお、と周囲が沸き立つ。</p><p>いいぞいいぞー！</p><p>さすっが優勝者ー！</p><p>よっ大将、太っ腹！</p><p>皆、ケイをヨイショするのに余念がない。さらにいい気になって注文を重ねるケイと、その恩恵を享受するその他大勢の構図。ケイの隣では、アイリーンが あーあ という顔をしていたが、流石に止めるような無粋な真似はしなかった。</p><p>陽気な空気の中、酒場のドワーフ顔の主人は 酒が足りねえ！ と嬉しい悲鳴を上げ、ジェイミーを含む従業員たちは、忙しげに客たちの間を飛び回っている。</p><p>それにしてもアレだな、決勝に出てたあの弓兵は大丈夫だったのか</p><p>ああ、アイツか</p><p>話を決勝戦に戻し、ケイが問いかけると、腕を組んだダグマルはしたり顔で、</p><p>何でも、右肩が食い千切られて大ごとだったらしい。早々にギブアップしたのと、決勝戦だから特例で高位魔術師が治療にあたったのとで、一命は取り留めたそうだが。今じゃ傷ひとつなくピンピンしてるってよ</p><p>そうか、それは重畳</p><p>ただ、傷は治っても腕の感覚がなかなか戻らないらしくてな。軍は辞めるかもしれないそうだ</p><p>うーむ、そうか……</p><p>沈痛な面持ちのケイの前に、ゴトリと串焼き肉の皿が置かれた。</p><p>―怪我しちまうとなぁ。感覚はなかなか戻らねえもんさ</p><p>太い腕を辿っていけば―前掛けをしたドワーフ顔。デリックだ。</p><p>おれも昔、矢を受けちまってなぁ……おかげで今ではこのザマよ</p><p>ぽん、と右膝を叩いてみせるデリック。足を引きずって歩いていたのは、そういうことだったのか、とケイも合点がいく。</p><p>あなたも戦士だったのか？</p><p>戦士、っつーか、傭兵だな</p><p>気恥ずかしそうに鼻の頭をかいて、デリックが目を逸らす。</p><p>これでも、おれがひよっ子だった頃は有名人だったんだぜ</p><p>代わりに、自分のことのように嬉しそうに、ダグマルがずいと身を乗り出した。</p><p>根っからのパワーファイターでよ、“戦役”のときは、斧で敵の砦の壁を叩き壊したこともあるんだぜ。“巨人”デンナー旗下の”赤鼻”デリックといやぁ、ここらじゃ知らない奴はいなかった</p><p>貴様ッ、次にその名を出したら舌を引っこ抜くぞッ！！</p><p>ダグマルの言葉に、デリックが額に青筋を浮かべて怒鳴りつける。</p><p>大層ご立腹な様子だが、顔が紅潮しているせいで逆にその”赤鼻”っぷりが強調されてしまい、ケイとアイリーンは堪えきれずに酒を噴き出した。口を押さえて身をよじるケイたちをよそに、 い、いやーすまねえ親父つい口が滑って…… と媚びるような薄笑いを浮かべるダグマル。</p><p>……まっまあ、ともかく、おれがまだ傭兵になりたてだった頃は、随分と世話になったもんだ。なっ親父</p><p>おうおう、昔はこいつも、ただの洟垂(はなた)れ小僧でな。最初に戦場に連れ出したときなんざ、それこそ鼻水どころかションベンまで―</p><p>あーっ！　わーっ！　その話は勘弁してくれよ！</p><p>薮蛇になってしまった暴露話に、慌てるダグマル。 食事中だぞー 汚ぇ話すんじゃねー と外野から野次が飛び、なぜか木皿や食べ残しの骨がダグマルに投げつけられる。</p><p>イテッイテテッなんでおれに……</p><p>コラァーッ！　貴様ら食いもん粗末にしてんじゃねえぞ！　それに店の物投げてんじゃねえッ！</p><p>うわー”赤鼻”が怒ったー！</p><p>逃げろー！</p><p>―ッッどいつが言いやがった！？　ブッ殺してやるッッ！</p><p>目を血走らせたデリックが袖をまくり、声のした方に突撃する。椅子のひっくり返る音や皿の割れる音、 ひええぇぇ 貴様かオラァッ！ と飛び交う悲鳴や怒号。宴はまだ始まったばかりだというのに、場は既に混沌(カオス)の様相を呈していた。</p><p>もぉ～、私だって楽しみたいのにーッ！</p><p>店主が乱闘を巻き起こす一方で、ジョッキを腕一杯に抱え涙目のジェイミー。尻を触ろうとするセクハラ親父どもの手を華麗に回避しつつ、恨みがましげに諸悪の根源たるケイを睨む。</p><p>ゴブレットを片手に、ケイはデリックの大立ち回りを笑いながら眺めていた。ともすれば怪我人すら出かねないレベルの騒ぎであったが、平然と笑っているあたり、かなり酔いが回っているらしい。</p><p>そして、その左隣には当然とばかりにアイリーンが収まって腕を絡め、右側からはエッダが引っ付いてアイリーンに負けじと甘えている。</p><p>…………</p><p>アイリーンは兎も角、年端の行かぬ少女(エッダ)ですら、ケイにアプローチをかけているという事実。そんな中、自分はムサいセクハラ親父どもに囲まれ、汗水垂らして給仕に徹している―思わず動きの止まったジェイミーは、ふっと、遠い目になった。隙ありと言わんばかりに、尻や太腿に伸ばされるセクハラの手。</p><p>―うん、</p><p>やがて、吹っ切れたように頷き、ダンッとジョッキをまとめて手近なテーブルに置いたジェイミーは、</p><p>―やめたッ！</p><p>爽やかな笑顔。その場でトレイを放り捨て、呆気に取られる客たちをよそに、すたすたと厨房へ引っ込んでいく。</p><p>そしてすぐに戻ってきたかと思うと、その手には木苺のタルトを載せた皿。</p><p>ナイフ、フォークと共に近くのテーブルにセッティングし、いかにも優しげに微笑みながら、ケイに甘えるエッダに話しかける。</p><p>ねぇ、お嬢ちゃん。とってのおきのお菓子があるの。木苺のタルトよ。食べない？</p><p>わ、おいしそー</p><p>タルトに釣られ、トコトコと席を立つエッダ。にやり、と邪悪な笑みを浮かべたジェイミーは、そのままケイの右隣に収まる。</p><p>……ねえ、お兄さぁ～ん</p><p>服の胸元の紐を緩め、胸の谷間を強調しつつ、ジェイミーはケイにしなだれかかった。唐突な色仕掛けにきょとんとするケイ、その奥でタルトを頬張りながら しまった！ と目を見開くエッダ。</p><p>こんなムサいトコは出て、わたしとイイコトしな～い？</p><p>人差し指で の の字を描くように、ケイの胸元をいじりながら流し目を送る。</p><p>周りに誰もいない時、幾度となくイメトレを重ねてきた必殺技。満を持して解き放つ。</p><p>…………</p><p>ケイの陰からアイリーンが顔を出し、じっとりとした、底冷えのするような視線を送ってくる。凍りつくような殺気も放たれているが、ジェイミーは勇気を振り絞って耐えた。タルトそっちのけで、背中をぽこぽこと叩いて抗議するエッダには、この際気が付かないふりをする。</p><p>ふむ……</p><p>一方、渦中のケイは存外冷静にゴブレットを傾けながら、―男の性(さが)か、視線は谷間に吸い寄せられていた。</p><p>―成る程、強調するだけのことはある。</p><p>アイリーンを草原とするならば、こちらは山岳。小麦色の滑らかな肌は、それだけで自然の豊かな実りを彷彿とさせる。その攻略には容易ならざるものがあるだろう―やはりケイも男なので、つい鼻の下が伸びそうになる。</p><p>だが、それもあくまで興味レベルで、不思議と過分に心が動かされることはなかった。</p><p>アルコールによって気が大きくなっているからだろうか。</p><p>それともアイリーンの絡める左腕が、ミシミシと軋みを上げているからだろうか。</p><p>……いや、すまない</p><p>いずれにせよ、ケイはゴブレットを置いて、そっとジェイミーの身体を引き離した。</p><p>素敵なお誘いではあるが……俺にはもう愛する人がいるのだ</p><p>至極真面目くさった態度で言ってのけ、左手に抱いたアイリーンの額に、ちゅっと口付けしてみせる。</p><p>一瞬呆けたような顔をして、すぐにぽっと頬を赤らめるアイリーン。ひゅーひゅー、と囃し立てる周囲の男たち。ここまで瞬間的に振られるとは思っておらず、愕然とするジェイミー。そしてその後ろで絶望したような表情を浮かべるエッダ。</p><p>こっ、……これでも、スタイルには自信あるんだけどなっ</p><p>谷間を強調する程度ではダメだったかと、スカートを少したくし上げて脚線美なども主張していく。その後ろで、自分の身体を見下ろしてしょんぼりとするエッダ。</p><p>それは、その通りだが……</p><p>ずっとひとりだと、飽きがくるかも知れないわよ？　新しい刺激はい・か・が？</p><p>本命が無理なのは分かっていた。すかさず戦術目標を下方修正、愛人の座を狙いにいく。が、それでもケイは、ゆっくりと首を横に振った。</p><p>飽きなんて、きそうにないな。俺はアイリーンに夢中だよ</p><p>真顔で言い切られると、流石に言葉に詰まる。そのままケイは、恥じらうアイリーンを抱きかかえて、これ見よがしにイチャイチャし始めた。</p><p>ケッ、ケイ、恥ずかしいよ、みんな見てる……</p><p>構うもんか。アイリーンが居てくれれば、俺はそれでいい</p><p>もう、やだっケイったら……</p><p>絵に描いたような恋人たちの甘い空気、周囲の面々も うへぇ と既にお腹いっぱいの様子だ。</p><p>ひたすらに羨ましそうな顔をしているエッダの横で、ジェイミーはがくりとテーブルに突っ伏する。</p><p>う゛～入り込む隙がないじゃないのよぉ～</p><p>せっかく千載一遇の優良物件なのに、と歯噛みするジェイミー。周囲の男たちが いい男なら他にもいるぞー！ と力こぶアピールをし始めるが、眼中にはない様子だった。</p><p>―ええい、もう！　呑んでやる！　浴びるほど呑んでやるー！</p><p>ヤケクソになったか、 酒もってこーい！ とジェイミーは叫ぶ。しかし、大きな影がその首根っこを掴んで、そのままひょいと持ち上げた。</p><p>なに言ってやがる、お前は酒を運ぶ側だろうが</p><p>乱闘にケリをつけたデリックであった。顔に飛び散った返り血を拭きつつ、晴れ晴れとした笑顔で、</p><p>さっ、休憩は終わりだ。働くぞー馬車馬のようにな！</p><p>やっヤだーっ！　わたしも楽しみたーいー！</p><p>はっはは、折角の書き入れ時だ、無駄にはできねえ</p><p>くっ……抜け出してやる、どうにかして抜け出してやるぅ</p><p>とりあえずお前は皿洗いだな。喜べ、たんまりとあるぞ</p><p>イヤ―ッ！</p><p>肩に担がれたままジタバタと駄々をこねるジェイミーが、デリックに連れられて厨房へと消えていく。戦線離脱。いや脱落。</p><p>まだ二口しか食べていないタルトの皿を手に、エッダがケイの右隣を占拠した。</p><p>……ねえねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんもタルトたべる？　おいしいよ？</p><p>お、美味しそうだな。頂こうか</p><p>無邪気に話しかけてきたエッダに、アイリーンとのイチャイチャを中断するケイ。幼い子供の前でやらかすのはよろしくない、という判断によるものか。ふっ、と口の端を歪めて視線を向けてくるエッダに、ぴくりとアイリーンの眉が跳ねる。</p><p>はい、お兄ちゃん。あーん</p><p>……あ、ありがとう</p><p>エッダがピュアなスマイルで差し出してきたタルトに、 自分で食べられる とは言い出せず、気恥ずかしげにかぶりつくケイ。</p><p>ん、美味しいなコレ</p><p>でしょー？</p><p>モグモグと咀嚼して満足げなケイの傍ら、エッダはちらりと挑発的な笑みをアイリーンに向けた。</p><p>…………</p><p>アイリーンもまた、穏(・)や(・)か(・)な(・)微笑でそれを迎え撃つ。</p><p>宴の夜は、まだまだこれからだった。</p><p>†††</p><p>翌朝。</p><p>二日酔いの頭痛に悩まされつつも、重い体を引きずって、ケイは何とか起床する。</p><p>うう……呑みすぎた……</p><p>あの程度でケイはだらしないな！</p><p>……そう言うアイリーンは元気だなー</p><p>昨夜はケイ共々遅くまで楽しんでいたにも関わらず、服を着ながら笑い飛ばすアイリーンには、全く疲れた様子がない。基礎体力というか、バイタリティというか、そういった根本的な部分では、アイリーンの方がよほどパワフルに見えるのは、気のせいだろうか。</p><p>ケイとしては正直なところ、優勝して賞金も手に入ったのでしばらくはアイリーンと爛れた生活を送りたかったのだが、市民権取得の手続きのことを考えると、のんびりはしていられない。武闘大会の熱が冷めぬうちに―役所の人間にやる気があるうちに、早めに終わらせてしまう必要がある。</p><p>……あら、おはよう……</p><p>食堂に降りると、死んだ魚のような眼をしたジェイミーが掃除をしていた。</p><p>……おはよう</p><p>おっはよー</p><p>……うっ</p><p>既に何処となくやつれた感のあるジェイミーであったが、仲良く連れ立ってきたケイとアイリーンを見て、何故かさらにダメージを受けたらしい。箒を杖代わりにしつつ、眩暈に襲われたかのようによろめいている。</p><p>……大丈夫か？</p><p>うぅ……大丈夫よ。大丈夫。何ともないわ……</p><p>そ、そうか……</p><p>昨晩は大酒を飲んだものの、ケイは酔っ払っても記憶はしっかりと残るタイプだ。当然ジェイミーの色仕掛けもバッチリ憶えているわけで―しかし当の本人は、どうやら無かったことにしたいらしい。ケイとしても異論は無かった。</p><p>ゾンビのようなジェイミーに給仕してもらいつつ、フルーツやサンドイッチ、昨晩の宴会の残り物のスープなど、たっぷりと朝食を詰め込んだ。</p><p>そしてその後、ケイたちは市民権取得の手続きに丸一日を費やす羽目になる。</p><p>まず、武闘大会の優勝の賞状を携えて、街の東にある住民管理局に向かう。</p><p>朝一番に出かけたので管理局は混み合ってはおらず、建物の中にもスムーズに入ることが出来た。そして賞状さえ提出すればすぐに身分証が―と淡い期待を抱いていたケイであったが、残念ながらというべきか、やはりというべきか、そんなことはなかった。</p><p>ケイが申請するのは、ウルヴァーンの”名誉市民権”。『名誉』と接頭語がつくものの、その本質は基本的に普通の市民権と同じものだ。ただ、定められた手続きの仕方と管轄が、普通の申請と微妙に違う。</p><p>武闘大会で優勝したという実績、税金の支払い能力、そして諸々の手続きにかかる費用の前払いなど、全ての条件は満たしていたが、肝心の役所の職員が『名誉市民の手続き』という特殊な業務に慣れていなかったため、さらに時間がかかることとなった。</p><p>アイリーンと一緒に小一時間ばかし権利と義務について説明を聞き、あらかた書類にサインをし終わったところで、担当の職員が とある特殊な書類の書式が分からない と言い出した。規則の確認のために休憩を挟むこと数十分、待ちぼうけを食らった挙句に職員が引っさげてきたのは 普通の書類で代用可 という何とも気の抜ける答え。この書類にサインが終わると同時に、何故か業務の管轄が住民管理局の手を離れたらしく、ケイたちはそのまま市庁へと移動させられることとなった。</p><p>この時点で、時刻は昼前。市庁の前には住民たちの長い列が出来上がっていた。それに並ぶことさらに数十分、ようやく窓口に辿り着いたところで、実は名誉市民の手続きには専用の窓口が用意されていたことが発覚。大人しく並んでいたのが全く無駄だったと分かり、事前の説明の無さにイラッとさせられることとなった。</p><p>その後も、何枚もの書類に必要事項を記入したり、無犯罪証明書のために衛兵の詰め所に行かさせられたり、書類に不備が見つかったため住民管理局にとんぼ返りしたりと、ウルヴァーン市内中を歩き回る羽目になり、一応の全ての手続きが終わる頃には日が暮れようとしていた。</p><p>それでもまだ、すぐに身分証が発行されるわけではなく、翌日から書類の審査が始まり、そこから面接や幾つかの手続きを経て、晴れて身分証が発行されることになる。名誉市民の場合、普通の手続きよりも優先して行われるので、遅くとも三日後には終わるだろう、という見込みだった。</p><p>……というわけで今日は忙しかったよ</p><p>お役所仕事、というわけか。……災難だったな</p><p>“HangedBug”亭の酒場で夕食をとりつつ、ケイたちはマンデルに愚痴っていた。</p><p>今夜の食事は、送別会を兼ねている。ケイたちとは別の宿に泊まるマンデルだったが、明日にはウルヴァーンを発つらしい。ちょうどホランドがサティナへと行商に出発するとのことで、ケイの紹介もあり、客人として同行することになったそうだ。</p><p>ところでマンデル、仕官について何か話はなかったか？</p><p>ああ、あったよ。軍の方から弓兵部隊の、百人長の待遇でどうか、と話があった。……もっとも、断ったがね</p><p>あったのか。そして断ったのか、流石だな</p><p>ああ。一度軍属になったら簡単には辞められないし、ウルヴァーンに移り住む羽目になるからな。……おれには、狩人の方が性に合ってる</p><p>飄々と、肩をすくめるマンデル。</p><p>もちろん、給金は魅力的だがね。……だが、それでも</p><p>タアフ村の方がいい、か</p><p>……ああ</p><p>実際、金だけでは必ずしも、楽しい暮らしができるわけじゃないもんな</p><p>もっしゃもっしゃとサラダを口に運びながら、アイリーン。</p><p>そうだな。ここだけの話、俺もタアフの村とウルヴァーン、どちらが良いかと聞かれると……タアフだ。２日かそこらしか滞在しなかったが</p><p>感慨深げにケイは呟いた。森と草原の緑に囲まれた、小さな田舎村の景色が色鮮やかに蘇る。思えば、今現在はウルヴァーンで暮らしているケイとアイリーンではあるが、旅はあの村から始まったのだ。村の人々の顔を思い出す。―盗賊に報復を食らわない、という前提ではあるが、排他的なところのあるウルヴァーンよりは、まだタアフ村の方が居心地が良いだろうと、ケイには思えた。</p><p>何だかんだで、あれは住みやすい村だよ。他の村より豊かだしな。ところで、そう言うケイの方こそどうなんだ？　……仕官の話は</p><p>一応、来た。マンデルと同じで軍から弓兵として迎えたい、と。ただ、百人長とかそういうポストの話はなかったな</p><p>む、そうか。……そいつはまた、変な話だ</p><p>ケイ、優勝してんのにな。ヒラかよ、とはオレも思った。差別かな？</p><p>自分のことのように不満げな様子で、アイリーンが眉をひそめる。ポストがどうであろうとケイが仕官することはないのだが、それでも不当に悪い扱いをされているのであれば気分的にいけ好かない。</p><p>どうだろうな。経験の有無は、一応見られているかもしれないが。……おれは元々、軍で十人長にまで出世していたからな、その記録があったのかもしれない</p><p>そうだったのか</p><p>意外な話だ。マンデルが軍に籍を置いていたとは知らなかった。</p><p>しかし、とケイは思う。タアフ村で盗賊の遺品を回収した際、凄惨な死体を目の当たりにしても、マンデルだけは取り乱すことがなかった。十年程前にあったらしい”戦役”なるものに、マンデルもまた身を投じていたのかもしれない。</p><p>だが、それだけか？　ケイ。……ケイほどの使い手であれば、もっと引く手数多だと思っていたんだが</p><p>ああ、個人的な手合いであれば、何人か声はかけられた。物好きな貴族の用心棒やら、隊商の護衛やら、あと東の辺境から来たっていう戦士には『うちの傭兵団(クラン)に入らないか？』と誘われたな。今のところ全部断ってるが</p><p>ほう。……ちなみに、なんという傭兵団だった？</p><p>問われて、目を細めたケイは、思い出そうと虚空を睨む。</p><p>……なんだっけ。アイリーン憶えてないか？</p><p>たしか……、“青銅の薔薇”だか何だか、そんな名前だった、と思う</p><p>“青銅の薔薇”か！　あそこはかなりの大手だぞ、“戦役”では”巨人の翼”と並ぶ一大傭兵団として知られていた。……と言っても、ケイたちには分からないか</p><p>いや、何となく見当はつく。道理で断ったとき、奴(やっこ)さんが驚いてたわけだ。有名だったんだな……</p><p>その後も、仕官や軍のこと、他愛の無い雑談や愚痴などをつらつらと話し合い、程よく酔っ払ったあたりで送別会はお開きとなった。マンデルは明日の朝は早いらしく、見送りも不要と言っていたので、これでしばらくのお別れだ。タアフ村の呪術師アンカやクローネン夫婦、サティナの街の矢職人モンタン一家によろしく伝えてもらうよう、ケイはマンデルに頼んでおいた。</p><p>（次はいつ会えることやら）</p><p>自室でアイリーンと一緒にゴロゴロとしながら、ケイは思いを馳せる。</p><p>そもそも今回の大会で、マンデルと再会したのが予想外のことだった。</p><p>手軽な通信技術も、移動手段もないこの世界。次に相見(あいまみ)える機会があるとすれば、それは数ヵ月後か、一年後か、それとも―</p><p>†††</p><p>三日が過ぎた。</p><p>ウルヴァーンの市長と面接したり、追加で書類を提出したり、色々と面倒なことはあったが、ついにケイの身分証が発行された。</p><p>大きさは手の平サイズの長方形で、頑丈な羊皮紙で出来ている。ウルヴァーンの紋章の判が押された上に、びっしりと『ケイ』という人物の名誉市民としての権利が大仰な文言で書かれ、最後には市長のサインが書き込まれていた。裏側にはケイの本人確認のために人相書きと似顔絵、そして直筆でサインをする場所がある。</p><p>このサインというのは、必ずしも読めるものである必要はなく、『他者にとって真似しづらいもの』であることが一番望ましい。色々と悩んだ結果、ストレートに『乃川圭一』と漢字で書くことにした。こちらの世界の住人にとって、ぱっと見での判読と模倣は非常に困難であろう。</p><p>ようやく、この日が来たなアイリーン……</p><p>ああ。なんか、すっげー長い間待ってた気がする……</p><p>二人して遠い目をしながら、第一城壁に沿って歩いていく。</p><p>図書館に行くために一級市街区に入ろうとして、門前払いを食らったのが一ヶ月前のことだ。もう一ヶ月が経った、というべきか、それともまだ一ヶ月というべきか。いずれにせよ、感慨深いものがある。</p><p>懐に仕舞った身分証の存在を、どこか誇らしく思いながら、前回世話になった門番の所にまで辿り着いた。</p><p>おお、アンタらか</p><p>大会の様子は見てたぞ。優勝おめでとう</p><p>こちらから声をかけるまでもなく、若い衛兵と年配の衛兵、それぞれが話しかけてきた。</p><p>ありがとう、ありがとう。というわけで、市民権を取ってきたよ</p><p>懐から身分証を取り出し、年配の方に手渡した。兜の面頬を跳ね上げて、老眼なのか、身分証を遠く離しながら、一応目を通す衛兵。</p><p>……うむ、ケイイチ＝ノガワ、確かに本人だ。通ってよし</p><p>にこりと微笑んで、身分証を返してくる。</p><p>あ、だがその身分証で通れるのは本人のみだぞ。そちらの娘は……</p><p>と、若い方の衛兵が口を挟んできた。</p><p>そう、実際のところ、身分証の持ち主はケイであり、それはアイリーンには何ら効果を及ぼさない。</p><p>つまりアイリーンには、門をくぐる権利がないのだ。</p><p>が。</p><p>ケイたちは慌てなかった。</p><p>（どれだけ時間をかけて、クソ面倒な手続きを乗り越えてきたと思っている……！）</p><p>これは既に予想済み。そして、その対抗策も考えてあった。</p><p>おもむろにアイリーンの肩を抱き、ケイははっきりと宣言した。</p><p>―彼女は、俺の妻だ</p><p>妻帯者。身分証を保持する市民が家長であった場合、その妻がウルヴァーン市民でなかったとしても、一人までであれば速やかにこれに市民としての権利・義務を与える。</p><p>つまりアイリーンがケイの妻であれば、彼女も同様の権利を有するのだ。</p><p>ケイの宣言に、腕を絡めつつ、照れて頬を染めるアイリーン。</p><p>これは、今回に限っては、門を抜けるための方便ではあるが―</p><p>（いつかちゃんと、式を挙げたいな）</p><p>ケイは思う。まだ、アイリーンがこの世界に留まるとはっきり結論を出していない以上、ケイとしては待つしかないが、いずれ本式に結婚したいと。</p><p>（……しかし、『こちら』での結婚式って、どんな風にやるんだ？）</p><p>ふと疑問に思う。この世界は、あらゆる元素の精霊が当然のように存在するが故に、逆に宗教的な発想が希薄になっている節がある。日本的な八百万の考え方に近いものがあるのだろうが、少なくとも結婚の形が『絶対神の前で誓う』タイプではないのは確かだ。</p><p>（……そうだ、ユーリアの水の精霊の神殿とかで、結婚式は挙げられるんじゃないか。こちらでも花嫁はドレスを着るんだろうか……）</p><p>アイリーンのウェディングドレス姿を想像して、思わず頬を緩めるケイ。</p><p>頬に手を当てていやんいやんと照れるアイリーンに、未来の花嫁姿を想像してニヤニヤするケイ。微笑ましいのか、あるいは鬱陶しいのか―いずれにせよ、他者をうんざりさせるだけの桃色空間がそこにはあった。</p><p>目元を隠す兜の下、若い衛兵は憮然とした表情で、年配の方は苦笑している。</p><p>―まあ、分かった。確かに規則に則れば、その娘が妻である場合、彼女は君と同様の権利を保持する</p><p>年配の衛兵の言葉に、ケイとアイリーンは満足げに頷いた。</p><p>これで、ようやく、本当にようやく、面倒な手続きから解放される―</p><p>というわけで、</p><p>すっと、手を差し出す年配の衛兵。握手か？　と勘違いしたケイは思わず握り返しそうになるが、そこで彼は衝撃的な一言。</p><p>“婚姻証明書”を見せてもらおう</p><p>…………</p><p>ケイは吠えた。</p><p>サスケ 最近出番ないね</p><p>スズカ ね</p><p>サスケ 弓騎兵なのにね</p><p>スズカ ね</p><p>33. 図書館</p><p>前回のあらすじ</p><p>アイリーン、婚姻証明書を持っておらず城門で門前払いを食らう</p><p>幸いなことに、婚姻証明書の取得はそれほど難しくなかった。</p><p>市庁で書類に記入し、公証人の前で口づけをして終わりだ。手続きとして正式に口づけを要求されるのは少々意外であったが、『こちら』にも”誓いのキス”という概念は存在するらしい。人前で改めてキスするのも恥ずかしく、照れるケイたちとは対照的に、公証人の中年親父が そんなもんもう見飽きた とでも言わんばかりに終始淡々としていたのが印象的だった。</p><p>それからは書類の審査や手続きが始まり、昼休みを挟んだ後しばらくして証明書は無事発行された。が、書類を手に市庁を出る頃には既に日が傾き始めていたので、ケイたちはまた日を改めて図書館に出直すことにした。</p><p>全く、婚姻証明書はとんだ伏兵だったな</p><p>でもまぁ、スムーズに取れてよかったぜ</p><p>その日のうちに片付けば『スムーズ』と認識するようになったあたり、二人ともかなり訓練されている。ケイもアイリーンも、若干待ちくたびれた感はあるものの、特に疲れた様子はなかった。</p><p>帰り道、ついでとばかりに市場の屋台や露店を冷やかして回る。アイリーンが何か面白そうなものを見つけては、ケイの手を引っ張っていく―ここのところ、ウルヴァーンの街中でよく見られる光景だ。すっかりケイたちの顔を憶えてしまった商人などは、微笑ましげにそれを見守っている。一部、アイリーンに見惚れながら、ケイに嫉妬の目を向ける男たちもいたが。</p><p>最終的に、魔術の触媒に使えそうな水晶の塊や、“平たい桃(ペッシュ・プラット)“というまんまなネーミングの、潰れたような形の桃などを買い込み、ケイたちは宿屋に戻った。</p><p>……あら、お帰りなさい。図書館はどうだった？</p><p>酒場で箒を手に掃除していたジェイミーが、静かな微笑みと共にケイたちを出迎える。</p><p>いや、図書館には行けなかったよ</p><p>オレが一緒に高級市街に入るには、婚姻証明書が必要だったのさ。それの取得で一日が潰れちまった</p><p>懐から羊皮紙を取り出して、ひらひらと見せるアイリーン。</p><p>そう……じゃあ二人とも、正式に籍を入れたのね</p><p>ゴフゥッと吐血しそうなジェイミーをよそに、ケイたちはそそくさと席に着く。何かを悟ったような顔つきのジェイミーにサーブしてもらいながら、適当に飲み食いし、いつものように部屋でイチャついてからそのまま寝た。</p><p>明くる日。</p><p>高空に巻雲のたなびく爽やかな朝。薄く立ち込める朝靄の中、ケイたちは城門を抜け、いよいよ第一城壁の内側へと足を踏み入れた。</p><p>……成る程、これが一級市街区か</p><p>やっぱすげえな、外とは大違いだ</p><p>おのぼりさんのように、きょろきょろと周囲を見回しながら歩く。</p><p>全てが良質な石材と、赤煉瓦で構築された世界。城を中心にして、放射線状に伸びる広めの街路。通りを挟む建築物はどれも三階建て以上の高さを誇り、驚くべきことに、ほぼ全ての窓にガラスが嵌まっていた。その整然とした街並みは近代の趣すら感じさせ、肌寒い朝の空気と相まって、何処か冷たい印象を投げかけている。</p><p>普段、門の外から覗き込むと閑散として見えていた高級市街であったが、この時間帯は忙(せわ)しなく行き交う人々で賑わっていた。その多くは質素だが清潔な衣服を身にまとった使用人たちで、加えて小型の馬車に乗る商人たちの姿も散見される。そしてそれらの通行人に、威圧的な視線を向ける赤い衣の衛兵(ガード)達。</p><p>ウルヴァーンの象徴たる竜の紋章を縫い付けた赤衣に、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の胸当て、派手な羽根飾りのついた兜。その手に握られているのは装飾過多の斧槍(ハルバード)―まるで玩具の兵隊だな、とケイは思う。だがそうやって観察するうちに、ふと衛兵の一人と目が合った。</p><p>―おい、そこのお前！</p><p>通行人を押しのけて、のしのしとこちらに近づいてくる衛兵。反射的に周りに怪しい影を探したが、残念ながら、マークされているのはケイ自身のようだった。</p><p>なぜ怪しまれるのか。特に見咎められるような憶えもない、自分の体を見下ろしてケイは首を傾げる。この日のためにアイリーン共々新しい服を仕立て、貧乏臭く見えないよう気をつけていたのだが。</p><p>……俺か？</p><p>そう、お前だ！　その腰につけているものは何だ！</p><p>ケイの腰の弓ケースを指差し、衛兵が咎めるような口調で言う。ああ、と合点がいったケイは、</p><p>これは、弓ケースだな</p><p>……許可無く第一城壁の内側に武器を持ち込むのは禁止されている。ましてや飛び道具など……貴様、それを知ってのことか</p><p>許可ならあるぞ</p><p>何やら不穏な気配を漂わせる衛兵に、肩をすくめながら身分証を提示するケイ。一般市民ならば兎も角、ケイは名誉市民なので、特権的に一級市街区への刀剣類や弓具などの持込が許可されている。『個人で携行できるもの』と制限はされているが、現状ケイが所持しているのは”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“と長剣だけだ。法律上は何の問題も無い。</p><p>ちなみに、名誉市民であろうと何であろうと、鏃や十字弓(クロスボウ)の矢弾(ボルト)、あるいはそれに類する鋭利な凶器などの『遠距離から対象を傷つける道具』の持込は、暗殺防止の観点からかなり厳しく制限されている。万が一許可無しで持ち込んでいるのが露見した場合は、王侯貴族からの擁護でもない限り、問答無用で死罪に処せられるらしい。</p><p>サティナの麻薬検査に比べれば、城門で厳密なボディチェックがあるわけでもなく、その気になれば隠し持って入るのも不可能ではないだろうが―、いずれにせよケイには縁のない話だ。</p><p>許可……む、名誉市民か、ケイイチ＝ノガワ……この名前……</p><p>ケイから受け取った身分証に目を通し、兜の下、口元を引き結ぶ衛兵。</p><p>あっ、隊長。この人、今大会の射的部門の優勝者ですよ</p><p>近くに居た別の衛兵が、ひょこひょこと近づいてきてケイを指差した。</p><p>自分、会場で見てたんで顔覚えてます</p><p>む、そうか</p><p>部下の言葉に、手の中の身分証と目の前のケイをしげしげと見比べる衛兵。先ほどからやたらと威圧的な態度といい、色々と遠慮の無い奴だな、とは思いつつも口には出さず、ケイは小首を傾げて見つめ返した。</p><p>……ふむ、失礼した。ちなみに、そちらは</p><p>俺の妻だ</p><p>はいコレ婚姻証明書</p><p>手際よく、羊皮紙を広げて見せるアイリーン。今度は手に取るまではせずに、衛兵はさっと文面に目を通し、</p><p>む、これは失礼した。怪しい者ではなかったのだな</p><p>あんたの同僚が城門で見張ってるんだから、ちょっとは信用しろよー</p><p>ぷーっと頬を膨らませたアイリーンの一言に、衛兵はこつんと兜を叩いて苦笑する。</p><p>ふむ、まあ確かに、その通りだが。どうにかして壁を乗り越えて忍び込んでくる、不逞の輩がいないとも限らんからな</p><p>いずれにせよ失礼した、と言いながら、そのまま彼は自分の持ち場へ戻っていった。</p><p>お気を悪くなさらずに。うちの上司、アレでかなり真面目な性質(タチ)でね</p><p>助け舟を出した部下の衛兵が肩をすくめ、おもむろにケイに向き直る。</p><p>ところで！　良かったら握手してもらえませんか？　大会でのご活躍、見てましたよ！　本当に凄かったですね！　自分なんかもう大興奮でッ！</p><p>あ、ああ。楽しんで貰えたなら何よりだ</p><p>ぐいぐいと押してくる部下衛兵に少し気圧されながらも、差し出された手を握り返し、まんざらでもない様子を見せるケイ。それを見て、ふーむと眉をひそめたアイリーンが、</p><p>なあ、ケイって大会で優勝した割に、あんまり顔と名前が知られてないのか？</p><p>えっ？　……うーん、そうですねえ、</p><p>その問いかけに、ケイの手を握ったまま首を傾げた部下衛兵は、</p><p>……人によるんじゃないでしょうか。会場にいなければ顔は分からないでしょうし、余所者が優勝した、って聞いただけで興味を失くす人も多いですからね</p><p>え～、なんだそりゃ</p><p>がっくりと脱力して、アイリーンが気の抜けた声を上げる。</p><p>ああでも、うちの上司は例外ですよ。あの人、ついこの間まで所用で別の都市に行ってたんで、そもそも大会のことあんまり知らないんです</p><p>そうだったんだ。いやさ、さっきみたいに何度も止められたら、鬱陶しいじゃん？</p><p>……そんなに、何度も来る予定なんですか？　一級市街に</p><p>ああ。図書館に用事があってな。しばらく調べ物をすることになると思う</p><p>重々しく頷きながら、ケイ。</p><p>なるほど、図書館ですか……。私たち衛兵の数も限られてますから、そのうちあなたの顔も知れ渡ると思うんですがねー。そういうことでしたら、馬か馬車で乗り入れたらどうです？　城門を越えた時点で、呼び止められることはなくなると思いますよ</p><p>……成る程、馬ごとは忍び込めないからな。しかし図書館に厩舎はあるのか？</p><p>あります。何せ遠路はるばる来られる、高貴な身分の方々もいらっしゃいますからね。よほど凶暴な騎獣でもない限り大概のものはお世話できるでしょう</p><p>ほう。ならば次回は、馬で乗りつけるとしようか</p><p>図書館に行く日、ずっと厩舎に押し込められているよりは、少しでも歩けた方がサスケたちも気分がいいだろう。握手(ファンサービス)も切り上げて部下衛兵に助言の礼を言い、ケイたちは再び歩き出した。</p><p>―しかし、職務質問が鬱陶しいから馬に乗るというのも、間抜けな話だな</p><p>仕方ねーよ、だって実際鬱陶しいもん</p><p>ケイの呟きに、ひょいと肩をすくめるアイリーン。</p><p>ここしばらくアイリーンと一緒に過ごして分かったが、どうやら彼女は『アウェー感』というものが非常に苦手らしい。文化的・精神的に受け入れてもらえない、あるいは自分にとって相手が受け入れがたい、という状況に酷くストレスを感じるようだ。特にウルヴァーンは官民揃って余所者には冷たいところがあるので、このところのアイリーンはどうにも不貞腐れ気味だった。</p><p>元々、欧米人に混ざって一人でゲームを遊んでいたケイは、そういった疎外感にはもう慣れっこであったが―。</p><p>ちらりと隣を歩くアイリーンに目をやる。つまらなさそうな、ちょっと落ち込んだような、このところよく見かける表情。ケイは無造作に、その金色の髪に手を伸ばした。</p><p>な、なに</p><p>突然、わしゃわしゃと頭を撫でてきたケイに、アイリーンが目をぱちくりさせる。</p><p>……なんだよケイ</p><p>いや、お前が居てくれてよかったよ</p><p>はぁ？</p><p>さらに目を瞬くアイリーンに、照れ臭くなって頬をかいたケイは、 なんでもない と首を振った。</p><p>大通りを抜ける。</p><p>いつの間にかケイたちは、噴水のある大きな広場に出ていた。足元はこれまでと違い、赤煉瓦ではなく大理石のタイルで固められている。さんさんと降り注ぐ陽光の下、きらきらと輝く白色の世界が、目の前に広がった。</p><p>そして、その先にそびえ立つ、白亜の宮殿。</p><p>……これが、</p><p>―とうとう、辿り着いた。</p><p>ウルヴァーンの誇る、叡智の結晶。</p><p>公都図書館が、今ここに二人を迎えた。</p><p>†††</p><p>まず、その佇まいに息を呑む。</p><p>装飾が、造形が、周囲の建築物とは一線を画していた。背の高さは、付近一帯と比べてもそう大差ない。だがその圧倒的なまでの奥行きが、蔵書量の凄まじさを予感させた。</p><p>構造は端的に言えば半月に近い。来訪者を迎え入れるようにして、建物全体が緩やかに孤を描いている。正面の幅は百メートルを優に越えているであろう。一階から三階まで細長いアーチ状の窓が設けられ、その全てに極めて透明度の高いガラスが嵌まっていた。</p><p>壁面は上品な白。大理石のなめらかな輝き。まるで太陽の光に染め上げられたかのような飴色の照り返しが美しい。そして石材の光沢によってさらに引き立てられているのが、一面に刻み込まれたレリーフだ。花や蔓、小動物の意匠は職人の執念を感じさせるほどに繊細で、その陰影が大理石の色と絶妙なコントラストを生んでいた。仮にそれらを芸術品として見た場合、一体どれほどの価値を持つのか―呆けたように視線を這わせながら、ただただ感嘆の溜息が洩れるばかり。</p><p>また、壁と一体化する形で随所に配された、精巧な彫像にも目を奪われる。今にも動き出しそうな―とはよく聞く表現だが、これらの彫像はその真逆を行っていた。まるで、生命(いのち)ある者の時をそのまま止め、石として固めたかのような生々しさ。元素の精霊を象ったものか、あるいは歴史上の偉人を再現したものか―羽衣をまとった乙女たちが妖艶に微笑み、分厚い本を手にした老人が厳(いかめ)しい顔つきで空を睨む。髪の毛一本、風にはためく衣のしわ、そういった細部が恐ろしいまでに彫り込まれている。</p><p>そして、それらの中でも最も目を引くのは、図書館の中心部、屋根に鎮座する一体だ。右手に剣をだらりと下げ、左手に短杖(ワンド)を高らかに掲げる美丈夫の姿。その背中にはまるで天使のように、大きな一対の翼が広げられている。ただし、その翼は鳥のそれではなく、蝙蝠のような、爬虫類のような、あるいは―“竜”を彷彿とさせる、皮膜と鋭い爪を持つ攻撃的なものであった。</p><p>まっすぐに前を向いた美丈夫は、どこまでも凛としてそこに在る。厳しい表情は下界を睥睨するが如く、それでいてある種の慈愛を漂わせる。竜のような荒々しさの中に、母性的な穏やかさを内包する存在。欲求に対する理性の勝利と、知のもたらした調和を高らかに謳(うた)う、気品に満ち溢れた像であった。</p><p>しばし声もなく、ケイたちは見惚れる。</p><p>……すげえな、まるでルーヴルだ</p><p>やがて、アイリーンが口を開いた。</p><p>ルーヴル？</p><p>ケイがオウム返しにすると、アイリーンは小さく頷いて、</p><p>そ、ルーヴル美術館。パリの</p><p>……行ったことあるのか？</p><p>うん、小さい頃に、一度だけ……</p><p>遠い日の記憶と重ね合わせているのか、アイリーンはぼんやりした表情だった。</p><p>ルーヴルって、こんななのか……</p><p>あー、いや、建物自体は似てる。けど、こんな感じの石像はついてなかったな。どっちかっつーと、石像のノリはヴァチカンのサン・ピエトロ広場っぽいと思う</p><p>そうなのか……</p><p>成る程、と頷くケイも、やはり何処かぼんやりとしていた。</p><p>……そろそろ、入ってみるか？</p><p>そう、だな。ここで見惚れてても意味ねーし</p><p>二人で よし！ と気合を入れ、ケイたちはゆっくりと歩き始める。</p><p>図書館正面の入り口は巨大な観音開きの扉だ。木の枠にガラス細工が嵌め込まれ、中が透けて見える構造になっている。鉄格子の嵌まった一階の窓に比べると防犯性能は無きに等しいが、扉の両側には屈強な二人の警備兵が立っていた。</p><p>両者ともに街中の衛兵よりは軽装で、胸当ても兜も装備していない。黄と黒の縞模様の衣を身に纏い、手には背丈より少し長い程度の金属製の棒を握っている。ハルバードに比べれば随分と大人しい得物だが、恰幅のよい男が持てば威圧感は充分だ。いかにも職務に忠実、と言わんばかりに真面目腐った顔で、二人とも直立不動の体勢を維持していた。</p><p>ケイたちが歩み寄っても、警備兵たちはぴくりとも表情を動かさない。そのまま呼び止められることもなく、ケイが取っ手に触れようとしたところで―音もなく、独りでに扉が開かれた。</p><p>一瞬、虚を突かれて固まるも、すぐに あっ とアイリーンが何かに気付く。</p><p>これ、魔道具じゃん</p><p>よくよく見れば、扉の装飾には巧妙に精霊語(エスペラント)の呪文が隠されていた。随所に嵌め込まれている宝石も、ただのお飾りではないらしい。</p><p>無駄に金かけてるな……</p><p>感心したような、呆れたような表情のケイ。現代人からすればただの自動ドア、地味なことこの上ないが、この手の物理的な作用をもたらす魔道具は造るのが存外難しい。高位の精霊でなければ実現できないはず―そして高位の精霊になればなるほど、要求される触媒も希少なものとなる。サイズ的なことを考えると、この大扉の作成に必要だった触媒だけで、ちょっとした家くらいならば建てられるのではなかろうか。</p><p>そんなことをつらつら考えながら中に踏み入ると、そこは広々としたホールであった。</p><p>内装はまさしく、“豪華絢爛”と言う他ない。白を基調としているあたりは外壁と一緒だが、天井のフレスコ画には青空で舞い遊ぶ精霊たちの姿が描き出され、また梁と言わず柱と言わず、至る所に金箔をふんだんに用いた装飾がなされていた。</p><p>入って正面には受付と思しき木のカウンター、その奥にはずらりと並ぶ本棚―図書館の内部が見て取れる。上品な臙脂色のふかふかな絨毯、日当たりのいい窓際には座り心地の良さそうなソファが置かれ、ホールの突き当たりには高級感のあるテーブルや椅子がいくつも並ぶ。ティールームであろうか、茶器を載せたトレイを手に、忙しげに動く給仕の傍ら、ソファや椅子に腰掛けて談笑する身なりの良い人々の姿も見られた。</p><p>そして彼ら全員の視線が、新たに入ってきたケイたちに集中する。</p><p>…………</p><p>なんとなく気まずい。ケイたちの存在は、この場では明らかに浮いていた。</p><p>ケイもアイリーンも服は新調していたが、所詮は平民向けのもの。周囲の人々が身にまとう絹の衣に比べれば、若干見劣りするのは否めない。皆、すぐに目を逸らし、何事もなかったかのように会話を再開していたが、露骨になり過ぎない程度に注意を向けられているのが丸わかりだった。</p><p>しかしこの程度で怖気づくほど、ケイもアイリーンも柔なメンタルはしていない。互いに顔を見合わせ、小さく肩をすくめただけだ。つかつかと、揃って受付に近づいていく。</p><p>落ち着いた色合いのカウンターの奥に、受付嬢と思しき若い女が二人。</p><p>―こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか</p><p>そのうち、片眼鏡(モノクル)をつけたショートカットの受付嬢が、先んじて尋ねてくる。立ち仕事か、と一瞬思ったが、どうやら背の高い椅子に腰掛けているらしい。自分よりも少し低い位置にある受付嬢の目を見て、ケイは口を開いた。</p><p>図書館を利用したいんだが</p><p>……初めてのご来館ですね？　利用料が年間で銀貨五十枚となりますが</p><p>払えるのか、と言外に尋ねているようだ。</p><p>それは、今ここで払っても構わないのかな</p><p>懐から財布を取り出し、カウンターの上に置く。じゃら、と重々しい硬貨の擦れる音が響いた。</p><p>ほう、と声には出さないが、受付嬢が感心したように小さく首を傾げる。</p><p>もちろんです</p><p>それは良かった</p><p>受付嬢の差し出してきたトレイに、財布から取り出した金貨を１枚載せる。ゆっくりと目を瞬いた受付嬢は、ケイとアイリーンの間で視線を彷徨わせた。</p><p>お二人分、ですか</p><p>ああ、よろしく頼む</p><p>……かしこまりました。登録しますので、身分証の提示をお願いいたします</p><p>心なしか、先ほどよりも恭しい態度。ケイは身分証を、アイリーンは婚姻証明書をそれぞれ提示し、図書カードを作成してもらう。</p><p>手のひらサイズの羊皮紙に、銀色の万年筆で丁寧に文字を書き込んでいく受付嬢。鈍く輝く青色のインク―注意深く、一文字ずつ刻み込んでいくかのような手つきだ。</p><p>……はい、それではここに、サインをお願いします</p><p>万年筆を渡され、言われるがままに名前を書き込む。すると羊皮紙の上、書き込んだサインがすぅっと青白く発光した。</p><p>これで、このカードは一年間有効となります。有効期限が過ぎますとカードそのものが自動的に消滅いたしますので、ご了承ください</p><p>淡々とした受付嬢の説明を聞きながら、手の中の万年筆をしげしげと観察するケイ。</p><p>（これも魔道具か……）</p><p>あるいは、インクも特殊なものに違いない。一々小道具が凝っている。</p><p>ありがとうございました。さて、お二人とも、初めてのご来館とのことですが、施設の説明等は必要でしょうか</p><p>片眼鏡の位置を調整しながら、無表情のまま受付嬢が問いかける。ケイがアイリーンを見やると、彼女は小さく頷いた。</p><p>お願いしよう</p><p>分かりました。それでは、</p><p>やおら席を立つ受付嬢。受付の業務は、もう一人の同僚に任せるのだろう。カウンターから出てみれば、片眼鏡の受付嬢はかなり背の高い女だった。おそらく１７０後半はあると見ていい。</p><p>では、このエントランスの説明から。まずあちらのティールームですが、当館の会員の方は無料でご利用いただけます。また、二階には個室や会議室もございますので、事前にご予約いただければ―</p><p>ティールームやサロン、御手洗いなどの説明を受け、いよいよエントランスから図書館の内部に入り込んでいく。</p><p>―静謐な空間だ。本や巻物のぎっしりと詰まった棚が、壁のように整然と立ち並んでいる。足元の絨毯は落ち着きのある緑で、フロア中央には椅子やソファが置かれていた。</p><p>一階は主に、詩や小説の文学、歴史書などを取り扱っております。基本的に作者・著者別に分けられておりますが、内容やジャンルによって何かお探しの場合は、受付か司書にお申し付けくださるとよいでしょう</p><p>少し声のトーンを落とし、囁くように受付嬢。 司書はあちらの事務室に～ と続いて説明し続けるそばで、アイリーンがくいくいとケイの袖を引っ張った。</p><p>ん？　どうした</p><p>ケイ、あれっ、あれ見て</p><p>何やら興奮した様子で近くの壁を指差すアイリーン。</p><p>怪訝な顔でそちらを見やれば、壁面に固定されたランプ。</p><p>無色透明なガラスの中で、淡い光が揺れている。一瞬、昼間から油を燃やすとはなんと贅沢な―と思うケイであったが、すぐにそれが炎の明かりでないと気付き愕然とした。</p><p>あれは、魔術の明かりだ。</p><p>極めて貴重な照明の魔道具。弾かれたように周囲を見回し、壁に一定間隔で取り付けられたランプから、天井にぶら下がるシャンデリアに至るまで、全てが火を使わない魔道具で統一されていることに気付く。</p><p>嘘だろ……ゲームでも一度にこんな量はお目にかかったことないぞ……</p><p>いくら火災対策っつっても、コレはヤバイよな</p><p>二人ともにわかに茫然自失となっていた。作成難易度とコストが馬鹿高く、一部の古代遺跡やダンジョンで発掘される他は、ゲーム内で入手すらままならなかった魔道具。それが、この広い館内全てをカバーするほど、大量に備えられている―</p><p>ウルヴァーンの生産能力と経済力に、ケイもアイリーンも驚くばかりであった。</p><p>……よろしいですか？　では二階へ</p><p>そんなケイたちをよそに、淡々と説明を続ける受付嬢。彼女に連れられて、今度は階段で二階へ上る。</p><p>さて。二階は学術書、及び”大百科事典”のフロアとなっております</p><p>“大百科事典(エンサイクロペディア)”？</p><p>はい。こちらです</p><p>受付嬢が示すのは、二階の窓際、ずらりと並んだ二十六架の巨大な本棚。それぞれA, B, C…と棚にアルファベットが振ってある。そして棚の中には、本でも巻物でもなく、革で装丁されたファイルのようなものがぎっしりと並べられていた。</p><p>こちらが、当館の誇るエンサイクロペディアです。これら全ての棚が、一冊の百科事典として機能します。一つの語句から、多角的に調べを進めていくことができるのです</p><p>一番手前のAの棚に近づいた受付嬢が、 例えば、 と一冊のファイルを抜き出した。</p><p>“リンゴ”を調べたい場合は、こちらのように</p><p>背表紙に”Apple”とあるファイルを手渡してくる。アイリーンとともにパラパラとめくってみると、そこにはリンゴの基本的な情報―植物学的な特徴、主な産地や品種、収穫の季節や栽培法などが、イラストも交えて大まかに記されていた。</p><p>興味深いのは、ページによって文字の筆跡が異なっていることだ。またファイルの末尾には、参考文献や”編集者(エディタ)“なる者達の名が書き連ねてある。</p><p>当館の利用者のうち、高い教養と深い専門知識を持つ方は”編集者(エディタ)“と呼ばれ、エンサイクロペディアを編纂する権利を有しておられます。新たな発見があれば情報の追加がなされ、間違いが見つかれば訂正される。当館のエンサイクロペディアは、絶えず進化し続ける事典なのです</p><p>……要は、アナログのウィキペディアだな</p><p>違いない</p><p>アイリーンの言葉に、ケイも深々と頷いた。</p><p>アナログ……、ウィキ？　いえ、エンサイクロペディアですが</p><p>意味が通じなかったらしい受付嬢が真顔で訂正してくるが、既にこのとき、二人の注意は棚の方へと向けられていた。</p><p>早速Nの棚に移り、北の大地(ノースランド)の項目を探す。すると想像以上に分厚いファイルが見つかり、中身をめくってみれば雪原の民の風習や伝承、伝説などが歴史書の出典付きで記されていた。</p><p>……これは、なかなか長い付き合いになりそうだな</p><p>パタンとファイルを閉じ、にやりと笑みを浮かべるケイ。少なくとも、手当たり次第に本を読み漁っていくより、調べ物が捗るのは間違いない。</p><p>俺は、とりあえず『北の大地』から攻めてみよう</p><p>じゃあオレは『霧』から調べていこうかね</p><p>この図書館であれば、『こちら』に来ることになった原因も掴めるかもしれない―</p><p>ケイたちの探求は、まだまだ始まったばかりであった。</p><p>34. 探求</p><p>―“北の大地(Northland)”。</p><p>北の大地とは、“アクランド連合公国”北部に位置する地域の総称である。</p><p>そのあまりの広大さと、後述の政治的な理由により、地政学的に明確な領域を定めることは困難を極めるが、一般的には緩衝都市”ディランニレン”を境目として北、雪原の民に実効支配されており、かつアクランド連合公国の支配の及ばぬ地域を『北の大地』と定義することが多い。</p><p>その実体は”民族共同体”とでも呼ぶべきもので、確たる王権は存在せず、有事の際は主な氏族の代表が一同に会し、全体の方針を決めていくという擬似的な合議制を取る。場合によっては代表同士の決闘によって議決を成すこともあるといい、その政治形態は極めて野蛮かつ原始的と言わざるを得ない。また、各氏族がそれぞれ土地の領有を主張しているが、氏族によってその線引きが異なるため、水源や鉱脈を巡っての氏族間での小競り合いが後を絶たないのが現状である。</p><p>北の大地における最大の都市は”シルヴェリア湖”の湖畔に位置する”青銅の環(ブロンズウィコリツォ)“である。これは、雪原の民のうち最大規模の八氏族（ウィラーフ、ミャソエードフ、ネステロフ、ジヴァーグ、パステルナーク、ヒトロヴォー、グリボエード、ドルギーフ）を筆頭に、ほぼ全ての氏族の代表が館を構える都市で、北の大地の政治的中枢といえる。</p><p>また、周辺には主要な大規模集落が散在しており、南部の都市”ベルヤンスク”を経由して緩衝都市ディランニレンまで直通の街道も整備されていることから、交通の面から見ても要衝であることは間違いない（ちなみに北の大地の整地技術は公国と比して非常に未熟であり、馬車で通行可能な街道は限られている）。</p><p>青銅の環(ブロンズウィコリツォ)からさらに北上すると、“白色平野(ヴィエラブニーネン)“に行き当たる。身を切るような氷点下の風が吹き荒れる中、季節を問わず雪が降り積もり、地平の果てまで何もない白い雪原が延々と続くという。かつて幾人もの冒険家が探索を試みたが、多くは帰ることなく、終にその果てまで辿り着いた者はいない。余談だが、環境の過酷さを鑑みても帰還率が低すぎることから、白色平野には人喰いの魔物が棲んでいるという言い伝えもある。</p><p>北の大地の西部は、公国と同様に”アルデイラ海”に面している。アルデイラ海沿岸部には漁港が栄え、北の大地にしては気候が温暖であることも相まって、過酷な環境に適応した雪原の民には西部は住み易い土地として知られている。</p><p>一説には、平原の民が”フォーラント”より”リレイル”の地に訪れたのと同時期に（P.K.400年前後）、雪原の民もアルデイラ海を越えて北の大地に漂着したと考えられているが、当時の記録が紛失してしまったため、その正確な起源は現在不明である（詳しくは”雪原の民”の項を参照）。</p><p>翻って東部には、白色平野(ヴィエラブニーネン)よりもたらされる豊富な水源により、森林地帯が広がっている。寒冷な気候風土に適応した針葉植物が多く、真冬に花を咲かせる植物や全身が体毛に覆われた人型原住生物など、一種独特な、興味深い生態系が構築されている。</p><p>それに関連して、北の大地で有名なのが”魔の森”の伝承である。これは東部の森林地帯のうち、比較的人里に近い南東部のことで、不可解なことにこの地域には年中濃霧が立ち込めており―</p><p>―“魔の森”（北の大地）。</p><p>『おお、凍える岩の狭間より湧き立つ、深く怖(おそ)ろしきものどもよ。</p><p>遥かなる高みより降り注ぐ陽光も、相競って吹き荒ぶ風も、おまえを避ける。</p><p>まるでもろともに、引き込まれるのを恐れるかのように―』</p><p>“北方紀行”より、著者・ハーキュリーズ＝エルキン。</p><p>“魔の森”、別名”賢者の隠れ家”、“悪魔の棲む森”とは、北の大地の北東部に広がる地域の呼び名である。</p><p>元来、北の大地の東部は白色平野(ヴィエラブニーネン)を水源とする樹海が広がっている、その中でも特に北東部は、気象条件を問わず常に霧が立ち込めているという。</p><p>この森は現地の住人たちに魔界、あるいはある種の聖域と看做(みな)されている。前述の”北方紀行”の著者、旅行家ハーキュリーズ＝エルキンは『森に立ち込める霧はあまりに濃く、まるで巨大な壁が目の前に立ちはだかっているかのようであった』と記している。付近の村に滞在した四日間、ハーキュリーズは幾度となく森の入り口まで足を運んだが、その異様な雰囲気に圧倒され終に中にまでは踏み入ることは出来なかったという。</p><p>その埋め合わせをするかのように、ハーキュリーズは現地の住民に精力的な聞き込みを行い、情報収集に努めた。霧の中で蠢く、見上げるほどに巨大な人の影。時折聞こえてくる女の悲鳴に似た絶叫や無数の足音。夜になればそこかしこに漂う鬼火など、この森にまつわる不可解な話は枚挙に暇(いとま)がない（詳しくは”北方紀行”の項を参照）。</p><p>しかしその中でも特に興味深いのは、“賢者の隠れ家”という別名の由来にもなった、霧の彼方に館を構える賢者の逸話であろう。数歩でも足を踏み入れれば発狂、迷い込めば命はないと言われる”魔の森”であるが、正気を保ったまま戻ってくる者も稀に存在する。</p><p>その者達の口から語られるのが、霧の森に佇む、場違いなほど豪奢な館の話だ。そこには奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が、無数の蔵書に囲まれて暮らしているという。森を彷徨い歩き、運良く館まで辿り着いた者たちは、賢者に森の入り口まで送り届けて貰い無事に生還を果たしたとのことだ。その際、万病の特効薬や貴重な魔術の秘奥を与えられた、という話もあるそうだが、真偽のほどは定かでない。</p><p>いずれにせよ、“魔の森”に迷い込み、赤い衣の賢者と邂逅した、と主張する者が一定数いるのは事実である。研究によれば、“魔の森”には低位の精霊の活動を阻害するほどの強力な結界が張り巡らされており、少なくとも森の中にそういった魔術的領域を構築する”何か”がいることは確実視されている。</p><p>しかしながら、P.K.７４２年の”戦役”による公国との関係悪化を受け、魔術師団の調査が打ち切られたことから、詳しいことはまだ判明していない。</p><p>†††</p><p>もぞもぞ、と、隣で何かが動く気配。</p><p>薄暗い中、ケイはぼんやりと目を覚ました。宿屋の一室。天井の木の梁、鎖にぶら下げられたランプ。横を見れば、 う～ん と声を上げながらアイリーンが目を擦っているところだった。</p><p>ぱちぱちと、ケイを捉える青い瞳。お互い寝ぼけ眼のまま、しばし見つめ合う。</p><p>……おはよ、ケイ</p><p>おはよう、アイリーン</p><p>頭を撫でると、むふ、と笑ったアイリーンが、上体を起こして うーん と猫のように背伸びをした。シーツがぱさりと落ちて、白いからだが露になる。</p><p>両手を挙げて、ちょうど万歳の形で惜しげもなく晒されるそれを、斜め下の角度から鑑賞する。まろび出る、と表現するには些(いささ)か慎ましやかだが、大きさに貴賎はない。右胸、白い肌にはっきりと残る、小さな傷跡―</p><p>……む</p><p>と、視線に気付いたアイリーンが、ぴろりとケイのシーツを捲り上げる。</p><p>―He’s(げんき) fine(だな)!</p><p>ニヤリと笑うアイリーンに、 うむ と重々しく頷いてみせながらケイは身を起こす。このまま若さに身を任せておっぱじめたいのは山々であったが、そうすると一日が使い物にならなくなってしまう。イチャつくのは暗くなってからでも遅くはない。</p><p>さて、起きるか</p><p>んだな</p><p>いそいそと、足元に脱ぎ散らかされていた下着を身に着け始めるアイリーン。それを尻目にベッドから抜け出したケイは、雨戸を大きく開け放った。</p><p>雲ひとつない快晴。朝焼けの空に視線を走らせ、星々の並びに異常がないことを確かめたケイは満足げに頷く。</p><p>爽やかな朝だ。今日も、いつも通りの一日になるだろう。</p><p>ケイたちが公都図書館に出入りするようになってから、早二週間。</p><p>相変わらず”HangedBug”亭に部屋を取るケイたちであったが、ここのところ、その日常はパターン化してきている。</p><p>まず朝起きて顔を洗った後は、中庭で軽くストレッチだ。勿論ストレッチといっても、いやらしい方ではない。屈伸やアキレス腱から始まり、柔軟体操で体をほぐしていく。</p><p>元体操選手で、身のこなしからしていかにも体の柔らかそうなアイリーンは兎も角、ケイまでが１８０度開脚をこなすのは傍目には奇異に映るらしい。中庭に顔を洗いに出てきた宿泊客たちが、地面に足を広げてべったりと張り付くケイを見るたび、ぎょっとした顔をしていた。</p><p>ちなみに、ケイの身体(アバター)の柔らかさは、今に始まったことではない。 DEMONDAL のゲーム内ではアバターの関節が柔らかめに設定されていたので、リアルではどんなに体の硬いプレイヤーでも、楽々体操選手のような柔軟性を発揮できたのだ。その点、生身が骨になりかけていたケイには、皮肉としか言いようがなかったが―。</p><p>余談だが、ゲームのノリのままリアルで１８０度開脚しようとして、ぎっくり腰になったプレイヤーもいるらしい。</p><p>さてと。柔軟はこれくらいにして……</p><p>おっ、やるか？　よーし、かかってこいよ！</p><p>コキコキと首の骨を鳴らすケイ、挑発的にクイクイと指を曲げるアイリーン。</p><p>柔軟体操(ウォーミングアップ)の次は、アイリーンと組み手をする。勿論、組み手といってもいやらしい方ではない。腕がなまらないよう、近接戦闘の復習だ。</p><p>他の宿泊客たちの好奇の視線をよそに、中庭で相対する二人。ケイはファイティングポーズで、アイリーンは自然体のまま、不敵な笑みを浮かべている。真剣で遣り合うのは流石に危険なので、念のため互いに素手でやっているが、―ケイが本気で剣を持って斬りかかったところで、アイリーンに傷を負わせられるか怪しい。</p><p>一呼吸。数歩先、視界に悠然と佇むアイリーンを捉える。</p><p>……いくぞ</p><p>ぐんっ、と。</p><p>踏み込んだ。最小限の動きを意識し、掌底を放つ。</p><p>狙うは胴。威力よりも速さを重視、迷いなく叩き込む。</p><p>そこに一切の手加減はない。容赦もない。</p><p>手抜きしてどうにか出来るほど、アイリーンは易(やす)い相手ではない。</p><p>肉薄。急激な接近、アイリーンの顔が大写しになるような錯覚。</p><p>不敵な、面白がるような笑みが妙に印象的に映る―</p><p>瞬間、金色がぶわりと広がった。</p><p>それはさながら白い蛇のように。</p><p>絡み取る。ケイの右腕。捻じ曲がる軌道。</p><p>凄まじい負荷が肩を襲い、たまらず姿勢を崩す。</p><p>そして狙い澄ましたように足が払われ、視界がぐるんと回ったかと思うと、気がつけば尻餅をついていた。</p><p>すわ喧嘩かと止めに入ろうとしていた見物人たちが、呆気に取られたように、ぽかんと口を開けて硬直している。呆然としているのは、ケイも同じだった。何が起きたのか分からない。</p><p>ぺしっ、と軽い音を立てて、首の後ろが叩かれた。</p><p>勢いがよければ良いってもんじゃないぜ、ケイ</p><p>振り返れば、アイリーンが腰に手を当ててケイの顔を覗き込んでいる。</p><p>……そう言われてもなあ</p><p>唇を尖らせたケイは、困り顔で立ち上がった。</p><p>今の、どうやったんだ？</p><p>どうって……右手をこう、ガッて引きながら、後ろにジャンプして足払い</p><p>お、おう……</p><p>言っていることは分かるが、実際にやっているところをイメージできない。</p><p>毎回言ってるけど、ケイの攻撃は素直すぎるんだよー</p><p>しかし、俺がかけられるフェイントなんざ高が知れてるからな……</p><p>や、フェイントとかそういうのじゃなくて</p><p>―攻撃後の隙が多い。</p><p>―予備動作が分かりやすい。</p><p>―反撃されてからのリカバーが遅い。</p><p>アイリーンが次々とケイの弱点を挙げていく。手厳しい指摘にケイは渋い顔だ。</p><p>基本的に、力比べになれば滅多な相手に負けないケイだが、“柔よく剛を制す”の言葉通り、アイリーンのような技量に長けた戦士とはとことん相性が悪い。弓の腕こそ頭抜けているものの、こと近接戦闘にかけては基本から外れた動きができないので、一定ラインより上の戦士にはまるで歯が立たないのだ。</p><p>ちなみに、ゲーム内の上位陣にはアイリーン並の戦士がゴロゴロいたので、その中でのケイの相対的な強さはお察しであった。</p><p>―と、いうわけで、その辺に気をつけてもう１回やってみよー</p><p>出来る気がしない……</p><p>心なしか先生っぽい口調のアイリーンに、早くも諦めモードのケイ。ゲーム時代から明白だったが、ケイに白兵戦のセンスはない。</p><p>その後、３０分ほどアイリーンに関節を極められたり投げ飛ばされたりしてから、最後に打撃のスパーリングをこなし、朝の運動は終了した。</p><p>二人で組み手をしている間に、朝の混み合う時間は過ぎたのか、食堂はそれなりに空いていた。</p><p>あら、おはようお二人さん。今日も元気ね、朝から訓練なんて</p><p>ケイたちが食堂に入ると、トレイを片手に忙しげに給仕していたジェイミーが愛想よく笑いかけてくる。</p><p>やあ、おはよう。やらないと体が鈍るからな</p><p>それで、朝食？</p><p>ああ、いつもどおりで頼む</p><p>OK、ちょっと待っててね</p><p>厨房の奥へと引っ込んでいくジェイミー。一時はケイとアイリーンが揃って登場するたびにダメージを受けていたが、流石にもう慣れたのか、今では平気な様子だった。</p><p>一方、ケイの傍らのアイリーンは、ジェイミーの方は見向きもせずに、他の客の皿をチラ見して 今日はホットサンドか…… などと呟いている。大会の打ち上げ以来、アイリーンは積極的にジェイミーと話そうとせず、また、ジェイミーもアイリーンと目を合わせようとしない。女の確執をビンビンと感じるケイであったが、この件に関しては努めて気付かぬフリを決め込んでいる。触れるとロクなことにならないのは火を見るより明らかだった。</p><p>で、今日はどうする？</p><p>いそいそと席に着きながら、アイリーンが問いかけてきた。</p><p>どうするもこうするも、……いつも通りだろ</p><p>だよなー</p><p>にべもないケイの返答に、へにゃりとテーブルに突っ伏すアイリーン。ケイもため息ひとつ、遠い目で頬杖をつく。</p><p>ここ二週間、図書館が休館の日曜は除いて、ケイたちは朝から晩まで読書漬けだった。</p><p>“大百科事典(エンサイクロペディア)“で気になる単語を調べ、並行して参考文献や関連書籍なども読み込んでいく。便利な検索機能があるわけでもなく、 どの情報が必要なのか は結局自分でしか判断できないので、自分で手当たり次第に目を通すしかない。そして学術用語や詩的表現に苦戦させられ貸し出しの英英辞典が手放せない日々には、ケイもアイリーンもいい加減うんざりしていた。</p><p>が、その甲斐あってか、調査自体は非常に捗っている。</p><p>むしろ必要な情報はほぼ出揃った、といっていい。</p><p>元よりエッダから”霧の異邦人”というかなりピンポイントな情報は聞いていたので、その線を辿って調べを進めていたのだが―調べれば調べるほど”魔の森”や”赤衣の賢者”など、興味深い伝承が次々と見つかった。</p><p>特に”魔の森”に関しては、十数年前に派遣された魔術師団の研究資料が公開されていたため、情報の確度はかなり高い。その他の伝承とも絡めて多角的に検討した結果―高位の精霊か、件の”賢者”か、はたまた別の魔術的要因か―詳細は不明だが、いずれにせよケイたちは、北の大地の”魔の森”に転移の手がかりがある可能性が高い、という結論に達した。</p><p>加えて、（軍事上の理由で公国の地形図は禁書扱いであったにもかかわらず）北の大地中央部から南部にかけての詳細な地形図が一般公開されていたため、既に”魔の森”の場所も判明しており、旅のルートもいくつか目処が立っている。</p><p>情報は得られた。後はそれをどうするか。</p><p>ケイたちは、次の行動を選択する必要に迫られていた。</p><p>はい、お待ちどうさま、ハムとチーズのホットサンドね</p><p>お、ありがとう</p><p>厨房から出てきたジェイミーが、ケイとアイリーンの前に皿を置いた。ケイが代金を支払い、その間にアイリーンが水差しから木のカップに水を注ぐ。いただきます、と二人で手を合わせてから、ホカホカのホットサンドにかぶりついた。</p><p>ん、うまい</p><p>山羊のチーズにも慣れたもんだな</p><p>とろりとした濃厚なチーズの旨み。知らず知らずのうちに沈んでいた表情が、ほのかな笑みに彩られる。</p><p>―なぜ、この期に及んで、ウルヴァーンに留まっているのか。</p><p>本来のケイたちの行動力を鑑みれば、すぐに北の大地に旅立っていてもおかしくはなかった。しかしなぜ、未だウルヴァーンで足踏みしているのか。理由はいくつかあるが、やはり最大のものは 踏ん切りがつかない ことであろう。</p><p>最悪、手がかりなど一切見つからないまま、数ヶ月あるいは数年、図書館で情報収集に挑む覚悟だった。それが思ったよりもあっさりと解決の糸口が見つかって、逆に拍子抜けしてしまったのだ。</p><p>本当にこれで大丈夫なのか。もっと他にあるのではないか―そんな半信半疑な気持ちが抜けきれず、自信が持てない。</p><p>また、目的地が”北の大地”なのもいけなかった。まずケイは言葉が通じないし、ロシア語話者のアイリーンであっても、ようやく慣れてきた公国の暮らしから離れて、見知らぬ土地へ旅に出ることに躊躇いがある。</p><p>そして、あ(・)の(・)アレクセイの故郷だ、二人で旅をすればトラブルは避けられないだろう。これが港湾都市キテネや鉱山都市ガロンのような大規模都市、あるいは辺境であっても公国内でさえあれば、気軽に現地まで行ってみようという気になったかもしれないが―</p><p>…………</p><p>ホットサンドを食べ終わり、水を飲みながら、二人して物思いに沈む。</p><p>―あと一押しが足りない。</p><p>口には出さないが、二人ともが似たようなことを考えていた。“転移”の核心に迫るならば、北の大地に行くべきだと、頭では理解はしている。</p><p>ただ、確証がない。紙面上の情報だけでは足りない。</p><p>自分たちの背中を押すに足る、何かきっかけが欲しい―</p><p>……やっぱり、話を聞いてみるべきだろうな</p><p>テーブルを指でトントンと叩きながら、アイリーンが切り出した。</p><p>話？　誰に？</p><p>うーん。……専門家、とか？</p><p>ケイの問いに、小首を傾げながら、疑問系でアイリーン。</p><p>専門家か……</p><p>顎に手を当てて、うーむ、とケイは唸る。</p><p>公都図書館は、周囲に諸研究施設や学院が密集しており、学者や研究者のような知識層が集う社交場(サロン)としても機能している。当然のように、北の大地に詳しい者もいるだろう。</p><p>そうだな……実際、“魔の森”までどのルートで行けばいいかも分からないし、その辺もアドバイスが貰えると助かるな</p><p>アドバイスという点では、雪原の民を探して直接話を聞くという手もあり、実際に何人かホランドのツテを頼りに探してみた。が、ウルヴァーン在住の雪原の民は西部の出身者が多く、南東部の”魔の森”に関しては図書館以上の情報は得られなかった。</p><p>そうしてみると出身者ゆえのバイアスがなく、全般的な知識がある（と期待される）平原の民の専門家の方が、むしろ意見を仰ぐには適しているかもしれない。</p><p>個人的には、エンサイクロペディアの編集者(エディター)あたりを当たってみたらどうかと思うんだけど。“北の大地”と”魔の森”の項って、確か同じ編集者だったじゃん？</p><p>そうだったのか、よく憶えてるな。よし、今日はその方向性で行こう</p><p>話がまとまったところでカップの水をぐいと流し込み、ケイたちは席を立った。</p><p>†††</p><p>編集者、ですか？</p><p>公都図書館。エントランスのカウンターで、片眼鏡(モノクル)の受付嬢が小首を傾げる。</p><p>ああ。エンサイクロペディアの”北の大地”の項の編集者で、名前は確か―</p><p>―『ヴァルグレン＝クレムラート』、だったかな？</p><p>言葉を引き継ぐアイリーン。ケイは受付嬢に だ、そうだ と肩をすくめた。片眼鏡の位置を直しながら、 ふむ、 と声を漏らす受付嬢。</p><p>ここ二週間ですっかり顔馴染みになった彼女だが、その名を『アリッサ』という。あまり表情の動かない長身の美女だが、話してみると意外に茶目っ気もある人物だということが分かってきた。</p><p>ヴァルグレン＝クレムラート氏、ですか……</p><p>……何か問題でも？</p><p>ほんのわずかに、表情を曇らせるアリッサ。ケイが尋ねると、 いえ、 と首を振ったアリッサは、</p><p>その、編集者の中でもヴァルグレン氏は、独特な方ですので</p><p>それは、頑固とか偏屈とか、そういう感じの？</p><p>いえ、そういうわけではないのですが……かなり神出鬼没な方なんです</p><p>アイリーンの率直な物言いに、かなり答えにくそうな様子のアリッサ。</p><p>直接会って話が聞ければ、と思っていたんだが……難しいのかな</p><p>はい。正直なところ、ケイさんの方から能動的にアポイントメントを取るのは難しいと思います。ご多忙な方であられますから</p><p>そうか……ならば、伝言だけでも頼めないものだろうか</p><p>それは……</p><p>せめて受付経由で連絡を、と思ったが、アリッサの反応は芳しくない。</p><p>それも、……難しいかと</p><p>え？　っつっても、エントランスに入ってきたところに、ちょっと声かけてくれるだけでもいいんだけど</p><p>アイリーンが素っ頓狂な声を上げる。何も、それほど無理なことを頼んでいるわけではない。不思議そうな顔をするケイたちに、少しばかり困った様子のアリッサは、周囲を気にするように声を潜めた。</p><p>……図書館の入り口は、このエントランスだけではないのです。必ず私が応対できるわけではありません</p><p>へえ、他にも入り口あるんだ？</p><p>はい</p><p>で、ヴァルグレン氏はそちらを使ってると</p><p>残念ながら、詳細は申し上げられません</p><p>一線引いた態度できっぱりと言い切るアリッサに、ケイたちは目配せしあった。どうやらワケありらしい。</p><p>そうか……じゃあ、他を当たってみるとするか</p><p>その方がよろしいかと。ヴァルグレン氏は、事情が特殊ですので……別の編集者であれば、連絡を取るのもさほど難しくはないと思います。なんでしたら、言伝も承りますが</p><p>いや、ヴァルグレン＝クレムラート氏以外は、まだ見当もつけていないんだ。ちょっとエンサイクロペディアを見てくるよ</p><p>肩をすくめて笑い、くるりと受付に背を向けたところで あ、お待ちください と後ろから声をかけられる。</p><p>折角ですので、ヴァルグレン氏の特徴だけでもお教えしておきます。あの方は本当に神出鬼没ですが、二階のエンサイクロペディアの近くで見かけられることが多いので、運が良ければ直接お会いできるかもしれません</p><p>おお、それはありがたい</p><p>編集者ヴァルグレン＝クレムラート―まるで珍獣か何かのような扱いだ。ワケありっぽい素性といい、係わり合いになったら微妙に厄介そうな気配といい、適度に好奇心がくすぐられる。ケイもアイリーンも興味津々だった。</p><p>はい。では、ヴァルグレン氏ですが、彼は五十代の男性です。顔は丸顔で中肉中背、服装は特に決まっていません―が、特徴的な点がひとつ</p><p>アリッサが、自分の前髪を摘んでひらひらとさせる。</p><p>髪型です。透き通るような銀髪で、綺麗に形が整えられています。キノコみたいに</p><p>ケイの脳内に、銀髪マッシュルームカットの老紳士が現れた。んふぅ、と隣でアイリーンが笑いを噛み殺す音がする。</p><p>……なかなか個性的な御仁のようだな</p><p>周囲の利用客を見回して、ケイは呟いた。</p><p>地球の中世ヨーロッパに比べれば遥かに技術が発展している『こちら』の世界だが、こと男性のヘアスタイルに関しては、残念ながら中世レベルと言わざるを得ない。手入れが楽で邪魔にならなければいい、とでも言わんばかりに、ざっくりと短く刈り込んだだけの髪型が一般的だ。尤も、長くて鬱陶しい部分を適当に後頭部で縛っているだけのケイも、人のことを言えた立場ではないのだが。</p><p>はい、かなり個性的です。私の知る限り、銀髪でヴァルグレン氏のような髪型の方は他にいらっしゃらないので、見かけたならまず間違いなく本人かと……</p><p>成る程、ならばそれを見逃さないようにしよう、ありがとう</p><p>改めてアリッサに礼を言い、ケイたちは館内に入っていく。</p><p>さて、またエンサイクロペディアを調べる日々が始まるのかね……</p><p>二階へ階段を上がりながら、溜息交じりにケイは呟いた。</p><p>だな……。正直、相談するならヴァルグレン＝クレムラートが一番なんだけどな。北の大地も魔の森もこの爺さんが両方編集してるし、書き方も一番分かりやすいしさ</p><p>仕方ない、とでも言わんばかりに、嘆息するアイリーン。</p><p>全くだ。それにしても、銀色のキノコヘアか……目立つな</p><p>仮にそんなヤツがいたら、見逃そうったって見逃しはしねーだろうけど</p><p>しかし図書館の入り口が他にあるとは知らなかった。ＶＩＰ用か？</p><p>身分の高い人は、庶民と同じ出入り口なんざ使わない、ってことじゃね</p><p>となると……ヴァルグレン氏もやんごとなき身分の方なのだろうか</p><p>その可能性は高いな。まあでも、忙しくて神出鬼没らしいし？　まさかこのタイミングでたまたま出くわすなんて、そーんな都合のいい……こと、は……</p><p>と、二階まで辿り着いた所で、階段の手すりに手をかけたまま、ゆるやかにアイリーンが動きを止める。</p><p>……どうした？</p><p>ぽかんとした表情のアイリーンに、訝しげなケイはその視線を辿り―</p><p>……あ</p><p>エンサイクロペディアの棚の間に、埋もれるようにして、細身な人影。</p><p>中肉中背で、落ち着いた緑色のローブを羽織った男が、熱心に何かのファイルを読み込んでいる。後ろ向いているため顔は見えないが、その髪色は不自然なまでに美しい銀色だった。</p><p>そして、耳にかからない程度の長さで、真横にびしりと切りそろえられた、独特なヘアスタイル。</p><p>…………</p><p>しばし呆気に取られる二人であったが、すぐに我に返った。</p><p>なあ、ケイ</p><p>なんだ、アイリーン</p><p>あれは……多分そう、だよな？</p><p>ああ……多分、な</p><p>神妙な顔で、ケイは頷く。</p><p>―銀色キノコが、そこに居た。</p><p>35. 助言</p><p>静謐な空間に佇む、銀色キノコヘア。</p><p>ゲーム時代、フィールドで初めて、契約可能な精霊に遭遇したときのことを思い出す。あのときも目の前に唐突に出現した精霊に、何事かと驚いたものだった。条件を満たせなかったので契約は出来なかったが。</p><p>ゆっくりと、恐る恐るといった風に、ケイたちはその人物に接近していく。</p><p>すまない、そこなお方</p><p>声をかけると、熱心に何かのファイルを読んでいた男がくるりと振り返る。</p><p>その顔を見た瞬間、思わずケイは笑いそうになった。年の頃は五十代後半といったところか、丸顔に団子鼻、垂れ目で、どこか愛嬌のある顔立ち。</p><p>そしてそこに、このヘアスタイルだ。嘘くさいほどに手入れの行き届いたマッシュルームカット。近寄ってみれば、前髪も見事にヴァーティカルであった。</p><p>が、初対面で顔を見た瞬間に吹き出すなど無礼というレベルではないので、鋼の意志をもって可笑しな気持ちを押し殺す。</p><p>―何かな？</p><p>……編集者の、ヴァルグレン＝クレムラート氏とお見受けするが</p><p>ふむ。いかにも、私がヴァルグレン＝クレムラートだが、君は……、いや待て</p><p>キノコヘア―改め、ヴァルグレンの視線がケイとアイリーンの間で揺れる。</p><p>君の顔には、見覚えがあるぞ。確か武道大会の優勝者ではなかったかな、射的部門の。名前は……ケイ＝ノガワといったか</p><p>その通りだ。……武道大会のときは、現地に？</p><p>ああ、見ていたよ、君の活躍は。遠目にだがね</p><p>茶目っ気たっぷりにウィンクしてみるヴァルグレン。しかし―ケイはその瞳に、どことなく、油断のならない光を見た気がした。髪型に惑わされそうになるが、ただの人好きのする老人ではない、と直感が告げる。</p><p>―して、その大会の優勝者殿が、私に何の用かな？</p><p>にこにこと微笑みながら、ヴァルグレン。気を取り直してケイは咳払いをひとつ、</p><p>初対面で厚かましいが、実は貴方に折り入って頼みがあるのだ</p><p>エンサイクロペディアの”北の大地”、“魔の森”の項でヴァルグレンを知ったこと、そしてケイたちの目的―魔の森に行くことなどを、大まかに説明する。</p><p>―というわけで、専門家の貴方からも、意見を賜りたいと思っていたのだが</p><p>……ふむ。なるほどなるほど</p><p>顔から笑み引かせ、小さく頷いたヴァルグレンは、近くの窓へと目をやった。</p><p>正午前の、穏やかな日差しが差し込んでいる。その向こう側で、ぱたぱたと羽音を立てて飛んでいく、白い鳩。</p><p>無言のまま懐に手を滑り込ませ、ヴァルグレンは懐中時計を取り出した。文字盤には淡い光が躍る―魔術式の時計。ちらりと時間を確認し、パチンと蓋を閉じる。</p><p>そうだね、立ち話もなんだし、座ろうかケイ君。あと、そちらのお嬢さんも</p><p>言うが早いか、ヴァルグレンはそそくさと近くのソファに腰掛ける。それに倣ってケイもその向かいに座り、続いてアイリーンがケイの隣に腰を下ろした。</p><p>ふかふかの、座り心地の良い深緑のソファ。外張りはしっとりとしたシルク製で、細やかな花々の刺繍が小気味良い。もう幾度となく腰掛けているが、座るたびに思わず撫で付けてしまうほど滑らかな手触りだ。</p><p>……さて、話を続ける前に、幾つかいいかね</p><p>ゆったりと背もたれに身を預けたヴァルグレンが、肘掛で頬杖を突く。</p><p>何なりと</p><p>まず、君たちの目的の動機が知りたい。なぜ、“霧の異邦人”や”魔の森”の伝説に興味を抱いたんだね？　そして、なぜ実際に”魔の森”を訪ねようと思ったのか―失礼だが、君たちは熱心な歴史学の学徒にも見えないし、興味本位で行くにしては北の大地は遠すぎる。それに、そちらのお嬢さんは雪原の民とお見受けするが、彼女の方が私より余程詳しいのではないかね</p><p>面白がるような、それでいて静かな瞳がケイを見据える。</p><p>……そうだな、</p><p>意見を求めるようにアイリーンを見たが、彼女は肩をすくめただけだった。ケイに任せる、ということらしい。</p><p>専門家にアドバイスを求める以上、下手に情報を隠しても良いことはない、と判断したケイは、自分たちの境遇も含めてある程度正直に説明することにした。</p><p>実は、俺たち二人ともが、その”霧の異邦人”かもしれないんだ―</p><p>ゲームや異世界といった概念はぼかし、順を追って説明する。白い霧に入り、そこで記憶が途絶え、気が付けば『こちら』の草原にいた―。</p><p>―俺たちは『ここ』がどこなのか。また、『故郷』に帰る手段があるのかどうかを突き止めたい。その手がかりが”魔の森”にはあるのではないか、と期待しているわけだが</p><p>……。なるほど</p><p>ケイの説明を聞き、中空に視線をやるヴァルグレン。物思いに沈む中、その右手が頭頂部へと向かい―しかし指先が髪に触れる前にぴたりと動きを止め、そのまま何をするでもなく手を引っ込めた。</p><p>つまり、何だ。君たちは故郷へ帰る方法を突き止め、やがて公国から去っていきたいと―そういうことかね？</p><p>いや、去るかどうかは未知数だ。俺としては、こちらの生活も悪くないと思う。だが、あのとき何が起きたのかだけはハッキリさせておきたいんだ</p><p>ふむ。そちらのお嬢さんもかね？</p><p>えっ</p><p>唐突にヴァルグレンに話を振られ、アイリーンがぴくりと肩を震わせる。</p><p>オ、オレは……『帰れるかどうか』だけ、はっきりさせてから考えたいと思う</p><p>そうか……</p><p>…………</p><p>アイリーンの迷いのある口調に、何を見出したのかは分からないが、何度も頷くヴァルグレン。</p><p>ケイは、無言だった。</p><p>……まあ、君たちの目的は大体分かった。そうだね、“魔の森”は、君たちにとって興味深い場所だと思うよ</p><p>それは、行く価値がある、ということだろうか</p><p>そう、だね。あると言っていいだろう</p><p>薄く笑ったヴァルグレンが、内緒話をするかのように声を潜める、</p><p>―実は、私も現地に行ったことがあるのだよ。“魔の森”にね</p><p>思わず、ケイとアイリーンは身を乗り出した。どうやらこのヴァルグレンという人物、ただの学者肌の男ではないらしい。</p><p>それはまた……まさか、ご自身が出向かれているとは知らなかった</p><p>なに、昔派遣された魔術師団の付き添いでね、流石に中にまでは踏み込んでいないよ。ただ、あの森には『何か』がある―これは確かだ。少なくとも、君たちが体験したような転移現象を引き起こすに足る、強大な力を持つ『何か』が、あそこにはある。私たちの調査では大したことは判明しなかったが、君たちが行けばまた、違ったものが見えてくるかも知れないね</p><p>薄く笑って、ヴァルグレンはソファに深く座り直した。</p><p>……そういった意味では、行く価値はあるだろう。君たちにとっては</p><p>その言葉は、控えめでありつつも、自信に満ちていた。黙ったまま、ケイたちはそれを吟味する。</p><empty-line/><p>……やっぱり、行くしかねえな</p><p>ぽつりと、アイリーンが呟いた。その声の小ささの割りに、目つきは鋭い。</p><p>そうだな</p><p>対して、ケイはただ頷いた。少なくとも反対する理由は持ち合わせていなかった。</p><p>……ヴァルグレン氏。やはり俺たちは、現地に行ってみようと思う</p><p>うん、いいんじゃないか</p><p>ただ、これも厚かましいお願いとは重々承知しているのだが―、出来ればどのルートで行けば良いか等、ご教授いただけないものだろうか</p><p>……ふむ。私としては吝かではないけどもね、ひとつ条件がある</p><p>にやりと意味深な笑みを浮かべるヴァルグレンに、思わずケイたちは身構える。</p><p>……なに、そう身構えずとも、大したことじゃない。君たちは公国よりも遥かに遠い所から来た、そうだろう？　ならば私が知らないような、珍しい知識も持ち合わせているのではないかね。―出来ればでいい、私が北の大地のことを君たちに教える代わりに、君たちも何か有用な知識を私に教えてくれたまえ</p><p>要はギブアンドテイクだよ、とヴァルグレンは言う。</p><p>有用な知識、か……</p><p>むぅ、と声を上げて指先で唇をなぞるアイリーン。ケイも腕を組んで考え込む。</p><p>科学技術や戦術論、電気を応用した通信など様々なものを考えていたケイだが、窓の外の青空を見て、ふと思いついた。</p><p>……ヴァルグレン氏、貴方は”占星術”をご存知か？</p><p>占星術……というと、星々の動きを見るという、あの占いかね？</p><p>そう。それの発展系で、星を見れば一週間後までの天気がほぼ確実に分かる方法があるのだが、それでどうだろう</p><p>ほう！　それは面白い</p><p>占星術を利用した天気予報。ヴァルグレンの眉がピクリと跳ねる。</p><p>どの程度正確に予見できるんだね？</p><p>翌日の天気は読み間違えない限り確実に当たるが、色と明るさの関係で、未来の天気になるほど読むのが難しくなる。具体的には、天頂に季節を問わず見える七つの星があるんだが―</p><p>身振り手振りも交えつつ、簡単に説明していく。顎の辺りを揉み解しながら、ヴァルグレンは終始興味深そうな様子で、</p><p>ふむ、なかなか面白いね。星を見てそこまで正確に天気が分かるという話は、ついぞ聞いたことがない。……しかし、口で説明されただけでは、よく分からないな。ケイ君、機会を見て一緒に星を見ながら教えてくれないかね？　それで手を打とうじゃないか</p><p>勿論、問題ない</p><p>よし。ならば先に、君たちへのアドバイスを終わらせてしまおうか。私も少々忙しい身でね、時間が惜しい</p><p>それは……こちらとしては構わないが、いいのか？</p><p>特に証拠を出したわけでもなく、あっさりと了承されたことに肩透かしを食らうケイ。こめかみを指先でとんとんと叩きながら、ヴァルグレンはニヤリと笑った。</p><p>なあに、それが本当かどうかは、実際にやってみればすぐに分かることだ。騙されたなら、私も君もその程度の人間だった、ということさ。―さて、私が通ったルートを教えよう、それと付近の部族の情報も。北の大地の地図はこのフロアにあったかな？</p><p>地図ならここにあるぜ</p><p>ヴァルグレンがソファから腰を浮かせようとした瞬間、アイリーンが小物入れから折り畳まれた羊皮紙を取り出し、目の前のローテーブルの上に広げる。一般公開されていた北の大地の地図を図書館の有料サービスで模写して貰ったものだ。</p><p>用意が良いね。そういえばお嬢さん、名前を聞いていなかったかな</p><p>アイリーン。アイリーン＝ロバチェフスカヤだ。出身は、雪原の民じゃないけど雪原の民に似た部族。よろしく、Sir(おじさま)</p><p>ハッハハ、こちらこそよろしく</p><p>茶目っ気たっぷりなアイリーンの自己紹介に、相好を崩すヴァルグレン。アイリーンお得意の、人の懐にするりと入り込む無邪気なスマイルだ。</p><p>さて、それでルートに関してだが、まず緩衝都市ディランニレンまで行き―</p><p>額を突き合わせながら、地図を覗き込む。ケイは腰のポーチからメモ用紙を取り出し、ヴァルグレンの助言を書き取り始めた。</p><p>†††</p><p>それから昼過ぎまで、ヴァルグレンはケイたちに詳細な情報を提供してくれた。</p><p>当初ケイたちは、アリア川を東へ渡り、川沿いに北上してから山脈を東に迂回するルートが最短と考えていたのだが、ヴァルグレン曰くこのルートは夜盗が多く、二人旅では危険らしい。</p><p>代わりに、ウルヴァーンからブラーチヤ街道を北上し、商業都市ベルヤンスクから東へと進むルートを提案された。こちらの方が柄の悪い集落を避けられるため、比(・)較(・)的(・)安全だそうだ。</p><p>思ったより、有意義な時間になったな</p><p>うん。しかしあの爺さん、何者なんだろうなー</p><p>昼食を取るため宿屋に戻る道すがら、アイリーンが腕を組んで唸る。</p><p>ケイたちとの話が終わったあと、懐中時計を一瞥したヴァルグレンは目を剥いて、 長居しすぎた と泡を食った様子で何処かへと飛んで帰ってしまった。占星術の件は、ケイたちの宿屋まで追って使いを出すらしい。</p><p>あの懐中時計、何気に魔術式だったもんなぁ……買ったらメッチャ高いよなぁアレ</p><p>装飾も凄かった。金貨が吹き飛ぶな</p><p>服装こそ野暮ったいローブを羽織っていたものの、あれはカモフラージュとしか思えない。しかしあれだけ個性的な髪型だと、服装を変えたところですぐに正体が露見しそうなものだが―公然の秘密、というやつなのだろうか。</p><p>…………</p><p>がやがやと騒がしい昼時の街を、ケイたちは沈黙のうちに歩く。子供たちの走り回る路地からは、何やら美味しそうなスープの香りが漂ってきていた。</p><p>ウルヴァーンに住み始めて一ヶ月余り。見慣れた街並みが、今は何処か違って見える。懐に大事に仕舞い込んだ、ヴァルグレン直伝のメモの存在が、重たい。</p><p>―この街を出る。</p><p>その事実が、徐々に、徐々に、ケイたちの中で輪郭を成していく。</p><p>通りの先に、デフォルメされた甲虫が、ジョッキを片手に首吊りしている看板が見えてきた。“HangedBug”亭。ケイたちの常宿。食堂は混み合っていたので、ケイたちは一旦部屋に戻った。</p><p>もはや自分たちの家のように感じられる、２０３号室。</p><p>改めて見てみると、いつの間にか部屋にはこまごまとした物が増えていた。それは爪切りであったり、干し果物を入れておく小さな器であったり、あるとちょっと便利なサイドテーブルであったり。</p><p>勿論、北の大地に旅立つのであれば、全部は持っていけない。</p><p>……そろそろ、荷物も整理しなきゃな</p><p>ぽつりと、アイリーンが寂しげに呟いた。</p><p>ヴァルグレンからの使者が来たのは、それから三日後のことだった。早朝に、まるで騎士を無理やり平服に押し込んだかのような、背の高い偉丈夫が宿にやってきたのだ。</p><p>貴殿がケイ＝ノガワ氏か。ヴァルグレン＝クレムラート氏よりのお言葉を伝える。『今夜８時、第一城壁の南門にて待つ』とのことだ。しかと伝えたぞ</p><p>なぜ自分がこんなことをせねばならんのだ、と言わんばかりに不満たらたらな顔で、男はそれだけを告げて去っていった。</p><p>……何？　今の人</p><p>たまたまその場に居合わせたジェイミーが、洗濯物の籠を手にしたまま、不思議そうな顔をしている。</p><p>知り合いの部下、か何かだな</p><p>ふぅん。……イケメンね</p><p>ケイの答えに、 あーあ、その辺にイケメン転がってないかなぁ と呟きながら、ジェイミーは洗い場の方へと消えていった。</p><p>ってか、今のって、絶対平民じゃないよなアレ……</p><p>立ち振る舞いと言葉遣いが、どう考えても騎士階級だな</p><p>ひそひそと、食堂の片隅で言葉を交わすケイとアイリーン。あの男がずかずかと中にまで入り込んできたせいで、食堂内も妙な空気になっている。</p><p>そもそも、夜の８時って城門はもう閉まってるんじゃなかったっけ？　あの爺さん、第一城壁の外に住んでるってことはないと思うんだけど</p><p>……門をどうにかできるだけのツ(・)テ(・)があるんだろうな</p><p>少なくとも木っ端貴族には、門の開閉に口を出す権利はない。先ほどの使いの者といい門の件といい、やんごとなきオーラが滲み出ているが―</p><p>（―あの老人、タアフ村のベネット村長と同じ匂いがする）</p><p>一見人好きのする好々爺だが、タヌキ親父をさらに一、二回捻って、パワーアップさせたような雰囲気もある。今後のことを考えると、取り入っておくべきか深入りしないよう気をつけるべきか、判断に迷うところだ。</p><p>その日は夕方まで、いらない小物を処分したり、逆に旅の小道具を工面したりして過ごしたが、ケイもアイリーンもそわそわと落ち着かない気分だった。</p><p>夏は日が長い。日が暮れると同時に、ケイたちは仕度を始めて宿を出る。宿で借りたカンテラと、メモ帳と万年筆を持っていくことにした。ケイに明かりは必要ないが、カンテラは念のためだ。</p><p>果たして、２０時前、門の前にはヴァルグレンが待ち構えていた。前回とは違って灰色の地味なローブを羽織り、髪型は相変わらずマッシュルームのままだ。そばには、護衛であろうか、今朝宿にやってきた偉丈夫がこちらも地味な平服を着て待機していた。その背中には革の大きな背嚢。腰に豪奢な装飾の長剣を佩いているあたり、身分を隠すつもりがあるのかないのか分からない。</p><p>やあやあ、こんばんは二人とも。三日ぶりになるかな</p><p>ケイたちと同様、カンテラを片手に、にこにこと愛想の良いヴァルグレン。</p><p>どうも、こんばんは。お待たせしてしまっただろうか</p><p>あからさまに不機嫌そうな偉丈夫に、戦々恐々としながらケイが問うと、 いやいや と気負わずヴァルグレンは首を振った。</p><p>今来たところだ。さあ、行こうか</p><p>カンテラを掲げながら、ヴァルグレンが先頭を切って歩き出す。</p><p>……ところでヴァルグレン氏、今晩はどこに行かれるおつもりなのか？</p><p>なに、市庁の建物を借りようと思ってね。あれなら背が高いし、周りに邪魔な建物がないから、天体観測にはうってつけだろう？　カジミール、用意は出来ているな？</p><p>はっ、先方には連絡済で、鍵も確保しております、閣下</p><p>じゃら、と胸ポケットから鍵束を取り出し、『カジミール』と呼ばれた偉丈夫がキリッと答える。</p><p>だから、『閣下』はやめろと言ったろうに</p><p>はっ、申し訳ございません</p><p>カジミールが頭を下げる横で、アイリーンがケイの方を向いて白目を剥いてみせた。ケイも渋い顔で頷き返す。</p><p>…………</p><p>しばらく、会話もないままに歩いていると、赤レンガ造りの市庁が見えてくる。窓からは明かりが漏れておらず、人の気配はなかった。</p><p>今夜は、人払いしておりますゆえ</p><p>先んじてカジミールが入り口の扉を開け、ヴァルグレンのために扉を開ける。</p><p>さてさて、ここは三階建てか。階段が堪えるねえ</p><p>何なら、肩をお貸ししようか、閣下</p><p>ははっ、からかわないでくれ給えよケイ君</p><p>ケイが思い切って軽口を叩いてみると、ヴァルグレンは苦笑していた。その後ろでカジミールが怖い顔をしていたが。</p><p>市庁の屋上に出ると、夜の一般市街が一望できた。ところどころに明かりは見えるが、天体観測の邪魔になるほどではない。</p><p>さて、ではカジミール、頼む</p><p>はっ</p><p>床に背嚢を置いたカジミールが、中から木の箱を取り出した。何かと覗いてみれば、</p><p>ほう、望遠鏡か</p><p>金箔やら宝石やらで飾り付けられた、豪奢な天体望遠鏡。もっとシンプルなものはなかったのかといいたいところだが、実用に耐えるなら問題ないだろう。</p><p>私はそれほど目が良くないからね</p><p>笑うヴァルグレンの横で、カジミールが箱から三脚などの部品を出して並べ、組み立てようとしている。が、</p><p>むむ。これは、……この部品がここで、……むむ</p><p>まるでチェスの難しい局面に挑むかのように、厳しい顔つきのカジミール。ヴァルグレンは何も言わずに微笑みながら見守っていたが、不気味な沈黙が続くうち、カジミールの額にだらだらと汗が浮かんでいく。</p><p>……この部品が、これじゃね？</p><p>見かねたアイリーンが、口を出した。</p><p>……むむ。そのようだな</p><p>で、これが、こっちじゃん？</p><p>……うむ</p><p>それで、こっちがこう繋がって、こうか</p><p>…………</p><p>着々と組み立てられていく望遠鏡を前に、黙りこくるカジミール。ケイとヴァルグレンは顔を見合わせて苦笑した。</p><p>―と。</p><p>ケイは、ヴァルグレンの手にしたカンテラに、ふと目を留めた。</p><p>炎の明かりにしては揺らぎもせず、光が安定しすぎている気がする。</p><p>そしてケイはその白い光の中に、背中に羽を生やした小人の姿を幻視した。</p><p>……ヴァルグレン氏、それは、精霊か？</p><p>思わず尋ねたケイに、 ほう と意外そうな顔をしたヴァルグレンは、</p><p>分かるのかね？</p><p>まさかとは思うが、“白光の妖精”ではないか</p><p>……これは驚いた。よく知っているね</p><p>ヴァルグレンがカンテラの蓋を開け、 ―Thorborg と呟くと、光の塊がひらひらと舞い出てくる。</p><p>いや……俺も、実際に見るのは初めてだ</p><p>すげえ、超レアなのに……</p><p>ケイもアイリーンも、興奮した面持ちで、ヴァルグレンの肩に座る光の小人に見入っていた。</p><p>“白光の妖精”とは、“妖精”という呼び名を冠された下位精霊の一種だ。“妖精”たちは気分次第で何処にでも顕現し、甘いお菓子さえ持っていればその場で契約可能、かつ使役に要求される触媒も草花や砂糖、水晶などありふれたものばかりで、ゲーム内では力が弱いがお手軽な契約精霊として知られていた。</p><p>が、その中でも”白光の妖精”だけは別格だ。他の妖精が眠りや幻惑を司るのに対し、この精霊はいわゆる突然変異的な存在で、『清浄なる癒しの光』を司っている。</p><p>少なくとも DEMONDAL では数少ない、即効性のある癒しの魔術が使える稀有な精霊であり、かつ照明の魔道具の作成にも欠かせない存在であった。そのレアリティの高さと有用性から、白光の妖精と契約に成功した者にはあらゆる傭兵団(クラン)から声がかかり、リアルマネーでの買収すら持ちかけられたという話も聞く。廃人と名高いケイも、ゲーム内では直接お目にかかったことがないほどの希少な存在だ。</p><p>……ひょっとすると、図書館の照明の多くは、ヴァルグレン氏の手によるものなのだろうか？</p><p>妖精を従えている時点で、ヴァルグレンが魔術師であるのは間違いない。</p><p>いや、あれは私の前任者だね。私はメンテナンスをやっているだけだよ。……それにしても驚かされるな、ケイ君、君は魔術にも詳しいのかね？</p><p>ヴァルグレンの問いかけに、ケイは曖昧に頷いた。</p><p>このとき、おそらくケイは、少し気が緩んでいたのだろう。</p><p>ああ……俺も、風の精霊と契約している</p><p>正直に、答えてしまった。</p><p>このときは、まさかこの言葉が、あのような事態を引き起こすことになろうとは―</p><p>……何？</p><p>ヴァルグレンの顔色が変わる。</p><p>か、風の精霊というと、元素を司る大精霊のはずだが……</p><p>動揺するヴァルグレンに、自分の発言の迂闊さに気付く。しかし、今更否定するわけにもいかず、ケイは ま、まあ…… と呟きながら目を逸らすことしか出来なかった。</p><p>そのまましばらく呆然としていたヴァルグレンだが、終いには難しい顔で眉間を押さえて唸り始める。</p><p>閣下……この者は、ただ閣下を担ごうとしているだけなのでは……</p><p>望遠鏡のそばで手持ち無沙汰にしていたカジミールが、遠慮がちに声をかけた。ヴァルグレンはじろりとそちらを見やり、</p><p>だから、閣下はやめろというに。……まあ、おそらく本当であろうよ</p><p>そのじろりとした視線が、今度はケイに移る。</p><p>……初めて会ったときから、君は……いや、君(・)た(・)ち(・)は、年の割りに妙に魔力が強いと思っていたのだよ</p><p>今度はアイリーンの目が泳ぎだす。ケイは声には出さなかったが、自分たちの魔力が魔道具もなしに看破されていたことに驚いた。</p><p>もしや君たちの『故郷』では、精霊とは一般的な存在なのか？</p><p>いや、そういうわけではない……俺たちは、どちらかというと、例外だ</p><p>ふむ……なるほどね……</p><p>しばし不気味に沈黙するヴァルグレンに、ケイもアイリーンも戦々恐々としていたが、やがて疲れた様子で老人は溜息をついた。</p><p>……まあ、納得は出来る。あれかね、ケイ君、君の放つ矢がことごとく的を捉えていたのは、そういうこともあったのかね？</p><p>……というと？</p><p>なに、君は風の精霊の加護を受けているではないか</p><p>場を和ませるように、おどけたようにヴァルグレンが小首を傾げるが―自分の弓の腕ではなく、全てが精霊のお陰と思われているのにムッとしたケイは、</p><p>それは違う。俺の契約精霊は器が小さいからな、供物を捧げないと何もしてくれないケチ臭いヤツだ</p><p>その瞬間―空気が、ぞわりと異様な雰囲気を孕んだ。</p><p>何事か、と全員が思わず空を見上げると同時。</p><p>ゴオオッ、と凄まじい音を立てて突風が吹きつけた。</p><p>うおおっ？！</p><p>なんだッ！？</p><p>閣下っ！</p><p>ケイは突風にやられてすっ転び、アイリーンが床に伏せ、カジミールがヴァルグレンに駆け寄る。</p><p>しかしそれも一瞬のこと。それ以上に何かリアクションを取る暇もなく、まるで嘘のようにぱたりと風はやんだ。あとには呆気に取られる三人と、転んだ際に後頭部を打って悶絶するケイだけが残される。</p><p>ぐうぅぉおぉ畜生シーヴのヤツ……！</p><p>だ、大丈夫かケイ……</p><p>歩み寄ったアイリーンが、ケイを助け起こす。</p><p>くっ、クソっ、がめついのは本当だろ！　いつもいつもエメラルドみたいな高級な宝石しか受け付けない癖に、魔力も限界ギリギリまで吸い上げやがって……ッ！</p><p>……ってか、英語に反応できるなら、精霊語(エスペラント)いらねえじゃん……</p><p>空に向かって文句を言うケイ、その頭を撫でながら釈然としない表情のアイリーン。</p><p>……いや、すまない、取り乱した。ヴァルグレン氏は大丈夫だったか？</p><p>立ち上がって、痛みを振り払うようにこめかみを揉み解していたが、答えがない。</p><p>ヴァルグレン氏？　どうかし……たの、か……</p><p>ヴァルグレンの方を見やったケイは、―固まった。</p><p>一瞬、そこに誰がいるのか分からなかった。</p><p>すぐに、その顔を見て、それがまぎれもなくヴァルグレンであることには気付く。しかし―先ほどまでのヴァルグレンとは、決(・)定(・)的(・)に(・)、異(・)な(・)る(・)点(・)が(・)あ(・)る(・)。</p><p>何もない。</p><p>そこには、何もなかったのだ。</p><p>ボ……ボルドマン(はげてる)</p><p>アイリーンが、慄(おのの)いたように呟いた。</p><p>ヴァルグレンは、ハゲていた。</p><p>トレードマークの、不自然なまでに美しかった銀色のマッシュルームヘアが、綺麗さっぱり消失していた。</p><p>…………</p><p>目を見開いて、頭に手を伸ばした形のまま、硬直するヴァルグレン。</p><p>白光の妖精が、キャッキャッと無邪気に笑いながら、その頭頂部に腰を下ろした。</p><p>輝く。輝いている。</p><p>そう、それはまさに光の精霊―</p><p>…………</p><p>ケイとアイリーンには、空気が、異様な緊張感を孕んでいるように感じられた。</p><p>……閣下、</p><p>その場で、臣下の礼を取ったカジミールが、</p><p>私は、閣下の御髪(みぐし)を探して参ります</p><p>くるりと背を向けて、屋上から退散していった。</p><p>逃げられた、と気付いたのは、数瞬遅れてからのことであった。</p><p>……ケイ君、</p><p>ヴァルグレンが再起動を果たし、何事もなかったかのように、穏やかに微笑む。</p><p>……星を、見ようか</p><p>あ……、あっ、はい</p><p>ケイも我に返り、コクコクと頷いた。アイリーンは妖精に照らされた頭部を見ないように、全力で夜空を見上げている。慌てて床に転がっていた望遠鏡一式を取りにいくケイであったが、今度は あぁ！？ と絶望の声を上げる。</p><p>突風に吹かれて屋上に倒れていた望遠鏡は、レンズが粉々に割れていた。</p><p>しかも、表面の繊細な装飾が、床のレンガに擦れて傷だらけだった。</p><p>…………</p><p>その日は、それで解散となった。</p><p>ちなみに、カツラは見つからなかったらしい。</p><p>†††</p><p>別れ際に 追って沙汰をする と言っていたヴァルグレンだが、その言葉通り、後日宿に使者のカジミールが現れた。</p><p>曰く、 出来れば日を改めて占星術を教えて貰いたいが、最近は時間がなく、いつになるか分からない。先に”魔の森”に行くならば、それはそれで構わない とのことだった。</p><p>その場でどうするか決めろ、とカジミールに言われたので、ケイたちは一も二もなく返答した。</p><p>数日後、荷物をまとめ、コーンウェル商会のホランドや図書館のアリッサ嬢など関係者に挨拶して回ったケイたちは、逃げるようにウルヴァーンから旅立った。</p><p>目指すは北の大地、“魔の森”。</p><p>ケイたちがこの世界に転移してから、２ヵ月半が過ぎようとしていた。</p><p>ほのぼのパートおわり</p><p>幕間. PlayerKiller</p><p>“リレイル地方”西部―とある木立。</p><p>草原に面した森の入り口に、穏やかな午後の日差しが降り注ぐ。</p><p>吹き抜ける涼やかな風。さわ、さわと音を立てて木漏れ日が揺れ、小鳥たちがさえずり、木陰には鹿の親子が体を休める。</p><p>平和で、静かな空間。</p><p>しかし、ピクリと耳を震わせた子鹿が、何かに怯えたように、森の方を向いた。</p><p>異音。</p><p>それは最初、振動として知覚された。</p><p>だが徐々に大きくなる。ドドドッ、ドドドドッと―まるで地鳴りのように。</p><p>身の危険を感じた鹿の親子が逃げ始め、木々の鳥たちが一斉に飛び立った。</p><p>果たして、森の奥から、その一団が姿を現す。</p><p>ブルルゥオッッ！</p><p>いななきとともに、茂みを突き破って疾走する騎馬。</p><p>一、二、三―次々増える。その数、おおよそ二十。</p><p>よくよく見れば一つのまとまった集団ではなく、先頭の三騎とそれを追う残りのグループで構成されていることが分かる。</p><p>待ちやがれッ！</p><p>逃げられると思うなよ！</p><p>ドグサレどもがッ、今日こそブッ殺してやるッ！！</p><p>口汚く罵りながら、追いかける十数騎。手に手に武器を振り上げ、額に青筋を立てる様はお世辞にも上品とは言い難いが、全員が白馬に跨り、黒の十字架が描かれた白いマントを羽織っているあたり、概ね統一感のある集団だった。</p><p>それに対し、追われる側の三人は、『珍妙』としか言い様がない。</p><p>いや、そもそもそれを三”人”と形容してもよいものか。</p><p>ヴァーハッハッハ、諦めの悪ィ野郎どもだァ！</p><p>三人のうち、だみ声で笑う先頭の一騎。まだら模様の馬を駆り、時折、追跡者たちを振り返っては挑発的に中指を立てている。</p><p>そしてその姿は―“異形”の一言。</p><p>服装は、くたびれた革鎧と申し訳程度に体を覆うボロ布だ。左手には錆付いた戦棍(メイス)を握り、腰にはもう一本、予備の棍棒が差してある。</p><p>何よりも特徴的なのは、手から長く伸びる爪。そして皮膚を隙間なく覆う、こげ茶色のまだら模様の鱗だ。まるで裂け目のような赤い口からは、牙と長い舌がちらちらと覗き、ぎょろりとした金色の瞳は瞳孔が縦に割れている。</p><p>“竜人(ドラゴニア)”。</p><p>人類とは敵対状態にある、人型モンスター。人類を凌駕する身体能力や特殊能力を持つ代わりに、知能が遥かに劣る―はずだが、この個体は人語を解している上、馬にまで乗っている。</p><p>しつこい男は嫌われるわよ～？</p><p>その隣、黒毛の馬の背にしがみつくようにして跨る影が、せせら笑う。</p><p>こちらもまた異形。しなやかな肢体、メリハリのきいた体型―そのフォルムはグラマラスな女性のそれだ。しかし胸部と局所を守る革鎧を身につける他は、全身が真っ黒の毛むくじゃら。当然のように毛に覆われた顔には、頬から飛び出る細いヒゲと、深緑の瞳。長い黒髪が風になびき、頭頂部には三角形の耳がぴょっこりと生えている。</p><p>“豹人(パンサニア)”。</p><p>竜人と同様、人類と敵対状態にある人型モンスターだ。知覚に優れ、極めて瞬発力が高く、また雌の方が雄よりも筋力に優れるという種族的な特徴がある。</p><p>豹人の女は、両手に厚手の黒い布を巻いていた。その他には特に、武器らしい武器も身に着けていない。無手か、何かを隠し持っているのか、―あるいは。</p><p>…………</p><p>逃げる三人のうち、最後尾。殿(しんがり)を務めるのはボロボロのローブをまとった男だ。こちらは何の変哲もない人族の老人で、灰色の立派なあごひげを蓄えている。目深にかぶったフードのせいで表情は窺い知れず、追っ手が放つ矢を、その手に携えた杖で淡々といなしていた。</p><p>自分だけでなく馬も守り、さらに先行する二人を狙う矢までも察知して、漏れなく弾き飛ばしていく。並々ならぬ技量。煽るでも毒づくでもなく終始無言なあたり、不気味な貫禄が滲み出ている。</p><p>クソッ、埒が明かん！</p><p>まるで効果のない矢に痺れを切らしたか、追っ手のうち、赤毛の壮年の男が懐から真紅の宝玉を取り出した。</p><p>ぎらりと不穏な光を宿す宝玉。それを高らかに掲げた男は叫ぶ。</p><p>Incendiu(焼き払え)!</p><p>その瞬間、一同は空中に、燃え盛る蜥蜴の姿を幻視した。</p><p>宝玉から真っ赤な炎がほとばしり、渦巻いて杖使いの老人に迫る。</p><p>対する老人は―動じなかった。懐に手を突っ込み、粉末状の白い何かを掴んで後方へと撒き散らした。</p><p>塩の結晶だ。</p><p>Aubine. Arto, Hyo-Heki.</p><p>間髪いれずに老人は”宣之言(スクリプト)“を呟いた。散布された塩の結晶が一瞬にして気化し、きらきらと光が乱反射する。</p><p>その歪な煌めきの中に、一同は冷笑を浮かべる長衣の乙女の姿を幻視した。</p><p>バキンッ、と鈍い音とともに、空中に氷の壁が出現する。追う側と逃げる側の中間。それは突(つつ)けば簡単に崩壊するようなごく薄いものであったが、赤毛の男の火炎を相殺するには充分すぎた。</p><p>氷と炎がぶつかり合い、爆発する水蒸気。氷の壁は呆気なく融解してしまったが、逃げる三人組は無傷であった。</p><p>何ィ！？</p><p>氷の精霊だと！？　聞いてねえぞ！</p><empty-line/><p>追っ手たちが、特に炎を放った赤毛の男が動揺の色を浮かべる。</p><p>あっはは、見なさいよバーナード、アイツらの間抜け面！</p><p>けらけらと笑いながら、豹人の女が隣の竜人に話しかけた。</p><p>ヴァッハハ、ひでぇもんだ！　おい、テメェら！　火は好きかァ！？</p><p>バーナードと呼ばれた竜人が、馬の足を緩めて最後尾まで下がる。すぅぅぅ、と大きく息を吸い込むと、その胸部と首が異常なまでに膨れ上がった。</p><p>！　まずい！</p><p>いかん、散れ！</p><p>先頭の追跡者たちがそれに気付き、方向転換しようとするも、遅い。</p><p>ヴァアアアアアアァァァァッッ！</p><p>咆哮とともに、バーナードの口からオレンジ色の光が噴き出した。</p><p>炎の吐息(ブレス)―“飛竜(ワイバーン)“のそれに似た、可燃性のゲルの奔流。灼熱の舌が追跡者たちを舐め、自ら炎に突っ込む形となった先頭の男が火達磨になって落馬した。</p><p>がああぁぁ畜生ォォォッッ！</p><p>地面を転がって火を消そうと躍起になる男であったが、止まりきれなかった後続の騎馬に首を踏み抜かれ、呆気なく『肉塊』へと変わる。</p><p>あっヤベ踏んじゃった</p><p>うわああこっちにも火がッ</p><p>クソッこの馬はもうダメだ殺せッ！</p><p>燃え移ろうとする火を慌てて消し止めたり、火達磨になって暴れる馬を弓で射殺したりと、追跡者たちはにわかに大混乱の様相を呈していた。</p><p>ヴァッハハハ、ザマァねえな！！</p><p>その隙に距離を取りながら、ちろちろと舌先に炎を揺らし大笑いするバーナード。隣で馬を駆る氷の精霊使いの老魔術師は無言で腰を浮かせ、ぺんぺんと尻を叩いておちょくっている。</p><p>―ッッッッ！！　クソがッ、舐めやがって！</p><p>ビチミキミチッと額に青筋を浮かべ、馬の腹を蹴り上げて加速させる赤毛の男。逃がしてなるものかとそれに仲間が続く傍ら、再び真紅の宝玉を掲げた。</p><p>Sigismund! Mi dedicxas al vi―</p><p>ボヒュッバギンという破砕音、腕に衝撃。男の”宣之言(スクリプト)“が止まる。</p><p>見れば、握っていた宝玉が、右手ごと粉々に砕け散っていた。</p><p>あ、……あああ！</p><p>あ～ら、御免あそばせ。顔を吹き飛ばすつもりだったんだけど、外しちゃった</p><p>揺れる馬上、希少な魔道具が粉砕され、手を掲げた姿のまま愕然とする男。悪びれる様子もなくテヘッと赤い舌を出すのは、黒馬を駆る豹人の女だ。その手には細長い黒い布をひらひらと風にたなびかせている。</p><p>いや。それはただの布きれではない。折り返せばちょうど真ん中にあたるところに革製の受け皿のようなものが付いている―投石紐(スリング)だ。</p><p>再びスリングの両端を握った豹女は、腰のポーチから取り出した丸石を受け皿に載せ、ヒュンヒュンと勢いよく回し始める。</p><p>―と、いうわけで。今度こそ、ちゃんと受け取って、ねッ！</p><p>ボッ、と腕がブレた。投擲。一切の殺気を感じさせずに丸石が唸る。</p><p>それは茫然とする男にとって、視界に生まれた小さな黒点に過ぎなかった。</p><p>瞬く間に、着弾。ぐしゃりと鈍い音、顎から上が丸ごと吹き飛ばされる。</p><p>ヒューッ！　いつ見ても、イリスの投石はおっかねえなァ！</p><p>アンタの吐息(ブレス)ほどじゃないけどね</p><p>バーナードの歓声に、『イリス』と呼ばれた豹女は小さく肩をすくめる。</p><p>さぁて、ズラかろうぜェ！　あんなザコでも囲まれたら鬱陶しいからなァ！</p><p>コウ、魔術もお披露目したことだし、足止めヨロシクね</p><p>…………</p><p>イリスにウィンクされ、ビッ、と無言のまま親指を立ててみせる老魔術師。どうやら、『コウ』という呼び名らしい。</p><p>一目散に駆け始める三人組に、ブレスの混乱から立ち直った追跡者たちが怒りの声を上げる。</p><p>なにが『ズラかる』だ！　逃がさねぇぞ！</p><p>追え、追え―ッ！</p><p>ドドドド、と地鳴りの如き蹄の音を響かせながら、騎兵たちは駆けていく。その場に元仲間であった『肉塊』を放置したまま―</p><p>†††</p><p>“Player Killer”という言葉が存在する。</p><p>その字面通り、MMORPGなどの多人数参加型ゲームにおいて、他のプレイヤーを攻撃するプレイヤーのことだ。その行為そのものは”Player Killing”と言われ、略して”PKer”、“PKing”などと表記されることもある。</p><p>相手の了解も取らずに襲い掛かり、キャラクターの殺害(キル)やアイテムの略奪を目的としている点で、ルールの定められた対人戦闘(PvP)とは厳密に区別される。</p><p>初心者狩りに繋がりかねない。</p><p>自分がやられたら困る。</p><p>理由は様々だが、基本的にはゲーム内で忌み嫌われる行為とされることが多い。</p><p>勿論それは、中世ファンタジー風リアル系VRMMORPG DEMONDAL においても、例外ではない。</p><p>全フィールド無制限対人戦闘(Free PvP)を謳うこのゲームは、実質的に何処でも彼処でもPKが可能であることに等しい。しかも死亡時にはキャラクターの肉体を含む全てのアイテムがその場にドロップする―PKerたちからすれば、まさに天国のような環境。</p><p>そしてバーナード・イリス・コウの三人組は、そんな下劣な行為に喜びを見出す筋金入りのプレイヤーキラーだ。</p><p>金品の強奪よりも誰彼構わずキルすることに重点を置き、また積極的に『悪人』を演じているあたり、PK原理主義者とでも呼ぶべき存在かもしれない。今日も今日とて、PK行為を取り締まる傭兵団(クラン)“Crusaders”にちょっかいをかけて追い回されているところだった。</p><p>あーあ、それにしても最近つまんねぇなァ</p><p>揺れる馬上。細長い舌をチロチロとさせながら、ぼやくのはバーナードだ。先ほどの戦闘から数分、バーナードたちは相変わらず”Crusaders”の追跡をのらりくらりといなしながら、木立の中を北上し続けていた。</p><p>あら、どうしたのよ急に</p><p>投石紐に丸石をセットしつつ、隣のイリスがきょとんとした顔をする。</p><p>んー。なんつーか、張り合いがねぇっつーかよォ</p><p>冷めた目で後方を見やれば、 待てやコラーッ！ などと叫びながら追いかけてくる、“Crusaders”所属の十数騎。先ほどに比べ明らかに頭数が減っているが、その原因は明らかだ。</p><p>Aubine. Arto, To-Ketsu.</p><p>Darlan. Arto, Gen-mu.</p><p>殿のコウが塩をばら撒けば地面に霜が張り、懐から花びらを取り出して振りまけば、何処からともなく妖しげな虹色の霧が湧き出す。</p><p>霧の目眩ましにやられ、氷結した地面には気付かないまま、トップスピードで突っ込んできた騎馬が足を滑らせて転倒した。鞍から放り出された騎手がそのまま地面に叩きつけられ、首を妙な方向に捻じ曲げる。おそらく、即死。</p><p>馬上で後方を窺いながら油断なく杖を構えるコウの傍らには、羽の生えた小人と長衣をまとった乙女の姿が薄く透けて見えていた。</p><p>夢幻の精”ダルラン”と、氷雪の乙女”オービーヌ”だ。</p><p>普段から”昏睡の風”や”幻惑の霧”などの魔術を多用しており、下位精霊の一種である”妖精”との契約者として広く知られているコウであったが、先日、さらに氷の精霊と契約に成功し今回はそのお披露目もかねて魔術の大盤振る舞いをしていた。</p><p>バーナードがブレスで火の壁を作り、イリスが断続的に投石し、殿のコウが魔術で足止めする―三人組のいつもの手だ。</p><p>しかし。</p><p>プレイヤーの中には、そんな『いつもの手』が通じない者もいる。</p><p>やっぱりよォ、“死神日本人(ジャップザリーパー)“くらいの相手じゃねえとスリルがないんだよなァ</p><p>後方から飛んできた矢をメイスで叩き落しながら、バーナードは嘆息した。</p><p>“死神日本人(ジャップザリーパー)”―弓使いのケイ。</p><p>“Crusaders”の本拠地、要塞村ウルヴァーンの界隈では名うてのプレイヤーだ。騎射の達人で、馬上で扱いづらい大弓を難なく使いこなし、木立の中であっても多少の障害物はものともせず、針の穴を通すような正確な射撃を叩き込んでくる、まさに死神。</p><p>バーナードたちが幾度となく辛酸を嘗めさせられてきた宿敵だ。“隠密殺気(ステルスセンス)“に長けているため初撃を防ぐのが非常に難しく、また、たとえ一矢しのいだところで、即死級の威力を秘めた矢が次々に飛んでくる。バーナードは勿論、杖術に長けたコウであっても、それらの攻撃を捌き続けるのは容易ではない。</p><p>それに加えてバウザーホースの性能に物を言わせ、近づけば退避、逃げれば追撃と、騎兵のお手本のような動きをするのも厭らしいところだ。会敵すれば苦戦は必至―下手すれば、三人がかりでもやられかねない、そんな相手。</p><p>でもアイツと遣り合うのが、何だかんだで一番楽しいんだよなァ</p><p>そうねえ～</p><p>首を傾けて後方からの矢を避けながらイリス。三人組の中で唯一物理的な飛び道具(スリング)を使う彼女だが、何だかんだで彼女もケイとの戦いを楽しみにしている節がある。</p><p>しかし、ここのところバーナードたちは退屈していた。</p><p>あ～～～もう！　何でログインしねぇんだよケイよォ！！</p><p>ガシガシと後頭部をかきむしり、天を仰いで吼えるバーナード。</p><p>その卓越した弓の技量から”死神”の呼び名を欲しいままにするケイではあるが、同時にVRMMORPG DEMONDAL のプレイヤーの中でも、指折りの廃人として知られている。サーバーのメンテナンス時以外は常にログインし続けている猛者で、フォーラムでも度々名指しで話題に上がっており、 最早ゲームの中に住んでいる よく出来た強NPC とまで呼ばれているほどだ。</p><p>が、そんなケイが、ここしばらく姿を見せていない。</p><p>オープンβのときから毎日欠かさず、２４時間ログインし続けていた、ケイがだ。</p><p>話によると、要塞村ウルヴァーンのケイのホームで、自主トレモードに設定されているケイのサブキャラたちに話しかけても、 今、ケイは居ないよ としか答えないという。それはすなわち、ケイが DEMONDAL の何処かに姿を隠しているわけではなく、正真正銘ログインしていないことを示す。</p><p>何が起きたのか―プレイヤー界隈もネットのフォーラムも、今はこの話題でもちきりだ。引き篭もりが家から叩き出された、ケイの自宅のネット環境にトラブルが発生した、単純に飽きて引退した―などなど様々な憶測が飛び交っている。</p><p>そのログイン時間があまりに長いことから、実は寝たきりの病人だったのではという声もあり、症状の悪化なり何なりで死んでしまったのだ、とする者さえ現れる始末だ。</p><p>また、ケイとよくつるんでいた有名プレイヤー”NINJA”アンドレイも同時期から姿が見られなくなっており、こちらも騒ぎになっている。</p><p>ケイの”失踪”との関連性を疑う声もあるが―、真偽は定かでない。</p><p>……案外、あの二人がデキてたりしてね</p><p>はァ？</p><p>しばらく真剣な顔で考え込んでいたが、ふと顔を上げたイリスに、バーナードが目を点にする。</p><p>……そうよ、そう考えれば辻褄が合うわ。きっと二人とも時間を忘れて、VRルームで互いの体を貪るのに夢中なのよ。それなら DEMONDAL(こっち) にログインしないのも、説明つくでしょ？</p><p>はァァ？　ないわーそれはないわァー</p><p>ぐへへ、と涎を垂らしそうな表情のイリス。呆れた顔のバーナードは、ぶんぶんと手を振った。</p><p>ええぇ～アタシ名推理だと思ったんだけど？　アンドレイの美貌に見惚れ、遂に耐えられなくなってしまったケイ！　男同士、禁断の愛―！　うへへ</p><p>ないないない。それに仮に、仮にだァ。ケイとあのオカマNINJA野郎がデキてたとして、それでVRルームでファックしまくってたとしてもだ……。長すぎるだろォ！！　アイツらがログインしなくなってから今日で何日だァ！？</p><p>……それもそうね。いや、逢瀬を重ねてるのかも……！　二人だけの世界……？！</p><p>ないないない、それだけはない！</p><p>ぶんぶんと、手だけではなく今度は尻尾まで振り始めるバーナード。</p><p>ちなみにバーナードとイリスがお喋りする後ろで、コウは黙々と”Crusaders”への妨害を続けている。</p><p>……あ、</p><p>と、そのとき、イリスがふと気付いた。</p><p>ねぇ二人とも、あんなところに村があるわ。この間までなかったのに</p><p>そう言って、木立の奥を指差す。指先を辿って視線をやれば、成る程、森の中に小さなログハウスが何軒も建っているのが見えた。</p><p>おっ！　これは立ち寄るしかねえな！</p><p>プレイヤーメイドの入植村かしら？</p><p>…………</p><p>バーナードが村の方に馬首を巡らせ、イリスとコウが自然にそれに付いていく。背後から”Crusaders”の追撃を受けながらも、茂みを掻き分けてバーナードたちは木立を突き進んだ。</p><p>近づけば近づくほどに、村の全貌が見えてくる。森を切り開いた開拓村。質素な衣に身を包んだNPCたちが木を切り、畑を耕していた。</p><p>村の入り口まで残り数十メートルといったところで、向こうもバーナードたちの姿に気付く。</p><p>化け物だー！</p><p>うわあー、化け物だ！</p><p>衛兵(ガード)！　衛兵(ガード)！</p><p>馬上でメイスを構えて突撃する竜人と、笑顔で投石紐を回す豹人の姿に、NPCたちがにわかに慌てだす。</p><p>DEMONDAL のパッケージ版を購入することで、特典として付いてくる”竜人““豹人”といったモンスター種族だが、身体能力や特殊能力の面で人族よりもアドバンテージがある代わりに、全てのNPCが自動的に敵対状態となり、街や村などの施設が一切利用できないというデメリットがある。</p><p>尤も、バーナードとイリスには関係のないことだったが。</p><p>お邪魔しまァ―す！</p><p>ドドドドッと蹄の音もけたたましく、村に入り込んだバーナードは、</p><p>ヴァアアアアァァアァァッ！！</p><p>早速、手近な納屋にブレスで火をつける。</p><p>うわあー</p><p>燃え盛る納屋から、慌てた様子で飛び出してくる子供のNPC。服に燃え移った火を消し止めようとしていたが、すぐそばに竜人(バーナード)の姿を認めて うわあー！ と再び悲鳴を上げる。</p><p>こんにちは！　死ねクソガキィ！！</p><p>馬上からバーナードは容赦なくメイスを振り下ろした。メゴンッと子供NPCの頭が陥没し、赤い血飛沫(エフェクト)とともに目玉が飛び出る。</p><p>ヴァッハハハハ！</p><p>化け物め！　何をしている、化け物め！</p><p>村の奥の方から、全身金属鎧に斧槍(ハルバード)、赤いマントを装備した屈強な男が走ってきて叫ぶ。どんなに小さな村にでも最低一人はいる衛兵(ガード)だ。筋力・体格に優れ、下手なプレイヤーよりは余程強いが―</p><p>ふッ</p><p>ボッ、とイリスの腕がブレる。砲弾と化した丸石が直撃、兜ごと頭部を吹き飛ばされ衛兵はあえなく肉塊となった。</p><p>なんだァNPCだらけかここはァ！　つまんねえなァ！</p><p>言葉の割には実に楽しげに、次々と家屋にブレスを浴びせかけるバーナード。その隣ではイリスが まるで鴨撃ち(ダック・ハンティング)ね などと言いながらニコニコと投石を続けていた。コウは相変わらず妨害の魔術をぶっ放す傍ら、近くに逃げてきた村人の頭を杖で叩き潰している。</p><p>“Crusaders”の面々が村に辿り着く頃には、ほとんどの家屋は轟々と燃え盛り、元NPCの肉塊が山積みになっている有様だった。そして当の下手人たちは、煙に紛れて既に遁走している。</p><p>あまりの惨状に、“Crusaders”のプレイヤーたちも一瞬呆気に取られていた。</p><empty-line/><p>ひでぇ……よくもまぁ短時間でここまで壊すもんだ……</p><p>ここ傭兵団(クラン)“Tester’s Camp”さんのトコの入植村だよな……</p><p>“Tester’s”にも連絡しよう、このまま逃げられたら最悪俺たちのせいにされるぞ</p><p>そいつは勘弁</p><p>肩をすくめたプレイヤーの一人が、背負っていた大きな籠の中から一羽の鴉を取り出し、放つ。</p><p>バサバサと羽ばたきながら、飛び立っていく黒い鳥。</p><p>……行こう</p><p>それを見届け、“Crusaders”の団員たちはPKたちの追跡を再開した。</p><p>木立を抜け、右手に草原を望みながら、バーナードたちは駆け続ける。</p><p>いやーなかなか楽しかったなァ</p><p>ついでにお金もちょっと稼げたわよ。あとで山分けしましょう</p><p>そいつァいいや！　おっと安心しろよコウ、触媒分は多めに出すぜェ！</p><p>…………</p><p>ビッ、と無言でサムズアップするコウ。ヒゲとフードのせいで表情は分からないが、ニヤついているような雰囲気もある。</p><p>が、ぴりりと鋭い殺気を放ち、コウは天を仰ぎ見た。つられてバーナードとイリスも空を見上げる。</p><p>遥か高空、小さな黒点―鴉だ。黒々とした翼を広げ、気流に乗って滑空している。</p><p>咄嗟にコウが懐に手を突っ込み、一掴みの塩を空へと投げた。</p><p>Aubine. Rigardu supren al la cxielo, tie estas korvo, vi faru glacikonuso , kaj vi pafu lin mortigi la birdon.</p><p>半透明の長衣の乙女が浮かび上がる。塩の結晶が霧散し、ガラスが軋むような音を立てて空中に研ぎ澄まされた氷の杭が出現した。</p><p>Ekzekuciu(執行せよ).</p><p>ギンッ、と氷の杭が一条の光となり、空を引き裂きつんざいていく。</p><p>上空を旋回していた鴉が氷の杭に貫かれ、羽を散らす。そのままキラキラと血飛沫(エフェクト)を撒き散らしながら、力なく落下していった。</p><p>……見ツカッタ</p><p>片言じみた口調で、コウ。</p><p>あらら。じゃあこのままアジトには直帰できないわね</p><p>ならしばらくハイキングと洒落込もうじゃねえかァ</p><p>気楽に笑いながらバーナード、しかし弾かれたように体を逸らす。</p><p>一瞬前まで体のあった空間を、銀閃が貫いていった。</p><p>噂をすれば、また連中だァ</p><p>口の端を獰猛につり上げ、チロチロと舌を出す。後方、白マントに黒の十字架の一団。先頭のクロスボウを構えたプレイヤーが、悔しそうに顔を歪めていた。</p><p>あら、数が増えてるわね。応援呼んだのかしら</p><p>囲まれても面白くねえなァ。コウ、頼んだぞ</p><p>…………</p><p>先ほどまでと同じように逃げ始める。増援によって勢いを増した”Crusaders”たちは、後方から真っ直ぐ追い上げてきつつ、別働隊を草原に展開し半包囲網を敷いていた。</p><p>その包囲網の圧力を避けるように、バーナードたちは西へ西へと追いやられていく。走り続けること十数分、周囲の景色は徐々に草原から疎林地帯へと変わりつつあった。</p><p>こりゃあ本拠地の方にまで誘い込まれてんなァ</p><p>ウルヴァーンの近くまで来ちゃったわね</p><p>……二人トモ、見ル。様子、オカシイ</p><p>コウが前方を指差して言う。</p><p>はァ？　なんだありゃ</p><p>バーナードが、ぎょろりとした黄色の目を瞬かせて、気の抜けた声を上げた。</p><p>前方、切り立った崖に挟まれた谷。</p><p>そこを覆い尽くす―白い霧。</p><p>……随分と濃い霧ね。罠かしら？</p><p>魔術かァ？</p><p>……殺気、感ジナイ。魔術、チガウ</p><p>馬の足を止め、霧の前で立ち尽くすバーナードたち。しかしその背後から追跡者たちの蹄の音が迫る。</p><p>前方は霧、左手には岩山、後方と右手には包囲網。</p><p>……ええい、ヤケクソだ！　突っ込め突っ込めェ！</p><p>まあ、ここでやられるよりマシかしらね</p><p>…………</p><p>無言でサムズアップし、賛成の意を示すコウ。</p><p>再び馬を加速させたプレイヤーキラーたちは、霧の中へと突撃していく。</p><p>その姿が、濃霧の向こう側へと。</p><p>呑み込まれて、―消える。</p><p>果たして、“Crusaders”がその場に到着する頃には―</p><p>一面を覆い尽くしていたはずの霧は、影も形もなく消えうせていた。</p><p>この日以来、バーナードたちの姿を見た者はいない。</p><p>幕間. PlayerKiller?</p><p>ゆるい、ゆるい、まどろみのなか。</p><p>あ、そろそろ会社行かなきゃ―と、そんなぼんやりした思考が流れていく。</p><p>今日は新しいプロジェクトの重要な打ち合わせがあったはずだ。起きないとまずい、いや、もうちょっとだけ―と、そんなことを思いながら寝返りを打とうとする。</p><p>だが、不意にカッと目を見開いた。</p><p>よくよく考えれば目覚ましの音を聞いていない。というより明るすぎる。これは―</p><p>―寝過ごした！？</p><p>がばりと勢いよく上体を起こし、―そこで呆然とする。</p><p>抜けるような青空。地平の果てまで続く緑の草原。</p><p>―はっ？</p><p>見慣れた自分の部屋ではない。そもそも屋内ですらない。妙に背中が痛いと思ったら、ベッドではなく草原の大地に寝転んでいた。愕然。と同時、すぐ隣で ぶるるっ という鼻を鳴らす音。</p><p>弾かれたように横を見れば、灰色の毛の馬が草を食みながらこちらを見ている。</p><p>―はっ？！</p><p>ぎょっと体を仰け反らせ、転がるようにして立ち上がった。爽やかな風の吹き抜ける草原、しばし見つめ合う。 なんでコイツ驚いてんだ とでも言わんばかりに気だるげな瞳をした馬は、ぶるると鼻を鳴らしてから再び草を咀嚼し始めた。</p><p>呆然としつつも、ふと自分の体を見下ろす。足元に転がる木製の杖。ぱたぱたと風にはためく灰色のローブ。</p><p>この体は……</p><p>ぺたぺたと肉体を触り、感触を確かめる。この杖、この服装、そして灰色の馬。正直なところ見覚えがありすぎた。</p><p>顎に手をやると、―そこに、髭はない。</p><p>……どうなってんだ</p><p>立ち尽くす、灰色のローブを身にまとった男―コウは呆然と呟いた。</p><p>……ログアウトできてない？　いや、それにしてもこれは……</p><p>感覚がいつになく鮮烈だ。それに先ほどから思考操作を試みているが、メニュー画面が出てこない。第一これがゲーム内であるならば、なぜ『コウ』の蓄えていた立派な髭が消えているのか。周囲を見回せば緑の丘陵地帯、振り返れば大きな岩山に深い森、その果てに連綿と続く山脈―</p><p>ぅ……ん……</p><p>不意に、自分以外の声が聞こえてぎょっとする。</p><p>周囲の景色に気を取られて気付かなかったが、よくよく見れば背後の地面に、力なく倒れている人影があった。その傍には黒毛の馬とまだら模様の馬が、もっしゃもっしゃと草を食んでいる。</p><p>んん……</p><p>かすかに声を上げているのは、仰向けに倒れている若い女だ。浅黒い肌、ばさりと広がる黒髪、そして横になっていても分かる長身とスタイルのよさ。</p><p>そしてその女には一つ、特異な点があった。</p><p>頭頂部。黒い髪からぴょっこりと飛び出る、耳。</p><p>Nekomimi……！？</p><p>驚愕の表情でそれを凝視するコウは、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。</p><p>くてっ、と力なく伏せられている、人間としては有り得ない獣の器官。それを形容する言葉をコウは他に知らない。ジャパンのHENTAI文化について深い教養と理解を持つコウにとって、グラマラスな若い女にネコミミという組み合わせは少々刺激的すぎた。</p><p>また、女の姿もいけない。胸部と局部を守る革鎧の他は、腰と上腕部に黒い布を巻いているのみで、限りなく裸に近い格好だ。さらに胸当てを押し上げる豊満なバストが、革鎧の隙間からわずかに覗いて見える様は、なんとも悩ましく扇情的であった。眉根を寄せて時折ぴくりと目元が震えているあたり、意識が覚醒しかけているのか。</p><p>そしてその女の下には、潰されたトカゲのような体勢で、まさに”トカゲ男”としか呼びようのない生物がうつ伏せに倒れていた。皮膚を覆うまだら模様の鱗、指先には鋭い爪。うつ伏せになっているのに加え、ボサボサの白っぽい金髪が長く伸びているため顔は見えない。上に乗っかっている女より小柄だが、全身の筋肉が凄まじく発達しているのが見て取れる。</p><p>トカゲ男もまた、上に乗っかっている女同様に露出の多い格好だ。くたびれた革鎧に申し訳程度のボロ布。腰のベルトには棍棒が差してあり、傍には錆付いた戦棍(メイス)が転がっていた。</p><p>うっ……なんか嫌な予感がする、二人とも見覚えがありすぎる……！</p><p>ぺし、と額を叩いて頭を抱え、コウはひとり呟く。自身がゲーム内の『コウ』の格好をしていることも考え合わせると、この黒髪の女も下敷きになっているトカゲ男も、『コウ』の知り合いである可能性が限りなく高かった。</p><p>ぅ～ん……</p><p>と、頭を抱えるコウをよそに、猫耳の黒髪女がうっすらと目を開けた。</p><p>ん～……？</p><p>もにゃもにゃ、と口を動かしながら、寝ぼけ眼で上半身を起こす女。ぴこぴこ、と頭頂部の耳が動く。起き上がってみると明らかだが、本来人間の耳があるべき場所には髪の毛が生えているようだ。</p><p>半開きの深い緑色の瞳が、コウを捉える。</p><p>しばし、地面に胡坐をかく女と腰の引けているコウとで見つめ合ったが、やがてくわっと目を見開いた女は、</p><p>だ、誰よアンタ</p><p>あっごっゴメン</p><p>女がぎょっと身を引くと同時、きわどいところが見えそうになり反射的に謝るコウ。耳をピンと立て、警戒心も露に立ち上がろうとしたところで、女は下敷きにしていたトカゲ男の存在に気付き動きを止める。</p><p>えっ、何？　……何よコレッ！？　なに！？</p><p>泡を食って、猫科の動物のような身のこなしで飛び退る女。その拍子に女の足が頭を直撃し、 んごッ と声を上げるトカゲ男。</p><p>えっ、ってかココは？　アタシ何処にいんの？</p><p>周囲をキョロキョロと見やり混乱に陥る女の傍ら、トカゲ男は んんー と呻きつつボリボリと背中を爪で掻いており、それでも目を覚まさずにいる。</p><p>あー、ちょっといいかい？</p><p>ハぁ！？　何よ！</p><p>……イリス、だよね？</p><p>コウが問いかけると、ハッとした顔で黙り込む黒髪の女―イリス。</p><p>その格好……、アンタ、コウ？</p><p>うん、まあ。そうだよ</p><p>訝しげに目を細め、しげしげとコウを観察するイリス。</p><p>灰色のローブ、足元に転がる木製の杖。ゲーム内で言うところの『コウ』の特徴はそれだけだ。背格好はほぼ同じだがトレードマークの髭は生えておらず、アジア系特有の童顔をしている。年の頃は―イリスから見て20代後半といったところだが、アジア系であることを鑑みると30代なのかもしれない。</p><p>……ホントにコウ？</p><p>うん。髭がなくなってるから、分かんないかも知れないけど</p><p>いや、髭っていうか、まず顔つきからして違うじゃない。喋り方も普段みたいに片言じゃないし……</p><p>イリスの指摘に、今度はコウが意表を突かれたように自分の顔に触れた。</p><p>……顔が変わってる？　どんな顔？</p><p>どんなって……童顔で、垂れ目で、くたびれたシステムエンジニアって感じ</p><p>うっ、またピンポイントな……</p><p>ぐさりとイリスの言葉が胸に刺さり、ダメージを受けた様子のコウ。しかしすぐに何かに気付き、腰の辺りをごそごそと探る。</p><p>取り出したのは短剣だった。</p><p>……何するの？</p><p>鏡の代わりにしてみようと思ってね</p><p>きらりと光る刃に、顔を映そうと試みる。思ったより刃がピカピカではなかったので鏡としては使い辛かったが、自分の顔がゲーム内のそれとは似ても似つかぬ状態にあることだけはよく分かった。</p><p>うん、どうやらリアルの顔のようだね、これは</p><p>ちょっと待って、ってことは、もしかしてアタシも……</p><p>ぺたぺたと自分の顔に触れるイリス、しかしそのまま身体にまで視線を落とし、動きを止める。</p><p>……えっ、ヤダ、この格好……</p><p>ようやく自身が半裸に近い状態であることに気付いたのか、イリスの頬がかぁっと紅潮した。胸当てと腰布を押さえ、今更のようにもじもじとし始める。よくよく見ればその背後では、真っ黒な毛に覆われた尻尾がくねくねと動いていた。</p><p>なんと尻尾まで、と衝撃を受けるコウであったが、レディーに不躾な視線を向けるのもどうかと思い直し、すぐに目を逸らす。</p><p>その、これを使うといい。ボロだけど</p><p>自分の灰色のローブを脱いで差し出した。コウはローブの下にシャツとズボンは着ているので、問題ない。</p><p>ありがと……</p><p>どういたしまして。しかし妙だな……なんでリアルの顔が……</p><p>微妙に気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、延々と続くなだらかな丘陵を眺めながら、独り言のようにコウは呟く。</p><p>実はこの時点で薄々と、アニメや漫画で見かけた”よくある設定”が頭をもたげていたのだが、それを口に出すのは憚られた。</p><p>ふぅ、びっくりしたわ。なんか身体だけ人間に戻ってるし……</p><p>ローブを羽織って人心地ついた様子で、ばさりと髪を掻き上げるイリス。しかし、その拍子に手が頭頂部の耳に触れて、再びピタリと動きが止まる。</p><p>え。何コレ。……え？</p><p>ぐにぐにと猫耳を揉んだり引っ張ったり、耳の穴に指を突っ込んで おぅっ と変な声を上げたりと忙しげなイリスであったが、がばっと身体ごとコウに向き直り、</p><p>ねえ！　正直に答えて欲しいんだけど！　アタシ頭に何か生えてない！？</p><p>何か、というか、耳が生えてるね</p><p>や、やっぱり？</p><p>あとさっき見たら尻尾も生えてるっぽかったけど……</p><p>えっ！？</p><p>コウの指摘に、ローブの下、中腰になって臀部をごそごそと探るイリス。ぐい、と何かを引っ張ると同時、 ギャッ と乙女らしからぬ悲鳴を上げる。</p><p>は、生えてる！</p><p>“豹人(パンサニア)“にそっくりだね</p><p>うう……ゲームで慣れてたからあんまり違和感なかったけど、音の聞こえ方が何か変だと思ったのよ……</p><p>そうか……</p><p>がっくりと膝を突いてうなだれるイリスをよそに、曖昧に頷くコウは、</p><p>（ならばアレはNekomimiではなくHyo-mimiと呼称するべきか……）</p><p>などと、若干現実逃避じみたことを考えていた。</p><p>んがッ</p><p>―と。</p><p>ずっと倒れたままであったトカゲ男が、声を上げてびくりと痙攣した。そのまま地面に手を突き、ゆっくりと身体を起こす。</p><p>その顔が露になった瞬間、コウも、イリスも、はっと息を呑んだ。</p><p>体つきからして明らかだったが、顔の造りもまた、“トカゲ男”と呼称するに相応しい不気味なものであったからだ。</p><p>顔は身体と同様に鱗に覆われ、口の中の歯はギザギザに鋭く、蛇のような長い舌が口から飛び出て薄い唇をちろりと舐めた。顔の骨格も人間のそれから逸脱しており、尖った形の鼻の先、鼻腔は小さな穴になっている。</p><p>細い瞳孔を備えた金色の瞳が、ぎょろりと二人を見据えた。</p><p>―</p><p>それは、一瞬の間隙。</p><p>トカゲ男は地面に胡坐をかいた体勢から即座に後方へと飛び上がり、四足で着地。五メートル以上の大跳躍で、瞬く間に二人から距離を取った。</p><p>―なんだ、テメェら</p><p>特徴的なだみ声。中腰の構えで油断なく二人を睨み付けながら、ベルトに差していた棍棒を引き抜いた。その際、自分がメイスを置き去りにしてしまったことに気付いたらしく、小さく舌打ちする。</p><p>……やれやれ。目を覚ましたかと思えば、いきなり喧嘩腰とは恐れ入る</p><p>ぺし、と額を叩いて、コウは呆れ顔だ。一方でイリスはおっかない殺気にビビっているのか、腰が引けており両耳が伏せられていた。</p><p>……あァ？　誰だよテメーは</p><p>そう言う君はバーナードかな。というか、そうだと言って欲しい。信じられないかもしれないが、僕はコウだ。こっちはイリス</p><p>イリスを示しながらのコウの言葉に、 あァん？ と訝しげな様子のまま、クルクルと棍棒を回すトカゲ男―バーナード。</p><p>コウだと……？　髭はどうした。そっちの女の着てるローブはコウのヤツにそっくりだが……。っつーか、そっちの女がイリスだァ？　アイツは”豹人(パンサニア)“だぞ</p><p>僕たちも混乱しているんだ。ここが何処か分からない上に、外見がリアルに近くなっているらしい</p><p>疑う気配は残しつつも、バーナードも警戒態勢を緩め周囲を見回す。</p><p>……チッ、見覚えのねェ地形だなァ。っつかテメェ、『外見がリアルに近くなる』ってんなら、なんで俺は”竜人(ドラゴニア)“のままなんだよ</p><p>自身の身体に目を落とし、手を握ったり開いたりしながら、バーナードがぎろりと物騒な目を向ける。そんなことを聞かれても困る、とコウは小さく肩をすくめた。</p><p>それは分からない。というか、君はバーナードでいいんだよね？</p><p>いかにも、俺ァバーナードだが</p><p>君もゲームそのままの格好じゃないぞ。顔の形が、その……ちょっと人間っぽくなってるし、髪が生えてる</p><p>んだとォ？</p><p>ボサボサの金髪に手を伸ばし、バーナードは意外そうに目を瞬いた。</p><p>……生えてんなァ。クソッ、どうなってやがる？　さっきからメニュー画面が出てこねェし、現在位置もわかんねェ。ってかここはまだゲームの中なのか？</p><p>それを考えようとしているところだよ、僕らもね</p><p>はァん。そうだ、もしテメェが『コウ』なら魔術はどうなんだよ</p><p>……なるほど、その発想はなかった</p><p>ぱちんと指を鳴らし、コウは中に塩の詰めてある腰のポーチに手を伸ばす。</p><p>Aubine.</p><p>一掴みの塩をばら撒くと同時。</p><p>変化は劇的であった。</p><p>ぱきんっと乾いた音とともに、足元の草原の大地が放射線状に凍結する。一瞬遅れて冷気の波動。凍える風が頬を撫でる。</p><p>うっ……</p><p>体の芯から、何か大事なものがごっそりと抜き取られる異様な感覚。思わずその場で膝を突くコウに ちょっとだいじょうぶ……？ とイリスが心配げに駆け寄ろうとしたが、すぐに足を止める。コウの背後に得体の知れない半透明の存在を幻視したからだ。</p><p>それは長衣を羽織った、痩身の乙女であった。ウェーブする長い髪、うっすら透けて見える青い色。冷や汗をかいて震えるコウの背にしなだれかかるようにして抱きつき、首筋に唇を這わせている。</p><p>―Mi naskigxis.</p><p>囁くような、それでいてはっきりと聞こえる声。氷の手で背筋を撫でられているかのような感覚。</p><p>うっすらと笑みを浮かべた乙女は、愛おしげにコウの首筋をくすぐってから、背後の空間に薄れて消えていった。</p><p>……な、るほど。成る程</p><p>額を伝う冷や汗を拭いもせずに、口の端を吊り上げるコウ。</p><p>今のが『魔力を吸われる』ってヤツか……</p><p>……大丈夫？</p><p>うん、まあなんとか。……しかし困った、こいつはゲームじゃありえない……</p><p>言葉の後半は、ぼそぼそと呟くように。</p><p>頭を振ってから立ち上がろうとするコウであったが、ふと凍結した足元の草に着目し、無造作に引っ張った。</p><p>……はは、二人とも。見てご覧よ</p><p>苦笑しながら、引っこ抜けた雑草を二人に示す。</p><p>草が抜けた。ご丁寧に土までついてる</p><p>……なんだと！？</p><p>その言葉の意味をいち早く察したバーナードが、がばりと地に伏せて手当たり次第に草を抜き始めた。雑草特有の青臭さが、草原の風に吹き散らされていく。手の届く範囲の草を抜いただけでは飽き足らずに、さらに拾い上げたメイスでガッガッと地面まで掘り始めるバーナード。</p><p>……マジだ</p><p>やがて、爪を草の汁で汚し、土だらけのメイスを握ったまま、放心したようにバーナードは呟いた。</p><p>ゲームじゃ、あり得ないね。あり得ないよこれは</p><p>ゲームじゃないって……だったら、何なのよ</p><p>コウの言葉に、傍らで立ち尽くすイリスが慄いたように問う。</p><p>あァッ！？　決まってんだろうがよォ！　現実(リアル)だよッ！！</p><p>代わりに叫ぶようにして答えたのはバーナードだ。くっくっく、と肩を震わせて笑うバーナードであったが、徐々にその笑い声が大きくなっていき、終いにはその場で腹を抱えて笑い転げ始めた。</p><p>ヒーヒヒ！　遂にやったぜェ！　クーフフハハハヴァハハッハッハッハ！！</p><p>ヴァーハッハッハ、ハッハハハとけたたましい笑い声が響く、響く。</p><p>その金色の瞳に薄く涙まで浮かべて、バーナードは狂ったように笑い続ける。あまりに尋常ならざる様子に、声をかけようとしていたコウも閉口し、イリスに至っては何か見てはならないものを見てしまったかのような、困惑と怯えの表情を浮かべている。</p><p>そんな二人をよそに、今度は自分の引き千切った草を口に詰め込み、咀嚼し、歓喜の声を上げるバーナード。</p><p>ヴァッハッハハヒヒヒヒ、すげェ、すげェぞ！　草食ったら味がする！　苦エェェ！　クソみたいに不味イイイィィ！　フッフフィヒェヒェヒェ</p><p>そのままやおら立ち上がり、ピューゥイッ、と指笛を吹き鳴らす。離れて草を食んでいたまだら模様の馬―バーナードの乗騎が、嬉しそうに駆け寄ってくる。</p><p>うおォい、オメェも生きてんだな！　すげェ！　毛の臭いもするし、ヴァッハハ、馬って思ったよりクセーんだなッ！</p><p>べろべろと顔を舐めてくる乗騎のたてがみを荒々しく撫でつけ、やたらと嬉しそうなバーナードは、</p><p>そォらッ！！</p><p>馬の顔面に、右手のメイスを叩き込んだ。</p><p>ボギュッと鈍い音とともに馬面が赤く爆発する。頭蓋骨が崩壊しピンク色の脳髄が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった傷口から、エフェクトではない血飛沫が噴き出した。</p><p>ハッハァーこいつァすげェ、リアルだッ！！</p><p>どうっと力なく倒れ伏す馬の死体を前に、全身から返り血を滴らせながらも大はしゃぎするバーナード。</p><p>呆気に取られる二人。</p><p>―と、イリスの足元に、ころころと、吹き飛ばされた眼球が転がってくる。</p><p>い、……イヤアアアアァァアァッッ！</p><p>何やってんだよ！！！！</p><p>悲鳴を上げるイリス、理解不能な行動に思わず声を上げるコウ。</p><p>だがバーナードはそれを歯牙にもかけず、ただ豪快に笑った。</p><p>あァ！？　んなもん決まってンだろォーがァ！　食うんだよッッ！！</p><p>……は？</p><p>おいコウ、オメェたしかナイフ持ってたよな？　ちょっと貸してくれよ、コイツ解体すっから</p><p>…………</p><p>コウ？　どうした、早くしろよォ</p><p>……ああ、うん。いや、分かった</p><p>頭を振ったコウは、腰のベルトから短剣を外し、鞘ごとバーナードに放り投げる。</p><p>ありがとよッ！</p><p>うん。どういたしまして……</p><p>嬉々として解体に取り掛かるバーナードの背後、投げ遣りに答えながらコウはイリスを見やった。</p><p>…………</p><p>ドン引きした様子のイリス。それはコウも同じであったが。</p><p>……はぁ</p><p>やれやれ、とコウは小さく溜息をついた。</p><p>†††</p><p>とっぷりと日が暮れた後。</p><p>木立の中に隠れるようにして佇む、石造りの廃墟に、揺れる焚き火がひとつ。</p><p>コウたちだ。</p><p>あの後、見晴らしの良い草原は野営に向いていないということで、岩山を中心に周辺を探索し、見つけ出したのがこの場所だった。</p><p>ハッハァ、コウが塩を持ってたのはラッキーだったなァ！　ありがとうよ！</p><p>平石の上に腰掛け、ジュージューと肉汁の溢れる骨付き肉に、ぎざぎざの鋭い歯を突き立てるバーナード。傍らには、解体途中の馬の遺体が無造作に横たえられている。この数百kgにも及ぶ肉塊を、バーナードはたった一人で軽々とここまで運んできたのだ。“竜人《ドラゴニア》“の特性の一つである怪力は、『こちら』でも有効であるらしい。</p><p>ちなみにこの焚き火も、バーナードの”炎の吐息(ブレス)“によるものだ。</p><p>まあ、素材が新鮮でも味がないことにはね</p><p>その対面に座るコウは、同じく肉にかぶりつきながら力なく笑みを浮かべる。身にまとうのは薄手のシャツと簡素なズボンだけなので、夜の空気が少し肌寒そうにしていた。種族としての特性なのか、あるいは寒がりなのか、はたまた単に肉を食いたいだけなのか、やたらと火に寄りたがるバーナードと同様、焚き火で暖を取っている。</p><p>…………</p><p>そんな二人から少し離れて、指先で摘んだ小さな肉の切れ端を、ちびちびとかじっているのはイリスだ。コウから借りっ放しのぶかぶかのローブにくるまり、どうにも居心地が悪そうにしている。その背後には、灰色の馬と黒毛の馬がそれぞれ落ち着かない様子で立っていた。先ほどの乗騎撲殺の一件以来、二頭ともすっかり怯えてしまい、決してバーナードに近寄ろうとしない。</p><p>もっしゃもっしゃと、男たち二人がただ肉を咀嚼する音だけが響く。</p><p>……それで、どうしようか？</p><p>あァん？</p><p>唐突なコウの問いかけに、目をぱちくりとさせるバーナード。</p><p>……この後のことかァ？</p><p>まあ、そうだね</p><p>そうだなァ。今日はもう暗いし寒いからな、とりあえずここで肉食って野営して、あとは明日にしようぜェ</p><p>その明日に何をするかって話なんだけど</p><p>ココは DEMONDAL の世界だろォ多分。なんでリアルになったかは知らんが。ともあれ、それなら村の一つや二つもあるだろ</p><p>ペッと骨の破片を吐き捨て、肉を手にしたまま、バーナードはニヤリと口の端を吊り上げた。</p><p>―適当に襲おうぜェ</p><p>……やはりそうなるか。ブレないな君は</p><p>ぺし、と額を叩いてコウは苦笑いする。その後ろの暗がりで、イリスは怯えるような気配を濃くした。</p><p>まあ、とりあえず今晩は休めるのが僥倖か……今からどうこうするには、僕はちょっと疲れたよ</p><p>俺も肉が食いたいからなァ！</p><p>好きなだけ食べるといい。肉は腐るほどあるし、元より君の馬だ</p><p>全く困った奴だ、とでも言わんばかりに、皮肉な、それでいて厭味の無い笑みを浮かべるコウ。ヴァッハッハ、と上機嫌で笑ったバーナードは膝を打って言葉を続ける。</p><p>それにしても意外だったぜェ。オメェがアジアンだったとはなァ</p><p>両親が日本人でね。国籍は英国人(ブリティッシュ)だよ</p><p>ハッ。なるほどなァ、道理でまどろっこしい喋り方すると思ったぜ</p><p>そう言うバーナードは米国人(アメリカン)かな？</p><p>おうよ</p><p>頷きながら、手を脂まみれにして肉を頬張り続けるバーナード。</p><p>その見かけと同様に、まるで化け物じみた底無しの食欲であったが、馬一頭分の肉は流石に一晩で消費するには多すぎた。</p><p>ダメだ……もう食えねェ</p><p>軟骨と筋しか残っていない骨を放り投げ、ごろりとその場に寝転がる。</p><p>よくもまぁこんなに食えたもんだ……</p><p>へっへへ、新鮮な肉だ、ついハシャイじまったよ……</p><p>バーナードの力の抜け切った全身からは、満足感が滲み出るかのようだ。その凶悪なトカゲ面に思いのほか穏やかな表情を浮かべ、あくびを噛み殺す。</p><p>ふぁ……ダメだ、食ったらクソ眠ィ……</p><p>どちらにせよ今晩はここで野営だ、しばらく眠るといい。交代で番をしよう</p><p>ごそごそと腰のポーチを探るコウは、バーナードに優しく声をかける。</p><p>ん……頼むぜェ……適当に起こして……く……</p><p>呂律が回らなくなったが最後、すやすやと寝息を立て始めるバーナード。一方、ゆらりと音もなく立ち上がったコウは、バーナードを無表情で見下ろしつつ、腰のポーチから何やら怪しげな粉末を取り出した。</p><p>Darlan. Arto, Kon-sui.</p><p>“宣之言(スクリプト)“を唱えるとともに、バーナードに粉末を振り掛ける。きらきらと輝く金色の粒子が、バーナードの身体に吸い込まれていく。</p><p>それを背後から見守るイリスは、夜の闇の向こう側に、羽根を生やした小人の姿を幻視した。</p><p>……さて。これでようやく、落ち着いて話ができる</p><p>焚き火を背に、イリスの方へと向き直るコウ。</p><p>……眠らせたの？</p><p>５回分の触媒を一度に使った。いくらバーナードでも当分は目を覚まさないよ</p><p>椅子代わりにしていた倒木に腰を下ろし、幾分か疲れた様子でため息をつく。</p><p>……改めて自己紹介といこうか。僕はコウタロウ＝ヨネガワ。さっきも言ったけど、両親が日本人の英国生まれさ。よろしく</p><p>アタシは……イリス＝デ・ラ・フェンテ。スペイン人よ</p><p>ほう？　実名プレイか。なかなかやるね</p><p>どうせリアルの知り合いは DEMONDAL なんてプレイしないし……</p><p>それにしても英語が上手だ。てっきり同郷だと思ってたよ</p><p>インターナショナルスクール通ってたから……</p><p>ああ、なるほどね</p><p>したり顔で頷きつつ、（金持ちのお嬢さんか？）という言葉は飲み込んだ。</p><p>……それで、これからのことなんだけど。どうする？　アレ</p><p>そうね……</p><p>顎で背後のトカゲ男を示すコウに、げっそりとした表情を返すイリス。耳もその心情を表すかのように、ぺたりと力なく垂れている。</p><p>いつも一緒に行動してて、ヤバいヤツだとは思ってたけど。……正直ここまでイカレポンチだとは思わなかったわ</p><p>同感だよ。ゲームだと直接の危害がないから、笑って見てられたけどさ</p><p>顔を見合わせて、同時に深く溜息をつく。</p><p>これからどうするか、にも依るんだけど。僕の個人的な意見としては、彼とは行動を共にしたくないね</p><p>アタシもそう思う。何をするか分かんないもの</p><p>『どうするか』と問いかけて迷いなく『村を襲う』と答えるヤツだからな……</p><p>ぺし、と額を叩いて、コウは苦笑した。</p><p>とりあえず、イリスがまともでよかった。君までバーナードみたいなヤツだったら、どうしたらよかったのか</p><p>それはコッチのセリフよ。正直さっきまではコウも一緒なんじゃないか、ってちょっと心配だったんだけど。……ホントに良かったわ演技で</p><p>今一度、重い溜息をつき、イリスは両手で顔を覆う。</p><p>……ねえコウ、これってホントに現実なの？　アタシ、悪い夢でも見てるんじゃないかしら？</p><p>さあてね。僕としても、これが夢であって欲しいと願ってやまないけれども</p><p>くぐもった、震えるイリスの声に、明後日の方向を見やりながらコウは答える。</p><p>だけど、こんなリアルな夢があるものか……？</p><p>ぱちっ、ぱちっ、と焚き火の中で、枝の爆ぜる音。静かな夜の森。</p><p>―しかし、いつまでも、こうしているわけにはいかない。</p><p>よし。イリス、ひとつ提案がある</p><p>話に弾みをつけるため、パンッと手を叩いて口を開くと、音にビビッたのかイリスがビクリと身体を震わせる。ビンッと毛を逆立てる耳。</p><p>あ、ごめん。脅かしたかったワケじゃないんだ</p><p>いや、だ、大丈夫だケド。それで？</p><p>うん。まあこれからの行動指針だ。『ここ』が DEMONDAL そっくりの異次元世界であり、かつ僕らが何らかの原因で転移してしまった、と仮定して話すけど、僕としては『現実世界への帰還』を目標にして行動したいと思う。君は、その辺どう思う？</p><p>アタシも帰りたいわ。こんな世界ゴメンよ</p><p>だよね</p><p>思い返すのは、ゲーム内で自分たちが積み重ねてきた悪行の数々だ。あんな無法者が普通に存在しうる世界など、余程の理由でもない限り留まりたいとは思えない。</p><p>では、それを前提にした上でどうするか……さっきもバーナードに話したけど、『こちら』にも人は暮らしてる、と思う。というかそう信じたい。まずは人里を探して、最低限の身の回りのものを揃えるべきだと思うんだけど……</p><p>この格好じゃ、おちおち野営もできないものね</p><p>願わくば、ここが”竜人”やら”豹人”のエリアじゃありませんように……</p><p>バーナード(アイツ)はどうするの？</p><p>もちろん置いて行く</p><p>コウは即答した。</p><p>……このまま放っておいて、僕たちだけで去ろう</p><p>……そうね</p><p>二人ともが、神妙な顔で頷く。</p><p>―本当は。</p><p>このままバーナードを、ここに放置してよいのか、という想いはある。</p><p>仮にこの世界にも、ゲームと同じように住人が居たとして―バーナードという男が、何らかの災いをもたらすことは、火を見るよりも明らかであった。</p><p>だが―だからといって、バーナードに手を下すとか、そういったことは考えたくなかった。二人とも同じことを懸念しつつも、そしてそれを互いに薄々察しながらも、口に出すことは、なかったのだ。</p><p>……はっきり言ってトラブルの種にしかならないだろうからね、こいつは。性格的にも……外見的にも</p><p>その言葉に、ハッとした様子で思わず頭頂部に手を伸ばすイリス。</p><p>こちらの住人が、『それ』にどういった反応を示すかはわからない。しばらくフードは下げておいた方がいいよ、イリス</p><p>……分かったわ</p><p>さて、ならば当座の目標は人里を見つける、ということで。……動こう</p><p>足元に転がしていた杖を拾い上げ、やおら立ち上がる。</p><p>極力ここから……バーナードから離れよう。コイツが何をトチ狂ったかしらないが、自分の馬を殴り殺してくれたのは良かった</p><p>……なんで、殺したのかしら</p><p>さあてね。狂人の考えることは分からんよ</p><p>そんなに肉が食いたかったのかね、とただ疲れたように呟いた。</p><p>ぶるる、と鼻を鳴らし、早くこの場から去りたそうにしている、灰色の馬に跨る。</p><p>イリス、警戒は任せていいかい</p><p>ええ。アタシは、『こっち』でも夜目が効くみたい</p><p>颯爽と黒馬に跨るイリスの両の瞳が、月明かりの下で爛々と輝いて見えた。</p><p>―その代わりコウは、何かあったら魔術でお願いね？</p><p>“氷”の方は兎も角、“妖精”の方は魔力も触媒も余裕がある。任せてくれ</p><p>腰のポーチをぽんぽんと叩きながら、にやりと笑ってみせるコウ。</p><p>果たして二騎は、月下を静かに走り出す。</p><p>…………</p><p>揺れる馬上、真っ直ぐに前を見ながら、コウは表情を曇らせた。</p><p>正直なところ―バーナードを置いていくことに、罪悪感が欠片もない、といえば、やはりそれは嘘になる。</p><p>だから、コウは振り返った。</p><p>振り返って、ひとり眠る、仮初の友人を見やった。</p><p>…Good bye, Barnard…</p><p>その呟きは、ある種の手向けか―</p><p>二人の姿が、夜の闇の向こうへと消える。</p><p>ただ―</p><p>焚き火のそば、何も知らずに眠る、</p><p>異形の男を、ひとり残して。</p><p>36. Dilan’niren</p><p>お久しぶりです。北の大地編、始まります。</p><p>ダガガッダガガッと硬質な蹄の音が響き渡る。</p><p>アクランド連合公国北部。アリア川に沿って、真っ直ぐに北へと伸びる街道。</p><p>敷き詰められた赤煉瓦の道を、風のように疾駆する騎馬の姿があった。</p><p>まずは一騎。褐色の毛並みが美しい、引き締まった体つきの駿馬だ。その背には革鎧と朱色の複合弓で武装した、精悍な戦士を乗せている。</p><p>そしてそれに続くもう一騎は、がっしりとした体格の黒馬。サーベルと丸盾を背負った黒装束の少女を乗せ、同時に寝具や革袋などの物資も運んでいる。</p><p>言うまでもない―ケイとアイリーンだ。</p><p>ケーイ！　オレたち、もうかなり進んできたかなー？</p><p>視界の果て、街路樹の隙間から覗く雄大な山脈。金髪のポニーテールを風になびかせながら、アイリーンが馬上で声を弾ませる。</p><p>頂が雪で覆われている山々は、北の大地と公国を隔てる自然の障壁であり、アリア川の水源でもあるらしい。随分と上流まで遡ってきたからであろう、ウルヴァーンにいた頃に比べれば川幅は格段に狭くなり、流れも速くなっている。</p><p>だいぶ山が近づいてきたな。少し休もうか？</p><p>いいな！　ちょうど小腹が空いてたんだ</p><p>ケイが答えると、待ってましたとばかりにニカッと笑うアイリーン。二人はそのまま川のほとりに陣取って、しばしの休息を取ることにした。</p><p>ウルヴァーンを発ってから二日。</p><p>ケイとアイリーンは、宿場や小さな村を経由しながら、北の大地を目指してブラーチヤ街道を北上していた。</p><p>川にせり出すように枝葉を広げる木の下で、下馬したケイたちはホッと一息つく。早朝に宿場を出立してこの方、三時間ほど騎乗の人となっていた。久々の長旅ということもあって太股や腰の肉が痛む。</p><p>とはいえ、ただ乗っていただけの二人よりも、実際に走っていたサスケとスズカの方が余程疲れているに違いない。</p><p>ご苦労さん。今これ外してやるからなー</p><p>アイリーンがスズカの首をわしゃわしゃと撫でつけ、鞍に括り付けていた荷物を手際よく外していく。</p><p>サスケの機動力を確保するため、旅具の運搬はスズカの担当となっていた。元は草原の民の馬であるスズカは、最高速度こそサスケに劣るものの、がっしりとした体格からか加重に強く、長距離を走るスタミナも持ち合わせている。</p><p>毎日アイリーンがブラッシングをしたり野菜を食べさせたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いていたこともあって、今ではすっかり懐いていた。べろべろと顔や首筋を舐められて、アイリーンがくすぐったそうに笑っている。</p><p>地面に革のシートを敷きながら、微笑ましげにそれを見守っていたケイであったが―ふと視線を感じて横を見ると、 ぼくもやろうか？ とでも言わんばかりに、サスケが目をぱちくりさせていた。</p><p>……いや、いいよ</p><p>苦笑して手綱と轡を外してやると、 そう？ と小首を傾げたサスケは、ぺろりとケイの頬をひと舐めしてから、足元の草を食み始めた。</p><p>さて、と……</p><p>地面に下ろした山のような荷物を前に、腰に手を当てて、ぼう、と立ち尽くすアイリーン。そしてふと気付いたかのようにケイの方を向く。</p><p>どうせなら、オレたちも早目の昼飯にしちゃう？</p><p>……そうだな、そうしようか</p><p>朝のうちに距離を稼いだので、今日はこれ以上急ぐ必要もないだろう。仲良く草を食むサスケとスズカを尻目に、ケイたちもいそいそと昼餉の用意に取り掛かった。</p><p>アイリーンが荷物から木製の食器や手鍋、旅用の木炭などを取り出していく。ケイは川原で手ごろな石を拾い、簡易的なカマドを組んで火を起こす係だ。その辺に落ちていた枝なども賑やかしにしつつ、木炭に点火して手鍋でお湯を沸かす。</p><p>それじゃ粥でも作るとして……先にお茶淹れよっか</p><p>誰に言うでもなく呟き、アイリーンが荷袋から乾燥ハーブと茶漉しを引っ張り出した。二人旅という都合上、持ち運べる荷物には制限があり、鍋は一つしか持ってきていない。旅には不便がつき物なので文句は言えないが、正直なところ、ヤカンくらいは別に用意するべきだったかもしれない―とは、二人ともが考えていた。</p><p>任せるよ</p><p>生まれてこの方、食材の解体はしたことはあっても、肉を焼く以外に料理の経験がないケイはアイリーンに投げっぱなしだ。見ている限り、やってやれないことはないとは思うのだが、料理に関してはアイリーンが率先してやっている感があるので、それについ甘えてしまう。</p><p>ちなみに、代わりといっては何だが、後片付けや火の始末はケイが担当している。</p><p>……よし、俺は魚でも獲ってこよう</p><p>細い紐を矢尻に結いつけ、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を手に、ケイは川のほうを示して見せた。</p><p>OK, 串は用意しておくぜ</p><p>ありがとう</p><p>火で軽く炙った小枝をナイフで削り始めるアイリーンを背に、ケイは弓に矢を番えながらきらめく川面を物色する。涼しげに泳ぐ魚たち―その中の大きめの一匹に目をつけ、水の抵抗を考慮した手加減なしの矢を放った。</p><p>派手な水飛沫が上がり、射抜かれた一匹を残して川魚たちが散っていく。場所を変えて同じ要領でさらに一匹仕留め、ついでに鱗やはらわたなどの下処理も済ませてしまう。</p><p>お茶淹れたよー！</p><p>今行くー</p><p>しゃばしゃばと手を洗ってから、エラに糸を通した魚を手にアイリーンの元へ。木陰に腰を下ろし、木のカップに注がれたハーブティーを渡されて一服。</p><p>ふぅ……</p><p>川のせせらぎや、チチチチ、と何処からか聞こえてくる鳥の声。昼前の太陽が眩しく、青々と咲き誇る草花も目に心地よい。</p><p>……いいなぁ、こういうのも</p><p>なー</p><p>木の幹に背を預け、和むケイ。隣り合ったアイリーンもすっかり寛ぎモードだ。</p><p>二人旅にも関わらず、これほどケイたちがのんびりしていられるのは、ここがまだ公国内であることが大きい。それも、比較的治安が安定しているクラウゼ公の直轄領だ。宿場ごとに警邏隊が常駐しており、街道沿いの森にも程よく人の手が入っているため凶暴な獣を警戒する必要もない。</p><p>ん～フフ～、ンッタッタ、ンッタッタ</p><p>謎な歌を口ずさみながら、再び煮立った鍋に雑穀を投入するアイリーン。ケイもカップを脇に置いて、アイリーンの用意した串を川魚に刺し、表面に塩をまぶしていく。そして焚き火の両脇の地面に突き刺し、あとはじっくりと火が通るのを待つだけだ。粥を食べ終わる頃には良い塩梅になるだろう。</p><p>よーし。お粥はどうする？　甘くする？　それとも塩胡椒？</p><p>塩胡椒で</p><p>ケイって甘いお粥苦手だよな</p><p>苦手ってほどでもないんだが</p><p>日本の食生活の先入観からか、粥にレーズンが入っていたり、ジャムや砂糖で味付けされたりすると、どうにも違和感が拭えない。尤も、“粥”といっても砕いた麦や雑穀をお湯でふやかしたオートミールに近いもので、いわゆる日本の”お粥”とは全くの別物であると頭では理解しているのだが。</p><p>はい、これ</p><p>ありがとう</p><p>熱々の粥を木の器によそって貰い、丸っこい木のスプーンでいただく。栄養バランスも考慮して、コリコリとした食感の木の実や豆なども一緒に入れられていた。味付けはシンプルに塩のみ。超絶美味か、と問われると疑問な味だが、アイリーンと一緒に雄大な景色を眺めながら雰囲気を味わうのは悪くない。</p><p>―それに、これだけだと寂しいが、川魚の塩焼きもあるからな。</p><p>そんなことを考えながらスプーンを往復させていると、あっという間に食べ終わった。</p><p>ふぅ……</p><p>木の器を横に置いて、ぽんとお腹を叩いたアイリーンがコテンとその場で横になる。塩焼きの香りを楽しみながら、ケイは懐中時計を取り出して時間を確認した。</p><p>何時？</p><p>11時だった</p><p>あとどのくらいで着くかなぁ、ディランニレン</p><p>そうだな……</p><p>目を細めて、山脈を見やるケイ。あの山のふもとの峡谷に、当座の旅の目標、緩衝都市ディランニレンがある。</p><p>ディランニレンは公国と北の大地の中間に位置し、その名の通り緩衝地帯としても機能する大規模な都市だ。元々は公国が北の大地へ侵攻した際、橋頭堡として築いた砦だったらしい。現在は和平協定により、ウルヴァーンのクラウゼ公と北の大地の有力氏族との間で分割統治が為されている。</p><p>ディランニレンを除いては、あの険しい山脈を越えるほか、北の大地へ繋がるルートはなく、雪原の民・平原の民の双方にとって玄関口といえる交通の要所だ。</p><p>当初のケイたちの考えでは、ディランニレンに到着した後、魔の森を目指して山脈沿いに北東へと進むつもりであったが、“銀色キノコ”ことヴァルグレン＝クレムラート氏のアドバイスにより、安全とされるブラーチヤ街道をさらに北進し、商業都市ベルヤンスクに辿り着いてから東へのルートを取ることにしている。</p><p>まあ、夕方までには着くだろう</p><p>……そっか</p><p>揃って、まだ見ぬ都市ディランニレンの方角へ視線を向けるケイとアイリーン。</p><p>あの山脈の向こう側に、北の大地が広がっている―</p><p>…………</p><p>パチッ、パチッと炭火が控えめに弾け、魚の塩焼きがシューシューと湯気を立てる。</p><p>先ほどまでとは、少し質の違う沈黙がその場を支配した。ケイも、アイリーンも、二人ともが北の大地へ、それぞれの想いを馳せていた。</p><p>行き着く先に何が待っているのかは、はっきりとは分からない。</p><p>ただ、何かしらの答えが出るであろうという、確信はあった。</p><p>……そろそろいいかな</p><p>静かすぎる空気を誤魔化すかのように、ケイは塩焼きに手を伸ばす。匂いは香ばしく、程よく火も通っているようだ。</p><p>あ、オレも食ーべよっと</p><p>起き上がったアイリーンも塩焼きを手に取り、ケイより先にかぶりつく。</p><p>ん！　美味い</p><p>それはよかった</p><p>かじりついてみれば、カリッとした皮の下に引き締まった白身の肉があり、ダイレクトな塩味にうっすらと旨みが染み渡る。泥臭さの全く感じられない、淡白な味わいだった。</p><p>この魚は美味いな、名前が分からないが</p><p>なー</p><p>今回の旅で二度三度と世話になっているが、いまだに名称が分からない。胴体に白い斑点がある辺り、イワナに似ているような気もするが、それにしても英語で何と呼ぶのかは分からなかった。</p><p>この世界に来てから２ヶ月以上が過ぎていたが、結局のところは、ケイたちはまだ”異邦人(エトランジェ)“に過ぎなかった。</p><p>次の機会、現地人に名前きいてみようぜ</p><p>うむ、そうしよう</p><empty-line/><p>アイリーンの提案に、何気ない顔で頷きながら、果たして次の機会なんてあるのだろうか、などと考えつつ。</p><p>しかしそれを口に出すことはなく、ケイは黙って塩焼きを平らげた。</p><p>その後、しばらくのんびりとしてから、ケイたちは再び出発した。</p><p>サスケや、特にスズカの負担にならないよう、速度をセーブした駆足で進む。それほど急がずとも、ディランニレンはすぐ傍まで迫っていた。段々と近づいてくる山脈の威容を鑑みて、日が陰る前には着くだろうとケイは予想を上方修正する。</p><p>また、北に進むにつれ、脚に手紙や小さな筒を括り付けた伝書鴉(ホーミングクロウ)を引っ切り無しに見かけるようになった。ウルヴァーンの周辺でもよく見かけていたが、ここ一帯は特にその数が多い。交通と商業の要所だけあって、通信の需要が高いのか。</p><p>ちなみに伝書鴉とは使い魔の一種で、“告死鳥(プラーグ)“と呼ばれる精霊と契約した魔術師に使役される存在だ。告死鳥は DEMONDAL のゲーム内で”妖精”の次にメジャーな精霊で、精霊としては珍しく、現界に肉体をもって顕現している。その見た目は鴉に酷似しており、少なくともぱっと見では区別することができない。</p><p>誰とも契約していない状態の告死鳥を殺害することが契約の条件であり、黒い羽を持つ鳥の使役・使い魔への憑依・告死鳥そのものへの変身など、非常に汎用性の高い術の行使を可能とする反面、契約の解除ができず、契約者に半永久的な状態異常(デバフ)―身体能力低下の呪いを付与することで知られている。</p><p>どれだけ手間隙かけて育成したキャラクターでも、告死鳥を殺した瞬間に弱化してしまうので、特にケイのような弓使いや狩人は、黒い羽の鳥には決して手を出さないのが常であった。</p><p>少なくともゲーム内では、告死鳥の契約は契約者を蝕む死の呪いである、という設定がなされていたのだが、この世界の告死鳥の魔術師たちはそれを承知の上で契約に及んだのだろうか。それとも、あるいは―</p><p>そんなことをつらつらと考えているうちにも、周囲の風景は変わっていく。川幅はいよいよ狭くなり、土壌も湿っぽい黒色のものから乾燥した褐色のものになっていった。</p><p>そして―</p><p>大きな丘を越えた先の風景に、ケイは思わずサスケの足を止める。</p><p>……あれが、ディランニレンか</p><p>ケイに追いついたアイリーンもまた、手綱を引いて隣に並んだ。</p><p>……まるでデカい壁だな</p><p>ぽつりとアイリーンのもらした呟きは、まさに、その都市を形容していた。</p><p>山と山との境目、深い峡谷に、張り付くようにして広がる灰色の街並み。それは、公国の建築様式が色濃く反映された石造りのものと、丸屋根や曲線を多用する木造建築とが入り乱れた、ある種の混沌であった。</p><p>どっしりとした年季の入った石壁が、新たなる来訪者を拒絶するかのように、冷え冷えと傷だらけの表層を晒している。がっしりと隙間無く組まれた石組み―数箇所に設けられた巨大な門を除いて、蟻の子一匹通さないような構えだ。まさに街そのものが、一つの大きな関所として、“防壁”として機能するように設計されている。</p><p>扉とは、むしろ閉ざされるためにこそ存在しているのだと。</p><p>その事実を、ディランニレンの有り様は端的に、そして厳然と告げていた。</p><p>…………</p><p>だが、この灰色の街が、北の大地への入り口であることもまた、事実だ。</p><p>……避けては通れないからな</p><p>馬上で腕組みをして、渋い顔のアイリーン。その表情を見て、彼女もまた同様に、何か気の進まぬものを感じているのだろうとケイは理解する。</p><p>まあ、折角玄関まで来たんだ、ノックくらいはしようじゃないか</p><p>……そうだな。行くか</p><p>ケイの言葉に肩をすくめて、アイリーンがぽんとスズカの腹を蹴る。</p><p>果たして、丘を駆け下った二人は、異民族のせめぎ合う街、灰色の都市の扉を叩く。</p><p>それこそが、北の大地の旅路への―真なる幕開けであった。</p><p>長くなりそうだったのでキリのいいところで投稿。今回はちょっと短めです。</p><p>緩衝都市ディランニレンのイメージです。</p><p>37. 迂回</p><p>ディランニレンの城門には、他の街と同様に、武装した門番たちが控えていた。</p><p>頑強さを重視した無骨な短槍に、動きを阻害しない板金仕込みの革鎧。篭手や脛当て、兜などはデザインが統一されておらず、各々が使いやすいように細かく調整されている。</p><p>見栄えや統一感を前面に押し出していた、ウルヴァーンやサティナの衛兵と対照的に、華やかさの欠片もない集団だ。また、門番自身も、いかにも傭兵上がりな柄の悪い男たちばかりで、頬に傷があったり片目が潰れていたりと、強面な者が勢ぞろいしている。その勤務態度はお世辞にも良いとは言えず、やる気なく壁に寄りかかる者、詰め所で酒を呷る者、パイプをふかしている者など、まるでごろつきのような有り様だった。</p><p>お揃いで身につけている赤白のたすきと、城門の上にはためく赤と白の旗がなければ、そもそも彼らが門番だと認識すら出来なかったかも知れない。</p><p>サティナの麻薬取締りのような厳しい手荷物検査はなかったが、時折『怪しい』―と門番たちが考える―通行人が止められ、やれ荷物を見せろだの身分証を出せだの、あれこれ難癖をつけられていた。</p><p>そして当然のように、ケイも止められた。</p><p>アイリーンはスルーで何故自分だけ、と考えるとケイも憮然とせざるを得なかったが、ウルヴァーンの名誉市民の身分証を提示すると、難癖をつけてきた門番は塩を撒いたナメクジのように大人しくなった。お陰で何事もなく解放されたが、身分証がなければ城門を通過できなかった可能性もある。</p><p>大会に出た甲斐もあるってもんだ</p><p>ホントだよ。何だかんだで、市民権取れてよかったぜ！　身分証見せたときの門番の顔ったらなぁ！</p><p>バシバシとケイの背中を叩きながら、快活に笑い飛ばすアイリーン。ケイを励ますような、気遣うような明るさの裏に、隠しきれない門番への憤りが滲む。それをおどけた風に誤魔化そうとするあたり、アイリーンらしいとケイは思う。</p><p>まったくだよ、権力様様さ</p><p>苦笑しながら、ケイもまた小さく肩をすくめてみせた。街中は乗馬が禁じられているので、サスケの手綱を引きながらてくてくと歩いていく。</p><p>雑多な街。</p><p>ディランニレンの、端的な印象はそれだ。</p><p>石造りの公国風の家と、曲線を多用した北の大地特有の木造建築とが、無秩序に入り乱れている。直方体の石造りの建物をベースに、強引に木材で雪原の民風に改装したものも散見された。</p><p>看板の多くにはアルファベットとキリル文字が併記されており、大通りを歩くだけで、其処彼処からロシア語の会話が聞こえてくる。平原の民と雪原の民がロシア語で親しげに談笑する姿などは、公国広しといえどもこの街でしかお目にかかれないだろう。</p><p>（……しかし、妙な感じだな）</p><p>固い面持ちで、右へ左へとケイは視線を彷徨わせる。</p><p>―落ち着かない。</p><p>ぴりぴりと、背筋が痺れるような。</p><p>あまりにも刺々しい、そして露骨な敵意があった。</p><p>ただ道を歩いているだけで、通行人が自然とケイを避ける。大通りには人が溢れているにもかかわらず、ケイの周囲だけぽっかりと穴が空いていた。商品を陳列する店主はケイの姿を認めて顔をしかめ、井戸端会議をしていた女たちも、示し合わせたかのようにぴたりと話を止める。</p><p>雪原の民も平原の民も、関係なく。</p><p>誰も彼もが、じっとりとした目を向けてきていた。</p><p>…………</p><p>ウルヴァーンに住み始めた頃も最初はアウェー感があったが―流石にこれは異常だ。ここまで来ると、不快を通り越していっそ不可解ですらあった。</p><p>なんか、ヘンな感じだな</p><p>いつの間にか隣に来ていたアイリーンが、ボソリと呟く。 ああ と曖昧に、どうしたものか測りかねたように、ケイは頷いた。</p><p>戦時下の街、と言われても納得してしまいそうな空気だ。しかし、ま(・)だ(・)特筆するような騒ぎも起こしていないというのに、ここまで敵視される理由が分からない。</p><p>……取り敢えず宿を探そうか</p><p>ここに泊まんのか？</p><p>いまだ天頂でさんさんと輝く太陽を見上げ、嫌そうな声を上げるアイリーン。言わんとするところを察したケイは、しかし渋い顔で顎を撫でた。</p><p>そりゃあ俺だって、この街が大好きってワケじゃないが。現地調査も無しに噂に名高い『北の大地』に踏み込むのは、性急すぎるんじゃないか？</p><p>……うーん</p><p>さもありなん、とばかりにアイリーンも難しい顔になった。しばし、二人して往来のど真ん中で顔を見合わせていたが、 邪魔なんだよ！ という通行人の悪態に我に返り、再び歩み始める。</p><p>……オチオチ考え事も出来ないな</p><p>やっぱり宿探す？　……オ(・)レ(・)が</p><p>頼めるか？</p><p>任せろ</p><p>ニッと笑ったアイリーンが、ケイにスズカの手綱を預け、するりと人ごみへ踏み込んでいく。揺れる金髪のポニーテール―歩調を僅かに緩めたケイは、泳ぐようにして人の波をかき分けて行く少女を静かに見守った。</p><p>人懐っこい笑みを浮かべたアイリーンは、住民たちへ積極的に声をかけていく。ロシア語を生かして、主に雪原の民に道を尋ねて回っているようだ。話しかけられた者の中でも特に若い男などは、にへらとだらしなく相好を崩し、アイリーンの質問に前のめりになって答えていた。</p><p>何人かはそのままナンパモードへと突入していたが、アイリーンが何か言いながら後方のケイを示すと、途端に表情を変えるのが見ていて面白い。愕然とする者、ふてくされたようにそっぽを向く者、ため息をついて興味を失くす者、その反応は様々だ。相手を刺激しないよう、ケイはそれとなく視線を外していたが。</p><p>それから十分ほどゆっくりと歩き、市の中心部に辿り着いた辺りで、アイリーンが情報収集から戻ってきた。</p><p>……どうかしたのか？</p><p>うーん……まあな。色々わかったぜ</p><p>が、その顔色は冴えない。力なく答えたアイリーンは、周囲の人の目を気にしながら、</p><p>……ここだとちょっと話しにくい。街の外に出よう</p><p>外に？</p><p>ぴくりとケイの眉が跳ねる。しかしそれ以上の説明は求めなった。アイリーンがそう言うからにはそれ相応の理由があるのだろう。黙ってスズカの手綱を返す。</p><p>そのまま来た道を引き返し、南門から街の外へ出る。</p><p>身分証の件で顔を憶えていたのか、とんぼ返りしてきたケイたちを怪訝そうに見る門番をよそに、そそくさと城門から離れていく。</p><p>初め、余所者を拒絶するかのように見えた石壁は、振り返ってみても相変わらず無表情のままだった。口をつぐんで物思いに沈むアイリーンに、一体何が起こったのか、と胸中の不安を渦巻かせながら黙々と歩く。</p><p>やがて、道を下り、人気のない木立まで辿り着いたところで、アイリーンは肩の力を抜き溜息をついた。</p><p>はぁ～……。まったく、聞いてた話と違うぜ</p><p>いったい何がどうしたってんだ</p><p>どすんと原っぱに座り込み、ケイは問う。 どうもこうもねーよ とボヤきながら、対面の木の切り株にアイリーンが腰を下ろした。膝に頬杖をついた姿からは、どこか不貞腐れたような空気が漂っている。</p><p>一呼吸置いて、アイリーンは切り出した。</p><p>―結論から言うと、街道の西側で草原の民が暴れてるらしい</p><p>は？　草原の民？</p><p>予想だにしていなかった情報に、目を瞬くケイ。</p><p>……なんで北の大地に、草原の民が？</p><p>さあ。理由は分からねーけど。一ヶ月くらい前から出没するようになった馬賊が、街道より西側で暴れまわってるんだと。旅人やら行商人やらが襲われて、周辺の物流が滞ってるとか何とか……集落がいくつも焼かれて女子供も容赦なく殺されてるって話だ。こりゃ相当恨み買ってるぜ</p><p>……なんてこった</p><p>頭痛を堪えるように、ケイは額を押さえた。</p><p>皆が俺(・)に(・)対(・)し(・)て(・)やたらと殺気立ってたのは、そういうワケか</p><p>『こちら』においては、ケイの容姿は限りなく草原の民のそれに近い。ケイからすれば、自身の日本人風な顔立ちと、草原の民の大陸系の濃い目鼻立ちは全く異なるものなのだが、雪原の民や平原の民にその見分けはつかないだろう。</p><p>ひょっこりと街に入ってきたケイに、住民たちが何を思ったか―想像に難くない。</p><p>そうしてみるとあの門番たちも、あくまで彼らの職務に忠実だっただけかもしれない。街からそう遠くない場所で草原の民が暴れている中、草原の民の格好をした男が街に入ろうとすれば誰だって止める。ケイも立場が立場なら止めていたかも知れない。</p><p>……どのくらいの規模の賊なんだ？　その馬賊とやらは</p><p>十人やそこらじゃないのは確かみたいだ。話によると百人単位だとか</p><p>百人、とその数を口の中で反芻しながら、ケイは胸元から地図を取り出しばさりと打ち広げた。羊皮紙の上、公国と北の大地を隔てる、険しい山脈をそっと指でなぞる。</p><p>……話半分に聞いたとしても五十人か。そんな大人数でどうやって北の大地まで……。まさか堂々とディランニレンを通ったってワケじゃないだろうが、海から山脈を迂回したのか、それともグループに分かれて山を越えたのか</p><p>ディランニレンは通ってないっぽいな。いきなり街道周辺に出没して暴れ始めたらしいし……“大森林”を横断してきた、ってのが専らな噂だ</p><p>地図を覗き込んだアイリーンの、白魚のような指先がくるくると西部の山岳地帯を指し示す。</p><p>地図には描かれてないけど、ここらへんの山は標高がかなり低くて、歩いて越えられるんだとさ。ちょうどディランニレンみたいな感じで</p><p>しかし、この森はたしか 深部(アビス) だろう？</p><p>深部 ―森林地帯の中でも、特に”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“や”大熊(グランドゥルス)“など化け物が闊歩する領域のことだ。 DEMONDAL のゲーム内では、入念な準備と優れた装備抜きでは、上級プレイヤーでさえ生きて帰れないような魔境であった。</p><p>少なくとも、紋章による身体強化の恩恵に与(あずか)れないこの世界の住人が、おいそれと踏み込める場所ではない。ましてや、それが大人数ともなれば。</p><p>あるいは、強力な魔術師の庇護下にでもあれば話は別かもしれないが、草原の民は魔術的な技能に乏しい。精霊信仰(シャーマニズム)の文化はあるが、精霊と対話し使役する術を持たないのだ。</p><p>まあ、だからあくまで”噂”だな。実際に森を踏破してきたのかは分からない</p><p>そう言って、アイリーンは小さくお手上げのポーズを取った。</p><p>―でも、他にルートがないのも確かなんだよな。海から上陸しようにも、沿岸部では目撃されてないらしいし、東の山越えするルート周辺でも馬賊の被害は出てないそうだ。本当にぽっと湧いて出たみたいに、いきなり街道周辺が被害にあってるんだって</p><p>う～む……謎だな</p><p>地べたに広げた地図に目を落とし、顎を撫でるケイ。</p><p>北の大地は広い。街道より西、と一口にいっても、ケイたちが旅してきたよりも遥かに広大な土地が広がっているのだ。そこには森があり、川が流れ、丘陵が続き、荒地が乾いた土を晒している。さぞかし暴れ甲斐があるのだろう、とケイは皮肉な気持ちで笑った。</p><p>だいたい孤立無援で補給はどうしてるんだ。一ヶ月前からなんだろ？</p><p>集落を焼き討ちしたときにでも、物資とか奪ってるんじゃねーの？　西部には湖も川もあるし</p><p>……血気盛んな雪原の民が、よく野放しにしてるもんだ</p><p>いや、当然、周辺の街と集落が、山ほど戦士を送り出したらしいぜ。でも規模の大きな討伐隊とは絶対に鉢合わせしないんだってさ。包囲して炙り出そうとしても、事前に察知して逃げるらしいし―逆に規模が小さかったり、合流前だったりする隊が奇襲されて大損害を受ける始末なんだと</p><p>……大した奴らだ</p><p>口の端を歪めるケイであったが、その表情は依然として固い。</p><p>孤立無援、多勢に無勢、地の利がない状況で一ヶ月間も追撃をかわし暴れ続けているとは、尋常なことではない。よくやるもんだ、と感心する一方で、なんと迷惑なことをしてくれるのだ、という憤りにも似た想いがある。</p><p>馬賊の勇猛さを称えるべきか、討伐隊の不甲斐なさを嘆くべきか―そう考えたところでケイは、ふと雪原の民の戦士・アレクセイのことを思い出した。</p><p>忘れもしない、サティナからウルヴァーンへの旅路。アイリーンとの距離感が変わり、隊商護衛の経験を積み、初めて現実(リアル)での決闘を吹っかけられた珍道中。</p><p>―ディランニレンを訪ね、ひとつ分かったことがある。</p><p>それは、たとえ北の大地であったとしても、アレクセイのような優れた戦士がありふれているわけではないということだ。大都市なだけに母数が大きく、精悍な戦士もちらほら見かけられたが、アレクセイほどの覇気を漂わせる者はそれほど多くなかった。</p><p>裏を返せば、一定数、居ることには居る。しかし、あの猪突猛進な青年が強烈に印象に残っていただけに、北の大地といえば 石を投げれば化け物じみた戦士に当たる そんな土地をイメージしていたのだが―</p><p>―あんまりにも要領がいいから、実は内通者がいて情報が漏れてるんじゃないか、と雪原の民同士でも疑心暗鬼になってるっぽいぜ</p><p>したり顔で説明するアイリーンに、我に返る。</p><p>……どうした？　ケイ</p><p>……いや、</p><p>透き通るような両の瞳が、じっとケイを見つめていた。空よりも涼やかな青色を見つめ返す、すっと胸の内が穏やかになるような、そんな感覚があった。不思議そうに小首を傾げるアイリーンに、頭を振ったケイは、</p><p>雪原の民のことを考えていた。この状況で内輪揉めとは、相手の思う壺だな</p><p>だなー。街の住民も、なかなか成果を出せない討伐隊にイラついてる感じだった。特にここんところ、部族間での連携もガタガタになってるみたいだからな</p><p>成る程……</p><p>短時間ではあったが、アイリーンは必要な情報を全て集めてきたようだ。さすが母国語は自由度が違う、などと感心しながら、ケイは腕組みして考え込む。</p><p>大体の事情は把握できた。ではこれからどうするか、という話になるのだが。</p><p>……うーん</p><p>アイリーンもケイの真似をして腕を組み、唸り声を上げた。</p><p>……これ、どうするよケイ</p><p>ヴァルグレン＝プランが使えなくなったな</p><p>ウルヴァーンの知識人、元(・)“銀髪キノコヘア”ことヴァルグレン=クレムラート氏のアドバイスに基づいて、ケイたちは大まかな旅のルートを決めていた。</p><p>再び地図に目を落とす。紙面の真ん中、南北に伸びるブラーチヤ街道。</p><p>当初の予定では身の安全を最優先とし、治安の悪い地域には近寄らず、極力二人旅は避ける方針であった。まずは、何とか隊商を見つけ出し、同行してブラーチヤ街道を北上。ディランニレンに匹敵する巨大都市”ベルヤンスク”を目指す。次に馬の足を活かして二人で東進、平野部を一気に駆け抜け辺境の都市”ナフェア”へ。そこからは最終的な目的地である”魔の森”―に最も近い集落、“シャリト”へ向かうつもりだったのだが。</p><p>“ブラーチヤ街道周辺は安全”―まず、その前提が崩れた</p><p>キノコ親父め……全然話が違うじゃねえか</p><p>馬賊が出たのは最近なんだろう？　あの御仁を責めるのは気の毒だ、彼は魔法使いだが預言者ではない……それに今はキノコ親父でもないな</p><p>あのまんまウルヴァーン飛び出してきたけど、カツラどうしたんだろうな</p><p>さあ……</p><p>結局、シーヴに吹き飛ばされたカツラは見つかっていないそうだ。予備があればいいのだが、それがなければありのままの姿での生活を強いられることになる。</p><p>望遠鏡もブッ壊れちまったし……</p><p>正直ウルヴァーンに戻るのが怖いな。弁償させられたらどうしようか</p><p>カツラはともかくとして、あの望遠鏡は高そうだよなー……</p><p>そんな時間をおいて請求されるとは思わない……思いたくないが……</p><p>二人で顔を見合わせ、どちらからともなく溜息をついた。</p><p>ま、そんなことは、</p><p>今はどーでもいっか</p><p>若干、現実逃避の方向に思考が流れていたのを修正する。</p><p>どうする？　今回は取りやめて引き返すか？</p><p>そーだなぁ</p><p>慎重論のケイに、アイリーンは溜息をついて空を見上げた。</p><p>遠い目だ。考え事をしているというよりも、昼間の見えない星を数えようとしているかのような、ぼんやりとした表情。</p><p>……ケイはさ、今引き返したら、どうなると思う？</p><p>どうなる、とは？</p><p>あと二週間もすれば秋になる。ほとぼりが冷めるのを待ってたら、あっという間に冬になっちまう。そうしたら来年の春まで、旅を延期しなきゃならない</p><p>切り株の上で体操座りをして、両膝を抱えるアイリーン。真摯な瞳がケイを真正面から見据えた。</p><p>オレは、出直したところで、必ずしも状況が良くなるとは限らないと思うんだ</p><p>……ふむ</p><p>馬賊は、今は西側の地域で暴れてるだけだ。ここらでも『草原の民』の悪名は轟いてるけど……逆に言えばそれだけだ。ここより東には、まだそれほど話が広がってないはず</p><p>話しているうちに、徐々にアイリーンの声が熱を帯びていく。</p><p>だから、今のうちに東へ向かえば、謂れのない差別やら迫害やらを避けられると思う。逆に時間が経てば経つほど、東側にも馬賊の話は伝わっていくだろう……来年出直したらケイにとって、……その、さらに状況が悪化してた……なんてこともあり得るかも</p><p>……成る程</p><p>だから……行くなら、今のうちじゃないか、って……</p><p>つっ、とアイリーンが目を逸らした。</p><p>今のうちじゃないかって……、思うんだ</p><p>アイリーンにしては珍しく、歯切れの悪い調子だったが。</p><p>一理ある、な</p><p>ケイは真顔で頷いた。</p><p>街道周辺の治安悪化、あるいはケイ自身が敵と誤認されるトラブル。リスク回避のために、ケイは一時的に様子を見るべきだと考えていたが、アイリーンの主張も尤もだ。時間の経過とともに状況が改善される保証など、何処にもない。</p><p>そして何より―少しでも早く”魔の森”に行きたい、行ってこの転移現象の原因を探りたい、というアイリーンの強い意志を感じる。勿論、多少のリスクは承知の上で。</p><p>（アイリーンは、帰りたいんだろうか）</p><p>―分からない。だが、少なくとも帰れるかどうかを知りたがってるのは確かだ。</p><p>ケイは原因の究明を急いでいないし、特に急ぐ必要もない。</p><p>しかし、アイリーンは違う―まるで抱え込んだ何かが風化してしまうのを恐れるかのように、傍目にも焦燥感が彼女の中でくすぶっているのが見える。今、このときを逃してしまうと、二度と再びチャンスがないのではないかというような危機感も。</p><p>（ならば、俺がどうこう言う筋合いはない）</p><p>言うことなど―できない。</p><p>よし、</p><p>地図を手に取り、ケイは微笑んだ。</p><p>ルートを考え直そう。あんまり危なくないヤツを</p><p>……うん</p><p>それに応えるようにして、アイリーンもまた、微笑を浮かべて頷いた。</p><p>今にも消えてしまいそうな、儚い笑みを。</p><p>†††</p><p>地図を挟んで協議すること数十分、ケイたちは次のルートを策定した。</p><p>現時点で、ケイたちが取れる選択肢は三つ。</p><p>一つはこのまま公国内を東に進み、“オゼロ”という辺境の都市を経由して、山越えするルート。紙面上の距離は最短だが、険しい山々を越えなければならず、また登山用の装備もないため今回は断念する。</p><p>もう一つは、ディランニレンを通過した後に、街道を外れ広大な平野を北東に横断するルートだ。言葉にするとシンプルだが、平野部とはいえ道なき道をひたすら進まなければならない。また、水源の少ない痩せた土地であるためかほとんど集落が存在せず、途中で物資を補給することが困難であった。ケイたちの水や食料はまだ何とかなるが、サスケとスズカの飲み水が確保できないのは致命的だ。</p><p>よってこのルートもボツ。残された最後の一つを取ることになる。</p><p>ブラーチヤ街道よりも小規模な、“エゴール”街道。山脈に沿って東に進み、南へ流れる川に突き当たってから一気に北上するルートだ。大回りである代わりに森や木立が多く、街道沿いに小さな村や集落がいくつもあるため、物資の補給が比較的容易と考えられた。</p><p>ヴァルグレン氏の情報によると、“あまり治安のよろしくない”地域らしいが―多少のリスクは仕方がない。馬賊に襲われるのに比べればマシ、と考えるほかないだろう。</p><p>ディランニレンで食料を少しばかり補給し、一路東へと向かう。</p><p>ケイとアイリーン、馬上の気楽な二人旅だ。</p><p>公国に比べて植生はがらりと変わり、潅木や針葉樹が目立つようになった。公国側の山のふもとは森に覆われていたが、北の大地側は少し土が痩せているらしく、木々が疎らな木立が目立つ。</p><p>それでも鳥や山羊のような生物がちらほらと見かけられたので、飲料水は兎も角、いざとなれば食い物は調達できるなとケイは笑った。アイリーン曰く、常人の視力ではとても見つけられないそうだが。</p><p>サスケの手綱を握り、公国とは違う風景を楽しみながら、駆け足の速度で進んでいく。</p><p>が、しばらくするうちにヴァルグレンの 治安がよろしくない という言葉の意味が、じわじわと分かってきた。</p><p>まず、街道の状態が非常に悪い。敷設されている石畳はひび割れが目立ち、所々が馬車での通行に支障が出そうなほど欠損している。寂れている―というべきか、途中で見かける村々もじっとりとした雰囲気で、貧相な格好をした村人たちは、睨み付けるような、粘着質な視線を向けてきていた。</p><p>やっぱり、もう馬賊の話は伝わってんのかな？</p><p>不安げに、後方のアイリーンが問いかける。</p><p>分からん……どちらにせよ、歓迎ムードではないな</p><p>硬い声で答えたケイは、左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の感触を強く確かめながら、油断は出来ないと改めて気を引き締めた。</p><p>（……しかし、やはり隊商護衛は良い経験になっている）</p><p>視界全体に注意を払いながら、ふとそんなことを思う。</p><p>今、ケイは周囲を警戒しているが、決して気を張りすぎているわけではなく、適度に肩の力を抜き視野を広く持つことができていた。さほど意識していないが、視界内に動くものがあればすぐにそれとなく察知できる。</p><p>この適度な力の抜き方を、短い間ではあったが、あの隊商護衛の仲間たちから学べたのだとケイは思う。</p><p>例えば今も、道の果ての茂みに何か違和感があったかと思えば、ひょっこりと鹿の親子が飛び出してきた。頭上から視線を感じたと思えば、枝に止まってじっと見下ろしてくる白い鳥。ふと右を見れば、木陰からこちらを伺う山猫と目が合う。</p><p>一々細かいことが分かるようになったものだ、と自分のことながら感心する。</p><p>突然矢が飛んでくるかも知れず、道に罠が張ってあるかも知れず、物陰から強盗が飛び出してくるかも知れず―油断すれば命も危うい世界で、しかしそんな乾いた空気が実によく身体に馴染んでいる。</p><p>ある程度気楽に構えていられるのは、慣れているからか、それともこれも油断なのか。</p><p>客観的には判断しかねるが、少なくともそれを負担と感じないのは、悪いことではないはずだと自分に言い聞かせる。溜息をついたケイは無意識のうちに、鞍に括り付けてある矢筒を撫でていた。</p><p>それから、二時間ほど駆けていたであろうか。日が傾き始め、夜をどう過ごすか相談し始めていた頃、ケイたちは小さな集落に辿り着いた。</p><p>道の両側に住居が立ち並ぶ、路村と呼ばれる形態の田舎村だ。エゴール街道沿いの集落は、どれもこれもしみったれていたが、この村は―比較的マシであった。</p><p>少なくとも家の戸が傾いたりしていないし、蜘蛛の巣と煤に塗れている風もない。住民たちも他の集落に比べれば、いくらか好意的だった。村人はロシア語しか喋れないようだったが、アイリーン曰く、村長が善意で一晩の宿を提供してくれるらしい。</p><p>見知らぬ土地で野宿するのも不安であったので、ケイたちは有難くその申し出を受けることにした。</p><p>サスケとスズカを預け、村長宅の物置のような質素な部屋に荷物を置き、夕餉の席に招かれる。</p><p>恰幅のよい白髪の村長に、その妻の老婆、息子夫婦と思しき男女に、幼い子供が三人。ランプの暖色の明かりに照らされた居間に、家族全員が勢ぞろいしていた。さっき倉庫から引っ張り出してきた、と言わんばかりのオンボロな椅子を借りケイたちも席に着く。</p><p>『―？　―！』</p><p>『―。―、―』</p><p>村長とアイリーンがロシア語で雑談する中、手持ち無沙汰となったケイはきょろきょろと家の中を見回していた。</p><p>ここらの家は、こういう造りになってるんだなぁ……</p><p>公国では見ない茅葺屋根に、子供に家を描かせたらこうなるであろう、というような、シンプルな構造。興味深げなケイに、何やら子供たちが笑っている。</p><p>最初は、異人種の自分が珍しいのか、などと思いケイも愛想笑いを浮かべていたのだが―何か心に引っかかるものを感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。</p><p>（なんだ……？　あの目は……）</p><p>年の頃は、一番上が十歳ほどで、一番下はおそらく四歳ほどだろうか。兄、妹、末っ子の弟、といった組み合わせだったが―その目に、ケイは違和感を覚える。</p><p>何か―小狡い、としか表現のしようのない、不快な光がそこにはあったのだ。</p><p>（馬鹿にされている……？）</p><p>まず、幼いが故の差別意識を疑ったが、異人種だから舐められているというのとは少し違う感触だった。</p><p>不審がるケイに気付いたのか、隣に座っていた母親が、ケイを指差す長男の手をぱしんと叩いてたしなめている。</p><p>しばらくして、食事が運ばれてきた。</p><p>そのときに気付いた。この家では、“家人”は誰も料理をしていなかったことに。</p><p>料理を運んできたのは、質素な貫頭衣に身を包んだ―</p><p>―草原の民？</p><p>呆気に取られたのは、ケイだけではないだろう。隣で雑談に興じていたアイリーンも、一瞬会話が止まっていた。</p><p>料理の皿を捧げ持ってきたのは、二人の草原の民だった。二人とも女で、顔には独特な刺青があるが、鉄製の首輪を嵌められており心なしか痩せている。二人とも、ケイを見て少し驚いた風だったが、そのまま黙々と料理をテーブルに並べ、しずしずと部屋を辞去していった。</p><p>なんだ今の……</p><p>ケイの呟きを聞いたアイリーンが村長に一言二言質問すると、彼はにこやかな顔で、</p><p>Ведомого.</p><p>と答えた。</p><p>……奴隷だってさ</p><p>困ったような顔で、アイリーンが囁く。</p><p>そうか……</p><p>ケイも困ったような顔しか出来なかった。しかし同時に、すとんと胸に落ちるような、そんな感覚もあった。</p><p>気を取り直して、いよいよ晩餐となる。アイリーンがテーブルに並べられたスープ皿のひとつに手を伸ばしたが、村長がやんわりとそれを止め、他のスープよりも少し具が豪華な料理をケイとアイリーンに供した。</p><p>……なんか、この村の、客をもてなす伝統料理なんだってさ</p><p>……ほう</p><p>少なくとも、匂いは美味しそうだった。何やら独特な香辛料の香りがある。村長たちはケイたちの機嫌を窺うような愛想笑いを浮かべていた。</p><p>まあ、ありがたく頂こう</p><p>そうだな</p><p>ケイたちが食べ始めたのを見て、村長たちも自身の皿に手を付ける。客人が食べ始めるのを待つのが、この村の礼儀なのだろうか。</p><p>村の伝統料理とやらは、豚肉と根菜と葉野菜をこれでもかとぶち込んだクリームスープだ。ザワークラウトのような酸味があり、スープには出汁の味がよく出ていて大変美味であった。が、コリアンダーにも似たハーブの香りが、どことなく浮いているように感じられる。</p><p>その他にも、黒パンや干し果物、焼いたソーセージなども追加で供され、少量ではあったが蒸留酒まで振舞われた。田舎の村とは思えないような豪華な食事。しかしケイにとっては、言葉が通じないこともあったが、様子を窺うような―まるで観察するような―家人の視線がどうにも気になり、あまり楽しめない夕餉だった。</p><p>食後は、アイリーンも雑談を早々に切り上げ、二人して提供された部屋に引っ込む。</p><p>ふぅ。何だかんだで腹いっぱいになったなー</p><p>ああ……</p><p>明るい調子で、ぽんぽんと腹を叩くアイリーン。ぽすん、と一つしかない寝台に、二人で並んで座る。</p><p>……奴隷にはびっくりしたが</p><p>なー。聞いてみたら”戦役”のときに、奴隷落ちした草原の民が大量に北の大地に売り払われたんだってさ。それ以来、その……なんていうか、時々『入荷』するんだって、同じような奴隷が</p><p>なるほどな……</p><p>子供たちは正直だったわけだ、とケイは納得しようとしたが―それでも、何か引っかかるものがある。なぜか落ち着かない気分だった。</p><p>……なあ、アイリーン。この村の住人、どう思った？</p><p>……うーん</p><p>問いかけてみると、アイリーンもまた思うところがあったのだろう。</p><p>…………胡散臭いよな？</p><p>アイリーンもそう思うか</p><p>うん。なんか、ちょっとな……</p><p>自然と、二人の声のトーンが下がる。</p><p>ただの行きずりの旅人に、もてなしが手厚すぎると思うんだが</p><p>それはオレも思った。あとなんか、探るような目で見てくるよなアイツら</p><p>実は腹いっぱい食わせて酒を呑ませて、寝込みを襲おうとでもしてるんじゃ……</p><p>……だったら、どうする？</p><p>今更動きづらいが……まあ適当に謝礼を払って、今から村を出るのもアリか</p><p>うーん、そうだな……</p><p>しばらくうんうんと唸って考え込んでいたアイリーンだが、やがてぽんと手を打ち、</p><p>そうだ、警戒魔術でも仕掛けておこう。何かあったときはビビらせればいいだけだし、人間相手ならハッタリも有効だしな</p><p>それがいい</p><empty-line/><p>果たして、アイリーンはケルスティンを顕現させ、部屋の扉に対人用の警戒魔術を仕掛けた。</p><p>元々寝台が小さく、二人では満足に寝転がれなかったことから、ケイが壁にもたれかかるようにして座り、アイリーンに膝枕をした。ケイもアイリーンも武装は解除せず、万が一に備えていつでも動けるよう体勢を整えて眠る。</p><p>おやすみ、ケイ</p><p>おやすみアイリーン</p><p>布を重ねたケイの膝を枕に、すやすやと寝息を立て始めるアイリーン。ケイは体勢的にあまりリラックスできないので、（俺はそれほど深く眠れないだろうな……）などと思いつつも、睡魔に襲われずぶずぶと眠りに誘われていった。</p><p>そして深夜。</p><p>事(こと)は起きた。</p><p>『―！！　―！？』</p><p>野太いロシア語の悲鳴。ケイがカッと目を見開いて覚醒すると同時、アイリーンが毛布を跳ね除けて飛び上がる。</p><p>見れば、部屋の扉が開いており、黒い影に飲み込まれた男が床の上で転げ回っていた。</p><p>村長だぜコイツ！</p><p>やはりか！</p><p>村長の後ろには、ランプを片手に腰を抜かしたように座り込む息子夫婦の姿もあった。</p><p>―Liberigxu(解放せよ).</p><p>アイリーンの一言で、まとわりついていた影が霧散する。中からは、真っ青な顔で床に這い蹲り、怯える村長が現れた。</p><p>『―！？　―、―！』</p><p>アイリーンが厳しい口調で何事かを問うと、しどろもどろになりながら村長が弁明を始める。ケイは”竜鱗通し”を片手に、左手を腰の剣の柄に置いて背後の息子夫婦を監視するように睨み付けた。</p><p>『―ッ！』</p><p>村長がある程度弁明を終えた辺りで、アイリーンが一喝。</p><p>『―、―……』</p><p>低い声で、かつおどろおどろしい口調でアイリーンが話し始めると、冷や汗を垂らした村長と息子夫婦が震えながらその場で平伏した。状況は良く分からないが、アイリーンが高圧的な態度を崩さないので、ケイも取り敢えず隣でふんぞり返っておく。</p><p>その後、何かを命じられた息子夫婦が家を飛び出していき、アイリーンに目線で促されたケイもまた、荷物を持って外に出た。</p><p>驚いたことに、家の外には松明や鎌、棍棒などを手にした数人の村人が待機していた。皆、ケイたちの姿を認めるや否や殺気立っていたが、アイリーンが威嚇でケルスティンの影を放つと蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。</p><p>それと入れ替わるようにして、息子夫婦がサスケとスズカの手綱を引いて戻ってきた。</p><p>『―』</p><p>アイリーンが尊大な顔で言い放つと、平身低頭しながら息子夫婦は家の中へと引っ込んでいった。</p><p>よし、行こうぜケイ</p><p>お、おう</p><p>荷物をサスケの鞍に括り付け、そそくさと村から離れていく。サスケもスズカも夜目がそれほど利かないので、ケイが手綱を引いて先導する形だ。</p><p>……ぶふっ</p><p>しばらく沈黙を守っていたものの、村から充分離れたあたりで堪えきれなくなり、どちらからともなく吹き出した。</p><p>気が抜けたように、しばし二人でからからと笑い合う。</p><p>ああ。傑作だったな、あの村長たちの怯えっぷりといったら</p><p>笑いすぎで出てきた涙を拭いながら、ケイ。スズカに跨ったアイリーンはわざとらしくえっへんと胸を張り、</p><p>―なかなかの名演技だったろ？</p><p>ああ。レイフ＝ファインズもびっくりな悪役っぷりだったさ―それで、村長たちには何て言ってやったんだ？　随分と怯えてる様子だったが</p><p>なぁに、大したことは言ってねーよ。『我は偉大なる闇の魔術師！　大人しくしていれば見逃してやったものを、一家揃って呪いをかけてやろうかー！』ってな具合さ</p><p>それだけか？</p><p>あとはまあ、脅しで色々。『孫三人を狂わせて、互いに共食いさせてやろうかー』とか『死して尚、屍人形として永遠にこき使ってやろうかー』とか</p><p>けっこうえげつないこと言うじゃないか</p><p>そこで、 あ、そうそう とアイリーンが思い出したように手を打った。</p><p>そういえば、あの『伝統料理』ってヤツさ。村長が勝手に白状したんだけど、アレ毒を盛ってたらしいぜ</p><p>何だと！？</p><p>思わず自分の身体を見下ろすが、―何の問題もない。</p><p>毒、っつーても眠り薬的なヤツらしいけど。でもオレらってホラ、『身体強化』があるからさ……</p><p>ああ……生半可な毒じゃ効かないか。ありがたいこった……</p><p>そんなことを話しながら、しかし一晩中歩くわけにもいかないので、街道から少し外れた木立で野宿することにした。</p><p>焚き木を拾い集め、石を組み、木炭に火をつける。</p><p>炎の暖色の明かりが、月夜の闇を吹き散らした。周囲の茂みの角度を考え、予備の毛布で即席の壁を作るなどして、明かりが極力木立から漏れないよう工夫する。</p><p>警戒魔術、ここでも使う？</p><p>頼む</p><p>OK、じゃあ”警報機”を試してみよう</p><p>荷物を漁ったアイリーンが、呼び鈴と天秤、そしてテコが一体化したような小さな機械を取り出した。</p><p>ウルヴァーンに滞在した一ヶ月間。</p><p>ケイたちは何も、調べ物だけに全ての時間を費やしていたわけではない。</p><p>この世界に転移し、精霊の思考がより柔軟になったことを踏まえ、魔術を新たな方法で応用できないかあれこれ試行錯誤を繰り返していたのだ。</p><p>その中でも、アイリーンが作り出したこの”警報機(アラーム)“は非常に画期的なものといえる。</p><p>Kerstin, kage-jitsu, naru-ko.</p><p>アイリーンが水晶を捧げると、足元の影が揺らめき四方八方へ散っていく。周囲に索敵の結界を張ったのだ。</p><p>ここまでは、隊商護衛でも使っていた警戒魔術と全く変わらない。</p><p>よし、あとはコレで……</p><p>地面に置いた”警報機”の受け皿に、アイリーンが水晶の塊を載せた。錘と化した水晶により、テコの機構で呼び鈴の上の小さなハンマーが音もなく持ち上がる。</p><p>この”警報機”の仕組みは、至ってシンプルだ。</p><p>半径五十メートル以内に”敵”が侵入した場合、ケルスティンはその侵入者へ影による威嚇動作を行う。</p><p>そしてその代償としてアイリーンは受け皿の上の水晶を、追加でケルスティンに捧げる―という契約を結ぶのだ。『捧げられた』ことになる水晶は、契約に従い自動的に魔力に還元され消滅、錘をなくしたハンマーが落ちて、呼び鈴を叩き鳴らす。</p><p>この装置、そして呪文の革新性は、限定的ながらもケルスティンに物理的な干渉を可能とした点にある。</p><p>本来、薄明かりの化身であり下位精霊にすぎないケルスティンは、低燃費な代わりに物理的干渉能力が非常に低い。故に、隊商護衛で使っていた警戒魔術では、影絵による注意喚起がせいぜいのもので、見張りが眠り込んでしまうと目を覚まさせてまで警告することができなかった。</p><p>しかし、アイリーンは下位精霊のケルスティンであっても、術式に用いる触媒に限り、魔力への還元―つまり物体の消滅が可能という点に着目した。そして、その触媒を錘に使うという発想により、『敵への威嚇』と『呼び鈴を鳴らす』という二つの目的の同時達成を可能としたのだ。</p><p>これにより交代で夜番をせずとも、片方が呼び鈴に反応できる程度の居眠りにさえ抑えておけば、外敵の侵入にスムーズに対処できるようになる。二人旅において革命的なまでに、夜番の労苦を軽減することができるのだ。</p><p>少なくともウルヴァーンで調べた限りでは、触媒をこういった形で利用する道具は存在しなかった。現時点では、術式の大本がアイリーンの魔力依存で、“警報機”そのものも魔道具とは呼べないようなただの機械だが、ゆくゆくは水晶さえ用意すれば一般人でも使える魔道具型警報機が作れるのではないか、とケイたちは踏んでいる。</p><p>コーンウェル商会と組めば、なかなか面白い商売ができるだろう。この世界に特許の概念はなく、仕組みも単純であるため他の魔術師でも再現は可能だろうが、それでも圧倒的なニーズによりアイリーンの仕事がなくなることはあるまい。</p><p>ああ、そういう意味じゃ、なんか帰るのが楽しみになってきたな</p><p>そう言ってからケイは、自分自身の『帰る』という言葉にどきりとした。</p><p>そーだな、ああ、さっき叩き起こされたからやっぱ眠いや</p><p>アイリーンは気にする風もなく、小さく欠伸をしている。</p><p>……アイリーンは先に寝るといい。俺が『夜番』をしよう</p><p>座ったまま木の幹にもたれかかり、ケイは薄く笑ってみせた。 お、そーお？ と荷物から毛布を引っ張り出したアイリーンが、地面に革のマットを敷いてコテンと寝転がった。</p><p>ケイの膝を、枕にして。</p><p>……寝にくくないか？</p><p>これがいい。……おやすみ</p><p>ケイの懸念をよそに、すりすりと身を寄せたアイリーンは、そのまま静かに寝息を立て始める。</p><p>…………</p><p>暖かな炎の明かり。揺れる光と影。冷たい夜の風。知らない土地の空気。</p><p>いつか見たような半月だけが、優しくケイたちを見守っている。</p><p>ぱちぱちと音を立てる焚き火に、ケイは枯れ枝を放り込んだ。火の粉が散り、ふわりと灰が舞い上がる。</p><p>帰る、か……</p><p>思わず、ぽつりと呟いた。衝動的に、手元の金髪を、アイリーンの頭を撫でていた。その眠りを妨げないように、まるで壊れ物でも扱うかのように。</p><p>―何だかんだでこうして無事でいるが、毒を盛られた上に寝込みを襲われたわけだ。</p><p>そんな実感が、しみじみと湧いてくる。</p><p>（―アイリーンは、帰りたいんだろうか）</p><p>そしてやはり、そこに帰結する。自分が独りだと認識してしまうと、つきまとって離れない考えだった。当然のように、答えは出ない。</p><p>答えは出ない―</p><p>ふと、すぐ傍においてある、アイリーンの警報機に目を留めた。</p><p>ゆくゆくは、水晶さえあれば、誰でも使えるモデルを作るという。</p><p>それはつまり―ケイでも使えるということだ。</p><p>たとえアイリーンが、いなくなっても。</p><p>…………</p><p>頭を振ったケイは、目を閉じて、こつんと後頭部を木の幹にぶつけた。</p><p>取り敢えずは、この警報機の恩恵に与り、存分に居眠りをしようと思った。</p><p>膝の上の心地よい、アイリーンの体温を感じながら―</p><p>―今は何も、考えずに。</p><p>38. 挫折</p><p>どんよりとした曇り空の下、ケイとアイリーンは黙々と歩みを進めていた。</p><p>どちらも騎乗の人ではない。げっそりと憔悴した表情で、それぞれ手綱を引いて歩いている。二人とも全身から疲れ切った雰囲気を滲ませていたが、連れている二頭―サスケとスズカの様子はもっと酷い。うなだれたままだらりと舌を垂らして、その呼吸は荒く、今にもふらふらと倒れてしまいそうだった。</p><p>頑張れ、もうちょっとで着くからな……</p><p>苦しげにあえぐサスケに励ましの声をかけたケイは、背中の荷袋の位置を正し、自身にも改めて気合を入れ直した。元々はスズカに載せていた荷物だが、衰弱した彼女の負担を少しでも軽減するため担いでいくことにしたのだ。ケイの背後では死んだ魚のような目をしたアイリーンが、同様に少しばかりの荷袋を背負って歩いている。</p><p>北の大地へ踏み込んだ当初の、楽しげな雰囲気など欠片もない。焦燥感と疲労感に追い立てられるようにして、ただ愚直に足を動かす。忌々しげに額の汗を拭ったケイは、無意識のうちに腰の水筒へと手を伸ばしていた。歩調に合わせてゆらゆらと揺れ動くそれは、しかし全く音を立てず、軽い。</p><p>空っぽだった。中身はとっくに飲み干してしまっている。喉が渇いた―とは今更口には出さず、ケイは意識的に唾を出して渇きを誤魔化そうと試みた。</p><p>…………</p><p>案の定うまくいかず、厳しい表情のまま、足を動かすことに注力する。</p><p>どれだけ歩いただろうか。木立を抜け、平野を突っ切り、丘を越え―</p><p>―ああ</p><p>その向こう側に広がった景色に、思わずケイは足を止めた。</p><p>やっと着いた。見えたぞ、アイリーン！</p><p>……マジで！？</p><p>道の果てを指差すケイ。わずかに瞳の光を取り戻したアイリーンがバッと顔を上げる。</p><p>マジだとも。ようやくだ</p><p>……うっ</p><p>感極まったように、アイリーンはうっすらと涙を浮かべた。</p><p>う、うううっ。良かった……っ！</p><p>ああ、これでやっと―</p><p>二人揃って、噛み締めるように、</p><p>水が補給できる……！！</p><p>ぶるる、と溜息をつくように、サスケとスズカが鼻を鳴らした。</p><p>もう少しだぞ、サスケ</p><p>スズカ、あとちょっとで水が飲めるからな、頑張ろうな</p><p>ケイがサスケの首をぽんぽんと叩く傍ら、アイリーンはスズカのたてがみを撫でつけ、再び歩みを再開する。</p><p>道の果てには、山と山の間に張り付くようにして広がる石壁の街―</p><p>―緩衝都市ディランニレン。</p><p>どうにか戻ってこれた……</p><p>思わず、ケイの口から感慨深げな言葉が漏れる。</p><p>北の大地に踏み込んでから三日。</p><p>ケイたちは、エゴール街道を引き返し、ディランニレンへと戻っていた。</p><p>†††</p><p>結論から言うと、東回りのエゴール街道ルートは、とてもではないが旅の出来るような環境ではなかった。</p><p>行きずりの村で寝込みを襲われたケイたちであったが、しかしその時点ではまだ、引き返すことまでは考えていなかった。アイリーンの”警報機”もあることだし、野宿しながら住民との接触を最低限に抑えれば大丈夫だろう、ということで治安の悪い東部を突っ切ることにしたのだ。</p><p>が。</p><p>その次の日、ケイたちは早くも深刻な問題に直面した。</p><p>水不足。ケイとアイリーンの分は言うに及ばず、サスケたちの飲み水が、圧倒的に不足していたのだ。</p><p>これまで公国内を旅するとき、ケイたちは常に川沿いを進んでおり『馬に必要な水』をほとんど意識することがなかった。しかし実際のところ、馬は一日に30～40リットルの水を飲み、走って汗をかけばそれ以上の水分を必要とする。単純に大の大人の一抱えもあるような瓶一杯の水を用意しなければならないわけだが、エゴール街道周辺に河川はなく、そして数少ない水源のそばには必ずといっていいほど雪原の民の集落があった。</p><p>住民との接触を控えようにも、水のために集落には立ち寄らざるを得ない。しかしいざ水を分けて貰おうとすると、今度は価値観の差が、『一滴の水の重み』の違いが、分厚い壁となって立ち塞がった。ケイたちが集落に立ち入った時点で良い顔はされなかったが、アイリーンが水の補給を願い出ると、返ってきたのは完全なる拒絶であった。</p><p>聞けば、このところ東部地域では雨が降っていないようで、現地の住民たちでさえ渇水に陥りつつあるらしい。そこに余所者がのこのことやってきて、水を―それも人間だけではなく馬のためにも―分けてくれと言っても、到底受け入れられるはずがなかった。</p><p>ケイたちは悟った。煮沸消毒しなくて飲めるレベルの水源がごろごろしていた公国は、真の意味で『豊か』だったのだと。そして蛇口を捻れば水が出てくるのが当たり前だった現代人のケイたちは、そのありがたみを知識としては知っていても、『理解』はしていなかった。今までの環境が恵まれていたせいで、そんな基本的なことに気付けていなかったのだ。</p><p>結局、 水を分けて欲しい と聞いた時点で住民たちが ふざけるな と激昂しだしたので、ケイたちは逃げるようにしてその集落を後にした。</p><p>次の集落でも交渉を試みたが、返事はなしのつぶて。タダでとは言わない、金は払うと金目のものを取り出せば、目の色を変えた住民たちに総出で襲われる始末だった。咄嗟に反撃して何とか事なきを得たものの、住民側に怪我人を出してしまったので今後その集落の周辺には近寄れないだろう。</p><p>あの困窮ぶりでは、到底まともな治療は望めまい。矢傷が膿んだり感染症にかかったりして、何人かは死ぬかも知れないと考えるとケイは暗澹たる気分になった。</p><p>とはいえ、他人の心配ばかりもしていられない。いずれにせよこの調子では二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなってしまう。どうやって水を手に入れるのか。そして、このまま進むのか、引き返すのか。ケイたちは決断を迫られていた。</p><p>―最終的に、現在地や天候その他を鑑みて、ケイたちは引き返すことを選択した。</p><p>水不足に陥った時点ではまだ予定のルートの五分の一も消化できておらず、その後の飲料水の目処も立たないまま突き進むのは自殺行為に等しかった。完全な手詰まりになる前にディランニレンへ引き返し、馬賊のリスクを承知の上でも、水の確保が容易なブラーチヤ街道を北上すべし、という方向で意見がまとまった。</p><p>では、ディランニレンに戻るまで道中の水はどうするのか、という話になるのだが。</p><p>真っ当な手段で水を確保するのは難しい―苦肉の策としてケイたちが考え出したのが『邪悪な魔法使い(イヴィルウィザード)』作戦。夕暮れ後や夜明け前―アイリーンが魔術を使える時間帯に集落を訪ね、水を工面して貰えるようまず交渉する。成立すればそれでよし、決裂した場合はケルスティンの影で村人をビビらせ、高圧的な態度で改めて脅迫(こうしょう)に臨む、というシンプルな作戦だ。</p><p>ケイは顔布で顔を隠してフードを目深にかぶり、一言も話さない不気味な護衛戦士の役を演じ、アイリーンは予備の外套を着込んで換金用の装飾品をじゃらじゃらと身につけ、なぜか持ってきていた口紅まで引き、尊大な魔術師として振舞った。</p><p>夕闇に浮かぶ、真っ白な肌と紅い唇のコントラスト。いわゆる一般的な”魔術師”のイメージからかけ離れたアイリーンの若さと美貌は、辺境の民の目には一際異様に映ったに違いない。寝込みを襲われた際の経験を活かしたのだが、この作戦は、思いのほか上手くいった。</p><p>アイリーン曰く、ここら一帯の住民は信心深い―迷信深いというべきか―らしく、詳しい知識がないことも相まって、呪いや魔術を極端に恐れているらしい。直接的な害がなく、それでいて得体の知れないケルスティンの『影』は、そんな彼らを脅かすにはもってこいだった。</p><p>アイリーンが影をけしかければ住民は老若男女を問わず恐れおののき、こちらの要求がすんなりと通るという状況。ケイもアイリーンも、多少悪ノリしていた感は否めないが、やはり脅迫まがいの行為に手を染めるのには罪悪感があった。水の対価は現金で払う、必要以上に脅かさない、などと線引きをして、ケイたちは道中の村々に立ち寄り水を手に入れていった―のだが。</p><p>ディランニレンが目前にまで迫ったところで、とうとう問題が起きた。</p><p>とある村の住民たちが、よほど切羽詰っていたのか、アイリーンの魔術を恐れながらも強固に抵抗してきたのだ。まさか皆殺しにするわけにもいかず、また、あまり騒ぎすぎると街の警備隊が駆けつけてくる可能性があったので、ケイたちはそのまま水を補給せずに村から逃げ出した。</p><p>そして―仕方がなく、ディランニレンまで歩き通したわけだ。</p><p>あああ……生き返るぅ……</p><p>ピッチャーに直接口をつけて、冷たい水を飲み干したアイリーンが、ぷはっと満足げに息をつく。</p><p>ディランニレン、宿屋の裏手。厩舎で桶の水をがぶがぶと飲むサスケとスズカの横で、ケイたちもまた喉の渇きを癒していた。</p><p>人間、水がないと生きていけない……本当によく分かった……</p><p>しみじみと呟くケイは、アイリーンとは対照的に水筒の水を一口一口味わうようにして飲んでいる。ただの水をこれほど美味いと思ったことはない。清涼な命の滴が、血流に乗って体の隅々にまで染み渡っていく。</p><p>思う存分に水を飲んでから、二人ともしばらくピッチャーや水筒を片手に放心状態になっていたが、ふと我に返って顔を見合わせる。</p><p>……で、どうする、この後</p><p>……そうだな</p><p>謎の達成感があったが、旅はまだ始まったばかりだ。ディランニレンはあくまで出発地点に過ぎず、目的地は北の大地のさらに辺境、魔の森。</p><p>ブラーチヤ街道を北上するのは既定路線としても……どう行くか</p><p>馬賊がなぁー。この三日間でどうなったんだろ</p><p>ぼりぼり、と頭をかきながらアイリーン。</p><p>ここ数日でそれほど劇的な変化があるとは思えないが、ケイたちは基本中の基本、まずは聞き込みから始めることにした。</p><p>サスケとスズカを宿屋の厩舎に預け、街に繰り出す。相変わらず、ケイ―草原の民に見える男―に向けられる住民たちの視線は刺々しい。ディランニレンに到着した初日のように、アイリーンが先行して雪原の民に聞き込みを試みていたが、その間ひとりきりのケイに荒っぽい男が絡んできたり、衛兵が怪しんで近寄ってきたりという事態が多発したため結局二人で行動する羽目になった。</p><p>これじゃオチオチ散歩もできないな</p><p>う～ん……少なくとも状況は、良くはなってねえな</p><p>開き直った様子でシニカルに笑うケイに、アイリーンは渋い顔だ。</p><p>聞き込みはあまり捗らない。ケイがセットになったことで、アイリーンに対する通行人の態度が目に見えて悪くなった。笑みを浮かべて話しかけても、胡散臭げにじろりと一瞥されるだけで無視されることもしばしばあり、アイリーンは少し凹んでいるようだ。そういえば彼女はハブられたり疎外されたりするのが苦手だったな、と思い出したケイも、やはり良い気持ちはしない。</p><p>しばらく歩いていると小さな広場に行き当たり、そこでは市場が開かれていた。ただの通行人よりは商人の方が愛想も良かろうと、携行食などの小物を買い足しながら、露天商たちに話しかけていく。</p><p>馬賊？　ああ、最近は被害が酷いらしいねえ</p><p>この頃はブラーチヤ街道の近くにも出始めたと聞くが</p><p>対策に大規模な隊商が組まれるらしいな……</p><p>その男は草原の民じゃないんだろうな？　ん、それは公国の身分証……いや、失礼</p><p>雪原の民に比べ平原の民―公国出身の商人たちは、まだケイに対する風当たりも強くなかった。疑われるたびに提示したウルヴァーンの身分証も、それなりに効果があったらしい。断片的にではあるが徐々に情報を集めていく。</p><p>なんてこった……馬賊の連中、ブラーチヤ街道沿いにも出始めたのか……！</p><p>一通り商人たちに話を聞き終えたあと、市場の片隅でアイリーンは頭を抱えた。</p><p>状況はむしろ悪化してるな</p><p>ガッデム！　こんなことなら最初っからブラーチヤ街道進んでおくんだったー！</p><p>ケイの端的なコメントに、自身のポニーテールをガシガシ引っ張りながらアイリーン。こういうとき、無駄だとは悟りつつも取り敢えず地団駄を踏むのが彼女だ。ケイもいつものように生温かい目で見守る。</p><p>で、どうするアイリーン</p><p>隊商が云々……ってさっき誰かが言ってたよなぁ。合流するべきか？</p><p>出来るならそれに越したことはないだろうが</p><p>……出来るなら、だよな。二人で一気に駆け抜けるって手もあるとは思うんだけど</p><p>俺もそれは考えた。二人の方が身軽だし、いざ馬賊に遭遇しても魔術を使えば高確率で逃げられると思う……だがリスキーなのは変わらないし荷物を捨てる羽目になるぞ</p><p>仮に馬賊の襲撃をかわすとなると、現状ではスズカの足が遅すぎる。身軽にするために彼女に積載した荷の大部分は犠牲にする必要があるだろう。</p><p>その場を凌いでも、荷物がなくなったらヤバいよなぁ……</p><p>アイリーンの目が遠くなった。今回のエゴール街道ぶらり二人旅で、物資の大切さは身に染みて分かっていた。ブラーチヤ街道沿いは水源が豊富なので、地図さえあれば水場は見つけられるだろうが、やはりテントや食糧がなくなるのは辛い。加えて”警報機”を失うことにでもなれば、二人きりでの野営はさらに苦しくなるだろう。</p><p>どうしたものかね……</p><p>そーだなぁ……</p><p>広場の端っこで建物の壁にもたれたまま、二人してぼんやりと通行人を見やる。からりと晴れた空で市場を行き交う人々、客引きに声を張り上げる露天商たち。いずれも、ちらちらとケイたちに視線を向けていた。</p><p>主にケイのせいだ。これではどっちがどっちを観察しているのか分からない。</p><p>仮に、二人きりでブラーチヤ街道を北上するならば、こうしてボヤボヤしている一分一秒も無駄なわけだが、どうにも考えが上手くまとまらない。エゴール街道で苦しい思いをしただけに、尚更のこと。</p><p>あ～……アタマ痛くなってきた</p><p>溜息をついたアイリーンが、ぐりぐりと眉間を揉み解す。</p><p>奇遇だな、俺もだよ</p><p>ふふっ。ゲームん時は、即断即決がオレたちのモットーだったのにな</p><p>心底懐かしげなアイリーンの言葉に、ケイは複雑な笑みを浮かべた。</p><p>流石に今は命がかかってるからな、気軽には決められないよ</p><p>だよなぁ……ゴメンなぁケイ、付き合わせちゃって……</p><p>いや、そういうワケじゃないんだが</p><p>アイリーンがしょんぼりと元気をなくしてしまったので、わしゃわしゃと手を蠢かせながらケイは狼狽する。そういうことが言いたかったワケではない。</p><p>なに、アイリーンのためなら、命の一つや二つ張ってみせるとも</p><p>ドンッと胸を叩いて、歯の浮くような台詞を口にした。気障なことを言った自覚はあるのか、ケイの頬もかすかに赤い。一瞬きょとんとしたアイリーンであったが、すぐにその場の空気に耐え切れなくなってプッと吹き出した。</p><p>あはは、何だよそれ</p><p>う、うむ……</p><p>……でも、ありがとう</p><p>……うむ</p><p>くすくすと笑ったあと、穏やかな微笑を浮かべたまま、心地のよい沈黙が訪れた。</p><p>すぐ傍の平原の民の露天商が なに二人の世界作ってんだ と冷めた目を向けていたが、幸いにして二人とも気が付かなかった。</p><p>ふぅ。まあここでウダウダやってても始まらねえ、取り敢えずケイ</p><p>なんだ</p><p>糖分補給しよう。さっき、あっちでウマそうな干し果物売ってたんだ</p><p>あっ、おい！</p><p>言うが早いかさっさと歩き出すアイリーンを、ケイは慌てて追いかけた。</p><p>市場のほぼ反対側。木の棒に布を引っ掛けただけの簡素な天幕の下で、中年の男がドライフルーツや砂糖漬けを売っている。現代の地球に比べると砂糖が高価なので砂糖漬けはなかなか良い値段をしていたが、非常食と考えると魅力的だな、とケイは思った。</p><p>おっちゃん、この干しブドウもらえる？　この袋に入るだけ</p><p>あいよ。銅貨十五枚、公国ので</p><p>アイリーンから巾着袋と小銭を受け取った店主が、壷から大匙で干しブドウを掬い取り始める。が、ふとケイに目を留めてその表情を険しくした。</p><p>おい！　なんで汚らしい蛮族風情が、こんなところにいやがる！</p><p>早速罵声を浴びせかけられたが、ケイも慣れたもので なんだ、またこの手合いか と反応する気にもなれなかった。むしろ構うと相手が白熱する傾向があるので、こういった場合の最善手は”完全無視”だ。</p><p>まあまあ、彼はああ見えて草原の民じゃないんだよ</p><p>……んだぁテメェ、庇い立てする気か！</p><p>知らん振りをするケイをよそに、アイリーンが宥めようとするも今度は店主の怒りの矛先がそちらに向く。</p><p>おれはなぁ！　姪っ子が馬賊のクソどもに殺されてんだ！　草原の土人どもは許さねえし、その肩を持つヤツもそうだ！　出て行けこの売女が！　雪原の恥晒しめ！</p><p>口角泡を飛ばす勢いで罵りながら、アイリーンの顔にめがけて小銭と袋を投げつける店主。アイリーンは咄嗟に小銭を回避したが、続いて飛んできた巾着袋が顔面を直撃し へぶっ！ と声を上げる。</p><p>中に詰められていた干しブドウがぱらぱらと地面にこぼれ落ちた。</p><p>―おい</p><p>ケイは二人の間に割って入る。</p><p>こういった場合は下手に反応しないのが最善手―だが、向こうが手を出してくるとなれば話は別だ。無言のまま、険しい顔で店主を見下ろす。</p><p>な、なんだ……やろうってんのか……</p><p>ごそごそと足元を探った店主が、小ぶりな棍棒を取り出した。街中で剣を抜くわけにもいかず、ケイは咄嗟に、近くの柱に立てかけてあった火かき棒を手に取った。</p><p>鉄製の、長さ一メートルほどの火かき棒。がっしりとした造りでかなり頑丈そうだ。軽く振ってみると、ビッ、ビゥと小気味の良い音を立てる。ちょっとやそっとでは折れ曲がりもしないだろう。</p><p>不穏な空気を感じ取り、周囲に野次馬が集まってきた。今のところはまだ衛兵を呼びに行く声は聞こえないが、あまり騒ぎが大きくなる前に決着をつけるべきだな、とケイは改めて店主に向き直る。</p><p>棍棒を手に臨戦態勢の店主だが、火かき棒と棍棒を見比べてリーチの違いに心細そうにしていた。が、ケイとしては本気で殴り合うつもりなど毛頭ない。この手の人間は感情が先走っているだけなので、少しビビらせてやれば大抵は大人しくなる。</p><p>右手で火かき棒の真ん中を掴み、店主の眼前に突き出した。何をするのか、と怪訝な様子の店主をよそに、ぐっと棒を握る手に力を込める。ぎりぎりぎり……と鉄が軋む音。</p><p>おお、と野次馬がどよめく。店主は呆気に取られたまま、片手の握力に屈し、ゆっくりと捻じ曲がっていく火かき棒を見つめていた。</p><p>やがて、完全にくの字に折れ曲がった火かき棒を、ケイは店主の足元に放り投げる。からんからん、と石畳を鉄が転がる音。</p><p>貴様もその火かき棒のようにしてやろうか</p><p>大げさに指の関節を鳴らしながらケイが凄むと、店主は足元の火かき棒とケイを交互に見やり、すっかり顔を青褪めさせていた。 効いてる効いてる というアイリーンの呟きが背後から聞こえ、不覚にも吹き出しそうになったケイは必死で怖い顔を保つ。</p><p>―おいコラ</p><p>と、そのとき、何者かが声をかけてきた。険しい表情をキープしつつぎろりと横を見れば、干し果物屋の隣でクレープを売っていた初老の男が腕を組んで憮然としている。</p><p>クイッ、と折れ曲がった火かき棒を顎で示した初老の男は一言、</p><p>火かき棒(ソレ)、ウチのなんだが</p><p>えっ</p><p>確かに、よくよく見れば火かき棒の立てかけられていた支柱は、隣のクレープ屋のものであった。冷静に考えれば、成る程、干し果物屋は火を扱わないので火かき棒を置いておく必要もない。</p><p>す、すまない……！　てっきり干し果物屋のものかと</p><p>慌てて火かき棒を拾い上げたケイは、すっかりくの字に曲がってしまったそれに眉を下げる。</p><p>戻せるかこれ……？　いや！　御老体、しばし待って頂きたい。どうにかする</p><p>捻じ曲がった部分を両手で掴み、反対側に曲げ始める。両手を使う分、よりスムーズに矯正できたが、しかし今度は勢い余って曲げ過ぎてしまう。ケイは四苦八苦しながら、不器用に火かき棒の形を整えた。</p><p>……よし。これでどうだろうか</p><p>…………</p><p>くねくねと微妙に蛇行する火かき棒を受け取って、クレープ屋の老人は渋い顔だ。</p><p>……まあ、使えんことはないが</p><p>ぷすー、と溜息をついて、そのまま傍らに火かき棒を置く老人。ほっと胸を撫で下ろすケイの横で、アイリーンがくすくすと可笑しそうに笑っている。</p><p>いつの間にか、野次馬たちも散っていた。近隣の露天商はなんとも締まらないオチに苦笑しているようだ。件の干し果物屋もそっぽを向いて知らん振りを決め込んでいる。</p><p>で？　もちろん何か買っていってくれるんだろ？　なあ</p><p>コンコン、とクレープ用の伸ばし棒で鉄板を叩きながら、老人。 も、勿論 とケイは引き攣った笑顔で頷くほかなかった。</p><p>ケイは軽食としてハムとチーズのクレープを、アイリーンは果物と蜂蜜を使った甘めのものを注文し、老人が作っている間に、自分たちの境遇などを大まかに説明した。</p><p>……成る程なあ、お前たち”シャリトスコエ”に行きたいのか。物好きなことだ</p><p>“魔の森”に最も近い小さな村―シャリトスコエの名を聞いて、老人はしたり顔で頷いていた。</p><p>ん、知ってんのか爺さん</p><p>ああ。ワシの生まれはシャリトの近くでな。何だかんだあって、こんなところ(ディランニレン)まで流れ着いてしまったがなぁ……</p><p>昔を思い出したのか、何やら悲しげな顔でズズッと鼻をすすって、ぐりぐりと右手で鼻の下辺りを擦る老人。そのままの手でクレープ作らないで欲しいな、とケイは思ったが、儚い祈りは届かなかった。流れるような所作でチーズとハムを摘み、クレープ生地で包む老人。食欲の減退する光景にケイもまた悲しげな顔をする。</p><p>―いや、『こちら』ではこの程度のことは日常茶飯事だ。食堂や酒場などの衛生環境はお世辞にも褒められたものではないし、異物混入などもいちいち気にしていたらきりがない。『身体強化』の紋章があるから大丈夫、大丈夫……とケイは自分自身に言い聞かせ、努めて気にしないことにした。</p><p>ほれ、チーズとハムのクレープな</p><p>ありがとう……</p><p>でもさー、オレたちもちょっと困ってんだよね</p><p>ケイが物思いに沈んでいる間も、アイリーンは老人との会話を続けていた。</p><p>ブラーチヤ街道北上したいんだけどさ、最近馬賊出てるらしいじゃん？</p><p>らしいなぁ</p><p>老人は一瞬、ケイをちらりと見て悪戯っ子のような笑みを浮かべる。</p><p>……何度も言うが、俺は関係ないぞ</p><p>なぁに、さぞかし苦労が多かろうと、そう思っただけのことよ。異民族は生きにくい、なあ？</p><p>でさでさ、オレたちも隊商に合流できたらなーとか考えてるんだけど、コネもツテもないし―</p><p>話が妙な方向に逸れる前に、アイリーンが強引に言葉をつなぐ。</p><p>爺さん、何か耳寄りな情報ない？　年の功でさー</p><p>年の功は余計だっ小娘が</p><p>めっ、と怒ったような顔でアイリーンを睨んでみせた老人は、蜂蜜のクレープを作りながら そうさな…… と考え込む。</p><p>たしか……『ガブリロフ』商会だったか。明日あたりに隊商を組むらしいと聞いた</p><p>おっ、マジで！　オレたちも飛び入り参加できるかな？</p><p>どうだか。あそこの商会は閉鎖的だからなぁ……</p><p>ふーん。でもまぁ、試してみる価値はありそうだ。なあ爺さん、そのガブリロフ商会っての、どこにあるか知ってる？　あと口添えとかしてくんない？</p><p>毎度のことながら、愛想の良さを全開にしてガツガツと攻めていくアイリーンの姿勢には、ケイも感心するやら呆れるやらだ。老人は蜂蜜のクレープをアイリーンに差し出しながら、ガッハッハと大声で笑った。</p><p>たったクレープ一つで、なんと厚かましい娘だお前さんは！　……すまんが、ワシには口添えなんざ大それたことはできんよ。ただ商会の場所は知ってる。あの通りを真っ直ぐ行って、三番目の角を左に進むといい。そうすれば突き当たりの小さな広場に獅子の銅像があって、商会の本部はその目の前だ。大きな看板があるから一目で分かるだろうさ</p><p>おおー、ありがとう爺さん！　あ、オレ、アイリーンっていうんだ。爺さんは？</p><p>ワシは、スパルタクよ。よろしくな</p><p>一瞬、会話の流れが止まり、二人の視線がケイに集中する。慌てて口の中のクレープを飲み込んだケイは、革兜を脱ぎ老人―スパルタクに一礼した。</p><p>ケイだ。情報提供ありがとう、スパルタク氏</p><p>ふん、野郎に礼なんぞ言われても嬉しくないわ</p><p>カシャカシャッ、と鉄板の上の小麦粉のクズを払い落としながら憎まれ口を叩くスパルタクに、思わず苦笑する。</p><p>クレープを片手に、ケイたちは今一度スパルタクに礼を言ってから、教わった道の方へと歩き出した。</p><p>ここにきてようやく進展があったな、流石だぞアイリーン</p><p>ふふん、任せろ。……あ、これ美味しい</p><p>もっぎゅもっぎゅとクレープを頬張りながら、アイリーンが幸せそうに目を細める。微笑ましげにそれを見守るケイであったが、ふとスパルタクについて、気になる点に思い至った。</p><p>なあ、アイリーン</p><p>ん？</p><p>さっきのスパルタク氏だが、随分と綺麗な英語を話していたな</p><p>スパルタクは顔つきから雪原の民のように見えたが、その英語は流暢で一切のロシア語訛りが入っていなかった。</p><p>ああ。なんかポロッと漏らしてたけど、平原の民とのハーフなんだってさ</p><p>……ほう</p><p>ケイは、ちらりと振り返る。視界の果て、広場の片隅でクレープを焼く老人。</p><p>―異民族は生きにくい、なあ？</p><p>そんな声を聞いた気がして。</p><p>†††</p><p>で、だ。……最終的に、どうだろう。ケイは隊商に合流した方がいいと思うか？</p><p>そうだな、条件にも依るが俺は良いと思うぞ</p><p>クレープを食べ終わったケイたちは、歩きながら話し合いを続ける。</p><p>ただ、スパルタク氏曰く閉鎖的な商会らしいが……</p><p>う～ん。やっぱりそれ相応の『価値』を示さないといけないよな。仲間に加えたい、と思われるような……</p><p>指先で唇をなぞりながら、アイリーンが考え込む。</p><p>……よし。魔術で売り込みをかけよう。オレの魔術と”警報機”があれば、対価なしで隊商に入れてもらえるんじゃないかな</p><p>ほう、思い切るな</p><p>他に切れるカードがないんだ。ケイのシーヴも悪くないけど、常用できないし</p><p>だな……</p><p>ケイの契約精霊”風の乙女”シーヴは、あくまで奥の手だ。アイリーンとは違って気軽に魔術を運用できるわけでもなし、必要に迫られるまでは伏せておくのが吉だろう。</p><p>魔術を提示するなら、どんな排他的な連中でも諸手を挙げて歓迎するだろうが……問題は俺だな。最悪アイリーンだけ隊商に加わって、俺とサスケが別行動―</p><p>そりゃあないぜケイ！　か弱い乙女を野獣どもの中に放り出そうってのかよ！</p><p>いやん、と頬に手を当てたアイリーンがしなを作ってみせるが、 よく言う とケイは苦笑した。素手での近接格闘なら、アイリーンの方がよほど強い。</p><p>まあ実際、ケイだけハブられるくらいなら参加しない方がマシだ。そんときゃ諦めて二人旅と洒落込もうぜ？　……ふふふ</p><p>なんだ、その笑みは。まあ、それも悪くはないな……俺は弓の腕前で売り込みをかけるしかないか。あとは公国の身分証が上手いこと働いてくれるといいな</p><p>軽口を叩きながら歩いていくと、やがてケイたちは、獅子の銅像が鎮座する小さな広場に辿り着いた。</p><p>あれがガブリロフ商会とやらか</p><p>ケイは看板に書かれたキリル文字が読めないが、しかしガブリロフ商会の本部はすぐにそれと分かった。銅像の真正面に佇む、北の大地風な丸屋根の建物。周囲の家屋に比べれば格段に立派な造りだ。本部の前では、数人の雪原の民の男たちが小型の荷馬車を取り囲んで何やら話し合っている。</p><p>アイリーンが空を仰いだ。夕刻、日は既に傾いている―</p><p>― Kerstin.</p><p>アイリーンがぱちんと指を鳴らすと、その足元の影が微かにさざめく。</p><p>うん。イケるな</p><p>よし</p><p>ケイとアイリーンは、顔を見合わせて、小さく笑った。</p><p>―それじゃあ、交渉と行こうか</p><p>商会本部に向け、二人は足を踏み出した。</p><p>39. 商会</p><p>ガブリロフ商会本部の前で何やら議論していた男たちは、ケイとアイリーンの姿を認めるや否やぴたりと話を止めた。</p><p>太めな中年親父が一人に、武装した屈強な男が三人。</p><p>胡散臭げにケイとアイリーンの間で視線を彷徨わせた彼らは、こちらが挨拶するよりも先に動いた。</p><p>中年親父が一歩後ろへ下がり、屈強な男の一人―赤毛の偉丈夫が庇うようにその前に立つ。他二人はゆらりと左右に広がりつつ、さり気無く腰の剣の角度を調節した。</p><p>無言のまま、自然な、それでいて完璧な連携。</p><p>真ん中の赤毛の男はケイの視界から中年親父を隠し、双方を結ぶ直線上に立ち塞がっている。左右の二人は如何様に剣を抜いても互いに干渉しない、絶妙な間合いを保っていた。</p><p>いっそ、清々しいまでの警戒ぶり。 やあ と声をかけようとして口を開けたまま、アイリーンは笑みを引き攣らせて固まった。</p><p>『……何の用だ』</p><p>後ろに下がった中年親父―おそらくこの場で最も立場が上と見える―が、苛ついたような低い声で問いかける。</p><p>“雪原の民の言語(ルスキ)“だ。“公国語(イングリッシュ)“で話すつもりはないらしい。アイリーンは一瞬ケイを気にしたが、ここは自分が話した方が良かろうと判断してぺろりと唇を湿らせる。</p><p>『……そんなに構えないで欲しいわ。別に喧嘩をしにきたわけじゃないの』</p><p>アイリーンもまたロシア語で答えると、中年親父はケイに向けて顎をしゃくった。</p><p>『草原の民を連れている。それだけで、我々にとっては充分に警戒の対象だ』</p><p>『彼は草原の民じゃない。私のツレだけど、それは保証する』</p><p>『そんなことは聞いとらん。何の用だ』</p><p>不機嫌な表情のままそう繰り返す男に、これは先が思いやられるとアイリーンは肩をすくめた。</p><p>『明日、ガブリロフ商会が隊商を出すと聞いたわ』</p><p>『それがどうした』</p><p>『……単刀直入に言うと、貴方たちの隊商に同行させて欲しい。私たちもベルヤンスクを目指しているの』</p><p>『なに？』</p><p>しばし目を瞬いた男は、そのまま鼻を鳴らして首を横に振った。</p><p>『話にならん。帰れ』</p><p>『もちろんタダでとは言わない。貴方たちにとっても得になる話』</p><p>『ほう、何をしてくれるつもりだ？　まさか身体でも売ろうってか』</p><p>左右に控えていた護衛の一人が、下卑た笑みを浮かべてアイリーンの肢体に舐めるような視線を向けた。アイリーンはそれに答えず、ただパチンと指を鳴らす。</p><p>―Kerstin.</p><p>ぞわりと空気が異様な気配を孕んだ。アイリーンの足元の影が震える。</p><p>まるで無数の蛇のように、あるいは何かを探る手のように。</p><p>おぞましくのた打ち回る黒い影―</p><p>四人は少女の背後に、淑やかに微笑む貴婦人の姿を幻視した。</p><p>『……魔術師か』</p><p>僅かな動揺をふてぶてしさで塗り固め、中年親父は鼻を鳴らす。他の男たちも一瞬身を固くしたが、すぐに肩の力を抜いて自然体に戻った。内心は分からないが、少なくとも平常心を保っているように見える。</p><p>『あら、あまり驚かないのね』</p><p>『我々商会も魔術師を抱えているからな。……ここまでおぞましくはないが』</p><p>強がるように言いつつも、蠢く影に気味が悪そうな中年親父。</p><p>ここ数日の『邪悪な魔法使い』作戦を経て、演出に目覚めたらしいケルスティンは、影をどんどん過激なものへと進化させていった。お陰で、ただの虚仮威しに過ぎないくせに、今では触れただけでも呪い殺されそうなほど邪悪なオーラを漂わせている。</p><p>（しかし……魔術師か、厄介だな）</p><p>アイリーンは考える。商会で魔術師を囲っているとなると、彼らが直に魔術に触れる機会も多いことだろう。能力の限界をぼかしたいところだったが、あまり適当なことは言えないかもしれない。</p><p>（いや、どんな種類の魔術師かによって変わってくるか）</p><p>ゲームのように攻略wikiで情報共有できているならば兎も角、こちらの世界の魔術師はそう簡単に自分の手札を明かさないだろう。そして彼らが閉鎖的であればこそ、他人の契約精霊にも疎いと考えられる。</p><p>つまりケルスティンと全く同系統の精霊と契約していない限り、多少のことは誤魔化してもバレない可能性が高い。</p><p>では、仮に商会が雇うとすればどのような魔術師になるだろうか。事前に調べた情報を振り返る限りでは、馬賊が出没する以前、街道周辺の治安は比較的良かったはずだ。そして隊商の護衛にわざわざ魔術師をつけるような”贅沢”は、やろうと思ってもそう簡単にはできない。もっと裏方で役に立つような魔術。そしてそれほど珍しくもない契約精霊となると―</p><p>アイリーンは改めて、ガブリロフ商会の本部を見やった。二階の壁面にポツポツと開けられている四角い穴。小動物ならば出入り口として利用できそうだ。そう、例えば鳥のような―</p><p>『鴉でも飼ってるのかしら』</p><p>アイリーンはにこりと微笑んでみせたが、中年親父は表情を変えず、何も答えない。</p><p>（ビンゴ）</p><p>しかしアイリーンは瞳の奥を見透かす。ガブリロフ商会が抱えている魔術師は、十中八九”告死鳥(プラーグ)“の契約者だろう。ウルヴァーンからディランニレンに向かう途中でも、手紙を運ぶ鴉を度々見かけていた。伝書鴉を運用して儲けているに違いない。</p><p>『……それで、魔術師様は俺たちに何をしてくれるって言うんだい？』</p><p>会話が停滞しかけたところで、真ん中の赤毛の偉丈夫が穏やかに話の続きを促した。</p><p>『そうね、見ての通り私は影を操るわ。そしてそれは夕暮れ後に真価を発揮する……』</p><p>ふわりと外套を翻し、アイリーンは優雅に一礼してみせる。艶やかな笑みに、ひらりと舞い散る影の花。</p><p>『あなた方の眠りに安寧を。夜の帳は我が眷属となり、不埒な輩を打ち払いましょう。……私は夜営で襲撃されるリスクを大幅に減らせるわ。具体的には、夜闇に紛れて野営地に近づく敵の早期発見、及びその撃退ってところかしら。近頃の情勢下ではなかなか魅力的な提案だと思うのだけど』</p><p>どうかしら？　と小首を傾げる。</p><p>『夜だけなのか？』</p><p>真ん中の赤毛の偉丈夫が、存外につぶらな瞳で問いかけた。クリティカルな質問に、アイリーンは一瞬息を詰まらせる。</p><p>『……夜だけね。昼間は明るいからあまり意味がないわ』</p><p>何がどう、とは説明せずに、曖昧な笑みで誤魔化す。</p><p>『明るいから意味がない？』</p><p>『ええ』</p><p>『その言葉の意味が、よく分からないな』</p><p>『……明るいうちは術の効力が薄いということ』</p><p>『しかし、明るい方がむしろ影は濃くなるのではないか？』</p><p>『そうなんだけど、昼間は私の精霊が働きたがらないのよ』</p><p>『ということは、昼間は魔術が使えないと？』</p><p>『使えるわ。……使えるけど、代償が高くつく』</p><p>赤毛の男の純粋な、それでいて核心を突く問い。 できないこと を できる と言い切ってしまうと、いざ仲間となったときに痛い目を見るので、ある程度正直に話さざるをえない。笑顔は維持しつつも、ぐぬぬ、と歯噛みするアイリーン。</p><p>そんな二人のやりとりをよそに、しばらく目を閉じて思案顔だった中年親父は、おもむろに口を開いた。</p><p>『……確かに近頃の馬賊の被害を考えると、夜の安全が保障される意味合いは大きい』</p><p>『でしょう？』</p><p>『ただ、致命的なまでに、そちらに信用がない』</p><p>ばっさりと、切って捨てる。</p><p>『その話が本当ならお前の……いや魔(・)術(・)師(・)殿(・)の能力は非常に有用だ。しかし隊商の安全保障、その中でも特に重要な夜の警備をぽっと出の余所者に任せるわけにもいくまい。そして信頼関係を築こうにも、目下のところは時間が足りんのだ』</p><p>だいぶん、ふてぶてしさが抜けた表情で、中年親父は肩をすくめて見せた。余所者を警戒する顔から商人の顔に変わっている。</p><p>『そういうわけで、明日の隊商にすぐ同行、というのは難しい。信頼関係を築くために幾らか期間を置き、然るべき契約を結んだ後に、改めてお願いできないだろうか』</p><p>『そうねえ……』</p><p>アイリーンもまた思案顔を見せるが、内心ではしめしめとほくそ笑んでいた。やはり何だかんだいって、この男も魔術師とのコネを作りたいのだ。超常の力を操る者はどのような形であれ金を生む。</p><p>（あと一押しってトコだな）</p><p>“仲良くなるとどんな利益がもたらされるか”をはっきりと示してやれば、人間、心を開いて打ち解けようというものだ。商人であるなら尚更のこと。</p><p>ケイ、ちょっと”警報機”出してくれない？</p><p>分かった</p><p>これまでちんぷんかんぷんなロシア語会話に案山子と化していたケイは、アイリーンの指示を受けて腰の荷袋を漁る。荷物のほとんどは宿屋に置いてきたが、失くすと取り返しのつかないものや再調達が難しいもの―貴金属やポーションの類―は肌身離さず持ち歩いていた。</p><p>アイリーンの”警報機”もその一つだ。</p><p>『……それは？』</p><p>『試作品の魔道具(マジックアイテム)……とは少々言い過ぎね。まあ将来的に魔道具にして売ろうと考えているものよ。私たちは”警報機”と呼んでいるわ』</p><p>『ほう……』</p><p>中年親父は平静を装っているが、その目は警報機に釘付けだ。そしてふと、気付いたように視線を上げる。</p><p>『そういえば、名前を聞いていなかった』</p><p>『アイリーンよ。こっちはケイ。よろしく』</p><p>『私はゲーンリフだ。よろしく』</p><p>中年親父―ゲーンリフとほんの少しだけ歩み寄ったところで、アイリーンは警報機の概要を説明する。</p><p>『―というわけで、まあ簡単に言うと、半径百歩以内に踏み込んだ外敵を威嚇しつつ、ベルで知らせてくれる機械よ』</p><p>『ほうほう……その”敵”の定義は？』</p><p>『使用者―現時点では術者、つまり私に直接的・間接的にかかわらず害意を持つ者ね。精霊の前で嘘はつけないから、自覚なく危害を加える人間でもいない限り、盗賊から獣の類まで幅広く対応できるわ。まあ私がこの機械を対象に術をかけるだけだから、条件はある程度融通が利くけど』</p><p>折角なので、実演してみせることした。</p><p>広場に警報機を設置し、警戒範囲を十歩に設定して術を起動する。そしてゲーンリフの護衛三人に、アイリーンには秘密で『敵役』をひとり決めてもらい、三人同時に結界内へ踏み込ませる。</p><p>数回敵役を変えて同じ実験を繰り返したが、ケルスティンの影はアイリーンへの敵意を意識していた者にのみ、ことごとく反応を示した。</p><p>『将来的には、私抜きで触媒だけ設置すれば起動する魔道具にしようと思ってるわ』</p><p>得意げなアイリーンの説明に、ゲーンリフたちは唸る。</p><p>『……これかなり使えますよ』</p><p>『言われんでも分かっとるわ』</p><p>『完成したらウチでも欲しい』</p><p>何やらヒソヒソと話し合う男たち。ふふん、と腕を組んでドヤ顔のアイリーン。話の内容は良く分からないが、悪い流れではなさそうだと察するケイ。</p><p>『確かに。確かにこの警報機は素晴らしいものだ。叶うことなら我々の商会でも是非扱わせて頂きたい。しかし……！！』</p><p>やがて、ゲーンリフは苦虫を噛み潰したような顔で、</p><p>『しかし……それとこれとは話が別。明日の隊商にすぐに加えられるかというと……』</p><p>『駄目？』</p><p>『この魔道具の性能を疑うつもりがないが、やはりアイリーン、あなたの信用の問題なのだ。この道具の機能は、現時点ではあなたの術に依存する。それはつまり、あなたの気分次第でどうとでも細工が可能だということだ。あなたが実は馬賊の一味で、我々に夜の警戒は万全と油断させ、仲間を呼び寄せようとしている可能性も否定できない』</p><p>『うーん確かにそれはそうだけれども……』</p><p>両者ともに困り顔だ。やはり肝心の警報機の機能が、ゲーンリフたちに対しブラックボックスとなっているのがネックであった。</p><p>辺りはいつの間にか暗くなりつつある。どうしようもない沈黙。</p><p>『―ほう、何やら面白いことをしてるじゃないか』</p><p>しかし完全に話が流れてしまう前に、“上”から声がかかった。仰ぎ見れば、ガブリロフ商会本部の壁に開いた穴から、鴉が一羽顔を出している。</p><p>真っ赤な瞳の鴉は小首を傾げ、</p><p>『是非、私も混ぜて欲しいな』</p><p>ばさばさと翼を羽ばたかせながら地上に降り立った。</p><p>ぶわりと、その輪郭が歪に膨れ上がり―</p><p>まばたきの後、そこには臙脂色のローブを羽織った白髪の老人が立っていた。上背はあるが病的に痩せており、その瞳は鴉と同様に赤い。</p><p>『ヴァシリー殿！』</p><p>ガブリロフ商会の面々はぎょっとしていたが、アイリーンは大して驚かなかった。ゲーム内でも散々目にしてきた、告死鳥の契約者が得意とする”変化”の魔術の一種。ただし、話の流れが分からなかったケイは少し意表を突かれている。</p><p>『魔力の流れを感じたものだから、つい顔を出してしまったよ。それにしても、やあ、これはまた可愛らしい魔女もいたものじゃないか……』</p><p>痩身の老魔術師は、アイリーンを見てニチャァリと笑い―そう表現するほかない、どこか粘着質な笑み―、一礼する。</p><p>『初めてお目にかかる、私はガブリロフ商会所属の魔術師ヴァシリーという』</p><p>『私は、アイリーン。まあ見ての通り流れの魔術師よ』</p><p>簡単な挨拶のあとに、しばしの沈黙があった。互いに互いを観察するような時間。</p><p>やがて、不自然なまでに皺だらけの顔を歪めて、ヴァシリーはくつくつと嗤った。</p><p>『……不思議だな。この若さでこの魔力とは。自信を失くしそうだ』</p><p>ヴァシリーの言葉に、アイリーンはまたしても困ったような顔になる。ゲーム内では自主トレモードに設定したキャラに瞑想させたり魔導書を読ませたりして、労せず魔力を育てただけだ。こうして『本物の』魔術師と相対すると、どうしても自分がずるをしているような罪悪感に襲われてしまう。</p><p>ましてや、“告死鳥”は契約者に力を与える代わりに凶悪な呪いをかける精霊だ。一目で健康を害していると分かる―多大な犠牲を払っているのが明らかなヴァシリーを前に、引け目を感じてしまうのも当然といったところか。</p><p>ヴァシリーは、ばつの悪そうなアイリーンを見、一瞬その傍に立つケイにも視線を向けてから、おどけるようにお手上げのポーズを取った。</p><p>『まあ、そんなことはどうでもいい。それより私はその機械と術式に興味があるんだ』</p><p>アイリーンの心のうちを察したか、飄々とした態度で話を戻すヴァシリー。すぐさま説明に口を開きかけたアイリーンは、しかし、それで口が軽くなるように仕向けたのなら大した老人だ、と直感的に思った。</p><p>警報機の詳細を語れば、この老魔術師は再現できるだろうか。仕組みそのものは難しくも何ともない、ただ術式の代償として消費される触媒を、機械を作動させるために利用する、という発想がこの道具のキモだ。</p><p>どうせ商品化して売り出せば、特許もクソもないこの世界のことだ、すぐにコピーが作成されるだろう。ならばここで情報を伏せるより、『この世界の魔術師』がアイリーンの発想をどう受け止めるのか見てみたい、という想いがあった。</p><p>結局アイリーンは、警報機の仕組みをある程度詳しく、ヴァシリーに語ってみることにした。</p><p>基本的な術式の説明にはさして驚きも見せなかったヴァシリーだが、『消失する触媒を錘として利用する』というくだりを聞き やられた！ という表情で額を叩く。</p><p>『その発想は！　その発想は……なかった。そもそも私の術は、そういった道具を作るのには向いていないからね、その手のからくりを作ろうとしたことなんて、数えるほどしかなかったんだが……いやはや、これはかなり幅が広がりそうだ……』</p><p>『ということは、ヴァシリー殿もこの警報機を作れると？』</p><p>感心しながらぶつぶつと呟くヴァシリーに、何やら小狡く目を光らせたゲーンリフが遠慮がちに尋ねる。</p><p>『いや。似たようなものは出来るけど、コレそのものはちょっとムリだ』</p><p>が、あっさりと否定され、ずっこけた。</p><p>『で、できないのか……』</p><p>『相性の問題だがね』</p><p>ゲーンリフのあからさまに落胆した言い方に、自尊心を傷つけられたのか、若干ムッとした様子でヴァシリー。</p><p>『私の魔術は鳥を介する。闇そのものを媒体とする彼女の術とは根本的に異なるのだ。特に夜目が利く鳥は限られているからね……まあ、昼間に限定するなら似たような物が作れるんじゃないだろうか。ただし専用の鳥も一緒に連れて行かないとだから、その辺は面倒になるだろう』</p><p>『は、はぁ……』</p><p>『いや、それにしても面白い。良かったらお嬢さん、こんなところで立ち話もなんだし、中でお茶でも如何かね』</p><p>『喜んで、と言いたいところだけど、まだ用事が済んでないのよね……』</p><p>『ふぅん？　というか、何故こんなところで立ち話なんてしてるんだ君たちは』</p><p>不思議そうなヴァシリーに、改めて隊商に同行したい旨を伝える。</p><p>『なんだ、そんなことか。ゲーンリフくん、そんなに術式の中身が不安なら、警報機を使う前に私が確かめれば万事解決なのではないかね』</p><p>『……と、いいますと？』</p><p>『夕暮れ時に私が鴉に憑依して、遠隔的に術式を確かめるのだよ』</p><p>話によると、ヴァシリーの魔術の恩恵に与り、ガブリロフ商会の隊商は常に伝書鴉を数羽連れているらしい。基本的には緊急時の連絡用だが、ヴァシリーがその気になれば憑依してリアルタイムの会話が可能なのだという。</p><p>『まあそういうわけで、明らかに変な真似をしたら私が教えて上げられるんだが』</p><p>『う、う～む……』</p><p>『それに今後のことを考えると、試験運用と考えてもいいんじゃないか。警報機を使いつつ、平素よろしく夜番もすればいい』</p><p>『まあ、それは確かに……しかし……』</p><p>『まだ何かあるのか？　私は君が何故迷っているのか図りかねるのだが』</p><p>渋るゲーンリフに、ヴァシリーが首を傾げる。</p><p>『……やはり、信用の問題だ。彼女がかなりの魔術の使い手であることは疑う余地がないが、だからこそ敵であったときが恐ろしい』</p><p>『ああ、なんだそんなことか』</p><p>得心した様子のヴァシリーは改めてアイリーンに向き直り、</p><p>『お嬢さん。確認するが、きみは我々に害を為す者ではないのだね？』</p><p>『違うわ』</p><p>『誓えるかね？』</p><p>『もちろん』</p><p>『ならば、お手を拝借』</p><p>すっと、ヴァシリーはアイリーンの手を取った。</p><p>―Wohlfart, la sekreto estas elmontrita.</p><p>と同時に、唱える。</p><p>ヴァシリーの瞳が赤く輝き、アイリーンはその背後に漆黒の翼を幻視した。</p><p>ズグン、と胸の奥が鈍く脈動する異様な感覚。</p><p>『……うん。彼女は嘘をついていないよ。私が保証しよう』</p><p>手を離して、ローブの袖の中で腕を組みながらヴァシリー。</p><p>『……今のは、嘘を看破する魔術？　いや、邪眼？』</p><p>『ほう、これは驚いた。お嬢さんは告死鳥の魔術にも精通していると見える』</p><p>気味が悪そうに胸を撫でさするアイリーンに、ヴァシリーは愉快そうに笑った。ゲーンリフらが怪訝な顔をしている。</p><p>『ヴァシリー殿、今の術は？』</p><p>『ん、まあ邪眼の一種だ。端的に言えば、嘘をついたら呪われる』</p><p>ヴァシリーは楽しそうに解説するが、一方でアイリーンは渋い顔だった。</p><p>（今の邪眼、オレの耐性を貫通しやがった……）</p><p>邪眼―それは告死鳥の術の一つ。ゲーム内では、術者の視線上にいる存在に身体能力低下のデバフや継続ダメージを与える技であった。術者の瞳が赤く発光するのが特徴で、視線を浴びてしまえば距離に関係なく効果が発揮される。</p><p>ある程度魔術に耐性があれば抵抗(レジスト)できるのだが―ヴァシリーのそれは、アイリーンに抵抗を許さなかった。術が成立したということはそういうことだ。</p><p>ヴァシリーがその気になれば、距離を問わず強烈な呪いをかけられる―アイリーンはこの老魔術師の評価を上方修正した。やはり、年の功は伊達ではない。</p><p>『……初めて聞きましたな、そんな術があるとは』</p><p>『言ってなかったからね。いや、けっこう疲れるんだコレは』</p><p>少しテンションを下げて言うヴァシリーは、確かにどこか気だるげな雰囲気も漂わせている。邪眼はそれなりに魔力を消費するらしい。</p><p>『ともあれ、これで彼女が同行することに問題はないんじゃないかね』</p><p>『……ですな』</p><p>『それは良かった。さてお嬢さん、改めてお茶でも……』</p><p>『待ってくれ！　この男はどうなる』</p><p>と、護衛のうちの一人が、ケイを指差して言った。先ほどアイリーンに下劣な視線を向けてきた男だ。</p><p>『いくら魔術師のお供でも、俺ァ草原の民と仕事なんざ御免だぜ！』</p><p>心底嫌そうな顔をする男。アイリーンは溜息をついた。</p><p>『……最初にも言ったけど、彼は草原の民じゃないわ。まったく』</p><p>……なにか問題が起きたか</p><p>言葉は分からないまでも、自身に向けられる視線に状況を察するケイ。</p><p>うん、面倒なヤツが約一名。悪いけどケイ、身分証見せてくんない？</p><p>おう</p><p>ごそごそと胸元を探り、ケイは公国の身分証を取り出してアイリーンに手渡した。ごつい丈夫な羊皮紙に、びっしりとプロフィールが記入されており、ケイの似顔絵まで描かれている。</p><p>『はいこれ、彼の身分証。ウルヴァーンの名誉市民よ。一ヶ月前にあった武闘大会の優勝者でもあるわ』</p><p>胡散臭げな顔をするゲーンリフに、押し付けるようにして身分証を渡す。件の護衛を含めた商会の男たちが、額を寄せ合って身分証の文言を読み始める。</p><p>『たしかに、名誉市民とあるが』</p><p>『クソッ公国語は苦手なんだよ……』</p><p>『うーん……大丈夫じゃないのか？　流石に素性がハッキリしないヤツは市民権なんて取れないだろう』</p><p>『いやしかし、だからといって油断は……賊じゃないという証拠にはならないぞ』</p><p>『武闘大会の優勝者か。噂では草原の民が優勝したと聞いたが、こいつのことか？』</p><p>『やっぱり草原の出なんじゃないか！』</p><p>どうやら武闘大会の件が微妙に曲解された形で伝わっているらしく、話がややこしい方向へと進んでいく。アイリーンは天を仰いだ。</p><p>『……そうだ、ヴァシリーさん。よければ彼にも、さっきの術使ってくれない？』</p><p>が、すぐに嘘看破の邪眼の存在に思い至り、アイリーンはヴァシリーへ期待の眼差しを向けた。</p><p>『……ああ。彼、我々の言葉は話さないのかね』</p><p>『雪原の民の言葉は話せないわ。公国語なら……』</p><p>『私は公国語ができないんだ。あの邪眼は言葉が通じる者同士でないと意味がない』</p><p>『……“精霊語(エスペラント)“ならどうかしら？』</p><p>『ほう？　なるほど、彼も(・)か？』</p><p>意外そうに、しかしどこか得心がいった風に、ヴァシリーは頷く。</p><p>『……しかし……悪いが、少し自信がない。というのも、あまり不用意に精霊語は話したくないのだ。なんというべきか、私の精霊は融通が利かなくて、術と邪眼が干渉するかもしれないし、……率直に言うと危険だ』</p><p>忸怩たる様子でヴァシリー。転移して以来、ゲームのAIだった頃に比べケルスティンの思考が飛躍的に柔軟になったことから、『こちら』の精霊は皆そういった感じなのだとアイリーンは思っていたが、どうやらそうとも限らないらしい。</p><p>（人型と動物型の精霊の差かな……？）</p><p>はっきりとは分からないが、留意しておくべきだろう。</p><p>『なら、私が”彼の敵意のなさ”を宣言するのはどう？』</p><p>『ああ、それならいいか。まあ彼らが納得するなら、だが……ああ、疲れるなぁ』</p><p>やいのやいのと騒いでいる男らに冷めた目を向け、ヴァシリーもまた溜息をついた。</p><p>†††</p><p>結果的に、ヴァシリーがアイリーン経由で『ケイの敵意のなさ』を証明したため、次の日の同行は許可される運びとなった。</p><p>護衛のうちの一人、穏やかな口調の赤毛の偉丈夫―ピョートルという名らしい―が援護射撃をしてくれたのも大きかったかもしれない。草原の民嫌いの男がなお難色を示していた際、ピョートルはケイに向かって何事か、短いフレーズを言い放った。</p><p>ケイもアイリーンも全く理解できなかったが、どうやら草原の民の言語で酷い侮辱の言葉であったらしく、それに全く反応しなかったケイは晴れて自身が草原の民と関係がないことを証明したわけだ。</p><p>その後は、ヴァシリーが魔力の使いすぎでバテてしまったためお茶会は中止となり、次回ディランニレンに寄る際は必ず魔術談義をする、という約束を交わした上で、ケイたちはそのまま宿屋へと戻った。</p><p>翌朝、空が白みかけた頃。</p><p>ディランニレンの北門前には、ガブリロフ商会主催の隊商が集結していた。幌馬車や馬に乗った傭兵・商人たちが、出発のときを待って列を成している。</p><p>ケイは、隊長であるゲーンリフに、斥候の役を命じられた。</p><p>ケイとアイリーンの立場は、客人兼傭兵兼ただの旅人とでもいうべき、なんとも宙ぶらりんなものだ。だがぶっきらぼうな英語でケイに命令するゲーンリフには、全く遠慮というものがなかった。</p><p>ケイに対する隊商内の風当たりは決して弱くなく、それを庇った上でわざわざ仲間に入れてやったのだから、それなりに仕事をしろとでも言わんばかりの態度だった。それに対してアイリーンは隊商の真ん中で大事に守られているのだから、その扱いの差は一目瞭然といわざるを得ない。</p><p>アイリーンは不満げだったが、これ以上のトラブルを巻き起こしたくないケイは粛々とゲーンリフの指示に従うことにした。</p><p>隊商の面々の冷たい視線を浴び、針のむしろのような気分を味わいながら、サスケに跨ったケイは隊の先頭を目指す。馬車十数台に及ぶ長蛇の列―辿り着いてみれば、そこには、取り回しのよさそうな馬上槍を装備した赤毛の偉丈夫の姿があった。</p><p>やあ、また会った、ケイ</p><p>ピョートルだ。そしておそらくこの隊商内でも数少ない、ケイへの態度が普通な人物でもある。どうやら彼が同僚であるらしいことに、ケイは少なからず安堵した。</p><p>おはよう、また会ったな。ピョートルも斥候なのか</p><p>そうだ、その通りだ</p><p>そいつは嬉しいよ</p><p>肩をすくめるケイに、ピョートルも苦笑する。</p><p>きみは嫌われている。斥候は危険な仕事だ、やりたがる者はあまりいない</p><p>だろうな</p><p>ところでわたしは、あまり公国の言葉を上手く話すことはない。簡単な会話なら可能だが、難しい言い回しは分からない</p><p>大丈夫だ。俺もネイティブじゃないから、安心してくれ</p><p>それは良かった。易しい言葉で話してほしい。そうであればわたしは理解できる</p><p>任せてくれ</p><p>ケイも英語を話すようになって実に十数年が経つが、しかし所詮は後天的なものなのでネイティブの会話にはついていけないこともある。『簡単な会話』は、むしろ望むところだった。</p><p>とにかく、ケイ、今日からしばらくよろしく頼む</p><p>こちらこそ</p><p>互いに騎乗で、がっちりと握手を交わす。そのあとは、隊商の準備が整うまでの間、つたないなりにピョートルから斥候の注意点などを聞いていた。</p><p>そして朝の太陽がはっきり見えるようになったあたりで、後方からロシア語の指示が飛んでくる。</p><p>よし、行こうケイ。出発だ</p><p>ああ</p><p>斥候は、隊商よりも先行し進行方向の安全を確かめるのがその本領だ。隊商が本格的に動き出すより前に、先んじて進み始める。</p><p>振り返れば、遥か後方で、馬車の列の間からひょっこり顔を出したアイリーンが、心配げにこちらを見ていた。</p><p>アイリーンから見えているかは分からなかったが、ひらひらと手を振ってみせたケイは、おもむろにサスケの腹を蹴る。</p><p>ピョートルと街道を併走しながら、左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を握り直し、睨む前方。</p><p>ブラーチヤ街道を北上する旅路は、こうして静かに始まった。</p><p>40. 斥候</p><p>北の大地は起伏に乏しい。内陸部では特にそれが顕著だ。</p><p>地平の果ての険しい山脈に突き当たるまで、延々と続くなだらかな平野。生い茂る草は枯れかけているような薄茶のもので、吹き抜ける風にかさかさと音を立てている。夏の降水量が少ないため、空気が非常に乾燥しており、風も心なしか埃っぽい。瑞々しい青色が一面に広がる公国の丘陵地帯とは大違いだ。</p><p>そしてそんな乾いた大地を真っ直ぐに貫く石畳の道―ブラーチヤ街道。</p><p>ディランニレンを発ってから一時間余り。</p><p>隊商から百メートル強の距離を保ち、ケイとピョートルは警戒任務にあたっていた。</p><p>左手に”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を、右手には手綱と矢を握るケイは、臨戦態勢にありながらも程よく肩の力を抜き、良い意味で気楽に構えている。ぱかぱかと蹄の音を立てるサスケは、いつもよりキリッと、凛々しく見えた。おそらく隣のピョートルが跨っている黒毛の雌馬に、良いところを見せようと張り切っているのだろう。</p><p>二メートルほどの槍を肩に担いだピョートルは、ケイと同様、泰然としている。背中にはアイリーンのように木の丸盾を背負っており、鞍には矢筒と小型の複合弓も備え付けてあった。槍が得意らしいが、いざとなれば遠近ともに対応可能な装備だ。</p><p>普段なら、この辺りはとても平和だ</p><p>ピョートルは槍を指揮棒のように動かして、周囲を示してみせた。</p><p>水場がないので、しばらくこんな景色が続く。見ての通り、隠れる場所が少ない</p><p>そうだな</p><p>このような開けた場所での遊撃・偵察は、本来ケイの最も得意とするところだ。時折思い出したように木立が点在する他、視界を遮るものは何もなく、また仮に隠れていたところでケイの目から逃れるのは難しい。</p><p>出発して以来ずっと平野が続いており、馬賊はおろか人っ子一人見かけなかった。</p><p>ただし、しばらく進むと川や湖があって、集落も増えてくる。そのお陰で、……何と言うのだろう。木が増えてくる。あのような形で、多めに</p><p>単語を知らないのか、言葉に詰まったピョートルは近くの木立を指差す。</p><p>森か？</p><p>森もある。だが、もっと小さい</p><p>木立か</p><p>そうだ、木立だ</p><p>ぱん、と膝を打つピョートル。彼との会話は毎回こんな調子だ。しかしケイも悪い気はしない。いつもは単語を教えてもらう側のケイにとって、自分が誰かに英語を教えるのはなかなか新鮮な体験だった。</p><p>ケイの公国語は分かりやすい。とても簡単に話す</p><p>それは良かった</p><p>片や赤毛でゴツい雪原の民、片や草原の民風の重装戦士という組み合わせだが、両者ともにニコニコとしており、とても朗らかな雰囲気だ。</p><p>だから、明日以降は気をつけるべきだ。木立の中に敵が隠れているかもしれない。敵の斥候を先に見つける。そして出来れば殺す。それがわたしたちの仕事だ</p><p>……ああ、そういうのは得意だよ</p><p>己の手の得物を揺らして、ケイはシニカルに笑う。</p><p>む。待て、殺すは間違いだ。情報のために、一人は生かしておいた方が良い</p><p>分かった、気をつけよう</p><p>“竜鱗通し”の一撃は重い。近距離ならば手足を狙うなどして手加減できるが、距離が離れてくるとどうしても胴体に当たりやすくなる。慎重に狙いをつけるべきだろう、さもなくば肉の塊を量産する羽目になる―</p><p>……ん</p><p>と、そのようなことをつらつら考えていた折、視界の端に気になるものを捉え、ケイは馬足を止める。</p><p>どうした、ケイ</p><p>何かが動いた。あの木立だ</p><p>前方二百メートルほどの街道沿い。ピョートルは手をかざして目を細めた。</p><p>……遠いな。見えない</p><p>小さく見えた。兎かな、少し脅かしてみよう</p><p>矢筒から一本、質の良くない矢を選んで抜き取ったケイは、無造作につがえて放つ。</p><p>カァン！　と響く快音。</p><p>風に乗った矢が高く天頂まで伸び、ゆるやかに弧を描いてすとんと木立に落ちる。がさがさと茂みを震わせて、一羽の野兎が慌てた様子で飛び出してきた。</p><p>やっぱり兎か</p><p>ふふ、と微笑みながら構えを解くケイに、隣のピョートルは呆れたような顔をする。</p><p>……ケイはとても良い目を持っている</p><p>そして、至極当然のようにやってのけたが、二百メートル前方を狙ってさらりと矢を放ち、目標地点に命中させる腕前も尋常ではない。</p><p>“ドルギーフ”の氏族を思い出す。彼の一族の戦士は皆、鷹のような目を持っていた</p><p>ほう……目が良い血筋なのか</p><p>いや、目を強くする秘術があるらしい</p><p>おそらく、『視力強化』の紋章のことだろう。 俺も同じ秘術を使っているんだ とは口が裂けても言えないが、ピョートル相手だと無性に言いたくなるケイであった。</p><p>その後も、とりとめのない話をしながら、ケイたちはのんびりと斥候を続ける。</p><p>やはり道の状態が段違いに良いな。エゴール街道とは全然違う</p><p>ブラーチヤ街道の石畳にはひび割れもほとんどなく、また仮に破損した部分があっても、石材や、セメントのようなもので補修されていた。ぼろぼろで目も当てられないエゴール街道とは、馬賊の影響があっても尚、雲泥の差がある。</p><p>エゴールは、今は使われることは稀だ。商売人は誰も行かない</p><p>だろうな……あれは……</p><p>酷かった、と言いかけてケイは言葉を飲み込む。エゴール街道周辺では『邪悪な魔法使い』作戦でひと悶着起こしている。アイリーンが”影”を操る魔術師であると公言した手前、ここで色々と線が繋がってしまうとまずい。</p><p>……ところで、この辺りは全然暑くないんだな。夏なのに涼しい</p><p>ああ、日光があまり強くないからだ</p><p>ケイとしては露骨な話題転換だったが、ピョートルは気にする風もなかった。</p><p>公国は暑いのか？　ケイ</p><p>そうだな。ここに比べるとやはり暑い。こんな格好で炎天下にいたら汗だくだろう</p><p>うん？　……最後の方が良く分からなかった</p><p>ああ……このような服装で太陽の下にいたら、たくさん汗をかく</p><p>ケイは自身が羽織る厚手のマントをひらひらとさせた。主にフードで顔を隠すためのものだが、この時期に公国でこんなものまで着ていたら、暑くて堪らないはずだ。</p><p>ああ分かった。やはり暑いのだな、公国は。しかしわたしは羨ましい</p><p>ふすーっ、と鼻でため息をつくピョートル。</p><p>今はいい。……だが、冬は恐ろしいことになる。北部よりはマシだが</p><p>……ああ</p><p>ケイも思わず辺りを見回して、一面の雪景色を想像した。</p><p>……冬は、怖いな</p><p>現地人のピョートルが”恐ろしい”と形容するのが、まず何よりも恐ろしい。インフラの概念もないこの世界だ、寒さはすなわち命の危機に直結するのだろう。</p><p>雪が降るのか？</p><p>降る。たくさん降る。夏に降れば良いのに、と皆が言う</p><p>違いない。そのせいで酷い目に……遭うだろう。水がなくて困っていると聞いた</p><p>その通りだ。夏はあまり雨が降らない。この辺りは川や湖があるが、エゴールの近くは特に悲惨だ</p><p>……だろうな</p><p>引き攣った笑みを浮かべるケイ。</p><p>だが北部はもっと酷いんだろう？</p><p>そうだな。北は雨も降るが、その代わり冬の雪が凄まじい</p><p>『凄まじい』、か……</p><p>この辺りは冬でも出歩ける。外に出れば兎を狩ることもできる。だが北部は駄目だ。時期によっては吹雪で家から出られない。家ごと凍り付いて死ぬときもある</p><p>…………</p><p>確かにガスや電気による暖房がなければ、そのようなこともあり得る。しかし、あまりの過酷さにケイは閉口してしまった。</p><p>何故そんなところに住み続けるんだ</p><p>……他に場所がない</p><p>ピョートルは寂しげに肩をすくめた。</p><p>たとえば引っ越そうとして、良い所を見つける。……だが多くの場合、そこには既に人がいる</p><p>そして無理やり住もうとすれば、争いが起きるだけだ、と。</p><p>だが……北の大地は広いじゃないか</p><p>たしかに広い。だが住みやすい土地は限られている。たとえば北、“白色平野(ヴィエラブニーネン)“は、果てしなく広いと言われているが雪しかない。住めるような場所ではない</p><p>しかし……ほら、森とかあるじゃないか。東部とか……</p><p>森を切り開く、ということか？</p><p>ああ。森を開拓して畑にするんだ。時間はかかるが、土地はあるんじゃないか？</p><p>……難しい。森には怪物がいる</p><p>虚空を睨むピョートルは、途端に厳しい表情になった。</p><p>怪物(モンスター)？　“大熊(グランドゥルス)“や”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“か？</p><p>いや。“大熊”や”蜥蜴”も恐ろしいが、所詮は動物だ。狩ることはできる。北の大地の森には、もっと恐ろしいものがいる</p><p>……“飛竜(ワイバーン)“とか？</p><p>“飛竜”！　そうだな、南東部では出るらしい。辺境の集落が焼かれたという話も聞いたことがある。……だが森には、実体のない悪霊や、もっと恐ろしい化け物の類もいる。剣や弓が効かないような相手が……</p><p>呟くように、ピョートル。</p><p>……どんな化け物がいるんだ？</p><p>黒い悪霊を見た、また、襲われた、という話はよく聞く。深い森はあの世へ繋がっているのだと信じる者も多い。わたしが知っているのは大きな黒い鳥だ。家ほどの大きさがあって、弓で射ようが槍で突こうが死なず、人をさらっていく</p><p>悪霊は、まだ見間違いで片付けられるかもしれないが、大きな鳥は本当だとするならばどうしようもない話だ。</p><p>……それでも辺境に住み続けられるのは、俺は、凄いことだと思うぞ。普通なら土地を捨てて逃げ出してしまいそうだ</p><p>……逃げる者ももちろんいる</p><p>ピョートルはケイを見やって、哀しげに笑う。</p><p>わたしのように</p><p>†††</p><p>そのまま、何事もなく隊商は進んだが、昼過ぎの休憩で集落に立ち寄った際、やはりひと悶着あった。</p><p>ケイはフードをかぶって顔を隠していたのだが、隙間から子供に覗き見られ、草原の民と誤認されてしまったのだ。お陰で住民たちから石を投げられる羽目になった。ケイは鎧で武装しているので素人の投石程度はどうということもないが、問題はサスケだ。あともう少しで目に直撃するところだったのを、ケイが咄嗟にマントで庇い事なきを得た。</p><p>ポーションを使えば多少の傷は治せるが―サスケにあの治療の苦しみ(ジュワワワ)を、それも眼球に味わわせるのは気が引ける。</p><p>……まあ、とにかく何事もなくて良かったよ</p><p>村外れの木陰で隠れるようにして、アイリーンと一緒に昼食を食べながらケイは訥々と投石事件のあらましを語った。</p><p>ケイも大変だな……。サスケ、お前も無事でよかったな</p><p>固焼きのパンを齧りながら、傍らのサスケの顔を撫でるアイリーン。 ぼく、へいきだよ と言わんばかりにぶるぶると鼻を鳴らしたサスケは、アイリーンの頬をぺろりと舐めて草を食み始める。</p><p>斥候の仕事はどんな感じ？</p><p>今のところ、身の危険は感じないな。騎兵が二人だから融通が利くし、定点防御よりはマシかもしれん。俺としてはむしろ、隊商が襲われたときの方が心配だな……そっちはどうだ？</p><p>んー特に何も。公国の行商人と仲良くなったくらいかな。ケイのことも知ってたぜ、武闘大会の優勝者だって。オレたちの苦労話したら気の毒がって、あんまり居辛いようなら、夜はウチの馬車までおいでって言ってた</p><p>おお、それはありがたいな</p><p>その同情心が身に沁みる。敵意がないというだけで有難いものだ。</p><p>干し肉を噛み千切ったケイは、背後の木にもたれかかり空を仰ぐ。</p><p>…………</p><p>無言で咀嚼しながら、雲ひとつない青空をぼんやりと見つめていた。隣のアイリーンは、そんなケイを心配そうに見守っている。</p><p>……そうだ、なんかこの隊商さ、ヤギを連れてる人が多いんだ</p><p>ヤギ？</p><p>努めて明るい声を出すアイリーン、少し興味を引かれるケイ。</p><p>そう、ヤギ。最初はペットかなって思ったんだけど、皆揃って連れてるし、全部雌でさ。聞いてみたら新鮮なミルクを搾るためと、いざというときの非常食なんだって</p><p>非常食か。それはまた</p><p>ケイも苦笑する。成る程、なかなか合理的な話だ。</p><p>オレたちもヤギ飼うべきかな。北の大地なら必須かも</p><p>……厳しいんじゃないか？　連れてるうちに情が移って絞められなくなりそうだ</p><p>食べる前提じゃなくてもいいじゃん</p><p>いや逃げるときとか……馬ほど速く走れないし、担いでいくわけにもいかないだろ</p><p>あー……それはあるなぁ</p><p>あとアイリーンは名前とかつけて可愛がっちゃいそうだしな</p><p>うっ、否定できない……</p><p>そんな下らない話をしているうちに、ケイもだいぶ元気が出てきたので、気合を入れて午後の仕事に挑む。</p><p>集落を出てからは、また代わり映えしない平野が続いた。</p><p>ただ、少しずつではあるが―緑が増えてきているように思われる。そしてそれは村を出てからおよそ二時間がすぎ、小さな川に差し掛かった辺りで顕著になった。</p><p>今から、この橋を渡る</p><p>前方、十メートルほどの長さの橋を指差して、ピョートル。</p><p>川は北東から南西にかけて流れる大河の支流であるらしく、川幅に比して非常に深いようだ。橋なしでは渡ることはできない。</p><p>ケイ、ここから森や木立が増える。気をつけろ</p><p>分かった</p><p>二人がかりで橋に異常がないことを調べてから、後方の隊商に確認の合図を送り、川の向こう側へと先行する。</p><p>これまでの道のりと川向こうとでは、植生の違いは明らかだった。木立や雑木林が至る所にあり、あるいは小規模な森にまで発達しているものも散見される。</p><p>土地としてはディランニレン近郊やエゴール街道の周辺とは比べ物にならないほど豊かだが、それでも瑞々しさや爽やかさとは無縁で、どこか乾いた空気が感じられるのは風土の違いというものだろうか。</p><p>隠れる場所が山ほどあるな</p><p>ああ。そしてこの辺りは獣も多い。たとえば狼の群れだ</p><p>“狩猟狼(ハウンドウルフ)“か？</p><p>いや、ハウンドウルフはこの辺りにはいない。冬が寒すぎる。毛が灰色で、もう少し小柄な奴らだ</p><p>ただ、小柄といってもそれは御し易いという意味ではなく、群れで狡猾に立ち回るため、時たま隊商の家畜や馬にも被害が出るらしい。油断はできないということだ。</p><p>まあ、狼が出たら俺が追い払うさ、そういうのは得意なんだ。……ところで、矢で射殺したら呪われる、なんてことはないよな？</p><p>北の大地は、どうやら公国と気色が違う。怨霊や悪鬼の類も多そうだと思ったケイは、“竜鱗通し”を掲げながら笑って問いかけた。</p><p>……。ないはずだ</p><p>その間はなんだ</p><p>軽口を叩く間にも、進行方向の木立や茂みを手当たり次第にチェックしていく。これまでとは違い植生が濃いため、ケイの目をもってしても、ある程度近づかなければ確実には見通せない。</p><p>そして、これが斥候が危険とされる所以でもある。仮に茂みで敵が待ち伏せしていたならば自分から近づいていくことになるし、敵も獲物の『目』を潰すべく、全力で殺しにかかってくるからだ。</p><p>本当は、孤独な者の仕事だ。死んでも誰も悲しまない</p><p>がさがさと茂みを槍で突きながら、ピョートルは言った。</p><p>だから危なくなったらケイは逃げるといい。死ぬと恋人が悲しむ</p><p>……言ってくれるじゃないか</p><p>冗談めかしたようなピョートルの言葉に、一方でケイは複雑な表情だ。</p><p>申し出は有難いが、置いていくような真似はしないさ。ヤバくなったら、そのときは一緒に逃げよう</p><p>……そうだな、わたしが死ぬ意味はない。はっはっは</p><p>言われてから気付いた、といった様子で額をぱちんと叩いてピョートルは笑う。それにつられて、困ったように笑うケイはふと、何故この男は斥候などやっているのだろう、と思った。</p><p>思い返せば昨日ガブリロフ商会の前で会った際も、隊長のゲーンリフと対等に話していたし、ある程度の影響力も持っているようだった。昼の休憩で見かけたときも同僚の戦士たちと普通に談笑しており、決して孤独であるようにも、また嫌われているようにも見えなかった。</p><p>この、優しすぎる赤毛の偉丈夫に、ケイはどこか危うさを感じる。</p><p>自分のことを色眼鏡で見ない、対等な付き合いをしてくれる人間というのが、これほどまでに有難い存在だとは知らなかった。彼の物静かで高潔な人間性は、それだけで尊敬に値するとケイは思う。</p><p>思うのだが―。</p><p>ただ、それが彼の生き方であるとするならば、付き合いの短すぎるケイがどうこう言う権利もないのだ。</p><p>結局、今この場において口をつぐむことだけが、ケイにできる全てであった。</p><p>（……まあ、大丈夫だろう）</p><p>少なくとも今日のうちは、とケイは心のうちでひとり呟いた。</p><p>隊商はまだ出発したばかり。北の大地でも有数の大規模都市ディランニレンに程近い地域だ。馬賊もそうそう出張ってはこられないだろう。</p><p>問題は、明日以降。</p><p>話によれば、隊商は一日で予定のルートの五分の一を消化するという。</p><p>つまり北部の都市、ベルヤンスクまでの道のりはあと四日。</p><p>その間に、ブラーチヤ街道を無事突破できるか―</p><p>行こう、ケイ。次はあの木立だ</p><p>……ああ</p><p>隊商の旅は、今しばらく続く。</p><p>41. 夜営</p><p>その日、ゆっくりと、しかし着実に歩みを進めた隊商は、日が傾き始める前に夜営の準備に取り掛かった。</p><p>街道沿い、小さな木立の中。</p><p>綺麗な水の湧き出る泉を取り囲むようにして、隊商の馬車で円陣を組む。馬車と馬車の隙間には地面に杭を打ち込み、木の板を立てかけ即席の大盾とした。壊れやすい車輪には厚手の布を何度も巻きつけて衝撃を吸収できるようにし、円陣の外側にも杭を乱雑に打ち込んで反対側を尖らせる。極めつけに、ちょうど足の高さのところにロープを張り巡らせて、ついでに鳴子まで設置した。</p><p>徹底した馬賊対策。まるで小さな要塞だ。</p><p>木立の枝葉は頭上から降ってくる矢の威力を殺し、杭やロープ、木立の木々、そして馬車そのものが騎兵突撃を妨害する。</p><p>面白いのが、円陣の一箇所にのみ、わざと穴が開けられていることだ。</p><p>その『穴』の外側にはロープなども敢えて取り付けられておらず、追撃の際には隊商の騎兵が速やかに打って出られるようになっている。守りを固めるときでさえ攻めの姿勢を忘れない、雪原の民の気質がよく現れていた。</p><p>そして、それらの防御策を講じた上で、鳴り物入りで執り行われたのが―</p><p>『やあやあ、漸く私の出番か。こんばんはお嬢さん』</p><p>『こんばんは、ヴァシリーさん。ではよく見ていて頂戴ね』</p><p>円陣の真ん中の焚き火のそば、鴉に憑依したヴァシリーに見守られながら”警報機(アラーム)“を設置する。</p><p>Kerstin, mi dedicas al vi tiun katalizilo ―</p><p>触媒を捧げるアイリーンの周囲には、隊商の面々が興味津々な様子で集まっていた。</p><p>『なんでぇこりゃ？』</p><p>『敵が近づいたら知らせる魔法だとよ』</p><p>『へー。本当なら便利だな』</p><p>『俺は敵を呪い殺す術だって聞いたぞ』</p><p>憶測混じりのひそひそ話を交わしながら、野次馬の輪が、徐々に徐々に警報機の方へと近づいてくる。下手に弄られて壊されたら堪らない、と思ったアイリーンは、</p><p>『……迂闊に触ると呪われるわよ。気をつけてね』</p><p>その言葉と同時、警報機から影の触手がウネウネウネッと爆発的に飛び出した。人の波がさぁっと引いていく。</p><p>『んふっ』</p><p>すぐそばで見守っていたヴァシリーが、翼を震わせて笑いを噛み殺す。最初から術式の発動を見守っており、かつ呪いのスペシャリストでもあるヴァシリーは、アイリーンの言っていることが丸きりデタラメだと分かっているのだ。</p><p>『ほ、本当なのかヴァシリー殿？』</p><p>『うーん、否定はしない』</p><p>ただ、警報機が壊されたら困る、というアイリーンの思惑も理解していたので、余計なことは言わない。</p><p>そして、無事魔術の発動を見届け、その内容が正しく敵警戒の術式であることを確認したヴァシリーは憑依を解いて戻っていった。</p><p>結界を張っている間に日はとっぷりと暮れ、隊商の面々は夕餉の用意を始めている。全体の人数が多いので、数人ごとのグループに分かれて各自で食事を摂るのが基本だ。</p><p>昼間のうちにアイリーンが話していた通り、ケイたちは公国の商人の馬車を訪ねることにした。折角なのでケイは途中で見かけたピョートルを誘い、一緒に連れていく。</p><p>こんばんはー</p><p>お、来たか嬢ちゃん！</p><p>周りのものに比べると小型だが、造りのしっかりした荷馬車の傍ら。焚き火にかけた鍋をかき混ぜながら、ケイたちを出迎えたのは三十代前半の男だ。</p><p>印象としては顔が四角い。茶色の髪を短く刈り上げて角刈りにしているせいで、尚更そう見える。ケイの姿を認めた男は黒っぽい瞳をくりくりとさせながら、人好きのする笑みを浮べて手を差し出してきた。</p><p>おおーこれはこれは！　武闘大会の優勝者の、ケイチ殿でいいのかな！</p><p>ああ、そうだ。ケイチじゃなくてケイイチだが……みな俺のことはケイと呼ぶ</p><p>その手を握り返しながら、ケイ。</p><p>ん？　ちょっと発音の違いが良く分からないが……まあいい。おれは『ランダール』っていうんだ、見ての通り行商人だ。よろしくな！</p><p>こちらこそよろしく</p><p>随分と威勢の良い行商人だ。何というべきか、商(・)人(・)ら(・)し(・)く(・)な(・)い(・)。体格もがっしりとしているし、一体どのような商品を捌いているのだろうか、とケイは幌馬車に興味深げな視線を送った。</p><p>一方でランダールは、ピョートルに注目している。</p><p>『……えーと……こんばんは？』</p><p>『おや、君は雪原の言葉を話すのか』</p><p>『少しだけ、学びました。商売のために』</p><p>『それはいいね』</p><p>気さくに笑ったピョートルは、ランダールに手を差し出す。</p><p>……わたしも、公国語を話す。少しだけ</p><p>ああ、そりゃあ助かる</p><p>お互い何か感ずるところがあったのか、笑顔で握手する二人。</p><p>さあて、スープを作っといたんだ。じゃんじゃん食べてくれ！</p><p>ランダールが馬車から引っ張り出してきた小さな椅子に腰掛け、四人で鍋を囲む。</p><p>ありがたいな。わたしは乾パンとハチミツを持ってきた</p><p>オレはドライフルーツ持ってきたぜ！</p><p>……俺は特に何も用意してなかった</p><p>ケイは嬢ちゃんとまとめてカウントしていいんじゃないか？</p><p>各自持ち寄った器にスープを注いでもらう。何やら香ばしくて良い匂いだ。木のさじで軽くかき混ぜてみると、ソーセージや刻まれた野菜がごろごろしており、多種多様な乾燥ハーブが入っているのが分かった。口に含んでみればよく利いた塩味、濃厚な肉の旨みが疲れた体に染み渡る。ケイは思わず唸った。</p><p>うぅむ……美味い</p><p>そいつぁ良かった</p><p>晩夏、北の大地の夜は冷え込む。革鎧一式に加え、皮の外套を羽織っていても肌寒いほどだ。暖かいスープは有難かった。</p><p>これは美味しい。野営(キャンピング)の味とは思えない</p><p>ピョートルも大満足の様子。アイリーンに至っては無言で食べるのに集中している。</p><p>馬車があると、やっぱり色々と材料を持ってこれるんだなぁ。馬だけの旅だとこんな美味しいスープは作れないよ</p><p>だろうな！</p><p>しみじみとしたケイのコメントに、うんうん、と腕を組んで頷くランダール。</p><p>美味い飯は人生の楽しみ。たとえ旅でも蔑ろにはしたくないもんさ。ただし、馬車がイカれたら荷物も全部パーだ！　それも怖いぞ！</p><p>……たしかにな。そういえばランダールは何の商人なんだ？</p><p>ケイが尋ねると、ランダールはひょうきんな笑みを途端に穏やかなものに変える。</p><p>主に医薬品だ。あとは香水を商っている</p><p>コトコトと音を立てる鍋を見つめながら、流れるように、歌うように答えた。驚くほどテンションに落差がある。ケイは目をぱちぱちと瞬かせた。</p><p>香水に薬か、それは―</p><p>意外だな、と言おうとして、失言であることに気付き慌てて口をつぐむ。毛皮や干し肉など、もっと大雑把なものを売っているイメージがあったが、よくよく考えれば公国からわざわざ出向いてきているのだ、『普通』な品物を扱っているわけがない。</p><p>香水？</p><p>医薬品か</p><p>アイリーン、ピョートルともに興味を示す。</p><p>ああ。嵩張らなくて、良い値で売れる品物っていったら限られてるからな</p><p>コンコン、と自身の馬車の車輪を叩きながら、ランダールはニカッと笑った。</p><p>医薬品は助かる。公国の薬はとても良く効く</p><p>馬車を見上げるピョートルの目には、どこか憧れるような光がある。しかし、ふと視線を下げてランダールを見据えたピョートルは、</p><p>ランダールは、一人か？</p><p>……ん？　っていうと？</p><p>いや。普通の商人は……なんと言うべきか。手伝う人を連れていることが多い。だがランダールは独りに見える</p><p>ピョートルの指摘に、ケイとアイリーンも 確かに と頷いた。周囲の年かさの商人は大抵若い見習いを連れているし、あるいは手伝いとして家族を同伴させていることもある。だがランダールは馬車を持つ商人であるにもかかわらず、独りきりだ。</p><p>ああー……まあ、おれはなぁ</p><p>しばし目を泳がせたランダールは、クヒヒと悪ぶるような笑みを浮かべた。</p><p>弟子を取る余裕がないってトコだな！</p><p>そうなのかー？　でも余裕はありそうじゃん、馬車も良いの使ってるし</p><p>ん、まあ嬢ちゃんの言う通り馬車は結構イイヤツだけどさ。仕入れと馬車の維持で金がかかるんだコレが……。見習いやら手伝いやらを連れて行くとそいつらの面倒も見ないといけないし、今のおれには荷が重いや</p><p>ふーん、そんなもんか</p><p>自分ひとりなら儲けは全部おれのもの！　この身体一つで頑張ろう！　ってな</p><p>ふんっ、と力こぶアピールするランダール。</p><p>で、薬はベルヤンスクで売るのか？</p><p>スープをもぐもぐと食べながら、ピョートルはマイペースだ。</p><p>お、おう。そのつもりだぞ</p><p>可能なら、東部でも売って欲しい。辺境では薬が不足している</p><p>食べる手を止めて、静かに、そして真っ直ぐに見つめるピョートルに、ランダールは調子が悪そうに目を逸らす。</p><p>辺境の話は聞いたことあるさ。でももう納品先が決まってるんだ</p><p>そうか……</p><p>少しだけ残念そうに頷いたピョートルは、乾パンをスープに浸してふやかし始めた。</p><p>……そういや、薬とか売ったあとはどうすんの？　何か別のもの仕入れたり？</p><p>代わって、今度はアイリーンが質問し始める。</p><p>まあ、そうなるなぁ。船と一緒で、荷馬車を空っぽのまま動かすのは、やっぱり馬鹿らしいや</p><p>北の大地の特産品とかあったっけ。何を買うつもり？</p><p>商人にズカズカ聞いてくるなぁ嬢ちゃん！　まあいい。おれぁ取り敢えず武具だな</p><p>武具でいいのか？</p><p>アイリーンとランダールの会話に、黙って聞いていたケイも思わず口を挟む。</p><p>サティナでは最近、武器やら防具やらが売れなくて困ってるようだが……</p><p>心配げな口調だ。戦役による特需がなくなり、多くの職人があぶれているサティナの街の現状を思い出す。</p><p>ああ。公国産のは、そうだな。ただ北の大地の武具はとにかく質がいい！　銀よりも更に輝くような金属―“真なる銀(ヴェラ・アルジェント)“と呼ばれているんだが、それで造られた武具は鋼の一級品より遥かに頑丈なんだよ。そして高値で売れるんだなぁコレが！</p><p>熱の篭ったランダールの説明に、ケイは瞬間的に、とある青年を思い出した。まるで嵐のように青い風をケイとアイリーンに吹きかけてきた、あの雪原の民の若き戦士を。</p><p>アイリーンを見れば、彼女も同時に思い出したのか、苦笑している。</p><p>ん、どうした、二人とも？</p><p>いや、ある雪原の民の戦士を思い出してな。そいつもその白銀の武具を使っていたよ、確かに驚くほど頑丈だった</p><p>“大熊(グランドゥルス)“さえ一撃で絶命せしめた矢を、真正面から叩き込んでも貫通させられなかったほどだ。あれに”真なる銀(ヴェラ・アルジェント)“なる呼び名があったとはケイも知らなかった。</p><p>“真なる銀”の武具はとても珍しい。入手できるのか？</p><p>興味深げなピョートル。ランダールは悪戯っ子のような笑みでウィンクした。</p><p>まあ、アテはある、とだけ言っておこう！</p><p>ほう。凄いな</p><p>感心した様子で何度も頷くピョートルに、ランダールも心なしか自慢げだ。</p><p>（俺も欲しいな……）</p><p>ケイは、どちらかというと物欲がないタイプの人間だが、それでも”真なる銀”の武具は非常に魅力的だった。実際、ケイの”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の一撃を弾ける防具など、そうそうお目にかかれない。胸当てか、兜か。一箇所でもいいので、急所を守るために欲しいところ。</p><p>なあ、相談なんだが……</p><p>もしその武具が手に入ったら、予算はあるので売ってもらえないか、とケイが言おうとした、その瞬間。</p><p>野営地に悲鳴が響き渡る。</p><p>か細い女のそれだ。ケイは思わず傍らの”竜鱗通し”に手を伸ばしたが、立ち上がる前に様子がおかしいことに気付く。</p><p>周りの者たちが―特に雪原の民の商人や護衛たちが、にやにやと笑っていたのだ。皆の目はケイたちの居場所の対面、円陣の反対側に向けられていた。</p><p>その視線を辿っていくと、―ひとりの女。</p><p>この肌寒い中、ボロ布のような服しか着ておらず、何人かの男たちに手足を押さえつけられて、いやいやと首を振って必死に抵抗していた。</p><p>髪は、黒色。そしてその顔には、複雑な模様の刺青が刻まれている。</p><p>―草原の民だ。</p><p>『なんでぇ、女がいやがるのか！』</p><p>『おう、今回に備えて一人買っておいたわけよ』</p><p>冷やかすような声に、恰幅の良い中年の商人が上機嫌で答えた。そして未だ抵抗を続ける草原の民の女に視線を移し、見下すように顔をしかめたかと思えば、その手の鞭を無造作に振り下ろす。</p><p>バシンッ、バシィッという激しい音、再び絹を裂くような悲鳴が上がった。</p><p>『大人しくしねえかッ！　くびり殺すぞ！！』</p><p>乱暴に髪を掴んだ男の罵声に、怯えた女は身体を縮こまらせて動かなくなる。</p><p>ただ、それでは終わらなかった。</p><p>むしろ、始まりであった。</p><p>彼女の手を押さえつけていた男の一人が、そのボロ布のような服を無理やり剥ぎ取ったのだ。焚き火の明かりに、褐色の裸身が曝される。</p><p>当然のように身体をくねらせて抵抗しようとする女だが、そこに更に鞭が叩きつけられ、ビシィッと先ほどよりも鋭い音が鳴り響く。</p><p>もはや悲鳴すら上げず、大人しくなった彼女に、周りの男たちが群がっていった。</p><p>『おい！　それ終わったら、あとで使わせてくれよ』</p><p>『構わんが、金は取るぞ』</p><p>『幾らだ！』</p><p>『んん、まあ小銀１といったところか』</p><p>『高い！　銅５で上等だろう』</p><p>『アホか、流石に安すぎるわ』</p><p>やいのやいのと、周囲の傭兵たちもまた騒ぎ始める。</p><p>…………</p><p>ケイは、彼らが何を言っているのかはさっぱり分からなかったが、しかし何が起きているのかはハッキリと分かった。</p><p>対して、彼らの言葉が全て分かるアイリーンは、顔面を蒼白にしていた。目の前で、あまりにも普通に行われている『それ』のおぞましさに、ただただ悪夢を見ているような、冷たい震えが、走る。</p><p>ランダールは目を背けていた。ただ瞳に鋭利な光を湛え、どこまでも無表情に。</p><p>そして全く見向きもしないピョートルは、スープの残りをかき込んで、ふぅと小さく溜息をついた。</p><p>……普通、この大きさの隊商には、娼婦がいる</p><p>木の器を足元に置いて、ピョートルは訥々と語る。</p><p>だが、最近は馬賊のせいで、娼婦が隊商についてこない。だから―</p><p>無感動な目が。</p><p>―奴隷を買った。彼らはそういうことをしている</p><p>沈黙。</p><p>ただ向こう側から聞こえてくる男たちの声と、ひとり、押し殺すような泣き声と。</p><p>…………</p><p>ケイは動かないし、動けない。</p><p>庇い立てするようなことをしたり、あるいはひどく同情するような言動を取れば、隊商内での立ち位置が更に危うくなると容易に想像できたからだ。</p><p>それでも、胸糞は悪い。</p><p>愛の介在しない一方的な行為がここまでおぞましいものであったとは、考えれば想像の届く範囲、しかし理解の範疇を超えていた。顔から血の気の引くような感覚はある。だが心はまるで凍りついたように動かない。</p><p>隣を見ればアイリーンが、無意識の所作なのか、己の身体を抱いて震えていた。その顔は気の毒なまでに蒼い。</p><p>そしてケイは気付く。</p><p>周囲の、享楽の宴に参加していない、できていない男たちが、アイリーンに酷く粘着質な視線を向けていることに―</p><p>要塞のように頼もしかった隊商の円陣が、一転、今は蟻地獄のように感じられた。</p><p>……スープが冷めちまう</p><p>沈黙を打ち破ろうとするかのように、呟いたランダールが、器にスープを注ぎ足して黙々と食べ始める。ケイもそれに倣い、冷えかけのスープをひとさじ、口に運んだ。</p><p>…………</p><p>相変わらず、濃い味付けと肉の旨みが感じられた。</p><p>ケイは何ともいえない遣る瀬無さを、スープの具とともに噛み締め、飲み下した。</p><p>†††</p><p>結局、男たちの唾棄すべき行為はなかなか終わる気配を見せなかったが、明日に備えてケイたちは寝てしまうことにした。</p><p>ランダールの馬車のそばにテントを張る。はからずも、それはこの限られた円陣内の領域において、暴虐の現場から最も遠い場所でもあった。</p><p>ひとつだけ、この隊商に参加して、良いと思えることがある。</p><p>それはケイもアイリーンも、夜の見張りをする必要がないということだ。アイリーンは警戒魔術の対価として。ケイは翌日の斥候の任務に支障が出ないようにするため。</p><p>ちなみにケイと同様、ピョートルも夜番を免除されているらしい。</p><p>会話もないままテントに潜り込んだケイたちは、しかし、寝転がると同時に、やはり互いの存在を意識した。せざるを得なかった。</p><p>テントの布越しに、外からは男たちの声と、くぐもった呻き声のようなものがかすかに聞こえてきている。泣き声だと萎える、という意見を受けて、女の口に詰め物がされたからだ。それを『幸いにして』とは、とてもではないが言える気分ではない。</p><p>……ケイ</p><p>暗闇の中、アイリーンがそっと手を握ってきた。</p><p>こうして、彼女と肩の触れ合う距離にいても、性欲は欠片もわかなかった。どちらかと言えば 吐き気を催す という表現に一番近いものがある。</p><p>ケイも、ぎゅっとアイリーンの手を握り返した。互いに何も言わないが、少なくとも同じ気持ちを共有できている、という確信はあった。</p><p>ある種の諦めにも似た気持ちで、ケイは密かに嘆息する。この調子ではぐっすりとは眠れまい。</p><p>明日の斥候に響かねばよいが、と思いながら、ケイは静かに瞼を閉じた。</p><p>―しかし、その浅い眠りが、この日に限っては良い方向へ働いた。</p><p>真夜中のことだ。唐突に、キーンッという澄んだ金属音が響く。眠り込んでいたケイもアイリーンも、カッと目を見開いて跳ね起きた。</p><p>“警報機”が鳴ったのだ。</p><p>アイリーンは枕元のサーベルを手に、ケイは弦を外した状態の”竜鱗通し”と矢筒を引っつかんでテントから飛び出した。</p><p>『何が起きたの！』</p><p>『わ、わからねえ！　これが急に……！』</p><p>アイリーンが見張り担当の男に尋ねるが、彼は”警報機”のそばでうろたえているだけだった。何か目に見えて異変が起きているわけではないらしい―少なくとも、まだ。</p><p>騒動を聞きつけたか、隊商の面々も続々と目を覚ましつつあった。取り敢えず、ケイは急いで”竜鱗通し”に弦を張る。そしてそれ終えるとほぼ同時、“警報機”から影の手が伸びて西を指差した。</p><p>西へ駆ける。</p><p>おい、どうしたんだ？</p><p>騒ぎに目を覚ましたらしいランダールが―叩き起こされた割には全く眠気を感じさせない様子だ―尋ねかけてくる。ケイはそれに答えずに、幌を外された彼の馬車の荷台に飛び乗り、暗闇の向こうへと目を凝らした。</p><p>僅かな月明かりの下で、木立の向こう側、短い草が風に揺れている。</p><p>―いや、それだけではない。</p><p>ケイの瞳孔が拡大する。</p><p>見透かされる闇。</p><p>そう、それは視線だ。</p><p>ケイは見つけ出した。遥か前方、草むらの影に潜み、こちらを窺う一対の瞳を―</p><p>咄嗟に矢筒から矢を引き抜き、つがえ、放つ。</p><p>快音。</p><p>白羽が夜の闇をつんざいて引き裂いていく。</p><p>鋭い音が鳴り響くと同時、反射的に身を起こした『それ』の肩に矢が突き立った。風にまぎれて、かすかに ギャンッ という鳴き声。</p><p>狼……！</p><p>顔を険しくするケイの隣、同じく荷台に上がってきていたランダールが、闇の向こうから聞こえてきた悲鳴にピゥッと口笛を吹く。</p><p>凄いじゃないか、中(あ)てたのか！</p><p>いや、仕留め損なった。……サスケ！</p><p>ケイが指笛を吹き鳴らすと、馬車の近くで待機していたサスケがトットットッと駆け寄ってくる。その背中に飛び乗り、ケイは追撃を仕掛けるべく円陣の外へ出ようとした、が―</p><p>待て！　何処へ行くつもりだ！</p><p>隊商の長、ゲーンリフが厳しい表情で眼前に立ち塞がった。</p><p>追撃だ。仕留め損なった</p><p>敵が何人いるかもわからん。状況がはっきりするまで防御するべきだ、留まれ</p><p>いや、俺が見たところ敵はいなかったが、ただ―</p><p>留まれと言っている！</p><p>ケイが事情を説明しようとするも、でっぷりとした腹の肉を揺らしたゲーンリフが不機嫌な顔でその言葉を遮った。</p><p>勘違いするな。ヴァシリー殿はああ言われたが、私はそもそもお前のことを信用していない。……お前が馬賊の一員である可能性を忘れたわけではないのだ</p><p>ふん、と鼻を鳴らしてゲーンリフ。</p><p>兎に角、状況がはっきりしない以上、無闇に動くことはならん</p><p>しかし―</p><p>何度も言わせるつもりか？　……今、そこまでして外に出たいのか？</p><p>ゲーンリフは、すっと目を細める。あまりに恣意的な解釈に流石のケイも閉口したが、ここは事情を説明するべきだと再び口を開こうとして―やめた。</p><p>周りを取り囲む、隊商の面々を見たからだ。</p><p>皆、無言のうちに、ケイに疑うような目を向けていた。何人かは、剣の柄に手をかけている。</p><p>この状況で抗弁するのは、あまりに雰囲気がまずい。そして時間が経つうちに、自分の『見たもの』への確信が揺らいでくるのを感じたケイは、小さく溜息をついてサスケから降りた。</p><p>……明るくなったら、何人かつけて現場の確認に行かせてくれ</p><p>うむ、それなら許可しよう</p><p>鷹揚に頷いたゲーンリフは、周囲の面々に何か一言二言声をかけて手を振った。男たちが四方へと散っていく。大方 警戒に戻れ とでも言ったのか。</p><p>サスケの手綱を引きながら、歩いてアイリーンの元へ戻るケイは、それでも背中にチクチクと刺さる猜疑の眼差しを感じていた。</p><p>……あれは</p><p>不安げな顔で、ケイは西を見やる。</p><p>先ほどの狼。</p><p>やはり考えれば考えるほど、妙な点が多すぎる。</p><p>ピョートルが言っていたではないか。北の大地の狼は、銀色の毛で比較的小柄、かつ群れで行動すると。だが先ほどの『あれ』は一頭だけだった。</p><p>しかも、闇に溶け込む毛の色は、黒。限りなく夜に近い色。</p><p>そして、その体格―ケイの目に狂いがなければあれは間違いなく、大の大人と同等か、あるいはそれ以上のものがあった。</p><p>黒毛で、かつ巨大な狼など、ケイは一種しか知らない。</p><p>―ハウンドウルフ</p><p>ぽつりと。</p><p>ケイの呟きは、冷たい夜風に流され、そのまま消えていった。</p><p>42. 狩猟</p><p>朝の空気は冴え渡っている。</p><p>北の大地の夜明けは乾いていて、どこかよそよそしく、冷たい。これが公国であれば瑞々しい草の香りを楽しめたものを。</p><p>朝焼けの空を眺めながら埃っぽい風に吹かれていると、ケイは一日の始まりに何ともいえない疎外感のようなものを抱くのであった。</p><p>……行こうか</p><p>ケイはピョートルほか数人の戦士を連れて、狼に矢を中(あ)てた現場へと向かう。</p><p>ピョートルには既に、昨夜のハウンドウルフの件を話してある。そしてそれが単なる見間違いでなかったときの『飼い主』の懸念についても。</p><p>ハウンドウルフ、か……</p><p>話を聞いたピョートルは、頭ごなしに否定こそしなかったものの、どちらかといえば半信半疑の様子だった。北の大地にはハウンドウルフがおらず、それを飼い馴らすイグナーツ盗賊団もあまり知られていない。説明されても具体的な『脅威』としてはいまいちピンとこないのだろう。</p><p>（まあ、話を聞いてもらえるだけでも有難いもんだ）</p><p>監視を兼ねているとはいえ、こうしてついてきてもらえるのだから、とケイはひとり肩をすくめた。</p><p>木立を西に抜けて、例の狼がいた草むらへ。サスケから飛び降りたケイは、草を掻き分け地面に視線を走らせる。</p><p>……あった</p><p>かさかさに乾いた草の上、べったりと付着したどす黒い血痕。それは点々と西の方角へ続いていた。</p><p>（やはり仕留め損なったか……）</p><p>分かってはいたものの、嘆息せずにはいられない。その辺で力尽きていることを密かに期待していたのだが、そうは問屋が卸さないようだ。</p><p>すぐさまサスケに飛び乗って血痕を追跡しようとしたが、―そこで雪原の民の一人から待ったがかかった。</p><p>ケイ。彼が『本当にそれはハウンドウルフだったのか』と聞いている</p><p>心底面倒臭そうな顔をした戦士の言を、ピョートルが翻訳する。</p><p>『探す必要はあるのか』『ただの野犬と見間違えたんじゃないか』とも言っている</p><p>……ふむ</p><p>長々と説明してもいいが、こういった場合は分かりやすく力を示した方が良いだろうと考えたケイは、馬上、おもむろに”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を構え、近くの細い潅木へ無造作に矢を叩き込んだ。</p><p>ビシィッ、と鋭い音を立てて矢が突き立つ。</p><p>穿たれた幹に大きなヒビが入り、そこを基点にゆっくりと傾いた潅木は、めりめりと軋みを上げながらそのまま真っ二つになって倒れた。</p><p>ぽかん、と呆気に取られる男たち。</p><p>ただの野犬なら死んでいる、とでも伝えてくれ</p><p>……わかった</p><p>信じられないものを見た、とばかりに呆然としつつも、ある種の畏敬の念を浮かべたピョートルがケイの言葉を訳す。我に返った戦士たちはもはや面倒臭さなど吹き飛んだ様子で、今度は堰を切ったように何やら問いかけてきた。</p><p>『おい、どんな矢を使ってるんだ！？』</p><p>『ひゃーすげえ、衝撃で矢が砕けてらァ！』</p><p>『凄い弓だなぁオイ！』</p><p>ピョートル曰く彼らはそんなことを言っているらしく、 普通の矢だ 張りが強い弓を使っている などとケイも苦笑混じりに答えた。“竜鱗通し”が盗られたら嫌なので、“飛竜(ワイバーン)“や”古の樹巨人(エルダートレント)“の貴重な素材を使っているとは言わなかったが。</p><p>その後しばらくピョートル越しに質問に答えたり、少し迷ったが”竜鱗通し”を触らせたりして戦士たちとの交流を図る。皆、“竜鱗通し”の化け物じみた張りの強さと、その見た目を裏切る軽さには驚いたようで、ケイが軽々と弦を引いてみせると子供のようにはしゃいでいた。</p><p>そうしてほんの少しだけ戦士たちと打ち解けたところで、改めて血痕を辿っていく。</p><p>百メートル、二百メートルと行くうちにどす黒い点の間隔は徐々に短くなり、最後は地面を這いずっていったかのようにべったりと血のあとが続いていた。出血量から考えて、やはりこの先で力尽きているのではないかとケイは予想したが―</p><p>三百メートルほど進んだであろうか。</p><p>血痕はそこで不自然にぱったり途切れており、死体は影も形もなく、結局”狼”の正体を確かめることはできなかった。</p><p>ケイたちの帰還とともに、隊商は再び動き出す。</p><p>ゲーンリフには説明しておいた。ただ、あまり真面目(シリアス)には聞いていなかった</p><p>一旦、ゲーンリフのところへ報告に行っていたピョートルが、斥候に戻ってくるなり申し訳なさそうに告げる。</p><p>そうか</p><p>言葉少なに頷くケイは、正直なところ期待していなかったので、特に落胆する様子も見せない。死体が見つからなかった時点で何を言っても説得力がないし、あれが絶対にハウンドウルフだったという確証もないのだ。</p><p>ただ、その死体を回収した者が野営地の近くにいたのは間違いないだろう。野生動物が死肉を漁ったにしては痕跡がなさ過ぎる。『死体』を見られては困る事情があったのだとすれば―きな臭い話だ。</p><p>せめて猟犬がいれば良かった。だがこの隊商にはいない</p><p>そうだな、狩人でもなきゃ普通は連れてないだろう</p><p>そう答えてからケイはふと、今後自分も狩人としてやっていくのであれば犬を飼うのはアリかもしれない、と思った。アイリーンの言っていたペットのヤギではないが。</p><p>まあ、気をつけるしかない</p><p>その通りだ。わたしが先行しよう</p><p>器用にも馬上で、背中の丸盾を左手に持ち直したピョートルが槍を構えながら進んでいく。“竜鱗通し”に矢をつがえ、いつでも放てるようにしながらケイもそれに続いた。</p><p>何やら不穏な空気を察したのか、サスケがちらりと振り返って 飛び道具はカンベンしてよね とばかりに鼻を鳴らす。</p><p>文句なら馬賊に言ってくれ</p><p>ケイがぽんぽんと首筋を叩くと、ぶるるーと不満げに溜息をつくサスケ。</p><p>周囲の植生はますます濃く、『隠れられる場所』が目に見えて増えてきている。これはなかなか骨が折れそうだ、とケイも小さく溜息をついた。</p><p>茂みを探ったり、木立を見て回ったり。</p><p>やっていること自体は昨日とさして変わらない。しかし昨日以上に緊張した面持ちで二人は進む。</p><p>ケイは定期的に、深呼吸して肩の力を抜くよう心がけていた。そうでもしなければ、気が付くと力みすぎていて筋肉が凝り固まってしまう。</p><p>一時間が過ぎ、二時間が過ぎ―</p><p>……もし馬賊が襲ってくるなら、どのタイミングで来ると思う？</p><p>薄暗い木立に目を凝らしながら、緊張に耐えかねたかのようにケイはそんな益体のないことを聞いていた。生真面目なピョートルは顎に手を当ててしばし考え、</p><p>そうだな。ゲーンリフは孤立しているときが危ないと言うし、皆もそう思っている。だがわたしは、集落の近くの方が危ないと思う</p><p>何故だ？</p><p>馬賊は人数が多い。馬のためにあまり水場からは離れられない。そして水場の近くには集落がある。集落のそばで待っていれば、隊商はいずれやってくる</p><p>成る程</p><p>馬賊の脅威が取り沙汰される割に、街道沿いの集落が全滅していないのはそういうことなのだろう。雪原の民は馬賊がいるからといって、隊商を出さなくなるような臆病な気質ではない。むしろ戦士の数を増やして迎撃する気満々だ。</p><p>相手の狙いを分かった上で、真正面から叩き潰そうとしている。</p><p>撒き餌みたいなもんか</p><p>……撒き餌？　とは？</p><p>釣りをするときに、魚をおびき寄せるためにばら撒く餌のことだ</p><p>ああ。麦を撒いて鳥を呼び寄せるようなものか</p><p>そう……だな。例えるならそれが一番近いだろう</p><p>それなら分かる。実はわたしは釣りをしたことがない</p><p>成る程、と頷いたところで、ケイもはたと気付く。</p><p>（そういえば俺も釣りなんかしたことなかった）</p><p>前の世界では釣りを経験する前に入院してしまったし、『こちら』に来たあとも、魚を獲るときは専ら”竜鱗通し”を使っていた。暗い水面でも見通せるので、撒き餌を使う必要すらない。</p><p>（釣りか……）</p><p>時間があったらやってみてもいいかもな、とは思ったが、水面から魚が見えたらまどろっこしくて弓を使ってしまいそうだ。</p><p>北の大地だと、あまり釣りはしないのか？</p><p>いや、魚は貴重な食料だ。川や西の海の近くに住んでいる者は当然する。ただわたしは内陸の出身だ。あまり大きな川や湖はなかったから……</p><p>故郷を思い出したのか、すぅっ、とピョートルの目が遠くなる。</p><p>そ、そうか。まあ俺も鳥を狩る方が簡単な気がするな……</p><p>……ケイの弓の腕ならそうかもしれない。普通は罠を使う</p><p>ちなみにどんな罠を使うんだ？</p><p>基本的に狩りは弓でしかしないが、後学のために聞いておく。</p><p>うむ。その罠は、……弓に似ている。バスケットの奥に餌が置いてあって、鳥が頭を突っ込んでそれを食べようとすると、棒が外れる。すると―</p><p>もどかしげに、身振り手振りを交えたピョートルの説明を総括すると、それは弓状の器具の張力を利用して鳥の首を挟み込む罠らしい。</p><p>へえ、面白いもんだな。仕掛けておけば捕まえられるってのも良い</p><p>いや、あまりリラックスはできない。なぜなら捕まえたあとそのままにしておくと、狐や狼、他の鳥に獲物を取られてしまうからだ</p><p>ああ、結局見張るしかないわけか……</p><p>そうだ。そしてただ待っているのは結構な苦痛だ。ケイのように、すぐ狩れるのは良いことだと私は思う。どこでも生きていける</p><p>少しばかり熱の籠もったピョートルの言葉に、ケイは思わず苦笑した。しばらく前にも誰かに似たようなことを言われた気がする。 そうかな と呟いて、ケイは馬上から周囲を見渡した。</p><p>あちこちに点在する緑の木立。地平の果て、山脈に突き当たるまで延々と続く乾いた大地。そして僅かに蛇行しながら伸びる石畳の道―ブラーチヤ街道。</p><p>見上げれば、晴れ渡った空の高みにうっすらと巻雲がたなびいている。</p><p>鳥か……</p><p>目を凝らし、じっくりと観察すると、遥か前方の茂みで何かが動いたのが見えた。</p><p>ん、噂をすれば何とやらだ。あそこに鳥がいるな、何だろう</p><p>鳥？　どこだ？　わたしには見えない</p><p>ほら、あそこの木立の……って遠すぎるか。ちょっと近寄ってみよう</p><p>いや、その前に木立を全部見て回ろう</p><p>……そうだな、仕事を疎かにするわけにもいかないし</p><p>二手に分かれてざっと隊商の周辺をチェックして回り、何の問題もないことを確かめてから、改めて件の木立へと向かう。</p><p>街道を少し外れ、隊商からは二百メートル以上も離れていた。背後を振り返って彼我の距離を確かめたピョートルは、 参ったな とでも言わんばかりに苦笑する。</p><p>ハハッ、こんなに離れていたのか！　わたしに見えるわけがなかった</p><p>シっ。静かに</p><p>唇に人差し指を当てて見せ、ちょいちょいと、茂みの奥を示す。興味深げに木立を覗き込んだピョートルが、 おっ と小さく声を上げた。</p><p>それは見事な緑色の羽根を持つ鳥だった。</p><p>頭から尾羽までは一メートルほどもあるだろうか、太い二本足でのしのしと歩きながら、餌を探して地面をつついている。頭部は鶏のとさかのような赤い肉で覆われており、ぱっちりと開いた黄色い目も相まって、存外に愛嬌のある顔つきをしていた。</p><p>Фазанじゃないか！　あれは美味い</p><p>声を潜めつつも、やや興奮した様子のピョートル。</p><p>Pheasant(キジ)か……？</p><p>公国語で何と言うのかは知らない。しかしわたしたちはФазанと呼ぶ</p><p>Pheasant(フェザント)</p><p>Фазан(ファザン)</p><p>発音は似てるな……</p><p>おそらく同じ鳥だ</p><p>ということは、あれはキジか</p><p>ああ、キジだ</p><p>木立の外の来訪者二人に気付いたキジは、ぴんと首を伸ばした姿勢で、警戒しているのか落ち着きなくそわそわとしている。</p><p>あれは肉が硬いがとても美味しい。ケイ、獲れるか？</p><p>任せろ</p><p>ぺろりと唇を舐めたケイは、矢筒から慎重に質の良い矢を選り出す。</p><p>つがえて、きりきりと弦を引き絞る、流れるような一連の所作。何かまずい流れを察知したキジが、ぶわりと翼を広げて飛び立とうとするも、致命的に遅い。</p><p>カヒュンッ、と”竜鱗通し”にしては控えめな音が響く。</p><p>銀光がキジの胸に突き立ち、ぱっと緑色の羽根が散った。</p><p>よし</p><p>おお、やった！</p><p>満足げなケイ、快哉を叫ぶピョートル。馬から下りたピョートルが木立に分け入り、地面でピクピクと痙攣するキジを拾ってきた。</p><p>オスだ。たくさんの肉がある</p><p>なかなか立派な一羽だ。肉付きもよく、一人では持て余すほど食いでがあるだろう。</p><p>ニッと悪戯っ子のような笑みを浮かべて翼を広げてみせたピョートルは、矢を抜き取ってケイに返し、手際よくキジの頚動脈にナイフを差し込んだ。元々矢で致命傷を負っていたということもあるだろうが、キジは暴れることもなく静かになる。</p><p>ケイは矢に付着した血を布巾で拭い取りながら、はらはらと流れ出る赤い命の滴を眺めていた。</p><p>元来、捕食とはグロテスクな行為だ。街で暮らしていると忘れそうになるが。</p><p>よし、これでいい。あとは休憩になってからやろう</p><p>三分ほどかけて血を抜き取り、ピョートルが立ち上がる。ふと見れば、その間も進んでいた隊商が随分と近づいてきていた。これはケイの獲物だ、とピョートルがキジを差し出してきたが、サスケの鞍は矢筒で占有されておりぶら下げる余裕がない。</p><p>結局ピョートルが乗騎の鞍にキジを括り付け、二人は斥候に戻っていった。</p><p>†††</p><p>それからほどなくして、隊商はとある村に到着した。</p><p>規模はそれほど大きくないが、土壁と丸太の柵に囲まれた、小さな要塞のような集落だ。前回の反省からピョートルだけが中に入って住人たちに隊商の来訪を告げ、フードを目深にかぶったケイは村の外で待機していたため、石を投げつけられるような目には遭わずに済んだ。</p><p>今日はここに留まる</p><p>ピョートル曰く、この村を過ぎるとしばらく水源がないため、今日の旅路はここまでらしい。まだ昼過ぎだが、村の外では隊商の馬車がまたぞろ円陣を組み、野営の準備を始めていた。</p><p>ケイ～オレたちも飯にしようぜ！</p><p>アイリーンがスズカに跨って颯爽と駆けてくる。今日はこれで一日のんびりしていられるということで、随分と嬉しそうだ。</p><p>おう。さっき鳥を仕留めたから、今日の昼飯は豪勢だぞ</p><p>お！　いいな！　……よっ、と</p><p>サスケの隣までやってきたアイリーンは、ぴょこんと鞍の上で立ち上がったかと思うと、そのまま軽業師のような動きでサスケに飛び移ってきた。</p><p>へへーん</p><p>ぽすん、とケイの背中の後ろに収まって楽しげなアイリーン。しかし、いくら彼女が軽いとはいっても、羽毛のようにとはいかない。急激な加重に ほげえ！ と目を剥いたサスケが ちょっと、お客さんこまります とケイを見やる。</p><p>あとでお前にも肉食わせてやるから</p><p>ケイがぽんぽんと首筋を叩くと、 しかたないな…… と溜息をつくサスケ。こうして乗り回しているとただの馬にしか思えないが、実際はバウザーホースという雑食性のモンスターだ。肉でも野菜でもガッツリとイケる。</p><p>ピョートルが隣までやってきて、鞍に括り付けていたキジを示して見せた。</p><p>ほら、これがケイの仕留めた鳥だ</p><p>あ、それ昔なんかで見たことある！　なんてヤツだっけ……</p><p>ぬーん、とこめかみに指を当ててアイリーン。</p><p>キジか？</p><p>ああそれそれ。美味いのかな？</p><p>美味しい。とても美味しい</p><p>オレ食べたことないんだよねー楽しみ！　ランダールの旦那んトコに行こうぜ</p><p>皆、一様にウキウキとした気分でランダールの元へと向かった。</p><p>円陣の、村から遠い外周部分に馬車を停めていたランダールは、既に火を起こし昼餉の用意に取り掛かっている。</p><p>お、来たか兄弟！</p><p>ケイたちの姿を認め、ニカッと愛嬌のある笑みを浮かべるランダール。サスケから降り、ひょいとアイリーンを抱えて降ろしながら、ケイもニヤリと笑い返した。</p><p>今日は俺も土産があるぞ</p><p>ケイがキジを仕留めた</p><p>ほほー！　これはこれは</p><p>ピョートルからキジを受け取ったランダールは、両手でしっかりとした重みを確かめながら、 見事だな！ と感嘆の声を上げる。</p><p>こいつぁ料理のしがいがあるってもんだ</p><p>期待してるぜーランダールの旦那！</p><p>おう、任せとけ嬢ちゃん。とりあえず羽根毟るか……</p><p>ランダールが羽根を引っこ抜き始めたので、ケイたちもそれぞれ準備に取り掛かる。</p><p>ケイは、内臓や皮を捨てるための穴を掘る係だ。シャベルを借り受けてサクサクと地面を掘っていく。その間アイリーンはスープの具を小さく切り刻み、ピョートルは飲み物を調達しに村へと向かった。ランダールは羽根を抜いたキジを軽く火で炙って、表面の産毛を焼いている。</p><p>さぁて、どうするか。新鮮だしそのまま炙ってもいいが……</p><p>綺麗に羽根が毟られ、表面がパリッと焼けたキジを前にランダールが腕を組む。</p><p>鍋にするのも悪くないなぁ。腿肉は焼いてあとは煮込むか。今日はもうここから動かないんだろ？</p><p>たしか、そのはずだ。ピョートルはそう言っていた。あと穴掘り終わったぞ</p><p>おう、ありがとう。なら晩飯用のスープも用意しておくかな。よし、嬢ちゃん、ちょいとさばくの手伝ってくれ</p><p>あいよー</p><p>ランダールは器用にナイフを使って、見る間にキジを解体していく。アイリーンはぶつ切りにした肉を串に刺していき、ケイは剥ぎ取った皮や腸のように食べられない内臓を穴に埋める。</p><p>そうしているうちに、壷と皮袋を抱えてピョートルが村から戻ってきた。</p><p>水を貰ってきた</p><p>おう、ありがとう。ちょうど良かった、鍋で湯を沸かしてくれ</p><p>分かった</p><p>ランダールの指示にこくりと頷いて、ピョートルが皮袋の水を鍋に注ぐ。そして一抱えもある壷を指差し、</p><p>それと……酒だ</p><p>酒！！　麦酒？　葡萄酒？</p><p>ぴかーん、と顔を輝かせるアイリーン。</p><p>麦の蒸留酒だ</p><p>おおーいいねいいね！</p><p>それは、けっこう高くついたんじゃないか？</p><p>あの村には知り合いがいる。安い値段で買うことができた</p><p>心配げなケイをよそに、気にするなとピョートルは首を振る。</p><p>ハハッ！　真昼間から蒸留酒とは豪勢な話だ。ちょっと料理にも使っていいか？　香り付けに</p><p>もちろんだ</p><p>三脚の上でコトコトと音を立てる鍋、じゅうじゅうと香ばしい匂いを漂わせる串焼き肉。周囲の商人や傭兵も、乾パンや干し肉を齧りながら、何人かは羨ましげにケイたちの方を見ていた。</p><p>彼らと視線は合わせないようにしつつ、微妙に優越感を感じていたケイだが、ふと円陣の全体を見回して違和感を抱く。</p><p>（……そういえば、なんか人影がまばらだな）</p><p>記憶にあるものより、隊商の人数が明らかに少ない。</p><p>ん、どうした。ケイ</p><p>目敏くピョートルがケイの様子の変化に気付き、尋ねてきた。</p><p>いや。妙に静かだと思ってな、隊商が</p><p>……ああ。皆、村に行ってるんだろう……</p><p>村を取り囲む土壁と柵を見やり、ピョートルはどこか疲れたように答える。言われてみれば、壁越しで見えないがワイワイガヤガヤと、村の方は祭りのように何やら盛り上がっている様子だ。</p><p>やはり、顔見知りがいて皆遊びに行ってるのか</p><p>それもあるが……</p><p>言い淀んだピョートルは、ちらりと鍋をかき混ぜるアイリーンを気にして、ケイの耳にささやいた。</p><p>……昨日の奴隷の女が、村に連れて行かれた</p><p>ケイは、今一度、村の方を見やった。</p><p>壁越しに聞こえる、はやし立てるような声―</p><p>……そうか</p><p>……死ぬようなことはしないと思う。多分</p><p>顔を見合わせたケイとピョートルは、もうこの話は終わりだとでも言わんばかりに、二人して小さく肩をすくめた。</p><p>……よっし。いい感じだ。みんな、食うか！</p><p>そのとき、スープをぺろりと味見したランダールが、納得した様子で大きく頷いた。</p><p>あ～めっちゃ腹減った！　食べよう！　早く食べよう！</p><p>舌なめずりしながら上機嫌のアイリーンは、木のゴブレットにだばだばと蒸留酒を注いでいる。</p><p>はい、これケイの分な！</p><p>お、おう。ありがとう……</p><p>透き通るような蒸留酒がなみなみと注がれたゴブレットを押し付けられ、少し困り顔のケイ。酒は嫌いではないし、『身体強化』の恩恵でアルコールに耐性もあるが、ケイはどうにも、このタイプの強い酒のどこが美味しいのかよく分からないのだ。葡萄酒やビールはまだイケるクチなのだが。</p><p>そんなケイをよそに、アイリーンは男性陣に酒を注いで回っている。</p><p>これはピョートルの分</p><p>スパスィーバ(ありがとう)</p><p>そしてこれが旦那の分</p><p>ありがとうよ、嬢ちゃん</p><p>んで最後にこれがオレの分！</p><p>でん、と残った壷を抱えて笑顔のアイリーン。 それはいけねえ それはダメだ とランダール・ピョートルの両名から即座にツッコミが入る。</p><p>えー。いいじゃん</p><p>ダメだ。まだ昼間だぞー嬢ちゃん</p><p>不平等だとわたしは思う</p><p>ちょっと呑みたい気分なんだ！</p><p>『ちょっと』じゃねえだろコレは</p><p>呑みすぎはよくない</p><p>このくらい余裕だって。舐めるようなもんだよ</p><p>っつーかおれも呑みたいんだよ！</p><p>というより元々わたしの酒だ</p><p>ぬっ。ぐぬぬ</p><p>……なあ、食べていいか？</p><p>ジューシーな肉汁を垂らす串焼肉を前に、腹をさすりながらケイ。残りの三人もハッとした様子で、いそいそと串を手に取った。</p><p>そいじゃ、ケイの弓の腕に感謝して</p><p>ああ。食べよう</p><p>イタダキマス！</p><p>いただきます</p><p>一斉にかじりつく。</p><p>おお、これは……</p><p>ものすごい肉の弾力だ、まるで歯からつるりと逃げだしてしまうような。それでいてじっくりと噛み締めていると徐々に肉がほぐれていき、じんわりと舌に染み入る旨みが溢れ出てくる。味付けは塩だけだが、そのシンプルさがまた良い。臭みや癖はない、思いのほか素直な味だ。</p><p>ん～これは堪らん</p><p>やはり美味しい……</p><p>ウマイなぁ</p><p>皆、酒を片手にご満悦だ。ケイも肉を飲み込んだあと、蒸留酒をちびりと口に含んでみた。舌が焼け付くような感覚、芳醇なアルコールの香り、肉の脂の残滓が洗い流され、香ばしい匂いがほわりと鼻から抜ける。</p><p>……うん。良いものだな</p><p>これはこれで、と頷きながら串焼き肉をまた一口。先ほどの木立の中の、生前のキジの姿を思い描き、ケイは改めて自然の恵みに感謝した。</p><p>そういや、さっきケイと嬢ちゃんが言ってた、イタダキ……なんちゃらってのは、何なんだ？</p><p>早々に肉を平らげ、ガリガリとビスケットを齧りながらランダール。</p><p>ん。そうだな、俺の故郷の言葉で……なんと言うべきか。食事の前の祈り、かな？</p><p>ほう、ケイの故郷の</p><p>ピョートルが若干の興味を示す。</p><p>実際、ケイはどこから来たんだ？　草原の民でも、この辺りの出でもないってのは、嬢ちゃんから聞いてるが</p><p>……東の果て、としか言いようがないな。とても遠いところだ、俺にはなぜ自分がここにいるのかすら分からない</p><p>ランダールの問いに、ケイは肩をすくめて答えた。</p><p>……そう聞くと、まるで自分の意思じゃなくこっちに来たみたいだが</p><p>まんざらハズレでもない。霧に呑まれたら、いつの間にかこちらにいた</p><p>ゴブレットの中身、ゆらゆらと揺れる蒸留酒を見つめるケイに、ランダールは注意深く視線を注いでいる。</p><p>……その割に、言葉は通じるんだな</p><p>まあな、元々公国語は出来たんだ。あとは故郷で、高原の民の言葉も、海原の民の言葉も少しずつ学んでいた</p><p>ほう！　そいつぁ凄い</p><p>残念なのは雪原の民の言葉は話せないってことだが……</p><p>少しばかり苦い笑みになったケイは、蒸留酒を口にして言葉を濁した。が、次の瞬間、後頭部の髪をぐいと引っ張られる。</p><p>何事かと慌てて振り返れば、サスケがつんつんと鼻先でこちらをつついてきていた。</p><p>……ああ、そういえば肉をやる約束だったな</p><p>手元の串から最後に一口食べて、サスケの鼻先に残りを差し出す。ふんふんと匂いを嗅いだサスケはがぶりと肉に齧りつき、 うめえ！ と目を見開いて咀嚼し始めた。</p><p>……ケイの馬は肉も食うのか？</p><p>ピョートルとランダールは呆気に取られている。アイリーンがケイに視線で どう説明する？ と問いかけてきた。別にこの二人になら話しても構わないんじゃないか、と思ったケイだが、面倒を避けるため適当に誤魔化すことにした。</p><p>馬もたまには肉を食うみたいだぞ</p><p>へーそうなのか。知らなかった</p><p>ほう……</p><p>感心するランダール。ピョートルは、そばで寛いでいた自身の乗騎の鼻先に、ケイの真似をして串を差し出している。が、興味を示して匂いを嗅いだ馬に、ブルヒヒと鼻息で串を吹き飛ばされ、 ああっ！ と悲痛な声を上げた。</p><p>なんということだ。肉が……</p><p>地面に落ちた、土に塗れた串焼き肉を前に途方に暮れるピョートル。悲しげな顔で、しかしおもむろにそれを拾い上げたピョートルは、土や砂利を払いのけてから焚き火の中に突っ込み、改めて炙りだした。</p><p>火は浄化する。全てを</p><p>……食うのか</p><p>食べ物を無駄にしてはならない……</p><p>そうか……</p><p>ピョートルは躊躇うことなく全部食った。</p><p>その後、他愛もない話―別の種類の鳥も美味かっただとか、どこそこの酒は呑めたものではなかっただとか―を続けながら、ケイたちは心行くまで食事を楽しんだ。串焼き肉とスープ、ビスケットや乾パンも腹いっぱい詰め込み、蒸留酒でほろ酔い加減。</p><p>キジ肉はまだ少し余っており、食事がひと段落したあたりで、ランダールは余ったスープに具と水を追加して夕飯の仕込を始めていた。今度は鳥ガラで濃厚な出汁を取るつもりらしい。ピョートルは腿肉の骨に付いた軟骨をこりこりと齧りながら、馬車の車輪にもたれかかって酒を舐めるようにして呑んでいる。</p><p>満腹になったケイとアイリーンは、自分たちの荷物の山を枕にして草地に寝転がり、心地よい眠気と食後の倦怠感に身を任せていた。</p><p>あー平和だなぁケイ</p><p>そうだなぁ……</p><p>昼間から、こんなにのんびりできているのは久方ぶりだ、とケイは思う。ここ数日は斥候の任務で忙しかったし、ディランニレンに辿り着くまでの道中も、何だかんだであまり余裕がなかった。</p><p>今日は早めに野営を始めたということもあるだろうが、隊商の面々が村の方に出張っているというのも、ケイにとっては居心地の良さの遠因だ。なぜ出張っているのか、を考えると少し欝が入りそうになるが、そこはアルコールに任せて程よく忘れることにした。</p><p>このノリで無事にベルヤンスクまで着けばいいんだけどな～</p><p>……そうだな</p><p>切実なアイリーンの言葉に、思わず そういうのはやめろ と言いそうになったが、死亡フラグの概念から説明する羽目になりそうだったので同意するに留める。</p><p>……ん？</p><p>そしてそれよりも、たなびく雲の切れ間から、気になるものが見えて上体を起こす。</p><p>目を凝らし、そこにあるものを読み取る。自身の記憶と知識と照らし合わせる。</p><p>ん？　どしたケイ？</p><p>……参ったな、今晩から明日にかけて雨が降るぞ</p><p>ケイの言葉に、その場の全員が え？ と反応した。</p><p>雨？</p><p>たしかに雲は出ているが……</p><p>ピョートルとランダールも手をかざして空を見上げる。アイリーンはケイの星読みによる天気予報を知っているが、そうであるが故に怪訝な顔をしていた。</p><p>マジで？　でもここ数日は晴れだって、前に言ってなかったっけ？</p><p>あの時はまだディランニレンの近くだったからなぁ。所変われば天気も変わる……</p><p>呟くようにしてケイ。</p><p>星読みによる天気の予測は的中率ほぼ100%だ。ただし、これには一つだけ大きな欠点がある。</p><p>それは観測者の『真上』の天気しか分からないことだ。</p><p>例えばＡ地点で星を読み、今後一週間の天気が晴れになると予想したとする。ではそのとき、Ａ地点から１００ｋｍ北に離れたＢ地点の天気はどうなるだろうか。</p><p>そう、必ずしもＡ地点と同じ天気になるとは限らない。地理的条件によっては局所的に雨が降るかもしれないし、寒ければ雨が雪に変わる可能性もある。だが実際問題、Ａ地点においてもＢ地点においても、見上げる空は同一のものだ。ではなぜ結果が変わってしまうのか。</p><p>答えは単純。実は、観測地点によって星の並びそのものが変わるのだ。</p><p>ゲーム内で『占星術』の存在を知るプレイヤーの間では、実は DEMONDAL の世界の構造は地球のそれと全く異なっており、大地にドーム状に覆いかぶさった空とその表面で自在に蠢く星や月の幻影で構築されているのではないか、と言われていた。</p><p>そしてそれは『こちら』でも変わらないようで―</p><p>ケイは、天気が分かるのか？</p><p>おれには普通の空模様にしか見えんがなぁ</p><p>ピョートルとランダールの二人も、空を見上げている。</p><p>俺は……目が良いからな。微妙な空の具合が分かるのさ</p><p>占星術のことを今ここで話すのは面倒なので、適当に誤魔化す。</p><p>そうなのか……</p><p>もし雨が降ったらなかなか厄介だな。しっかり幌かぶせとかないと……あと、寝床がない奴らは明日苦労するだろうな</p><p>あ。オレたちもヤバいじゃん、普通のテントしかないぞケイ？</p><p>アイリーンが枕代わりにしていたテントをつんつんと指先でつつく。布製のそれは朝露を凌ぐのがせいぜいな防水機能しかない。本格的な雨にも、ぬかるんだ地面にも対応していないのだ。</p><p>そう……だな。困った、村には泊めてもらえないしな……</p><p>お二人さんさえよけりゃ、おれの馬車に来るか？　狭いがあと二人が寝転がるくらいのスペースはあるぞ？</p><p>あ、マジで？　ありがとう！</p><p>そうしてもらえるならありがたい</p><p>おう、良いってことよ。……ただし、寝てる最中、二人でおっぱじめるのは勘弁してくれよ</p><p>ぐへへとゲスい笑みを浮かべ、何やら手で卑猥なジェスチャーをするランダール。</p><p>なっ</p><p>ばっ</p><p>思わず顔を紅潮させたケイたちは するわけないだろ！ と叫んだが、その完全にシンクロした叫びがツボに入ったらしく、ランダールは腹を抱えて笑い出す。</p><p>……若いとはいいことだ</p><p>ふっと笑ったピョートルが馬車の車輪にもたれかかり、再び杯を傾け始めた。</p><p>†††</p><p>夕暮れ。</p><p>日が沈む前に、ランダールは馬車の幌を張り直して雨に備え始めた。</p><p>ついでに予備の幌を出してそばの木に引っ掛け、サスケを初めとする馬たちが濡れずに済むよう、簡易的なテントも設営する。ケイたちが持ってきたテントとは違い、幌にはしっかりと水避けの油が塗りこまれており、かなり強固に水を弾く。</p><p>この時点で、まだ空は晴れていた。雨に備えるランダールを不思議がって、周囲の商人たちが理由を尋ねてきたが、雨が降るという予測、そしてその情報の出所がケイであるということで、大半の商人は一笑に付して何の対策もしなかった。</p><p>ケイは自身に何のメリットもなかったので、特段信じさせようと努力もしなかったが、一部 それほど手間ではないからと 一応の備えをした商人もいたようだ。</p><p>とりあえず明日の旅路がハードなものにならないことをただ祈りながら、ランダールの馬車にお邪魔して、ケイはアイリーンとともに床に就いた。</p><p>そして、その夜半。</p><p>しとしとと、雨が降り始めた。</p><p>次回 43. 雨天</p><p>はねる泥、ぬかるむ道、白く霞む視界。</p><p>雨に打たれる男は、ひとり何を思う。</p><p>43. 雨天</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ 今夜から明日にかけて雨降るわ</p><p>一同 マジか</p><p>隊商の面々 降るわけねえだろ</p><p>サスケ キジうめえ</p><p>夜中、ケイが目を覚ましたのは、馬車の外が騒がしかったからだ。</p><p>ポロポロポロ、と幌を打つ雨音。わいわい、がやがやと男たちの声が聞こえる。が、さして緊張感のあるものではなかった。何か毒づいているようにも聞こえたが、雪原の民の言葉なので詳しい内容は分からない。</p><p>……ん</p><p>ケイの身じろぎに、同じ毛布の中、猫のように丸まっていたアイリーンがうっすらと目を開く。</p><p>……どしたの</p><p>ああ、すまん起こしたか</p><p>寝ぼけ眼のアイリーンに、囁き返すケイ。</p><p>敵？　じゃないよな？　……雨か</p><p>騒いでるみたいだな、何と言ってるかは分からんが</p><p>ん……『幌かぶせないと商品が駄目になる～』とか言ってる</p><p>ああ……</p><p>肩をすくめるケイ。それ見たことか、とせせら笑う意地悪な自分がいることも自覚しつつ、それ以上に明日の旅路が心配になった。</p><p>止むといいんだがな……</p><p>なー</p><p>半ば諦めが混ざるケイ、それを察しながらも相槌を打つアイリーン。湿気が出てきたためか、今宵は少し冷える。</p><p>おやすみアイリーン</p><p>おやすみ、ケイ</p><p>ケイたちは毛布の中、身を寄せ合って再び眠りについた。</p><p>…………</p><p>木箱を隔てた荷台の反対側、聞き耳を立てていたランダールもまた、静かに瞳を閉じて寝息を立て始めた。</p><p>†††</p><p>夜が明けても尚、雨は降り続いている。</p><p>降り始めに比べると雨脚は弱くなっているが、一向に止む気配は感じられなかった。馬車の幌から顔を出して辺りの様子を窺うと、隊商の面々は馬車に避難しているか、あるいは村に雨宿りに行ったようで、外に出ている者もほとんどいない。ただ一部、行く宛てが見つからなかったのか、木の下で馬共々濡れ鼠になっている者もいた。</p><p>ケイの言う通りになったなぁ</p><p>口の端を吊り上げて、おどけたような笑みを向けてくるランダール。</p><p>……まあな。しかし、昼過ぎまで降り続けるだろうなこれは</p><p>灰色の空を見上げてケイは溜息をつく。予報を的中させた喜びなど欠片もない。この雨の中を進むのか、と考えると、馬車の外に出るのすら億劫になる。</p><p>……よっ、と</p><p>しかしいつまでも管を巻いているわけにも行かないので、皮のマントを羽織り、ケイは意を決して荷台から飛び降りた。</p><p>ばしゃりと足元で跳ねる泥、フードに当たって弾ける雨粒。水はけが悪い土質なのか、野営地の地面はぬかるんでグズグズになっていた。続いて降り立ったアイリーンは、勢いがありすぎたのか泥水が顔にまで跳ねて うえ～！ と服の袖で頬を拭っている。</p><p>馬車横の簡易テントで寛いでいたサスケが、 まさかこの天気で出かけるんすか？ とびっくりしたような顔をしているが、現実は非情だ。 諦めろ とケイが首を振って見せると、呆然としたサスケの口の端からぽろりと食べかけの草が落ちた。</p><p>実は、この世界に降り立っておおよそ八十日が経過しようとしているが、ケイたちが雨の中で行動するのは今日が初めてだ。公国においても雨は幾度となく経験していたが、そういった日は積極的に遠出しようとは思わなかった。せいぜい、レインコート代わりのマントを引っ掛けて、少し外を出歩いたぐらいのもの。</p><p>今回の旅路に備えて、一応ブーツもマントも防水性能が高いものに新調してある。それがどこまで通用するかだな、とケイは今一度空を見上げた。</p><p>雨が降っている。ケイの言った通りだった</p><p>と、村の方からピョートルが歩いてきた。彼は知り合いの家に泊まっていたらしい。普段の鎧一式の上にゆったりとした皮の外套を羽織っており、背中に丸盾を背負っているのも相まって、その姿はまるで大きな亀のようだ。</p><p>おはようピョートル。鬱陶しい天気だよ</p><p>おはよう。雨は本当に珍しい。人々にとっては水のために良いことだが</p><p>困ったように肩をすくめて見せるピョートル。</p><p>軽く朝食を摂ってから、四人は出発の準備を始めた。村に泊まり込んでいた面子も続々と集結しつつある。その中に、ケイは例の奴隷の女を見かけた。憔悴して引きずられるように歩いていたが、少なくとも生きてはいる。</p><p>…………</p><p>ケイー、そっちのロープ引っ張ってくれ</p><p>ん、ああ</p><p>ランダールの声に呼び戻されたケイは、女から視線を外してロープを手繰る動きに意識を集中させる。二人がかりで木に引っ掛けていた幌を回収し、地面に触れないよう気をつけながら折り畳んでいく。</p><p>簡易テントを片付ける際、濡れたくなかったのかサスケが いやん と駄々をこねたが、スズカを始めとする他の馬たちが気にせずそそくさと外に出ていったので、渋々といった様子で自分も続いていた。</p><p>……そんな顔するなって、どうせ今日中には止むさ</p><p>濡れそぼって、どこか憮然とした表情のサスケ。ぽんぽんと優しくその首筋を叩いて慰めの言葉をかけたケイは、 よっ と勢いをつけて鞍によじ登った。</p><p>気をつけてな～</p><p>ありがとうアイリーン、また後で</p><p>ひらひらとハンカチを振るアイリーンに見送られながら、ケイはピョートルとともに一足先に出発する。</p><p>隊商の円陣を抜け出し、村の土壁の横を通り過ぎる際、ドン、ドドン、と響く太鼓の音を耳にした。</p><p>なんだ？　これは</p><p>壁の内側、村の方から響いてきている。それにかすかな歌声と、鈴の音。</p><p>雨が降ったから、祝っているのだろう。小さな祭りだ</p><p>右手の槍で空を示して、ピョートルが解説する。</p><p>大地と、空の精霊、そして祖先の霊に感謝している。雪原の民はそうする</p><p>……成る程</p><p>頷いたケイは、今一度、村と外界を隔てる壁を見やった。</p><p>ドドン、ドンドドンと独特なリズムを刻む太鼓。歌声は徐々に大きくなり、人々の踊る足音が聞こえる。楽しげな子供らの笑い声、彼らの姿は見えないが、喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。</p><p>彼らも自然に感謝することを知っているのだな、と。</p><p>ケイはふと、そんなことを思った。北の大地を訪れて以来、雪原の民に対するイメージは総合的に悪化しつつあったが―初めて、そんな彼らが少しだけ身近に感じられた瞬間であった。</p><p>視線を前に向ける。降り続ける雨のせいで、視界は白く霞み索敵もままならない。</p><p>ただ、こういう気分になれるなら、悪くはなかったかもしれないな、と。</p><p>“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“に矢をつがえながら、ケイは小さく笑みを浮かべた。</p><p>†††</p><p>が、十分も過ぎる頃には、そんな気分など吹き飛んでいた。</p><p>やはり雨は駄目だ。視界が悪くなるのは当然としても、時折フードから顔に垂れる雨粒が鬱陶しくていけない。水滴が目に入るとそれだけで集中力が削がれるし、かといってフードを深くかぶり過ぎると、ただでさえ悪い視界が更に狭まってしまう。</p><p>また、新調したマントは遺憾なくその防水性能を発揮していたが、やはり限度があるのか革鎧の隙間から水が染み込んできていた。特に首元から胸にかけて、じわじわと湿っていくのがたまらなく不快だ。無性に肌着を引っ張り出したくなる。</p><p>一方、最初はテンション低めだったサスケは、しばらく走るうちに開き直ったらしく今は足取りも軽やかにぱしゃぱしゃと泥を跳ね上げていた。そう、石畳で舗装された街道の上を行くだけではなく、ケイたちは斥候として不整地を走り回る。お陰で跳ね返りの泥が酷く―ケイは早々にブーツやマントの裾を気にするのをやめた。</p><p>大丈夫か、ケイ</p><p>ケイの不慣れな雰囲気を察したらしく、ピョートルが声をかけてくる。</p><p>ああ、なんとかな</p><p>そうか。わたしの後についてくるといい。泥に入ると動けなくなることがある</p><p>分かった、ありがとう</p><p>ピョートルの誘導を受けながら手綱を捌く。この手のぬかるみは危ない、あのような色の水溜りは大丈夫、といった具合に、ノウハウを教わりながら慎重に進んでいく。幸い、ケイも目が良いので、危険なぬかるみとそうでないものの区別くらいはすぐにつくようになった。</p><p>けっこう冷えるな</p><p>誰に言うとでもなく一人ごちる。曇り空と雨のせいか、夏の癖に妙に寒い。夏、といっても秋が近づきつつある晩夏ではあるが、それにしても公国に比べると気温がかなり低いようだ。</p><p>（夏でこれなら冬はもっと酷そうだ……）</p><p>あと一ヶ月―いや数週間、旅の出発が遅れていたら北の大地に踏み込むことすらできなかったかもしれない。</p><p>（風邪でも引いたら大事だな）</p><p>『身体強化』の恩恵はあるが、あれは絶対の健康を保証するものではない。振り返れば、遥か後方にゆっくりと進む隊商の馬車の一群が見える。あの中ほどで自分と同じく雨に打たれているであろうアイリーンを思って、ケイは少し心配になった。</p><p>―その頃、アイリーンはちゃっかりランダールの馬車に同乗して雨風を避けていたのだが、ケイには知る由もなく。</p><p>ケイ、次はあっちだ</p><p>了解</p><p>目を凝らす。白く霞がかって見える雨粒のカーテンの先―鬱蒼とした茂みを見透かすように。</p><p>木立の中は薄暗い。枝葉を伝って滴り落ちる水滴が、外の雨音とはまた違ったリズムを刻む。しと、しと、と。柔らかな土に水の染み込む音。そよぐ風、弾ける雨粒、無数のさざめきに満ち溢れながら、静かな空間。</p><p>まるで、別の世界だ―平和で、ゆったりとした時間の流れ。</p><p>ごてごてと弓や鎧で武装して、敵がいないか覗き込んでいる自分自身が、酷く歪な存在に感じられた。</p><p>（この先に何があるんだろうか……）</p><p>ふと、そんな思いが去来する。あまり、考えたくないことでもあった。この旅路の果てに何が待ち受けているのか。</p><p>何もないということはあるまい、とケイは思う。</p><p>ウルヴァーンの図書館で調べた限り、ファンタジックな『こちら』の世界においても、“魔の森”は異質な存在であった。また、あの森と併せて語られる伝説―霧から現れる異邦人の話は、あまりにケイたちの境遇に合致しすぎている。行けば何かしら見えてくるものがあるだろう、という確信があった。</p><p>だからこそ、怖い。</p><p>仮に『何か』が判明した場合、アイリーンはどうするのか。元の世界に『帰れる』と分かった場合、彼女はそれでも尚、『こちら』に留まることを選ぶのか。</p><p>選んでくれるのか―。</p><p>思い返すのは、これまでのことだ。まず『こちら』に来て早々、彼女は毒矢を受けて死に掛けた。その後も草原の民に襲撃されたり、“大熊(グランドゥルス)“に遭遇したりと、度々危険な目には遭っている。北の大地に踏み込んでからも、田舎の村では寝込みを襲われ、今ではこうして馬賊の脅威にまで曝されている。</p><p>地球も決して楽園と呼べるような世界ではなかったが、それでも彼女が日常生活に戻れば、そこはきっと、平和で、豊かで、便利で―。</p><p>―果たして、彼女が『こちら』に留まる理由はあるのか？</p><p>そう自問したとき、ケイは言葉に詰まるのだ。</p><p>正直な話、ケイはアイリーンとずっと一緒にいたい。彼女の存在は、もはやケイの中で大部分を占めている。元々、仲が良かったこともあるだろう。『こちら』に来てからは唯一の同郷の士であったこともあるだろう。互いに惹かれあい、今では恋人同士だ。彼女がいない生活など想像したくもない。</p><p>それでも、もし。</p><p>彼女が『帰る』と言ったならば、自分は―</p><p>…………</p><p>ぎり、と手綱を握る手に力がこもる。</p><p>ケイ、どうした？</p><p>いや、なんでもない</p><p>ピョートルが問いかけてくるが、首を振って答える。</p><p>……いかんな</p><p>こうして冷たい雨に打たれていると、どうにも思考が暗い方へと引きずられてしまう。革兜越しに、こつんとこめかみを叩く。悪い考えを追い出そうとするかのように。</p><p>…………</p><p>そうさ、なんでもないことさ、と呟いた。</p><p>ざあぁっ、と横薙ぎの雨がケイを打つ。</p><p>元々、思い悩んでも、それほど意味はないのだ。</p><p>この世界に残るのか、あるいは帰るのか。それはアイリーン自身が決めることだし、それが幸せかどうかも、アイリーン本人が判断するべきことだ。</p><p>確かに、 一緒にいてくれ と一言告げて、彼女の心に楔を打ち込むのは容易い。あるいは、そうするべきだと言う男も、世の中にはいるかもしれない。</p><p>ただ―やっぱりケイは、それは何か違うと思うのだ。</p><p>この旅が始まる前から、常日頃考えていたことだった。彼女の自由意志に任せる、とうそぶきながら、一緒にいてくれることを期待するのは傲慢ではないかと。今までは、そう思ってしまうのも仕方のないことだと、考えるのを途中でやめていた。</p><p>ただ、今は違う。今回の旅を通して、ケイの心構えも変わった。</p><p>なぜ自分はここにいるのか。それを考えると、答えはひとつしか出てこない。</p><p>愛ゆえだ。</p><p>アイリーンのために、自分にできることをしたかった。そして、その想いをじっくりと見つめなおすと、おのずと見えてくるものがある。</p><p>やはりアイリーンには幸せになって欲しい。自分がこの世界にやってきて救われたように、屈託なく笑っていて欲しい。そのためなら、何だってできる。何だってやってやる、と叫ぶ心が。</p><p>だから―</p><p>もし、旅路の果てに、答えが見つかったならば。</p><p>そしてその上で、彼女が本当に元の世界に帰りたいと願うならば。</p><p>笑って見送ろう、と。</p><p>ケイは静かに覚悟を決めた。</p><p>（……まあ、土壇場でどうなるかは分からんが）</p><p>思わず苦笑する。泣きながら 行かないでくれ と縋り付く自分の姿が、容易に想像できてしまったからだ。</p><p>ただ、何はともあれ、アイリーンが幸せでいて欲しいと、そう願う気持ちは本物だ。それゆえにこうして北の大地くんだりまで態々やってきた。そのことに、少しくらいは胸を張ってもいいだろうと、ケイは気持ちを切り替える。</p><p>心なしか、目の前が明るくなってきた。</p><p>いや、目の錯覚や、気持ちの変化によるものではない。前方、遥か彼方に雲の切れ間。わずかに青い空が覗いていた。</p><p>“天使のはしご”と呼ぶのだったか―陽光が幾条もの線となって降り注いでいる。そしてケイは、そこにうっすらと浮かび上がる虹色の光に気付いた。</p><p>やあ、これは</p><p>前を進んでいたピョートルが、槍を掲げて子供のような笑みで振り返った。</p><p>ケイ。虹だ</p><p>……みたいだな</p><p>ぽかんと、間の抜けた顔でケイは答える。肉眼で虹を見るのは、実に十数年ぶりのことだった。最後に見たのは―病院の窓から、外を眺めたときだっただろうか。</p><p>いつの間にか、雨もぱらぱらと小降りになっている。そういえば、こんな天気の日は虹が出やすいのだった、とケイはおぼろげに思い出した。鷹のそれより優れた両眼は、七色のグラデーションを克明に映し出す。幼い頃の記憶よりも、ずっと色鮮やかに。</p><p>ケイは、虹を見るのは初めてか？</p><p>あまりにもケイが呆然としているので、面白がるように問うピョートル。</p><p>……いや、初めてじゃないが。随分と久しぶりのことだったから</p><p>我に返ったケイは、少し気恥ずかしげに笑って、再び虹に視線を戻した。</p><p>……綺麗だな</p><p>公国では、雨の日には屋内にこもっていることが多かった。街中で過ごしていたこともあり、虹を見かけるような機会にはとんと恵まれていなかったのだ。</p><p>雨の日に出歩くのも悪くないじゃないか、と。そう思えた。</p><p>……ん</p><p>しかし、視界の端に、小さな違和感を覚えてケイは声を上げる。</p><p>―黒点。</p><p>それは、鳥だった。一羽の黒い鳥が、ゆっくりと上空を旋回している。そのフォルム、濡れたような闇の色―鴉だ。</p><p>じりっ、と首筋に焼け付くような、かすかな感覚が走る。</p><p>ケイが眺めているうちに、急降下した鴉は、そのまま吸い込まれるようにして前方の木立へと消えていった。</p><p>鬱蒼と茂みが生い茂る、まるで小さな森のような暗い木立。</p><p>……ケイ？　どうした？</p><p>…………</p><p>注視する。</p><p>彼我の距離は五十メートルほどか。ケイの目を以ってしても、何か不審なものは捉えられない。</p><p>ただ、なんだろう。</p><p>のっぺりとした、澱んだ空気を感じる。</p><p>ケイは無言で、矢筒から一本の矢を抜き取った。“竜鱗通し”につがえ、構える。引き絞って狙うのは、もちろん前方の木立だ。ふるりと、動揺するような気配を感じ取った―気がした。</p><p>放つ。快音。銀閃が弧を描き、木立に吸い込まれ―</p><p>ぐわん、と音すら錯覚させる勢いで、木立の闇が討ち払われた。</p><p>なっ</p><p>ケイは目を見開く。</p><p>数十の瞳。</p><p>その視線に曝されて。</p><p>偽装、隠蔽、認識阻害。そういった類の術式を自身が『破った』ことに気付き、全身が総毛立つ。</p><p>そして次の瞬間、</p><p>ヴヴヴヴヴンと、</p><p>一斉にウッドベースをかき鳴らすような音が。</p><p>木立から銀色の光が飛び出した。その数、少なく見積もっても五十。</p><p>ヒゥウウゥゥと背筋が寒くなるような音を立てて、無機質な矢の群れが、まるで横殴りの豪雨のように―</p><p>あ、あああ……！</p><p>咄嗟に盾を構えながらも、ピョートルが絶望したような声を上げる。多すぎる。とてもじゃないが、避けきれない―</p><p>シーヴッ！！</p><p>ケイはそれに構わず叫んだ。</p><p>Arto, Zetsu!</p><p>サスケの額当て。魔除け(タリスマン)が砕け散ると同時、緑色の風が吹き荒れる。</p><p>ズチュッ、ドチュンと音を立てて周囲に矢が突き立つ。しかし一本たりとてケイたちを傷つけることはない。不自然な風に押し流され、悉く逸らされたのだ。</p><p>くすくすくす、とかすかに響く、あどけない少女の笑い声―</p><p>ケ、ケイ……</p><p>戻るぞ！！</p><p>何が起きたのか分からない、といった様子で驚愕に打ち震えるピョートル、叱咤するように叫ぶケイ。いななきを上げて、隊商の方へ向かって猛然と駆け出すサスケ、ハッと我に返ったピョートルも乗騎に鞭を入れてその後を追う。</p><p>背後で雄叫びが上がった。振り返れば、木立から続々と姿を現す騎馬の一群。</p><p>褐色の毛並みの馬、跨る男たちは革鎧を身につけ、その手には小型の複合弓。</p><p>そう、間違いない―</p><p>『敵襲、敵襲―ッ！』</p><p>あらん限りの声で、ピョートルが叫ぶ。</p><p>激しく揺れる馬上、ケイは矢筒から鏑矢を引き抜き、放つ。</p><p>ビイイィィィと鋭い音が、灰色の空を引き裂いた。</p><p>44. 馬賊</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ あの木立怪しいな……矢打ち込んでみる</p><p>隠蔽魔術 ぬわーーっっ</p><p>馬賊A なぜバレた！</p><p>馬賊B それより隊商だ！　殺せッ！</p><p>ピョートル ウワァー馬賊だァ！</p><p>サスケ 飛び道具はやめて！</p><p>鏑矢 ビイイィィィィィィッッ！！</p><p>雨上がり。</p><p>灰色の雲が浮かぶ、まだら模様の青空。</p><p>ざあっ、と平原を吹き抜ける風が、草葉の露を散らす。</p><p>きらきらと舞い散る水滴のヴェール―</p><p>そしてそれを勢い良く突き破る影。</p><p>サスケだ。</p><p>ぬかるんだ地面を物ともせず。</p><p>泥を跳ね上げながら、稲妻のように疾駆する。</p><p>ケイは目を細め、遠方の隊商を睨んだ。揺れに揺れる騎乗、鞍越しにサスケの筋肉の躍動が伝わってくる。響き渡る蹄の音、ごうごうと耳元で唸る風、未だ疎らにぱらぱらと降る雨が皮のマントにぶつかっては弾けていく。顔面に水滴が散り鈍い痛みすら走るが、今はそんなことを気にする余裕もない。</p><p>ただ、すがるように、左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を強く握り締めた。</p><p>『敵襲、敵襲―ッ！』</p><p>栗毛の馬を駆り並走するピョートルがあらん限りの声で叫ぶ。“雪原の民(ロスキ)“の言葉なので意味は分からなかったが、最大限の警戒を呼びかけるものであることくらいは流石のケイにもわかる。びりびりと伝わってくる逼迫した空気、焦りの色。</p><p>おオオオオォォォッッ！！！</p><p>鬨(とき)の声。</p><p>振り返った。</p><p>遥か後方、迫り来る馬賊の一群。控えめに見積もってもその数は優に五十騎を超える。ケイの乗騎(サスケ)に似た褐色の毛並みの馬に跨がり、取り回しの良い小型の複合弓を携えた草原の民。</p><p>ケイの卓越した視力は、彼らの顔を捉えた。</p><p>草原の生まれを示す、顔面の黒い刺青。満足な食も得られていないのか、病的なまでに痩せこけた頬。しかし弱々しい雰囲気など微塵も感じられない。凶悪な笑みに彩られた口元、並々ならぬ憎悪と殺意を湛え、幽鬼のように爛々と輝く瞳。</p><p>それが、一丸となって追いかけてくる。</p><p>地鳴りのような蹄の音、男たちの雄叫び、それらが暴力的な現実感を伴ってケイの耳朶に叩きつけられる。</p><p>ぞくりと背筋が震えた。現実(リアル)においても DEMONDAL の仮想(ゲーム)の世界においても、一度にこれほどの数の『敵』と相対するのは初めてのことだ。少なくともこの規模の、組織だった戦闘を可能とする集団とは。</p><p>カシュ、カヒュンと掠れた音を立てて、散発的に飛来する幾本もの矢。その多くはケイたちを捉えることなく、周囲の大地に虚しく突き立つのみ。しかし時折こちらの背を射抜かんとする精確な射撃もあり、ケイはそのたびに”竜鱗通し”を振るって空中の矢を払い落とした。彼我の距離はおおよそ百メートル、吹き荒れる風を鑑みれば、馬賊の射手の腕前はそれなりと言えるだろう。</p><p>問題は、その腕前の射手が何十人といることだ。</p><p>ごうっと風が渦を巻く。</p><p>ハッ、ハッ、と荒いサスケの呼吸が、やけに生々しく聴こえる。</p><p>前方に視線を戻す。隊商が徐々に近づきつつあった。護衛の戦士や商人たちが慌ただしく迎撃準備を進めているのが見える。馬車の周りに木の盾や衝立を配置し馬を守ろうとしているようだが、正直なところどれほど効果があるかは疑問だ。</p><p>話に聞く限り、馬賊は人質や物品の強奪ではなく、隊商それそのものの『殲滅』を目的としている。ならば、まず馬を殺して移動力を削ぎにくるはずだ。衝立や盾は馬たちを隠しきれておらず、ある程度の弓の腕前があれば馬を狙うのは難しくない。加えて円形の防御陣を組んでいた夜営時と違い、隊商の車列は道なりに長く伸びている。機動力の高い弓騎兵を相手取れば、されるがまま四方八方から射られ放題だろう。</p><p>嬲り殺し―そんな言葉が脳裏をよぎる。</p><p>（このままぶつかるのは不味い！）</p><p>隊商と馬賊の間で、刻々と狭まりつつある両者の距離を測りながら、ケイの胸に焦燥感が募る。隊商の護衛たち―雪原の民の戦士を軽んじるわけではないが、この数と機動力の差はあまりにも分が悪い。</p><p>速いのだ。</p><p>馬賊の馬の『性能』が、想像以上のものだった。</p><p>些か不健康でやつれた感のある馬賊たちだったが、彼らの馬のコンディションは非常に良い。あるいは己の食料より馬の飼料を優先しているのか―褐色の毛並みは艷やかで、足取りも軽快に生き生きとしている。</p><p>現に、全力疾走するピョートルの馬に対し、馬賊たちはじりじりと距離を詰めつつあった。ピョートルの駆る馬は隊商内でも指折りの駿馬らしいが、それでも速度が劣っている。つまり隊商内には、馬賊に対抗できる馬がいないということ。</p><p>護衛の戦士が総出で打って出たところで、追いつけないし振り切れない。馬賊は遠距離戦を得意とし、数の面でも劣勢、かと言って防御に回ってもジリ貧にしかならない。</p><p>―どうするか。</p><p>いや、考えるまでもない。</p><p>（俺が何とかするしかない、か……！）</p><p>ぎり、と”竜鱗通し”を握る手に、力がこもる。</p><p>相手の数が多すぎる。ならば、削ればいい。酷く単純なロジック。そしてそれを現実的に遂行できるのは、隊商内でもおそらくケイのみ。</p><p>わかっている。</p><p>わかってはいるが。</p><p>撤退のため全力で駆ける今、サスケの手綱を引き反転するのには、思ったよりも勇気が必要なことがわかった。</p><p>何しろ、敵の数が多い。相手が五人ならば、躊躇わなかっただろう。十人でも余裕だったはずだ。二十人でも、少々手間が掛かるが、それだけだ。</p><p>しかし、五十騎。</p><p>流石に、多い。</p><p>それは確率の問題だった。一斉に矢を射かけられた場合、そのうちの何本が精確な狙いでこちらに飛んで来るか。回避するにしろ叩き落とすにしろ、限度というものがある。運良く矢の大多数が風に流されてしまえばこちらのものだが、現状の距離である程度の精度で矢を放つ腕前の持ち主たちだ。『甘え』はおそらく許されない。</p><p>魔術―ケイが契約する”風の乙女”『シーヴ』の力で、矢を弾き飛ばすことも可能ではある。しかし、ケイがそれを行使できるのは、おそらくあと二回が限度だ。</p><p>先ほど魔術で矢を防いだときは、サスケの額当てにつけていた護符(タリスマン)を代償とした。タリスマンは魔力を練り込んで作られる、非常に強力な魔除けだ。故に有用な触媒となりうる―裏を返せば、ケイが行使した術式はそれほどまでに高燃費なものであるということ。残すタリスマンは、ケイが胸に下げるものがあと一つあるのみ。それを使い切った場合、手持ちの宝石(エメラルド)を全てと、ケイ自身の魔力も捧げれば、辛うじて風の結界を発動させられるだろう。</p><p>だが、それで打ち止め。</p><p>魔力の反動―凄まじい吐き気や倦怠感―を考慮すれば、二度目の行使のあと戦闘が継続可能かどうかも定かでない。</p><p>常人ならどうしようもない命の危機を、二回も凌げると考えれば大したものではある。それをたった二回だけ、と捉えるかどうかは考え方の違いというやつだ。</p><p>二回、あるいは一回のみの『切り札』があるうちに、敵を何(・)と(・)か(・)する。</p><p>すなわち、殺す。</p><p>馬上、ケイの息がにわかに荒くなる。それは、これから己が為さんとすることへの慄きか。人を手に掛けるのは、久しぶりのことになるだろう。ケイがわかりやすい形で葬り去ったのは、『こちら』の世界に転移してから数日後、タアフ村からサティナの街に移動する道中で、草原の民の強盗とやりあったのが最後だ。その後、諸々のトラブルでも弓を使ったので、ケイの矢が原因で死んだ者も他にいるかも知れないが。</p><p>いずれにせよ、事実は変わらない。ケイは人を手に掛けたことがあるし、それがまた再び、今日という日に訪れようとしている。</p><p>―陰鬱なものが、どす黒いものが胸中に満ちていく。</p><p>だが、やるからには。</p><p>ケイが手綱を放し、右手を矢筒に伸ばそうとした、そのとき。</p><p>わぁっ、という声がさらに右手側から響いてくる。</p><p>弾かれたように見やれば、遠く、隊商の向かって右手に位置する木立から、数十騎の騎馬が飛び出していた。</p><p>ケイの顔から血の気が引く。褐色の騎馬を駆る彼らは、間違いなく草原の民だ。</p><p>別働隊。</p><p>それも、ほぼ同数の。</p><p>後方に五十騎、右手側にもさらに五十騎以上。</p><p>合計、百騎。</p><p>『嘘だろ……クソッタレ！』</p><p>ケイの傍ら、ピョートルが呻くようにして毒づく。隊商の構成員もまた、合わせて百名を下らない。しかしその半数以上が商人とその見習いたちだ。辛うじて装備は馬賊たちのそれよりも優れているかも知れないが、人一人が身につけられる武具が、矢の雨の前でどれほど頼りになるだろう。</p><p>隊商は、もう目前にまで迫っている。まだ距離はあるが、襲歩(ギャロップ)の馬ならば瞬く間に駆け抜けられる程度の間隙。</p><p>半ば無意識のうちに。</p><p>追い求めるように、彷徨ったケイの視線は、ひとりの少女を捉えた。</p><p>隊商の中ほどで、幌を張った馬車の荷台からこちらの様子を窺い、顔を青褪めさせた金髪の少女。</p><p>―アイリーン。</p><p>ケイの愛してやまない、この世界でたった一人の大切なひと。</p><p>二人の視線が交差する。</p><p>彼女から、こちらがよく見えたかはわからない。</p><p>しかし、それでも。</p><p>視界の果て。</p><p>唇を引き結んだ少女は、小さく頷き。</p><p>背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。</p><p>銀色の刃が陽光を受けて、きらりと輝く。</p><p>それを見た瞬間。</p><p>アイリーンの、凛々しいとさえ言える悲痛な表情を瞳に映した瞬間―ケイの胸の内に、かっと熱いものが溢れた。</p><p>そしてそれは、すぐに氷のような冷たいものに取って代わる。</p><p>―俺は、何のためにここにいる？</p><empty-line/><p>……そうだ</p><p>―彼女のためでは、なかったか。</p><p>揺れていた心が、恐ろしいまでに定まった。</p><p>引きつったような、乾いた笑みを浮かべたケイは、突如としてそれを獰猛なものとし、首元の顔布に手をかける。</p><p>ピョートル！　先に行け！</p><p>サスケの手綱を引き、急激に旋回する。ケイの声に振り返ったピョートルは、あっという間に距離を離していくケイに目を剥いた。</p><p>ケイ！　何をやっている！</p><p>俺が時間を稼ぐッ！</p><p>ばっ……馬鹿な！　やめろ！　無茶だ、ケイ！</p><p>後方の馬賊とケイを見比べ、ピョートルは悲鳴のように叫ぶ。しかし、流石に自分まで反転して、ケイを連れ戻そうという気にはなれないようだ。</p><p>ケイ！　戻れッ！　ケ―イッ！</p><p>それでもこちらに手を伸ばして叫ぶピョートルに。</p><p>ケイは、にやりと笑ってみせた。</p><p>そして顔布を引き上げる。前へ向き直る。“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“の革兜で守られた頭部、顔の下半分は白い布で覆い隠され、露出するのは目元のみ。</p><p>顔布の端で、手縫いの赤い花の模様が踊る。</p><p>さらに旋回する。</p><p>前方を睨む。</p><p>やがて、夜のような真っ黒な瞳は―行く手に五十騎の騎馬を捉えた。</p><p>まるでピョートルに向けた笑顔とともに、全てを置き去りにしてしまったかのように。</p><p>乾いた心からはごっそりと、温かなものが抜け落ちていた。</p><p>代わりに、共にあるのは、身を切るような高揚と、冷え切った思考のみ。</p><p>ここに来てさらに勢いづいたサスケが、猛烈なまでに駆ける。</p><p>その軸が、ぴたりと馬賊の一群へ定められた。</p><p>逆に意表を突かれたのは、馬賊の方だ。</p><p>……一騎駆けかッ！</p><p>嘲笑うように、それでいて感心したように、先頭を駆ける男は笑った。突然の反転には面食らったが、所詮は捨て身の時間稼ぎと判断して鼻で笑い、あるいはその身を顧みない、ひとりの戦士の蛮勇を称えたのだ。</p><p>―その意気や良しッ！</p><p>高らかな男の声に、周囲の襲撃者たちも忍び笑いを漏らす。周囲の者たちが続々と弓に矢をつがえるのをよそに、先頭を駆ける男だけは、腰の曲刀をしゃらりと抜き放っていた。</p><p>多勢に無勢でありながら、それでも僅かばかりの時間稼ぎのために、真正面から突っ込んでくる一騎。</p><p>無謀ではあるが、一人の戦士として、その勇気に敬意を表するべきだと感じたのだ。</p><p>相手が、自分と同じように剣で応戦することは期待していない。弓を使ってきたところで所詮は一人、この距離でも矢を捌き切る自信があった。</p><p>さあ、来い―ッッ！</p><p>馬賊の先頭、曲刀を掲げて雄叫びを上げる男。</p><p>それに対し、ケイは静かだ。冷淡とさえ言っていい。</p><p>ただ―まるで次の選曲を迷う即興のピアニストのように、しばしその右手が、鞍に備え付けられた矢筒の上を彷徨う。</p><p>ほんの一瞬のことだ。やがて、ケイは一本の矢を抜き出した。</p><p>長く、鏃(やじり)は太く鋭く、青い矢羽を持つ―それを。</p><p>ケイを無謀と嗤いながら、戦士として評した男であったが。</p><p>ひとつ、決定的な思い違いをしていた。</p><p>今、少なくともこの場において。</p><p>―ケイは、狩人だ。</p><p>矢を、つがえる。</p><p>引き絞る。</p><p>朱色の弓が、ぎりぎりとしなる。</p><p>陽光を受けて妖しくきらめき―</p><p>カァン！　と唐竹を割るような、甲高い音が。</p><p>銀色の、光。</p><p>風が、唸る。</p><p>先頭の一騎が、爆(・)発(・)し(・)た(・)。</p><p>ごぼァッ！</p><p>曲刀を構えていた男、その胸部に、突き刺さる銀光。反応など許しもしない、音が響いたあとにはただ結果がついてきた。“大熊(グランドゥルス)“さえも一撃で屠った矢を、その直撃を、人の身でありながら真正面に受けたのだ。革鎧など濡れた紙ほどの役にも立たなかった。</p><p>胸骨は一撃で砕け散り、えぐり込む矢に巻き込まれるようにして胸部が内側に破裂する。あまりの威力に身体は仰け反りもしない、胸部を完全に陥没させた男は、背中から臓物と脊髄を撒き散らし、壮絶な死を遂げた。</p><p>しかし、それでも無慈悲な矢は止まらない。</p><p>たった人一人の命を捧げたところで、“竜鱗通し”が満足できようか。背後の馬の頭部を撃ち抜き、さらにその乗り手をも食い破る。</p><p>血飛沫に矢羽を紅く染め上げながら、それでも尚、矢はまっすぐ突き進む。三人目の首を千切り飛ばし、四人目の胴に風穴を開け、最後に五人目の胸に突き立って馬上から吹き飛ばし―ようやくそこで止(・)ま(・)る(・)。</p><p>―？</p><p>絶句。</p><p>たった、一矢。</p><p>それの齎(もたら)した結末に。</p><p>騎馬の陣形に、ぽっかりと穴が空いていた。</p><p>まるで見えない竜の爪にでも薙ぎ払われたかのように。</p><p>あるいは雄叫びの形に口を開けたまま、あるいは弓に矢をつがえ、引き絞ろうとする直前で呆けたまま。</p><p>誰もが振り返り、吹き荒れた血風を見送るようにして、ただ硬直していた。</p><p>その、一瞬。</p><p>致命的な一瞬。</p><p>ケイは新たに、次なる矢をつがえていた。</p><p>カァン！　と小気味良い音が響き渡るのと、ハッと我に返った馬賊たちが、再び銀の光と相見えるのとが同時。</p><p>血の色をした暴風が吹き抜ける。</p><p>人馬合わせて七つの命が、たちどころに吹き飛んだ。</p><p>散開ッ！</p><p>射掛けろ！</p><p>慌てて指示が飛び、魚の群れのように密集していた馬賊たちは、ぐんと騎馬同士の間隔を開く。ケイが真正面から突撃した理由がこれだった。細長い魚鱗隊形で密集していたため、貫通力のある『長矢』を使うならば正面から撃ち込むのが一番効果的だったのだ。</p><p>散開した馬賊たちから、ぱらぱらと射掛けられる迎撃の矢。それらは射手の心境を反映したかのように、ふらふらと狙いが定まらず、力のないものだった。それでも比較的狙いの精確だった矢を難なくいなし、ケイは再び前方の標的を見据える。</p><p>その、黒い瞳は、『標的』に対し、さぞかし冷徹に映ったことだろう―</p><p>全力で駆ける双方の相対距離は、まもなく零になろうとしていた。</p><p>互いの眉間の皺すらも数えられそうな近距離。顔を引きつらせた馬賊の面々にざっと視線を走らせ、素早く矢筒から矢を抜き取ったケイは、コンパクトな射撃を続けざまに放つ。</p><p>コンパクトな、というのは、先ほどに比べての話だ。人の命を奪い去るには十分すぎる威力。それでいて狙いは針の穴を通すように精確で、放たれた矢の数だけ馬上からぽろぽろと肉塊が転がり落ちた。</p><p>そしてそれには一瞥もくれず、ケイは一気に左へ馬首を巡らせる。</p><p>同時に、“竜鱗通し”を右手に持ち替えるのも忘れない。</p><p>至近距離を、馬賊の右手側を、ケイを乗せたサスケが勢い良く駆け抜ける。</p><p>やれッ！</p><p>射殺せ！</p><p>怒号が上がるが、即応の矢は放たれない。ケイが見たところ、馬賊の多くは右利きで、右手に矢を、左手に弓を握る者が大半だった。故に馬上弓において、右手側は射角が制限され死角となる。そして数少ない左利きの射手は、先ほどのケイの『コンパクト』な射撃で、そのほとんどが絶命していた。</p><p>左利きの射手がやられていることに気付いた者たちが、慌てて右手に弓を持ち替え矢を放つ。が、吹き荒れる風、慣れない右手側への射撃、そして未だ冷めやらぬ動揺、万が一にも標的に命中させられる要素がなかった。</p><p>まるで見当違いの方向へ飛んで行く矢をよそに、悠々と駆けるケイはむしろすれ違いざまに馬賊を射殺していく。弓に関して言えば、ケイは両利きだった。利き手での射撃に比べれば若干精度は落ちるものの、この距離ではあってないような誤差にすぎない。</p><p>気がつけば、馬賊は三十騎弱にまで数を減らしている。ケイはサスケを減速させることなく、真っ直ぐにそのまま駆け続けた。</p><p>逃がすか！</p><p>追えーッ！</p><p>想定外の大被害を受け、怒りに呑まれた男たちは乗騎を反転させその後を追う。一部冷静に、隊商への攻撃と天秤にかけた者もいたが、結局そのまま周りに合わせて追跡を開始した。</p><p>馬には、自信があったのだ。厄介な騎兵を処理してから、じっくり鈍亀を始末すればいい。そんな考えもあった。</p><p>しかし―</p><p>バカなッ、速い！</p><p>離されてるぞ！</p><p>ぐんぐんと彼我の距離が開いていく。一目散に逃げるサスケは、速い。先ほどまでとは比べ物にならないほど速い。</p><p>ピョートルと並走していたときと違い、今はサスケ一騎だ。もはや『普通の馬』にペースをあわせる必要がない。そしてサスケは、本来は凶悪なポテンシャルを秘める『バウザーホース』という名の魔物。むせるような血臭に、彼もまた昂ぶっていた。</p><p>その背に揺られるケイはというと、勿論ぼんやりしているわけではない。サスケの背に仰向けに倒れこむようにして、反転した視界の中、次々に矢を射かけていた。無理な体勢のせいで狙いは甘くなっているが、一騎、また一騎と人馬がぬかるんだ大地に倒れていく。</p><p>クソッ、追いつけん！</p><p>また一人やられたぞ！</p><p>そっちは後回しだ！　先に隊商をやる！</p><p>とうとう半数にまで数を減らされてしまった馬賊たちは、歯ぎしりしながらケイの追跡を取りやめ反転、隊商の方へと戻っていく。</p><p>……意外と何とかなるもんだな</p><p>遠く、一人と一頭で残されたケイは、手綱を引いてサスケを休ませながら他人事のように呟いた。久々の全力疾走に、ゼエ、ゼエと荒い息をつくサスケの首筋を優しく撫でて、その労をねぎらう。</p><p>人馬ともに傷一つないどころか、シーヴの魔術に頼る必要さえなかったのにはケイも驚いた。やはり最初に一当てした際、先頭の一騎が抜刀したお陰で一斉射撃を喰らわずに済んだのが大きい。酔狂な真似に助けられた、と考えるべきだろうか。その助けとなった人物が真っ先に死亡する結果となったのには、皮肉な笑みを禁じ得ないが。</p><p>顔布の下で、ケイは乾いた笑みを浮かべた。見れば、そこら中にごろごろと人馬の死体が転がっている。食物のための狩りとは全く違う、格段に濃い血の匂いに頭がくらくらしていた。</p><p>……すまん、サスケ、もう一頑張りしてもらうぞ</p><p>ケイがそう言ってぽんと首筋を叩くと、 しかたないな と言わんばかりにサスケは鼻を鳴らした。チラッ、と首を巡らせて意味ありげにケイを見やったのは、終わったあとでのご褒美の催促だろうか。体力を消耗したことだし、何かの肉とたっぷりの水を上げよう、とケイは思った。忘れがちだが、サスケは雑食性の魔物だ。</p><p>よし、行けッ</p><p>ケイがぽんと足で合図すると、サスケは再び滑るようにして走り出す。</p><p>前方、隊商目掛けて駆けながらもちらちらと背後を窺っていた馬賊たちが、迫り来るケイの姿に血相を変えて馬を加速させる。</p><p>―逃がすものか。</p><p>そんな想いを獣のような笑みに変えて、血臭に酔うケイもまた弓を構える。</p><p>果たして、死神の追撃が始まった。</p><p>バウザーホースの性能に物を言わせてあっという間に距離を詰め、馬賊たちの背中に容赦なく致死の矢を見舞う。</p><p>散開し―ぎゃぁァッ！</p><p>慌てるな、落ち着いて―ぐえッ！</p><p>旋回して反げ―あガぁッ！</p><p>馬賊たちもどうにか組織だって抵抗しようとするが、無慈悲な矢がその生命を刈り取っていく。</p><p>聡い者は、すぐに気付いた。皆をまとめようと声を張り上げる者から先に、死神に目をつけられていることに。</p><p>気付かずに声を張り上げる者は、当然のように死んでいった。気付いても尚、現状を打開しようと試みた者は、続いて葬り去られていく。それを目の当たりにした、目端の利く臆病な者は口をつぐんだ。そもそも気付かず、リーダーシップも取れない者は、端から脅威足り得ない。</p><p>結果的に、烏合の衆だけがその場に残される。</p><p>まとまりもなくただ逃げることしかできず、それでいて各自自由に散開することもできない。何故ならば、群れから離れようとした者から真っ先に死んでいくからだ。己の命惜しさに、小魚のように群れることしかできない。</p><p>そしてそれは、―ケイからすれば、もはやただの鴨打ち(ダックハント)だった。</p><p>当初、五十騎以上もいた馬賊の一群は呆気ないほど簡単に壊滅し、今やケイただ一騎に追い回されるだけの、惨めな存在に成り果てたのだった。</p><p>そして、それを遠巻きに、驚愕をもって見守る者たちが居る。</p><p>奴は鬼神か……！？</p><p>その中の一人は、隊商の責任者の中年親父、ゲーンリフだ。思わず迎撃の準備の手も止めて、愕然とケイの猛攻を眺めている。だがそれを咎める者は、その場に一人もいなかった。ゲーンリフが最高責任者ということもあるが、何より周囲の者たちもケイの凄まじい馬上弓に度肝を抜かれていた。</p><p>元々、ゲーンリフはケイを信用していなかった。経歴も、敵ではないという意志表明も、その弓の腕前さえも。ケイの何から何までもだ。</p><p>最初にケイがピョートルを残して反転したときは、 裏切り者が尻尾を出した と激怒していた。敵の部隊に合流する動きと見たからだ。</p><p>だが、蓋を開けてみればどうだ。</p><p>死屍累々。まさにその一言に尽きる。あまりに現実離れした光景に、この短い間に何度目を擦ったかわからない。</p><p>―そう、短い間に。</p><p>ケイの弓で死体の山が築かれるまで、本当にあっという間だった。ケイが戦闘状態に移行した直後は敵の演技や自作自演さえも疑ったゲーンリフだが、あまりの死体の多さにその考えを改めざるを得なかった。いくらなんでも、胴体と首を切り離すふ(・)り(・)ができる人間はいないし、こちらを油断させる罠にしては死人が出すぎているし、そもそもそんな罠を張る必要性もないと理性で判断できる。</p><p>だからこそ、恐ろしかった。</p><p>目の前で起きていることが―全て現実であると、認めざるをえなかったから。</p><p>そしてそれは、おそらく周囲の面々も同じであった。これまでケイに敵対的であった者たちも、ピョートルを含む極少数の友好的・中立的であった者さえも。</p><p>あの弓が自身に向けられていたら―そう考えてしまうのは、ある種の生物としての本能だろう。それと同時に、馬賊の一群が壊滅しつつある現状に安堵も覚えつつある。その相反する感情は、思考停止という形で表れた。</p><p>しかし、それも長くは続かない。</p><p>ゲーンリフたちと同様に、あるいはそれ以上に衝撃を覚えていた馬賊の別働隊がすぐそばまで迫ってきたからだ。自身を鼓舞するような雄叫びが、地鳴りにも似た蹄の音に混じって聴こえてくる。</p><p>ゲーンリフ隊長、連中が来ます！</p><p>……迎撃態勢に入れ！　弓が使える者は構えろ、射程に入ったら順次放て！　馬を狙えよ！　手が空いてる奴は一枚でも多く盾と板を並べろ！</p><p>自身も弓を構えながら、ゲーンリフは指示を飛ばす。護衛の戦士や商人たちが弓と弩を構え、見習いたちが板や盾を手に走り回っている。</p><p>そして、ゲーンリフのだみ声は、隊商の真ん中までハッキリと届いていた。</p><p>……嬢ちゃん、隠れてた方がいいんじゃないか？　荷箱の間に隙間を作っといたから、ここに潜り込んでりゃ流れ矢くらいなら防げるぜ</p><p>公国の薬商人ランダールが、緊張した面持ちで円盾を構えながら荷台のアイリーンに声をかける。</p><p>気持ちはありがたいけど、オレも戦うぜ</p><p>サーベルを片手に、しかしアイリーンは毅然と答えた。</p><p>……つってもよ、嬢ちゃん</p><p>勇ましいのはいいが、と何とも言えない顔をするランダール。彼からすれば、可憐な少女が無理して粋がっているようにしか見えないのだろう。</p><p>女だということもあるが、それ以上に見かけのせいで過小評価されるのはいつものことだ。アイリーンも慣れたもので、溜息をつくことすらせずに、ただ右手のサーベルを軽く振るって見せる。</p><p>ピッ、ビシュッと腕の先がブレて見えるような、鋭い剣閃。決して力任せに振り回しているわけではない、無駄を削ぎ落とし、洗練された斬撃だった。</p><p>……なるほどな。お飾りじゃなかったのか</p><p>ランダールも、力量を推し量れるだけの目は持っているらしい。気負う風もなく斬撃を披露したアイリーンに、神妙な顔で頷き、それ以上はとやかく言わなくなった。</p><p>嬢ちゃんはなかなかできそうだな。期待してるぜ</p><p>護身程度さ。自分の身は自分で守ってくれよな</p><p>軽口を叩きながら、アイリーンは空いた左手で腰のベルトから投げナイフを取り出し―自分の手が震えていることに気付いた。ランダールから見えないよう、背後に手を隠しながら、苦笑する。</p><p>ランダールの言うことも、あながち間違っていなかったかも知れない、と思ったのだ。</p><p>だが。</p><p>ここで、自分だけ隠れるわけにはいかなかった。</p><p>遠く前方を見やれば、馬賊を追い回す騎兵―ケイの姿が見える。</p><p>（……ケイが、あれだけやってるんだ）</p><p>周囲の人間はケイの武威に恐れ慄いているようだが、それ以上にアイリーンからすれば、その姿は痛々しかった。</p><p>好きで、やっているわけではない。</p><p>顔布の下がどのような表情であれ、今この瞬間に何を考えていようとも、それはケイが自分自身に冷徹な殺人機械であることを強いているだけなのだ。</p><p>わかるだけに、痛々しい。</p><p>だからこの痛みを、ケイにだけ押し付けるわけにはいかない。</p><p>サーベルを握る手が震えて、カタカタと音が立っている。</p><p>馬賊の雄叫びと蹄の音に、かき消されて聞こえないのは幸か、不幸か。</p><p>……やってやるさ</p><p>深呼吸し、誰にも聞こえないよう小さく呟く。</p><p>いよいよ迫りつつある馬賊を、アイリーンはただ、キッと睨みつけた。</p><p>45. 迎撃</p><p>隊商の面々にすら畏怖の念を齎(もたら)したケイだが、『当事者』たる馬賊たちの受けた衝撃はその比ではなかった。</p><p>いっ……いったい何なんだアイツはッ！</p><p>木立の中、一人の男は絶叫する。</p><p>羽飾りを多用した革鎧をまとい、複合弓と長剣を装備した男。顔には複雑な紋様の刺青が刻まれており、ひと目で草原の生まれと見て取れる。年の頃は三十代前半といったところか、太い眉にきつい三白眼、苛烈な人格を窺わせるような顔立ちだ。しかしその相貌は紙のように白く、今にでも卒倒してしまいそうな雰囲気を漂わせていた。左腕を黒ずんだ包帯で吊っているせいで、尚のこと頼りなげに見える。</p><p>ああ、あああ……！</p><p>口から漏れるのは、もはや意味を成さない呻き声のみ。</p><p>仲間が死んでいく。</p><p>次々に討ち取られていく。</p><p>―いや、むしろ狩られていく。</p><p>たった一人の、化け物じみた弓騎兵によって。</p><p>つい先ほどまで五十騎を数えた襲撃隊は、今や半数以下になってしまった。馬鹿な、あり得ない、信じられない―愕然とした男の表情はそんな心の内をありありと語る。</p><p>わなわなと震える男の周囲には、同様に包帯で手当てが施された草原の民の姿があった。湿った地面に身を横たえ死んだように動かない者や、木にもたれかかって上体を起こすのもやっとという者もおり、木立の中はまさに野戦病院といった様相だ。</p><p>が、今は病院というより墓地のように静まり返っていた。意識がある者は等しく顔の色を失い、茫然自失している。</p><p>悪夢にでもうなされているように、釘付けになったまま視線を外せない。</p><p>二十騎あまりの襲撃隊を、たった一騎で追い回す悪魔のような弓騎兵。</p><p>朱色の弓が乾いた音を奏でるたびに、馬上から誰かが叩き落とされる。もはや組織だった反抗さえできず、怯え、ただひたすらに逃げ惑う仲間たち。</p><p>それは、まるで牧羊犬に追い回される羊の群れのようで―</p><p>かぁん、と。</p><p>甲高い音が響き渡り、またひとり、仲間の命が赤い血飛沫に消えた。</p><p>ローメッド隊長……</p><p>顔の右半分を包帯で覆った若者が、傍らの男に縋るような目を向ける。</p><p>俺たちは、どうすれば……</p><p>……くっ、</p><p>左腕を吊った男は、何も答えられずに歯噛みするほかなかった。</p><p>男の名を『ローメッド』という。本来ならば襲撃隊のまとめ役を担う戦士だ。しかし今は腕を負傷して戦力にならないため、木立に身を潜めている。そしてそれは周りの男たちも同様だった。</p><p>つまり、この場には足手まといしか残っていない。</p><p>騎馬をまるで己の分身のように扱う、熟練した草原の民の弓騎兵が五十騎がかりでも歯が立たない相手だ。たかが十数名程度の怪我人が徒歩で打って出たところで、何ができるだろう。</p><p>…………</p><p>沈黙するローメッドに、聞くまでもなく答えはわかっていたのだろう、若者は諦めたように肩を落とす。それが自身に向けられた失望であるように感じられて、ローメッドはますますその表情を険しくした。</p><p>実際のところ、相手は単騎。大型の矢筒を鞍に括りつけているようだが、持ち運べる矢の本数には限界がある。せめて自分たちが囮となって矢を無駄遣いさせるという手も考えたが、今までの戦いぶりを見るに、脅威度が低い自分たちを無視して騎兵を攻撃し続ける可能性が高い、とローメッドは睨んでいた。</p><p>騎兵を全滅させてから改めて自分たちを『狩り』に来るか、あるいはそのまま無視して隊商に戻り補給を優先するか。いずれにせよ、ローメッドたちが犠牲になろうとしても、現時点では向こうは構ってくれないだろう。</p><p>（クソッ！　何か、何かできることはないか……！）</p><p>死にゆく仲間たちを血走った目で見ながら、ローメッドは必死に考えを巡らせようとする。しかし空回りする思考は、一向に手立てを見つけられずにいた。どうしてこんなことに―などと、現実逃避じみた想いだけが浮かんでくる。奴隷として売り飛ばされた同胞たちを救うため北の大地までやって来たというのに、目の前で仲間が蹂躙されるのを、ただ指をくわえて見ているしかないというのは何たる皮肉か。</p><p>怒りと情けなさで、先ほどとは一転、顔を紅潮させるローメッド。視界が真っ赤に染まっていくのを感じたが、バサバサッという羽音に思考を中断させられる。</p><p>見れば、傍らの止まり木で翼を休めていた伝書鴉(ホーミングクロウ)が、細かく体を震わせていた。ぶわりと、その小さな身体が膨れ上がるかのような錯覚、鴉の薄い赤色の瞳が血のような真紅に染まり、存在感がず(・)し(・)り(・)と重くなるのを肌で感じる。</p><p>……カッ、カッカ。うぅむ、久しいな。ローメッド、その後はどうじゃ</p><p>まるでそれが当たり前であるかのように―首を巡らせてローメッドを見据えた鴉が、しわがれた声で話し出す。</p><p>御大将！！</p><p>思わず叫んだ声には、僅かな安堵の色が滲んでいた。咄嗟に止まり木の前で跪くローメッド、周囲の怪我人たちも おお とざわついている。</p><p>御大将―少なくともローメッドたちはそう呼んでいる―は、告死鳥(プラーグ)と契約した強大な魔術師だ。ローメッドたちが怪物(モンスター)の闊歩する 深部(アビス) を横断して北の大地に侵入できたのも、時折必要な武具や糧食などを補給できているのも、雪原の民の討伐隊を察知し撃退できているのも、全て彼のお陰だった。</p><p>奴隷にされた同胞たちを救いたい、という自分たちの心意気を買って支援してくれている―というのは御大将の言だが、ローメッドはあまり信用していない。これほどの力を持つ魔導の探求者が、そんな甘い理由で力を貸すはずがないからだ。おそらく彼にとっても何らかの利益(メリット)があり、独自の思惑に基いて行動しているのだろうが―ローメッドたちもそんなことは承知の上だった。仮に、手駒として利用されているだけだとしても構わない。現に少なくない数の同胞を救い、うち何人かは別働隊の手より 深部(アビス) 経由で故郷に帰すことにも成功しているのだから。</p><p>いずせにれよローメッドは、少なくとも彼の能力には全幅の信頼を置いており、それを自在に操る彼自身にも畏敬の念を抱いている。そして、最近は忙しいらしく、滅多と『憑依』していなかった彼が、このタイミングで様子を見に来たことには運命を感じずにいられなかった。</p><p>御大(おんたい)、状況は芳しくありません。あちらを</p><p>切羽詰まった表情で、ローメッドは『戦場』を示す。つられてそちらを見やった黒羽の魔術師は―そのまま硬直した。</p><p>……御大将？</p><p>剥製のように動かない鴉に、怪訝な顔で声をかけるローメッド。</p><p>……かっ</p><p>それに対し、赤い眼を見開いた鴉は壊れた玩具のように、</p><p>―かっ、かかかっ、くはははハハハッ！！　カッハッハッハッ！！</p><p>哄笑。</p><p>おおよそ状況には似つかわしくない、そして何より仲間たちが死していく現場を前にしての奇妙な反応に、ローメッドは眉をひそめる。</p><p>カッハハハ、これは傑作！　彼奴め、よりにもよって何故このような場所におる！</p><p>あの者をご存知なのですか！？</p><p>が、続く魔術師の言葉に、思わず前のめりになって尋ねざるを得なかった。</p><p>ふっ、くくく。そうじゃ、そうじゃな。知っていると言ってもいいじゃろう、わしにとっても『敵(かたき)』に相当する男じゃ</p><p>肩を、というよりも翼を震わせて、面白可笑しそうに魔術師は答える。しかしその瞳はぎらぎらと、おぞましいばかりの輝きを放っていた。</p><p>ふむ、ふむ。押されておるな。単騎でよくもあそこまでやるものじゃ……Se vizitanto, tio ne nepre bizara……よい。いずれにせよ、お主の言わんとすることはわかるぞローメッド</p><p>ぎょろりと蠢いた赤い双眸が、ローメッドを捉える。見かけはただの鴉に過ぎないにもかかわらず、にやりと口の端が釣り上がっている―そんな邪悪な表情を連想させる怪鳥の顔。</p><p>畏怖とも、本能的な嫌悪感とも知れぬ感情を抱きながら、それでも敬意をもってローメッドは頭を垂れた。</p><p>はっ。……あの者を倒すため、御大のお力をお借りしたく</p><p>よかろう。無駄な力は使いたくはなかったがの、これは仕方があるまいて</p><p>ばさばさと翼を羽ばたかせながら、止まり木の上で鴉は体勢を整えた。</p><p>見据える。</p><p>遥か彼方、襲撃隊を追撃する異邦の狩人を。</p><p>その真っ赤な瞳が、微かな燐光を放ち始める。それは美しく、それでいて何処か退廃的な、そして不吉な色だった。</p><p>ローメッドよ。あの男を生かすも殺すもお主次第じゃが、殺す場合は少なくとも遺体は五体満足で確保せよ</p><p>五体満足、……ですか</p><p>彼奴めの肉体は使い道があるのでな</p><p>カッカッカ、と乾いた笑い声を漏らす鴉。この強大な魔術師に肉体を必要とされるとは、一体何者なのだろうかと思いつつ、ローメッドは首肯する。あの凄まじい馬上弓を見るに、只者ではないことだけは確かだったが。</p><p>わかりました。必ずや</p><p>任せた。では彼奴めを弱らせるぞ。これでお主の仲間もやりやすくなるじゃろうて</p><p>ばさりと。</p><p>鴉は、翼を打ち広げる。</p><p>ただそれだけの行為が、何処までもおぞましい。</p><p>Rigardo de detruo.</p><p>しわがれた声が呪文を紡ぎ。</p><p>ぎらりとその瞳が一際強く、そして不吉に輝いた。</p><p>†††</p><p>大地を叩く無数の蹄の音が、びりびりと空を震わせる。</p><p>次第に大きくなる鬨の声―遠景に望む馬賊はじわじわと接近しているように見えて、その実襲歩(ギャロップ)による突撃は風のように疾い。</p><p>ランダールの馬車で、アイリーンは荷物の陰から敵の様子を観察していた。</p><p>散開しながら先を争うようにして距離を詰める、五十騎近い褐色の騎馬の群れ。</p><p>複合弓に矢をつがえ、いつでも放てるように身構えている馬賊たち。ちらほらと二人乗りしている騎馬も見かけられ、さらには火の点いた松明をその手に携えた者もいるようだった。</p><p>……準備のいいこった</p><p>こんな真っ昼間に、松明の使い道など限られている。ずらりと並ぶ隊商の馬車を見やりながら、思わずアイリーンはハッと乾いた笑みを浮かべていた。</p><p>のっぺりと時間が引き伸ばされていくような感覚。誰かがごくりと生唾を飲み込む音。隊商の面々は馬車を盾として、それぞれ弓やクロスボウを手に待ち構える。</p><p>殺伐とした緊張感がきりきりと神経を蝕む。『戦場』において有効な飛び道具を持たないアイリーンは、ただただそれに耐えるほかない。</p><p>そして。</p><p>時は来た。</p><p>複合弓の射程にまで接近した馬賊が、一斉に矢を放つ。</p><p>空中にきらきらと輝く鏃(やじり)は、さながら白昼の流星群。</p><p>美しく暴力的な豪雨が、隊商の車列に降り注いだ。</p><p>アイリーンは荷物の裏で身を縮める。木箱越しに感じる軽い衝撃、無数の釘を打ち付けるような音、荷台の幌を矢が勢い良く突き破っていく。それに一瞬遅れて、馬の鋭いいななきや、男たちの怒号が上がる。しかし大混乱に陥る馬に対し、人の悲鳴は驚くほどに少ない。みな馬車を盾として事なきを得たのだ。</p><p>放てェ！</p><p>代わりに、ゲーンリフのだみ声が響く。</p><p>お返しだと言わんばかりに隊商側から飛び道具が放たれた。商人がクロスボウで狙撃し、護衛の戦士が助走をつけて投槍を投擲、商人見習いの少年たちも投石器(スリング)や弓矢で各個に反撃している。</p><p>中でも目覚ましい戦果を上げたのはクロスボウだ。他の投射武器とは弾速が段違いで、回避が間に合わずボルトを受けた馬賊や馬が断末魔の叫びを上げて倒れ込む。草原の民の女奴隷を連れていた裕福そうな商人などは、クロスボウをいくつも準備していたらしく、使った端から見習いに渡して次弾を装填させていた。</p><p>―ッ！！</p><p>―、―ッ！</p><p>苛烈な隊商側の反撃に、何事かを叫んだ馬賊たちが少しばかり距離を取る。緩やかに隊商を包囲しながら、再び弓での一斉射撃を仕掛けてきた。だが隊商の面々も即座に馬車や大盾の裏に隠れ、矢の雨をほぼ無傷でやり過ごす。</p><p>これが仮に、現状に倍する数で隊商の両側面から攻撃されていれば、こうも簡単には防御できなかっただろう。本来ならば馬賊も、二つに分けた襲撃隊による挟撃を想定していたはずだ。</p><p>しかしその思惑は土壇場で打ち砕かれた。</p><p>ひとりの、化け物じみた異邦の狩人によって。</p><p>再び荷台の幌から顔を出し、アイリーンは見やる。隊商から遥か遠く、二十騎以下にまで数を減らした草原の民たちが、たった一騎の弓騎兵に追い回されているのがはっきりと見えた。</p><p>ケイだ。</p><p>DEMONDAL において『死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》』とまで呼ばれ恐れられた馬上弓は、この世界においても健在らしい―いやむしろ、より一層磨きがかかっている。</p><p>流石はケイだ、―と不安な気持ちを信頼で塗り固め、アイリーンは頷いた。</p><p>ケイもしっかりしているのだ、自分も最善を尽くさねば、と。</p><p>そう言い聞かせて、無理やり視線を外す。</p><p>ケイが別働隊を引きつけ壊滅させたお陰で、奇襲であったにもかかわらず、隊商はある程度の余裕をもって対処できていた。しかし馬賊は馬賊で、これまで孤立無援でありながら北の大地を荒らし回ってきた強者(つわもの)たちだ。ただの一斉射撃では効果が薄いと見るや、すぐさま次の手を打ってきた。</p><p>松明を手にした複数の騎馬が、動きを止めた馬賊たちの間を駆け回る。ぽつぽつと、火の数が増えていく。</p><p>矢の先端部に、油を染み込ませたボロ布を巻きつけたもの―</p><p>火矢だァ！</p><p>誰かの、悲鳴のような叫び声。</p><p>おいおい……こいつぁヤバイぞ</p><p>荷台から空を見上げてランダールが呟いた。アイリーンも天を振り仰ぐ。先ほどまで雨がぱらついていた空は、今は憎々しいまでに晴れ渡りつつあった。</p><p>バババヒュンッ、と鈍い音を立てて、一斉に火矢が放たれる。それらは大盾に突き立ち、人馬を傷つけ、馬車の幌に火を放った。防水のために脂を塗りこんだ幌は、乾いた干し草よりもよく燃える。</p><p>そしてそれはランダールの馬車も例外ではない。</p><p>旦那ッ！</p><p>外してくれ！　支柱ごとやっても構わねえ！</p><p>めらめらと火の手を上げる幌に、アイリーンが切迫した声で指示を仰ぐと、手近にあった斧で幌の支柱を叩き切りながらランダールが返す。右手に握りっぱなしだったサーベルを閃かせ、アイリーンも細い木の支柱を全て切断した。</p><p>ッ、！</p><p>その瞬間、ピリッとした殺気を感じ取りサーベルを振るう。燃える幌を突き破って、真っ直ぐに飛んできた矢をすんでのところで切り払い、事なきを得る。</p><p>それを目にしたランダールがピゥッと口笛を鳴らしたが、それ以上はお互いに軽口を叩く余裕もなく、燃える幌を車外に投げ捨て火の粉を払う作業に集中した。</p><p>アイリーンたちは幸いなことに迅速に対応することができていたが、既に隊商内には取り返しがつかないほど火が回ってしまった馬車も見かけられた。燃え上がる馬車を前に商人が頭を抱え、護衛の戦士たちが弓を引きどうにか馬賊を牽制しようと試みる。しかし、そこに浴びせかけられる矢の集中砲火、馬車という盾を失った見習いの少年がハリネズミのようになって倒れ伏す。人馬の悲鳴が入り乱れる様はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。</p><p>焦げ付く煙の匂い、泥水の跳ねる音、馬のいななき、男の悲鳴、戦士の雄叫び、矢の風切り音、そして濃厚な血臭。</p><p>五感を圧倒する暴虐。木箱にぴったりと背をつけて死角を殺したアイリーンの顔は、すっかり血の気を失っていた。</p><p>だが、このような状況で、ただ呆然としているだけの『贅沢』は許されない。</p><p>バオン、ウォンという野太い吠え声。アイリーンはハッとした、どこか聞き覚えのあるタイプの吠え声だ。</p><p>なんだあれはッ！</p><p>狼だ！　馬鹿みたいデカいぞ！</p><p>護衛の戦士たちの困惑の声が聴こえる。黒い毛並みの巨大な狼が数頭、隊商に向かって真っ直ぐ突っ込んできている。</p><p>狩猟狼(ハウンドウルフ)！！</p><p>アイリーンとランダールの声が重なった。ぬかるんだ地面を物ともせず、風のように駆け抜けたハウンドウルフたちは、そのままの勢いで獲物に食らいつく。荷台に飛び乗ってきた一頭に喉元を噛み千切られた商人が血溜まりに沈み、至近距離にまで迫られた馬たちが恐慌状態に陥り暴れ始める。馬を宥めようと試みた見習いの少年が、後ろ足に蹴り飛ばされて大盾の向こうへ吹き飛んでいった。護衛の戦士たちもこの凶悪な獣に対処しようとしていたが、馬車が燃え上がり四方八方から矢が飛んで来る状況では万全の戦いなど望むべくもない。かなりの苦戦を強いられていた。</p><p>さらに、その隙を突いて、二人乗りをしていた騎馬のうち、片方の草原の民が下馬し混乱が大きい箇所に斬り込みを開始している。円盾と曲刀を装備した草原の民の戦士と、重装の雪原の民の戦士がそこかしこで打ち合っていた。</p><p>そして一頭のハウンドウルフが、ランダールの馬車にも接近しつつある。どうやら大盾の内側、幸いなことにまだ一矢も受けていない元気な馬を狙っているようだ。</p><p>スズカ！！</p><p>怯える黒毛の乗騎の名を呼びながら、アイリーンは荷台から飛び降りる。背後で 嬢ちゃん！ とランダールが呼ぶ声がするが、顧みない。ハウンドウルフ一頭など、アイリーン単独で対処可能な相手だ。</p><p>地を這うように、そしてフェイントをかけるようにジグザグに走るハウンドウルフ。その黄色い瞳が狡猾に、獰猛に、アイリーンの隙を窺っていた。</p><p>来いよ</p><p>対するアイリーンは、ゆらゆらと身体を揺らしながら、右手のサーベルをだらりと下げて不自然なまでに脱力して見せる。</p><p>と、真横から飛来する矢。</p><p>上体を逸らして回避。それを隙と見たか、グルルと唸ったハウンドウルフが一気に加速して飛びかかってくる。</p><p>しかしアイリーンからすればあまりにお粗末な突撃だった。まるでそれそのものが一つの生命体であるかのように、くんっと跳ね上がるサーベル、空中のハウンドウルフの胴体を銀閃が薙いだ。</p><p>ギャインッ！</p><p>臓物をぶちまけながら泥水に突っ込む黒い獣。アイリーンは返り血どころか、跳ねた泥すら浴びていなかった。ジタバタと暴れるハウンドウルフに止めを刺そうとしたところで、その頭部にビスッと矢が突き立つ。</p><p>嬢ちゃん、あんまり無茶はすんなよ</p><p>ランダールだ。緊張感で彩られた顔、荷台で構えていた複合弓を下ろす。</p><p>無茶じゃねえよ、このくらい</p><p>思わず苦笑して答えるアイリーンだったが、その顔がハッと強張る。</p><p>旦那！　後ろ！！</p><p>いつの間にか、ランダールの背後、荷台に馬賊の戦士が二人も乗り込んできていた。一人は曲刀を掲げ、もう一人は短槍を手に、無言でランダールに襲いかかる。</p><p>うおォッ！？</p><p>アイリーンの視線と表情の変化でそれを察し、咄嗟に振り返ったランダールが槍の刺突を回避する。ぐらりと姿勢を崩して倒れ込みそうになるランダール、苦し紛れに左手の複合弓を投げつけて時間を稼ごうとするが、曲刀であえなく叩き落とした戦士が踊るように斬りかかる―</p><p>旦那ァ！！</p><p>時間がゆっくり流れていく。咄嗟に左手を腰の投げナイフに伸ばすアイリーンだが、相手は二人、どうしても間に合わない―と思ったその瞬間。</p><p>ランダールの動きが、ブ(・)レ(・)た(・)。</p><p>疾い。目にも留まらぬ抜刀、斬りかかってきた戦士の首を長剣で刎ね飛ばす。</p><p>さらに、荷台の縁に体当たりして、その反動で無理やり体勢を立て直し、短槍持ちの戦士目掛けて稲妻のような突きを放った。</p><p>突然の相方の死、そして予想外の反撃に硬直していた短槍使いの喉を長剣の刃が無慈悲に抉る。信じられない、という顔でぱくぱくと口を動かした戦士は、そのまま喉を押さえて倒れ伏した。</p><p>なっ……</p><p>ランダールの豪剣に、アイリーンは思わず絶句する。ゆっくりと振り返った、一介の公国の薬商人―であるはずの男は、鮮血を滴らせる長剣を手に、どこかバツの悪そうな顔をした。</p><p>いや……まあ、その、なんだ。昔とったなんちゃらってヤツよ</p><p>何かを尋ねたわけでもないのに、ひとり言い訳がましいことを口にするランダール。が、アイリーンが口を開くよりも前に、 うおおお！ という雄叫びが聴こえてくる。</p><p>馬車の横をすり抜けるようにして、一人の草原の民の戦士が襲いかかってきた。得物は奪い取ったものだろうか、草原の民よりもむしろ平原の民が好んで使う長剣。痩せこけて無精髭を生やした中年の男だが、アイリーンの美貌を見るや、その瞳にぎらりと欲望の炎をたぎらせる。</p><p>そのことに何の感慨も抱かず、おそらく致命傷を避けるために肩を狙った突きを難なく回避し、アイリーンもサーベルを閃かせた。半ば反射的に、最適解をもって男の首筋へと伸びた刃は―アイリーンが表情を曇らせると同時にぶれ、頬を切り裂いて怯ませてから、手足の腱を軽くなぞった。</p><p>そして悲鳴を上げて倒れ込む男を、間髪入れずに回し蹴りで吹き飛ばす。男は泥まみれになってゴロゴロと転がっていき、そのまま馬車の車輪に頭をぶつけて気絶した。</p><p>嬢ちゃん……</p><p>事の顛末を見届けたランダールが、呆れたような声を出す。アイリーンの手加減―手抜きと言い換えてもいい―を見逃さなかったのだ。先ほど豪剣を繰り出し一瞬で二人を屠ったランダールから見ても、今のアイリーンの剣閃は知覚するのがやっとな速さだった。しかしそれほどの一撃を放っておきながら、直前で迷い、無理やり殺人剣を活人剣にしてしまったアイリーンの思考プロセスに、呆れる。この隊商の戦士の中でも指折りであろう、抜きん出た高次元の剣術を実現しておきながら、そこにいまさら躊躇う余地があること自体が、ランダールとっては不可解でしかなかった。</p><p>まあ、その、アレだよ</p><p>アイリーンは先ほどのランダールよろしく、口の中でもごもごと言いながら、小さく肩をすくめてみせた。実は、アイリーンも自分自身に呆れていたのだった。あれほど前もって覚悟を決めておきながら、土壇場になって迷ってしまった自分に。</p><p>（全然ダメじゃん）</p><p>はは、と力のない笑みがこぼれた。タン、タンッと軽く地面を蹴って荷台に戻る。</p><p>ランダールが斬った二人の死体が転がっていた。</p><p>…………</p><p>グロテスクな生の死体を見るのは、これが初めてではない。そう、あれは『こちら』の世界に来て数日後のことだった、タアフ村からサティナの街に向かう途中で、草原の民に襲われたときのこと。ケイが撃退した連中から、色々と物品を剥ぎ取ったのだ―</p><p>―ケイ。</p><p>死体から視線を外して、アイリーンは無意識のうちに彼の存在を求めていた。</p><p>荷台の外、遥か遠くを見やって。</p><p>―え？</p><p>しかし、その青い目が見開かれる。</p><p>―ケイ？</p><p>先ほどまで、あれほど苛烈に馬賊の別働隊を攻め立てていたケイが。</p><p>―なんで</p><p>今は力なく、サスケの背に縋り付くようにして。</p><p>逆に、十数騎の馬賊に追い立てられている。</p><p>何が起きたのか、わからない。</p><p>だが―普通ではない。目を離した隙に、何かが。</p><p>そんな、</p><p>魔法もある。“竜鱗通し”もある。サスケの速力もある。負ける要素はないはずだ。</p><p>―だから『絶対に大丈夫だ』と信じていたのに。</p><p>混乱するアイリーンを嘲笑うように、ケイは力なく。</p><p>そのままサスケの背中からずり落ちて、泥の中に倒れた。</p><p>そこに、ハゲタカのように群がろうとする馬賊たち―</p><p>―</p><p>アイリーンの頭の中が、真っ白になった。</p><p>ケイッッ！！！</p><p>気がついたときには、アイリーンは馬車を飛び出して走りだしていた。</p><p>ランダールの制止の声にも耳を貸さずに。</p><p>ケイの名を叫びながら。</p><p>―が、単身で隊商を飛び出したアイリーンを、馬賊が放っておくはずもない。四方八方から矢が飛んでくる。</p><p>この―ッ！</p><p>体を捻って極力回避し、避けられないものはサーベルで払い落とす。しかし矢の雨を突破したあとに待ち構えていたのは、弓や槍を構えた馬賊たちだった。</p><p>ぎり、とサーベルを握る手に力が篭もる。</p><p>―邪魔をするな。</p><p>アイリーンの瞳に、剣呑な光が宿る。</p><p>どけえええェェェェッッ！</p><p>余裕というものが全て吹き飛んだ表情で、少女は、吠える。</p><p>だが馬賊は止まらない。全力の突撃。</p><p>激突。</p><p>―サーベルは、一切の躊躇なく振り抜かれた。</p><p>46. 剣閃</p><p>馬に罪はない。</p><p>だが無慈悲なサーベルが唸る。</p><p>褐色の騎馬の首に、びしりと赤い線が走った。</p><p>撒き散らされる鮮血、悲鳴のようないななきを聞き流しアイリーンは駆ける。突進の勢いもそのままに転倒する騎馬―大質量の肉体が大地に叩きつけられる衝撃をブーツ越しに感じ取る。</p><p>騎乗していた馬賊も何かを喚き散らしながら鞍から放り出され、どしゃりと地に落ちた。それに一瞥もくれることなく、アイリーンは眼前を睨む。</p><p>迫る銀色の刃。</p><p>続く一騎が、アイリーン目掛けて容赦なく槍を繰り出す。</p><p>身体を仰け反らせ、紙一重での回避。空を抉る穂先、風圧が髪を揺らす。</p><p>そしてただ避けるだけでなく、槍の柄に左手を添えて思い切り引いた。引き込む動きは、アイリーンに更なる加速を。逆に使い手の馬上での体勢を大きく崩す。</p><p>うわ―</p><p>ぐらりと倒れ込む馬賊の顔面に、右手のサーベルの柄を叩き込んだ。</p><p>ゴリュンッという嫌な感触。砕けた歯の破片が混じるどす黒い血を吐き出し、地面に転がる馬賊。その体を踏みつけて、がら空きになった鞍に飛び乗る。</p><p>どう、どう！</p><p>突然主が入れ替わり混乱する馬を宥めようと、アイリーンは手綱を引いてその制御を試みた。が、すぐに露骨な殺気を感じ取り、鐙に全体重を預けて曲芸師のように馬の左側面にぶら下がる。</p><p>ドッ、ドスッと鈍い音を立て、騎馬の右胴体に矢が突き立つ。ぐらりと倒れる騎馬の下敷きになる前に、アイリーンは素早く飛び下がり距離を取った。</p><p>容赦のない射撃。</p><p>新たに数騎が、複合弓に矢をつがえこちらを狙っている。</p><p>舌打ちしたアイリーンは、さらに駆ける。</p><p>敵の只中に一人。動きを止めることは即ち死を意味する。</p><p>飛来する矢をサーベルで叩き落とし、ちらりとケイの方を見やった。自分と同じように弓騎兵に囲まれ、攻撃されている。アイリーンとの決定的な違いはケイ自身にはそれほど機動力がないことだ。サスケは既に逃がしたらしく、その姿はない。</p><p>しかし遠目にも。</p><p>ケイの身体に幾本かの矢が突き立っているのが、わかった。</p><p>―！！</p><p>目の前が、真っ赤に染まるような錯覚。</p><p>―ああアアアアァァッッッ！</p><p>雑兵に囲まれ思うように動きがとれない現状、それに対する怒り、苛立ち、ケイを心配する気持ち、悲しみ、全てが混ざり合い獣のような叫びが口を衝いて出る。</p><p>テメェらァッ、邪魔なんだよォォッッ！！</p><p>吠える。しかし構うことなく、アイリーンを押し潰そうとするかのように、馬賊が並んで突撃してきた。その間をすり抜けアイリーンは怒りのままに刃を振るう。脚を切り飛ばされた騎馬が地面に転がり、騎手たちがすっ飛んでいく。</p><p>だが、きりがない。</p><p>次から次に騎兵が寄ってくる上に、落馬した馬賊たちもそれぞれの武器を手に、続々と周囲に集まりつつある。</p><p>四方八方から飛来する矢を、まるで剣舞のように回避し、叩き落とし、アイリーンは首を巡らせて戦況を把握しようと努めた。</p><p>馬賊は数を減らしているが、それは隊商側も同じだった。幾つもの馬車が松明のように燃え上がり、矢が突き立ってハリネズミのようになった死体がそこら中に転がっている。護衛の戦士たちも奮闘しているようだが、死兵と化した馬賊の斬り込み要員の気迫も凄まじい。</p><p>―このまま走るか。</p><p>そんな考えも頭をよぎったが即座に打ち消す。確かにアイリーンの全力疾走は下手な馬より速い。だがそれではケイの元に辿り着く頃にはへとへとになっているだろうし、何より敵をそのまま引きつけていくことになる。</p><p>ならば、どうするか。</p><p>―決まっている。</p><p>いつの間にか、矢の雨が止んでいた。アイリーンの四方を取り囲む徒歩(かち)の馬賊たち。盲滅法に矢を放つだけでは仕留められないと察したのだろう。そして矢の雨の中では、戦士たちが白兵戦を挑むことができない。</p><p>つまり、そういうことだ。</p><p>次々に抜刀する草原の民の戦士。</p><p>白日の下で、曲刀がぎらりと輝く。</p><p>アイリーンは、ぎり、と歯を噛み締めた。</p><p>……テメェらが選んだことだ</p><p>そう、これは天秤だった。</p><p>片方には馬賊たちの命。もう片方にはケイの命。</p><p>―比べるまでもない。</p><p>―邪魔をするなら</p><p>サーベルを握る手に力が篭もる。</p><p>びしりと空気が凍りつくような錯覚。</p><p>アイリーンを取り囲む馬賊たちは一様に顔を強張らせた。</p><p>先ほどからの立ち回りで、目の前の少女が只者でないことはわかっている。</p><p>だが、それでも。</p><p>ただの手強い敵という存在から、もう一段階、踏み込んだような感覚が―</p><p>―死ね</p><p>氷のような蒼い瞳が、見据える。</p><p>足元の泥が爆ぜる。</p><p>ひゅぅん、と。</p><p>銀色の光。</p><p>―断ち切る。</p><p>草原の民の戦士、そのうちの一人の首が、刎ね飛ばされた。</p><p>！！</p><p>何の予備動作もなかった。ただ、黒衣と長い金髪が翻ったように見えた。殺気すら感じさせずに、ただ、ゆっくりと傾いていく首無しの体の前で、サーベルを携えた少女の姿だけが、何が起きたかを如実に物語る。</p><p>ぴぃん、と―張り詰めた空気。</p><p>それは、本当に一瞬のこと。</p><p>澄んだ水に一滴、墨を垂らしたかのように僅かな殺気が滲み、</p><p>速い！</p><p>愕然とする傍らの戦士、それが遺言となった。</p><p>再び吹き抜ける黒い風に首を刎ねられる。血飛沫が噴き上がるより速く、アイリーンは次なる獲物を狙う。</p><p>こいつッ！</p><p>アイリーンの前に立ちはだかった若い戦士が、曲刀で一撃を受けようと試みる。だが刃と刃が打ち合わされようとする直前、サーベルの軌道がねじ曲がる。細かな光が目の前で瞬いた。</p><p>曲刀が、宙を舞う。</p><p>―何が起きた。</p><p>まさか、打ち負けたか、と思う。それにしては妙だ。刃と刃が打ち合ったような感覚が、手にない。</p><p>―いや、違う。</p><p>手がない。</p><p>からんからんと地面に転がる曲刀の柄には、それをしかと握る自分の手が。</p><p>呆気に取られる間に、黒衣の少女は眼前にまで迫っていた。痛みすら間に合わない、我に返り予備の短剣に左手を伸ばすが、そこには何もない。何故だ。混乱の局地。ふと見れば、いつの間にかアイリーンの手に収まったそれが、喉元に―</p><p>ぐじゅりと、抉る音。</p><p>水気の混じった呻き声を上げ、若者は喉を無事な手で押さえながら泥土に沈む。それでもアイリーンは止まらない。倒れる者に一瞥をくれることさえない。ただひたすらに、速さを、効率を求める。</p><p>さながら、 DEMONDAL の世界にいた時のように。</p><p>ただあの頃とは、決定的に異なる、必死な形相をその顔に。</p><p>退(ど)けええええェェェッッ！！</p><p>アイリーンの叫びは、もはや悲鳴のようであった。</p><p>吹き荒れる銀と赤の旋風。</p><p>首を切断され、腹を裂かれ、心臓を抉られ―戦士たちは血風の中で散る。</p><p>アイリーンは走る。一度たりとて止まらない、止められない。常に動き、翻弄し、目の前の敵をただ置物か何かのように、無造作に刈り取っていく。</p><p>一瞬で戦士たちの包囲を突破したアイリーンは、ケイの方へ向けてひた走る。</p><p>待てェ！</p><p>この小娘がァ！</p><p>前方から二騎、突っ込んでくる。槍を手にした一騎と弓を構える一騎。</p><p>鈍い殺気。サーベルを振るい、飛来する矢を叩き落とす。</p><p>―自分なら大丈夫だと思ってるのか。</p><p>何の根拠もなく？　まだわからないの、とアイリーンの口の端に冷たい、そしてあまりにシニカルな笑みが浮かんだ。</p><p>ばしゃっと泥を跳ね上げながら、逆に加速したアイリーンは真正面から突っ込んだ。血塗れのサーベルを躊躇うことなく口に咥え、両手で腰のベルトから投げナイフを抜き取る。</p><p>投擲。</p><p>飛来する銀色の光が、寸分違うことなく二頭の騎馬の額に突き立つ。</p><p>悲鳴もなく倒れる騎馬と、空中に投げ出される騎乗の二人。</p><p>アイリーンはすれ違いざま、くるくると空中に舞う。投げ出された二人をまとめて叩き切り、そのまま減速することなく駆け抜ける。</p><p>背後からは蹄の音と、複数の足音。性懲りもなく追い縋ろうとしているらしい。</p><p>苛立ちは、頂点に達しつつあった。</p><p>視界の果てでは、騎馬に取り囲まれたケイが矢を受けながらも奮闘しているのが見える。どうやら敵の複合弓を奪い戦っているようだ。なぜ”竜鱗通し”を使わないのか。</p><p>いや。</p><p>今はそんなことはどうでもいい。</p><p>一刻も速く、ただ速く―</p><p>！？　あれはッ</p><p>しかし、それ以上、アイリーンが走る必要性はなくなりそうだった。</p><p>前方から、褐色の毛並みの騎馬。</p><p>空馬だ。誰も乗せていない。</p><p>主を失った馬賊のものかと思ったが、違う。特徴的な額当て。</p><p>サスケ！！</p><p>ぱっかぱっかと駆けてくるのは何を隠そうサスケだった。 ぼくの力が必要だね！ と言わんばかりの様子だが、ふとその顔色が曇ったように感じられる。</p><p>逃がさんッ！</p><p>弟の仇ッ！</p><p>背後から追い縋る馬賊たちのせいだ。 飛び道具はちょっと…… と弱気なサスケを尻目に、アイリーンは急停止して迎撃の構えを取る。</p><p>追手は三騎の弓騎兵と、徒歩の戦士が五名ほど。少々手間が掛かるがやれない相手ではない―と表情を引き締めるアイリーンだったが、ふと、そのさらに背後を見やり苦い笑みを浮かべた。</p><p>―遅いぜ、まったく</p><p>重い、蹄の音。そして馬賊たちの悲鳴。</p><p>なんだッ！？　ぐおッ</p><p>追手の弓騎兵、最後尾の一騎が振り返ろうとした矢先、その胸に突然槍が生(・)え(・)る(・)。力なく地に落ちた馬賊の胸から、槍を引き抜いて回収する投擲手。</p><p>『―済まないな、準備に手間取った！』</p><p>アイリーンを追うように後方から駆けてくるのは―数騎の重装騎兵。</p><p>ピョートルと、その仲間たちだった。</p><p>それぞれが跨る乗騎は胴体のほとんどが鱗鎧(スケイルメイル)で覆われ、額当てなどもつけられて防御力がかなり強化されている。重すぎて馬の負担が激しく普段は使っていられないが、対弓騎兵を想定して用意だけはしていたのだろう。斥候に出ていたときとは違い、ピョートルも兜をかぶり板金仕込みの鎧をつけ、予備の槍を馬の鞍に備え付けている。</p><p>ピョートルの馬上槍と仲間たちの追撃により、アイリーンを追いかけてきていた馬賊たちは瞬く間に殲滅された。</p><p>『ありがとう、助かる！』</p><p>サスケに飛び乗りながら、礼もそこそこにアイリーンはケイの方へと駆ける。まさに一刻一秒が惜しい。そんな状況。それをわかっているだけに、ピョートルも小さく頷いただけだった。</p><p>―ただ、やかましくなる周囲に表情を険しくする。</p><p>『お前たちも行け。ここは俺が抑える』</p><p>馬上槍を構え、周囲の戦士たちにアイリーンを示す。隊商から飛び出した重装騎兵と腕利きの軽戦士。それが別働隊を殲滅した異邦の弓騎兵を援護しに行くとなれば、馬賊たちが黙って見送る道理はない。</p><p>『おう！　お前も死ぬなよ！』</p><p>『嬢ちゃんだけ放っとくわけにはいかんわなァ！』</p><p>『あれだけ活躍したヤツ(ケイ)を見捨てるのも癪だからな！』</p><p>ピョートルについてきたのは、奇しくも数日前、ケイがハウンドウルフを仕留めたと主張した際に検分に同行した三人組だった。</p><p>アイリーンの後を追って駆ける三騎を見送り、ピョートルもまた走り出す。</p><p>飛来した矢を槍ではたき落とし、睨むは前方。先ほどから散発的に矢が飛んでくるが、馬賊の複合弓ではよほど当たりどころが良くない限り馬の鎖帷子を貫通できないようだ。</p><p>『ふん……貴様ら、生かして通さんぞ』</p><p>馬上、次々に抜刀する馬賊たちを見て、ピョートルは不敵に笑う。</p><p>ケイの援護に向かうアイリーンたちを背に、ピョートルの雄叫びは金属が打ち合わされる激しい音にかき消された。</p><p>†††</p><p>クッ、ソッがァ</p><p>ぜえ、ぜえと肩で息をしながらケイはふらふらと足元もおぼつかない様子だった。敵の死体から奪った複合弓を手に、周りを取り囲む馬賊たちを睨む。</p><p>既に、全身には何本もの矢が突き立っている。背中に数本、太腿に三本、胸に二本、両腕にそれぞれ二本ずつ。包囲する馬賊たちも、 なんでコイツ倒れないんだ と言わんばかりに引き攣った顔をしていた。</p><p>それもそうだろう。普通ならば倒れるどころか死んでいる傷だ。ケイが死なずに済んでいるのは、致命的な箇所をかばっていることもあるが、ひとえに高等魔法薬(ハイポーション)のお陰だった。</p><p>突然、身体が動かなくなってサスケから落ちてしまった直後。馬賊たちの追撃を予想したケイは、あらかじめある程度のポーションを口に含んでおいたのだ。</p><p>倒れたケイに数本矢を打ち込み、止めに槍を突き刺そうとした馬賊だったが―ケイは逆にこれを利用した。刺される寸前で無理やり身体を起こし、逆に槍を引っ張って落馬させ長剣で逆襲。ついでに付近の馬賊数名も弓矢の餌食とした。</p><p>そこからは、ケイ一人に対して四方八方からの矢の雨だ。幸いなのは、ケイが仕掛けた騎射戦のせいで、馬賊たちが既にかなりの矢を使い切っていたことだろう。</p><p>外傷に対して経口摂取のポーションがどれほど有効かは不明だったが、土壇場で試す羽目になってしまった。結論としては、悪くない。少々治りが遅いが肉体の損傷はじわじわと修復されつつある。少なくとも、燃えるような激痛(ジュワワワワ)を回避できるというだけでも価値はあるだろう。</p><p>今は傷が完全に治らないのを承知で、敵を不気味がらせるために矢が身体に刺さったまま放置している。背中の矢に関しては、自力だと抜けないということもあるが。</p><p>（しかし、困った）</p><p>身体が思うように動かない。まるで熱病にでも冒されたかのようだ。</p><p>小さい頃、院内感染で患った肺炎を思い出す。体を蝕むだるさ、熱っぽさ、そしてズキズキと体全体が痛む感じ―全てがアレに似ている。かかったことはないが、インフルエンザもこういった感じなのだろうか。</p><p>原因は推測できる。おそらく告死鳥(プラーグ)の契約者による邪眼だ。 DEMONDAL に準拠した世界において、このような症状をもたらすものはこれしかない。</p><p>身体の不調は身体能力を低下させる呪い(デバフ)。全身の痛みは継続的なダメージだろう。先ほどからずっと、遠く離れた木立に赤い光を感じている。告死鳥の邪眼は目視した相手に直接作用し、視線が通る限り回避不能だが、邪眼の対象となった人物からは発生源を赤い光として知覚できる。おそらく、あの木立に邪眼の使い手が潜んでいる―しかし反撃しようにも、筋力が低下しているせいで現状のケイでは”竜鱗通し”を引くことができなくなってしまった。</p><p>幸いなことに、呪い(デバフ)で身体能力が低下しても尚、並の成人男性程度の力はあるので馬賊たちの複合弓ならば辛うじて扱うことができた。それが、ケイが弱っても馬賊たちが攻勢を仕掛けて来ない理由の一つだ。先ほどから数回、馬賊たちは騎馬の突進でケイを轢き殺そうと試みているが、そのたびに弓の連射でこれを撃退していたのだ。</p><p>その後はケイが失血死することを期待して、ぐるぐると周囲を回りながらひたすら矢を打ち込んでくるだけだ。リーダーシップが取れる者も勇敢な者も、ケイに粗方狩られている。そんな消極的な戦法しか取れない、臆病な連中だけが残されていた。</p><p>（だが、ジリ貧だ）</p><p>ポーションも残り少ないし、流石に背中の矢傷が洒落にならないことになっている。幾ら傷が治ると言っても矢が刺さったままでは限界があった。さらにマントでどうにか隠しているが、ケイも残りの矢が心許なくなりつつあり―このまま敵も弾切れになり、白兵戦を挑まれればかなり不味いことになる。多勢に無勢だ。</p><p>先んじて、まだ元気があるうちに接近戦を仕掛けてきた相手を斬殺したので、それを恐れて近づくことに抵抗があるらしいが―と、ケイは傍らに転がる死体を見やった。呪い(デバフ)も考慮して、長剣でとにかく力任せにぶっ叩いた結果、革兜ごと頭を叩き割ってしまい、まるでザクロのような酷い有様になっている。</p><p>と、再び射撃。</p><p>一本の矢は頭突きのようにして兜で弾き、数本は篭手と弓で逸し、最後の一本は胸で受ける。胸板の部分の厚い革が大幅に勢いを殺し、その下の鎖帷子に食い込むが、貫通するほどの威力はない。ただドスンッという衝撃のせいで、 ぐうぅ といかにも苦しげな声が漏れた。</p><p>いい加減に死ねええええッッ！</p><p>それを好機と見たか、背後から曲刀を抜いた馬賊が仕掛けようとするが、ケイが複合弓を構えると慌てて反転していく。</p><p>反転しようがしまいが弓の射程範囲内ではあったのだが、矢傷よりも先に邪眼のせいでダメージの蓄積が危険な領域にまで達しつつある。視界がぼやけて腕が震えるせいで、ろくに狙いを合わせることもできない。</p><p>（いかん……このままだと、呪いに削り殺される……）</p><p>意識が薄れていく。馬賊の浴びせかけてきた矢にもロクに対処できず、太腿や肩に鋭い痛みが走る。</p><p>だが、そのとき、新たな蹄の音が徐々に大きくなるのを、ケイは感じ取った。</p><p>ケ―イッッ！</p><p>そして、そこに聞き慣れた声も混じる。ハッと顔を上げれば、サスケに跨がったアイリーンと、その後ろを追随する重装騎兵の姿が目に入った。</p><p>ああ―と。心の奥底が、否応なくほぐれるのを感じる。安堵の溜息。</p><p>が、対するアイリーンは安堵と程遠いところにあった。矢が刺さってボロボロのケイを見て、アイリーンの眼尻が吊り上がる。それはまさしく悪魔か鬼かという形相で―少なくとも今までケイが見てきた表情の中で、一番おっかないものだった。</p><p>貴ッ様ッらァァァァアァッッ！</p><p>激昂したアイリーンが、サスケの鞍の上に立ったかと思うとそのまま跳躍する。</p><p>軽業、と呼ぶにはあまりにもアグレッシブな動きで馬賊の馬に飛び移ったアイリーンは、そのまま容赦なく騎手の首をサーベルで刎ね飛ばした。</p><p>それを見て、顔を強張らせたのはケイだ。</p><p>あまりの躊躇いのなさに―察する。既にもう、彼女は何人か斬っているのだと。</p><p>そして、愛しの人にそれを強いた状況に、馬賊に―ふつふつと暗い怒りが湧き出てくるのを、ケイは感じた。</p><p>『よぉ、英雄。生きてるか？』</p><p>『そう簡単にはくたばらねえようだな！』</p><p>『助太刀にきたぜェ！』</p><p>少し遅れて駆けつけた重装騎兵の三人組が、笑顔で何事か話しかけてきたがロシア語なのでわからない。しかし悪い内容ではないだろうと思ったケイは、疲れた笑みで スパスィーバ とだけ返した。気持ちは伝わったらしく、三人組はガハハと笑いながら残り少なくなった馬賊たちを追い散らしていく。複合弓から放たれる矢を物ともせず、得物で払い落とし、あるいは鎖帷子や鎧で弾き飛ばしながら突撃する様は、今のケイからすれば軍神のように頼もしかった。</p><p>ケイ！　大丈夫か！</p><p>血塗れのサーベルを片手に、サスケから飛び降りたアイリーンが駆け寄ってくる。</p><p>どうにか、な</p><p>ひどい怪我だ……ごめん、ごめんよケイ</p><p>先ほどまでの般若のような表情から一転、泣きそうな顔をするアイリーンにケイは思わず苦笑した。</p><p>だが、何よりもありがたかった。色々と思うところや、言いたいことはあったが。</p><p>助かった、アイリーン。ありがとう</p><p>これ、ポーション飲んでんのか？　とりあえず、背中の矢抜くぞ</p><p>頼む。……ンぐッ</p><p>ズチュッ、と矢を引き抜かれる痛みに、思わず顔をしかめる。アイリーンは至極申し訳無さそうだったが、ゆっくりやっても痛いだけなので、手早くケイの全身から矢を引き抜いていった。</p><p>腰のポーチからポーションの瓶を取り出し、さらに飲み込んで体力の回復を図る。</p><p>しかし、まだ厄介な敵がいるぞ</p><p>ケイは木立を睨む。安心するにはまだ早い。この期に及んでも邪眼の呪い(デバフ)は解けていないのだ。邪眼を止める手段は限られている。視線を遮るか、術者を殺すかの二つ。</p><p>現に、マントを掲げることでかなり呪いを軽減はできているが、マントもケイの装備品の一つなので呪いを遮断する効果としては今ひとつだ。せめて衝立なり大盾なりを壁にできれば、ほぼ完全に視線をブロックできるのだが。</p><p>厄介な敵？</p><p>告死鳥だ。それもかなり高位の</p><p>デバフのせいで”竜鱗通し”が使えない、と言うとアイリーンはそれで全てを理解したようだった。</p><p>どこからだ？</p><p>あの木立だ</p><p>オレが片付けるッ</p><p>ピィーゥィッと指笛を鳴らしたアイリーンが、サスケを呼んで駆け出そうとするも、不意にその場でガクッと膝をついた。</p><p>代わりに、スッとケイの身体が軽くなる。</p><p>ぐっ、あっ、クッソ、キツい……！</p><p>ふらふらと立ち上がるアイリーン。どうやら敵は呪いの対象をケイからアイリーンに変更したらしい。咄嗟に足元に転がる”竜鱗通し”を拾い上げるケイだったが、その瞬間今度はケイに呪いが飛んで来る。</p><p>ぐっ……</p><p>チクショウ、あの木立だな！？　それはわかるのに……！</p><p>入れ替わりで呪いから解放されたアイリーンが、悔しげな声を漏らす。</p><p>オレたちの魔術耐性を完全に貫通するなんて……</p><p>胸元の魔除けの護符(タリスマン)を押さえながら、アイリーン。</p><p>バリア型じゃないのが裏目に出たな</p><p>唸るようにして、ケイも答える。タリスマンには、『バリア型』と呼ばれる一定のダメージを防ぐ使い捨てタイプと、持ち主の魔術耐性そのものを高める永続型の二つが存在する。ケイとアイリーンが使っているのは、後者だ。バリア型よりも永続型の方が貴重で高価だが、そもそもケイたちは肉体(アバター)の耐性が強いため、そちらを強化した方が効率が良かったのだ。</p><p>だが、今相手にしているような、自分たちよりはるかに高位の魔術師に対しては、効き目が薄い。</p><p>くっ、どうするケイ！？</p><p>アイリーンがケイを見やる。先ほどから、邪眼は重点的にケイに向けられているが、アイリーンが動こうとした瞬間にそちらへ切り替えられている。幸いなことに邪眼の性質上、同時に二人は『視れない』ようだが。</p><p>……アイリーン、真っ直ぐ突っ込むんじゃなくて、横から行くのはどうだ</p><p>胸元をごそごそと漁りながら、ケイは顎で円を描くようにルートを示してみせる。</p><p>……なるほど、視線を戻すのに時間がかかるように……だな？</p><p>俺が矢を打ち込むのが先か、アイリーンが斬り込むのが先か、だ</p><p>ケイの矢が本命だろう？</p><p>まあな</p><p>首のチェーンを引っ張り、自前のタリスマンを出したケイは、ニヤリと笑う。</p><p>どうせ役に立たないんだ。一発お見舞いしてやるさ</p><p>タリスマンは、優れた魔術触媒にもなるのだ。</p><p>木立までは遠い。ここから視線の主を精確に射抜くのは、流石のケイでも不可能だが―魔術の補佐があれば、話は別だった。</p><p>手伝ってくれるか？　アイリーン</p><p>言われるまでもねえ、よッ！</p><p>ケイが矢筒に手を伸ばすと同時、アイリーンが地を蹴り風のように駆け出す。</p><p>木立から注がれる邪眼が、当惑したように、アイリーンと自分との間でブレるのを確かに感じ取り―</p><p>ケイはより一層、獰猛な笑みを濃くした。</p><p>次話で決着です。</p><p>47. 反撃</p><p>―Siv.</p><p>一言、その名を喚ぶと、風が応えた。</p><p>大気の鳴動。湿り気を帯びた雨の残り香。</p><p>淀んでいた空気が、動き出す。</p><p>ぬかるんだ大地に膝を突き、泥と血に塗れたケイを慰撫するように、清浄な風が吹き抜けた。</p><p>くすくすくす、と微かに響く笑い声。</p><p>あどけなく、それでいて不釣り合いなまでに妖艶な。</p><p>風が渦を巻く。足元の水たまりがさざなみを立て、映り込んだ空が、何かを待ちわびるようにうち震えた。</p><p>自身の内面、奥深くに、魔力の励起を感じ取る。</p><p>振り仰げば、灰色の雨雲が散り散りに浮かぶ、まだら模様の蒼い空。</p><p>その澄んだ水色の世界に、ひとりの乙女を幻視する。</p><p>羽衣をまとい、艶やかに笑う風の精霊の姿を―</p><p>―</p><p>ケイもまた、微かに笑みを浮かべ、前方の木立へと視線を転じた。</p><p>薄闇の奥にちらつく赤い光。</p><p>全身を苛む疼痛―魔術師の邪眼がケイの身を焦がす。</p><p>放置すれば死に至る、邪悪な呪いだ。</p><p>が、現時点ではケイに残された唯一の反撃の導でもある。</p><p>（自分はここに居るぞ、と喧伝しているようなものだ）</p><p>視線を媒介し、呪い(デバフ)と死を撒き散らす告死鳥(プラーグ)の邪眼。それは万能のように思えるが、術を受ける者はその瞳の輝きを赤い光として知覚できる―つまり術者の居場所が露見する。</p><p>これがただの戦士であれば、敵の位置がわかったところで、手も足も出ないだろう。普通に弓を射たり石を投げたりして撃退できる距離ではない。</p><p>だが、魔術の使い手であれば話が別だ。</p><p>この光の存在により―敵を定義することができる。</p><p>少しでも呪いを軽減するために、壁のように掲げたマントの裏側で、ケイは胸元から護符(タリスマン)を引き抜いた。</p><p>Siv. Mi dedicas al vi tiun katalizilo.</p><p>魔除けの文言が刻まれた銀の円盤に、そっと口付ける。</p><p>Vi vidos la ligno. Ruĝa lumo, mi difinis kiel malamikon.</p><p>パキンッ、と音を立ててタリスマンがひび割れ、砕け、風に散って消えていく。</p><p>Mia pafaĵo estos gvidita de la vento. Ĝi mortigos la malamiko.</p><p>矢筒から矢を引き抜き、“竜鱗通し”につがえる。ふわりと、風が首筋を撫でる感触があった。周囲に満ちていた無音のざわめきが収束し、空気がぴんと張り詰める。</p><p>準備は整った。後は―</p><p>―アイリーン</p><p>視線を横にずらせば、地を這うように低い姿勢で疾駆するアイリーンの姿。</p><p>ケイに負けず劣らず、泥と血で汚れた姿だ。白磁のように滑らかな肌も、輝かんばかりの金髪も、今やくすんでしまっている。そしてその後ろには、ぱっかぱっかと蹄の音を響かせながら、 僕に乗りなよ！ という顔で追随するサスケの姿もあった。邪眼の脅威を知らないサスケは親切心からアイリーンを追いかけているようだ。邪眼を受ければ転倒・落馬の危険性があると承知しているアイリーンは、自力で走り続けているが。</p><p>そう―敵の魔術師の注意を引き付けるための陽動。一瞬、ほんの一瞬でいい、視線が外れて呪い(デバフ)から解放されれば、ケイは本来の筋力で”竜鱗通し”を引ける。</p><p>弱体化した現状の腕力でも引ける、馬賊の複合弓を使うことも考えたが、木立までの距離を考えると今ひとつ威力が足りない。敵の魔術師を確実に仕留めるならば、やはり”竜鱗通し”を頼りたかった。</p><p>また、このままアイリーンが殴り込みをかけ、直接魔術師の息の根を止めるという手もあるが、木立の中にまだ伏兵がいる可能性を考えるとリスクが高く、そんな危険な目には遭って欲しくなかった。</p><p>とりわけ、彼女(アイリーン)には。</p><p>―この手で、仕留める。</p><p>ケイは祈るような気持ちで、少女の背中を目で追う。</p><p>Ураааааааа(ウラアアアアアアアア)!</p><p>そんなケイをよそに、馬賊と雪原の民の戦いは激化していた。</p><p>隊商からケイの援護にやってきた戦士たち、重装騎兵の三人組が雄叫びを上げ、馬賊と正面から激突する。勢いの乗った重装騎兵の突撃(チャージ)を受け、回避しそこねた馬賊が馬上から吹き飛ばされた。</p><p>ケイの活躍で大きく数を減じたとはいえ、ここに残る馬賊はまだ二十騎近い。多勢に無勢の現状だが、重装騎兵三騎は健闘していた。</p><p>いや、むしろ現時点では圧倒していると言ってもいい。</p><p>軽装弓騎兵の馬賊たちは、重装騎兵の突撃を止める術を持たないのだ。雪原の民、隊商護衛の戦士たち。乗騎の全身を鱗鎧(スケイルメイル)で守り、自身も鎧と盾で防御している。馬賊たちの複合弓ではなかなか有効打を与えられず、距離を取れば矢は弾かれ、威力を補うため接射を試みれば馬上槍の餌食となって散っていく。</p><p>結果、程よい交戦距離を保とうと走り回る馬賊と、それを追い立てる重装騎兵という構図が出来上がる。</p><p>無論、いつまでもこの状況が続くわけではない。時間は馬賊の味方だった。このまま疾走を続ければ、重装の字の如く、装備に圧迫された騎馬が早々に息切れを起こすだろう。そうなれば数の多い馬賊が有利。突撃(チャージ)の勢いを失ってしまえば、重装騎兵など鈍亀に過ぎないのだから。</p><p>それを、この場の全員がわかっていた。故に、一時的に圧倒している重装騎兵三人組は徐々に焦りの色を濃くし、逆に軽快な機動力を活かしてのらりくらりと突撃を躱す馬賊たちは、どこか余裕のある様子を見せている。</p><p>ただ、その条理から逸脱した存在が―数の差をひっくり返し、この状況を打開できるだけの切り札(ジョーカー)が、ここにあった。</p><p>ケイだ。</p><p>魔術師の呪いから脱し、本来の異常な攻撃力(ドラゴンスティンガー)と機動力(サスケ)を取り戻せば、残る馬賊など瞬く間に殲滅できる。</p><p>殲滅してしまう。</p><p>しかしそのことを―ケイが魔術師の邪眼により、一(・)時(・)的(・)に(・)ダウンしているということを、正確に把握している者は少なかった。隊商護衛の重装騎兵三人組は、ケイが身体的・体力的な問題でこれ以上戦えないと考えており、それは馬賊も同様だった。その判断を咎めることは、誰にもできないだろう。そもそも馬賊側も、『御大将』と呼ばれる告死鳥の契約者からは『邪眼』の存在を知らされておらず、またあれだけ矢を打ち込んだケイが、まさか高等魔法薬(ハイポーション)でほぼ快復しているなど知りようがないのだから。</p><p>故にケイとアイリーンを放置した上で、重装騎兵を相手にだらだらと―時(・)間(・)稼(・)ぎ(・)を続けている。</p><p>それは、常識的には最善手だが、この状況ではどうしようもないほどの悪手だった。</p><p>何故あの男に止めを刺さぬ！</p><p>現状を正確に把握する数少ない人物―木立に潜む魔術師、『御大将』と呼ばれる邪眼の使い手は、視線をケイに固定したまま激昂した。</p><p>まずは、あの重装騎兵を片付けるのが定石かと……</p><p>今しがた、邪眼については説明を受けたが、ケイの狙いまでは把握できていない馬賊の男―襲撃隊の隊長・ローメッドは、おずおずと自身の考えを口にした。</p><p>反射的にその愚かさを罵りそうになった鴉の魔術師だが、嘴をつぐんだ。邪眼についても、予想されるケイの『奥の手』についても、自身の説明不足の責任はあると考え直したからだ。</p><p>……今一度言う。あの男は只者ではない。尋常ならざる腕前の戦士であると同時に、風の大精霊と契約した魔術師でもあるのじゃ</p><p>何ですと！？</p><p>ぎょっとした顔で、ローメッドは思わず遠方のケイを凝視した。ケイの弓の凄まじさは嫌というほど知っていたが、魔術に関しては初耳だ。</p><p>そ、それはまずいのでは……！</p><p>落ち着け、案ずるでない</p><p>ローメッドのあまりの狼狽ぶりに、鴉はたしなめるような口調で言う。</p><p>確かに、契約する精霊の『格』はなかなかのものじゃが、一人の術者として見れば並以下よ。分不相応、と言うべきかの。若さ故じゃろうが、流石に魔力が弱すぎる。心配せんでも大した術は行使できんわい</p><p>ただ、と言葉を続ける。</p><p>先ほど、彼奴の周囲に魔力の動きを感じた。触媒を捧げて、何らかの術を発動しようとしておるようじゃ。木立ごとわしらを吹き飛ばすような大魔術は発動できんじゃろうが、何かを企んでいるのは事実……</p><p>ケイに邪眼を向けたまま、先ほど走り出した金髪の少女(アイリーン)の姿を脳裏に思い描く。</p><p>迂回してこちらに向かってくる小娘は、その布石じゃろう。おそらくわしの注意を引き付けるための陽動―つまりわしが邪眼を一瞬でもそちらに逸らすことを期待しておるはずじゃ</p><p>老獪な魔術師は、ケイたちの意図を看破していた。びっくり箱の中身まではわからないが、その存在を確かに見抜いている。</p><p>ローメッド、わしは目が離せん。あの小娘には対処できるか</p><p>大した術ではないだろうが、わざわざ発動させる隙を与える必要もない。鴉は、しわがれた声でローメッドに尋ねる。</p><p>対して、馬賊を指揮する男は、一瞬返答に詰まった。先ほどアイリーンが駆けつけてきた際の、馬から馬に飛び移って騎手の首を刎ね飛ばした姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。</p><p>あの身体能力は、驚異的であった。対して、木立に残る戦力は怪我人ばかり。</p><p>だが―と周囲を見回して、ローメッドは頷いた。</p><p>大丈夫です。一筋縄ではいかんでしょうが、数で押せば難しくないかと</p><p>一口に怪我人と言っても、起き上がれない重傷者から腕を痛めた軽傷者まで、怪我の程度は様々だ。ローメッド自身も左手を包帯で吊っているが、利き腕は無事だ。片手で剣を振るうのに支障はない。</p><p>故に、曲芸のような剣の使い手でも、あの程度の少女であれば、大の男で取り囲めば何とかなる、と判断した。</p><p>―不幸があるとすれば、木立から隊商までかなり離れており、またケイの騎射に気を取られていたせいで、アイリーンの大立ち回りが見えていなかったことか。</p><p>うむ。ならばそちらは任せた</p><p>いずれにせよ、ローメッドはそう判断し、鴉の魔術師はそれを認めた。</p><p>よし、行くぞ。剣が取れる者は俺についてこい、あの小娘を始末する</p><p>抜剣しながら木立を飛び出していくローメッドに、数人の軽傷者が続く。</p><p>樹の枝に止まったまま、視界の端にそれを見送った鴉は、顔にこそ出ないものの胸中で意地の悪い笑みを浮かべた。</p><p>何を企んでいるかは知らんが、妙な真似はさせん</p><p>実際のところ、『邪眼』の魔力の消費は激しい。並の使い手ならば数十秒も使えば枯死してしまうだろう。しかし何事にも例外はある、とりわけこの場に存在する『鴉』の術者にとって、それは大した負担ではなかった。</p><p>また、『普通』を持ち出すならば、これだけの長時間に渡り邪眼を受けても、生命力が尽きないケイも異常と言えば異常だ。抵抗しているのか、魔除けでもあるのか、あるいは単にしぶといだけか―鴉の術者の魔力と、ケイの耐久力の根比べ。これはこれで乙なものだ、と不遜な笑みを濃くする。</p><p>そのまま、そこで息絶えるがよい</p><p>ぎらりと、その赤い瞳が、妖しい光を強めた。</p><p>圧力をいや増す邪眼にケイが耐える一方で、アイリーンは木立から数人の戦士が飛び出してくるのに気付いた。</p><p>ところどころ包帯を巻いたり、腕を吊ったりしているのを見るに、負傷兵の集まりといったところか。木立の中にはおそらく、程度の差こそあれ同じような怪我人が詰めているのだろう。姿を現した負傷兵の他に、弓の使い手が潜んでいる可能性も踏まえて、アイリーンは今一度木立に注意を向ける。</p><p>こちらに向けて駆けてくる負傷兵たちを前に、焦りもしないが油断もしない。</p><p>―ましてや、手加減など。</p><p>ふっ、とアイリーンは身体から力を抜き、全力疾走から速度を緩める。それを見て、ローメッドたちは相手が怖気づいたのかと錯覚した。厳しい表情は、あるいは顔が緊張で強張っているためか、と。同時に、血生臭い戦場に似つかわしくない、アイリーンの可憐な美貌に、見惚れる。</p><p>その隙を突いて、アイリーンの動きの『質』が変わった。</p><p>ただ速度を稼ぐための直線的な動きから、なめらかな戦闘用の機動へ。</p><p>右手のサーベルをゆらゆらと揺らしながら、重力を感じさせない軽やかな足取りで距離を詰める。</p><p>右か、左か、あるいはこのまま突っ込んでくるのか、ただ地を駆ける、その一挙手一投足に絶妙なフェイントが織り交ぜられている。アイリーンを取り囲むように散開するローメッドたちは、どう仕掛けたものか迷い、互いに目配せしあう。</p><p>そんな彼らを冷たい視線が撫で―そのうち一人にぴたりと定まった。</p><p>アイリーンの左手から、目にも留まらぬ速さでナイフが投擲される。</p><p>艶消しの黒塗りの刃が、ほんの一瞬だけ、アイリーンから視線を逸らした男の喉に突き立った。</p><p>ごフっ……</p><p>何が起きた、と驚愕の表情で、血の噴き出す喉を押さえた男が倒れる。アイリーンの右手のサーベルに気を取られ、投げナイフの存在に全く気づけなかったローメッドは、理解が及ぶやいなや心胆を寒からしめられた。</p><p>―この少女は、危険だ！</p><p>見た目に惑わされれば食い殺される、と本能が警鐘を鳴らす。しかし遅すぎた。</p><p>無言のまま、サーベルを振るうアイリーンが、肉食獣のように男たちへ襲いかかる。華奢な見かけとは裏腹に、全身のバネを活かした、ぐんっと伸びるような斬撃が男の一人を捉える。</p><p>革鎧の隙間、胸部と腰部の継ぎ目が、ばっさりと斬り裂かれる。</p><p>―ああああああアア！</p><p>剣を放り出し、一拍遅れて飛び出た内臓を両手で抱えるようにして、絶叫した男が泥に沈む。アイリーンは既に新たな標的を見定め、サーベルを振るう。硬直していた若い戦士の首が刎ね飛ばされる。</p><p>もはや、恐怖すらも感じられない。ただ己が生き残るために、ローメッドはアイリーンに打ちかかっていく。</p><p>だがいざ剣を振り下ろそうとしたところで、心が挫けそうになった。サーベルを手に佇むアイリーンに、隙がない。何処にどう打ち込んでも、反撃を受けて斬られる自分しかイメージできなかった。</p><p>対峙して初めて分かる、隔絶した実力。それを相手取らねばならない理不尽に、怒りにも似た感情が湧き上がる。だがそれに駆られて猪突すれば、待ち受けるのは死。</p><p>せめて自分が注意を引いている間に、他の仲間が仕掛ければ―</p><p>僅かな希望。だが数の差はアイリーンも承知していた。相手の出方を待つという選択肢も、必要性も、アイリーンにはなかった。</p><p>仕掛ける。</p><p>踏み込み、滑るようにして接近する。ローメッドは一瞬で消失した間合いに驚愕し、どうにか牽制しようと右手の曲刀を振るった―いや、振るおうとした。</p><p>その瞬間に、アイリーンの姿が消える。</p><p>（……左！）</p><p>視界の端。銀色の光。気づいた。そして理解した。ああ、ダメだ。左手は包帯で吊っている、死角、対処できない―</p><p>その喉を、氷のように冷たく、それでいて燃えるような感覚が突き抜け―そこで意識が途切れた。</p><p>（……ええい、何をしておる！）</p><p>アイリーンに斬られた男たちの悲鳴は、木立にも聞こえていた。刃と刃を打ち合わせる音は響かず、ただ断末魔が上がり、徐々に聞こえる声が減っていく。一方的な展開ということだった。</p><p>わしは目が離せぬ。どうなっておる！</p><p>隊長が、やられました！</p><p>ケイに邪眼を向けたまま尋ねると、側に控えていた重傷者が悲痛な声で答える。</p><p>（あの小娘も、それほどまでの使い手か！）</p><p>ローメッドは、襲撃隊の隊長を担うだけあって、剣も弓もかなり腕が立つはずだ。それが、左手を負傷していたとはいえ、仲間を伴ったまま一蹴されたとなると―その事実に驚きつつ、流石に不味いという気持ちを強くする。ただ敵が木立に向かってくる程度ならばどうということはないが、それほどの使い手となると―</p><p>……チッ！</p><p>ここに来ては致し方なし、鴉の魔術師は決断した。</p><p>ケイから視線を引き剥がし、邪眼の標的を変更する。</p><p>ぐっ―！</p><p>ちょうど、残る数人に打ち掛かろうとしていたアイリーンは、木立から向けられた赤い光に苦しげな声を漏らした。強烈な、先ほどよりもさらに力を増した邪眼。身体から力が抜ける感覚があり、思わずその場でたたらを踏む。</p><p>今だ、やれッ！</p><p>それを好機と見た男たちが、剣を振り上げて一斉に襲いかかる。アイリーンも飛び退ろうとするが、全身を焼く疼痛のせいで思うように動けない―</p><p>ブルルォォッ！！</p><p>そこに、褐色の影が割り込んだ。</p><p>馬賊の一人が、吹き飛ばされる。</p><p>―サスケ！</p><p>飼い主(ごしゅじん)の一人を襲われ、怒るサスケが男たちに襲いかかった。暴れ馬を数人の、それも怪我人が御すことなどできようか。</p><p>しかもサスケは、ただの暴れ馬ではない。</p><p>ぐぁ―！！</p><p>横合いからサスケに剣を突き立てようとした男が、血飛沫を上げて倒れ込む。サスケの前脚、かかとの部分から骨のような刃が飛び出し、すれ違いざまに男の胴体を切り裂いたのだ。</p><p>―バウザーホースじゃと！！</p><p>さしもの老獪な魔術師も、今度こそ呆気に取られた。猛り狂う、馬の形をした魔物の姿を、本来ならばこの地方にいるはずのない存在を、思わず凝視する。</p><p>その、間隙。</p><p>本来ならば、アイリーンを牽制するため、一瞬だけ視線を逸らすつもりだったのだ。</p><p>―Ekzekuciu(執行せよ).</p><p>その呟きが、届いたわけではない。</p><p>だが、蒼空にカァンッと響き渡る快音、そして大気を揺るがす魔力の波動。</p><p>―しまった！</p><p>慌てて視線を戻せば、矢を放ち終えたケイが、残心の姿勢でこちらを見ている。</p><p>空へ打ち上げられた矢―それを取り囲むように渦を巻く、風の精霊の魔力を感知した鴉の術者は―</p><p>―ハハッ！　何かと思えば、子供騙しか！</p><p>むしろ、嗤った。</p><p>ケイが放ったのは、風の精霊(シーヴ)が誘導する魔法の矢だ。</p><p>魔法の矢、と言っても、目標を緩やかに追尾するというだけで、この場合は鴉の術者を精確に射抜く以外の意図はない。矢そのものは代わり映えがないので、特に追加効果もない地味なものだ。</p><p>術の発動後の魔力の余韻と、矢を取り囲む精霊の有り様を感知し、術の性質を看破した鴉は、そうであるが故に嗤ったのだ。</p><p>（もっと小賢しい術を仕掛けてくるかと思っていたが……他愛もない。ただの誘導術式とはな。期待外れじゃのう）</p><p>邪眼を止め、枝からひらりと飛び降りた鴉は、樹の幹の裏側に身を隠した。</p><p>付与された術は、ただ矢を誘導するだけのもの。</p><p>飛んで逃げれば追尾される。魔術で物理現象を引き起こして防げば、魔力の消費が激しい。</p><p>ならば、障害物の裏に隠れて、矢を防ぐのが最も合理的な判断だった。</p><p>そして、その判断は正しかった。</p><p>―常(・)識(・)的(・)に(・)は(・)。</p><p>ドゴンッ、と轟音が木立を揺らし、鴉の術者の全身を衝撃が襲った。</p><p>熱い。</p><p>灼熱が、胸を突き破った。</p><p>愕然として、視線を下に向ければ―樹の幹を貫通した鏃が、胸から突き出ている。</p><p>―</p><p>馬鹿な、という思いがあった。矢に付与された術式は、魔力量から考えても、ただ誘導する役割があるだけのもので、攻撃力や貫通力を上げるものでは―</p><p>（―いや、）</p><p>そこで、合点がいった。確かに、樹の幹で防ぐという考えは良かった。だが、それは普通の弓を相手にした場合の話―</p><p>ケイが用いたのは、“竜鱗通し”。</p><p>鴉の術者には知る由もないが、竜の鱗すら貫き通す強弓。</p><p>事前に、あの馬賊に対する蹂躙戦を見て、弓の威力は知っていたはずだった。だが、まさか樹の幹を貫くとは―いや、判断を誤った―そうか、邪眼を逸らそうとしていたのは、この強弓を引くため―</p><p>次々に理解が及ぶ。だが冷静になると同時、魂を焼くような激痛が、術者の視界を白く染めた。</p><p>ギヤああああああアァアアァァァァッッ！！！</p><p>小さな鴉の身体から、びりびりと大気が震えるような絶叫が響き渡る。</p><p>それは遠く離れた隊商にまで届き、魂も凍るような断末魔の悲鳴に、一瞬、戦場の空気さえ止まる。</p><p>……お、御大将……</p><p>愕然と、そして絶望したように。腰を抜かして傍にへたり込んでいた怪我人が、怯えたように声をかける。</p><p>だが、矢に串刺しにされ、だらりと力なく垂れ下がる鴉の瞳に、もう赤い光は存在しなかった。</p><p>よいお年を！</p><p>48. 別離</p><p>今回は色々とエグい描写などもありますので、ご注意ください……</p><p>それは、雑然とした空間だった。</p><p>石造りの薄暗い部屋。天窓から差し込む細く弱々しい光が、部屋中に所狭しと並べられた奇怪な品々をぼんやりと照らし出している。奇形の動物の剥製や怪しいアルコール漬けの標本、瓶詰めの毒々しい色の液体に粉末、無数の書物・巻物、恐ろしげな拷問器具、用途が全く予想できない道具、エトセトラ、エトセトラ……。</p><p>そしてその中に埋(うず)もれるようにして鎮座する、天蓋付きの寝台。</p><p>大の大人が四人は悠々と寝転がれるような大きさだ。手の込んだ金や銀の装飾が惜しげもなく配されており、天蓋から下げられたレースのカーテンが細やかな模様を描く。手編みであることを考えると、恐ろしく手間がかかっていた。庶民には一生縁がないような贅沢品。</p><p>そこにゆったりと、沈み込むようにして身を横たえているのは、一人の老翁だ。短く伸ばした黒い髭、刈り込んだ黒髪。手や顔の深い皺はその年齢を窺わせるが、大柄でがっしりとした体躯は加齢故の衰えなど全く感じさせず、逆に頑強さと壮健さを無言のうちに主張しているようにも見えた。</p><p>しかし、眠っている―のだろうか、両手を胸の前で交差させ、ぴたりと時間が止まったように身じろぎすらしない姿は、むしろ死人のようだ。全身を包む、喪服じみた黒衣がその印象を強くする。</p><p>部屋の四隅には給仕服に身を包んだ四人のメイドたちが控え、表情もなく、楚々として主人の命を待っていた。上品に、そして全く同じスタイルに髪を切り揃えた彼女らは、全員が息を呑むような美貌と抜群のプロポーションを兼ね揃えている。が、顔色は紙のように白く、その無表情も相まって何処か人形じみた雰囲気を漂わせていた。</p><p>彼女らの暗い瞳は、ただ一点。</p><p>寝台の老翁に固定されたまま、動かない。</p><p>……ぐッ</p><p>と、その瞬間、老翁がカッと目を見開いた。</p><p>―ッガああああアアァァァッッ！</p><p>そして思い出したかのように絶叫し、跳ね起きる。</p><p>ぐうぅぅぅヲォ、おおおおぉ……ッ！</p><p>胸を掻き毟りながら、まるでナイフで臓腑でも抉られているかのような苦痛の声を絞り出す。ごぽっ、と胸の奥から不気味な音を響かせた老翁は、そのまま咳き込むようにして喀血した。どす黒く、粘つく血液が口から溢れ出し、寝台の上で滅茶苦茶にのたうち回る。見開かれた瞳は、真紅の虹彩を囲む白目までもが真っ赤に充血しており、もはや人外の形相を呈していた。</p><p>が、主人がそれほどまでに苦しんでいるにもかかわらず、部屋の隅で待機するメイドたちは微動だにしない。ただガラス球のような瞳で、黒衣の老翁を見つめるのみ。</p><p>ぐぅぅアアアァアッ、何故だッッ……、何故だアッ！</p><p>血反吐を吐きながら、老翁は叫ぶ。</p><p>たかがッ、憑依した使い魔を殺られた程度で、何故これほどまでに……ッッ！</p><p>苦しめられるのか。</p><p>告死鳥(プラーグ)の契約―それは鴉などの黒羽の鳥を支配し、使い魔としての使役を可能とする魔術。中でも、感覚を共有することで使い魔を自在に操ることができる『使い魔への憑依』は、非常に自由度の高い術式だ。擬似的な飛行、タイムラグのない情報伝達、使い魔を通しての遠隔的な魔術の行使など、その応用性はあらゆる魔術の中でも随一と言える。</p><p>『感覚を共有する』という性質上、憑依した使い魔が傷つけばその痛みも同時に味わう羽目になるのが唯一の欠点だが、精神的な苦痛を除けば術者本人に被害はなく、その苦痛すらも修練を積めばかなり軽減することができる。</p><p>はずだった。</p><p>しかし現実には、強烈な感覚の共有(フィードバック)により、老翁は肉体的・精神的に壊滅的なまでの被害を被っている。</p><p>（あり得ぬ……あり得ぬッ！！）</p><p>シーツを引き千切らんばかりに握り締め、血走った目で老翁は虚空を睨む。引きつけでも起こしているかのように全身がぶるぶると震え、その額には何本もの血管が青筋となって浮き出ていた。</p><p>あり得ない。</p><p>いや、あってはならないことなのだ、これは。</p><p>老翁の使い魔は、あの忌々しい異邦の弓使いに射殺された。樹の幹をも容易く貫き通す強弓、その威力は凄まじいの一言。それに伴う死亡時の反動も、かつてないほどに強烈だったことは認めざるを得ない。</p><p>だが、だからといって、ここまで精神と肉体を傷めつけられた理由にはならない。</p><p>確かにあの弓使いは魔術も併用していたが、あれは矢に特別な効果を付与するものではなく、ただ風の力で標的へ向けて矢を誘導するだけの術式だった。</p><p>仮に―あの矢に、呪いや特殊な魔力が籠められていたのであれば、術者へ悪影響が出るのも頷ける。</p><p>が、今まで幾度となく、使い魔を潰されたことはあり、それが魔力の籠められた武器や呪いによって為されたことも一度や二度ではないのだ。そしてその度に、老翁は図抜けた魔術耐性をもってして、それらの攻撃を無効化(レジスト)してきた。</p><p>それが。</p><p>今回に限って。</p><p>何故だ……！</p><p>老翁の長い生を振り返ってみても、使い魔を殺された程度で、これほど甚大な被害を受けたのは初めてのことだった。</p><p>不甲斐なさ。自分自身への突き抜けるような激しい怒りがあり、苛立ちに混じって喉の奥から血臭がこみ上げる。</p><p>―久しぶりだ。血反吐を吐くほどの苦痛を味わったのも、制御できないほど感情が荒れ狂うのも。</p><p>どうにかして寝台から起き上がる。天窓から差し込む光を睨むも苛立ちは収まらず、荒ぶる感情はむしろ加熱していく。壁際、無表情でこちらを見やるメイドが目に入り、その醒めた瞳が無性に腹立たしく思えた。</p><p>老翁はつかつかと歩み寄り、その首をぐいと掴む。</p><p>……何故だ</p><p>……ご質問の意図を、理解致しかねます</p><empty-line/><p>メイドはただ、無表情に答えた。元より返事を期待して問うたわけではない老翁は、厳しい表情のまま思考を巡らせる。</p><p>『あり得ない』とは言うが、実際問題として、心身ともに甚大な被害を被った。となれば、そうなった原因は必ず存在する。</p><p>―使い魔を殺された衝撃、感覚の共有(フィードバック)が強烈過ぎたのか？　いや、あり得ない。以前もっと酷い殺され方をしたことはあるが、大してダメージは受けなかった。</p><p>―あの矢には何か特別な仕掛けが施してあったのか？　いや、それもあり得ない。この世に存在する呪いの類は、自分ならば一目で看破できる。あの矢は間違いなく、何の変哲もない普通の矢だった。</p><p>―ならば、あの男は、『自分』を傷つけうる存在だったのか？</p><p>……！</p><p>老翁の表情が険しくなり、手にぎりぎりと力が篭もる。</p><p>そうだ。</p><p>その可能性に至り、思考が加速していく。</p><p>―そう考えれば(・・・・・・)、説明はつく(・・・・・)。</p><p>老翁が思考に沈む間も、その手の中でメイドの細い首はたわんでいき、紙のように白かった顔が徐々に鬱血していく。しかしメイドは無表情を崩さず、待機の姿勢のまま呻き声一つも漏らさない。</p><p>そうか……そういうことか…… Li estas la vizitanto … se li estas ekstere de la regulo, ĝi devus ne esti bizara…!</p><p>ある種、獰猛な表情となった老翁は、歯を剥き出しにして虚空を睨む。</p><p>おのれ……大人しくしておればよいものを、Kahmui……！</p><p>ぐっ、と老翁の全身に覇気が漲り。</p><p>ごきり。</p><p>鈍い音を立てて、メイドの首が砕けた。</p><p>無表情のまま身体から力が抜け、かくかくと細かい痙攣を起こす。</p><p>そこで初めてメイドの存在に気付いたかのように、老翁は手の中に視線を落として鼻を鳴らし、その体を放り捨てた。</p><p>抜け殻のようになって、どしゃり、と力なく床の上に転がるメイド。その口と鼻からつっと赤黒い液体が流れ出し、石畳に染みをつくる。</p><p>ゴミを片付けておけ</p><p>老翁が命じると、未だ身じろぎすらせずに待機していた残り三人のメイドたちが、恭しく頭を下げて動き出す。粛々と、表情を変えることなく、二人が元同僚の身体を部屋から運び出し、一人が老翁の血で汚れたシーツを取り替え始める。</p><p>それをよそに、先程までの荒れようが嘘だったかのように落ち着き払った老翁は、遠い目をして髭を撫で付けている。</p><p>……あの男、</p><p>脳裏に思い浮かべるのは、異邦の弓使いの姿。</p><p>……少々、本腰を入れる必要がありそうじゃな</p><p>ふン、と今一度鼻を鳴らした老翁は、ばさりと黒衣をはためかせ。</p><p>黒い羽根が散る。</p><p>羽音が部屋の空気を揺らし、僅かな天窓の隙間へと影が伸びる。</p><p>まるで、最初からそこに誰も居なかったかのように―僅かに数枚の黒い羽根を残し、老翁の姿は掻き消えていた。</p><p>†††</p><p>ケイが復帰し、本格的な反撃を開始すれば、馬賊の残存部隊も脆いものだった。</p><p>まず、敵味方双方とも、馬賊の魔術師のものと思われる断末魔に浮き足立っていたようで、特に馬賊側からは当初の勢いがなくなっていた。重装騎兵三人組の攻勢をのらりくらりと躱していた別働隊の面々に至っては、ケイが”竜鱗通し”での射撃を再開するや否や算を乱して逃げ始める始末だった。</p><p>馬賊たちの視点からすれば、それも無理のないことだ。散々矢を打ち込んで、（呪いのせいとは知らず）段々と元気を失くしていき半死半生にまで追い込んだと思った男が、いきなり完全復活して殺意全開で逆襲してきたのだ。高等魔法薬(ポーション)の存在を知らなければ化け物にしか見えないだろう。</p><p>無論、再びサスケに騎乗したケイがそれをみすみす逃すはずもなく、散々嬲られたお返しとばかりに、一人一矢きっちりと”竜鱗通し”をお見舞いした。</p><p>その後、アイリーンから木立に負傷兵その他が潜んでいる可能性を知らされるも、隊商の援護が先決と判断したケイは、重装騎兵三人組を引き連れてもう一隊の馬賊へと強襲を仕掛けた。文字通り、直接矢面に立たされることとなった馬賊たちはケイの騎射の腕前と”竜鱗通し”の威力に度肝を抜かれ、また遠目では見ていたものの改めて間近でそれを見せつけられた隊商の面々も同様に度肝を抜かれた。</p><p>いずれにせよ、その場のほぼ全員の度肝を抜きながら、ケイが馬賊を壊滅させるまでそう長くはかからなかった。途中でとうとう矢が尽きてしまい、死体から矢を回収しながらチマチマと戦う羽目になったが（全力での射撃だったので着弾の衝撃により折れてしまったものが多く、使い物になる矢を探すのに思いの外手間取った）、それでもケイの騎射で大幅に数を減じた馬賊たちは、隊商の面々によって順次制圧されていった。</p><p>最終的に、残り二十騎を切ったあたりで、これは敵わないと判断した馬賊たちが撤退し、ケイを含む騎兵の面々で散々に追撃して追い散らしてから、隊商はようやく一息をつくことができたのだった。</p><p>あとに残されたのは―濃厚な血臭。</p><p>傷ついた者たちの苦痛の声と、死者に対する嘆き。</p><p>そして、『生存者』に対する苛烈な私刑(リンチ)だった。</p><p>ケイが追撃から隊商に戻ったとき、最初に抱いた印象は『酷い』の一言だった。</p><p>至る所に怪我人が寝かされ、あるいは敵味方問わず死体が放置され、ある程度元気があり医療の心得がある者は怪我人の治療に奔走し、元気はあっても戦うことしかできない者は、その鬱憤をぶつけるように生かして捕らえた馬賊を痛めつけていた。</p><p>拷問、というよりは、生死を気にせずひたすら殴る蹴るといった暴行を加えている印象だった。元々、彼らが先に襲ってきたのだ。それこそ生かそうが殺そうが勝手というものだろう。後ろ手に縛られたまま泥に顔を埋め、ぴくりとも動かない男がいる。まだ少年と言ってもいい年頃でありながら、大の男に寄ってたかって蹴りつけられている者もいる。あるいは首をロープで縛られて吊るし上げられ、今まさに絶命しようとしている者もいる。</p><p>『酷い』、とケイは思った。しかし、ケイも数十人もの命を奪い去ったばかりだ。理性的に、『酷い』とは思ったが、心は固まったまま動かなかった。ただ淡々とそんな感想を抱いただけで終わった。</p><p>…………</p><p>しかしふと隣を見ると、アイリーンが悲しそうな顔をしていた。</p><p>これが正常なのだ、という思いが去来し、ケイは強張った顔からどこかぼんやりとしたような表情になった。そのまま地面に視線を這わせたケイは、血塗れの死体に目を留める。</p><p>若い女の死体だった。</p><p>顔に刻まれた黒い刺青、痩せ細った身体、両手首を拘束する鎖―草原の民の、奴隷の女だった。どうやら彼女は、襲撃に巻き込まれたというよりも、戦いの果てに死んだらしい。その瞳は空を睨み、苦しげな表情のまま大の字で地に横たわっていた。死因はおそらく失血死。胴体をばっさりと斬り裂かれ、内臓がソーセージのように溢れ出ている。右手の近くには、血塗れの短剣が転がっていた。そしてその傍には、彼女を手酷く扱っていた小太りの商人も倒れている。</p><p>勿論、と言うべきか、彼も息絶えていた。丁寧な造りのクロスボウを抱きかかえ、地面に蹲るようにして、動かない。首の辺りの刺し傷を見るに、背後からの一撃で絶命して馬車から転がり落ちたか。</p><p>馬賊の襲撃。それに乗じ、奴隷の女も隙を見て戦いに加わったのだろう。彼女が誰を相手取って戦ったか―想像するまでもない。復讐すべき相手に手を下した。要約してしまえばそんなところだろうか。</p><p>人の生き死にが、呆気なくまとめられてしまうことに、その状況に、虚しさのようなものを感じずにはいられなかった。</p><p>溜息をついて空を見上げると、雨雲は散り散りになり青空が見えている。少し、視野が広がったような感覚があり、ケイは改めて周囲を見回してみた。怪我人の手当てやリンチは相変わらずだが、疲れ果てたように地面に座り込み、ぼんやりと生の実感を噛み締めている隊商の面々の存在にも気付いた。</p><p>彼らの多くは年若い商人見習いたちで、武器を握り締めたまま地面に視線を落とし、腰を抜かしてしまったかのように座り込んだまま動かない。その他は―隊商の戦士や、商人たちだ。彼らの多くと、妙に目が合う。目が合うとすぐに向こうが視線を逸らしてしまうが。何故か、と考えて、思い当たったのは、『恐れ』、あるいは『畏怖』。そういった感情が、彼らの瞳の中にちらついていることを見て取った。</p><p>あるいは、単騎で馬賊に大打撃を与えた、ケイの馬上弓に怯えているのだろう。味方でいる分には頼もしいが―と。勿論、ケイは無闇に周囲の人々を傷つけるようなことはしない。しかしケイの見かけ―草原の民に比較的近いアジア人の風貌―や、自分たちがこれまで取ってきた、お世辞にも愛想の良いとは言えない態度を鑑みて、彼らが何を思っているのかは想像に任せるほかない。</p><p>（……面倒だな）</p><p>恐れられるのも、敬遠されるのも、今のケイにはどうでもよいことだった。ただ、疎んじられるような、それでいて全身に纏わりつく視線は鬱陶しかった。脳の中心が痺れているようで、深く考えを巡らせるのが酷く億劫に感じられる。</p><p>……疲れた</p><p>ぽつりと、ケイは地平の彼方を見て呟いた。はっ、と顔を上げて、心配げな表情になったのは隣のアイリーンだ。ケイはそんなアイリーンに気付くことなく、気にかける余裕もなく、ただぼんやりと遠くを眺めていた。</p><p>……ん</p><p>と、ひとりささくれた余韻に浸っていたところで、周囲が騒がしくなってきたことに気付く。</p><p>見れば、木立の方から、槍を構えた騎兵と戦士たちに追い立てられるようにして、とぼとぼと歩いてくる集団がある。</p><p>ぼろぼろの衣服をまとった、吹けば飛んでしまいそうな、頼りない三十人ほどの集団。よく見るまでもなく、その全員が若い女と子供だった。ぎらりと輝く槍の穂先に怯えるように身を寄せあって両手を挙げ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。</p><p>あれは……</p><p>アイリーンが、慄くように呟いた。</p><p>『それで、全部か』</p><p>馬車の上で、メモ帳と睨み合いながら被害を確認していた隊商の長ゲーンリフが、集団を統率する護衛戦士の一人に問いかける。</p><p>『ああ。あっちの木立にはもう残っちゃいねえよ……生きてるヤツはな』</p><p>ゲーンリフに問われた戦士は、血塗れの槍で木立の方を示し皮肉な笑みを浮かべる。</p><p>『そうか。……こいつらは、奴隷か？』</p><p>表情を変えることなく頷いたゲーンリフが、羽根ペンを片手に、女子供の集団へ品定めするような目を向ける。悲しみも憎しみも全て飲み込んだ、合理的な商人の顔。</p><p>『うーむ……全員、首輪やら鎖やらを外した痕が残ってる。ま、十中八九奴隷だわな。馬賊の奴らに”解放”されたんだろうよ』</p><p>『ふむ……そうか。賊の所有物は、“賊を討伐した者”にその所有権が移るからな。他に何かあったか？』</p><p>『いんや、特に何も……食糧と馬の飼料くらいのもんか。あとは馬が何頭か……金目の物はほとんど残っちゃいなかったよ』</p><p>『ほう……』</p><p>肩をすくめて答える戦士に、ゲーンリフは目を細めた。『ほとんど残ってなかった』という表現に引っかかるものを覚えたのだが―</p><p>『―まあいい、あとで食糧と飼料は回収するとしよう。馬もなるたけ連れて行きたいところだな』</p><p>『おう、そうだな』</p><p>少々悪い顔で、調子よく頷く戦士。これだけの戦闘の後なので、多少の目溢しはいいだろう、というゲーンリフの判断だった。彼らは直接木立に乗り込んで、残る戦闘員を制圧し、捕虜を連行してきたのだ。多少の―つまり個人単位の―貴金属を奪い取る程度の役得はあっても罰は当たるまい。</p><p>そう結論を出したところで、さて、とゲーンリフは捕虜の一団に向かい直る。その氷のような無感情な視線に晒されて、女子供たちは一層怯えたように身を寄せ合った。</p><p>『……まあ、多少痩せてはいるが、売り払えばそれなりの値はつくだろうな』</p><p>『殺さないんだな？』</p><p>『馬賊は壊滅。移送のリスクも減ったことだし、売らない手はない』</p><p>『一人も殺さない？』</p><p>ニヤリと笑って重ねて問う護衛の戦士に、その意図を察したゲーンリフは、若干渋い顔で小さく溜息をついた。</p><p>『……まあ、二人程度ならば見逃そう。ただし歩ける程度の体力は残しておけよ』</p><p>『はっはァ！　さっすが隊長、話がわかる』</p><p>ゲーンリフの許可を受け―捕虜を取り囲む護衛戦士たちの眼の色が変わる。それを敏感に察した草原の民の若い女たちが、ヒッと息を呑んだ。</p><p>『……ああ、そうだ。それと、そいつらの扱いだが』</p><p>捕虜の一団を見回し、年若い男―少年と青年の境目とでも呼ぶべき年代の層もいることを見て取ったゲーンリフは、思い出したように付け足す。</p><p>『将来、また再び何かの拍子に反乱でも起こされたら堪らん。二度と弓が引けんよう、全員の人差し指と中指を落としておけ』</p><p>その言葉に―アイリーンは、信じられないようなものを見るような目でゲーンリフを凝視し、ざぁっと顔から血の気を引かせた。その隣で、雪原の民の言語(ロスキ)の応酬をただ傍観することしかできなかったケイは、アイリーンの顔色の変化に只ならぬ雰囲気を察する。</p><p>しかしそんな二人を他所に、ゲーンリフたちの会話は続く。</p><p>『ん、女もか？』</p><p>『全員、と言ったぞ。……馬賊の中には、女の弓騎兵も居たからな。油断ならん』</p><p>何やら騒がしく男たちの声が聴こえる、後方の馬車の陰を見やってゲーンリフは鼻を鳴らした。生きて捕らえられた馬賊はそれぞれ私刑を受けていたが、捕らえられた馬賊の中には女もいたのだ。</p><p>聞くところによれば、捕らえられるまで、女と舐めてかかった戦士が何人も重軽傷を負う羽目になったらしい。今はその報いとして数人がかりで嬲られているようだ。草原の民は騎射の腕が当たり前のように良いので、たとえ女でも油断できない、とゲーンリフは考えるようになっていた。</p><p>『ん、まあ隊長がそう言うならおれは構わんがね。値段が下がるんじゃないか？』</p><p>『そう思わんでもないがな、元よりそれほど高値では売れん。売り払った先で、不穏なことを考える奴隷たちへの良い見せしめになるだろうよ』</p><p>答えるゲーンリフはあくまでも冷淡だ。あるいは彼も、殊更表情に出すことはしないが、今回の襲撃は相当腹に据えかねているのかも知れなかった。彼の馬車の周囲にも、見習いの少年たちの死体が転がっているのだから。</p><p>『ふーん、ならそういうことで。おーい、誰か手斧持って来い、鋏でもいいぞー』</p><p>男が呼びかけると、すぐさま手頃なサイズの斧が見繕われ、台となる木の箱やまな板のようなものまでもが用意され始める。</p><p>アイリーンはそれを前に―口元に手をやって、目を見開き、ただガタガタと震えることしかできなかった。</p><p>アイリーン？　大丈夫か？</p><p>不穏な空気は察しつつも、状況を理解できていないケイは、アイリーンの肩を抱いて心配げに声をかける。</p><p>しかし、そうして傍観するうちに、ことが始まり、アイリーンが震えるわけを否が応でも理解する羽目になった。</p><p>まだ年若い、刺青も入れられていないようなあどけない顔立ちの少年が引きずり出され、男たちに手を押さえつけられたかと思うと―</p><p>とんっ、とんっ、と。</p><p>まるで料理でもしているかのような、軽い音。</p><p>それを少年の絶叫が塗り潰し、ぬかるんだ地面にぽろぽろと指が転がった。それを見た子供たちが一斉に泣き出し、かばうようにして彼らを抱き締めようとした女が、護衛の戦士に軽々と担がれて連れて行かれる。</p><p>―ッ！　―ッ！</p><p>暴れて戦士の腕からどうにか脱そうとする女だったが、容赦なく顔を数発殴られて黙らされる。</p><p>『おおっと、暴れるなよ。間違えて別の指まで落としちまう』</p><p>そうしている間にも、少年はもう片方の手を掴まれて、同様に人差し指と中指を斧で切り落とされていた。</p><p>……行こう</p><p>流石に、ケイも見ていられなかった。マントの裏側で無意識のうちに手を握ったり開いたりしながら、アイリーンの肩を抱きその場を離れる。俯くアイリーンはされるがまま、ふらふらとした足取りで歩き始めた。</p><p>もう、うんざりだった。</p><p>ゲーンリフたちの会話が理解できなかったので、『アレ』がどのような意図に基づくものかは予想するしかないが、ただひとつ、ろくでもないことなのは確かだった。ケイ自身、数十人もの命を奪った手前、今更綺麗事を言うつもりはないが、それでも幼い子供が苦痛と恐怖で泣き叫ぶのを目の当たりにするのは、耐えようもなく不快だった。</p><p>クソ食らえ、と日本語で呟く。鳥でも捌くかの如く無造作に酷(むご)い仕打ちを加えたゲーンリフたちに。何もせず、見なかったことにしようとする自分自身に。そしてそれら全てを強いるこの状況そのものに。</p><p>今はただ、アイリーンを苦しめるものから、一刻も早く遠ざかりたい。</p><p>ただそんな気持ちを胸に、足を動かす。</p><p>気がつけばケイは、なんとはなしに、公国の薬商人―ランダールの馬車の前までやってきていた。</p><p>はい、はい、急がなくてもいいぞー。まだあるからなー、色々と</p><p>奇妙なことに、ランダールの馬車の周囲には人だかりができている。見れば、愛想笑いを浮かべたランダールが、隊商の面々に薬を配っていた。</p><p>隊商の馬車列に対し火矢が使われたのはケイも見ていたが、どうやらランダールの馬車はほとんど無事なようだ。ほとんど、というのは、幌が支柱ごとなくなっているので完全に無傷とは言えないことを指す。荷台が剥き出しになったままでは、次の街に着くまでに雨が降ったとき大変なことになるだろうな、とケイは他人事のように思った。</p><p>……随分と人気だな</p><p>おおっ、ケイ！　大活躍だったな、遠目からだが見てたぞ！</p><p>ケイが声をかけると、ランダールは疲れたような笑みを浮かべて答える。押し合いへし合いする隊商の面々をなだめ、額の汗を拭って一息ついたランダールは、傍らの水筒から喉を鳴らして水を飲んでいた。</p><p>それを見て、ケイも突然、猛烈な喉の渇きを自覚する。考えてみれば当然のことだ、朝に村を出てからずっと斥候の任についており、それから今に至るまで全力で戦っていたのだから。</p><p>俺も水をもらっていいか。喉がからからだ</p><p>おう、好きなだけ飲め英雄！　こっちに上がってこいよ、それとついでと言っちゃなんだが、薬を配るのを手伝ってくれないか。おれ一人じゃなかなか手が回らなくてな</p><p>ランダールの馬車には金属製の瓶が備え付けられており、数人分の飲料水でたっぷりと満たされている。未だ呆然としたままのアイリーンを伴い馬車へと上がったケイは、再び薬を配り始めるランダールを尻目に、瓶の水をカップにすくって思う存分に喉の渇きを癒やした。</p><p>それにしても、大盤振る舞いだな。非常時とはいえ薬を配るなんて……</p><p>際限なく、怪我薬や消毒剤、解熱剤などを求めてくる隊商の面々と、それに応えるランダールを見ながら、ケイは思わず呟く。</p><p>いや、だってよ……</p><p>それを耳にして、ランダールは渋い顔だ。ケイの耳元に口を寄せ、他には聞こえないような小さな声で、</p><p>この状況で出し渋ってみろ。……殺されて奪い取られるよりはマシだろ、おれなんてしがない公国出の商人で、ただでさえ後ろ盾がないんだからよ……</p><p>……成る程</p><p>馬車の周囲で必死に薬を求める面々を見やり、ケイは納得して頷いた。確かに、ここで薬を出し渋ればタダでは済まされないだろう。命があればまだ良い方で、最悪、罪を全て馬賊にかぶせた上で身包みを剥がされ、闇に葬り去られる可能性すらある。</p><p>一応、保険はかけてあるんだけどな。流石に全部は補填できないだろうし、何より目的地のベルヤンスクについても売る品物がねえ……おれは一文無しになっちまう……</p><p>トホホ、といった様子で肩を落とすランダール。 まあ、まあ とケイは慰めるようにその背中を叩いたが、何となく、ランダールから切羽詰まった雰囲気が感じられなかったので、それほど熱のこもった励ましの言葉は出てこなかった。</p><p>それにしても、と水で喉を潤しながら、ケイは改めて周囲の面々を観察する。仲間のために、あるいは友人のために、皆が血走った目で薬を求めている―その鬼気迫る雰囲気は、確かに尋常ではない。おそらく予断を許さない状況下にある怪我人も多いのだろう。</p><p>いつまでものんびりはしていられない、と思ったケイは、ランダールの指示の下、薬を手渡す作業を手伝い始めた。少し遅れて復帰したアイリーンも、のろのろとした動きではあるが、それに加勢する。</p><p>しばらく、無料での大盤振る舞いが続いた。しかしどれほど手伝っただろうか、薬が残り少なくなってきたところで、見知った顔が現れる。</p><p>周囲を取り囲む人々を押し退けるようにして、強引に馬車に近づいてくる男。順番は守れ、とケイは口を開きかけたが、やめた。</p><p>男は、先ほど共に戦った重装騎兵三人組の一人だった。相変わらず板金仕込みの鎧を身につけたままで、武装は解除していない。付着した返り血すら拭き取らず―その表情は、ケイが初めて見るような厳しいものだった。いつも仲良し三人組でつるんでいる彼は、戦闘時においてすら、何処か余裕のある笑みを崩していなかったと記憶しているのだが―</p><p>少なくとも、彼の目的は薬ではないようだった</p><p>真っ直ぐに、真摯な瞳がケイを見据える。</p><p>ケイ。……ピョートルが、呼んでル</p><p>短い、片言の公国語。</p><p>たったそれだけの、言葉が。</p><p>ケイにはどうしようもなく、不吉な響きを孕んでいるように聞こえたのだった。</p><p>†††</p><p>やあ、ケイ</p><p>まるで散歩の途中、道端でたまたま出くわしたかのような気軽さで、ピョートルは声をかけてきた。</p><p>……、……</p><p>ケイは、口を開いたが、言葉が出てこない。ただ、立ち尽くした。</p><p>ピョートルの顔は真っ青だ。</p><p>そしてそれに反比例するように、腹に巻かれた包帯が、鮮烈な赤に染まっている。</p><p>隊商の後列、大型テントの布を用いて負傷者がひとまとめに寝かされた場所。そこは今、まさに野戦病院のような様相を呈していた。ランダールから提供された質の良い医薬品を手に、医療知識のある戦士や商人が怪我人たちの間を飛び回っている。皆に手足を押さえつけられ、傷口を縫合されている男がこの世の終わりが訪れたような顔で泣き叫び、逆にある程度の治療を施された者は疲れ果てたのか、死んだようにこんこんと眠り込んでいる。</p><p>それ以外にも、―手遅れだったのだろう、顔に布を被せられ、安置されている者もいた。そんな彼らの中で、ピョートルは、比較的静かに過ごしているようだ。</p><p>―つまり。</p><p>助かる見込みはない、と。</p><p>もう治療は意味がない、と、見放されているのだ。</p><p>その証拠に、ピョートルに施された手当ては、どうやら簡単な消毒と、包帯をキツく巻きつけるだけの止血のみのようだった。実際、人体解剖学について造詣の深いケイから見ても、ピョートルは生きているのが不思議なほどの傷を負っていた。脇腹を深く抉るような一撃。おそらくは槍やそれに類する刺突武器によって、鎧の隙間を突かれたのだろう。</p><p>どう見ても、致命傷だった。</p><p>少し……無茶をした。最善を尽くそうと、した。しすぎた</p><p>ところどころ、言葉に詰まりながらも、しかしピョートルは場違いなほどに穏やかな表情を浮かべていた。それ以上、立っていられなかったケイは、かくんと膝を折って、ピョートルの傍らに力なく座り込む。</p><p>呆然とするケイに、寝転がるピョートルは儚く笑いかけた。</p><p>……そんな顔をするな。ケイ</p><p>いや、だが、ピョートル……</p><p>どうして、こんな、と。ピョートルは、直接手合わせして力量を確かめたわけではないが、それでもかなりの使い手だと、ケイは勝手に思っていた。確かに馬賊の数は脅威的だったが、完全武装のピョートルが、そう易々と遅れを取るとも思えない―</p><p>ピョートルは、</p><p>アイリーンが、震える声で口を開いた。</p><p>オレが、ケイを助けに行ったとき……一人で、追手を……</p><p>その言葉は尻すぼみになってしまったが、それだけでケイは全てを理解した。</p><p>……すまない。すまない、ピョートル</p><p>……いいんだ。……謝るな、わたしが……やりたい、ことだった</p><p>声を絞り出すようなケイに、微かに首を振ってピョートルは答える。</p><p>満足気だった。どこまでも、自分勝手に。清々しいまでに。</p><p>…………</p><p>ピョートルの手を握り締めたケイは、その腹部の傷口に視線を落とし、下唇を血が滲み出るほど強く噛み締めた。</p><p>致命傷、ではある。それは確かだ。</p><p>しかしケイには―何とかする手段が、残されている。</p><p>―高等魔法薬(ハイポーション)。</p><p>命に関わるような怪我でもたちどころに回復させてしまう、文字通り魔法の薬があるのだ。残り数少ないとはいえ、ケイのポーチやアイリーンの懐に、しっかりと収まっている。</p><p>それを使えば、助けられる。</p><p>しかし―</p><p>（ポーションは……生命線だ）</p><p>今回の戦いもそうだが、『こちら』の世界に来て以来、何度その奇跡に命を救われたかわからない。</p><p>アイリーンが毒矢を受けたときも、盗賊との戦いでケイが負傷したときも。</p><p>ポーションがなければ、確実に死んでいた。</p><p>故に、ケイは自分たちの所有物の中で、ポーションの優先順位を『最高位』に設定している。“竜鱗通し”と手持ちのポーション、どちらかを選べと言われれば、迷いなくポーションを選び取るほどに。</p><p>“竜鱗通し”は、なくなっても普通の弓である程度代用できる。しかし、ポーションに代わるものはない。それがわかっているだけに、どうしても必要に迫られなければ使うことさえなかった。そうであるが故に、たとえタアフ村の呪い師の老婆(アンカ)に、赤子を救うためと理由をつけて懇願されても、譲渡することはなかったのだ。</p><p>冷静になれ、と。</p><p>自分の中で、声がする。聞き慣れた声だ。</p><p>それは、『乃川(のがわ)圭一(けいいち)』の声。ケイの中で、生きることに執着し続け、これまで共に半生を歩んできた、ケイ自身の声。</p><p>その声が告げている。たかだか出会って数日程度の男に、貴重な霊薬を使ってしまうのはあまりに勿体ない、と。それよりも万が一のときのために、温存しておくべきだ、と。</p><p>合理的に考えれば、その通りであるに違いない。かつて、タアフ村でアンカを見放したときのように、今このときもまた、見て見ぬふりをすればいい。</p><p>また、それ以外にも一つ、大きな問題がある。仮にここでポーションを使い、ピョートルを回復させたとしよう。そうすれば、周りの皆はどのように反応するだろうか。</p><p>ケイは、おもむろに周囲を見回した。既に事切れている者たちを除いて、ピョートルは最も重篤な怪我人だったが、他にも危険な状態の者は沢山いる。</p><p>そんな彼らに。あるいは、彼らの友人に。</p><p>―ポーションの存在が知られれば、どうなるか。</p><p>思い出すのは、先ほどのランダールの言葉だ。</p><p>『この状況で出し渋ってみろ―』</p><p>命があれば、運の良い方だ。普通の医薬品ですら、皆が血相を変えて殺到する有様だった。ましてやそれが、どんな怪我でも一瞬で治してしまう霊薬ともなれば。</p><p>何が起きるかなど―想像に難くない。</p><p>もし、隊商の皆にポーションを明け渡すのを拒否するならば、必然的にここにはもう居られなくなるだろう。戦うか、逃げるか―ここで殺し合いに発展するのは流石に本末転倒なので、ケイとしては逃げの一手を打ちたいところだが、そこにも問題がある。</p><p>今ここで隊商から離脱して、無事に目的地のシャリトの村に辿り着けるのか。</p><p>ブラーチヤ街道周辺の地図は持っているが、土地勘はなく、地図の情報も古いため現在でも使える水場があるか不明瞭だ。仮に隊商から離脱するならば、見知らぬ土地で水不足や物資不足に怯えながら、独力で北の大地を横断する羽目になる。</p><p>果たして、―それは可能なのか。</p><p>そのリスクの大きさに、慄く。今回の隊商護衛の旅の直前に、エゴール街道で辛酸を嘗めさせられているだけに、尚更のこと。</p><p>ポーションも大切だが、道に迷えば、あるいは野営の設営場所の選定に失敗すれば、命の危険も出てくる。それこそ、本末転倒ではないのか。ポーションを奪われないために集団を離れ、逆に窮地に陥るようでは―</p><p>……ケイ</p><p>そっと。</p><p>アイリーンが、ケイの肩に手を載せた。</p><p>…………</p><p>片手をアイリーンの手に重ねて、ケイは考える。</p><p>アイリーンは、どう思うのかを。</p><p>（……いや）</p><p>思わず、ほろ苦い笑みが口の端にこぼれた。</p><p>考えるまでもないことだ。</p><p>仮にここでポーションが一つ減り、将来窮地に陥ることがあったとしても。</p><p>アイリーンはむしろ、この選択を誇るだろう。</p><p>仮にここで隊商を離脱することになり、苦難の旅が始まることになったとしても。</p><p>アイリーンは、この選択を後悔しないだろう。</p><p>それが、考えるまでもなくわかる。</p><p>そして―それは、ケイのくすんだ心に澄んだ風を吹き込み、ケイには眩しすぎるほどの、あたたかな希望の光を灯した。</p><p>合理的ではない。惜しい。取り返しがつかない。</p><p>考えれば、その通りだ。きっとそうなのだろう。</p><p>だが―</p><p>思い出す。脳裏をよぎる。ここ数日の短い旅路が。ピョートルとともに過ごした思い出が、目まぐるしく移り変わっては、消えていく。</p><p>儚くも切ない。そんな想いとともに。</p><p>ケイは、決断した。</p><p>……アイリーン、</p><p>顔を上げる。透き通るような、蒼い瞳と正面から視線がぶつかった。</p><p>悲しむような、ケイを案じるような。それでいて何かを、期待するような。</p><p>アイリーンのまっすぐな瞳を見つめ返しながら、ケイは口を開く。</p><p>……荷物の用意を、頼めるか</p><p>真剣な表情のケイの問いに。</p><p>―アイリーンは、花開くような、心底嬉しそうな微笑みを浮かべた。</p><p>うん。……任せろ、すぐに用意してくる</p><p>力強く頷き、するりと人ごみをすり抜けて、ランダールの馬車の方へと駆けていく。</p><p>―たったこれだけで、全てが通じた。</p><p>アイリーンもやはり、同じことを考えていたのだ。</p><p>そのことが無性に嬉しく―ケイは、アイリーンと同じ考えに至った自分が少しだけ誇らしくも感じた。</p><p>ピョートル</p><p>……なんだ？</p><p>ありがとう。ピョートルのお陰で、色々と助けられた</p><p>両手をピョートルの手にしっかりと重ね合わせ、目を見て言葉を紡ぐ。</p><p>―良くしてくれて、ありがとう。色々と教えてくれて、ありがとう。本当に楽しかった。短い間だったが、ピョートルと出会えて本当に良かった</p><p>ゆっくりと、噛み締めるように。そして公国語が不自由なピョートルにも、自身の気持ちが十全に伝わるように。ケイは平易な言葉で、しかし万感の想いを込めて、言う。</p><p>一瞬、きょとんとしたピョートルは、それでも、ケイの手を握り返しながら朗らかに笑った。</p><p>わたしもだ。ケイと会えて良かった。そして、楽しかった。一緒にいられて、斥候の仕事をできて、良かった……ありがとう、ケイ。ありがとう……わたしも、きみと出会えて、本当に良かった……</p><p>そこまで告げてから、ピョートルは眠たげに、目を瞬いた。</p><p>少し……疲れた。眠くなってきた……</p><p>青褪めていながらも、穏やかだった表情に、陰りが差す。</p><p>今まで数十人となく命を奪い去ってきたケイは、本能的に、ピョートルに忍び寄りつつある濃厚な死の気配を、確かに感じ取った。</p><p>（……あまり時間に余裕がない）</p><p>―明らかに、死に喚ばれている。治療は一刻を争うだろう。ポーチの中のポーションを強く意識しつつ、ケイはぺろりと唇を舐めた。</p><p>どうするべきか。</p><p>『ピョートル……』</p><p>『嘘だ、こんなこと……』</p><p>『また一緒に、美味い酒を飲もうって……約束したじゃねえかよぉ』</p><p>あるいは、そろそろ危ないと聞きつけたのか、周囲にはピョートルとの別れを惜しむ人が続々と集まりつつあった。皆、涙を堪えながらも寄ってきては、口々に何事かを話しかけている。ピョートルは段々と意識が薄れてきているのか、寝ぼけたような口調で彼らに答えていた。隊商内におけるピョートルの人望が窺い知れる一幕だが、しかし、今のケイには少々都合が悪い。</p><p>（どうにかして、ポーションを飲ませたいんだが……）</p><p>傷口に直接かける手は、使わない。経口摂取とは比べ物にならない即効性があるが、やはり治癒の苦痛が尋常ではないし、何よりピョートルは傷口を包帯でギリギリ巻きにすることで辛うじて止血している状態だ。下手に包帯を外すと再び血が噴き出して、失血死してしまう可能性もある。自分で試してみてわかったが、経口摂取でも充分に傷を癒やし、体力を回復させることは可能だ。一瓶分のポーションを飲ませられれば問題なく快癒するだろう、というのがケイの見立てだった。</p><p>だが現状、ピョートルは十数名を超える仲間に取り囲まれており、密かにポーションを飲ませることなどできそうになかった。終いには、話を聞きつけてゲーンリフまでもが様子を見に来る始末だ。</p><p>（……どうする）</p><p>この場にいる全員にバレずに、ピョートルにポーションを飲ませる方法。</p><p>あるいは―この場にいる全員に、ポーションの存在を悟らせない方法。</p><p>考えを巡らせ、一つの手を思いつく。</p><p>あれやこれやと勘案した結果、最終的にそれしかないという結論に至った。</p><p>……今、助ける</p><p>小さな声で呟き。今一度ピョートルの手をギュッと握ったケイは、おもむろに立ち上がって周りを取り囲む人の輪を抜けた。</p><p>そして、近くの馬車の陰。皆がピョートルに注目しており、誰にも見られていないことをよく確認してから、ポーチからポーションの瓶を取り出し中身をあおる。</p><p>口の中、しゅわしゅわとしたポーション独特の微炭酸のような刺激を感じながら、覚悟を決めたケイは再び人混みに割って入った。</p><p>ピョートルの傍で跪いたケイは、覆いかぶさるようにして―</p><p>えっ</p><p>その場の全員が、困惑の声を上げた。</p><p>突然、それも無言のまま、ケイが自らの口でピョートルの唇を塞いだからだ。</p><p>凍りついたような空気を感じながらも、ケイは口移しでピョートルにポーションを飲ませていった。半ば意識を失いつつあったピョートルは、ほぼ無意識で、コクコクと命の雫を飲み干していく。</p><p>……ぷはっ</p><p>時間にして数十秒は経っただろうか。ポーション一瓶分を、ケイは周囲の誰にも悟らせることなく、ピョートルに飲ませることに成功した。見れば青褪めていたピョートルの頬にうっすらと赤みが差し、少し苦しげだった呼吸も安定しているようだ。おそらく、腹の傷も修復が進んでいることだろう、とケイは満足気に笑う。完治するのにポーションが足りているかは分からないが、少なくともこれで死の危険はなくなったはずだ。痛みがなくなり、体力の消耗と疲労がピークに達したためか、ピョートルは微睡みに誘われるようにして規則正しい寝息を立て始めた。</p><p>……今、何をした？</p><p>公国語で、困惑したままのゲーンリフが尋ねてくる。それは、この場にいる全員の総意だったことだろう。傍から見れば、ケイが突然濃厚な口づけをお見舞いし、それでピョートルが劇的な回復を遂げたようにしか見えなかったのだ。</p><p>…………</p><p>ケイは何も答えずに立ち上がり、ピゥッと指笛を吹き鳴らした。</p><p>ブルルッ、と楽しげにいななきながら、サスケが駆けてくる。再び強引に人の輪を抜けたケイは、“竜鱗通し”を片手にサスケへ飛び乗った。</p><p>アイリーンは、この短時間でしっかりと出立の用意をしてくれていたらしい。ランダールの馬車に積ませてもらっていた予備の矢がしっかりと補充されており、サスケの負担にならない程度に夜営の道具などが鞍に括りつけられている。</p><p>サスケから少し遅れて、荷物を背負ったスズカに跨がりアイリーンも駆けてくる。スズカもまたフル装備だ。準備万端、いつでも出発できる。</p><p>ケイとアイリーン、そしてその乗騎の姿に、只事ではないと察した隊商の面々がざわついた。</p><p>……ゲーンリフ殿。悪いが、俺たちはここで離脱させてもらう</p><p>何ッ！？</p><p>ケイの思いもよらぬ言葉に、ゲーンリフは驚いた。と、同時に焦った。たった今、ピョートルを一瞬で回復させた奇跡の業について、聞きたいことが山ほどあったからだ。</p><p>まっ、待って欲しい！　今のは、ケイ、いやケイ殿が今なされたのは、一体……！</p><p>元々、隊商に加えてもらうのは、馬賊から身を守るためだった。しかしこうして馬賊は壊滅させたし、もう同行する必要を感じないんだ。俺たちは、先を急ぐんでな</p><p>『……まあ、そういうことね。悪いけど、先に行かせてもらうわよ』</p><p>慌てるゲーンリフをよそにケイは淡々と告げ、アイリーンが肩をすくめながら母国語で今一度告げる。</p><p>きょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせたゲーンリフは、必死に次の言葉を考えているようだった。</p><p>今、ピョートルに使った御業は、まだ使えるのだろうか！？</p><p>いや、もう使えない。一度きりだ</p><p>前のめりになったゲーンリフの問いに、ケイは素っ気なく、そして淡々と答えた。元より隠すつもりもそれほどなかったため、ゲーンリフはそれが嘘だと一瞬で見抜く。どの辺が嘘かは分からないが、少なくとも本当のことは言っていないと、看破した。</p><p>……恥を忍んでお願い申し上げる！　隊商には、まだ重傷者が沢山いるのだ！　どうか彼らの怪我も見てやっては頂けないものか！</p><p>だから、無理だ。すまないな。失礼させてもらう</p><p>『馬賊の報奨金は、そっちで好きにしておいて。私たちは途中で抜けさせて貰うけど、迷惑料はその分でチャラってことで』</p><p>あくまで素っ気ないケイ、畳み掛けるように話をまとめようとするアイリーン。それぞれの乗騎の腹をぽんと足で蹴り、ゆっくりと駆け始める。</p><p>まっ、待って……待ってくれ！</p><p>ゲーンリフは一瞬躊躇ってから、</p><p>『行かせるな！　どうにかして止めるんだ！』</p><p>護衛戦士の騎兵に命じようとしたが、その足元にビシュッと鋭い音を立てて、白羽の矢が突き立った。</p><p>ケイだ。</p><p>言ったはずだ。今のが最初で最後。俺はもう『あれ』は使えない……これ以上追ってくるのならば、それ相応の(・・・・・)対応をさせてもらう！</p><p>矢をつがえた”竜鱗通し”をこれ見よがしに見せつけながら、ケイは叫んだ。それをすかさずアイリーンが雪原の民の言葉に翻訳して叫び、ケイの正確無比な騎射の腕と、“竜鱗通し”の化け物じみた威力を思い出した騎兵たちは、ゲーンリフの命令に従う気を一瞬で喪失した。</p><p>もはや誰にも邪魔されずに、平野を駆け始める。</p><p>揺れる馬上で、ケイは振り返った。呆気に取られたように立ち尽くす隊商の面々、そして彼らに囲まれた中心で、穏やかに寝息を立てるピョートル。</p><p>このような別れ方になってしまったからには、もう会えるかどうかはわからない。</p><p>……さようなら</p><p>一抹の寂しさを感じながら。</p><p>別れの言葉を風に乗せたケイは、ピョートルの姿を目に焼き付けながら、微笑んだ。</p><p>前方に向き直る。</p><p>そして、二人は北東へと突き進み、</p><p>やがてその姿は、隊商からは見えない、地平の果てへと消えていった。</p><p>49. 行方</p><p>隊商から離れ、ひたすら北東へ駆け続けること数時間。</p><p>ケイたちの行く手に、小さな川が現れた。</p><p>幅は数メートルもない、ささやかな水の流れ。ここ最近の雨の影響か、川面は土色に濁っていたが、見たところ沸騰させればどうにか飲用に耐えそうな水だ。普通の現代人なら腹を下す可能性もあったが、幸いなことにケイたちの肉体は頑強なので、泥臭い風味にさえ目を瞑れば何とかなる。</p><p>―これでもう乾きに怯える必要はない。</p><p>旅の序盤、エゴール街道での苦難を思い出しながら、二人は胸を撫で下ろした。</p><p>サスケとスズカに水を飲ませながら、ビスケットやサラミなどで遅めの昼食を摂る。戦闘の直後は食欲など微塵も感じられなかったが、一口噛み締めるごとに滋養が全身に染み渡るようだ。生ける肉体(からだ)のなんと貪欲なことか―と、口に食料を詰め込みながらケイはまるで他人事のように思った。</p><p>その後、休憩もそこそこに、川に沿って東へ進む。この川のお陰で、大まかな現在位置は把握できていた。地図によると、このまま進めばやがて街道に合流するはず。</p><p>それを信じて、駆け続ける。</p><p>隊商から追いかけてくる者はなく、周囲に人影も見えず。代わり映えしない雨上がりの風景、湿り気を失いゆく土の匂い。地平線まで白茶けた平野が延々と広がり、時折、思い出したかのように緑の木立が現れては、視界の果てに流れ去っていく。会話もない、ただ川の流れる音と風のさざめきだけが響く静かな旅路。</p><p>そんなケイたちが足を止めたのは、日が傾き始めた頃だった。川沿いの小高い岩山に、たまたま洞穴(ほらあな)を見つけたのだ。</p><p>ちっぽけな洞穴だった。崖のような岩山の斜面に、ぽっかりと口を開いている。</p><p>鷹のようなケイの目がなければ、まず見逃していただろう。川にほど近く、鬱蒼とした木々の奥に隠れ、大きさも手頃な洞穴―『巣穴』、という言葉を連想する。あまりにも条件が整いすぎているため、ケイたちは当初、それがまさに野生動物の巣であることを疑った。</p><p>しかし『洞穴』と言っても奥行きはせいぜい数メートルで、人間が雨風を凌ぐ分には充分だが、例えば熊のような大型の獣が住処とするには狭すぎる。そして周辺に獣が棲んでいる気配―足跡や毛、獣臭、皮や骨などの獲物の食べ滓―は全く見当たらず、特に危険はないように思われた。</p><p>相談の結果、二人はそこを今夜の野営地に定めた。この手狭な洞穴は、ケイたちにとって快適な仮宿となるだろう。隊商から離れた今、寝床の確保から周囲の安全確認、夕餉の支度に至るまで、全て自分たちの手で行わなければならない。日が暮れる前に就寝の用意まで終える、くらいの気概でやらねば間に合わないはずだ。</p><p>追い立てられるようにして、二人は慌ただしく野営の準備に取り掛かった。</p><p>よし。んじゃオレは洞穴ん中、片付けとくから</p><p>頼んだ。俺は川に行ってくる</p><p>アイリーンが軽く洞穴を掃除する間に、ケイは水を汲みに行く。とは言っても、実際に運搬役を担うのはサスケだ。ケイが防水性の革袋に水を入れ、それをサスケに背負ってもらう。人力でやれば一仕事だが、サスケは日頃から完全武装のケイ(もっと重いもの)を乗せているだけに、それほど苦にした様子も見せない。</p><p>いつも世話になりっぱなしだな</p><p>ありがとう、とケイが首筋を撫でると、得意気になったサスケは でしょ？ と言わんばかりに鼻を鳴らした。そのドヤ顔に 敵わないな と笑うケイ、労りの気持ちを込めてわっしゃわっしゃとそのたてがみを手櫛で梳いてやると、サスケは耳をピクピクさせながら心地良さげに目を細める。</p><p>本当に、転移当初から今日に至るまで、サスケはいつでも頼りになる相棒だ。ケイもアイリーンも、何度命を救われたかわからない。その駿足は他の追随を許さず、戦闘時は勇猛果敢な騎獣として振る舞い、人参や肉類を多めに出してやれば日々の雑用も厭わない。まさに愛すべき、大切な存在。</p><p>笑いが収まってから、ふと、ミカヅキのことを思い出した。</p><p>遠い目をしたケイは、懐に手を入れ、なめらかな皮の財布をそっと撫でつける。</p><p>労るように。</p><p>そして、ひとかけの苦い想いを噛み締めるように。</p><p>川から戻ると、アイリーンはひとしきり洞穴の掃除を終え、荷物の片付けを始めていた。ケイはついでに拾い集めていた適当な石で、洞穴の中に簡単なかまどを作り始める。火打ち石での点火も手慣れたもの―のはずだったが、木炭が湿気ていたせいで、火勢を安定させるのに少々手間取った。</p><p>どうにか起こした焚き火でお湯を沸かしながら、今度は洞穴の入り口を覆い隠すようにしてテントの布を張る。日没後、明かりで目立たないようにするための工夫だ。換気を考慮して完全には塞がないが、これでかなり焚き火の光が漏れにくくなるだろう。</p><p>ケイは『こちら』の世界に転移した初日、アイリーンが毒矢で死にかけた経験から、野営の明かりの管理にはかなり神経質になっていた。魔法仕掛けの”警報機(アラーム)“があるからといって、油断するわけにはいかない。“警報機”に頼らずに済む状況―すなわち、そもそも『敵』に見つからないことこそがより望ましい。</p><p>テントの布を張り終えた後も、念入りに、せっせと周囲の木々の枝を伐採しては入り口に立てかけ更なる偽装を進めるケイ。その執念さえ感じさせる―しかし状況を鑑みればあながち間違ってもいない―行動に、アイリーンは一瞬、申し訳なさとやるせなさの滲む何とも言えない顔をしたが、すぐに表情を明るいものに切り替えて手伝った。</p><p>なかなか悪くないな</p><p>すっかり枝葉で覆われた洞穴の入り口を前に、腕組みをして満足気なケイ。明るいうちに見れば違和感しかないが、夜の帳が降りれば、洞穴の明かりを程よく隠してくれるはずだ。隣のアイリーンもケイの真似をして腕を組み、 ふむ としばし考える素振りを見せた。</p><p>……そうだな。シャワー無し、ベッド無し、トイレ無し。コーヒーメーカーも置いてない。ホテルとしちゃ最低レベルだが、簡易かまど(ミニ・キッチン)はついてる。オレ的にはギリ一つ星ってトコかな</p><p>そいつは良かった</p><p>わざと偉そうに評するアイリーンに、ケイもおどけてお手上げのポーズを取る。そしてそのまま洞穴のテントの布を持ち上げてドアボーイのように一礼し、</p><p>どうぞ、お嬢様</p><p>あら、ごめんあそばせ</p><p>しゃなりと令嬢のように膝を折ったアイリーンは、そそくさとケイの腕の下をくぐり洞穴に入っていく。</p><p>口元に朗らかな笑みを浮かべたまま、今一度周囲に鋭い視線を走らせたケイは、異常がないことを改めて確認し、その後に続いた。</p><p>そうして、とっぷりと日が暮れる。</p><p>“警報機”を設置し、粥やサラミ、干し果物など、これまた代わり映えしないメニューの食事を終え、ケイたちはようやく一息つくことができた。入り口をテントの布と枝木で塞いだことにより、洞穴は一つの独立した空間となり、心細い二人旅の状況では思いのほか居心地が良い。</p><p>ぱちぱち、と火の中で薪が弾ける。</p><p>微かに吹き込む風にあわせて、ゆらゆらと二人の影が揺れる。</p><p>……はい、これ。お茶</p><p>ありがとう</p><p>ケイが壁面に背を預けてぼんやりしていると、隣り合って座るアイリーンがカップを手渡してきた。城郭都市サティナで買い、『こちら』で生活する間に、すっかり手に馴染んだ木製のカップ。すぐには口をつけず、ケイは手の中で揺れる薄茶色のハーブティーに視線を落とした。ほのかに香るカモミール―アイリーンも自分のカップに残りを注ぎ、空になった手鍋に水を足してかまどの三脚に戻す。</p><p>沈黙。</p><p>ふぅ、と息を吹きかけ、少し冷ましてからケイはお茶をすすった。</p><p>くつくつ、と手鍋の立てる音に外の静けさを意識する。自身の神経がまだ張り詰めていることを、ケイはおぼろげに自覚した。</p><p>んー。なかなか悪くないな</p><p>ちゃぷちゃぷとお茶を揺らしながら、やけに暢気な口調でアイリーン。</p><p>ん？</p><p>いや……二人旅もやっぱ、良いなって</p><p>ああ―</p><p>頬を緩めて、肩の力を抜いて―ケイも頷いた。</p><p>―そうだな</p><p>異論は、なかった。馬賊の脅威がなくなった今、他人に気兼ねせずに二人で過ごせるのは楽だし、アイリーンと一緒に居られる時間が増えたのは純粋に嬉しい。</p><p>唯一、隊商から離れると水が安定供給しにくくなるのが最大の懸念だったが、こうして川に行き当たったのは僥倖であった。最悪、水源が見つからなければ、大きく迂回してブラーチヤ街道に戻り隊商に先行する形で既知の水場を利用していく予定ではあったものの、トラブルの可能性を考えるならば、他者との接触は極力避けた方が望ましい。鳥や野生の獣は道中で何度も見かけたので、水さえ手に入るなら食料に関してはどうにでもなるのだ。</p><p>そろそろ何か別の物も食べたいところだ。このメニューも悪くはないが</p><p>最早旅のお供となりつつある、食べ終わった粥の皿と、サラミの切れ端を見やりながらケイ。 だなー！ とアイリーンも調子よく相槌を打った。</p><p>オレも飽きてきた。別のもんも食いたいよなー……うん……</p><p>が、言ってる途中で勢いを失って、言葉は尻すぼみになっていく。両手で包み込むようにしてカップを持ち、底をじっと覗く彼女は、遠い目で。</p><p>ケイの知らない、何か別の物を見出しているようだった。</p><p>しかし、夢を見るようなぼんやりとした顔も束の間。ケイが眺めているうちに、突如として眉をひそめ、表情を険しいものとするアイリーン。動悸を起こしたかのように、呼吸がかすかに荒くなる。体操座りで小さく背中を丸め、その顔は、焚き火の明かりに彩られて尚、青白い。</p><p>……はは。割と冷えるな</p><p>ケイの視線に気づいたアイリーンは、誤魔化すように笑った。</p><p>その取ってつけたような笑みに、ケイの胸の奥底がざわつく。先ほどからずっと感じていた、不協和音のような違和感を無視できなくなる。</p><p>……アイリーン</p><p>唇を引き結んだケイは、カップを傍らに置き、アイリーンの肩を抱き寄せた。</p><p>アイリーンは一瞬、びくりと震えた。</p><p>だが―そのまま力を抜いて、身を委ねてくる。</p><p>…………</p><p>華奢な体だった。軽いし、細いし、柔らかい。それでいて並の男などものともしない膂力を誇り、ケイでは逆立ちしても勝てないような剣撃をこの細腕から繰り出す。事実として知っていながらも、半ば信じがたい気分だ。</p><p>本来なら、この腕の中にある印象こそが正しい姿なのだと思う。</p><p>ゲーム時代の能力をほぼ受け継いでしまったからこそ、良くも悪くも今のアイリーンがある。少女の人格とは乖離した、あまりに洗練された戦闘技術。そしてそれを可能とする身体能力。</p><p>アイリーンの髪の端にこびりつく、黒ずんだ汚れに気づき、ケイは瞑目した。</p><p>この日、彼女はその力を十全に行使したのだ。己を守るため。ケイを助けるため。</p><p>ケイ独りには不可能だったのだ。全てを守り切ることなど。</p><p>どうしようもなかった―</p><p>はぁ……と、抑えきれないケイの微かな嘆息が、アイリーンの金髪をくすぐる。</p><p>アイリーンはちらりと物憂げに視線を動かし、口を開きかけたが、結局は何も言えずに俯いた。</p><p>語るべき言葉が見つからない。</p><p>互いの鼓動を間近に感じながら、じっと焚き火を見つめていた。</p><p>ただ、沈黙に沈み、揺らめく炎を眺めていると、心の内、影絵のように黒々と炙り出されていくものがある。</p><p>さながら走馬灯のように。</p><p>誰かの顔。</p><p>思い出す。死を目前にした人々の表情。</p><p>不思議と、“竜鱗通し”の餌食となる者は、最期に皆似たような顔をすることが多い。何が起きたのか、起きようとしているのか、わからぬまま死んでいく。呆気に取られたような、およそ死の直前には似つかわしくない、きょとんとした顔はユーモラスであるようにさえ感じられて、ケイの記憶にこびりつく。</p><p>そして時折、思い出す。ひどく薄ら寒い感覚と共に―</p><p>アイリーンは、と。</p><p>壁面に虚ろな視線を這わせ、ケイは思う。</p><p>この、腕の中で震える少女は、いったい何を想っているのだろうか。</p><p>アイリーンが？　と、未だに信じ切れない思いさえある。ただ、ケイはしかと見たのだ。アイリーンのサーベルが馬賊の首を刎ね飛ばす瞬間を、はっきりと。</p><p>確かに、アイリーンはサティナの誘拐事件で、誘拐犯を傷つけた経験はある。しかし人を殺めたのは、今日が初めてのはずだ。</p><p>ずきりと、ケイの胸がうずく。アイリーンの心にくすぶっているであろう懊悩を想像すると、胸が引き裂かれるような想いだった。先(・)達(・)としてアドバイスできることなど何もない。死体の山を築いて尚、まだ良くわかっていないのだ。あるのは、底なし沼に徐々に嵌っていくような焦燥感と、後味の悪さだけ―。</p><p>そしてそれは未だに解決していない。</p><p>―ケイ</p><p>突然。</p><p>アイリーンの呼び声に、はっと顔を上げた。</p><p>……どうした？</p><p>一拍置き、努めて平静を装って答える。</p><p>しかし、アイリーンはなかなか切り出さなかった。俯いたまま、自分の足のつま先をじっと見つめている。</p><p>夜の空気はいよいよ静かだ。ケイはただアイリーンの言葉を待つ。のっぺりと、時が引き伸ばされていくような感覚。彼女が何を想うのか。少し恐ろしくもあったが、ケイは知りたかった。</p><p>やがて、切り出したときと同じように、唐突に。</p><p>……ごめんね</p><p>アイリーンはぽつりと呟くようにして、言った。</p><empty-line/><p>ゆっくりと、ケイは目を瞬く。純粋に、その意を測りかねた。人を手に掛けたことを思い悩んでいるのだろう、と考えていただけに、何故自分に謝るのかがわからない。</p><p>……なぜ？</p><p>それを直接、問うことは憚られた。説明を強いれば、それがアイリーンを苦しめるとわかっていたから。だがその真意が読めない以上、尋ねざるを得なかった。</p><p>怖れたとおり、アイリーンは歯を食いしばって、絞り出すように、</p><p>ケイに……また、戦わせてしまった</p><p>ぽかん、とケイは呆気に取られた。</p><p>アイリーンのせいじゃない……！</p><p>即答。声を荒げぬよう、自制するのは容易ではなかった。突然、心に湧いて出た怒りの矛先を、どこに向ければよいのか、自分でもわからない。ただその相手がアイリーンでないことだけは確かだった。</p><p>そんなケイの心情を察してか、アイリーンは疲れたように低く笑い、自嘲の気配を漂わせる。</p><p>オレが……</p><p>言葉は、血が滲むようだった。</p><p>オレが……北の大地(ここ)に来るなんて、言い出さなければ……</p><p>―</p><p>理屈としては確かに、その通りだ。あまりに当然のことに、虚を突かれて一瞬、納得してしまう。</p><p>だから、沈黙は雄弁な肯定となった。そしてそれは、アイリーンの言い分を認めるということでもある。</p><p>ケイはガラス細工を床に取り落としてしまった職人のように、俄(にわか)に慌てた。</p><p>……俺は大丈夫だ(I’m fine)。問題ない(No problem)</p><p>硬い声で、言い切る。気まずい沈黙の気配を振り払うように。</p><p>俺はむしろ、アイリーンが心配なんだ</p><p>その金髪を、頭を撫でながら、やや強引にそう続けた。子供をあやすように、ぎこちない笑みを浮かべて。</p><p>ぐるりと首を巡らせ、斜めにケイを見やるアイリーン。</p><p>蒼い瞳が、ケイの顔を捉える。</p><p>揺れる、視線。</p><p>ふと―少女の表情に、寂しげな影が落ちる。</p><p>……大丈夫さ(I’m fine)</p><p>返答は言葉少なに、短く。</p><p>それきり、焚き火に向き直って、内側に沈み込んでしまう。</p><p>…………</p><p>今度こそ、本当の沈黙が訪れる。</p><p>―大丈夫なはずがないじゃないか。</p><p>咄嗟に出かかった声を、ケイはどうにかして飲み込んだ。明らかに、普通じゃないし、アイリーンが苦しんでいるのは一目瞭然だった。</p><p>大丈夫だと、口では言うが。</p><p>だったらなぜ、こんなにも震えている？</p><p>そして、なぜ―それを言ってくれないのか。</p><p>アイリーンの頭を撫でながら、ケイは深い悲しみに襲われた。</p><p>これ以上の詮索はしないし、できない。</p><p>ここで、 本当に？ と問いかけても、アイリーンは 本当に大丈夫だよ と答えるだけだろう。それがわかっていたから。</p><p>―互いの距離は、こんなにも近いのに。</p><p>とくん、とくん、とアイリーンの鼓動が、伝わってくる。</p><p>これ以上、近づけない―</p><p>悲しかった。</p><p>アイリーンに気取られないよう、細く長く息を吐いて、俯いた。</p><p>ケイもまた、内向きの思考の渦に囚われそうになる。</p><p>だが、ふと。</p><p>傍らに置きっ放していたカップに、目を留めた。</p><p>揺れる薄茶色のハーブティー。そこに映り込む、自分の顔。</p><p>沈んだ、顔。</p><p>それを目にした瞬間、ケイは雷に打たれたように固まった。</p><p>衝撃を受けた。</p><p>今の自分もまた―アイリーンには、『そう見えているのかも知れない』、と。</p><p>気付かされたから。</p><p>ああ、と。</p><p>すとん、と心に落ちてくるものがある。</p><p>ケイは、アイリーンを傷つけたくない一心だった。</p><p>そもそもケイ自身、己がどう思っているかなど、いまいち判断がついていない。</p><p>そんなことよりも、ただアイリーンが心配だった。</p><p>だから言ったのだ。 大丈夫だ と。</p><p>だが―それは、アイリーンからしたらどうなのだろう。</p><p>先に表情を塗り固めていたのは、ケイの方ではなかったか。</p><p>距離を取っていたのは、むしろ―。</p><p>アイリーンは、ケイが苦しんでいると思っている。</p><p>なぜなら、自分のせいでケイが戦う羽目になったからだ。</p><p>命がけで。傷ついて。死にかけながら、殺して。</p><p>そんな過酷な状況に曝され、傷つかないはずがないと。</p><p>ケイは、アイリーンが苦しんでいると思っている。</p><p>なぜなら今日、彼女は初めて人を斬ったからだ。</p><p>血みどろの惨劇と、人間の悪意の暴風に曝されて。</p><p>傷つかないはずがない。彼女は優しすぎるから。</p><p>それでも、アイリーンは 大丈夫だ と言った。</p><p>でもきっとそれは、ケイに嘘をつきたいからじゃなくて、ケイを心配させたくなかったからだ。</p><p>あるいは、ケイが苦しんでいるのに、自分に苦しむ権利がないと思っている。</p><p>アイリーンは真面目だ。</p><p>苦しんではいけないと思いながらも、苦しんでいる。</p><p>きっと―</p><p>本当は、つらくて堪らないはずだ。</p><p>今のケイと同じように。</p><p>互いが互いを心配して</p><p>傷つけたくなくて</p><p>遠ざけようとして　近づこうとして</p><p>でもそれはできなくて</p><p>―悲しかった。</p><p>ただ、悲しいだけではなく、熱くこみ上げてくるものがあった。</p><p>……ケイ？</p><p>頭を撫でる手も止めて、黙りこんだままのケイに、アイリーンが振り返る。</p><p>そして青い目を見開いた。</p><p>ケイの瞳からこぼれ落ちる、一筋の涙に気づいた。</p><p>―ケイ！？　どうしたんだ！？　どこか痛むのか！？</p><p>動転し、ケイの全身をぺたぺたと触りながら、こちらを覗き込んでくるアイリーン。ただひたすら、心から、ケイのことだけを心配している顔だった。</p><p>……違うんだ</p><p>ゆっくりと頭(かぶり)を振って、思わず手を伸ばしたケイは、アイリーンを抱き締める。</p><p>違うんだ……</p><p>今一度、呟く。</p><p>どうやら痛みのせいで泣いているわけではないらしい、と理解したアイリーンは、少しばかり落ち着きを取り戻しつつも、心配げな様子を崩さない。</p><p>……ケイ？</p><p>抱き締められたまま、ちらりと上目でケイの様子を窺うアイリーン。また心配させている、と思いながらも、はらはらと溢れる涙は止まる気配がなかった。</p><p>何かを言おうとはするが、なかなか言葉が出てこない。今度は、ケイがアイリーンを待たせる番だった。</p><p>……わからないんだ</p><p>ぽつりと。</p><p>さっきは、『大丈夫だ』って言ったが……本当は、自分でもわからないんだ。人を殺したのは、今日が初めてじゃない。それに……先に襲ってきたのは、奴らだ。状況的に他に手はなかった。納得はしている、と思う。でも……だからと言って何も感じないわけじゃない……</p><p>一度口を開けば、訥々と。</p><p>理屈じゃわかってるんだ。選択肢がなかったって。あそこで誰も殺さずに済む手段があったなら、俺はそれを選んだと思う。だが、そんなものはなかった。これは……辛いのかな。やっぱり良い気持ちはしない。今夜は悪い夢でも見るかもしれない。でもな、アイリーン</p><p>ぐいと涙を拭って、アイリーンを見据えた。</p><p>でも、それ以上に、お前のことが心配なんだ</p><p>自分のことは―アイリーンに比べれば、ちっぽけなことだ。</p><p>俺は良いんだ。こうして元気に生きてるし、暗い気持ちも、寝てりゃそのうち忘れるって経験でわかってる。でもアイリーンは……俺とは事情が違う。初めて『こっち』で人を手に掛けたときは、……今となっちゃあんまり憶えてないが、やっぱり数日は引きずった。『あんなこと』のあとじゃ……普通ではいられないよ</p><p>いられるはずがない。</p><p>だから、辛かったら、苦しかったら、遠慮せずに言って欲しい。泣きたいなら泣いてもいい。……俺に、泣きながら言われるのも、変な話かも知れないけどさ</p><p>抱きとめた胸元で、アイリーンの頭を撫でながら、ケイはしみじみと言う。</p><p>一人で抱え込むのは……色々と、辛いから</p><p>アイリーンは、半ば茫然とケイの言葉に聞き入っていたが。</p><p>……ケイ</p><p>きゅっと表情を歪めて、俯いた。</p><p>……オレも、わかんないんだ</p><p>ぼんやりと、アイリーンは自分の手に視線を注いでいる。</p><p>ケイの言ってること、よくわかるよ。でも、あんまり、現実味がないっていうかさ</p><p>……ああ</p><p>……感触は、割と印象に残ってるっていうか。意外と手応えないんだな、とか、そういうの。はは、変だよな。もっと他に手が、とか、別の方法が、とか、誰でも似たようなこと、きっと考えるんだろな……</p><p>泣き笑いのような表情をしたアイリーンは、こちらを見つめ―そのままぐりぐりと顔をケイの胸板に押し付けてきた。</p><p>ごめん……！　ホントにごめん……！</p><p>押し殺すような、引き裂かれるような。</p><p>静かだが、悔恨にまみれた、どこまでも悲痛な声だった。</p><p>ケイは目を閉じて、アイリーンの背中をさする。</p><p>いいんだ。本当に。気にするな、って言っても、難しいだろうが……</p><p>でも……っ、オレが言い出さなきゃ……っ</p><p>そうやって、自分を責めないでくれ……アイリーンが落ち込んでたら、俺も悲しい</p><p>そうは言っても、無理があることくらい、ケイにもわかっている。 それじゃあまあいいか とすぐに開き直れるなら、誰も最初から苦労はしない。アイリーンは自責の念に駆られるだろうし、それまでするな、と言えば心の出口を塞ぎかねない。</p><p>だが、これがケイの素直な気持ちだ。</p><p>来る前から、リスクは重々承知していた。二人で決めたことだ。だから、自分だけを……あまり責めないでくれ</p><p>しばらく答えはなかった。アイリーンの性格上、到底すぐには納得できないだろう。</p><p>だがやがて、アイリーンは、 ……うん と、消え入りそうな声で答えた。</p><p>それに、考えてもみろ。俺たちが居なければ、多分隊商は全滅してたぞ</p><p>……そう、だな</p><p>ピョートルやランダール、まあ、あと……諸々、隊商の皆を助けられたんだ。結果としては、悪いことじゃなかったはずだし、それは誇ってもいいだろう</p><p>全てを肯定して良いわけではない。だが、肯定的側面というものも確かに存在する。</p><p>アイリーンの反応は芳しいとは言えないが、心の片隅にでも、それを留めておいて欲しいとケイは思う。何よりも、今は時間が必要だ。自分の中で整理をつけるだけの時間が―外からとやかく言うよりも、それが一番の特効薬となる。</p><p>ただ、その一助となれば、と。</p><p>自身の経験を振り返りながら、ケイは切に願った。</p><p>ゆっくりと、腕の中のアイリーンの背をさすりながら、焚き火を眺める。アイリーンは、泣いていなかった。ただ表情を消して、自責と後味の悪さに苦しんでいる。</p><p>なぜ、こんなにも彼女が苦しまねばならないのか。ひとり嘆くケイは、</p><p>……なんで、馬賊の連中は、わざわざ北の大地(こんなとこ)まで来たんだろうな</p><p>自然、心に浮かんだ疑問をそのまま呟いていた。連中さえいなければ、というそんな単純な思考。</p><p>びくりと体を震わせたのは、アイリーンだ。</p><p>ケイは、雪原の民の言葉(ロシア語)を解さない。</p><p>だから、これまでの道中で出会った人々や、隊商の皆の会話を、ほとんど把握できていないのだ。</p><p>対するアイリーンは、大体の事情に通じている。</p><p>北の大地。公国との紛争。売り払われた奴隷。草原の民の女子供たち。</p><p>ケイは―言っていた。</p><p>自分たちがいたことで、馬賊を撃退できたと。そして隊商の皆を救えたと。</p><p>それを誇っていいはずだ、と。</p><p>そう語るとき、彼の口調は確かに軽かった。肯定的側面。ケイにとってそれは、今回の殺人を肯定する、よすがであるに違いなかった。</p><p>では―どうだろう。</p><p>もし、ケイが、知ってしまったら。</p><p>ケイが何十人と手をかけた馬賊たちは、実は奴隷として売り飛ばされた同胞の女子供たちを救うため、公国から遠路はるばるやってきたのだ、と知ったのなら―</p><p>ケイは、どう思うだろう―？</p><p>……ッッ！！</p><p>言えるはずがない。</p><p>そんなこと、今のケイに言えるはずがなかった。</p><p>アイリーンは、ケイの胸に顔を埋めたまま、歯を食いしばる。</p><p>なんで、だろうな</p><p>答える声は、震えていた。己の罪深さに押し潰されてしまいそうだった。</p><p>こんなことなら、初めから、北の大地になど来るべきではなかったのだ。断固として地球に帰還する、という意志があったならまだしも、ただ迷いがあった程度で、ケイをこんなことに巻き込む権利があるはずもない。</p><p>なのに―自分は―</p><p>わかんないよなぁ……</p><p>一方で、アイリーンの言葉をそのまま受け取ったケイは、ぼんやりと、そして、どことなくのんびりと首肯する。</p><p>それを聞いて、アイリーンの中で、何かが弾けた。</p><p>くっ、ぅぅぅ……</p><p>食いしばった歯の隙間から、声が漏れる。胸がきしみ、頭に血が上り、両目に熱い涙が溜まっていくのが抑えられなかった。</p><p>泣きたくない。</p><p>辛いとき、ただ泣いて縋るだけの女になりたくなかった。</p><p>だから、意地でも泣くまいと思っていた。</p><p>でも、もうダメだ。あまりにケイに申し訳なくて、悲しくて、情けなくて。</p><p>それでも、優しく撫でてくれる手が愛おしくて。</p><p>色んな感情がごっちゃになって、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。もう何も考えられなかった。</p><p>アイリーン……</p><p>ケイは名前を呼ぶだけで、何も言わない。ただそっと抱き締める。</p><p>ごめん……</p><p>自然と、口に出していた。</p><p>ごめんね……ごめんね、ケイ……！</p><p>むせび泣くことしか、できなかった。</p><p>―いいんだ。</p><p>耳元で、ケイのささやきを聞いて。</p><p>アイリーンはどうしようもなくて、泣いた。</p><p>†††</p><p>その夜。</p><p>泣き疲れたアイリーンと一緒に、ケイは眠った。</p><p>洞穴の外にはサスケとスズカがおり、“警報機”もあるので、二人揃って寝ても大丈夫だろうという判断だった。それでも、万が一の際はすぐに行動できるよう、ケイは洞穴の壁に背を預けて眠りについた。疲れのせいもあり、一瞬で意識は途絶える。</p><p>浅いようで、深い眠り。</p><p>そのせいだろうか。妙な夢を見た。</p><p>夢の中で、ケイは地球の実家にいた。なぜか今と同じように、ゲームのアバターそのままの、健康な肉体で日常生活を送っていた。</p><p>早朝、自室で目を覚まし―幼い頃から入院生活を送っていたケイには、実家に自室などなかったのだが―おそらく休日だったのだろう、リビングで両親や弟と一緒に、朝食を食べる。</p><p>本来なら、ケイは弟と絶縁状態にあった。昔、 俺も兄ちゃんみたいな身体だったら、いくらでもゲームできたのに と言われ、ケイがブチ切れたためだ。しかし夢の中ではそんな過去もなかったことになっていて、普通に仲の良い兄弟として、一緒にテレビを見たり、他愛のないことを話しながら過ごした。最後に直接見た、おそらく十歳ほど若いままの姿の両親も、そんなケイたちを微笑ましげに見ていた。</p><p>ケイの想像する、『普通の家庭』。</p><p>そんな夢だった。</p><p>朝、洞穴で、鳥の鳴き声を聞き、目を覚ましたとき―ケイはまだ、夢の現実感を引きずっていた。自分が地球の、あるはずもない自室で目を覚ましたような、そんな錯覚に囚われた。</p><p>それが夢であった、と気づいた瞬間、ケイの心を満たしたのは、寂しさだ。</p><p>おそらく、久しく感じたことのない、郷愁というものだった。</p><p>実際、ケイには選択肢がない。地球への帰還が可能だったとしても、ゲームの肉体のまま戻れないなら、待っているのは遠くない未来での死だ。</p><p>ケイは死にたくはない。まだまだ生きたいと願っている。</p><p>ならば、『こちら』の世界に留まるしかない。</p><p>そう考えると、心はぴたりと定まり、迷いは一片もない。</p><p>しかし―どうだろう。</p><p>帰ったとき、そこに、それなりに日常生活を送れる肉体があったとしたら。</p><p>そう仮定して考えてみると、一気に決心が揺らぐのを感じた。</p><p>地球の生活は魅力的だ。少なくとも日本ならそれなりに安全だし、物は豊富にあり、インフラも整っている。</p><p>ロシアも、それは大して変わらないはずだ―</p><p>少なくとも、一歩間違ったら馬賊に襲撃されて、血みどろの殺し合いに巻き込まれるような、そんな物騒なことは、概ねない。</p><p>アイリーンは以前、自身の気持ちを『迷いがある』と表現していたが、それも納得だった。ケイでさえ、想像するとこれほどまでに心が揺れるのだ。いわんやアイリーンなら―推して量るべしだ。迷うのも当たり前だろう。</p><p>果たして、この世界に留まることが、普通の人にとって『幸せ』なのか。</p><p>ケイにはわからない。それが、アイリーンにとって、どうなのかは―正直なところ、今はまだ、あまり考えたくない。</p><p>だが、答えは近いうちに出るだろう。</p><p>ケイに続いてアイリーンも目を覚まし、朝食を摂った二人は、すぐに洞穴を発った。</p><p>目指すは、当初の目的地。“魔の森”に最も近いとされる、シャリトの村だ。昨夜はあんな話をしたが、ここまで来て今更引き返すわけにはいかない。行けるところまで行くまでだった。</p><empty-line/><p>アイリーンの顔色は依然として冴えない。</p><p>まあ、それはそうだろうな、とケイは思う。一日二日でけろりとしてしまうのは、それはそれで恐ろしいような気もする。</p><p>アイリーンの内なる葛藤など知る由もないケイは、彼女の反応は至極まともである、とそんな風に認識していた。</p><p>ただ、塞ぎこんでいるアイリーンを見ていると、否応なくケイは、彼女にとっての『幸せ』を考えてしまう。</p><p>悩み、考えるケイたちを他所に、それでもサスケとスズカは進む。</p><p>その後は、特に支障はなく、思いの外順調な旅路となった。</p><p>川を辿って新たな街道に合流し、中間目的地であった都市”ベルヤンスク”をスキップして、直接”シャリトスコエ”に向かう。充分な水源と点在する村々のお陰で物資の補給にも事欠かない。ケイの容姿のせいで現地民との交流が難しくなる恐れもあったが、北の大地の北東部では馬賊の悪評はそれほど広まっておらず、事なきを得る。</p><p>ケイたちがシャリトの村に到着したのは、隊商から別れて四日後のことだった。</p><p>事前の情報で、『小さな辺境の村』というイメージを持っていたが、実際の村の様子は想像とは大分異なっていた。</p><p>まるで小さな要塞だな……</p><p>森と平野の境目に位置する集落を遠目に見て、ケイは感心したように独り呟く。丸太を地面に直接打ち付けたような、頑丈な木の壁にぐるりと囲まれた村だ。親指を立てて高さを測ると、壁は優に三メートルはありそうだった。大抵の獣や野盗ならば、簡単に跳ね除けられそうな防備だ。</p><p>要塞村、って他の村の住人が言ってたな</p><p>ここ数日で大分調子を取り戻しつつあるアイリーンが、ケイの独り言を聞きつけて補足する。</p><p>成る程。言葉通りだな</p><p>シャリトは人口百名ほどの辺境の集落らしいが、建物などはそれぞれ立派な造りであることが看て取れる。何か特産でもあるのだろうか―少なくとも、公国の書物では具体的には触れられていなかったが。</p><p>スムーズに入れると良いんだが</p><p>見るからに『開放的』じゃなさそうだもんなー</p><p>二人して顔を見合わせる。</p><p>果たして、その懸念は現実のものとなった。</p><p>『止まれ！　何者か！』</p><p>ケイたちが村まで近づいた時点で、入口の門の傍、見張り櫓のような建物の上から、弓を手にした村人が誰何(すいか)してきた。</p><p>村人―と、この場合は表現する他ないのだろうが、筋骨隆々の中年の男が、板金仕込みの革鎧で武装している様は、まさに戦士だ。一目で猛者とわかる立ち居振舞い、威容。ようやく『北の大地』らしい雪原の民が出てきたな、と顔布の奥でケイは皮肉に笑う。</p><p>『怪しい者じゃないわ！　訳あって”魔の森”に用があるの。貴方のところが、一番近い村でしょう？』</p><p>アイリーンが答えると、門番は はぁ？ と訝しげな声を上げる。しばし、自分たちの境遇―霧の異邦人(エトランジェ)のことをそれとなく伝えると、門番の男は『ちょっと待て、人を遣る』と言い、櫓を降りていった。</p><p>さて、どうなるか……</p><p>というか、昼間でも門を閉じてるんだな、この村は</p><p>気を揉むアイリーンに、村を仔細に観察するケイ。</p><p>待たされること数分。</p><p>ギギギィッ、と重い軋みを上げて、村の門が開かれた。</p><p>『貴様らか、旅人というのは』</p><p>そして、その奥から独りの偉丈夫が姿を現す。</p><p>“獅子”。</p><p>ケイたちが、真っ先に連想したのは、その言葉だ。</p><p>壮年の男だった。がっしりとした体格。ぴったりとした革の服の下には筋肉の線が浮かび、白髪交じりの長い金髪と立派に蓄えたあごひげは、まさにたてがみのようだ。見るからに、強い意志の光を湛える双眸は、アイリーンのそれよりも薄い水色。腕を組み、門の真下で仁王立ちにした姿からは覇気が滲み出ており、一目で只者でないことがわかった。</p><p>『ええと……貴方は？』</p><p>若干、引き攣った笑顔を浮かべて、アイリーン。</p><p>『この村のまとめ役をやっておる者だ。セルゲイという』</p><p>『よ、よろしく……わたしはアイリーン』</p><p>馬から降りて会釈するアイリーン。ケイも続いてサスケから降り、フードを跳ね上げて顔布を取り去る。</p><p>ケイのアジア人的な相貌を目にしても、男―セルゲイの厳つい表情は、微塵も動揺を見せない。</p><p>Nice to meet you. My name is Kei</p><p>ただ、ケイが公国語で話すと、ぴくりと眉を動かした。</p><p>……なんだ、貴様は草原の民か？</p><p>流暢な公国語。ケイとアイリーンは思わず顔を見合わせた。</p><p>どうした、何がおかしい？</p><p>ああ、いや……流暢な公国語で、少々驚いた</p><p>今までの村々でも、ここまでスムーズに英語が話せる雪原の民は、早々お目にかかれなかった。まさかこんな最果ての村に、外国語を使いこなす住民がいるとは思ってもみなかったのだ。</p><p>ケイたちの反応に、セルゲイは少し得意げになって、フンと鼻を鳴らした。</p><p>ワシも若い頃は、武者修行で各地を回っておったからな。公国語なんざお手の物よ。……で、貴様は草原の民か？</p><p>最初の質問に戻る。ケイはゆっくりと首を横に振った。</p><p>いや。よく間違えられるが、Japaneseという別の民族だ。彼女(ツレ)が話した通り、訳あって遠くからやってきてな……一応、公国、というか要塞都市ウルヴァーンの市民証もあるが、兎に角草原の民ではない</p><p>……最近では、草原の民が物騒なことをしておると、風の噂に聞いたからな</p><p>じろりと、ケイの頭からつま先まで、胡乱な目で睨めつけるセルゲイ。</p><p>ウチの村では下手な真似はしないことだ。皆、それなりに腕に覚えはあるからな。ただし行儀よくするならば客としてもてなそう。立ち話も何だ、まあ入れ</p><p>くるりとケイたちに背を向け、さっさと歩き出すセルゲイ。しかし何かを思い出したかのようにすぐに振り返り、</p><p>Welcome to(ようこそ) Сяльто(シャリトへ)</p><p>サッ、と手を広げて一言。そしてそのまま再び歩き出す。</p><p>…………</p><p>ケイたちは、今一度顔を見合わせた。</p><p>まだ油断ならないが、意外と茶目っ気のある人物なのかも知れない。</p><p>サスケとスズカを連れて、ケイたちも村に入る。</p><p>成る程、セルゲイが言っていたのは事実だろう。先ほどの門番とセルゲイ本人を見た時点で薄々察していたが、この村の住人はかなり鍛えられているようだった。</p><p>村のあちこちで見かける男衆は、例外なくがっしりとした体つきで、アイリーン曰く重心の安定度から何らかの武術を修めているのはまず間違いないだろうとのことだった。女衆でさえ、時たまケイより強そうな雰囲気を漂わせている者がいる。例えば今しがた通りがかった軒先の中年女性などは、ケイの太腿ほどの腕の太さを誇り、生半可な木ならば一撃で叩き折れそうな貫禄を備えていた。</p><p>皆、余所者であるケイたちに、物珍しげな視線を向けている。所謂、排他的な刺々しさは感じなかったが、ケイやアイリーンの力量を推し計ろうとするかのような気配があった。只者でない、という点では、ケイたちも大概だ。しかし一目でそれとなく察するとなると、つまり村人たちも尋常ではない、ということなのだろう。</p><p>どんな不届き者も、この村に入れば悪さをする気を失おうというものだ。少なくとも治安は安定しているように見える。逆に、村ぐるみの追い剥ぎに遭おうものなら、魔術でも使わないかぎり勝ち目がなさそうだったが。</p><p>セルゲイに案内されたのは、村の端に位置する大きな屋敷だ。村長の家、ということらしい。</p><p>『タチアナ！　茶を淹れてくれ。客人だ』</p><p>『あらあら、珍しい。これはまた別嬪さんといい男じゃないかい？　とっておきの茶菓子もつけようかね』</p><p>セルゲイの妻だろうか、恰幅の良い肝っ玉母さん風の女性が炊事場へと小走りで飛んで行く。リビングに通されたケイたちは、荷物を置きながら薦められるがままにテーブルについた。</p><p>そういや、公国の市民証があるって話だったか？</p><p>ああ、一応。名誉市民だがな</p><p>ほーう、そいつァまた珍しい。かれこれ数十年生きてるが、本物にはお目にかかったことがないんだ、良かったら見せてくれ</p><p>お安いご用さ</p><p>言葉が通じるのはなんと素晴らしいことだろう、としみじみ思いながら、ケイは懐から市民証を取り出す。アイリーンのお陰で慣れているので、雪原の訛りも聞き取りには全く問題ない。</p><p>物珍しげにしげしげと紙面に視線を落とすセルゲイ。会話が途切れたケイたちは、さてこれから何をどう話したものか、と思索を巡らし始めた。</p><p>が。</p><p>そのとき、リビングの扉がバタンと開いて、金髪の青年が颯爽と入ってくる。</p><p>『親父！　今度の狩りの件なんだが―』</p><p>ハキハキとした声でセルゲイに話しかけようとしていた青年は、ふと、リビングで寛ぐ客人(ケイ)たちに視線を向けて、その水色の目をまん丸に見開いた。</p><p>あぁ！！</p><p>はっ？！</p><p>えっ！？</p><p>青年、ケイ、アイリーンと、三者三様に素っ頓狂な声を上げる。</p><p>…………！！</p><p>全員、二の句が継げない。</p><p>ケイの市民証から顔を上げたセルゲイは、呆気に取られて硬直する三人を見やって、訝しげに首を傾げた。</p><p>なんだ、知り合いか？　アレクセイ</p><p>父親の声に、はっと我に返った金髪碧眼の青年は―引き攣った笑みを浮かべ、ぎこちなくケイたちに手を振った。</p><p>よ、よお……久しぶり</p><p>アレクセイだった。</p><p>50. 再会</p><p>ガッハッハッハ、と豪快な笑い声が響き渡る。</p><p>いやはや、まさか貴様が例の弓使いだったとはなぁ！</p><p>屋敷のリビングにて、笑いながらケイの背中をバンバンと叩くのはシャリト村の長、セルゲイその人だ。あまりの馬鹿力に座ったまま前へつんのめるケイ、隣でどう反応したものか困り顔のアイリーン。テーブルを挟んで反対側のアレクセイは、腕を組んでなんとも渋い顔をしている。</p><p>ほほー……アンタがねえ……</p><p>彼女、美人さんじゃない？　ねえエリーナ</p><p>な、なんで私に振るんです？</p><p>値踏みするようにケイを見やる肝っ玉母さん風の女性、金髪を長く伸ばした吊り目の美女、そして亜麻色の髪を三つ編みおさげにした大人しそうな少女。</p><p>現在、騒ぎを聞きつけて、屋敷にはセルゲイの家族たちが集まっている。</p><p>よぉし、では紹介しよう！</p><p>やたら上機嫌でノリノリのセルゲイが、家族を紹介し始めた。</p><p>まず、妻のタチアナだ</p><p>よろしく。ウチの倅が世話になったらしいねえ</p><p>タチアナ―件の肝っ玉母さん風の女性は、やはり肝っ玉母さんだったらしい。両手を腰に当てた、恰幅の良いマダムに正面からギロリと睨めつけられ、 その…… と思わず返答に詰まるケイ。アレクセイは手で顔を覆っていた。</p><p>が、ケイが口を開く前に、タチアナは一転、表情を緩めてからからと笑い出す。</p><p>冗談さね、男ならシャキッとしな！　切った張ったは雪原の男に付き物、いちいち気にしてたらキリがないよ</p><p>は、はぁ……</p><p>取り敢えず気にはしていないらしい、と安心しつつ、ケイは阿呆のように頷く。</p><p>うむうむ、と同意するように首肯したセルゲイは、続いて吊り目の美女を示した。</p><p>で、こっちが娘のアナスタシアだ</p><p>ハァイ。わたし、公国語はそんなにできないの。お手柔らかにね</p><p>ぱちりとケイにウィンクして手をひらひらとさせる美女―アナスタシア。公国語はできない、と言う割にはしっとりと滑らかな喋り方だ。おそらく二十代前半、アレクセイの姉だろうか。</p><p>ケイの顔から胸部にかけて、舐めるような視線を向けたアナスタシアは一言、</p><p>そそるわ……</p><p>お、おねえさん、夫を持つ身でそういうことは……</p><p>アナスタシアの隣りに座る、三つ編みおさげの少女がわたわたと慌てている。</p><p>だってしょうがないじゃない。彼ったらもう一週間も家に帰ってないのよ</p><p>飄々とした表情に若干の憂いの色を滲ませて、溜息をつくアナスタシア。ケイたちと同年代とは思えないほど、色気のある表情をしていた。</p><p>こいつの旦那は村の商家の跡継ぎでな。たまに行商で他の村々を回るから、家を長く空けることがあるんだ</p><p>そう。だからこうして実家にも遊びに来れるってワケ……足繁くね</p><p>横から補足するセルゲイ、アナスタシアは皮肉げに笑った。</p><p>なるほど、既婚か</p><p>あらぁ、興味がおあり？</p><p>いや、まあ、そういうわけでは……。俺には愛する人がいるのでな</p><p>真面目くさったケイの言葉に、アナスタシアはころころと笑う。はにかんだような笑みを浮かべるアイリーン。苦笑するアレクセイと、その隣で少し表情を曇らせる三つ編みおさげの少女。アナスタシアはおさげの少女に流し目を送った。</p><p>ほんと、聞いていた通り生真面目な人ね。ですってよエリーナ</p><p>だからなんで私に振るんですかっ</p><p>エリーナと呼ばれたおさげの少女は、頬を赤らめてケイとアイリーンを交互に見やり、何故か動揺している。</p><p>嫌気が差したらいつでも帰ってきて良いんだぞ、とは言ってたんだがなあ……嫁入り後も愛娘と会えるのは良いとしても、こんなにしょっちゅう帰ってくることになるとは思わなんだ</p><p>周囲の微妙なニュアンスのやり取りには我関せずといった様子で、マイペースに話を続けるセルゲイ。複雑な父親の心境を覗かせる言葉に、アナスタシアも溜息をついた。</p><p>それはこっちのセリフよ</p><p>まあいい、それで、次が息子のアレクセイだ。紹介するまでもないだろうが</p><p>ヘーイ、ナイストゥミーチュー</p><p>開き直った様子で、姉よろしくひらひら手を振ってみせるアレクセイ。苦笑するケイたちに、お手上げのポーズを取って 他にどうしろってんだよ とわざとらしく嘆く。</p><p>アレクセイは、最後に見たときからそれほど変わっていなかった。強いて言えば、擦り切れた旅装ではなく、それなりに仕立ての良い毛皮のベストやら何やらで、リラックスしたラフな格好をしていることだろうか。耳のピアスも相変わらずだった。</p><p>そして、……『娘』のエリーナだ</p><p>最後に、セルゲイが三つ編みおさげの少女―エリーナを手で示した。『Daughter(むすめ)』の部分に何か含みが感じられる言い方。</p><p>は、初めまして</p><p>紹介されたエリーナは姿勢を正し、少し緊張気味に会釈した。やはり、あどけない顔つきの少女だ。年の頃は十代前半といったところか。両親のどちらに似たのだろう、とケイはさりげなくセルゲイとタチアナを見比べる。だが、どちらの血が濃く出ているのかは判然としなかった。一家の中で一人だけ亜麻色の髪の毛、ハキハキした性格の他の家人とは違い、どちらかと言うと大人しめの人物であるように見受けられるが―</p><p>へー、妹いたんだ</p><p>アイリーンが意外そうに呟くと、アレクセイが答える前にエリーナ本人が何故かムッとしたように答えた。</p><p>妹じゃありません！　妻です！</p><p>―その言葉の意味を理解するのに、しばしの時間を要した。</p><p>えっ？</p><p>二人が、まじまじとエリーナの顔を凝視してしまったのも、致し方ないことだろう。</p><p>若い。</p><p>あまりに若い。</p><p>えっと……エリーナは、今幾つなんだ？</p><p>今年で十六になりました</p><p>ええ……</p><p>お前マジか、とケイがアレクセイを見ると、青年は精悍な顔を照れ笑いに緩めて頭を掻きながら頷いた。</p><p>ああ。エリーナはおれの嫁だよ。この間結婚したばかりでな……</p><p>改めて、アレクセイとエリーナを見比べる。片や金髪碧眼でピアスだらけの野性味溢れる青年。片や子供にしか見えないあどけない少女。</p><p>いや、エリーナが実年齢よりさらに幼く見えるのは、髪型や少しおどおどとした言動のせいもあるのかも知れないが―いずれにせよ、</p><p>（（犯罪臭がヤバイ……））</p><p>口には出さなかったが、ケイとアイリーンの思考は見事に一致していた。だが、当人たちは全く問題視しておらずむしろ納得しているようだったので、部外者が口を挟むことでもない。そもそも、文化どころか世界が違うのだ。</p><p>ええと、……おめでとう</p><p>末永くお幸せにね……</p><p>とりあえず口々にお祝いの言葉を述べる。 ありがとう、ありがとう と完全に吹っ切れた様子でそれを受けるアレクセイと、先ほどとは対照的に、はにかんだ笑みを浮かべるエリーナと。</p><p>その場に、気まずさとは少し違う、何とも言えない小っ恥ずかしいような空気が降りてきて話が続かないケイたちを見、セルゲイは大いに笑った。</p><p>ハッハッハ！　諸国遍歴は嫁探しも兼ねてたんだが、皆が皆嫁を連れて帰ってこれるわけではないからな。嫁探しができなかった場合は、そのまま村の年頃の娘と結婚するものさ。そして武者修行から無事に帰ってくる若い衆は、大抵は自分が世界で一番強いとでも思ってるんだが、アレクセイは妙に落ち着いていた。調子に乗っていれば一発シメてやろうとでも思ってたんだが……話を聞けばなかなか『良い経験』を積めたみたいじゃないか。そういう意味では、貴様には感謝しておるとも</p><p>ある種、含みのある顔でセルゲイがケイに笑いかける。ここに来てケイの中の気まずさも臨界状態に至り、取ってつけたような愛想笑いを浮かべることしかできなかった。アレクセイは、また違った意味合いで恥ずかしそうにしている。</p><p>ところで、決闘の件は倅から聞いたぞ。なんでも、得物は凄まじい強弓らしいな？　もし良かったら見せてもらえないか？</p><p>ケイの内心を慮ってか、セルゲイはさらに話を変える。部屋の壁際に置いた荷物のうち、弓ケースにチラチラと視線を向けて落ち着きなくしているあたり、ケイを思いやってのことではなく、純粋な好奇心による話題転換かも知れない。そのきらきらと輝く瞳に、（まるで真新しい玩具に興味津々の子供じゃないか）と苦笑しながら、ケイは もちろん、構わない と頷いた。場の空気を変えるにはもってこいだろう。</p><p>“竜鱗通し”に弦を張り直し、セルゲイに手渡す。</p><p>おおっ、これが！</p><p>喜々として受け取るセルゲイ、 おおーいいな とテーブルに肘をついて興味深げなアレクセイ―二人の顔を見ると、なるほど確かに親子だと思わされた。</p><p>“竜鱗通し”を手渡された瞬間、セルゲイの腕がクンッと跳ね上がる。馬賊が使う複合弓よりも遥かに大型で厳つい造りをした”竜鱗通し”だが、その見た目を裏切る軽さには意表を突かれたようだ。 なんだ、随分と軽いな！ とセルゲイは笑ってはしゃいでいたが、一度(ひとたび)弦に指をかけると顔色を変える。</p><p>なんだこの張りは</p><p>軽く弦を引こうとして、びくともしない”竜鱗通し”に驚く。思わず真顔になったセルゲイは呼吸を整え、改めて力を込める。</p><p>ぬっ……ぐぬぅ……！</p><p>腕の筋肉が盛り上がり、ギリギリと音を立ててしなっていく朱き強弓。ほう、と感心しながら、ケイはそれを眺めていた。今まで数々の男たちが”竜鱗通し”を引こうと試みたが、胸元まで弦を引けた者はほんの一握りだ。セルゲイは、その中の数少ない一人になれるかも知れない―</p><p>ぐっ、うおおおおおォッ！</p><p>そして、裂帛の気合とともに、セルゲイは頬のあたりまで弦を引ききった。ガチガチに身体を強化しているケイでさえ、かなり力を込めなければ引けず、長時間保持もできない位置。常人としてはあり得ないレベルの馬鹿力と言えるだろう。</p><p>が、それと同時、 ブボボォッ という異音が響き渡る。</p><p>あらまッ</p><p>うわっ臭え！</p><p>ちょっと父さん！</p><p>セルゲイの傍にいたタチアナ、アレクセイ、アナスタシアが一斉に距離を取る。力みすぎたセルゲイが豪快に放屁したのだ。</p><p>一瞬きょとんとしたセルゲイだが、理解が及ぶや否やガッハッハッと爆笑し、“竜鱗通し”をケイに返しながら、</p><p>いやはや、凄まじい強弓だ！　全盛期のワシでも使いこなすのは難しいな。ついつい力を入れすぎたわ！</p><p>危うく実も出るところだったわい、と言われてはケイも反応に困る。というかそれより何より臭かった。アイリーンも若干、テーブルから椅子を離して距離を取っており、エリーナはしかめ面で鼻を摘んでいた。</p><p>が、周囲の反応を一顧だにしないセルゲイは、ケイが壁に立てかけた”竜鱗通し”を眺めながら、ひとり神妙な顔で頷いている。</p><p>ううむ……この弓を使いこなすとは、只者ではないな。まずまともに引ける者がウチの村に何人いるか</p><p>言いながら、それとなくアレクセイを見やるセルゲイ。水を向けられたアレクセイは、 ……試しても？ とケイに問う。</p><p>断る理由は特になかった。 もちろん と”竜鱗通し”を手渡すケイ、気負わず受け取るアレクセイ、交錯する二人の視線。</p><p>……こりゃキツいな</p><p>弦を指で弾き、ぽつりと呟くアレクセイだったが、 ふンッ と力を込め、胸元までグイッと弦を引いてみせた。</p><p>ほう、やるな</p><p>まーな。というか、ケイの腕力が異常だ。これでも村の中でも指折りの力自慢なんだぜ、おれ</p><p>半笑いで弓を返しながらアレクセイは―ふと表情を消して首を傾げた。</p><p>ひょっとすると、ケイも『紋章』持ちか</p><p>アレクセイの言葉に、セルゲイたちがぴくりと眉を跳ねさせる。ケイとアイリーンは無言を保った。</p><p>『紋章』関連の話題は非常に繊細だ。雪原の民の秘奥とされている業を、異民族であるケイが身につけてしまっている―そしてそれはゲームだからこそ可能であったのだ。この世界の住人に『ゲーム』の事情を説明するのはなかなか難しいし、場合によっては危険すら伴う可能性がある。</p><p>アレクセイ</p><p>構わねえよ、親父。ケイたちは『紋章』のことをかなり詳しく知っている</p><p>セルゲイの咎めるような声に、アレクセイは首を振って答えた。ウルヴァーンに辿り着いて別れる際、ケイはアレクセイがその身に刻んでいる『紋章』の種類を言い当てたことがある。本来なら『秘奥』とされる紋章の詳しい知識があり、紋章を持つ雪原の民の戦士と同等の筋力を誇る―となれば、ケイもまた紋章の恩恵に与っているのではないか、という推察は決して的外れではない。</p><p>……そうなのか？</p><p>まあ、そうだな</p><p>探るようなセルゲイの問いに、ケイは少し悩んだが、素直に首肯した。</p><p>その辺は話せば長くなる。俺たちがここまで旅をしてきた理由にも絡むことだ</p><p>そうだ、それにも驚いたぜ。もう二度と会うこともねーだろ、って思ってたのに……二人とも、なんだってこんな辺鄙な場所に来たんだ？</p><p>アレクセイの質問は核心を突く。ケイとアイリーンは目配せし合った。</p><p>シャリトの村がアレクセイの故郷だったのは全くの想定外だが、『知り合いが存在したこと』それ自体は悪くない。色々といざこざもあり、決闘では殴り合いまで演じた仲だが、少なくとも極悪人でないことはわかっている。</p><p>……俺が話すより、アイリーンが説明した方が早いかも知れないな</p><p>ケイが公国語で話すより、アイリーンが雪原の言葉(ロシア語)で使った方が、双方ともに色々と都合が良いだろう、という判断だ。それに母国語ならば、話すべき事柄とそうでないものをより柔軟に区別して説明できるはず。</p><p>全部、アイリーンに任せる</p><p>わかった</p><p>おそらくケイの意図は伝わったのだろう。しっかり頷いたアイリーンは、言語を切り替えて諸々の事情を説明し始めた。ゲームや異世界という概念は程々にぼかしつつ、理解しやすいように順序立てて話していく。</p><p>全てロシア語なのでケイにはちんぷんかんぷんだったが、セルゲイたちの顔を見ていればどういった内容なのかは大体想像がつく。アイリーンが『Greensleeves』を歌ってみせたときの驚きようは、なかなか見ものだった。</p><p>異邦人……か</p><p>ケイたちがそうだったのか……なるほどなぁー。故郷が遠くて帰れないかもしれない、って言ってたのはそういうことだったか</p><p>いまいち信じ切れない、と言うより、情報を消化しきれていないのか、言葉を噛みしめるように唸るセルゲイに対し、アレクセイは理解も納得も早かった。</p><p>それで、お前らは魔の森に手がかりがあると？</p><p>公国の図書館で調べた限りでは、そういう結論に至った。少なくとも、件(くだん)の魔の森の伝承と、俺たち自身の状況とでは類似点が多すぎるんだ</p><p>ふーん……</p><p>顎を撫でたアレクセイは、ケイの目をまっすぐに見つめる。</p><p>じゃあ、手がかりがあったとして、ケイたちは故郷に帰るのか？</p><p>何気ない問いだったが、それはケイにとってナイフのように鋭く感じられた。</p><p>……俺は(・)帰らない</p><p>低い声で、ケイは答える。</p><p>へ？　そりゃなんでまた</p><p>……実は俺は、故郷だと不治の病に冒されていてな。それこそ、いつ死んでもおかしくないような状態だった</p><p>ケイの言葉に、 冗談だろ とでも言いたげに目を瞬かせるアレクセイ。セルゲイたちも、健康どころか生気に満ち溢れているケイの肉体を見て、 どの口で言うのか とばかりに疑わしげな顔をしていた。</p><p>ふっ、とケイの微笑みが、儚いものとなる。</p><p>不思議なことに、『こちら』に来るとそれが治ったんだよ。本当に不思議なことに、な……。だが、帰ったら多分、病気も元に戻ってしまうと思うんだ。だから、俺は……帰らないよ</p><p>……じゃあ、アイリーンは、どうすんだよ？　帰りたいんだろ？</p><p>続けて投げかけられた問いは、ケイが最も知りたくて、そして恐れるものであった。</p><p>皆の視線が、アイリーンに集中する。</p><p>……オレは、</p><p>俯いて、テーブルの上の自分の手に視線を落としたアイリーンは、なかなか答えられないようだった。</p><p>ケイの方を気にして―でも、直接視線を向けられなくて。</p><p>……ハッキリ言って、……本当に、よくわかんないんだ。ふざけてんのかって、思われそうだけどさ……</p><p>やがて、消え入りそうな声で、アイリーンは言った。</p><p>おどおどと、気弱にケイを見やる。 ……ホントごめん と、小さな呟き。</p><p>でも、……でも、オレは、ケイを一人で残してまで―</p><p>……いや、いいんだ、アイリーン</p><p>アイリーンの言葉を遮って、ケイは頭(かぶり)を振った。</p><p>迷う気持ちもわかるさ。俺だって、同じ状況だったら死ぬほど悩むと思う。……それをハッキリさせるために、俺たちはここまでやってきたんだろう</p><p>そう言って微笑みかけると、アイリーンは言葉に詰まった。</p><p>口を開いて―何かを言いかけて、しかし結局、俯いてしまう。</p><p>よし</p><p>と、場を静観していたセルゲイが、そのとき頷いた。</p><p>何が よし なのかわからないが、とにかく頷いた。</p><p>そういうことなら話は早い。行くぞ</p><p>……親父、行くって何処へ？</p><p>アレクセイの問いに、席を立ったセルゲイは、事も無げに答えた。</p><p>決まってるだろ。魔の森だ</p><p>次回 ちょっと魔の森行ってくる</p><p>―</p><p>*Dear foreign readers</p><p>Hi guys, I found my novel translated in English and have read it. It’s really a great job! However, in that translation, the Kei’s another name in DEMONDAL 『死神日本人』 was written “Jap the Ripper” but it is actually “Jap the Reaper”. Not “Ripper”. =) Of course it comes from “Jack the Ripper” but in this case… little bit different xD</p><p>51. 下見</p><p>前回のあらすじ</p><p>セルゲイ よし、魔の森行くぞ</p><p>一同 えっ</p><p>セルゲイの提案には驚かされたが、その真意は 取り敢えず『魔の森』を見に行ってみよう という軽いものだった。</p><p>屋敷でタチアナから簡単な食事を振る舞われ、セルゲイ・アレクセイの両名と共に村を出る。森は存外近くに位置するらしく、徒歩での移動だ。緑広がる草原をのしのしと縦断していく。</p><p>流石に今から森に入るのは無謀だ</p><p>ケイたちと隣り合って歩くセルゲイが、空を見上げながら言う。</p><p>八月も末、昼下がりの太陽は徐々に傾きつつある。あと数時間もすれば夜の帳が降りてくるだろう。森を外から眺めるだけならば兎も角、中に入るならそれなりの準備と―相応の『覚悟』が必要になる、とセルゲイは言っていた。</p><p>準備、か？</p><p>覚悟はわかるが、準備とは。森に踏み込むのに何らかの装備が必要とされるのだろうか。“竜鱗通し”を手に、周囲を警戒しながらケイは問うた。</p><p>森の周辺は狼の群れや得体の知れない獣が出現することがあるらしく、それらは例外なく凶暴なので気が抜けないとのことだった。曰く、双頭の大蛇。曰く、鋭い一本角の猪。 刃で倒せるだけ化け物よりマシ というのはセルゲイの言だ。</p><p>そう、準備だ。杭、ロープ、鎖……色々とな</p><p>ロープはわかるけど、杭と鎖ってのは？</p><p>投げナイフを差したベルトを指先で弄びながら、アイリーンが首を傾げる。</p><p>ロープと似たような使い道になるだろうよ。要は迷わないようにするための道具……だろうなぁ、多分</p><p>セルゲイの答えは、判然としない。</p><p>多分ってどういうことだよ</p><p>具体的にどうすりゃいいかなんざ、誰もわからねえんだよ。そもそも、あ(・)の(・)森にわざわざ踏み込むヤツはそういねえ。生きて帰ってくるヤツはもっと少ねえ</p><p>白銀色の大剣を担いだアレクセイが、アイリーンに肩をすくめてみせた。</p><p>一番最近、森に入って生還できたのは五十年前に挑戦した一人だけさ。あとはみんな行方不明か、昔過ぎて曖昧な言い伝えしか残ってない</p><p>へえー。でもいることはいるんだな、無謀なヤツってのも</p><p>ああ</p><p>アイリーンの言葉に、親子二人は揃って頷いた。</p><p>ウチの爺様だ</p><p>ケイとアイリーンは顔を見合わせる。この親にしてこの子あり、とは言うが―妙な説得力があった。</p><p>あれ？　でも、そのお爺さんってのは……</p><p>頬に指を当てて、アイリーンが再び首を傾げる。先ほど紹介されたのは妻と娘たちだけで、祖父らしき人物は屋敷に見当たらなかったのだ。</p><p>ああ、おれがガキの頃ポックリ逝ったよ</p><p>アイリーンの疑問をいち早く察したアレクセイが答えた。</p><p>大往生だったなぁ、親父は。そもそもお袋より長生きだったしな。あの日、一緒に酒盛りしてたんだが、ワシが先に寝て、翌日起き出したらリビングで椅子に座ったまま死んでいた。酒が入ったカップを握ったまま、なぁ。最初はただ眠ってるだけかと思ってたんだが……あれには驚いた。だがああいう死に方も悪くはない</p><p>獅子のたてがみのような髭を撫でつけながら、空を見上げて感慨深げにセルゲイ。</p><p>そういえば、とその顔を見てケイはふと思う。アレクセイが確か二十代頭。セルゲイは見たところ五十代前半といったところだ。この世界の住人にしては、かなり遅めに子供を持ったようだ。</p><p>いや、―とケイは思い出す。ウルヴァーンの図書館で調べた北の大地と公国の歴史を。よくよく考えれば、セルゲイが若かりし頃は公国との間で紛争が起きていたはず。あるいは当時、彼はまだ結婚していなかったのかもしれない。たてがみのような金色の髪と髭の奥、ケイは、セルゲイの顔面に走る細長い傷跡を見て取った。</p><p>この獅子のような男もまた、かつては戦乱に身を投じていたのだろうか―</p><p>―ん？</p><p>過去に思いを馳せ、ぼんやりとしていたケイは、しかし視界の端に違和感を覚える。</p><p>遠方へ、焦点を結ぶ。</p><p>―何かいる</p><p>“竜鱗通し”に矢をつがえながらの言葉。唐突だがそこに確かな緊張を感じ取り、全員が自然に身をかがめた。</p><p>どこだ</p><empty-line/><p>護身用の短刀を引き抜きながら、周囲へ鋭い視線を走らせるセルゲイ。</p><p>あの木立の陰だ。今も動いてる</p><p>ケイの言葉に、そのまま視線を辿ったセルゲイは―ケイの言う『木立』が三百メートル以上離れていることを悟る。</p><p>……遠いな。狼か？</p><p>わからん。だが人ではない。大きすぎる</p><p>左手で矢と弓を保持したまま、右手で筒を作り望遠鏡のように覗き込む。周囲の光を遮断し、遠方を見やすくするテクニック。続いて親指を立てて距離を測り、大体の目測が合っていたことを確かめる。</p><p>……二メートルはあるな。姿勢が低い、狼かもしれん……しかし、北の大地の狼って確か灰色で小柄なんじゃなかったか？</p><p>そうだな、ワシもそこまでデカい狼はここらじゃお目にかかったことがない</p><p>気味が悪いな。正体がよくわからない</p><p>しばしの沈黙―</p><p>キンッ、とアレクセイが、大剣を指で弾いて音を立てる。</p><p>ケイたちは風下におり、距離も離れているので、『獣』にはまだ勘付かれてはいないはずだ。ぺろりと唇を舐めたケイは、“竜鱗通し”の弦に指をかける。</p><p>……少し脅かしてみるか</p><p>構わないか？　と視線を向けると、セルゲイは頷いた。</p><p>やってみろ</p><p>了解</p><p>膝立ちの姿勢を取るケイ、その黒髪が草原を吹き抜ける風になびく。</p><p>彼我の距離、そしてこの向かい風―狙った方向に矢を飛ばすのは、容易ではない。</p><p>しかし、ケイにとっては不可能でもない。</p><p>目を凝らせば、見える。</p><p>風にそよぐ草原―それはまるで打ち寄せる波のように。</p><p>空気のうねりを、ケイに教えてくれる。</p><p>ざぁっ、と一陣の風がまた、吹き抜けた。</p><p>見えた。</p><p>一息に弦を引き絞る。</p><p>カァン！　と快音。</p><p>放たれた矢は風に乗って、ゆるやかな弧を描きながら。</p><p>目標の木立に、吸い込まれるようにしてすとんと落ちた。</p><p>出てきた</p><p>直ちに、木立から飛び出してくる黒い影。</p><p>目を凝らす。それはしなやかな体つきの、全長は二メートル以上にもなるだろうか、猫に似た黒毛の四足獣だった。</p><p>なんだアレは……虎、か？　いや、それにしちゃ細身だ。黒豹か？</p><p>よくわからんな。小さめの虎か？</p><p>黒い獣ってのはわかるが……</p><p>ってかそもそも見えないんだけど。どこ？　どこにいんの？</p><p>取り敢えずとんでもない化け物ではなさそうなので、皆も立ち上がってケイよろしく目を凝らす。セルゲイ・アレクセイはまだ輪郭を捉えられているようだったが、アイリーンはそもそも何処にいるかさえよくわかっていないようだ。目の上に手をかざして、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。</p><p>ほら、あっちだアイリーン</p><p>……見えねえ</p><p>俺の指の先を見ろ</p><p>アイリーンの顔の横に手を添えて、ケイ。その腕を掴み、片目を閉じたアイリーンが頬をグイグイと押し付けどうにか見ようとするが、</p><p>あ、逃げた</p><p>えーマジかよ、結局見えなかったんだけど</p><p>まあ仕方ないな</p><p>どの木立？　いくつかあるけど</p><p>あれだ、右から三番目の……</p><p>まず一番目ってどれだよ</p><p>密着したままイチャイチャし始めるケイたちに、地面に大剣を突き立てたアレクセイは、剣により掛かるようにして酷くつまらなさそうな顔をしていた。息子の様子に、くつくつと笑いを堪えるセルゲイ。</p><p>おい、若いの。乳繰り合うのもいいが日が暮れちまうぞ</p><p>セルゲイが声をかけると、ケイとアイリーンはそそくさと離れた。</p><p>すまん</p><p>別に、ただどこらへんにいたのか知りたかっただけだし</p><p>バツの悪そうなケイと、ぷんすか文句を言うアイリーン。ガッハッハ、と一笑いしたセルゲイは、今一度木立の方を見やり、</p><p>矢は回収せんでいいのか？　随分と良いものを使ってるようだが</p><p>……そうだな</p><p>問われたケイは、はたと考え込む。</p><p>手持ちの矢筒には、北の大地に持ち込んだ矢の中でも、選りすぐり質の良い矢ばかりを詰めてきていた。サティナの矢職人・モンタン謹製の一矢。確かにそんじょそこらの矢よりは信頼の置ける逸品だが―</p><p>いや、いい。探すのも手間だ。それにあの辺りにまだ獣がいるかもしれん</p><p>そうか、ならいいだろう</p><p>セルゲイも軽く頷いて流し、一同は再び歩き出した。</p><p>……それにしても、良い腕をしている</p><p>しばらくして、ちら、とケイを振り返ったセルゲイが野性味のある笑みを浮かべる。</p><p>そいつはどうも</p><p>そして素晴らしい眼を持っている。ドルギーフの氏族を思い出すな</p><p>腰の短刀の柄を撫でながら、セルゲイはどこか懐かしそうだ。</p><p>ドルギーフ？</p><p>どこかで聞いたような名前だったが、思い出せない。</p><p>北の大地でも、特に有力な氏族の一つだ</p><p>再び大剣を肩に担いでアレクセイ。</p><p>ウィラーフ、ミャソエードフ、ネステロフ、ジヴァーグ、パステルナーク、ヒトロヴォー、グリボエード、ドルギーフ。それが雪原の民を代表する八氏族だな</p><p>とくとくと語るアレクセイに、ケイも思い出す。確か公国の図書館で調べ物をしていたときに何度か目にした名前だ。</p><p>ウチの村は、北東部一帯を勢力下とするネステロフの系譜だ</p><p>アレクセイの言葉を引き継いだセルゲイが、ぐっと腕の力こぶを見せる。</p><p>我々は狼のようにしぶとく、猛牛のように強い。それに対しドルギーフの戦士は皆、鷹のような眼を持っている―ケイのようにな</p><p>ここに来て、ケイはセルゲイの意図に気付いた。</p><p>―『視力強化』か</p><p>フフッ。ドルギーフの戦士は特(・)に(・)誇り高い。奴らに会ったらその眼のことは隠した方がいいかも知れんな。連中は自分たちの眼を自慢に思っている、異民族で同じ眼を持つ者がいるとなれば……目玉をくり抜かれかねんぞ</p><p>ぐりぐり、と指で抉るような仕草をしてから豪快に笑うセルゲイだったが、冗談なのか本気なのか判断に迷うところだ。</p><p>が、それも大切だが、ケイにはもう一つ気になることがあった。</p><p>ひょっとして、氏族ごとに持つ紋章が決まってるのか？</p><p>何気ないケイの問いに、 は？ とセルゲイ・アレクセイの両名が固まった。</p><p>……ケイ、それって自分が好きに選べてるって言ってるようなもんだぜ</p><p>腰に手を当てたアイリーンの言葉には、たしなめるような色があった。</p><p>その声に再起動を果たしたセルゲイたちは、顔を見合わせる。</p><p>まさか……ケイの故郷では、選べたのか？</p><p>ああ、……うん。まあな</p><p>確かに軽率な問いであった、というかそもそも訊くまでもなかった、と後悔するも、時既に遅し。ケイは気まずげに首肯した。</p><p>……どうなってるんだお前らの故郷は</p><p>まあそれなら、ケイのような異民族でも紋章の恩恵に与れるのは当然か……</p><p>セルゲイは嘆くように、アレクセイは納得するように。</p><p>いずれにせよ、自分たちが脈々と受け継いできた秘術が、選び放題だったというのは衝撃的であったらしい。二人ともどこか茫然とした顔をしている。</p><p>ケイの故郷では、どんな風に紋章を手に入れるんだ</p><p>直球。続けて放たれたセルゲイの質問は、おそらくは今まで敢えて避けていたひどく具体的なものだった。</p><p>アレクセイが 親父…… と少し咎めるような声を上げたが、ケイは構わず答える。</p><p>俺の故郷の場合、とある山に『Elders(長老たち)』と呼ばれる呪術師の集団がいてな。その山に辿り着き、特定の試練を突破した者に限り、試練に対応した紋章が与えられていた</p><p>……なるほど、その辺はワシらと変わらんな。ちゃんと試練はあるんだな。……ならば、まあ、よし！</p><p>腕を組んで、うむうむと頷くセルゲイ。</p><p>…………</p><p>課金アイテムで難易度を落としたとは、口が裂けても言えないケイであった。言ったところでそもそも理解できないであろうが―いや、賄賂を贈ったとでも受け取られかねない。いずれにせよこれ以上ボロを出さないようにと、口をつぐむ。</p><p>アイリーンは、そんなケイを若干呆れたように、それでいてある種、微笑ましげな目で見ていた。</p><p>……まあ、いくら優れた紋章をその身に刻んでいたところで、最後に物を言うのは個人の修練だ</p><p>真っ直ぐにケイを見て、セルゲイは言う。</p><p>ケイの弓も、修練の賜物なわけだろう</p><p>……そう、だな</p><p>仮初の世界(VRMMO)ではあったが―そこでの経験と修練は、確かにケイの中で息づいている。恵まれた環境、恵まれた肉体(アバター)、そして恵まれた紋章。これらを全て踏まえた上で、自らが積み重ねてきたものを『努力』と呼ぶのは、この世界の人々に対しあまりにおこがましい気もしたが。</p><p>だが―そう言うしかないのだ。</p><p>ケイは儚く微笑んだ。</p><p>が、次の瞬間、セルゲイは予想外のことを言い出した。</p><p>どうだ、ケイ。事が終わったら、ウチの村に住まんか？</p><p>えっ？</p><p>はっ？</p><p>間抜けな声を上げるケイ、そしてアレクセイ。</p><p>ケイは、いずれにせよこちらに残るんだろう？　もし行先を決めてないんなら、ウチの村は悪くないぞ。冬は多(・)少(・)冷えるが、食べ物は豊富だ。森の獣もむしろケイにとっては獲物にしかならんだろう。ワシらは強い戦士を歓迎するぞ</p><p>セルゲイの言葉に、ケイは答えられなかった。</p><p>これからのこと―</p><p>漠然と、狩人になって日々の糧を得たり、危険な獣から人々を守ったりする生活ができれば、とは考えていたが。</p><p>しかし―どこで、どのように。</p><p>そんな具体的なことは、全く考えていないことに気付かされた。</p><p>…………</p><p>思わず黙考するケイ。</p><p>そして、その隣で、黙ってケイを見守るアイリーン。</p><p>……すまん、今はちょっとわからない。だが、</p><p>晴れ渡った空を、青々と広がる草原を、その果ての森を、視界の彼方の山脈を―</p><p>ざっと見渡したケイは、セルゲイに静かな眼差しを向けて、微笑んだ。</p><p>もし、行く宛が見つからなかったら―お願いしてもいいかな</p><p>構わんとも、こちらからお願いしたいくらいだ</p><p>……うん、そうだな。ケイならいいな</p><p>破顔一笑するセルゲイ、開き直ったように腕組みをして笑うアレクセイ。</p><p>―でも寒いのはちょっと苦手だな。</p><p>笑いながら、ケイはそんなことを考えた。しかし、心のなかにあったのは、ほのかな温かみだ。</p><p>男たち二人に肩を叩かれるケイを、アイリーンは、ただ眩しげに見つめていた。</p><p>おっ、見えてきたぞ</p><p>と、そのとき、セルゲイが前方を指差す。</p><p>見やる。</p><p>ケイの眼は、遥か彼方、鬱蒼と茂る森の威容を捉えた。</p><p>巨大な、そして黒々とした針葉樹の森。</p><p>太陽はまだ高くあるにもかかわらず、その奥を見通すことはできない―</p><p>あれが、</p><p>セルゲイの声に、かすかな畏(おそ)れの色が滲む。</p><p>―あれが、魔の森だ</p><p>～一方その頃～</p><p>サスケ この村の人参美味しいね</p><p>スズカ ね！</p><p>52. 魔境</p><p>『おお、凍える岩の狭間より湧き立つ、深く怖(おそ)ろしきものどもよ。</p><p>遥かなる高みより降り注ぐ陽光も、相競って吹き荒ぶ風も、おまえを避ける。</p><p>まるでもろともに、引き込まれるのを恐れるかのように―』</p><p>“北方紀行”より、著者・ハーキュリーズ＝エルキン。</p><p>†††</p><p>雲のたなびく晴天のもと、霧の漂う黒い森。</p><p>異様だ。</p><p>一歩また一歩と近づくほどに、その不気味さをいや増していく。</p><p>森の入口にはまばらな木々。穏やかな気配の漂う緑の木立。風に合わせて幹は揺れ、涼やかな葉擦れの音を奏でる。木漏れ日も眩しく、落ち葉の混ざる腐葉土は、足取りに合わせてさくさくと軽やかに―訪問者の歩みをより楽しませ、奥へ奥へと誘(いざな)うかのようだ。</p><p>だが、十歩踏み込めばそこは別世界。</p><p>眼前を塞ぐ針葉樹の群れ。乱雑に、無秩序に、それでいて真っ直ぐに。寂寥感を湛え立ち並ぶさまは、まるで打ち棄てられた墓標のよう。</p><p>生命の息吹を感じない。</p><p>全てが死んだように静かだ。</p><p>孤立した領域。その境界線は明らか。</p><p>霧だ。</p><p>うごめき、たゆたうそれは、空に溶け込む灰の色。森を覆い、鷹の目を以(もっ)ても見通せず、石壁のように寒々しくそびえる。おだやかな晩夏の風も、あたたかな午後の陽光も、外界の尽(ことごと)くを寄せ付けない。</p><p>沈黙は、濃霧のヴェールに抱(いだ)かれて。</p><p>しっとりとした無音の世界は、鼓動と吐息を浮き彫りにする。</p><p>森から滲み出る、湿り気を帯びた空気は、ひしひしと肌に染み込むかのようだ。</p><p>しかし、全てを拒絶するように見えて、それは不思議と視線を惹きつける。</p><p>不気味さに圧倒されながらも、徐々に慣れていけば、刺激されずにはいられない。</p><p>これに触れればどうなってしまうのか？ と。</p><p>そんな無邪気な好奇心を―</p><p>―ケイ！</p><p>アイリーンの声に、ケイはハッと我に返った。</p><p>眼前、霧の壁が手の届きそうなところにまで迫っている。</p><p>いや違う。</p><p>ケイ自身が、いつの間にか木立に深く分け入っていた。</p><p>おい、ケイ！　しっかりしろ！！</p><p>アレクセイが背後から、ケイのマントの首根っこを掴んで引きずり寄せる。ふらふらと尻もちをつきそうになりながら、ケイは転がるようにして後ずさった。</p><p>ケイ、大丈夫かよ！　どうしたんだ！？</p><p>あ、ああ……。すまん、大丈夫だ</p><p>頭(かぶり)を振りながら、ぱちぱちと目を瞬く。駆け寄ってきたアイリーンが、心配げにケイの頬に手を添えて、その顔を覗き込んだ。</p><p>……俺は、どうしてたんだ？</p><p>どうしたもこうしたもないぜ！　オレたちが近づくの躊躇ってたら、ケイだけ勝手にズンズン進んでいくんだもん。びっくりした……</p><p>ケイの瞳に理性の光があることを確認し、ホッと胸を撫で下ろしたアイリーンは、そのままへなへなと座り込んでしまいそうだった。</p><p>いやービビったぜ、あのまま森に入っちまうかと思った。何の準備も無しに突っ込むのはいくらなんでもおっかねえや</p><p>濃霧とケイとを交互に見やりながら、額の汗を拭うアレクセイ。</p><p>まるで魅入られているようだったな</p><p>唸るようにして言ったセルゲイは、ぼりぼりと頭を掻いて申し訳なさそうだ。</p><p>すまん。なにぶんあっという間のことで、止めるのが遅れた</p><p>オレたちもボーッとしてたけどさ……もう、……ホントびっくりした</p><p>ほう、と溜息をついたアイリーンは、捨てられた子犬のような顔でケイを見やった。そしてケイが再びふらふらと独りで歩いて行ってしまうのを恐れるように、マントの裾をちょこんと指でつまむ。</p><p>いや、俺こそすまん、だがもう大丈夫……だと思う</p><p>とは言ったものの、よく憶えていない―というより全く自覚のなかったケイは、我ながら半信半疑だ。</p><p>今一度、落ち着いて森を眺める。</p><p>影を落とす巨大な針葉樹のせいで、昼間であるにもかかわらず辺りは薄暗い。木々の合間を漂う濃霧、目の前に灰色の壁が立ち塞がっているかのような圧迫感。霧は森の外には一寸たりともはみ出してこず、実はガラスで隔てられてるんじゃないか―などと考えてしまうほど、異様な光景だった。</p><p>じっと見つめていると、胸の奥がざわついて仕方がない。</p><p>ただ、今も尚、森に何か惹かれるものを感じているのは、確かだった。</p><p>……なかなか素敵な場所じゃないか</p><p>場を和ませようと冗談交じりに口にしてみたが、笑える気分ではないらしく、皆一様に硬い顔で反応はなかった。</p><p>……ここに、手がかりがあるのかな</p><p>しばらくして、ケイのマントを掴んだままのアイリーンが、独り言のように呟いた。</p><p>ケイは、それに答えられない。ケイ自身もまさに同じことを考えていたからだ。北の大地、魔の森に来れば転移の謎が解けるはず、と―そう信じてここまでやってきたはいいものの、いざ実物を目の前にしてみると、どうするべきかがわからない。</p><p>……俺たちが、『ここ』に来る直前に見た霧に似ているな</p><p>ゲーム内、要塞村ウルヴァーンに向かう道中に湧いていた霧を思い出しながら、ケイはアイリーンを見やった。</p><p>そう、だな。ってことは……</p><p>それに首肯し、アイリーンは緊張の面持ちで口をつぐむ。</p><p>―あの中に入ったら、元の世界に帰ることに？</p><p>アイリーンの心の呟きが、聞こえた気がした。</p><p>……うぅむ</p><p>難しい顔で、ケイは唸る。霧の中に入れば元の世界に帰れる―その仮定は、ケイにとってはむしろ都合の悪いものだ。ケイ自身は地球に帰るつもりがない。この肉体(アバター)を維持できるなら喜び勇んで帰ろうというものだが、実際はゲームの中に戻るか、生命維持槽の中で目を覚ますのが関の山だろう。</p><p>それは、御免だ。</p><p>動かない四肢、骨が筋肉を蝕み侵していく痛み―不意に、幻肢痛のような感覚に襲われたケイは、嫌な記憶を振り払うようにぐっと拳に力を込める。</p><p>もう二度と、あんな思いはしたくなかった。今ある『奇跡』にケイが感謝を欠かしたことはない。仮にこれを失うとなれば、余命云々の前に生きる気力をなくしてしまう。</p><p>だが、だからといってこの霧の中にアイリーンを一人で送り出すわけにもいかない。</p><p>思い悩むケイだったが、そこでふと『森の賢者』の話を思い出した。</p><p>なあ、アレクセイ。『霧の森には賢者が住んでいる』っていうのは、ここのことなんだよな？</p><p>ん？　ああ、そうだな。そんな言い伝えもある。この森の何処かに屋敷があって、奇抜な赤い衣を身にまとった賢者が隠れ住んでいる―って話だろ？</p><p>それは言い伝えに過ぎないのか？　それとも、ある程度信憑性があるんだろうか</p><p>……さあな</p><p>腕組みをしたアレクセイは、困り顔で森を見やった。</p><p>『森の中の屋敷があって、そこで賢者と出会った』って言い伝えは古くからあるんだが、……何様ものすっごく昔のことだからな。一番新しい言い伝えで、大体百年前くらいか？　仮に屋敷があったとしても、賢者本人はもう死んでるんじゃねえか</p><p>……確かにな</p><p>言われてみればその通りだ。件の『賢者』が不老不死の存在ならば話は別だが―そうでもなければ、今頃骨になって転がっているだろう。 DEMONDAL の知識と照らし合わせても、ケイの知る限り、ゲーム内に『不老不死』とされるNPCは存在しない。</p><p>ある種の『この世ならざるもの』である精霊たちだけが、その唯一の例外だ。</p><p>（精霊か……）</p><p>ひょっとすると、上位精霊が戯れに賢者の真似事をしているだけかも知れない、と。ケイはその可能性に思い至った。そもそも生身の人間であれば、こんな不気味な森に居を構えて生きてはいけないだろう。</p><p>なぜそんなことを？　なぜこの森で？　等々、疑問を挙げだせばきりがないが、仮にその賢者が『生物』でないなら、今も尚ここに暮らしていてもおかしくはない。</p><p>おかしくはない―</p><p>（とはいえ、肝心なのはこの霧の性質なんだよなぁ）</p><p>ゲーム内には、このような形でマップ広域を埋め尽くす霧が存在しなかったので、予想のつけようがないのがネックだった。『こちら』の世界に転移する際、霧の中で何がどうなったのか、記憶が曖昧ではっきり思い出せないのも痛い。</p><p>……なあ、アイリーン。魔術で森の中を探れないか？</p><p>この濃霧の向こう側がどうなっているのか。ケルスティンの『影』で内部を探ることができれば、何かわかるかもしれない。ケイが話を振ると、アイリーンは う～ん と冴えない顔で頭を掻いた。</p><p>それはオレも考えたんだけど―</p><p>なんだ、嬢ちゃんは魔法使いなのか？</p><p>アイリーンの言葉を遮り、目を丸くするセルゲイ。すかさずアレクセイが口を挟む。</p><p>親父、前に話しただろ。こう見えてもアイリーンは魔術師だ。村の呪い師の婆様なんて目じゃないぜ</p><p>ほう！　若いのに大したもんだ……お前もまたデカイ魚を逃がしたもんだな！</p><p>だーかーらッその話はもういいって！</p><p>ぽん、と励ますように肩を叩いてくるセルゲイ、鬱陶しそうにその手を振り払うアレクセイ。</p><p>―それはオレも考えたんだけど、</p><p>アイリーンは何事もなかったかのように話題を再開。</p><p>ケルスティンに頼むなら、日が暮れるまで待つ必要があるぜ</p><p>……それは問題だな</p><p>アイリーンの契約精霊、“黄昏の乙女”ケルスティンは、実質的に太陽が沈んだ後でしか使役できない。しかしこの不気味な森を前にして暗くなるまで過ごすのは、なかなか勇気が必要だ。重要度からすれば、多少の気味の悪さや獣の襲撃を覚悟してでも実行する価値はあるかもしれないが、アレクセイとセルゲイは 夕暮れ後もここに留まる と聞いただけで顔色を悪くする有様だった。仲間としては頼れそうもない。</p><p>その上、ウルヴァーンの図書館で調べたことが本当なら、森の中は魔術が阻害されるはずだぜ。少なくとも低位精霊のケルスティンじゃ手が出せない……試してみないことには、なんとも言えないけどさ</p><p>うーむ、そういえばそんなことも書いてあったような</p><p>確か、数十年前この森に派遣されたという、ウルヴァーンの魔術師団による調査結果だ。“妖精”程度の低位精霊では森の霧に干渉できなかった、という趣旨のレポートを目にした記憶がある。</p><p>……どうする？　アイリーン</p><p>個人的には試してみたいけどなー。でも夕方までここにいるのは正直やだ</p><p>アイリーンの言葉に、セルゲイ・アレクセイ親子がぶんぶんと頷いている。</p><p>手詰まり―だろうか。結局、霧の中に入ってみなければ、何が起こるかさえわからないのか。</p><p>唸るケイだったが、ふと、怪訝な顔で周囲を見回した。</p><p>？　どうした、ケイ？</p><p>今、何か聞こえなかったか？</p><p>どこからか、声が聞こえた気がした。</p><p>最初は気のせいかと思ったが、どうも違う。あるいは幻聴か。それはか細く、高く、どちらかと言うと女性の声のようだ。一瞬、アイリーンが独り言でも呟いたのかと思ったが、彼女のハスキーボイスとは異なり、もっと軽やかで、鈴を鳴らすような―</p><p>―Kei,</p><p>また、聴こえた。</p><p>今度ははっきりと、耳元で。</p><p>微かな風が頬を撫でる。</p><p>……シーヴ、か？</p><p>ケイの呟きは、どこか疑わしげに。</p><p>“風の乙女”シーヴ。ケイの呼びかけもなしに、彼女が自ら進んで行動を起こすことなど、滅多とないことだった。</p><p>ケイの傍らを駆け抜けていった風は、木立の枝葉を揺らし、霧の壁へと吹き付ける。</p><p>…………</p><p>シーヴの笑い声に誘われるようにして。</p><p>しっかりとした足取りで、ケイは少しずつ森へ歩み寄っていく。</p><p>ちょっと、ケイ！</p><p>大丈夫だ、トチ狂ったわけじゃない</p><p>慌てるアイリーンを宥め、霧の壁に迫る。</p><p>眼前、手を伸ばせば触れられる距離。</p><p>―Vi povas tuŝi ĝin.</p><p>シーヴが耳元で囁く。</p><p>おもむろに、右手を掲げ―そっと霧に触れた。</p><p>オオ、と渦を巻く風。</p><p>濃霧は、吹き散らされた。それが当然と言わんばかりに。</p><p>灰色の壁に風穴が開き―ケイの前に道が現れる。</p><p>…………</p><p>アイリーンも、セルゲイとアレクセイも、そしてケイ自身も、呆気に取られてしまい動けない。</p><p>―Por trovi la veron.</p><p>クスクスクス、と弾むような笑い声を残して、シーヴの気配が消え去った。くらり、と目眩のようなものを感じる。シーヴが魔力を勝手に抜き取っていったらしい。ケイが手を引っ込めるのと同時、霧の壁に空いた穴もゆっくりと閉じていく―その動きは、まるで傷跡が修復されていくかのようで、どこか生物的な印象をケイに投げかけた。</p><p>いやはや……たまげたな</p><p>ぱん、と額を叩いたセルゲイは、いたく感心したような、面白がるような視線をケイに向けた。</p><p>言い伝えに新たな一ページが加わったな。霧の異邦人が手をかざせば、森に道が開かれるらしい</p><p>やーっぱりケイも魔術師だったのかよ。ま、精霊語がペラペラっぽかった時点でそうじゃないかとは思ってたけどな……</p><p>アレクセイは腕組みをして何やら難しい顔をしていた。</p><p>今のは何が起きたんだ？　ケイ</p><p>茫然自失から再起動を果たしたアイリーンが、前のめりになって尋ねてくる。</p><p>……わからん。シーヴは、『行け』と言ってるようだった</p><p>直接そう言われたわけではないが―と。右手を不思議そうに握ったり開いたりしながら、ケイは心ここにあらずといった様子だ。</p><p>シーヴは腐っても中位精霊。その現世への干渉力はケルスティンのそれとは比べ物にならない。現に、魔の森の霧をものともせずに風穴を開けてみせた。</p><p>魔術の触媒としてエメラルドしか受け取らず、使役する際も枯死する寸前まで魔力を搾り取ってきて、ケイからすれば業突く張りで我儘な精霊という印象のシーヴだが―彼女なりに契約者を思いやって行動している節もある。今も、勝手に力を行使し、その上頼んでもいないのに代償として魔力を抜き去っていったものの、致命的なまでに不都合なことを押し付けたりはしない。</p><p>そのシーヴが、霧の中へ進めと言うのなら。</p><p>おそらく、ケイの求める答えがそこにあるのだろう―</p><p>（……霧の中に踏み込んでも、即座に転移は起きない、ということか？）</p><p>今は風の精霊として自由を謳歌（？）しているシーヴだが、元は DEMONDAL に実装されていたAIに過ぎない。仮にケイが地球へ帰還することになれば、彼女もただのAIに戻ってしまうだろう。自由意志を獲得した現在のシーヴにとって、おそらくそれは望むところではないはず。</p><p>ゲームの設定を考えれば、精霊とはこの世界に根ざした存在だ。あるいは彼女(シーヴ)は、この森の中に待ち受けているものを既に知っているのかもしれない。</p><p>やはり、行くしかないのか</p><p>霧の壁を見やり、ケイはぽつりと呟いた。</p><p>い、今？　今なのか？　ケイ</p><p>いや、流石に今じゃないぞ。そろそろ日も傾き始めたし、明日以降だろ</p><p>何やら肩に力が入りすぎているアイリーンに、ケイは苦笑する。</p><p>ケイの精霊は、森に入るべきだと言っているんだな</p><p>おそらくな。まあ、ロープだの杭だの準備をある程度整えて、明日もう一度トライしてみたい</p><p>そうか</p><p>セルゲイは、年甲斐もなくワクワクとした表情で頷いた。</p><p>なら、話は早いな。村に戻って準備を整えよう</p><p>今日、これ以上ここでするべきことはない。ケイたちは村に戻ることにした。</p><p>木立を出る前に、ケイは今一度振り返って見やる。</p><p>灰色の霧は何事もなかったかのように、静かに森を覆い隠していた。</p><p>†††</p><p>シャリトに帰還したケイたちは、早速翌日のために準備を開始した。といっても、基本的にはセルゲイから様々な物資を借りるだけなのだが。</p><p>命綱兼帰り道の導となるロープや杭、お互いを繋ぎ止めるための鎖など、アレクセイの祖父が考案した『魔の森突撃用』の装備を借り受けチェックしていく。森の内部では方位磁針が役に立たず、方向感覚も狂ってしまうらしい。シーヴの導きが期待できるとはいえ、帰り道を把握するためにも、これらの装備は必須と言えよう。</p><p>アレクセイの話によると、無謀にも魔の森へ一人で突撃した彼の祖父は、ロープの一端を自分の腰に、もう一端を森の入口の木に括りつけて命綱としたそうだ。が、しっかりとロープを縛っていたにもかかわらず、祖父が森から出たときには『何者か』によって解かれていた、とのことだった。</p><p>その対策として、明日もセルゲイとアレクセイは森の縁まで同行し、ケイたちの命綱を監視することとなった。 新たな伝承の成立に立ち会わんでどうする とは、セルゲイの言だ。</p><p>準備が粗方終わってからは、リビングで世間話をした。隊商から離れウルヴァーンを発ったアレクセイが、その後どのようにして北の大地へ帰還したのか。一人旅で野宿をした際に狼の群れに襲われた話や、隊商に同行しようとして寝過ごし間に合わなかった話など、冷静に考えれば割と洒落にならない内容だったが、アレクセイはコメディチックに面白おかしく語っていた。</p><p>対するケイたちもその後のことを話す。ウルヴァーンで図書館に行こうとして、一級市街区に入る前に門前払いを食らったこと。武闘大会の射的部門で優勝しウルヴァーンの名誉市民となったこと。図書館で銀色キノコヘアのカツラをかぶった貴人と知り合いになり、北の大地についてあれこれ教えてもらったこと。</p><p>緩衝都市ディランニレンで聞いた馬賊の噂。エゴール街道での渇水の危機。再び戻ったディランニレンでのガブリロフ商会との合流。隊商に同行したブラーチヤ街道の旅。そして馬賊の襲撃から現在に至るまで―</p><p>その夜はちょっとした宴会となった。タチアナ・エリーナお手製の料理とともに、葡萄酒や貴重な蒸留酒なども振る舞われ、雪原の民一同とアイリーンはご満悦の様子だ。ケイは明日に響くとまずいので蒸留酒は舐める程度に留めたが、アイリーンは割とかぱかぱと盃を空けていた。</p><p>いよいよ、明日。</p><p>そう考えると、彼女も酔いに身を任せたい気分だったのかもしれない―</p><p>その後、宴もたけなわになってから、屋敷の片隅の小さな客室をあてがわれ、明日に備えて早めに就寝することにした。実に十数日ぶりのまともな寝台だ。藁を敷き詰めた箱に布や毛皮を重ねがけした原始的なタイプのものだったが、下手な宿屋の寝台よりもよほど寝心地がよく、サイズも大きめだったのでケイとアイリーンが一緒に寝ても全く問題はなかった。</p><p>―なかったのだが。</p><p>夜、暗い客室で、ケイはまんじりともせずに天井を眺めていた。</p><p>眠れない。</p><p>明日の探索行への不安もあったが―その一番の原因は音だ。</p><p>より正確に言うなら、声だった。</p><p>屋敷内、客室から少し離れた部屋から、年若い少女の嬌声が響いてきている。しばらく前までは押し殺すような抑えたものだったのだが、今は床板が軋む音とともに、色々と激しい感じだ。</p><p>声の主はおそらくエリーナだろう。あの大人しそうな少女も、夜はこんな風になるのだなぁ、とケイは意外な気持ちで考えた。アレクセイは随分と張り切っているらしい。</p><p>ちらりと隣を見れば、肩の触れ合う距離で寝転がったアイリーンも、どうやら眠れずにいるようだ。ケイの瞳は暗闇の中でも、アイリーンの耳が微妙に赤くなっていることを見て取る。</p><p>……お盛んなことで</p><p>まったくだよ</p><p>ぼそりとケイが呟くと、話しかけられるのを待っていたかのようにアイリーンも即座に答えた。</p><p>あんまり恥ずかしがらない……お国柄？　なのかな</p><p>わかんない</p><p>どこかぶっきらぼうな口調で、アイリーンは答えた。そもそもロシア人と雪原の民は違うので、一概には言えないだろう。その上ここは地球とは異なる世界だ。サティナやウルヴァーンで宿屋暮らしをしていたときも、隣室から男女の営みの声が聴こえてくるのは日常茶飯事だったが（むしろケイたちもその音源の一つだった）、今日出会ったばかりとはいえ、知り合い(エリーナ)のそういう声が聴こえてくるのは、なんとも複雑な気分だ。</p><p>ごろりと寝返りを打って、アイリーンの側へ肘をついたケイはおもむろに切り出す。</p><p>俺たちも対抗してみるか？</p><p>なっ</p><p>アイリーンは顔を隠すように、掛け布団をずり上げた。</p><p>カンベンしてくれよケイ……</p><p>耳だけではなく、頬から首までアイリーンは真っ赤になっていた。もう幾度と無く体を重ねており、今更互いに恥じらうような間柄でもないが、やはり他人の家でそういうことに及ぶのには羞恥心的にダメらしい。アイリーンは変に真面目なところがあるのだ。</p><p>…………</p><p>が、ふと悪戯心のようなものが芽生えたケイは、そのままアイリーンの頬にそっと手を添える。</p><p>アイリーン……</p><p>えっ、ちょっと、</p><p>アイリーン、愛してる</p><p>あっ……って、もう！　ケイってば、ちょっと！　んむっ</p><p>アイリーンに口づけると、それは受け入れたまま、ケイの胸板をぽこぽこと抗議の拳が叩いた。</p><p>が、全く力が入っていない。これはイケる方のアイリーンだ、とケイは確信する。</p><p>……。もう。ケイのばか</p><p>拗ねたような顔で唇を引き結ぶアイリーン。しかし同時にどこまでも無防備だ。白い肌着に手を差し込み、脇腹をくすぐるようにして撫でると、くすくすと笑いながら身をよじったアイリーンは、お返しとばかりに強引にケイの頭を抱き寄せた。</p><p>―ケイ。愛してる</p><p>情動のままに、二人は互いを貪った。</p><p>必死で声を抑えるアイリーンがあまりに愛らしかったので、思わずケイも羞恥心を忘れ燃えてしまった。アイリーンも何だかんだで盛り上がってしまったらしく、最後の方では色々と自重するのを忘れていたようだ。</p><p>事後、明日皆に合わせる顔がないとアイリーンはいたく恥じらっていたが、旅の疲れや諸々も相まって、ケイの腕を枕にスヤスヤと寝息を立て始める。</p><p>…………</p><p>気だるげな眠気を感じながら、ケイはアイリーンの寝顔を眺めていた。</p><p>これが、最後になるのかもしれない、などと考えていた。尋常ではない魔の森に、滅多とないシーヴの自発的な行動。明日、森に踏み入れば、何らかのことがあるだろうとケイは予想している。</p><p>―正直なところ、やっぱりイヤだった。</p><p>アイリーンには帰ってほしくない。まだまだ、アイリーンを愛し足りない。</p><p>ずっと一緒に暮らしたい。どこかで平和な家庭を築いて、共に何気ない日常を過ごしていきたい―</p><p>心の内に、愛しさと、そんな欲求がとめどなく溢れ出てくる。</p><p>だが、同時にわからなくなるのだ。アイリーンの幸せと平穏を願うならば、こちらの世界よりも地球の方が良いのではないかと。常にその思いがついて回る。</p><p>『どうしたらいいんだろうな……』</p><p>囁くようにして、ケイはアイリーンにわからぬよう、日本語で呟いた。</p><p>『一緒にいてくれ。どこにも行かないで……一人にしないでくれ……』</p><p>くしゃっと顔を歪めたケイは、眠るアイリーンの額にそっと口づける。</p><p>……愛してる、アイリーン</p><p>皆も寝静まったのか、辺りは物音ひとつしない。</p><p>ケイはそっとまぶたを閉じた。</p><p>次回、魔の森へ突入。</p><p>ところで、作中の『箱ベッド』はこんな感じのものです。</p><p>マットレスに相当する麻袋の中に藁とか色々詰め込んであります。木の枠があるので端っこに行き過ぎると当たって痛い。</p><p>53. 突入</p><p>前回のあらすじ</p><p>ベッド ギシッ、ギシッ、ギシッ</p><p>サスケ 若さっていいねえ</p><p>スズカ ね</p><p>サスケ 僕もそろそろお嫁さん探そうかな</p><p>スズカ ……わたしじゃダメなの？</p><p>サスケ 僕、馬じゃないからねえ</p><p>スズカ そう……</p><p>鳥の鳴き声に、目を覚ました。</p><p>閉め切った雨戸の隙間から、高く昇った陽光が差し込んでいる。ベッドに寝転ぶケイは、ぼんやりと寝ぼけ眼でそれを眺めていた。</p><p>傍らに人肌のぬくもりを感じる。愛くるしい、いつまでも抱き締めていたくなるような温かさ。</p><p>ケイの腕に縋るようにして、アイリーンが寝息を立てている。無意識のうち、ケイの手はアイリーンの背筋をなぞっていた。白磁のような肌。しばし、指先に伝わる滑らかな感触に陶然とする。背中を往復する指に少しくすぐったそうにしながらも、アイリーンはむにゃむにゃと、まだ夢の中だ。</p><p>その穏やかな寝顔を、愛おしげに見守るケイ。</p><p>が。</p><p>（―あれ、今何時だ？）</p><p>不意に冷水を浴びせられたような感覚に襲われる。</p><p>明るい。部屋の外が明るすぎる。今日は早朝から魔の森に挑む予定ではなかったか。しかし、少なくとも、この日差しの高さは朝ではありえない。</p><p>しまったッ</p><p>ともすれば昼前。思わず跳ね起きるケイ、支えになっていたケイの腕がなくなり、枕に顔を埋めて んぎゅっ と声を上げるアイリーン。</p><p>……ん？　……ん。……ケイ、おはよ</p><p>ベッドの中、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、ぱちぱちと青い目を瞬かせるアイリーン。しばし視線を彷徨わせ、ケイの姿を捉えて、安心したようにふにゃりと笑う。</p><p>あ、ああ、おはよう……</p><p>とりあえず、アイリーンに合わせて笑顔を浮かべるケイは、しかし口の端が引き攣っていた。どこか挙動不審な恋人に目を擦りながら首を傾げるアイリーンだったが、ケイの視線を辿り、―燦々と雨戸から差し込む陽光に気付いた。</p><p>すっ、とアイリーンが真顔になる。</p><p>……えっ、待って待って、ケイ、今何時？</p><p>……わからん</p><p>顔を見合わせる二人。</p><p>―寝過ごした。</p><p>転がるようにしてベッドから飛び出した二人は、大慌てで床に散らばった服を身につけ始めた。</p><p>†††</p><p>おお、起きたか</p><p>どうにか身支度を終えたケイたちがリビングに駆け込むと、テーブルで何やら帳簿をつけていたセルゲイが暢気に声をかけてきた。</p><p>すまん！　今日は朝から森へ行く予定だったのに―</p><p>なぁに、気にするな</p><p>ケイの言葉を遮って、ひらひらと手を振るセルゲイ。</p><p>旅の疲れもあっただろう？　寝かせておくことにしたんだ、別に魔の森は逃げやしないからな</p><p>急がなくていいし、今日が無理なら明日にすればいいじゃないか、と。あくまでも、のんびりとした様子のセルゲイに、ケイたちも落ち着きを取り戻す。</p><p>そうだ―何も、急ぐ必要はないのだ。</p><p>これまで、追い立てられるように旅してきたせいで、少しカリカリしすぎていたのかもしれない。そう意識してみると、前のめりになって慌てていた自分たちが滑稽に思えてきて、ケイとアイリーンは顔を見合わせて苦笑した。</p><p>そうだな、それもそうか。……今、何時くらいだ？</p><p>おいおい、こんな田舎に時計があるとでも思ってんのか？</p><p>だいたい昼過ぎだよ、とお手上げのポーズで答えるセルゲイに、ケイはますます苦笑の色を濃くする。おそらく現在、シャリトの村に存在する時計は、ケイたちの荷物に仕舞われている懐中時計ひとつだけだろう。</p><p>それにしても、ケイもアイリーンも、本当にぐっすり眠ってたな</p><p>ああ、そうだな……お陰でゆっくり休めたよ。随分と長い間、眠っていたような気がする。昔、病気でほとんど意識もなく半年以上寝込んだことがあるんだが、それに似た感じだ</p><p>額を押さえて、頭を振りながらケイ。本当に、不思議なことに、かなりの長期間に渡って眠り込んでいたような感覚があった。</p><p>意外だな、お前はそんな大病しそうな人間には見えないが。まあなんだ、とりあえず茶でも飲めよ。長旅に加えて戦いにまで巻き込まれたんだ。そうそう疲れは取れんさ</p><p>ありがとう</p><p>セルゲイに勧められて席につき、 ほれ と薬缶に作り置きされていたハーブティーを貰う。揃ってカップに口をつけるケイとアイリーン―</p><p>にしても、昨日は随分と激しかったな。結局何回ヤったんだ？</p><p>が、突然ゲス顔になったセルゲイの問いに、 ブフォ と同時に茶を噴き出した。</p><p>ゲホッ、こほっ！</p><p>な、何言ってんだあんたは！</p><p>むせるアイリーン、どもるケイ、そんな初心な二人の反応に グヘヘ とさらにゲス顔を濃くするセルゲイ。</p><p>いやいや、わかるぞぉ～、よぉ～くわかるぞぉ！　旅だと気軽にできないもんな？　な？　久々だったんだろ？　我慢した分、燃えちまうってのはよくあることさ！　いやぁ良いねえ良いねえ、若いねえ！</p><p>手をわきわきとさせながら、何やら一人でうんうんと頷いたり勝手に納得したり盛り上がったりと、忙しないセルゲイ。アイリーンは頬を染めてそっぽを向き、ケイは憮然と腕組みしている。そんな二人を見て、セルゲイはますます大笑いした。</p><p>……それで、今日はどうする？</p><p>ひとしきり二人をからかってから、少しばかり真面目なトーンでセルゲイ。</p><p>うぅむ……森にアタックするには……</p><p>ちょっと遅い気がするなぁ……</p><p>ケイとアイリーンは揃って難しい顔で、部屋の窓から既に高く昇り切った太陽を見上げる。森に入って何をどうするか、具体的なヴィジョンがあるわけではない。ケイたちの目的は、おそらく森のどこかに居る『賢者』―もしくはそれに類する存在―と邂逅し、元の世界への帰還が可能か確かめることだ。賢者が実在しなければ元も子もない話だが、あの怠慢で気まぐれな風の精霊シーヴがわざわざ道を示したということは、きっと『何か』があるはず。</p><p>問題は、肝心の賢者が森のどこに棲んでいるのかさっぱりわからないことだ。賢者の住処を探すため、危険極まりない魔の森を彷徨い歩かなければならない。季節は晩夏、まだ日は長いとは言え、森に入るのは早朝からにしたいところだ。</p><p>ふーむ……とりあえず試してみたらどうだ？</p><p>神妙な顔で、ぱたんと帳簿を閉じてセルゲイ。</p><p>……『試す』とは？</p><p>ぶっつけ本番で森を探索するのもおっかないだろう。一応、昨日下見に行ったとはいえ、親父の遺した『魔の森探索装備』も実際に上手く使えるかどうかもわからんしな。まず予行演習してみてもいいんじゃないか？</p><p>本格的な探索は明日以降にするとして、実際に『霧の中に踏み込む』練習をしてみてもいいのではないか、とセルゲイ。</p><p>随分と慎重な姿勢だが、彼らの語る”魔の森”の危険性を鑑みれば、妥当な判断かもしれない。どうせ、このまま村に留まっても、そわそわと落ち着かない気分でのんびりできないのだ。ケイたちはセルゲイの提案に乗ることにした。</p><p>昼食を馳走になってから、セルゲイの父親が考案した『魔の森突撃用装備』を改めて借り受ける。道標となる小さな杭、互いを結びつける革帯と鎖―中でも特に大切なのは、１００メートル近い長さを誇る命綱だろう。セルゲイ曰く、これは彼の父親が長い年月をかけて編み上げたもので、村に存在するロープの中で最も長いものだという。無論、森を探索するには短すぎるが、『肝試し』程度に霧の中へ踏み込むには充分すぎる長さだ。</p><p>このロープを腰に括り付け、もう片側を森の外に待機した誰かが保持しておく。時折軽くクイクイッと引っ張って合図とし、仮に合図が返ってこなければ精神に異常をきたしたか、何らかの問題が起きたと判断。迅速に引っ張って救出することができるというわけだ。</p><p>で、それはわかってたんだが</p><p>準備を整え、再び森に出向いたケイは、背後を振り返って一言。</p><p>……なんか、多くないか？</p><p>みんな興味があるってよ</p><p>からからと笑うのはアレクセイだ。</p><p>魔の森のほとり。</p><p>セルゲイとアレクセイの親子二人以外に、ぞろぞろと列をなしてついてくるシャリト村の住人たちの姿があった。皆、サンドイッチのバスケットや酒瓶を携えており、森に着くや否や思い思いに敷物を広げて酒盛りを始め、宴会のような様相を呈している。</p><p>そんな彼らの酒の肴は、他でもない、異邦の旅人―無謀にも魔の森へ挑もうとする二人組だ。ケイは鎖帷子を装備し、矢筒と長剣を腰に下げ、“竜鱗通し”を携えた軽装。アイリーンもサーベルを背負い、黒装束を身に着けた、いつもの格好だ。</p><p>腰に革帯を着け、鎖を繋ぐフックの調子を確認し、命綱を樹の幹に括り付け―と、ケイたちが黙々と準備を進めていると、ほろ酔い加減の村人たちが騒ぎ始めた。お調子者の雰囲気を漂わせる若者が、鉢を手に見物人たちの間を飛び回っている。何やら話が盛り上がっているようだが、雪原の言葉(ロスキ)なのでケイは理解できない。</p><p>……何を話してるんだ？　あれ</p><p>う～ん……賭けをやってるみたいだな</p><p>ケイの問いに、アイリーンが極めて複雑な表情で答えた。</p><p>賭け？</p><p>オレたちが戻ってこれるかどうか……戻ってこれたとして正気を保ってるかどうか、みたいな……</p><p>……ああ</p><p>ケイも、アイリーンと似たような表情を浮かべた。娯楽の少ない田舎とは言え、それが賭けとして成立する程度には無謀なことをしようとしているのが、自分たちだ。</p><p>よし。それじゃあ二人とも、準備はいいか？</p><p>大丈夫だ</p><p>問題ないぜ</p><p>セルゲイの言葉に、頷くケイとアイリーン。二人とも腰に革帯を巻き、それをニメートルほどの細長い鎖で繋いである。森の中で離れ離れにならないための措置だ。また、ケイのベルトには命綱も括り付けられており、戻る際は文字通りこれが唯一の頼みの綱となる。</p><p>魔の森では方向感覚が狂い、方位磁針も使い物にならなくなるという。帰りはシーヴを頼る、という手もあったが、霧の中では魔術も阻害されるため、ただ道を示すだけの術式でも大量の触媒を消費してしまう可能性もある。手持ちの宝石(エメラルド)は少なく、残りの魔除け(タリスマン)は二つのみ。宝石は兎も角、タリスマンは貴重なので浪費は避けたいところ―加えて、魔力の要求量が手持ちの触媒を超えてしまえば、待ち受けているのは枯死だ。いずれにせよ、霧の中では極力魔術を使わない方がいい。</p><p>……よし。行こうか</p><p>少しばかり神経質に、最後にもう一度、腰にしっかりロープが結びつけられているか確認したケイは、ぺろりと唇を舐めた。傍らのアイリーンも流石に緊張した面持ちだ。互いに目配せして、こくりと頷く。</p><p>灰色の壁。</p><p>魔の森の『霧』を前に、立つ。</p><p>ケイが手をかざすと、かすかに風がそよいだ。オオオォと大気が鳴動し、霧の壁に穴が開く。どよめく周囲の野次馬たち。</p><p>う……</p><p>が、手を挙げた格好のまま、ケイは顔をしかめて呻いた。</p><p>どうした、ケイ？</p><p>……シーヴに魔力を吸われた</p><p>頼んでもいないのに勝手に術を行使し、それでいてその分の魔力はしっかり徴収していくのがシーヴだ。賢者の住処まで風穴を開けて案内してくれるわけでもなし、入り口だけ開かれても、見物人たちを楽しませる以外に意味はないのだが―おそらく、それこそがシーヴの目的なのだろう。気まぐれでお調子者、それが風の精霊だ。余興で魔力を持っていかれるケイは堪ったものではないが。</p><p>……大丈夫か？　やめとく？</p><p>ケイの魔力の低さは重々承知しているため、心配げなアイリーン。しかしケイはおもむろに いや と首を振った。</p><p>平気だ。……なんというか、慣れてきた</p><p>『こちら』で初めて魔術を行使した際は、枯死寸前にまで魔力を使ってしまい、反動の吐き気やら何やらで死にかけたものだが、幾度となく経験を積むうちにある程度慣れてきた。流石にシーヴが手加減しているということもあるのだろうが、今しがたの魔術の行使も少し身体がふらついた程度で済んでいる。</p><p>でも、万全を期すべきじゃないか？　ちょっと休んだ方が……</p><p>いやいや、本当に大丈夫だ。もう回復したから</p><p>それでも心配そうなアイリーンに、ケイは明るく笑ってみせた。強がっているわけではない。ぺしぺしと頬を叩いて改めて気合を入れ直す。</p><p>よし。じゃあアレクセイ、セルゲイ、行ってくる</p><p>うむ。新たな伝承の誕生に立ち会えることを光栄に思う</p><p>何をどう、気をつければいいのかわかんねーけど……気をつけてな</p><p>腕組みして重々しく頷くセルゲイ、そしてケイの腰に括り付けられた命綱をしっかりと握りつつも、少々気弱な笑顔を見せるアレクセイ。</p><p>これが合図だからな。返事がなかったらすぐに全力で引っ張るぞ、ケイ</p><p>アレクセイはクイクイッと命綱を軽く二度引いてみせた。一応、命綱の末端は、何があっても外れないよう大樹に括り付けてある。安否確認の合図を送るのが、アレクセイの役目だ。</p><p>ああ。こうだな</p><p>ケイも二度、引っ張り返す。</p><p>二人とも、無事に戻ってこいよ</p><p>なーに、心配すんなって</p><p>今日は命綱の届く範囲で、軽く散歩してくるだけだからな</p><p>ひらひらと手を振るアイリーン、にやりと笑ってみせるケイ。</p><p>表情を引き締め、霧へと向き直った二人は、そのまま躊躇うことなく灰色の世界へと踏み込んでいく。</p><p>二人の背中が、とぷんと霧に呑まれ―見えなくなる。</p><p>ただ、そびえ立つ灰色の壁から、ロープが一本。ゆらゆらと揺れながら、奥へ奥へと進んでいく。アレクセイは手元の命綱越しに、二人の歩調を感じ取っていた。</p><p>ケイ、アイリーン！　どうだ、大丈夫そうかー？</p><p>ロープを繰り出しながら、アレクセイは声をかける。</p><p>が、霧の奥から返答はなかった。不安に駆られ、くいくいと綱を二度引く。</p><p>するとすかさず、くいくいっと合図が返ってきた。どうやら無事らしい。霧の中には声が届かないようだ。</p><p>魔の森についての知識が増えたな、などとアレクセイが暢気に考えた、</p><p>次の瞬間。</p><p>ぶるん、と命綱が大きく揺れ―止まった。</p><p>そして不気味なまでに、動かない。</p><p>……ケイ？　アイリーン？</p><p>くいくい、と合図を送るアレクセイ。</p><p>…………</p><p>返事は―</p><p>あれ？　二人とも……ぬおッ！？</p><p>突然、ぐんっと手を取られ、アレクセイは困惑の声を上げた。凄まじい勢いでロープが引かれている。まるで暴れ馬の手綱のような―</p><p>うわっ！？　うおおおおおおッッ！！</p><p>綱引きのように身体を倒し、地面に踵を食い込ませてどうにか耐えようとするが、力が拮抗したのはほんの一瞬に過ぎなかった。グゥンと一際強く引っ張られ、身体が宙に浮き上がり、命綱ごと霧の中へ引きずり込まれそうになるアレクセイ。</p><p>やめろっ手を離せ！</p><p>そこで、セルゲイが体当たりするようにアレクセイを引き剥がした。二人して、もんどり打って森の腐葉土に転がる。ロープは大魚がかかった釣り糸のように、猛烈な勢いで引かれていく。</p><p>これは……一体何が！？</p><p>わからん！</p><p>迂闊に触れれば手が擦り切れてしまいそうな速さ、地面にとぐろを巻く形で放置されていたロープは、あっという間に限界に達する。</p><p>バンッ、と乾いた音を立て、張り詰める命綱。大樹に結び付けられた末端がぎりぎりと軋みを上げている。</p><p>命綱を引っ張る『何か』は、それで限界を悟ったらしい―</p><p>一瞬、綱が緩んだ。</p><p>が、一拍置いて、再び猛烈に引っ張られる。</p><p>バンッ！　バンッ！　バンッ！　と、執念すら感じさせる乾いた音が、森のほとりに響き渡る。あまりの力に大樹の幹がぐらぐらと揺れ、ロープがみるみるうちに摩耗していく―</p><p>あ、ああ……！</p><p>アレクセイの、嘆きとも悲鳴ともつかない声も虚しく。</p><p>バツンッ！　と一際大きな音を立てて、命綱が千切れた。</p><p>そして、呑み込まれていく。</p><p>命綱が―霧の向こう側へと。</p><p>とぷん、と灰色の壁が無感動に揺れ、後には何も残らない。</p><p>嘘だろ……おい、ケイ、アイリーン？！</p><p>限界まで、霧の壁に近づいて、必死で叫ぶアレクセイ。</p><p>ケ―イ！？　アイリ―ン！！　返事をしろ―ッッ！</p><p>アレクセイは、叫ぶ。</p><p>しかし、魔の森は応えない。</p><p>ただ、不気味なまでに静まり返っている―</p><p>―ん？</p><p>視界が霞む。真っ白な霧の世界で、ケイはふと、足を止めた。</p><p>どうした、ケイ</p><p>緊迫した声で、アイリーン。</p><p>……いや。何か、声が聞こえた気がしたんだが</p><p>ケイは、耳を澄ませる。</p><p>無音。</p><p>……そうか？　オレは気づかなかったけど</p><p>アイリーンは、囁くように。</p><p>気のせいかな</p><p>ケイは頭上を振り仰いだ。</p><p>ぼんやりとした太陽の光。</p><p>……アレクセイじゃないか？</p><p>そうかもしれない。それで、思い出した。</p><p>……そういえば次の合図を送らないと</p><p>森に入ってすぐ、そうしたように。</p><p>ケイは再び、腰の命綱を軽く二度引っ張る。</p><p>―く(・)い(・)く(・)い(・)っ(・)と(・)、合(・)図(・)が(・)返(・)っ(・)て(・)き(・)た(・)。</p><p>よし</p><p>命綱は、しっかり繋がっている。</p><p>もうちょっと、進んでみよう</p><p>ああ</p><p>アイリーンが、頷く気配。</p><p>ケイは”竜鱗通し”を握り締め。</p><p>さらに、踏み込んでいく。</p><p>果てしない</p><p>霧の</p><p>世界へ　と</p><p>54. 霧の中</p><p>見渡す限りの、乳白色の世界。</p><p>濃いな……</p><p>一歩一歩、足元を確かめるようにして進む。ケイは”竜鱗通し”を構えながら、周囲に神経を張り巡らせていた。</p><p>頭上から降り注ぐ、ぼんやりとした木漏れ日。森の中は思ったよりも明るいが、視界は著しく悪かった。たゆたう濃霧。立ち枯れたような木々も、その辺に転がる苔むした岩も、全てが白く霞み、背景に溶け込むようにして輪郭を失っていく。</p><p>先ほどからケイは、乳白色のヴェールからぬっと姿を現す巨木の影に、ぎょっとさせられてばかりいた。果たして本当に真っ直ぐ歩けているのか、自信がない。</p><p>静まり返った霧の森。</p><p>ブーツが腐葉土を踏みしめる音と、己の微かな吐息の他は、何も聞こえない。</p><p>しっとりとした、湿り気のある空気の流れが、頬を撫でる。</p><p>―</p><p>ふと、何者かの視線を感じた気がして、ケイは振り返った。</p><p>…………</p><p>しかし、そこには、何もない。</p><p>何があるかもわからない。</p><p>ただひたすらに、鷹の目でも見通せない、白く濁った世界が広がっているだけ―</p><p>……ケイ？　どうかした？</p><p>ぴたりと動きを止めたのは、アイリーンだ。にわかに立ち止まったケイに、囁くようにして問う。腰に繋いだ鎖越しに、彼女の動揺が伝わってくるかのようだった。</p><p>……いや、なんでもない。気のせいだった</p><p>そう答えながら、ケイは腰の命綱を二度引く。</p><p>―くいくいっ、と合図が返ってくる。</p><p>合図は？</p><p>ある</p><p>……オレたち、けっこう進んだ？</p><p>おそらく。命綱(ロープ)の長さも、そろそろ限界かも知れないな</p><p>限界に近づいたときの合図も決めておくべきだった、などと今更のように思うケイ。霧の中に踏み込んで、どれほどの時間が経っただろう―自分たちの時間感覚が、随分と曖昧になっていることに気づく。</p><p>……もう、戻った方がいいかな、ケイ</p><p>アイリーンは少々心許なさそうな様子だ。しきりに、周囲を見回している。ほとんど何も見えず、何も聞こえないこの場所で、その行為に意味があるのかはわからない。</p><p>そうだな、そろそろ引き返すか</p><p>うん……それにしても、不気味だけど、なんか思ったより普通な場所だったな</p><p>ふわふわと霧をかき混ぜるように手を動かしながら、アイリーン。まるで自分に言い聞かせるかのようだった。</p><p>が、確かに、一歩踏み込めば気が狂う、とんでもなく危険な場所だ、と入る前に散々脅かされていたが―実際、ケイたちはまだ正気を保っている。</p><p>そうだな―ん？</p><p>相槌を打ちかけたケイは、さっと手を挙げて注意を促す。再び、ある種の児戯のように、ぴたりと動きを止めるアイリーン。</p><p>…………。どうした？</p><p>何か聴こえた</p><p>囁くようなやり取り。耳を澄ます。</p><p>今度は気のせいではない。森の奥から、微かな音。少しかすれた、何か甲高い『声』のような―</p><p>えぇん……　ぇぇん……</p><p>はっきりと聞き取ったケイは、目を剥いた。</p><p>えぇん……　ぇぇん……　えぇぇん……</p><p>……赤、ちゃん？</p><p>茫然と呟くアイリーン。</p><p>泣き声。</p><p>それは赤ん坊の泣き声だった。聞き間違い、あるいは風の音と断ずるには、あまりにも生々しい。年端もいかない乳飲み子の―</p><p>―いや、そんなはずはない。</p><p>こんな場所に、よりにもよって『魔の森』の奥に赤ん坊が居るはずがない。</p><p>……幻聴じゃ、ないよな？</p><p>違う。俺にも聴こえる</p><p>だから尚更たちが悪い。こんな声を上げる何かが居る、ということだ。</p><p>近(・)く(・)に(・)。</p><p>……山猫とかかも知れない</p><p>発情期の猫は、赤ん坊に似た声を上げることがある。これも、その手の動物の泣き声かも知れない―と言うアイリーンだったが、すぐに口をつぐんだ。</p><p>ずる……、ずる……、と。</p><p>何かを引きずるような音。重量を感じさせる。石でも詰めた麻袋を引くような。</p><p>えぇん……　ずるっ……　えええん……　ずるっ……</p><p>何かが、這いずりながら、近づいてくる。</p><p>そろそろと足音を立てないよう後退し、大樹の陰に身を潜める。ケイは、“竜鱗通し”に矢をつがえ、構えた。</p><p>『―魔の森の近くは、妙な獣が沢山出るんだ』</p><p>霧の奥を見通そうと目を細めていると、不意に、アレクセイの言葉が脳裏に蘇る。</p><p>『身の丈ほどもある一角の大猪やら、双頭の蛇やら。どいつもこいつも、狂暴で危険なヤツらばかりさ』</p><p>やれやれだぜ、と言いながらも笑っていたアレクセイの表情が、曇る。</p><p>『……ただ、ソイツらは霧の中の化け物に比べればマシだ』</p><p>その透き通るような水色の瞳は、不安げに揺れていた―</p><p>『―刃で倒せるだけ、な』</p><p>ずるっ、ずるるっ、と重い音。</p><p>ケイの瞳は、霧の向こう側に、何か蠢くものを捉えた。</p><p>えぇん……　えぇん……</p><p>―間違いなく、『声』。すすり泣くような。その姿は、はっきりとは見えない。</p><p>しかし、思ったよりも小さな影。</p><p>…………</p><p>どくん、どくんと心臓の鼓動を意識する。</p><p>ええん……　えぇぇえええん……　えぇぇん……</p><p>泣き声は、ケイたちの存在には気づいていないようだった。</p><p>来たときと同じように、そのままゆっくりと遠ざかっていく。</p><p>じりじりと肌が焼け付くような感覚。</p><p>やがて、霧の彼方に声が消え、再び静寂が訪れたとき、ケイとアイリーンは盛大に息を吐き出して、樹の幹にもたれかかった。二人とも、知らず知らずのうちに冷や汗をかいている。</p><p>結局、ケイが矢を放つことはなかった。</p><p>……ケイ。何だよ、アレ</p><p>……わからん。……赤ん坊じゃないよな？</p><p>赤ちゃんがこんなとこにいるわけないだろ……</p><p>……だよな</p><p>ケイも、頭ではわかっている。だが―あの影の形は、赤ん坊にしか見えなかった。あの重量感のある音とは裏腹に、抱きかかえられそうなほどに小さくて、儚げな存在に見えた。とても、矢を放つ気にはなれなかったのだ。</p><p>尤も、矢を当てたところで『倒せるか』は別問題―あれは、果たして生物だったのだろうか？</p><p>ヤバいな、ここ</p><p>そうですか？　良い場所だと思いますよ</p><p>は？</p><p>アイリーンの呟きに、別の誰かが答え、間抜けな声を上げるケイ。</p><p>弾かれたように振り返ると、いつの間にか背後に、奇妙なものが立っていた。</p><p>それは本当に『奇妙なもの』としか形容しようがない。背丈はケイたちと同じくらいの、一般的な人間サイズ。卵型の胴体に長い手足。ただしその胴体は―いや、そもそも『胴体』と言って良いものか。</p><p>全て、顔だった。顔から手足が生えたような姿。</p><p>ケイは咄嗟に『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティを連想した。卵を擬人化した、ずんぐりむっくりな体型の登場人物―一般に知られているハンプティ・ダンプティとの違いは、体表がざらざらとした岩のような質感をしていることだろう。まさしく、石の卵―その重量を物語るかのように、柔らかな大地にはその小さな両足がめり込んでいる。そしてそれは、眼前のこの奇妙な『もの』が、紛れもなく実在することを示していた。</p><p>なっ</p><p>いち早く我に返ったケイは、思わず弓を構えそうになったが、寸前で自重する。その胴体（もしくは顔）ではなく、ただ威嚇として、足元に狙いを定めた。『対話可能』な存在であれば、殺すつもりで武器を向けるのはあまりに無礼だと思ったからだ。あるいはそう思わせるだけの穏やかで紳士的な態度を、その『石卵』は貫いている。見れば、アイリーンもケイと同じ考えだったらしく、背中のサーベルに手を伸ばしてはいたが、引き抜いてはいない。</p><p>―だが、この存在は本当に『対話可能』なのか？</p><p>最初に話しかけてきてから一言も発さない石卵を前に、ケイは嫌な汗が滲んでくるのを感じた。</p><p>石卵は、微笑んでいる。</p><p>アルカイックスマイル―口の端に浮かぶ無感動な微笑。よくよく見れば、その顔の造形はまるで冗談のようだった。大きな丸い目に、ひしゃげた鼻、しわの寄った、ケイを丸呑みできそうなほど大きな口。全体的に石のような質感を漂わせているが、その瞳だけが妙に生気を感じさせていて、気持ち悪い。絵画からそのまま飛び出してきたかのような非現実感。身じろぎもせず、ただ、じっとそこに立ち尽くす様は悪趣味な石像のようでもある。</p><p>ただ―なんだろう。</p><p>その瞳を睨み返していると、ケイは無性に不安を掻き立てられるのだ。</p><p>石卵は、微笑んでいる。</p><p>しかしそれはケイの認識に過ぎない。石卵が浮かべている表情を、『微笑みである』と判別しているのはケイだ。</p><p>疑問がある。</p><p>穏やかな表情に対して―この瞳の奥にあるものは何だ。</p><p>ゆっくりと、ケイは弓を構え直す。</p><p>狙いは足元から、石卵の体の中心へ。</p><p>もはや無礼だの対話だのという考えは投げ捨てていた。無感動に、じっとこちらを凝視する見開かれた両眼から、ケイはある動物を連想せずにはいられないのだ。</p><p>『蛇』</p><p>獲物に狙いを定める、肉食の爬虫類―</p><p>―</p><p>すっ、と石卵が、瞳だけ横に動かした。</p><p>視線を移す。</p><p>アイリーンに。</p><p>びくんと反応した少女は、サーベルの柄に手をかける。ケイもまた”竜鱗通し”を握る手に力を込め、即座に弦を引けるよう感覚を研ぎ澄ます。</p><p>にわかに、恐ろしいほどの緊張がその場を支配した。</p><p>“竜鱗通し”を構えるケイも、サーベルを握るアイリーンも、微笑む石卵も、それ以上は動かない。</p><p>…………</p><p>やがて、石卵がつっと視線を逸らした。まるで興味を失ったかのように。</p><p>くるりと背を向ける。</p><p>その瞬間、ケイは思わず叫びそうになった。</p><p>背面には、無数の人の顔。</p><p>一つ一つが、握りこぶし大の『顔』だった。丸みを帯びた石卵の背面を、びっしりと埋め尽くしている。男の顔もあった。女の顔もあった。老いも若きも等しく苦悶の表情を浮かべたそれらは、ケイとアイリーンの姿を認め、一斉に口をぱくぱくと動かす。</p><p>まるで助けを求めるように。</p><p>小さな口が―無数の『穴』が、蠢く。</p><p>うぅッ……</p><p>あまりの醜怪さに、顔を青褪めさせたアイリーンが口元を押さえた。ケイの全身が粟立つ。その異質さ、そして何より生理的嫌悪感に。</p><p>石卵は、もはや振り返ることもなく、歩み去っていく。</p><p>のしのしと足音が遠ざかり、その背が―人々の顔が、霧に包まれて見えなくなる。</p><p>ただ、二人の荒い吐息だけが、やけに耳についた。</p><p>……何だよ、今の</p><p>アイリーンが喘ぐようにして、呟く。</p><p>ケイはそれに答えられない。</p><p>ただ、矢を放たなくて良かったかも知れない、とだけ思った。</p><p>……戻ろう</p><p>額の冷や汗を拭いながら、ケイ。その提案に、アイリーンは一も二もなく頷いた。</p><p>そのまま命綱を辿って引き返そうとしたところで―しかし二人は足を止める。</p><p>おかしなことに気づいた。</p><p>ケイたちの命綱。</p><p>今までずっと、森のほとりから引っ張ってきたはずのそれが。</p><p>上(・)に(・)向(・)か(・)っ(・)て(・)伸(・)び(・)て(・)い(・)る(・)。</p><p>呆けたような顔で、ロープの先を視線で辿っていく二人。</p><p>立ち込める乳白色の壁の向こう側に、ロープの先端は吸い込まれていき、見えなくなる。ぼやけた霧の果ては、見通すことができなかった。ケイの目をもってしても。</p><p>ロープの伸びる方へ、一歩、二歩と歩み寄る。</p><p>当然、ロープはゆるんで、たるむ。</p><p>するとたるんだ分だけ、しゅるしゅると『向こう』から手繰り寄せられる。</p><p>そのままふらふらと、釣られるようにして歩いて行く二人だったが、十歩も行かないうちにケイが立ち止まった。</p><p>霧の向こう側に―ぼんやりと、何かが見えてきたのだ。</p><p>でかい。</p><p>人型―に見える。だが、サイズがおかしい。その背丈は、見上げるほど―少なく見積もっても十メートル近くある。周囲の大木に匹敵する高さ。</p><p>そ(・)し(・)て(・)ロ(・)ー(・)プ(・)は(・)そ(・)の(・)人(・)型(・)の(・)手(・)元(・)に(・)伸(・)び(・)て(・)い(・)る(・)。</p><p>それは―どことなく、犬の散歩を思わせた。</p><p>命綱がリード。</p><p>ケイたちが、犬だ。</p><p>…………</p><p>口の中が、からからに乾いていた。</p><p>そのとき、何を思ったかケイは、その巨大な『ヒトガタ』を前にして、くいくいと命綱を引っ張った。</p><p>くいくい、と合図が返ってくる。</p><p>明らかに、その動きに合わせてヒトガタが揺れていた。</p><p>そして、ケイは、とうとう気づく。―今まで、長時間に渡り合図を送っていなかったにもかかわらず、救助のため命綱が引かれなかったことに。</p><p>即座に、ナイフを抜いて命綱を切断した。</p><p>ぱたっ、と軽い音を立てて地に落ち、たるむ命綱。</p><p>しゅるしゅると、ヒトガタがそれを引いていく。手繰って、手繰って、手繰り寄せて―先端に、何もついていないことに気づいた。</p><p>―！</p><p>その瞬間、周囲に満ちた異様な気配を、なんと形容するべきだろう。</p><p>怒声、が適当かもしれない。</p><p>だが、森は静かなままだった。</p><p>静寂の中に、怒りが満ちている。</p><p>眼前のヒトガタが、駄々をこねるように暴れ始める。</p><p>あっ、うわっ</p><p>逃げるぞッ</p><p>上擦った声を上げるアイリーン。その手を引いて、無理やり引き摺るようにしてケイは駆け出した。すぐに我に返り、アイリーンも自ら走り出す。</p><p>二人の声と足音に、ヒトガタも気づいたらしい。</p><p>―！</p><p>無言の怒気を吹き上げるようにして、ズンッ、ズンッと重い足音を立て追いかける。</p><p>立ち枯れたような木々を薙ぎ倒し、大地を砕き、それでも止まらない。</p><p>ヒトガタの動きは鈍く、お世辞にも機敏な走りとは言えなかった。が、一歩の歩幅が段違いだ、いずれ追いつかれる。アイリーンだけなら逃げられるかもしれないが。</p><p>ケイは―</p><p>くそっ、アイリーン走れ！</p><p>二人の腰をつなぐ鎖を、そのフックを外した。</p><p>あっ、ケイ何を！？</p><p>突然ヒトガタに向き直ったケイに、アイリーンもまた立ち止まる。</p><p>行けっ、俺に構うな！</p><p>そう叫ぶケイは、おもむろに”竜鱗通し”を構えた。</p><p>青色の矢羽。通常のものより、さらに長い矢をつがえる。</p><p>狙うはヒトガタの頭部。</p><p>一息に引き絞り、放つ。</p><p>カァン！！　と快音、見上げるような化け物に、矢が唸りを上げて突き立つ。</p><p>―！！</p><p>大気が、それそのものが動揺するかのように震えた。両手で頭を抱えたヒトガタが勢いを失い、ふらふらと足元が覚束なくなり―倒れる。</p><p>重量物が叩きつけられる衝撃に身構えるケイだったが、しかし、ヒトガタの体躯が地に触れる寸前で、弾(・)け(・)た(・)。</p><p>くッ！？</p><p>ケイは顔の前で腕を交差させ、姿勢を低く保つ。ぶわりと吹き荒れる風。いや、それはもはや『爆風』だった。あるいはヒトガタの断末魔の叫びか、無音のうちにびりびりと痺れるような、音に近い何かがケイを圧する。纏わりつく霧さえも、一瞬吹き散らされたほどだった。</p><p>だが、霧はすぐに戻ってくる。</p><p>森は再び静寂に包まれ、しっとりとした空気が辺り一面を覆い尽くす。</p><p>未だわんわんと残響すら感じる中、ケイはそれを振り払うように頭を振りながら、立ち上がった。</p><p>……無事か？　アイリーン？</p><p>呼びかける。</p><p>……アイリーン？</p><p>しかし、返事がない。</p><p>慌てて周囲を見回した。だが、あの黒衣の少女は姿は、ない。ケイは霧の中にひとりぼっち、取り残されている。</p><p>霧は、ますます濃くなったようだ。もはや数歩先さえも見えない。</p><p>白くぼやけた世界で、ケイは一人、狼狽した。</p><p>アイリーン？　アイリーン！？</p><p>声を振り絞って叫ぶ。そして耳を澄ます。</p><p>……ケーイ！</p><p>やがて、どこからかアイリーンの声が返ってきた。</p><p>アイリーン！？　どこだ―！？</p><p>……ケーイ！　どこ―！？</p><p>アイリーン！！　俺はここだー！</p><p>……ケイ？　ケーイ！？　なんで！？　どこなの！？</p><p>アイリーンの声には、困惑の色が滲んでいた。何らかの原因で、方向感覚を失っているのか。</p><p>動くな、今そっちに行く―！　待ってろ―！</p><p>声のする方へと、ケイは足元を警戒しながら走り出す。</p><p>アイリーン！！</p><p>……けーい！！</p><p>アイリーン、大丈夫か―！？</p><p>ケーイ！</p><p>アイリーン！！</p><p>けーーい！　こっちー！</p><p>そっちか！　アイリーン！</p><p>ケ―イ！</p><p>アイリーン！</p><p>けーい！　けーい！！</p><p>走って、走って、走って。</p><p>なぜだ。</p><p>立ち止まる。</p><p>アイリーン！　動くな、俺が行くから！</p><p>霧の向こう側へ、叫ぶ。ケイがどれだけ走っても、距離が縮まらない。</p><p>けーい！　こっち、こっちー！</p><p>相変わらず、アイリーンの声は聞こえてくる。</p><p>アイリーン！　動くなよ！　いいか！？　今そっちに行くから！</p><p>けいー？</p><p>さらに、走った。そして霧の向こう側に、朧気に黒い影。</p><p>良かった、ここにいたか！</p><p>その背中に、声をかける。</p><p>アイリーン、大丈夫、か……</p><p>だが、残り数歩の距離まで迫ったところで、足を止めた。</p><p>ゆらゆらと揺れる、黒い影。背中を向けているのだと思っていたが、これは―</p><p>いや―黒衣ではあっても、これはおかしい。アイリーンの髪はプラチナブロンドだ。こんな黒髪では―いや、肌の色も黒くなんか―</p><p>いや、そもそもこれは人間では</p><p>けーーーーーいーーーーー</p><p>がぱぁっとくちがひらいた</p><p>何だお前！？</p><p>躊躇いなく、弓を引く。矢をぶち込む。</p><p>一撃を受けた黒い影が、ぱぁんと弾けた。</p><p>キャーキャーと甲高い、どこか楽しそうな悲鳴を上げて―無数の、数え切れないほどの小人の影が飛び散った。</p><p>それは蟻の群れのようにも見えた。ただ、蟻とは比べ物にならない速さで、四方八方に散っていく。</p><p>ばらばらばら。</p><p>またもや、ケイは霧の中にひとり。</p><p>……アイリーン？</p><p>―俺は何を追いかけていた？</p><p>―本物のアイリーンは、どこに居る？</p><p>……アイリーンッ！！！</p><p>叫ぶ。</p><p>アイリ―ンッッ！</p><p>声が枯れるほどに。</p><p>そして耳を澄ます。目を閉じて、全神経を傾けて。</p><p>…………ケーイッ！</p><p>今度こそ、聴こえた。</p><p>けーい</p><p>けーーーーい</p><p>けーいけーい</p><p>けーーーーい</p><p>けいー</p><p>けいーけいー</p><p>そしてそれを遮るように、あらゆる方向から、声、声、声。</p><p>これだ。アイリーンが先ほど困惑していたのは―こ(・)い(・)つ(・)ら(・)の(・)せ(・)い(・)だ(・)。</p><p>クソッ舐めやがって！</p><p>ケイは胸元から乱暴に魔除け(タリスマン)を引き抜き、さらに腰のポーチから大粒のエメラルドを掴み取った。</p><p>Maiden Vento, Siv !</p><p>その名を喚ぶ、</p><p>Montru al mi la vojon al Aileen !</p><p>手に握ったタリスマンとエメラルドが砕け散り、虚空へと消えていく。</p><p>うぐぅッ！？</p><p>次の瞬間、ケイは膝をついた。凄まじい負荷。まるで肉体そのものを、雑巾のように絞り上げられるかのようだった。魔力が抜き取られていく。</p><p>―Kei, venu kun mi.</p><p>囁くような、気遣うような、優しげな言葉。風が、慰撫する。霧が渦を巻き、道が示される。ケイはそこに、羽衣を纏った少女の姿を幻視した。</p><p>ふらふらと立ち上がり、歩いて行く。</p><p>ケーイ！　どこだよ、ケーイ！</p><p>……俺は、ここだ……！</p><p>ぜえぜえと息を荒げながら、それでも答える。</p><p>ケイ！？　ケーイ！</p><p>やがて、風に導かれるようにして、少女の姿が。見慣れた黒衣、片手のサーベル、馬の尾のように跳ねる金色の髪―</p><p>―アイリーンだ。</p><p>ケイ！？　大丈夫か！？　顔が真っ青だ！</p><p>よろよろと力なく、今にも倒れそうな風に歩き、病人のような顔色のケイに、アイリーンもまた血相を変える。</p><p>大丈夫だ……ちょっと、魔力を……使いすぎて……</p><p>そんな……。でも、良かった……もう会えないかと思った……</p><p>ケイを抱き締め、アイリーンがくしゃっと顔を歪めた。</p><p>俺もだ……会えて良かった……</p><p>アイリーンのぬくもりを感じながら、ケイは思う。</p><p>なぜだろう</p><p>前にもこんなことが</p><p>あった気がする―</p><p>二人は、再び腰の革帯を鎖で繋ぎ、しっかりと手を握り合って、歩き始めた。ケイは満足に弓が使えないし、アイリーンは素早く動けない。それでも、離れ離れになるよりは、マシだった。</p><p>すまない……俺が鎖を外さなければ、こんなことには……</p><p>アイリーンに手を引かれながら、ケイは力なく歩く。魔力を使いすぎた。帰り道がわからないのに、もう当分、魔術が使えない。</p><p>二人は、完全に霧の中で迷子になっていた。</p><p>いや、あれは仕方ないだろ。……でもさ、ケイ。オレを逃してくれようとしたのは、ありがたいけどさ。もう自分だけを犠牲にしようとするのは、やめてくれよ</p><p>ケイを置いて逃げられるわけないだろ、とアイリーンは冗談っぽい口調で言った。</p><p>しかし言葉とは裏腹に、繋いだ手に、痛いほどの力がこもる。</p><p>……すまん。咄嗟のことでな</p><p>……ふふ。嬉しくはあるけどさ。守ってくれてありがとう、ケイ</p><p>次からは、気をつけるよ</p><p>『次の機会』なんてゴメンだぜ？</p><p>はは、そりゃそうだ</p><p>軽口を叩きながら、ただ歩いた。あの場に留まるのは、危ないように思えて。</p><p>森に入ってから、随分と時間が経っているはずだ。</p><p>歩いて、肝を冷やして、戦って、走って。</p><p>二人は、疲労と喉の渇きを覚えていた。</p><p>だからだろうか―微かな水の音に、敏感に気がついた。</p><p>吸い寄せられるようにして、そちらへ向かう。</p><p>やがて二人を出迎えたのは、錆びついた鉄の門扉だった。</p><p>これは……？</p><p>鋭い忍び返しがついた鉄の柵が、左右に果てしなく広がっている。その中央に、門。手を伸ばして触れると、キィィ……と音を立てて、何の抵抗もなく開いた。</p><p>門の内側へ、立ち入る。</p><p>まるで森に入ったときのように、霧がスッと晴れた。</p><p>―いや、よくよく見れば、足元には薄っすらと靄(もや)が立ち込めている。しかし、視界は明瞭だ。空が曇り空のように、ぼやけて見えることだけを除けば。</p><p>そして視界がすっきりしたことで、新たに見えた。</p><p>門の内側に広がっていたのは、打ち捨てられたような庭。風化した石のタイル、眼前には大きな噴水。庭の荒れように比べて、異様なまでに清涼な水が噴き上がっており、ぱしゃぱしゃと涼やかな音を立てている。</p><p>そのさらに先には―巨大な屋敷。</p><p>要塞都市ウルヴァーンの、貴族街を思わせるような、豪奢なものだった。</p><p>……ここが、まさか</p><p>……賢者の、家？</p><p>思ったよりずっと立派だな、とケイは素朴な感想を抱いた。</p><p>喉が渇いて仕方がなかったが、生水を口にするのは恐ろしかったので、後ろ髪を引かれる想いで噴水は放置。ひとまず先に、屋敷を訪ねることにする。</p><p>荒れ果てた庭に囲まれた屋敷。窓には全て、天鵞絨(ビロード)のカーテンがかかっており、中の様子を窺うことはできない。</p><p>人の気配は、ないようだったが。</p><p>噴水の水音だけが響く静かな空間で、ドアノッカーを叩き鳴らすのは、なんとなく無粋に感じられた。玄関扉を前にケイたちが躊躇っていると、扉の方が、音もなくすぅっと開いた。</p><p>うお……</p><p>わっ……</p><p>屋敷の中を目にして、ケイとアイリーンは驚きの声を上げる。</p><p>普通は、この手の屋敷ならエントランスホールが広がっているところだが、そこにあったのは無数の本棚。</p><p>それも、本や巻物でびっしりと埋め尽くされたものが、果てしなく広がっている。恐ろしいことに、ケイの視力をもってしても、その限りが見えなかった。外見からして既に巨大な屋敷だったが、その中がさらに広いとはどういうことか―</p><p>入りたまえよ</p><p>と、茫然とするケイたちに、声がかけられた。</p><p>上(・)か(・)ら(・)。</p><p>ぎょっとして天井を振り仰ぐと―二階部分の本棚の近くに、赤い人影。『彼』は、何もない空中に腰掛けるようにして、本を開いていた。</p><p>『魔の森には、奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が棲んでいる―』</p><p>その伝承が、紛れもなく真実であったことを、ケイは理解する。</p><p>賢者は、真っ赤な『スーツ』を身に纏っていた。</p><p>ケイたちの世界、すなわち地球で見慣れた、かっちりとした仕立てのスーツ。</p><p>勿論、『こちら』の世界には存在しないモノ―</p><p>やあ、よく来たね、二人とも</p><p>ぱたん、と本を閉じた『賢者』は、色白で、細面の若い男だった。</p><p>緑色の瞳が、二人を見据える。</p><p>歓迎するよ。『アイリーン＝ロバチェフスカヤ』―そして、『乃川圭一』くん</p><p>名乗ってもいないはずなのに。</p><p>赤い賢者は、そう言ってニヤリと嗤った。</p><p>55. 賢者</p><p>Tili Tili Bom というロシアの子守唄が魔の森のイメージソングです。</p><p>怖い歌なので、興味がある方はぜひ検索されてみてください。</p><p>二の句が継げないケイたちは、眼前の『賢者』をまじまじと見やった。</p><p>何もない空中に、まるで椅子に腰掛けるようにして浮遊する真っ赤なスーツ姿の男。</p><p>不健康なまでに痩せぎすで、手足は長く、背は高い。病的なまでに白い肌、長い黒髪は後頭部へぴったりと撫でつけられている。いわゆるオールバックだ。</p><p>その細面に捉えどころのない笑みを浮かべた賢者は、ある種の学者のような超然とした雰囲気を身にまとい、まるで観察するように、二人の異邦人を見下ろしていた。深い緑色の瞳に浮かぶ好奇の光。</p><p>……なぜ、俺たちの名を？</p><p>開口一番、ケイは問うた。</p><p>名前だけじゃないさ。君たちが『地球』から来たことも、『DEMONDAL』というVRゲームのプレイヤーであったことも知っているよ</p><p>事も無げに答える賢者。動揺するケイたちをよそに、天井近くの本棚へ書物を仕舞った彼は、空中からふわりと床に降り立った。</p><p>まあ、立ち話も何だ。喉が渇いているんだろう？　お茶はいかがかね</p><p>そうして、ケイたちに席を勧める。</p><p>いつの間にか、そこには白いテーブルクロスをかけられた丸テーブルと、ティーセットが出現していた。白磁のティーポットにミルク入れ、カップに注がれた紅茶は湯気を立て、ご丁寧にクッキーとサンドイッチまで用意されている。</p><p>……マジかよ</p><p>アイリーンが茫然と呟いた。ケイもぽかんと口を開いている。呪文(スクリプト)も唱えず、触媒を捧げた様子もなく、気がつけば、それらはそこに在った。まさしく『魔法』としか呼びようのない―『奇跡』。費やされたであろう膨大な魔力、そして本来ならば魔術の行使に必要不可欠な精霊の存在が、一切感知できないことに、二人とも戦慄を禁じ得なかった。</p><p>精霊を介さずに事象を改変せしめたということは、つまり―この『賢者』本人が、精霊、あるいはそれに類する存在であるということ。</p><p>予想はしていたが、目の当たりにするとやはり衝撃的だった。</p><p>さあ二人とも、座りたまえ。お茶会と洒落込もうじゃないか</p><p>言うが早いか、そそくさと席につく賢者。ケイとアイリーンは顔を見合わせたが、少なくとも彼からは、悪意らしいものは感じられなかった。喉の渇きも限界に近く、賢者に倣って着席した二人は、ふぅふぅと紅茶に息を吹きかけて飲み始める。</p><p>そんな二人の様子に、苦笑したのは賢者だ。</p><p>いや、喉が渇いてるところに、熱い飲み物は気が利かなかったかな</p><p>そう言って立ち上がった彼は、冷蔵庫の扉を開いた。</p><p>―冷蔵庫。</p><p>扉にマグネットやメモが貼り付けられた、やけに生活感のある『冷蔵庫』が、いつの間にかそこに在った。</p><p>えっ</p><p>ガタンッ、と椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、アイリーンが立ち上がる。その青い眼は、ケイが見たこともないほど真ん丸に見開かれていた。</p><p>えっ、なっ、なんで！？　それはっ！？</p><p>冷蔵庫が出現したのにはケイも驚いたが、それにしてもアイリーンの取り乱しようは尋常ではない―よくよく見れば、メモに書きつけてあるのは全てキリル文字。</p><p>ロシア語だ。</p><p>なんで……なんでオレん家の冷蔵庫がここにあるんだよ！？</p><p>アイリーンの問いかけは、もはや悲鳴のようだった。</p><p>なに、君の記憶から引っ張り出したのさ</p><p>ぱちん、とキザにウィンクして賢者。英語で話しているはずだが、ケイはもはや、彼が何を言っているのかよくわからなくなってきた。</p><p>風情があるだろう？　冷たい飲み物を出すなら、やはり冷蔵庫からじゃないとね。尤も中身までは、君の家のものには準拠していないが。さてさて、何がいいかな</p><p>茫然とするケイたちをよそに、冷蔵庫の中身を物色する賢者。</p><p>色々あるよ。ケイはコーラがいいかな、どうやら君はペプシ派のようだ。アイリーンは何を飲みたい？　なんならお酒もあるぞ。キンキンに冷えたビールやクワスなんてのは、いかがかね</p><p>冷蔵庫から見覚えのある清涼飲料水の瓶や缶が取り出され、次々にテーブルへ並べられていく―</p><p>―あなたは、いったい『何』なんだ？</p><p>喉の渇きも忘れて、思わず、ケイは問いかけていた。</p><p>両手にジュースの瓶を抱えたスーツ姿の男は、そこで我に返ったように目をぱちぱちと瞬かせる。</p><p>……そういえば、自己紹介がまだだったね。そうだね、口に出さなければ伝わらないんだった。自(・)分(・)が(・)そ(・)う(・)じ(・)ゃ(・)な(・)い(・)か(・)ら(・)、い(・)つ(・)も(・)気(・)遣(・)い(・)が(・)足(・)り(・)な(・)く(・)な(・)る(・)。僕のことは、そうさな、『オズ』とでも呼びたまえ。魔の森に住まう賢者などと呼ばれているが、僕自身は賢者になんてなったつもりはない。ただの森の居候さ</p><p>ケイにコーラを、アイリーンにはビールのような炭酸飲料を供した賢者―『オズ』は、再び椅子に腰掛け、真っ赤なブラッドオレンジジュース入りのグラスを傾けながら優雅に足を組む。</p><p>そして、僕が『何』かと問われれば― 悪魔(デーモン) かな</p><p>……悪魔？</p><p>オウム返しにするケイ。</p><p>うむ。尤も、ケイ、君の想像するものとは異なるがね。『“悪”の”魔”性のもの』とは日本語では随分と酷い言われようじゃないか。それに対してアイリーンの印象は、より嫌悪感が強いようだが、はてさてこれは地球の地域による宗教観の差かな。興味深い。いずれにせよ、我々は我々自身を『デーモン』と称しているが、固有名詞に近いので地球の『悪魔』の概念とは全く異なるものだよ。だからと言って、僕自身が善性の存在、などと言い張るつもりはこれっぽっちもないがね……</p><p>クックック、と口の端を釣り上げ忍び笑いを漏らすオズは、まさしく、旅人を迷わす悪魔そのものに見えた。</p><p>…………</p><p>オズの話の情報量に、アイリーンは目を白黒させているし、ケイはケイで頭痛を堪えるようにして額を押さえた。</p><p>そこでふと、ケイは、眼前に洒落たゴブレットが出現していることに気がついた。</p><p>手に取ってしげしげと眺める。この世界では滅多と見かけないような、透明なクリスタル・ガラス製。続いて、傍らのコーラの缶にも手を伸ばす。</p><p>よく冷えている。２５０mlの缶、手の中にすっぽりと収まる程よい重さ。埃をかぶった記憶が、 ああ、これは確かにこういうものだった と告げていた。現実(リアル)で缶を手にしたのは、十数年ぶりのことだろうか―いや、そもそもこれは現実なのだろうか―夢でも見ているようなぼんやりとした気持ちで、プルタブに指をかける。</p><p>プシュッ、と懐かしい音。</p><p>用意されていたゴブレットを使うのも忘れて、缶から直飲みする。しゅわしゅわと爽やかな炭酸が舌の上で弾けた。</p><p>強烈な、そして人工的(アーティフィシャル)な味。うまい、と思った。だが、最後に口にしたのがあまりにも昔のことなので、この味が懐かしいのかどうかすら、ケイにはわからなかった。</p><p>……あなたは、俺たちの記憶が読めるのか</p><p>コンッ、とテーブルに缶を置き、ケイは改めて問う。</p><p>そうだね。僕は追憶と忘却を司る者だ</p><p>首肯するオズ。</p><p>ケイやアイリーンのことを『知っていた』のは、屋敷を訪れたときから、二人の記憶を読み取っていたのだろう―そしておそらく、今この瞬間の思考さえも。</p><p>自分たちの心を奥底まで、自由に覗き見られる存在。</p><p>普通に考えれば不気味に感じそうなものだが、オズの態度があまりに飄々と、そして超然としているので逆に現実味に乏しく、畏れの感情が湧いてこなかった。驚きの連続で、その辺の感覚が麻痺しているということもあるのかもしれない。</p><p>何か縋るものを求めるように、ケイは再び缶に手を伸ばし、コーラで唇を湿らせた。</p><p>……『この世界』には、あなたのような存在が大勢いるのだろうか？</p><p>ゲームの世界には、 悪魔(デーモン) などという設定は存在しなかった。タイトルからして DEMONDAL なので、どことなくその存在を示唆しているような気がしなくもないが、少なくともプレイヤーレベルでは、そういった情報に触れたことはない。</p><p>さあ、どうだろう。多分いないんじゃないかな</p><p>しかしオズの返答は、なんとも気の抜けるようなものだった。一瞬、オズはこの世界で例外的かつユニークな存在なのかと思ったが、先ほど『我々(WE)』と言っていたからには同類がいるはず。その点を尋ねようとしたところで、オズが付け加える。</p><p>―そもそも僕は、この世界の住人じゃないからね</p><p>緑色の瞳が、笑っている。</p><p>君たちと同じように、別の世界から来たのさ。尤も、僕は己の自由意志でこの世界に『降りてきた』わけだが……</p><p>意味深な台詞に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。</p><p>順を追って説明しよう。僕は、いやしくも我々デーモンが『天界』と称する世界の生まれだ。有り体に言えば、上位世界さ。天界の下の次元には無限に並行世界が広がっている。『この世界』もそのうちの一つだ</p><p>役者のように両手を広げて、周囲を示しながらオズ。</p><p>基本的に世界を渡るのは大変な労力を要するものだが、上から下に降りる分にはそう難しくはない。僕は天界を出奔した―堕天したのさ</p><p>……なぜ？</p><p>嫌気が差したんだ。『天界』の住人、我々デーモンは、ほぼ不滅の存在だがね、ただ安穏と不死に甘んじることを潔しとしないんだ。己の存在を、さらに上位へ押し上げること―すなわち、己の魔力を際限なく肥大化させることに、心血を注いでいる。他者を蹴落とし、他者を喰らい、ただひたすらに争い続ける。天界はデーモンが果てしなく争いを続ける、地獄のような世界だよ。僕は、知識欲こそは旺盛だがね、荒事は好まないんだ。無限の闘争なんて御免だよ</p><p>―だから、逃げてきた。</p><p>オズは、そう言ってニヤリと笑う。</p><p>しかし僕のように、天界を出るデーモンは非常に稀だ。再び天界に戻ろうとすれば、魔力を大量に消費してしまう。つまり『弱く』なるわけだ。強さを至上とするデーモンの価値観からすれば、到底受け入れられない。堕天なんてのは、肥溜めにでも飛び込むに等しい行為と見做されているのさ。僕が『多分いない』と言ったのは、そういう意味だ。堕天するデーモンは、死を恐れる臆病者か、よほどの変わり者のどちらか。そしてそんな奴はそうそういない</p><p>一息に語り、オズはクイッとグラスを傾けオレンジジュースを飲み干した。</p><p>さて、僕の話は良いとして、君たちも何か聞きたいことがあるんじゃないか？</p><p>全てを見透かしたようなニヤニヤとした笑みを浮かべて、オズは問う。その視線は、特にアイリーンへ向けられていた。ビクッ、と怯えたように肩を震わせるアイリーン。</p><p>……オレたちは、</p><p>恐る恐る、アイリーンは口を開いた。</p><p>なんで、この世界にやってきたんだ？　そして……元の世界に、帰還する方法って、あるのかな</p><p>とうとう聞いたか、とケイは瞑目する。</p><p>そうさな</p><p>ふむ、と腕組みしたオズは、ケイとアイリーンをそれぞれじっと見つめた。</p><p>まず、君らには記憶の混濁があるようだね。そこをなんとかしようか</p><p>くるりと指を回す。</p><p>次の瞬間、ケイとアイリーンは うっ と頭を抱えた。脳内を蛇が這い回るような、異様な感覚。走馬灯のように記憶が蘇る。ゲームでの追い剥ぎとの戦闘、ウルヴァーン近郊の濃霧、そしてその中で遭遇した―</p><p>ヨ゛　ン゛　タ゛</p><p>……そうだっ、化け物！　あれは一体……！？</p><p>のっぺりとした白色の、人型をした化け物。思い出した。ゲーム内の霧の中で、あれと遭遇したことを。むしろなぜ、今まで自分は忘れていたのか。</p><p>世界を渡る際に記憶が混濁するのはよくあることだ。僕は特にそう言った方面に強いので、そういうことはないがね。と言うより、日常生活のこと、元の世界のこと等々、君らが忘れている部分は多かったぞ。自覚はなかったかもしれないが</p><p>……そうなのか？</p><p>オズの言う通り、自覚はなかった。顔を見合わせて首を傾げるケイとアイリーン。</p><p>まあ、それは置いといて、オズの旦那、あの化け物はなんだったんだ？</p><p>気を取り直して、前のめりで尋ねるアイリーン。</p><p>おそらくだが、時の大精霊『カムイ』じゃないかな。直接、相見えたことがあるわけじゃないから、確証はないが</p><p>おかわりのジュースを注ぎながら、オズはどこか投げやりに答えた。</p><p>時の大精霊？</p><p>カムイ？</p><p>この世界の時空を司る上位精霊だ。まあ『彼』の権能なら、よその世界から魂を引っ張ってくるのはそう難しくないだろう。単純な魔力なら上位のデーモンに匹敵する存在だし、この世界に似た世界からなら、親和性が高いので力の消費も抑えられる</p><p>そうだ、旦那、そもそもなんでゲームの世界と『こちら』はこんなに似てんだ？</p><p>それは、偶然、あるいは必然だよ。無限に世界があるんだよ？　世界同士が干渉することもある。ゲームという仮想世界で、この世界を再現するものがいても何もおかしいことはない。逆にゲームなり創作なりで、地球を再現しているまた別の世界も存在するだろうさ</p><p>……では、それはいいとしても、なぜ大精霊が、わざわざ俺たちをこの世界に呼んだんだ？</p><p>恐れ慄きつつも、ケイは問う。</p><p>さあ？</p><p>が、オズはただ肩を竦めた。眉をひそめるケイたちに、 仕方がないだろう とお手上げのポーズを取ってみせる。</p><p>本人に直接会えばまだ思考や意図も読み取れるが、君らの記憶越しにその存在を感知しただけだからね。それに、あのレベルの上位精霊は世界を管理維持する『仕組み(システム)』に近いから、思考が突飛すぎて何がしたいのか僕にもよくわからないんだ</p><p>アイリーンは釈然としない顔だ。ケイも、これには肩透かしの感が否めない。そんな高位の精霊が、なぜ自分たちを呼び寄せたのか―理由がはっきりしないままなのは、気持ちが悪かった。</p><p>……じゃあ、……元の世界への、帰還は？</p><p>恐る恐る、アイリーン。</p><p>オズは、捉えどころのない笑みを浮かべて、アイリーンを見据えた。</p><p>その前に、アイリーン。君の気持ちをはっきりと聞かせてほしいね</p><p>テーブル越しに―しかしアイリーンは、息がかかるほどの至近距離で、オズに顔を覗き込まれているような錯覚を抱く。</p><p>君は、そもそもどうしたいのかね？　帰りたいのかな？</p><p>……オレ、は</p><p>硬直したアイリーンは、ちらりとケイを見やる。</p><p>そしてそのまま―俯いた。</p><p>……ごめん、ケイ</p><p>えっ？</p><p>突然の謝罪に、顔色を変えるケイ。</p><p>……あっ、待って待って。そういう意味じゃない、そういう意味じゃないんだ</p><p>じわりと目の端に涙を滲ませたケイに、慌ててわたわたと手を振るアイリーン。</p><p>違うんだ……その、はっきり言うよ。オレは、帰るつもりはない。ケイを放って一人で帰るなんて、そんな……そんなこと、できないよ</p><p>……アイリーン</p><p>テーブルの上、少女は、ケイの手をしっかりと握る。ごしごしと服の袖で目元を拭いたケイは、恥じ入って赤面した。アイリーンが帰りたがるようなら笑って送り出そう、と決意していたのに、いざとなったらこのざまだ。</p><p>でも、それならなんで謝ったんだ？</p><p>……そんなあやふやな覚悟で、ケイをここまで連れてきてしまったことが、申し訳なくってさ。色々あったし……</p><p>北の大地を縦断し、魔の森を訪れるため、ケイには多大な苦労をかけた。危険な目にも遭った。</p><p>……悩まなかったと言えば、嘘になる。けど、やっぱりケイと一緒にいたいって思ったんだ。……でも、せめてパパとかママとか、姉ちゃんに、『オレは元気だよ』『幸せに暮らしていくよ』って、そんな風にメッセージを送れないかな、って</p><p>おどおどとこちらを見つめる青い瞳を、ケイはまっすぐに見つめ直した。</p><p>……謝らなくていい。気持ちはわかる。俺だって、できるならそうしたいさ。父も母も、安心させてあげたいしな……</p><p>アイリーンの手に、そっと自分の手を重ねるケイ。</p><p>……そうか、よくわかったよ</p><p>見つめ合う二人に、オズはうむうむと頷いた。</p><p>では、意志の確認ができたところで、答えよう</p><p>姿勢を正したオズは、</p><p>結論から言うと、帰還は事実上、不可能だ。メッセージを送るのも難しい</p><p>非情な宣告だった。ケイはそれを重々しく受け止める。アイリーンは表情を変えなかったが、その手にぎゅっと力がこもった。</p><p>が、オズはさらに衝撃的な言葉を紡ぐ。</p><p>―というか、君らの元の世界の肉体は、おそらくもう死んでるよ</p><p>56. 魂魄</p><p>―肉体が、もう死んでいる。</p><p>ケイたちを襲った衝撃は、『帰れない』という宣告の比ではなかった。</p><p>……どういう、こと？</p><p>声を絞り出すようにして、アイリーン。</p><p>そのままの意味だ。君らは、時の大精霊カムイによって魂を抜き取られ、この世界で再受肉した。いわば、『抜け殻』となった元の世界の肉体は、既に死んでいるだろう。『地球』はこの世界に比べて魂と肉体の結びつきが弱いようだが、それでも魂なしに、身体は生き続けられない</p><p>本当に、何でもないことのように、オズは解説する。</p><p>その言葉を咀嚼し、理解するのには、しばしの時間を要した。</p><p>『帰還は不可能』というのは、そういう意味だったのか……</p><p>やがて、顎を撫でながら、呟くようにしてケイ。完全に思考停止しているアイリーンに対して、ケイは動揺しつつもまだ落ち着いていた。</p><p>まあ、そうだね。帰ったところで身体がない、というのが理由の一つ。次に、魂だけでも世界を渡るにはやはり膨大な魔力が必要であり、人の身である君らにはそれが賄い切れない、というのが一つ</p><p>……メッセージが難しい、というのは？</p><p>霊魂だけでも、世界を渡れば枕元に立って一言二言くらいは伝えられるかもしれないが、分の悪い賭けだと思うよ。世界を渡った瞬間、早々に流転輪廻に呑まれるのがオチだろう。君らの世界は、精神と物質の結びつきが弱く、相互の干渉もほとんど起きないようだから、肉体の再構築は難しいんじゃないか。今の君たちの肉体ごと転移しようにも、相応の対価が要求されるだろうしね</p><p>……それじゃあ、今の俺たちのこの肉体は一体……？</p><p>勿論、この世界で半ば自動的に、ゼロから構築されたものだ。精神と物質の相互作用が強い『この世界』においては、それは自然に起こりうる。我々 悪魔(デーモン) のような、魂と肉体の境界が極めて曖昧な存在は例外として、基本的に魂が顕現するときはその『器』が必要になる。君らの肉体は、魂の『あり方』を忠実に反映する形でこの世界に顕現したのさ。現実の肉体と少々差異が見受けられるのはそのせいだ</p><p>そう言って、オズはニヤリと口の端を吊り上げて笑った。</p><p>その点で、ケイ、君は興味深い存在だ。僕は今まで何人も転移者を見てきたが、君のようなケースは非常に珍しい。例えば君、アイリーンを見てみたまえ。彼女は現実では交通事故で両足を失ったが、今の肉体にはしっかり足がついている</p><p>突然、名前を挙げられたアイリーンはビクンと肩を震わせる。それに構わず、オズは生徒に言って聞かせる教師のように、指を振りながら言葉を続けた。</p><p>これこそ、まさしく、彼女の魂の『あり方』が肉体に反映された証だ。足を失くしても、彼女にとっての『自分』は『足のある自分』だったわけさ。また、ゲーム内で彼女は”ニンジャ”『アンドレイ』―つまり男性として振る舞っていたが、それはあくまでロール・プレイに過ぎず、彼女は自身を『アイリーン』と認識していた。故に彼女は、ゲーム内の能力をある程度踏襲しつつも、彼女のアイデンティティ、いわば主体である『アイリーン＝ロバチェフスカヤ』という少女の形を取ってこの世界に再誕した</p><p>アイリーンを見つめていたオズが、スッと視線をケイへと向ける。</p><p>だが、ケイ、君は違う</p><p>深緑の瞳は、心の奥底まで見透かすかのようだ。</p><p>普通はね、何かしら混(・)ざ(・)る(・)ものなんだよ。だが君は、完璧なまでにゲームの肉体を再現している。仮想世界に身を置きすぎたがために、君はもはや『乃川圭一』ではなく、 DEMONDAL の住人”死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》“こと『ケイ』に、魂の次元から変質してしまったのだよ。ああ、君の存在の、なんと美しく歪なことか！　……おっと、失礼、そもそも君はあまりこの二つ名を好まないのだった</p><p>くつくつと喉を鳴らして笑うオズ。</p><p>それをよそに、ケイは自分の手に視線を落とす。成る程、そういうことだったのか、という納得があった。アイリーンと自分の肉体の差異は、常々気になっていたのだ。</p><p>自分は完全にゲームの体を受け継いで運が良かった、くらいに考えていたが。</p><p>―そうか、俺はもう完全に『ケイ』になっていたのだな。</p><p>そう考えると、胸の内を満たす、感慨深さのようなものがあった。それは形容し難い不思議な感覚だったが―決して悪いものではない。</p><p>しかし、今はそんなことはどうでも良いのだ。</p><p>……アイリーン</p><p>ケイの隣、真っ青な顔で俯いた少女。アイリーンの手を、優しく握る。</p><p>声をかけたかったが、何を言うべきなのかわからなかった。ケイにできたのは、ただアイリーンに寄り添うことだけ。</p><p>ケイは、……落ち着いてるんだな</p><p>のろのろと顔を上げたアイリーンは、小さく呟いた。</p><p>こちらを見つめるケイは、アイリーンを案じて心配げな表情こそ浮かべているものの、その眼差しは湖面のように静かで、その奥に揺らぎは一切見受けられない。</p><p>アイリーンには、不自然なまでに、泰然とした態度であるように思えた。アイリーン自身、動揺していることを強く自覚しているだけに、その差が際立つ。</p><p>……ある程度、覚悟してたからな</p><p>つっと視線を逸らし、どこか自虐的な笑みを浮かべて、ケイは答える。アイリーンは押し黙った。ケイの境遇を思い出したからだ。</p><p>―いつ死んでもおかしくなかった。</p><p>きっと地球の家族たちは、そして担当医たちは、こう思ったことだろう―遂にその日が来たか、と。</p><p>彼らは、自分のために悲しんでくれただろうか。ぼんやりと遠い目で、ケイは、遥か次元の彼方、遠い故郷の人々に思いを馳せた。</p><p>ただ、こんな風に、自分も周囲も覚悟ができていたのは、ケイの環境が特殊だったからだ。それに対して、彼女は違う。</p><p>アイリーン</p><p>ひょい、とアイリーンを抱きかかえたケイは、その羽のように軽い体を自分の膝の上に乗せた。そのまま、ぎゅっと抱きしめる。</p><p>あっ、ちょっと、ケイ……</p><p>オズの方を気にして、ケイの腕を引き剥がそうと、少しばかり抵抗するアイリーン。しかし頑としてケイが離さないので、やがて諦めたように脱力し、こてんとケイの肩に頭を載せた。</p><p>…………</p><p>ケイもアイリーンも、布の服だけの軽装だ。だから、お互いの体温がよく分かる。息遣いも、鼓動も。アイリーンはぎゅっと目をつぶって、深呼吸を繰り返していた。</p><p>しばらく、そうしていた。オズは腕組みをして、明後日の方向を見ている。彼の知覚の前では、ケイたちの挙動はおろか内面まで丸裸なわけだが、一応、表面上だけでも気を遣ってくれているらしい。</p><p>……ありがと。もう大丈夫</p><p>やがて、大きく溜息をついたアイリーンは、そっと体を離した。顔色は良くなっているし、目にもある程度、活力が戻っている。</p><p>落ち着いたか</p><p>……うん</p><p>こくりと頷いたアイリーンは、足をぷらぷらとさせてから、名残惜しげに立ち上がり自分の席につく。</p><p>休憩するかね？</p><p>んにゃ、もう大丈夫</p><p>小首を傾げるオズに、照れたように頭を掻くアイリーン。少なくとも、ぱっと見は、いつもの彼女に戻っていた。</p><p>オレは心配ない、ただちょっと……ビックリしちゃってさ。それより、旦那にはもっと聞きたいことが沢山あるし</p><p>何でも聞きたまえ、知っていることは教えよう</p><p>しかし、随分と親切に色々教えてくれるんだな？</p><p>ふと気になったケイは、顎を撫でながら口を挟む。オズを性悪な存在だと疑っているわけではないが、『あまりにも親切すぎること』への危惧は、口に出すまでもなく伝わっているだろう。</p><p>そもそも、オズはまるでおとぎ話の魔法使いのようにテーブルやティーセットなどを取り出しているが、これにも結構な魔力を消費しているはずだ。なぜそこまでして、手厚くケイたちをもてなしてくれるのか―ありがたいが、同時に不気味でもある。</p><p>フフフ……まあ、僕も”悪魔”を自称する者だからね、君の懸念はよくわかるよケイ。別に魂を頂戴しようだなんて言い出さないし、取って食うつもりもないさ。『対価』は既に二人から頂いているし、ね……</p><p>えっ</p><p>邪悪に笑うオズに、思わず固まるケイとアイリーン。そんな二人を見て、オズは愉快そうにからからと笑った。</p><p>なぁに、心配無用だ。二人の記憶を読み取った―これが僕にとっての対価さ。僕は記憶を糧とし、力とする者だからね。アイリーンの記憶は様々な感情に彩られていて実に美味しかったし、ケイのそれは、少々薄味だったが、類稀なる珍味だったよ。お茶や冷蔵庫やその他飲食物も、君らから頂いた対価で充分賄える範囲だから安心したまえ</p><p>ケイは言葉を失った。オズはさり気なく言っているが、記憶を読み取ってそれを力に変換できるとは、とんでもない権能だ。しかもたった二人分の若者の記憶で、虚空から物品を自在に取り出し、まだお釣りが出るほどの高効率となると―。</p><p>話を聞いた限り、オズはケイたちよりも遥かに長い時を生きている。いったいこれまで、彼はどれだけの記憶を読み取ってきたのだろう？　わかっているつもりだったが、自分はひょっとすると、恐ろしく強大な存在と相対しているのかもしれない、とケイは身震いした。</p><p>……そりゃあ、その、どういたしまして？</p><p>強張った空気をほぐすように、アイリーンがおどけて肩をすくめてみせる。よく見ると口の端が引き攣っているのは、ケイと一緒だ。</p><p>―と。</p><p>ゆるやかに風が吹く。</p><p>オズの隣に、ケイたちは羽衣を身に纏った乙女の姿を幻視した。</p><p>シーヴだ。</p><p>空中で、髪と羽衣をたなびかせたシーヴは、悪戯っ子のような笑みを浮かべて何事かをオズに囁いている。苦笑したオズが、胸元から大粒のエメラルドを取り出した。</p><p>瞬く間に無数のひびが入り、砕けたエメラルドが虚空へ溶けて消えていく。満足気に頷いたシーヴは、楽しそうにそよ風に乗って、屋敷のホールをふわふわと漂い始めた。</p><p>……いったい何が？</p><p>彼女に、『自分の”お茶”はないのか』と言われてね</p><p>ああ……</p><p>困ったような顔で、己の気ままな契約精霊を見上げるケイ。シーヴは我関せずと言わんばかりの様子で、心地良さげにたゆたっている。</p><empty-line/><p>何というか……すまない。その、ウチのが……</p><p>いやいや、僕も気遣いが足りなかっ―</p><p>と、オズが言いかけたところで、ふるふるとテーブルの下の影が揺れる。</p><p>…………</p><p>いやはや、と苦笑を濃くしたオズが、今度は胸元から大きな水晶の塊を取り出した。</p><p>そっと、床に水晶を落とす。それはそのまま、水面のような影にとぷんと呑まれて、消えていった。</p><p>えーと……</p><p>ぷるぷると嬉しそうに揺れる影―己が契約精霊『黄昏の乙女』ケルスティンの存在を間近に感じながら、ポリポリと頬を掻くアイリーン。</p><p>気にすることはない、彼女らも君らに負けず劣らず興味深い存在だ</p><p>オズは微笑みながら、シーヴとケルスティンをそれぞれ観察していた。</p><p>そうだ、俺たちはまだわかるが、シーヴたちは何なんだ？</p><p>ゲームではただのAIに過ぎなかった彼女らは今、立派な―と言うと少々語弊があるが―いち精霊として振る舞っている。</p><p>ああ、面白い現象だね。僕も長らく生きてきたが、人造(アーティフィシャル)の思念体が世界を渡った例は、初めて見た。ゲーム内では、彼女らは確固たる『人格』と呼ぶべきものを持たなかった、そうだろう？　ゆえに彼女らは、君らの服装や装備のように、いわゆる『付属品』として世界を渡ったが、『こちら』は精神と物質が強く結びついた世界だ。思考力を持つ存在、それも『精霊』としてデザインされていた彼女らは、こちらの世界の修正力により、いち精霊として『肉付け』されたようだ。全く面白いね。ふーむ、君らのゲームの世界の精霊を『こちら』に引っ張ってくれば、いわゆる『召喚術』として運用できるんじゃないかな……？　いや、それに消費する魔力を別の目的に、直接使った方が効率的か。わざわざ呼び出したところで大人しく従ってくれるとは限らないし、そもそも使役するのにまた別の対価も必要だし……</p><p>うーむ、と額を押さえてぶつぶつと何やら独り言を呟くオズ。</p><p>まあいい、忘れてくれ。どちらにせよ君らには縁のない話だ</p><p>あ、ああ……</p><p>そうだ、そういう意味では、君、サスケも似たような存在だよ。彼のことは大事にしたまえ。なにせ不老の名馬なんだから</p><p>は？</p><p>不老？</p><p>思わぬ言葉に、間抜けな声を上げるケイたち。</p><p>そうとも。君たちの記憶を参照していて気づいたが、君らプレイヤーには年齢と加齢という概念が設定されていたようだが、ゲーム内の動植物にまでは、それは適用されていなかったらしいね？　結果、君たちの愛馬、サスケは、半精霊とでも言うべき特殊な存在になってしまったようだ。生身の肉体を持った精霊、とでも言うべきか。兎に角、彼は老いることがなく、然るべき環境にあれば永遠に生き続けるよ</p><p>ええ……</p><p>サスケ、お前そんなに凄いやつだったのか……と絶句するケイとアイリーン。</p><p>多分、本人―いや本馬も自覚がないはずだが、 ブルブル と自慢げに鼻を鳴らすサスケの顔が目に浮かぶようだった。</p><p>ちょっと待ってくれ、じゃあ、俺の馬のミカヅキも、そうだったのか……？</p><p>転移当初、盗賊の毒矢を受けて、今は亡きものとなってしまった愛馬を思い出しながら、ケイは前のめりに尋ねる。</p><p>それは、勿論。ただ、残念ながら不死ではないからね……</p><p>半精霊というからには、復活は、再受肉(リスポーン)は可能じゃないのか？</p><p>無理だね</p><p>一縷の望みをかけたケイの問いを、オズはばっさりと切り捨てた。</p><p>いやだって、君、半精霊とは言っても命あるものだよ？　治療なら兎も角、『復活』となるとね……。再三言うが、『こちら』は物質と精神の結びつきが非常に強い。肉体が滅びれば、魂も滅びようというものだ。今頃は流転輪廻に呑まれて、この世界、あるいは別の生命の一部になっているだろう</p><p>オズの説明に、ケイはがっくりと肩を落とす。懐に収めた、お守り代わりの革財布を服越しにそっと撫でた。渋い顔でケイの肩を叩くアイリーン。</p><p>まあ、運が悪かったと思って諦めたまえ</p><p>運、か……確かに、そうかもしれないな……</p><p>諭すようなオズに、ケイも苦々しく頷く。この世界に転移した直後に盗賊に襲われたのは、ツイていなかったと言われればその通りだ。しかしミカヅキを死なせてしまったのは他ならないケイ自身。一瞬、再会を期待してしまっただけに、落胆も大きい。</p><p>せめてその場に居合わせていればね、何とかなったかもしれないが。尤もそれ相応の対価は頂いただろうけど</p><p>……悪魔に対価とは、ぞっとしないな</p><p>高くつくよ？　……しかし今この場において、君らの記憶と僕の知識は等価だ。存分に活用したまえ。この世界のこと、転移のこと、珍しい動植物の効能や、何なら魔術の秘蹟なんてのでもいい。と言っても、その辺の知識は君らにはあまり魅力的ではないかもしれないね。薬品類には詳しいようだし、魔術も、君らは『こちら』の術者に比して充分過ぎるほどの知識があるらしい。人の身で実行できる術式は、既に知り尽くしていると言っても過言ではないだろう</p><p>まあ、多少はな</p><p>俺の場合は宝の持ち腐れだが</p><p>魔法戦士としての自負はあるが、オズのような『大物』の前では鼻にかける気にもなれないアイリーンと、そもそも己を脳筋戦士と認識しており、あっても意味がないと肩をすくめるケイ。</p><p>ところが、オズは腕組みをしたまま、きょとんとした顔でケイを見やった。</p><p>……ああ。そうか、君、気づいていないのか</p><p>……何か？</p><p>オズに見つめられ、自分が何かとんでもない見落としをしているのかと、無性に不安な気持ちに駆られるケイ。</p><p>いや、なに。君らはゲームのキャラクターに準拠した能力を受け継いでいる―それは確かだが、ゲームバランスのためにかけられていた制限は、もはやこちらには存在しないんだよ</p><p>再び、生徒に言って聞かせるように、オズは指を振りながらとくとくと語る。</p><p>だからケイ、君は、ゲーム内では騎射に特化したビルドの『完成された』戦士だったが、今やそれ以上に成長の余地があるんだ。……身体的にも、魔術的にも、ね。本当に気づいていないのかい？　幾度となく彼女に魔力を吸われ続けてきただろう</p><p>オズは、空中をふわふわと漂う、風の精霊を親指で示した。</p><p>―君の魔力は、既にひよっこ魔術師程度には増大しているよ？</p><p>57. 恵与</p><p>前回のあらすじ</p><p>シーヴ わたしが育てた</p><p>俺の魔力が……！？</p><p>信じられないとばかりに、思わずケイはシーヴを見やった。</p><p>頭上をふわふわと漂う風の精霊は、そのあどけない容姿には不釣り合いなまでに妖艶な笑みを浮かべている。 感謝しなさいよ？ と言わんばかりの得意げな顔。有り体に言えば、ドヤ顔だ。</p><p>確かに―ここのところ、シーヴに吸われるのにも慣れてきたとは思っていた。この森に突入する直前にも勝手に術を行使され幾ばくかの魔力を吸い取られたが、一瞬立ち眩みに襲われたくらいのもので、少し休むだけで体調は回復していた。</p><p>まさか魔力が育っていたお陰だったとは。</p><p>物理特化の脳筋戦士を自負していたケイにとって、あまりにも衝撃的な事実だった。</p><p>普通、気づきそうなものだけどねえ……魔力枯渇の反動は、慣れでどうにかなるものではないだろうに</p><p>腕組みをしたまま、呆れた顔をするオズ。</p><p>いや、そんなことを言われても……魔力を扱う感覚なんて、『こちら』に来るまで知らなかったし……</p><p>まあ、君らの世界なら仕方ないかもしれないが</p><p>すげーな、やったじゃんケイ！！　魔力が育つんなら、シーヴのポテンシャルを存分に活かせる！</p><p>困惑気味のケイの代わりに、アイリーンは大興奮の様子だ。が、 ん？ と何かに気づいた様子で首を傾げるアイリーン。</p><p>ちょっと待て、それってオレ損してないか？</p><p>……と言うと？</p><p>だって、オレって魔力もある程度育ててたわけじゃん？　でも今からゲーム並に身体を鍛えるのは難しいからさ……肉体が限界まで強化されていて、これから魔力も鍛えられるケイは得したんじゃないかな、って</p><p>DEMONDAL において、ニンジャ『アンドレイ』ことアイリーンは、魔法戦士として身体能力の強化はそこそこに留め、魔術関連の適性を高めてあった。つまりキャラクターのポテンシャルのかなりの部分が、魔術技能のために割かれているのだ。</p><p>アイリーン自身も今後、諸々の方面で更なる成長が見込めるとはいえ、ケイのように物理を極めておいた方が効率が良かったかもしれない―そんな思いを滲ませる発言は如何にも元ゲーム廃人らしいものだ。</p><p>いやしかし……魔力を鍛えると言っても、決して楽ではなかったぞ</p><p>だが、現実を知るケイは渋い顔だ。『こちら』の世界に転移した直後、アイリーンを侵す毒の種類を呪い師の老婆(アンカ)に知らせるため、初めてシーヴを顕現させたときのことを思い出す。とっておきの大粒のエメラルドを触媒として捧げたが、それでも死を覚悟するレベルで魔力を吸い取られた。正直なところ、体の奥底から大切な何かが抜け落ちていく、あの身の毛もよだつな感覚には未だ慣れない。</p><p>筋力と魔力、どちらの方が鍛えるのに楽かと問われれば、ケイは迷わず筋力と答えるだろう。少なくとも、よほど無茶をしなければ筋トレで死ぬことはないが、魔力は加減を間違えれば容易く死ぬ。その精神的重圧に起因する疲労は―筋トレのそれとは比べ物にならない。</p><p>まあ魔術適性はアイリーンの方が高いのは確かだからな。アイリーンこそ、魔力の限界値が上がるから、もっと魔術の幅が広がるんじゃないか？</p><p>それもそうだな。これからも頼りにしてるぜ～ケルスティン</p><p>アイリーンが声をかけると足元の影が手の形を取り、ビッ！と親指を立ててみせる。</p><p>ケイは努めて、ケルスティンと戯れるアイリーンの方を向いていたが、件の風の精霊がテーブルの上に寝転がるようにしてこちらを覗き込んでくる。 私には何か言うことはないのかな？　ん？　ん？ と言わんばかりに、ニマニマと笑いながら空中で頬杖をついて、終いには顔から数センチの距離まで迫ってきたので、ケイも観念し 頼りにしてるよ とため息交じりに声をかけた。</p><p>クスクスと笑いながら、くるくると空中を泳いでいくシーヴ。</p><p>随分と仲が良いようだね</p><p>付き合いが長いからな</p><p>からかうようなオズの言葉に、ケイは肩をすくめてみせる他ない。</p><p>いやはや、実に興味深いね。ついこの間、個性を獲得した存在とは思えないほどに感情が豊かだ……ケイの、ゲーム内におけるイメージも影響しているのかもしれないね</p><p>そう言われてみれば、風の精霊だから、こういう自由な奴なんだろうな、とは思っていたかもしれん</p><p>彼女の存在の『肉付け』に君の意志が介在したのは面白い現象だ……以前の転移者は魔術師ではなかったからね。初めてのケースだよ</p><p>あっ、そうだ。オレたち以外にも転移者っていたんだよな、旦那？　この森の近くの村に、地球の歌が伝わってるみたいなんだけど？</p><p>突然思い出し、パシッと膝を打って話を変えるアイリーン。</p><p>そうだね。この世界の時間で、大体、二百年ほど前と、百年ほど前だったかな？　君たちと同じようにゲームのプレイヤーが森に現れたね。二人とも森の外に送り出して、その後は知らないけれども。僕の把握している限りでは、転移者はその二人だけかな。彼らの場合はカムイの干渉というより、魂がこの次元に自然に引っ張られた、という感じだったよ</p><p>……二百年？　随分と昔だなー。地球と『こっち』って時間ズレてんの？</p><p>魂が自然と引っ張られて抜け落ちるとは、恐ろしい話だ……</p><p>首を傾げるアイリーン、おそらくは現実世界で『変死』を遂げたであろう、名も知らぬプレイヤーたちのことを思い顔を引き攣らせるケイ。</p><p>君らのゲームとこの世界は極度の相似関係にあるからね。互いに引き合うような性質があるのさ。それに、精神が物質世界に対して優位に働くVR技術は、君らが思っているよりも『危険な』代物だよ。まあ、今更知ったところで時既に遅しだが……</p><p>手品のようにティーカップを取り出して、紅茶を味わいながらオズは笑う。</p><p>ところで時間のズレに関しては、君らの記憶と『彼ら』の記憶を比較するに、どうやら『地球』の次元とこちらの世界は急激に接近し始めていたようだ。最初の一人が転移してきたのは、『こちら』ではおおよそ二百年前のことだったが、君らの世界では三年ほど前、 DEMONDAL のサービス開始直後だったらしい。対して、二人目は『こちら』では百年前、君らの世界では―二年ほど前のことか。『地球』の時の流れは、『こちら』に比べて格段に遅いようだね。しかし両者のそれが、ごく僅かではあるが、揃いつつある</p><p>……時間のズレが変動するなんてことが、あり得るのか？</p><p>もちろんあり得るとも、ケイ。君らにはわかりにくいかもしれないが……世界と世界の間に、相対的な『距離』とでも呼ぶべきものがあるのだよ。あらゆる世界が、互いに近づいたり遠のいたりを繰り返している。世界同士が接近すればするほど、時の流れも足並みが揃う傾向があるし、例えば僕が世界を渡るときも、『近く』の世界の方がより少ない労力で次元の壁を突破できる。ちなみに僕の故郷たる天界は、他のあらゆる世界に対して常に時の流れが遅い傾向にあるよ。天界の時間基準で魔力の消費が早くなってしまうのも、『堕天』が厭われる理由の一つだねえ……ふむ</p><p>ふっと視線を逸らしたオズは、頬に手を当てて何やら考え込む素振りを見せた。</p><p>成る程……となると、『地球』と『この世界』は、今おそらく、最も接近しているのかもしれないね。流石の僕も、現世界と任意の外世界との距離を観測・予測することはできないが、時空を司る大精霊であるカムイならば可能だろう。奴に何の目的があるのか、あるいはあったのか謎だが、君らの召喚に際して魔力の消費を極力抑えるために、二つの世界が最接近したタイミングを狙った可能性は非常に高い</p><p>……そこまでして、何のために俺たちを呼んだんだ……</p><p>さあ。本人に聞いてみたらどうだい？　案外呼べば出てくるかもしれないよ？</p><p>オズの言葉に、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。</p><p>……カムイの旦那ー？</p><p>アイリーンが虚空に向かって呼びかけた。</p><p>…………</p><p>当然のように、何の反応もない。</p><p>出てこないじゃん</p><p>実は、僕も少し期待してたんだけどね。やはり駄目か。素晴らしい記憶を読み取れると思ってたんだが、残念だねえ</p><p>責めるように頬を膨らませるアイリーンに対し、悪びれる風もなくオズ。</p><p>実際のところ、世界を調整する『神』にも等しい存在が、おいそれと姿を現すことはないだろう、とオズは語る。</p><p>あそこまで存在が大きくなると、ただ『身じろぎ』をするだけで膨大な魔力を消費するし、よほどのことがない限り顕現しないだろうね</p><p>結局、目的はわからずじまい、か……</p><p>君らを呼び寄せること自体が目的だったのか、あるいは君らがこの世界に及ぼす影響を期待しているのか……わからないねえ。ま、仮に『やって欲しいこと』があるなら、流石にもう少しわかりやすい形で頼んでくるはずだ。君らは、君らがやりたいようにのんびり過ごすといいさ。それだけのために、『こちら』の世界に呼びつけられたのは、災難としか言いようがないかもしれないが</p><p>俺はまだ、健康な体が手に入ったから良いんだが……</p><p>唸るようにして言ったケイは、心配げにアイリーンを見やる。こちらを見つめていた彼女は、健気に微笑んだ。</p><p>……大丈夫だよ。オレも……こっちで暮らしていくなら、けっこう充実してると思うし。家族は心配だけど、さ</p><p>そう言えば、地球の方が時間の流れが遅いなら、まだ俺たちの体は死んでないんじゃないか？　今すぐ帰れば間に合うとか、そういうことは？</p><p>世界を渡るときにどれだけ時間がズレるか、だね。ひょっとすると君らの世界との距離が再び離れつつあるかもしれないし、ある日を境に地球の方が時の流れが早くなっている可能性なんてのもある。いずれにせよ、大博打だろう。君らにとっては</p><p>そうか……</p><p>ま、どっちにせよ世界を渡る魔力なんて捻出できないけどなー。どんくらい必要なのか見当もつかねーし。それとも、旦那にお願いすれば一肌脱いでくれるのかい？</p><p>頭の後ろで手を組んで、茶目っ気たっぷりに尋ねるアイリーン。なんとなく、その笑顔は、ケイの目には痛々しいもののように映った。</p><p>いや、頼まれておいそれとできるようなものではないね、なにせ、とんでもない魔力を消費してしまうから……対価を要求しても君らに払いきれないだろう。まだこの大陸全土を一晩で耕せと頼まれた方がマシなくらいだよ</p><p>そんなにか</p><p>大陸をくまなく掘り返すのに、どれほどの魔力が必要だろうか―まず数十メートル四方の土地をシーヴの力で耕すことを想定したケイは、それを大陸に適用しようとして要求されるであろうとてつもない触媒の量に呆れた。</p><p>無理だな</p><p>まあ、人の身では厳しいだろうね</p><p>しかしオズの旦那は、『無理』とは言わないんだな……</p><p>かなり苦しい、と言っておこう</p><p>飄々と答えるオズは、言葉とは裏腹に、鼻歌交じりにやってのけそうな雰囲気を漂わせている。</p><p>まあ、世界渡りは無理だが、それ以外のことなら善処しようじゃないか。遠路遥々、別の次元から、せっかく我が家を訪ねてくれたんだ。多少お話をして終わりというのも芸がない。記念に何か、ささやかな『願い』を一人一つ、叶えてあげよう。『こちら』での君らの暮らしが、充実するようなことを頼むといい</p><p>ニヤリ、と捉えどころのない笑みを浮かべるオズに、ケイたちは不安げに顔を見合わせた。申し出自体はありがたいのだが―</p><p>……それって、あとで魂取られたりしない？</p><p>取るつもりならもう取ってるよ</p><p>うまい話には裏がある。半信半疑のアイリーンに、オズはさらりと答えた。</p><p>なに、貴重な異界の記憶を貰ったからね、あくまでそのお礼さ。心配せずとも、あまりに大それたことを頼まれたら、それは断るつもりだよ</p><p>例えば、どんな願いなら良いんだ？　あ、この質問は願いじゃないぞ</p><p>予防線を張るケイに、オズは愉快そうにくつくつと喉を鳴らして笑う。</p><p>そうだね、どんな傷でも癒やすハイポーションでもいいし、あらゆる毒や病の特効薬でもいい。もちろん、望むならある程度まとまった量の金銀財宝でもいいよ</p><p>……『ささやか』じゃない気がするんだが</p><p>僕にとってはジュースと大差ないのさ</p><p>チンッ、とテーブルの上のジュースの瓶を指で弾いてオズ。</p><p>……別に、『物品』じゃなくても良いのか？　お願いでも？</p><p>アイリーンが確認する。</p><p>もちろん、良いとも</p><p>オズはどこか含みのある様子で頷いた。その緑色の眼は、観察するように、そして楽しげにケイたちを見据えている。</p><p>……どうする？　ケイ</p><p>……困ったな</p><p>選択肢が多すぎて、どうしたものかわからない。二人は再び顔を見合わせた。</p><p>ハイポーションは魅力だよなぁ……</p><p>腰のポーチを撫でながら、ケイ。ハイポーションには、今まで何度命を救われたかわからない。しかしそれも残すところ僅か数瓶だ。</p><p>ハイポーションならお安い御用さ。一人の願いでダース単位で上げよう</p><p>魔法の武具も可能か？</p><p>うーん、それは物に依るね。『何でも斬れる剣』や『あらゆるものを防ぐ盾』なんてのは無理かな、せいぜい矢避けの羽衣とか、姿を隠せる指輪とか……</p><p>……それはそれで凄いな</p><p>思わず興味をそそられるケイ。ゲーム内にもそういった伝説級(レジェンダリ)アイテムは存在していたが、盗難や紛失を恐れるあまり、貴重すぎて使う機会がなく、専ら銀行に仕舞い込まれているのが常だった。</p><p>うーん、でも物品よりもっと抽象的な願いの方がいいんじゃねーかな。汎用性が高くなるし</p><p>調子良く物品を勧めようとするオズに対し、アイリーンは冷静に考え込んでいる。</p><p>金銀財宝……は、要らない。ケルスティンやシーヴの力を利用した魔道具なら幾らでも作れるし、商会のツテもあるから販売経路は心配ない。多分、今後オレもケイも稼ぎには困らないはずだ。それにケイ、矢避けのマントなりアミュレットなりなら、魔力が育ってきたら自力で作れるんじゃね？</p><p>……確かにそうだった</p><p>アイリーンの指摘に、ペシッと額を叩くケイ。現時点でも、貴重な触媒を消費すれば矢の雨を逸らすことくらいはできる。オズが与えてくれるような、伝説級のアイテムの再現は流石に無理だろうが、小粒の宝石を担保に不意の矢を逸らす程度の魔道具なら、自力で作成できるようになるはずだ。</p><p>それと、ポーションは確かに魅力的だけど、保存・運搬に難があるし……いや、待てケイ！　もっと良い『答え』を思いついた！</p><p>何？</p><p>ここは……保留だ！　願い事を聞いてもらえる権利を保持しておいた方がいい。何か手に負えないことが起きたとき、臨機応変に助けてもらおうぜ！</p><p>どうだこれが正解だろう、と言わんばかりに得意げな顔でアイリーン。ぱちぱちと目を瞬くケイに、苦笑するオズ。</p><p>……それもそうだな。それが一番汎用性が高いな</p><p>ケイも納得した。今この場で答えを出す必要はない、ということだ。例えばポーションが追加で欲しくなるような事態や、独力では解決できない事件が発生したときに、改めてオズに助けを求めればいい。</p><p>じゃあ、願いはそれでいいか</p><p>だな！！</p><p>……二人とも物欲がないねえ。いやはや、困ったものだ</p><p>苦笑の色を濃くして、オズは髪の毛をいじっている。</p><p>しかし二人とも、権利を保持するのは自由だけれども、何か困ったことが起きたときに、またわざわざこの森を訪ねるつもりかい？</p><p>えっ</p><p>意地の悪い笑みを浮かべるオズに、二人とも固まった。</p><p>……じゃあ、『困ったときにオズを呼んだら助けてもらえる権利』で！</p><p>いやいやアイリーン、それは駄目だよ</p><p>即座にアイリーンが言い換えるが、オズは否定する。</p><p>君らもお察しのように、その願いは二つの願いを内包している。『困ったときに呼べば僕がその場に出向く』という願いと、そこで『僕が君らを助ける』という願いの二つだ。……それを一つにまとめるのは、認められないねえ</p><p>……そこを何とか！　頼むよオズの旦那！</p><p>アイリーンが愛嬌たっぷりにウィンクするが、オズは捉えどころのない半笑いのような表情を一ミリたりとも崩さなかった。</p><p>駄目だね</p><p>クソッ、オレも所詮はただの人、上位者に下等生物の媚びは通じない……！</p><p>おいおい、僕を誰だと思っているんだい？　下等生物云々はさておくとして、表面的な媚びが通じるわけないだろう。君が心の底から愛しているのはケイだけじゃないか</p><p>なっ</p><p>オズの返しに、絶句するアイリーン。口をぱくぱくとさせたまま、頬を染めている。隣でなぜか被弾してしまったケイも、照れたように後頭部に手をやった。</p><p>いや……まあ、……そうだけど……</p><p>アイリーン……</p><p>ふふふ。じゃあ願いはそれでいいかな</p><p>何やら見つめ合う二人を前に、笑いを噛み殺すオズは懐を探った。</p><p>それでは、こうしよう。君らにはこの指輪をあげる</p><p>オズが取り出したのは、シンプルな赤銅色のリングだ。</p><p>これは、一度使えば消えてしまう連絡用の魔道具みたいなものだ。この指輪に僕の名を呼べば、世界のどこへでも一瞬で駆けつけよう。そして願いを言えば、一度だけそれを叶えてあげる</p><p>テーブルの上にそれを置き、スッとケイたちに差し出す。</p><p>風情があるだろう？　本当は、キュッキュと擦れば僕が飛び出す魔法のランプにでもしようかと思ったんだがね。指輪の方が持ち運びに便利だろうから</p><p>ランプの先端からオズがニュルッと飛び出す様を想像し、それはそれで面白いな、などと考えてしまうケイだった。</p><p>う……ぐぬぬ……ううっ、ケイ、本当にこれでいいのか！？</p><p>鈍く輝きを放つ指輪を前に、悔しそうなアイリーン。一度それを手に取れば、負けを認めることになってしまう、とでも思っているかのようだった。</p><p>……まあ、仕方ないんじゃないか。実際、北の大地(ここ)まで来るのは結構な手間だったしな……それを短縮できて、かつピンチで助けてもらえると考えれば、願ってもない幸運だろう</p><p>そりゃそうだけどさ……。くぅ～ッ！　なぜ！　なぜオズの旦那はこんな僻地で暮らしてるんだ！　もうちょっと街中に引っ越す予定はないのか！？　いろんな人間の記憶を読み取り放題だぜ！？</p><p>ぺしぺしと控え目にテーブルを叩きながらアイリーンは問う。往生際の悪いアイリーンに笑いながら、オズは答えた。</p><p>いや、僕も極々稀に人里へ足を伸ばしたりもするんだがね。でも基本的に僕は引きこもりだし、逆に一度そこの住人の記憶を読み取ってしまえば、しばらくそれで満足なんだ。そういう意味で人里に定住するメリットはあまりないね</p><p>屋敷の窓の外、霞がかかったような灰色の森を手で示して、オズは ああ とどこか恍惚とした溜息をつく。</p><p>その点、この森は良い。僕にとって存外に居心地が良いんだ。ここは、世界の魔力の吹き溜まりのような場所。外に比べて時空が少々不安定でね。お陰で、妙なモノがよく紛れ込んでくる……この世界のものに限らず、ね</p><p>そいつらの記憶がまた珍味なんだ、とオズは悪魔的な笑みを浮かべた。</p><p>あの霧の中の化け物どもか……！</p><p>やっぱり別世界の住人だったんだ……</p><p>道中で遭遇した怪異を思い出し唸るケイ、アイリーンも少々顔色を悪くしている。</p><p>DEMONDAL に酷似しているこの世界において、連中はあまりに『馴染み』のない、異質な存在だとは思っていたのだ。別世界から紛れ込んだもの、と聞けばそれも納得だった。</p><p>『彼ら』の多くは肉体と魂、あるいは物質と精神の境があやふやな世界から来たモノだね。だから魔力が濃く、世界の法則が歪みやすいこの森では存在を保っていられる</p><p>彼らにとってもまた居心地が良い場所なんだろうさ、とオズ。彼ほどの存在ともなれば、霧の中の怪異も全く無害なのだろうが、生身の人間からすれば堪ったものではない。</p><p>しかし他ならぬ彼の言葉により、霧の中の化け物は外に出られないことが証明されたので、それは思わぬ収穫だったと言うべきか。</p><p>おっと、もうこんな時間か。お茶もいいけど、そろそろ夕食の時間かな</p><p>未だ手付かずのまま放置されていたサンドイッチの類をちらりと見やり、オズ。彼がパチンッと指を鳴らすと、ティーセットが嘘のように消え去った。</p><p>二人とも疲れているだろうし、今日は泊まっていくといい。とりあえず夕食だ</p><p>ぱんっ、とオズが手を鳴らすと、テーブルの上にキャンドルが現れる。 メニューはどうしようかな と考え始めるオズをよそに、ケイは卓上の指輪を手に取った。</p><p>これは、アイリーンが持っておくと良い</p><p>いや、いいよ。ケイが持っといて</p><p>しかし……</p><p>いいんだって</p><p>テーブルに肘をついたアイリーンは、いたずらっぽくケイを見つめる。</p><p>―どうせ指輪なら、別のが欲しいな</p><p>キャンドルの光に照らされた笑顔は、艶やかで。</p><p>ケイは、どきんと心臓が跳ねるのを感じた。</p><p>……わかった</p><p>左手の小指に指輪をはめながら、ケイはこれ以上ないほどに、真摯な表情で頷く。</p><p>真面目くさったケイが可笑しかったのか、アイリーンは花開くように笑った。</p><p>ころころと表情の変わる感情豊かなアイリーンを、いつまでも見つめていたいと。</p><p>ケイは、心からそう思った―</p><p>その後、ケイたちはオズに夕食を振る舞われた。</p><p>メニューは、ハンバーグに味噌汁、白米、ボルシチ、ピロシキ、サラダ、その他ソフトドリンク、等々、てんでまとまりのないものだ。それぞれ、ケイとアイリーンの記憶から再現されたものだった。ハンバーグの焼き加減、味噌汁の具、それらはケイがうっすらと憶えている母の味そのもので、―きっとそれは、アイリーンの食べた料理も同じだったのだろう。</p><p>必然、夕食は、どこかしんみりとした空気を漂わせていた。</p><p>食後はオズが二階に用意した客室に案内される。地球の高級ホテルを思わせる、近代的な内装の立派な部屋。</p><p>久しく目にしていなかった、スプリングつきの立派なダブルベッドがあり、はしゃいだアイリーンは思わず大の字になってダイブしていた。</p><p>ケイーッ！　これ凄いぞーッ、ふかふかだーッ！</p><p>ボヨンボヨンとベッドの上で跳ね回ってはしゃぐアイリーンに、いつか家を構えることになったら、立派なベッドを手配しようと決意するケイであった。</p><p>客室とは別に、風呂場も用意されていた。</p><p>それも、二つもだ。一つは日本風。もう一つは―普通の、西洋風の浴室。ただその内装は、やはりケイとアイリーンの記憶にあった、『実家の風呂場』そのものだった。</p><p>蛇口を捻れば、すぐに清潔なお湯が出てくる便利さ。ここを離れたら、『こちら』の世界が酷く不便に感じられそうで恐ろしい。</p><p>日本風の浴室で、熱々の湯に肩まで浸かりながら、ケイはひとり思った。</p><p>……これは、やりすぎじゃないかな</p><p>オズの思いやりが伝わってくるが―しかし、逆に酷ではないか、と。</p><p>自分はまだいい。思い出も郷愁も、未練さえも、全てが次元の遥か彼方だ。それらとの決別はもう済んでいるし、事実、地球に帰っても長生きできないという如何ともしがたい事情を抱えている。</p><p>だがアイリーンは―</p><p>隣の浴室から微かに響く、押し殺すようなすすり泣きの声に、ケイは瞑目した。</p><p>天井を見上げれば、電灯の光が煌々と浴室を照らしている。</p><p>ケイの瞳には眩しすぎるほどだった。</p><p>頭まで湯に身を沈めたケイは、子供のようにブクブクと息を吐いて遊んだ。</p><p>記憶にあるよりも、浴槽はずっと狭く、そして小さく感じられた。</p><p>†††</p><p>ケイたちが風呂から上がる頃には、窓の外はとっぷりと夜闇に沈んでいた。</p><p>ただ、屋敷の窓から漏れる薄明かりだけが、庭に漂うもやを照らしている。</p><p>いやーヤバイな。願い事、『ここで暮らす』ってのもアリだったかなー</p><p>ベッドに寝転び、ドライヤーで乾かした金髪をさらさらと撫でながら、アイリーンはぼやくようにして言った。髪の長い彼女は、こちらの世界で一風呂浴びるたび、髪がなかなか乾かず苦労していたのだ。今はまだ夏なので良いが、冬は困ったことになる。</p><p>……そうだな。ちょっと便利すぎて怖いくらいだ</p><p>アイリーンの隣に寝そべったケイは、天井の電灯のような明かりを見やって頷く。</p><p>―ここで暮らす、か。</p><p>それもアリかもしれないな、とは真面目に思った。少なくとも、便利だし、命の危険もないだろうし、オズの図書館があれば退屈することもないだろう。</p><p>……あ、冗談だからな？</p><p>何やら真剣に考え込み始めたケイに、アイリーンは慌てた様子だ。</p><p>そうか？　今なら指輪を返せば何とかなる気もするぞ</p><p>…………確かに、さ。もしここで暮らせるんなら、便利だし、安全だし、凄く良いとは思うんだけど</p><p>寝転んだまま、アイリーンは悲しげに笑う。</p><p>でも、なんか、ここにいたらダメになる気がする</p><p>……アイリーン</p><p>ケイは、どんな顔をすればいいのか、わからなくなってしまった。</p><p>ただ、アイリーンの言っていることには、何となく共感できる。</p><p>この、外界から切り離されたぼやけた霧の世界で、保護されるように、壁の内側で生きていくことは―多分、ケイが望んでいる人生ではない。</p><p>そしておそらく、それはアイリーンも同じだ。</p><p>ケイは改めて、愛しい人を見つめた。</p><p>彼女の目は、泣きはらしたのか、少し赤くなっている。</p><p>その頬にそっと手を当てたケイは、宝石のような瞳を覗き込んだ。</p><p>アイリーン</p><p>……うん？</p><p>オズがアイリーンに、帰るつもりがあるのか訊いたとき。俺と一緒に、残ってくれるって。アイリーンがそう言ってくれて……俺、本当に嬉しかった</p><p>ありがとう、と囁くように。</p><p>ケイはアイリーンをそっと抱きしめる。</p><p>だから、今なら言えるんだ……一緒にいてくれて、ありがとう</p><p>ごつごつとした腕は、このとき、なぜか弱々しい。</p><p>俺と、ずっと一緒にいてほしい</p><p>まるで縋りつく幼子のようだ、とアイリーンは思った。</p><p>……シーヴの力を借りれば、ドライヤーだって作れると思う。自然のいっぱいあるところに、大きな家を買おう。二人で力を合わせれば、きっと現代に負けないくらい便利な暮らしが―</p><p>それから、なおも話し続けようとするケイの唇を、アイリーンはそっと塞いだ。</p><p>ついばむような口づけ。</p><p>……ケイ、愛してる</p><p>アイリーンもまた、愛しい人を抱きしめ返した。</p><p>涙をたたえた蒼い瞳が、きらきらと輝いている。</p><p>呆けたような顔をしていたケイは、視界がぼやけて、霞んでいくのを感じた。</p><p>……俺もだ</p><p>ケイも、泣きながら笑った。</p><p>愛してるよ</p><p>そうして二人は、もう一度、唇を重ねた。</p><p>―翌朝。</p><p>屋敷の玄関口で、オズが笑って立っている。</p><p>さて、二人とも。忘れ物はないかね</p><p>支度を整えていた二人は、わざとらしく持ち物をチェックした。</p><p>……大丈夫なようだな</p><p>悪いけど、ホームシックだけは置いてくぜ</p><p>真面目くさって頷くケイに、ニカッと笑うアイリーン。</p><p>そうかい。それは良かった。……では、約束通り、その指輪に名を呼ばれたとき、僕は即座に駆けつけて願いを叶えよう。ただしそれは一度きりのチャンスだ。使いどころはよく考えるように</p><p>ああ。せいぜい、最大限に効果を発揮するときに使わせてもらうよ</p><p>……お手柔らかに頼むよ</p><p>どこかすっきりとした顔で言い切るケイに、オズは苦笑する。</p><p>さて、この屋敷を出たら、すぐに森の入口に繋がるようにしてある。二歩も歩けば霧の外だから、安心して帰るといい</p><p>そいつは助かる、もう命綱もないからな</p><p>そっと、ケイはアイリーンの手を握る。命綱の代わりだ。</p><p>アイリーンも微笑んで、ぎゅっと力強く握り返してくる。</p><p>ふふふ。それでは、君たち二人の門出に、幸多からんことを。……『悪魔』が祝福というのも、おかしな話だがね</p><p>ご利益がありそうじゃないか。……オズ、ありがとう</p><p>世話になったな、オズの旦那！　また会う日が、来るかどうかはわかんないけど</p><p>二人はオズに一礼して、歩き出す。</p><p>一歩一歩、もやのたゆたう庭を進んで行く。</p><p>オズは扉にもたれかかって、二人を見送っていた。</p><p>いやー、村の皆、心配してるだろうなー。オレらが帰ってきたら腰抜かすかも</p><p>そうだな……質問攻めにされそうだ</p><p>……それにしてもデーモンか。とんでもない存在に会っちゃったな</p><p>おそらくは気の遠くなるような長い年月を生きている、記憶と忘却を司る上位者。想像もしていなかった『大物』だ、村の住人たちも話を聞けばさぞ驚くことだろう。</p><p>おいおい……本人に聞こえるぞ</p><p>聞かせてるんだよ。……あっ</p><p>しかし軽口を叩いていたアイリーンは、不意に立ち止まる。</p><p>―何か、心に引っかかっていたものがあった。</p><p>昨日のことだ。アイリーンがまず、地球への帰還が可能なのかオズに尋ねたとき。</p><p>オズは答える前に、アイリーンに逆に問うた。『君はどうするつもりなのか』、と。</p><p>あのとき、唐突に水を向けられて驚いたものだが、そのときに感じた違和感の正体が今になってわかった。</p><p>そもそも、オズはケイたちに何かを問う必要がなかったのだ。ケイたちの思考と記憶を探れば、口に出して問うまでもなく、自然と答えはわかるのだから。</p><p>では、なぜあのときオズは、わざわざアイリーンに『質問した』のか。</p><p>『一緒にいてくれて、ありがとう』</p><p>昨夜のケイの言葉を思い出す。</p><p>―そう、それは、ケイに聞かせるため。</p><p>アイリーンが『こちらに留まる』という自身の覚悟を表明するのが、『地球への帰還が不可能』と判明する前と後では、ケイの印象が全く異なる。</p><p>もし、『帰還できない』と聞いた上でアイリーンが『残る』と答えていたら、それではまるで他に道がないから仕方なく、そう言っているように聞こえてしまうだろう。</p><p>それは、後々二人の関係にしこりとなって残ってしまったはずだ。</p><p>だから、それを避けるために。</p><p>オズは敢えて問うたのだ。</p><p>そしてアイリーンに、覚悟を言葉にさせた。オズが真実を明かす前に。</p><p>…………</p><p>アイリーンは振り返る。</p><p>真っ赤なスーツに身を包んだ、胡散臭い見かけの悪魔は、すべてを見透かしたような顔で笑っていた。</p><p>『……ありがとう、優しい悪魔さん』</p><p>アイリーンもまた、クスリと笑う。</p><p>その言葉が届いたかはわからない。ただ、悪魔は笑うのみ。</p><p>アイリーン？</p><p>ん。いや、いいんだ</p><p>首を振って、アイリーンは前に向き直る。</p><p>……行こう。ケイ</p><p>ああ。行こう、アイリーン</p><p>手を繋いだ二人は、踏み出した。</p><p>霧の外へと。</p><p>燦々と陽の降り注ぐ、明るい外の世界へと。</p><p>これにて魔の森編、完ッ！</p><p>次回は幕間となる予定です。</p><p>その後は移住編、始まります。砂糖菓子の蜂蜜がけみたいな感じになると思います。</p><p>幕間. Tahfu</p><p>月夜だ。</p><p>馬上で揺られながら、男は天を仰いだ。</p><p>絵に描いたような三日月が、ぽっかりと夜空に浮かんでいる。あれは、果たして欠けつつあるのか、それとも満ちつつあるのか―？　今の自分には知る術もない、そして知ったところで何の意味もない、などと詮無きことを考え、気を紛らわせる。</p><p>そう、男は気を紛らわせる必要があった。</p><p>肌寒い。</p><p>季節は晩夏。夜の草原は、ひんやりと冷え込んでいる。そこを、半袖シャツに粗雑な麻のズボンだけという格好で、馬を駆り、文字通り風を切って進んでいるのだから、体からは面白いように熱が奪われていく。</p><p>同(・)伴(・)者(・)には聞こえないよう、控え目に鼻をすすった男は、独り思う。</p><p>（いったい、いつまで駆け続ければいいんだ―）</p><p>あてのない放浪、そんな言葉が頭をよぎる。しかしそう思った矢先、数メートル先を黒馬に跨って進んでいた同伴者が、 コウ！ と呼びかけてきた。</p><p>あっち、森の近くに村が見える！</p><p>灰色のローブを身に纏った、黒髪の美女。月下、彼女の瞳は、爛々と輝いて見える。比喩表現ではなく、本当にネコ科の動物よろしく、光を反射しているのだ。そしてその頭頂部には、まさしくネコのような獣の耳がぴょこんと生えていた。</p><p>彼女の名を、『イリス』という。</p><p>何の因果か、 DEMONDAL 内での彼女の種族『豹人(パンサニア)』の特徴を、中途半端に受け継いでしまったゲーム仲間の一人だ。</p><p>そいつは良かった！</p><p>男―『コウ』は、そのアジア系の童顔におどけた笑みを浮かべて答える。</p><p>ちょうど、そこらに気の利いたホテルでもないかと考えていたんだ！</p><p>コウの皮肉に、イリスは困ったような顔で笑った。未だ、夢でも見ているような感覚は抜けないが―状況を鑑みると、イリスもコウも DEMONDAL のゲームに酷似した世界にいることは明らかだ。</p><p>そして DEMONDAL の世界には、残念ながら『平穏』の二文字はない。</p><p>村があるからといって、温かく迎え入れられるとは限らないのだ。</p><p>ましてや深夜、旅人のふりをして立ち寄っても、むしろ―</p><p>……さて、どうしたものかね</p><p>鼻声で、コウはぼやくようにして呟く。その視線の先には寝静まった村。さほど夜目の利かないコウでも、月明かりで目視できる程度の距離。下馬した二人は、木立に身を潜めていた。</p><p>木造の簡素な家々が建ち並ぶそこは、まさしく慎ましやかな辺境村といった風情だ。ゲーム内の村に比べると、荒んだ雰囲気は感じられず、家々の建て付けの良さや軒下のちょっとした装飾などを見るに、それなりに豊かな暮らしを送っているのではないか、という印象を受ける。</p><p>村の中に明かりはない。住民たちは皆、床に就いているのだろう。人の気配はあるが、物音一つしなかった。</p><p>見張りはいないわね</p><p>隣でイリスが呟く。まるで夜襲を企てるならず者のような台詞に、思わずコウは苦笑した。自分もまた、ゲームの習性で、無意識のうちに侵入経路を考えていたことに気づかされたからだ。</p><p>襲いに来たわけじゃないんだぞ</p><p>あっ、当たり前でしょ。バーナードじゃあるまいし</p><p>からかうようなコウの言葉に、噛みつくようにして答えたイリスは、己の出した名前に沈黙した。</p><p>『バーナード』―もう一人のゲーム仲間。</p><p>正確には『元(・)仲間』と言うべきか。今や二人が置き去りにしていった男だ。ゲーム内の種族『竜人(ドラゴニア)』の特徴をほぼそのまま受け継いだ彼は、その外見に相応しい残虐性と、頭のネジが数本外れたような『ブッ飛んだ』思考回路の持ち主だった。</p><p>この後どうするか とコウに尋ねられて、 村でも襲おうぜ と即答したヤツだ。</p><p>もしもあいつが、こんな寝静まった村などという獲物を見つけたら―どうするか。</p><p>そう考えると、コウは暗澹たる思いを禁じ得なかった。</p><p>確かにコウもイリスも、ゲーム内では極悪非道なならず者として振る舞っていたが、それはあくまで『ロールプレイ』に過ぎない。ゲーム内ならまだしも、『現実』と思われるこの状況下で、なおも悪事に手を染めようという気は起きなかった。</p><p>ましてや人里の襲撃など。</p><p>置き去りにする際、バーナードが寝付いたのを見計らって、コウがありったけの触媒を使い眠りの術をかけたので、しばらくは目を覚ますことはないだろうが―それでも明日の昼には術の効果も切れるはずだ。</p><p>一番の問題は、置き去りにした場所からこの村まで、それほど離れてないということだった。</p><p>一応、バーナードに追跡されにくいよう、一度川に入って馬の足跡を消すなどの対策は施してあるが、それがどれほど役に立つかはわからない。もしこの村にヤツがやってきたら、どうすればいいのか―</p><p>（いや、まずは自分のことが先だな）</p><p>コウは頭を振って、不穏な考えを打ち消した。そもそも、不審者として門前払いを食らうかもしれないし、逆に村ぐるみの追剥にあう可能性すらある。全てはこの村の対応次第だな、と結論を出し、コウはやおら立ち上がった。</p><p>……どうするつもり？</p><p>とりあえず、正面から訪問かな。情報も欲しいし、物資も揃えないとね</p><p>不安げなイリスに、コウは小さく肩をすくめて見せた。</p><p>とりあえず現実世界への帰還を目指して動こう、という結論には達したものの、それを為すためには全てが不足している。そもそもこの村の住人が人間なのかもわからないし、言葉が通じるかも未知数だ。まずは、それらを確かめなければならない。もし交流が可能ならば、食料に着替えに位置情報に―欲しいものは山とある。</p><p>そして幸いなことに、コウたちはわずかながら金目の物を所持していた。『こちら』に来る直前、ゲーム内で村を襲って金品を強奪していたお陰だ。ならず者として、普段は失っても惜しくない程度の最低限の武具と、ボロ布のような服しか持っていなかったコウたちにとって、これは望外の幸運と言えた。</p><p>（こちらの通貨はどうなってるか、だなぁ。金貨と銀貨なら最悪、貴金属としても取引には使えるか……言葉が通じればの話だけど）</p><p>ゲーム内に酷似している、というのはあくまでコウたちの見解だ。実際は似ても似つかない、全くの別世界という可能性もある。言葉が通じなければかなり厳しいな、などと胸の内で呟きながら、小さく溜息をついたコウは、その場で軽くストレッチして手に握った杖の感触を確かめた。</p><p>杖―その辺の木を荒く削り出しただけの自作の棒だ。一応、自分の魔力を馴染ませてあるので、ただの棒よりは頑丈で、魔術の反動を軽減する効果もある。</p><p>コウは、他プレイヤーとは戦闘以外の交流を持たない、完全な無法者(アウトロー)としてゲームをプレイしていたので、武器を自給自足するための最低限の木工作、移動手段のために騎乗、そして近接戦闘用に杖術を育て、キャラクターの残りのリソースは全て魔術に割り振ってある。有り体に言えば、そこそこ手先が器用で、長時間の乗馬が苦にならない程度に足腰が丈夫で、杖を思った通りに振り回す筋力と体力がある魔術師だ。</p><p>正直なところ、魔術師と呼ぶにも魔法戦士と呼ぶにも、かなり中途半端なキャラだ。元々はただ棍棒を振り回すだけの荒くれ者にする予定だったのだが、思いがけず妖精と契約できてしまったので、急遽魔術寄りに育成方針を変更したという事情もある。課金で加齢させて無理やり最大魔力を確保してあるのだが―そういえば、この体の年齢はどうなっているのだろう？　と首を傾げつつ、コウはおもむろに杖を振るった。</p><p>仮想敵を思い描き、剣や槍の攻撃を払う動きをなぞる。頭を打つコンパクトな突き、側頭部を叩き割るアグレッシヴな薙ぎ払い。</p><p>……突けば槍、払えば薙刀、持たば太刀ってね</p><p>ゲーム内と遜色なく身体は動く。よし、と一人頷いた。</p><p>……何してるの？</p><p>相手が友好的とは限らないから。護身術のおさらい、かな</p><p>イリスの問いに、事も無げに答えてコウ。イリスの顔が強張るのに気づいて、どうしたものかと頭を悩ませる。ゲーム内では豪胆な女豹だったのが、一転、実際は気の弱いお嬢様のようだ。この調子では蚊の一匹も殺せるか怪しい。</p><p>まあその点では自分も大差ないが、と自嘲しつつ、杖を地面に立てて高さを測る。</p><p>身長は変わらず、と</p><p>ゲーム内の『コウ』の身長は、現実と同様１７０ｃｍ後半に設定してあった。横に立てた杖の長さに違和感を感じないということは、身長もゲーム内に準拠しているはず。これで間合いなどの感覚は、普段通りで構わないということがわかった。</p><p>最後に、腰のポーチを再確認。そこに収められているのは、魔術に必要不可欠な触媒の数々だ。満月の光に晒した清浄な砂、摘み取ったばかりの花びら、とっておきの砂糖菓子、水晶の塊、そして塩。</p><p>イリスは、どうだい？　体の調子は</p><p>コウが尋ねると、イリスはおずおずと立ち上がった。</p><p>彼女のゲーム内での種族―『豹人(パンサニア)』は、メスの方がオスよりも力が強いという設定で、身体能力に非常に優れているのが特徴だ。実際、素の状態での筋力は、並の物理特化のプレイヤーよりも強く、ゲーム内では石ころを素手で砕くことすら可能だった。</p><p>その腕力で振るわれる投石器(スリング)の威力は尋常ではなかったのだが―『こちら』では、なぜか現実準拠の見かけ（豹耳を生やした若い女）になっているせいで、そんな怪力の持ち主には到底見えなくなってしまっている。</p><p>身体のコンディションを確かめるように、その場で軽く飛び跳ねるイリス。</p><p>んっ、と</p><p>身をかがめ、イリスはひょいと跳び上がった。全く力のこもっていない垂直跳びだったが、軽々とコウの身長を超える高さまで到達する。</p><p>身体は……なんだか、軽く感じる。ゲームのときよりも。力はあんまり変わってないかな？　ちょっと弱くなってるかもしれないわね</p><p>何かしっくりこないのか、首を傾げたイリスは、おもむろに前腕部に巻きつけていた黒布をはらりと解いた。無論、ただの布切れではない。折り返せばちょうど真ん中にあたる部分に、革製の受け皿のようなものがついている。</p><p>投石器(スリング)だ。</p><p>ゲーム内では製造・入手が容易であったことから、無法者御用達の飛び道具だった。使いこなすのは弓よりも難しいが、その威力は折り紙つきだ。</p><p>特に、豹人の筋力があれば―</p><p>足元から適当な拳大の石ころを拾い上げたイリスは、受け皿にそれをセットし、スリングの両端を握って無造作に振り回し始める。</p><p>ヒュン、ヒュンと風を切る音が、段々とブゥンブゥンと鈍い音に変わっていく―</p><p>勢いをつけ、イリスはスリングの片端を離した。</p><p>ボヒュッと解き放たれた石ころが、夜暗に吸い込まれていく。一拍遅れて、カツーンと何かが砕ける音。コウは知る由もなかったが、イリスはその輝く瞳で、遠くの木の幹が揺れ、森の鳥たちがバサバサと羽ばたいていくのをしかと見届けた。</p><p>ん。投石の方は大丈夫みたい</p><p>しっかりと狙い通り命中させられたことで、イリスは気を良くしたようだった。少なくとも、先ほどまでのようなオドオドとした雰囲気は鳴りを潜めている。実際に荒事に巻き込まれればどうなるかはわからないが―</p><p>（ま、あまり期待はしないでおこう）</p><p>最初からアテにしていなければ、足元を掬われることもないのだから、とコウは心の中で呟いた。</p><p>良かったよ、調子が出てきたなイリス</p><p>ま、足手まといにならない程度に頑張るわ。頼りにしてるわよコウ</p><p>ひらひらと手を振りながら斜に構えるイリスは、少々強がっているようにも見える。</p><p>一方で、村にも、少しばかり動きが出てきたようだ。イリスの投石の音、そして突然飛び立っていった野鳥の群れを訝しんだ者がいるらしい。何やら人が動いているような気配がある。</p><p>さて……じゃあ初接触(ファーストコンタクト)と行きましょうかね。僕が話すよ。イリスは、フードをしっかりかぶっておいて。そ(・)れ(・)がどう反応されるかわからないから</p><p>……わかったわ</p><p>ちょいちょいと、頭の上の耳を示しながらコウ。神妙な顔で頷いたイリスは、ばさりと目深にフードをかぶった。</p><p>馬の手綱を引いて、木立を出る。村の入り口まで辿り着いたところで、馬の手綱をグイッと引いて、敢えていななかせた。</p><p>…………？　なっ、おいっ、誰だお前ら！？</p><p>と、近くの民家からランタンを手にした男が顔を出し、コウたちの姿を認めてぎょっとしたように叫ぶ。</p><p>それは、英語だった。</p><p>（言葉は通じる！）</p><p>住民が普通の人間だったことに安堵しつつ、まずは第一関門突破、と心の中で快哉を叫んだコウは、しかしそんな様子をおくびにも出さず、神妙な顔で口を開いた。</p><p>すまない、旅の者なのだが、道に迷ってしまった。この村で宿を取ることはできるだろうか？</p><p>宿は取れるか などとわざとらしく聞いたが、もちろん話を切り出すための口実にすぎない。こんな田舎の村に宿屋があるとも思えない―というより、そもそもまともな商店があるかどうかすら怪しい。</p><p>はぁ？　旅？　宿ぉ？</p><p>じろじろと無遠慮な視線を向けてくる村人。それはそうだろうな、とコウも内心苦笑する。半袖シャツに粗雑な麻のズボンという格好で、荒削りな杖だけを手にした男と、灰色のボロ布のようなローブを身にまとい、フードで顔を隠した女。</p><p>あからさまに不審者だ。</p><p>旅をしているには軽装だし、夜中に訪ねてくるのも不気味すぎる。</p><p>……ちょっと待て</p><p>警戒心も露わに、村人は隣家へと走った。ドンドンドンッと遠慮のないノック、隣人を叩き起こす。そして寝ぼけ眼で顔を出した隣人も、ランタンと月明かりに照らされた訪問者二人の姿にぎょっと目を見開いた。</p><p>なんだアイツら！</p><p>曰く旅(・)の(・)者(・)だそうだよ。村長呼んできてくれ</p><p>わかった。ってか前もこんなことあったな……</p><p>ランタンを掲げて第一村人がコウたちを監視する中、叩き起こされた隣人が走って村の奥へと向かう。村長を呼ぶ、という言葉は、コウにも辛うじて聞き取れた。</p><p>（はてさて、どうなりますやら）</p><p>杖をトントンと指先で叩きながら、月を見上げるコウ。</p><p>……イリス</p><p>……ん？</p><p>僕に合わせてくれ</p><p>端からそのつもりよ</p><p>小声でのやり取り。コウは臨機応変に行くつもりだ。</p><p>そのまま待たされること十分近く。周囲に見張り、あるいは野次馬の村人が増えてきたところで、村の奥からザッザッと足音。</p><p>それで、貴方が旅の者とやらか</p><p>気持ちよく寝ていたところを叩き起こされたのだろう、流石に少しばかり不機嫌な様子の、腰の曲がった白髪の老人と恰幅のいい中年男性が姿を現した。</p><p>この”タアフ”村のまとめ役をやっておる、ベネットだ</p><p>その息子、ダニーという</p><p>老人の方は『ベネット』、太った男は『ダニー』とそれぞれ名乗った。</p><p>……夜分にお休みのところ、大変申し訳ない。僕はヨネガワという</p><p>コウが言葉通り、大変恐縮した様子で一礼すると、老人―ベネットもまた愛想笑いを浮かべて礼を返した。一方で、その息子のダニーとやらは、鼻を鳴らしてコウを一瞥し、興味を失ったように視線を逸らす。</p><p>その態度の違いを看て取ったコウは、話し相手をベネットに定める。しばし、互いが互いを観察するような時間。</p><p>……改めて、僕はヨネガワという。コウタロウ＝ヨネガワ。コウタロウが名、ヨネガワが家名だ。こちらは連れで、イリスという</p><p>ほほう、これはこれは……して、ヨネガワ殿は我らが村にどのような御用で？</p><p>曖昧な笑みを崩さぬまま、ベネット。</p><p>説明すれば長くなるが、旅の途中で道に迷ってしまったんだ。ご覧の通り、衣服にすら不自由する始末でね。一晩の宿を―できれば、食料などを融通してもらえないものだろうか。無論、それ相応の対価は払う</p><p>ふんっ、『旅の途中』だと！　戯言もいい加減にしろ！</p><p>と、ここでダニーが声を荒げる。</p><p>そんな軽装で、ろくに荷物すら持たずに旅などと、片腹痛いわ！　その服も、まるでその辺の死体から剥ぎ取ってきたような酷いものじゃないか！　貴様ら、まさか野盗の一味ではあるまいな！</p><p>剣呑な視線を向けるダニー。コウは思わず言葉に詰まった。今着ているシャツもズボンも、まさしくゲーム内で村人を襲って剥ぎ取ったものだったからだ。</p><p>しかも、一晩の宿、だと！？　貴様もそうだが、その隣の女もだ！　顔さえ見せないような怪しい輩を、村の中に入れるわけにはいかん！　頼み事をするなら、まずは最低限の礼を尽くすことだな！</p><p>と、ダニーが矛先をイリスへ向ける。突然、村人たちの剣呑な視線に晒されたイリスは、フードをかぶったままビクンと震えた。</p><p>うーん……</p><p>予想はしていたが、あまり村人たちの反応は良くない。額を押さえたコウは、考えを巡らせる。</p><p>（ゲーム内に酷似した世界なのは間違いない……ここの連中の話し方はゲームのNPCそっくりだ）</p><p>コウが着目したのは、村人たちの英語の『訛り』だった。日系ではあるが、生まれも育ちも英国のコウは、生粋の英語話者だ。故に村人たちの使う英語の微妙なアクセントが、ゲーム内で『公国語』とされていたものと同じであることに気づいていた。</p><p>また、村人たちを改めて観察し、服飾品などの文化から、自身の現在位置は、ゲーム内で言うところのリレイル地方辺りではないかと見当をつける。</p><p>間違いない。ここは『ゲームの世界』だ。</p><p>つまり―ゲーム内での常識が、『こちら』でも通用する可能性が高い。</p><p>さあ、何とか言え！　さもなくば貴様らを不届き者として領主に突き出すぞ！</p><p>黙り込んだままのコウたちに対し、何やらヒートアップし始めるダニー。周囲の村人も同調しつつあるが、唯一、ベネットだけは冷静に見守っているようだ。</p><p>コウは、状況を打開するため、自らの最大の手札を切ることを決断した。</p><p>―Darlan.</p><p>トン、と軽く杖を地面に打ち付け、内なる力を解放する。</p><p>騒いでいた村人たちが一斉に押し黙る。コウの背後、夜の闇に、悪戯っぽく笑う羽を生やした小人―妖精の姿を幻視したからだ。</p><p>……実は、こう見えて魔術師でね</p><p>ニヒルに笑ったコウは、ダニーを見据える。太っちょの中年男性は、目玉が飛び出るほどに驚愕していた。</p><p>（ま、ゲーム準拠なら魔術師なんてそうそういないよね）</p><p>コウはほくそ笑む。</p><p>僕は、とある目的のために、旅をしているんだ。……イリス</p><p>なっ、なに？</p><p>フードを取って</p><p>……えっ、でも……</p><p>突然のコウの要請に、躊躇するイリス。コウはしっかりと彼女を見据え、頷いた。</p><p>大丈夫だ。僕を信じて欲しい</p><p>……わかった</p><p>腹を括った様子で、というより半ばヤケクソ気味に、イリスがばさりとフードを取り去る。再び、村人たちがどよめいた。フードの下から現れたのは、なんと頭に獣の耳を生やした黒髪の美女だったからだ。</p><p>なっ、ヨネガワ殿、これはいったい……！？</p><p>僕の目的は一つ。……彼女の呪いを解くことなんだ</p><p>動揺するベネットに、コウは神妙な顔で語り始めた。</p><p>それは、高貴な生まれの令嬢の物語。</p><p>彼女は、その美しさゆえ、ある日邪悪な魔法使いに目をつけられてしまった。</p><p>求婚され、当然のようにそれを拒んだ彼女は、怒り狂った魔法使いにより呪いをかけられてしまう。</p><p>生きながらにしてその肉体を獣に変えてしまう呪い―</p><p>たまたま立ち寄った旅の魔術師が、その魔法使いを追い払ったことで、呪いが完遂される前にどうにか止めることはできたものの、一度生えた耳と尻尾はどうしても消し去ることができなかった。</p><p>そして、街を放逐された彼女と共に、呪いを解くための放浪の旅が始まったのだ。</p><p>しかし旅の途中で霧の中に迷い込んでしまった結果、荷物さえも失い、霧が晴れる頃には現在位置すらわからなくなってしまった。</p><p>夜闇の中を彷徨ううちに、こうして、この村に辿り着いた―と。</p><p>コウの真に迫った滑らかな語り口に、村人たちはすっかり引き込まれていた。ベネットや、先ほどまで不信感を露わにしていたダニーも感心しているし、真実を知るイリスさえ そうだったのか…… と言わんばかりの顔をしている。</p><p>……そういうわけで、我々に、この村で旅の疲れを癒やすことを、どうかお許し願えないだろうか。幸い、相応の対価は持ち合わせているし、もしそれが不十分であるようならば、何かをお手伝いしよう。僕の『力』でできること、であれば……</p><p>それは、魔術師殿をここで放り出すわけにはいきませんな</p><p>すっかり態度を改めたベネットが、何やら考え込みながら首肯する。</p><p>と、腰からナイフを抜き取ったベネットは、顔の前に掲げて、厳かな口調で、</p><p>……我々、タアフの村人は、ヨネガワ殿、イリス殿に悪事を働くことなく、心から歓迎することをここに誓いましょう</p><p>と宣誓した。ちらり、とベネットがコウの様子を窺う。</p><p>（成る程、力ある者を容易く招き入れるわけにもいかないもんな）</p><p>納得したコウもまた、腰のベルトから短剣を抜き取って、同様の宣誓を―『悪意を持たないこと』を、刃に誓う。</p><p>ありがとうございます、ヨネガワ殿。これで村人たちも安心しましょう</p><p>いやいや、こちらこそお騒がせして申し訳ない限り。ベネット村長のお心遣い、感謝致します</p><p>はっはっは、過分なお言葉です……ささ、こちらにどうぞ。何もない田舎村ではありますが、精一杯おもてなしをさせて頂きますぞ</p><p>好々爺然とした顔のベネットが、自らコウたちを村へ案内する。ベネットについていくコウたち二人をよそに、周囲の村人たちは 旅の魔術師か…… 凄いな…… なんか前にも似たようなヤツ来たよな…… などと話しながら、三々五々に散っていった。</p><p>どうにか上手くいった、と胸を撫で下ろすコウ。すると、その顔の横にふわりと燐光が舞う。</p><p>よくよく見れば、コウの契約精霊―“幻惑の精”『ダルラン』が、にこにこと笑いながら空中を泳いでいた。</p><p>（……なんだか、ゲーム内とは違う雰囲気だな）</p><p>融通が利かないAIに過ぎなかったゲーム内に比べ、なんというか、感情豊かな印象を受けた。</p><p>Se estas iu havas meliceco kontraŭ ni, diru al mi.</p><p>コウがそっと囁くと、ダルランは首肯してふわりと消えていった。同時に、魔力が少しばかり持っていかれるような感覚もある。</p><p>『もし自分たちに悪意を抱く人物がいるならば、知らせろ―』</p><p>この曖昧なコウの『頼み』を、ダルランは受けたのだ。ゲーム内では不可能な所業。</p><p>やはりここは現実なのだなぁ、と感心しつつも、難しい顔をするコウ。</p><p>（どうやったら現実世界に帰れるんだコレ……）</p><p>この世界が現実感に溢れていれば溢れているほど―元の世界が遠く感じられる。何やら突然暗い雰囲気を漂わせるコウに、イリスは心細い様子を見せていた。</p><p>その後、村長宅で、ささやかながら歓待を受けるコウとイリス。</p><p>黙り込んでちびちびと葡萄酒を飲むイリスをよそに、調子を取り戻したコウとベネット、そしてダニーの話は弾みに弾んだ。</p><p>盃を重ねるにつれ、コウもベネットも饒舌になる―</p><p>そして、コウたちと同じように、二ヶ月ほど前に、突然村を訪ねてきた旅人として。</p><p>『ケイ』の名が話題に上るまで、そう時間はかからなかった。</p><p>幕間. Barnard</p><p>本作の R-15 残酷な描写あり タグは保険ではありません。</p><p>ご注意ください。</p><p>かつてないほど、清々しい目覚めだった。</p><p>……んぁ゛？</p><p>水底から水面へ、ゆっくりと浮かび上がるような感覚。穏やかな陽光に、うっすらと目を開く。</p><p>爽やかな風、程よい暖かさの空気。眠気が身体からスッと抜けていく。目元をこすりながら、上体を起こした。倦怠感にも似たある種の心地良さ、自然と盛大な欠伸が出てくる。もう一度地べたに寝転がり、思い切り体を伸ばした。全身の筋肉をほぐす。まるで獣のように。</p><p>『獣』―いや、むしろ『怪獣』と呼ぶべきか。</p><p>全身を覆う褐色の鱗、ぎょろりとした黄色の瞳、筋骨隆々の体つきに、赤子を丸呑みにできそうなほど大きな顎。口腔にはナイフのように鋭い歯がずらりと並ぶ。歯の隙間から飛び出た細い舌が、ちろちろと空気を舐めた。顔つきも、明らかに人間のそれではない。逆三角形の、どこか爬虫類を連想させる輪郭―蜥蜴あるいは『竜』。臀部から伸びる太く長い尻尾は、上機嫌にゆらゆらと揺れている。</p><p>まさしく、『人外』と呼ぶに相応しい容姿だ。ただ、地面にあぐらをかいて座る姿勢と、寝ぼけ眼のままボリボリと頭部の金色の毛髪を掻く仕草だけが、妙な人間臭さを漂わせている。</p><p>……ん？　どこだココ</p><p>と、竜人(ドラゴニア)『バーナード』は、そこでふと我に返り、少しばかり慌ててきょろきょろと周囲を見回した。</p><p>日当たりの良い、のどかな木立。そして生い茂る木々の間に、ひっそりと隠れるようにして佇む石造りの廃墟。</p><p>しばし、呆気に取られて目を瞬かせる。が、少しして、傍らに燃え尽きた焚き火の跡を認め、昨夜の記憶が蘇った。</p><p>ゲーム内での追い剥ぎ。他プレイヤーとの戦闘。要塞村ウルヴァーン近郊に現れた謎の霧。そして―そして、何があったのか。まるで靄がかかったように、はっきりとは思い出せない。</p><p>だが、霧の中で何かが起きた。</p><p>故に自分は今、『ここ』にいる。</p><p>そうだ、そうだ、なんか変なことになったんだ！　思い出したぜ</p><p>バシンと膝を打ってバーナード。その後、自分の馬をついうっかり殴り殺し、その肉を焼き、腹いっぱいになるまで食べて、満腹感のあまり眠り込んでしまったのだ。</p><p>『仲間』たちと共に―</p><p>久々にぐっすり寝ちまったぜェ……おい、コウ！　イリス！</p><p>尻尾の力を利用して、バーナードはぴょこんと立ち上がる。 いくらなんでも寝すぎだぜ、起こしてくれりゃいいのによ― そう言おうとしたところで、口をつぐんだ。</p><p>『仲間』たちの姿は、どこにもなかった。</p><p>チチチ……と鳥の鳴き声だけが、木立に響く。</p><p>……あ゛？</p><p>怪訝な表情。その爬虫類じみた顔を歪めるバーナード。先ほどと一転、尻尾は落ち着きなく揺れている。そこに残されていたのは、焼け焦げたような焚き火の跡、食べきれなかった馬の肉、そして手持ちの粗雑な武具だけ―</p><p>バーナードは、独りだった。</p><p>…………</p><p>―置いて行かれた。</p><p>そのことに理解が及んだとき。</p><p>木立に、形容し難い怪物の咆哮が響いた。</p><p>†††</p><p>それからバーナードが落ち着くまで、しばしの時間を要した。</p><p>クソッ、アイツらふざけやがってッッ！</p><p>馬肉の残りを貪り食いながら、バーナードは『元仲間』の足取りを追う。</p><p>ひとまず落(・)ち(・)着(・)い(・)た(・)彼にとって、野営地から南へまっすぐ伸びる馬の蹄の跡を見つけるのは、さほど難しいことではなかった。</p><p>不自然なまでに深い眠り―あれがコウの契約精霊、“夢幻の精”『ダルラン』による昏睡の呪(まじな)いだったと考えれば、納得がいく。納得はいくが、油断してまんまと術中に嵌った自分には腹が立つ。そして腹が立つのはどうしようもなかった。</p><p>クソッ、クソッ、アイツら絶対に後悔させてやる……！</p><p>ぐつぐつと胸の奥で煮えたぎる感情を吐き出そうとするかのように、走りながらバーナードは唸る。身体のコンディション、そして残されていた馬肉の傷み具合からして、コウたちが出立してからまだそんなに時間は経っていないはずだ。</p><p>馬の足は速いが、竜人の身体能力ならば追いつける、とバーナードは踏んだ。</p><p>幸い、ぐっすり眠ったお陰で、体調は(・)万全だ。絶対に逃がさない、と固く決意する。</p><p>―なぜ、コウたちはバーナードと袂を分かったのか。</p><p>実は、理由についてはそれほど興味がない。というより、薄々察しがつく。</p><p>おそらく二人とも『平和な生き方』を選んだのだろう―ゲーム内ではそれなりに気の合う奴らだと思っていたが、所詮は上辺だけの関係だった、ということだ。</p><p>それに関して、バーナードは何とも思わない。コウたちとは DEMONDAL で出会い、なんだかんだで二年ほどの付き合いではあったが、互いのリアルは知らないし、知ろうとも思わなかった。それにゲーム内でも、『こいつらは俺と違う』という感覚は、いつも何かしらついて回っていた。ゲームのアバターが剥ぎ取られてみれば、姿を現したのはただの人だった―それだけの話。</p><p>裏切られたところで、被害者意識はない。</p><p>ゲームだけの関係だったと、嘆くつもりもない。</p><p>ただ、一つだけ許せないことがある。</p><p>それは、何も言わずに自分を置いていったこと。</p><p>見捨てられ、『置いてけぼりにされた自分』が―</p><p>その、『惨めさ』が、バーナードには許せない。耐えられない。</p><p>自尊心が酷く傷つけられていた。なんという屈辱。なぜ自分がこんな惨めな思いをしなければならないのか。そしてなぜ自分はこれを『惨めだ』と認識しなければならないのか。全てが腹立たしい。竜人の力そのままに、この場で火の息を吐いて暴れ回りたいほどに怒り狂っていた。</p><p>この思いを拭い去るには―元凶を取り除くしかない。</p><p>『こんな思いをすることを強いた』あの二人だけは、許さない。</p><p>絶対に報いを受けさせてやる、と。</p><p>復讐心だけを胸に、今はただひた走る。</p><p>馬で逃げようってもそうはいかねェ！　休むよなァ！？　どっかでよォ！</p><p>『独り言』というにはデカすぎる怒鳴り声。バーナードは道なき道を突き進む。地面に転がる尖った石ころも、茂みの枝も、棘の生えた蔦の類も、みな彼の鱗を傷つけるには至らない。</p><p>竜人(ドラゴニア)の特徴は圧倒的な筋力(パワー)、そして持久力(スタミナ)だ。身体が重いので豹人(パンサニア)ほどの敏捷性はないが、それでも一定の速度で長時間走り続けられる。一日あたりの移動可能距離なら竜人も馬も大差ないのだ。</p><p>コウたちはおそらく、全力で距離を取ろうとしているが、当然、どこかで馬の体力に限界が来る。あるいは人里―そんなものが在(あ)ればの話だが―に辿り着けば、そこに立ち寄ろうとするはずだ。バーナードが体力の許す限り、ひたすらに走り続ければ、確実に距離を詰められる。</p><p>そして追跡し始めてから気づいたが、バーナードは新たに鋭い嗅覚も獲得していた。それは本来、ゲームでも設定はあったが、プレイヤーへのフィードバックまでは再現されていなかった竜人固有の性質の一つだ。</p><p>それが現実化したことで、今やバーナードは、馬の蹄の跡とともにその場に残された濃い獣臭をも嗅ぎ取ることができていた。昨日、自分の乗騎を『臭い』と感じたのは、この嗅覚のせいもあったらしい。</p><p>これで、万が一にも逃がすことはない、と。</p><p>バーナードはそう思っていた。</p><p>―木立を抜け、川に行き当たり、足跡が水の中に消えていくのを見るまでは。</p><p>なっ……</p><p>さらさらと流れる小川を前に、バーナードは呆然と立ち尽くす。</p><p>足跡が川の中に吸い込まれ、綺麗に洗い流されていた。水のせいで臭いを辿ることもできない。慌てて上陸地点を探そうとしたが、少なくとも歩いて回れる範囲には見受けられなかった。どころか、川は下流で幾つかに分かれていた。これら全てを調べて回るのは今日中には難しい。そして、そうするうちにも、コウたちは遠ざかっていく―</p><p>コウたちの方が、一枚上手だったというわけだ。そう思い至り、再び頭に血が上る。</p><p>……ガアアアアアアァァッ、クッソがあああああァァァァッッ！</p><p>バーナードは吠えた。怒りが抑えられず、そのまま口から炎を吐く。</p><p>竜人最大の特徴、『炎の吐息(ブレス)』。“飛竜(ワイバーン)“よろしく、特殊な歯を打ち合わせて火花を出し、体内で生成される可燃性のゲルに引火させて吐き出す物理的な火炎放射だ。少なくとも、今のバーナードの感情を表すのに、これ以上相応しいものはなかった。</p><p>ヴァアアアアアアアァァァ―ッッ！</p><p>炎の舌が水面を撫でる。川岸の倒木が黒煙を吹いて燃え上がる。鱗に覆われた異形が火を撒き散らしながら暴れ回る様は、まさに心胆を寒からしめる光景だ。</p><p>だがそんな狂乱の時も長くは続かない。限界まで火を吐き、文字通り燃料切れとなったバーナードは、虚脱状態で座り込む。</p><p>……クソが</p><p>右手の古びた戦槌(メイス)でガリガリと地面を削りながら、毒づく。</p><p>……クソッ、腹が減ったッ！！</p><p>やおら立ち上がるバーナード。火を吐いたせいか、無性に空腹を覚えていた。これはゲーム内にはなかった感覚だ、などと思いつつ水面を睨む。そのまま飲用に耐えそうな透き通った水の中には、魚が元気に泳いでいる。</p><p>……食うか。カハハッ、焼き魚なんてしばらく食ってねえなァ！！</p><p>獰猛に笑い、傍らの岩を拾い上げる。ボウリング玉ほどの大きさのそれを、振りかぶって思い切り川面に叩きつけた。</p><p>まさに、豪速球。ド派手な水しぶきが上がり、衝撃で気絶した魚がぷかぷかと浮かび上がる。怒りも忘れ、バーナードは子供のように、喜々として獲物を手掴みした。</p><p>よっし、串は……無(ね)えから枝を刺して、っと。鱗も食いたくねーよなぁ、内臓も引っ張り出すか</p><p>指先の鋭い爪を使い、適当に下拵えする。幸い、というべきか火には困らなかった。燃え盛る倒木の近くに何本も枝を刺し、適当に焼き上げていく。幾つかは火に近すぎて黒焦げになってしまったが、バーナードは気にしない。</p><p>鋭くなった嗅覚で香ばしい匂いを楽しみ、大顎を開けてかぶりついた。</p><p>…………。まァこんなもんか</p><p>もごもごと小骨ごと魚肉を味わい、少し白けた様子でバーナード。</p><p>美味いことには美味いのだが、いかんせん味が薄かった。コウがいれば塩があったのだが、と思ったところでまた腹を立てる。数分前までの機嫌の良さはどこへやら、尻尾をゆらゆらと振りながら、再び不機嫌顔になったバーナードは無言で魚を食べ始める。怒るのにも、エネルギーは必要なのだった。</p><p>……あー食った食った。でもやっぱ肉の方がいいよなァ。クソッ、鳥ならそこら中にいるのに、俺ァ飛び道具は苦手なんだよなァ～</p><p>魚の串焼きを全て平らげ、それでも不満そうに、バーナードは木々の間を飛び回る鳥に視線をやった。野鳥たちは敏感に、不穏な気配を察したのか、すぐにその場から遠ざかっていく。</p><p>チッ、まあいい、行くか</p><p>栄養は補給できた。無論のこと、追跡を諦めたわけではない。仕方がないので、己の勘に賭けることにした。</p><p>……下流にすっか</p><p>仮に自分がコウたちなら、どうするかという話だ。平和な生き方を模索しようとするなら、人里に行こうとするだろう。バーナードはこの時点で、自分がゲームに酷似した世界にいると信じて疑わなかった。故に、全ての考え方にも、ゲーム内及び人間社会の常識を適用する。</p><p>清涼な川があるなら、人が集まるはず。</p><p>木々の生い茂る、森のようなこの地形を鑑みたとき、集落が発生しやすいのはどちらだろうか？　―考えるまでもない、確率的には下流だ。</p><p>バーナードはもはや迷うことなく、胃に負担にならない程度の速度で走っていく。</p><p>そして川が枝分かれするごとに、自分の勘と、嗅覚―第六感に近いもの―が導く方向へとさらに進んだ。</p><p>―それから、どれだけ走ったことだろう。</p><p>いつしか辺りは薄暗くなりつつあった。しかし行けども行けども、馬の足跡は見当たらない。どころか、周囲の植生は濃くなり、人里から離れつつあるような気がする。</p><p>コイツは失敗したかァ……？</p><p>これ以上ないほど、静かに不機嫌なバーナードは、思わず舌打ちした。引き返すべきか考えるが、それではこれまでの道程が全て無駄だったと認めることになる。</p><p>気に入らない。全てが気に入らない。落ち着きなく、ベルトにぶら下げたメイスと棍棒を弄ぶ。</p><p>だが苛立ちが頂点に達しかけたところで、やおら立ち止まった。</p><p>―匂い。どこか、人工的な。</p><p>ふと見上げれば、夕暮れの空にたなびく細い煙。火事のそれではない。白い、おそらくは煮炊きをするための―</p><p>村だッッ！</p><p>頭部の金髪を逆立たせ、バーナードは走り出す。その足取りは軽い。竜人らしからぬ俊敏さで、風のように駆ける。</p><p>やがて、視界が開けた。</p><p>森のほとり、ひっそりと隠れるように、小さな集落。</p><p>……ヒ、ヒ、ヒ……ッ！</p><p>茂みに伏せって身を隠したバーナードの口から、抑えきれず、引きつったような笑い声が漏れる。胸がときめくのを感じた。まるで―ゲーム内で初めて、他のプレイヤーを襲おうとしたときのように。</p><p>いや、こ(・)っ(・)ち(・)の(・)方(・)が(・)ず(・)っ(・)と(・)い(・)い(・)。</p><p>ぎょろりとした、爛々と輝く黄色い瞳が、村の外れで薪割りに勤しむ村人を捉える。</p><p>中年の、貧相な格好の男だ。色の褪せた服、吹けば飛びそうな痩身、見るからに頼りないが―『生きた』人間。</p><p>ゲーム内のNPCとは違う。疲れたような表情も、その額に浮かんだ汗も、時折痛そうに斧を持った手をプラプラとさせる動作も―その全てが、愛おしくすら感じる。</p><p>あまりの興奮に、バーナードは視界がきらきらときらめくのを感じた。</p><p>その瞳孔が、ギュウッと極限まで切れ長に、縦に収縮する。</p><p>……ハハッ</p><p>小さな村だ。あまりにも。片(・)手(・)で(・)捻(・)り(・)潰(・)せ(・)そ(・)う(・)な(・)ほ(・)ど(・)に(・)―</p><p>もはや、隠れる必要もない。</p><p>―ッ？！　なっ、なっ！？　化け物(Monster)ッ！！</p><p>薪割りをしていた村人は、仰天して目を剥いた。突然、近くの茂みから、異形の影が飛び出してきたからだ。</p><p>バーナードは嬉しかった。村人の叫びが英語だったからだ。</p><p>―言葉が通じる。</p><p>ごきげ(Good)んようゥッ(afternoon)！！</p><p>だみ声で挨拶しながら、蛇に睨まれた蛙のように硬直して動けない村人へ駆け寄る。感動的な出会いだった。バーナードにとっては。</p><p>眼前まで怪物が迫ったところで、我に返った村人が仰け反るが、バーナードは構わずそのまま首根っこをひっつかんで引き寄せる。</p><p>Nice to meet you!</p><p>叫びながら、唾が飛びそうなほどの至近距離でその顔を覗き込む。</p><p>しかし返事はなかった。</p><p>思わず力が入りすぎて、首の骨を折り砕いてしまったからだ。</p><p>ぶくぶくと口の端から血の泡を吹く村人の男は、恐怖の表情を顔に貼り付けたまま、今まさに息絶えようとしていた。徐々に生命の輝きを失いつつある両眼はカッと見開かれ、声なき悲鳴とともにバーナードを見つめている。</p><p>なんてこった……なんてリアルなんだ！！</p><p>手に伝わる細かな死の痙攣、肉の温かみ、ねっとりとした血の匂い、微細な表情筋の動きも、救いを求めるように彷徨う視線も、全てが、夢にまで描いた現実(リアル)。</p><p>思わず恍惚としていたが、からんっという乾いた音に、バーナードは引き戻された。</p><p>……父ちゃん？</p><p>見れば民家の陰から、少年が一人、こちらを覗き見ている。十代前半だろうか。そばかすの多いその顔は、どことなく先ほどの村人の面影がある。その手からこぼれ落ちたらしい数本の薪が、地面に転がっていた。</p><p>よォ</p><p>バーナードは朗らかに声をかける。その手に、痙攣する村人の死体を握ったまま。</p><p>……あ……あっ、ああッ！</p><p>サッと顔面から血の気を引かせた少年が、ふらふらと覚束ない足取りで逃げようとするが、もちろんバーナードが逃がすはずもなく。</p><p>死体を放り投げ、跳躍。ドンッと民家の壁に手をつき、自分の体と壁で挟み込むようにして少年の退路を塞ぐ。</p><p>ヒッ、ギッ、いいいいッ……！</p><p>言葉にならない悲鳴を上げた少年は、そのまま腰を抜かしズルズルと尻もちをついてしまった。見上げるほど大柄な、筋骨隆々な爬虫類の化け物に、生臭い息がかかるほどの距離まで迫られれば誰だってそうなる。</p><p>一方で当のバーナードは、兎のように無力な獲物の姿に、恍惚としていた。あまりにも脆い存在だ。大(・)切(・)に(・)し(・)た(・)い(・)。</p><p>よォ、坊主</p><p>自分では猫撫で声のつもりの、気色の悪い優しいだみ声で、バーナードは口を開く。ついでに、かがみ込んで視線の高さを合わせる気遣いを見せたが、それは少年の更なる恐怖を煽っただけだった。</p><p>……ヒッ、ヒイィ</p><p>聞きたいことがあるんだ。俺の言ってることはわかるか？</p><p>はっきりとしたバーナードの問いに、視線を逸らすこともできない少年は、半泣きでコクコクと頷いた。</p><p>そうかそうか。そいつァ良かった。……俺が聞きてェのは、旅人についてだ。最近、この村に、旅人は来なかったか？</p><p>バーナードが聞き出そうとしていたのは、他でもない、コウとイリスについて。</p><p>黒髪の童顔の男とよォ、頭にネコみてェな耳を生やした若い女だ。……どうだ？</p><p>少年はブルンブルンと勢い良く首を横に振った。正直にそう答えれば、わかってもらえば、自分が助かると思っているかのように。</p><p>そっか、そっか……来てないか……</p><p>相槌を打つバーナード。それが本当なら、残念ではあった。</p><p>だがまあ、ひとまずそんなことは脇に置いておく。</p><p>じゃあ教えてくれ。この、素晴らしい村の名前は、何てェんだ？</p><p>……ヒッ……んぐっ、らっ、らッ</p><p>んン？</p><p>……ら、ラネザ……</p><p>おうおう、ありがとうよ、教えてくれてよォ</p><p>口の端を釣り上げたバーナードは―笑顔のつもりだ―ゆっくりと立ち上がった。</p><p>親切に教えてくれたお礼によォ。坊主、オメーは見逃してやるよ</p><p>……？　へっ、えっ</p><p>突然の言葉に目を白黒させる少年だったが、少しして言葉の意味を理解したのか、若干の安堵の色を見せる。</p><p>しかしその瞬間、バーナードの気配が豹変した。</p><p>……。ヴァアアアッやっぱり我慢できねェ！</p><p>ゴウンッと唸る拳が、少年の顔に叩きつけられる。</p><p>民家の壁と、石の塊のような拳の間に勢い良く挟み込まれた頭が、まるで風船のように弾け飛んだ。</p><p>ビチャビシャァッと飛び散る脳髄、血液、そしてピンク色の肉塊。</p><p>フウウウゥ！　すっげ、やっぱりすげェェ！</p><p>灰色の民家の壁に咲いた鮮やかな赤い花に、血濡れた拳を掲げるバーナードは興奮を隠せない。その瞳はきらきらと輝き、呼吸が荒く、激しくなる。</p><p>アッ、ガアアアッ……オアアアアアッ！！！</p><p>その場で己の身体を抱きしめるようにして、怪物は軽く数度、痙攣した。</p><p>……ハァッ……ハァッ……クヒヒッ、やべえよ、出ちまった。マジで、すッげェよ、ゲームじゃこんなの味わえねェ</p><p>己の股間に視線を落としながらバーナード。ボロ布のようなズボンを盛り上げる何かがそこにあった。そしてそれは、一向に萎える気配を見せない。</p><p>……ハハッ、ガハハハハァッ！　楽しもうぜェ、みんなァ！！</p><p>ぐしゃりと倒れる少年の躰にはもはや見向きもせず、ベルトの棍棒とメイスを引き抜いて、バーナードは村の中へと走り出した。</p><p>ドタンッドタンッと異様な足音に、そしておぞましい笑い声に、村人たちが何事かと民家から顔を出しては、悲鳴を上げて中に引っ込んでいく。</p><p>ただいまァ！　なぁんてなッ！</p><p>民家の一つのドアを真正面から蹴破り、バーナードは侵入を果たした。中にいた若い女と男が揃って悲鳴を上げる。</p><p>跳躍。メイスを振り上げ、振り下ろす。男が飛び散る。撒き散らす。血飛沫を浴びた女が、手で顔を覆って絶叫した。盛大な失禁、床を濡らしながら尻もちをつこうとしたところで、それより速く怪物の手が首を掴む。そのまま持ち上げ―ああ、不幸なことに怪物の方が遥かに上背が高い―まるで肉屋の商品のように、ぶら下げる。</p><p>宙吊りにされ、もがき苦しみ、足をばたつかせる哀れな姿を、バーナードは高らかに笑いながら楽しげに観察した。</p><p>そして穴という穴から体液を垂れ流して絶命するさまを楽しんだところで、肉塊を放り投げ、次なる家へ。</p><p>まさしく、バーナードにとっては薔薇色の時間だった。</p><p>それは酷く生臭く、どろどろとしていたが。</p><p>イヤアアアァ！</p><p>やめてええええ</p><p>来るなァ化け物ォッッ！</p><p>助けてえええッッ！</p><p>老若男女問わず、悲痛な叫び声が木霊する。村人たちは、あまりの異常事態に、そのほとんどが家に引きこもることを選択していた。まるでおとぎ話に伝わる化け物のように、目をつぶって息を潜めていれば、いつかは過ぎ去ると信じているかのようだった。</p><p>だが、違う。</p><p>これは、化け物であり、そして人だ。</p><p>残虐性とともに、高度な知性と、理不尽な目的意識を兼ね揃えた存在だった―</p><p>バーナードは全力で遊んだ。ぬいぐるみを抱きかかえた幼い娘が泣き叫ぶ前で、両親を棍棒で散々にいたぶって肉塊に変え、最後は娘自身も股から真っ二つに引き裂いて、鮮血のシャワーを浴びた。痩せ細った老人を砲丸投げの要領で壁に投げて叩き殺し、村から逃げようとしていた恋人同士と思しき男女を、お互いの顔と顔とを熱烈にキスさせて捻り潰し、箱の中に隠れた子供を箱ごと井戸に落として沈んでいく様子を楽しんだ。</p><p>中には、抵抗する者もいた。それはなんと幼い男の子だった。おんぼろな納屋の前で小さな包丁を手に、真っ向から歯向かってきたのだ。</p><p>気の毒なほどに震え今にも倒れそうではあったが、 これ以上近づくな、化け物！ と啖呵を切る姿はあっぱれと言わざるを得なかった。面白いことに、ちらちらと背後の納屋を気にしており、そこに『何か』を隠していることだけは一目瞭然だった。</p><p>なので、バーナードは納屋に炎の吐息(ブレス)を吐きかけた。</p><p>枯れ木のように燃え上がる納屋に、子供は包丁を取り落として悲鳴を上げた。中からも何者かのか細い、そして幼い悲鳴が聞こえてきていた。 アリスーッ！ と火の中に飛び込もうとする子供を、親(・)切(・)に(・)も(・)引き止めたバーナードは、それ以上危ないことをしないようにと、その両手両足を丁寧に砕いた。</p><p>それでも、焼け落ちていく納屋に近づこうとして芋虫のように這いずりながら、その子があんまりにも泣いて感謝するものだから、バーナードは面白すぎて笑い転げてしまった。終いには笑いすぎて腹が痛くなってきたので、皮肉にも、その子供がバーナードに一番の被害をもたらしたと言えるかも知れない。</p><p>そんなこんなで、全力で遊び終わる頃には、すっかり日が暮れようとしていた。</p><p>しかし村は明るい。何軒もの家が燃え盛っているからだ。</p><p>やっぱりバーベキューに限るなァ</p><p>拾い物のハムを民家の焼ける炎で炙りながら、満足げに頷くバーナード。炎に照らされるラネザ村の光景は、凄惨の一言に尽きる。少なくとも村の大部分が壊滅し、血の色で彩られ、焼け焦げていた。</p><p>んでもまだ全部じゃねェんだよなァ、村外れにも何かあるっぽいし、ここはもっと楽しまねェと。なんてったって最初の村だからなァ！！</p><p>グハハハッと大声で笑うバーナードだったが、しかし次の瞬間、ハムを放り捨てて飛び退った。</p><p>ガツンッ！　と衝撃。</p><p>バーナードの胴体があった空間を巨大な槍が抉り、地面に突き立った。</p><p>何だァ！？</p><p>素っ頓狂な声を上げるバーナードは、空を振り仰ぐ。その槍は、なんと、頭上から降ってきたのだ。</p><p>果たして、怪物の黄色い両眼は、真ん丸に見開かれる。</p><p>巨大な、鳥。</p><p>真っ黒な、羽を広げれば十メートルはあろうかという怪鳥が、ばさばさと羽の音を響かせながら、徐々にこちらに近づいてくる。</p><p>その脚に、ぶら下がる人影。</p><p>ッと危ねェ！！！</p><p>阿呆のように見惚れていたバーナードは、再び転がるようにして地に伏せた。きらりとその人影の手元が光ったと思うと、先ほどと同じように槍が飛んできたからだ。</p><p>尻尾を使って跳ね起きる。その間にも怪鳥は地上へと近づき、やがて脚から離れた人影が、ズンッと重い音を立て、地上に降り立った。</p><p>おうおう、随分とウチの村を荒らしてくれてるじゃねえか</p><p>―大男だ。バーナードも人間に比べるとかなりの大柄だが、この男はそれよりさらにでかい。</p><p>巨人、という言葉を連想する。その背丈は優に二メートルを超えるだろう。</p><p>そしてそれに見合うだけの、凄まじい覇気に満ち溢れた、がっしりとした体つきだ。逆立つような黒髪。凄惨な死体の数々を前に、微塵も揺るがない不敵な表情。筋骨隆々の体躯を重厚な鎧で防護し、それでいて動きには『重さ』を全く感じさせない。その手には使い込まれた無骨な戦槌(バトルハンマー)を握っている。並の人間なら両手で扱うであろう代物を、片手で軽々と。</p><p>……何だァ、領主様のお出ましかァ？</p><p>目を細めて、バーナードが問いかけると、大男は意表を突かれたような顔をした。</p><p>おい、お前、話せるのか！？</p><p>当ッたり前だろ。何を騒いでやがる</p><p>……竜人が人の言葉を解すとは、初めて聞いたが</p><p>……ああ。そうか、確かになァ</p><p>自分が怪物の姿をしていることを、そこで初めて思い出したかのように、バーナードはぼりぼりと頭を掻いた。</p><p>俺は博識なんだ。まあそんなこたァどうでもいいだろ、領主様よォ</p><p>ハッハッハ、『博識』ときたか、こいつは傑作だ。墓守のジジイから『害獣駆除』と聞いていたが、これはなかなか楽しめそうじゃないか</p><p>くるりとその手の戦槌を回し、獰猛に笑う大男。 ギヒッ とバーナードもまた、獣のように笑った。</p><p>そうだなァ……俺もなんか物足りねェと思ってたんだよォ！！</p><p>言い終わる前に、地を蹴る。</p><p>尻尾と両足を使った、全力の跳躍。</p><p>十歩以上の間合いを一瞬で食い尽くす。真正面から、メイスを叩きつけた。</p><p>岩をも砕く竜人全力の一撃は、しかし鉄の壁に阻まれた。いつの間にか、大男が左手に盾を構えていたのだ。まるで鐘を打ち鳴らすような盛大な金属音が鳴り響き、盾の表面を削ったメイスが火花を撒き散らす。</p><p>大振りの打撃をいなされ、体勢を崩すバーナード。大男のマントがばさりと広がる。</p><p>（……やべェ！）</p><p>本能的に、再び尻尾で地を蹴って無理やり飛び退った。バーナードの尖った鼻先を、唸りを上げてバトルハンマーが掠めていく。</p><p>ジャッ、と砂利が擦れる音。二人の間合いが、開く。</p><p>よく避けたな、トカゲ野郎</p><p>間一髪で致命の一撃を回避したバーナードに、大男は不敵に話しかけた。バーナードは何も答えなかったが、その鼻先からたらりと血が垂れる。あまりの圧に、血管がやられていた。</p><p>テメェ……半端ねェな</p><p>鼻血を拭いながら、バーナードもまた笑った。鼻先からズクンズクンと疼痛を感じたが、気にしない。血に酔いしれる今は、その感覚すらも愛おしい。</p><p>DEMONDAL のガチ勢にもテメェほどの怪物はいねえよ</p><p>『DEMONDAL』？　何の話だ？　それに怪物に怪物呼ばわりされる謂れはないぞ</p><p>呆れたように首を傾げる大男は、フッと小さく笑った。</p><p>俺様のことは、『デンナー』と呼べ</p><p>大男―“巨人”デンナーは、堂々と名乗る。</p><p>……ククッ。ハハッ、ヴァッハッハッハッハッ！</p><p>目を見開いて、バーナードは笑った。轟々と燃え盛る民家の炎が、夕闇の世界に二人を明るく照らし出す。</p><p>ならッ！　俺のことは『バーナード』と呼べッ！</p><p>ほう？　一丁前に人間みたいな名前じゃねえか</p><p>ヴァッハッハッハハッ、確かにッなァッ！！</p><p>右手にメイスを、左手に棍棒を握り、バーナードは再び駆ける。</p><p>この大男―『デンナー』は、ゲーム内ですら見かけたことがないほどの、凄まじい強敵だ。</p><p>だが何を恐れることがあろうか。こんなにも嬉しいのに。こんなにも清々しいのに。</p><p>これを楽しまなくてどうする―</p><p>薄闇の中に幾度となく火花が散る。</p><p>打ち鳴らされる鐘のような金属音、怪物と傑物はここに激突する。</p><p>目にも留まらぬ速さで振るわれる棍棒とメイスを、デンナーは危なげなく盾でいなしていく。その荒々しい気配とは裏腹に、戦いぶりは冷静で堅実そのものだ。虎視眈々とバーナードの一挙手一投足を観察し、隙が生じた瞬間、風圧だけで仰け反りそうなほど豪快な一撃を見舞う。</p><p>その反撃(カウンター)の威圧感たるや、人外のバーナードをして受けようという気にはならない。自慢の筋肉と鱗の装甲も、このバトルハンマーの前では濡れた紙ほどの役にしか立たない。</p><p>攻める。叩きつける。薙ぎ払う。避ける。</p><p>バーナードの尻尾を活かした不規則な挙動を前にしても、デンナーはまるで山のように微塵も揺るがない。</p><p>そして散々な酷使に耐えかねて、とうとうバーナードのメイスが真っ二つに折れた。追い剥ぎで拾った戦利品、ゲーム内でも下から数えた方が早い程度の低級品だ。むしろここまでよくもったというべきか―だが、バーナードは慌てることなく、尻尾で地面を薙ぎ払った。砕かれた家屋の小さな瓦礫が、デンナーの顔に向けて弾き飛ばされる。武器を失ったバーナードを注視していたデンナーは、流石に意表を突かれたか、初めて少しだけ視線を逸らした。</p><p>楽しいなァ、デンナーッッ！</p><p>高揚のあまり、バーナードは叫ぶ。</p><p>素敵なアンタにプレゼントだァァァァァァッッ！</p><p>その胸が、ぶわりと膨らむ―</p><p>ヴァアアアアアアアアア―ァァァッッッ！！</p><p>回避不能の至近距離で、炎の吐息(ブレス)を浴びせかける。</p><p>咄嗟に盾を掲げたデンナーは、一瞬で炎の壁に呑み込まれ、盾ごと火達磨と化した。</p><p>ヴァ―ハッハッッハ……はァ？</p><p>炎に焼かれるデンナーの悲鳴を期待していたバーナードは、しかし、次の瞬間、呆気に取られて立ち尽くした。</p><p>ぬらり―と、炎が消えていく。</p><p>まるで見えない手に拭い去られていくかのように。</p><p>ふぅ……流石に今のは肝を冷やした。そうか、竜人(ドラゴニア)だもんな、火吹芸を忘れてたぜ</p><p>何食わぬ顔で、無傷のデンナーが姿を現す。その胸元に、橙色の光が輝いている。</p><p>……火避けの加護のアミュレットかァ？　マジかよ</p><p>それが、火の精霊の力を封じた希少な魔道具(マジックアイテム)の類であることを見て取り、思わず茫然と呟く。</p><p>逆に、火炎放射を受けても動揺しなかったデンナーは、バーナードの的確な認識に呆れ顔を見せていた。</p><p>本当に何なんだよお前、ドラゴニアの賢者か何かか？</p><p>賢者にしちゃ凶暴だが、と付け加えるデンナー。ハッと我に返ったバーナードは、今更のように再び距離を取る。</p><p>（やべェな……武器はねェ、ブレスも効かねえとなると……）</p><p>正確に言えば棍棒が残っているが、全身をガチガチに固めたデンナーに対し、有効打たり得るとは思えない。</p><p>……ククッ、クソッ盛り上がってきたぜデンナーァ！　楽しもうぜェ！！</p><p>ぶるぶると震えながら、逆境に酔いしれるバーナードだったが、しかしデンナーは空を見上げて首を振る。</p><p>いいや、時間切れだ</p><p>ばさりと。</p><p>複数の羽音が、風圧が、その場を呑み込む。</p><p>バーナードもまた、天を振り仰いだ。暗くなった空の色に紛れるようにして、巨大な黒の怪鳥が数羽、遥かな高みを旋回している。</p><p>―と。</p><p>夜暗より更に濃い、闇色の点がぽつぽつと。</p><p>怪鳥の背から、『何か』が飛び降りてきた。</p><p>それは、漆黒のローブを纏った人影。</p><p>常識的に考えれば絶命必至の高度から、何の装備もなく降下する。ダダダダンッ、と派手な音を立てて着地。</p><p>デンナーとバーナードを円形に取り囲むように。</p><p>その数、八人。</p><p>バーナードでさえ無事では済まないであろう高さから降り立ち、しかし、何ら痛痒を感じさせることもなく、無言で立つ。</p><p>ローブを纏い、フードを目深にかぶっているため、顔を検めることはできない。ただ全員が、何かしらの武器を携えていた。あるいは、剣。あるいは短刀。あるいは戦槌。あるいは槍。</p><p>そしてその武具には、ことごとく黒々としたおぞましい紋様が刻まれていた。</p><p>もし、バーナードが普通の人間であったなら、全身に鳥肌が立っていたことだろう。</p><p>あまりにも禍々しい気配に。</p><p>―それらは、全て、強力な呪詛が刻まれた呪いの武器だった。</p><p>残念ながら終わりだ、バーナードとやら</p><p>トントンとバトルハンマーで肩を叩きながら、デンナー。</p><p>チッ</p><p>舌打ちしたバーナードは、咄嗟に跳躍して不気味な包囲網を突破しようとしたが、すんでのところで思いとどまる。</p><p>先ほどから一言も発さない、闇色のローブの戦士たちからは―恐ろしいほどに何の気配も感じられなかった。</p><p>だが、その無音の圧を、バーナードは敏感に感じ取る。</p><p>おっと、命拾いしたな。……気をつけろよ。こいつら全員、俺より強えぞ</p><p>思いとどまったバーナードに、感心したように笑うデンナー。</p><p>流石の人外の化け物も、これには困った。手元にはロクな装備がなく、炎の吐息(ブレス)抜きでは勝ち目がないと思わせられるような強者が、八人も完全武装で包囲している。</p><p>この闇色の戦士たちに火炎放射を試みるのも手だが―何となく、無駄であるような気がした。どうせこいつらも火避けの魔道具を持っているか、当然のように回避されるか、そんな未来(ヴィジョン)しか浮かばない。</p><p>手負いの獣のように、ある種の闘争心と諦念を秘めたような顔で、バーナードは眼前の傑物―デンナーを睨む。</p><p>おう、バーナード。……お前、ここで死ねよ</p><p>あァ？</p><p>何を言ってやがる、と顔をしかめるが、続く言葉に固まった。</p><p>そんで、死んだと思って、俺のトコに来い。……お前は面白いヤツだ。ここでただ死なせるのは、ちと惜しい</p><p>不敵な笑みを浮かべたまま―そう、それは覇者の貫禄とでも言うべきものか。一種独特な気配を漂わせるデンナーの言葉に、さしものバーナードも、咄嗟には返事ができなかった。</p><p>……何を企んでやがる</p><p>企むも何も言った通りだ。お前は面白い。ここで死なせるには惜しい。それだけだ。それとも、無為な死がお望みか？</p><p>デンナーの言葉を受け、周囲の戦士たちがゆらりと武器を構えた。―無音に秘められていた殺意が、牙を剥く。</p><p>…………</p><p>お前に興味が湧いたんだ。流石に、好き勝手させるわけにはいかんが、それなりにもてなそうじゃねえか</p><p>俺ァこの村をぶち壊したんだぞ。お前は領主様なんだろ？</p><p>正確には領主じゃないな。だが、いずれにせよ、この村の木っ端どもよりも、お前の方が面白そうだし、珍しいのは確かだ</p><p>ニヤリッと、本心からの言葉としか思えないような、ある種無邪気な笑みをデンナーは浮かべた。善悪を超越した、純粋な好奇心がそこにはある。</p><p>故に、それは化け物の心にも響いた。</p><p>……カハハッ</p><p>短く、バーナードは笑う。</p><p>元より、彼には、選択肢などないのだ。</p><p>その日、公国から小さな村が消えた。</p><p>だが、そのことを知る者は、あまりに少ない―</p><p>幕間終わり。次回からようやくほのぼの移住編です。</p><p>あと活動報告やTwitterでもアナウンスしましたが、ペンネーム変えました。</p><p>甘木智彬（あまぎともあき） です。今後切り替えて参る所存……！</p><p>これからも朱弓共々、どうぞよろしくお願い申し上げます。</p><p>58. 帰還</p><p>移住編、始まるよ～</p><p>起伏のほとんどない、なだらかな平野が広がっていた。</p><p>草原―と、呼ぶには、いささか乾いた印象を受ける。からりと晴れ渡った空の下、水気に乏しい草がかさかさと風にそよぐ。</p><p>と、それに紛れるようにして、トタタッ、トタタッと軽快な蹄の音。土煙を巻き上げながら並走する、四騎の騎馬の姿があった。</p><p>おっ、見えてきたな！</p><p>先頭、“竜鱗通し”を手に、サスケを駆るケイは顔をほころばせる。</p><p>ディランニレンだ！</p><p>指差す先には、まるで岩山のような城壁に守られた、堅固な都市。</p><p>北の大地と公国の境目―緩衝都市ディランニレン。</p><p>おっ、マジか！</p><p>ケイの言葉に答えたのは、やや斜め後方で栗毛の馬を駆るアレクセイだ。馬上で手をかざし、目を細めた金髪の青年は、すぐに諦めてお手上げのポーズを取った。</p><p>ダーメだ、さっぱり見えねえ！</p><p>ケイの目でやっと見えたってことは、まだまだ遠いな</p><p>ケイの隣でスズカに跨るアイリーンが、からからと笑っている。</p><p>なぁに、夕方までには着くだろうさ</p><p>灰色の馬に跨ったセルゲイは、相変わらずマイペースだ。</p><p>―夏の終わり。</p><p>街道を避け、北の大地の中央部を縦断したケイたちは、今まさに、公国へ帰還しようとしていた。</p><p>†††</p><p>オズに見送られて館を出たのは、一週間ほど前のことになる。</p><p>別れ際にオズが言っていた通り、霧の中を二歩も進めばそこはもう森の外れだった。流石はオズの旦那だ、などと話しながらシャリトの村へと戻るケイとアイリーンだったが、しかし、すぐには村に入れてもらえなかった。</p><p>というのも、村人の多くは既にケイたちは死んだものと思っていたらしく、見事生還を果たした二人を怪物か悪霊の類だと信じて疑わなかったのだ。アイリーンが 怪物や悪霊は霧の外には出てこれないはずだろ！ と主張したが、門番の村人は類稀なる慎重派―あるいは臆病とも言う―で頑なに門を開けようとしない。</p><p>結局、騒ぎを聞きつけたアレクセイが村の壁をよじ登って外に飛び出し、二人に直接触れて生者であることを確認してから、ようやく村の門は開かれた。怪物でないとわかればみな現金なもので、そのまま担がれるようにして村の集会場へ連行された二人は、酒や料理でもてなされながら魔の森の話をせがまれた。</p><p>魔の森での出来事、及びオズについての説明は、ケイはアイリーンに丸投げした。</p><p>単純に、『並行世界』という概念の説明が、ケイたち・村人の双方にとって公国語(イングリッシュ)では難しかったのと、情報を取捨選択するのはアイリーンが雪原の言語(ルスキ)で話した方がやりやすかろうと判断したためだ。</p><p>オズの『指輪』の件など、伏せておきたい情報はいくつかある―</p><p>ケイはロシア語がさっぱりなので、その場ではアイリーンが語る姿を眺めながら飲み食いするしかなかったが、あとから聞いた話によると、森で遭遇した怪物のこと、オズという『賢者』のこと、異世界の概念を説明するに留め、二人の故郷たる地球についてはサラッと流したそうだ。</p><p>大地と空と海が『世界』の全てである村人たちに、並行世界の概念を説明するのは骨が折れた、とアイリーンは語る。最終的に、悪霊や精霊を引き合いに『現世とは異なる魂の世界』の概念を応用して、漠然と別世界という概念を説明したらしい。</p><p>アレクセイとか、頭の柔らかい奴は、何となく理解してたっぽい。それ以外の連中は……ありゃ別の大陸の話か何かくらいにしか考えてないな</p><p>と、アイリーンは肩をすくめていた。</p><p>その後も、飽きもせず魔の森の話をせがまれたり―特に霧の巨人とケイが対決した話が人気だった―村の男たちと一緒に狩りに出かけたり、シャリトの住人たちに歓待されながら、だらだらと数日を過ごした。セルゲイなどは、二人揃っての移住を盛んに勧めてきたが、そんなある日、ガブリロフ商会の使者が村を訪れた。</p><p>なんでも、商会はケイたちの行方を探しているらしい。目的は言わずもがな、瀕死の重傷者を死の淵から救い出したケイの”秘術(ポーション)“だろう。商会の皆は、二人の旅の目的地がシャリトの村であったことをしっかり憶えていたらしく、わざわざ二人が辿り着いていないか確認しに来たのだ。</p><empty-line/><p>馬賊襲撃のあらましと、商会を強引に離脱した件は、村人たちにもあらかじめ話してあった。厄介な気配を察して、使者に応対したセルゲイは機転を利かせた。</p><p>ああ、その二人ならしばらく前に村に来たぞ。その後は魔の森に向かって霧の中へと入っていったが、それきり帰ってこない</p><p>もし二人を探しているなら魔の森に行ってみたらどうだ、とセルゲイが言うと、使者は護衛の戦士たちと顔を見合わせ、 商会の指示を仰ぐ と言い残し急いで引き返していった。それとなく物陰から状況の推移を見守っていたケイとアイリーンは、その慌てぶりに苦笑したものだ。</p><p>このまま身辺を探られるのも面白くなかったので、名残惜しくはあったが、二人は村を発つことを決めた。</p><p>商会が新たな行動を起こす前にとっとと帰ってしまおう、ということで、翌日には村を出た。村人総出で見送られ、惜しまれながらの出立だ。</p><p>ディランニレンまでの旅路には、セルゲイとアレクセイが同行することとなった。</p><p>商会の情報網に引っかからないよう、街道は使わずに、広大な平野を南西へ直接突っ切るルートを進む。公国の地図には載っていなかったが、平野にも泉や小川など水源があるらしく、小さな集落が点在しているそうだ。アレクセイも公国からシャリトの村に帰る際は、このルートを利用したとのこと。</p><p>ちなみにこの道案内の対価として、セルゲイが要求したのはケイたちの地図だった。正確には、その内容。ウルヴァーンの図書館の有料サービスで描き写してもらったその地図は、北の大地の住人たるセルゲイたちが驚くほど精確なものだった。</p><p>いかんせん、北の大地は広いからな。氏族の領地内に限った地図ならまだしも……北の大地全体の地図となると、本家の連中ですらここまで詳しいものは持っとらんぞ</p><p>出立前夜、居間のテーブルで地図を書き写しながら、セルゲイは言った。</p><p>図書館で聞いた話によると。この地図は、告死鳥(プラーグ)の魔術師を用いた人海戦術で空から見た景色をそのまま紙面上に落とし込んだものらしい。まさに『鳥瞰図』というわけだ。ただ、街道沿いや豊かな西部地域を重点的に描いているため、目ぼしい集落のない東部や辺境は調査が省かれている。</p><p>いくらか不完全な点もあるが、他の氏族の領地―特に西部が詳しく描かれている。この地図はいつの日か、我が氏族に恩恵をもたらすだろう</p><p>いかなる恩恵か、とはケイたちも尋ねなかった。</p><p>ただ、その時のセルゲイは戦士の顔をしていた―</p><p>ディランニレンに到着したのは、ケイがディランニレンを目視してから数時間後。日が傾き始めてからのことだった。</p><p>相変わらず、平原の民と雪原の民が入り混じるこの都市は、ぴりぴりとした空気に包まれている。馬賊の脅威は去ったが、草原の民への風当たりは依然として強いままだ。いや、むしろ悪化したと言っていい。北の大地側の門番たちとは、ケイの容姿を巡って当然のように一悶着あった。</p><p>来たときと同じように公国の身分証を提示して事なきを得たが、あのまま騒ぎ続けていればガブリロフ商会の人間に嗅ぎつけられたかもしれない、とケイは思う。</p><p>ケイはフードで顔を隠し、足早に街の雑踏を突っ切った。</p><p>それじゃあ、俺たちはここまでだな</p><p>公国側の門の前。普段は市場が開催されている、しかしこの時間帯は閑散とした広場で、どこか寂しげにアレクセイが言う。</p><p>アレクセイとセルゲイの親子は、今夜はディランニレンに宿を取り、ついでに買い物などをしてから村へ戻るそうだ。対するケイたちは、トラブルを避けるため早々に街を出て、今夜は野宿の予定だ。この頃は野宿続きだったので宿屋のベッドが恋しくもあるが、こればかりは仕方ない。</p><p>…………</p><p>しばし、その場に沈黙が下りてきた。広場を通りすがる町の住民たちが、黙って見つめ合う四人組を怪訝そうな顔で見ている。</p><p>ケイとアイリーンは、公国へ戻る。</p><p>アレクセイとセルゲイは、シャリトの村へ帰る。</p><p>それぞれ両国の反対側と言ってもいい位置関係だ。馬を全力で駆けさせれば二週間足らずの距離ではあるが、それでも遠い。特に、この世界にあっては―</p><p>互いに、それぞれの日々の暮らしもあるし、ここで別れれば、もう二度と顔を合わせる機会もないかもしれない。</p><p>思えば、不思議な縁だったな</p><p>やがて、アレクセイが口を開いた。平静を装っているが、やはり少し寂しそうだ。</p><p>……そうだな。まさか、また出会うことになるなんて思ってもみなかった</p><p>しみじみと、ケイは頷く。足元の影法師に視線を落としていた。夕暮れ時。四人の影がそれぞれに長く伸びている。フードをかぶっていて良かったかも知れないな、とケイは思った。自分が今どんな表情をしているのか、わからない。</p><p>……へへっ、思ったより寂しいなコレ</p><p>困ったように頭を掻きながら、アイリーン。彼女も、今となっては『別れ』の重さを知っているだけに、盛んに目を瞬かせている。</p><p>おうおう、何だテメェら、辛気臭い顔をしやがって！</p><p>しかしそんな若者三人組に、セルゲイはふてぶてしい態度を取って見せた。</p><p>別に今生の別れってわけじゃないんだぞ？　ワシだってそこそこ生きてきたが、とんでもない機会にとんでもないヤツと再会することはある。運命ってヤツだ、お前らは良くも悪くも色々とあったからな、心配せずとも、今後また色々とあるかもしれん</p><p>ふむ。また決闘はゴメンだな</p><p>真面目くさってケイが言うと、アレクセイとアイリーンも思わず吹き出した。</p><p>あまり目立ちたくないので、声を抑え、それでもくすくすと笑い合う。</p><p>そうだ、ケイ、アイリーン。もしどこかに腰を据えたら、手紙を送ってくれよ</p><p>さっぱりとした表情で、アレクセイは言った。</p><p>届く保証はねーけど。商会に探られるのが面倒だったら、適当に名前変えてさ</p><p>そうだな、偽名は『セルゲヴナ』でどうだ？　場合によっては、それもあり得たわけだろう？</p><p>アイリーンを見ながらニヤリと笑ってセルゲイ。『セルゲヴナ』は『セルゲイの娘』という意味だ。決闘の件を揶揄しているのだろう。ケイはよくわかっていなかったが、アレクセイは 勘弁してくれよ親父！ と頭を抱えている。アレクセイも今となっては幼妻(エリーナ)を持つ身なので、この話題は肩身が狭い。アイリーンは曖昧な笑顔を浮かべる他なかった。</p><p>ま、嬢ちゃんのような可愛い娘なら、いつでも大歓迎だがな！　ワッハッハ！</p><p>ひとり、大笑いしたセルゲイは、おもむろにケイとアイリーンを一回ずつ抱きしめ、ぽんぽんと肩を叩いた。</p><p>元気でな</p><p>……ああ</p><p>セルゲイの旦那もな</p><p>頷くケイとアイリーン。続いて、アレクセイに向き直る。</p><p>……まあ、アレだ。二人なら元気にやってくだろうしな。そういう意味じゃ心配してねえよ俺は</p><p>アレクセイはケイに手を差し出した。がっしりと、握手する。</p><p>また、少し迷った様子だったが、アレクセイは同様に、アイリーンとも握手した。</p><p>二人とも、元気でな。本当に世話になったよ</p><p>それはこっちの台詞だよ。アレクセイも、セルゲイも……さようなら</p><p>『本当にありがとう。皆にもよろしくね、お二人さん』</p><p>ケイは英語で、アイリーンはロシア語で、それぞれに別れを告げ―歩き出す。</p><p>馬の手綱を引き、公国側の門を出て行くケイとアイリーン。</p><p>その背中が見えなくなるまで、アレクセイとセルゲイ親子はずっと見送っていた。</p><p>†††</p><p>門を出てから、ケイたち二人は再び馬上の人となった。</p><p>周囲はもはや薄暗くなりつつあるが、日が暮れて門が閉められたあとは、時刻に間に合わずに都市に入りきれなかった商人や旅人が周辺にたむろする。彼らとの交流やトラブルを嫌って、少しばかり距離を取ることにしたのだ。</p><p>幸い、一度通った場所なだけに、野宿する場所には心当たりがある。</p><p>夕焼け色に染まる小川を眺めながら、ケイはしみじみと呟いた。</p><p>やっぱり公国側は空気が瑞々しいな……</p><p>公国は、何と言っても水資源が豊富だ。サスケたちの飲水に気を遣わなくて済むのは本当に有り難い、と改めて思う。北の大地は大変だ、とも。</p><p>それからしばらく走って、程よい木立を見つけたケイたちは、早速馬を降り野宿の準備を始めた。</p><p>野宿続きだが、ケイもアイリーンも、どこか足取りが軽い。</p><p>―久々に、二人きりだ。</p><p>ディランニレンからわざわざ距離を取ったのは、こういう理由もある。</p><p>まず”警報機(アラーム)“を設置して外敵感知の結界を張り、焚き火を起こし、夜露避けの簡易テントを設営して、川から鍋に水を汲んでくる。ディランニレンの屋台で串焼き肉の類を買ってあるので、今宵の夕餉は少しばかり豪華なものになるだろう。</p><p>それに何より、二人だけだ。</p><p>黙々と準備を進めるうちに、時たま目があってはフフッと笑いあう。</p><p>そのまま、地面に敷いた予備のマントの上で夕餉となった。ディランニレンで買った串焼き肉と、黒パン、ソーセージと根野菜を鍋で煮詰めたポトフ。旅とは思えないような豪華な食事だ。</p><p>焚き火の光に照らされながら、二人並んで座り、鍋をつつく。</p><p>なんか久々だな、こういうの</p><p>だなぁケイ。やっぱりいいよな</p><p>腹が減っていたので多めに用意した夕食もぺろりと平らげ、満腹感も手伝って和やかな雰囲気の二人。先ほどの湿っぽい空気など嘘のようだ。食後の茶を淹れながら、のんびりと過ごす。</p><p>ケイが木にもたれかかって座っていると、アイリーンが足の間に入ってきた。</p><p>……ふぅ。オレ専用の椅子だぜ</p><p>ぽんぽん、とケイの太ももを肘掛けのように叩きながらアイリーン。すかさずケイは腕を回して、アイリーンの華奢な肩を抱きしめた。</p><p>なら、こっちは俺専用の抱きまくらかな</p><p>ふふふ</p><p>アイリーンは否定も肯定もしない。ただ悪戯っ子のような笑みを見せる。</p><p>…………</p><p>そのまま、鍋のお湯がくつくつと煮える音を聞きながら、くっついて過ごす二人。</p><p>何とはなしに、ケイの指はアイリーンの頬をなぞっていたが、そのとき傍らの警報機(アラーム)に視線を落としたアイリーンが あっ と声を上げる。</p><p>ん、どうした？</p><p>何か異変を察知したのかと、真面目なトーンでケイ。</p><p>あ、いや……大したことじゃないんだけど。約束、忘れてた。ほら、ガブリロフ商会の魔術師のヴァシリーさん</p><p>唇を尖らせた困り顔で、アイリーンは北を見やった。</p><p>『次にディランニレンに寄ったら是非お茶会をして、魔道具について話そう』って、約束してたんだった</p><p>……ああ。そういえばそんなこともあったな</p><p>ケイも思い出す。ガブリロフ商会所属の魔術師ヴァシリー。告死鳥と契約した彼は、伝書鴉(ホーミングクロウ)を何羽も使役し、変化・邪眼の魔術も使いこなすベテランの魔術師だ。</p><p>……しかし、ガブリロフ商会とはもう関わらない方がいいんじゃないか</p><p>うーん、そうなんだけどさ。魔道具の相場とかさ、『こっち』での『魔術の値段』っていうか、そういうの聞いておきたかったんだよなー。あの人プロじゃん？</p><p>ふむ……</p><p>今後は、ケイもアイリーンも何かしら魔術で生計を立てていくつもりだ。おそらく、行商人のホランド共々懇意にしているコーンウェル商会を頼ることになるだろう。ホランドが自分たちを騙すような真似をするとは思わないが、それでも、第三者視点のそういった情報を仕入れておきたい、というのは正直なところだった。</p><p>うーむ、と二人は抱き合ったまま難しい顔で唸る。</p><p>オレ的にはさー、あのヴァシリーって人、それほどガブリロフ商会に入れ込んでないと思うんだよなー</p><p>というと？</p><p>どっちかと言うと、魔術の探求者っていうか。研究資金とかのために商会に協力してる、みたいなことを言ってた気がする</p><p>実際のところ、ケイには彼の人となりがよくわからない。ヴァシリーはロシア語しか話せなかったため、直接の交流がなかったのだ。</p><p>つまり、ヴァシリー氏に連絡をとっても、ガブリロフ側には情報が漏れない、と？</p><p>頼めば、その辺は気を遣ってくれるんじゃないかな。隊商で鴉に憑依してやってきたときも、そんなノリだったし。彼なら、おそらくガブリロフ商会の面々よりもオレたちの方を重視するはずだ</p><p>ま、敵対しようとは思わないだろうな、少なくとも。そして幸い彼は告死鳥の魔術師だから、『お茶会』には誘いやすい……</p><p>ケルスティンでメッセージを送れば、文字通り飛んでくると思うぜ</p><p>じゃあ、呼ぶとしたら夕方以降か……</p><p>それとなく結論に至ったケイとアイリーンは、すっかり暗くなった空を見上げた。</p><p>ぱちんっ、と焚き火の薪が爆ぜる。</p><p>まあ、</p><p>でも、</p><p>改めて顔を見合わせた二人は、にやりと笑う。</p><p>今日じゃなくていいよな</p><p>そのまま、貪るようにして唇を重ねた。</p><p>長い夜になりそうだ。</p><p>59. 茶会</p><p>ヴァシリー＝ソロコフはガブリロフ商会所属の魔術師だ。</p><p>一口に『魔術師』と言っても能力は千差万別だが、ヴァシリーは”告死鳥(プラーグ)“と呼ばれる鳥型の精霊と契約した術者で、その性質はむしろ呪術師に近い。</p><p>告死鳥との契約は呪いの一種であり、肉体を蝕み健康を害するが、その代わり使い魔―黒い羽を持つ鳥全般―の使役、使い魔への憑依、邪眼による呪殺など、幅広い術の行使を可能とする。尤も、呪いは己にも危険が及ぶ上、恨みを買うのでヴァシリーが商売道具にすることは滅多にないが。</p><p>今日も今日とて、伝書鴉(ホーミングクロウ)を飛ばしたり、使い魔に憑依して空から地形を調査したり、魔除けの護符を作成したりと、忙しなく過ごしながら、魔術の研鑽に励んでいる。そんな彼の元に、『それ』がやってきたのは夕方のことだった。</p><p>……おや</p><p>商館の二階に構えた、工房兼研究室。窓から夕日が差し込む頃、呪い返しの結界に、何か触れるものがあった。悪意ある干渉を跳ね除け撃退する魔力の壁に、ただぬるりと滑り込むような奇妙な感覚。</p><p>振り返れば部屋の壁に、まるで影絵のように、黒々と切り抜かれた淑女の姿が描き出されている。貴族の娘を彷彿とさせるドレス、輪郭だけでそれとなく美人であることを伺わせる楚々とした佇まい。</p><p>やあ、これはこれは</p><p>この精霊には見覚えがある。</p><p>しばらく前、商会の隊商に同行していた若き魔女―『アイリーン』の契約精霊で、確か名前は”黄昏の乙女”ケルスティンといったか。アイリーンはブラーチヤ街道で馬賊を撃退したのち、突如隊商から離脱してその後は行方知れずになっていたはずだ。</p><p>だが、こうして接触があったということは―</p><p>上品に会釈した影の精霊は、そのまま指先でするすると文字を書く。</p><p>『お久しぶり、ヴァシリーさん。もしよろしければ、一緒にお茶でもどうかしら』</p><p>『秘密のお茶会へご招待』―と。続いて、ディランニレンにほど近い宿場町と、その中のとある宿屋の名前と。</p><p>『窓にハンカチをぶら下げた部屋。よろしければ、いかが？』</p><p>ケルスティンが首を傾げてみせる。</p><p>喜んで伺おう。今すぐ向かうと伝えてくれるかな</p><p>ヴァシリーの返答に頷いたケルスティンは、再び会釈してふわりと消えていった。</p><p>……ふふっ</p><p>魔術師の男は、思わず笑ってしまう。そのしわだらけの顔に、皮肉な笑みが浮かぶのを抑えられなかった。商会の面々は、血眼になってアイリーンとケイを探しているとのことだったが、二人はもうディランニレンを突破して公国に戻っていたらしい。</p><p>そうとも知らずに、北の大地の辺境を未だ探し回っているであろう商会の者たちが、滑稽に感じられてならなかった。</p><p>『秘密のお茶会』、か</p><p>つまり、そういうことだろう。</p><p>ひとしきり静かに笑って、真面目な表情を取り繕ったヴァシリーは、傍らの卓上の小さなベルを手に取る。チリンチリンという澄んだ音に、小間使いの少年が飛んできた。</p><p>お呼びですか、旦那様</p><p>ああ。所用で少し出かけてくる、皆にもそう伝えてくれ。明日の朝には帰るから心配しないように</p><p>わかりました、行ってらっしゃいませ</p><p>ヴァシリーがふらりと出かけていくのは珍しいことではない。小間使いも慣れた様子で、そそくさと下がっていった。</p><p>さて、と</p><p>外出用のローブを羽織りながら、夕焼け空を見上げるヴァシリー。まだ明るいので大丈夫だろう、宿場まではそれなりに離れているが、彼の翼ならばひとっ飛びだ。</p><p>楽しみだ</p><p>にやりと笑ったヴァシリーは、ばさりとローブを翻す。</p><p>体を捻るようにして一羽の鴉に変化し、窓から飛び出した。</p><p>翼をはためかせる。呪いのせいで生身の肉体はぼろぼろだが、鴉の姿に変化すれば体調はそれほど悪くない。そして毎度のことながら、空を飛ぶのはいい気持ちだ。いつか私は鴉になるのだろうか、などと呟きながら進路を定める。</p><p>夕焼け空に鴉が一羽。</p><p>ありふれた光景だ。</p><p>誰にも気に留められることなく、鴉は楽しげに飛んでいく―</p><p>†††</p><p>―とある宿場町。野宿で一夜を過ごしたケイたちは、次の日さらに街道を南下し、昼間のうちに宿を取ってのんびりと体を休めていた。</p><p>宿屋の一室でケイたちがごろごろしていると、トントン、と雨戸を叩く音。</p><p>おっ、来たか</p><p>部屋着だけの楽な格好をしたアイリーンが、ベッドから跳ね起きて雨戸を開ける。</p><p>『やあ、お嬢さん』</p><p>ぱたぱたと羽を震わせる大きな鴉が止まっていた。かすれた声で雪原の言葉(ルスキ)を話す鴉に、アイリーンは驚くこともなくにっこりと微笑んだ。</p><p>『お久しぶりね、ヴァシリーさん』</p><p>『久しぶり、アイリーン。まさか律儀に約束を守ってくれるとは思わなかった。お招きありがとう』</p><p>そこで、窓の桟に止まったまま、ベッドから立ち上がって所在なげにしているケイをちらりと見やる。</p><p>Hello</p><p>どこかぎこちない口調で、ひらりと片羽を上げてヴァシリーが挨拶した。</p><p>こ、こんにちは</p><p>少し意表を突かれながらも、ケイも挨拶を返す。ヴァシリーは羽でくちばしを隠しながら、クスクスと笑った。</p><p>『いやはや、相変わらず公国語は喋れないんだ。『Hello』の他は『Thank you』と『Nice to meet you』だけで、困ったことに最後の一つに至っては彼には使えない』</p><p>『まあ、今から憶えるのは確かに厳しいんじゃないかしら……仕方がないわよ』</p><p>『そうだね、精霊語で手一杯さ。ところで、入っても？』</p><p>『ええどうぞ、もちろんよ』</p><p>アイリーンに招き入れられ、一羽の鴉がぱたぱたと床に舞い降りる。そこで、ズワッと人の姿へと戻った。ぎょっと仰け反るケイにアイリーン。</p><p>『……ん？　何を驚いているんだ』</p><p>『いえ、まさか、本人が来るとは思ってなかったの。てっきり、使い魔に憑依してきたのかと』</p><p>『ああ、それも考えたが、近くにいい感じの使い魔がいなかったんだ。この距離なら私が直接飛んだ方が手っ取り早い』</p><p>『今夜は、じゃあどうするの？』</p><p>『こっちで宿を取るつもりだ。ゆっくり語ろうじゃないか』</p><p>ニチャァリ、としか形容しようがない粘着質な笑みを浮かべてヴァシリー。ちなみに彼には何の他意もない。ただおどけた風に笑うと、そんな風になってしまうだけだ。</p><p>ヴァシリーがサッと部屋で手を振ると、周囲の音が消えた。隣の部屋にいたはずの宿泊客の声や、下の階の食堂の喧騒が全く聴こえなくなる。ケイもアイリーンも、ヴァシリーから波動のように発せられた魔力の揺れに気づいていた。</p><p>『これは……？』</p><p>『君らも、ただ雑談に私を呼んだわけではあるまい？　消音の結界だ、羽ばたきの音を消す術の応用さ』</p><p>なんだって？</p><p>消音の結界だって。羽ばたきの音を消す術を応用したんだってさ</p><p>ほう、そんなことができるのか。それは凄い、知らなかった</p><p>ヴァシリーの説明をアイリーンが即座に訳す。言葉こそ通じないが、ケイがあまりにも素直に感心しているので、ヴァシリーは楽しそうに笑っている。</p><p>『凄いわね、こんな術があるなんて知らなかった』</p><p>アイリーンもまた、驚いていた。ゲーム内に”告死鳥”の魔術師はありふれていたが、使い魔の使役や憑依がメインで、消音の術など聞いたこともない。廃人たるケイとアイリーンが知らないのだから、おそらくプレイヤーに発見されていなかったか、あるいはゲームには実装されていなかったか、のどちらかだ。</p><p>『それは良い。君らは何でも知っているのではないかと、少し心配すらしていたところだったんだ』</p><p>窓際の小さな椅子に腰掛けながら、ヴァシリー。</p><p>『しかし彼(ケイ)に言葉が通じないのは不便だね』</p><p>『ああ、それなんだけど、今日はちょっと考えてみたの』</p><p>ベッドサイドに放り投げてあったポーチから大きな水晶の塊を取り出したアイリーンは、 ―Kerstin. と名前を呼び、それを床の影に沈める。</p><p>Arto, Kerstin-Sensei.</p><p>アイリーンの足元の影が伸び、ケルスティンが壁に姿を現す。</p><p>『これでいいわ。自動翻訳の術よ』</p><p>『自動翻訳？　というと？』</p><p>ヴァシリーが首を傾げると、彼自身の言葉がすらすらと壁にロシア語で書かれ、すぐに滲むようにして『Auto-translation? What do you mean?』と英語に書き換えられた。</p><p>筆談のように会話ができるってわけだ</p><p>ケイが英語でそう言うと、今度はその言葉が英語で影絵に表示され、直ちにロシア語へと変換される。</p><p>『ほう！　これは面白い！』</p><p>ヴァシリーは興奮した様子で膝を打った。</p><p>『ケルスティンは、どうやら公国語(イングリッシュ)と雪原の言葉(ルスキ)がどっちもわかるみたいだったから、試してみたらできたの』</p><p>アイリーンの言葉も、即座に変換されていく。</p><p>アイリーンが何を話しているのかもわかるようになった、とベッドサイドの椅子に腰掛けたケイは、なぜか自分のことのように得意げな顔をしている。</p><p>ヴァシリー殿とお話するのに、アイリーンに通訳してもらうと時間がかかるからな。この術があれば、不便せずに済むと思う</p><p>『……いやはや、私もこれは想像していなかった。本当に優秀な精霊だね。そして、君とも是非話したいと思っていたんだ、彼女には感謝しなければならない』</p><p>全くだ、アイリーンにも、ケルスティンにも。……しかし、普通の言葉がわかるなら精霊語なんていらなさそうなものだが……</p><p>ケイがぼやくようにして呟くと、ヴァシリーがぱちぱちと目を瞬かせる。</p><p>『む、知らないのか。精霊語は『契約』のために必要な言葉だ。我々人間の言葉で精霊に語りかけてもそれは頼みごとの域を出ず、それだけで精霊を動かすことはできない。精霊語で厳密に、そして的確に術の内容を定義することで、初めて精霊は魔力や触媒を対価として受け取れるようになる』</p><p>……そうなのか</p><p>『ああ。そして私のように、精霊語じゃないと契約精霊と意思疎通が図れない魔術師も少なくない。必ずしも、全ての精霊が人の言葉を解するわけではないんだ。……これはまず、師から教わる魔術の基礎だと思うが』</p><p>『私たちは、ちょっと我流なところもあるのよ。精霊語はそれなりに使えるけど、それが必要な理由についてはさっぱりだったわ』</p><p>荷物から、宿場で買い揃えておいた酒やツマミを取り出しながら、アイリーン。</p><p>『ヴァシリーさんも一杯いかが？』</p><p>『おっ、頂こうか』</p><p>ヴァシリーとて雪原の民だ、酒好きであることには変わりない。アイリーンから盃を受け取り、礼を言いながらも、さり気なく注がれた葡萄酒に指を浸し、その指にはめた指輪を注視した。―はめ込まれた青い宝石は、色を変えない。</p><p>『じゃあ、乾杯といきましょ』</p><p>アイリーンが音頭を取り、全員で盃を掲げ、そのまま口にする。</p><p>『うん、良い葡萄酒だ』</p><p>何事もなかったかのように、舐めるようにして葡萄酒を味わったヴァシリーはにやりと笑う。無言で盃を傾けるケイは、そんな彼の細かい動作に気づいていたが、何も言わなかった。用心するに越したことがないのは、お互い様だからだ。</p><p>『……ぷはっ。生き返るぅ～！　ここの葡萄酒、美味しいわね。ヴァシリーさんが来るまで我慢するの、大変だったんだから』</p><p>早速空にした盃を振りながら、アイリーンは笑ってみせる。</p><p>『そいつは済まなかった。この葡萄酒は、こちらで買ったものかね？』</p><p>『そうよ』</p><p>……下の食堂で売ってたよ。地元のワインだそうだ</p><p>『……ほう、なるほど。すっきりとした味わいで良いものだ、これは雪原の民好みの味だよ。商会の者に教えても良いかもしれない』</p><p>盃の中身を揺らすヴァシリー。その言葉に、ケイとアイリーンは目配せした。</p><p>『……商会といえば、ガブリロフの皆さんは今どうしてるのかしら？』</p><p>平静を装ったアイリーンの問いに、ヴァシリーは苦笑を隠せない。</p><p>『血眼で君らを探し回っているよ。まさか、もうディランニレンを突破して公国に戻ってきているとは思いもよらないだろう』</p><p>『あら、そうなの』</p><p>『少なくとも数日前に話を聞いた限りでは、まだ北の大地の辺境を重点的に探っていたはずだ。魔の森に突っ込んだと聞いたが、あれは嘘だったのかね？』</p><p>『流石、耳が早いわね』</p><p>『当然だよ、私がその耳なのだから』</p><p>『あはは、そうだったわ。魔の森に行ったのは本当よ。ただ出てくるのが早かったの』</p><p>アイリーンとヴァシリーが話す間、ケイは壁に表示される訳文を読むのに注力せねばならなかった。英語なので理解はできるが、ネイティヴではないので、結局読むのにもそれなりに時間がかかってしまう。とてもではないが、途中で口を挟む余裕はない。</p><p>『私たちのことは、伏せておいてくれると助かるわ』</p><p>『まあ、わざわざ知らせる義理はない。私は別に構わないよ』</p><p>『ありがとう、本当に』</p><p>『それより、君らが……というより、ケイが瀕死の重傷者を奇跡のように蘇らせた、と聞いたのだが。流石に眉唾ものだと思ったよ、実際のところ、どうなんだい？』</p><p>ヴァシリーが、今度はケイに話を振ってくる。冗談めかしての問いだったが、その瞳には油断ならない光があった。</p><p>告死鳥の魔術師は、呪われる身。</p><p>彼も『奇跡』に興味があるのだろう。そう判断したケイは、慎重に口を開く。</p><p>……一人、知り合いを助けたのは本当だ。俺の命を分けたのさ。代償は酷く高くついたが、それでも彼は良くしてくれたから</p><p>重々しい口調で、ケイは答えた。ケルスティンが気を利かせて重々しい字体(フォント)で書き表してくれたが、ちょっと逆効果な気がしないでもない。だが少なくとも、それについて詳しく話す気がないこと、そして『それ』には代償が必要だったことはヴァシリーにも伝わっただろう。実際、限りあるポーションを消費したので、『命を分けた』という表現に嘘偽りはない。</p><p>『……ふぅん。まあそうか、代償とやらは想像もつかないが、それが気安いものでないことはわかる』</p><p>ヴァシリーは澄まし顔でクイッと盃をあおった。</p><p>『ただ、隊商の大勢の前でやったのは良くなかったな。皆、本当に必死だぞ。君の武力を恐れているのか、強硬手段に出るつもりはなさそうなのが幸いだが』</p><p>……それは良かった。俺も馬賊相手に張り切った甲斐があったというものだ</p><p>飄々として肩を竦めるケイに、ヴァシリーはくつくつと喉を鳴らして笑う。</p><p>『……君が単騎で五十人以上もの馬賊を相手取って鬼神の如き活躍を見せた、と聞いたときは何の冗談かと思ったよ。しかし、夜が明けてからもう一度、現場を見回ってみたら、とんでもない量の死体が転がっていて驚かされた。しかも、聞けば君自身、何十本も矢を受けたというのに、戦いが終わったら傷一つなくピンピンしていたと言うじゃないか。人の身とは思えぬ強さ、卓越した馬上弓の腕前、そして若くして魔術の心得まであると来た。これでは、瀕死の人間を死の淵から救い出す『奇跡』も容易く扱えるのではないか―と、外野が考えるのも自然な流れだ』</p><p>私だって君らが何者なのか教えて欲しいくらいだ、とヴァシリーは言った。</p><p>『まあしかし、公国にいれば、ガブリロフ商会も流石に手が届かない。厄介事を持ち込まれることはないだろう。ただ、噂話が漏れ出すことくらいは覚悟しておくべきかもしれないよ』</p><p>……ご忠告、痛み入る</p><p>ケイは渋い顔で頷く。と同時に、帰り際に商会の者に見つからなくてよかった、と思わざるを得なかった。</p><p>『ヴァシリーさんは、なんでガブリロフ商会に雇われているの？』</p><p>と、アイリーンが唐突に問いを投げかける。</p><p>『ん、金払いが良いから、としか言いようがない。助手もつけてくれるし、魔術書や触媒の類、そして私の場合、術に不可欠な黒羽の鳥を探すのも容易だ。一日中研究に打ち込むことはできないが、利点はあまりに多い。これを利用しない手はないよ』</p><p>アイリーンの読み通り、商会に対する思い入れは全く感じさせない口ぶりだ。</p><p>『研究って、ヴァシリーさんは普段どんなことを？』</p><p>『そうだな……私は魔除けの護符をよく研究している。より効率の良い素材、より呪いへの抵抗力が強い術式、などなど』</p><p>ケイもアイリーンも、感心して頷いた。ヴァシリーは流石に詳しい研究内容までは口にしなかったが、それでも『本物』の魔術師の生活が垣間見えるのは興味深い。</p><p>『もし、良い魔除けができたら売ってもらえないかしら？』</p><p>『もちろん良いとも。リクエストがあれば優先的に都合はできる』</p><p>アイリーンのお願いに、ヴァシリーは鷹揚に答えた。</p><p>『それとアイリーン。君の”警報機”の仕組みを応用して、告死鳥の魔術に適用できないかも研究していたよ。一応、基礎理論は完成したから、あとは黒い羽の夜目が利く鳥を探すだけだ』</p><p>……夜間に警戒してくれる使い魔か</p><p>『……そう。ただし疲労を避けるために、二羽から四羽でのセット運用を考えている。アイリーンの精霊は本当に優秀だから、その点は羨ましいよ。私の術はどうしても使い魔の性能に依存することが多い』</p><p>本当に、心底羨ましそうな顔のヴァシリー。告死鳥の魔術は便利なものが多いが、デメリットが強烈すぎる。あからさまに健康を害している魔術師を前に、アイリーンは愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。</p><p>『そうだ、それでヴァシリーさん、ぜひ教えて欲しいのだけど。私の”警報機”が完成したら、あれってどれくらいの値段になるかしら？』</p><p>『ん？　……ああ、なるほど、相場を知りたいわけだね？』</p><p>一発でアイリーンの意図を見抜いたヴァシリーが、ニヤリと笑いながら盃を揺らす。</p><p>『そうさな……あれはあまりに便利な上に高性能で革新的だから、……最初はさぞかし高値で売れるだろう……とは思うが、しかし、うーむ……』</p><p>腕組みして唸ったヴァシリーは熟考し始めるが、段々その表情が険しくなっていく。</p><p>『……公国銀貨五十枚』</p><p>やがて、ぽつりと、呟くようにして言った。</p><p>ケイとアイリーンは顔を見合わせる。それは、拍子抜けするほど少ない額だった。</p><p>茶会（酒）</p><p>ちなみに、金貨1枚＝銀貨100枚です。</p><p>作中世界で、ギリッギリまで切り詰めた農民の食費一年分がだいたい銀貨十枚くらいなんで、決して安い額ではありません。庶民的には。</p><p>60. 相場</p><p>銀貨五十枚……？</p><p>少なくとも金貨は固いだろう、と考えていただけに、ケイたちは動揺を隠せない。</p><p>無論、庶民的感覚からすれば、銀貨五十枚は十二分に高額なのだが―魔道具の核をなす宝石などの材料費を鑑みると、儲けはかなり少なくなってしまう。</p><p>『そのくらいの値段でないと厳しいと思う』</p><p>依然、厳しい表情でヴァシリーは首肯した。</p><p>『でも、さっき高値で売れるって言ってなかったかしら？』</p><p>『最初はそう思ってたんだが、冷静に考えてみると、そういう結論に至った。主な問題は三つある』</p><p>アイリーンの疑問に、ヴァシリーは指を三本立ててみせる。</p><p>『一つは、客層だ。この”警報機”を最も欲するのは行商人だろうが、残念ながら彼らの多くはそれほど金持ちではない』</p><p>長年、商会経由で魔道具を商ってきたヴァシリーは、大規模な商会に属する商人だけではなく、個人の行商人や一般客の懐事情も心得ている。公国銀貨五十枚。この値段が彼らの支払い能力の限界だろう、とヴァシリーは語った。</p><p>口には出さないが、銀貨五十でも相当に厳しい、と胸の内で呟く。</p><p>『次に、需要だ。警報機は確かに便利で、見張りの負担を劇的に軽減するが、裏を返せば十分な数の見張りを用意できるならそれで事足りる。この魔道具は、あくまでも追加的要素(オプション)に過ぎないということが一つ』</p><p>そのオプションにどれだけ金を払えるか、金を払う『余裕』があるか、という話だ。大規模な商会ほど、大勢の護衛を引き連れていくので警報機を導入する必要性が低く、逆に、最大限の恩恵に与れる個人の行商人や旅人は購入する資金力に乏しい。この商品はコンセプトからしてジレンマを抱えているのだ。</p><p>また、警報機により事前に危険を察知できても、結局は、それに対応する人員も必要となる。そして、護衛にはならず者に対する『威嚇』の役割もあるので、警報機を導入してもどのみち人員を削減することはできない。護衛を減らしたせいで夜盗に襲われやすくなるようでは、本末転倒だろう。</p><p>『最後に、これは以前も問題になったが、君らに信用と実績がないことだ』</p><p>見張りは隊商の生死に関わることであり、その重要な役目を得体の知れない魔道具に任せきりにするわけにはいかない。むしろ、そういったことに抵抗を覚える顧客も多いことだろう、とヴァシリーはしみじみとした口調で言った。警報機の存在が知れ渡り、評判になれば 使ってみよう という気も起きるかもしれないが、現時点では、動作と性能に一定の保証がないという点も痛い。</p><p>『その『保証』を買って出ようとしていたのが、ガブリロフ商会だったわけだ。勿論、念入りに試験運用をした上で、だが』</p><p>ガブリロフ商会がまず使い、その性能と動作を確認、保証する。そして『評判』を生み出すために、ある程度安価で売り捌いていく。ひとたび巷で評判になれば、悪い商品ではないのだ、あとは飛ぶように売れるはず。値段を上げるとすれば、そのタイミングということになる。</p><p>『それまでは、それなりの価格に甘んじるしかないね。評判がやんごとなき方々の耳にも届けば、吹っ掛けることも不可能ではないはずだ。貴族の屋敷の盗人対策としても、大いに活躍するだろうから……個人的には、一般客向けの低性能廉価版と、上客向けの高級版に分けたらいいのではないかと思う』</p><p>『なるほど……』</p><p>『例えば、高級版はもっと装飾にも凝ったデザインで、警報もただハンマーがベルを鳴らして終わりではなく、オルゴールのようにゼンマイ仕掛けで音を鳴らす仕掛けを組み込んでみる、とか』</p><p>『ふむふむ』</p><p>『……ただ、それを為すには伝手が必要になる。貴族とも繋がりのあるような、かなりの規模の商会なり、重要人物なり……』</p><p>そのアテはあるのか、という言外の問いに、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。</p><p>あるな</p><p>あるよな</p><p>『……あるのか』</p><p>……木工職人なら、貴族に商品を卸すような凄腕が知り合いにいる。魔道具のベースの装飾などは問題ないはずだ</p><p>ケイが脳裏に思い描くのは、城郭都市サティナの職人・モンタンだ。本業は矢職人だが、木工の腕前も大したもので、彼の工房には見事な装飾や細工が飾られていた。</p><p>『商会なら、公国で手広く商ってるコーンウェル商会と仲良くさせてもらっているわ』</p><p>続いてアイリーンがそう付け加えると、ヴァシリーはズルッと椅子から滑り落ちそうになる。</p><p>『こ、コーンウェル商会。その名は聞いたことがある、とんでもない大手じゃないか。納得したよ、道理でガブリロフ商会なんて歯牙にもかけないはずだ』</p><p>公国語さえできたなら私を紹介してもらいたいくらいだ、と苦笑するヴァシリー。</p><p>『まあ、君の精霊の力があれば、どんな相手とでもすぐに手を組めるだろう、とは思っていたが……コーンウェル商会か。なんだ、それなら、すぐに良い商売ができるな』</p><p>一転、脚を組み、リラックスした姿勢でヴァシリーは穏やかに言う。</p><p>『あー、コネがない前提でお話してたのかしら』</p><p>『その通り。だからゼロから売り始めることを考えていた。しかし伝手があるなら話は別だよ、君らがコーンウェル商会とどの程度の信頼関係を築いているかは知らないが、それを利用しない手はない。最初に廉価版を売るなり、作品を貴族様に献上するなりで投資は必要かもしれないが、商会に繋がりがあるなら資金も融通がきくだろう』</p><p>むしろそこで金を出さないようなら、そんな商会は切った方がマシだ、とヴァシリーは悪い顔で笑う。先ほどまでの深刻な雰囲気は見る影もない、純粋にアイリーンのことを心配して真面目に考えていてくれただけのようだ。</p><p>『ああ、そういうことだったの……ちょっとホッとしたわ。“警報機”はウチの主力商品にするつもりだったから、あんまり高値がつかないようなら困っちゃうところだった。銀貨五十枚って、材料費だけでほとんど飛んじゃいそう』</p><p>指折り数えながら、力の抜けた笑みを浮かべるアイリーン。魔道具の核をなすのは主に宝石類だ。それなりの大きさと透明度のある高級品でなければ核として長持ちしないため、相応の品を買い求めなければならない。その購入費に加え、宝石に術式と精霊の力を封入する際に必要な触媒や、魔道具の本体となる木細工、ハンマーやベルといった細々なものを買い揃えていると、あっという間に銀貨数十枚が吹き飛んでしまう。触媒となる水晶やラブラドライトもさることながら、基本的に全て手作業で作成されているハンマーやベルも地味な出費となる。</p><p>『まあ、それは仕方がない。その代わり貴族には吹っかけてやるといい、公国の貴族は北の大地の豪族や氏族の連中より、よほど金持ちだろうから。そういう意味では、貴族を相手に相場がどうなるかは私にも見当がつかないなぁ』</p><p>『大丈夫、庶民向けの限度が知れただけでも有り難いわ。あとは商会の知り合いとの交渉次第ね』</p><p>『そうなるね。まあ君なら大丈夫だろう』</p><p>私なんかよりよほど口が達者で交渉上手じゃないか、と言うヴァシリー。</p><p>『やはり才あるものには機会が与えられるものなのだな、と思わせられる。全く、その若さで、能力に伝手に語学力にと、羨ましい限りだよ』</p><p>『あはは、そんな……』</p><p>照れたような笑みを浮かべながらも、アイリーンは（貴方こそお上手じゃない）と胸の内で呟く。魔術師と言えば尊大なイメージがつきまとうが、ヴァシリーはそんな雰囲気を醸し出しつつも、適度に相手をおだてて良い気にさせることを意識している―節がある。偉そうな人間が歩み寄ってきて、思いのほか親しげに接してくると、実態以上に気の良い人物に感じられてしまう心理。</p><p>ついつい、腹を割って話してしまいたくなる、そんな人柄。だがアイリーンは、彼と話すとき、どうにも見えない棒を押し引きしているような感覚が拭えないのだ。それは直感的なもので、別に悪意を感じるわけではない。だがヴァシリーがそういった言動を心がけているらしい、ということが若干気にかかる。</p><p>彼は、一応はガブリロフ商会側の人間だ。仮に商会にはそれほど入れ込んでいないにしても、商会と親しい存在であることは変わりない。あまり調子に乗っていると、ペラペラといらぬことまで話してしまいそうだ。穿った見方はあまり好ましくないが、それでも過度に信頼しすぎないことだ、と己を戒める。</p><p>と、ふと隣を見ると、アイリーンへの賛辞が嬉しいのか、ケイが自分のことのように得意げで純真な笑みを浮かべていた。</p><p>…………</p><p>何とも複雑な気持ちになったアイリーンは、その緩んだほっぺたをグイグイと両手で引っ張ることで、己のモヤモヤ感の解消を試みる。</p><p>なっ、なんだよアイリーン</p><p>なんでもな～い～！</p><p>唇を尖らせて、困惑するケイの頬をグリグリと引っ張るアイリーン。しかしその拍子に、ケイの左頬にうっすらと走る刀傷に目を留めて、小さく溜息をついた。アイリーンがタアフ村で昏睡状態から回復したときには、既についていた傷だ。もちろん、ゲーム時代には、こんなものはなかった―</p><p>つっと指先で傷を撫で、目を伏せたアイリーンは、すぐにニカッと笑う。</p><p>やっぱりオレがいないとダメだな、ケイは！</p><p>何を当然のことを</p><p>真顔で即答するケイに、アイリーンは思わず目尻を下げて、その頬をグニグニと揉み始める。</p><p>『…………』</p><p>突然、目の前で展開され始めた二人の世界に、ヴァシリーは葡萄酒を傾けながら曖昧な笑みを浮かべていた。（これは、遠回しに帰れと言われているのだろうか）などと穿った考えをしていたところ、ふと壁を見ると、影絵の精霊がチョイチョイと二人を指差し、呆れたようにお手上げのポーズを取る。</p><p>『……フッ』</p><p>どうやらいつものことらしい、とニヒルに笑ったヴァシリーは、窓からすっかり暗くなった空を見上げて、独り葡萄酒をあおった。</p><p>すぐに、ヴァシリーを放置してはいけないと、我に返った二人が現実世界へ戻ってきたが、それまでの数十秒がやたら長く感じられたヴァシリーであった。</p><p>†††</p><p>その後は、何事もなかったかのように、しばらく魔術談義に花を咲かせた。</p><p>ヴァシリーがガブリロフ商会で扱っている魔道具についてであったり、その性能や値段であったり、北の大地固有の精霊についての噂話であったり。</p><p>『呪いの品は売らないよ。敵を作るし、私も危ないから』</p><p>自身の商品を語り出したヴァシリーは、思いのほか饒舌だった。ヴァシリーの扱う品は、そのほとんどが使い魔で、専ら伝書鴉(ホーミングクロウ)の貸出や販売が主らしい。大事に扱えば、鴉は十年ほど現役で使える、とのことだ。変わった注文としては、特定の相手にしか手紙を届けない伝書鴉や、来客があった際に『いらっしゃいませ』と鳴く黒オウムなどもあったらしい。</p><p>その他は、簡単な魔除けの護符に始まり、『呪い』を引き受けその術者を特定する身代わり人形や、特殊な透明なインクと、それで書かれた文字が見えるようになるレンズなどなど。</p><p>特にインクとレンズは自信作だったらしく、ヴァシリーはやたらと自慢げだった。実際、ゲーム内には存在しなかったものなのでケイたちも興味津々で、二人はこのとき、これ以上ないほどに熱心な聞き役になっていた。ヴァシリーも、そうした話ができる相手に飢えていたようだ。師が亡くなって久しい、とは彼の言葉だ。</p><p>ところで、ヴァシリーと話していて、ケイたちにも朧気ながらわかったことがある。</p><p>それは、この世界の魔術師にとって一般に『奥義』とされているのは、『魔力の使いすぎで死なないラインの見極め』にあるらしいということだ。例えば、術の過剰行使、呪文の詠唱失敗、触媒不足、自分には過ぎた魔道具の作成などで、魔術師は容易く枯死してしまう。精霊語の教養などはあくまで表面的な知識に過ぎず（もちろん精霊語は魔術の根幹であり最重要であることには変わりないが）、その『枯死回避』のバランス感覚こそが、真なる魔術の秘奥と見做されているらしい。</p><p>そういう意味では、ケイたちは既に魔術を極めている。</p><p>ゲーム時代の経験で既に、『どの程度の術を使えばどのくらい魔力を消費するか』をだいたい把握できているからだ。『死んで憶える』というのは、この世界の魔術師には不可能な修練法。しかも、魔術を使っていけば、今後どのくらいの成長率で魔力が育っていくかも知っている。修練で無理をしすぎて命を落とす若き魔術師もいる、とのことだったので、二人のアドバンテージは計り知れない。</p><p>散々語って、酒とツマミが切れてから、三人は下の食堂に下りて食事を摂った。</p><p>しかし草原の民風の大柄な青年に、うら若き金髪碧眼の雪原の民の少女、そしてしわだらけで痩せこけた魔術師風の年配の男、という組み合わせは、旅人や行商人で賑わっていた食堂に一種異様な空気をもたらした。</p><p>ケルスティンの翻訳がなくなってしまったので、アイリーンが通訳せねばならず三人の会話は遅々として進まなかったが、それにしても食堂隅のテーブルで和気藹々と飲み食いする姿はあからさまに衆目を集めていた。尤も、三人とも程よく酒が入っていたので全く気にしていなかったが―</p><p>ちなみに、ソーセージの盛り合わせやチーズなどをモリモリと食べていたケイたちに対し、ヴァシリーは野菜中心のかなりヘルシーな料理を注文していた。『こう見えて、健康には気を遣っているんだ』とはヴァシリー渾身の自虐ネタだ。冗談にしてはあまりに切実だったが、酒が入っていたのでアイリーンは翻訳するのも忘れて、思わず大笑いしてしまった。</p><p>そうして満足するまで飲み食いして、ケイとアイリーンは自室に戻り、ヴァシリーは別に部屋を取って、その日は解散となった―</p><p>翌朝。</p><p>『ふう……昨日は本当に、柄にもなく騒ぎすぎてしまったな。しかし楽しかったよ、二人ともありがとう』</p><p>晴れ渡った空を見上げながら、宿屋の前でヴァシリーはニチャァリと微笑んだ。</p><p>『いえいえ、こちらこそ。色々とためになる情報をありがとう』</p><p>…………俺もヴァシリー殿と話せて楽しかった。是非また一緒に呑みたいな</p><p>アイリーンの翻訳を受けて、和やかにケイ。</p><p>『とんでもない、私こそ色々と教えてもらったからね。いやあ、魔術の道は奥が深い。……また機会があったら、是非』</p><p>ヴァシリーは満更でもない様子だった。昨夜は、なんだかんだでケイたちも魔術について、特に魔道具を動作させるアルゴリズムについて先進的な考え方をポロポロと披露してしまったので、結果的にヴァシリーもかなり得るものがあったのだ。</p><p>『それじゃあ、近くに立ち寄ったとき―まあ、ディランニレンにはもう来ないかもしれないが、そのときは一報入れてくれたまえ。アイリーンの警報機の評判がこちらまで届くのを楽しみにしているよ』</p><p>『ありがとう、ヴァシリーさんもお元気で』</p><p>……さようなら、また</p><p>二人に見送られながら、老練な黒衣の魔術師はバサリと鴉に変化し、北の空へと消えていった。</p><p>うーん、告死鳥の呪いはアレだが、やっぱり空を飛べるのは羨ましいなぁ</p><p>空の彼方で豆粒のように小さくなったヴァシリーの姿を、しかし未だはっきりと視界に捉えながら、ケイは呟いた。</p><p>『―毎度、空から見下ろして思うんだ。人の営みの、その歩みのなんと遅く鈍いものか、とね。皆がもっと速く、スムーズに動ければ、日々の暮らしはもっと豊かになるのだろう。……まあ、そんなことになれば、私は商売上がったりだが―』</p><p>昨夜、そう言ってヴァシリーが笑っていたのを思い出す。そんな風に世界を見下ろすことが多いせいか、彼は存外に大局的な物の見方をする人だった。</p><p>『―“警報機”は、最初こそ確かに儲からないかもしれないが、隊商の被害が軽減されれば、都市間や辺境での物流が活発になり、その好影響は巡り巡って君らの懐を潤すだろう。物を商うとは、きっとそういうことなんだろう、と私は思うよ―』</p><p>あのような歳のとり方をしたいものだ、とケイは思った。</p><p>そうだなー、空を飛べたら気持ちいいだろうし……でもやっぱり呪いは勘弁……</p><p>んんーっ、と朝日を浴びて背伸びをしながらアイリーン。昨夜は部屋に戻ったあとも何だかんだで夜更かししてしまったので、体の怠さが抜けていないらしい。それはケイも同じだ。</p><p>俺もいつか、修行を積めば風で空を飛べるようになるのかな……マントを翼みたいに広げてさ</p><p>多分できるようになるだろうけど、着地に難アリだな</p><p>アイリーンのにべもない答えに、苦笑する。</p><p>違いない。翼は危ないから、気球でも作るか</p><p>それも面白そうだな！　魔道具で大儲けしたら自作してみようぜ！　……まあその前にウルヴァーンに戻らないと、だな</p><p>……そういえば、ウルヴァーンに戻ったら、ヴァルグレン＝クレムラート氏に占星術を教えないと……</p><p>……ああ</p><p>ケイとアイリーンは、顔を見合わせた。ヴァルグレン＝クレムラート―図書館の元銀色キノコヘアーの知識人だ。北の大地への道筋などをアドバイスする代わりに、ケイが占星術を教える約束をしていたのだが、諸々の不幸な事故が起きたため、中止されてしまったのだ。</p><p>結局……カツラ、見つかったのかな……</p><p>……さあ。ってかケイ、望遠鏡を弁償しろって言われたらどうする？</p><p>……アレ、俺たちが弁償しなきゃいけないのかなぁ</p><p>だってシーヴが原因だしさ……</p><p>ぶつくさと言い合いながら、もう一眠りするために宿屋に引っ込んでいく。</p><p>こちらの世界に住み着く覚悟は決めたが、それでもその前に、まだやることは山積しているのだった。</p><p>61. 知己</p><p>ヴァシリーと別れてから二日。</p><p>ブラーチヤ街道を南下し、ケイたちは無事、要塞都市ウルヴァーンへと辿り着いた。</p><p>やっぱり街中はホッとするな</p><p>だなー</p><p>城門をくぐり、肩の力を抜いて笑い合う。</p><p>時刻は昼過ぎ。表通りの石畳を、買い物客や商人、旅人たちがゆったりとした足取りで行き交っている。馬の手綱を引いて往来を歩くケイとアイリーンは、やはり衆目を集めていた。片や、朱色の複合弓を手にした重武装の精悍な戦士。片や、サーベルで武装した雪原の民の見目麗しい少女。</p><p>草原の民に似た顔つきのケイに対し、若干刺々しい目を向ける者もいたが、北の大地やディランニレンで経験した強烈な敵意に比べれば可愛いものだ。初めてウルヴァーンに来たときは、この程度の疎外感でも随分と辛く感じたものだな、とケイは苦笑する。ここ一ヶ月の旅で、随分と精神面(メンタル)が鍛えられたらしい。</p><p>足早にメインストリートを抜けたケイたちは、迷うことなく脇道へ逸れる。通りの向こう側に、デフォルメされた甲虫がエールのジョッキを片手に首吊りした、ユニークな看板が見えてくる。“HangedBug”亭―ウルヴァーンでのケイたちの定宿だ。</p><p>小間使いにサスケたちの世話を任せ、見慣れた緑色のドアを開ける。からんからん、というドアベルの音。受付で帳簿を開いていた若い女が、顔を上げて目を見開いた。</p><p>あら！　ケイじゃない、戻ってきたの！？</p><p>“HangedBug”亭の看板娘こと、ジェイミーだ。健康的に日焼けした小麦色の肌に、バンダナでまとめた亜麻色の髪。以前は肩までの長さに伸ばしていたが、ケイたちが旅している間に切ったのか、今はさっぱりとしたショートカットだ。好奇心の強そうな、くりくりとした黒色の瞳は相変わらずだった。</p><p>やあ、久しぶりだなジェイミー</p><p>外套(マント)を脱ぎながらケイは微笑む。その背後からひょっこりと顔を出し やっほー と手を振るアイリーン。ジェイミーがケイに色仕掛けを試みた件で、アイリーンは彼女に対し思うところがあったようだが、ここ一ヶ月の旅でどうでもよくなったのだろう。</p><p>二人とも！　心配したのよ、無事だったのね！</p><p>ああ、何とかな……部屋を頼めるかな？</p><p>もちろん。何日？</p><p>とりあえずは一週間まとめて</p><p>ちゃりん、と受付に小銀貨を纏めて置く。</p><p>ウチの客がよく話してたけど、北の大地って今、色々と物騒らしいじゃない。大丈夫だったの？　街道沿いに馬賊が出て暴れ回ってるって聞いたけど</p><p>帳簿に書き込みながら、ジェイミーは興味津々の様子だ。当たり前だが、距離が離れているので噂は少し遅れているらしい。ケイたちは顔を見合わせた。</p><p>……馬賊には襲われたが、まあ何とかなったよ</p><p>まあっ、襲われたの？　でも無事だったのね、さすが公国一の弓使い……！　馬賊も百だか二百だか、とにかく凄い数だって話じゃない</p><p>そうだな、百はいたと思う</p><p>へぇー！　話半分に聞いてたんだけど、本当にそんなにいたの？　危なくて北の大地には近づけないわねー。本当に良かったわよ、二人が無事に切り抜けられて</p><p>そうだな、あんな目に遭うのはもう懲り懲りだ</p><p>肩をすくめるケイ。ジェイミーは二人の無事を喜んでいたが、まさか目の前の人物が件の馬賊を壊滅させたとまでは思っていないようだった。</p><p>あとで詳しい話を聞かせてね～、という声を背に、一旦部屋に引っ込む。旅の疲れはあったが、ここでのんびりすると動けなくなってしまいそうだったので、荷物を置くが早いかすぐに図書館へと向かった。</p><p>おう、『弓』の</p><p>嬢ちゃんも、久しぶりだな</p><p>やあ、久しぶり</p><p>元気だった～？</p><p>顔馴染みの衛兵たちと挨拶を交わしながら、第一城壁を抜ける。たった一ヶ月かそこらしか経っていないはずなのに、上品な館が建ち並ぶ一級市街の街並みは、どこか懐かしく感じられた。そこを抜けたあとにそびえる、豪奢な図書館も。</p><p>一ヶ月ぶりに姿を現したケイたちに、普段は無表情を崩さない図書館の門番二人組も おや という顔をしていた。尤も、ケイの視力があって気づけただけで、近づく頃にはいつもどおりの鉄仮面に戻っていたが。</p><p>お久しぶりです、ケイさん、アイリーンさん</p><p>中に入ると、片眼鏡(モノクル)をかけた背の高い女が、受付のカウンターから二人の姿を認めて声をかけてくる。ケイたちが初めて図書館を訪れたときから、何かと世話になっている受付嬢だ。久々なのでケイは一瞬迷ったが、何とか彼女の名前を思い出した。</p><p>やあ、アリッサ。久しぶりだな</p><p>お戻りになられたのですね</p><p>アリッサの返しに、ケイもアイリーンも ほう と感心した風を見せる。顔見知りではあるが、それほど親しくもない彼女(アリッサ)には、『北の大地へと赴く』と事前に伝えていなかったのだ。それなのに『戻った』という表現が出てくるということは―</p><p>早速で悪いが、頼めるかな</p><p>声を潜めて、懐から取り出した封筒をカウンターに置くケイ。元銀色キノコヘアことヴァルグレン＝クレムラート氏宛の手紙だ。これで、ヴァルグレンが次回図書館を訪ねた際、ケイたちの帰還を知らせてもらえる手筈となっている。</p><p>承ります</p><p>慇懃に頭を下げるアリッサ。その旨はきちんと彼女にも通達されていたらしい。その後は何事もなかったかのように、近況や最近の出来事など、軽く世間話をしてからケイたちは図書館を後にした。</p><p>……もう図書館にも、ほとんど用がないなー</p><p>しばらく歩いてから、遠くそびえ立つ叡智の城を見やり、アイリーンは言った。</p><p>そうだな。知りたいことは概ね知れたし……</p><p>ケイも頷く。暇つぶし、という点では図書館には膨大な詩集や小説なども所蔵されているが、英語なのでイマイチ読む気が起きず、ケイたち『現代人』とは価値観が違いすぎてあまり面白く感じられない。転移に関連する情報収集、という当初の目標は達成してしまった。取り立てて、他に調べたいことがあるわけでもない。</p><p>今一度、ケイは図書館を振り返る。</p><p>物言わぬ彫像の数々が、静かにこちらを見下ろしていた。知恵と、制御された力を象徴する偉丈夫の石像や、巻物を抱えた賢者、羽衣を纏った精霊たち。</p><p>…………</p><p>記憶に焼き付けるようにじっくりと眺めてから、ケイは背を向けて歩き出した。</p><p>なんとなく、もうここに来ることはないんじゃないか、という気がした。</p><p>†††</p><p>続いて、ケイたちが向かったのは、コーンウェル商会のウルヴァーン支部だ。</p><p>幸いなことに、折よく馴染みの行商人ホランドがいた。サティナからウルヴァーンへ行商の旅を終えたばかりだそうだ。ホランドも北の大地の事変については風の噂で聞き及んでいたらしく、いたく心配していたようで、三人はしばし無事の再会を喜んだ。</p><p>それで、どうだった？　北の大地は。目的の賢者には巡り会えたのかい</p><p>商館の小部屋に通されて、ゆったりと椅子に腰掛け話し合う。</p><p>結論から言うと、賢者はいた。……俺たちの故郷は遠すぎて、もはや帰還は難しいとのことだったよ</p><p>かいつまんで、事の顛末を話す。魔の森こと、霧の中の怪物、そしてそこに居を構える奇抜な赤衣を纏った賢者―異世界という概念に関しては、面倒を避けるために省略しておいた。</p><p>そうか……</p><p>いずれにせよもう帰れない、という結論に、ホランドは瞑目する。心優しい生真面目な商人は、若い二人の境遇を気の毒に思ったようだった。</p><p>故郷に戻れないのは、悲しいことだと思う。……ただ、私個人としては、無事に二人ともう一度会えて嬉しいよ</p><p>そうだな……ありがとう。幸い、気持ちの整理はできているよ</p><p>ありがとな、旦那</p><p>しかしそのことについては、もう納得できているので大丈夫だ。顔を見合わせて笑った二人は、言外に、気にする必要はないと態度で伝えた。</p><p>と、そのとき、小部屋の扉がキィーと音を立てて開く。</p><p>お茶がはいりました～</p><p>お盆(トレー)を手に姿を現したのは、ホランドの養女エッダだ。褐色の肌を持つ幼い少女は、ケイを見てパッと顔を輝かせる。</p><p>お兄ちゃん、久しぶり！！</p><p>やあ、エッダ。ちょっと背が伸びたか？</p><p>もう、あんまり変わってないよ！　あとお姉ちゃんも、久しぶり！</p><p>おー、エッダも元気してた？</p><p>以前と変わらず元気溌剌な少女に、柔らかく微笑むケイとアイリーン。皆の前、テーブルにそれぞれのマグカップを置いたエッダは、そのまま当然のようにケイの膝の上にやってこようとした。が、ソファに並んで、ごく自然に、寄り添うようにして座る二人に何かただならぬ気配を感じたらしく、その場でがくりと膝をつく。</p><p>もう入り込めないよ……</p><p>なにをやってるんだエッダ</p><p>ハーブティーを口にしながら、呆れ顔のホランド。エッダはすごすごとお盆を手に下がり、再び戻ってきて、仕方なくホランドの隣にちょこんと腰掛けた。</p><p>しかし、賢者か。実在したとは驚きだなぁ</p><p>話を戻して、ホランド。</p><p>ああ、俺たちも驚いたよ</p><p>本人曰く、精霊のような存在らしいぜ。確かに強大な力の持ち主だった</p><p>……お近づきになりたいところだが、商売っ気はなさそうだね。何より、その魔の森とやらを私では突破できる気がしない</p><p>ケイたちが話して聞かせた化け物を想像したのか、ぶるりと太っちょな体を震わせるホランド。エッダは ？ という顔で首を傾げていたが、幼い彼女が話を聞いていなかったのは幸いというべきか。確かエッダは、年相応に怖がりだったはずだ。</p><p>ところで、馬賊はどうだった？　かなりの規模らしいと聞いたけれども</p><p>ああ、それなら壊滅した。もう問題はないと思う</p><p>事も無げに答えたケイに、意表を突かれて目を瞬かせるホランド。</p><p>商人であるホランドには何か益があるかもしれないので、ケイは率直に馬賊が『壊滅させられた』旨を伝えた。街道沿いの治安が回復すれば、再び北の大地では交易が活発化するだろう。コーンウェル商会には直接関係はないが、その余波は何かしらの影響を及ぼすかもしれない―ホランドはケイのもたらした『速報』に感謝していた。</p><p>ほうほう、良いことを聞いた。ディランニレンで商品のやり取りが滞っていたらしいからね、それが解消されるとなると……それなりに準備が必要だろう。事前に知らせてもらえて良かったよ、ありがとうケイ</p><p>でも、お兄ちゃんたち、よく馬賊に襲われて無事だったね？</p><p>心なしかワクワクとした様子で、エッダが言う。恐ろしい北の大地、暴れ回る馬賊、そしてそんな土地を旅して戻ってきたケイたちに、ある種の冒険譚のような憧れを抱いているのだろう。実際の、血生臭い現場を目にした立場からすれば、そんなにきらきらと輝く目を向けられても―困ってしまうのだが。</p><p>……そうだな、大変だったよ</p><p>かいつまんで、そして直接的な表現は避けて、ケイは北の大地での旅を語った。隊商に合流して街道を北上したこと、斥候の任務を言い渡され、仲良くなった雪原の民の男と共に馬に乗って広大な平野を駆け回ったこと、そして馬賊の襲撃―『殺す』という言葉を使わないようにするのには骨が折れた。</p><p>時折、ケイが言葉に詰まったときは、アイリーンがそれとなく助け舟を出して、より優しい言葉で上手く情景を言い表してくれた。『悪い馬賊をやっつける』ケイを想像し、エッダはしきりに感心したり無邪気に喜んだりしていたが、ホランドはしかし、若干険しい表情をしていた。</p><p>ケイが大袈裟に話を盛る人間ではなく、そして何より、“大熊(グランドゥルス)“さえ一撃で絶命させる強弓の使い手であることを知っているだけに、ケイたちが巻き込まれた戦いの規模に圧倒されていたのだろう。同じ行商人として、賊の襲撃には思うところもあったらしい。そしてその影響や、北の大地の今後についても、思いを馳せているようだった。</p><p>……それで、二人とも、今後はどうするつもりなんだい？</p><p>北の大地の話が一段落したところで、おもむろに、ホランドが尋ねてくる。</p><p>ケイとアイリーンは、ぴったり息の合った仕草でほぼ同時に腕組みをし、 うーん と唸った。</p><p>そうだな……まだはっきりとは決めてないんだが</p><p>とりあえず、オレたちとしてはサティナに落ち着こうかなって思ってる</p><p>ケイはウルヴァーンの名誉市民だが、税金の支払い義務はあれど、必ずしもウルヴァーンに住む必要があるわけではない。自由民としてサティナに居着くか、あるいはウルヴァーンの市民権をとっかかりにサティナで市民権を取得するという手もある。市民権取得は容易ではないが、相応のコネと『利』があれば不可能ではないはずだ―</p><p>それで、折り入って、ホランドの旦那に相談したいことがあるんだ</p><p>ニヤリと笑って、アイリーンが口を開く。意味深な口ぶりに、何かを察したのか、ホランドは ほう と笑みを浮かべて身を乗り出した。</p><p>実は、例の”警報機(アラーム)”、ぼちぼち商品化を目指そうと思うんだ</p><p>待っていたよ。その言葉を</p><p>ばしん、と膝を打ってホランド。</p><p>あれが売り出せるならば莫大な利益が見込めるだろう。個人向けに売ってもいいし、ある程度実績ができたら貴族にも売り込みをかけてもいい</p><p>おお、協力してくれる？　あれ材料費とか結構かかるし、試作もしてみたいからさ</p><p>もちろんだとも、それならば全面的に支援できると思うよ。……ただ、あの魔道具はかなり有用だから、逆に君の身を縛ることにもなりかねない。……その覚悟はある、と見てもいいのだね</p><p>程度によるけどな。オレはケイと一緒に暮らせるなら、あとはなんでも良いよ</p><p>潔く言い切るアイリーンに、ホランドはわざとらしく眉を上げてケイを見やり、ケイははにかんだ笑みを浮かべて照れた。エッダは遠い目をしていた。</p><p>まあ、……なんだ。詳しい話はサティナですることにしよう</p><p>話を進めようとするアイリーンを、ホランドは手で制する。</p><p>……ココじゃない方がいい？</p><p>道中でもいいよ</p><p>なるほど。旦那が言うならそうしよう</p><p>ここはコーンウェル商会の『ウルヴァーン支部』だ。多分、支部やら本部やらで人間関係や実績に関して色々あるのだろうな、と即座に察したアイリーンは、すんなりと引き下がる。</p><p>……私ももう歳だからね。そろそろ行商も身に堪えるな、と思っていたところだったんだよ。母さんや、エッダのこともある</p><p>傍らに腰掛けた養女の頭を撫でながら、ホランドは静かにそう言った。</p><p>そろそろ身を落ち着けたいわけだが、そうするにはやはり、それ相応の手柄が、ね</p><p>ぱちん、とウィンクするホランド。 まあ、軌道に乗れば私自身がまた駆けずり回ることになるかもしれないが と笑う彼は、紛れもなく商人の顔をしていた。</p><p>ところで、二人とも、夕食について何か予定は？</p><p>特に考えてないけど？</p><p>それだったら、一緒にどうかな。『Le Donjon』でディナーでも</p><p>『Le Donjon』といえば、ホランドと同じ高原の民(フランセ)が経営するレストランだ。身内向けの高級志向、といった風情の店で、少々割高だが味は素晴らしく、ウルヴァーン滞在中ケイたちも度々訪れては舌鼓を打ったものだ。</p><p>おっ、いいな！</p><p>ぼちぼち空腹を覚えつつあったケイは、一も二もなく飛びつく。</p><p>じゃあ、ちょっと着替える必要がありそうだ</p><p>ほとんど着たきり雀の旅装を指で摘んで、苦笑いするアイリーン。</p><p>その後、商館を辞した二人は、宿屋に飛んで帰って身支度を整えた。アイリーンは水色のワンピース。ケイはカジュアルな麻のシャツと革のベストに着替える。ラフな格好をしていると、腰に括り付けた弓のケースだけがやたらと無骨に見えるが、これは仕方がない。</p><p>日が沈んで夕方の鐘が鳴るなり、二人はうきうきと連れ立って宿を出た。一応、財布は持っていくが、この流れならホランドの奢りになりそうだ。久々すぎてレストランの場所を忘れてしまい、しばし道に迷ったのは誤算だったが、ホランドはそもそも時計を持っていないこともあって、待ち合わせの時間には寛容なのが救いだった。</p><p>ル・ドンジョンの前では、エプロンドレスでおめかししたエッダに加え、ホランドの母のハイデマリーと、幼馴染みにして護衛のまとめ役でもあるダグマルまでやってきていた。ダグマルもケイたちのことは心配していたらしく、二人を熱い抱擁で出迎えた。</p><p>夕食は素晴らしいものとなった。</p><p>キャンドルの灯りに照らされながら、ベリー類の甘酸っぱい爽やかな食前酒で乾杯。エッダはお酒の代わりにレモンのジュースを供されていた。前菜は淡水エビと旬の野菜のコンソメゼリー、メインは仔牛のカツレツ。デザートにはバニラに似た香料が使われたクリームブリュレ。どれも『こちら』の世界で作るには恐ろしく手間のかかるもので、ボリュームたっぷりの上質な料理にケイもアイリーンも大満足だった。</p><p>ハイデマリーがゼリーを飲み込み損ねて咽(むせ)たり、早々に酔っ払ったダグマルが下品なジョークを飛ばし他の客のひんしゅくを買ったりと、些細なトラブルはあったものの、つつがなく優雅で楽しい時間を過ごし、その日は解散となった。</p><p>ホランドによると、二週間もすれば、再び行商でサティナ方面へ出発するらしい。次の日は旅の疲れを取るように宿屋でのんびりと過ごし、その後もウルヴァーン近郊へピクニックに出かけたり、川沿いの村に足を運んで地ワインを味わったりと、存分に羽を伸ばしたが、それでも二人の頭の片隅にはいつも図書館に残した手紙のことがあった。</p><p>―平服に騎士を無理やり押し込めたような男、『カジミール』が、ヴァルグレンの使いとして”HangedBug”亭を訪れたのは、その数日後のことだった。</p><p>62. 星見</p><p>お久しぶりです！</p><p>Not nekomimi, but hyomimi</p><p>キャラデザラフ・バーナード＆コウ</p><p>リアルって素晴らしい</p><p>素晴らしい（昇天）</p><p>ヴァルグレン＝クレムラート氏のお言葉を伝える。『約束を憶えていてくれたこと、嬉しく思う。突然だが今夜八時、第一城壁の南門にて待つ』とのことだ</p><p>朝、“HangedBug”亭を訪ねてきた男、カジミールはむっすりとした顔でそう告げた。その筋骨隆々な体躯を、やたら仕立ての良い平服に押し込み、どこか窮屈そうにしている。お世辞にも機嫌が良いとは言えず、口に出さずとも なぜ自分がこんなことをせねばならないのだ と思っているのがありありと伝わってきた。</p><p>食堂で朝食を摂っていたケイたちは元より、他の宿泊客たちも突然の珍客の登場に顔を見合わせている。下町の宿屋には、えらく場違いな存在だった。</p><p>今夜か……随分と急な話だな</p><p>スープで堅パンをふやかして食べていたアイリーンが、ごくんと口の中のものを飲み込んで言う。すると、カジミールは思わずムッとした様子で、</p><p>閣下―いや、ヴァルグレン様はご多忙の中、わざわざ貴様らのために貴重な時間を割いて下さっているのだ！　光栄に思え！</p><p>が、すぐに声を荒げてしまったことを恥じるかのように、咳払いして誤魔化す。</p><p>……オホン。それで、もちろん来れるのだろうな？</p><p>いや、まあ……行けるけどさ</p><p>不承不承、答えるアイリーン。その隣でこくこくとケイも首肯する。射殺さんばかりの眼光で睨みつけられれば、NOと答える気は起きなかった。事実、ケイもアイリーンも暇なのだ。</p><p>よろしい。此度は専門の天文学者も同行するそうだ。いいな、今夜八時に第一城壁の南門前だぞ。しかと伝えたからな！</p><p>用事は済んだ、とばかりに踵を返し、肩で風を切って去っていくカジミール。後には呆気に取られたような”HangedBug”亭の面々だけが残された。</p><p>……あの人、前にも来たわよね。何なの？</p><p>水差しを手に立ち尽くしていたジェイミーが、再起動して尋ねてくる。他の宿泊客も我に返って朝食を再開していたが、やはり興味津々なのか、さり気なくケイたちの会話に聞き耳を立てているようだった。</p><p>まあ、知り合いのお偉方の使いだな</p><p>木製のカップの水を飲み干して、ケイは肩をすくめる。ジェイミーはおかわりの水を注ぎながら、 ふぅん とカジミールが去っていった扉を見やった。</p><p>でも使いって言っても、あの人自身も……その、やんごとなき身分なんじゃない？</p><p>庶民の格好が全然似合ってないんだけど、とジェイミー。</p><p>多分、そうだろうな</p><p>ケイは曖昧に頷いた。あの鍛えられた肉体を見るに、十中八九軍属だろう。そして、あの溢れる気品からして、ただの一兵卒ということもあるまい。おそらくは騎士階級。</p><p>……そんなのを小間使いにするなんて、そのお偉方って何者なわけ？</p><p>ジェイミーの疑問は尤もだ。ヴァルグレンがさらに高位の貴族だったとして、カジミール『しか』使いに出せる人間がいないのか、あるいは使いに出せる人間の中で一番の『木っ端』がカジミールなのか―</p><p>わからん。というか、俺たちも詳しく知らないんだ。たまたま知り合っただけというか……そもそも身分に関しては、先方も『隠している』つもりらしい。だから彼も変装させられてるんだろうさ</p><p>あらあら、色々と『ワケあり』ってことね。……夜に城門の前で待ち合わせなんて、何をするつもりなの？</p><p>ジェイミーは遠慮なく詮索してくる。少なくとも、周囲の宿泊客たちはそんな彼女の姿勢を歓迎しているようだった。</p><p>が、残念ながら彼らの期待に応えられるほどの答えはない。</p><p>別に大したことじゃないさ、星を見に行くだけだ</p><p>へ？　星？</p><p>そう、星だ</p><p>こう見えてケイは天体観測の専門家でな</p><p>ベーコンを豪快に噛みちぎりながら、アイリーンが口を挟む。</p><p>以前、その『お偉いさん』に色々と教えてもらったとき、見返りにケイが星に関する知識を披露する約束になってたのさ。それが今日だったってワケ</p><p>ああ、……そう</p><p>ジェイミーはどこか釈然としない様子だったが、ケイやアイリーンが嘘をついている風もないので、結局は肩をすくめるに留めた。</p><p>変なの。あっ、そういえば、来週から部屋はどうするつもり？　延長する？</p><p>宿の話だ。初日にまとめて数日分、部屋を取ってあるが、それも今週末で終わる。</p><p>いや、結構だ。そろそろウルヴァーンを発つからな</p><p>あらら。また旅に出るの？</p><p>旅、というか……サティナに戻る予定だよ</p><p>ケイが答えると、ジェイミーは へぇ…… と少し俯いて、短く切った亜麻色の髪を指先にくるくると巻きつけた。</p><p>寂しくなるわね</p><p>言葉とは裏腹に、それほど寂しそうな表情はしていなかった。ケイとアイリーンを交互に見やったジェイミーは、どちらかと言うと二人を羨んでいるようにも見えた。</p><p>†††</p><p>その夜。</p><p>カジミールに睨まれるのは御免だったので、ケイたちは約束の時間よりも少し早めに城門前で待っていた。</p><p>既にとっぷりと日は暮れている。この頃は、段々と日が短くなってきた、とケイは星空を見上げて思う。街の住民たちも、ほとんどが床についているのだろう、周囲の家々に明かりはなく、門前でたかれた篝火だけが立ち尽くす二人を照らしている。時折、門の守衛所から胡乱な眼差しを向ける衛兵たちの他は、人影もない。</p><p>やあやあ、こんばんは。お待たせしたかな</p><p>と、聞き覚えのある声。守衛所の扉が開き、見知った初老の男が姿を現した。</p><p>ヴァルグレン＝クレムラート氏だ。</p><p>続いて、その後ろから平服姿のカジミールと、見知らぬ中年のギョロ目の男。</p><p>んっ</p><p>んんっ</p><p>篝火の明かりに照らされたヴァルグレンの顔に、ケイとアイリーンは笑いを噛み殺してどうにか無表情を保った。</p><p>―『髪』が変わっていたのだ。</p><p>以前は銀色キノコヘアの異名を（二人の間で）ほしいままにしたヴァルグレンだが、今宵は装いも新たに、茶髪ロン毛での登場だった。</p><p>丸顔に団子鼻の人の良さそうな初老の男が、艶やかなサラサラロングヘアで微笑んでいる様はまるで冗談のようだった。</p><p>結局あの銀髪おかっぱカツラは見つからなかったのか―代替品にしてもなぜロン毛をチョイスしたのか―というよりそのウィッグはそもそも女物ではないのか―思うところは色々とあったが、とにかく真顔を維持するのに必死で挨拶すらままならない二人に、ヴァルグレンはにこやかに笑いながらファサッ……と髪をなびかせてみせた。</p><p>伸ばしてみたんだ。似合うかな？</p><p>その一言がトドメとなり、ブッと噴き出すケイたち。どうにか体裁を整えようとする二人にカジミールが怖い顔を見せたが、ヴァルグレンは悪戯を成功させた子供のように大笑いしていた。</p><p>―それでは紹介しよう</p><p>二人が落ち着いたあと、ロン毛カツラを取っ払って禿頭に戻ったヴァルグレンが、傍らのギョロ目の中年男性を示した。</p><p>こちらが天文学者のパブロ＝ロブレス博士だ</p><p>どうも。今夜は星の動きと天候の関連性をご教授頂けるとのことで</p><p>ギョロ目の男―『パブロ』は、品定めするようにケイへじろじろと無遠慮な視線を向けていた。態度から察するに、『星を見れば数日後までの天気がわかる』というケイの話を疑ってかかっているようだ。 よろしく とケイも会釈したが、何とも気まずい空気が流れる。</p><p>腰のベルトに差した豪奢な長剣の鞘を撫で、カジミールが ふん と鼻を鳴らした。</p><p>それでは行くとしよう</p><p>そんな気まずさなどどこ吹く風で、ランタンを掲げたヴァルグレンが歩き出す。ランタン―金細工の枠組みに支えられたガラスの箱の中には、大きめの水晶が据えられており、それが柔らかな白い光を放っているのだ。ケイとアイリーンはそこに背中に羽を生やした小人の姿を幻視する。ヴァルグレンの契約精霊、『白光の精』“トーボルグ”だ。</p><p>以前、天体観測をしたときと同様に、市庁へと向かう。市庁舎は、城や見張りの尖塔を除けば、市街で指折りに背の高い建物だ。その屋上で天体観測と洒落込むわけだが、無人になる夜間とは言え、公共施設を自由にできる辺りヴァルグレンの底知れぬ影響力が窺い知れる。</p><p>今回は、天文学者のパブロが実用的な望遠鏡を持参しているようだ。前回、シーヴが暴走し吹き飛ばしてしまった豪奢な望遠鏡と銀髪カツラの件で、もしも弁償を求められたらどうしよう、とケイは歩きながら気が気でなかったが、幸いヴァルグレンがそれらに言及することはなかった。</p><p>カジミールが先行して市庁舎の様子を確かめ、異常がなかったので屋上まで上がる。パブロが背負袋から器材を取り出してせっせと三脚を組み立て、望遠鏡を据え付けた。</p><p>さて、それでは……詳しい話をお聞かせ願えますかな</p><p>腰に手を当てて、ぎろりとケイを見やってパブロ。ケイはしばらく彼を観察していて気づいたのだが、パブロはギョロ目のせいでキツい顔つきに見えるだけで、別にケイに思うところがあるわけではないようだった。</p><p>わかった。まず天候についてだが、鍵となるのはあの赤色の星だな</p><p>ワードナ ですか</p><p>そうだ。そしてそれを取り囲むオレンジ色の星々で構成されるのが”神秘の魔除け”座……で、あってるよな？</p><p>いかにも</p><p>鷹揚に頷くパブロに、ケイはホッと胸を撫で下ろしていた。星と星座の名は、ゲーム内と『こちら』で共通しているようだ。</p><p>話が早い。あの”神秘の魔除け”座の中には……何というべきかな……ドリル状、と言っても通じないか、そう、螺旋を描くように色とりどりの星が並んでいるんだが……</p><p>どうにか語彙を駆使して、説明を始めるケイ。望遠鏡を覗きながら、パブロは相槌を打って話を聞いている。</p><p>その星の並びについては、我々の業界でも有名ですな。不規則な色の星々が、日ごとに循環している―それが世界の魔力の流れの顕れである、と言われておりますが</p><p>ほう、それについては初耳だ。しかしそれもあり得る、もしあの星々がこの世界の魔力の流れに関連しているならば、『世界の事象』たる『天候』がそこに反映されていてもおかしくないだろう？</p><p>いや、しかし、あの星々の色の規則性については研究が進んでおりますが、天候に関連しているならば、誰かが気づくはずでは</p><p>いや、天候を予測するにはこれだけでは不十分なんだ。南の空に青色の星 ニルダ と”守護の御杖”座がある。実は”守護の御杖”座の星の輝きと連動してるんだ</p><p>なんですと？</p><p>“魔除け”座をもう一度見てくれ。星の渦、下側の一番近いところから順番に色を見て欲しい。片一方は赤、赤、橙、橙、白、青白、青、……となっているはずだ</p><p>ケイの言葉に、パブロがきりきりとつまみを捻ってピントを調節する。</p><p>赤、赤、橙、白、青白、青……ふむ、ここまで肉眼で見えておられるので？</p><p>まあな。それで、その後が、青白、白、橙、橙……</p><p>は？　……は？　いやいや、待て待て。そこまでは見えませんぞ</p><p>は？　望遠鏡でも見えないのか？</p><p>いや、君……私も目の良さには自信があったんですがな、肉眼ではそもそも星の渦の三番目程度までしか……</p><p>まあいい、何にせよ最初の七つが見えるなら何とかなる……</p><p>ケイが空を指差してあれやこれやと語り、そのたびに忙しなく望遠鏡の向きを変えて星を観察するパブロ。何だかんだで二人とも楽しげな様子だ。</p><p>石像のように佇むカジミールをよそに、ヴァルグレンとアイリーンはそんな二人を微笑ましげに見守っている。</p><p>……そうだ。それで、お嬢さん、北の大地はどうだったかね？</p><p>二人を邪魔しないように、そっと静かな声でヴァルグレンが話しかけてきた。</p><p>ん？　うーん……そうだな、大変だったよ</p><p>腕組みしながら、ふぅと溜息をついてアイリーン。ヴァルグレンの頭でキャッキャとはしゃぐ光の妖精は、極力視界に入れないように心がける。</p><p>ぽつぽつと、呟くようにしてアイリーンは北の大地での経験を語った。馬賊の出没に始まり、治安の悪化、民族間に漂うぴりぴりとした悪感情、そして隊商での戦闘。魔の森については、ヴァルグレン相手だと、高確率で面倒なことに巻き込まれる予感がしたので、別世界の概念やオズを始めとする『悪魔』の説明はざっくりと削る。</p><p>ヴァルグレンは、特に北の大地の情勢に興味があるらしく、神妙な面持ちで耳を傾けていた。</p><p>ほう……『魔の森』には、本当に斯様な賢者が</p><p>ああ。正体については、のらりくらりとかわされて明かしてもらえなかった。でも呪文なしで『魔法みたいなこと』をやってのけたあたり、大精霊みたいな存在じゃないかな、って個人的には思ってる</p><p>さもありなん……</p><p>アイリーンの説明に、ヴァルグレンは納得したようだった。</p><p>しかし、あの霧の中にそんな化け物がいたとは。つくづく、前回の調査で、興味本位で立ち入らなくて良かったと思うよ</p><p>本当だぜ。もし踏み込んでたら、今頃旦那はここにいないかも</p><p>怖いことを言うなぁ</p><p>ぺちん、と頭を叩いて苦笑いするヴァルグレン。カジミールが背後から厳しい目を向けてきたが、アイリーンは気にしない。</p><p>そうだ。北の大地といえば、医薬品が足りてないみたいだぜ。もっと送ったらいい商売になるんじゃないかな、あっちはあっちで”真なる銀(ヴェラ・アルジェント)“とかいう金属の優れた武具があるらしいじゃん？</p><p>どうせヴァルグレンも本当は一端の貴族なのだろう、と踏むアイリーンは、そんな話を振ってみた。もしヴァルグレンに伝手と財力があるならば、商売のチャンスになって良し。北の大地に公国の優れた医薬品がもっと行き渡れば、雪原の民が助かって良し。WINWINな取引になるだろう、と思ったからだ。</p><p>そのようだね。……そうか、薬が足りていないのか</p><p>曖昧な笑顔を浮かべて、ヴァルグレンは顎を撫でた。</p><p>……それならば、もっと送らねばなるまいて</p><p>何やら不穏な気配を漂わせる初老の男に、アイリーンは胡乱な目を向ける。―直感的に、やはりこの男とは関わり合いになりたくないな、と思った。</p><p>しかしそんなアイリーンの内心をよそに、ヴァルグレンは改めてケイを見やる。</p><p>ところで、君らはこのあと、どうするつもりなのだね？</p><p>どう、とは？</p><p>ほら来た、と胸の内で呟きながら、アイリーンはヴァルグレンの真意を尋ねる。</p><p>なに、今後の予定だよ。ずっと仮宿住まいというわけにもいかないだろう？</p><p>あー……それなら、ぼちぼちサティナに戻ろうかなって</p><p>ほう？　しかし、ケイはウルヴァーンの市民権を取ってあるし、君ら二人とも図書館の年会費を払ったばかりではないかね？</p><p>ぱちぱちと目を瞬かせてヴァルグレン。ウルヴァーンを離れる意志を見せたことに驚いたようだ。そして、市民権に関してはさておくとしても、図書館の会費は決して安いものではなかった。なにせ金貨が吹き飛んだくらいだ―まだ十ヶ月以上図書館を利用できるのに、今去ってしまうのはあまりに惜しいのではないか、とヴァルグレンは言外にそう言っている。</p><p>や、まあそうなんだけどさ。サティナの方が余所者には暮らしやすいっていうか……ウルヴァーンは、異邦人に冷たいじゃん？</p><p>……そうかもしれないが</p><p>あと、家を借りるのも予算がないし、宿も結構高いしなー。サティナで安い家でも探そうかな、って思ってるよ。サティナの方が、近くに未開発の森もあって、ケイが弓の腕を活かしやすそうだし</p><p>そうか……うぅむ、しかし、彼ほどの弓の腕前でただの狩人とはあまりに惜しい</p><p>ヴァルグレンは、ふとそこで初めて思い出したかのように、首を傾げた。</p><p>それに、彼は風の精霊と契約しているのではないかね？</p><p>にっこりとした笑みの中で、その瞳だけは笑っていない。</p><p>なんなら、ウルヴァーンの魔術学院でも紹介するが……</p><p>いや～……意味ないんじゃないかな。ほら、旦那も知っての通り、ケイの精霊って、その……なかなか自由でさ。それにケイも若すぎるし、魔力も弱いしで、まともに扱えないんだってさ。魔術学院ってのはそりゃ有り難い話だけど、ちょっと難しいと思う</p><p>ふむ。……君も、素質があるように思われるが？</p><p>いやいや、学院ってガラじゃないから遠慮しておくよ、オレはただのんびり過ごせたらそれでいいんだ……</p><p>たはは、と困ったような笑みを浮かべてアイリーンは少し距離を取った。</p><p>そうかね？　それは残念だ</p><p>飄々とした様子で、ヴァルグレンはおどけて肩をすくめてみせる。それほど固執するつもりもないようなので、アイリーンは密かに胸を撫で下ろした。</p><p>……そうさ、それでいいんだ</p><p>何やら熱心にパブロと話し込むケイを見て、アイリーンは儚く笑う。</p><p>―彼には、のびのびと過ごして欲しい。</p><p>人の欲望やしがらみとは無縁に、ただ自由に生きてもらいたい。そして、そんなケイを、屈託なく笑う彼の姿を、ずっと見ていたい―それが、アイリーンの願いだ。</p><p>あっ。っていうか、オレも天気予報の方法は知らないんだよ。忘れてた</p><p>いつもケイに任せっぱなしで、結局アイリーンも具体的な方法論については知らないままなのだ。望遠鏡もあることだし、今ここでケイの解説を聞かずしてどうする、と思い立ったアイリーンは、いそいそと熱心に話し込む二人へ近づいていった。</p><p>パブロの旦那、オレも望遠鏡(コレ)借りていい？</p><p>むっ。もちろん構いませんが……壊さないように</p><p>大丈夫、だいじょーぶだって</p><p>ああっ、そんなに強くツマミをひねらないように！　繊細なんですから！</p><p>やいのやいのと騒がしい三人を、ヴァルグレンは微笑ましげに見守っている。</p><p>ただ、その後ろで腕組みをするカジミールだけが、つまらなさそうに ふん と鼻を鳴らしていた。</p><p>†††</p><p>結果、ケイはパブロに、己の持ち合わせる天候予測の知識を全て伝授した。</p><p>真偽については、今後パブロを始めとする天文学者たちがデータを取って確認するそうだ。その点、ヴァルグレンはケイをある程度信用しているらしく、結果がわかるまでウルヴァーンで待つ必要はない、と言い残していった。</p><p>去るなら、別にそれで構わないというわけだ。</p><p>数日後、コーンウェル商会の隊商も準備が整ったとのことで、ケイとアイリーンは、ウルヴァーンを発ち、サティナへ戻ることにした。</p><p>早朝、“HangedBug”亭の面々に別れを告げ、サスケたちを伴って街の外へ。ウルヴァーン外縁部の宿場町では、既に隊商の馬車が列を為している。ホランドとエッダ、そして以前旅路を共にした護衛仲間たちの懐かしい顔がそこにはあった。</p><p>ケイが隊商にいてくれるなら百人力だぜ！</p><p>また”大熊(グランドゥルス)“が出てもへっちゃらだな！</p><p>道中の飯が豪華になるぞ～！</p><p>皆、ケイの弓の腕前には絶大な信頼を寄せているようだ。今回、ケイとアイリーンは護衛ではなくただ同行するだけなのだが、それでも眠りながら進むわけではないので、それなりに警戒はするしトラブルがあれば対処する。隊商の皆からすれば頼もしい戦力には違いなかった。</p><p>いやー、なんだか懐かしいな。こうして並んで進むのは</p><p>隊商が進み出し、荷馬車の横で手綱を握るケイは、御者台のホランドに話しかけた。</p><p>そうだね、でも前回一緒にウルヴァーンに来たときから、まだ三ヶ月くらいしか経ってないんじゃないかな</p><p>まだそんなもんか</p><p>いやーここ数ヶ月は濃かったからなぁ……</p><p>背中に背負った円盾の位置を調節しながら、しみじみとアイリーン。</p><p>おにーちゃんが一緒だと安心だね！</p><p>ホランドの横に座るエッダが、バンザイのポーズではしゃいでいる。ヴァルグレンの都合によっては、ケイたちが一緒にサティナに来れなかったかもしれないので、随分と心配していたそうだ。晴れて一緒にいられて嬉しいのだろう。</p><p>と、そうこうしていると、ホランドの馬車の幌の中から、ぽろろん、と柔らかな琴(ハープ)の音が響いてきた。</p><p>ああ、そういえばお客さんを紹介していなかった</p><p>おや、という顔をするケイとアイリーンに、ホランドが背後に何事か話しかける。</p><p>すぐに、馬車の幌からひょっこりと浅黒い肌の男が顔を出した。羽飾りのついた帽子をかぶり、小洒落た服を身にまとった、凛々しい顔つきの美青年だ。</p><p>こちらは、吟遊詩人の『ホアキン』。彼とは長い付き合いでね。今回サティナへの旅を共にすることになったんだ</p><p>ご紹介に与りました、『ホアキン＝セラバッサ』です。歌と琴を生業としております……お二人とも、どうぞよしなに</p><p>帽子を脱いで会釈する吟遊詩人―ホアキン。きらりと白い歯が眩しい。独特な訛りがあるが、海原の民(エスパニャ)だろうか。</p><p>彼の琴の腕前は大したものだぞ。大精霊はホアキンにこそ琴の才を与えたもうた。休憩時間を楽しみにしているといい</p><p>ホランドは上機嫌だ。ホアキンははにかんだような笑みを浮かべている。</p><p>ウルヴァーンからサティナへと向かう旅は、そうして和やかに始まった。</p><p>63. 吟遊</p><p>今回は Dehors Lonc Pre という中世の曲を参考にしてみました。</p><p>川のほとり。</p><p>穏やかな陽光の差し込む木立に、軽妙な、それでいてどこか物悲しい音色が響く。</p><p>馬車の傍、木箱に腰掛けた青年が、琴(ハープ)を爪弾きながら歌いだした。</p><p>心の落ち着き　今はなく</p><p>この胸は　ただ高鳴るばかり</p><p>かつての安らぎ　今はなく</p><p>この想い　ただ募るばかり</p><p>彼の女(ひと)いまさぬ　朝夕は</p><p>荒野にも似て　うら悲し</p><p>この眼に映る　物みな全て</p><p>冷灰のごとく　味気なし</p><p>哀れ　わがこの頭</p><p>物に狂いて　常ならず</p><p>哀れ　わがこの心</p><p>千々に乱れて　埒もなし</p><p>ああ　心の落ち着き　今はなく</p><p>この胸は　ただ高鳴るばかり―</p><p>隊商がウルヴァーンを出立して、半日が過ぎようとしている。川沿いの木立で小休止を取る隊商の面々は、思い思いに体を休めながら、吟遊詩人―ホアキンの歌声に耳を傾けていた。</p><p>ホアキンが歌うのは、どうやら一人の男が娘に恋をして、彼女の気を引くため無鉄砲な行動を繰り返すうちに破滅の道を辿っていく―という喜劇とも悲劇ともつかぬ恋歌のようだった。</p><p>ネイティブな英語話者ではないケイにとって、歌詞の全てを聴き取るのは容易ではなかったが、それでも物悲しいメロディと、それとは裏腹なえげつない内容とのギャップには思わず苦笑を禁じ得なかった。ホアキンが真面目くさって、感情を込めて男の心情を歌い上げているので、余計にその落差が引き立てられ妙な笑いを誘う。</p><p>この曲の趣旨はそういった皮肉な可笑しさを楽しむものらしく、隊商の皆も昼食を口にしながら大笑いしている。</p><p>大したものだな……</p><p>大きめの切り株に腰掛けサンドイッチを頬張るケイは、演奏の邪魔にならないよう声を落とし、隣のアイリーンに囁きかけた。ホアキンは早めに軽食を摂っていたようで、休みなく歌い続けている。</p><p>ああ。久々に音楽らしいものを聴いてる気がするぜ……</p><p>ケイと同じ切り株を分け合って、横にちょこんと座るアイリーンが、サンドイッチを咀嚼しながら頷いた。確かに、アイリーンの言う通り、音楽らしい音楽を耳にするのは随分と久しぶりのことかもしれない。</p><p>蓄音機も電子機器も存在しない『こちら』の世界では、歌は人が歌うものであり、曲は人の手によって演奏されるものなのだ。これまで、酒場や村で人々の歌う民謡は幾度となく耳にしたが、『プロ』の演奏家の曲を聴くのは今回が初めてだった。</p><p>DEMONDAL のゲーム内にも、引退したプロのミュージシャンが幾人かおり、度々演奏会が開かれていたものだ―とケイは懐かしく思い出す。その点、ホアキンの演奏は、現代社会で耳が肥えていたケイとアイリーンからしても、文句のつけようがないほど素晴らしいものだった。</p><p>いつもとは違う、賑やかな休憩時間を終えて、隊商は再び進み出す。</p><p>見事な演奏だったよ</p><p>サスケに跨り、ホランドの馬車の横を進むケイは、荷台のホアキンに声をかけた。</p><p>やあ、お褒めにあずかり光栄です</p><p>ハープを片手に、荷物の木箱にもたれかかって座っていたホアキンは、照れたように脱帽して応えた。本当に、男から見ても惚れ惚れとするような美青年だ。あらゆる動作が様になる―それでいて気取った風もなく、いやらしさもないので、ついつい好感を覚えてしまう。</p><p>『プロ』の演奏、しびれたぜ。夜も歌ってくれるんだろ？</p><p>ケイの隣で、スズカに乗るアイリーンが身を乗り出して尋ねる。</p><p>ええ、もちろんですとも</p><p>そいつは楽しみだ</p><p>ご期待ください</p><p>和やかに話す二人。</p><p>ちなみに、出立前にホランドからこっそり教えられたのだが、ホアキンは他人の女には手を出さない主義だそうだ。 だから安心していいよ とウィンクするホランドの顔を思い出して、ケイは思わず苦笑してしまう。当の本人は、素知らぬ顔のまま御者台で手綱を握っていた。</p><p>ホアキンおにいちゃんの歌、いいよねえ。あたしもあんな風に歌えたらなぁ</p><p>ホランドの隣、御者台に腰掛けるエッダが唇を尖らせて、ぼやくようにして言う。</p><p>エッダは、声質がいいからね。いっぱい練習すれば、きっと僕よりもずっと人気の歌手になれるよ</p><p>ほんと？</p><p>うん、本当だとも</p><p>じゃあ、あたしも練習する！</p><p>にっこりと笑ったエッダは、足をぷらぷらとさせながら、先ほどホアキンが歌っていたメロディを、舌足らずながらもなぞり始めた。</p><p>ホアキンもサティナを目指してるようだが、ウルヴァーンの前はどこにいたんだ？　吟遊詩人(バード)といえば、各地を転々としているイメージがあるが……</p><p>そんなエッダを微笑ましげに眺めながら、ケイが尋ねると、ホアキンは帽子の羽飾りをいじって そうですねえ と答えた。</p><p>ウルヴァーンには一ヶ月ほど逗留しましたが、その前は東の、オスロという小さな街に滞在しておりました。その前は、さらに東の果て、辺境の都市 ガロン に</p><p>鉱山都市 ガロン か</p><p>ええ、ええ、そうです。ご存知で？</p><p>名前だけな。実際に訪ねたことはないよ</p><p>そうでしたか。熱気と活気に包まれた賑やかな街ですよ。周辺の村から出稼ぎに来る者も多いので、僕もなかなか稼ぎやすいんです</p><p>当然ながら、吟遊詩人であるホアキンの収入源は聴衆からの『おひねり』だ。極稀に貴族や商人に招かれて演奏することもあるようだが、安定しない。夏場は東の辺境で、冬場は暖かな西の沿岸部で、と旅しながら巡業するのが彼のスタイルらしい。</p><p>あまり一箇所に留まっていても、『飽き』が来てしまいますからね。ガロンなんかは大きな都市なので、酒場を転々としていけばそれなりに稼ぎ続けられるんですけど、僕には旅が性に合っているようで</p><p>照れたように笑いながら、ホアキンはそう語った。ちなみにサティナには一ヶ月ほど滞在する予定で、その後は冬になる前に港湾都市キテネへと移動するそうだ。</p><p>へえ、旅ばかりってのも疲れそうなものだがなぁ</p><p>こんな毎日ですから、旅のない人生の方が想像できないくらいですよ</p><p>移動は、やっぱり隊商と一緒に？</p><p>ええ、近場の村ならともかく、一人で旅するのはおっかないですね。特に、吟遊詩人なんかはお金を持ち歩く場合がほとんどですから、狙われやすくって</p><p>成る程、それは確かに恐ろしいな</p><p>しみじみと相槌を打つケイ。</p><p>なあなあ、いろんなところに行ったことがあるみたいだけどさ。やっぱり、地域ごとに人気な歌って違ったりするのか？</p><p>アイリーンは興味津々な様子で質問を投げかける。ホアキンはポロロンと琴を鳴らしながら、 ふむ と考え込んだ。</p><p>そうですね。東の辺境では、明るい喜劇か、意外と恋歌なんかが人気ですね。逆に西の都市部では、英雄譚や冒険譚がより好まれているように感じます。尤も、初めはみな娯楽に飢えているので、どんな曲でも等しく歓迎されますが……</p><p>へえー。例えば、どんな歌があるんだ？</p><p>先ほどの『恋狂いのジョニー』なんかは、かなりの人気曲ですが、そうですね、最近といえば……ああ、交易都市サティナを舞台にした、『正義の魔女』事件の歌は、東の辺境でも大人気でしたよ</p><p>……『正義の魔女』？</p><p>首を傾げるアイリーン。</p><p>ええ。しばらく前に、南から流れてきた同業者に聴かせてもらいましてね。サティナに巣食う麻薬の密売組織を壊滅させ、誘拐された幼い少女を救い出した、旅の魔法使いの話です。なんでも、つい最近起きたばかりの実話が元になっているそうで、その魔法使いは影の精霊を従える、息を呑むほどに見目麗しい金髪の乙女だったとか……</p><p>ホアキンは、ふとアイリーンを見やってくすりと笑った。</p><p>そういえば、アイリーンも『金髪の乙女』ですね</p><p>えっと……うん、まあ……</p><p>アイリーンは何とも言えない顔で曖昧に頷いている。わかってて言っているのだろうか、と思うケイだったが、御者台のホランドとエッダを見ると何やら笑いを噛み殺していた。ひょっとすると、ホアキンは何も聞かされていないのかもしれない。</p><p>それと他には……辺境で大暴れしたという北の大地の戦士『銀刃』の武勇伝や、北東の街オスロ近郊の山に現れるという『白き竜』の伝承……ああ、そういえば、ここらの村であったという『大熊殺しの狩人』の伝説、これも辺境で人気でしたよ</p><p>『大熊殺しの狩人』……？</p><p>首を傾げるケイ。</p><p>ええ。小さな開拓村を襲った突然の悲劇― 深部(アビス) より出でし恐怖、“大熊(グランドゥルス)”。山の如く巨大な怪物の襲撃に、あわれ無力な村人たちの命は風前の灯火かと思われた。が、まさにそのとき！　そこに屈強な狩人が颯爽と現る。見上げるほどに巨大な化け物に、怯むことなく鋭い一矢を浴びせ、心の臓を見事撃ち抜いた―！</p><p>途中から、ハープを爪弾き、ノリノリで歌い始めるホアキン。</p><p>ええ、これも人気ですし、僕もお気に入りの英雄譚です。なんでしたら、今夜、本格的にお聴かせしますよ。異邦の旅人が颯爽と現れ、人々の危機を救う話っていいですよねえ。黒髪に、深く穏やかな漆黒の瞳。その者、褐色の駿馬を駆り、面妖なる蒼き革鎧を身にまとい、朱き強弓を携え……</p><p>と、そこまで口にしたところで、ふとハープを弾く手を止め、ホアキンは眼前のケイをまじまじと凝視した。</p><p>黒髪黒目で褐色の馬を駆り、青みを帯びた革鎧を装備して朱色の弓を携えた若き異邦の戦士を―</p><p>えっと……</p><p>何とも言えない顔をしているケイを前に、硬直して視線を彷徨わせるホアキン。</p><p>……ブッ。ンふっ、くふふ……ッ</p><p>と、そんなホアキンを横目でチラ見したホランドが、堪えきれずに噴き出した。</p><p>……その、まさかとは思いますが？</p><p>恐る恐る尋ねてくるホアキンに、ケイはどう答えるべきだったのだろうか―</p><p>―ええっ！？　嘘でしょう？！　まさか貴方のことだったとは！</p><p>ホランドから事実を知らされた際のホアキンの仰天っぷりは、その後、隊商の皆の間でも語り草になったという。</p><p>大興奮のホアキンの矢継ぎ早の質問に答えるうち、日は傾いていき、やがて隊商は小さな村に辿り着いた。</p><p>今日は、この村で一夜を明かすのだ。アイリーンが”警報機(アラーム)“を取り出し、影の魔術を披露した際の、ホアキンの顔はなかなかに見ものだった。</p><p>次回、やり手の吟遊詩人に魔道具を売り込んでみよう　の巻</p><p>64. 営業</p><p>お久しぶりです！！</p><p>前回のあらすじ</p><p>吟遊詩人 昔々あるところに、正義の魔女ありけり</p><p>アイリーン（オレだ……）</p><p>吟遊詩人 昔々あるところに、大熊殺しの狩人ありけり</p><p>ケイ 俺だ！！</p><p>吟遊詩人 えッ！？</p><p>月夜だ。</p><p>草原の風が頬に心地よい。</p><p>頭上には、ケイの瞳には眩しいほどの満月。</p><p>篝火に照らされた村の広場に、陽気な音色が鳴り響く。普段は寂れた小さな農村も、今宵ばかりは賑々しい。木箱に腰掛けたホアキンが、大勢の村人に取り囲まれながら琴(ハープ)を爪弾いている。</p><p>娯楽に乏しい田舎では、吟遊詩人の来訪は数少ない楽しみだ。ホアキンの歌う冒険譚に、恋物語に、そして大都市を舞台とした悲喜劇に、大人も子供も目を輝かせている。</p><p>さらに今夜の演奏は特別だ。まるで映画のスクリーンのように張られた荷馬車の幌、そこに踊る影。アイリーンが仕掛けた”警報機(アラーム)“から伸びる影が、ホアキンの歌声にあわせて物語の情景を描き出していた。</p><p>輪郭だけでも恐ろしいような、辺境の巨大な怪物に子供たちは息を呑み、それを討ち倒す戦士の勇姿に男たちは歓声を上げた。一転、貴族の館で繰り広げられる甘い恋の一幕には、女たちもうっとりとした様子。</p><p>北の大地で成長したのは、どうやらケイとアイリーンだけではなかったらしい。水を得るため強行した『邪悪な魔法使い』作戦などを通し、ケルスティンは現代人たるケイたちにも通用するほどの演出力を身につけていた。その映像美術は『こちら』の住人に対しても効果絶大で、ケイのそばにいたエッダなどは興奮のあまり立ち上がって、飛び跳ねながら観劇していたほどだ。</p><p>大いに盛り上がったところで、最後にホアキンが陽気な歌を歌い出し、皆で篝火を囲んで踊ってお開きとなった。ケイも、アイリーンに連れ出されて、慣れないながらに踊ってみた。振り付けも何もない、ただ手を繋いでくるくる回るような単純なものだったが、その場の空気も相まってやたら楽しく感じられた。アイリーンの手を握りながら、しみじみと、 ああ、平和な場所に戻ってきたのだなぁ と実感するケイなのであった。</p><p>―いやぁ、今夜は大盛況でした</p><p>一息ついたところで、ホアキンがケイたちのテントまでやってくる。おひねり代わりにもらった果物や野菜、干し肉、果実酒の壺などでその手はいっぱいになっていた。</p><p>どうです、一杯</p><p>おっ、頂こうか</p><p>呑もう呑もう！</p><p>ホアキンの申し出に、ニヤリと笑うケイ、身を乗り出すアイリーン。三人はその場で小さな酒宴と洒落込んだ。歌い通しで疲れていたのだろう、木のゴブレットになみなみと葡萄酒を注いだホアキンは、美味そうにそれを飲み干していく。</p><p>ぷはっ。生き返りますね</p><p>この辺りの葡萄酒は美味いな。それにしても、見事な演奏だったよ</p><p>オレたちも楽しませてもらったぜ</p><p>いえいえ、ケルスティンのお陰で、僕も新鮮な気持ちで歌えましたよ。彼女は本当に凄いですね</p><p>未だ、馬車の幌でくるくると踊るケルスティンを見やって、ホアキン。</p><p>できれば、これからも共演してもらいたいくらいです</p><p>そんな冗談交じりの言葉に、アイリーンがぴくりと反応した。</p><p>う～ん、ケルスティンはオレの契約精霊だからなぁ。ずっと共演は難しいかな</p><p>まあ、そうでしょうね</p><p>当然のことだ、と苦笑交じりのホアキンをよそに、ふむぅ、と顎を撫でながらアイリーンは思案顔。たとえ”警報機(アラーム)“を魔道具化しても、現状のような柔軟な対応は望むべくもない。そこに居るのは、宝石類を核としたある種の人工知能―ケルスティンの分霊に過ぎず、呪文として封入された行動を忠実に実行することしかできない。</p><p>が、裏を返せば、行動を設定さえしておけば、どうにかなるということだ。</p><p>……やりようによっては、あらかじめ準備しておいた影絵を、状況に応じて出力することくらいはできるかもしれないぜ</p><p>……と言いますと？</p><p>例えば、決まったフレーズなり曲なりに反応して、影絵を表示する魔道具……みたいな。“投影機(プロジェクター)“とでも呼ぼうか。どんな図柄を出すか、あらかじめ決めておく必要があるから、今夜みたいな即興は無理だけど、何種類か用意しておけば演出としては使えるんじゃない？</p><p>ほうほう。『辺境の怪物』『勇敢な戦士』『貴族の館』といった具合に、いくつか絵を用意しておいて、物語の進行具合に応じてそれを投影し切り替えられる道具、ということでしょうか</p><p>そうそう、そんな感じ</p><p>理解が早い。ホアキンは興味をそそられたようで、そのような道具をイメージしているのか、空を見上げながらしきりに頷いていた。</p><p>それは素敵ですね……でも、お高いんでしょう？</p><p>いやー、まあ、そりゃなあ</p><p>通販番組のような返しに、アイリーンも苦笑を隠せない。</p><p>魔道具の核の部分に宝石が必要だからなー。影絵を出す魔道具なんて作ったことないから、どのランクの宝石が必要になるかわかんないんだけど……インプットする影絵の数にも依存するしなあ、うーん……</p><p>アイリーン、影絵を一枚出すだけの魔道具は、どのくらいのコストがかかるんだ？</p><p>腕組みをして頭を悩ますアイリーンに、ケイが横から口を挟む。</p><p>えっ？　それなら……そうだな……影絵一枚……水晶と、それに封入する触媒……ペンダント型にするとして……んっと……</p><p>指折り数えてしばし考えたアイリーンは、やがて 銀貨五枚くらいかな という結論に至った。おそらく原価に近い値段。</p><p>影絵一つで銀貨五枚、ですか。それはなかなかですね……</p><p>庶民視点では、安い、とは言えない額だ。ちなみに、比較的大食いのケイが、飯屋で豪勢に腹いっぱい飲み食いすると、だいたい小銀貨三枚―銀貨0.3枚ほどの金額になる。酒を頼めばもっと行くだろう。</p><p>それに加えて、触媒代がかかるかな。一回使うたびに、爪先くらいの、ちぃ～っさな水晶の欠片が必要になる、はず</p><p>ちいさな、の部分を強調し、指で僅かな隙間を作ってみせながらアイリーン。あまり反応が芳しくないので、運用費はそれほどかからないことをアピールする狙いがあったようだが、ホアキンは逆に さらに金がかかるのか…… と言わんばかりの顔をした。</p><p>魔道具は高い、とは聞いていましたが、使うのにもお金がかかるんですねえ</p><p>……まあ、所詮は魔術師の手作りだからなぁ……精霊の力がこもった、本物の魔道具にはどうしても劣るさ</p><p>がくり、と肩を落とすアイリーン。</p><p>ちなみに銀貨五枚って、原価だからそこんとこヨロシクな。ホアキンの旦那の魔力がそれなりに強ければ、使用者が魔力を供給するタイプにしてもいいんだけど……</p><p>値段については心得てます、他言はしませんよ。そして僕は普通の人ですから、魔力を使うだなんて、そんな真似をしたら死んでしまいます</p><p>意外となんとか……いや、何でもない</p><p>何回か訓練すれば大丈夫じゃないか、と言いかけたケイだが、口をつぐんだ。それで万が一、失敗して死んでしまったら、責任が取れない。</p><p>しかし見方を変えれば、アイリーンの契約精霊・ケルスティンは、数いる精霊の中でもずば抜けて術行使に要求される魔力が低いので、一般人でも気軽に魔力を鍛えられる魔道具を開発できるのではないだろうか。</p><p>（……便利だが、露見すれば危険を招くかもしれんな）</p><p>あとでアイリーンと話し合っておこう、と一人頷くケイ。</p><p>―とは言え、その魔道具に大いなる可能性を感じるのも確かです。現金ばかり持ち歩いていても仕方がありませんし、それならいっそ、価値ある魔道具に換えてしまうのもアリかもしれませんね</p><p>そんなケイをよそに、やはり魔道具の魅力には抗いがたかったのか、気を取り直して前向きに検討し始めるホアキン。</p><p>オレも造ったことないから、今すぐにはできないけどな。材料の目処も具体的には立ってないし。一応、ホランドの旦那が、色々と工面してくれるって話なんだけど</p><p>ホランドの荷馬車の方を見やりながら、あぐらをかいたアイリーンが頬杖を突く。</p><p>あと、ホアキンの旦那には、できれば宣伝をお願いしたいかなって思ってたんだ</p><p>宣伝、ですか</p><p>うん。実は”投影機(プロジェクター)“より先に、“警報機(アラーム)“を商品化しようって話でさ。旦那としては、あれどう思う？　売れそう？</p><p>広場の中心に設置された警報機を指差しながら、アイリーンは問う。</p><p>範囲内に外敵が入ったとき、音が鳴る魔道具、でしたっけ</p><p>そう。あと外敵を影で脅かすおまけ付き</p><p>値段はどの程度で？</p><p>銀貨五十枚くらいかな</p><p>アイリーンの答えに、ホアキンは難しい顔をした。</p><p>厳しいですね。有用なのは確かですが、……よほどの酔狂でない限り、個人では買わないでしょう。懐に余裕のある商人なら話は別ですが、僕が商人なら、むしろその予算で護衛の数を増やそうとするでしょうね……</p><p>やっぱりかぁ</p><p>存外、辛辣な答えに、がっくりと再び肩を落とすアイリーン。</p><p>一般人に売るよりも、貴族や金持ちを相手にした方が良いのでは？</p><p>オレたちもそうしたいんだけど、実績がないからさ……</p><p>……ああ、なるほど。宣伝というのはそういう意味でしたか</p><p>実績を積み上げて次につなげたい、というアイリーンの意図を汲み取ったようだ。</p><p>そういうことなら、微力ながらお手伝いできるかもしれませんが、僕としては投影機の方がまず欲しいですね。基本的に僕は隊商に加わって、大所帯で移動することが多いので、警報機よりも影絵の方が即戦力になる、と申しますか。優先順位の問題ですが</p><p>う～ん……じゃあ、警報機(アラーム)との複合型なんてどうだろう？　投影機(プロジェクター)の機能を組み込む形でさ</p><p>いや待てアイリーン、それだと警報機単体の性能が伝わりにくいから、宣伝としてよろしくないんじゃないか？　それに機能を複雑化させるとトラブルの元だぞ</p><p>多機能すぎて失敗した数々の日本製家電を知るケイは、思わず口を挟む。ある程度目的が合致した機能を複合させるならともかく、警報機と投影機の複合型などテレビ付き防犯ブザーのようなものだ。バラして売った方が良いに決まっている。</p><p>そ、そうかもな。じゃあ、投影機に、格安で警報機をつけるって形でどうだろう……具体的な値段はホランドの旦那と要相談だし、試作もしないといけないし、すぐの話にはならないと思うけど</p><p>ええ、ええ、それで構いません。僕としても楽しみです、まさか自分が魔道具の持ち主になろうとは、夢にも思いませんでしたよ</p><p>にこにこと朗らかに笑うホアキン。曰く、しばらくはサティナに滞在予定だし、仮に出ていっても冬が明ければまた戻ってくるので、別に魔道具の受け取りは急がないそうだ。宣伝も快く引き受けてもらえるとのことで、とりあえず当初の目的は達成できた。</p><p>その後、ホアキンの旅の思い出話や隊商の面々についての他愛もない噂話などで盛り上がってから、酒宴はお開きとなる。ぼちぼち眠気を覚えつつあったケイとアイリーンは、仲良くテントで寝転がったが、 う～ん…… とアイリーンはまだ何かを考えている様子だ。</p><p>どうした？　寝れないのか？</p><p>……いや。よくよく考えれば、さっきの営業(セールス)は主導権握られっぱなしだったな、と思ってさ</p><p>……そうか？</p><p>うまいこと、こっちから譲歩するように誘導されてた気がしてきた……やっぱ一筋縄じゃいかねーな、話と演技に関しては、あの人プロだわ</p><p>ぐぬぬ、と少しばかり悔しげなアイリーンに、ケイも先ほどの会話の流れを振り返ってみたが、確かにそんな気もしてきた。</p><p>まあ、宣伝費用と思えば安いものだろう。プライスレスさ</p><p>……それもそうだなー。プライスレス、ぷらいすれす……</p><p>眠くなってきたのか、むにゃむにゃと口を動かしながらアイリーン。もぞ、と身じろぎしたアイリーンが、テントの中を転がってケイの上に乗っかってきた。</p><p>ケイが無言のまま、胸元からこちらを覗き込むアイリーンの鼻をぴんっと指で弾くと、アイリーンがころころと笑う。</p><p>そのまま、二人でじゃれあっていたが、酒の力もありぐずぐずと沼に沈むようにして眠りについた。警報機(アラーム)のお陰で二人は夜番をする必要もない。穏やかで、平和なひとときだった―</p><p>翌朝。</p><p>村人たちに惜しまれながらも、隊商は再び出発する。</p><p>歌いすぎると喉に悪いので、ホアキンは休憩時間は演奏しないが、馬車に揺られながらエッダに歌を教えていた。</p><p>ホランドの隣、御者台に腰掛けて足をぷらぷらとさせながら、楽しそうにメロディを口ずさむエッダに、 この娘も将来、良い歌手になるかもしれないな などと和むケイであった。</p><p>そうして、近隣の村々を経由し、昼頃にまた別の集落で休憩する。そこは以前、ケイが”大熊(グランドゥルス)“を仕留めた開拓村だった。</p><p>おおっ、あのときの英雄殿だ！</p><p>酒だ！　酒を持ってこい！</p><p>隊商の来訪を喜んでいた村人たちは、ケイの姿を認めてさらに喜んだ。近隣でもケイの顔は知られており、行く先々で『大熊殺しの狩人』として歓迎されたが、当事者たちの盛り上がりは流石に別格だった。</p><p>お陰でこの辺りも大分拓けてきたよ。あのときは本当にありがとう</p><p>なに、当然のことをしたまでさ</p><p>村長に酒壺や果物を手渡されながら、ケイははにかんで答える。アイリーンは自分のことのように得意げな顔をしていたし、ホアキンは 歩く伝説ですねえ と何やら感じ入っていた。</p><p>そのまま昼食でも摂ろうか―という流れになり、ホアキンが演奏準備を初めたところで、しかしケイはふと、村の端っこで遊ぶ子供たちに目を留める。</p><p>何か、視界に違和感を覚えたからだ。</p><p>こんな辺境で目にするには、鮮やかすぎる色。</p><p>見れば、子供のうち、おままごとをして遊ぶ年長の女の子が、髪に花を挿している。自然物とは思えないような抜けるような青色。薔薇のように豪奢な造形の花びら。</p><p>あの花は……？！</p><p>どうしたケイ</p><p>アイリーン、あの女の子、頭の花</p><p>……えっ、あれって</p><p>思わず、二人して駆け寄る。当の本人、髪に花を挿した女の子はきょとんとした様子だったが、アイリーンが優しく そのお花、綺麗ね。見せてくれない？ と頼む。</p><p>おずおずと手渡されたそれを、二人はまじまじと観察した。</p><p>……間違いないな、アイリーン</p><p>……ああ。お嬢さん、このお花はいったいどこで見つけたんだい？</p><p>え？　その、パパが……あたしのパパ、狩人なんだけど、森でみつけて、あたしにくれたの……</p><p>そばかす顔の女の子は不安げに、 お姉ちゃん、ほしいの……？ と首を傾げた。どうやら大切なお花が取られてしまうのかもしれない、と思ったようだ。相手が村の恩人だけに、遠慮している風もある。</p><p>あ、ごめんごめん。ちょっと興味があっただけさ。これはあなたのものだから</p><p>アイリーンは笑って、その子に花を返す。一方、ケイはその手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を握り直しながら、難しい顔で森の方を見やった。</p><p>その花が、どうかしたのかい？</p><p>村長とともに、あとを追いかけてきたホランドが、興味津々に尋ねてくる。</p><p>しばし、二人は顔を見合わせたが、やがてケイが困惑顔で口を開いた。</p><p>あの花は……“魔法薬(ポーション)“の原材料の一つだ</p><p>サスケ ぼくたち影薄くない？</p><p>スズカ 移動手段なのにね</p><p>65. 霊花</p><p>前回のあらすじ</p><p>少女 パパがこのお花を見つけてくれたの</p><p>ケイ あ、これ、ポーションの原材料だ</p><p>ΩΩΩ な、なんだってー！！</p><p>“魔法薬(ポーション)“の原材料だって！？</p><p>ホランドと村長の目の色が変わった。二人の視線が少女の青い花に集中する。異様な熱気をはらんだ大人たちの目に、思わず ひぇっ と声を上げて後退る少女。</p><p>こっ、これが噂に名高い霊薬の……！？</p><p>待て、待て、落ち着け</p><p>鼻息も荒く少女に迫る村長を、ケイが押し留める。</p><p>あくまで原材料の『一つ』だ。それに、薬効成分があるのは主に葉っぱの方で、花には傷薬程度の効能しかない</p><p>そう言って肩を竦めるケイに、村長は困ったような顔を向けた。物資に乏しい開拓村では、その程度の『傷薬』でも十分貴重なのだ。</p><p>傷薬でも、ウチの村では喉から手が出るほど欲しいんだが……それに加工したら凄いものになるんだろう？</p><p>……一口に魔法薬(ポーション)と言ってもピンからキリまであるからな。他の材料次第だ</p><p>例えば、ケイたちが持つ残り少ない高等魔法薬(ハイポーション)は、貴重な素材と高度な設備を用いて調合されたもので、瀕死の怪我人すら治癒させる正真正銘の霊薬だ。が、それほど手間をかけていない低位のポーションでは、そこまで劇的な効果を望めない。一応、千切れた手足を患部に当てて、ばしゃばしゃと薬液を浴びせ続ければ接着剤のようにくっつけられる程度の効能はあるので、大したものと言えば大したものだが。</p><p>……君たちは、ポーションの調合にも詳しいのかね？</p><p>口ひげを撫でつけながら、穏やかに問いかけるホランド。そのゆっくりとした口調とは裏腹に、茶色の瞳には油断ならない、探るような光がある。</p><p>いや。材料はいくつか知ってるが……</p><p>調合法まではわかんねーな、流石に専門外だぜ</p><p>ケイとアイリーンは二人揃ってお手上げのポーズを取った。</p><p>事実だ。 DEMONDAL では廃人プレイヤーとして名を馳せていた二人だが、基本的に戦闘と採取がメインであり、生産(クラフト)は手付かずのままだった。 DEMONDAL には、他のVRMMOでは一般的な便利機能、プレイヤーの動作を補助(アシスト)する自動制御システムが存在せず、全ての工程は手作業で現実並の熟練と器用さが要求されるため、よほどの情熱がなければ職人にはなれなかった。</p><p>ましてや高度な魔法薬の調合など、素人が手を出せる領域ではない。ケイたちも調合法をうっすらとは憶えているが、複雑な手順をすべて網羅しているわけではないし、そもそも必要な他の素材も設備も揃っていない。</p><p>専門のプレイヤーに納品するため、主要な原材料を暗記していたが、それだけだ。</p><p>オレたちなんかより、ウルヴァーンの薬師の方がよっぽど詳しいんじゃねーかな</p><p>ポニーテールの毛先をくるくると指でいじりながら、アイリーン。ケイたちには難しいとはいえ、裏を返せば、ある程度専門的な教育を受けた人間なら、特別な能力がなくとも製造可能だ。ウルヴァーンには図書館もある。叡智と魔術を重視するあの都市が、薬師を育成していないとは考えにくい。</p><p>うぅむ……やはりあの手の魔法薬は貴族のお抱え薬師、そして魔術学院の専門家たちの専売特許、か。惜しいな、君たちがポーションも扱えるならいい商売ができると思ったんだけど</p><p>期待しすぎだろ。オレたちを何だと思ってんだよ</p><p>いかにも残念そうなホランドに、アイリーンが笑っていた。</p><p>その隣で調子を合わせて苦笑しながら、それに、とケイは胸の内で付け加える。仮にポーションの製造技術があっても、ケイたちはそれを秘したままにするだろう。自分で使う分にはいいが、奇跡の霊薬など厄介の種にしかならない。</p><p>北の大地での一件を思い返し、脳裏に蘇った血みどろの記憶を振り払うように、ケイは頭(かぶり)を振った。</p><p>そんなケイをよそに、周囲の皮算用は続く。</p><p>まあ、いずれにせよ、村の近くでポーションの原材料が見つかったのは喜ばしいことだ。なあ、エリドア</p><p>そ、そうだな</p><p>ホランドに声をかけられた村長―そう言えば『エリドア』とかいう名前だった、とケイは今更のように思い出す―が、気を取り直して頷いた。</p><p>正直、ウチの村は貧しくて何の取り柄もない。しかし貴重な霊薬の素材が見つかるとなれば話は別だ！　きっと皆の生活も楽になる！</p><p>あとで発見者から詳しく話を聞かねば、と鼻息も荒く村長(エリドア)。最初は頼りなげだったハの字型の眉も、この時ばかりはキリッと凛々しくつり上がっている。話を聞きつけた他の村人たちも興奮気味で、 これで娘に美味いものを食わせてやれる 自分たちで薬に使ってもいいな などと期待をのぞかせていた。</p><p>…………</p><p>そんな彼らをよそに、何とも言えない表情で立ち尽くすケイとアイリーン。</p><p>そして二人の様子がおかしいことに、いち早く気づいたのは、やはりと言うべきか、ホランドだった。</p><p>……どうかしたのかね？</p><p>ん？　いや……</p><p>うん……</p><p>ホランドに聞かれても、調子の悪そうな二人。</p><p>……何か気になることでも？</p><p>小躍りしそうになっていたエリドアも、眉をハの字に戻して恐る恐る尋ねてくる。村の窮地を救った英雄、それもただの腕自慢ではない、博識の戦士と魔女が浮かない顔をしているのだ。不安になるのも無理はなかった。</p><p>じっと顔色を窺うような視線を向けられ、困ったように顔を見合わせるケイたち。</p><p>しかし、ここまで思わせぶりな態度を取っておいて、今更 なんでもない で済ませられるはずもない。二人揃って言い淀んだ時点で、二人の方針は既に決まっていたようなものだ。喜んでいるところに水を差すようで悪いが、と、難しい顔をしていたアイリーンが、開き直ったように厳しい表情に切り替えた。</p><p>率直に言うぜ。これはかなり危険な兆候だ</p><p>周囲の村人たちを見回しながら、告げる。</p><p>この花、 深部(アビス) の境界線上の近くにしか生えないんだ</p><p>― 深部(アビス) 。</p><p>森林や高山の奥深く、人類が踏み込むには危険すぎる領域の総称。</p><p>そこには、“大熊(グランドゥルス)”、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“といった巨大な怪物が闊歩し、致死毒を持つ動植物が当たり前のように生息し、時として”飛竜(ワイバーン)“さえも姿を現す。常人が踏み込めば、一日ともたない。北の大地の”魔の森”とは違い、直接的な命の危険がごろごろと転がっている、そんな場所。</p><p>しかし同時に、そこは宝の山でもある。</p><p>強力な薬効を持つ植物に、美しい毛皮を纏う獣。命を脅かす怪物も、討ち取ることに成功すれば、その遺骸は貴重な素材となるだろう。また領域内の魔力が活性化していることから、精霊の力を宿した真なるマジック・アイテムが見つかることもある。</p><p>ポーションの原材料たるこの青い花も、そんな『宝』の一つだ。</p><p>この花の名は、『ヴィグレツィア・グランドフローロ』。偉大なる生命の花、みたいな意味らしい。薬効成分は、花びらよりむしろ葉っぱに含まれてるんだけどな。花が咲いてない時期は探し出すのに苦労する。……らしいぜ</p><p>ゲーム時代を思い出したのか、アイリーンが懐かしむように目を細めた。しかしすぐに表情を引き締める。</p><p>……で、この花、強力な癒やしの力を秘めてるんだが、こいつ自体はそれほど丈夫な植物じゃない。魔力が程よく活性化し、それでいて影響が強すぎない、 深部 と普通の土地の境界線付近でしか生育しないんだ。だから『アビスの先駆け』なんて別名もある。そして今回、それが村から歩いていける距離のところで見つかった……</p><p>わかるか？　と視線で問いかけるアイリーン。</p><p>まさか……</p><p>その意味を理解し、ホランドが慄いたように口を震わせる。</p><p>…… 深部 が、広がったのか</p><p>呟きのような言葉に、ざわっ、と村人たちに動揺が広がった。</p><p>基本的に、 深部 は人の生活圏から遠く離れたところにある。と言うより、人が 深部 から距離を取らざるを得ない。好き好んで”大熊”や”森大蜥蜴”の住処に近づく者はそうそういないだろう。</p><p>が、実は、 深部 の境界線は不変ではない。</p><p>地殻変動のように、あるいは一種の自然災害のように、その領域が徐々に、あるいは突然ズレることもあるのだ。</p><p>DEMONDAL のゲームの設定によれば、この世界には陰陽道で言う『地脈』のようなものが各地に走っており、それが精霊を惹きつけ魔力を活性化させ、その恩恵に与る特殊な生態系― 深部 を構築していくのだという。そしてその『地脈』は地殻変動その他の要因でズレることがあり、その動きによっては、普通の森がある日を境に 深部 へと変質していく、などということも起こりうる。</p><p>それが、この村の近くで起きているのだとしたら―</p><p>―しっ、しかし！　この村から 深部 までは、徒歩で十日以上の距離があるはずだ！　俺は領主からそう聞いているぞ！　魔術師に作ってもらった地図をお持ちだそうだから、間違いはない！</p><p>自分に言い聞かせるように、エリドアがそう声を張り上げた。</p><p>……確かに、公国は”告死鳥(プラーグ)“の魔術師を総動員して、空から見た地図を積極的に制作しているな</p><p>腕組みをしたケイは、重々しく頷く。</p><p>その領主の話は、決して間違ってはいなかったんだと思う</p><p>そっ、そうさ！　英雄殿もそう思うだろう？　きっとこの花が見つかったのは、何かきっと別の理由が……</p><p>しかし、だ。俺たちはウルヴァーンの図書館で調べ物をしたわけだが……記憶が正しければ、公国の現在の地図の大半は、クラウゼ公が公国の盟主になって間もなく作成されたもののはずだ。……その領主が持っている地図は、最新のものなのか？　ひょっとすると十年、二十年も昔のものなんじゃないか？</p><p>それだけの時間があれば境界線は変わり得るぞ、とケイが付け足すと、エリドアは今度こそ色を失った。</p><p>しっ、しかし……</p><p>正直、前回の”大熊”のとき、薄々ヘンだとは思ったんだよなー。いくら獲物を深追いしたからって、そんなクソ離れた場所から、『たまたま』人里まで 深部 の化物が出てくんのか？　ってな</p><p>がしがしと頭を掻きながら、アイリーン。</p><p>一応、『アビスの先駆け』が別の要因で……例えば草花の妖精の悪戯とかで咲いた、って可能性もゼロじゃねーけど。一応、最悪の想定はしておいた方がいいと思うぜ</p><p>神妙な様子のアイリーンの助言に、エリドアはますます情けない顔をして、そのまま頭を抱えた。</p><p>なんで……なんでウチの村ばっかりこんな目に……</p><p>お気の毒だが……</p><p>ケイとしては、そう言うほかなかった。</p><p>……本当に 深部 なのかね？</p><p>不気味そうに、そして不安げに村の近くの森を見やりながら、ホランド。</p><p>確実とは言えない。アイリーンも言った通り、精霊の悪戯や、何らかの要因で魔力の場が乱されていたり、俺が予想もつかないような原因で『アビスの先駆け』が咲いた可能性もある</p><p>ちなみに、その手の現象はゲーム内でもごく稀に起きていた。特に妖精の悪戯による特殊な草花の出現は、プレイヤーに棚ぼた的な利益をもたらすことが多く、概ね歓迎されていた。尤も、毒花が咲き乱れて初心者～中級プレイヤーまでもが犠牲になることもあり、油断は禁物だったが。</p><p>俺としても、妖精の悪戯であって欲しいとは思うが……この村は以前”大熊”に襲われている。あの時は『偶然』で片付けたが、今回この花が見つかった、となると……楽観はできないぞ</p><p>全くその通りだな</p><p>いずれにせよ、発見者の話をもう少し詳しく聞く必要があるんじゃないか。あるいは早急に領主へ遣いを出して、告死鳥(プラーグ)の魔術師に空から確かめて貰うべきか</p><p>そうだな……エリドア、どうする？</p><p>その場でしゃがみ込んでブツブツと呟く村長を、ホランドが揺する。</p><p>おいおい、しっかりしろ！　お前は村のまとめ役なんだぞ！</p><p>あ、ああ……</p><p>ふらふらとエリドアが立ち上がるが、その目は死んでいた。</p><p>……とりあえず、発見者に話を聞こうか。……リンダ、マルクはどこに？</p><p>パパならお家にいるよ……？</p><p>リンダ、と呼ばれた少女が、小さな声で答える。幼さゆえケイたちの話の内容がよく理解できていないのだろう。ただ不安そうに、その手に美しい青い花―癒やしの力を秘めた霊花を握っている。</p><p>ケイとアイリーンは、何とも居た堪れない気分になった。</p><p>そのまま皆でぞろぞろと、花の発見者である狩人の家を訪ねる。村の外れの丸太小屋でハーブティーを飲みながら寛いでいた狩人―『マルク』というらしい―は、突然の大勢の来客に驚いたようだ。</p><p>そして、エリドアやホランドからことのあらましを聞き、真っ青になった。</p><p>なんてこった、こんなことなら持ち帰らなきゃよかった……！</p><p>少し的外れな嘆き方をする狩人の男に、ケイとアイリーンは笑っていいものか困ったような顔をした。見て見ぬふりをしたところで、なかったことになるわけではない。</p><p>いや、持って帰ってくれたからこそ気づけたんだ。それで、森は何か変わった様子はなかったか？</p><p>あ、ああ……そうだな……</p><p>ケイたちの真剣な眼差しに、マルクはひどく落ち着かない様子だ。</p><p>曰く、マルクが『アビスの先駆け』を見つけたのは、森に入って西へ一時間ほど進んだ地点、いつも狩りをしている獣道の周辺だそうだ。森に仕掛けた罠を見回る際に発見したらしい。森そのものは、この時期にしては静かだと感じたが、それ以外は特に異常は感じなかったとのこと。</p><p>他にこの花は咲いてなかったか？</p><p>どうだろう、わからない……視界に見える範囲では、気づかなかった</p><p>そうか……</p><p>咲いていたのが一輪だけなら、妖精の悪戯という可能性も充分にある。</p><p>……確認、しに行くべきか？</p><p>ケイの沈黙、あるいは皆の無言の重圧を感じ取り、冷や汗をかくマルクは、この世の終わりが訪れたような顔をした。</p><p>狩人であればこそ、マルクは野性の獣の恐ろしさは重々承知している。そして、それを軽々と上回る怪物が、どれほど手に負えない存在なのか、身に沁みてわかっているのだろう。できることなら、そんな存在が普通にうろつく 深部 には、一歩たりとも近づきたくはないはず。</p><p>英雄殿……その、申し訳ないんだが、おれ一人では 深部 か普通の森かなんて区別がつきそうにないんだが、その……</p><p>藁にもすがる思いなのか、拝むような姿勢でケイの顔色を窺うマルク。</p><p>……う～ん、俺も 深部 の探索は専門外なんだが……</p><p>DEMONDAL のゲーム内では、確かに、 深部 の探索はエンドコンテンツの一つであり、ケイも時折探索しては素材や装備を集めていた。</p><p>が、それは死んでも復活が可能だったからで、命が一つしかない現状では、よほどのことがない限り踏み込むのは御免だ。</p><p>いっ、いやっ！　おれも 深部 に入るつもりなんざ毛頭ない！！　ただちょっと見に行くのについてきてもらえれば、と……！</p><p>慌てて、ブンブンと首を振るマルク。一人で行くのがよほど怖いのだろう、気持ちはよく分かるが―。果たしてこの男は、これから狩人としてやっていけるのか、ケイは心配になった。</p><p>それはさておき、マルクひとりでは 深部 の侵蝕が進んでいるのか、確認しづらいというのも事実。</p><p>旦那、このあとの予定は、どうなってるんだっけ？</p><p>アイリーンがホランドに水を向ける。記憶が正しければ、隊商はこの村で少しばかり商売をしてから、川沿いの街道を進み、シュナペイア湖を擁するユーリアの街へ向かうはずだ。</p><p>……事態が事態だからなぁ</p><p>隊商の責任者たるホランドは低い声で唸った。仮にケイがマルクに同行するならば、往復で二時間以上はかかるので隊商の出発に間に合わない。現状、ケイはただの客分なので置いていっても隊商に支障はないのだが、今後の商売や世間体諸々を考え合わせると、大いに問題がある。何よりホランド自身も、この件には大きな関心を寄せていた。</p><p>……よし、ここはケイに合わせよう。きみが彼(マルク)に同行するというなら、隊商の予定を変更する。皆には私から話しておこう</p><p>うむ、と大きく頷いてホランド。予定変更の起点をこちらに振ってきた辺り、うまい言い方だな、とケイは思った。</p><p>…………</p><p>ちらり、と傍らのアイリーンを見やる。ぴくん、と眉を動かしたアイリーンは、唇を引き結んで、まっすぐにケイを見つめ返してきた。</p><p>迷いのない、澄んだ青色の瞳。</p><p>わかった。同行しよう</p><p>“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を握りしめながら、ケイは頷く。</p><p>この村を”大熊”から救ったとき、ケイは夢を抱いた。 人々を凶悪な獣から守る狩人になりたい と。</p><p>今がそのときだ。</p><p>ケイが行くなら、オレもついてくぜ</p><p>間髪入れず、アイリーン。気負わずに背中のサーベルの具合を確かめている。</p><p>……おれも、行こう。足手まといになるかもしれないが、この村のことだ。村長として、自分の目で確かめる必要がある</p><p>険しい顔で、しかし毅然と決意を表明するエリドア。</p><p>あ、じゃあ僕も行きます</p><p>が、そこに場違いなほど爽やかな声が響く。</p><p>見れば、野次馬の端、今まで沈黙を保っていた吟遊詩人の青年が、ここぞとばかりに挙手していた。</p><p>こう見えて森歩きには慣れてます。皆さんの邪魔はしません、万が一のときは別に置いていって貰っても結構です。……いいですよね？　ね！？</p><p>好奇心で目を輝かせるホアキン。</p><p>ケイとアイリーンは顔を見合わせ、呆れたように肩を竦めた。</p><p>しばらく、ほのぼのパートのつもりだったんですが……おかしいな（当惑）</p><p>次回、狩人・狩人・魔法戦士・村人・吟遊詩人というパーティーで森へ。</p><p>66. 探索</p><p>前回のあらすじ</p><p>サスケ イカれたメンバーを紹介するぜ！</p><p>前衛：アイリーン（NINJA)</p><p>後衛：ケイ（狩人）　マルク（狩人）　ホアキン（吟遊詩人）　エリドア（村人）</p><p>サスケ 以上だ！</p><p>スズカ バランス悪いと思う</p><p>しっとりとした樹木の香り、湿り気を帯びた土の匂い。</p><p>頭上には眩しい木漏れ日が踊り、小鳥たちのさえずりが響く。</p><p>穏やかな森だ。当初、警戒しながら足を踏み入れた一行だったが、あまりの平和さにピクニックにでも来たかのような錯覚を抱きつつあった。ふかふかの腐葉土が、ブーツ越しにも心地良い。</p><p>恐ろしく平和だ……</p><p>緊張した面持ちで先頭を進むのは、『アビスの先駆け』の第一発見者こと、マルク。その手に携えているのは、取り回しの良い狩人御用達の短弓(ショートボウ)だ。小型ながらも張りは強く、森の獣を仕留めるに充分な威力を秘めている。</p><p>が、 深部(アビス) の怪物を狩るとなると、少々心許ない。</p><p>本人も自覚はあるらしく、しきりに額の汗を拭いながら、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。木陰や茂みに、見えない敵を見つけようとするかのように―この調子では目的地に辿り着く前に疲労困憊してしまう。</p><p>まあ、警戒は俺に任せてくれ</p><p>マルクの後ろをついていきながら、気を遣って声をかけるケイ。</p><p>Take it easyってヤツだ。“大熊(グランドゥルス)“みたいなデカブツは遭遇する前に気がつくし、人間サイズの小物なら俺が何とかする。心配いらないさ</p><p>左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を見せながら、ケイは軽い調子で言ってのけた。正直なところ大熊クラスと出くわさない限りは問題ない、と考えており、その心の余裕は態度にも表れている。そして隊商護衛の経験から『緊張感を維持しつつ肩の力を抜く』ことに慣れているケイは、外野からすれば、過剰に気を抜いているようにも見えた。</p><p>流石に気楽すぎないか、と言わんばかりに、ちらりと不安げにケイを見やるマルク。ケイとしては励ますつもりだったのだが、残念ながら逆効果だったらしい。実際は油断どころか、“竜鱗通し”と一緒に束ねた矢も握っており、いつでも矢を放てる臨戦態勢だ。一行の中で誰よりも警戒の網を張っているのがケイだった。</p><p>つっても、それで安心できたら世話ないぜ、ケイ</p><p>と、ケイの後ろを歩くアイリーンが、頭の後ろで腕を組みながら言った。</p><p>たしかにゴキゲンなピクニック日和だが、地獄の淵まで散歩しに行くようなもんだ。緊張するなってのが無理な話じゃないか？</p><p>そうは言いつつ、あまり緊張した様子を見せないのはアイリーンも一緒だ。むしろ他の男たちに比べ格段に軽装なので、より一層、気楽な物味遊山の風情を漂わせている。</p><p>現在のアイリーンの出で立ちを一言で表せば、『森ガール』だろうか。長袖のシャツにぴったりとした長ズボン、背中にはサーベルを背負い、丈夫な革手袋をはめている。獣相手には効果が薄く、デッドウェイトになる盾や額当ての類は全て村に置いてきた。足音をほとんど立てずに、木々の間をすり抜けるようにして進む様は、猫科の肉食動物を彷彿とさせる。</p><p>そして腰のベルトには投げナイフの束と、飲料水を詰めた革袋、そして金属製の水筒(スキットル)をぶら下げていた。スキットルの中身は度数の高い蒸留酒だ。これがあれば怪我をしてもすぐに消毒できるし、もちろん、いざというときには宴会のお供にもなる。</p><p>……まだ、 深部(アビス) が動いたと決まったわけじゃない</p><p>アイリーンの背後、憮然とした顔で言うのは、開拓村の村長エリドアだ。今回、彼は村の責任者として、事実関係の確認のために同行している。その立場上 深部 の侵蝕については否定的だが、必死で自分に言い聞かせている節があり、本当にそう思っているかは謎だった。</p><p>身体が頑丈で、畑を耕す以外に特に技能のないエリドアは、一行の中で荷物運び(ポーター)を担当している。その背には大きな革の荷物袋。万が一、 深部 の希少な動植物が発見された場合は、きちんと持って帰れるようにするためだ。</p><p>深部 の侵蝕を極力認めたくない彼ではあるが、それに対する備えも忘れない辺り、複雑な心境が窺える。</p><p>それにしても 深部(アビス) 、ですか</p><p>最後尾の吟遊詩人、ホアキンが感慨深げに呟く。</p><p>物語や伝承では幾度となく耳にする言葉ですが、まさか、それを自らの目で確かめることになろうとは……</p><p>……だから、 深部 と決まったわけでは……</p><p>眉をハの字にして弱々しく抗弁するエリドアに、これは失敬、とばかりに頭に手をやり すいません と苦笑するホアキン。</p><p>探索を目的とした一行の中で、ホアキンは異彩を放っている。エリドアでさえベルトに護身用の剣鉈を差しているというのに、完全に丸腰なのだ。邪魔にしかならない琴を置いてきているのは当然としても、ナイフの一振り、針の一本さえ持っていない。</p><p>本人曰く、武技の心得は一切ないので、とにかく逃げ足を優先するとのことだ。今回の探索はあくまで『自己責任』、足を引っ張るようなら見捨てていっても構わない、とホアキンは言っていた。悪く言えば人任せ、しかし裏を返せば己の分をわきまえているとも言える。足場も悪いし、すぐ隣で素人に危なっかしく鉈を振り回されるよりはマシかもな、とはアイリーンの言だ。</p><p>そういや、 深部 ってのは、巷ではどんな風に語られてるんだ？</p><p>興味津々なアイリーン。 そうですねえ…… と頷くホアキンの右手が、所在なさげに揺れる。肌身離さず抱えていた琴も、今はない。</p><p>―アクランドは遠く　北と東の狭間　義勇アルバート　精霊の導きを受け　深緑の最奥に挑まんとす―</p><p>朗々とした歌声が響き、一瞬、辺りが静まり返る。まるで森の獣や小鳥たちも思わず耳を傾けたかのようだった。</p><p>ホアキンが歌ったのは、百年ほど前にアクランド連合公国を旅して回ったアルバートという義賊、もとい探検家の冒険譚だ。尋常ならざるサバイバル技術を身に付けていたのか、精霊の加護を得ていたのか、はたまた単に運が良かっただけなのか、公国北東部の広大な 深部 を一週間かけて歩いて縦断した、という逸話が残っているらしい。</p><p>小山ほどの大きさがある”大熊(グランドゥルス)”、木々を薙ぎ倒して進む”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)”、そして翼を休めながら見たこともない美しい獣を貪り食う”飛竜(ワイバーン)”― 深部 に棲まう怪物たちの姿が、ホアキンの涼やかな声でおどろおどろしく語られる。マルクやエリドアは震え上がっていたが、ケイとアイリーンからすれば眉唾ものだ。“大熊”も”森大蜥蜴”も確かにデカブツだが、『小山ほど』とは流石に盛り過ぎだろう。他に目撃者がいないだけに、いくらでも誇張できる話ではある。</p><p>尤も、ゲームと比較すると世界そのもののサイズが拡大しているだけに、 深部 の怪物たちが巨大化している可能性も否定はできないが。</p><p>ともあれ、そんな怪物たちをやり過ごしつつ、アルバートは珍しい草花や昆虫を収集し、公国の博物学を一人で数十年分も進歩させたという。彼自身は魔術師ではなかったようだが、マジックアイテムをいくつも保有していたとの話もあり、行く先々で様々な騒動を引き起こしていたようだ。公国での冒険の後は、港湾都市キテネで商船に乗り込んで西の大陸フォートラントに渡ったとも、東の辺境のさらに果て、まだ見ぬ未開の国を目指して旅立ったとも言われている。</p><p>フォートラントか……</p><p>ホアキンの解説を聞きながら、ケイは小さく呟いた。 DEMONDAL のゲーム内では、存在が示唆だけされていたエリアだ。そして海辺の交易都市キテネには、金払いの良いフォートラントからの商人NPCが多数いたことを、ケイは懐かしく思い出す。フォートラントとリレイル地方を行き来する船舶も存在したが、プレイヤーが乗り込むと、外洋で必ず巨大な海竜に襲われる仕様で決して辿り着けないよう調整されていた。近々大型アップデートで追加される、との噂もあったが―ゲーム内の皆は、今頃どうしているのだろうな、とケイは郷愁にも似た思いを抱いた。</p><p>一方で、この世界では、フォートラントは普通に行き来が可能な大陸として認識されているようだ。そういえば、公都の図書館で調べ物をしていたときも、フォートラントの記述を目にした覚えがある。</p><p>元を辿れば、現在の公国の民もフォートラントから来た人々の末裔だったか</p><p>そうですね。三百年ほど前に平原の民がこの地を訪れた、と伝わっています</p><p>ケイの問いに、首肯するホアキン。すかさずアイリーンが口を挟んだ。</p><p>平原の民が、って言うけど、他の民族はどうだったんだ？</p><p>草原の民は、この地の原住民族ですが、詳しい来歴は不明です。雪原の民(ロスキ)は平原の民とほぼ同時期に北の大地に渡った、と言われていますね。高原の民(フランセ)や海原の民(エスパニャ)が本格的にこの地を訪れるようになったのは、それからさらに半世紀ほど経ってからのことだったとか。確か、その頃にフォートラントに存在した古き海原の民の王国が、 深部 に呑まれ滅んだと聞いています</p><p>故に、海原の民は新天地を求めざるを得なかった―と言外にホアキンは語る。先祖の苦難に思いを馳せたのか、褐色肌の青年は憂いを帯びた顔で木漏れ日越しの空を見上げ、ため息をついた。その眼前では、これから迫り来る苦難を思い描いてか、エリドアがますます顔色を悪くしている。</p><p>と、マルクが手を挙げて隊列を止めた。</p><p>……確か、この辺りだったと思う</p><p>話をしているうちに、目的地へと辿り着いたようだ。</p><p>一見、普通の森と変わらない。</p><p>青々とした背の高い広葉樹林。足元は柔らかな腐葉土で、一面に茶色の大地が広がっている。頭上に生い茂る木の葉のカーテンのせいで少々薄暗いことを除けば、存外に見晴らしはよく、ケイの視力をもってすれば奥の方まで見通すことができた。茂みや木々の裏に何が隠れているかまではわからないが―</p><p>……静かだな</p><p>サーベルの背負い紐をいじりながら、アイリーンが周囲を見回した。森に入ってすぐのところは、小鳥や小動物のざわめきで満ち溢れていたものだが、この辺りの静けさは空恐ろしいほどだ。</p><p>……どうする？　もう少し進むか？</p><p>声を潜めてエリドア。言葉とは裏腹に、一刻も早くこの場から立ち去りたそうな顔をしている。</p><p>ちょっと待ってくれ</p><p>ケイは右手を軽く握り、望遠鏡のような輪っかを作って覗き込みながら、森の奥を見やった。周囲の余計な情報を遮断し、ピンホール効果と併せて視力をさらに引き上げるテクニック。じっくりと舐めるように、視線を横に動かしていく。</p><p>やがて、ケイの眼は、森には不似合いなほど鮮やかな色を拾い取った。</p><p>……見つけた。間違いない、『アビスの先駆け』だ。一、ニ、三……多いな。少なくとも妖精の悪戯ではなさそうだぞ……</p><p>ケイの言葉に、皆の表情が良くも悪くも引き締まる。</p><p>ということは……つまり、本当に 深部 の侵蝕が進んでいる、ということですね</p><p>エリドアやマルクを気遣ってか、ホアキンが神妙な表情を作って確認するが、興奮で上擦った声は隠しようもない。</p><p>そういうことになる</p><p>……なんてことだ</p><p>お終いだ……</p><p>渋い顔でケイが首肯すると、エリドアとマルクがこの世の終わりが訪れたような顔で呻いた。事実、彼らからすれば世界の終わりに近い。</p><p>……で、どうする？　『アビスの先駆け』、咲いてんだろ？</p><p>腕組みしたアイリーンが、クイと森の奥を顎でしゃくった。</p><p>採取しに行くか？</p><p>行った方がいいだろうな。……村の皆には、先立つものも必要になるだろうし</p><p>この後、村がどうなるかはわからない。領主が開拓を中断するかもしれないし、案外、 深部 探索の前線基地として維持されるかもしれない。そうなれば、命知らずの探検家で村が賑わうという可能性もありうる。―エリドアたち元の住民が、それを喜ぶかどうかは別として。</p><p>いずれにせよ、これから金が入用になるのは確かだろう。</p><p>……そう、だな</p><p>エリドアがいち早く再起動を果たし、背中の荷物袋を担ぎ直す。平原の民として一般的な茶色の瞳には、めらめらと使命感の炎が燃えている。</p><p>……おっかない化け物はいないのか？</p><p>一応、見える範囲にはいない</p><p>そうか……ならいいが……</p><p>短弓に矢をつがえながら、マルクは限りなく不安そうだ。</p><p>一行は最大限に警戒しながら、『アビスの先駆け』を目指し、さらに奥へと進む。</p><p>……まだ進むのか？</p><p>ケイがあまりにあっさりと 見つけた と言ったので、アイリーン以外の面々は割と近くに花が咲いていると考えていたようだ。なかなか見つからない青い花に、エリドアが訝しげな視線を向けてくる。</p><p>もうちょっと先だ</p><p>ケイの眼はバカみたいに高性能だからな。ケイの言う『もうちょっと先』はオレたちの『だいぶん先』だ、憶えといた方がいいぜ</p><p>アイリーンは慣れっこの様子で、ぷすーっと息を吐いてからそう言った。その左手には投げナイフ。いつ、どこから何が飛び出てきても反応できる構え。</p><p>そうして歩みを進めるうちに、ケイとアイリーンを除く三人が顔を強張らせ始める。今まで木々や茂みに遮られていてよく見えなかったが、森の奥の木々が一気にサイズ感を増し始めたからだ。</p><p>それは、『巨人の森』―とでも形容するべきだろうか。この辺りは比較的幹の細い常緑樹が主だったのだが、同じ種類の樹木であるにもかかわらず、奥の木々は一回りも二回りも幹が太く、背が高い。</p><p>何だアレは……なんであんなに木が育ってるんだ</p><p>……『アビスの先駆け』を見つけたとき、ここまでは来なかったみたいだな</p><p>恐れおののくマルクに、ある種の確信を深めるケイ。</p><p>あ、ああ……もうちょっと手前に咲いていたと思う……</p><p>そうか、たまたま外側に咲いてたヤツを見つけたのか……成る程な</p><p>今回の『アビスの先駆け』発見が、 深部 の侵蝕が原因である、と断定できなかった理由がこれだ。樹木の巨大化は 深部 侵蝕に伴うわかりやすい現象の一つであり、村でマルクが巨木の存在を証言していれば、ケイとアイリーンは即座にそれと判断できただろう。</p><p>仮に、樹木の巨大化が確認できず、一輪だけ『アビスの先駆け』が咲いていたなら、妖精の悪戯である可能性の方が高かった。だが実際は、マルクがたまたま深入りする前に霊花そのものを発見していた、というわけだ。</p><p>ほら、見えてきた</p><p>とある巨木の根っこのあたりに、青い色。薔薇にも似た豪奢な花びら。</p><p>『ヴィグレツィア・グランドフローロ』―別名、『アビスの先駆け』。ポーションの材料となる希少な霊花だ。</p><p>コイツは寄生植物の一種でな</p><p>アイリーンが解説する。</p><p>こうやって木の幹に寄生して咲くんだ。ただ寄生といっても宿主に害はない。むしろ周囲の魔力を吸収しながら、宿主に薬効成分を与えて徐々に巨大化させていく</p><p>深部 に巨大な動植物がのさばる原因の一つが、この花だ。普通の森を 深部 へと作り変えてしまう張本人、とも言える。</p><p>節くれだった巨木の幹を撫でたエリドアが、腰の剣鉈を落ち着きなく触りながら、何か恐ろしいものを見るような顔で青い花びらを覗き込んだ。</p><p>……こうしてみると、美しい花だ</p><p>ええ、本当に</p><p>ぽつり、と呟くエリドアに、うっとりとした顔のホアキンが頷く。</p><p>どうやって採取すればいい？</p><p>根ごと引っこ抜くよりかは、根本から切るのがオススメかなー。ひょっとしたら再生して、また採取しに来れるかもしれないぜ</p><p>…………</p><p>アイリーンの、冗談とも本気ともつかない返答に、エリドアが絶句する。ちなみに、アイリーンは至って真面目に答えている。</p><p>じゃ、じゃあ……</p><p>気を取り直し、剣鉈を抜いたエリドアが、アビスの先駆けを根本から切断しようとした―そのとき。</p><p>周囲を警戒していたケイが、ぴくん、と肩を揺らした。</p><p>無言で、サッと姿勢を低くする。突然のことだったが、反射的に、あるいは本能的に全員がケイに倣って身をかがめた。</p><p>？</p><p>何があった、とアイリーンが視線で問いかけると、ケイは緊張感もあらわに前方を睨みながら、ぺろりと唇を舐めた。</p><p>ゆっくりと”竜鱗通し”に矢をつがえ、囁くように言う。</p><p>近くに何かいる</p><p>67. 遭遇</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ 近くに何かいる</p><p>ケイの言葉に、まず動いたのはアイリーンだ。</p><p>姿勢を低くしたまま、背中のサーベルを抜き放つ。</p><p>しゃらッと涼やかな音。冷たい銀色の刃が露わになる。</p><p>……どこだ？</p><p>前方、樹上。デカくはない</p><p>小声でのやりとり。“竜鱗通し”を構えたケイは、一点を見つめたまま動かない。その顔の向きから、対象(ターゲット)の位置にあたりをつけたアイリーンは、左手の投げナイフを握り直し、ケイの死角を埋めるように周囲を警戒し始める。</p><p>阿吽の呼吸の二人に対して、他三人の対応はぎこちない。マルクはどこまでも不安げに短弓を構え、エリドアはおっかなびっくりで腰の剣鉈を抜き、ホアキンはただただ息を殺している。最初から逃げるつもりで開き直っているホアキンはともかく、狩人(マルク)と村人(エリドア)も戦力にはならなさそうだ。</p><p>…………</p><p>ずっしりとのしかかるような静けさ。</p><p>頭上に雲が来たか、木漏れ日が陰る。</p><p>草葉の緑と腐葉土の黒に分かたれた世界。足元から這い上がる湿り気を帯びた空気。</p><p>……仕掛けるぞ</p><p>一応、全員が身構えたのを確認してから、ケイは弓を引き絞る。</p><p>きりきりと軋む弦。不穏な所作を悟られぬよう、身をかがめたまま腕を引いていく。緩慢にすら思える、ゆったりとした動き。</p><p>しかし不意に立ち上がり、一息に矢を放った。</p><p>カァンッ！　と快音が響き渡り、木立に銀色の光が突き刺さる。</p><p>キャ―ッ！</p><p>まるで赤子のような甲高い悲鳴。五十歩も離れた樹上から、どさりと緑色の影が落ちてきた。</p><p>なっ、何だアレは！？</p><p>その正体を目の当たりにして、エリドアが思わず剣鉈を取り落としそうになる。</p><p>それは、まるで毛むくじゃらのボールに手足が生えたような、不気味な生物だった。体長は一メートルほどだろうか、緑色の長い毛に覆われた胴体にはケイの矢が突き刺さっている。胴体から伸びる土気色の筋張った細い手で、どうにか矢を抜こうと四苦八苦しているのが見えた。</p><p>すかさず、ケイは二の矢を放つ。</p><p>丸い身体の天頂―おそらく頭部―に、深々と矢が突き立った。</p><p>キイイイイイィィィィ―ッ！！</p><p>が、それでもなお軋むような絶叫を上げ、じたばたと無茶苦茶に暴れ回る毛玉。昆虫に勝るとも劣らない、しぶとい生命力。</p><p>げえッ！　『チェカー・チェカー』！</p><p>厄介なヤツが出てきた……！</p><p>アイリーンがとても年頃の娘とは思えないような声を上げ、ケイも苦虫を噛み潰したような顔をする。さらに矢をつがえ、油断なく周囲に視線を走らせた。</p><p>あれはいったい……？</p><p>ホアキンが恐れ半分、興味半分といった様子で、未だピクピクと痙攣する緑の毛玉を見ながら呟く。</p><p>『チェカー・チェカー』という猿の一種だ。雑食性でそれなりに凶暴、相手が弱いと見れば襲いかかる。そして大規模な群れをなす習性がある……</p><p>ケイの返答に、思わずホアキンの端整な顔が引きつった。</p><p>む、群れ、ですか</p><p>こういう言葉がある。『一匹見たらあと五十匹はいると思え』ってな</p><p>ゆらゆらとサーベルの刃先を揺らしながら、後退するアイリーン。頭上からガサッ、ガサガサッと枝葉の擦れる音。複数。近づいてくる。</p><p>来るぞ</p><p>ケイの呟きと同時。</p><p>キャアアァァァ―ッッ！</p><p>樹上からチェカー・チェカーの集団が一斉に飛び出した。やたらと長い指をわきわきと蠢かせながら、眼下のケイたちに躍りかかる。</p><p>その耳障りな鳴き声に、快音が応えた。</p><p>矢筒からまとめて矢を引き抜いたケイが、目にも留まらぬ速射を見舞う。軽く弦を引いただけのコンパクトな射撃。しかしそれでも威力は充分、ガッカッカァンッと快音が響くたび、緑の毛玉が見えない拳に殴られたかのように弾き飛ばされていく。</p><p>が、それでも数が多い。流石にケイだけでは捌ききれない。取り囲むようにして無事に着地する個体も多数。</p><p>シッ！</p><p>そこへ、アイリーンが鋭い呼気と共にナイフを投擲した。投げ物が苦手なアイリーンでもこの距離ならば外さない。狙いを違わず命中―だが苔むしたモップのような長い毛に阻まれ、刃が深く通らない。</p><p>キィィィアア―ッ！</p><p>ナイフを受け、むしろ激昂したチェカー・チェカーが飛びかかってくる。アイリーンは冷静に突進をいなしながら、すれ違いざまにサーベルを振るった。</p><p>パンッ、パシッと軽い音。チェカー・チェカーの両手が半ばから斬り飛ばされる。</p><p>欠けた手を振り上げたまま、チェカー・チェカーは呆気に取られたように硬直した。一拍置いてからつんざくような悲鳴を上げ、バンザイの格好で転がるようにして逃げていく。長い毛に包まれた胴体より、剥き出しの手足の方が斬撃は通りやすい。チェカー・チェカーのわかりやすい弱点だ。</p><p>アイリーンは止まらない。</p><p>石像のように硬直したエリドアたちを庇い、軽やかに刃を振るう。</p><p>まるで重力を感じさせない激しい機動、木々の間をすり抜けるようにして跳ね回る。</p><p>『蝶のように舞い、蜂のように刺す』という言葉は、まさに彼女のためにあった。瞬く銀閃、飛び散る鮮血、その姿はさながら剣(つるぎ)の舞。洗練された美しさ、しかしその動きは冷徹にして機械的、チェカー・チェカーたちの手足がいくつも地面に転がっていく。</p><p>あまりに容赦のないアイリーンの剣気に、チェカー・チェカーたちが怯んだ。それを見逃すアイリーンではない。</p><p>ウオアアアァァッ!！</p><p>血に塗れたサーベルを振り上げ、とても年頃の娘とは思えないような声で威嚇する。近づけば殺す、と言わんばかりの荒々しい殺気。</p><p>がああああああッ！</p><p>それに続いて、ケイも吠えた。腹の底から振り絞る声に、びりびりと大気が震える。</p><p>深部(アビス) の入り口で騒ぐような真似はしたくないが、こればかりは仕方がない。</p><p>叫べ！　威嚇するんだ、割に合わない獲物だと思い知らせてやれ！</p><p>茫然としたままのエリドアたちを叱咤する。既に十匹以上のチェカー・チェカーを撃退しているが、周りを取り囲む個体だけでもざっと数えてニ十匹、そして未だ頭上にも気配がある。</p><p>チェカー・チェカーは凶暴だが、基本的に弱いものしか襲わない。今は自分たちの数が圧倒的なのでいい気になっているだけだ。相手が手強いとわかれば、我先にと遁走し始めるはず。</p><p>うっ、うおお！</p><p>エリドアが剣鉈を振り上げて叫んだ。ハッと我に返ったマルクも、申し訳程度に矢を放ちながら威嚇の声を発する。</p><p>その後ろではホアキンもまた おおおおぉ！ と叫んでいたが、こんな状況にもかかわらず無駄に良い声だったので、不覚にもケイは笑いそうになった。</p><p>さあ、死にたいヤツはかかってこい！！</p><p>アドレナリンで多少ハイになっていることを自覚しながら、ケイは矢筒から『長矢』を引き抜いた。かつて”大熊(グランドゥルス)“さえ一撃で絶命せしめた必殺の矢。</p><p>つがえる。</p><p>引き絞る。</p><p>解き放つ。</p><p>“竜鱗通し”の全力を、眼前のチェカー・チェカーに叩き込む。</p><p>ドバンッ、と弓矢にはあるまじき着弾音がした。緑色の毛玉が内側からめくれ上がるようにして破裂し、赤色が撒き散らされる。かつてのしぶとい生命力を物語るかのように、ばらばらと地に転がった肉の破片だけが、虚しくピクピクと痙攣していた。</p><p>一瞬、辺りが静まり返る。あれだけ騒がしかったチェカー・チェカーの群れの鳴き声が、ぴたりと止んだ。</p><p>そして次の瞬間、ケイたちを取り囲んでいたチェカー・チェカーたちは、くるりと踵を返して一目散に逃げ始めた。まるで潮が引くのように、薄汚れた毛玉の集団が森の奥へと去っていく。</p><p>数秒もしないうちに、視界からチェカー・チェカーは一匹残らず消え去っていた。</p><p>こうでもしなければ 深部 では生き残れない、と言わんばかりの鮮やかな撤退だ。尤も、アイリーンに手足を斬り飛ばされた個体は、そう長くは生きられないだろうが。</p><p>……思ったより、諦めが早かったな</p><p>ビシュッ、とサーベルを振るって血糊を払いながら、アイリーンが少しばかり意味深な視線をケイに向けてくる。</p><p>DEMONDAL のゲーム内では、チェカー・チェカーの群れはもっとしつこかった。それこそ群れを半壊させるくらいの勢いで戦わねば退かないほどに。アイリーンはその差を示唆しているのだろう。</p><p>しかし、ゲームのAIではなく、現実であればこそチェカー・チェカーたちの気持ちもわかる。たとえ猿でも自分の命は惜しかろう。ケイが最初から『長矢』を使っていれば、もっと早く逃げ始めていたかも知れない。</p><p>むしろ、アイリーンの剣には大いにビビっていたあたり、ケイの射撃が早業すぎて弓の恐ろしさを理解していなかった可能性もある。</p><p>やれやれ、どうにか切り抜けられたな</p><p>おどけた風に肩を竦めてみせたケイは、マントをめくって腰の矢筒を示す。</p><p>実は、矢が残り少なかったんだ。危ないところだった</p><p>矢筒には長矢を含めて、あと数本しか残っていなかった。こんな大盤振る舞いをする羽目になるとは思っていなかったので、普通の矢筒しか持ってきていなかったのだ。</p><p>ワオ、と呟いて冷やかすようにピゥッと口笛を吹くアイリーン。お手上げのポーズを取ったケイは、不意に真面目な顔でアイリーンを見つめた。</p><p>ありがとう、アイリーン。お陰で助かった</p><p>ケイだけでは厳しい状況だった。地上に降りてきた群れを、アイリーンが牽制し対処してくれたからこそ、持ち堪えることができたのだ。</p><p>よせよ、お互い様だろ。オレだって一人であの数はムリだぜ</p><p>ひらひらと手を振りながら、軽く笑って流すアイリーン。お互い様―そう言えなくもないが、あの規模の群れに遭遇しても、アイリーン一人だけなら生還できる可能性は高い。機動力が高く単純に足が速いアイリーンは、チェカー・チェカーたちが諦めるまで逃げ続けることもできるはず。そういう意味で足を引っ張っているのはケイの方だ。</p><p>が、それを言えば、現状で最も足手まといである同行者たちが気に病むかもしれないので、ケイは口に出すことはなく深々と頷くに留めた。</p><p>……助かったのか？</p><p>自分が命の危機にあったことさえ実感が湧かない様子で、エリドアが茫然と呟く。</p><p>おっかなびっくり 深部 の入り口を歩いていたら、危険生物の群れがやってきて、あれよあれよと言う間に撃退されていた。なんだか知らないが助かっていた、というのが正直なところだろう。</p><p>前々からとんでもない弓の腕だとは思ってたが、やはりとんでもないな……</p><p>長矢の直撃で爆発四散したチェカー・チェカーの残骸を見やり、マルクは畏敬の念を浮かべている。</p><p>いやはや、ケイの弓もさることながら、アイリーンのサーベルの冴えも凄まじいですね！　全くお見逸れしました、やはり『サティナの正義の魔女』『魔法戦士』の異名は伊達ではない！</p><p>一難去って、ホアキンは大興奮だ。そんな彼に感化されたように、マルクとエリドアも口々に ありがとう 助かったぜ などと礼を言い始める。</p><p>感動しているところを悪いけど、取るもん取ってズラかった方がいいと思うぜ</p><p>が、アイリーンの冷静な言葉に、全員が冷水を浴びせられたような顔をした。</p><p>そうだな。チェカー・チェカーの群れがいたということは、この辺りに危険な大物はいないはず……だが、それにしても騒ぎすぎたし、血の匂いもするだろう。アイリーンの言う通り、さっさと離れた方がいい</p><p>すん、と鼻を鳴らしてケイ。ひどい血の匂いだ。そして獣臭。何日も洗っていない犬と豚小屋を混ぜたような臭気が漂っている。チェカー・チェカーたちはお世辞にも綺麗好きには見えなかった。</p><p>地面に転がったチェカー・チェカーの手足や、矢を受けて未だ悶え苦しむ個体を一瞥し、ケイは索敵を再開する。</p><p>そ、そうだな。早く戻ろう</p><p>『アビスの先駆け』を採取せねば……村の皆のため、一輪でも多く……</p><p>そういえば、この獣……チェカー・チェカーは、何かの役に立つんですか？</p><p>一刻も早く帰りたそうなマルク、厳しい現実に立ち返り悲痛な表情のエリドア、そして相変わらず興味津々のホアキン。</p><p>とりあえず、一同は二手に分かれて撤収作業を開始した。</p><p>アイリーンとエリドアは、見える範囲の『アビスの先駆け』を採取。</p><p>ケイと残りの二人は矢の回収がてら、まだ息のあるチェカー・チェカーにとどめを刺していき、役に立つ部位を剥ぎ取っていく。</p><p>こうしてみると、やはり不気味な獣だ。薄汚れた緑色のモサモサとした長い毛が胴体を覆い、毛の隙間から僅かにぎょろりとした赤い目が覗いている。体毛が濃すぎるので顔つきなどはわからないが、少なくとも愛嬌はない。そして臭い。だらりと開いた口には、頑丈そうな黄ばんだ臼歯が並んでいるのが見えた。雑食性で、食べられるものは何でも食べる。 深部 の外でも生きていける生物だが、昆虫なり植物なり、 深部 の方が栄養価の高い食物が多いので、よほど追い詰められない限り外に出ることはない。</p><p>しかし、チェカー・チェカー自体にはほとんど価値がないんだよな……</p><p>念のため距離を取って、倒れたチェカー・チェカーの頭を矢でぶち抜きながら、独り言のように呟くケイ。</p><p>チェカー・チェカーの肉は不味いし、毛皮はごわごわで使い物にならず、内蔵が薬の材料になるわけでもない。</p><p>唯一、役に立つと言えるのは手の親指の爪だけだ。いかなる生態によるものか、親指の爪だけがコブ状に丸く発達しており、薄汚れたチェカー・チェカーの肉体の一部とは思えないほど美しい緑色の光沢を帯びている。これを剥ぎ取って磨けば、洋服のボタンや装飾品などに重宝されるという。少なくともゲーム内ではそうだった。</p><p>確かに、爪単体を切り取れば、それなりに美しい宝玉に見えなくもなく、加工も容易なので需要はあるだろう。あるだろうが―チェカー・チェカー本体の姿を知っていると、珍重したいとは思えないな、というのがケイの正直な感想だ。</p><p>何が役に立つかわからないもんだ……</p><p>絶命したチェカー・チェカー、その手の親指を狩猟用ナイフでごりごりと切り取りながら、マルクが複雑な表情でごちる。爪だけを剥ぎ取るのは時間がかかるので、指ごと切り取って残りの作業は村でやることにしたのだ。マルクの隣では保存用の革袋を持ったホアキンが手持ち無沙汰に立っている。</p><p>当初、マルクもホアキンも生き残りのチェカー・チェカーにとどめを刺す作業を手伝おうとしていたのだが、危険だったので取りやめた。マルクの短弓では確実に頭蓋骨を撃ち抜くことができず、ホアキンは―言わずもがな、お手上げだ。</p><p>チェカー・チェカーは非常に力が強く、ただ掴みかかるだけで人間の骨程度ならへし折ることがあるため、極力近づかない方がいい。また、顎も頑丈で、細い鎖ならば噛み千切るほどの咬合力を誇り、『窮鼠猫を噛む』の言葉通り瀕死の個体相手でも油断はできなかった。</p><p>そんなわけで、マルクとホアキンの二人は死体からの剥ぎ取りに専念している。ケイがチェカー・チェカーの恐ろしさを語った時点で、二人とも息がある個体に近づく気を失ったようだ。</p><p>（それにしても、アイリーンには頭が下がる……）</p><p>こんな怪物の群れを相手に大立ち回りをやってのけたのだ。ゲーム時代から、『白兵戦の訓練』と称して散々コテンパンにされているので、アイリーンの剣の腕はよくわかっているし、『こちら』に来てからは実戦経験も積んでいるので隙がない。ケイがとやかく言えるほど、アイリーンは弱くないのだ。</p><p>それを頼もしく思う反面、アイリーンを盾にするような戦い方しかできない自分が、歯痒くもあった。</p><p>もちろん、北の大地での馬賊との戦闘のように、騎馬が駆け回る大平原などではケイの方が強い。元々森林はアイリーンの得意なフィールドの一つ。向き不向きの問題と言えばそれまでだ。それまでだが―</p><p>（―近づかれたら弱い、というのはやはり頂けないな）</p><p>ケイは弓騎兵だ。サスケの存在なしで接近戦に弱いのは当たり前。</p><p>しかし『死んだら終わり』な世界で、今までのような甘えは許されない。これでケイがただの脳筋戦士なら諦めていただろうが、実際は違う。</p><p>ふわりと、森の中で不自然な風がケイの首筋を撫でる。</p><p>―Mi estas ĉiam kun vi, ĉu ne?</p><p>幼い、それでいてどこか妖艶な声。</p><p>“風の乙女”シーヴ。何だかんだ言って、彼女はいつもケイのことを見守っている。</p><p>（……ぼちぼち魔術の鍛錬も始めるか）</p><p>旅の間、体調を崩したら拙いので先延ばしにしていたが、次にサティナ辺りで落ち着いたら魔力を鍛えよう、とケイは改めて決意する。ゲーム内ではキャラクターのポテンシャルを全て弓や乗馬の技術に割り振っており、これ以上の成長が望めなかったので考えもしなかったが、現状では鍛えれば鍛えるほど魔力の技能も伸びていく（あくまで常識的な範囲で、だが）。</p><p>（とりあえず、『矢避け』の護符はいくらでも必要だな。接近してきた相手を吹き飛ばす『突風』も欲しい……）</p><p>ケイの現時点での目標は、使い捨ての護符や魔道具を量産できるレベルまで己の魔力を高めることだ。シーヴは強大な精霊だが、コストパフォーマンスが悪く、魔力や触媒をバカ食いするという欠点がある。せめて、粗悪な触媒を大量に用意して代替できれば良かったのだが、高価な宝石や魔力のこもった品などしか受け取らないという筋金入りの『お高い』精霊だ。</p><p>そして触媒抜きの僅かな魔力で何ができるか、と問われれば―そよ風を吹かすことくらいしかできない。そもそもシーヴ、というより風の精霊は良くも悪くも大雑把で、細かく繊細な作業が苦手だ。 追跡 や 顕現 などといった補助的な用途を除けば、竜巻を起こしたり突風で家屋を薙ぎ倒したりと、豪快な術を得意とする。</p><p>一応、ファンタジーでよくある風の刃やカマイタチといった芸当も可能だが、刃だの真空だのを作るのはかなり効率が悪いらしく、消費魔力に効果が釣り合わない。そしてケイの場合、矢を放った方が早いし強いというオチがつく。</p><p>とりあえずケイの特訓は、ロウソクの火をそよ風で吹き消すところから始めることになるだろう。それ以上を望めば、魔力を吸われすぎて寝込むか、最悪枯死する。</p><p>自分の魔力が使い物になるまで、一体何日かかるんだ―と遠い目をするケイだったが、ふと思い出したのはアイリーンの契約精霊、“黄昏の乙女”ケルスティンだ。</p><p>シーヴと違い、ケルスティンは夜限定で非常に高いコストパフォーマンスを誇る。それこそ、一般人でも触媒なしで術を行使できるほどに。</p><p>（ごくごく僅かな魔力消費で影を操る魔道具をアイリーンに作ってもらって、じわじわと訓練した方が早そうだな）</p><p>ロウソクの火を吹き消す魔術。ケイが触媒なしで行使するのは、一日に一度か二度が限界だろう。しかし影を少しだけ操るくらいなら、日が暮れた後から就寝するまで何度か訓練できる、はず。</p><p>あるいは、余裕がある日なら、早朝にシーヴのそよ風訓練を敢行し、日中魔力を回復させてから、夜のケルスティン訓練をするという手もある。これがゲームなら、ログアウトしている間にキャラクターを自動モードに切り替え、飲まず食わずで瞑想させたり魔法書を読ませたりして手軽に魔力を伸ばせたのだが、現実ではそうもいかない。そもそも魔力のこもった書物の類も持っていない。</p><p>（あとでアイリーンに相談してみよう）</p><p>結局アイリーン頼りだな、と苦笑するケイ。やれやれ、と呆れたようなシーヴのため息が、どこかから聞こえた気がした。</p><p>その後、矢とチェカー・チェカーの爪を回収し、アイリーンも『アビスの先駆け』の採取から戻ってきたので、一行は足早に村へと帰還することにした。</p><p>チェカー・チェカーの襲撃のせいで、かなり時間を食ってしまった。今頃、村では皆が心配してケイたちの帰りを待っているだろう。</p><p>希少な霊薬の材料である『アビスの先駆け』に、装飾品として珍重されるチェカー・チェカーの爪―想像以上の収穫だったが、村人組のエリドアとマルクは深刻な顔だ。これ以上ないほどはっきりと、確かめてしまった。 深部(アビス) が村の近くまで迫っているという事実を。</p><p>（これからどうなるか、だな）</p><p>村は、難しい選択を迫られる。ケイは他人事ながら、小さくため息をついた。</p><p>差し当たっては収集した素材をどう扱うかが問題になってくる。『アビスの先駆け』の買い取りは、村で待機している行商人(ホランド)たちと交渉することになるだろう。少しでも高値で買い取ってもらえるよう、朴訥なエリドアたちを援護したいところだ。これ以上、村のためにケイが手助けできるのは、それくらいしかない。</p><p>深部 の入り口から離れ、穏やかな普通の森を歩きながら、ケイは無性に酒が呑みたくなった。アイリーンと一緒に、何の気兼ねもなく、楽しく酔っ払いたい。</p><p>口数も少なく、ケイたちは進む。</p><p>村までは、あと少しだ。</p><p>次回、交渉したり酒呑んだりイチャイチャしたり（予定）</p><p>68. 報告</p><p>森を抜けると途端に視界が広がった。</p><p>見慣れた青空と草原の緑。ほぅっと肩の力を抜いて、ケイは人心地つく。</p><p>森を切り拓いた畑の向こうには、丸太の壁に囲まれた開拓村。“大熊(グランドゥルス)“の襲撃後、新たに建てられたという見張り櫓から、村人の一人がこちらに手を振っているのが見えた。ケイたちの帰りを待ち侘びていたらしい。</p><p>村の広場。</p><p>予定より遅れて戻ってきた一行は、やきもきしていた村人や行商人たちに、もれなく取り囲まれることとなった。</p><p>どうだった？！</p><p>森の様子は？</p><p>皆に問われ、村長(エリドア)は沈痛な面持ちで、</p><p>大漁だったよ……</p><p>と、革袋から何輪もの『アビスの先駆け』を取り出した。薔薇のそれにも似た豪奢な花びら。この世のものとは思えないような鮮やかな青色に、皆が それは…… と頭を抱えて呻く。これほど喜ばしくない大漁報告に立ち会ったのは、ケイも初めてだ。</p><p>おにいちゃーん！</p><p>と、そんな住民たちをよそに幼い声が響いた。ぴょこんっとホランドの荷馬車から飛び降りたエッダが、スタタタタと駆け寄ってくる。随分と心配していたらしく、勢いもそのままにケイに抱きついた。</p><p>だいじょうぶ！？　危ない目にあわなかった？</p><p>う～ん……ちょっと獣の群れに襲われたが、怪我はしてないよ</p><p>革鎧が顔に当たると痛いだろうに、しがみついて離れない。ぽんぽん、とその癖っ毛の頭を撫でてあげながら、ケイはにっこりと笑ってみせた。</p><p>心配すんなよ。みんな、かすり傷一つないぜ</p><p>オレが大活躍だったからな、と腰に手を当てて ふふーん と得意げなアイリーン。近くの日陰で実家のように寛いでいたサスケも、おもむろに立ち上がり、 おつかれ と言わんばかりにぺろぺろとケイの頬を舐め始めた。</p><p>やはり、 深部(アビス) の侵蝕が進んでいたのかい？</p><p>エリドアが掲げる『アビスの先駆け』を横目で見ながら、歩み寄ってきたホランドは浮かない顔だ。</p><p>……ああ。残念ながら</p><p>ケイが首肯すると、 そうか…… と憂いを帯びた表情で村を見渡すホランド。</p><p>まるで、今のうちに、この村をしかと目に焼き付けておこうとするかのようだった。</p><p>エリドアが皆に探索の結果を説明し、『アビスの先駆け』やチェカー・チェカーの爪などを披露する。チェカー・チェカーの緑色の爪は明るい日差しの下で映え、文字通り異彩を放つその美しさに、朴訥な村人たちは息を呑んだ。</p><p>住民たちの多くは、今後この村がどうなるのか非常に心配していたが、はっきりした結論は出ていない。</p><p>一行は話し合いの場所を村長宅へと移す。</p><p>“大熊”の事件の際も、ケイたちはこの『ヴァーク村』の村長宅に招かれたが、前回に比べると格段に建て付けが良くなっており、ほぼ別物に変わっていた。どうやら以前の屋敷は仮のものだったらしい。</p><p>広めのリビングには大きな丸テーブルが置かれ、大人数での会議にも利用できるようになっていた。天井にはいつかタアフ村の村長宅でも見たような、金属製の素朴なシャンデリアが下がっている。</p><p>話し合いに集まったのは、村長のエリドア、村の顔役が数名、そしてホランドを始めとした行商人たちだ。助言者かつ 深部 の”専門家”として、ケイとアイリーンも同様に招かれている。探索が終わって早々だが、少なくともエリドアは休む気にはなれないらしく、会議は早々に始まった。皆で円卓につき、まずはハーブティーで一服しながら話を進める。</p><p>とは言え、今回の話し合いは村の行末を決める会議というより、探索での『収獲』を買い取ってもらう商談が主になるだろう。そもそも、村の今後を判断できるのは領主であり、エリドアには直接的な権限がない。</p><p>『チェカー・チェカー』……そのような獣がいるとはなぁ</p><p>行商人の一人が、テーブルから緑色の宝玉をつまみ上げ、しげしげと眺める。</p><p>とりあえず『商品』の見本として指から引き剥がし、軽く洗ったチェカー・チェカーの爪だ。本当に、ただ水で洗って布で磨いただけなのだが、リビングの窓から差し込む陽の光を浴びてきらきらと光っている。</p><p>面白い素材だ</p><p>完全な球形ではないが、加工次第では化けるな</p><p>横から覗き込むホランドや他の商人たちも、興味津々だ。ケイたち『現代人』からすれば、どことなくプラスチックを連想させる人工的な色なのだが、『こちら』ではそれすらも美点の一つとなる。</p><p>しかし、チェカー・チェカーなんて聞いたこともないな。売るにしても客にどう説明したものか</p><p>獣本体の死体はないのか？</p><p>剥製にでもして店に飾れば、この爪も売りやすくなるだろう</p><p>チェカー・チェカーを知らない商人たちが、無邪気にそんなことを言ったが、探索組は いや…… と渋い顔をする。</p><p>獣の死体はない。体長一メートル近くて重いし、何より臭くてな……</p><p>誰も持ちたがらなかった、とエリドアは首を振るが、探索組の荷物運び(ポーター)は何を隠そう彼だ。一瞬目配せするケイとアイリーンだったが、空気を読んで余計なことは言わずにおいた。</p><p>ちなみに、領主への報告用にチェカー・チェカーの死体もあった方が良いのではないか、という意見も現地で出ていたが、最終的に『アビスの先駆け』で充分だろうという結論に至っている。</p><p>それに……その、……なんだ</p><p>がりがりと短く髪を刈り込んだ頭をかいて、エリドアは困ったように続ける。</p><p>チェカー・チェカーは……お世辞にも見目麗しい獣とは言えなかった。納屋に放置されたまま、カビの生えた古い雑巾みたいなヤツで……。毛糸みたいにもじゃもじゃしてたし……そのくせ手足は枯れた老人のそれみたいで不気味だったし……飾ってても客が遠ざかるだけだと思う</p><p>そ、そうか……</p><p>そんなのが何十匹と寄ってたかって襲い掛かってくる光景を想像したのか、ホランドが恰幅の良い体をぶるりと震わせた。</p><p>ま、まあ、それはいいとして。この爪と『アビスの先駆け』についてだが……</p><p>ハーブティーで口を湿らせ、気を取り直してホランドが本題に入る。</p><p>まず、探索で得たこれらの素材は、君らの間でどう分配するつもりなのかね？</p><p>ホランドにまっすぐ見つめられたケイは、腕組みをして考え込む。</p><p>……難しい問題だ</p><p>……いや、何も難しくはないと思うんだが。少なくともチェカー・チェカーの爪は、全てケイとアイリーンのものだろう</p><p>何を言ってるんだお前は、と言わんばかりの顔をするエリドア。 そうか？ とケイが首を傾げると、アイリーンも呆れたように 当たり前だろ と言う。</p><p>連中を仕留めたのケイとオレだけじゃねえか</p><p>……それもそうだな</p><p>なんとなく、皆で探索隊(パーティー)を組んでいたので公平に分配せねば、という気持ちがケイの中にはあった。が、言われてみればアイリーンの言う通りだ。エリドアたち同行者は戦闘中、カカシのように突っ立っていただけで何もしていない。取り分は全てケイたちにあると言っていいだろう。</p><p>ただ、村の今後を考えると、全部自分たちで取ってしまうのは気が引ける。</p><p>じゃあ、手間賃ということで、同行者には……爪を一個ずつ配ろう</p><p>それは助かる。ありがとう</p><p>少し嬉しそうなエリドア。ちらりとケイが横目でアイリーンの様子を窺うと、彼女も特に異存はない様子だった。ケイとしてはもうちょっと渡してもいい気がしたのだが、あまりやりすぎると後でアイリーンに怒られる。</p><p>それに、今後―ケイ自身が狩人として生計を立てていくつもりもある以上、労働力の安売りをするわけにはいかなかった。 深部 の怪物を駆除してくれた上に、素材まで無料で提供してくれた などと評判になっては困る。</p><p>ともあれ、これによって自動的に、爪の交渉はケイたちが主導するところとなった。コーンウェル商会との関係上、ホランドたちはこの場で買い叩くような真似をしないだろう。そうすれば、たったひとつではあるが、エリドアと狩人のマルクも適正価格で爪を買い取ってもらえる。少しでも資金の足しになればいい、とケイは思った。</p><p>では、『アビスの先駆け』については？</p><p>……結果として、採取できたのは十五株だ</p><p>エリドアが革袋から『アビスの先駆け』を取り出し、テーブルに並べていく。立派な花が咲くので勘違いしがちだが、薬効成分が多く含まれるのは花びらではなく葉っぱの方だ。採取されたのは、咲きかけのものや、蕾も花もつけていないものも含まれる。目印の花がなく、見分けの難しいこれらは、主にアイリーンが見つけ出してきた。</p><p>取り分だが……まず、ニ株は村に分けて頂きたい。この辺りの森は、我らがヴァーク村が自由に狩猟・採取できるよう、領主……ひいては、畏れ多くも公王陛下から御許しを頂いている。採取物の一割から二割は村の取り分にしてもいいよう、法で定められているんだ</p><p>そう言って、エリドアはまず、『アビスの先駆け』のうちニ株をスッと脇にずらす。眉をハの字に寄せたエリドアの言葉に商人たちが誰も反論しなかったので、彼の言っていることは正しいのだろう。</p><p>よって、残りの十三株を、探索組で公平に分けるという提案をしたい。一人頭、2.6株という計算で……</p><p>ちょっと待ってくれ。そのうちの四株、花が咲いてなかったりして見つけにくいヤツは、オレが採ってきたんだぜ？</p><p>すかさず口を挟んだのはアイリーンだ。</p><p>それに、現地に辿り着いてから、真っ先にブツを見つけたのはケイだろ？　オレたちの力がなければ、採取はもっと時間がかかったし、こんなに沢山見つからなかったはずだ。もうちょっと『公平』な分け方があってもいいんじゃないか？</p><p>確かに。ごもっともだ</p><p>眉をハの字にしたまま、しかしアイリーンのツッコミに動じることもなく、エリドアは頷いた。</p><p>では、二人には村からの感謝の気持ちを込めて、本来は村全体の取り分であるこちらの二株を贈ろう。ささやかで大変申し訳ないが……</p><p>そして、先ほど取り分けた二株を、今度はケイたちの方にスッとずらす。</p><p>周囲の森から得られた恵みも、うち何割かは税として納めるんだ。この二株は、本来そちらに充てられるはずなんだが……これで勘弁して欲しい</p><p>一見、情けない表情を見せておきながらの、想像以上のふてぶてしさにケイは思わず笑いそうになった。決して他人事ではないので笑っている場合ではないのだが、周囲の商人たちもエリドア理論に笑いを噛み殺している。しかし事情が事情なだけに、ここで もう少し出せ とも言い辛い。</p><p>アイリーンは あー とか うー とか唸った挙句、苦笑しながら おっけい、それでいいぜ と投げやりに頷いた。</p><p>ありがとう</p><p>エリドアは祈りを捧げるように手を組み、深々と頭を下げて感謝の意を示す。</p><p>少し空気が緩んだところで、窓の外から琴(ハープ)の音色が聴こえてきた。ゆったりとした、心が穏やかになるような曲調だ。続いて、澄んだ青年の歌声が響く。不安がる村人たちを慰めようという、ホアキンの粋な計らいだろうか。</p><p>……しかし、五人で公平に分けるのかね？</p><p>と、珍しく、まとまりかけた話を蒸し返すようにホランドが口を挟んだ。</p><p>何か、問題が……？</p><p>怪訝な顔をするエリドアに、ホランドは少し慌てたように首を振り、</p><p>いや、五人というと、その、それにはホアキンも含むのかね？　彼は好奇心でついていっただけのように見えたんだが……今回は珍しく、何か貢献したのかなと思ってね。大概の場合、彼はついてきても何もしないから</p><p>おそらく以前にも似たようなことがあったのだろう。商人たちが何やら渋い顔、ないし苦笑しながら頷いている。</p><p>それは……</p><p>まあ……</p><p>そうだが……</p><p>この場の探索組、ケイ・アイリーン・エリドアは困ったように顔を見合わせた。</p><p>確かに、言われてみればホアキンは特に何もしていない。と言うか、言われるまでもなく、実はケイもアイリーンも、おそらくはエリドアも薄々そう感じてはいた。</p><p>……まあ、ホアキンの旦那のお陰で、道中は退屈せず済んだな</p><p>色々話したり歌ったりしてくれたし、とアイリーンが肩を竦める。</p><p>それに、採取作業も一応手伝ってくれたし……</p><p>チェカー・チェカーの剥ぎ取りを思い返しながら、ケイ。</p><p>彼ならば、今後この村の危機を歌にして広めてくれるかもしれないから……村の責任者としては、そういった方向性でも、仲良くしたいと思う</p><p>そう言って、エリドアが締めくくった。</p><p>結局、ホアキンにも公平に取り分を、という形でまとまった。</p><p>分配が決まったところで、具体的な値段の交渉に入る。ここでもエリドアが思いの外にふてぶてしい交渉術を発揮し、様々な薬草や装飾品の値段を引き合いに出した結果、ケイたちが想定していた以上の高値で取引が成立した。</p><p>ケイたちの取り分だけでも、チェカー・チェカーの爪が三十個以上、そして『アビスの先駆け』が二人合わせて七株分の利益ということで、銀貨五十枚近い値段がついた。実に、アイリーンが売り出す予定の魔道具の価格に相当する。</p><p>村側に対してはこの場で支払いがなされ、ケイたちの分はサティナに到着してから精算することになった。まだ行商の途中なので、銀貨を大量には渡せないそうだ。詐欺に合う心配もないので、ケイたちもそれに同意した。</p><p>あとは、マルクが見つけた『アビスの先駆け』を持って領主に報告へ行くだけだ</p><p>ハーブティーをすすりながら、疲れた様子でエリドアがため息をつく。</p><p>領主サマは、ウルヴァーンにいるんだっけ？</p><p>そうだな。この村に関しては……代わりにおれがまとめている形になる</p><p>アイリーンの疑問に、律儀に頷いてエリドア。</p><p>ちなみに、地理的に言えば、ヴァーク村は”公都”こと要塞都市ウルヴァーンよりも湖畔の町ユーリアのそばに位置しているわけだが、ウルヴァーンの領地に属しているため諸々の報告はそちらへ向かうことになるそうだ。</p><p>流石に 深部 の侵蝕となると、村だけで収まる問題じゃない。領主の判断がなければ対処のしようもない……</p><p>遣いを出しましょう</p><p>明日の朝にでも</p><p>これまで黙っていた村の顔役たちが、使者の人選について協議し始める。</p><p>しかし、信じてもらえるものだろうか？　 深部 の侵蝕だなんて……</p><p>……昔なら、一笑に付されていたかもしれない。しかし、英雄殿と”大熊”の件があったからな。『証拠つき』で訴えれば無視できまい、と思うよ</p><p>ケイの懸念に、苦笑いしながらエリドアが答える。</p><p>一時期は、ヴァーク村じゃなくて『大熊(グランドゥルス)村』に改名しようかなんて冗談まで出てたんだが、笑い事じゃなくなってきたな……</p><p>ははは……と乾いた笑い声を上げるエリドア、反応に困る一同。</p><p>……ともあれ、『アビスの先駆け』は、それなりに貴重だからな。証拠が必要とは言え、持っていかなきゃいけないのは何だか惜しい気もする</p><p>話題を変えるケイ。</p><p>むしろ、証拠の『アビスの先駆け』だけ取られて、報告を握りつぶされたりしなきゃいいんだが……</p><p>勝手な偏見だが、ケイはウルヴァーンに住む領主とやらにはあまり良い印象を抱いていなかった。個人的に、 領民と一緒にあってこそ良い領主 という固定観念があるので、離れた都市で悠々自適に暮らすのは、仮にも一為政者の姿としてどうなのだと思わざるを得ない。</p><p>先ほど小耳に挟んだ税金の話もあり、なんとなく典型的な お貴族様 をイメージするケイは、この危機的状況にあって領主が無視を決め込む可能性を恐れた。</p><p>しかしケイが懸念を表明すると、アイリーン以外の全員が ん？ と首を傾げる。</p><p>そして一拍置いて、エリドアが ああ と何か得心したようにポンッと手を打った。</p><p>そうか……そういえばケイたちは知らないのか。なに、領主に関して、そういった類の心配は無用だよ……</p><p>エリドアは、普段の朴訥な様子とは違い、フッと斜に構えたように笑った。</p><p>なにせ、領主様はおれの親父だからな</p><p>次回イチャイチャと言ったな。あれは嘘だ。</p><p>次こそイチャイチャさせたいです……。</p><p>69. 家族</p><p>前回のあらすじ</p><p>エリドア おれの親父、実は領主なんだ</p><p>親父……！？</p><p>エリドアの告白に、二人とも顔を見合わせた。</p><p>まさか、エリドアは貴族だったのか……</p><p>エリドア様、ってお呼びするべきだったかな？</p><p>心底たまげた様子のケイ、悪戯っぽい笑みで問いかけるアイリーン。エリドアは再び苦笑して、 いやいや と首を振った。</p><p>よしてくれ。親父は貴族だが、おれは平民だよ</p><p>聞けば、エリドアの父親はかつての戦役で武功を上げ、騎士に叙せられた一代限りの貴族なのだという。</p><p>エリドアはその三男坊。騎士に取り立てられるほどの英傑の子と言えど、残念ながら武の才能がなかったため、村長になる前は商家で事務仕事などをしていたそうだ。</p><p>ちなみに長男と次男は軍人―だった。一代限りの貴族は、その子息も功績を上げれば、親と同格に叙せられることもある。しかし幸か不幸か、クラウゼ公の平和な治世が続いており、戦乱の影もなく、軍隊での『出世』は見込めそうにない。</p><p>軍に見切りをつけた兄たちは、今はエリドアと共に開拓事業に携わっている、というわけだ。</p><p>……上の兄貴は、親父に元々領地として与えられていた『ラティカ村』で徴税官をやってる。ウチの村に来る前に、街道沿いの小さな村に寄っただろう？　あの村だ。下の兄貴は、ここから少し離れて北の方……ウルヴァーンにもっと近い森のほとりで、別の開拓村の村長をやってるよ</p><p>この開拓事情は、騎士の父親が 子供らに何かを遺せるように と長い時間をかけて計画し、資金を集めていたものらしい。晴れて公王からの許可が出たため、数年前から本格的に始動したそうだ。</p><p>なので、村のことはおれたちに任せて、親父にはウルヴァーンの屋敷でゆっくりしてもらってるのさ。公都の生活は金がかかるが、田舎暮らしは身体に堪えるし、親父には長生きしてもらわなきゃ困るからな……</p><p>そう言うエリドアは、眼尻を下げて優しげな顔をしていた。</p><p>ちなみに、父が亡くなったあと、領地は公王の直轄領として取り込まれるとのこと。別の貴族に即下賜されるわけではなく、エリドアたちが基盤を固める時間があるため、待遇としてはそれほど悪くないようだ。</p><p>……尤も、それも村が存続できれば、の話だが……</p><p>表情をかげらせ、エリドアは重々しく言葉を締めくくった。</p><p>成る程な……</p><p>腕組みをして頷くケイは、正直 悪い領主とか疑ってすまんかった という気持ちでいっぱいだった。</p><p>それは、村が続いていかないと困るな。親父さんのためにも</p><p>全くだ。しかし今回ばかりは判断を仰ぐしかない。おれの手には余る</p><p>同情心に満ち溢れるアイリーン、エリドアはお手上げのポーズを取ってみせる。</p><p>二人としては、どう思う？　やはりこのまま村を続けていくのは無謀だろうか？</p><p>再び顔を見合わせた二人は、</p><p>場合による</p><p>と、異口同音に答えた。</p><p>……と言うと？</p><p>まず、 深部(アビス) の境界線が今後どの程度の速さで動いていくか、それが一番重要だ。仮に今もなお、爆発的な速度で侵蝕が進んでいるようなら、悪いことは言わないからさっさと逃げた方がいい</p><p>ケイは真面目な顔でそう告げた。</p><p>深部 の領域に呑み込まれれば、異常な速度で雑草が育ち始め、作物がそれに負けてしまう。『アビスの先駆け』が咲き乱れれば臨時収入にはなるかもしれないが、畑が使い物にならなくなるのは農村としては致命的だ。それに加えて森からは危険な毒虫や獣が現れ、日常生活を送るのは困難を極める。</p><p>ホアキンの言っていた『古の海原の民の王国』も、おそらくそうやって滅んだのだ。</p><p>ただ、それを観測するにも時間がかかるだろう。爆発的な侵蝕、と言っても今日明日に 深部 がやってくるわけじゃない、少なくとも数年単位の話にはなるだろうから、安心して欲しい</p><p>全く安心できないんだが……</p><p>生真面目ゆえに真実味がひしひしと伝わってくるケイの言葉に、眉をハの字にして情けない顔をするエリドア。</p><p>まあまあ、そうは言っても侵蝕はもう止まってて、境界線はあそこから動かないかもしれないぜ。諦めるにはまだ早い</p><p>アイリーンが気休めのように言うが、実際その可能性がないわけでもない。エリドアもいくらか希望を取り戻したようだ。</p><p>そうだといいんだが……その場合は、現状維持でも大丈夫だろうか</p><p>いや……危険かどうかと問われれば、間違いなく危険だ。 深部 が近いということもあるが、何より 深部 に繋がる森と隣接しているのがマズい</p><p>顎を撫でながら、ケイは指摘する。</p><p>仮にここで暮らし続けるなら、それなりの対策が必要になるな</p><p>……対策、できるのか？　例えば？</p><p>森を切り拓く。 深部(アビス) の獣は、基本的に開けた場所に出たがらないから、 深部 に侵蝕される前に村の周りを更地にしてしまえばいい。そうすれば前回の”大熊(グランドゥルス)“のときのように、手負いの獣が村の方へ逃れてくる……といった事態は避けられるはずだ</p><p>ケイの『対策』は身も蓋もない力業だった。まさかの環境破壊推奨。</p><p>それは厳しい……というか、無理だな。うちの村だけでは……</p><p>流石のエリドアも、あまりの力業っぷりに閉口する。この村を切り拓くだけでも、どれだけの手間と時間がかかったことか。土木作業機械もなしに、人力で森を更地に変えてしまうなど無茶にもほどがある。</p><p>無論、ケイとてそれは承知の上だ。</p><p>だろうな……。しかし、できる限りのことはやっておいた方がいいと思う。人を雇うなり、そうでなくても一本でも多く木を切り倒すなり……</p><p>それに、ウルヴァーンの公王も他人事じゃないんだから、伝え聞けば何かしらの対策を取ろうとはするだろ</p><p>左手で肘をついたアイリーンが、右手の指でコツコツとテーブルを叩く。</p><p>公都まではそれなりに距離があると言っても、領土が 深部 に沈んじゃうかもしれないわけだし、人任せにはできないさ。絶対に調査団なり”告死鳥(プラーグ)“の魔術師なりを送ってくる。少なくとも数年は、この村が調査団の拠点になるはずだ</p><p>また、その流れで 深部 探索に一攫千金を狙う荒くれ者や冒険家たちも集まる可能性がある。村の安全を第一に考えるなら森の方へと村を拡張していき、そういった流れ者の受け入れ施設―宿屋や食堂、酒場など―を造ればいざというときは壁になる、などとアイリーンは割とえげつない考えを披露した。</p><p>あとは、……親父さんが騎士で、兄弟も軍人だったんなら、その伝手でどうにか軍にも働きかけられないかな？　駐屯地を作ったりとかさ</p><p>それは……無理だな</p><p>アイリーンの提案に、エリドアが首を振る。</p><p>陛下へ報告する他、自分たちでできるのは、せいぜい軍に所属している親父の従士団を呼び戻すことくらいだ。兄貴たちのコネは残念ながら大したものじゃない。そして、親父は成り上がり者だから別の貴族から助力を得るのは難しいし、そもそもここは親父の領地だ……陛下の特別のはからいでもない限り、自分たちで何とかするしかない</p><p>はぁ、とため息をついたエリドアは、ホランドに向き直った。</p><p>できれば、コーンウェル商会の皆様方には、今回の商品を宣伝して欲しい。ヴァーク村の近くで 深部 の貴重な素材が採れた、と……</p><p>もちろん、その程度のことで良ければ協力させてもらおう</p><p>神妙な顔でホランドが答え、他の商人たちとも頷き合う。</p><p>仮に、 深部 の素材が安定して入ってくるようなら、行商の頻度も高くなるかもしれない。もちろん今後の動向次第だが、一応、商会本部にも話だけはしておくよ</p><p>……ありがたい。ホアキンにも、今回の一件を歌ってもらえるように頼もう……</p><p>無精髭を撫でながら、エリドアは考え込んでいる。ホアキンも、今回の探索の利益を山分けしてもらえるので、嫌とは言わないだろう。</p><p>しばらくテーブルに視線を落としていたエリドアだが、ふと顔を上げ、力なくケイに笑いかけた。</p><p>ケイがウチの村にいてくれれば安心なんだが……</p><p>……悪いが、俺たちはサティナに戻ろうと思ってるんだ</p><p>ケイは困ったような顔で答える。ヴァーク村の現況には同情するが、だからと言って住み着こうとまでは思わない。ケイにもアイリーンにもやりたいことはあるのだ。苦笑したエリドアは、 はは、冗談さ と言って手を振った。</p><p>若干の後ろめたさ。</p><p>……なあホランド、今日はもうヴァーク村に留まるんだよな？</p><p>ん？　ああ、ユーリアに出発するにはもう時間が遅いからね</p><p>ケイに問われ、ホランドは窓から差し込む日を見やる。まだ夏なので日が高いが、そろそろ夕方だ。</p><p>そうか。このまま何もせずに立ち去るのも申し訳ないからな……エリドア、もし良かったら斧を貸してくれないか</p><p>は？　斧？</p><p>目を瞬かせるエリドア。 ああ と頷いたケイは、腕まくりをしながら席を立つ。</p><p>せっかくの馬鹿力だからな。一本でも多く木を切り倒せと言ったのは俺なんだ、少しばかり手伝わせてもらおう</p><p>かくして、斧を貸してもらい、ケイは村外れへとやってきた。</p><p>エリドアや話を聞きつけた村の男衆、その他野次馬も一緒だ。</p><p>ケイに貸し与えられたのは、柄の長さが五十センチほどの両手用の伐採斧だ。他の男衆が持っている手斧と見比べるに、おそらく村にあるものの中で一番質が良い。</p><p>ケイは、斧の扱いは？</p><p>さり気なく、エリドアが尋ねてくる。どちらかと言うと斧をダメにされるのではないかと心配しているらしい。先ほどケイが 馬鹿力 と言ったのを気にしているようだ。</p><p>なあに、心配するな。こう見えて一時期は木こりで食ってたこともあるんだ</p><p>ケイの答えに、エリドアも周囲の野次馬も、 ！？ と信じられないと言わんばかりの顔をしたが、事実だ。尤もゲーム内での話だが。</p><p>DEMONDAL ではとにかく何をするにも金がかかるので、金策用のサブキャラを作るのが鉄板だった。ケイは手っ取り早く斧一本でできる木こりを。アイリーンは、最初から素早さ全振りで森の奥深くに潜り込んでは希少な素材を取ってダッシュで帰る探索者をそれぞれやっていた。</p><p>それじゃ、始めるか</p><p>斧の調子を確かめながら、森の入口の若木に歩み寄るケイ。</p><p>樹木の鑑定に自信はないが、樫の木の一種だろう。幹の太さは直径二十センチほど、手始めにはちょうどいい。</p><p>よっ、と</p><p>あまり力を込めず、遠心力を意識しながら幹に刃を振り下ろす。コォンッと乾いた音が森中に響き渡った。ケイの主観では『軽い』一撃だったが、一般的な成人男性のフルスイングほどの威力はある。</p><p>幹に対して斜めに食い込む斧、すかさず刃を抜き、今度は下から振り上げるようにして叩き込む。</p><p>最初の切り口から十センチほど下にめり込む刃。外したのではなく意図的なものだ。斜めになった切り口が直線で結べば直角になるよう、意識しながら伐採を進める。</p><p>コンッ、コンッ、コンッ、と連続する小気味良い音、二度三度とそれを繰り返すと、パキンッと上下の切り口に挟まれた部分が剥がれ落ちた。</p><p>幹の内側が深く露出する―その調子でさらにコツコツと、『掘る』ように刃で叩いていく。みるみる間に形成されていく『く』の字の切り口。</p><p>最後に、その反対側を軽く抉っていけば終わりだ。</p><p>こんなもんか</p><p>メリメリと音を立てながら倒れていく若木。かかった時間は一分ほどか。</p><p>腕はなまってないようだな、ケイ</p><p>そりゃあな</p><p>何やら偉そうに仁王立ちしているアイリーンに、ケイは苦笑してみせる。ケイの現状の身体能力さえあれば、それほど難しいことではない。そしてこの斧はなかなかの逸品と見え、重心のバランスが良く扱いやすい。これならかなり効率よく伐採できそうだ。</p><p>はええ……あっという間だ</p><p>本当に木こりやってたのか……</p><p>あんなに軽々と……あの斧けっこう重いんだけどな</p><p>満足げに頷くケイをよそに、外野はざわついている。</p><p>ようし、この調子で行くぞ</p><p>爽やかな笑みを浮かべたケイは、狩人の目で次なる『獲物』を探す。ヴァーク村の夏の伐採祭りは、まだまだ始まったばかりだ。</p><p>†††</p><p>その後、ケイは村の男衆と共に、夕暮れまでノンストップで伐採を続け、周囲の森を十メートル近く後退させることに成功した。</p><p>若木から大樹まで、ケイ単独で切り倒した木は優に五十を超える。切り株を放置して伐採に専念していたとはいえ、驚異的な記録だ。</p><p>周囲の男たちが疲れて休憩する間も、実に楽しそうに斧を振るっていたケイは、“疲れ知らず(タイアレス)”、“公国一の木こり”の名をほしいままにした。</p><p>ちなみにアイリーンは一同に飲み物を配ったあと、村に戻っていった。女衆と一緒に夕食の支度をしたそうで、夜は野外でのバーベキュー方式の豪勢なものとなった。</p><p>ケイが切り倒した木々のお陰で、薪木が大量に確保できたとのこともあり、キャンプファイヤーのような篝火まで焚かれている。ホアキンが陽気な曲を弾き語り、村人たちは飲み食いしながら騒ぎ、まるで本当の祭りのように皆が浮かれていた。将来への不安を忘れようとするかのように―</p><p>やがて、篝火も燃え尽き、夜の帳が下りてくる。</p><p>エリドアの家に招かれたケイたちは、ありがたく客室で寝台に身を横たえていた。</p><p>木の枠に布を吊り下げた、ハンモックのような形の寝台だ。この季節には涼しくて寝心地が良い。エリドアいわく、冬になれば下に毛皮なり藁なり詰め物をするとのこと。</p><p>いやー食った食った</p><p>寝転がり、お腹を撫でながらアイリーンはご満悦。夕食では、大鍋で振る舞われた夏野菜と野うさぎのシチューがいたく気に入ったらしく、モリモリ食べていた。村の薬草園で育てられた香草がふんだんに使われていて、あれは美味かったとケイも頷く。</p><p>しばし、心地の良い沈黙。</p><p>……そういえば、アイリーン。俺、そろそろ魔力の鍛錬を始めようと思うんだ</p><p>アイリーンの隣に寝転がったまま、天井を見上げてケイは言う。</p><p>お、遂にか</p><p>うむ。矢避けとか突風の魔道具を自作できるレベルにはしたい</p><p>オレも欲しい</p><p>もちろんアイリーンの分も作る</p><p>むしろアイリーンのために作る、とケイは胸の内で呟いた。</p><p>そんなわけで一つ頼みがあるんだが……</p><p>高く付くぜ</p><p>分割払いでいいか？</p><p>よかろうとも。それで？</p><p>ケルスティンの権能で、影を操る魔道具を作って欲しい</p><p>消費魔力が極端に少ない、長く使えるタイプの魔道具をリクエストする。</p><p>あー、そっか。それは確かに使えるな……めっちゃ売れそう、って思ったけど、これ多分バレたらヤバイやつだよな</p><p>だろうな</p><p>修行で命を落とす魔術師もいる、と”告死鳥”の魔術師ヴァシリーが言っていた。初心者でも命の危険なしに手軽に魔力を鍛えられる魔道具は、確実に需要があるが、だからこそ拙い。確実にお偉いさんに目をつけられる。</p><p>特に、あのウルヴァーンのハゲジジイな……</p><p>銀髪キノコ、あるいはサラサラ茶髪ロングのカツラ老人を思い出し、アイリーンが顔をしかめる。ヴァルグレン＝クレムラート― 公都の魔術学院に口利きしてもいい と親切そうに彼は言っていたが、そんなことができる彼自身は何者なのか。高位の貴族かつ魔術師であることは間違いない。</p><p>そして公国は魔術師の戦術的な運用を強みとする国家だ。魔力鍛錬の魔道具が表沙汰になれば、もはや手段を選ばないかもしれない。</p><p>これは極秘にしよう、と二人は頷き合った。</p><p>まあ、その程度のことならお安い御用さ。今後のケイの活躍に期待、だな</p><p>任せてくれ</p><p>実用的な護符の類だけではなく、扇風機やドライヤーなど作ってみたいものはいくつもあるのだ。狩人一本でも食ってはいけるが、できればリッチに暮らしたい。</p><p>……それにしても、この村はどうなるかな</p><p>暮らす、という言葉から連想して、独り言のようにケイ。ごろりと寝返りを打ったアイリーンが、ケイの胸板を撫でながら うーん と唸る。</p><p>……正直さ、オレ、今回の一件って、皆が思ってるよりヤバいんじゃないかと思うんだよな</p><p>誰かに聞かれるのを恐れるように、囁くようにしてアイリーン。</p><p>……と言うと？</p><p>確かこの国ってさ、今はウルヴァーンのクラウゼ公が盟主をやってるけど、厳密に誰が王なのかは決まってるわけじゃないんだよな</p><p>アクランド連合公国。その歴史を紐解けば、元々は港湾都市キテネが国の始まりであり、現公王クラウゼは古キテネの領主の直系の子孫にあたる。都市の規模と強大な軍事力、そしてその血統こそがクラウゼ公の王威の根拠だ。</p><p>クラウゼ公って、けっこう歳いってるじゃん</p><p>そうだったな、確か</p><p>ウルヴァーンの武道大会をケイは思い出す。公王本人はかなりの老齢で、ケイは公王の孫にして次期後継者と目される、ディートリヒ公子によって直々に表彰されたのだ。</p><p>考えてもみろよ、あの公王とかいつポックリ逝ってもおかしくないだろ？　となれば公国の盟主が代替わりするわけだけどさ、それで盟主の土地が 深部 に侵食されそうになってる、って他の都市の領主が聞いたらどうなると思う？</p><p>…………</p><p>アイリーンの不穏な囁きに、ケイは沈黙した。</p><p>……それ、やばくないか？</p><p>絶対ヤバイ</p><p>ケイが他都市の領主なら、確実に不安視する。不安視だけで済めばいいが、仮にキテネの領主が盟主交代などを主張しようものなら―。</p><p>そしてウルヴァーンの立場から考えてみれば、そのようなことは許容できないはず。</p><p>……拙いな、この村ごと揉み消されるんじゃないか俺たち</p><p>思わず寝台から起き上がってケイ。</p><p>オレもそれは考えた。だから、揉み消されないようにするべきだなって思ってさ</p><p>アイリーンは寝転がったまま、にやりと笑う。</p><p>そこでホアキンの旦那だよ。取り返しがつかないレベルで話を広げてもらおうぜ</p><p>……成る程</p><p>このまま、ウルヴァーンに報告するだけだと、村ごと『口封じ』される可能性もあった。しかしホアキンが各都市で話を広めてしまえば、もはや強硬策は取れなくなる。</p><p>ウルヴァーンとしては、『 深部 の侵蝕は止まった』と主張せざるを得ないだろ。事実がどうであれ、な……その証拠としてこの村も存続する必要がある。そういう意味じゃ、ヴァーク村は少なくとも半世紀くらいは安泰だと思うぜ</p><p>ううむ……</p><p>ケイは唸って再び寝転がったが、どうにも落ち着かなかった。</p><p>思ったより大事になってしまったな……</p><p>だな……</p><p>エリドアは大丈夫なんだろうか</p><p>胃痛で死んでしまったりしないだろうか、とケイはふと心配になる。</p><p>多分だけど、エリドアの旦那も大なり小なり似たようなことは考えてるんじゃないかな。親父さんは一代限りでも一応貴族なんだし、その辺うまく立ち回るだろ、多分</p><p>だといいが……</p><p>何をどう言おうと、 深部 がすぐそばまで迫っているという事実は変わらない。</p><p>この村にとって良い方向にことが運べばいいが、とケイは祈った。</p><p>しかしそれはさておき、</p><p>こう言っちゃなんだが、移住場所にサティナをチョイスしたのは正解だったかもしれないな……</p><p>うん……ぶっちゃけオレもそう思う……</p><p>二人は顔を見合わせて、はぁとため息をついた。至近距離でケイの顔を覗き込んだアイリーンが、こつんと額をぶつけてくる。</p><p>……将来的には、オレがサティナで市民権を取れればいいな</p><p>それは素敵だ</p><p>現状は、ケイがウルヴァーンの市民権を保持していることにより、住居の購入などが格段にやりやすい。金を持っていても、自由民だとこうはいかないだろう。</p><p>いやー、サティナに着いたら色々頑張らないとな</p><p>家探しに魔道具作り。ある程度基盤が固まれば市民権の獲得。コーンウェル商会を通じて、サティナの市民とも良好な関係を築く必要がある。</p><p>ケイともゆっくり暮らしたいしな……</p><p>ふふっ、微笑んだアイリーンが、ケイの首に腕を絡めてくる。</p><p>そのまま、ちゅっ、とついばむように口づけ。ケイもアイリーンを抱きしめ返したが、ハンモックのような寝台がぐらぐらと揺れて落ち着かない。</p><p>……残念ながら、寝台(コイツ)は激しい運動には適さないみたいだ</p><p>だな</p><p>唇を離して、苦笑する二人。</p><p>それに、汗臭くないか？</p><p>密着しながら気にするケイ。久々に伐採が楽しくて張り切ってしまったが、そのせいでかなり汗をかいた。一応、水で濡らした布で身体を清めたが、水浴びほど綺麗になってはいないと思う。</p><p>へーきへーき、ケイの臭いなら……</p><p>そう言ってアイリーンがケイの胸元で深呼吸したが、おもむろに顔を上げ、</p><p>って思ったけど流石にちょっとアレかな</p><p>だろう？</p><p>クックック、と二人して笑いを噛み殺す。アイリーンは冗談交じりだ。二人して汗だくになることもあるので、互いにそれほど気にならないだろう。</p><p>ま、ユーリアに行けば豪勢な宿屋もあるし</p><p>湖畔の街ユーリアは行商の中継地点として栄え、旅行者向けの施設が充実している。</p><p>久々に風呂に入ってもいいな</p><p>高くつくが、たまにはいい。</p><p>そしたら……ね？</p><p>アイリーンが妖艶に笑う。</p><p>昼間の疲れもあり、二人はそのまま、笑いながら眠りについた。</p><p>次回は村を出立して湖畔の街ユーリアへ。</p><p>70. 水流</p><p>最近なろうでは性描写の規制が厳しくなったようですね……</p><p>ところで今回は濡れ場というか、ありていに言って交尾のシーンがありますのでご注意ください。</p><p>翌朝。</p><p>ぷかぷかと羊雲の浮かぶ、気持ちの良い天気だった。</p><p>日の出とともに起き出した二人は、まずは柔軟体操をこなして身支度を整える。</p><p>元々身体が柔らかく身軽アピールをしているアイリーンはともかく、ケイまで１８０度の大開脚でべったりと地面に張り付いているのは異様な光景だ。付き合いの長い隊商の面々はもう慣れっこだが、ヴァーク村の住民はケイを見るたびにぎょっとしている。</p><p>ちなみに、先日からエッダも真似をして、一緒に体操をするようになった。</p><p>まだ幼い彼女ではあるが、馬車に乗りっぱなしの生活ゆえか身体が固く、ケイたちのようには開脚できない。 ふぎいぃ～……！ と顔を真っ赤にして唸りながら挑戦している。無茶をしすぎないよう、その道のプロフェッショナルであるアイリーンがそれとなく見守っていた。</p><p>体操のあとは、村長屋敷でエリドアから朝食を振る舞われる。堅焼きのパンと、川魚の身が入ったスープだ。</p><p>そういえば昨日、聞きそびれたことがあるんだが……</p><p>朝食の席で、水を飲みながらエリドアが尋ねてきた。</p><p>なんだ？</p><p>深部(アビス) のことだ。森の生態系が変わっていくのはわかったが、侵食された地域の川はどうなるんだ？</p><p>エリドアの問いに、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。</p><p>……どうなんだろ。ケイは？</p><p>わからん……</p><p>ゲーム内の記憶を辿ってみても、そう言われてみれば、 深部 には大規模な川がなかった。また、元からあった河川が侵食された例もないはず。</p><p>（そうだな、 深部 といえば森という先入観があったが、地脈に応じて境界線が変化するなら、海や川も 深部 になり得るわけか……）</p><p>考えたこともなかった、とケイは顎を撫でる。おそらく DEMONDAL の場合、ゲームデザイナーがコスト削減のため、海や川ごとの特異な生態系の実装を避けたのだろう。あるいは単に面倒くさかったのか―いずれにせよ、ゲーム内にはそもそも存在すらしなかった。</p><p>川や海の 深部 については聞いたことがないな、オレたちも</p><p>アイリーンが肩を竦める。</p><p>うぅむ……だが、いくつか推測できることはある。森の変化は『アビスの先駆け』を始めとした特殊な植物を起点にしている。だが今のところ、ここらの 深部 には水生植物は存在しない……はずだ</p><p>つまり、陸地ほど劇的な変化はないはず、とケイは見解を示す。</p><p>じゃあ、川からある日突然、化け物が出てくるなんてことは……？</p><p>それはないと思う</p><p>ケイとアイリーンが異口同音に答えると、エリドアはあからさまにホッとした様子を見せた。</p><p>そうか、それは良かった。……村の近くにも川があるんだ。アリア川の分流で、小さくてもそれなりに魚が採れるし、水も飲める。この川が使い物にならなくなったら死活問題だったよ</p><p>スープの具の魚肉をスプーンで転がしながら、エリドア。ちなみにアリア川とは、村の北部ウルヴァーンの方から流れてくる大河だ。隊商が行き交う街道もアリア川に沿うようにして敷かれている。</p><p>アリア川の分流ということは、 深部 は下流にあたるわけか？</p><p>そうだな、そうなる</p><p>そうか。それなら影響は微々たるものだろう。下流の魚が巨大化することくらいはあるかもしれないが……</p><p>ケイがそう言うと、 魚がでかくなるぶんには、歓迎だな とエリドアは笑った。話によれば、子供が泳いで遊べる程度の小川らしく、いくら魚が巨大化しても限度があるとのことだった。仮に化け物レベルまで育ったところで、川が浅すぎて遡上してこれないだろう。</p><p>そのまま和やかに談笑しながら朝食を終えたケイたちは、出立の準備をする。</p><p>準備と言っても、荷物はほとんどホランドの荷馬車に載せてもらっているので、サスケやスズカの身繕いをしたり、装備を整えたり等々、楽なものだ。特に荷物から解放されて身軽になったサスケは嬉しそうにしている。</p><p>最近はサスケとスズカも仲が良いな～</p><p>そうだなぁ</p><p>並んでまぐさや野菜を食べるサスケとスズカ。かれこれ三ヶ月以上一緒に過ごしているわけだが、ケイとアイリーンのように仲が良い。</p><p>サティナに定住するなら、サスケたちが一緒に暮らせるような家が必要だな</p><p>ああ。でも探すのに苦労しそうだぜ</p><p>サスケたちにブラッシングしてあげながら、ケイとアイリーンは難しい顔をする。</p><p>人口密集地帯のサティナでは、普通の空き家でさえなかなか見つからないだろう。馬小屋付きとなるとどれほどの難易度になるか―最悪の場合、城壁の外に衛星のように点在する町や村に住むことになるかもしれない。</p><p>しかし、閉鎖的な村社会に異邦人の二人が飛び込むのは、それなりの勇気を要する。その点、サティナは都会で、知り合い―コーンウェル商会の関係者や職人のモンタン一家など―も多いので、気が楽なのだが。</p><p>（お前を手放すという選択肢はないしな）</p><p>サスケのたてがみを撫でて上げながら、ケイは思う。苦楽を共にした仲、ということもあるが、魔の森の賢者ことオズの話によると、サスケは不老の存在らしい。できれば一緒に末永く過ごしたいものだ。</p><p>ま、その辺はサティナについてから考えようぜ</p><p>アイリーンが楽観的な風を装ってそう言った。そうだな、とケイも頷く。一応ホランドにも相談はしているのだが、彼の立場でははっきりしたことは言えないらしく、サティナに着いたら商会の御曹司ユーリ少年に相談してみたらどうか、とそれとなくアドバイスを貰っている。サティナの誘拐事件を解決した関係で、有力者と顔つなぎができていたのは僥倖だった。アイリーンに感謝するしかない。</p><p>商会のツテがあれば、空き家と言わずとも貸家くらいは見つかるかもしれない。あるいはサスケとスズカを商会で預かってもらって、しばらく適当な貸家で過ごし、金を稼いでから改めて家を探すと言う手も―などと考えていたケイだが、キリがないので思考を打ち切った。</p><p>アイリーンの言う通り、サティナに着いてからでいい。どのみち詳しいリサーチが必要なのだ―今は旅を楽しもう。</p><p>そうこうしているうちに出立の時間となった。隊商の馬車がぞろぞろと動き始める。</p><p>困ったことがあったら、手紙を送ってくれ。基本的に、俺たちはサティナに滞在しているはずだから</p><p>わかった。そのときはお願いするよ……そんな機会なんて、ないことを祈るが</p><p>相変わらず、眉をハの字にして困ったような顔をするエリドア。彼と固く握手を交わしてから、ケイたちも馬上の人となった。村人総出で、（主に戦力的な意味で）惜しまれながらの出発だ。</p><p>しかし、ケイたちと一緒にいると退屈しないね</p><p>御者台、手綱を握るホランドがしみじみと言う。</p><p>私もかれこれ数十年、行商を続けてるけど、“大熊(グランドゥルス)“なんてお伽噺でしか聞いたことがなかったし、ましてや 深部 なんて……</p><p>ね。お兄ちゃんたちの周りだけお伽噺みたい</p><p>ホランドの隣に腰掛けたエッダが、うんうんと頷いている。</p><p>……俺たちのせいじゃないぞ</p><p>まるで自分たちが騒動を巻き起こしているような言い方だったので、心外だという顔をするケイ。</p><p>ええ、ええ、本当に。まさに歩く伝承ですね</p><p>が、それをよそに荷台からひょっこりと顔を出したホアキンが、琴を抱えたまま恍惚とした表情を見せる。</p><p>ぼく自身、 深部 の入口まで踏み込むことができましたし、チェカー・チェカーなんて化け物にも襲われて、無事生還するという貴重な体験ができました。稀代の英雄の二人の戦う姿を直に目にできましたし、もう、吟遊詩人冥利に尽きますよ……！</p><p>白い歯を見せてニッコリと笑ったホアキンは、 次の町でも期待してますよ！ などと抜かした。</p><p>行く先々でトラブルに巻き込まれてたまるかよ！</p><p>アイリーンが冗談半分に怒ってみせる。ホアキンは素知らぬ顔、エッダとホランドもけらけらと笑っている。ケイも苦笑するしかなかった。</p><p>隊商は進む。</p><p>ヴァーク村に 深部 が迫っていたこともあり、護衛戦士たちと連携して警戒していたが、森から怪物が飛び出てくるなどということもなく、平和な旅路が続く。</p><p>南下するにつれ、少しずつ鬱蒼とした森の緑が引いていった。代わりに広がるのは見晴らしの良い、青々とした平原だ。地形から起伏が消え、馬車の足も速くなる。</p><p>畑仕事に精を出す、村とも呼べないような小さな集落や、思い出したようにぽつぽつと点在する木立が、後方へゆっくり流れていく。</p><p>ケイたちも一度は通った道だ。</p><p>そう言えばこの辺りはこんな風だったな、と感慨深く思い出す。</p><p>そして数時間後、昼前に隊商は湖畔の街ユーリアに到着しつつあった。</p><p>城壁のない、交易の中継地点として栄える街、ユーリア。隣接するシュナペイア湖の真ん中には小さな島があり、水の大精霊を祀る神殿が建てられていることから、精霊の信仰者が巡礼の旅に訪れる。</p><p>相変わらず、綺麗な湖だな</p><p>視界に遠く、青く揺れる湖面を眺めながら、ケイは感嘆の声を漏らす。大規模な街と隣接しているとは思えないような、澄んだ湖だ。</p><p>上流に大都市を擁する、モルラ川やアリア川といった大河とも運河で接続されているのに、ゴミの一つも見当たらないのは驚嘆に値する。</p><p>汚したら、水の大精霊がブチ切れるんだっけ</p><p>そうですね。二百年ほど前に、汚されていく湖に精霊が怒り狂い、ユーリアの元になった街が半分は沈んだと伝えられています</p><p>アイリーンの呟きに、ホアキンがしたり顔で答えた。</p><p>それ以来、ユーリアの住民も、川の上流に住む人々も、川を汚さないよう細心の注意を払っているんですよ。水の大精霊様は基本的に湖に眠ると言われていますが、怒れば川を遡ってでもやってくるでしょうからね</p><p>ウルヴァーンやサティナといった大都市で、神経質なまでに下水道が整備され、浄水施設まで存在する理由がこれだ。結果として、現代人でも耐えられるレベルの生活環境が維持されているので、ケイとアイリーンからすれば水の大精霊さまさまだった。</p><p>……そういえば、それで思い出したが、前にウルヴァーンに滞在していたとき、慰霊祭と称してアリア川に灯篭(ランタン)流しをやってたな。下流の湖でランタンがゴミになったら水の精霊が怒るんじゃないか、と心配したんだが、みな『ユーリアの住民が死ぬ気で回収するから問題ない』と笑ってたよ</p><p>まるでいやがらせじゃないか、とケイは苦笑して付け加えた。</p><p>まさしく、いやがらせですよ</p><p>が、ホアキンが真顔で答える。珍しく、どことなく冷たい声に、ケイも冷水を浴びせられたように真顔になった。</p><p>……と言うと？</p><p>その慰霊祭は、十年前の戦役―草原の民の反乱で亡くなった人々を弔うためのものです。実は当時、ユーリアの領主は、ウルヴァーンへの援軍を拒否したんですよ</p><p>街道の先、ユーリアの街並みを眺めながら、ホアキンは続ける。</p><p>結果として、ウルヴァーンは大きな被害を出しながらも、自力で反乱を鎮圧したわけですが、ユーリアの領主は防衛に徹して最後まで動きませんでした。ユーリアには城壁がないため、草原の民の襲撃に備えた、というのが表向きの理由ですが―</p><p>一度言葉を切り、ホアキンは囁くようにして、</p><p>―実際は何らかの裏取引があり、反乱軍を見逃す代わりに、ユーリアには手を出させないよう約定を結んだ、とまことしやかに語られています</p><p>事実、ユーリアには小規模な襲撃しかなく、ほとんど被害が出ていないのだという。</p><p>…………</p><p>ケイとアイリーンは沈黙した。思い出すのは、慰霊祭で目にした光景だ。</p><p>老いも若いも、大勢の人々が、戦没者を弔うために灯籠(ランタン)を川に流していた。暗い水面に浮かぶ光は、まさしく膨大な数だった。その光が―戦役で犠牲になった人の数だけ―毎年毎年、川を下ってユーリアに押し寄せるのだ。</p><p>これだけの人が死んだのだ、と。</p><p>そう言わんばかりに。</p><p>成る程、な……</p><p>ケイは呻いた。あのときはただ『美しい』とだけ思った光景。そこに秘められた意味を知って、ぞくりと背筋が寒くなる思いだった。アイリーンも同感らしく、引きつったような笑みを浮かべている。</p><p>とはいえ、あのランタン流しは純粋に戦没者を弔うために始まったものですし、多くの人は『それで迷惑がかかっても構わないだろう』と思っているだけですよ</p><p>ホアキンはそう言って、小さく肩を竦めた。</p><p>と、そんな話をするうちに、とうとうユーリアに到着する。</p><p>ホランド曰く、前回と同様、隊商はユーリアに丸一日滞在するとのことだ。出発は明日の昼頃になるらしい。</p><p>さて、俺たちはどうしたものかな</p><p>どうしよっかね</p><p>サスケたちの手綱を引いて歩きながら、ケイたちは大通りを歩く。</p><p>ホアキンの話を聞いて強張っていた心も、陽気に騒ぐ船乗りたちや大道芸人、商談を進める商人を眺めるうちに、ほぐれてくるようだった。まだ明るいのに街角で客を引く娼婦、せわしなく行き交う商人の小間使い、巡礼者と思しき旅装の一団。</p><p>まさに『雑踏』と呼ぶにふさわしい光景だ。</p><p>そして前回の滞在時に泊まった宿屋”GoldenGoose”亭の看板を目にしたケイたちは、吸い込まれるようにしてそちらへと歩いていった。</p><p>そこそこ高いが、馬小屋があり、清潔で風呂もある宿屋だ。サスケとスズカを預け、部屋を取る。</p><p>うーん、どうする？　とりあえずメシか？</p><p>そうだな、あと風呂にも入りたいな～</p><p>食堂の椅子に座って う～ん と伸びをするアイリーン。ケイも空腹だったので昼食を注文しつつ、風呂を沸かしてもらうように頼む。風呂の準備には時間がかかるので、これでちょうど良い。</p><p>“GoldenGoose”亭の名物料理らしい湖の魚のムニエルに、じっくりと煮込まれた濃い味のポトフ、ソーセージの盛り合わせ、柔らかい白パンなどをモリモリと食べる。美味しいものを食べると口数が減ってしまうのはケイもアイリーンも一緒だ。</p><p>食後、満腹になってジュースのような葡萄酒をちびちびやっていると、風呂の用意ができたとのことでいそいそと入りにいく。</p><p>ケチらずにお湯を二人分頼んだので、同じ風呂に交代で入る必要はない。風呂は宿に隣接した小屋にあり、小さなスペースに個人用の浴槽をはめ込んだようなもので、それぞれ小さなドアと壁で仕切られている。ケイもアイリーンも別々の風呂に浸かり、旅の垢を落としてさっぱりとした気分だ。</p><p>いや～スッキリした</p><p>メシも美味い、酒も美味い、風呂も気持ちいいし何より清潔だ。文句ないな！</p><p>ほくほくした顔で部屋に戻る二人。お値段が高めの宿屋なので治安が良く、リラックスできるのがいいところだ。中庭に面した窓は開けっ放しで、厚手のカーテンが風に揺れている。</p><p>さて、このあとはどうしようか。明日の昼までゆっくりできるが</p><p>窓の枠に寄りかかって、空を見上げながらケイ。</p><p>天気もいいことだし、何なら湖にでも―</p><p>しかし、振り返りながらの言葉は途切れる。</p><p>アイリーンの唇に、口を塞がれていた。</p><p>さわさわと、涼やかな風。</p><p>……で？　どうするって？</p><p>しばらくして顔を離し、いたずらっぽい笑みを浮かべるアイリーン。</p><p>さて、何だったかな</p><p>ひどい物忘れに陥ったケイは、ニヤリと笑い、少し乱暴にアイリーンをベッドに押し倒す。わざとらしく悲鳴を上げて倒れ込むアイリーンに、ケイはじわじわと迫る。</p><p>しばし、至近距離から見つめ合った二人は、くすくすと笑ってそのまま口付けた。</p><p>それからはどったんばったんの大騒ぎだった。</p><p>途中で、独り身と思しき隣の客が荒っぽく部屋から出ていき、逆に反対側の部屋はカップルだったのか、そちらでもおっ始めたが、ケイもアイリーンも気にしない。もはや誰にもはばかることはない。</p><p>そんなこんなで、お互い思う存分に楽しんでいたのだが、数戦を終えて小休止していたところで邪魔者が現れた。</p><p>コン、コンと。</p><p>何者かが部屋のドアをノックしている。</p><p>並んでベッドに寝転んで戯れていた二人は、弾かれたようにドアを見やった。</p><p>何かの間違いかと思ったが、再びドアが叩かれている。『あの……ケイさん、居ませんか？』とドア越しに少年の声。</p><p>『すいません、コーンウェル商会の使いなんですが……ケイさん、居ませんか～？』</p><p>顔を見合わせるケイとアイリーン。</p><p>なんだろう</p><p>わからん</p><p>上体を起こし胸元までシーツを引き上げるアイリーン。ベッドから起き上がったケイは、急いで下着とズボンを身につける。</p><p>どうした？</p><p>念のため、ドアを足で押さえながら少しだけ隙間を開けるケイ。これで何者かがドアに体当りしてきても、一気に開け放たれることはない。</p><p>しかし警戒するまでもなく、部屋の外にいたのは小柄な少年一人だけだった。顔に見覚えがある。確か隊商の誰かの見習いだったはずだ。</p><p>何かあったのか？</p><p>危険はなし、と判断してドアを開け放つケイ。上半身裸の筋骨隆々の青年が視界に大写しになって、少年は少し気圧されたようだったが、背後に見えるアイリーンの姿―艶かしい裸の肩が見えている―から状況を察したらしく、気まずげに赤面する。</p><p>えっと、その、申し訳ありません。お楽しみのところを……</p><p>いや、それはいいんだが……</p><p>ケイたちは、隊商の面々にどの宿を取るつもりかは伝えていなかった。コーンウェル商会はわざわざケイたちを探し出してまで使いを寄越したことになる。</p><p>ええと、実は、領主様がお二人をお呼びです</p><p>少年の言葉を理解するのに、しばしの時間を要した。</p><p>は？　領主？　……ユーリアの領主か？</p><p>そうです。実は、商会でお二人の 深部 の素材が話題になりまして、事が事だけに領主様にも 深部 の報告をしたのです。すると大いに興味を示された領主様が、ぜひ現地に赴かれたお二人の話を聞きたいとのことで……</p><p>つらつらと事情を説明する少年。ケイは豆鉄砲を食らった鳩のような顔でアイリーンを振り返ったが、アイリーンも同じような顔をしていた。</p><p>今すぐの話か？</p><p>今すぐの話です</p><p>……急いだ方が？</p><p>……その、できれば。領主様がお待ちですので……今はホランドさんが対応しているはずですが……</p><p>ケイたちを探すのにかなり時間がかかった、と小間使いの少年は付け足す。今更つべこべ言ってもどうしようもない話だった。</p><p>わかった。支度しよう。領主様はどこに？</p><p>岩山のお城です。馬で参上されても構わないとのことでした</p><p>シュナペイア湖のほとりの大きな岩山を思い出し、 あそこか…… とケイは呟く。</p><p>領主の城は岩山の頂上に位置し、かなり堅固な造りになっている。城まではきちんとした石畳の道が敷かれ、傾斜もなだらかに整えられているが、人の足で登ろうとすればそれなりに時間がかかる。馬で参上のくだりはそういうことだ。</p><p>わかった、すぐに馬で向かおう</p><p>ありがとうございます。では自分は商会にそう伝えて参ります</p><p>ほっと肩の荷が下りたような顔で、少年は飛ぶようにして去っていった。</p><p>えらいことになったな、アイリーン</p><p>だな。こっちの領主はどんなヤツなんだろう。畜生、リサーチ不足だぜ</p><p>急いで服を着ながら二人はため息をつく。先ほどのホアキンの話が真実ならば、領主一族はかなり狡猾な気質ということになるが―</p><p>部屋の鍵を閉め、身支度を整えたケイたちは急いで階下へと降りる。そのまま馬小屋へと突入。</p><p>サスケ、悪いがお前の出番―</p><p>ばんっ、と馬小屋の扉を開けたケイは、しかし硬直する。突然立ち止まったケイの背中に、 へぶっ とアイリーンがぶつかった。</p><p>ちょっと、ケイなにいきなり止まってんだよ</p><p>アイリーンが文句を言うが、ケイは固まっている。訝しんで馬小屋を覗き込んだアイリーンは―しかし、同様に固まった。</p><p>馬小屋の中では、サスケがスズカに後ろから覆いかぶさっていた。</p><p>二頭とも、 あっ という顔をしてこちらを見ている。しばし、奇妙な沈黙がその場を支配した。</p><p>…………</p><p>何も言わずに扉を閉めたケイは、困惑の表情でアイリーンを見やった。</p><p>いや、無理だろあいつ……</p><p>そもそもサスケは馬ではなく、馬に擬態した『バウザーホース』というモンスター。普通の馬であるスズカと交わったところで、繁殖が可能とは思えないのだが―</p><p>呆然と立ち尽くしていたケイたちだったが、気を取り直し、再び扉を開ける。</p><p>すると藁のベッドに上にはサスケが寝転んでおり、その隣には、何事もなかったような顔のスズカが尻尾を振りながら立っていた。</p><p>おーい。おーい、サスケ？</p><p>しかしケイが近寄ってもペシペシと顔を叩いても、サスケは目を閉じたまま、うんともすんとも言わずに寝転がり続けている。</p><p>そのままテコでも動かない構えだったので、ケイとアイリーンは珍しく、スズカに二人乗りして城へ向かう羽目になった。</p><p>サスケ つかれた</p><p>71. 召喚</p><p>前回のあらすじ</p><p>サスケ ふぅ……</p><p>大通りの人混みを抜けてから、ケイたちはスズカに跨った。</p><p>このがっしりとした体格の黒毛の雌馬は、どこぞのサスケと違い二人乗りの加重も苦にしない。ダカカッダカカッと激しく蹄の音を鳴り響かせ、きつい勾配の坂道も一気に駆け上がる。</p><p>岩山の頂上―領主の居城へと続く道は閑散としていた。呼び出されでもしなければ一般庶民には縁のない場所なので当然だ。お蔭で通行人に気を遣う必要もなく、速やかに城門まで辿り着く。</p><p>止まれ、何者だ！</p><p>が、そこでケイたちを出迎えたのは門衛たちの槍だった。単騎で突っ込んできた異邦人を警戒しているらしい。領主に呼び出された旨を伝えても彼らはまだ半信半疑の様子だったが、ケイの名は伝え聞いていたらしく、ウルヴァーンの身分証を出すと、途端に態度が軟化する。</p><p>これは失礼した</p><p>話は聞いている、こっちに来てくれ</p><p>兵士に促され、城門の内側へと招き入れられる二人。</p><p>サンクス、マイ身分証……</p><p>小さく呟きながら、ケイは胸元に身分証を仕舞い直す。今後、情勢がどう転ぶか不明なウルヴァーンではあるが、やはり身分証の効果は絶大だ。</p><p>これはこれで悪くないな、とケイは思った。</p><p>遠く離れているのでウルヴァーンからは干渉されにくく、そして他所の街では、公都の民なので無下には扱われない。いいとこ取りをしている気分だ。願わくばこれからも上手く利用していきたい。</p><p>兵士に連れられ、アイリーンと共になだらかな石畳のスロープを歩く。</p><p>ユーリア城は規模としては至って小さい。下から見上げるとかなり狭苦しく見えた。岩山の天辺に築かれた土台、そこにこじんまりと石造りの館や見張りの塔が建ち並ぶ様は、 DEMONDAL のゲーム内の『要塞村』ウルヴァーンを彷彿とさせる。</p><p>が、ひとたび城門を抜けると、そんな印象は見事に塗り替えられた。</p><p>城内の石畳や建造物には、それぞれ白系統の石材が配され、現役の軍事施設とは思えないような清潔感ある佇まい。まるで観光名所にでも足を踏み入れたかのようだった。中庭には丁寧にも木が植えられ、木陰には小洒落たベンチまで置かれている。</p><p>ユーリア城には仰々しい城壁がない。唯一、城門付近は分厚い壁に護られているが、あとは腰の高さほどの壁―いや、塀があるだけで、閉塞感とは無縁だった。地平線の彼方に雪を頂いた山脈が見えるほかは、視界を遮るものは何もない。</p><p>お陰で中庭からは眼下の景色を一望できた。</p><p>活気に満ちたユーリアの街並み、蒼い煌めきを湛えたシュナペイア湖、豆粒ほどにも見える船乗りや旅人、商人、巡礼者たちの姿―そして、それら全てを包み込むように風にそよぐ緑の草原。</p><p>崖下から吹き上げる涼風が、夏の日差しの熱を吹き散らしていく。あまりの爽やかさと心地よさに、思わず足を止めて風景を満喫してしまいそうだ。</p><p>ただし、足元には気を払う必要がある。一歩でも塀の外へと踏み出せば、そこはもう断崖絶壁だ。城をぐるりと取り囲む塀は、防衛用というより兵士のための安全柵も兼ねているのだろう。</p><p>この崖こそが天然の『城壁』、まさに難攻不落の要塞だ。領主の城ともなれば対魔術防御もしっかりと施されているはず。攻城兵器も届きにくい高さ故、航空戦力でもなければ、ちょっとやそっとのことでは陥落しなさそうだ。</p><p>ゲーム内では飛行型モンスターを飼い馴らし、騎獣として運用することも可能だったが、『こちら』の世界にそんな命知らずがいるかは謎だ。火薬（地球のそれとは違い火の精霊の影響で長時間に亘り高温で燃え続けるもの）を利用した熱気球や飛行船は存在するかもしれない。</p><p>すごい高さだな</p><p>ひょい、と壁から身を乗り出して下を覗いたアイリーンが、ぴぅっと冷やかすように口笛を吹いた。</p><p>おいおい、気をつけてくれよ。領主様の客人が落っこちるなんて冗談じゃねえ。おれの責任になっちまう</p><p>それを見咎めた案内役の年かさの兵士が、白髪混じりの眉をクイッと吊り上げる。</p><p>そ(・)れ(・)をやるならせめて帰りにしてくれ、そしたら別のヤツを案内につけてやる</p><p>はははっ。落ちたヤツはいるのか？</p><p>いたさ。昔、度胸試しで足を滑らせた阿呆がな</p><p>笑いながらケイの質問に、ふんすっと鼻で溜息をついて老兵士。</p><p>どうなった？</p><p>おれが兵士になったばかりの頃の話だ。初めて見た死体がそいつだったよ</p><p>しばらくソーセージを食う気がしなかった、と老兵士は語る。曰く色々と飛び散っていたらしい。城の北側の岩肌には、いまだ血痕がこびりついているそうだ。</p><p>そんな話をするうちに、城門の反対側、領主の館に辿り着いた。ここからは湖の中心の小島と水の大精霊の神殿がよく見える。館には、奇妙なドーム状の建造物が隣接しており、老兵士によると水の精霊を祀る礼拝堂とのこと。</p><p>館に入ってからはケイもアイリーンも護身用の短剣を預かられた。当然の処置なので粛々と従う。ケイが肌身離さず携帯している”竜鱗通し”も同様だ。弦を張らず、矢もなければ凶器たりえないとは思うのだが、武器を持たせたまま領主の前に連れて行くわけにもいくまい。一時的な措置とはいえ、唯一無二の相棒を手放すのは不安で仕方がなかったが、こればかりはどうしようもないとケイも諦めた。</p><p>エントランスホール。漆喰で塗り固められた白い壁、ふんだんに使われた大理石。床には赤色の絨毯が敷かれ、まさしく貴族の館といった風情だ。窓には透明なガラスが嵌まり、頭上にはクリスタルのシャンデリアが輝く。領主の血族か、階段の踊り場の壁には着飾った貴人たちの肖像画が飾られ、ケイたちは興味深く絵画の中の服装や装飾品を観察していた。</p><p>そのまま待たされることしばし。</p><p>階上からドタドタと足音がしたかと思うと、ホランドが顔を覗かせる。</p><p>やあ、やあ、ケイにアイリーン。良かったよ来てくれて</p><p>二人の姿を認め、あからさまにホッとした様子を見せるホランド。小間使いの少年の話によれば、今まで彼が領主の応対をしていたはずだ。確かにその心労はひとしおだろうが―バトンタッチされる側としては堪ったものではない。</p><p>来ることは来たが、その、領主様に会うのか？　俺たちは</p><p>畏れ多くて気後れしているような声を出しながら、ホランドにだけ見えるよう表情で不満を訴えるケイ。周りには召使や役人といった関係者、騎士階級と思しき帯剣した者がちらほら見かけられたので、不満げな様子を気取られないよう気を遣う。</p><p>いやいや、突然で大変申し訳なく思う</p><p>少しばかり苦い顔をしたホランドが、トタトタと階段を下りてくる。歩調に合わせて太鼓腹が揺れる揺れる。</p><p>ワリィけど礼儀作法(プロトコル)とか全然ダメだぜ。貴族のなんて知らねえぞ</p><p>ポニーテールの先をいじりながらアイリーン。あまり気が進まないときの癖だ。</p><p>大丈夫、細かいことを気になさる方ではないから……</p><p>気にしないんだ、本当に……とどこか諦め口調でホランドは言った。彼もまた被害者の一人、というわけだ。</p><p>……まあ、光栄なことだと思うさ。それで、何を話せばいいんだ？</p><p>ふぅ、と溜息をついて、アイリーンが建設的な話題に切り替える。</p><p>主に 深部 のことだ。私も聞いた限りのことは話したんだが、何というか領主様は『現場主義』でね……チェカー・チェカーや巨大化した森は、私が実際に目にしたわけではないから</p><p>へえ。じゃあオレたちが見てきたものをそのまま語ればいいわけ？</p><p>その通り。特に武勇伝を好まれる方さ</p><p>そういうのなら俺たちよりもホアキンの方が向いてるだろうに</p><p>彼なら貴族慣れしているし、何より現場にいたのに、とケイが口を挟むと、ホランドはもっともらしく頷き、お手上げのポーズを取った。</p><p>もちろん探しているとも。ただ、夕方に備えて午睡(シエスタ)してるのか、姿が見当たらないんだ……今回に限って行きつけの宿には泊まってないみたいだし、ただでさえユーリアは旅芸人が多い街だから……</p><p>ああ～……と納得の声を上げるケイにアイリーン。吟遊詩人は酒場の賑わう夕方から夜にかけてが稼ぎ時だ。今頃は休憩を取っていてもおかしくない。</p><p>ホランド、客人の用意はいいか？　閣下がお待ちだ</p><p>と、階上から癖毛の栗色の髪の男がひょっこりと顔を出す。歳は二十代後半か、気位が高そうな顔立ちで瞳は薄い緑色だ。僅かに覗き見える肩までの服装から、一目で上流階級と看て取れる。それなりに鍛えているようなので騎士かもしれない。</p><p>畏まりました、すぐに参ります</p><p>愛想の良い商人の顔をしたホランドが、笑みを浮かべて一礼する。なんとなくケイもつられて会釈したが、隣のアイリーンは腕組みを解いただけだ。</p><p>よくよく考えれば、貴人相手に会釈だけというのは中途半端でかえって失礼になるのではないか？　などと不安を覚えるケイ。しかし、栗毛の騎士（っぽい男）はこちらを一瞥して ふむ と声を上げただけで、そのまま顔を引っ込めた。気分を害した様子はない。</p><p>栗毛騎士の代わりに現れた従士に連れられ、階上へ。一応ホランドもついてくるようだ、彼には間を取り持って欲しいと切に願う。ケイたちはこれまで何度か『お偉いさんらしき人』―具体的にはウルヴァーンの銀髪キノコなど―に会ったことはあるが、こういった形で正式に謁見するのは初めてだ。</p><p>階段を一歩上がるごとに、ケイは柄にもなく自分が緊張していくのを自覚した。戦場と違ってアドレナリンで誤魔化せない分、むかむかと胸焼けが続くような感覚。</p><p>歩きながら、ホランドが簡単に補足する。領主の名は『データス＝メルコール＝ユーリア＝リックモンド』。長くて一度では憶えられないが、ケイたちが直接その名を呼ぶ機会はないだろう。細かい礼儀作法を気にする人物ではないので、常識的な範囲で敬意を持って接すれば問題はない。部屋に入ったらとりあえず跪くこと。あとは相手の指示通りに受け答えすればいい―</p><p>階段を上がって日当たりの良い広間を抜け、板張り(フローリング)の大部屋へと通される。咲き乱れる花々の模様を描く、踏むのが躊躇われるような豪奢なカーペットが敷かれ、その上には長大なダイニングテーブルが無造作に鎮座していた。どうやらここは領主一族の食堂らしい。さり気なく、テーブルの脚に施されている蔦や人の顔の装飾も恐ろしく精緻だ。自分が仕留めた大熊の毛皮とこのテーブル、どちらが高く付くだろう、などとケイは詮無きことを考えた。</p><p>それからいくつかの部屋を抜け、ようやく領主の居室まで辿り着く。ちょうど建物を部屋伝いにぐるりと一周した形だ。この手の貴族の館には廊下がほとんどなく、大部屋が連結された構造を取ることが多い。そしてどの部屋にも使用人なり役人なりが詰めているため、万が一にも怪しい人物は奥まで辿り着けないという寸法だ。</p><p>そして領主にお目にかかる前に、ダメ押しのボディチェックがあった。ケイは従士が、アイリーンはメイドが数人がかりで、凶器を持ち込んでいないか入念に検査する。そうしてようやく、謁見の間へと通された。</p><p>湖とユーリアの街が見渡せる、特等席とでも呼ぶべき眺めの一室。</p><p>窓際のソファには小太りの中年オヤジが腰掛けている。いわゆる洋梨型の肥満、体型に比して小顔なため、その姿はひどくアンバランスに映った。短く濃い黒髭にぎょろりとした大きな瞳が印象的な人物だ。隣には先ほどの栗毛騎士が護衛として控えている。ホランドがすぐさま跪いたので、ケイとアイリーンも倣って畏まった。</p><p>この男こそが、ユーリアの領主『データス』なのだろう。第一印象として、あまり気が合いそうなタイプではないな、とケイは思った。</p><p>やっと来たか。お前が『公国一の狩人』、ケイとやらだな</p><p>顎髭を撫でながら、興味深げにデータス。とりあえずその足元に視線を落とし、目を合わせないようにしていたケイは、どう答えたものかわからず、軽く頭を下げ肯定するに留めた。</p><p>そして、そちらが『正義の魔女』か……ほほう……</p><p>一転、データスはアイリーンに目をやり、さらにもしゃもしゃと顎髭を撫でる。</p><p>よい、三人とも楽にせよ</p><p>データスが鷹揚に手を振ると、ホランドがすくっと立ち上がった。一拍遅れてケイとアイリーンも続く。アイリーンの顔を真正面から捉えたデータスが、 おお……！ と感嘆の声を上げた。</p><p>アイリーン、といったか。サティナでの一件は聞いておる。噂に違わぬ美貌よな</p><p>……恐縮です</p><p>にこりともしない鉄面皮で、アイリーン。お前に褒められても嬉しくねえ、という心の声が聞こえた気がした。</p><p>雪原の民の出であったな。美人の唇から紡がれれば、独特の訛りも存外美しく響こうというものよ。そうは思わんかフェルナンド？</p><p>はっ……仰る通りかと</p><p>いきなり水を向けられた栗毛騎士(フェルナンド)が、困惑混じりに首肯する。腹芸は苦手と見え、 どうでもいい という本音が透けて見えるようだ。しかしそれを気にする風もなく、うむうむ、と満足げに頷いたデータスはアイリーンに向き直り、</p><p>どうだ、アイリーンよ。吾輩の愛人にならんか？　悪いようにはせんぞ</p><p>爆弾を投じた。</p><p>はっ？</p><p>はァ？</p><p>は……？</p><p>それぞれ、呆気に取られるホランド、思わず素の声が出るアイリーン、聞き間違いかと耳を疑うケイだ。驚愕する三人をよそに、データスはソファから身を乗り出して話を続ける。</p><p>身分の関係上、夫人にするわけにはいかんが、吾輩ならばお前に何不自由なく過ごさせてやれる。旅暮らしよりもこの館の方がよほど居心地が良かろう。お前が望むならば宝石でも魔術書でも、好きなものを取らせようではないか</p><p>欲望の光を隠しもせず、ぎらぎらとした目でデータス。その口上は止まらない。</p><p>お前は美しい。そのような流浪の身で、襤褸を身に纏っているようではあまりに勿体ない。もっと美しく着飾り、豊かに過ごす権利がお前にはある。……心配せずとも、仮に身ごもっても捨てるような真似はせぬぞ。流石に後継ぎの候補にするわけにはいかんが、男ならば騎士程度には取り立てられるし、女ならば婚姻を世話しよう。どうだ？　悪い話ではなかろう？</p><p>ぽかんと口を開けて絶句していたアイリーンは、類まれなる精神力により、辛うじて引き攣った愛想笑いを浮かべることに成功した。</p><p>既に夫を持つ身ですので、そういったお話は……</p><p>なんと、結婚しておったのか</p><p>データスは大げさに驚いてみせる。ここに来て冗談ではないらしいと察したケイは、顔が険しい。</p><p>それならば、一晩だけでもどうだ？　報酬は弾むぞ？</p><p>それでもなお諦めずに食い下がるデータス。ぐへへへ、という擬音がぴったりな笑顔だ。ケイの顔がさらに険しくなった。</p><p>いえ、夫に悪いので流石に……</p><p>ちらちらケイの方を伺いながらアイリーンはじりじりと後退る。</p><p>ふはは、なぁに、夫には秘密にすればよかろう。『晩餐会に招待された』とでも言えばよい。もちろん、それが嘘にならぬよう、もてなしはしようぞ</p><p>ソファから腰を浮かせかけて手をワキワキとさせるデータスだが、この発言に一同は ん？ と首を傾げた。</p><p>いや、秘密と言っても……</p><p>何言ってんだこいつと言わんばかりにケイとホランドを交互に見やるアイリーン。ホランドも困惑を隠せない様子で、ケイと顔を見合わせる。</p><p>……どうした？</p><p>何やら妙な雰囲気を漂わせる三人に流石のデータスも違和感を覚えたか、訝しむようにこちらを見てきたので、ケイは無礼を承知で不機嫌なまま答えた。</p><p>俺の妻だ</p><p>今度はデータスが絶句した。</p><p>……おい、どういうことだホランド、聞いとらんぞ！</p><p>ええっ、申し上げておりませんでしたか？！</p><p>データスに噛みつかれ、驚愕するホランド。</p><p>たわけが！　知っておったら誰がこんな真似をするか！　お前から伝え聞いたのは、『隊商に『大熊殺し』と『正義の魔女』がいること』、『その二人が 深部(アビス) に踏み込んだこと』、この二点だけだ！　噂に名高い英雄二人がよりにもよって結婚しているなどと、一言も聞いとらんわ！！</p><p>……閣下の仰る通りだ、ホランド。私も聞いた覚えはない</p><p>口角泡を飛ばし怒鳴るデータス、その隣のフェルナンドも呆れたような顔で告げる。しばし目を閉じてホランドは考え込み、やがて頭を抱えた。</p><p>……言われてみれば、確かにお伝えしておりませんでした。大変申し訳ありません！　私どもにはあまりにも当然の事実でしたが故……</p><p>瞬速で土下座をキメるホランド。しかしデータスの怒りは収まらない。</p><p>何が『夫には秘密に』だ、たわけが！！　当の夫を前にしてこの物言い、ただの大間抜けではないか！！　どうしてくれる！！</p><p>下手を打ったことをよほど恥じているらしく、データスは顔を紅潮させて座ったまま地団駄を踏む。そしてぎりぎりと歯ぎしりしたかと思うと、シッシッとホランドを追い払うように手を振った。</p><p>ええい、もう良い！　下がれ、二度と顔を見せるでないわ！！</p><p>ああ、それでしたら、私めもサティナの本部に移る予定ですので、今回の謁見が最後になりますかと……</p><p>なにィ！？　行商をやめるのか？！</p><p>控えめなホランドの申告に、一瞬、虚をつかれたように目を見開いたデータスは再び顔を真っ赤にして、</p><p>馬鹿者！！　そんな大事なことをなぜもっと早く言わん、別れの品の一つも用意できんではないか！！</p><p>よくわからないキレ方をしたデータスが、そのままソファ脇のテーブルから呼び鈴を手に取りチリンチリンと鳴らす。すぐさま隣の部屋から飛んできた召使に何やら耳打ちするデータス。頷いて一礼した召使は、またぞろ疾風のように退室していった。</p><p>全く、ホランド、お前というやつは。そんな気の抜けた性分でよくもまぁ隊商の長が務まるものだな！</p><p>ははっ、これはお手厳しい……</p><p>腕組みをしてフンッと鼻を鳴らすデータスに、平伏したままのホランドは苦笑い。</p><p>思えば長い付き合いだったな……ああもうよい、楽にせよ</p><p>そして一人、しみじみとし始める。二転三転する場の空気に、ケイとアイリーンは顔を見合わせて肩を竦めた。</p><p>そうだ……それに、ケイといったか</p><p>何ともきまり悪そうに、データスがケイに向き直る。</p><p>その……良い妻を持ったな。羨ましいわ</p><p>それは……ありがとうございます</p><p>どう答えればいいんだコレ、と思いながらもケイは頷いた。</p><p>仮に、仮にの話だが……もし妻を一晩貸せと言ったら、どうする？</p><p>が、話はまだ終わっていない。ソファにゆったりと座り直したデータスが下卑た笑みで尋ねてくる。データスの斜め後ろで、フェルナンドが小さく肩を竦めるのをケイは見逃さなかった。まだ諦めてないのかこのオヤジ、と呆れ半分にちらりとホランドの様子を窺うと、彼も同様にあからさまな呆れを覗かせていたので、これは深刻な事態ではないと判断する。</p><p>もちろん、連れて帰る</p><p>ぶっきらぼうに、ケイは答えた。</p><p>ほほう。吾輩が城門を閉じよと命じてもか？</p><p>帰り道を塞ぐというわけだ。しかしケイは動じなかった。</p><p>別に構わない。幸いこの城は、飛び降りる場所には事欠かないからな。……妻と一緒に飛んで帰るさ</p><p>胸の奥、力の源からフッと何かが抜き取られる感覚。</p><p>ふわりと、窓の隙間から不自然な風が吹き込んだ。不敵に笑うケイの背後、データスは、羽衣を纏った乙女の姿を幻視する―</p><p>……なんと、魔術師か</p><p>さしもの領主もこれには驚き、目を見開いた。傍らのフェルナンドが反射的に剣の柄に手を置いたが、危険は少ないと判断したのか、ゆっくりと直立の姿勢に戻る。</p><p>おいホランド、聞いとらんぞ</p><p>私めも驚いております</p><p>眉を吊り上げるデータス、ホランドも本当にびっくりしたような顔をしている。</p><p>はて、とケイは首を傾げたが、よくよく考えてみれば、ホランドの前でケイが魔術の技能を披露したのはこれが初めてだ。精霊語(エスペラント)を含む魔術の知識については察していたかもしれないが、風の精霊(シーヴ)と契約していることまでは知らなかったのだろう。</p><p>吾輩は魔術には疎いので何とも言えんが……まさか風の精霊か？　その若さで元素の大精霊と契約し、なおかつ崖から飛び降りても平気なほどの術を行使できるとは、俄には信じがたいが……</p><p>目を細め、顎髭を撫でながら唸るデータスに、ケイは内心ドキッとした。実のところ虚勢を張っているのだ。崖からの紐なしバンジージャンプは、手持ちの宝石と魔除けの護符(タリスマン)を全て触媒に捧げてもなお、今のケイの魔力で成立するか怪しい大技。やってみろと言われればかなり厳しい。</p><p>……しかし、ふははっ、信じがたいがそれでこその『英雄』か。まさに、お前のような『例外』が、そう呼ばれるのであろうな……</p><p>が、勝手に納得したデータスは、お手上げのポーズを取って疲れたようにソファに身を預ける。</p><p>……普通ならば、お前のように有望な魔術師は放っておかんのだが。どうだ？　吾輩の下で働いてみぬか？</p><p>残念だが、遠慮する</p><p>であろうなぁ</p><p>ダメ元の勧誘をすげなく断るケイ。データスは失望する風もなく溜息をついた。彼としてはむしろ、ケイが喜び勇んで承諾した場合の方が困るのではなかろうか。</p><p>閣下、正義の魔女も魔術師として勧誘すれば穏便に済んだのでは？</p><p>と、フェルナンドが横から口を挟む。</p><p>……しまった、その手があったか！　雇ってからお手つきにすれば……！</p><p>今更のように悔しがり始めるデータス。もはや怒る気力すら湧かないケイは、アイリーンと顔を見合わせて苦笑するほかなかった。</p><p>†††</p><p>その後、申し訳程度に 深部 での出来事を話してから、ケイたちは解放された。</p><p>ホランドは記念と称して高級葡萄酒の小樽を、ケイたちは情報料として金一封をそれぞれ与えられた（大した額ではなかった）。英雄たちのこれからの更なる活躍を祈る、などと、ありがたくも投げやりな言葉とともに送り出される。</p><p>あれはあれで、悪い御方じゃないんだ</p><p>坂道を下りながら、ホランドが呟くように言った。</p><p>好色であけすけなところがあるのが玉に瑕だが……気位が高い貴族よりも、よほど親しみがあって、付き合いやすい</p><p>……まあ、わからないでもないぜ</p><p>頭の後ろで手を組んだアイリーンが、溜息混じりに首肯する。</p><p>ユーリアの街は栄えてるしな。少なくとも領主としては有能なんだろうな、とはオレも思ってたさ</p><p>街は良くも悪くも、領主の鏡というからね……</p><p>その結果が交易と色街、か。金が取り柄のスケベオヤジなのは確かだな</p><p>スズカの手綱を引きながらフンッと鼻を鳴らすケイ。いつになく毒のある口ぶりに、思わず二人が苦笑した。</p><p>……しかし、それにしてもケイが魔術師だとは知らなかったよ……</p><p>言ってなかったか？</p><p>聞いてないよ。全く本当にお伽噺の世界さ、“大熊(グランドゥルス)“を弓矢の一撃で仕留める魔術師だなんて滅茶苦茶だ！</p><p>途中から、ホランドの言葉は悲鳴のようだった。</p><p>そうは言っても、アイリーンだって白兵戦に強い魔術師だぞ。弓矢が得意な魔術師がいても不思議じゃない</p><p>いや、君、そういう問題じゃなくてね……</p><p>それに俺の魔術技能は、アイリーンに比べれば大したことはない</p><p>実は大見得を切ったんだ、とケイは肩を竦めてみせる。</p><p>……それじゃあ、さっきの飛び降りるってのは……？</p><p>強がりみたいなもんだ</p><p>あっけらかんとケイがそう明かすと、ホランドは オーララー と高原の民風(ア・ラ・フランセ)に天を仰いだ。</p><p>領主様が変な気を起こさなくてよかったよ……</p><p>まあ、一応、切り札も用意していたがな。もし本気で手を出してくるようだったら、俺もそれなりに脅すつもりだったさ</p><p>へえ、どうするつもりだったんだ、ケイ？</p><p>スズカのたてがみを撫でていたアイリーンが、興味深げに尋ねてくる。</p><p>簡単だ。『突風を起こして、ユーリアの街の道端のゴミを全部湖に放り込んでやる』と言うつもりだった</p><p>ニヤリと笑って、ケイ。それは現状、ケイの魔力と手持ちの触媒によって行使可能な術の中でも、最も現実味があるものだった。</p><p>そしてユーリアは、はるか昔、シュナペイア湖を汚しすぎたせいで水の大精霊の怒りを買い、街の大部分を沈められた過去を持つ―</p><p>弾かれたように、ホランドが眼下を見やった。</p><p>宿場や色街が密集する、猥雑としたユーリアの街並みを―</p><p>……本当に、領主様が変な気を起こさなくてよかった……</p><p>思わず、額の冷や汗を拭うホランド。同時に、あの場でケイがそれを口走らなくてよかった、とも思う。データスは貴族としては驚異的なまでに寛容な領主だが、街に危害を加える者には容赦しない。そしてケイに『それ』が可能であると知れば、全力で然るべき処置を講じただろう。</p><p>万が一の奥の手、さ。俺だって、今の発言がどれだけ危険(リスキー)かはわかってるつもりだ</p><p>ホランドがあまりにビビっているので、ケイはおどけたように付け足す。限定的とは言え、街を滅ぼす力を持っているのだ。暗殺されるのは御免だった。</p><p>本当に万が一のときは、『一度だけ助けてもらえる指輪』を使ってオズを呼び出すという手もあるわけだが―</p><p>と、そんな話をしながら歩いていると、坂道の下に新たな人影。</p><p>見れば、コーンウェル商会の小間使いと、話題の吟遊詩人ことホアキンが、えっちらほっちらと坂道を上がってくるところだった。</p><p>やあ、皆さんお揃いで</p><p>こちらに気づいたホアキンが手を振ってくる。</p><p>ホアキンもお呼ばれか？</p><p>クイッ、と背後の城を親指で示しながらアイリーン。ホアキンが苦笑して頷いた。</p><p>ええ、随分と寝坊してしまったようで……皆さんはもうお帰りなんですね。どうでしたか？　ユーリアの領主様との謁見は</p><p>うーん……</p><p>ニコニコと朗らかに笑うホアキンを前に、一同は顔を見合わせる。</p><p>……まあ、なんというか、ホアキンは男で良かったな。美女だったらどうなったことかわからないぞ</p><p>渋い顔でケイがコメントすると、一瞬きょとんとしてから破顔するホアキン。</p><p>ええ、ええ、そうでしょうね。データス様は女好きで有名ですし……ああ、成る程、そういうことですか</p><p>アイリーンとケイを交互に見やり、何かを察したホアキンが面白可笑しそうに目尻を下げる。</p><p>ぜひ今度、何が起きたのか教えてください。残念ながら今は急いでますので……</p><p>ああ、早ければ明日にでも教えるぜ</p><p>手をひらひらとさせるアイリーン。ホアキンは微笑んで一礼してから、急ぎ足で坂道を登っていった。</p><p>その後ホランドとも別れ、ケイたちは宿屋”GoldenGoose”亭に帰還する。思ったより早く帰ってこれたとは言っても、日は既に傾きかけていた。今頃はホアキンが一曲披露しているのだろうか。自分たちの武勇伝を聞かされたとき、あの領主はどんな顔をするかな、と考えると可笑しかった。</p><p>あ～疲れた……</p><p>部屋に入るなり、アイリーンがベッドにダイブする。手土産の金一封の革袋をサイドテーブルに放り投げ、ケイもアイリーンの隣にどさりと倒れ込んだ。</p><p>全くだ……しかし無事帰ってこれてよかった</p><p>アイリーンの頬を、そっと指の背で撫でながら、ケイ。</p><p>ホントだぜ。いやもう、子供がうんたらとか言い出したときは……ゾッとした。あ～もう思い出したくもない！</p><p>頭を抱えてジタバタと悶えるアイリーン。確かにアレはキツかったろうな、とケイも心の底から同情した。</p><p>俺もたまげたよ。一発ぶん殴ってやろうかと思ったくらいだ</p><p>ハハッ。ケイ、あんときスゲェ顔してたもんな</p><p>……そうか？</p><p>ぺたりと自分の頬に手を当てて目を瞬かせるケイに、アイリーンはニヤリと楽しげに口の端を吊り上げる。</p><p>そうとも。隣でホランドの旦那がヒヤヒヤしてたぜ</p><p>ほう。そいつは悪いことをしたな</p><p>悪びれる風もなく真面目腐って言うケイに、アイリーンはくすくすと笑った。</p><p>しかしホランドの旦那が、シーヴを知らなかったのは傑作だったな</p><p>思えば、意識的に見せたことはなかった。知らないのも当然か……</p><p>ホランドとはそれなりの付き合いになるが、お互いにまだまだ知らない部分も多いということだ。例えば、ホランドの娘エッダは肌の色からして明らかに養女だが、その辺の事情も詳しく聞いたことはない。</p><p>サティナについて落ち着いたら、旦那とも親睦を深めないとなー</p><p>魔道具の件がある。否が応でもそうなるだろうさ</p><p>そうだな。…………リリーは元気かな</p><p>ぽつりと、アイリーンが心配そうに呟いた。</p><p>リリー。サティナで麻薬密売組織に誘拐され、アイリーンに助け出された少女。別れ際まで寂しそうだったのが、強く印象に残っている。信じていた人に裏切られて、心に深い傷を負っていた風もあった。今頃はどうしているのだろう― きっと元気さ とは、無責任に口に出すことが、ケイにはできなかった。</p><p>…………</p><p>無言で、アイリーンが手を伸ばし、おもむろにケイの右腕を抱きかかえた。</p><p>少しだけ目を細めて、アイリーンがこちらを見てくる。</p><p>ケイはその目が好きだ。こちらを探るような目。今、アイリーンは何を考えているのだろうと、ケイはそれを知りたくて堪らなくなる。</p><p>しばし二人で見つめ合ってみた。でも、結局、何もわからない。</p><p>わからなかったので、ケイはアイリーンの額に口付けた。</p><p>口元をほころばせたアイリーンが、ずりずりとベッドの上に這い、少しだけケイよりも高く目線を置いて、張り合うように額にキスしてくる。</p><p>すかさずケイも上へ、アイリーンも負けじとさらに上へ―終いには二人してベッドの枕元に頭をぶつけ、下らないのに可笑しくて笑ってしまう。</p><p>アイリーンがケイにのしかかってきたり、仕返しでケイがアイリーンをひっくり返したり、決して広くはないベッドの上でしばし、小犬のようにじゃれ合った。</p><p>不意に、二人の手が絡まる。指が絡まる。握り締める。</p><p>少しだけ、汗ばんでいるように感じた。鼓動も感じる。にぎにぎと、相手を確かめるように変わる力加減も。その全てが愛おしい。</p><p>動きを止めて、二人に視線がぶつかった。また、お互いを探るような。</p><p>……今、なに考えてるかわかる？</p><p>身体を投げ出したアイリーンは、どこか挑発的だ。</p><p>ケイは答えない。その代わり、しっかりと口付けた。</p><p>熱を感じる、鼻息がくすぐったい。</p><p>水気のある音を立てて唇が離れると、彼女はいたずらっぽく笑う。</p><p>……正解</p><p>今度は、わかった。</p><p>それが嬉しくて笑う。</p><p>二人は再び、ひとつになった。</p><p>エンッ！（イチャイチャの反動で作者が爆発する音）</p><p>↑ちなみに、ユーリア城のイメージです。参考資料のところにも置いてますが。</p><p>それと、また新たに、御二方より朱弓にレビューを頂きました。</p><p>普段から皆様のご感想も楽しみに拝見させて頂いておりますが、レビューを頂くのもまた格別に嬉しいものです！</p><p>Daiouika様、九傷様、ありがとうございました！！</p><p>次回はぼちぼちサティナに帰還予定です。イチャイチャも継続させる所存！（満身創痍）</p><p>72. 展望</p><p>前回のあらすじ</p><p>領主 我が愛人となれ、アイリーン！！</p><p>ケイ 断る！！</p><p>領主 ！？</p><p>明くる日。</p><p>天気はあいにくの曇りだった。</p><p>ぎらぎらとした日差しが遮られ、これはこれで過ごしやすい。</p><p>湖面を走る風はむしろ肌寒いほどで、夏の終わりを予感させる―</p><p>正午過ぎ、隊商はユーリアを出発した。</p><p>晴天では蒼く澄んでいるシュナペイア湖も、今日ばかりは灰色に濁って見える。これでしばらく見納めなので残念といえば残念だ。それに対し、隊商の面々は 深部(アビス) の素材―チェカー・チェカーの爪や『アビスの先駆け』など―を高値で売りさばけたらしく、すこぶる機嫌が良い。街道を進む馬車の列はいつもに増して、賑々しい雰囲気を漂わせていた。</p><p>ケイとアイリーンは相変わらず、仲良く並んで馬の背に揺られている。一時は気まずさで寝込んでいたサスケも、今日は何食わぬ顔でパッカパッカと調子よく蹄の音を響かせていた。気持ち、スズカとの距離が縮まっているようだ。</p><p>ケイが意味もなくわしゃわしゃとたてがみを撫でると、 なにかね？ と澄まし顔でサスケは振り返り、フイッと前方に向き直った。大人になった―のだろうか。</p><p>―で、その後、どうだった領主様は？</p><p>深部(アビス) で見聞きした怪物、植生についての歌を披露しました。あとはケイとアイリーンの武勇伝を少々……</p><p>ケイが話を振ると、ホランドの馬車の荷台、ホアキンがほがらかに答える。</p><p>深部 の歌には大いに興味を惹かれた様子でしたが、武勇伝に関しては、手応えがイマイチでしたね。何か粗相をしたかと心配しましたが、どうやら違うようで</p><p>ははっ、だろうな</p><p>アイリーンが苦笑する。ホアキンは 詳しく聞かせてくれるんでしょう？ と言わんばかりに、おどけて表情を作ってみせた。</p><p>事の顛末を話す。領主がアイリーンを愛人にしようとしたこと。ホランドの説明不足でケイとアイリーンの仲を知らなかったこと。そしてケイの眼前で 夫には内緒にすればよかろうグヘヘ などと言い大恥をかいたこと。</p><p>まだ幼いエッダも話を聞いているので、かなりぼかして話したが、ホアキンには問題なく伝わったようだ。</p><p>なにそれ～領主様おかしい！</p><p>『領主が秘密でアイリーンを恋人にしようとした』と解釈したらしいエッダがけらけらと笑う横で、忍び笑いをもらすホアキン。荷馬車の手綱を握るホランドも同様だ。ケイとアイリーンもほほえましい気分でピュアなエッダを見守っていた。</p><p>まあなんにせよ、愉快な領主様だった</p><p>もう一度会いたいかと問われれば、謎だけどな</p><p>揃って肩を竦めるケイとアイリーンに、ホランドたちも声を上げて笑う。</p><p>それからは平和な旅路が続いた。</p><p>ユーリアからサティナへ。これまでの軌跡をなぞるように、サン＝アンジェ街道を南下していく。途中、見覚えのある村や宿場町を訪ねるたび、記憶が蘇った。ああ、ここではアレクセイと一悶着あった。ここに来たときは、転移に関してまだ気持ちの整理がついていなかった、等々……</p><p>野を越え、川を越え、二日も進めば、やがて視界の果てに城郭都市サティナが見えてくる。草原の緑の海にぽつんと浮かぶような街の影。</p><p>やあ、サティナだ。そろそろ到着だな</p><p>ケイの目でようやくってことは、まだまだ時間がかかるな</p><p>ぬかせ</p><p>こつん、とケイが拳でアイリーンの頭をつつくと、アイリーンはころころと声を上げて笑う。</p><p>が、その言葉通り、隊商がサティナに着く頃には夕方になっていた。</p><p>もはや懐かしさすら覚える重厚な石壁。サティナに滞在していたのはわずか数日に過ぎなかったが、誘拐事件に巻き込まれたこともあり、色々と印象的な街だった。</p><p>相変わらず城門前には荷物検査の長蛇の列がある。“正義の魔女”が麻薬組織を壊滅させたにもかかわらず、なお検査の必要があるということは―根(・)絶(・)はできなかった、ということだろう。</p><p>このまま日が暮れれば城門が閉じられ、サティナを目前に野営するはめになる。ホランドは近場の宿場町まで引き返すことを検討していたが、幸い荷物検査は思いの外スムーズに進み―以前に比べればかなり簡易的な検査になっていた―隊商は無事、日没前には街に入ることができた。</p><p>その日はもう遅いのでそのまま解散し、ケイたちは宿屋で一泊。</p><p>『今後』についての具体的な話し合いの場が持たれたのは、その翌日のことだ―</p><p>†††</p><p>コーンウェル商会、本部の一室。</p><p>ようやく落ち着いて話ができるね</p><p>テーブルをはさんでケイとアイリーンに向かい合い、ソファに腰掛けたホランドが、ぽんぽんと太鼓腹を叩く。</p><p>上品な部屋だ。さすがは商会本部とあって、商談用の小さな個室でも装飾に抜かりがない。シックな緑色の絨毯、オーク材のつややかなローテーブル、窓には透明度の高いガラスがはめられ、洒落た青と白の花瓶には生花が飾られている。ソファに置かれているクッションも、のどかな農村の風景を描いたクロスステッチは見事なものだ。</p><p>サティナのコーンウェル商会本部を訪ねるのは、これが初めてではない。アイリーンが誘拐事件を解決した際には、商会の御曹司ユーリ少年と面談する機会があった。事件に巻き込まれたリリーに好意を抱いていたらしい彼は、無事リリーを助け出してくれたアイリーンにいたく感謝していたのだった。</p><p>今日はユーリ少年の姿はないようだが、また会う機会もあるだろう。</p><p>旦那と組めるのは気楽で助かるぜ</p><p>ソファに身を預けたアイリーンは、我が家のようにくつろいでいる。その隣、ケイも完全に肩の力を抜いていた。大自然も悪くはないが、突然野盗やモンスターに襲われることのない町中は、やはり落ち着くものだ。</p><p>わたしも同じ気持ちだよ。とりあえず、当座の予算は確保できそうだから、何か要望があったら伝えて欲しい</p><p>ホクホク顔のホランドがひげを撫でつけながら答えた。ホランドもケイたちと同様、サティナへの移住を望んでいる。アイリーン印の魔道具という確実に売れる商品を足場に、商会内での立場を高めていきたいと考えているようだ。</p><p>んじゃあ、まず旦那に相談があるんだ</p><p>身を乗り出したアイリーンが、早速本題に入る。</p><p>まず商品について、例の”警報機(アラーム)“なんだけどさ</p><p>うん</p><p>やめようと思う</p><p>はっ？</p><p>突然のアイリーンの宣言に、ホランドが目を剥いた。</p><p>それはどういう……？</p><p>もちろん、魔道具そのものをやめるって意味じゃないぜ。別の商品を主力にするって意味だ</p><p>チッチッチと指を振りながらアイリーン。ホランドはあからさまにホッとした様子で、胸をなでおろした。</p><p>ああ、ああ、なるほど。気が変わったのかと思って驚いたよ。……しかし、“警報機”は、やはりその、『難しい』のかな</p><p>具体的に説明するまでもなく、ホランドも問題点については認識しているようだ。</p><p>なにせ命に関わるシロモノだからな</p><p>改めて腕組みしたアイリーンが、渋い顔をする。</p><p>ケイとも相談したんだけど、『初めての』商売には向いてないかなって</p><p>……俺たち自身、二人旅を通して”警報機(アレ)“の便利さが身に沁みている。だからこそ他の旅人に使ってもらえれば、きっと便利だし助かるだろうという考えがあったんだが、客からすれば得体の知れない魔道具だ。よほど評判が良くない限り、命を預ける気にはならないだろう</p><p>言葉を引き継いで、ケイ。</p><p>アイリーン印の”警報機(アラーム)“は、旅の道中において、夜番の負担を劇的に軽減する革命的な魔道具だ。完成した暁には誰でも手軽に、水晶の小さな塊を捧げるだけで、敵対者に反応する影の結界を張れるようになる。</p><p>結界の範囲内に敵―人間の他、獣も含む―が踏み込めば、自動的に影で威嚇し、さらにベルを鳴らして注意を喚起する優れもの。本来ならば最大の警戒心をもって暗闇に目を凝らさなければならないところを、“警報機”のそばでうたた寝をしていても夜番を務められる。ケイたちも大いに助けられたものだ。</p><p>が、翻って、二人がそこまで安心できたのは、『“警報機”は確実に作動する』ことを知っていたからに他ならない。影の領域でケルスティンを欺くのはほぼ不可能であり、“警報機”そのものの機械的信頼性や術式の仕様も全て把握している。ゆえに、『そうそう動作不良は起きない』という確信があるのだ。</p><p>―しかし、客はそうもいかないだろう。特に魔道具の中身は完全にブラックボックスなので、魔術師相手ならともかく、一般人相手にはいくら説明しても限界がある。</p><p>そして何より、“警報機”を最大限に活用できる層―少人数で動かざるを得ないような旅人たちの大部分は、残念ながら懐に余裕がない。“警報機”はそれなりに高価な魔道具なので、コンセプトからして矛盾を抱えているのだ。</p><p>最初は、ホアキンの旦那に試作品を預けて、宣伝してもらおうかと考えていたんけどさ。そこまでして”警報機”に拘る必要もないって気づいたんだ。手始めに、もっとお手軽な、責任のない魔道具を作っていこうと思う</p><p>というと？</p><p>“投影機(プロジェクター)“だ</p><p>アイリーンは腰のポーチから、するりと丸めた羊皮紙を抜き取った。実は昨夜のうちに、勢いで簡単な設計図を仕上げてしまったのだ。宿屋の狭い机の上、ロウソクの薄明を頼っての作業は一苦労だったが。</p><p>“警報機”に比べればかなり単純な魔道具さ。あらかじめ登録しておいた図柄を影絵にして、壁やらスクリーンやらに投影する―ホアキンの旦那が村で演奏していたとき、ケルスティンが即興で物語を絵にしてただろ？　あれの簡易版みたいなヤツ</p><p>ほほーう！　それは面白そうだ</p><p>ホランドは髭を撫でながら興味を示した。</p><p>隊商の皆もわたしも、あの影絵には随分楽しませてもらったからね。商品化できるなら素晴らしいし、飛ぶように売れると思うよ。多少割高でもね</p><p>なにせ『正義の魔女』の魔導の真骨頂だ。防犯グッズよりよほど売りやすいし、好事家が必ず飛びつくはず、とホランドは太鼓判を押した。</p><p>そいつは良かった。個人的には、ホアキンの旦那みたいに、吟遊詩人や楽団と一緒に運用すると真価を発揮する魔道具だと思うぜ。流石に、ケルスティンが直接やるような臨機応変かつダイナミックな演出はできないし、仮に絵を動かしたところで単調なものになるだろうからな</p><p>なるほど、なるほど。……それならば場所と楽団を用意して、見世物をやるのもいいかもしれないね。あるいは、劇場で演出に使うとか……</p><p>そいつは名案だ！　映画館(ムービーシアター)ってワケだ</p><p>Movie?</p><p>あー……動く絵のことだよ。オレたちの故郷にも似たようなものがあって、ムービーシアターって呼んでたんだ。まあ、『シャドウシアター』でもいいかな？</p><p>虚空を睨み、何やらにんまりと笑うアイリーン。映画館ならぬ『影画館』構想に思いを馳せているらしい。アイリーンが楽しそうなので大変良いことだ、とその隣でケイもニコニコだった。</p><p>あと、“警報機”と”投影機”の応用で、夜間限定の通信魔道具も考えてるんだけど、どうかな旦那？</p><p>勢いづいたアイリーンが、身を乗り出してさらにアイディアを披露する。</p><p>指定した受信機に文章を送信、受信機は文章を受け取ったらベルを鳴らして、一定時間影絵で文章を表示する、みたいな魔道具。伝書鴉(ホーミングクロウ)の手紙と違って文章が形で残らないし、夜しか使えないって弱点はあるけど、どんな距離でも一瞬で届くからかなり需要はあるんじゃないか？</p><p>それは……確かに素晴らしい商品になりそうだけど、少し『怖い』ね</p><p>ノリノリのアイリーンに対し、一転、ホランドは慎重だった。</p><p>個人で使う分には構わないだろうけど、商品として大々的に売り出すのは……ウチの商会でも、流石に及び腰になるんじゃないかな</p><p>なんでだ？</p><p>既存の伝書鴉と役割がかぶりすぎている。ひょっとしたら”告死鳥(プラーグ)“の魔術師たちを敵に回すかもしれない……</p><p>ホランドいわく、貴族に雇われている”告死鳥”の魔術師たちにはゆるやかな横のつながりがあるのだという。いわゆる同業組合(ギルド)のように高度に組織化されているわけではないが、『共通の懸案』に協力して当たる程度の連携力はあるそうだ。そして貴族と直接のつながりがあるだけに、敵に回すと恐ろしく厄介な相手になるらしい。</p><p>既得権益と衝突しかねないとあっては、流石のアイリーンも閉口する。</p><p>やめとこう。そこまでして売りたいわけでもないし</p><p>その方が無難だとは思うよ、わたしとしてはね</p><p>緊急性が高い通信はオレの魔道具で、普通の手紙は伝書鴉で、みたいな住み分けもできる気はするんだけどなぁ</p><p>あ～……これはあくまでも噂だけど</p><p>それでも渋るアイリーンに、ホランドは肩をすくめ、</p><p>そういう『緊急時の連絡』の必要性があるやんごとなき方々は、それぞれ自前で魔術師を雇って、各々の手段を用意しているそうだよ。まだそこに食い込む余地があるかは謎だし、何より機密性の高い案件を貴族様と組んでやろうとすると、その、面倒なことが色々と―</p><p>オーライ、やめよう！　よくわかった！　この話はナシだ</p><p>天を仰ぎながら手をひらひらとさせるアイリーン。厄介事はうんざりと言わんばかりの顔だ。</p><p>まあ、何はともあれ、まずは”投影機”だろう。飛ぶように売れて他のことをやる余裕なんてなくなるかもしれないぞ</p><p>ケイがおどけた風に言うと、アイリーンもホランドも たしかに と苦笑した。</p><p>それじゃあ、とりあえずこれが作成に必要な材料のリストな</p><p>ふむ……。意外と安くつきそうだね</p><p>気分を切り替えたアイリーンが、羊皮紙をホランドに見せながらさらに具体的に話を詰め始める。</p><p>投影する図柄を増やすなら、もうちょっと高くなる。現状だと、想定してる図柄は五枚までだ。図柄の種類を追加するなら、触媒のラブラドライトと水晶がさらに必要になるだろうな</p><p>ほうほう……このぐらいの素材なら、明後日までには揃えられるだろう。仮に、明後日に全ての材料を渡せたら、試作品はいつ頃できるかな？</p><p>作業に集中できるなら一日でできる。ただ、静かで落ち着ける環境が欲しいな。宿屋だとちょっとばかし、その……わかるだろ？</p><p>アイリーンが小さくお手上げのポーズを取ると、ホランドは苦笑しながら頷いた。</p><p>少なくとも、魔術師の研究所に向いていないだろうね。そうだね、静かな環境か……街中で、となるとすぐの話にはならないかな</p><p>……やっぱ、難しいか</p><p>今後の将来的な計画―家についても話を切り出そうと思っていたのだろう、アイリーンの眉が少しばかり下がった。</p><p>いや、コーンウェル商会のツテをもってすれば、物件の一つや二つは容易く用意できるよ。なに、安請け合いじゃないさ、君らのためなら『上の方』はそれくらいするはずだ。お(・)抱(・)え(・)の魔術師に然るべき環境を与えず、いつまでも宿屋住まいさせているなんて知れたら、商会の沽券に関わるからねえ</p><p>お抱え、か</p><p>ふふん、と小さく笑ったアイリーンが、ケイに目配せしてくる。ケイも顎を撫でながらニヤッと笑い返した。とぼけたような顔で『既成事実』として語るホランドが可笑しかったからだ。</p><p>ま、それなら大船に乗った気持ちでいるさ……頼りにしてるぜ、旦那</p><p>こちらこそ。わたしも君たちと一緒に稼がせてもらわないといけないからね</p><p>わざとらしく悪い表情―元々垂れ目のいかにもお人好しな顔つきなので、全く悪役には見えない―を作って、揉み手してみせるホランド。ケイとアイリーンは思わず噴き出し、ホランドも柄ではないと思ったのか、腹を叩きながら笑っていた。</p><p>話し合いは終始和やかな雰囲気で進んだ。アイリーンはいくつか魔道具のアイディアを語り、ホランドは商人としての意見を述べながら、後で『上』に報告するのだろう、こまめにメモを取っていた。ケイもまた、今後の展望を語る。アイリーンと暮らす環境を整えつつ、できれば彼女に市民権を取得してもらいたいこと。また、自分自身もこれから少しずつ魔力を強化して、最終的には魔道具の制作にも取り組みたいこと、等々。</p><p>特にケイの魔道具に関して、ホランドは多大な興味を示しており、興奮を隠せない様子だった。ケイの契約精霊、“風の乙女”シーヴは元素の大精霊、伝説に語られるような存在であり、―その力を封じた魔道具に期待するなと言う方が無理、というわけだ。</p><p>実際、使い捨ての矢避けのお守りでも、とんでもない高値がつくだろうとホランドは予測していた。と同時に、軍事的にも非常に貴重であるため、領主クラスの干渉も視野に入れねばならず、慎重に対応する必要がある、とも。</p><p>まあ、君たち相手だから言うけどね</p><p>途中、茶を飲みながらホランドは訥々と語った。</p><p>この国における『魔術師』の価値は、多分、君らが考えているよりずっと重い。公国の魔術師はその多くが既に貴族のお抱えか、そうでなければウルヴァーンの公王のお膝元、魔術学院の出身者が大半だ。流れ者の魔術師なんて滅多にいないし、コーンウェル商会はこの分野で遅れを取っているから、この機会を逃すわけにはいかないんだよ</p><p>―だから、せいぜい自分たちを高く売りつけることだ、と。</p><p>わたしも、ご相伴に預からせてもらうからね</p><p>そう言って笑うホランドは、確かに商人の顔をしていた。</p><p>そのまま、昼過ぎには話し合いも一段落し、商会本部を辞したケイたちは近場の食堂で軽く食事を摂ってから、街へと繰り出した。</p><p>久々だなぁーサティナは</p><p>賑やかでいいことだ</p><p>人々の行き交う大通りをのんびりと歩く二人。</p><p>アイリーンは良質な麻のチュニックに黒いズボン、つややかな金髪をリボンでまとめてさらに頭巾をかぶった町娘風スタイル。ケイはいつものように、白いシャツと革のベスト、少しダボッとしたズボンという代わり映えのしないラフな格好だ。</p><p>それぞれ、腰には護身用の短剣を差し、ケイは”竜鱗通し”のケースも携帯している。弦を外し、ケースの中でＣの字に曲がる”竜鱗通し”は、それでもサイズゆえになかなかの存在感があり、町中で異彩を放っていた。</p><p>道行く町人たちが物珍しそうな視線を向けてくる。一見、“草原の民”のような顔つきのケイを警戒しているのか、“雪原の民”の目を見張るような美少女に鼻の下を伸ばしているのか、あるいは どこかで見た顔だぞ と訝しんでいるのか。</p><p>今や、サティナの名が出れば必ず語られる”正義の魔女”ではあるが、アイリーンが実際に滞在した日数はごくごくわずかで、直接顔を見たことがある人間はもっと少ない。いくら武勇伝で聞く特徴と合致していても、まさか道ばたを歩いているのがその張本人だとは誰も思わないようだ。</p><p>なんとなくそれが可笑しくて、ケイとアイリーンは顔を見合わせてニヒヒッといたずらっ子のような笑いを漏らした。</p><p>さて、ケイたちは何の目的もなくぶらついているわけではない。大通りを曲がって街の北東部に向かう。</p><p>職人街だ。</p><p>サティナの知人、かつ誘拐事件の被害者家族でもある、矢職人のモンタンを訪ねようとしているのだった。事件後の心配もあるし、魔道具の作成では仕事を頼むことになるかもしれないし、ケイとしては、良質な矢を補充しておきたいという考えもあった。</p><p>昼下がりの食事時ということもあり、この時間帯の職人街はむしろ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。記憶を頼りに小道を行き、角を曲がり―パラディー通りの十二番に、それはあった。</p><p>茶色のレンガで組まれた、二階建ての家。</p><p>モンタンの工房だ。</p><p>気のせいか―その家はまるで、賑々しい職人街にあって、息を潜めているかのように見えた。雨戸も半分閉じられて静まり返っており、どこか煤けた印象を受ける。ただ煙突から立ち昇る細い煙だけが、住人の存在を示していた。</p><p>…………</p><p>顔を見合わせる二人。ケイは訝しげに、アイリーンは心配げに。</p><p>こんこん、とドアノッカーを鳴らしても、しばらく反応はなかった。だがケイが続けて鳴らすと、少ししてから ……はい と小さな男の声。</p><p>こんにちは、俺だ、弓使いのケイだ</p><p>それに相方のアイリーンもいるぜ</p><p>一瞬の沈黙。すぐに、どたばたと騒がしい気配があり、バンッとドアが開かれた。</p><p>ああっ！　あなたがたは！</p><p>姿を現したのは、矢職人のモンタンだ。くすんだ金髪にバンダナを巻いているのは相変わらずの、痩身の男。少しばかり疲れて見えたが、ケイたちの―特にアイリーンの―姿を認めるなり、パッと顔を輝かせた。</p><p>戻って！　こられたんですね！</p><p>あ、ああ……</p><p>つい昨日、な……</p><p>ガシッと二人の手を取ってぶんぶんと振りながら、 信じられない と言わんばかりに笑みを浮かべるモンタン。その勢いに少し気圧されながら、ケイたちは事情を説明する暇もなくただただ頷いた。</p><p>リリー！　リリー、お姉ちゃんが帰ってきたよ！　アイリーンお姉ちゃんだ！</p><p>心ここにあらずといった様子で、モンタンが家の奥に向かって叫ぶ。 ささ、どうぞどうぞ！ と手を引かれるままに誘い入れられるケイとアイリーン。しかし二人が困惑気味に浮かべていた愛想笑いは、奥の暗がりから顔を出した少女を見て、凍りついた。</p><p>リリー……？</p><p>目を見開き、アイリーンは呟く。その唇をわなわなと震わせて。</p><p>アイリーン……おねえ、ちゃん……？</p><p>かすれた声で、少女は―誘拐事件の被害者『リリー』は、どこか夢見るようなぼんやりとした口調で、アイリーンを呼ぶ。</p><empty-line/><p>父親譲りのくすんだ金髪。だが、以前の活発さは今や影も形もない。</p><p>そこにいたのは、目の下に濃いくまを作り、やつれ果てた幼い少女だった。</p><p>73. 再訪</p><p>前回のあらすじ</p><p>北の大地から公国に帰還し、城塞都市サティナへと舞い戻ったケイたち。</p><p>二人は、アイリーンが『正義の魔女』と謳われるようになったきっかけ、</p><p>誘拐事件の被害者『リリー』に会いに行く。</p><p>だが、二人が目にしたのは、見る影もないほどやつれた幼い少女の姿だった……</p><p>おねえちゃん……おねえちゃん！？</p><p>沈黙は長くは続かなかった。</p><p>ハッ、と夢から醒めたように目を見開いたリリーが、おぼつかない足取りで駆け寄ってきたからだ。</p><p>おねえちゃんっ！</p><p>リリー……</p><p>しゃがみこんだアイリーンが、やせ細った少女を優しく抱きとめる。 ほんと？　夢じゃない？ とうわ言のように呟きながら、ぺたぺたと頬を触ってくるリリーに、どんな顔を向けるべきか―アイリーンはわからないようだった。</p><p>夢じゃないよ、本当だよ……。久しぶり、リリー</p><p>努めて優しくささやきながら、リリーをぎゅっと抱きしめる。それ以上、困惑の色を見せまいとするかのように。</p><p>アイリーンさん！　ケイさん！　お戻りになられたんですか？！</p><p>家の奥からさらに、前掛けで手を拭きながらキスカが慌てて走り出てきた。モンタンとキスカ、そしてその娘リリー。一家が揃った形だ。</p><p>しばらくぶりだな、本当に</p><p>おおよそ、三ヶ月ぶりの再会だろうか。改めてモンタンと握手しながら、ケイはリリーに視線を落とす。</p><p>幼い少女は―微かに震えているようだった。アイリーンの胸に顔を埋め、もう二度と離さないとばかりに抱きついて離れない。</p><p>彼女(リリー)に、何が？</p><p>ためらいがちにケイが問うと、バンダナを脱ぎ去ったモンタンは、沈痛の面持ちで口を開く。</p><p>……まだ、事件のことが忘れられないみたいなんです。夜もうなされて、ほとんど眠れないらしく……</p><p>……返す言葉もない。</p><p>信じていた人に裏切られ、誘拐され、監禁され。</p><p>挙句、奴隷として売り飛ばされるところだった。</p><p>幼いリリーが味わった恐怖、絶望はいかばかりか―。事件が『解決した』とはいえ、それは決して『終わった』ことを意味しないのだ、と痛感させられる。</p><p>そうか……</p><p>一同はただ、どうしようもない無力感に苛まれながら、抱きしめ合うリリーとアイリーンを見守ることしかできなかった。</p><p>†††</p><p>しばらくして、リリーが落ち着いてから、ケイたちは工房の奥でハーブティーをご馳走になった。モンタンの作品の一つだろうか、蔦が絡んだような小洒落た装飾のテーブルを皆で囲む。</p><p>リリーはアイリーンに隣り合って座り、アイリーンの手をギュッと握りしめながら、うつむき加減に飴を舐めていた。</p><p>黄金色の、蜂蜜飴―</p><p>本当に、帰ってきて頂けて良かった</p><p>木のマグカップで茶を飲みながら、モンタンがしみじみと言う。</p><p>あれから。</p><p>ケイたちが旅立ってから。</p><p>モンタン一家が、いつもの日常を取り戻すことは、ついに叶わなかったそうだ。</p><p>『正義の魔女』こと、アイリーンの英雄譚はサティナの街で一世を風靡した。だがそれは、モンタン一家が好奇の目に晒されることを意味していた。</p><p>ただ衆目を集めるだけならまだしも、『少女(リリー)が誘拐・監禁されていた』という事実はよからぬ憶測を呼び、しつこく詮索する者や、噂を鵜呑みにして勝手に同情する者、幼いリリーに下卑た言葉を浴びせる心無い者さえいた。</p><p>モンタンの工房には見物人まで押しかけてくる始末で、リリー本人はおろかモンタンとキスカも、迂闊に外を出歩けなくなってしまった。日常生活にすら支障をきたす現状―リリーが以前通っていた塾に、復帰する見込みも立っていない。</p><p>人の噂も七十五日、という。事件からすでに三ヶ月。しかし、『正義の魔女』の英雄譚が吟遊詩人によって街中の酒場で歌われているのに、忘れろというのは無理な話だった。</p><p>まあ、以前は働きすぎなくらいでしたから、家族でゆっくり過ごす分には、ちょうど良いくらいなんですが……ね</p><p>そう言って、モンタンは力なく笑う。アイリーンはリリーの頭を撫でながら、唇を引き結んでいた。その表情には、やるせなさが溢れている。誰が悪い、というわけではない。吟遊詩人の知り合い(ホアキン)がいるのでよくわかっているが、彼らは彼らの仕事をしているだけだ。</p><p>そして、アイリーンのせいで迷惑を被っている、などとモンタンは微塵も思っていないし、当然、責める気もなかった。</p><p>ただ、息苦しい日々が続いていて、終わりが見えない。</p><p>憂鬱の中で、溺れそうになっていたのだ。</p><p>―少なくとも、今日この日までは。</p><p>でも、お二人が戻ってこられたので……</p><p>何か、好転するのでは。</p><p>口には出さないが、モンタンはそう願っているようだった。</p><p>どうぞ</p><p>キスカが、ハーブティーを淹れ直しておかわりをついでくれる。ケイは礼を言いながら、湯気を立てる木のカップを手に取り、しげしげと眺めた。客人用のカップだろうか。新品のように思える。植物の蔓や花々、くねる蛇の模様など、偏執的なまでに刻まれた装飾の数々―凄まじく手間のかかった逸品だ。</p><p>家に引きこもる毎日、モンタンがどのように過ごしていたのか―その暮らしの一片を垣間見た気がした。</p><p>ところで、お二人はその後、どうされていたのですか？　ウルヴァーンに向かうと伺っておりましたが……。しばらく前、公都へ向かう隊商が”大熊(グランドゥルス)“に出くわして、腕利きの護衛がそれを仕留めたと聞きました。あと、武闘大会で何やら異邦の弓使いが、優勝したとも風の噂に……</p><p>沈んだ空気を変えようとするかのように、明るい笑みを浮かべたモンタンが尋ねてくる。誰のことか察しはついているぞ、と言わんばかりの様子に、ケイは思わず苦笑した。</p><p>ああ、それは俺だ。大熊(グランドゥルス)には、行きがけの開拓村で出くわしたんだ。モンタンの長矢のおかげで一撃で仕留められたよ、ありがとう</p><p>やはり！　いや、でも、大熊を一撃で！？</p><p>運良く心臓を射抜いてな。そのあと、ウルヴァーンの武闘大会に出て優勝した</p><p>おおっ、とモンタンとキスカが驚き、リリーも顔を上げる。</p><p>ほんと？　おにいちゃん、すごいっ</p><p>本当さ。大会で優勝したおかげで、ウルヴァーンの名誉市民になれたんだ。これがその証拠だよ</p><p>胸元から身分証を取り出して、リリーに渡す。大事そうに受け取ったリリーは、 うわ～っ と小さく笑みを浮かべながら、分厚い羊皮紙に描かれたケイの似顔絵や、その身分を保証する大仰な文言などを見ていた。</p><p>すっごいね！　……今まで、ウルヴァーンにいたの？</p><p>いや、そのあと、北の大地に行ったんだ。あれから色々あってな～</p><p>優しい笑みを浮かべたアイリーンが、口を開く。語るべきことは山ほどあった。</p><p>ウルヴァーンへの道中、立ち寄った湖の街ユーリアとシュナペイア湖の美しさ。大熊に遭遇したこと。雪原の民(アレクセイ)とケイの決闘騒ぎ。</p><p>ウルヴァーンに到着して、調べ物をするべく図書館に向かうと、身分証がなければ一級市街区に入れず、門前払いをされたこと。身分証を手に入れるため、ケイが武闘大会に出場したこと。そして圧倒的実力を見せつけての優勝。</p><p>晴れて図書館に入れるようになり、『霧の異邦人』という手がかりを掴んだ。北の大地に詳しい、怪しげな銀髪キノコの賢人との遭遇。北の大地の情報の対価に、占星術を教える運びとなり、天体観測をしたら望遠鏡とカツラを吹っ飛ばしてしまい、弁償するのが怖くて逃げるように出立した話をすると、リリーも声を上げて笑っていた。</p><p>それから、北の大地への旅。緩衝都市ディランニレンでの苦労。一時は東回りのルートで二人だけの縦断を試みたが、飲み水が不足し引き返したこと。アイリーンが魔術で隊商に売り込みをかけ、同道する許可を得たこと。</p><p>馬賊の襲撃に関しては、以前、別の娘(エッダ)に話したときのように、オブラートに包んで勇ましい冒険譚のように語った。二回目なので、ケイとアイリーンも慣れたものだ。リリーは遠い異郷の地と、そこでの激闘に思いを馳せているようだった。</p><p>最後に、辺境のシャリト村と、『魔の森』の話。アレクセイとの思わぬ再会。気さくな村人たちと手厚い歓迎。霧の中での出来事は、これ以上リリーに心理的負担をかけるのを避けるため、かなり軽い調子で話した。霧の巨人をケイが弓矢で打ち倒した話や、ロープがいつの間にか解けて離れ離れになりかけたこと。</p><p>そして、『魔の森の賢者』との邂逅―。</p><p>自分たちが、遠く離れた場所からやってきたこと。もう、戻れないこと。ここに至って、ケイとアイリーンも、思わずしんみりした口調になった。</p><p>だが、『こちら』で暮らす決意を固め、森を脱した。</p><p>はるばる北の大地を引き返し、ディランニレンを越え、ウルヴァーンで再び天体観測をして銀髪キノコあらため茶髪ロン毛との約束を果たし、開拓村に迫る 深淵(アビス) に挑み、アビスの怪物の群れと戦い、ユーリアでアイリーンが領主の手篭めにされかけ―</p><p>さらに、話に合わせてお土産も渡す。北の大地で手に入れたちょっとした民芸品や、アビスで襲いかかってきた怪物”チェカー・チェカー”の宝玉のような丸い爪などなど。そんな小物もまじえた、波乱万丈のケイとアイリーンの物語に、リリーは驚き、目を輝かせ、夢中になって聞き入っていた。</p><p>―というわけで、戻ってきたのさ。サティナまで</p><p>そう言って話を締めくくり、ホッと小さくため息をついたアイリーンは、冷めたハーブティーで喉を潤す。工房に来たのは昼下がりだったのに、話し終える頃にはすっかり日が傾いていた。</p><p>……それじゃあ、おねえちゃんたちは、</p><p>ワクワクした顔から一転、ふと表情を曇らせたリリーは、少しためらってから、意を決したように尋ねてくる。</p><p>おねえちゃんたちは、これから、どうするの？　またどこかに行っちゃうの？</p><p>……いや。サティナに腰を落ち着けようと思うんだ</p><p>アイリーンがにこやかに答えると、</p><p>……っっ！</p><p>リリーの表情が、ぱぁっと明るくなった。雲の切れ間から陽が差し込むような、消えた暖炉に再び火が灯るような、そんな笑顔だった。</p><p>だから、これからはずっと一緒だよ</p><p>……うん、うんっ</p><p>嬉しそうに、顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いて。</p><p>おねえちゃんに……ずっと、ずっと会いたかったの</p><p>リリーはそう言って、首にかけていたチェーンを引っ張り、紅水晶(ローズクォーツ)のお守りを取り出した。</p><p>それは……</p><p>アイリーンが目を瞬く。</p><p>サティナを出立する前、アイリーンが作った『魔法のお守り』。</p><p>簡易的な 顕現 の魔術が封じられており、日が沈んだあとなら、一度だけアイリーンを『呼べる』魔道具だ。『呼べる』と言っても、ごくごく短時間、会話するのがせいぜいな、子供だましのような代物だが。</p><p>……どうしても、さびしくって、何回も使いたくなったけど</p><p>指先で紅水晶をいじりながら、ぽつぽつとリリーは話す。</p><p>……でも、ガマンしてたの。一度使ったら、なくなっちゃうから……</p><p>泣き笑いのような顔で、リリーはアイリーンを見つめた。</p><p>使わなかったけど……おねえちゃんが会いにきてくれたから、よかった！</p><p>リリー……</p><p>おねえちゃん……！</p><p>再び、二人はひしと抱きしめあった。それ以上の言葉は、不要だった。キスカがハンカチで目元を拭っている。ケイとモンタンも、顔を見合わせて、笑った。ケイは静かに。モンタンは、穏やかに。</p><p>その後も少しばかり、将来の展望を語らった。アイリーンがコーンウェル商会で魔道具を売り出す予定で、その際は木工を依頼したい、と打診すると、モンタンは二つ返事で了承した。現在は家具職人としても高級矢職人としてもほぼ休業中で、貯蓄を切り崩しながら暮らしていたそうだが、ぼちぼち仕事を再開せねばとも思っていたらしい。まさに、渡りに船というやつだ。</p><p>日が暮れて、モンタンは ぜひ一緒に夕食を と勧めたが、肝心の台所を預かるキスカが お客様に出せるようなものがない と悲鳴を上げ、一同は日を改めて、一緒に食事に行く約束をした。</p><p>今日は、ありがとうございました</p><p>お二人とも、お元気そうで本当に良かったです</p><p>おねえちゃん！　またね！</p><p>頭を下げるモンタン、肩の荷が下りたようなキスカ、元気を取り戻したリリー。三人とも、晴れやかな顔をしていた。</p><p>ケイとアイリーンも、その姿を見て、少しばかり感じ入るものがあった。</p><p>自分たちが『帰ってきた』場所に、意義があったのだ、と。</p><p>そのことを知って。</p><p>それじゃあ、また</p><p>リリー、またな！</p><p>三人に見送られながら、ケイとアイリーンは宿屋に戻ろうと―</p><p>―あ。そういえば、ケイさん</p><p>したところで、モンタンが不意に呼び止めた。</p><p>ん？　どうした？</p><p>いえ、今の今まですっかり忘れてたんですが、二週間ほど前にケイさんをお探しの方が、うちを訪ねてきたんです</p><p>……俺を探す人？</p><p>訝しげに、眉をひそめるケイ。心当たりはなかった。コーンウェル商会絡みならすでに関係者と会っているし、サティナには他に知り合いもいないはずだ。ケイの弓の腕を頼みにした、赤の他人だろうか？　などと推測したところで、続くモンタンの言葉に、顔色が変わる。</p><p>ええ。なんでも『タアフ村から来た』とのことで</p><p>―タアフ村から来た。</p><p>―ケイを『探して』いる。</p><p>（……まさか）</p><p>脳裏に、あの夜が、血みどろの戦いが蘇る。</p><p>（イグナーツ盗賊団の追手か！？）</p><p>『こちら』に転移した直後、タアフ村の近郊で盗賊団と交戦した。構成員十人を全員殺したつもりだったが、翌日遺品を回収に行ったら死体が八人分しかなかった。</p><p>二人、逃した。</p><p>しかし、全員に手傷を負わせたのは事実。その後タアフ村に報復があった様子もない。おそらくはのたれ死んだのだろうと、今の今まで楽観視していたが。</p><p>（俺にピンポイントで報復するつもりか……？）</p><p>自然、表情が険しくなる。サティナでようやく、平穏無事に暮らせるかと思っていたが、甘かったのだろうか……幾多の修羅場をくぐり抜けたケイの顔は、モンタンをたじろがせるほど凄みのあるものだった。ケイが事情を打ち明けておらず、見当のつかないアイリーンが怪訝そうな顔をしている。</p><p>そ、それで、その方からメモを預かってるんです。えーっと</p><p>モンタンが家に戻り、ドタバタと戸棚を探ってから、すぐに小さな紙切れを持ってきた。</p><p>こちらです</p><p>なんて書いてあるかは、読めないんですけど―</p><p>モンタンの言葉を聞き流しながら、メモを受け取ったケイは、驚愕した。</p><p>イグナーツ盗賊団のことなど、頭から吹き飛ぶほどの衝撃。</p><p>そこにはシンプルに、一文だけ書かれていた。</p><p>74. 告白</p><p>２４日にも投稿しておりますので、ご注意ください。</p><p>で、どういうことなんだコレは</p><p>その夜。</p><p>モンタンたちと別れて、ケイとアイリーンはまっすぐ宿屋に戻った。そして食事もそこそこに部屋へ引っ込み、ランプの明かりの下、額を合わせてテーブルを覗き込んでいた。</p><p>件のメモ用紙。</p><p>『きみは死神日本人か？』、と来たか</p><p>ケイに意味を教えてもらったアイリーンが、小指の先で唇を撫でながら呟く。</p><p>―“死神日本人(ジャップザリーパー)”、弓使いのケイ。</p><p>VRMMO DEMONDAL において、広く知られていたケイのあだ名だ。“竜鱗通し”を手に入れる前から馬上弓を得意としていたケイは、数多のプレイヤーを正確無比な騎射で葬り去ってきた。</p><p>ケイと敵対し、交戦した者たちの死亡率はあまりにも高い。いつしか『死神』と呼ばれ恐れられるようになり、そこに『日本人』が付け足され、フォーラムなどで話題となった結果、すっかり定着してしまったのだ。</p><p>―それはさておき。</p><p>このメモ用紙一枚からは、いくつか重要な情報が読み取れる。</p><p>少なくとも、ゲーム内のケイをよく知る人物ってことだな</p><p>ああ。その上、日本語ができる……</p><p>顔を見合わせた二人は、 うーむ と唸りながら、再びメモに目を落とす。</p><p>メモの主。モンタン曰く、『ケイさんのような黒髪黒目で、草原の民のような顔つきの男でした。中肉中背で、身なりはあまり良くなかったです』とのこと。</p><p>草原の民のような顔つき―ケイは思わず、自分の頬をぺたりと撫でた。その男は、十中八九、日本人だろう。ケイがウルヴァーンを目指して旅立ったと聞いて、ひどく落胆していたそうだが、 自分はしばらくサティナに滞在する予定だ と言い残して去っていったらしい。それ以来、姿を現していないそうだ。</p><p>……他にも、いたんだな。『こっち』に来てたヤツが</p><p>嘆息混じりにアイリーンは言う。しかしその口ぶりには実感がこもっておらず、どこか半信半疑といった様子だ。確かにメモは実在するのだが、それでも信じられない心境―ケイも気持ちはよく分かる。</p><p>俺たちが来てるんだから、他にいてもおかしくはない。ただ、 DEMONDAL に俺以外の日本人プレイヤーがいるなんて聞いたこともなかったんだが……アイリーンはどうだ？</p><p>知らねえな。知ってたら一度は声かけてるよ</p><p>ケイが問うと、アイリーンはお手上げのポーズを取った。元々ケイとアイリーンが知り合ったのは、NINJA好きで日本かぶれなアンドレイ(アイリーン)が、『日本人だから』という理由だけでケイに話しかけてきたのがきっかけだ。</p><p>DEMONDAL は北欧産オンラインゲーム。サーバーはヨーロッパに位置し、プレイヤーの多くは欧米人だ。アジア系はともかく、生粋のアジア人のプレイヤーはほとんどいない。</p><p>ケイを知っていて、日本語の読み書きができるような人物なら、ケイかアイリーンのどちらかの交友関係にはひっかかりそうなものだが―</p><p>ソロ専みたいな、ほとんど他と交流がないヤツだったのかもな</p><p>もしくは、趣味で日本語やってたとか……。別言語を母語に持つ日系人の可能性も否定できないぜ</p><p>なるほど、それならわからないな</p><p>実際のところ、ケイも好き好んで、自分が日本人であることをアピールしていたわけではない。しかし後天的な英語話者ゆえ、他プレイヤーと会話に支障をきたすこともあり、 どこ出身？ 日本だよ みたいな会話の流れで、国籍が周知されたという事情がある。</p><p>要は、言葉のせいで看破された。</p><p>だが仮に、バイリンガルの日系人であれば、そんな事態にはならなかったはず。何食わぬ顔で欧米人に混ざって、そのままプレイしていたのかもしれない。だとすれば手紙の主を特定するのは困難だ。</p><p>それにしても、不思議なのは、なぜ俺を探しているかってことだ。どうやって俺が―『ケイ』が、『こちら』にいることを知ったんだ？　その男は</p><p>そりゃあ、『タアフ村から来た』って話だったし、村の誰かからケイの話を聞いたんじゃね？　オレたちみたいにタアフ村の近くに転移したのかも。それだったらケイの外見はゲームと同じだし、弓使いで、かつ風の精霊と契約してる。……そんなヤツそうそういねーだろ、察しがついてもおかしくはない</p><p>……確かにな</p><p>言われてみれば、自分はキャラが濃い上にゲームと全く変わらない。これがアンドレイから劇的な変化を遂げたアイリーンであれば、特定されることはなかっただろうが。</p><p>……いずれにせよ、気の毒ではあるな</p><p>メモから視線を剥がし、ケイは窓の外、夜空を見上げた。</p><p>満天の星空。星々の配置は、地球のそれとは全く違う。『ここ』が別の世界なのだ、と否応なしに思い知らされる。</p><p>ケイたちは、それこそ『死ぬほど』苦労して、遥々北の大地くんだりまで赴き、この転移の真相を知った。VRゲームを通して魂を引っこ抜かれ、ゲームそっくりの世界に受肉。元の世界の魂を失った肉体は、今頃活動を停止している―という衝撃の事実を。</p><p>このメモ用紙を渡してきた人物は、以前のケイたちと同様、突然の転移で右も左もわからない状況だろう。</p><p>会いたいような、会いたくないような、複雑な気分だな</p><p>はぁ、と溜息をついたアイリーンが、やおら立ち上がってベッドに身を投げた。スプリングもない安物、ギシッと床と木材が軋む音。</p><p>会ったら十中八九、説明することになるだろうしなぁ……</p><p>元の世界のあなたの肉体はもう死んでますよ、などと、どんな顔をして告げればよいのか……ケイたちには少々荷が重い。</p><p>…………</p><p>そんな二人の心境を物語るかのように、沈黙の帳が降りてくる。同じゲームのプレイヤーのよしみで、情報交換や多少の手助けはやぶさかではなかったが……。</p><p>……ところで、さ。ケイ</p><p>しばらくして、アイリーンが口を開いた。</p><p>うん？</p><p>モンタンの旦那が、このメモの話を切り出したとき、ケイってばなんかすっごい険しい顔してたじゃん？　あれ、なんかあったのか？</p><p>ベッドに寝転がり、肘をついたリラックスモードでアイリーンが尋ねてくる。</p><p>澄んだ青い瞳が、まっすぐにケイを捉えた。</p><p>心臓が跳ねる音を、聞いた気がした。</p><p>……ああ</p><p>この期に及んで、ケイはアイリーンに隠し事をするつもりはない。正直に、全てを話そうと腹をくくる。</p><p>実は、『こっち』に転移して、盗賊と戦ったときのことなんだが―</p><p>ケイは極力私情を排除して、淡々と語った。盗賊全員を殺したつもりが、二人取り逃がしていたこと。即座に報復を恐れたこと。そしてそれを誰にも告げることなく、逃げ出そうと決めたこと。</p><p>それは、ケイがずっと一人で抱え込んでいた罪だ。</p><p>アイリーンは体を起こし、ベッドに座り直して真剣な顔で聞いていた。ケイは、今にも彼女の表情が冷たいものに変わるのではないかと恐れていたが、アイリーンは真摯な態度のまま、咎めたり、失望したりすることなく、黙ってケイの告解に耳を傾けていた。</p><p>なるほど……</p><p>アイリーンは瞑目する。時折、ケイの様子がおかしかった理由が、腑に落ちた。</p><p>薄々、察しては、いたのだ。ケイが何か秘密を抱えており、そのせいで度々良心の呵責に苦しんでいたことを。</p><p>あの夜―『こちら』に転移した直後の夜。盗賊たちの奇襲により、アイリーンは毒矢を受けて生死の境を彷徨った。無意識のうち、右胸の傷跡に触れる。ポーションによる治癒は激痛が伴うが、幸いなことに、アイリーンは何も憶えていない。</p><p>そう、笑ってしまうくらい憶えていないのだ、あの夜のことは。目を覚ましたら全てが終わっていて、ただベッドに寝かされていた。</p><p>……ケイ</p><p>……うん</p><p>話してくれてありがとう。なんでケイが悩んでたのか、ようやくわかったぜ</p><p>ケイの緊張を解きほぐすように、アイリーンは柔らかく微笑んだ。ケイの取った選択は確かに、最善のものではなかったかもしれない。だが自分たちの身の安全を最優先に考えるなら、致し方のないことだった。</p><p>アイリーンは何も知らずに寝込んでいただけだ。それに関して口を挟むことはできないし、何よりアイリーン自身も救われている。そしてケイは決して冷血漢ではなく、罪悪感に苦しんでいたことも知っている。</p><p>責めることが、できようか。</p><p>オレもさ、色々経験を積んだから、自分の身を守るのが『この世界』でどんなに難しいことなのか、よくわかってるつもりだ</p><p>朗々と語りだすアイリーンに、ケイが意図をはかりかねたように、目をぱちぱちと瞬いている。</p><p>ケイがこのことを黙ってたのも、タアフ村の連中にバレたら何をされるかわからなかったのと、オレにいらん心配をかけたくなかったからだろ？</p><p>わかってるんだぜ、と言わんばかりに眉をクイッと上げてみせると、ケイはバツが悪そうに視線をそらした。</p><p>当時、盗賊を逃したことをタアフ村の面々に打ち明けていたら、ケイたちがその責任を負わされていたかもしれない。『盗賊が報復に来たら人身御供に差し出そう』『こいつらのせいで賊に目をつけられる、殺してしまえ』―等々、嫌な想像はいくらでもできる。</p><p>実際、タアフ村の住民たちは比較的良心的な人々だったが、それでも何が起こるかわからないのが世の中だ。それに、アイリーンは毒矢から回復した直後で、体調も優れず足手まといだった。自己保身とリスク回避という点で、ケイの判断は正しかったのだ。</p><p>そして当時のケイは、アイリーンに対して少々過(・)保(・)護(・)だった。もちろん、バツが悪くて言いたくなかったこともあるだろうが、アイリーンに余計な心労をかけたくない、という気持ちがあったのは確かなはず。</p><p>ケイ。あんまり自分のことは責めないでくれ</p><p>アイリーンは立ち上がり、ケイの両肩に手を載せた。覗き込む。その黒い瞳を。</p><p>そもそも、一番悪いのは盗賊の連中なんだ。そこは間違えちゃいけない</p><p>いや、しかし……</p><p>わかってる、だからといって黙ってたのも、褒められた行為じゃない</p><p>しゅん、と小さくなるケイ。まるで頭から水をかけられた熊みたいだ。愛おしくて思わず笑いそうになるのを、ぐっと堪える。</p><p>……でも、タアフの村は今でも無事っぽいし、オレたちも元気に生きてる。結果オーライじゃねえか。オレだって命を救われたんだ、ケイを責めるつもりはないし、そもそも責められないよ</p><p>……そういうもんか</p><p>過程は大事だが結果はもっと大事ってことさ。第一報復とかそんなの関係なく、タアフ村の近くに盗賊が十人もいたんだぜ？　どちらにせよタアフ村が襲われてたかもしれないし、ケイはそれを未然に防いだのかもしれない。仮定(if)の話をしてちゃあキリがない。……それに、</p><p>ケイの手を握って言い聞かせるように話しながら、アイリーンは言葉を続けた。</p><p>オレは今、ちょっと嬉しいんだ</p><p>は？　とケイが呆気に取られたような顔をする。</p><p>嬉しい？　なんでだ？</p><p>―決まってる。</p><p>ケイが打ち明けてくれたからだよ</p><p>今まで隠していたことを、なんのためらいもなく。</p><p>アイリーンが尋ねたら、腹をくくった顔で、正直に話してくれた。</p><p>それが、嬉しかったのだ。</p><p>昔と今では、二人の関係も変わった。それは、ごまかしやウソで成り立つものではない。そりゃあ人間だから、腹には一つや二つ、隠し事くらいはあるかもしれないが。それでも、一緒に生きていくと決めた。楽しいことも、苦しいことも。一緒に分かち合って、支え合っていく。</p><p>そんな関係だと、アイリーンは思っていたし、ケイにもそう思って欲しかった。</p><p>そして、ケイもそう思ってくれているのが、よくわかった。</p><p>ケイの覚悟は、しっかりとアイリーンに伝わっていたのだ―</p><p>おんぶにだっこのお姫様(プリンセス)はゴメンだ。そうだろ？</p><p>グッ、とケイの手を強く握って、アイリーンがニヤリと笑いかけると。</p><p>……ああ</p><p>ケイは、一瞬苦笑して、次に晴れやかな笑顔に変わって、力強く頷いた。</p><p>よっし。じゃあこの話は終わり！</p><p>バンッ、とケイの背中を叩いて、アイリーンはその手を引っ張った。</p><p>ケイ！　呑みに行くぞ！　小腹も減った！</p><p>ええっ。いや、構わないが、さっき食べたばかりじゃないか？</p><p>いいんだよ！　ケイだって、なんださっきのメシは！　ちまちまオヤツみたいなもんしか食ってなかっただろ！　食い直せ！</p><p>きっと、諸々の心配事や罪悪感で食欲がなかったのだろう、とアイリーンは思っていた。それでは体によろしくない。</p><p>いや、うーん、確かに……ええい、まあ行くか！</p><p>呑み明かそう！　サティナ再訪祝だ！</p><p>それはもう昨日やっただろ！</p><p>細かいことはいいんだよ！！</p><p>開き直った様子で笑うケイとアイリーンは、手を取り合って、部屋を出ていく。</p><p>つけっぱなしだったランプの火は、窓から吹き込んだ風が消していった。</p><p>ここまで読んでいただきありがとうございます。</p><p>カルマ・ドーン</p><p>ちょっと軽めのコメディ調な作品も書いておりますので、もしよければこちらもどうぞ。</p><p>75. 誘惑</p><p>翌日。</p><p>呑んだくれ、折り重なるようにベッドで爆睡していたケイたちは、昼の鐘が鳴る頃にようやく起き出した。</p><p>本当はもっと寝ていたかったのだが、鐘の音と喉の渇き、空腹、昼飯前の仕込みの良い匂い等々に、寝床から引きずり出された形だ。</p><p>頭いたい……</p><p>ケイは酒に弱いなー</p><p>俺は弱くない、お前が強すぎるんだ……</p><p>昨夜はとことん呑み明かした。酒場が閉まってからも部屋に戻りグダグダと呑み続けた結果、床には空になった酒瓶がいくつも転がっている。おかげで気分転換にはなったが、ちょっと度が過ぎたようで、 身体強化 の紋章をもってしてもアルコールの分解が追いつかなかったらしい。</p><p>しかし、ケイと同じか、むしろそれ以上に呑んでいたアイリーンはケロッとした様子なのだから、個人差というものは大きい。やはり遺伝子レベルの酒呑みは違うな、とケイは思った。このまま調子が出ないようなら、急ぐ用事もなし、このままゴロゴロしていたいという欲求に駆られる。</p><p>それでも、早めの昼食を食べて、水をガブガブ飲んでいると頭痛も治まり、出かけてもいいか、という前向きな気分になってきた。</p><p>今日はどうする？</p><p>食後、酒場兼食堂の席でケイが話を振ると、 ふーむ と唸りながらアイリーンは考え込んだ。</p><p>……ぼちぼち『アレ』を作ろうかな</p><p>『アレ』？</p><p>前にケイと話してたやつ。訓(・)練(・)用(・)の道具だよ</p><p>周囲に聞かれないよう、声を潜めてアイリーン。まだ頭の回りがイマイチなケイは、一拍置いてから、それが魔力鍛錬用の魔道具のことだと察した。</p><p>アイリーンが契約する精霊”黄昏の乙女”ケルスティンは、物理的な干渉力が極端に低い代わりに、魔力の消費も少ない。そしてそれを応用して、ほんの僅かに影を操るような魔道具を作れば、安全に魔力を鍛えられるようになる。</p><p>本来、この世界の魔術師は、魔力の鍛錬に細心の注意を払わなければならない。魔力が枯渇すれば、待ち受けているのは確実な死だ。修行中に己の限界を見誤り、枯死する魔術師見習いも少なくないという。</p><p>魔術師の育成に力を入れている公国は、安全な修行法を喉から手が出るほど欲しているはずだ。そこで万が一にも、アイリーンとケルスティンの有用性が露見すれば―おそらく死ぬほど面倒なことになる。少なくとも、平穏無事に暮らすことなどできないだろう。『庇護』の名目で監禁されるのがオチだ。</p><p>まあ、普通の魔道具のついでに作れるようなもんだ。バレなきゃ問題ない</p><p>アイリーンはそう言って手をひらひらさせる。そんなリスクを冒してでも、ケイが魔力を鍛えるメリットは大きい。ケイが触媒なしでも魔術を―“風の乙女”シーヴの術を行使できるようになれば、いざというときの立ち回りの幅も広がるし、矢避けの護符や風を呼び込む帆など、有用な魔道具が作成可能になる。</p><p>ケイとしても、矢避けの護符は最優先で作りたいところだ。特に、アイリーンとイグナーツ盗賊団の一件を共有した現状、町中で矢が飛んできても自動的に弾き返せるくらいにはなっておきたい。</p><p>材料は？</p><p>コーンウェル商会に行って、たかろ―仕入れよう。そのあと、モンタンの旦那に木工細工を依頼するかな？</p><p>道具の本体を作ってもらいたい、とアイリーン。</p><p>そうしよう。あとリリーにも、何かお土産を持っていこうか</p><p>それは必須(マスト)だな</p><p>うむうむ、と腕組みしてアイリーンが頷く。そろそろ秋だが、市場でブドウでも買っていこうか。いやせっかくだしお菓子でもいいんじゃないか？　そんなことを話しながら、二日酔いでイマイチ冴えない脳みそを冷やすように、グイッとコップの水をあおってからケイは席を立った。</p><p>†††</p><p>コーンウェル商会でホランドに相談し、『魔道具の試作と研究のため』と称して研究費や水晶などの材料を融通してもらった。</p><p>一応、契約書にもサインしてもらいたいんだけど</p><p>資金とともに、申し訳なさそうにホランドが差し出した羊皮紙には、ずらずらと大仰な文言で契約内容が書かれていた。一応、二人でしっかりと熟読したが、取り立てて問題はないようだった。</p><p>要は『資金援助するから良い物できたらウチに売ってくれよ！　絶対だぞ！』と書かれていただけだ。もちろんアイリーンも否やはないし、研究費をふんだくって逃げるつもりもない。その『研究費』でコーンウェル商会の高級菓子を買い求めると、ホランドも苦笑していたが。</p><p>影絵の試作品ができたら、ホアキンの旦那にも連絡しないとなぁ。格安で売る代わりに、宣伝してもらえるよう頼んであるんだよ</p><p>ああ、そんな話を聞いたね。ウチとしても問題はないよ。商会の名も一緒に添えてもらえるなら……</p><p>そういえばホアキンは、まだサティナにいるのか？</p><p>ケイはふと、ホランドに尋ねた。サティナに着いて隊商と別れたきり、彼の姿を見ていない。</p><p>しばらくサティナに滞在する、と言っていたよ。冬前にはキテネに旅立つらしいから、用事があるなら今のうちかな。なんなら、彼の定宿を教えておこうか？</p><p>よろしく頼む</p><p>試作品とはまた別件で、『自分(ケイ)を探す同郷(DEMONDAL)の人物』に見当をつけるため、サティナの噂話などを聞いておきたいと考えるケイだった。ホアキンは街中の酒場を回り、また新しい歌のネタも貪欲に収集するため、かなりの情報通なのだ。</p><p>ちなみに昨夜、アイリーンがメモ用紙に 追跡 の術をかけて、メモの送り主を特定しようとしたが、メモを『受け取った』時点で所有権がケイに移ってしまったらしく、不発に終わった。</p><p>試作品は、まあこれだけモノがあれば二、三日でできると思うぜ</p><p>ほう！　思ったよりも早いね。期待しているよ</p><p>ホクホク笑顔のホランドと握手してから、二人は商会を出た。</p><p>次に、その足で職人街へ向かう。</p><p>ちょうど昼飯時になってしまったので少し遠慮したが、 一緒に食べればいいんじゃね？ とアイリーンが開き直り、屋台で串焼きやパンなどを買い込んでリリーの家を訪ねた。</p><p>おねえちゃん、いらっしゃい！</p><p>出迎えたリリーは大喜びだ。大量の手土産とともに現れたケイたちにモンタンとキスカは恐縮していたが、そのまま一緒に昼食を摂る流れになった。</p><p>おねえちゃん、これおいしいね！</p><p>こっちの串焼きもなかなかイケるぜ</p><p>歳の離れた姉妹のように和気あいあいとした二人に、周りも和む。ウサギ肉の串焼きにチーズを挟んだそば粉のクレープ、胡桃を練り込んだ柔らかいパン。イチジクやブドウなど季節の果物にも舌鼓を打ち、キスカが淹れてくれたミントティーを頂く。優雅な昼食となった。</p><p>そして今日はなんと、デザートもあるぞ！</p><p>わぁすごーい！　かわいい！</p><p>そして食事の後、アイリーンが商会で買ってきたお菓子の箱を取り出す。煮詰めた砂糖や蜂蜜を、固く泡立てた卵白と一緒に固め、ナッツ類を練り込んで作られたヌガーだ。花や薬草のエキスで薄いピンクや緑に着色され、一口大にカットされている高級品。腕のいい職人であり、大商人とも付き合いのあるモンタンはその価値を知っているらしく、箱から現れた色とりどりのヌガーに目を剥いたが、アイリーンがぱちんとウィンクして何も言わせなかった。</p><p>おいひー！</p><p>あっ、ホント。これイケるな！　ナッツが香ばしくていい感じ……あ、キスカもモンタンも、遠慮せずに食べてくれよな！</p><p>あ、はい……ありがとうございます</p><p>本当にいいんですか？　あら、おいしい</p><p>おっかなびっくりといった風のモンタン、甘いものに目尻が下がり、ほわほわと頬を緩めるキスカ。</p><p>……それでモンタン、実は依頼があるんだ。木工職人として</p><p>そのままリリーがアイリーンと手遊びを始めたので、ケイはヌガーを頂きつつ、小声でアイリーンの代わりに話を切り出した。</p><p>ケイさんの依頼でしたら、喜んで</p><p>モンタンは生真面目に、居住まいを正す。</p><p>ああ、いや、そこまで大した仕事じゃないんだ。アイリーンが魔道具を作ろうとしてるから、その試作品の部品で、いくつかこういったものが欲しい</p><p>大まかな設計図的なものは、予め用意しておいた。『投影機(プロジェクター)』の本体として、宝石類をはめ込む土台を構成する部品がいくつか。そしてそれに、何食わぬ顔で紛れ込む、ケイの魔力鍛錬用の小さな『杖』。</p><p>……これくらいでしたら、明日の夕方には仕上げられます</p><p>流石だ。いくら払えばいい？</p><p>そんな、お代なんていただけませんよ！</p><p>とんでもない、とプルプル首を振るモンタン。想定されていた反応だが、これに関しては、アイリーンと方針を決めてある。</p><p>そういうわけにはいかない。これから長い付き合いになるし、仕事上でもきちんとした良い関係を築いていきたいんだ</p><p>個人的な付き合いと、ビジネス上の付き合いは分けて考えるべきだ。これは互いのためでもある。ここでなあなあで済ませると、今は良いかもしれないが、後々こじれる可能性も否定できない。金が絡む問題は厄介だ、今後も円満な交流を続けたいからこそ、きっちりと精算しておく。</p><p>それに、製作費を出すのはコーンウェル商会だからな……</p><p>わかるか？　とケイはおどけて片眉を上げてみせた。要は、自分たちの懐は痛まないのだから遠慮なく取っておけ、というわけだ。</p><p>そういうことでしたら……</p><p>モンタンは苦笑して ありがとうございます と頭を下げた。そして簡単な見積もりを終え、前金を払っておく。</p><p>では早速、取り掛かります</p><p>頼んだ。それと……話は変わるが、リリーの調子は？</p><p>おかげさまで、昨日は久々にぐっすり眠れたようです</p><p>肩の荷が降りたような、ようやく人心地ついたような。</p><p>そんな穏やかな顔で、モンタンが愛娘を見やる。</p><p>アイリーンがリリーに、手を使った簡単なゲームを教えていた。お互いに、両手の指を一本ずつ立てた状態でスタートし、交互に相手の片方の手を攻撃する。自分の攻撃した指の本数分、相手の指を立たせ、指が五本以上立つことになったらその手は脱落。そして両手が脱落したら負け、というゲームだ。</p><p>また、自分の手同士をぶつけて指の本数を合算・分離させることもできる。右手四本、左手一本の状態から、右手に三、左手に二といった具合に。片手が脱落しても、同じ仕組みで片手を復活させられるので、なかなか終わらない。小さな子には、算数の勉強にもなるので良い手遊びだな、とケイは思った。</p><p>かくいうケイも子供の頃やったことがあるが、ゲームの名前がわからない。どうやらアイリーンも知らないらしく、リリーに尋ねられて返答に窮していた。</p><p>それにしても、この世界にはやはり娯楽が少ない。一応、チェスのようなボードゲームはあるし、ゲームの設定そのままなら、高級品だがトランプに似た札遊びも存在するはず。今度コーンウェル商会で、そういった手合を探してみてもいいかもしれない、とケイが考えていたところで、</p><p>……ん？　リリー、どうした？</p><p>アイリーンと遊んでいたリリーに、異変が起きた。</p><p>うん……</p><p>そわそわと、急に落ち着きがなくなったリリーが、手遊びに集中できなくなっている。やおら服のポケットに手を入れたかと思うと、小さな包み紙を取り出した。</p><p>―蜂蜜飴。</p><p>黄金色のそれを一個、つまんで、口に含んだ。</p><p>さっき果物と、ヌガーまで食べたのに、さらに飴を？　とケイは違和感を抱く。</p><p>……リリー、甘い物を食べ過ぎたら体に良くないぞ～？</p><p>これは流石によろしくない、と思ったのか、アイリーンがリリーを抱きかかえて優しくたしなめた。</p><p>だが……リリーの表情は、暗い。</p><p>とてもじゃないが、これは、お菓子を楽しむ子供のする顔じゃない。</p><p>……ねえ、おねえちゃん、わたしおかしいのかな</p><p>ぽつりと、アイリーンを見上げて、不安そうにリリーが尋ねた。</p><p>……あ(・)れ(・)か(・)ら(・)ね、わたし、急にはちみつアメが食べたくなっちゃうの</p><p>動悸を抑えるように、リリーが服の胸のあたりを掴む。</p><p>でもね、これじゃないの。本当は、別のじゃないとダメで、ずっと苦しいの</p><p>……どういうこと？</p><p>あのとき、変な男の子に、アメ玉をもらったんだけど。それを食べたら、夢を見てるみたいにふわふわってして、ぐるぐる目が回るみたいで、とっても変な感じだったんだけど、またあれが食べたくて、でも、はちみつアメじゃなくって……</p><p>リリーの説明は要領を得ない。自分でも何をどう言えばいいのかよくわからないらしく、静かにすすり泣いている。</p><p>また、またあのアメが、食べたいって思っちゃうの……！　おかしい、よね？　こんなの。おねえちゃん、やっぱりわたし、へんなびょうきなのかな？　おかしいのかな……？</p><p>アイリーンの胸で、リリーは涙を流す。ぽろっ、とその口から、食べかけの蜂蜜飴が落ちて、ころころと床に転がった。</p><p>…………</p><p>アイリーンが、青ざめた顔で、ケイを見やった。</p><p>その目が、 嘘だと言ってくれ と語りかけてくる。</p><p>―リリーを誘拐したのは、麻(・)薬(・)組(・)織(・)だ。</p><p>『依存症……』</p><p>アイリーンのすがるような視線を受け止めきれなくて、手で顔を覆ったケイは、日本語で小さく呻いた。</p><p>これまでの二人の軌跡</p><p>※２０１８年９月６日、タアフ村編を改稿しました。</p><p>ご要望を多数いただいたため、このページにこれまでの二人の旅路をレジュメにして残します。</p><p>○日目、経過日数　＋　イベント</p><p>という形です。７５話 誘惑 までの時点で、作中では１１０日が経過しています。</p><p>０　 DEMONDAL で追い剥ぎと戦闘　霧の中へGO</p><p>１　転移　アイリーン被弾　タアフ村へ　盗賊と戦闘　気絶</p><p>２　目覚め　死体拾い　アイリーン復帰</p><p>３　アイリーンの体調を考慮して狩りで時間を潰す</p><p>４　朝にタアフ村を出発　草原の民と戦闘　サティナへ到着　モンタン一家と邂逅</p><p>５　サティナ観光　ミカヅキの革を加工依頼　モンタン一家はレストランへ</p><p>６　船探し　リリー誘拐　リリー救出</p><p>７～９　サティナに滞在</p><p>１０　朝にサティナを出立　アレクセイと出会い　夜、早寝するケイ</p><p>１１　ケイ、アイリーンと引き離される　精霊語で意趣返し　 警戒 魔術初使用</p><p>１２　ユーリアに到着　アイリーン怒る　ケイしょぼん</p><p>１３　開き直って神殿デート　アレクセイ全裸遊泳</p><p>１４　ユーリア出発　開拓村で大熊撃退</p><p>１５　次の村に滞在</p><p>１６　朝、滞在していた村でアレクセイと決闘　午後にウルヴァーン到着</p><p>１７　朝チュン　役所の手続きで心が折れる　不貞寝</p><p>１８　コーンウェル商会で武闘大会を知る</p><p>～１ヶ月スキップ～</p><p>４８　武闘大会当日　その夜打ち上げ　 この辺りでコウとイリスがTahfu到着</p><p>４９　 コウたちの翌日、バーナードがラネザ襲撃</p><p>５１　身分証発行</p><p>５２　図書館入館</p><p>６６　キノコヘアとの出会い</p><p>６９　天体観測へ　望遠鏡破壊</p><p>７２　逃げるようにウルヴァーン出立</p><p>７３　街道を北上</p><p>７４　Diran’niren到着</p><p>７７　エゴール街道を引き返し再びディランニレンへ</p><p>７８　ガブリロフ商会の隊商に加わりディランニレン出発</p><p>７９　キジうめえ！　でも明日雨になるぞコレ</p><p>８０　雨降り始めた……→馬賊の襲撃　隊商から離脱</p><p>８４　シャリトスコエ到着</p><p>８５　魔の森に突入　霧の中再び　賢者の屋敷へ</p><p>８６　オズの屋敷を出立</p><p>８７　シャリトに帰還</p><p>８９　なんだかんだでシャリトに留まっていたが、商会の探りがあった</p><p>９０　シャリト出立、セルゲイ・アレクセイとともに馬上の旅</p><p>９４　６日かかったシャリト⇔ディランニレンを４日に短縮</p><p>９５　“告死鳥”の魔術師ヴァシリーとお茶会</p><p>９７　ウルヴァーンに到着、銀髪キノコことヴァルグレンに連絡</p><p>１００　ヴァルグレンから使いが来る</p><p>１０１　茶髪ロン毛と化したヴァルグレンと星見</p><p>１０４　ウルヴァーン出立　吟遊詩人や隊商と合流　その夜にホアキンと交渉</p><p>１０５　大熊の村ヴァークに着く　そして 深部 の境界線に探索へ</p><p>１０６　翌朝ユーリアへ出立　同日ユーリアへ到着、夕方には助平領主と謁見</p><p>１０７　ユーリアを出立、サティナへ</p><p>１０９　サティナに到着</p><p>１１０　ホランドと商談、リリーの家を訪ねる　リリーの憔悴発覚</p><p>76. 依存</p><p>お久しぶりです。</p><p>昼下がりのサティナの街は、人々の活気で満ちている。</p><p>腹をすかせて屋台を物色する隊商の護衛戦士、市場で買い物をする子連れの女、せわしなく走り回る小間使い。客引きに精を出す商店の見習いがいたかと思えば、大道芸人の一座が何やら街の官吏と揉めていたりする。</p><p>賑やかで平和な雑踏。</p><p>だがケイとアイリーンは、その中を重い足取りで歩く。</p><p>泣きじゃくるリリーをなだめて、一緒に遊んで、モンタンたちと少しばかり話してから、ケイたちはモンタン宅を辞去した。</p><p>宿屋に戻るには早すぎる時間。</p><p>さりとて昼食は摂ったばかりで、他にすることもなく。</p><p>ふらふらと誘われるように、大通りに面した見知らぬ酒場へ、二人が足を踏み入れたのは自然な流れだった。</p><p>酒場とはいえ昼間から酔い潰れる者はそうおらず―皆無とは言い切れない―至って落ち着いた雰囲気の店だった。ちょうど空いていた店の奥の席を陣取る。</p><p>エールを。二人分な</p><p>生ぬるいエールよりぶどう酒の方が美味いが、そういう気分らしい。どっかと椅子に腰を下ろしたアイリーンが、注文さえ億劫と言った様子で給仕の娘に告げる。親指でピィンと、大銅貨を弾いて渡しながら。</p><p>ケイも異存はない。胸の内の苦い想いを、もっと即物的な苦味で洗い流してしまいたい、というアイリーンの気持ちはよく理解できたからだ。</p><p>…………</p><p>席についたはいいが、二人とも黙り込んだままだった。ケイはぼんやりと酒場の客たちを眺め、アイリーンはリリーとのやりとりを反芻するように、独りで手遊びしている。</p><p>どうぞ</p><p>トン、トンッと二人の前に、エールがなみなみと注がれたジョッキが置かれた。乾杯をするまでもなく、無言で口に含む。</p><p>苦いし、不味かった。</p><p>……だが、悪くはなかった。</p><p>と、そのとき、店の片隅で小さな歓声が上がる。</p><p>羽根帽子をかぶり、琴を手にしたひょうきんな男が皆に一礼していた。どうやら吟遊詩人がやってきたようだ。店の外であらかじめ宣伝していたらしく、歌を目当てにドヤドヤと新たな客も入ってくる。</p><p>初めて見る顔だが、そこそこ人気の歌い手なのかもしれない。</p><p>そして見た目を裏切らぬ陽気な声で、彼は朗々と歌い出す。またぞろ正義の魔女か、それとも大熊狩りの話か？　などと斜に構えて聴いていたが、どうやら新しいネタのようだ。</p><p>遠く離れた異国の街の、領主の娘の物語。見目麗しい彼女は、邪悪な魔法使いに目をつけられ求婚される。そしてそれを拒絶したがゆえに、娘は体をゆっくりと獣に変えていく、おぞましい呪いを受けてしまう。</p><p>だが、そんな娘にも救いの手は差し伸べられた。さすらいの善なる魔法使いが助力を申し出たのだ。呪いを解くには、大元を断つしかない。かくして善なる魔法使いは、邪悪なる魔法使いに一騎打ちを挑んだ。</p><p>凄まじい戦いだった。強大な神秘の力が火花を散らし、魔術の秘奥の激しい応酬が繰り広げられる。邪悪な魔法使いは絶大な魔力を誇ったが、しかし、さすらいの善なる魔法使いは一枚上手だった。なんと彼は、二体の精霊を使役し別系統の魔術を操る、類稀なる才能の持ち主だったのだ。</p><p>かくして邪悪な魔法使いは討ち果たされた。だが、時すでに遅し。呪いは娘の体に深く根付き、決して解かれることはなかった。</p><p>見目麗しいながらも獣の耳を生やしてしまった娘は、街の住民たちに恐れられ、そのまま故郷を追われてしまう。それに善なる魔法使いも同道し、かくして二人のさすらいの旅が始まった。</p><p>二人は安住の地を見つけられるのだろうか。わからない、精霊だけがその行先を知っている―と物語は締めくくられる。</p><p>アニメかよ……</p><p>ぱちぱちと拍手して、歌い手の技量そのものには賛辞を送りながら、アイリーンがボソッと呟いた。</p><p>正統派のバトルもの、ってノリだったな</p><p>ああ。獣の耳が生えちゃうとか日本人の十八番だろ？</p><p>知らん。そういう趣味はないし</p><p>からかうような視線をくれるアイリーンに、ケイは小さく肩をすくめた。</p><p>だが、どうだろう。ふと想像してみる、例えばアイリーンに猫耳が生えたら？</p><p>…………</p><p>いけるじゃん……と思ったケイは、少しだけ元気が出た。すぐにエールをあおって苦みばしった表情を取り戻したが、一瞬鼻の下を伸ばしたのをアイリーンは見逃さなかったらしい。ジョッキを置いて、何やらニヤニヤした笑みを浮かべていた。</p><p>……それにしても、デュアル・メイジの概念が出てきたのは面白いな</p><p>んんー？　……ま、そうだな。『こっち』でも発想はあったみたいだ</p><p>あからさまな話題転換だったが、アイリーンはこれみよがしに眉をクイッとさせるのみで、話に乗ってきた。</p><p>基本、魔術師と契約精霊は、一人と一体でセットと考えられている。ケイにとってのシーヴ、アイリーンにとってのケルスティンのように。</p><p>だが、類稀なる幸運が重なって、複数の精霊と契約できてしまう者もいる。精霊に出会う幸運と、精霊の要求する契約条件をその場で満たせる幸運。どちらも非常にハードルが高い。デュアル・メイジはその中でも最も『あり得る』例で、二体の精霊と契約する魔術師のことを言う。</p><p>ゲームでも滅多にいなかったからな</p><p>ああ。『こっち』にいるなら一度お目にかかりたいもんだぜ</p><p>相当なラッキーパーソンだろ、とアイリーンは言ってから、ふと思い出したように笑う。</p><p>そういや、『妖精の母ちゃん(フェアリーズ・マム)』なんてのがいたな</p><p>ああ、いたいた。懐かしい</p><p>アイリーンの言葉に、ケイは微笑みながら目を細めた。</p><p>『妖精の母ちゃん』とは、 DEMONDAL の名物プレイヤーのひとりだ。妖精が好きすぎて、契約条件のあめ玉や砂糖菓子を手に妖精の生息域を徘徊、ついには五体もの妖精と契約を結ぶことに成功した執念の魔術師。恰幅のいい女性のアバターが嬉々として妖精を連れ回している姿が笑いを誘い、こんなあだ名がついた。</p><p>ちなみに、同じタイプの精霊と複数同時に契約するメリットは薄い。一つの術に対し全ての精霊が反応して発動させようと試みるため、効果も倍増するが消費も倍増、あっという間に魔力が尽きてしまうためだ。</p><p>でも妖精って便利だよなぁ。できるならオレも契約したい</p><p>幻惑や眠りの術は、魔道具づくりでも応用が効くだろう。</p><p>そうだな。消費魔力も―</p><p>少なくてコスパがいいし、と言おうとして、ケイは口をつぐんだ。風の、気配を感じる。きっと声に出して言ったら何か良くないことが起きる。</p><p>―まあ、いつどこで妖精を見つけるともわからないし、持っていてもいいかもな。あめ玉の一つや二つ</p><p>アイリーンはハハッと笑いながらそう言ったが、あめ玉という言葉から連想してしまったのかもしれない。顔を曇らせた。</p><p>…………</p><p>またぞろ、沈黙が降りてくる。</p><p>そして、休憩していた吟遊詩人が再び歌い始めた。今度は、サティナ定番の正義の魔女の歌だった。ホアキンに何度も聴かされていい加減飽きていたし、それ以上に居心地が悪く感じられたので、二人はどちらからともなく、席を立った。</p><p>ぶらぶらと用事もなく歩く。</p><p>雑踏を抜け、いつしか城壁が見えてきた。そういえば、町の外に出るときはいつもサスケやスズカが一緒で、徒歩で出たことはほとんどない。</p><p>行ってみようか</p><p>そだな</p><p>なんとはなしに、ケイはアイリーンを郊外の散歩に誘った。衛兵に挨拶して顔を憶えてもらってから、二人は草原に出た。</p><p>爽やかだ。午後の風が心地よい。ぼちぼち肌寒い季節がやってくる。</p><p>みずみずしい草原の緑は見慣れていたが、いつも騎乗から眺めていたので、視点の高さが新鮮に感じられた。</p><p>……なぁ。リリーのあれ、どう思う</p><p>歩きながら。見晴らしのいい、誰もいない原っぱで、アイリーンがとうとう口を開いた。</p><p>依存症、か</p><p>……あれ、本当に依存症なのかな</p><p>……と、言うと？</p><p>他に何があるのか。ケイが怪訝な顔をすると、アイリーンは オレも詳しくはないんだけどさ と前置きし、</p><p>リリー、たった一回しか経験してないんだろ？　それも注射とかじゃなくて、経口摂取で。……そんなに一発で、依存症になるものなのかな</p><p>もっと何度もやらないと、酷い依存性は出ないんじゃなかったっけ？　と。</p><p>……わからない。だがここは地球じゃない。俺たちの知らない、依存性が異常に高いヤクがあってもおかしくはない</p><p>まあ、そうだけどさ</p><p>そうであってはほしくない、と言わんばかりに、アイリーンは辛そうな顔をしていた。ケイも同感だ。</p><p>そう、だな……。トラウマとか、そういうので蜂蜜飴が『精神安定剤』として、条件付けされてしまったのかもしれない。……という、考え方もできる</p><p>だと良いけど……いや、良くないけどさ</p><p>ハァ、とアイリーンは短く溜息をついた。</p><p>……どっちにせよ、リリーが苦しんでることには変わりないんだ</p><p>そう、それが事実だった。</p><p>ケイは無言で瞑目することで、同意を示す。</p><p>ピピー、ピピピ……と可愛らしく鳴いて、鳥が飛んでいく。夏の残り香を追い求めるように、蝶々が舞い飛んでいた。</p><p>オレたち、どうすりゃいいんだろうな</p><p>手近な木立に踏み入って、大きな石の上に腰掛けるアイリーン。</p><p>その真向かいの切り株に座り、ケイはおもむろに、胸元のポケットを探った。</p><p>……リリーの問題を解決する方法は、ある</p><p>えっ？　何が？</p><p>これだよ</p><p>すっ、と指で摘んで見せた。</p><p>赤銅色の―何の変哲もない指輪を。</p><p>オズのくれた指輪だ。コレに願えば、おそらく一発で解決する</p><p>オズ。</p><p>北の大地、魔の森に住まう賢者。</p><p>天界より降臨せし悪魔(デーモン)が一柱。絶大なる力を持つ異次元の存在。忘却と追憶を司る者―</p><p>依存症だろうが、トラウマだろうが、オズの手にかかれば、一瞬で……</p><p>治るはず。記憶をいじれば簡単だろう。</p><p>だが―</p><p>でも、……それは、ケイ</p><p>アイリーンが困惑している。いや、言うまでもない。</p><p>わかっている。たしかにリリーは苦しんでるが……『死ぬほど』じゃない</p><p>そういうことだろ、と目で問う。</p><p>リリーは、幼いながらに苦しんでいる。</p><p>だがその苦しみのせいで、明日にでも命を落としてしまうわけではないし、現状は五体満足に暮らしていけている。</p><p>深い同情には値するが、それでも、生きているのだ。</p><p>それに対し、この指輪の力は絶大すぎる。</p><p>たとえ体が引き千切れて、ハイポーションでも治せないような致命傷を負ったとしても、指輪に願ってオズを喚べば一発で回復してくれるはず。</p><p>そう―ケイとしても、こう表現したくはないが、あまりにも『もったいない』のだ。リリーのトラウマ『ごとき』に使うには。</p><p>なにせ、この指輪で願いを叶えてもらえるのは、たったの一度きりなのだから。</p><p>…………</p><p>それがわかっているからこそ、アイリーンは険しい顔で唇を噛んだ。</p><p>……ケイは、どう思う</p><p>……もちろん、治してあげたいさ。だが、今ここで指輪を使ったら、いつか絶対に後悔する日が来ると思う</p><p>ケイが本音で語ると、アイリーンは俯いた。</p><p>そして、押し殺すような声で、 ……オレもそう思う と言った。いくらリリーがかわいそうでも、重要度の判断を間違えてはならない、とケイ同様の結論に至ったらしい。</p><p>仮にここでリリーのトラウマを癒やしたとしよう。そしてある日、もっと重大で取り返しのつかない事件が起きたとしよう。</p><p>ケイとアイリーンは絶対に後悔する。</p><p>あのとき指輪を使うべきではなかった、と。</p><p>だが……</p><p>手の中で指輪を転がしながら、ケイは思う。</p><p>この指輪の、後悔しない使い方など、あるのだろうか？</p><p>これから生きていく上で、何か大きな事件や事故があるたびに、ケイたちは自問自答しなければならないのだ。ここで使うべきか？　と。</p><p>なまじ選択肢があるだけに、いつまでもいつまでも、分水嶺に立たされ続ける。</p><p>この指輪は、確かに、凄まじい可能性を秘めている。</p><p>だが分不相応な力には、それに相応しい重みが伴うのだと、ケイは初めて、実感を伴って理解した。</p><p>これから生きていく上で―悩み続けなければならない。</p><p>いつ、この指輪を使うのかを。</p><p>赤銅色に輝く指輪から、オズの笑い声が響いてくる気がした。</p><p>まさに、悪魔の指輪だ……</p><p>穏やかな、しかしどこか肌寒くすら感じられる空気の中で。</p><p>二人は、いつまでも黙り込むことしかできなかった。</p><p>オズ それリクエストしたの君らでしょｗｗｗ</p><p>真面目なトーンでお送りいたしましたが、ぼちぼち、ほのぼの感が出てくると思います。</p><p>新作のカルマ・ドーンもよろしくネ！</p><p>77. 試作</p><p>吟遊詩人ホアキン</p><p>お歌をおしえて</p><p>すごい！！　ホアキンですやんこんなの！！　私の脳内から直接お届けしてるレベル！　まさにイメージぴったりです！！　そしてエッダちゃんに歌を教えてるシーンも良い！　エッダちゃんも可愛いけどホアキンの子供好きそうな優しい目もすき……。</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ この指輪を使えば、リリーの心の傷も癒せるかもしれない</p><p>アイリーン うーーーーん、そうだけど</p><p>ケイ でもこの指輪、強すぎる……もったいない……</p><p>アイリーン わかる</p><p>ケイ これからことあるごとに悩むことになるのか……まさしく悪魔の指輪！</p><p>オズ（それリクエストしたのキミらでしょ）</p><p>うにょん、と影が動く。</p><p>……むっ</p><p>うにょーん、と再び影が動く。</p><p>……む～っ</p><p>夕暮れ時、宿屋の一室。</p><p>どんな感じ？</p><p>ケイの肩にあごを載せて、アイリーンが後ろから覗き込んでくる。</p><p>なかなかいい。鍛えられている感じがする</p><p>水晶のはめ込まれた小さな杖を手に、ケイは真面目くさって答えた。</p><p>ケイたちがサティナについてから数日。</p><p>コーンウェル商会付きの魔術師として、アイリーンは諸々の魔道具の試作に取り掛かっていた。まず商品化を目指すのは”投影機(プロジェクター)”―影絵を表示する魔道具だが、それよりも先に、ひっそりと魔力鍛錬用の杖も作成している。</p><p>ケイが使っているのは、そのプロトタイプ。ベースになった杖は木工職人のモンタンに依頼したものだ。杖というよりは仏具の金剛杵に近い形状で、アレイやダンベルの握りの部分だけといった風情。そこに親指の爪大の水晶がはめ込んである。</p><p>やっぱ精霊が賢いと楽だなー、作るのが</p><p>うねんうねんとうごめくケイの影を見て、アイリーンが感慨深げに言った。</p><p>水晶には『魔力を極微量、消費して使用者の影を動かす』という術が封入されているが、これがゲームだと、精霊のAIが意図的にアホの子に設定されていたせいで、影の挙動や使用者の定義に至るまで細々と設定する必要があった。おかげで呪文もどんどん長くなっていき、封入する宝石もある程度の大きさが要求された。</p><p>だが現実では、ケルスティンが『アホの子AI』から『ものすごく話がわかる子』に変化し、曖昧な命令でも理解できるようになった。『使用者の影を動かす』と言えば、使用者が誰なのかも把握してくれるし、影も適当に動かしてくれる。お陰で呪文も短くなり、宝石も小さなもので事足りた。</p><p>ゲームの精霊のAIも、これだけ賢かったら別ゲーだったのにな</p><p>もう少し、『それらしい』ゲームになってただろうな</p><p>おどけるアイリーンに、ケイも笑いを噛み殺す。</p><p>上記の理由で、ゲーム内の魔道具は宝石が肥大化しがちで、製作コストが非常に高く付いていた。それは同時に、持ち歩くリスクが高まることも意味する。</p><p>あいつ魔道具持ち歩いてるらしいぜ という話が広まれば、 へっへっへ、いいカモだ お宝をよこしなァ！ と追い剥ぎプレイヤーやプレイヤーキラーたちが群がってきて、ゲームどころではなくなってしまうだろう。</p><p>大手の傭兵団(クラン)に入って常に集団行動を取るプレイヤーなら、ある程度は襲撃も避けられるかもしれない。が、それでも失うものがない追い剥ぎ用のサブキャラでヒャッハーされることもままある。</p><p>そんなわけで DEMONDAL では、対人イベントや計画的な集団戦闘でない限り、魔道具は滅多に持ち出されなかったのだ。もはや一種のステータスアイテムと化していた。</p><p>しかし仮に、ゲーム内の精霊のAIがもっと柔軟で、低コストな魔道具が作成可能だったなら―攻撃魔術を込めた杖や使い捨ての護符なども日の目を見ていたかもしれない。他のファンタジーゲームのように、派手なエフェクトの魔術がバンバン飛び交っていた可能性もあるのだ。</p><p>実際は、人外じみた威力の矢と石ころが飛び交い、奪われても懐の痛まない安物の鎧で身を固めたプレイヤーがオッスオッスぶつかり合う有様だったが。</p><p>それにしても俺の魔力、けっこう増えたんだなぁ……</p><p>揺れる足元の影に視線を落とし、ケイはしみじみと呟いた。</p><p>杖を通して、水晶に魔力が吸い取られていく感覚がある。ごくごく僅かな量―とはいえ、魔力関連の技能を全く伸ばさず、脳筋戦士として育成していたケイのキャラクターなら、今頃は枯死していてもおかしくない。</p><p>だが、ケイは平気だ。</p><p>むしろまだ余裕さえ感じる。</p><p>“風の乙女”シーヴに度々、死ぬ寸前まで搾り取られていたせいで、魔力が育っていたのだろう。ゲームにあったキャラクターの成長限界が解放されたおかげだ。</p><p>うーん、オレももっと鍛えないとな</p><p>ケイの成長ぶりに思うところがあったのだろう、アイリーンが頷いている。正義の魔女の二つ名を持つアイリーンだが、実は純魔術師(ピュアメイジ)ではなく肉弾戦と魔術の両方をこなす魔法戦士だ。脳筋戦士よりかは遥かに強大な魔力を誇るが、純魔術師に比べると当然劣る。</p><p>だが、鍛えれば鍛えるほど伸びるならば。</p><p>ここらで本格的に、魔女に転職してもいいかもな― Kerstin, arto kage-mai</p><p>アイリーンがパチンと指を鳴らすと、アイリーンの影がひとりでに動き出した。</p><p>杖に封入したものと同じ術式を、自力で行使したのだ。アイリーンの影がケイの影の手を取り、いっしょにフォークダンスを踊り出す。ケルスティンがケイの影に干渉しているのだ。</p><p>が、本来想定されていなかった挙動により、ケイの魔力消費量が一気に伸びる。</p><p>ぬごおあおあッ</p><p>ケイ！？</p><p>魂を吸い取られるような声を上げたケイは、パッと杖から手を離した。スンッとケイの影が通常状態に復帰、残されたアイリーンの影が おっと と言わんばかりに淑女の影絵―ケルスティンの姿に戻る。</p><p>どうした！？</p><p>……なんか、一気に魔力を吸われた……</p><p>げっ、大丈夫だった？　いや生きてるから大丈夫なんだろうけど、ごめん</p><p>なんてこった……と青い顔のアイリーン、『うっかり』でケイを枯死させたら悔やんでも悔やみきれない。</p><p>尤も、アイリーンのせいとは言い切れなかった。影に干渉したのはケルスティンだし、そもそもこんな現象も想定されていなかったのだから。</p><p>……心配するな。思ったより勢いがあってビビっただけだ。量はそれほど大したことがなかった―</p><p>シーヴに比べれば、という言葉は呑み込み、ケイは床に転がる杖を拾い上げる。</p><p>……同じ術式だと干渉するのか？</p><p>わかんない……</p><p>やはりゲームとは異なる点も多いようだ。いくら伸びしろがあるからといって、調子に乗って死んでしまったら意味がない。慎重に検証しなければ、と浮かれていた気分を引き締める。</p><p>まあ、何はともあれ。気をつけて使えば安全に魔力を鍛えられそうだ</p><p>変なことしなけりゃ、な。……普通に使う分には安定してた？</p><p>あっけらかんとしたケイに対し、アイリーンはまだちょっと気にしている。</p><p>安定してた。魔力の消費もほとんどブレを感じなかったし、多分一般人に使わせても、ほんのり魔力が強い人間なら大丈夫なレベルだ。……やっぱり、バレたら、だいぶん拙いことになるな、これは</p><p>アイリーンの不安を払拭するように、明るい口調で語るケイだったが、自動的に別の不安点も出てきてしまった。</p><p>『この世界』では、安全に、そして確実に魔力を鍛える手段が貴重なのだ。もしもこの魔道具の存在が知られれば、国に目をつけられて厄介なことになる。</p><p>使ってみて改めて思ったが、脳筋戦士(ピュアファイター)の俺を魔術師に変えてしまう恐ろしい魔道具だな。下手な武器よりヤバい</p><p>う～～～～む……</p><p>アイリーンがベッドにぽふんと倒れ込み、腕を組んで唸りだす。</p><p>悩んでいるのか、と思ったケイは、妙な空気をごまかそうと まあ俺たちだけで使えば大丈夫だろ と努めて軽い口調で言った。</p><p>……なあ、ケイ</p><p>うん？</p><p>それでも難しい顔のままだったアイリーンは、やがて体を起こし、改めてケイに向き直る。</p><p>実は、ちょっと前から考えてたんだけどさ。……リリーを、その、オレの弟子にしようかと思うんだ</p><p>弟子？</p><p>意表をつかれ、ケイは目をしばたかせた。</p><p>弟子って……魔術の、か</p><p>うん。精霊語(エスペラント)と、アルゴリズム的な考え方と、ある程度基礎が身についてきたら、魔力の鍛錬も……</p><p>ケイの手の杖を見やりながら、アイリーン。</p><p>―ケイたちは、リリーの一件を、静観することに決めた。</p><p>オズの指輪は使わない。いや、使えない。リリーは気の毒だが、この問題を解決するのに、指輪の力は強大過ぎる。だから使わない―そのかわり、リリーやモンタン一家にはできるだけ手助けを、というのが、ケイたちの結論だ。</p><p>リリー、塾にも通えなくなっちゃったみたいだし、あの子のために何かかわりになるものを、って思ってさ</p><p>通えなくなった、というのはリリーの精神的な問題だ。以前のように独りで出歩けなくなってしまったし、塾に通う他の子供たちとの兼ね合いもある。リリーの他は裕福な家庭の子ばかりで、もともとリリーは浮いていたのに、誘拐事件のせいでさらに好奇の視線にさらされるようになってしまったそうだ。</p><p>子供は無邪気で、正直で、残酷だ。リリーの心の傷をえぐるどころか、傷口に塩を塗り込むような言葉を平気でかけてくることもある。</p><p>そんなリリーが不憫だから―というのが、アイリーンの考えなのだろう。何かに熱中させることで、一時的にでも、辛い記憶を忘れられれば、という想いもあるに違いない。</p><p>もちろん、リリーが望めば、なんだけどさ</p><p>アイリーンはそう言いつつ、リリーが断らないことを確信しているような口ぶりだった。実際、ケイもそう思う。アイリーンのような優しい魔女に、弟子入りを誘われて断る人間がいようか。</p><p>……俺も、賛成だよ</p><p>それくらいのことはしてもいいかもしれない。</p><p>『こっち』の魔術師も、どうせ修行法は門外不出の秘伝だろう。修行法を秘するのは別に怪しいことでもなんでもない。リリーにも絶対の秘密だとよく言いきかせれば、きちんと守ってくれるはずだ</p><p>ケルスティンは影の精霊。影が常に見守っているとでも言えば、言いつけを破ってまで修行法を漏らす度胸があるとも思えない。もちろん、リリーを信用していないわけではないが……。</p><p>そしてリリーの弟子入りは、少し驚いたが、冷静に考えればケイたちにとってもメリットのあることだ。今から魔力を鍛えていけば、大人になる頃には今のアイリーンを凌ぐほどの魔力量に達するだろう。それで契約精霊を見つけて魔術師になるもよし。そうでなくとも、魔道具を使ったり宝石に魔力を込めたりできる、『信用できる』人材が得られる。</p><p>アイリーンが密かに構想している”影画館”計画や、今後サティナで暮らしていくことを鑑みれば、十年単位での話になるが、アイリーンを支えてくれる有能な弟子の存在は、大きなプラスになるはず。</p><p>よかった、ケイが賛成してくれて</p><p>アイリーンは、ホッとした顔で言った。</p><p>明日あたり、リリーに話してみたらどうだ？</p><p>だな。モンタンの旦那たちにも相談する感じで</p><p>それがいい。モンタンたちもダメとは言わないだろう</p><p>よーし、となると、ますますオレたちも修行しないとな！　『師匠』と呼ばれるには、オレの魔力の扱いはまだまだ未熟だし</p><p>ベッドの上で座禅を組んで、真面目くさって瞑想し始めるアイリーン。</p><p>ケイたちは、アルゴリズムや魔道具作成、精霊語においては『この世界』の老練な魔術師顔負けの知識を誇るが、こと『魔力の扱い、感覚』という点では、大きく遅れを取っている。</p><p>元の世界には魔力なんてなかったし、ゲーム内にも『魔力の感覚』までは実装されていなかったので、当然だ。</p><p>ウルヴァーンのヴァルグレン氏も、ガブルロフ商会のヴァシリー氏も、オレたちの魔力を察知してきたからなぁ。あれくらいはできるようになりたいもんだ</p><p>目をつぶったまま、唸るようにしてアイリーンが言う。</p><p>“白光の妖精”と契約する銀髪キノコヘアこと、ヴァルグレン。そして告死鳥(プラーグ)と契約するガブリロフ商会所属の魔術師、ヴァシリー。二人とも熟練の使い手で、魔道具も使わずにケイたちのおおよその魔力量を看破してみせた。やはり『こちら』の魔術師は、魔力に対する知覚に優れている。</p><p>ケイたちが今から身につけるのは容易ではないが、努力する価値はある。</p><p>そうだな。俺も、もっと頑張らないと</p><p>ケイも再び、影を操って魔力を消費し始めた。</p><p>これからは、この鍛錬が寝る前の日課になるだろう。</p><p>鍛えなければならない。取りうる選択肢を増やすために。</p><p>リリーの件も気になるが、『きみは死神日本人か？』の手紙も気になるのだ。</p><p>DEMONDAL のプレイヤーと思しき人物―友好的な存在、と信じたいが、万が一ということもある。備えはあればあるほど良い。</p><p>イグナーツ盗賊団対策にもなるし、『矢避けの護符』あたりはケイも早急に作成できるようになりたかった。</p><p>…………</p><p>今一度、座禅を組むアイリーンを見つめる。</p><p>―なんと言っても、アイリーンと自分の命がかかっているのだから。</p><p>その日は、ちょっと気分が悪くなるくらいまで魔力を消費してから、日が暮れて早々にケイたちは寝た。</p><p>明日はまたモンタン宅を訪ねて、弟子入りを打診することになるだろう―。</p><p>サスケ ぼくらの出番なさすぎない？</p><p>スズカ 忘れてる人もいそう</p><p>サスケ 街MAPだからしかたないね</p><p>78. 弟子</p><p>前回のあらすじ</p><p>アイリーン そうだ、リリーを弟子にしよう</p><p>……弟子、ですか</p><p>モンタンが、ぽかんと口を開けた。</p><p>翌日、ケイたちはいつものようにモンタン一家を訪ねている。</p><p>リリーを弟子にしたいというアイリーンの申し出に、リリー・モンタン・キスカの三人の反応はまちまちだった。</p><p>リリーは目を輝かせ。</p><p>モンタンは考え込み。</p><p>キスカはどこか不安げに眉根を寄せる。</p><p>賛成、中立、反対、といったところか、とケイは思った。</p><p>わたし、やりたい！　おねえちゃんみたいなかっこいい魔女になる！</p><p>諸手を挙げて大歓迎なのはリリー。『かっこいい』と言われたアイリーンは嬉しそうに、そしてちょっと気恥ずかしそうに目を細めている。</p><p>弟子、とは、本当に『魔術の』弟子ですか？</p><p>どこか慎重に確認してきたのはモンタンだ。あまりにも突然のことで、どう反応すればいいのかわからない、といった様子だ。その心情を一言で表すとすれば― マジかよ だろうか。</p><p>もちろん、魔術の弟子だ</p><p>アイリーンは鷹揚に頷いた。</p><p>なんと……しかし、いいのですか？</p><p>いい、とは？</p><p>い、いえ、普通、そういった魔術の秘奥は、親から子へのみ伝えられるものかと思っておりましたので……お二人のお子さんが産まれてから……</p><p>モンタンの言葉に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。</p><p>い、いや……</p><p>子供とかは、まだちょっと早いかなって……</p><p>途端、てれてれと頬を赤らめる二人。</p><p>そ、そりゃあ、まあ、いつかはさ。ケイとも……赤ちゃんができるだろうし？　産まれたら、きっと魔術の手ほどきもするだろうけど……</p><p>だが、今はまだ色々とやりたいことや、やるべきことがあるから、なあ？　そのあたりは、追々な……</p><p>突如としてこっ恥ずかしい雰囲気を醸し出す二人に、モンタンは曖昧な笑みを浮かべて そうですか と頷いた。リリーは ？ と首を傾げていた。</p><p>それに、実子以外の弟子なんてそう珍しくもないだろう。公都には魔術学校まであるんだぜ？</p><p>そうなんですか？　そういった事情はあまり存じ上げなくて……魔術師の方々のお話なんて、滅多に伺う機会もありませんし</p><p>今度はモンタンが首をかしげる。彼は多少大商人とも付き合いがあるとはいえ、ただの木工職人だ。魔術師への弟子入りなど遠い世界の話なのだろう。</p><p>……まあオレも詳しくは知らないんだけどさ</p><p>かくいうアイリーンも、聞きかじっただけなのだが。</p><p>あの……お話は大変ありがたいのですが、危なくはないのでしょうか？</p><p>心底申し訳無さそうに、しかし これだけは譲れない という母の顔で、キスカが尋ねてくる。</p><p>魔力の鍛錬には危険が伴う、と聞いたことがあります</p><p>ママ、でもわたし―</p><p>あなたは黙ってなさい</p><p>口を挟もうとするリリーにぴしゃりと言いつけるキスカ。いつもは柔和で活発なキスカも、愛する我が子のこととなれば流石の気迫だった。</p><p>ご心配はもっともだ。鍛錬に限らず、魔力というものは一歩扱いを間違えれば命の危険が伴う</p><p>アイリーンは誤魔化すことなく、正直に答える。あまりに堂々とした物言いに、キスカは二の句が継げなかった。一瞬の沈黙。</p><p>……俺も、魔術を使って、何度か死にかけたことがある。扱いに細心の注意を要するのは、魔力も武器も同じだな</p><p>と、ケイがもっともらしくコメントすると、モンタン一家が ん？ と怪訝な顔をした。</p><p>ケイさんが？</p><p>魔術……？</p><p>なぜそこでお前が出てくる、と言わんばかりの口調に、今度はケイが んん？ と首をひねった。</p><p>……言ってなかったか？　俺も魔術師の端くれだ</p><p>ええっ？</p><p>モンタンたちは驚きの声を上げたが、どちらかというと疑いの色が強い。</p><p>冗談じゃないんですよね？</p><p>ふふっ、信じられないか？</p><p>いえ、そんなことは……ただちょっと意外で</p><p>本音は、 ちょっと どころか かなり 意外だろう。大熊をも一撃で打ち倒す狩人が魔術を……？　とモンタンの顔には書いてあった。確かに、脳筋戦士と魔術師は、イメージ的には対局に位置する。</p><p>ほんとに～？</p><p>こら、リリー</p><p>遠慮皆無で疑わしげに目を細めるリリー。キスカが困ったようにたしなめるが、ケイは正直なリリーが可笑しくて思わず噴き出した。</p><p>くっはっは。まあ仕方がない、魔術師らしくない自覚はあるんだ</p><p>そして、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。</p><p>リリーにも信じてもらえるように、ここは一発、魔術を披露しようじゃないか</p><p>これまでなら。</p><p>このような場面で じゃあ何かやってみせてよ と言われても、 いや触媒(エメラルド)が高くつくから…… 代償がデカいから…… などと言い訳がましくゴニョゴニョ言って、断ることしかできなかっただろう。そしてリリーの疑念も、払拭することは叶わなかったはずだ。</p><p>が。</p><p>今のケイは一味違う。</p><p>昨日の鍛錬でよくわかった。一般人に比べれば、ケイの魔力は劇的に鍛えられている。もはや規模の小さい術ならば、触媒なしでも行使できるのだ……！</p><p>行くぞ、見ていろ……ッ！</p><p>ケイは体の奥底に渦巻く魔力を意識する。</p><p>ぞわり、と空気が異様な気配を孕む。</p><p>一同は、ケイの背後に羽衣をまとった乙女の姿を幻視した―</p><p>Maiden vento, Siv.</p><p>そして、呼び掛ける。</p><p>―Faru la venton milde blovi!</p><p>ズオォッ、とケイの魔力が吸い取られていく。</p><p>くっ……！</p><p>額に汗を浮かべ、苦しげに表情を歪めるケイ。しかし耐える。シーヴの術を触媒なしで、意識的に発動するのはこれが初めてだ。</p><p>魔力が捧げられ、精霊(シーヴ)により世界の理が書き換えられていく。</p><p>うおおおお……ッ！</p><p>果たして術が完成する―！</p><p>そよぉ……</p><p>と、かすかな風が、窓から吹き込んだ。</p><p>モンタン宅の天井に飾られている、木製の風鈴のような飾りが、からん…………ころん…………と小さく音を立てた。</p><p>……ふぅ。うまくいったな</p><p>冷や汗を拭って、ドヤ顔を浮かべるケイ。 ほう…… と感心するアイリーンをよそに、モンタンたちはひたすら困惑していた。</p><p>えっ……今の、魔術なの？</p><p>リリーが衝撃を受けたような顔で尋ねる。今度はキスカもたしなめなかった。</p><p>ああ。俺は風の精霊と契約しているからな。そよ風を吹かせたんだ</p><p>へ、へえ……</p><p>大真面目に、あくまでも成し遂げた感を漂わせるケイに、リリーも冗談ではないらしいと察したようだ。</p><p>……うちわであおいだ方がつよそう</p><p>未だそよそよと揺れる天井の風鈴を見て、リリーはぽつりと呟いた。</p><p>…………</p><p>と、とにかく、リリーを弟子に取ると言っても、危険な目には遭わせない</p><p>静かにダメージを受けるケイを尻目に、アイリーンが空気を切り替えようと、再び口を開く。</p><p>まずは座学、精霊語と魔術の基本的な考え方を学ぶ。次に瞑想で魔力を鍛える。瞑想で死ぬ奴はいないからな、これは絶対に安全な方法だ</p><p>リリーの歳で瞑想したところで、魔力は本当に少ししか伸びないが、その少しが大きな差を生んでくる。</p><p>そもそも、魔力の鍛錬が危険、と言われているのは、身の丈にあっていない過剰な修練で命を落とす奴がいるからだ。魔道具を利用したり、無理に術を行使したりして、魔力を使い果たして死ぬ。だけどリリーにはそんな真似はさせない。十年単位でゆっくり、確実に、そして安全にやっていくことになるだろう</p><p>大したことはしないさ、と肩をすくめるアイリーン。そしてその言葉は、ケイが魔術を披露したお陰で、良くも悪くも説得力があった。</p><p>実際のところ、ケイの術は『脱初心者』級と呼べるもので、リリーが同じことをしようとすれば数回は軽く死ねる危(・)険(・)な(・)ものだ。ケイを見て 大したことがない と解釈するのは大きな誤解なのだが、ぱっと見の印象には勝てない。</p><p>そうですか……差し出がましいことを申し上げました。娘を、リリーを、どうぞよろしくお願いします</p><p>少しは安心したのか、キスカはホッとため息をついて一礼した。</p><p>ママ！　じゃあいいの！？</p><p>しっかり、がんばりなさい</p><p>やったぁ！！</p><p>椅子から跳び上がるようにして喜ぶリリー、モンタンも続いて よろしくお願いします と頭を下げる。</p><p>何から何までお世話になって……本当に、なんとお礼を申し上げれば良いのか</p><p>いやいや、オレがしたいことだから……</p><p>おねえちゃんありがとう！　わたしがんばるね！</p><p>アイリーンに抱きつくリリー。心底嬉しそうに笑っている。昔の彼女が戻ってきたかのようだった。</p><p>うん、オレもリリーに相応しいお師匠様になれるよう頑張るよ。でも、辛くなったり、嫌になったらいつでもやめていいからな</p><p>ならないよぉ！</p><p>よしよし</p><p>自分の決意をないがしろにされたと思ったのか、ぷくっと頬を膨らませるリリーに、アイリーンは苦笑してその頭を撫でてあげた。</p><p>じゃあ、商会でのお仕事が一段落したら、精霊語のお勉強を始めような</p><p>うん！</p><p>そのとき、リリーはなぜか、チラッとケイを見た。</p><p>……立派な魔女になれるように、がんばる！</p><p>なぜ俺を見た、とケイはまた静かにダメージを受けた。</p><p>†††</p><p>その後、しばらく雑談を楽しんでから、ケイたちはモンタン宅を辞去した。</p><p>リリーはアルファベットは読み書きできるので、簡単な精霊語の単語をいくつか教えておいた。本当に数語だが、これからちょっとずつ語彙を増やしていくことになるだろう。</p><p>弟子、正解だったな</p><p>鼻歌交じりに街を歩きながら、アイリーン。</p><p>そうだな</p><p>ケイも首肯する。新しい目標ができたことで、リリーは生来の明るさを取り戻しつつあった。いつ、また以前のように屈託なく笑えるようになるかはわからない。だがその日は必ず来る、と確信を持てたのが、今日の一番の収穫だ。</p><p>のんびりと職人街から、商業区まで歩いていく。</p><p>ケイたちが目指しているのは、とある宿屋。“GoldenEgg”亭―コーンウェル商会でホランドから聞いていた、吟遊詩人ホアキンの定宿だ。</p><p>魔力鍛錬用の魔道具と並行して”投影機(プロジェクター)“を試作しているアイリーンは、影絵として登録する図柄について、ホアキンに直接リクエストを聞いておこうとしているのだ。</p><p>そして、通行人に道を尋ねながら”GoldenEgg”亭に着いてみると、ちょうど宿屋から出かけようとしているホアキンを見かけた。</p><p>これはこれは、お二人とも</p><p>ケイとアイリーンの姿を認めたホアキンが、ひょうきんな笑顔を浮かべ、脱帽して挨拶する。</p><p>やあ、ホアキン</p><p>よっ旦那、数日ぶり。調子はどうよ</p><p>すこぶる良いですね！　今日はこれからお仕事です、ありがたくもさる御方から依頼を受けまして……</p><p>聞けば、これから貴族の館に詩を吟じに行くのだという。ホアキンの収入の多くは聴衆からのおひねりだが、時たま、貴族や大商人から依頼を受けることもある。</p><p>あー、タイミングが悪かったな。いや、ぎりぎり良かったのかな？</p><p>アイリーンが唸る。ホアキンが不在で空振りに終わるより、まだ会って話ができただけマシかもしれない。</p><p>まだ急ぐ時間でもありませんし、のんびり歩きながらお話しましょうか</p><p>そうだな。実は、“投影機(プロジェクター)“についてなんだが―</p><p>三人で、貴族街に向けて歩きながら、試作品について話していく。</p><p>―じゃあ、登録する図柄はそんな感じでいいかな</p><p>ええ、お願いします。受け取るのが楽しみですね！</p><p>明日にはできるから、昼頃にまた宿屋に行くよ</p><p>いえいえ、こちらから出向きますよ。たしか”BlueBird”亭でしたよね？</p><p>そうそう、それ</p><p>では明日の昼頃に。“BlueBird”亭では、わたしもここしばらく演奏していませんでしたからね。ついでに『営業』してもいいかもしれません</p><p>今日これから貴族の館に歌いに行くというのに、仕事熱心なことだ。</p><p>そういえば、ホアキン。サティナに戻ってきて、何か面白い話は聞いたか？</p><p>歌の話題になったので、ケイはさり気なく聞いてみる。</p><p>面白い話、ですか。そうですねえ、最近サティナでは”流浪の魔術師”と”呪われし姫君”の物語が流行っているようで</p><p>ああ、それか。オレたちも聴いたよ</p><p>あのアニメみたいなヤツ、とアイリーンがケイに目配せしながら笑う。</p><p>アニメ……？</p><p>ん、なんつーか、アレだ。英雄譚とかそういう意味の単語だ</p><p>ホアキンが耳ざとく興味を示したが、アイリーンはさらりと流した。</p><p>そうですか。そしてそう、このお話なんですが、なんと実話らしく、それも割と最近の出来事だそうで。しかも当の”流浪の魔術師”は今、サティナに滞在しているらしいですよ！</p><p>ほう</p><p>ケイは感心したような声を上げる。アイリーンが アニメ と表現していたように、あの話は完全にフィクションだと思い込んでいたのだ。</p><p>デュアル・メイジ―二体の精霊と同時に契約したとかいう、流浪の魔術師。彼が本当に実在するなら、話がどれだけ『脚色』されているのかも気になるところ。</p><p>確かなのか？</p><p>ええ、同業者からの情報です。紆余曲折を経て、今は領主様の庇護を受けているとか何とか……氷の魔術の使い手は希少ですからね</p><p>ほーう</p><p>領主が出てくるとなると、実在するのは確かなのかもしれない。</p><p>そして話をしているうちに、ケイたちは貴族街にたどり着いていた。</p><p>この辺りまで来ると、がらりと街の雰囲気が変わる。所狭しと建物が並ぶ商業区や職人街とは異なり、空間がゆったりと贅沢な使い方をされていた。余裕と気品をもって建ち並ぶ屋敷の数々、それぞれが貴族や名士たちの住まいだ。中には草木の生い茂る庭園まで備えるものまであった。</p><p>石畳の道幅にもかなりの余裕があり、やんごとなき方々を乗せた馬車が時折行き交っている。見回りの衛兵の数も市街区とは段違いだ。ケイとアイリーンは、特にサティナの衛兵たちにはそれなりに顔が知られているので、皆 おや と興味深げな目を向けてくるだけで、貴族街に踏み入っても呼び止められるようなことはなかった。</p><p>さて、そろそろ目的地です</p><p>それじゃ、お仕事がんばってな。オレも試作に取り掛かるわ</p><p>楽しかったよ。また何か面白い話があったら、ぜひ聞かせてくれ</p><p>和やかに、ケイたちが別れようとした、そのとき―</p><p>―あああああああああッッッ！</p><p>突然、背後から、絶叫。</p><p>何事かと振り返ると、先ほどケイたちの横を通り過ぎた馬車の窓から、黒髪の女が身を乗り出していた。</p><p>少し浅黒い肌、なかなかの美人だ。つば広な帽子をかぶり、ごてごてと飾りすぎない上品なドレスを着ている。服装はまさに深窓の令嬢といった雰囲気だが―</p><p>ケイ！　あんたケイでしょ！！</p><p>女はあろうことか、ケイをビシッと指さして叫んだ。</p><p>は？</p><p>誰だあの女、と首を傾げるのがケイ。</p><p>誰だ？　あの女……とケイを見やるのがアイリーン。</p><p>その場に不穏な空気が漂いかけたが、続く女の言葉に、二人の疑念は宇宙の果てまで吹き飛ばされる。</p><p>“死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》“ケイ！！</p><p>驚愕して目を見開くケイとアイリーンに、女は必死で訴えかけた。</p><p>あたしよ！　『イリス』よ！</p><p>ある日　街の中　豹耳に　出会った</p><p>ところで、Twitterやってます！（唐突）　@iko ka</p><p>更新予定や鳴き声などを呟きます。</p><p>朱弓の進捗状況を先んじて把握し、ライバルに差をつけたい貴方に。</p><p>それと短編もいくつか投稿しましたので、もし良かったらこちらもどうぞ！</p><p>ショートショート『共通点』</p><p>あらすじ：</p><p>A市近郊に、一夜にして大量の地上絵が描かれた。現場に急行した専門家たちが目にしたものとは……</p><p>豺ア蛻サ縺ェ繧ィ繝ゥ繝シ チート剣もったまま召喚されたら異世界がバグった</p><p>あらすじ：</p><p>お気に入りのゲームにチートツールを入れて、最強の魔剣を作って遊んでいたら、深刻なバグが発生した。魔剣を使うとゲームの挙動が徐々におかしくなり、やがてクラッシュしてしまう。しかもセーブデータが上書きされて復元不可能。どうしたものか、と頭を抱えていると画面が閃光を放った。なんと俺は、ゲームの世界に勇者として召喚されてしまったらしい。めっちゃ可愛い聖女ちゃんに魔王討伐を依頼された俺は、ゲームキャラの能力も引き継いでるし、何とかなるだろうと軽い気持ちで引き受けてしまう。だが魔王は死ぬほど強かった。絶体絶命のピンチに追い込まれた俺は、殺されるくらいならと最凶の魔剣を抜き放つ。大丈夫、１回くらいならきっと大丈夫― 覚悟しろ魔王、俺の魔剣を受け縺ヲ縺ソ繧！</p><p>79. 豹耳</p><p>ご無沙汰しております、甘木です。</p><p>ご心配をおかけして申し訳ございません。私は元気です。</p><p>実はこのたび、本を出版することになりました！　詳しくは活動報告にて。</p><p>また、長らく更新停止しておりました折、鮫島恭介様 よりファンアートを頂きましたので、ご紹介させていただきます。</p><p>霧の中の巨人</p><p>大熊</p><p>鮫島様、ご紹介が遅れて大変申し訳ございませんでした……！　そして素晴らしいFAをありがとうございました！</p><p>前回のあらすじ</p><p>謎の女 ケイ！</p><p>ケイ 誰だあの女</p><p>アイリーン 誰だ？　あの女……</p><p>謎の女 わたしよ！　イリスよ！</p><p>ケイ 誰だよ</p><p>アイリーン 誰だよ</p><p>城塞都市サティナ、貴族街のど真ん中。</p><p>あたしよ！　『イリス』よ！</p><p>馬車の窓枠から身を乗り出した黒髪の女が、こちらに手を伸ばして必死に叫ぶ。ケイとアイリーンは顔を見合わせた。</p><p>誰だよ</p><p>懸命な訴えも虚しく、異口同音に聞き返すケイたち。『イリス』と名乗った女は、馬車の窓枠からズルッと滑り落ちそうになっていた。</p><p>……お嬢様、いかがなさいましたか？</p><p>と、背後の騒動を聞きつけた御者が、馬車を停止させて怪訝そうに尋ねてくる。 やっべ という顔をした黒髪の女(イリス)は、すぐに楚々とした表情を取り繕った。</p><p>いえ……もうお会いすることは叶わないとばかり思っていた、古い顔馴染みの方がいらっしゃったものですから。少々取り乱してしまいました</p><p>つば広の帽子の角度を直しながら、口元に手をやって上品に笑う。その立ち居振る舞いは先刻とまるで別人だ。カメレオンのごとき鮮やかな変わり身にケイとアイリーンは唖然とした。</p><p>さあ、ケイさん……それに、お連れの方も。ぜひ一緒においでになって。積もる話もありますし、旧交を温めましょう？</p><p>うふふふふふと笑いながら、手招きするイリス。ケイとアイリーンは胡散臭そうに顔を見合わせた。アイリーンが（マジで誰だよ）と目で尋ねてきたので、 わからん と口を動かし答えるケイ。</p><p>……それでは、先約がありますので、僕はこのあたりで……</p><p>愉快そうに状況の推移を見守っていた吟遊詩人のホアキンが、さも残念そうに口を開く。</p><p>（お話、期待してますよ）</p><p>これから何が起きるのか―あとで聞かせてくださいよ？　とばかりにニッコリと笑い、ケイに耳打ちしてから去っていくホアキン。</p><p>あとに残されたのは、困惑気味のケイと、訝しげなアイリーンと、微笑みながら手招きするイリスと。</p><p>……ケイさ～ん？　いらっしゃらないの～？</p><p>相変わらず貼り付けたような笑顔のイリスだが、いつまで経っても動かないケイたちに焦れたような気配を滲ませる。</p><p>ああ……いや、お招きにあずかろう</p><p>気を取り直し、ケイは答えた。</p><p>イリスが何者かはわからないが、“死神日本人”というケイのニックネームを知っていることから、間違いなく DEMONDAL の関係者だ。そして他の転移者を探していたのはケイたちも同じ。まさかこのような、貴族の令嬢じみた人物だったとは予想外だが……</p><p>よかった。わたくしのことを覚えていらっしゃらなかったら、あるいは人違いだったらどうしたものかと……</p><p>ケイが応じたことで、イリスもホッとしたような表情を浮かべる。馬車からメイド服を着た側仕えと思しき女が出てきて、ケイたちに一礼しつつ乗車するよう促した。</p><p>（覚えてないというか、マジで誰なのかわからんのだが……）</p><p>胸の内でひとりごちつつ、肩をすくめたケイは、アイリーンともども馬車にお邪魔することにした。</p><p>御者が鞭を入れる。カタカタと車輪の音を響かせ、滑るようにして馬車は動き出した。イリスと同乗していたメイドは気を遣って御者台に移動したようだ。主人(イリス)の知己と並んで座るわけにはいかない、という配慮だろう。そんなに気を遣われるとケイは少々申し訳なく思ってしまうが、アイリーンは気後れなど一切ない様子で、しげしげと興味深げに車内の装飾などを眺めていた。</p><p>豪勢な馬車だ。俗に『キャリッジ』と呼ばれるタイプの箱馬車。貴族の家で使われるような立派なもので、窓には上質な透き通ったガラスがはめられ、座席にはビロード張りのふわふわなクッションが敷かれている。窓際で揺れる臙脂色のカーテンには、金糸で細やかな刺繍が施されていた。おそらくはサスペンション付きなのだろう、舗装された道を走っていることもあり乗り心地もすこぶる良い。</p><p>思えば、こちらの世界に来て以来、これほどきちんとした馬車に乗るのは初めてではなかろうか。隊商護衛で同乗したのは行商人御用達の荷馬車ばかりだった。馬車の格が違うと、こうも変わってくるものなのか。</p><p>ええと……</p><p>感心するケイたちをよそに、イリスはつややかな黒髪の毛先をいじりながら、何やら思案顔だ。その視線はケイとアイリーンを往復している。</p><p>……お久しぶりね？　今さらですけれども、お邪魔だったかしら。こんな綺麗な方といっしょのところを、無理に誘ってしまったみたいで</p><p>そして、少しためらいがちに愛想よく話しかけてきた。ちらちらと横目でアイリーンの様子を窺いながら―</p><p>……ああ、そういうこと</p><p>察しのいいアイリーンはすぐにピンときた。勢いでケイを馬車に招き入れたはいいものの、見知らぬ同行者がいるせいでゲームの話を切り出しづらい。遠回しにアイリーンが何者なのか探りを入れようとしている―そんなところだろう。</p><p>気ぃ遣わなくてもいいぜ。オレも DEMONDAL のプレイヤーだし</p><p>えっ</p><p>目を見開いたイリスはまじまじとアイリーンの顔を見つめていたが、不意に気が抜けたようにへにゃりと脱力した。お嬢様然とした仮面も剥がれ落ちる。</p><p>はぁ～～助かったぁ～～……勢いで招いたけど、『内密な話があるからあなたは帰ってくださる？』なんて言えないし、ホントどうしようって思ってたのよね</p><p>顔に書いてあったぜ</p><p>ふふ、ご明察よ。ケイ、この人もゲーム内のフレンド？　誰？</p><p>それよりまず、お前が誰なのか、教えてもらいたいところだ</p><p>やたら馴れ馴れしいイリスに、腕組みしたケイは苦笑を返す。</p><p>あらごめんなさい。えーと、覚えてない？　何度も戦ったことがあるんだけど。ウルヴァーン周辺で追い剥ぎやってたプレイヤーキラー……豹人(パンサニア)で投石器(スリング)を使うヤツがいたでしょ</p><p>ケイの脳裏に、黒い毛並みの豹人(パンサニア)の姿がよみがえった。今となっては懐かしい、ゲーム時代の思い出―</p><p>いたな、そんな奴が。まさかとは思うが</p><p>はーい、あたしでーす！</p><p>にぱーっと笑いながら、イリスが帽子を取り払う。露わになった頭頂部には―ぴょこぴょこと動く黒毛の獣耳。ケイの目が点になった。</p><p>うおっ、何それ！</p><p>即座に食いついたのはアイリーンだ。</p><p>すげえ！　本物？</p><p>本物よ～、誠に不本意ながら</p><p>へぇー、ゲームのアバターに精神が引っ張られて、耳だけ残った感じか</p><p>え？　た、たぶん？　そうかも……？</p><p>人間の耳はどうなってんだ？</p><p>そっちはついてないわ。ゲーム時代に慣れてるから平気だけど</p><p>そうなんだ……めっちゃピコピコするじゃん。触ってみていい？</p><p>えっ。いいけど……くすぐったいから優しくね？　おうっ</p><p>早速、耳の穴に指を突っ込まれたイリスが悶絶している。ケイはアイリーンが楽しげに猫耳娘を弄り倒すさまを、穏やかな気持ちで眺めていた。</p><p>（いや……イリスは豹人(パンサニア)か。ということはアレは猫耳ではなく豹耳と解釈すべきだ……）</p><p>ひとり納得しつつ、うんうんと頷くケイ。</p><p>ちょっと！　優しくって言ったでしょ！　っていうかそもそもアンタは誰なのよ、アンタは！？</p><p>アイリーンを引き剥がして、我に返ったようにイリスが問う。</p><p>あ、オレ？</p><p>そうよ！　顔には見覚えないけど……</p><p>オレは、その、“NINJA”アンドレイだよ。名前くらい聞いたことあるだろ……</p><p>少し気恥ずかしそうに、ぽりぽりと頬をかきながら答えるアイリーン。イリスはきょとんとしていたが、金髪碧眼、その顔立ち、そしてケイと同時に消息不明になった有名プレイヤー”NINJA”アンドレイ、それら全てが一本の線でつながり、徐々に驚愕の表情へと変わっていく。</p><p>―あえええええッ！？　NINJA！？　NINJAなんで！？</p><p>それ以上は言葉にならず、口をパクパクと動かしたイリスは、ビシッとアイリーンを指差す。</p><p>―女じゃん！</p><p>実はそうなんだよ。人族の女キャラって筋力低いからさ……男キャラでやってて……リアルの性別ひけらかす必要もないし……</p><p>あ……そっかぁ。なるほどね。まああたしも、だから豹人(パンサニア)使ってたんだけど</p><p>豹人(パンサニア)は、♀の方が♂よりも身体能力に優れる種族だ。単純な身体能力ならば人族の男を超えるムキムキな脳筋キャラが作成できる代わりに、ゲーム内では人族のNPC全てと敵対してしまい、商店や鍛冶屋など街の施設が利用できないという欠点があった。</p><p>加えて、豹人は DEMONDAL のパッケージ版の特典であり、わざわざそれを購入してまで使う酔狂なプレイヤーは数えるほどしかいなかった。『豹人のプレイヤーキラー』と言われて、 ああ、あいつか とすぐにわかったのはそういう理由だ。</p><p>……ええっと、じゃあ、あなたのことはどう呼べばいいのかしら？　アンドレイは変だし……</p><p>本名はアイリーンだよ。ロシア人さ</p><p>アイリーンね、了解……そういえばあたしも自己紹介がまだだったわね。イリスよ。出身はスペイン</p><p>何とはなしに、二人の視線がケイに向けられる。</p><p>どうも、ケイだ。出身は日本</p><p>流れに合わせ真面目くさって挨拶すると、アイリーンとイリスがくすくす笑う。本当に、今更な話だった。</p><p>はぁ。とりあえずケイが見つかってよかったわ……</p><p>ホッとした様子のイリス。しばし、車内に弛緩した空気が流れる。</p><p>改めてよろしく。それにしても『あたしよ！　イリスよ！』なんて、いきなり言われてもわかるわけないだろ……ゲーム内ですら名前知らなかったのに</p><p>そうなんだけど、いきなり見かけたもんだからちょっと動転しちゃって……いやホントにそのとおりなんだけど……</p><p>今になって恥ずかしくなってきたのか、赤くなった顔を帽子で隠すイリス。頭頂部の豹耳もへにゃりと倒れている。ゲーム内では殺し合いばかり、でじっくり観察する機会もなかったが、こうしてみるとなかなか可愛げのある耳だ。</p><p>しかし、 DEMONDAL の世界において、こんな獣耳を生やした人間は一般的ではないはずだ。この耳を『可愛い』と好意的に解釈できるのは、サブカルに馴染みのあったケイやアイリーンのような異世界人だけではなかろうか？　この世界の住人は、どのように受け止めるのか。ひょっとすると耳のせいで白眼視されるのではないか？　それにしてはお嬢様のように扱われているのはどういうことだ―と、そこまで考えて、ふと思い浮かんだのは先日酒場で耳にした吟遊詩人の歌。</p><p>流浪の魔術師と、獣化の呪いをかけられたお姫様の物語―</p><p>なあ、酒場で聴いたんだが……</p><p>ケイが尋ねると、 あ～ とますます恥ずかしそうなイリス。</p><p>それ、あたしです……</p><p>やっぱりか</p><p>ケモミミ生やしたお嬢様が何人もいるかって話だよな</p><p>順当！　と頷くアイリーン。</p><p>いったい、なんだってそんなことになったんだ？　ひょっとすると流浪の魔術師とやらもお仲間か</p><p>そうよ、彼もね―</p><p>イリスが説明しようとしたところで、馬車の速度が緩む。窓の外を見れば、立派な屋敷の門をくぐるところだった。</p><p>……話はまたあとにしましょう。あたし、ちょっとお姫様に戻るから</p><p>帽子をかぶり直し、イリスは俯いて あたしはお姫様、あたしはお姫様…… とブツブツ呟き始める。いささか病的なものを感じさせる光景だったが、馬車が停まるころには、そこには楚々とした微笑みを浮かべる令嬢の姿があった。</p><p>お嬢様</p><p>ありがとう、ヒルダ</p><p>馬車の扉を開け手を差し出すメイド―『ヒルダ』というらしい―に礼を言いながら、イリスが馬車を降りていく。ケイたちも続いた。</p><p>おかえりなさいませ、お嬢様</p><p>執事と思しき男がうやうやしく三人を出迎える。アルカイック・スマイルを浮かべた、落ち着いた雰囲気の白髪の老人だ。執事はイリスに一礼してから、ゆったりと頭を巡らせ、ケイとアイリーンにも会釈した。</p><p>お客様ですね</p><p>ええ。古い顔馴染みの方よ。まさかこちらにいらっしゃったなんて……ぜひお茶でもと。『コウ』は？</p><p>ご在宅にございます</p><p>そう。では彼にも知らせて頂戴</p><p>たおやかに微笑むイリスに、 かしこまりました と一礼し執事が屋敷に下がっていく。</p><p>ほほぅ……</p><p>その姿を見て、アイリーンは思わず唸る。動きそのものは素早いのに、雰囲気はごくごくゆったりとしたもので、全く急いでいるように見えないのだ。年季を感じさせる、洗練された足取りだった。まさしくプロ―執事としての所作を極めていると言ってもいいだろう。それが分野は違えど、身体操作に一家言あるアイリーンの琴線に触れたのだった。</p><p>（感じの良い人たちだな）</p><p>一方で、ケイも執事やメイドの態度に感心していた。今日は、そのへんを適当にぶらつくつもりで、吟遊詩人のホアキンと話をする以外には特に用事もなかった。当然ケイたちの身なりもそれに相応しく、ド庶民の格好だ。貴族街に似つかわしくないどころか、この屋敷の中で、使用人たちを含めて最もみすぼらしい服装と言っても過言ではないだろう。</p><p>だが、馬車に同乗していたメイドも、先ほどの執事も、全く表情を変えない。目の奥に侮りの光もない。草原の民風の容姿である都合上、差別意識に敏感なケイでも微塵も不快さを感じないのだ。内心どう思っているかはさておき、それを決して表に出さないプロ意識は称賛に値する。メイドも執事も、かなり厳しい訓練を受けた一流の人材に違いない。</p><p>（ただ、そんな人材が集まるとなると―）</p><p>この屋敷の持ち主は、相応の人物ということになる。敷地が限られた市壁内にこれだけ立派な屋敷を構えているのだ、さぞかし力のある―</p><p>（いや待て、たしか例の『流浪の魔術師』は領主の庇護を受けてる、って話じゃなかったか……？）</p><p>先ほどホアキンが別れ際にそんな話をしていたような気がする。もしそうなら、この屋敷は領主の別邸か、あるいはその係累のものか。</p><p>思わずケイがアイリーンを見やると、こちらも薄々何かを察したのか、意味深な視線を向けてくる。</p><p>さあ、お二人とも、遠慮なさらないで</p><p>うふふ、と上品に笑いながらイリス。 あたしはお姫様、あたしはお姫様…… と自己暗示をかけていた姿が脳裏に蘇る。</p><p>きっと苦労してるんだろうなぁ、とケイは他人事のように思った。半ば開き直りに近い心境で、屋敷に足を踏み入れる。</p><p>鬼が出るか蛇が出るか、『流浪の魔術師』とやらにお目にかかって話を聞くのが楽しみになってきた。この世界にやってきて『大冒険』をしたのは、どうやら自分たちだけではなさそうだ……</p><p>プロットではもっとサティナでのんびりさせるつもりだったんですが、ほのぼのパート飽きてきたんで、ぼちぼち地獄の門を開こうと思います。</p><p>80. 交流</p><p>前回のあらすじ</p><p>イリス あたしよ！　イリスよ！！</p><p>イリス アエエエエエ！　NINJA！</p><p>イリス あたしはお姫様お姫様……</p><p>イリス うふふふふ</p><p>ケイ（苦労してるんだろうなぁ）</p><p>たおやかに微笑むイリスが、ケイたちを屋敷へと誘う。</p><p>正面の扉を抜けると広々としたホール。貴族の館にしては飾りすぎず、それでいて上品な、格式高い空間だった。</p><p>どこかエキゾチックな雰囲気を漂わせる床には、白と青のタイルが散りばめられ、幾何学的なモザイク模様を描いている。しっかりと磨き上げられたタイルはまるで宝石のように光り輝き、無粋なケイのブーツでは、踏み入るのがためらわれるほどだった。</p><p>モザイク模様の、放射線状に広がるデザイン―その図柄を目で追ったケイは、自然、導かれるようにして壁面を見やる。ホールの両面の壁と、正面の階段の踊り場には、それぞれ一枚ずつ巨大な絵画が飾られていた。</p><p>向かって左手側の絵は、どうやら海辺の街を描いたものらしい。</p><p>青い海、晴れ渡った空、賑わう埠頭、所狭しと香辛料や衣料品が並ぶフリーマーケットに、大小様々な帆船。ウミネコの鳴き声や市場の喧騒が潮風に乗って運ばれてきそうな、ダイナミックで臨場感に満ち溢れた作品だ。</p><p>翻って右手側の絵には、岩山に囲まれた鉱山都市が描かれていた。</p><p>色鮮やかで開放的だった港町とは対照的に、植物の緑もほとんどない赤褐色の山肌が、荒れ地じみた寂寥感を投げかけている。だが、そんな厳しい環境をものともせず、家屋から伸びる煙突はもうもうと黒煙を吐き出し、そこに根付く人々の営みが熱気とともに伝わってくるかのようだ。</p><p>最後に正面。</p><p>風景画だ。ゆるやかに蛇行する大河と、はるか地平にうっすら浮かぶ山脈。街道を行き交う馬車、まるで要塞のよう巨大な城、そしてそれを取り囲む都市―どこか見覚えのある景色。</p><p>ウルヴァーン……</p><p>アイリーンが呟く。それはまさしく、かつて自分たちが滞在していた公都『要塞都市ウルヴァーン』そのものだった。</p><p>……なるほど</p><p>続いて、ケイも気づく。両側の風景画も公国の『四大都市』を描いたものであることに。おそらく左手が『港湾都市キテネ』、右手は『鉱山都市ガロン』だろう。要塞都市ウルヴァーン、城郭都市サティナとあわせて、国内で最大規模を誇る都市だ。</p><p>そしてサティナは、他三つの都市を結ぶちょうど中間地点に位置している。</p><p>北にはウルヴァーンが、西にはキテネが、東にはガロンが―おそらくホールに飾られているこれらの風景画も、それぞれの方角に対応しているのだろう。絵そのものの芸術性もさることながら、なかなか粋なディスプレイじゃないか、とケイは感心した。</p><p>と同時に、この屋敷がサティナ領主の別邸、あるいはその係累のものである可能性が非常に高くなった。普(・)通(・)の(・)貴族は多分ここまでしないだろう。</p><p>それではまた、後ほど……</p><p>馬車からずっと付き従っていた側仕えのヒルダを連れて、楚々とイリスが去っていく。 え とその場に取り残されたケイたちだったが、すぐに別のメイドが現れ、 こちらへ と案内してくれた。</p><p>ホールを抜け、中庭に面した回廊を行く。この屋敷は、上から見るとロの字型をしているようだ。中庭にはダリアやジニアに似た季節の花々が咲き乱れている。 きれいだな と口元をほころばせるアイリーンをよそに、ケイは一部の植物に目を留めて（あれは低級ポーションの材料では？）などと考えていた。どうやら薬草園も兼ねているらしい。</p><p>そのまま小さな談話室に通される。窓から中庭が見える日当たりの良い部屋だ。すでに別の使用人が控えており、ソファに腰掛けたケイたちに茶を淹れたり焼き菓子を供したりと、甲斐甲斐しく給仕(サーブ)してくれる。</p><p>本当に、かつてないほど快適だ。</p><p>イリスがいなくなって使用人たちの態度が豹変する―などということもなく、完璧な愛想の良さを維持。ほどよい距離感で接し、ローテーブルに食器を置く際にはほとんど音も立てず、ティーカップの取っ手は持ちやすいようにこちらに向けられていて、紅茶は少し熱めの適温だ。</p><p>そして給仕が済めば部屋の隅で待機。何かあったら声をかけてもらえるよう視界内に留まりつつ、全くプレッシャーを感じさせない自然体。</p><p>プロだなぁ……とケイは感心した。どのような職業であれ、極限まで洗練された所作とプロ意識は尊敬の念を生む。</p><p>うまいなコレ</p><p>うまい</p><p>とはいえ、今のケイたちにできるのは、焼き菓子をモシャモシャと頬張って舌鼓を打つくらいのことだったが。</p><p>ごきげんよう。お待たせいたしましたわね</p><p>中庭の噴水を眺めつつのんびりしていると、イリスがやってきた。どうやら着替えていたらしい、先ほどの白いドレス姿ではなく少しラフな格好をしていた。―といっても、紫がかった色合いの仕立ての良いワンピースで、ケイたちの服装とは比べ物にならないほど上等なものだ。</p><p>ケイたちの対面のソファに、ふわりと優雅に腰掛けるイリス。いつの間にか傍らに控えていたメイドがスッとカップを差し出し、イリスもごく自然に受け取って口に運ぶ。実に様になっていた。</p><p>すぐに『コウ』も来るでしょう。彼も驚いていらしてよ</p><p>くすりと笑うイリス。おそらくツレの”流浪の魔術師”のことだろう。ケイは曖昧に頷くにとどめた。</p><p>しばし、紅茶を飲みながら他愛ない雑談にふける。主に場を取り持つのはイリスだ。 今までどうしていたのか いつ頃から『こちら』に来ていたのか といった、当たり障りのないことを迂遠な言い回しで尋ねてくる。メイドたちの前では踏み込んだ話を避けようとしているのは明白で、ケイとアイリーンも無難に受け答えに終始した。</p><p>―そして五分も経たないうちに、部屋のドアがノックされる。</p><p>イリス様、『知り合い』がこっちに来たとのことですが……おおっ！</p><p>ひょっこりと顔を覗かせたのは、これといった特徴に乏しいアジア系の顔つきの男だ。サスペンダーつきのスラックスに白いシャツ、青色のベストという服装で、小綺麗にまとまった感じからは なんとなく家庭教師っぽいな という印象を受けた。</p><p>びっくりしたでしょう？　コウ</p><p>イリスがいたずらっぽく笑う。男は、ケイを見て目を丸くしていたが、すぐに気を取り直し、愛想のいい笑顔でこちらに手を差し出してくる。</p><p>これはこれは、いやはや何たることだ！　―『久しぶりだね。それとも初めましてと言うべきかな？　日本語は通じてるよね？』</p><p>Ah… yeah, 『あー、えっと、はい』</p><p>覚悟はしていたが、突然の日本語に脳が混乱する。ケイはどもりつつも、どうにかソファから立ち上がってコウと握手を交わした。</p><p>『……大丈夫です。その、日本語もなんですけど、ちょっと敬語が久々で』</p><p>『はっはっは、気持ちはわかるよ。僕も錆びついてないか心配でね』</p><p>苦笑する男―『コウ』の顔を、ケイは思わずまじまじと見つめてしまう。なぜなら『典型的な東アジアの顔』を本当に久しぶりに目にしたからだ。こちらの世界のアジア系といえば草原の民だが、彼らの肌は浅黒く、濃い顔立ちで、いわゆる醤油フェイスの日本人とは趣が異なる。</p><p>さらに言うなら現在のケイ自身の顔も、 DEMONDAL の草原の民のアバターに手を加えたものだ。多少、というか、かなり日本人のそれとはかけ離れている。コウの顔立ちに懐かしさを覚えてしまったのだ。</p><p>『さて、申し訳ないけれども、感動の再会を果たした旧知の仲って雰囲気で頼む。怪しまれたくないからねぇ……』</p><p>ぽんぽん、とケイの肩を叩いて、コウがイリスの隣に座る。まるで遠い昔を懐かしむような表情と語り口。日本語がわからない者には、思い出話をしているようにしか見えないだろう。</p><p>『わかりました。といっても、あまり演技には期待しないでください……大根役者なんで自分……』</p><p>ケイも神妙な面持ちで返す。一瞬、黙って顔を見合わせたが、あまりの白々しさに耐えきれず二人して吹き出してしまった。</p><p>からからと笑うケイとコウを、アイリーンとイリスは愉快そうに見守っている。一方で、控えていたメイドたちは、未知の言語で話し始めたケイたちに面食らったような雰囲気を漂わせていた。</p><p>『……僕たちの会話は四六時中、彼女らに聞かれているからね。イリスとも滅多なことが話せなくて苦労してたんだ。その点、我々の言語は最強の暗号として機能する。非常に助かるよ』</p><p>『まさかこっちで日本語が役に立つとは思いませんでした』</p><p>『全く同感だ。あ、もし僕の言葉で、わからないところがあったら遠慮なく言ってくれ。本当は英語の方が得意なんだ』</p><p>『……もしかして、日系の方ですか？』</p><p>『そう、二世でね―』</p><p>メイドから紅茶のカップを受け取ったコウが、おもむろにイリスとアイリーンを見やる。</p><p>失礼しました。御二方を退屈させてしまいまして</p><p>いいえ。構いませんのよ、本当に久しぶりなんですもの。ゆっくりと旧交を温められてはいかが</p><p>ありがたくそうさせていただきます。しかしその前に……初めまして。魔術師のコウと申します</p><p>胸に手を当てて、コウが一礼する。もちろんアイリーンに向けてだ。</p><p>直(・)接(・)会(・)う(・)の(・)は(・)初(・)め(・)ま(・)し(・)て(・)、というべきかな。アイリーンだ。“NINJA”と言えばわかってもらえるか</p><p>アイリーンもニヤリと笑って答える。</p><p>コウは再び目を丸くし、 なるほど…… と呟いた。“死神日本人”と同時期に姿を消した有名プレイヤー、“NINJA”アンドレイ―</p><p>あなたが……そうか。ずいぶんと、その、お変わりに。まあ、僕らも人のことを言えた義理ではありませんがね。そうなると、ケイは本当に変(・)わ(・)ら(・)な(・)い(・)なぁ……</p><p>とらえどころのない表情で、コウがぱちぱちと目をしばたかせる。ケイの容姿がアバターと完全一致していることに違和感を覚えたようだ。</p><p>まあ、それは……『追々話すとして。すいません、コウさんって彼女(イリス)のお仲間ですよね？　具体的にどの人だったんです？』</p><p>『ああ、すまないね、先に言っとくべきだった。一人、ヒゲもじゃの魔術師がいただろう。アレだよ』</p><p>コウが焼き菓子をつまんで、欠片を空中に差し出す。ふわりと燐光が漂ったかと思うと、どこからともなく現れた妖精が美味しそうにぱくつき始めた。</p><p>それを見てケイも思い出す。イリスの仲間の一人、杖術に長けた妖精使いのプレイヤーキラーのことを。たしか妖精の名前は『ダルラン』だったか。馬の知覚狂わせる幻術と、大弓の矢をいなす杖術に手を焼かされた記憶がある。</p><p>『思い出しました。幻術で馬がひっくり返って即死したことがありますよ、アレには参りましたね』</p><p>『あったねー。僕が直接きみを撃破したのはあれが最初で最後じゃないかな。あの節は誠にご迷惑をおかけして……』</p><p>『いやいやいや』</p><p>真面目くさって頭を下げるコウと、それを止めるケイ。もちろん冗談だ。</p><p>『しかし、噂では氷の精霊とも契約されていると聞きましたが、ゲーム内じゃ妖精の魔術だけ使ってませんでした？』</p><p>『きみがいなくなった直後にね、氷の精霊を見つけて契約したのさ。……おかげで今は、領主のお抱え魔術師兼、冷蔵庫製造マシーンとして活躍しているよ』</p><p>『あっ、それは……』</p><p>ケイは察した。ゆえに今のこの待遇があるのだろう、と。食料諸々の長期保存を可能とする氷の魔術師が、この世界においてどれだけ重要視されるか、想像に難くない。</p><p>『……えっと、確かあと一人、お仲間がいませんでしたか？　竜人(ドラゴニア)の』</p><p>何やら遠い目をするコウに、話題を変えようと、ケイは続けて尋ねる。</p><p>イリスたちはならず者の三(・)人(・)組(・)だった。コウとイリスがセットで転移しているということは、残り一人―竜人(ドラゴニア)のメイス使いもこちらに来ているのではないか、と考えたのだ。</p><p>ああ―</p><p>コウは、自然に肩をすくめる。</p><p>『彼とは、はぐれてしまったんだ。今はどこにいるのか、見当さえつかない』</p><p>『あ、そうなんですか』</p><p>『こちらに来た直後は一緒だったんだけどね。でも僕たちも混乱していたし、彼もその、情緒不安定だったというか。気がついたら消えてたよ。しばらく探してみたけど、完全に行方不明さ』</p><p>『そうでしたか……』</p><p>淡々とした口調で語るコウに、ケイはそれ以上言及するのがはばかられて、口をつぐんだ。</p><p>『まあそれよりも、だ。他にも話したいことはある』</p><p>コウが前のめりになるようにして、ソファに座り直す。</p><p>『なぜ僕らはこの世界に来てしまったのかとか、どうやらこちらと向こうでは時間の流れが違うらしいとか……それにしてもケイくん、本当に以前のままなんだね。きみだけゲームから飛び出してきたみたいだ』</p><p>『ああ、これですね』</p><p>改めて指摘され、ケイはぺたりと自分の顔を撫でた。</p><p>『こっちに来たばかりのとき、アイリーンも驚いてましたよ』</p><p>『ふむ。僕のこの姿はリアルのままだけど、イリスはなぜか耳と尻尾が残った。彼女(アイリーン)はどうやらリアル寄りの姿になっているみたいだが、きみは完全にゲームのままだ。……どんな法則があるんだろう』</p><p>『あー……』</p><p>今度はケイが肩をすくめる番だった。</p><p>『魂の姿、といいますか……自分で自分をどう思っているか、に依るらしいですよ。彼女(イリス)はけっこうゲームをやり込んでたみたいですし、猫耳の聴覚や尻尾の感触にも馴染みすぎていて、こちらの世界で受肉した際に耳と尻尾も再現されてしまったんでしょう。俺の場合は……寝たきりの病人で、ゲームの世界に半ば住んでたので。魂が完全に、この姿を自分と認識していたようです』</p><p>淀みのないケイの語り口に、コウの眉がぴくりと跳ねた。</p><p>『……随分と確信があるみたいだね。伝聞調なのも気になる』</p><p>『まあ……実は、別の世界からやってきた上位存在みたいヤツと遭遇しまして』</p><p>色々教えてもらったんですよ、というケイの言葉に、コウが目を輝かせた。</p><p>『すばらしい！　そんなことが。僕らもこの世界について色々調べを進めていたんだけど、ほとんど手詰まり状態だったんだ。ぜひ聞かせてほしいな、その上位存在とやらの話を。僕らは―』</p><p>不意に、コウが問う。</p><p>『―僕らは、どうやったら元の世界に帰れるんだろう？』</p><p>ケイは、返答に窮した。</p><p>81. 共有</p><p>前回のあらすじ</p><p>コウ 僕ら、どうやったら元の世界に帰れるんだろう？</p><p>ケイ あっ……（察し）</p><p>『どうやって帰るか、ですか』</p><p>『……おかしいかい？』</p><p>苦虫を噛み潰したようなケイに、コウは怪訝な顔をする。</p><p>『正直、今現在、いい暮らしをさせてもらっているけどね、あくまでこちらの世界基準なわけだ。イリスも僕も、地球に帰るのを第一目標にしている―』</p><p>そこでふと、コウは口をつぐむ。何かに気づいたように。気遣うように。</p><p>『―寝たきりの病人だった、って言ってたっけ。きみは、帰りたくないのか』</p><p>『俺ひとりだったら、そうだったんでしょうけど』</p><p>ケイはちらりと、隣のアイリーンを見る。</p><p>『彼女がいましたから。元の世界に帰れるかどうか、それも調べていました。その過程で北の大地―雪原の民の国まで出向いて、件の上位存在に会ったんですよ』</p><p>『なるほど。それで、帰還方法については』</p><p>『……結論から言うと、』</p><p>心苦しく思いながらも、ケイは告げた。</p><p>『……地球の俺たちの体は、もう死んでる可能性が高いそうです』</p><p>†††</p><p>屋敷を出る頃には、すでに日が傾いていた。</p><p>ケイがことのあらましを語り終えるには、それだけの時間を要したのだ。</p><p>そしてコウが話の内容を噛み砕き、理解するのにも。</p><p>―それを受け止めるのにも。</p><p>……やっぱ、ショックだよな</p><p>こつん、と小石を蹴飛ばしながら、アイリーンが言った。ケイと並んで、二人の影法師が長く伸びている。ふらふら、ぶらぶらと。どこか力ない足取りで。</p><p>……</p><p>ケイは無言で頷く。地球への帰還は絶望的―そう告げられたコウは、当初の紳士的な振る舞いからは想像もつかない狼狽っぷりを見せた。</p><p>無論、すぐにケイの話を信じたわけではない。詳しい事情―ケイたちの冒険譚に黙って耳を傾けたあと、ただ短く、『それを信ずるに値する証拠は』と問うた。</p><p>困ったのはケイだ。証拠を出せと言われても、そんなものはない。</p><p>―胸ポケットにしまってある、指輪を除けば。</p><p>“魔の森”で特典としてもらった、『一度だけオズを呼び出して願いを叶えてもらえる』魔法の品だ。</p><p>当然、コウに話を信じてもらうためだけに、この貴重な力を使えるはずもない。そこでケイが利用したのは精霊だった。この世界の精霊は嘘を見抜く。他でもないコウの契約精霊、妖精の『ダルラン』に、ケイの言葉に嘘偽りがないことを確認してもらったのだ。</p><p>それでも、『ケイが嘘を言っていない』ことがわかるだけで、『“魔の森”でオズから聞いた情報が全て正しい』証明にはならない。ケイにできたのは、オズから伝え聞いた推測―『地球の肉体はおそらく死亡している』『世界を渡るには膨大な魔力が必要』『ケイたちを呼び出したのは、おそらく時の大精霊カムイ』―を、そのまま伝えることだけだった。</p><p>それで納得できないなら、仕方ない。</p><p>自ら”魔の森”に直接確認しに行けばいい。ケイは同行するつもりはないが、北の大地へ旅立つというならば、地形やルートなど情報面での最大限の支援を約束した。もちろん、現地であった馬賊の襲撃と、草原の民を想起させる対アジア系感情の悪化まで話した上で。</p><p>―コウは、しばらく頭を抱えて動かなかった。</p><p>気持ちはわかる</p><p>腕組みして、嘆息するケイ。</p><p>逆の立場だったら、俺だって『はいそうですか』と信用する気にはなれない。プレイヤー同士で顔(・)見(・)知(・)り(・)といっても、通りすがりに殺し合う間柄だったからな</p><p>信用以前の問題だ、と思わず苦笑い。</p><p>だが、俺が嘘をついている可能性は精霊によって否定されている。精霊まで信用できないとなると、それはもう世界の仕組みそのものが疑わしいということ。かといって、自分で真偽を確かめに行こうにも、北の大地は遠く、道のりは険しい。……八方塞がりだな</p><p>コウの旦那は、オレたちみたいにフットワーク軽くねえからなぁ</p><p>アイリーンが肩をすくめる。</p><p>今現在、コウは難しい立場に置かれていた。</p><p>かいつまんで事情を聞いたが、当初、タアフ村でケイと思しき人物の情報を手に入れたコウとイリスは、サティナで装備を整え、ケイを追いウルヴァーンに向かう予定だったらしい。</p><p>が、資金調達のためコウが氷の魔術を解禁し、大きめの商会に目星をつけて売り込みをかけたところ、それがたまたま領主御用達の系列で、あっという間に唾を付けられ、気がつけば恩の押し売りで身動きが取れなくなっていたそうだ。</p><p>『うっかり安定しちゃったから、ますます動きづらくてね……』</p><p>旅にはリスクが伴う。ときには命の危険さえも―安定した生活を捨て去るにはかなりの勇気が必要だ。</p><p>そして、もともとコウは安定志向の人間だった。</p><p>彼にとって、 DEMONDAL とそのシビアな世界観はあくまでストレス解消目的の娯楽に過ぎず、『生きていく』場所としては決して魅力的ではなかったのだ。真っ当に社会人として過ごしつつ、鬱憤を晴らすためPK(プレイヤーキラー)行為に走っていた―ただ、それだけ。重度の寝たきりで元から DEMONDAL に暮らしていたケイと、仮想世界に引きこもっていたアイリーンとは事情が違う。</p><p>いくら魔術が使えようと、貴族のような生活が約束されようと。</p><p>コウはファンタジー世界での暮らしなんて、求めちゃいなかった。</p><p>―そしておそらく、イリスも同様に。</p><p>彼女(イリス)の場合、ケモミミに尻尾まで生えるわ、人前だと猫かぶらなくちゃならんわで、堪ったもんじゃねえだろうな</p><p>全くだ。お姫様のフリもよくやるよ</p><p>当初はその場しのぎの方便だった『イリスお姫様』作戦も、なまじイリスが名家のお嬢様育ちだったため、なんだかんだボロを出さないまま上手くいってしまい、継続しているらしい。というか、今更 嘘でーす！ とは口が裂けても言えない雰囲気で、最近は見合い話まで出てきて苦労しているのだとか。それも相手は木っ端貴族の次男・三男や、ケモミミに大興奮の紳士がメインだそうだ……</p><p>しかし、流石にイリスも何かおかしいって気づいたみたいだな。ほとんど演技もせずにコウを心配そうに見てた。目の前に座ってたからよくわかったぜ</p><p>そう……だな。まあコウがあからさまにショック受けてたし、薄々内容も察しがついたんだろう</p><p>ケイとコウはずっと日本語で話していたので、その間アイリーンとイリスは放置されていた。だが、申し訳無さそうなケイと、みるみる顔色が悪くなっていくコウに、イリスが何を思ったか―少なくとも不安は覚えただろう。</p><p>今頃はコウからは説明を受けて、一緒に頭を抱えているかもしれない。</p><p>周囲が、賑々しくなってきた。</p><p>話しているうちに貴族街を抜けていたようだ。大通りを横切ったケイたちは商業区へと足を踏み入れた。屋台や酒場のキッチンからは、食欲をそそる香りが漂ってきている。屋敷では最高級の紅茶や焼き菓子を堪能したが、今はガッツリと腹にたまるものを食べたい気分だった。</p><p>現在ケイたちが泊まっている宿屋は、それほど飯が美味いというわけでもないので、何か買って帰ってもいいな、と屋台を物色しつつ歩く。</p><p>あーあ、キンキンに冷えたエールが飲みてえ</p><p>酒場の酔っぱらいたちを尻目に、アイリーンがぼやいた。</p><p>コウに頼んでみるか、せっかく氷の魔術師なんだし</p><p>そうしたいのは山々だけどさ……今日のノリだととても頼めないっつーか</p><p>まあ……そうだな……</p><p>渋い顔をする二人。 元の世界に帰れないのは残念だけど、まあ元気出せよ！ などと無責任に励ませたらどれほど楽だろう。</p><p>気持ちの整理には……時間がかかるだろうからな……</p><p>自分もそうだった、とばかりにアイリーン。どこか達観したような、それでいて憐憫の情が滲むような。最初から『第二の人生』に感謝しきりで、その手の葛藤とはほぼ無縁だったケイには、安易に相槌を打つことさえためらわれた。</p><p>……俺には、かける言葉が見つからないよ</p><p>せめて、ケイたちのように、上位存在(オズ)と相見(あいまみ)えていれば、諦めもついたかもしれないが。コウたちが一念発起して、全てを放り出し北の大地へ旅立つ可能性は限りなくゼロに近い。このまま悶々と日々を過ごすのか……</p><p>あ、おっちゃん。その串焼き肉ウマそうだな！</p><p>と、アイリーンが屋台のオヤジに声をかける。</p><p>おうおう、えらいべっぴんさんじゃねえか！　味見するかい？</p><p>ありがとー！</p><p>そうしてちゃっかり、串焼き半本はありそうなデカい肉をゲットしていた。味見と称して豪快に頬張るアイリーン。</p><p>うっめー！　おっちゃん、八本くらい包んでくれ！</p><p>あいよ！</p><p>アイリーンのとびきりスマイルに機嫌を良くしながら、オヤジが串焼き肉を大きな葉っぱにくるむ。不器用にウィンクして、一本多めに入れてくれたようだ。ぐぅ、とケイの腹が大きな音を立てる。コウたちが気の毒なのは確かだが、それはそれとして腹が減っていた。</p><p>んぐ、むぐ、美味いなコレ</p><p>な。間に挟んだアプリコットみたいなヤツがいいアクセントになってるぜ</p><p>香草も効いてて、思ったより手間がかかってる</p><p>あのオヤジ、見かけによらず繊細に味付けするじゃねーか……</p><p>などと食べ歩きしながら品評会。なお、当の屋台のオヤジは、ケイの存在に気づいて 彼氏持ちかよ……！ などと悔しそうにしていた。屋台で買い物する際、それとなくアイリーンから距離を取って、他人のふりをするのが半ば癖と化しているケイだ。アイリーンが単独(ソロ)だとオマケしてもらえる可能性が跳ね上がる。尤も、この街で暮らしていくなら、この技も段々通用しなくなっていくだろう。</p><p>それはそれで―悪くない、と思えた。</p><p>今日さー、ケイたちの話、聞いてて思ったんだけどさー</p><p>夕焼けを眺めながらアイリーンが言った。</p><p>北の大地にいたとき、ケイもこんな気持ちだったのかなって</p><p>……どういうことだ？</p><p>や、全然会話がわかんなくて、こう……疎外感っていうか。オレが雪原の民相手にロシア語ではしゃいでたとき、ケイにも寂しい思いさせてたのかもな、って……そう考えたら、ちょっと悪かったな、みたいな……いや、オレなに言ってんだろ</p><p>いつもはサバサバしているアイリーンにしては珍しく、しどろもどろで要領を得ない口ぶりだ。一瞬、きょとんとしたケイは、思わず笑ってしまった。</p><p>ちょっとくらい寂しくても平気だったさ</p><p>空いている手で、アイリーンの肩をぐいっと抱き寄せる。</p><p>アイリーンが楽しそうで俺は嬉しかったよ。それに、そのあと好きなだけ、一緒に話せたしな</p><p>これまで、言語のせいで、歯痒い思いをしてきたことが幾度もある。雪原の民の言葉はまるで理解できないし、公国語も語彙が限られており、咄嗟の反応に詰まってしまう。冗談や叫び声の類は聞き取れないことも多い。もしも自分がネイティブなら、あるいは全て日本語なら、もっと気の利いた言い回しができたかもしれないのに、表現に困って首をかしげる必要もないのに―などと、思うことがあった。</p><p>そんなケイが、久方ぶりに饒舌に話すことができたのが、先ほどのコウとのやりとりだ。</p><p>何を言っても通じる。何を言われてもわかる。相手の冗談も、ほのかに匂わせるニュアンスも。ひたすら快適で、充実した会話だった。</p><p>その結果、相手に誤解なく情報を伝えられ、絶望を与える結果となってしまったのは、皮肉としか言いようがないが―。</p><p>俺も……今日はちょっと、はしゃいでたかもしれない</p><p>内容が内容なだけに、楽しさ一辺倒ではなかったにしても。</p><p>そっか……</p><p>頷いたアイリーンが、 ふふっ と笑った。</p><p>ケイ</p><p>ん？</p><p>これあげる</p><p>突然、口元に差し出される串焼き肉。</p><p>お、おう……ありがとう</p><p>一口かじると、そのままアイリーンがもぐもぐと二口目以降を食べ始める。</p><p>……オレ、日本語勉強してみよっかな</p><p>唐突に、アイリーンはそんなことを言った。</p><p>え？　なんでまた</p><p>だってこの世界で最強の暗号になるじゃん</p><p>ロシア語は雪原の民が理解できてしまうし、精霊語も魔術師なら聞き取れる。</p><p>だが日本語なら、ケイとコウ以外には理解不能だ。</p><p>『コニチワ』と『アリガト』しか知らねえけど、もともと興味あったしな</p><p>それならもちろん、レクチャーぐらいお安いご用だが</p><p>ホント？　じゃあ教えてくれよ、日本語で何て言うのか―</p><p>顔を寄せて、アイリーンは悪戯っぽく笑う。</p><p>―たとえば、『I love you.』とか</p><p>夕陽に染められて、その頬はほのかに紅く。</p><p>……そうだな。それは難しい質問だ</p><p>真面目くさって頷いたケイは、極めてシンプルに応える。</p><p>アイリーンの頬に手を添えて―</p><p>その『言葉』を語るには、唇さえあれば、事足りるのだった。</p><p>屋台のオヤジ キレそう</p><p>82. 野掛</p><p>※昨日も更新しておりますので、お久しぶりの方はご注意ください。</p><p>それから数日、ケイたちは平穏な日々を過ごしていた。</p><p>木工職人のモンタンと魔道具の構造について話し合ったり、リリーに精霊語(エスペラント)を教えて魔術の先生っぽいことをしてみたり、アイリーン謹製の魔道具で魔力を鍛えたり、吟遊詩人のホアキンと納品予定の魔道具の打ち合わせをしたり。</p><p>―それで、例のご令嬢の件はいったい何だったんです？</p><p>打ち合わせ時、当然というべきか、ホアキンは興味津々で尋ねてきた。</p><p>彼女は……そうだな、俺たちと同郷というべきか</p><p>かいつまんで事情を話す。実はイリスも『同じ場所』から来た人物で、向こうがケイを知っていて、思わず声をかけてきた、と。ケイもイリスのことは知っていたが、直接ご尊顔を拝してはおらず、急に話しかけられてもわからなかった―</p><p>嘘は言っていない。イリスの現実(リアル)の顔を知らなかったのは事実だ。</p><p>ホアキンは ほ～そうですか～～ と完全には納得していないことを匂わせつつも、それ以上突っ込んではこなかった。</p><p>まあ、歌にして広げようとは思いませんよ。そこはご安心を。……酒の肴くらいにはするかもしれませんが</p><p>程々に頼むよ</p><p>心得てますよ</p><p>そう言ってホアキンは笑っていた。いずれにせよ、イリスたちと付き合いが続くなら、遅かれ早かれ噂にはなるだろう。その程度なら実害はない、とケイも笑って許すことにした。</p><p>それからサスケとスズカのブラッシングをして、コーンウェル商会のホランドと家購入の進捗状況を聞いて。</p><p>イリスから連絡が来たのは、そんな折だった。</p><p>野掛(ピクニック)でもいかが？　という誘い。コウとの情報共有が終わったのだろう、改めてケイたちとも話をしたいらしい。</p><p>屋敷からの使いの者に了承の旨を伝え、さらに数日後。</p><p>ケイたちは、サティナ郊外の草原にいた。</p><p>†††</p><p>コウから事情を聞いたわ</p><p>白馬を並足で駆けさせながら、揺れる馬上でイリスが言う。</p><p>正直、まだ実感が湧かないのよね……もちろん、あなたたちを疑ってるわけじゃないんだけど……</p><p>ぽつぽつと、素の口調で語るイリス。ここでは猫をかぶる必要もない。周囲にはサスケとスズカを駆り並走するケイたち以外、付き従う者もいないからだ。これがイリスの狙いだったのだろう。</p><p>ちなみに、ピクニックに同行した使用人たちは、木立のそばにテントを張って、お茶の用意をしている。その横にはデッキチェアに座り、何やら書き物をするコウの姿もあった。今日は乗馬の気分ではない―とのことだが、おそらくは、使用人を自分の方に引きつけておき、イリスを自由にさせる腹積もりだろう。</p><p>鷹の目を凌駕するケイの視力は、ちらちらとこちらを窺い見るメイドの目の動きを、事細かに捉えていた。</p><p>はぁ……</p><p>馬の脚を止めて、ぼんやりと地平線を眺めながらイリスはため息を一つ。草原の風に黒髪がたなびく。</p><p>今日はドレスではなく乗馬服姿だ。キュッとウエストが絞られたジャケットに、ぴったりとしたズボン。首元には白いスカーフを巻き、少し大きめのトップハットをかぶって獣耳を隠している。</p><p>相変わらず、様になっていた。儚げな表情、憂いを帯びた視線も相まって、白馬にまたがる姿は一枚の絵画のようですらある。タイトルをつけるなら、『物思いに耽る騎乗の麗人』、あるいは『元の世界に帰れない衝撃を噛み締める異世界人』といったところか。</p><p>いい感じに服装がキマっているイリスに対し、ケイたちは、ほぼいつもどおりの格好だ。草原に出るということもあって、ケイは革鎧を装備しマントを羽織った狩人スタイル。アイリーンはいつもの村娘風の装いで、ベルトに護身用のダガーを差している。</p><p>（……お粗末だなぁ）</p><p>イリスと並ぶと格差が酷い。貴族並に遇されているイリスと同程度とは言わないまでも、見苦しくない程度に服飾品を揃えた方がいいかもしれないな、とケイは考えた。今後とも、イリスたちとの関係が続くならなおさらだ。</p><p>ねえ、二人は納得してるの？　得体の知れない自称『悪魔(デーモン)』とやらに、帰還は無理だって断言されて</p><p>不意に振り返ったイリスが、問う。</p><p>……納得、か</p><p>難しいな、とケイは空を見上げた。</p><p>……オズは、凄まじい力を持っていた。まさに『上位者』ってやつだった</p><p>アイリーンがぽつりと呟くようにして答える。</p><p>リアルタイムで思考を読むわ、記憶を読み取って魔力に変換するわ。挙句の果てには虚空からオレん家の冷蔵庫と、キンキンに冷えたコーラを出してきやがった。魔力で作り上げたんだぜ？　半神(デミゴッド)みたいなもんだよ</p><p>呆れたように肩をすくめてみせるアイリーン。</p><p>だが……それでいて、紳士的な態度だった。格下のはずのオレたちに対しても、な。サービス精神と好奇心、共に旺盛な異世界の隠遁者―それがオレの印象だ。悪意のある存在だったら、オレたちは生きて帰ってこれなかっただろうし、わざわざ嘘を吹き込む理由も必要もない、とオレは思う。はっきりした証拠なんてのは示せねえけど、オレから言えるのはそれだけだよ。フツーにいいヤツだった</p><p>……随分と肩を持つのね</p><p>まあー、ぶっちゃけさ。仮に悪意を隠してたとしても、オレたちにはどうしようもないワケよ</p><p>なあ？　とアイリーンに同意を求められたので、ケイも重々しく頷く。</p><p>だな。彼我の力量差がでかすぎて、対話できただけでも奇跡と言えるぐらいだ。……とはいえ、俺たちもオズの話をただ鵜呑みにしてるわけじゃない。なんだかんだで、彼の話には説得力があった</p><p>曰く、世界を渡るには膨大な魔力が必要である。</p><p>曰く、魂を失った肉体は衰弱死する。</p><p>曰く、こちらと向こうの世界では、時間の流れが違う可能性がある。</p><p>まず、世界を渡るのに凄まじい魔力が必要、というのは疑うまでもないだろう。ワープ航法みたいなものだろうし</p><p>オズは『世界を渡るには、大陸全土を耕すくらいの魔力がいる』と言っていた。オズの力があれば世界渡りも可能かもしれないが、ケイたちではそれに見合う対価を差し出せない。たとえ国中のあらゆるものをかき集めても、触媒として捧げるには足りないのではなかろうか。</p><p>そして、仮に対価を出せたとしても―</p><p>『魂を失った肉体は衰弱死する』。これも、わからんではない。そんな気はするって程度の考えだが</p><p>そもそも地球では、魂の存在を知覚することも、証明することもできなかった。その上で、理屈を抜きにして、直感的に理解しやすい話ではある。</p><p>最後に、時間の流れについては―奇しくも、俺たちの出会いで完全に証明されてしまった</p><p>ケイの言葉に、イリスは ……そうね と首肯する。</p><p>ケイたちがこの世界に転移してから、おおよそ四ヶ月が経つ。</p><p>それに対し、イリスたちがこの世界に来たのは、二ヶ月半ほど前らしい。</p><p>そして DEMONDAL 内で『ケイ』と『アンドレイ』が失踪したのは、イリスたちが転移する一週間ほど前のことだそうだ。</p><p>つまり、地球で一週間経つ間に、こちらの世界では一ヶ月半が経過していた。</p><p>オズは理論的なヤツだった。そして彼の話が本当なら、色々と辻褄が合う。彼の話に納得したか、と聞かれれば……納得した、と言わざるを得ないな、俺は……</p><p>ため息まじりの言葉は、ざぁっと吹き寄せる草原の風に紛れて消えていった。</p><p>波打つ草原の彼方に、舞い踊る”風の乙女”の姿を幻視したケイは、ふともう一つの『根拠』と呼べるものに思い当たる。</p><p>それと、精霊だ。俺とアイリーンの契約精霊がオズにも友好的だった。この世界に来てから、精霊には何かと……助けられてる、からな</p><p>ちょっと悔しそうに、ケイは言った。</p><p>だから、精霊の振る舞いから、オズも信用できると判断したわけだ</p><p>……なるほど、ね</p><p>ただ、それを第三者から聞いてもしっくりこない、ってのはわかるぜ。オレたちだって、オズのアホみたいな力を見て、ある意味、諦めがついたわけだし</p><p>俯くイリスに、アイリーンがフォローを入れる。</p><p>いや、いいのよ。わかってるの。今から荷造りして、北の大地に出向いて、魔の森とやらに分け入って、オズに会って―そんなこと、やる気にもなれないもの。納得できないなりに納得するしかないわよ</p><p>だってゲームの世界に転移すること自体、理不尽で突拍子がないことなんですもの、とイリスは言う。</p><p>その点は、ケイたちも納得しきれていない。</p><p>オズはこの転移について、時の大精霊『カムイ』の仕業だろうと睨んでいたが、そもそもなぜ膨大な力を消費してまで、カムイがケイたちをこの世界に呼んだのかは謎のままなのだ。</p><p>ただ、カムイを呼んでも出てこないので、確かめようがない。</p><p>納得できないなりに、納得するしかない―。</p><p>はぁ。まあ、考えても仕方ないから、そのうち気持ちを整理していくわ</p><p>話を聞いてもらえただけでもモヤモヤがマシになった、とイリスは無理に笑う。</p><p>この世界で生きていく、か……。そうだ、ちょっと相談があるんだけど</p><p>ぽん、と手を叩くイリス。</p><p>その、アイリーンに</p><p>えっ、オレ？</p><p>突然の指名にアイリーンが驚く。</p><p>無理もない。ケイだってイリスとは浅い付き合いしかなかったのに、アイリーンはそれに輪をかけて、交流がなかったのだ。ケイはまだ、イリスたちPK三人組と幾度となく交戦したことがあるが、『アンドレイ』は―ケイの知る限りでは、一度も戦ったことがないはず。</p><p>困惑するケイたちに、イリスは言いにくそうに、</p><p>その……女同士のことで……</p><p>……あ～</p><p>ケイはなんとなく察した。自分は席を外した方がよさそうだ、と。</p><p>じゃあ、俺はコウと話してるよ</p><p>オーライ</p><p>馬首を巡らすケイに、アイリーンが頷く。</p><p>それじゃ、お悩み相談コーナーといくか―</p><p>そんなアイリーンの声を背中に聞き流しながら、ケイはコウと使用人たちの元へ戻っていった。</p><p>†††</p><p>で？　相談ってなんだ？</p><p>使用人たちに怪しまれないように、トコトコと馬を駆けさせながら、アイリーンは口火を切る。</p><p>突然ごめんなさいね。相談、っていうか、ちょっと聞きたいことがあって</p><p>イリスは、もじもじとしてから、</p><p>……その、あなた、ケイとはどういう関係？</p><p>は？</p><p>どういう意図の質問だそれは、とアイリーンはまず不審に思った。</p><p>不躾でごめんなさい。ただの興味本位ではあるけど、教えてくれると助かるわ</p><p>イリスは存外に真剣な顔だ。</p><p>ええと……まあ、恋人……だけど</p><p>アイリーンはぽりぽりと頬を掻く。改めて答えると恥ずかしい。なぜだろうか。相手が同郷の人間だからか。</p><p>そっか……そうよね。そっかー</p><p>はぁ……とため息をつくイリス。</p><p>それが、何か関係があるのか？</p><p>うーん、身の振り方を考えてるのよ……この世界に骨を埋める覚悟を決めた先達として、あなたの、相方(パートナー)との距離感が知りたかったの</p><p>なるほど……？</p><p>わかったような、わからないような。</p><p>そういうそっちは、相方(コウ)と何かあるのか？</p><p>何(なん)っっっにもないわ。それが問題というか</p><p>イリスの顔は、どことなくげっそりしていた。</p><p>あたしに見合い話が来てる、ってのは聞いたでしょ？　箸にも棒にもかからない木っ端貴族とか、金持ちだけど獣耳趣味の変態オヤジとか、そういうのがわんさか来てるのよ……</p><p>……おおう</p><p>自分ではまずありえない境遇に、アイリーンは口の端を引きつらせた。</p><p>はっきり言って、断りたいわ。体のいい厄介払いだろうし。でも理由もなく断り続けるのも難しくって</p><p>お姫様扱いしてもらってるんだろ？　それなら、ある程度のワ(・)ガ(・)マ(・)マ(・)くらいは通るんじゃないのか？</p><p>やー、お姫様扱いって言っても、領主がコウの顔を立ててるだけだから。あたしなんてオマケよ、世話してる方からすればむしろ邪魔でしかないはず。家もコネも金も特殊技能もないお姫様なんて、ただの金食い虫でしかないし</p><p>そして当然、そんな金食い虫を迎え入れるとなれば、身体が目当てとしか考えられないわけで。</p><p>そういう意味で、あたし今、ものすっごくコウにお世話になってるのよ。正直、コウは全然……その……タイプと違う人だったんだけど、頼りになるし、もし求められたら応えなきゃな、くらいには考えてたの。でもね！？</p><p>話しながら、徐々にヒートアップしていく。</p><p>何(なん)っっっにも！　本当に何にもないのよ！！　言い寄ってくるとか！　口説いてくるとか！　一ミリもないの！　……あたし、これでも、顔とかスタイルにはけっこう自信あったんだけどなぁ……</p><p>そ～だな～</p><p>馬の足並みに揃えて、乗馬服越しにたゆんたゆんと揺れる双丘。それを半目で眺めつつアイリーンは相槌を打った。</p><p>さすが英国紳士(ジェントルマン)―なんて感心してる暇もなくなってきて。これからどうしたもんか、悩んでるのよ！　すなわち！　金持ち変態オヤジの愛人になるか、コウにアタックを仕掛けるか……！　今がギリギリというか、もう瀬戸際なのよ……！</p><p>ぐっと拳を握りながらイリス。アイリーンは お、おう……そうなんだ…… と気圧されながらも、ひたすら相槌を打つ。</p><p>だから、その、あなたはどうしてるのかな～って思って～</p><p>きゃぴ☆、とウィンクするイリスだが、本音は少し違う。</p><p>―もしケイがフリーなら、ケイにアタックするのもアリだと思っていたのだ。</p><p>なぜなら、けっこう好みだから。『公国一の狩人』として、ウルヴァーンの名誉市民に認定されたことも聞いていたし、今のようなお姫様暮らしは無理でも、そこそこ食ってはいけるだろうという打算もあった。</p><p>まあ、アイリーンとの距離感を見るに、まずフリーではなかろうとは思っていたが……。</p><p>そういう悩みだと、オレはあんま参考にならないな……</p><p>一方、アイリーンはイリスの胸の内など知るよしもなく、申し訳無さそうに首を振る。</p><p>いいのよ……むしろありがとう。ぶっちゃけただけでも、だいぶん気持ちが楽になったから……</p><p>そっか……ちょっとでも役に立ったなら幸いだよ……</p><p>ホント、どうしたもんかしら。あなたやコウと違って、あたしは投石くらいしか能がないし、かといって今更狩人として生きていくわけにもいかないし……</p><p>ぬがー、と顔を手で覆うイリス。</p><p>そんな彼女を見ながら、アイリーンも頭の片隅で考えていた。</p><p>―自身の契約精霊、“黄昏の乙女”ケルスティンの力を込めた魔力トレーニング用の魔道具のことを。</p><p>ア(・)レ(・)を使えば、イリスも魔術師並の魔力を得られるようになる。『石投げくらいしか技能がない』と嘆く彼女に、最低限、コウの助手くらいの地位を与えられるかもしれない。いや、コウの助手ではなく、自分の魔道具作成を手伝ってもらうという手もある。潤沢な魔力には、ただそれだけで価値があるのだ。さらに、何かの拍子に”妖精”あたりと契約できれば、イリス自身も魔術師になれるかもしれない。</p><p>同郷なだけあって、先進的な魔術・魔道具にも理解があるし、身内に引き込めるならばこれほど安心できる人材もいないだろう。</p><p>ただ、リスクがあるとすれば、情報の漏洩。</p><p>あの『安全な』魔力トレーニング用の魔道具は、安易に世に出すことができないものだ。誰でも魔術師になれる、あるいは一端の魔道具使いに変えてしまうオーパーツは、社会の仕組みを崩壊させる危険性を秘めている。</p><p>―ア(・)レ(・)の秘密を共有できるほど、イリスは信頼に値する人物か……？</p><p>愛想よく話を聞くアイリーンの青い瞳に、いつしか値踏みするような光が宿っていたのも、無理からぬことだった。イリスには同情するが、一番大事なのは、他ならぬケイと自分の安全なのだから―</p><p>それでね！？　酷いのよ、この間来たお見合いとか！　上から目線で『呪われてはいるが愛人にしてやらんこともない』みたいな言い草でね―</p><p>ええ～それは酷すぎるだろ―</p><p>しかも一緒に送られてきた肖像画、実物よりマシに描かれてるはずなのに、ブサイクとかいうレベルじゃないクリーチャーで―</p><p>呪われてるのはどっちだって話だよな―</p><p>いつしかお悩み相談コーナーは、ただの愚痴へと変わりつつあった。</p><p>爽やかな草原で、馬の背に揺られる乙女たち。</p><p>笑顔の裏に複雑な想いを渦巻かせつつも、会話は楽しげに弾む。そうして二人は親睦を深めていくのだった……</p><p>83. 方針</p><p>更新速度強化の紋章を刻みました。</p><p>もってくれよ……俺の身体……ッッ！（白煙を吹き上げながら）</p><p>『やあ、ケイくん。どうしたんだい？』</p><p>一人で戻ってきたケイに、デッキチェアで優雅に紅茶を味わっていたコウが気さくに声をかける。</p><p>『なんでも、女同士で相談があるそうで』</p><p>『あー、そりゃ男は蚊帳の外だ』</p><p>サイドテーブルにカップを置きながら、苦笑するコウ。</p><p>『ケイくんも一服どうだい』</p><p>『ごちそうになります』</p><p>ケイはひらりと身を翻し、サスケから降りる。木立のそばに張られたテント―小さなテーブルや折りたたみ式の椅子、茶器一式に簡易竈まで用意され、そこはすっかり屋外ティールームの様相を呈していた。</p><p>ヒルダ</p><p>はい、かしこまりました</p><p>コウが声をかけると、背後に控えていたヒルダ―イリスの側仕えのメイド―がケイの分のお茶を用意し始めた。別の使用人が新たなデッキチェアを運び、またたく間に新たな席がセットされる。</p><p>ケイも腰を下ろそうとしたが、どうやらサスケがまだ走り足りなさそうだったので、手綱と轡(くつわ)を外してやった。</p><p>よし、そのへん走ってこい</p><p>ケイがぽんと尻を叩くと、サスケが わーい と言わんばかりに喜び勇んで走り去っていく。</p><p>よ、よろしいのですか……？</p><p>凄まじい加速で、あっという間に地平線の彼方まで遠ざかっていくサスケに、メイドの一人が目を丸くしていた。</p><p>大丈夫だ、飽きたらそのうち戻ってくる</p><p>サスケ(あいつ)は賢いからな、と言って笑うと、 は、はぁ……まあ、このあたりには獣もいませんし…… と気を取り直すメイド。しかしサスケはただの馬ではない。リラックスした姿ばかり見ていると忘れがちだが、その正体は雑食の凶暴な魔物(バウザーホース)だ。草原で出くわすような獣なら、たいていの相手は返り討ちにできる。心配無用だろう。</p><p>ケイが椅子に腰掛けると、サイドテーブルに紅茶のカップが置かれる。小さな焼き菓子とミルク差しも一緒に。</p><p>いたれりつくせりとはこのことだ。何人ものメイドにかしずかれると、思わず気後れしてしまうが、そんなケイとは対照的にコウは堂々としている。</p><p>『こういうのは、肩の力を抜いて自然体でいればいいのさ』</p><p>脚を組みながら、コウはのんびりと言った。</p><p>『彼女(メイド)らもプロだからね。変に遠慮されるより、堂々と構えてもらった方が色々やりやすいと思うよ』</p><p>『そんなものですか』</p><p>『うん。オドオドしたり、みっともない姿を晒すと、それはそれで侮られるから。かといって、ことさら偉そうにする必要もないけどね。たとえば後ろの―』</p><p>そこでふと、コウは口をつぐんだ。しばし沈黙。続く言葉を待ちながら、ケイも紅茶をいただくことにした。屋外で淹れたとは思えないほどの理想的な温度、そして香り。メイドたちの技量の高さがうかがい知れる―</p><p>『日本語で話してても、固有名詞を出すとバレちゃうな。そうだ、丘(おか)を英語読みしてくれ。彼女のことは丘田(おかだ)さんと呼ぼう』</p><p>丘は英語で Hill(ヒル) 。</p><p>つまり丘田(おかだ)の『おか』を入れ替えて―丘田(ヒルダ)。</p><p>んっぶぅ</p><p>危うくケイは、紅茶を鼻から噴き出すところだった。ちょっと予想外でツボってしまった。背後のヒルダが怪訝そうにしているが、まさか自分の名前が原因とは思うまい。コウは悪戯を成功させた子どものようにからからと笑っている。</p><p>『名案ですけど吹いちゃいましたよ』</p><p>『ああ～丘田さんが変な人を見る目でこっち見てる』</p><p>『ンふッこれ以上笑わせないでください！』</p><p>ふう、とため息ひとつ、気を取り直したケイは紅茶を飲みながら、（言葉が通じすぎるのも考えものだな）などと思った。</p><p>『それで、ヒル……丘田さんがどうしたんですか』</p><p>『彼女ねー、男爵家の生まれなんだよ。彼女自身に爵位があるわけじゃないけど、貴族の家の者だから下女より身分が上―侍女っていうんだっけ？　日本語では。仕事もできるし、バリバリのキャリアウーマンって感じさ。将来的には侍女長とかになるんだろうね。でもプロだから、自分の生まれとかは関係なく、相手が何者であれ、お客様にはきちんとした態度で接する』</p><p>『ほほう……』</p><p>『何が言いたいかっていうと、まあお互いリスペクトしましょ、ってことさ。彼女は僕の客をきちんともてなすし、きみはきみで堂々とそれを受けつつ、紳士的に振る舞えば何の問題もない。一応きみはゲストだから、丘田さんと同格の侍女は、さん(Miss)付けで呼んだ方がいいかもね』</p><p>『なるほど』</p><p>そう言われて見てみると、周囲の使用人たちも、各々服装の『質』が違うことに気づく。たとえばヒルダのメイド服はかなり上等なものだが、その他のメイドたちは生地が微妙に粗雑だったり、デザインが簡略化されたりしている。一口に使用人と言っても、召使いか管理職かで明確にランク分けされていた。</p><p>今まで区別がついていなかったが、少しばかり視野が広がった気分だ。</p><p>『色々あるんですね、全然知りませんでしたよ』</p><p>『まあ機会がなければ気づく必要さえないしね』</p><p>手帳を開き、何やら書き込みながらコウが頷く。</p><p>『……それは？』</p><p>『アイデア帳さ。素人なりに、冷蔵庫を始めとした魔道具の改良にも取り組もうと思っていてね。思いついた先から、色々アイデアを書き留めてるんだ』</p><p>見た感じ、どうやら日本語でメモしているらしい。暗号として大活躍してるな、とケイは笑った。</p><p>『……ケイくんは、』</p><p>紙面に視線を落としたまま、不意に、コウは口調を改める。</p><p>『どうやって、この世界で生きていくつもりなんだい』</p><p>静かな、問い。</p><p>『……どう、ですか。狩人にでもなろうかと思ってますが』</p><p>『狩人？』</p><p>意外そうに、顔を上げるコウ。 今さら？ とでも言わんばかりの表情だ。</p><p>『ええ。特に”大熊(グランドゥルス)“みたいな、一般人では手に負えない大物狩りの専門家になろうかと』</p><p>サティナやウルヴァーンの周囲には開拓村が多く、まれに 深部(アビス) から怪物が迷い出てくることもある。そのような状況下で、村人たちに大きな被害が出る前に、怪物を狩り殺す専門家になりたい、とケイは考えていた。</p><p>『それはまた……アレだね。確かに”大熊”クラスのモンスターを狩れば、実入りもいいだろうけど、危険すぎないかい？』</p><p>『それはある程度、承知の上です。……こう言っちゃあなんですが、俺は人の役に立ちたいんですよ』</p><p>気取るでもなく、あくまで生真面目なケイを、コウはまじまじと見つめた。</p><p>『それは……勇敢だね。いや、冷やかしているわけではなく』</p><p>揶揄するような言い方になったことを、恥じるようにコウは視線を逸らす。</p><p>『僕は、そういうの御免だな……って思っちゃうからさ』</p><p>『……昔だったら、違ったかもしれません。この世界に来た直後は、俺も、“どうやって死なないか”をずっと考えてたんです』</p><p>転移直後のことを思い返しながら、ケイはぽつぽつと話す。</p><p>『もともと地球では、持病で余命が幾ばくもなかったので……死にたくない、っていつも思ってたんです。でもそのままじゃ、生きている、って感じがしないというか。こういう言い方すると語弊がありますけど、自分の命の使い方―どう生きるか、をより深く考えるようになったんです』</p><p>『…………』</p><p>『きっかけは、ウルヴァーンの近くの開拓村で、“大熊”を仕留めたことでした。“大熊”のせいで村にも大きな被害が出てましたから、そりゃあ感謝感激されましたよ。……あのときは、俺もすごく救われた気分でした。人から頼られて、感謝されるのが、あんなにも心地良いなんて、俺は知りもしなかった……』</p><p>それまで、頼ってばかりの、人生だったから―</p><p>『……だから、今は、そういう風に生きたいって、思ってます』</p><p>ふと素に戻ったように、ケイは気恥ずかしそうに笑った。</p><p>コウは、嗤(わら)わなかった。</p><p>『立派だね……』</p><p>僕には真似できそうにない、とコウは肩を竦める。</p><p>『ま、とはいえ、大物なんてそうそう出てきませんけどね。仮に出てきたとしても、俺の耳に届く頃には、領主や軍が解決してるかもしれませんし』</p><p>そう言いながら、ケイはふと、今度タアフ村を訪ねても良いかも知れないな、と思った。こうしてコウやイリスと出会えたのも、あの村で得た縁のおかげだし、懐かしさから狩人のマンデルにも会いたくなってきた。</p><p>『なるほどなぁ……僕はどうしたもんかな』</p><p>『……やっぱり、まだ気持ちの整理が』</p><p>『つかないねえ』</p><p>はぁ、と嘆息混じりに、コウは。</p><p>『まあ……でも、しばらく僕も考えて、気づいたんだよ。別に地球に帰ったところで、絶対にこれを成し遂げたい！　という確固たる目標も夢もなかった、ってことにね……僕はただ惰性で生きてただけだった』</p><p>もちろん、ネットやら何やらの便利さ、快適さはこちらの世界と比べるまでもないけど、と口をへの字に曲げてコウは言う。</p><p>『逆に、それにさえ目を瞑れば―なかなか看過しづらいデメリットではあるけど―こちらの世界も悪くはない、とは言えないこともないかもしれない』</p><p>『そうですね……』</p><p>こんな多重否定文、英語だったら咄嗟にわからんぞ、などと思いながら、ケイは相槌を打っていた。</p><p>『こちらの世界で、革新的な冷蔵庫とジェラートの父として名を馳せるのも、いいかもしれない……なんて考えてるよ。今はね』</p><p>複雑な心境を覗かせながらも、フフッとコウは笑みを浮かべてみせた。</p><p>『ところで、話は変わるけど、きみとアイリーンは、ど(・)う(・)なんだい？　随分と……親しげに見えるが』</p><p>『えっ』</p><p>宣言どおり、突然の話題転換に少し戸惑う。</p><p>『えっと……彼女とは、恋人同士です』</p><p>改めて言うと恥ずかしい。ケイは柄にもなく頬が熱くなるのを感じた。母国語のせいか。</p><p>『あ～～～良いねぇ、若いねぇ』</p><p>何が良いのか、腕組みをしてうんうんと頷くコウ。言われっぱなしは癪なので、逆にケイも聞き返す。</p><p>『そういうコウさんは、どうなんです？　イリスと何かあったり？』</p><p>『いや、ない。彼女とは友人関係を維持してるよ』</p><p>ところが、即答。</p><p>即答であった。</p><p>『へぇ……そうなんですか？　コウさんたちこそ、けっこう親しげに見えますよ。イリスだってかなり美人ですし』</p><p>『恋人持ちがそんなこと言っていいのか～？』</p><p>『いや、客観的にですよ』</p><p>茶化すコウに、冗談めかして言うケイ。</p><p>『こっちの世界に来て、一緒に色々乗り越えて、仲が進展してもおかしくないじゃないですか』</p><p>『まあ、ね。確かに彼女とは知らない仲でもないし、美人であることは事実だ……だが、だからこそ僕は、今の関係がベストだと考えている』</p><p>『……それはまた、どうして？』</p><p>『だって恋人にしたら面倒くさそうなんだもん彼女』</p><p>コウの答えは、にべもないものだった。</p><p>『今でこそ、可愛げがあるというか、大人しく僕に感謝してくれているけど、恋人ないし夫婦になったら絶対それを『当然』と考えるタイプだよ、彼女は。いわゆるお嬢様に憧れる男は多いが、嫁にしたらそれを養わなければならない、という事実は頭の片隅に置いておくべきだ。まあ、このまま魔術師としてやっていくなら、金は足りると思うけどね……金は(・)、ね……』</p><p>ただパートナーとして上手くやっていける自信がないんだよなぁ、とコウは深い深いため息をついた。</p><p>『……あ、今のはもちろん、本人には内緒だぜ』</p><p>『わ、わかってますよ』</p><p>『きみの彼女にも、だからね。男同士の秘密ってことで頼むよ』</p><p>『わかりました』</p><p>聞かなかったことにしよう……とケイは思った。</p><p>『そいや、きみの夢……大物専門の狩人になりたい、って話はアイリーンにもしているのかい？　恋人として反対されたりとかは？』</p><p>『話はしてますし、反対も特には。むしろ背中を押された気がします』</p><p>『ははっ、さすがに勇ましいな。彼女(アイリーン)はどう生きていくつもりなんだろう』</p><p>『あいつは、影の魔術が使えますから、色々と魔道具を売ろうとしてます』</p><p>ケイは、影絵を用いた投影機(プロジェクター)や、防犯用の警報機(アラーム)の販売計画について話す。</p><p>特に警報機(アラーム)の、『精霊に捧げられた触媒は魔力に変換され消滅する』という性質を、物理的なスイッチに応用する発想はコウにとっても目からウロコだったらしく、 ほほー！ と大いに感心していた。</p><p>『それは面白い。都度触媒をセットし直す必要があるとはいえ、魔術的作用をダイレクトに物理現象に変換できるわけか……』</p><p>『あと、俺もそのうち魔道具作りにチャレンジしてみようかと』</p><p>『きみが？』</p><p>コウがきょとんとする。</p><p>『……脳筋戦士で、魔術関連には一切技量割り振ってないんじゃなかった？』</p><p>『こっちの世界で受肉して、ポテンシャルの制限はなくなったらしいです。事実、俺もけっこう魔力が増えてるんですよ…… Maiden vento, Siv. ―Faru la venton milde blovi! 』</p><p>ケイが唱えると、ふわっとかすかな風がコウに吹き寄せる。確かな魔力の流れ。羽衣をまとった乙女の姿を幻視したコウは、驚愕に目を見開いた。</p><p>『そういえば！　風の精霊と契約してるんだったか！　そっかぁゲーム的なポテンシャルの制限も取っ払われたわけか……なるほどなぁ！』</p><p>ちなみに大興奮のコウの背後、ヒルダも ！？ と目を白黒させていたが、ケイたちは気づかなかった。</p><p>『見たところ、ケイくんはすでに脱初心者といったところか』</p><p>『そうですね。駆け出し魔術師くらいは魔力も確保できてると思います』</p><p>『……何を作るつもりなんだい？』</p><p>『まあ、メジャーなところで矢避けの護符(タリスマン)とか。あとは風を集めやすい帆とかですかね……』</p><p>『うわ～～～それ絶対売れるやつだ！　港湾都市(キテネ)からの勧誘に備えるべきだね。狩人よりそっち専門の方がいいんじゃないか？』</p><p>『ははは、そうかもしれません。まあまだ遠い道のりですが』</p><p>実際、作れるようになればアホみたいに売れるだろうな、とは思っている。少なくともコウの冷蔵庫とはいい勝負をするはずだ。需要(シェア)的な意味で。</p><p>『いいなぁ、僕も矢避けの護符とか欲しい。まあ今のところ身の危険は感じてないけどさ』</p><p>万が一ということがあるからねえ、とコウは胸のあたりを撫でながら言う。</p><p>『もちろん、作れるようになったら融通しますよ。……代わりと言っちゃなんですが、俺は冷蔵庫が欲しいです。キンキンに冷えたエールが飲みたくて……！』</p><p>ケイが心の底から言うと、コウが破顔一笑した。</p><p>『はっはっは、たしかに、きみらは長いことご無沙汰だろうからね……』</p><p>『夢に見るくらいですよ。生温いのばっかりですから……』</p><p>『こればっかりは、魔術抜きじゃどうしようもないからね。わかった、冷蔵庫に関しては隙を見て作ってあげよう』</p><p>『いいんですか！？』</p><p>『ああ。ただし順番待ちがすごいから、今すぐの話じゃないよ』</p><p>コウ曰く、冷蔵庫は注文が殺到しているので、一日あたりの製造数を絞っているのだという。魔力が厳しいから、というのが表向きの理由だが、実際は過剰労働の回避と希少価値の維持が目的だとか。</p><p>『今は朝と夜に一台ずつ作ってるよ。その気になればあと三台はイケるけど、大事を取っている―ことにしている』</p><p>とはいえ、あくまで領主公認のもと自重しているだけなので、余裕があればその他の魔術の研究はできるし、むしろ推奨されているという。『自分用』という名目で密かに冷蔵庫の核となる部分を作るのは、そう難しくない。</p><p>『ありがとうございます！！』</p><p>『先行投資ってヤツさ。矢避けの護符もそうだけど、もし、きみたちが何か面白いものを作ったら、ぜひ声をかけてくれよ』</p><p>もちろん、とケイは快諾し、コウと固い握手を交わした。</p><p>『まあ、それはそれとして、だ……。ヒルダ』</p><p>不意に、コウが振り返って声をかける。</p><p>はっ！？　はい！</p><p>ぼんやりとしていたのか、突然名前を呼ばれてビクッとするヒルダ。しかしすぐにプロの顔に戻り、背筋を伸ばす。</p><p>たしか、エールかワインもあったと思うんだけど</p><p>はい、どちらもご用意しておりますが</p><p>それじゃあ、エール……で、いいかな？</p><p>あっ、はい</p><p>確認されたケイは、コクコクと頷く。</p><p>それじゃ二杯頼むよ</p><p>かしこまりました</p><p>すぐさま、銀製のゴブレットになみなみと注がれたエールが運ばれてくる。</p><p>さて…… Aubine! Arto, Rei-Kyaku.</p><p>懐から白い粉―おそらくは塩―を取り出し、呪文を唱えたコウがふぅっと手のひらの上に息を吹きかける。吹き散らされた塩がきらめきながら、冷気へと変換されてゴブレットにまとわりつく。ケイは、冷笑を浮かべる長衣の乙女の姿を幻視した。</p><p>だが、それも一瞬のこと。銀のゴブレットは今や、急激に冷却されて白く曇っている。ケイは思わず おお……！ と感嘆の声を漏らした。</p><p>『いやはや。宣之言(スクリプト)には手っ取り早く日本語使ってるけど、僕たち同士じゃ味気ないにもほどがあるな』</p><p>『俺だって似たようなもんですよ、実用性が第一ですし……』</p><p>もっともらしく頷いて答えながらも、ケイの目はゴブレットに釘付けだ。苦笑したコウはゴブレットを手に取り、一つをケイに渡す。</p><p>『これは……！』</p><p>―キンキンに冷えてやがるっ…………！</p><p>ケイはごくりと生唾を飲み込んだ。咄嗟に、草原の方を見ていた。アイリーンを呼ぶべきか。しかしアイリーンとイリスは、楽しそうに笑顔で話しながら、仲良く馬を駆けさせていた。</p><p>―今は邪魔をするべきではない。</p><p>ここはひと足お先にいただこう、とケイは判断した。</p><p>『それじゃ、乾杯しようか』</p><p>『はい！　ありがとうございます』</p><p>『我々の友情に』</p><p>『……偉大なる氷の魔術に』</p><p>ニヤリと笑った二人はゴブレットを掲げ、こつんとぶつけた。</p><p>『―乾杯！』</p><p>ぐいっ、とエールをあおる。</p><p>目の覚めるような冷たさ、爽やかな喉越し―</p><p>かぁ～～～っ！</p><p>―間違いなく、こちらの世界に来てから、一等美味いエールだった。</p><p>……ちなみに、それから酒盛りに突入したケイだったが、 もっと早く呼べ とアイリーンに怒られる羽目になったのは、言うまでもない。</p><p>†††</p><p>とっぷりと日が暮れて、月が昇る頃。</p><p>サティナの街も、住人たちの多くは寝静まっていた。</p><p>貴族街も例外ではなく、屋敷の窓からはロウソクのかすかな明かりが漏れるものの、静けさに包まれている。</p><p>ただ、そんな中で、活発な人の気配を感じさせる屋敷が一つ。</p><p>街の南東部に位置する、領主の館だ。</p><p>サティナの行政的な中心部でもあるこの館は、衛兵隊を統括していることもあって、夜になっても人の出入りが絶えない。</p><p>それにしても、平時よりは活発な印象を与えるが―</p><p>それで、</p><p>屋敷の奥。とある執務室にて。</p><p>シンプルだが座り心地の良さそうな椅子に腰掛ける、初老の男。</p><p>―コウ殿はほろ酔い加減でご機嫌だった、と</p><p>はい</p><p>初老の男の言葉に、キリッとした顔つきのメイドが答える。</p><p>―ヒルダだ。</p><p>普段、滅多なことでは表情を崩さない彼女だが、この場に限っては、緊張の色を浮かべていた。</p><p>無理もない。彼女の眼前に座す、この初老の男―柔和な顔に射抜くような眼光の持ち主こそが、サティナの領主、『ランダル＝カーティス＝サティナ＝バウケット』伯その人だからだ。</p><p>コウ様は、ケイ様とかなりの長時間、会話を楽しんでおられました</p><p>ケイ―公国一の狩人、か。どのような内容だった？</p><p>それは……申し訳ございません。聞き取ることができませんでした</p><p>心底申し訳なさそうに、顔色を悪くしながらヒルダは頭を下げる。</p><p>ふむ。例の聞き慣れぬ故郷の言葉とやらか</p><p>領主カーティスは、ヒルダの隣に視線を向ける。そこに立っていたのは、執事服に身を包む白髪の老人。領主別邸を任せている家宰のアルノルドだ。</p><p>はい。ケイ様が初めて屋敷を訪れた際、コウ様との会話に用いられていた言語と思われます</p><p>慇懃に、わずかに頭を下げながら答えるアルノルド。顔に浮かべたアルカイックスマイルはまるで作り物のようで、その胸の内を悟らせない。</p><p>ふむ。ヒルダ</p><p>はっ</p><p>お前はたしか、複数の言語を操るとのことだったが</p><p>はい。海原語(エスパニャ)と高原語(フランセ)を学んでおります。雪原語(ルスキ)も初歩的な会話でしたら可能です。草原の民の部族語も、単語レベルなら聞き取れます</p><p>それでも、コウ殿の言葉はわからず、か</p><p>……はい。公国語や海原語、高原語とは根本的に異なる印象です。最初は、草原の部族語を疑いましたが、それとも発音が全く異なります</p><p>精霊語(エスペラント)、という可能性はないか？　お前の報告によれば、ケイとやらも魔術の才を見せたそうではないか</p><p>カーティスに問われ、ヒルダはしばし迷う素振りを見せたが、 いいえ と首を横に振った。</p><p>精霊語とも、響きが異なっているように感じられました。少なくともRの発音は全くの別物です</p><p>ふぅむ。お前がそこまで言うからには、そうなのだろう。……同郷、とのことだったな。特に疑っていたわけではないが、本当なのやもしれぬ</p><p>短く整えたあごひげを撫でながら、カーティスは考えることしばし。</p><p>大儀であった。ヒルダは下がってよい</p><p>はっ</p><p>頭を下げ、きびきびとした動きで、ヒルダは退室していった。</p><p>残されたのは、領主カーティスと、家宰のアルノルドのみ。</p><p>ふぅ……</p><p>億劫そうに席を立ち、自らの手で背後の戸棚からグラスと瓶を取り出したカーティスは、クイッと眉を釣り上げて、アルノルドに問う。</p><p>……お前も呑むか？</p><p>いえ、まだ仕事がございますので</p><p>つまらんやつだ</p><p>そうして、自分の分だけ、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。</p><p>……まあ、コウ殿に不満がないようなら、それでいいのだ</p><p>再び椅子に腰を下ろしながら、カーティスは言った。</p><p>実のところ、コウとケイの会話内容にそれほど興味はない。コウの故郷―帰還が叶わぬほど遠いと聞く―についても、割とどうでもいい。</p><p>もちろん、わかるならそれに越したことがないが。</p><p>あくまで最重要は、コウの今後だ。現状に満足して、サティナに留まってくれるなら、それでいいのだ。</p><p>今(・)は(・)。</p><p>かの御仁にご満足いただけるよう、わたくしどもも最善を尽くしております</p><p>あくまで慇懃に、アルノルドが一礼する。</p><p>うむ。……しかし、そう遠くないうちに情勢が変わるだろう。さすれば、コウ殿の力が必要になる……</p><p>背もたれに身を預け、カーティスはしばし瞑目した。</p><p>……陛下は、決(・)断(・)を(・)下(・)さ(・)れ(・)た(・)</p><p>まるで独り言のように。</p><p>カーティスは、しわがれ声で呟いた。アルノルドの、まるで貼り付けたような穏やかな笑み(アルカイックスマイル)が、わずかに、そして、初めて崩れる。</p><p>……とうとう、にございますか</p><p>うむ</p><p>では……</p><p>人手の準備くらいは、しておくべきであろうな</p><p>かしこまりました</p><p>カーティスの言葉に、アルノルドは一礼する。</p><p>下がってよい</p><p>はっ……</p><p>そうして、老練なる白髪の家宰は、静かに退室していった。</p><p>…………</p><p>カーティスは独り、グラスの酒を舐めるように味わいながら、物思いに耽る。</p><p>“公国一の狩人”、か</p><p>ぽつりと呟く。</p><p>その称号が―何をもたらすか。皮肉な笑みを浮かべて。</p><p>ふん</p><p>鼻を鳴らしたカーティスが、とんっ、と執務机にグラスを置く。</p><p>飲み干されることのなかった酒が、グラスの中でただ、揺れていた。</p><p>不穏な気配……</p><p>よろしければ、一言でも感想をいただけると嬉しいです。 感想の書き方わかんない…… 書く気力がない…… という方は、 にゃーん とコメントしていただけると、私がとても喜びます！　猫アレルギーで猫飼えないので、猫飼ってる感（？）を味わわせてください。どうぞよろしくお願いいたします。</p><p>84. 挑戦</p><p>イリスたちとの再会から、早くも一ヶ月ほど経つ。</p><p>相変わらず、平和な毎日を楽しんでいるケイとアイリーンだったが、ちょっとした変化もあった。</p><p>それは―住環境。ケイたちは宿屋を出て、一軒家へ移っていた。</p><p>そう、後援者(パトロン)たるコーンウェル商会が、とうとうケイたちのために住居を用意してくれたのだ。</p><p>いや～探すのに苦労したよ……</p><p>コーンウェル商会の本部にて、疲れ顔で語るのはホランドだ。行商を引退しサティナに腰を落ち着けた彼は、コーウェル商会の商人としてケイたちとの折衝を担当している。ケイたちとしても、見知らぬ他人より、気心が知れているホランドの方が付き合いやすい。</p><p>ちなみに、ホランドの養女エッダは私塾に通い始めたそうだ。読み書き計算などは既に一通り覚えているが、教養や礼儀作法も身につけて、将来的には侍女のような上級使用人を目指しているのだとか。</p><p>ま、本人は吟遊詩人も諦めてないみたいだけどね</p><p>ホランドはそう言って苦笑していた。ホアキンに歌を習っていた関係で吟遊詩人への憧れも捨てきれないようだ。</p><p>また、ホランドの母ハイデマリーは変わらず矍鑠(かくしゃく)としており、厳しい行商生活から解放されてもなお、散歩が趣味で周辺を歩き回っているらしい。徘徊老人などと言ってはいけない。</p><p>そして行商でいつも一緒だった護衛のダグマルは、未だに隊商護衛を続けているそうだ。年齢的に商会の用心棒(けいびいん)になる手もあるが、本人曰く 身を固めるにはまだ早い とのこと。</p><p>あいつは死ぬまで同じことを言ってそうな気もするがね……まあ、それはそれとして、家の話だ</p><p>ホランドは表情を引き締めて、書類を取り出す。</p><p>その場しのぎの宿屋暮らしも、気づけばずいぶん長引いていた。</p><p>物件探しが困難を極めたせいだ。“正義の魔女”ことアイリーンを、商会専属の魔術師として迎え入れるにあたり、コーンウェル商会は総力を上げて物件を探し回っていたが、それでもなお数週間もかかってしまった。</p><p>そもそも市壁の内側に、都合のいい空き家なんぞ存在しないのだ。</p><p>巨大な石壁に取り囲まれた都市―その中に住むメリットは計り知れない。獣や魔物に襲われる心配もなく、下水道が整備され、突発的な犯罪を除けば人同士の争いも少ない。もちろん税金が高いなどのデメリットも存在するが、多くの住民は市内に留まろうとし、子どもが産まれるに従って人口も増えていく。</p><p>結果、一般市街は常に過密状態となっていた。仮に何らかの事情で空き家ができても、すぐに埋まってしまう。</p><p>しかもケイたちが事前に 無理やり住人を追い出すような真似はNG と条件を出していたため、家探しの難易度はさらに高まっていた。</p><p>集合住宅(アパートメント)の一室やボロ家を確保するのならばともかく、商会専属の魔術師を住まわせるに相応しい物件でなければならず、かといって無理に追い出すわけにもいかず（下手な真似をすると近隣の住民経由でバレる）、ケイたちがのほほんと宿屋暮らしをエンジョイする間、コーンウェル商会の関係者は血眼になって探し回っていた。</p><p>そしてようやく見つけたのが―職人街の一角、工房付きの二階建て家屋だ。</p><p>元は陶芸職人の工房兼住宅だったそうだが、高齢ゆえに引退して、壁外の小さな町へ引っ越すことにしたらしい。</p><p>―ちなみに件の陶芸職人は、コーンウェル商会から法外な価格での不動産売却を打診され、ホクホク顔で出ていった。決して無理やりではない。ホランドはわざわざ口にしないし、ケイたちも知る由のないことだが……。</p><p>いい家だな</p><p>よく見つかったなーこんなお誂(あつら)え向きのヤツが</p><p>家に案内され、 ほほー と暢気(のんき)に感心する二人。 全くだよ…… とその後ろで遠い目をするホランド。</p><p>何はともあれ一軒家。商会の面子をかけて確保された物件だけあって、ケイたちも概ね満足だった。</p><p>まず、元は工房を兼ねていたこともあり、使い勝手のいい作業スペースがある。一階は大部屋で区切られた広めの造りで、床にはテラコッタ風のタイルが敷き詰められており、綺麗にしておけば裸足で歩き回っても快適そうだ。</p><p>二階には個室がいくつか。とりあえず一番大きな部屋を寝室とし、書斎、物置、客人用の寝室、という風に分けることにした。家具は、テーブルや椅子などは前の住人が置いていったものがあるが、寝台や戸棚などは新しく購入する予定だ。その他、必要な家具類も、順次コーンウェル商会が調達してくれるとのこと。</p><p>トイレは汲み取り式で、数週間に一度、公益奴隷が屋外の浄化槽から糞便を回収して回る仕組みになっている。残念ながら風呂はついていないが、代わりに、コーンウェル商会傘下の高級宿で借りられるよう話をつけておいた。</p><p>同様に、サスケとスズカも宿屋の馬小屋で預かってもらうことになった。さすがに職人街で馬を飼うことはできなかったからだ。運動不足を避けるため、足繁く通って外に連れ出してあげなければならないだろう。</p><p>その他、生活用水は飲用水は近場の井戸に汲みに行く必要がある。この世界には手押しポンプが普及しているのでまだマシだが、そこそこ重労働にはなるはずだ。洗濯や洗い物も、下水に直結している公共の洗い場まで出向かなければならない。</p><p>そこで、そういった家事雑用のために、使用人も派遣されることになった。掃除や洗濯を担当する女が一人、水汲みその他の力仕事を担当する男が一人。ホランドと協議した結果、住み込みではなく、朝から夕方まで出勤する形で、掃除や洗濯をしてもらうことになった。</p><p>ちなみに。</p><p>使用人の話が出たあと、家を見学中のケイとアイリーンは密かに、それぞれ相方の隙を見計らってホランドへ条件を出していた。</p><p>使用人の男は、枯れていそうな無害なヤツで</p><p>使用人の女は、肝っ玉母さんみたいな人で頼むぜ</p><p>どちらがどちらのセリフかは、言うまでもないだろう。</p><p>（全くお似合いだよ君たちは……）</p><p>と、苦笑する商人がいたとかいなかったとか。</p><p>あとは、防犯設備(セキュリティ)だな</p><p>一通り見学し終わって、一階のリビング。アイリーンが家の『窓』をコンコンと叩きながら言った。</p><p>窓―といっても、元職人の住居に窓ガラスなんて高級なものがついているはずもない。開けっ放しの四角い穴で、外側に木製の雨戸があるだけだ。</p><p>だが、これでは困る。</p><p>この家は、魔術師の研究所となるのだ。</p><p>魔術の秘奥が蓄積され、魔道具や、魔道具の核となる宝石類も管理していくことになるだろう。当然、それ相応の盗人対策も施さなければならない。</p><p>とりあえず確定なのは、警報機(アラーム)の導入かな</p><p>何を隠そうアイリーンは、この街で防犯設備を売ろうとしているのだ。警報機(アラーム)の有用性をアピールするいい機会になる―作動する日が来ないのが最善とはいえ。</p><p>ただし、それでも強引に突破してくるヤツがいるかもしれないし、昼間は作動させられない。だから鍵付きのチェストも欲しいかな。デカくて重くて、丈夫であればあるほどいい</p><p>わかった、もちろん手配しよう。どこに置く？</p><p>そうだな……どう思う、ケイ？</p><p>意見を求められて、ケイも考え込む。</p><p>……二階の書斎か？</p><p>オレもそう考えてた。書き物とか研究するならあの部屋だしなー</p><p>ふーむ。となると、チェストの重さも制限されるね</p><p>ホランドが髭を撫でながら指摘する。 あー…… とケイたちも気付かされた。</p><p>そっかー、あんまり重かったら床が抜けちまうのか</p><p>それが怖いね。本当に、重くて頑丈で大きなチェストなら、ウチの商会にオススメのやつがあるんだ。でもそれだと一階か地下にしか置けないと思う</p><p>なるほど……</p><p>話し合いの結果、チェストは地下の倉庫に設置し、必要があれば書斎にも鍵付きの戸棚を作ることで決着した。</p><p>それと、できればいいので窓にガラスも嵌めたいな</p><p>が、ガラス……！</p><p>アイリーンの要望に、ホランドがごくりと唾を呑む。</p><p>……かなりの費用になる</p><p>だろうな。だから、『できれば』でいいぜ。でも、窓ガラスがあったら、窓そのものにも魔術を仕掛けられるんだ。あと割ると音がするから、侵入しづらくなる</p><p>しばらく悩んだホランドは、自分では判断できないと結論づけたのか、 商会に戻って上の者たちと相談してみる と言うに留めた。</p><p>―しかし後日、 時期を見て窓ガラスを導入していく……！ と連絡が来た。コーンウェル商会の並々ならぬ意気込みが感じられる。それだけアイリーン―そして将来的にはケイ―の魔道具に期待を寄せているのだろう。</p><p>それに報いるだけの結果を出さねば―</p><p>そんな決心のもと、ケイたちの新生活はスタートした。</p><p>手始めに、アイリーンが魔道具を作りまくった。投影機(プロジェクター)と警報機(アラーム)の試作品だ。</p><p>投影機(プロジェクター)は試供品を渡していたホアキンから高評価を得ており、コーンウェル商会でも どう活用するか で盛り上がっているそうだ。以前アイリーンが構想を語った影画館(シネマ)も前向きに検討されているとのこと。</p><p>警報機(アラーム)本体の部品は、木工職人のモンタンが如才なく仕上げてくれていた。数台まとめて納品し、コーンウェル商会の隊商での試験運用が始まっている。使い勝手を確認しつつ、改善点があれば洗い出し、実績を積んでいく。</p><p>ちなみにその間、ケイは魔力トレーニングに勤しんでいた。例のアイリーン謹製魔道具を使って、ちょくちょく影を操り、魔力を消費して負荷をかけている。</p><p>この魔道具、長らく名前がなかったが、先日”Черный кот(チョンリーコット)”、すなわち”黒猫”と命名された。ケイは アイリーンが作ったんだからアイリーンが名付けるべきだ と主張し、アイリーンは ケイのために作ったんだからケイが名前つけて と駄々をこね、二人でイチャイチャした結果、ケイの提案をアイリーンがロシア語訳する形に落ち着いたのだ。</p><p>今では普通に コット と呼んでいる。カモフラージュと害獣(ネズミ)対策のため、本当に黒猫を飼ってもいいな―などと思いつつ。</p><p>さて、この”黒猫”という魔道具には、一つ特徴がある。</p><p>アイリーンの契約精霊『ケルスティン』の魔術全般に言えることだが、日が暮れている間は消費魔力が少ない代わりに、日が昇ると消費魔力が激増するのだ。</p><p>この特徴がなんとなく、気まぐれな性質に思えることから、“黒猫”という命名につながった。魔力が少ない人間でも、夜間に影を操れば安全に魔力の鍛錬ができることが、この魔道具の最大の強みと言える。</p><p>しかし鍛えているうちに余裕が出てきたケイは、敢えて昼間に、ごく短時間使うことで、一気に魔力を消費し高負荷をかける訓練も始めていた。</p><p>これがまた、よく効く。</p><p>さながら、昼夜で重さが激変するダンベルのようだ。昼間は短時間の高負荷トレーニング、夜は低負荷で持久力を鍛える―そんな調子で。</p><p>おかげでこの一ヶ月、劇的に魔力が鍛えられた実感がある。</p><p>そろそろ魔道具の作成に踏み切ってもいいか―と。</p><p>ケイがそう考えるほどに。</p><p>†††</p><p>と、いうわけで、作ってみよう</p><p>初めての魔道具作成だな！</p><p>Yeah!</p><p>その日、ケイたちは盛り上がっていた。</p><p>気分も明るければ部屋も明るい。</p><p>なぜなら、家の窓がとうとう全てガラス張りになったからだ。秋も中頃で少しずつ肌寒くなってきた時分、窓を閉めながら部屋を明るく保てる窓ガラスは非常にありがたかった。冬にはもっと重宝することになるだろう―</p><p>ちなみに全ての窓ガラスには、アイリーンの防犯魔道具が仕込まれている。窓ガラスが割られると、その原因に向かって影の呪いの手（※エフェクトのみ）が伸ばされ、下手人を覆い尽くし視界を奪う仕組みだ。</p><p>“黄昏の乙女”ケルスティンが、北の大地で鍛えに鍛えた演出力。どんなに場馴れした盗人でもパニックに陥ることは必至だ。高い制圧力が期待できる。</p><p>反面、昼間に作動した場合は……消費魔力が激増する都合上、宝石に蓄えた魔力が一瞬で枯渇し、ほとんど意味を成さないのが玉に瑕だ。</p><p>―さて、今回作るのは『突風』の魔道具だ</p><p>一階の作業場、ケイは机の上に材料を並べる。</p><p>１．糊</p><p>２．木片</p><p>３．豆粒のようなエメラルドの原石</p><p>以上だ。あとは作業用のピンセットくらいか。</p><p>改めて見るとショボいな</p><p>まあ使い捨てだからなぁ……</p><p>ぼそりと呟くアイリーンに、ぼりぼりと頭をかきながらケイ。『魔道具』などと呼んでいるが、肝心なのは魔術を封じ込む宝石だ。極端な話、宝石だけあればいい。ただしそれだと使い勝手が悪く、不幸な事故が起きるかもしれないので―失くしてしまったり、ポケットに放り込んだまま存在を忘れて洗濯したり―土台となる木片を用意した。</p><p>そう、大切なのはあくまでも宝石だ。</p><p>魔道具の作り方はシンプル。まず、魔道具に求める動作を精霊語(エスペラント)で記述する。次に、記述した宣之言(スクリプト)を唱えながら宝石に魔力を込める。すると、宣之言(スクリプト)を記憶した契約精霊の分体が宝石に宿る。</p><p>これで完成だ。</p><p>精霊の分体という『自我を持たないAI』に、精霊語(エスペラント)でプログラミングする、というイメージでいいだろう。</p><p>プログラミングできる宣之言(スクリプト)の長さや、発動する魔術の威力は、宝石の大きさと質に比例する。大きくて質の良い宝石ほど、複雑な動作を可能とし、強力な魔術を発動できるというわけだ。</p><p>今回ケイが作ろうとしているのは、特定の合言葉(パスワード)に反応して突風を発生させる使い捨ての魔道具。主に、敵の足元に投げつけて体勢を崩したり、手元で発動させて肉薄してきた敵を引き剥がすのに使う。</p><p>使い捨てである理由は二つ。敵に拾われて再利用されるのを防ぐためと、威力を向上させるためだ。</p><p>基本的に、粗悪な宝石を魔道具にしたところで大した威力は期待できない。が、魔術が発動する瞬間に、宣之言(スクリプト)を封じた宝石そのものを触媒にして精霊に捧げて魔力に変換すれば、威力がブーストされるという裏技がある。</p><p>このランクの宝石じゃ、恒久型の魔道具にしてもたかが知れてるもんな</p><p>指先で豆粒のようなエメラルドを転がしながら、ケイは呟いた。</p><p>ケイの契約精霊”風の乙女”シーヴは、燃費が悪い。ものすごく悪い。</p><p>そのくせ、エメラルドしか触媒を受け付けないため、今回も仕方なくエメラルドを調達した。小さく粗悪な原石なので高くはないが、安くもない。少なくとも使い捨てにはしたくないお値段ではある。</p><p>だが、実践してみないことには進歩もないので、必要な支出と考えるべきか。</p><p>どうせこの程度の原石で『突風』を生じさせる魔道具を作っても、効率が悪すぎて、息を吹きかけた方がマシなレベルの風（？）が出る、しょーもない玩具が出来上がるだけだ。</p><p>だが使い捨て型にすれば、一応実用レベルのものになるはず―</p><p>よーし、やるか</p><p>腕まくりをして、椅子に座ったケイは、宣之言(スクリプト)を書き連ねた紙を取り出す。一応、宣之言(スクリプト)は暗記しているが念のため。</p><p>……アイリーン、魔力ってどんな感じで込めればいい？</p><p>その感覚を把握するために作るんだろ？</p><p>それもそうか</p><p>まあ必要な魔力を均等に込める感じでいいんじゃないか？　こればっかりは感覚的な話だから、……まあアレだ、『考えるな、感じろ』だよ</p><p>わかった……やってみよう</p><p>深呼吸。</p><p>（シーヴは欲張りだからな……気持ち強めに、魔力を込める感じでいってみるか）</p><p>身体の奥底で渦巻く魔力を感じ取る。コンディションはばっちりだ。ケイは手元の原石に意識を集中させ、ゆっくりと宣之言(スクリプト)を唱え始めた。</p><p>Maiden Vento, Siv. Vi restos en ĉi tiu juvelo kaj faros venton eksplodi kiam …</p><p>奥底から魔力を汲み上げ、それを一旦手で捏ね上げて、押し込むようなイメージで原石に注ぎ込んでいく。</p><p>不思議な感覚だった。</p><p>ケイの魔力に呼応するかのように、周囲の空気が渦を巻き、みるみる原石に吸い込まれていく。『風』が、『空気』が、魔力に変換されて封じ込まれているかのように―</p><p>… devas eviti vundi la uzanton mem. Ekzercu.</p><p>全てを無事、唱え終わり、ケイは ふーっ と細く長く息を吐き出した。</p><p>……言い間違いとかなかったか？</p><p>なかったと思うぜ</p><p>……できたかな？</p><p>ケイの問いに、アイリーンはニヤリと笑った。</p><p>バンッ、とアイリーンの手がケイの背中を叩く。</p><p>完成おめでとう！</p><p>……あー、よかったぁ！</p><p>一気に脱力して、へにゃりと机に突っ伏すケイ。</p><p>思ってた１０倍くらい緊張した……</p><p>ハハッ、そうだよな。噛んだりしたら全部パァだもんな</p><p>アイリーンが苦笑している。そう、このプログラミング作業、一発勝負でやり直しがきかないのだ。仮に宣之言(スクリプト)を間違えたり中断したりしてしまった場合、動作不良のゴミが出来上がるだけ。どんなに上等な宝石でも、触媒として捧げるくらいしか使いみちがなくなってしまう……</p><p>どでかい宝石で複雑な魔道具を作る場合、クソ長い宣之言(スクリプト)を唱える人はプレッシャーが半端ないだろうなぁ、とケイはしみじみ思った。</p><p>だがこれでもゲームよりマシだな……宣之言(スクリプト)が短くて済む</p><p>それは間違いない</p><p>うんうんと頷いて同意するアイリーン。</p><p>DEMONDAL のゲーム内では、精霊のAIが意図的にアホの子に設定されていたため、ものすごく細かくかつ厳密に言葉を定義し、膨大な条件分岐を考えて宣之言(スクリプト)を記述しなければならなかった。</p><p>しかし、こちらの世界では精霊たちに自我があり、柔軟な発想が可能なため、ある程度ざっくりした宣之言(スクリプト)でも望んだ動作をしてくれるのだ。少なくとも突風を発生させる魔道具で、まず突風の定義から入る必要はない。</p><p>いやー、緊張した……</p><p>ぼんやりと、完成した魔道具―小さなエメラルドの原石を眺めるケイ。こうしてみると、このしょーもない原石も綺麗に見えてくるから不思議だ。窓から差し込む陽光を浴びてキラキラときらめいて―</p><p>―ん？</p><p>ふと、怪訝な顔をするケイ。</p><p>何か―光の反射がおかしいような。</p><p>顔を近づけて、じっくりと原石を観察したケイは―すぐに顔をひきつらせた。</p><p>原石の内部が、徐々に、白く曇りだしていた。</p><p>これは―非常に微細な傷だ。それが徐々に、内部で拡大している。しかもカタカタと音を立て、原石そのものが震え出した。</p><p>ヤバい、魔力を注ぎすぎた！</p><p>エメラルドは含有物(インクルージョン)が非常に多い宝石だ。今回使用した粗悪な原石も例にもれず、内部に気泡や細かい傷がたくさんあった。どうせ使い捨てだし、比較的単純な宣之言(スクリプト)だし、まあ大丈夫だろうと踏んでいたのだが―</p><p>『シーヴは欲張りだからな……気持ち強めに、魔力を込める感じでいってみるか』</p><p>これが、おそらく余計だった。</p><p>粗悪かつ小さすぎる原石が、魔力の飽和(キャパオーバー)を起こし、崩壊し始めたのだ。</p><p>ところで、魔道具は故障することがある。</p><p>核となる宝石が割れたり大きな傷がついたりしたら、中に封じ込まれた精霊の分体も破損してしまうのだ。</p><p>それでただ、機能を喪失するだけなら、まだいい。</p><p>だが―時と場合によっては―</p><p>暴走―</p><p>異変に気づいたアイリーンの顔から、サッと血の気が引く。</p><p>アイリーンにとっても、未知の領域だった。今まで魔道具づくりで失敗したことはあるが、所詮ケルスティンは影の精霊。物理的な干渉力に乏しく、暴走したところで実害は皆無だったのだ。</p><p>だが―それが風の精霊となると。</p><p>ビキッ、パシッと音を立てて。</p><p>原石に、致(・)命(・)的(・)な(・)亀(・)裂(・)が(・)走(・)っ(・)た(・)。</p><p>圧縮された風の魔力が、解き放たれる―</p><p>いかん、爆発する！</p><p>ケイは咄嗟にアイリーンを抱きかかえ、床に伏せた。</p><p>次の瞬間、</p><p>爆(・)ぜ(・)た(・)。</p><p>グワッ、ドゴオオォォンと轟音が響き渡り、ケイたちは吹き飛ばされた。</p><p>急激な気圧の変化、空気の膨張。室内でそれが起きたらどうなるか。</p><p>単純だ。</p><p>家中の窓ガラスが、耐えきれずに砕け散った。</p><p>バキバシャァァァアンと甲高い音を立てて、ガラスが四方八方に飛び散る。</p><p>さらに、アイリーンが仕掛けた防犯魔道具が作動。</p><p>ブワッサァ！　と家中の窓から影の手が飛び出す。</p><p>そして日光を浴びてスンッ……と消えた。</p><p>……………………</p><p>折り重なるようにして床に転がったまま、茫然とするケイとアイリーン。『なんだ今のは！？』『すごい音がしたぞ！』と近隣の住民が騒ぐ声が、遠くに響いている。</p><p>台所のフライパンが今さらのように戸棚から転がり落ちて、タイルにぶつかりカーンガラガラと耳障りな音を立てた。</p><p>まるで永遠のような沈黙―</p><p>……なあ、ケイ……オレは……</p><p>やがて、アイリーンが口を開いた。</p><p>……オレは……悪い夢を……見てるんだよな……？</p><p>光の消えた目で、呻くようにして。</p><p>……なあ……ケイ……そうだと……言ってくれ……</p><p>よろよろと起き上がったアイリーンは、床に散乱するガラス片を目にした。</p><p>それらは、陽の光を浴びてキラキラときらめいて―</p><p>―うーん</p><p>白目を剥いて卒倒するアイリーン。</p><p>なんでこうなるんだよォォォッッ！</p><p>うずくまったまま慟哭するケイ。</p><p>そよっ、と申し訳程度に、風が吹いた。</p><p>リア充爆発しろとの声が多かったので……。</p><p>そして前回は、たくさんの感想および にゃーん をいただき、ありがとうございました！　Twitterで呟いたら想像以上の反響がありまして、とっても楽しかったです！　 面白い！ の一言は作者の生きる力となり、 にゃーん は癒やしの原動力となります。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます！　にゃーん。</p><p>85. 開発</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ＆アイリーン じゃあ魔道具作ってみよっか♪ （イチャイチャ</p><p>魔道具（不良品） ―キィェェエエエァァァッッ！！！ （カッ！</p><p>―魔道具暴走事故から、数週間が経った。</p><p>全ての窓ガラスが木っ端微塵に吹っ飛ばされ、一時は無残な姿を晒していたケイたちの家だが、コーンウェル商会が再び窓ガラスを仕入れてきたため、元の状態に復元されつつあった。</p><p>二階の一部の窓は雨戸と羊皮紙でカバーしているが、すでに、一階の窓には全てガラスが嵌められている。</p><p>大損こいたコーンウェル商会が、なぜこうも手厚くしてくれるのか。</p><p>答えは単純。</p><p>ケイとアイリーンが、新たに金のなる木を見つけたからだ。</p><p>話は、事故直後に遡る―</p><p>†††</p><p>ケイ用のチェストは、外な</p><p>はい</p><p>ガラス片を片付けたあとのリビング。肩を落として正座するケイは、アイリーンの前で小さくなっていた。</p><p>魔道具の暴走を重く見たアイリーンは、今後ケイの作る魔道具類は全て、家の外に保管することを決定した。</p><p>具体的には、二階のテラス。小さなチェストなり何なりをそこに置く。これなら万が一暴走しても被害が抑えられるだろう。少なくとも、家が中から無茶苦茶にされるよりはマシなはずだ。</p><p>ただ、侵入しやすい―と言っても”NINJA”アイリーン基準―テラスに貴重品を置いておくのは、防犯上の不安もある。</p><p>だから新しいチェストには、実害のある罠を仕掛けておきたい。食らったら五体満足じゃ済まされないようなヤベーヤツを、な……</p><p>物騒な話になってきた……</p><p>大真面目に、かつ淡々と語るアイリーン。ケイは少し腰が引けている。</p><p>窓ガラスが全部ダメになっても、アイリーンはケイにキツく当たり散らすような真似はしなかったが、ムッスリとしていて機嫌が悪い。その感情が全て、チェストを狙うであろう仮想敵に向けられていた。</p><p>しかしケイたちには、実用性のある機械式トラップの作成能力はない。やはり魔術式の方が色々とやりやすいわけだが、アイリーンの影の魔術には物理的干渉力がなく、ケイの風の魔術は―</p><p>―やめとこうぜ。チェストの中身が撒き散らされる未来が見える</p><p>そうだな……</p><p>ケイは一切反論しなかった。</p><p>罠、と言っても、衝撃で中身が傷つくようなら本末転倒だし。毒針とかならいいか……？　うーん、影の魔術(エフェクト)だけじゃなくて、本当に呪いとかかけられたらいいんだけどなー。……あ</p><p>そこで、アイリーンはパシッと膝を打った。</p><p>思い出した。せっかくだしヴァシリーの旦那に相談してみようぜ</p><p>ヴァシリー＝ソロコフ。</p><p>公国と北の大地の境にある緩衝都市ディランニレン。そこに居を構えるガブリロフ商会所属の魔術師だ。</p><p>告死鳥(プラーグ)と契約し、黒羽の鳥を使い魔として操る術に長ける彼は、同時に呪いと退魔の専門家(プロフェッショナル)でもある。ヴァシリーならば、盗人に呪いをかけるような魔道具を作れるかもしれない。</p><p>ディランニレンはサティナからはるか遠くに位置するが、アイリーンの影の魔術を使えば連絡は可能だ。 サティナに無事到着した という事後報告も含めて、コンタクトを取ってみることにした。</p><p>日暮れ後の寝室。</p><p>ランプの光に照らされた壁面に、影の文字が踊る。</p><p>『―というわけでヴァシリーさん、呪いの魔道具とか売ってない？』</p><p>『うーん、その類は販売してないんだ。すまないね』</p><p>影絵を介しての文字会話(チャット)だ。主にアイリーンが雪原語(ルスキ)でやりとりしているが、翻訳魔術でケルスティンが同時通訳してくれるおかげで、ケイにもわかりやすい。</p><p>ケイはベッドに寝転んで、見物と決め込む。ガラス亡き今、ベッドの横の窓は雨戸で閉ざされていた。隙間から吹き込む夜風がやたら冷たく感じる……。</p><p>『呪物は危険だし、恨みを買いやすい。私自身にも身の危険があるからね、売らないようにしてるのさ』</p><p>『そういうことなら、無理は言えないわね』</p><p>『ただ、代わりと言っちゃなんだが、魔除けの護符なら取り揃えているよ。君たちになら安くしておくけど、どうだね』</p><p>『へぇ……興味があるわ、詳しく聞かせて』</p><p>魔除けの護符(タリスマン)。書いて字のごとく、悪意ある魔術的な干渉を跳ね除ける魔道具だ。</p><p>タリスマンには大きく分けて二種、『バリア型』と『永続型』が存在する。</p><p>バリア型は一定の魔術ダメージを無効化し、チャージされた魔力を使い果たしたら壊れてしまう使い捨て。</p><p>永続型は、魔力は消費せずに、持ち主の魔術耐性そのものを強化するお守りだ。</p><p>基本的に永続型の方が高価で貴重、とされている。ケイたちがゲーム世界から持ち込んだ魔除けの護符(タリスマン)は高性能の永続型であり、もともとの身体(アバター)のポテンシャルもあわされば、大抵の呪いは無効化(レジスト)できる―はずだった。</p><p>しかし、北の大地の戦闘では、耐性を貫通して弱体化の呪い(デバフ)をかけられてしまい、大いに苦労する羽目になった。この経験を踏まえ、使い捨てではあるが確実に一定の呪いを無効化できる、バリア型タリスマンも手に入れたいと思っていたのだ。</p><p>そして話を聞くに、ヴァシリー作のタリスマンはバリア型らしい。お値段も魔道具としてはお手頃な友情価格を提示されたので、ぜひ購入しようという話になったが、やはりお互いの距離が問題になった。</p><p>『届けてもらうのは無理かしら』</p><p>『さすがにちょっと遠すぎる。ディランニレンからウルヴァーンまでなら、まだ何とかなるが……サティナまでは使い魔の体力が持たない。伝書鴉(ホーミングクロウ)を休ませる施設や餌の補給は必須だ』</p><p>『うーん……ウルヴァーンまでは来れるの？　それならコーンウェル商会の支部に話をつけておくけど。支部で商品と代金の受け渡しをしてもらうの、それなら支部で伝書鴉を休ませることもできるし』</p><p>『……悪くない手だが、お恥ずかしながら、私は公国語が話せない。雪原語(ルスキ)のできる人がいてくれると助かるんだが……』</p><p>『そうねー、そういう人もいるとは思うんだけど……詳しく聞いてみないとわからないわね……』</p><p>そのとき、会話を傍観していたケイに電流走る。</p><p>―それだッ！</p><p>おわッ！？　どうしたんだよケイ？　ビビるじゃん</p><p>アイリーン、俺は気づいたぞ！　『翻訳』だ！</p><p>ケイはびしりと、壁面に揺れるケルスティンの影文字を指差す。</p><p>この翻訳魔術！　投影機(プロジェクター)と組み合わせて公国語と雪原語の同時翻訳機にしたら、そこそこ需要があるんじゃないか？</p><p>……あ</p><p>アイリーンも、目を見開いた。</p><p>†††</p><p>それから、話はスピーディーに進んだ。</p><p>まずヴァシリーが諸手を挙げて賛成した。『それ私が欲しい！』とのこと。</p><p>ガブリロフ商会だけでは飽き足らず、公国の商会にもコネを作りたいらしい。おそらく今回の一件で、コーンウェル商会と誼を結ぶ腹づもりだろう。</p><p>しかし、ガブリロフ商会の専属じゃないのか？</p><p>実はケイもアイリーンも、コーンウェル商会とは専属契約を結んでおり、コーンウェル商会を介さない魔道具の売買が禁じられている（個人間の譲渡を除く）。その代わり、契約が遵守される限り、家やら窓ガラスやら魔道具の材料やらを気前よく都合してもらえるというわけだ。</p><p>ヴァシリーも似たような契約を結んでいるのでは、と思ったケイが尋ねると、</p><p>『たしかに私は、ガブリロフ商会の専属といっていい立場だ。商会の援助を受けて作った物品は(・)、全て商会を通じて売買する義務がある。が、私の個人の研究開発に関しては、私の裁量ということになっていてね』</p><p>そして仮に、別の組織が私個人の研究開発を支援するというならば、それはガブリロフ商会の関知するところではない―とヴァシリーは語った。要は、契約に抜け穴を作っておいたというわけだ。魔道具の『売買』全般をコーンウェル商会に紐付けされているケイたちとしては、 やられたなぁ その手があったか という想いだ。</p><p>まあ、コーンウェル商会には充分よくしてもらっているので、出し抜くような真似をするつもりは毛頭ない。 個人間の譲渡ならOK と配慮(・・)もしてもらっているし、現状で不満はなかった。</p><p>『ヴァシリーさん、翻訳機って売れるかしら？』</p><p>『多少高くても売れるだろうさ。何人か欲しがりそうな奴を知っている』</p><p>―なんなら私が口利きしようか？　などと提案するヴァシリー。文字越しでも伝わってくる商魂たくましさに、ケイとアイリーンは思わず顔を見合わせて苦笑するのだった。</p><p>そしてヴァシリーに太鼓判を押されたアイリーンは、通信終了後、早速魔道具の作成に取り掛かった。いくつか水晶を駄目にしてから、『通訳』という高度な動作を可能とする魔道具には、それに見合う『入れ物』が必要と判断。普段は滅多に使わない良質な宝石、ケルスティンが好むラブラドライトの大粒を用いて試作品を完成させた。水晶を捧げて魔力を補充することで、半永久的に稼働する優れものだ。</p><p>翌日、コーンウェル商会に持っていくと、これがまた、高く評価された。</p><p>馬賊が制圧され、滞っていた物流が正常化されつつある北の大地は、反動のように商業活動が活発になっているらしい。特に公国産の医薬品や食料品がよく売れるそうで、コーンウェル商会もその流れに切り込もうとしているようだ。</p><p>ただ、大手の商会同士で商談をするにあたって、信用できる通訳がなかなか見つからないとのこと。雪原語(ルスキ)に精通した公国人は珍しく、見つかる通訳は片言の公国語を操る雪原の民がほとんど。当然、雪原の民は北の大地側の人間なので、交渉も公国側が不利になる可能性がある。</p><p>その点、アイリーンの翻訳機は、『精霊は嘘をつけない』という都合上、信頼性が高い。日没後でなければ使えないという欠点を補って余りあるメリットだ。コーンウェル商会が有用性を実証すれば、その他の商会もこぞって求めるようになるだろう。あるいは政治の場でも用いられるようになるかもしれない。いずれにせよ素晴らしい価値を秘めていることは間違いなかった。</p><p>さらに、アイリーンがヴァシリー―ディランニレンに住む告死鳥(プラーグ)の魔術師の件を切り出すと、これもまた概ね歓迎され、翻訳機の試作品を贈ることも了承された。近日中に、翻訳機が初運用されることになるだろう―ウルヴァーンのコーンウェル商会支部にて、ヴァシリーと支部員のやりとりで。</p><p>ちなみに家のテラスにケイ専用のチェストを据え付ける提案も、二つ返事で了承された。日が暮れる前に職人が派遣され、チェストが速やかに設置される。テラスの床に金具で固定されているので、チェストごと盗まれる心配はない。</p><p>問題はそこに仕掛けるトラップだが―これは思わぬ方向で解決した。</p><p>『ああ、それなら僕が何か作ろうか？』</p><p>コウだ。</p><p>引越し祝いに『冷蔵庫』の魔道具を贈ると連絡があり、ケイたちが屋敷を訪ねた日のこと。ケイがミスって家の窓ガラスを全部粉砕した―ことのあらましを聞いて爆笑したコウは、チェストの罠について協力を申し出た。</p><p>『鍵が使われず、チェストが破壊されたら作動する感じでいいかな？　ちゃちゃっと作ってくるよ』</p><p>屋敷の私室に引っ込んだコウは、すぐに水色の宝石(ブルートパーズ)を手に戻ってきた。大きめの一つが冷蔵庫の核となるパーツ、小さめの一つが罠になるパーツだ。</p><p>『ウチの氷の精霊(オービーヌ)は、魔道具にブルートパーズしか受け付けなくてね……これを錠前に貼り付けて、チェストの内側に軽く塩水を塗ってくれ。非正規の手段でチェストを開ける奴がいたら、そいつは凍傷を心配する羽目になるだろうさ』</p><p>かくして、無理やりこじ開けると冷気が噴き出し、氷漬けにされるチェストが爆誕した。物理に干渉するタイプの魔術なので、『妖精』の昏倒・眠りの魔術に比べ、魔除けの護符(タリスマン)を持っていても抵抗(レジスト)されづらい。これなら安心して魔道具を保管できるというものだ。</p><p>ところで、その後のケイだが。</p><p>失敗にもめげず、魔道具の研究開発に勤しんでいた。もちろん屋外で。</p><p>魔力を込めるさじ加減がなかなか掴めず、何度か爆発の憂き目を見たものの、その甲斐あってか、ほどなくして矢避けの護符の作成に成功した。</p><p>一定範囲に飛来した矢や投射物のうち、持ち主に命中するものを選別し、風で軌道を逸らすという便利な品だ。さすがに”竜鱗通し”の全力射撃は防げないが、普通の弓や小型のクロスボウ相手なら充分な防御力を発揮する。ただし、ほぼ使い捨てで、連続して効果を発動し内部の魔力を使い果たすと、宝石(エメラルド)そのものが消滅してしまう。</p><p>使い捨てとしたのは、安全に、かつ急速に魔力を補充(チャージ)する手段が確立できなかったからだ。一応、壊れる前に使用を取りやめて、風通しのいい場所に放置しておけば、周囲の微弱な魔力を吸収し自然回復する。が、最大までチャージするのに要する時間は数ヶ月だ。</p><p>魔術師が直接宝石(エメラルド)に魔力をチャージする、という手もあるが―その際、何が起きてもケイは責任を取らない。風の精霊は気まぐれに過ぎるのだ……</p><p>この矢避けの護符作成の報に、コーンウェル商会の上層部は沸いた。</p><p>件の魔道具暴走事故についても、窓ガラスの損失がエグ過ぎたとはいえ、『そんな事態を引き起こすほどの潜在能力(ポテンシャル)を秘めている』という点でケイは評価されていたのだ。 大損だったけど長い目で見て投資してやろう。大損だったけど と、商会上層部は年単位で成長を見守る構えだった。</p><p>ところが、想像以上の早さで実用レベルの魔道具を仕上げてきた。ホランドを含む商会のメンバー立ち会いのもと、効果も実証済み。これで喜ばないはずがない。</p><p>……と、いうわけで、ケイくんに依頼だ</p><p>ある日、ホランドが家を訪ねてきた。</p><p>懐から取り出すビロードの袋。中から姿を現したのは―ケイがゲーム内でさえお目にかかったことがないような、見事な大粒のエメラルド。</p><p>それも、一つではない。</p><p>なんと五つだ。</p><p>屋敷の一軒や二軒は建てられそうな至宝が、複数。その時点で、ケイは腹の奥底がキュッと引き絞られるような緊張感に襲われた。</p><p>―さ(・)る(・)御(・)方(・)からのオーダーでね。以前の試作品と、同等の性能を持つ矢避けの護符をお求めらしい</p><p>……五つも？</p><p>最悪、一つは駄目にしてもいいとのことだ。その代わり最高のコンディションのものを四つ納品せよ、と</p><p>…………</p><p>これほどの至宝を、一つは無駄にしていい……？</p><p>旦那、これ絶対、領主クラスの依頼だろ</p><p>私は知らない……ナニモシラナイ……</p><p>アイリーンの問いかけに、なぜか片言になって壊れた人形のように首を振るホランド。彼は彼でいっぱいいっぱいのようだ。</p><p>無論、断るという選択肢があるはずもなく、ケイは謹んで依頼を受けた。</p><p>―性能は、試作品と同じくらいで。あれは驚くほど高性能だったから</p><p>ケイが初めて完成させたヤツのことだ。ケイにとって、というかゲーム内では標準的な性能だったのだが、こちらの世界基準では違ったようだ。聞くところによれば、矢避けの護符といえば、無差別に突風を吹き荒らすだけのお粗末なものが大半らしい。</p><p>ちなみに、完成品は納品されたあと、無作為に三つが選ばれてテストされる。それら全ての性能が要求を満たしていれば合格。残りの一つが晴れて『お買い上げ』されるって寸法らしいよ</p><p>テストのためだけに、これほどのお宝を三つも使い潰すのか……？</p><p>万が一があってはならないからね</p><p>四つのうち、無作為に選ばれた三つに問題がないならば、残る一つの性能も信用できるという寸法だ。大量生産の品から不良品を探し出すのとは違い、製作者の腕前と信用度を確かめるのが目的なので、こういった手法を取るらしい。</p><p>……だからケイくん、くれぐれも手は抜かないで、全てを最高の状態に仕上げてほしい。もちろん私は、きみが手を抜くような人物じゃないと知っている。それでも、全力で仕上げてほしいんだ。万が一、不(・)良(・)品(・)なんか掴ませた日には、とてもまずいことになってしまう……！！</p><p>いつになく必死なホランドに自分の置かれた状況を再認識し、ケイはまたぞろ緊張で腹痛を覚え始めるのであった……</p><p>†††</p><p>それから、ゲロを吐きそうになりながらも、ケイは何とか護符を完成させた。</p><p>幸いなことにエメラルドは一つも無駄にすることなく、最高のコンディションで五つの護符を納品した。性能は、試作品よりちょっと魔力に余裕をもたせたくらいで、堅実さを優先。冒険は一切しなかった。</p><p>しばらくアイリーンともども、落ち着かない日々を過ごしていた。ホランドが満面の笑みで訪れたときには、安堵のあまりしばらく立ち上がれなかったほどだ。</p><p>さる御方とやらも大満足だったとのことで、エメラルドを一つも無駄にしなかったことも含めて評価され、ケイは莫大な報酬を受け取った。窓ガラスの件も、なんとなくそれで許された気がした。別にアイリーンも商会関係者も、嘆きこそすれ怒ってはいなかったのだが……</p><p>そして重責からも解放され、のびのびと過ごす日々が始まった。ここに来て自由度が高まり、ケイも趣味に没頭し始めた。</p><p>あるときは、魔術の理論と応用を研究したり。</p><p>アイリーン、風の魔道具って下手したら爆発するじゃないか</p><p>……そうだな。まだ記憶に新しいぜ</p><p>うむ。それで思ったんだが、あの爆発を利用すれば銃が作れるんじゃないかと</p><p>この世界に銃は存在しない。</p><p>というより、地球でいう火薬(ガンパウダー)がない。火薬を調合しても、火の精霊の介入により爆発が発生せず、代わりに凄まじい高温でじっくりと燃焼するのだ。この性質により火薬は主に鍛冶や錬金術に利用されている。</p><p>ケイ……</p><p>銃、という単語を聞いて、書き物をしていたアイリーンは何とも言えない顔でペンを置いた。</p><p>なぜ……弓使いとしてのアイデンティティを自ら放り出すような真似を……</p><p>いや、それがな。必要な魔力諸々を計算してみたんだが、どうやら同じ魔力を用いるなら、風の爆発で弾丸を射出するより、矢を魔道具にして直接打ち込んだ方が強いらしい</p><p>ふふん、とケイはドヤった。</p><p>つまり竜鱗通しの方が銃より強い</p><p>良かったじゃねえか</p><p>またあるときは、木工職人のモンタンと特殊な矢の開発にチャレンジしたり。</p><p>と、いうわけで、敢えて不安定な魔道具を鏃に仕込むことで―</p><p>体内にめり込んでから暴風が解き放たれるというわけですか！</p><p>そうだ。あとこっちは、放つ前に起動することで空気抵抗を―</p><p>す、すごい！　これなら矢の威力がさらに向上する！</p><p>そしてこれは、魔道具により笛の部分を制御する鏑矢で―</p><p>なんということだ！　今までにない複雑な音の組み合わせが可能に！</p><p>工房で興奮するケイとモンタンを、アイリーンとリリーとモンタンの妻キスカは呆れ顔で見ていた。</p><p>そしてあるときは、インスピレーションの赴くまま妙な魔道具を作ってみたり。</p><p>アイリーン、これとかどうだろう</p><p>……何、この……何だ、これ？　タオル？</p><p>普通よりちょっと乾きやすいタオルを作ってみた。ぼちぼち冬だからな</p><p>エメラルド使ってまで作るものかよ！　送風機作ってまとめて乾かせよ！</p><p>あっ。たしかに……やってしまったな</p><p>別にいいけどさ。……それで、こっちは？</p><p>風鈴だ。風を呼び込んで自動で鳴る</p><p>何の意味があるんだよ！</p><p>いや、風を呼ぶ帆に応用しようと思って……</p><p>想像以上にまともな意味があった</p><p>などなど。</p><p>なんやかんや言いつつ、アイリーンも楽しんでいた。</p><p>ケイは間違いなく、人生で一番、充実した和やかな日々を過ごしていた―</p><p>ケイくん、手紙が届いたよ</p><p>晩秋のある日、ホランドが訪れるまでは。</p><p>……手紙？</p><p>差出人は、ヴァーク村の村長のエリドアだ</p><p>ヴァーク村。</p><p>かつて隊商護衛に参加していたケイが、“大熊(グランドゥルス)“を仕留めた村だ。</p><p>北の大地から帰還する道中も立ち寄り、 深部(アビス) の境界線が接近しつつあることを確認し、ポーションの素材を集めたり、凶暴な獣『チェカー・チェカー』の群れと交戦した場所でもある。</p><p>そんな村から、手紙。</p><p>―胸騒ぎがする。</p><p>開封して、アイリーンとともに読み始めた。</p><p>『　公国一の狩人、ケイへ　』</p><p>内容は、至ってシンプルだった。</p><p>『　村外れに、森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)が出た　』</p><p>それは、“怪物狩り”を志すケイに宛てた―</p><p>『　俺たちじゃ手に負えない　助けてくれ　』</p><p>―初めての救援依頼だった。</p><p>いつも感想・コメント(にゃーん)ありがとうございます！！　めっちゃ励みになってます！！</p><p>カクヨムでも１話先行で連載中です。</p><p>86. 要請</p><p>開拓村からの救援要請を受けて、ケイは、そしてアイリーンは、どう動くのか―？</p><p>86. 要請</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)”</p><p>名前の通り、バカでかいトカゲだ。深みがかった青緑色の表皮が特徴で、地球の『コモドドラゴン』という爬虫類に似ており、その体長は優に１０メートルを超す。熊型の巨大モンスター”大熊(グランドゥルス)“と並び称される、森の王者だ。</p><p>巨体ゆえ鈍重そうなイメージがあるが、見かけに反してその動きは素早い。具体的にはあぜ道を走る軽トラくらいの速度で森を駆ける。十トントラック並の体躯でありながら、だ。ケイの足ではまず振り切れない。</p><p>強靭な表皮は生半可な攻撃を通さず、分厚い肉は衝撃にも強い。太い腕も、鋭い爪も、長い尻尾もギザギザに尖った歯も、全てが脅威ではあるが、特にその巨体による突進が恐ろしい。まともに食らえば轢死は免れないだろう。</p><p>そんな化け物が、ヴァーク村の外れに出現した―</p><p>過去に一度、“大熊(グランドゥルス)“に襲われ、大きな被害を受けたあの村に。</p><p>ホランド……手紙(これ)には、目を通したか？</p><p>読み終わって小さくため息をついたケイは、折り畳んだ手紙をひらひらさせながら問いかけた。</p><p>いや、私は開封してないよ。マナーとしてね</p><p>首を横に振ったホランドは、 ただ、 と言葉を続ける。</p><p>―事態は把握している。ヴァーク村の使者(メッセンジャー)が話してくれた</p><p>使者？　サティナに来てるのか？</p><p>ああ、手紙と一緒にね。今は商会本部にいる</p><p>詳しく話を聞きたい。会えるだろうか</p><p>手紙には一応、大まかな事情が書かれていたが、現地の住民から話を聞けるならそれに越したことはない。何か違ったものが見えてくるかもしれないから。</p><p>もちろん。彼もそのために来たのだろう</p><p>ホランドに連れられて、ケイとアイリーンは、急ぎコーンウェル商会の本部へと向かう。</p><p>……どうするつもりだい</p><p>道中、ホランドが真面目な顔で尋ねてきた。</p><p>……力にはなりたいと思う</p><p>ケイは、言葉少なに答えた。</p><p>傍らに、アイリーンの存在を、強く感じながら。</p><p>†††</p><p>商会の控室で、落ち着きなくソファに腰掛けていたのは、まだ子どもと言ってもいい幼い少年だった。</p><p>！！　ケイさん！　お願いです、村を助けてください！</p><p>しかしそのあどけない顔は緊張と焦りで引きつっており、ケイを見るなり土下座しかねない勢いで頼み込んできた。少年の名を『テオ』という、らしい。ヴァーク村の村長・エリドアの親戚で、従兄弟の子にあたるそうだ。</p><p>協力はしたいと思っている。詳しい話を聞かせてもらえないか</p><p>ケイは、テオを落ち着かせるように微笑んでから、 何が起きたのか、慌てず、最初から順序立てて教えてくれ と頼んだ。</p><p>ソファに座り直したテオは、早口で事の次第を語り始めた。</p><p>―ケイとアイリーンの活躍によって 深部(アビス) の領域拡大が確認されたのち、ヴァーク村には、命知らずの探索者たちが噂を聞きつけて集まってきたらしい。</p><p>お目当てはもちろん、高等魔法薬(ハイポーション)の原料となる霊花『アビスの先駆け』をはじめとした、貴重な 深部(アビス) の素材だ。探索者のほとんどが食い詰めたごろつきもどきだったが、中には手練の狩人や野伏(レンジャー)もいたようで、彼らはそこそこ成果を上げていたらしい。</p><p>商会の買取所が村内に常駐するようになり、大きなトラブルもなく、ヴァーク村はにわかに活気づいていたそうだ。</p><p>ところが今日から二週間ほど前、とある探索者の一行が 深部(アビス) の領域付近で奇妙な痕跡を見つけた。草木が広範囲に渡ってなぎ倒されており、地面には深々と巨大な足跡が残されていたそうだ。</p><p>何らかの巨大な化け物が、そこにいたことは明らかだった。</p><p>しかし村から 深部 の領域までは森歩きで一時間ほど離れており、その時点では、『化け物がたまたま通りがかっただけ』、という希望的観測が立てられた。</p><p>それが打ち砕かれたのが、先週。『アビスの先駆け』を採取しに行った探索者たちが、とうとう鉢合わせしてしまったのだ。</p><p>巨大な、青緑色のトカゲの化け物と。</p><p>尻尾まで含めれば十数メートルにもなる、森の王者、森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)と―</p><p>村にいた探索者の中でも、比較的、腕利きの四人組だったんですが、二人だけが這々の体で逃げ帰ってきました。残りの二人は喰われたそうです。どっちも、ぱくりと一口で。遺品どころか布切れ一枚残らなかった……</p><p>ぶるっ、とまるで見てきたかのように身震いするテオ。</p><p>喰われた、か……</p><p>ケイはアイリーンと顔を見合わせる。黙って話を聞いていたアイリーンだがその表情は険しい。きっと自分も似たような顔をしているだろうな、とケイは思った。</p><p>（―人の味を覚えたか）</p><p>非常にまずい状況だ。</p><p>その探索者たちが帰ってきたのは、何日前だ？</p><p>二日前です。おれは村長(エリドア)に言われて、商会の買取所の人と一緒に馬に乗ってきました。おれはチビであんまり重くないから、馬の負担にもならないだろ、って……</p><p>なるほど</p><p>ケイたちが旅したときは、ヴァーク村からサティナまで四日かかった。同行した隊商の荷馬車にあわせて、ゆっくりと進んだからだ。逆に、テオたちはかなり飛ばして来たのだろう。</p><p>おれが出発したときは、まだ村は無事でした。でも村長が『おそらく時間の問題だ』、って。『ケイの助けが必要だ』、って言って……。今は、女子供を近くの村に避難させて、男だけで守りを固めているはずです</p><p>―こうしてテオが使いに出されたのも、おそらくは避難の一環なのだろう。</p><p>一応、エリドアは領主にも報告したらしいが、なまじ村そのものが無事で、かつ村のすぐ近くで目撃情報がないため、軍も出動しづらい状況なのだという。</p><p>しかし、それも二日前までの話。</p><p>今この瞬間は、どうなっているかわからない―</p><p>お願いです、ケイさん！　村を助けてください！</p><p>……わかった、話してくれてありがとう。俺は協力するよ。可能な限り急いでヴァーク村に向かおうと思う</p><p>ケイの力強い返事に、テオがパァッと顔を輝かせた。</p><p>ありがとうございます！！</p><p>最善は尽くす。だからきみは待っていてくれ</p><p>ぽん、とテオの肩を叩いて励ましてから、ケイはアイリーン・ホランドとともに部屋を後にした。</p><p>……で、実際のとこ、どうなんだケイ</p><p>部屋から十分離れてから、アイリーンが口を開く。</p><p>……正直なところ、間に合うかどうかはわからん</p><p>テオの前では言わなかったが、ケイの見立てはシビアだ。</p><p>犠牲者が出たのが二日前―思ったより早く報せが届いたが、それでももう二日が過ぎてしまったのだ。森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)の行動範囲がどう変化したか、全く予想がつかない。最悪の場合、村はもう消滅しているだろう。開拓村の木の防壁なぞ時間稼ぎにもならないはずだ。</p><p>いずれにせよ、今すぐ出発というわけにはいかない。色々と準備をする必要がある、相手が相手だからな</p><p>ケイくん……間に合う間に合わないはこの際置いておくとして、“森大蜥蜴”は倒せるものなのかい？　単騎で”大熊(グランドゥルス)“を屠ったきみに聞くのも野暮だけど</p><p>ホランドは心配そうにしている。</p><p>私の知る限りでは―といっても大昔の話だが、“森大蜥蜴”を仕留めるには訓練された兵士が最低百人と、バリスタのような攻城兵器が必要だと聞いたことがある。公国の黎明期に、森を切り開くたびに”森大蜥蜴”の死闘があったそうだ。毎回とてつもない被害が出たらしい―“森大蜥蜴”は、そう簡単に仕留めきれる相手とは思えないんだ。もしきみに万が一のことがあったらと思うと、私は不安で堪らない</p><p>ホランド―というより、この世界の住人にとって、“森大蜥蜴”とはもはや天災のようなものだ。森の王者として”大熊”と双璧を成すといっても、そもそも”大熊”は賢いため森の外には滅多に出てこない。反対に、“森大蜥蜴”は猪突猛進で恐れを知らないため、割とフットワーク軽めに動き回り、現地住民との衝突も多い。</p><p>“森大蜥蜴”の方が、より現実的な脅威として恐れられているのだ。</p><p>……まあ、俺一人では絶対に無理だな</p><p>ホランドに対し、ケイは率直に答えた。 え とホランドが目を丸くする。</p><p>だから、人手がいる。……アイリーン</p><p>足を止め、隣のアイリーンに向き直った。</p><p>透き通った、真っ直ぐな青い瞳を覗き込む。</p><p>……これは、とても危険なことだ</p><p>わかってるよ</p><p>ニッ、と口の端を釣り上げたアイリーンが、ケイの胸板をコツンと叩いた。</p><p>―オレも行く。囮役なら任せろ。サティナに残れとか言ったらぶん殴るぜ</p><p>アイリーンの機動力なら、“森大蜥蜴”を引きつけて翻弄することができる。そこを、ケイが遠距離から叩く。ゲーム内で幾度となく使った手だ。</p><p>だが―これはゲームではない。一歩間違えば即死。危険極まりない鬼ごっこ。そんな役割をアイリーンに丸投げしようとしている。死地に送ろうとしている。彼女の能力なら大丈夫だとは思いつつも、危険であることには変わりないのに。</p><p>男として、恋人として、忸怩たる思いがあった。そもそも『怪物狩り』になんか手を出さなければ、サティナでのんびり平和に暮らしていけるのだ。『命をかけてでも誰かの役に立ってみたい』という、子どもじみたケイの我儘に、同じく命をかけて付き合ってくれるだけ―</p><p>とはいえ。</p><p>アイリーンの性格はわかっている。ここで申し訳無さそうにしたり、今さらグダグダ言ったり迷ったりするのは、彼女に対して失礼なだけだ。</p><p>だから―感謝の気持ちを。</p><p>ありがとう。頼んだ</p><p>あとは後悔しないよう、万全に対策し、挑むのみ。</p><p>というわけで、俺一人では無理だが―</p><p>―オレたち二人なら可能ってワケよ！　ホランドの旦那</p><p>不敵に笑うケイとアイリーンを、ホランドは複雑な心境で見つめていた。</p><p>コーンウェル商会お抱えの魔術師。家だのガラスだのと投資を続け、近ごろようやく利益が出始めて軌道に乗ってきたところ、わざわざ天災じみた怪物との戦いに首を突っ込もうとしている。</p><p>もし二人揃って万が一のことが起きた場合、どうなるか？　―考えたくもないことだ。そして嘆かわしいことに、二人を無理やり止める権利は、ホランドにも商会にもないのだった。再び魔術師を囲う機会が訪れたならば、契約書の文面には再考の余地があるだろう。『 深部 の化け物との戦いに直接身を投じるべからず』とでも書くか―？</p><p>まあ、今考えても詮無きことだ。</p><p>―ならば。</p><p>我々に、何かできることは？</p><p>少しでも『分がある賭け』にもっていかねば。</p><p>そうだな……現時点での、ヴァーク村の様子を知る方法はないか？　伝書鴉(ホーミングクロウ)とか</p><p>うちの商会にはない。ヴァシリー殿との契約はまだ完了してないし、肝心の伝書鴉も届いてないからね。その手の通信はラングニック商会が独占してるから、いずれにせよ少し時間がかかる</p><p>ラングニック……コウのとこのか</p><p>アイリーンが呟いた。『冷蔵庫製造マシーン』としてコウを押さえている、領主の御用商人だ。アイリーンが影の魔術を通信手段として売り出さず自重しているのは、彼の商会に所属する魔術師たちの利権を脅かし、『敵』と認定されるのを避けるためでもある―目をつけられるだけでも厄介なので、影のリアルタイム文字会話(チャット)に関しては秘匿しているのが現状だ。</p><p>『―どうする？　日暮れ後にでも使うか？』</p><p>それでもアイリーンが小声で尋ねてきたが、ケイは頭(かぶり)を振る。</p><p>『やめておこう。どちらにせよ現地に出向く必要はあるんだ』</p><p>一考の価値はあったが、政治的に余計なリスクは取らないことにした。ヴァーク村の方から話が漏れる可能性もある。以前ヴァシリーとの連絡に影の魔術を使ったのは、本人が伝書鴉の使い手でありながら信用のおける人物だったからだ。</p><p>通信手段は諦めるか。ホランド、よければ馬車と、生きた山羊を何頭か、そしてヴァーク村の男たちに使わせるつるはしやショベルの類を用意してもらえないか</p><p>わかった。一応用途を聞いても？</p><p>山羊は囮として使うかもしれない。ショベルとかは、地面を掘って罠を作るためだ。最悪、ちょっとした溝を彫るだけでも、突進の勢いを削げる。可能な限り地形を利用したい。馬車はそれらの運搬用だ</p><p>ということは、御者も必要だね</p><p>そうだな。できれば馬車につける最低限の護衛も頼む。準備が整えば、まず俺が軽装で先行しようと思う。サスケの足なら一日もあれば着くはずだ</p><p>オレは馬車と一緒に、か？</p><p>アイリーンは少し不満げだ。</p><p>可能なら二人乗りでもいいが……サスケがヘバったら意味ないからなぁ</p><p>天井を仰ぎ、頭の中で、自分一人を乗せたサスケを最高効率で走らせた場合、アイリーンと二人乗りした場合、そしてアイリーンがスズカとともに付いてきた場合を比較検討したケイは、</p><p>訂正、俺はサスケに、アイリーンはスズカに乗って、スズカのペースにあわせた全速力でヴァーク村に先行しよう。仮に俺が一人で急いで、まさに村が襲われる直前に間に合ったとしても、サスケが体力的に限界だろうから騎兵としての能力が活かせない。そのままサスケごと喰われるのがオチだ……この可能性に関しては諦めて、最初から切り捨てるべきだな</p><p>その後も、ホランドと話し合い、細々したことを決める。</p><p>やはり、対”森大蜥蜴”を踏まえて、戦えるヤツは多いに越したことはないんだが……ホランド、誰か心当たりはないか？　弓かクロスボウのそこそこの使い手で、“森大蜥蜴”を前にしてもビビらないヤツは</p><p>……射撃の腕前はともかく、化け物相手にビビらない人間、となるとウチの商会じゃちょっと厳しいかな……</p><p>ケイのリクエストに、口の端を引きつらせるホランド。</p><p>というか、どこの商会でも厳しいと思うよ</p><p>……それもそうか</p><p>隊商の護衛にせよ用心棒にせよ、野盗や狼と戦う覚悟はあるだろうが、 深部 の怪物までは流石に想定外だろう。以前ホランドの隊商で一緒だった、経験豊富な護衛のダグマルでさえ、“大熊”が出たときはビビり倒していたのを思い出す。</p><p>んじゃ、ホランドの旦那は、物資と《《普通の》》人手の調達と。支払いはどうすんだ、ケイ？</p><p>そう、だな……どうしたものか</p><p>あ、それなら二人とも、魔道具の売り上げから天引きする形でどうだろう。現金で先払いでもいいけど用意する時間がもったいないだろう？</p><p>ありがたい、それで頼む。あとアイリーン、モンタンとコウのところにお使いに行ってくれないか？</p><p>もちろんいいぜ。何を頼むつもりだ？　予想はつくけど</p><p>モンタンには大至急で矢の注文を。事情を説明して”長矢”をあるだけ買って、“爆裂矢”のベースの追加も依頼しといてくれ。明日の日の出までに用意できるだけでいい。コウには、いくつか注文したい魔道具が―</p><p>―それをコウの旦那に頼むなら、ついでに―</p><p>アイリーンのアイディアも交え、コウへの注文内容を決める。</p><p>そういえば、ケイくんたちは、領主様のところの『流浪の魔術師』殿とも知り合いなんだっけ</p><p>まあな。いろいろあってさ。……で、オレがお使いに行くのは構わないけど、ケイはどうすんだ？</p><p>アイリーンの疑問はもっともだ。普段なら矢の購入や、コウへの注文を自分でやっていただろう。</p><p>―いや、そもそも最近だと二人で別行動なのがそもそも珍しいか。</p><p>そう思い当たって、少し可笑しく感じながらもケイは答える。</p><p>―俺は助っ人候補を訪ねてくる。サスケなら日帰りできるはずだ</p><p>助っ人？</p><p>候補？</p><p>揃って首をかしげるアイリーンとホランド。</p><p>―ケイが今、対”森大蜥蜴”戦で必要としているのは、とにかく怪物を前にしてもビビらず、きちんと行動できる人物だ。</p><p>とはいえ先ほどホランドが言っていたように、怪物と戦う胆力がある人物など、早々存在しない。</p><p>だが、ケイには心当たりがあった。</p><p>弓の使い手で、サティナ近辺に住んでいて、かつ信用のおける人物が。</p><p>彼ならば、協力してくれるはずだ。</p><p>タアフ村に行く。狩人のマンデルなら、あるいは</p><p>―ケイに次いで、武闘大会の射的部門で二位に輝いた、あの男ならば。</p><p>いつもコメント・感想、ありがとうございます。</p><p>やはりコレがね！！　一番テンション上がる瞬間です。お陰様でハイマットフルバースト更新できてます！　今後とも、ご声援をいただけるともっと頑張れますので、どうぞよろしくお願い申し上げます！　にゃーん。</p><p>87. Tahfu</p><p>街道に沿って、草原を駆けていく騎馬の姿があった。</p><p>ケイを乗せたサスケと、付き従うように併走するスズカだ。</p><p>サスケの背に揺られながら、ケイは周囲に鋭い視線を向けていた。のどかな風景が広がるばかりだが、警戒は怠らない。以前ここを通ったときのように、突然草原の民の集団に襲われないとも限らないからだ。</p><p>左手にはいつでも矢を放てるよう”竜鱗通し”を握り、もう片方の手でスズカの手綱を引いている。スズカを連れてきたのは、簡単な荷物持ちのためと、マンデルの協力が得られたとき、彼を乗せていくためだ。</p><p>サティナを出たのがおおよそ一時間前。</p><p>革鎧と鎖帷子を装備しているので、胸ポケットの懐中時計を確認できないが、体感でそれくらいだ。途中、休憩するにしても、このまま駈歩(かけあし)を維持していれば、あと二時間ほどでタアフ村に着くだろう。</p><p>ドドドッ、ドドドッと蹄の音が響き渡る。それに混じって、ハッ、ハッという荒い二頭の息遣いも。</p><p>……思えば、遠くまで来たもんだ</p><p>一人で馬に揺られていると、ゲーム時代のことを思い出す。</p><p>こうして今のように、独りで駆け回っていた日々を。</p><p>ケイは基本的に、ソロで遊んでいた。いくつか傭兵団(クラン)に所属したこともあるが、長続きせずに抜けた。言語や文化の違いも大きく、内輪ノリにうまくついていけなかったからだ。ケイがほぼ二十四時間ぶっ通しでログインし続けていることについて、面白半分で詮索されるのが鬱陶しかったこともある。</p><p>忘れたかったのだ。現実のことなんて。生命維持槽に浮かぶ肉体(からだ)のことは全て忘れて、代わりに DEMONDAL のリアルな世界に浸っていたかった。</p><p>だから気楽な一人を選んだ。</p><p>気が向いたときにだけ、他のプレイヤーと狩りに出かけたり、フリーランスの傭兵として抗争に参加したり。“NINJA”アンドレイと知り合ったのも、確かこの頃だったか―。</p><p>DEMONDAL のサーバーはヨーロッパにあり、プレイヤーの多くは欧米人だったので、ケイは時差の関係で暇な時間を過ごすことが多かった。そんなときは、ミカヅキに乗って気ままに世界を放浪したものだ。</p><p>今のように―果てしなく、どこまでも広がっているように見えた、仮想の大地を駆け回って。</p><p>…………</p><p>物思いに耽るケイの耳元で、ひゅごう、と一陣の風が渦巻く。</p><p>ゲームではありえない、リアルな質感が全身を包み込む。</p><p>晩秋、草原を渡る風は存外に冷たく、馬上で吹きさらされるケイの肉体(からだ)から、容赦なく熱を奪い去っていく。風除けの皮のマントがなければ体調を崩していたかもしれない。これから冬にかけて、公国はさらに冷え込んでいくそうだ。北の大地に比べるとささやかだが、雪が降ることもあるという。</p><p>今や、ケイはこの世界の住人になりつつあった。</p><p>この地に根付いて、生きていく―</p><p>……狩り、か</p><p>ぽつりと呟いた。思いを巡らせていると、否が応でも、考えずにはいられない。</p><p>これから自分が、好き好んで死地に突っ込もうとしていることを。</p><p>転移直後の日々を思い出す。『安全第一』、『命を大事に』―ケイの行動方針はまさにそれだった。『死にたくない』と思いながら生きていた。現実世界のケイが、願ってやまない理想の生き方―そう信じていた。</p><p>だが、それがつまらないことに気づいてしまった。</p><p>『生きている』のではなく、ただ『死んでいない』だけだと。</p><p>悟ってしまったのだ。</p><p>贅沢な話だとは思う。しかし気づいたからには、もう、後戻りできなくなった。</p><p>ケイの人生は、ここにきてようやく始まったのだ。『死なずにいる方法』ではなく、『どうやって生きていくか』に目を向けられるようになった。</p><p>だからケイは、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩りに行く。</p><p>自分の能力を最大限に発揮し、人々を助けるために。自分はここにいる、生きている、生きていていいのだ、と証明するために。</p><p>たとえ命の危険に晒されることになったとしても、ケイは後悔しないつもりだ。死の直前は無様にあがくかもしれないが。ある程度の割り切りはできている。</p><p>（……俺だけの命なら、な）</p><p>ただ、気がかりがあるとすれば、アイリーンのこと。</p><p>彼女を巻き込んでしまうことだ。</p><p>……何とも言えないな</p><p>苦笑する。これは皮肉な話だった。もしもケイが一人だったら、救援要請を断っていただろう。独力で”森大蜥蜴”を狩るのは不可能だからだ。</p><p>だが、『アイリーンがいるならば』―と思ってしまった。</p><p>そしておそらく、それはアイリーンも一緒なのだ。彼女も一人っきりだったら救援要請をすげなく断っていたはず。</p><p>だが、『ケイがいるならば』―と。</p><p>互いが互いを信頼し、結果としてリスクを冒してでも、善をなすと決めてしまったのだ。</p><p>本当に皮肉な話だった。アイリーンがいなければ、ケイは昔のケイのまま、『死にたくない』と願うばかりで、こういった行動は決して取らなかっただろう。もしも一人っきりでこの世界に転移していたら、今もまだ、一人寂しく草原をさすらっていたかもしれない―</p><p>『助けられる力があるなら、助けるべきだ』</p><p>リリーの誘拐事件に際して、アイリーンはそう言った。</p><p>その言葉にケイは衝撃を受け、傷つきもしたが、今となってははっきりわかる。</p><p>―ケイは憧れたのだ。光り輝くような、アイリーンの人間性に。当時のケイには、少しばかり眩しすぎたけれども。</p><p>『今の自分』の核をなすのは、アイリーンなのだと。</p><p>改めて強く確信する。</p><p>ならば、彼女を危険に晒したくないだの、巻き込んでしまうだの、これ以上うだうだ悩むのは野暮というもの。</p><p>それら全てを勘案した上で、やりたいことをやるのが―真の相棒(パートナー)というものだろう。</p><p>ただなぁ、マンデルは別なんだよなぁ</p><p>と、アイリーンに関して割り切ったはいいが、今度は別の悩みだ。</p><p>息が苦しげになってきたサスケの手綱を引き、走るペースを調整しながら、ケイは嘆息した。</p><p>アイリーンは、いい。</p><p>ただこれから助力を求めようとしているマンデルは、赤の他人だ。</p><p>巻き込まれる方はいい迷惑だろう。相手が相手だ。“森大蜥蜴”―ゲーム内で上位プレイヤーが結集してなお、狩りで事故死が起きるような怪物。ケイとアイリーンの全力、それにコウの魔道具も加えて、狩りの勝算は八割といったところか。</p><p>マンデルの助力があれば、成功率はさらに高まるはずだ。</p><p>ゲームと違って死んだら終わりなので、ベストを尽くすのは間違いない。だが死んだら終わりなのはマンデルも一緒なわけで―。</p><p>誠心誠意、事情を話して、断られたら諦めようか……</p><p>ぶるるっ</p><p>思い悩むケイをよそに、我関せずとばかりに鼻を鳴らしたサスケは、パッカパッカと着実に歩みを進めていた。</p><p>タアフ村は、もうすぐそこだ。</p><p>†††</p><p>休憩を挟みつつ進んでいくと、木立を抜けたあたりで、不意に見覚えのある景色が広がった。</p><p>森を切り開いた畑、ぽつぽつと建ち並ぶ平屋の家屋、収穫用の鎌を担いで笑顔の人々。</p><p>タアフ村だ。</p><p>おおーい！</p><p>村人がこちらに気づいたので、敵意がないことを示すように、“竜鱗通し”を握った手を振りながら近づいていく。</p><p>ああ……！</p><p>あんたは確か、前の……！</p><p>ケイのことは忘れていなかったのだろう、村人たちは警戒を解いた。</p><p>ケイだ。突然の訪問ですまない、マンデルに会いに来たんだ</p><p>馬を降りながらのケイの言葉に、顔を見合わせる村の男たち。</p><p>マンデルに？　……今の時間なら、もう森から帰ってきてるんじゃないか</p><p>なんなら、家まで案内するが……</p><p>ありがとう、助かるよ</p><p>以前、村に滞在中、マンデルとは草原に狩りに出かけたこともあったが、彼の家を訪ねたことはなかった。一度、お茶に誘われた記憶はあるが、当時のケイはあまり滞在を楽しめる気分ではなく、断っていたのだ。</p><p>サスケとスズカの手綱を引き、男たちに導かれるまま村を突っ切っていく。</p><p>途中、興味津々な様子の女たちや子どもたちまでもが、一緒についてきた。皆ケイに声はかけてこない。拒絶はしないが親しげでもない、絶妙な距離感。そのままぞろぞろと列をなしてマンデルの家へ。</p><p>―懐かしい顔が見えた。</p><p>……ケイじゃないか。久しぶりだな</p><p>家の前で、狩りの成果か、大きな鳥の羽根をむしる男が一人。</p><p>とび色の髪の毛に、彫りの深い顔立ち、ダンディーなあごひげ。ぴったりとした布の服、皮のベスト、そしてトレードマークの羽根飾りつきの帽子に、使い込まれた短弓(ショートボウ)。</p><p>相変わらず表情は変化に乏しいが、目を丸くしているあたり、突然の訪問に驚いているのだろう。</p><p>狩人のマンデルだ。こうして直接、顔を合わせるのは武闘大会の祝勝会以来か。実に四ヶ月ぶりの再会だった。</p><p>やあ、久しぶりだな</p><p>ケイも穏やかに微笑んで答える。</p><p>無言で、傍らの桶に貯めてあった水でシャバシャバと手を洗い、マンデルは両腕を広げてケイを迎えた。そのまま、ぽんぽんと背中を叩くように、軽くハグする。</p><p>……元気そうで何よりだ</p><p>ああ。そういうマンデルも</p><p>……どうしてタアフに？</p><p>実は、マンデルに話があって……</p><p>そこまで言って、ケイは口をつぐんだ。</p><p>ざわめく野次馬の村人たちに完全包囲されており、視線が気になったからだ。</p><p>……狭い家だが、茶でも飲むか？</p><p>くい、と顎で玄関を示し、マンデルが笑う。</p><p>今回は―お邪魔することにした。</p><p>マンデルの言葉通り、少し手狭な家だった。家としての広さは標準的だがわりかし物が多い。物入れのチェスト、食料保存棚、燻製肉やソーセージの束なんかも天井に吊り下げられている。村人、という括りならかなり余裕のある生活を送っていそうだ。玄関から入ってすぐのリビングの壁には、小さなトロフィーが飾られている。武闘大会射的部門の、入賞者の記念品だ。それがまた懐かしくて、ケイは目を細めた。</p><p>そして家の中には、少女が二人いた。豆の皮むきをしていた二人は、突然の訪問客に驚いたようだ。どちらもとび色の髪をしており、一人は十代前半、もう一人はちょっと幼い印象を受けた。</p><p>……そういえば、紹介するのは初めてだったか</p><p>マンデルはふと、気づいたような顔で、</p><p>……娘のマリアと、ソフィアだ</p><p>言われてケイも思い出す。マンデルには二人の娘がいたことに。妻は確か、下の娘が産まれたあとに病気で亡くなっていたはずだ。</p><p>娘二人は、年上の方がマリアで、幼い方がソフィアらしい。マリアはお姉ちゃんらしいというべきか、気の強そうな雰囲気。逆に妹のソフィアは、甘えん坊で少し気が弱そうな顔をしている。</p><p>お父さん、この人って……</p><p>……ああ、ケイだよ</p><p>マリアの言葉に、マンデルが頷いた。</p><p>ケイも、おそらくマリアたちも、なんとなくお互いの顔に見覚えがあった。以前、村に滞在中、何度か遠目にすれ違うくらいのことはあったのだろう。ケイがマンデルの家を訪ねなかったので、面識がなかったが。</p><p>軽く互いに自己紹介してから、ケイはリビングのテーブルにつく。</p><p>……それで、話というのは</p><p>ケイの正面に座ったマンデルが、改めて尋ねてくる。その背後、竈でお湯を沸かしながら、興味深げにチラチラとこちらを窺うマリア。姉の身体の陰に隠れるようにして、じっと見つめてくるソフィア。</p><p>マンデルには幸せな家庭があるのだ、と思うと―ずしりと胃のあたりが重くなるような気がした。</p><p>実は、マンデルに頼みたいことがあるんだ―</p><p>それでも、真剣にケイは話を切り出す。</p><p>―“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“狩りを、手伝ってほしい</p><p>ケイの言葉に、マンデルは再び目を見開くことになった。</p><p>88. 助勢</p><p>前回のあらすじ</p><p>草原爆走　初村再訪　狩人再会　幸福家庭</p><p>言葉を飾らず、ケイは率直に説明した。</p><p>今日、とある開拓村から手紙が届いた―</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“の出現。ヴァーク村の知己からの救援要請。ケイとアイリーンが討伐に向かうこと。こちらの装備、陣容、想定されるリスク。それらを鑑みた上で、マンデルの助けが欲しいこと。</p><p>―あっという間に語り終えてしまった。マンデルの娘が茶を淹れようとして、火にかけた鍋の水は、まだ湯気すら立てていない。</p><p>まあ、それもそうか、とケイは思った。</p><p>・助けを求められた</p><p>・怪物を殺しに行く</p><p>・力を貸してほしい</p><p>要はこれだけなのだ。思っていたより自分は言葉を飾っていたらしい、と気づいたケイは、思わず苦笑しそうになったが、この場面で笑うとあらぬ誤解を与えかねないので、真剣(シリアス)な表情の維持に努めた。</p><p>巫山戯(ふざけ)ているわけではない、決して。</p><p>だが、苦境に陥ると、人は時として笑いたくなる。不思議なことに。</p><p>…………</p><p>マンデルは、腕組みしたまま黙って考え込んでいた。</p><p>お父さん……</p><p>どうするの……？</p><p>背後から、娘たちがおずおずと声をかけてくる。動揺、困惑、そして恐れ。父親が危険極まりない冒(・)険(・)に連れ出されようとしている。心配するのも当然だ―娘たちがケイを見る目にも、怯えの色が浮かんでいた。</p><p>自分が平和な家庭を乱す疫病神に思えてきて、ケイは罪悪感に苛まれると同時に、断られたらスパッと諦めよう、と改めて決意した。</p><p>正直なところ</p><p>やがて、マンデルが口を開く。</p><p>力になりたいのは、やまやまだ。……しかしおれが、 深部(アビス) の怪物相手に、何かできるとは思わない</p><p>見てくれ、と手に取ったのは、使い込まれた短弓(ショートボウ)だ。</p><p>おれの相棒だ。……取り回しはいいが大した威力はない。普通の野獣、それこそ猪でも、当たりどころが悪ければ矢が刺さらないような代物(しろもの)だ</p><p>ことん、と机の上に置かれる短弓。優美な曲線を描くリムは艷やかな光沢を帯びており、日頃からマンデルが丁寧に、そして愛着をもって手入れしていることが窺い知れた。いい弓だ、とケイは思う。</p><p>しかしこのマンデルの口ぶり。 自分では力になれない ―つまりはオブラートに包んだ不承諾(おことわり)だと解釈したケイは、 そうか…… と諦めようとした。</p><p>だが</p><p>マンデルは言葉を続ける。</p><p>そんなこと、ケイは百も承知のはずだ。……おれの短弓では威力が不足していることくらい、わかっているだろう？　そ(・)の(・)上(・)で(・)、頼んできた</p><p>ずい、とマンデルは身を乗り出す。</p><p>おれに、何をさせたいんだ？　……教えてくれ、ケイ</p><p>その目にあるのは―面白がるような光。</p><p>マンデルは、知っている。</p><p>自分は決して英雄の器ではないと。</p><p>だが、眼前の青年、ケイは違う。凶悪極まりないイグナーツ盗賊団の一味を単身で撃破し、 深部 の怪物・森の王者”大熊(グランドゥルス)“を一矢で仕留め、武闘大会の射的部門でも文句なしの優勝を果たした英雄だ。さらには風の精霊と契約しており、魔術にも造詣が深い。</p><p>そんな傑物が―自分に助太刀を頼みに来た。</p><p>それだけでも身に余る光栄だが、 なぜ という疑問が先立つ。今しがた語った 自分では力になれない という言葉は、悔しいが、偽らざる思いだ。地を駆ける竜、暴威の化身、 深部 の怪物―もはや天災とさえ呼ばれる”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を相手に、自分がいったい何をできるというのか？</p><p>―いや、もしかすると。</p><p>―『何か』が、できるのか？</p><p>―こんな自分にも？</p><p>マンデルは、胸の内に、めらっと小さな炎が灯るのを感じた。</p><p>ケイの人間性はよくわかっている。自分に声をかけてきたのは、決して囮や肉壁をさせるためではないはずだ。『狩人のマンデル』に、『何か』を求めているのだ。 深部 の怪物と、戦うために―</p><p>忘れてはならない。</p><p>このマンデルという男。</p><p>一見、冷静沈着で落ち着き払っているが。</p><p>武闘大会でケイと弓の腕前を競う程度には―</p><p>誉(ほま)れを求めている。</p><p>果たしてケイは、マンデルの期待に応えた。</p><p>……“森大蜥蜴”は恐るべき怪物だが、弱点がある</p><p>机の上で手を組み、ケイはおもむろに切り出した。</p><p>“森大蜥蜴”の成体は、小さくても１０メートルを超える。村長の屋敷がそのまま這いずり回るようなものだ。それでいて動きは素早く、突進を食らえば人間なんてひとたまりもない。さらには鼻先に、生物の熱を感じ取る器官まで備えている。そのお陰で、たとえ暗がりの中でも、獲物の位置を正確に察知できるんだ</p><p>……弱点に聞こえないのだが？</p><p>裏を返せば、それを潰せばヤツは大幅に弱体化する</p><p>ケイは組んでいた手を解いて、とんとん、と指で机を叩いた。</p><p>本質的に、ヤツは『でかいトカゲ』だ。ゆえに寒さに弱い</p><p>“森大蜥蜴”は昼行性の変温動物だ。 深部(アビス) の怪物だけあって、多少の気温の変動ではビクともしないが、それでも体温を急激に下げられれば劇的に動きが鈍くなる。</p><p>そして俺は、サティナに氷の魔術師の友人がいる。彼に魔法の矢―対象を凍てつかせる”氷の矢”を、可能な限り注文しておいた</p><p>魔法の矢、と聞いて、マンデルが目を見開く。</p><p>今頃、アイリーンの依頼を受けたコウが、大急ぎで水色の宝石(ブルートパーズ)に魔力を込めているだろう。魔力が尽きるギリギリまで可能な限り作ってくれ、と無茶な注文を出したが、あのコウのことだ。十数本は確保してくれるはず、とケイは踏んでいる。</p><p>ヤツが姿を現したら、しこたま氷の矢を撃ち込んで体温を下げる。動きが鈍くなれば、弱点を射抜きやすい。ここで重要なのは、短時間でできるだけ多くの氷の矢を、体の各所に打ち込むことだ。しかし俺が一人で射るには限界がある―</p><p>ここまで語れば、わかるだろう。</p><p>多人数で、多方面からの射撃。必要なのは矢を命中させる確かな腕前と、化け物の前でもビビらないクソ度胸。そして俺が知る限り、それをできるのは―あんたしかいない、マンデル</p><p>―だから、手伝ってほしい。</p><p>ケイにまっすぐ見つめられ、マンデルの身体に力がみなぎった。目を見開き、知らず識らずのうちに拳を握りしめ、口元には獰猛な笑みが浮かぶ。</p><p>―俺でよければ</p><p>！　ありがとう！</p><p>……と、言いたいところだが</p><p>ふにゃっと体から力を抜いて、マンデルが椅子の背に身を預ける。思わぬ肩透かしを食らったケイは、ズルッと滑り転けそうになった。</p><p>だ、だめなのか？</p><p>おれとしては俄然、加勢したい。……だがおれは、この村の狩人だ。おれの一存で村を留守にするわけにはいかない</p><p>許可が必要だ―とマンデルは言う。</p><p>誰の許可か？</p><p>言うまでもない。村長だ。</p><p>わかった。つまり了解が取れればいいわけだな？</p><p>そういうことだ。……早速、行くか</p><p>そそくさと席を立つ二人だったが、 待って！ と悲鳴のような声。</p><p>いやだよ！　やめてよ、お父さん！</p><p>声を上げたのは、マンデルの娘の一人―意外にも、そのうち年下の、気の弱そうな方だった。上の娘が ちょっと、ソフィア― と慌てて押し留めようとするも、それを振り払い涙目で叫ぶ。</p><p>ぜったい危ないよ！　行かないで！！</p><p>ソフィア。……案ずることはない、ケイは公国一の狩人だ。“大熊”と不意に遭遇しても、たったの一矢で仕留めた男だぞ？　ましてや今回は、魔法の矢まで用意して狩りに赴くんだ。滅多なことは起きないよ</p><p>でも―</p><p>いや、娘さんの言う通りだ</p><p>マンデルの了解が得られたことでテンションが上がり、家族の説得をないがしろにするところだった。恥じ入ったケイは、身をかがめ、下の娘(ソフィア)と目線の高さをあわせてから改めて話し出す。</p><p>俺は万全を期すつもりだが、戦いに『絶対』はない。もしかしたら俺は死ぬかもしれない。だがそれでも、あなたたちのお父さんは無事に帰すことを誓おう</p><p>ケイは真摯に語りかけるも、娘たちは微妙な表情だ。そんな『誓い』に何の意味がある、とでも言わんばかりの態度。ケイも気持ちはよくわかる。必要なのは有耶無耶な言葉ではなく、具体案だ。</p><p>―マンデルのために、馬を一頭用意する。何が起きてもすぐに逃げられるように。マンデルの役目は、横合いから氷の矢を射掛けることだ。“森大蜥蜴”を引きつけるのは俺の相方が担当して、メインの攻撃は俺が受け持つ。『絶対に』とは言い切れないが、“森大蜥蜴”の敵意がマンデルに向くことは少ないと思う。仮に俺が殺られても、逃げる時間くらいは稼げるはずだ</p><p>たった一人の父親の命を預けろというのだ。</p><p>ならばケイが担保にできるのは、己の命くらいのものだろう。</p><p>もちろん死ぬつもりは微塵もないが―万が一への備えを怠るほど、不義理もしないつもりだ。</p><p>だから、頼む</p><p>ケイが頭を下げると―</p><p>ソフィアは、不承不承、といった感じに、それでも頷いた。</p><p>……ありがとう</p><p>もう一度頭を下げ、マンデルとともに足早に家を出る。村長と交渉するために。</p><p>残された二人の娘は、不安げに顔を見合わせ、ひしと抱き合った。</p><p>今さらのように沸いた鍋のお湯が、かまどでぐつぐつと揺れていた。</p><p>マンデル テンション上がってきた</p><p>ケイ テンション上がってきた</p><p>作者 テンション上がってきた</p><p>いつも感想コメントにゃーんありがとうございます！</p><p>お陰様で頑張れてます！　ありがとう……ありがとう……</p><p>89. 交渉</p><p>前回のあらすじ</p><p>マンデル テンション上がってきた</p><p>娘たち お父さん！　やめてぇ！</p><p>ケイ （説得中）</p><p>上の娘(マリア)（お父さん死ぬほど行きたそうな顔してる……）</p><p>下の娘(ソフィア)（こんなの頷くしかないじゃん……）</p><p>その日、ベネットは平和に過ごしていた。</p><p>本来は村長としてタアフ村を預かる身だが、この頃は長男のダニーが村長代理として業務を回してくれるようになり、半隠居状態にある。</p><p>ジェシカや～～～</p><p>お陰でこうして、のんきに最愛の孫娘と遊んでいられるのだ。屋敷のリビングで孫娘のジェシカを膝に抱えて、だらしなく相好を崩すベネット。</p><p>やぁ～～！</p><p>ベネットのあごひげがくすぐったいのか、ジェシカがイヤイヤするかのように身をよじる。しかし同時にキャッキャと笑っており、そこまでいやがっている様子もなかった。</p><p>さあジェシカや、ABCの歌を歌おうねえ</p><p>うたう～！</p><p>A B C D ～　E F G ～♪</p><p>え～び～し～でぃ～　い～えふ～じ～♪</p><p>公国に古くから伝わる『ABCの歌』を、紙に書きつけたアルファベットを指し示しながら歌う。</p><p>（なんと、ジェシカは天才じゃ―！）</p><p>孫娘の利発さにベネットは鼻高々だ。今年で四歳になる孫娘は、ABCの歌をあっという間に覚え、一人で歌えるようになったのだ。</p><p>しかも、最近では文字まで書けるようになってきた。</p><p>この間は棒を使って地面に I(アイ) の字を書いてみせた。素晴らしい才能だ。―満面の笑みで じぇー！ と言っていたが、IとJは隣同士なので、ちょっと間違えてしまったのだろう。それは仕方がないことだ。</p><p>Now I know my ABCs ～♪　Next time won’t you sing with me ～♪</p><p>歌うジェシカのふわふわのくせっ毛を撫でながら、リズムにあわせてベネットも体を揺らす。</p><p>（本当に賢い子じゃのう……）</p><p>将来はどうしたものか、などと考える。</p><p>このまま村で暮らすのも、もちろんいい。タアフは近隣の村々に比べてもかなり裕福な方だ。しかしサティナの街に出る、という手もある。可愛い可愛いジェシカが遠くに行ってしまう―考えただけで泣きそうになるが、孫娘の幸せを願うならばそれもアリだ。村にとどまるよりも、文化的で豊かな生活を送れるかもしれない。</p><p>これだけの賢さ、街の商会で礼儀作法を身につければ上級使用人の道もあるやもしれぬ。そして幼いながらにはっきりとわかる目鼻立ちの良さ、ともすれば貴族様のお手つきに―いや、側室などという道も―</p><p>おじーちゃん！　もっかいうたお！</p><p>ん？　ああ、いいよ、歌おうねえ</p><p>え～び～し～でぃ～♪</p><p>ほほほぉ～ジェシカは本当にお歌が上手じゃのう～</p><p>目尻を下げて、デレデレと笑いながらベネット。きゃっきゃと屈託なくはしゃぐジェシカを見ていると、全てどうでもよくなってきた。ジェシカは幼い。教育も嫁入りもまだまだ先の話だ。今は全身全霊で可愛がってあげよう―</p><p>（―それに、そろそろジェシカだけに構ってあげられなくなるしのぅ）</p><p>ほんの少しだけ、申し訳なさで表情が曇る。</p><p>ジェシカは、ベネットの次男クローネンの子だ。</p><p>次期村長こと長男ダニーには、長いこと子どもができなかったのだが、数ヶ月前、とうとうダニーの妻が妊娠したのだ。ダニーは優秀だがあまり人望がなく、そのせいで村内には次男クローネンを次期村長として望む声もある。跡継ぎの不在が攻撃材料の一つになっていたのは確かだ。</p><p>ダニーの妻シンシアも、石女(うまずめ)だの何だのと陰口を叩かれていたが、ベネットの知る限り、ダニー本人はシンシアを一言も責めなかった。あれはあれなりに妻を愛しておるのだろう、などと思う。</p><p>それはさておき、孫の話だ。</p><p>何事もなければ半年もしないうちに、ダニーとシンシアの子が生まれるだろう。そうなるとジェシカ一辺倒の生活も、どうしても終わらざるを得ない。</p><p>おじーちゃん！　のどかわいた！</p><p>おお、じゃあお茶を淹れてあげようかねぇ</p><p>よっこらせ、と席を立つべネット。</p><p>―ベネットも長男だから、わかる。両親は自分を大切にしてくれたが、年の離れた弟が生まれたときはそっちにかかりきりで、自分がおざなりにされたように感じたものだ。実際、赤子は手がかかるので仕方がないのだが―できればジェシカには、あんな思いはさせたくない。</p><p>老骨には少々堪えるが、どちらも同じくらい可愛がらねば―！　と決意を新たにする。</p><p>孫と言えば、サティナにもうひとりいるのだが、赤子の頃に一度顔を合わせたのみで、それ以来会えていない。向こうは自分のことなど覚えていないだろう、と思うと少し寂しくもある。サティナとタアフ、自分のような老人が気軽に行き来できる距離ではないが、本格的に隠居したら再び娘夫婦を訪ねるのもいいかもしれない―</p><p>―お義父様</p><p>と、背後から、か細い声がかけられる。</p><p>振り返れば、色白の美しい女が顔を覗かせていた。ダニーの妻シンシアだ。まだ妊娠四ヶ月で、ゆったりとした服を着ていることもあり、その腹は目立たない。</p><p>美人薄命―というわけではないが、これまで、シンシアは気を抜けばふっと消えてしまいそうな儚い雰囲気をまとっていた。だが、妊娠して以来、少しずつ生命力に満ちてきているように思える。やはり母は強し、ということか―</p><p>どうかしたかの？</p><p>お客様みたいです</p><p>シンシアの知らせに、ベネットは顔をしかめた。</p><p>ベネットはあまり、この手の来訪者が好きではない。シンシアが『お客様』と呼ぶからには身内ではなく、定期的に村を訪ねてくる行商人でもない。その『客』とやらは何かしら『用事』があってこの村にやってくる。そしてその『用事』は、往々にして厄介事だ。</p><p>客人かのぅ……ジェシカや、おじいちゃんは、ちょっとお客さんの相手をしてくるからね。おとなしくしてるんじゃぞ</p><p>ん～～……わかった</p><p>存外、聞き分けのいいジェシカは、こてんと首を傾げてから、頷いた。その様子がまた可愛らしく、ベネットはニコニコと笑う。</p><p>シンシア、のどかわいた～！</p><p>はいはい。じゃあ、お茶でも淹れましょうね</p><p>そんな二人の声を背後に、玄関へと向かうベネットは好々爺然とした、よそ行きの表情を貼り付ける。誰が来たんだ、などと思いながら外に出ると―</p><p>―やあ。久しいな、村長</p><p>待ち受けていたのは。</p><p>……ケイ殿</p><p>ベネットにとって、深い因縁がある異邦の青年だった。</p><p>†††</p><p>村長宅のリビングに、村の主だった面々が集っている。</p><p>村長のベネット。その次男、クローネン。狩人のマンデル。そしてケイだ。</p><p>いやはや、お久しぶりですなケイ殿……</p><p>席についたベネットが、ニコニコとにこやかに笑いながら言う。</p><p>そうだな……半年ほどにもなるか</p><p>長かったような、あっという間だったような。この村を訪れた転移直後のことを思い出し、ケイも感慨深く思う。</p><p>（イグナーツの報復がなくてよかった……）</p><p>イグナーツ盗賊団の構成員を二人、仕留めきれずに逃したこと。あのまま逃げ帰ったのか、それとも野垂れ死んだのか―定かではないが、タアフ村が無事だったことは確かだ。当時、タアフ村より自分たちの身の安全を取ったことに関して、罪悪感がないと言えば嘘になるが、後悔もしていない。</p><p>ただ、せめて罪滅ぼしとして、今回は村側に花を持たせられれば、とは思う。</p><p>ところで、ダニー殿は？</p><p>リビングの面々に、次期村長たる男の顔がないことに気づき、ケイは素朴な疑問を投げかける。ベネットがビクッとしたような気がした。</p><p>あ、ああ……倅は今、ちょうどサティナに買い出しに出ておりまして……</p><p>おお、そうだったのか</p><p>自分はサティナから来たというのに、入れ違いのようで少し可笑しくもある。</p><p>まあ、ダニーはアイリーンへのセクハラ疑惑もあり、会っても気まずいだけなのでこの場にいなくて良かったかもしれない。</p><p>……などとケイはのんきに考えていたが、ケイがダニーに言及した時点で、タアフ村の面々は充分に気まずそうであった。</p><p>最初、この村に訪れたときは、右も左もわからず苦労していたところ、助けていただいて感謝している。お陰様で、今はアイリーンも俺も元気でやっているよ。改めてありがとう</p><p>なんのなんの。お礼を申し上げなければならぬのは手前の方です、孫娘を救っていただいただけではなく、今でも大変お世話になっているようで……</p><p>ベネットが深々と頭を下げる。</p><p>―孫娘、と言われてすぐにはわからなかった。</p><p>しかし思い出す。ベネットの娘、キスカ。そしてキスカの子がリリー。</p><p>（そういや祖父と孫の関係なのか……）</p><p>ベネットとは転移直後の数日しか付き合いがなく、逆にリリーは誘拐事件に魔術の弟子にと深い関わりがあるので、ベネットとリリーが頭の中で結びついていなかった。ケイにとっては、ベネットの孫というより木工職人モンタンの娘、という印象が強いこともある。</p><p>リリーは……元気にしているよ。一時期は、落ち込んでいたが……</p><p>事件のトラウマか、はたまた麻薬への依存症か―精神的に不安定で、しきりに蜂蜜飴を求めていたリリーだが、近ごろは魔術の修行に打ち込んでいることもあり、かなり改善の傾向が見られている。</p><p>以前のように、明るく笑ってくれることも増えてきた。</p><p>最近、リリーは精霊語の勉強を始めたんだ。彼女はとても物覚えがいい。精霊と契約さえできれば、将来は立派な魔術師になるだろう。俺が保証する</p><p>現在、ケイとアイリーンが二人がかりであれこれ教えている。それになんといっても、将来的には”黒猫(チョンリーコット)“による魔力鍛錬も解禁する予定だ。魔術は才能よりも、知識と鍛錬が物を言う世界。その鍛錬の部分を安全かつ堅実にこなせるのだから、成長は確約されたようなものだ。</p><p>そうですか……あの子が、魔術師に……</p><p>ベネットは、あまり実感が湧かない、と言わんばかりの表情で頷いている。その隣のクローネンに至っては、別世界の話を聞くような顔でポケーッとしていた。</p><p>実のところ、ワシはリリーが赤子のころ、一度顔を合わせたのみでしてな。あの子が今どんな風に成長したのか、いまいちピンとこんのです</p><p>ああ……なるほど。そうそう気軽に行き来はできないしな</p><p>ケイのように騎馬をぶっ飛ばしても、数時間はかかる道のりだ。ベネットに騎乗の心得があるかはしらないが、村には農耕馬が一頭しかいなかったし、基本的に移動は徒歩になるだろう。</p><p>あの距離を歩くのは骨だな、と思い返しながら、ケイは頭をかく。</p><p>すまない、気が利かなかったな。キスカの手紙の一つでも配達できればよかったんだが、俺も急いで来たもので―</p><p>―お茶をお持ちしました</p><p>と、リビングの扉がノックされ、ポットと木製のコップを載せたトレイを手に、色白の麗人―シンシアが姿を現す。</p><p>おっと</p><p>腕組みをして黙っていたマンデルが、素早く席を立った。</p><p>身重(みおも)のご婦人のお手をわずらわせるのは、しのびない</p><p>そう言って、紳士的にシンシアからトレイを受け取るマンデル。</p><p>……</p><p>しかしシンシアは礼のひとつも言わず、サッと顔を背けてリビングを出ていってしまった。目すら合わせないとは、随分冷たい対応だ。あのシンシアという女性、かなり礼儀正しい人物であったと記憶しているが、あんな人だっただろうか……？　と疑問に思うケイをよそに、マンデルは気にした風もなく、各人の前にコップを置き、茶を注いでいった。</p><p>ベネットとクローネンは、何とも複雑な顔をしている。同情と憐憫と気まずさが入り混じったような―</p><p>（なんだこの空気……）</p><p>困惑するケイをよそに、 さて とベネットが切り出した。</p><p>ケイ殿。いかなるご用向で我が村に？</p><p>本題の時間だ。</p><p>ああ。実は、狩人としてマンデルを借り受けたく思う</p><p>……マンデルを？　理由をお聞きしても？</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩る</p><p>は？</p><p>ベネットが呆気に取られる。隣のクローネンも同じようにポカンとしており、その表情があまりにも似通っていて、可笑しかった。</p><p>実は今日、ウルヴァーン郊外の開拓村から手紙を受け取ってな―</p><p>順を追って説明する。ケイが冗談ではなく本気(マジ)で言っていることを察したベネットは、頭痛をこらえるように額を押さえ、クローネンは わからねぇ……おれにはなにも…… と思考放棄したかのようにホゲーッとしていた。</p><p>そう……ですか、そのためにマンデルを……</p><p>唸り声を上げたベネットは、深い皺の刻まれた顔を厳しく引き締める。</p><p>……ケイ殿。個人的に大恩ある身としては、非常に心苦しいのですが、マンデルは我が村にとって貴重な人材。斯様に危険な狩りに参加させることは、村長としては承諾いたしかねます</p><p>マンデルの娘さんたちにも同じことを言われた</p><p>ケイは動じることなく頷く。</p><p>しかし、俺とて、友人を徒(いたずら)に危険に晒したいわけではない。そこで安全策として、マンデルには専用の馬を一頭用意する。彼には騎乗の心得があるだろう？　いざというときは迅速に退避できるはずだ</p><p>ケイはマンデルに視線をやりながら言う。 友人 と言われてマンデルは少し嬉しそうだった。</p><p>そも、絶対に、とは言い切れないが、マンデルには”森大蜥蜴”の敵意は向きづらいはずだ。“森大蜥蜴”の注意を引く囮役は、俺の相方がする。そして主に攻撃を担当するのは俺だ</p><p>相方、ですか？</p><p>アイリーンだ</p><p>…………</p><p>ベネットはクローネンと顔を見合わせた。アイリーン―サティナではリリーを救い出し、“正義の魔女”と名高い彼女だが、この村の面々からすると毒矢を食らって寝込んでいた印象が強い。</p><p>……森の中で”森大蜥蜴”並の速さで動き回れるのは、公国広しといえど、おそらく彼女くらいのものだぞ。それに影の魔術も使えるからな……</p><p>ベネットたちの懸念を感じ取ったケイは、言い含めるように注釈する。実際のところ”森大蜥蜴”は昼行性なので、影の魔術の出番はないだろうが……。</p><p>うぅむ……しかし……</p><p>いずれにせよ、マンデルの役目は、横合いから魔法の矢で動きを鈍らせることだ。“森大蜥蜴”とことを構える時点で、危険なのは確かだが、正面切ってやり合う俺よりは安全だ。万が一のことがあっても、彼が逃げる時間くらいは稼ぐことを刃に誓おう</p><p>腰の短剣を抜き、改めて宣誓する。</p><p>ぬぬぅ……。マンデル、近ごろの森の様子は？</p><p>ベネットはそれでも気が進まない様子だったが、マンデルに水を向ける。</p><p>森は静かなもんだ。……収穫も片付いたし、獣も荒らしには来ないだろう。おれの出番はそれほどない。罠の扱いなら『フィル坊』にも一通り仕込んであるしな</p><p>静かに答えるマンデル。フィル？　と首をかしげるケイに気づいて、</p><p>フィルは、マリア―おれの上の娘の婚約者だ。我が家に婿入りして狩人を継ぐことになっている。弓扱いはまだまだだが、罠に関しては筋がいい</p><p>ほう、そういうことか</p><p>納得するケイをよそに、クローネンと何事かコソコソ話し合っていたベネットは、咳払いして話を戻す。</p><p>……ケイ殿。事情はわかりました。しかしマンデルは我が村の防衛をも担う人物でもあり、そう容易くお貸しするわけには参りません。近ごろはこの辺りも平和なものではありますが、それでもマンデルの不在は大きいですからの</p><p>公国の各所で暴れていたイグナーツ盗賊団も、とんと噂を聞かなくなった。ケイが大打撃を与えたお陰かもしれない―とは思ったものの、ベネットは口には出さずに堪える。話す前からケイに先回りされているような感覚だった。</p><p>ふむ。それは当然のことだな。マンデルほどの人物を借り受け、さらには村にリスクを負わせるとなると、無料(タダ)で、というわけにはいかないだろう。相応の対価は払わせていただきたい</p><p>……もちろん、相応の対価をいただけるならば……しかし、どれほど期間をご予定されているので？</p><p>それは、難しいな。相手次第だ</p><p>痛いところを突かれ、ケイも顔をしかめる。</p><p>仮に、ケイたちが駆けつけるころには時既に遅く、ヴァーク村が壊滅していたとしても、そのまま帰るわけにはいかない。おそらく”森大蜥蜴”は近辺に潜んでいるはずだ。他の村に被害が出る前に、引きずり出して叩く必要がある。</p><p>たらふく食った”森大蜥蜴”が満足し、そのまま 深部(アビス) に引き返す―そんな可能性もなくはないが、ケイの見立てでは低い。魔力の薄い地において、人間は野生動物に比べると『濃いめの』魔力を持つ生物だ。そして数も多い。味を覚えたからには『次』を求めるはず―</p><p>……最短でも２週間。長引けば……１ヶ月といったところか。討伐成功か否かにかかわらず、２５日が過ぎればマンデルは離脱させる。移動の時間を鑑みても、１ヶ月とちょっとでタアフ村に帰還できる、というわけだ。これでどうか？</p><p>２５日というのは、ゲーム内での経験を現実世界に拡張させ、ケイが適当に考えた日数だ。具体的な根拠があるわけではないが、それぐらい時間をかければいずれにせよ決着は着く、と踏んだ。</p><p>それならば……まあ……。マンデルは、それでも構わないのか？</p><p>もちろんだ</p><p>不承不承、といった様子でベネットが問いかけるが、マンデルは是非もないとばかりに即答。この男、ノリノリであった。</p><p>なら決まりだな。期間は二週間から一ヶ月。そして俺はそちらが満足するだけの相応の対価を払う、と</p><p>よしよし、と頷くケイ。まだ対価の中身すら交渉していないというのに。</p><p>それでよろしいか？　ベネット村長</p><p>……わかりました。それで、対価についてですが―</p><p>いや、悪いがちょっと待ってくれ。マンデルの加勢が確定したからには、知らせを送りたい</p><p>ベネットを手で制し、ケイはおもむろに席を立つ。</p><p>知らせ？　と首をかしげる面々をよそに、リビングの雨戸を開け放つ。</p><p>日が傾いてきたな……</p><p>空を見上げ、ううむ、と唸るケイ。できればサティナに日帰りしたかったが、秋の暮れ、日が短くなってきた。日が沈むとサティナの市壁の門は閉じられる。閉門は正確な時間が決まっているわけではなく、衛兵たちの判断で閉められるので（仮にまだ待っている人がいたとしても！）、今から全力で戻っても、ギリギリで間に合わない可能性が出てきた。</p><p>……マンデル。明日の明け方、村を出てサティナへ向かおう。馬は俺が連れてきたスズカを貸す。それでもいいか？</p><p>ああ。……しかし、ケイの馬か。おれに御しきれるかな？</p><p>大丈夫だ、スズカは大人しいからな</p><p>なにせ草原の民から殺して奪った上で懐いた馬だ、とケイは胸の内で呟く。サスケは、人懐っこく見えてケイたち以外は乗せないが（面識のあるリリーやエッダならイケるかもしれない）、スズカならマンデルでも問題ないだろう。</p><p>では……</p><p>空を見上げて、ケイは腰のポーチから澄んだ緑の宝石(エメラルド)を取り出す。</p><p>おお……！</p><p>思わず、ベネットは感嘆の声を上げた。ケイの指先できらめくそれは、大粒でかなり上質なもの。まさかあれが対価なのか―？　と期待に胸を高鳴らせたベネットは、しかし次の瞬間、悲鳴を上げることになる。</p><p>Siv ! Arto, Kaze no Sasayaki.</p><p>ケイが呪文を唱えると同時、その見事なエメラルドに無数のヒビが入ったかと思うと、ざらあっと崩れ、虚空に溶けるように消えてしまったからだ。</p><p>ぞわ、と場が異様な気配を孕む。</p><p>窓から踊るように風が吹き込む。</p><p>そして一同は、羽衣をまとい艶やかに笑う少女の姿を幻視した。</p><p>『アイリーン、話はまとまった。明日の朝、８時頃にはマンデルと一緒にサティナへ戻る。マンデルのために馬を一頭用意してもらえるよう、ホランドに頼んでおいてくれ。頼んだ』</p><p>一息に言い切ったケイは、</p><p>Ekzercu(執行せよ).</p><p>くすくすくす、と少女の笑い声。</p><p>― Konsentite ―</p><p>びゅごう、と風が渦を巻いて去った。</p><p>―全てが幻だったかのように、穏やかな午後の空間が戻ってくる。</p><p>……ケイ、殿……？</p><p>いや、なに。サティナのアイリーンに声を送った</p><p>なんでもないことのように、笑って答えるケイ。</p><p>あれが……</p><p>ベネットは、未だ衝撃から立ち直れなかった。実は、この部屋の面々は、ケイの『声を届ける魔術』を体験したことがある。アイリーンが毒矢に倒れた際、毒の種類を突き止めたケイから、服用させるべき解毒剤をあの魔術を通して指示されたのだ。</p><p>だが、まさか―</p><p>（―あれほどの宝石を対価とするものだったとは！）</p><p>愕然。</p><p>ベネットは村長として、普通の村人より遥かに多くの経験・知識を持つが、流石に魔術は埒外だった。</p><p>知らなかった。あんな、村では一財産になるような宝石を、いとも容易く触媒として使い捨てるとは。</p><p>リリーが魔術の修行を受けている―その意味を、ベネットはまた違った側面からまざまざと見せつけられた気分だった。</p><p>そして何より、それを為したケイだ。なぜこうも平然としていられるのか？　惜しくはないのか？　あんなに素晴らしい宝石を捧げてしまっても？</p><p>……む？</p><p>そんなベネットをよそに、ケイは何かに気づいた様子で、そそくさと窓から距離を取る。</p><p>―ケイが数歩、窓の日差しから離れると、途端に、部屋の空気が再びぞわりと異様な気配を孕んだ。</p><p>ケイの足元の影が、うごめく。</p><p>影法師のように壁へと伸びたそれは、ドレスをまとった貴婦人の輪郭を取る。</p><p>『―了解。氷の矢は２０本。対価はとびきりの矢避けの護符』</p><p>影絵の文字を描いた貴婦人は、優雅に一礼して、ふわりと消えた。</p><p>解けるようにして、ケイの影が元に戻る。</p><p>まだ日が高いのによくやる……</p><p>窓の外を見ながら、ケイはニヤリと笑う。</p><p>アイリーンが契約する”黄昏の乙女”ケルスティン―影の魔術は、夕方から夜にかけては低燃費だが、日中は消費魔力が激増する特徴がある。</p><p>だが。“黒猫”の恩恵に与っているのは、ケイだけではない。</p><p>アイリーンもまた着々と成長しているというわけだ―日中に影絵のメッセージを送るくらいなら、どうということはない程度には。</p><p>（それにしても、氷の矢が２０本、か）</p><p>依頼を受けたコウは、ケイたちのために奮発してくれるらしい。『対価はとびきりの矢避けの護符』―代わりに出来の良い風のお守りを寄越せ、ということか。</p><p>（この件が片付いたら、とびきり高性能なやつを作ってみるか。持ち主の魔力を消費するタイプでもコウなら平気だろう……）</p><p>ふふっ、と穏やかに笑うケイ。</p><p>そんな彼を―部屋の面々は、畏怖の念をもって見つめていた。</p><p>今しがたの影の精霊。『正義の魔女』―影を操るアイリーンの仕業であることは一目瞭然だ。ケイが声を送ったなら、アイリーンは影絵を返してきた―</p><p>サティナ。騎馬を全力で駆けさせても、数時間はかかる遠方の都市。そこにいるアイリーンとの、ほぼリアルタイムでの意思の疎通。</p><p>ネットに馴染みがあるケイとアイリーンからすれば、何でもないようなことだったが、この世界の住人にとっては頭をぶん殴られたようなカルチャーショックだった。</p><p>仮に伝書鴉(ホーミングクロウ)を飛ばしても、一時間や二時間はかかるだろう。その距離の通信が―まさに一瞬で―</p><p>魔術師とは皆、こ(・)う(・)い(・)う(・)も(・)の(・)なのか？</p><p>ベネットは目眩がしそうだった。隣でのんきに すげぇ…… とただびっくりしているだけのクローネンが羨ましい。</p><p>おっと、今の影の魔術に関しては、他言無用で頼む。一応、あれでも秘奥の類なんだ。他の者に軽々しく話したら呪われるから注意してくれ</p><p>影はどこからでも見ているからな、と言いつつ、人差し指を唇に当てて茶目っ気たっぷりにウィンクするケイ。全員が―マンデルさえも―ぎょっとしたように身を仰け反らせた。</p><p>も、もちろんです、決して、決してそのようなことは……</p><p>冷や汗をかきながらブンブンと首を振るベネット。 頼むよ とケイは苦笑しているが、魔術の秘奥？　ならなぜそんなものを軽々しく見せつけてくれたのか。それに呪いだと？　なぜ笑っていられる？　何が可笑しいのか？　理解できない―</p><p>さて、すまなかった。それで対価の話だったな</p><p>再び席について、ケイが話を戻す。</p><p>ベネットも気づいた。すっかり忘れていた、報酬の話がまだ済んでいなかったことを。</p><p>そ、そうですな……対価……</p><p>服の袖で額の汗を拭いながら、交渉に向け考えを巡らせようとするベネット。</p><p>ふむ。正直なところ、俺は、どれだけ払えばいいのかわからんのだ。助力を願うマンデルにこちらから値段をつけるのも、無粋な気がしてならないしな</p><p>マンデルに微笑みかけながら、ケイは机の上で手を組む。</p><p>―なので、そちらに決めていただきたい。何がどれだけ必要だ？</p><p>ごくごく自然体で、問うた。</p><p>……それは</p><p>ベネットは言葉に詰まる。</p><p>ケイは、今回、村側に花を持たせるつもりだ。それは以前、気持ちの上で村を見捨てた罪滅ぼしでもあり、マンデルの助力を重要視していることを示すためでもあった。</p><p>また、狩りが成功裏に終われば、“森大蜥蜴”の素材で莫大な収入も期待できる。</p><p>だからベネットに多少ふっかけられても、全く構わないと考えていたのだ。</p><p>―その、圧倒的な『持つ者』の余裕に、ベネットは気圧された。</p><p>今の俺の手持ちで渡せるものとなると……</p><p>懐に手を入れようとして、革鎧と鎖帷子の存在を思い出したケイは、 すまん、マンデル手伝ってくれ と声をかけ、いそいそと武装を解除し始めた。</p><p>まずは革鎧を脱ぎ、椅子に置く。ところどころに傷がついているが、歴戦の風格を漂わせる逸品。</p><p>以前、あの革鎧の手入れを頼まれた村の職人が、 “森大蜥蜴”の革らしい！ と大興奮していたのを思い出す。当時のベネットは 確かに見事な革鎧だが、流石に話を盛っているのだろう と鼻で笑ったものだ―</p><p>艷(・)や(・)か(・)な(・)青(・)緑(・)色(・)の革鎧。</p><p>今となっては笑う気にもなれない。</p><p>っと、どこにしまったか……</p><p>これまた最上級品に近い鎖帷子を脱いで、胸ポケットをごそごそと探るケイ。</p><p>とりあえず邪魔な懐中時計を外に出しておく。鎖にぶら下がって無造作に揺れるそれを、ギョッとして凝視するベネット。</p><p>えーと、金と、触媒と、……これもアリか</p><p>懐から硬貨が詰まった革袋、宝石類を包んだ巾着を取り出し、机に置く。さらに腰のベルトのポーチから、いくつか護符を抜き取った。</p><p>こんなところだな。まずはコレを渡しておこう―アンカの婆様は元気か？</p><p>布にくるまれた護符を差し出し、唐突にケイが問う。</p><p>アンカ―村の呪い師の婆様のことだ。前回の訪問時、ケイとアイリーンが精霊語をレクチャーした結果、精霊に祈願し病魔を退ける簡単な呪術を扱えるようになり、豊作祈願に病気の治療にと大活躍している。</p><p>ええ、それはもう、近ごろはむしろ若返ったようで……</p><p>そうか。それはよかった、ならこれが使えるな</p><p>……それは、なんなんだ？</p><p>恐る恐る、といった様子でクローネンが尋ねる。これまで終始圧倒されて黙り込んでいたクローネンだが、好奇心が勝ったらしい。</p><p>使い捨ての”突風”の護符だ。呪文を唱えれば、大の男でも吹っ飛ばすような風を、ピンポイントで吹かせられる</p><p>―まさかの魔道具。それも攻撃用の。ヒュッと引きつったような呼気を漏らしビビるクローネン。</p><p>ああいや、それほど怖がる必要は……あるか。核になってる宝石部分は絶対に傷つけないでくれ。暴発して大変なことになる</p><p>だから布でくるんであるわけだが、というケイの説明にマンデルさえ顔をひきつらせる。</p><p>それは……その……それが対価ということですかの？</p><p>確かに価値は凄そうだが、こんなもん渡されても困る、とばかりにベネット。</p><p>いや、これは迷惑料みたいなもんだ。マンデルがいない分、村の戦力が落ちるだろう？　万が一ならず者が村を襲ったら使うといい。強そうなヤツを二、三人吹っ飛ばしてやれば、相手も腰が引けて戦いやすくなる。多少魔力を使うが、アンカの婆様なら問題ないはずだ。あとで挨拶かたがた、起動用の呪文も教えておくよ</p><p>タイミングは難しいが矢を逸らすのにも使えるぞ、騎馬の突撃だって工夫すれば止められるぞ、などと、自作魔道具の活用法を生き生きとした様子で語るケイ。</p><p>…………</p><p>迷惑料―迷惑料とは―そんな言葉がベネットの頭の中でぐるぐる回る。</p><p>で、対価の方だが、どっちがいい？</p><p>ずい、とベネットの前に、革袋と巾着袋を押し出すケイ。</p><p>ベネットは無言で、まず革袋を検めた。―中にぎっしりと、銀貨が詰まっていた。何枚あるか、数える気にもならない。村の収入の何年分だ？　計算しようとするが思考が上滑りするばかりで、頭がうまく働かない。</p><p>仕方ないので、巾着袋を調べる。―先ほどケイが使い捨てたような、良質なエメラルドの原石が、お互いが傷つかないように小分けしてごろごろと入っていた。</p><p>ちなみに、価値は宝石の方が高いかな</p><p>俺としてもそっちを取ってもらった方が助かるかもしれない、とケイ。</p><p>えぇ……？</p><p>なぜ高い方が助かるのか理解できず、妙な声を上げるクローネン。</p><p>確かに、……見事な宝石ではありますが、ワシらには換金の手段が限られておりますからの。倅(ダニー)ならサティナの街でさばけるかもしれませんが、宝石商の宛てとなると……それに、これほどの宝石は経験がありませんし、うまく交渉できるかどうか……それならば現金の方が―</p><p>コーンウェル商会を訪ねればいい</p><p>ケイはニヤリと笑う。</p><p>―アイリーンと俺はコーンウェル商会の専属魔術師でもある。俺からの紹介ともなれば無下には扱われない。どうだ？</p><p>コーンウェル商会……専属……</p><p>ベネットは今日何度目になるかわからない衝撃を受けた。</p><p>娘(キスカ)の手紙から、ケイたちがコーンウェル商会と交流があることは知っていた。だが専属契約まで結んでいることは知らなかったのだ。何分、ケイたちが本格的に魔術師として活動し始めたのはここ１～２ヶ月のことで、最後にキスカの手紙を受け取ったのが数ヶ月前だ。知りようがなかった。</p><p>そして、宝石について。</p><p>ケイからすれば、この宝石はコーンウェル商会から割引価格で購入したもので、ベネットがコーンウェル商会に売るのであれば、それらは再び魔道具の材料として手元に『戻ってくる』。どこの商会に使われるかわからない現金を渡すより、コーンウェル商会、ひいては自分たちに利益が還元される可能性が高いわけだ。</p><p>また、ベネットからすれば、ケイの口利きのもとコーンウェル商会で安全に取引ができる。コーンウェル商会に問い合わせれば医薬品でも嗜好品でも、常識的なものはほとんど揃うだろう。宝石を対価に大量の、かつ良質な物資を得られるのだ。何よりコーンウェル商会とつながりができる。その利益は計り知れない―</p><p>可愛い可愛い孫娘(ジェシカ)のことが頭をよぎる。麻痺していた脳がここにきて、バチバチとそろばんを弾き始めた。</p><p>……ケイ殿</p><p>ベネットは深々と頭を下げた。</p><p>こちらの宝石を、対価としていただけませぬか。それと、もしよろしければ一筆したためていただけると、非常に助かるのですが……</p><p>ああ、そうだな、何か証拠があった方がいいか。もちろんだとも</p><p>鷹揚に頷くケイ。</p><p>（なんとも、まぁ……）</p><p>合意の握手をしながら、ベネットはもう笑うしかなかった。</p><p>半年前―</p><p>そう、久々といっても、たった半年前だ。ケイがこの地を訪れたのは。</p><p>あのとき、この青年は右も左も分からない、怪しい身元不詳の異邦人だった。</p><p>だが、今の彼を見よ。まるで別人ではないか。圧倒的武力はそのままに、魔術の秘奥を使いこなし、財力も人脈も並外れている。武闘大会でケイと再会したマンデルが、村に戻ってからしきりにケイを褒め称えていたが、ようやくその心がわかった。</p><p>（交渉にもならん）</p><p>本来、こういう細々した交渉というのは、対等に近い立場でするものだ。</p><p>互いの『格』が隔絶していては、交渉の余地などない。弱い方が強い方におもねるだけ。そういう意味では、今回の『交渉』は大成功といってもいい―</p><p>（ノガワ＝ケイチ、か）</p><p>あの夜の名乗りを思い出す。</p><p>草原の民の格好をして家名持ちか？　などと思ったものだが。</p><p>（本当に、家名持ちだった、ということかの……）</p><p>これだけの財を持ちながら、自然体。</p><p>故郷では一角の人物だったのだろう―などと納得するベネット。</p><p>実際は、ゲーム時代の感覚を引きずっていることに加え、魔道具の売れ行きが好調で金銭感覚が狂っているだけなのだが。</p><p>何はともあれ、ケイはマンデルの同行がスムーズに決まり、ごきげんだ。</p><p>それが全てだった。</p><p>†††</p><p>リビングの隣の部屋。</p><p>壁にぴったりと身を寄せる、憂いを含んだ面持ちの女がひとり。</p><p>かすかに響く会話に、じっと耳を澄ませている。</p><p>話し合いは一段落したのか、今は和やかな笑い声が―</p><p>―シンシア？</p><p>と、足元からの舌足らずな声がして、ビクッと震えた。</p><p>見れば、ジェシカが、つぶらな瞳でこちらを見上げている。</p><p>……なにしてるの？</p><p>幼女の問いに、色白の女―シンシアは なんでもないわ と微笑む。</p><p>ジェシカ。おやつにしましょう</p><p>！　わーい！　おやつ！</p><p>ジェシカが喜んで部屋を出ていく。</p><p>何事もなかったかのように、シンシアもゆっくりと、そのあとを追った。</p><p>―かすかに膨らんだ腹を、心配げに撫でながら。</p><p>90. 出発</p><p>前回のあらすじ</p><p>（不穏）</p><p>翌朝。</p><p>うっすらと空が明らむ中、ケイとマンデルはタアフ村を発つ。</p><p>お父さ～ん！　気をつけてーッ！</p><p>無事に帰ってきてね～ッ！</p><p>マンデルの二人の娘はもちろん、ベネットやクローネンをはじめとした村人たちも見送りに出ている。シンシアはいなかったが、ケイの鷹並の視力は、村長屋敷の窓から心配そうにこちらを覗き見る彼女の姿を捉えていた。</p><p>―なぜ堂々と見送らないんだろう？　マンデルと確執でもあるのか？</p><p>などと疑問に思いつつも、ポンッと軽くサスケの腹を蹴るケイ。</p><p>常歩(なみあし)から駈歩(かけあし)へ。サスケがゆるやかに加速していく。マンデルの駆るスズカも問題なくついてくる。</p><p>そうして二騎は、木立を抜け、草原へと駆け出した。</p><p>草原の緑と、朝焼けに燃える空の対比が美しい。思わず見惚れそうになるが、ぶわっと吹き寄せた風の冷たさにケイは身震いした。</p><p>秋でこれなら、冬になったら相当な寒さだろうな―と革のマントの襟を手繰り寄せながら、顔布を装着する。白地にひらひらと踊る赤い花の刺繍。これで顔面が冷えずに済む。</p><p>それ、相変わらず使ってるんだな</p><p>隣のマンデルが、刺繍に目を留めて声をかけてきた。</p><p>ああ。重宝してるよ</p><p>この顔布は、イグナーツ盗賊団との戦闘で破損してしまったものだ。それをシンシアが修繕し、花の刺繍までしてくれた。基本的には、戦闘時に表情を読まれにくくするために使うのだが、そこに可愛らしい花のモチーフをあしらうとは―独特なセンスを感じる。</p><p>しかし……あんまり付けない方がいいかな？</p><p>以前、マンデルに 草原の民と誤認されるから気をつけろ と言われたことを思い出し、顔布に手をかけるケイ。</p><p>いや。……どうせおれたちしかいない。大丈夫だろう</p><p>そうか</p><p>それと、昨日はありがとう。……娘二人も呼んでくれて</p><p>昨夜、あのあとケイは村長屋敷で歓待された。</p><p>マンデルが仕留め、熟成させていたとっておきの鹿肉が夕餉に振る舞われた。マンデル本人はもちろん、その娘二人も同席しての食事会だ。娘たちを招くことを提案したのはケイで、突然父親を連れ去ってしまうことへの詫びも兼ねていた。</p><p>食事の席で、ケイは武闘大会以降の旅路を語った。村に着くなり大物狩りの話になって、マンデルにもその後の経緯を伝えていなかったからだ。</p><p>ウルヴァーンで名誉市民権を取得するために奔走したこと。図書館での調査で『魔の森』の伝承を見つけたこと。緩衝都市ディランニレンを抜けて北の大地を放浪したこと。水不足に苦しみ、独力での北の大地横断を諦めてディランニレンへ引き返したこと。ガブリロフ商会の隊商に参加し、馬賊と激突したこと―</p><p>己の武勇伝に関しては、少し誇張した。自分はそれなりに武力があるから、無事に狩りを終わらせてマンデルを無事に帰す―という、娘たちに向けてのメッセージのつもりだったのだ。しかし当の本人たちは、慣れない村長屋敷での食事会に緊張して、それどころではなかったようだ。</p><p>招いたのは余計なお世話だったかもしれないな、と苦笑したケイは、昨夜の席を思い返す―</p><p>†††</p><p>『―それで、しこたま矢を食らってハリネズミみたいになってな。そのときの傷がこれだよ』</p><p>食後の葡萄酒を味わいながら、席の後ろに置いてある革鎧を示すケイ。</p><p>『ずいぶん多いな。……これ、全部が？』</p><p>『ああ』</p><p>『……よく生きてるな』</p><p>革鎧に近づいたマンデルが、補修された傷跡を指でなぞりながら言う。同席したクローネンが『化け物かよ』と呟いて、横合いからベネットに頭を叩かれていた。</p><p>『“高等魔法薬(ハイポーション)“のおかげさ』</p><p>ケイは何気なく答える。ハイポーションと聞いて、ランプの明かりの下、ベネットの目がギラッと光った。</p><p>『もっとも、この戦いで飲み干してしまったが』</p><p>当然、それに気づいた上で、しれっと付け加えるケイ。</p><p>タアフ村では以前、ハイポーションの存在を明かしている。村を去る際、特に口止めはしていなかったが、今のところ噂が広まる気配もないようだ。しかし、ケイたちがサティナへの定住を決めた以上、 あいつは奇跡の霊薬を持っている と近隣で噂されるのはまずい。</p><p>なので、もう『使い切った』ことにしてしまおう、というわけだ。</p><p>（まさかサティナに定住することになるとは、思ってもみなかったからな……）</p><p>転移直後ということもあり、脇が甘かった。アイリーンを助けるためだったので致し方ないことだったが。</p><p>ちなみにポーションは、少量だがまだ残っている。これ以上、使う機会に恵まれないことを祈るのみ……。</p><p>『まあ、後悔はしていない。全てを出し切らなければ、とてもじゃないがあの戦いを生き残ることはできなかった』</p><p>『ううむ……そうでしたか……』</p><p>なぜか口惜しげな表情のベネット。仮にハイポーションが潤沢にあったところで、譲る気はさらさらないので安心してほしい―</p><p>そうして、ポーションが原因のゴタゴタを避けるため隊商を離脱したこと、ついに魔の森へたどり着いたことなどを話す。霧の中に棲む、不気味でおぞましい化け物たち。それをどうにかやり過ごし、赤衣の賢者と邂逅し、『故郷』への帰還が難しいことを教えられ、公国へ戻ってきた―</p><p>『あとは、知っての通りだ。そんなわけで、アイリーンと俺は、サティナに移住することにしたのさ』</p><p>ケイが長い長い冒険譚を語り終える頃には、すっかり夜も更けていた。明日は早いのでそこで解散となり、ケイは以前アイリーンが寝かされていた村長屋敷の一室で、柔らかい上等なベッドの感触を楽しみつつ就寝した―</p><p>―しかし、マンデル</p><p>しばらく無言で駆けていたが、ふと気になることに思い当たり、ケイはマンデルを呼んだ。</p><p>ん、どうした</p><p>ソフィア嬢は、本当に大丈夫だったのか？　さっきの見送りのとき、随分とやつれているようだったが……</p><p>マンデルを心配げに見送っていた娘二人―そのうち妹のソフィアは、目の下に濃いクマを作って、どこかげっそりとした様子だった。</p><p>心配のあまり、よく眠れなかったのだろうか……。</p><p>ああ、あれか</p><p>が、マンデルはクックックと喉を鳴らして、笑いを噛み殺す。</p><p>どうやら、昨日のケイの話のせいらしいぞ</p><p>……え？</p><p>“魔の森”の化け物の話が、よほど恐ろしかったらしい。そのせいでなかなか寝付けなかったそうだ</p><p>…………</p><p>思っていたのと大分違う理由に、思わずケイは閉口した。それを見てマンデルが愉快そうに、声を上げて笑い出す。</p><p>やっぱり、お招きしたのは余計なお世話だったかもしれない―と、ケイは渋い顔をするのであった。</p><p>†††</p><p>それから、ケイとマンデルがサティナに到着したのは、おおよそ二時間後のことだった。</p><p>マンデルを連れていたにもかかわらず、スズカの速度が落ちることもなく、行きよりもスムーズに帰ってこれた。昨日、思い切り走ったことで、二頭ともむしろ調子が上がってきたのかもしれない。</p><p>早朝ということもあり、市壁の門もそれほど混雑していなかった。ケイとマンデルはそれぞれ身分証を提示し、街の西門をくぐり抜けてから、まずアイリーンが待つ自宅へと向かう。</p><p>ケイ！　戻ったか！</p><p>石畳を打つ蹄の音を聞きつけて、家からアイリーンが飛び出てきた。</p><p>アイリーン！</p><p>突進してきた、羽根のように軽い体を抱きとめて、二人で踊るようにくるくると回ってからキスする。</p><p>ただいま</p><p>待ってたぜ</p><p>……お熱いことだな</p><p>やれやれ、とばかりに苦笑したマンデルが、ひょいと帽子を脱いで一礼した。</p><p>久しぶりだな、アイリーン。……変わりないようで何よりだ</p><p>マンデルの旦那こそ、久しぶり。元気にしてたか？</p><p>ああ。……特に今は、若返ったような気さえしている</p><p>よほど気合が入っているらしい、マンデルは覇気に満ち溢れていた。</p><p>今回は、ケイに付き合ってもらって悪いな。来てくれてありがとう</p><p>なに。……礼を言いたいのはこっちの方さ、英雄殿の狩りに同行できるんだ</p><p>挨拶もそこそこに、今後の打ち合わせに移る。</p><p>サスケとスズカは絶好調のようだが、タアフ－サティナ間を駆け抜けて流石に疲労の色が見られる。いつもの宿の厩に預けて、しばし休憩を取らせることにした。</p><p>その際、忘れずに、自作の体力回復薬を二頭ともに舐めさせておく。以前ヴァーク村の 深部(アビス) で採取した『アビスの先駆け』から、薬効成分を抽出したものだ。アイリーンがレシピを覚えていたため、しばらく前に器具を買い揃えて調合してみたのだ。</p><p>ゲーム内ではしばらくの間、スタミナを回復させる効果があった。再出発は昼前を予定しており、それまでには二頭ともかなり疲労が取れるはず。</p><p>―なお、ケイも舐めて見たが、エグい苦さで死ぬほど不味かった。 ハイポーションのゲロマズ成分はお前か！！ と叫びたくなるほどに。</p><p>舐めさせられたサスケは ぼくがんばったのに、なんでこんなことするの と悲しげな顔を見せ、スズカは鼻息も荒く前脚で地面をかいて、すこぶる不機嫌になった。</p><p>体力は回復するかもしれないが、精神的な面ではしばし問題がありそうだ。使わない方がマシだったかもしれない―</p><p>モンタン！　矢はできたか？</p><p>ケイさん！　ばっちりですよ！</p><p>次に、木工職人のモンタンの家を訪ねる。キスカに、ベネットから預かった手紙を渡しつつ、“氷の矢”を見せてもらう。</p><p>突貫作業でしたが、何とかなりました</p><p>モンタンの役割は、コウが魔力を込めた宝石を矢にしっかりとはめ込んで固定することだった。これは、鏃が特殊な構造をしており、もともとケイが”爆裂矢”を作るために注文していた矢だ。『鏃に宝石をはめ込む』という点では”氷の矢”も変わらないので、流用が可能だった。</p><p>用意された”氷の矢”は、２０本。さらに、エメラルドをはめ込んだだけの”爆裂矢”の素体(ベース)も何本か。ケイが宣之言(スクリプト)と魔力を込めれば”爆裂矢”の一丁上がり、というわけだ。</p><p>一本一本、重心などを確かめたが、どれも申し分ない出来だった。</p><p>見事な仕上がりだ。ありがとう</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“狩りと聞いて、気合が入ってしまいましたよ</p><p>一仕事終えた感を出しつつ、爽やかな笑みを浮かべるモンタン。</p><p>お兄ちゃん……がんばってね！　気をつけてね！</p><p>心配げなリリーに見送られつつ、ケイはその足でコーンウェル商会へ向かう。</p><p>ケイくん。待ってたよ</p><p>商会本部の前では、ホランドが既に必要な物資の準備を終えていた。</p><p>荷馬車が一台。健康な山羊が五頭。マンデル用の乗用馬が一頭。食料や医薬品、野営用品、etc, etc…</p><p>うっス。自分は護衛を担当する、オルランドっス</p><p>そして、荷馬車を護衛する戦士たちとも顔合わせした。オルランドという強面の男がリーダーの四人組で、それぞれ交代で馬車の御者も担当するらしい。ケイが見たところ、そ(・)こ(・)そ(・)こ(・)できる。オルランドは槍使いらしく、かなり手強そうな雰囲気を漂わせていた。他の三人も槍や斧を扱うようで、粒ぞろいな戦士たちだ。コーンウェル商会の護衛の中でも腕利きだろう。</p><p>が。</p><p>それで……自分たちはあくまで馬車の護衛で、“森大蜥蜴”狩りには参加しなくてもいい、ってことっスよね？</p><p>強面をわずかに緊張させて、オルランドが念押ししてきた。</p><p>ああ。無理強いはしないよ、手助けしてくれるならそりゃ助かるが……</p><p>今回、オルランドたちの役目は、荷馬車を護衛して物資をつつがなくヴァーク村へ届けること。また、討伐成功の暁には、“森大蜥蜴”の素材を持ち帰ることだ。</p><p>対人をメインとする彼らに怪物狩りの経験などあるはずもなく、またケイが彼らに指揮権を持っているわけでもないので、彼らは彼らの裁量で動くことになっていた。</p><p>ケイとしても、土壇場でビビって逃げそうな者に背中を任せるつもりはない。それなら最初からアテにしない方がマシだ。だからこそ、信頼できる仲間を求めて、タアフ村までマンデルの協力を仰ぎにいったわけだが―</p><p>ところでホランドの旦那、気が早い話かもしれないが―</p><p>と、荷馬車を点検していたアイリーンが、ホランドに話しかける。</p><p>このサイズだと、“森大蜥蜴”の素材は載せきれないかもしれないぜ？</p><p>コンコン、と荷馬車を叩きながらアイリーン。取らぬ狸の皮算用もいいとこだが、すでに討伐後の心配をしているようだ。だがこれにはケイも同感で、商会が用意した馬車は質こそいいものの、サイズはかなり控えめであるように思われた。</p><p>ああ。ウルヴァーン支部と”伝書鴉(ホーミングクロウ)“でやりとりがあってね。協議の結果、素材の大部分はウルヴァーン側に運ぶことになったんだよ。サティナはちょっと遠いから</p><p>ホランドの答えに、ケイたちも納得する。ヴァーク村からウルヴァーンまでは馬車で一日足らずだ、素材を運ぶならたしかに向こうの方が好都合だろう。</p><p>……それと、ウルヴァーン支部からの知らせによると、昨日の段階ではまだヴァーク村は無事だったらしい</p><p>通りを行き交う人々に聞かれないよう、声をひそめてホランドが告げる。</p><p>なるほど……それは重畳だが</p><p>これから間に合うか、だな</p><p>アイリーンが腕組みして、ため息をついた。</p><p>……そろそろ出発するかい？</p><p>ああ。あまり余裕はなさそうだ</p><p>ケイ、アイリーン、マンデルの三人は、うなずきあった。軽くサンドイッチで昼食を摂り、トイレを済ませ、必要物資をチェックしてから一同はサティナを発った。</p><p>お気をつけて！</p><p>ご武運を！</p><p>精霊様の御加護があらんことを！</p><p>荷馬車の護衛、オルランドたちの声援を背に、ケイたちは進む。</p><p>足の速い三騎で先行するのだ。</p><p>“竜鱗通し”を片手に、身軽さ重視で革鎧のみを身に着けたケイ。</p><p>サーベルを背負い、動きやすい黒装束に身を包むアイリーン。</p><p>四肢に革製のプロテクターをつけ、腰に剣を佩いた旅装のマンデル。</p><p>よし、行くぞ！</p><p>ダガガッ、ダガガッと硬質な蹄の音を響かせ。</p><p>一行はヴァーク村を目指し、街道を北上し始めた。</p><p>91. 疾駆</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ 体力回復薬を飲ませるか……</p><p>サスケ まっず！　なんでこんなことするの</p><p>スズカ 不味すぎてキレそう</p><p>城郭都市サティナから公都ウルヴァーンまで、リレイル地方を南北に結ぶ大動脈。</p><p>―サン＝アンジュ街道。</p><p>整備された石畳の道を、荒々しく駆ける騎馬の姿があった。</p><p>その数、三騎。</p><p>先頭は、スズカに跨るアイリーン。</p><p>続いて商会から借り受けた馬を駆るマンデル。</p><p>そして殿(しんがり)を務めるのが、ケイとお馴染みサスケだ。</p><p>アイリーン！　スズカの調子はどうだ！？</p><p>最後尾から、ケイは声を張り上げる。</p><p>大丈夫だ！　でも汗かいてるから、ぼちぼち水飲んだ方がいいかもな！</p><p>金色のポニーテールを揺らしながら、アイリーンが叫び返した。彼女を乗せたスズカは、黒色の毛並みがてらてらと光って見えるほど汗にまみれている。</p><p>現在、スズカが一行のペースメーカーだ。</p><p>サティナで多少休息を取ったとはいえ、スズカの疲労は完全には抜けていない。体重が極端に軽いアイリーンを乗せているので負担は少ないだろうが、それでも疲労具合を見つつ、走る速度を調節しているのだ。</p><p>スズカからすると、バテないギリギリのラインでずっと走らされるので、堪ったものではないかもしれない。だがもともと草原の民と共に暮らしていた馬だ。この程度で音を上げるほどヤワな育ちではないだろう。</p><p>マンデルの方は、変わりないか？</p><p>ああ。……いい馬だ、こっちは問題ない</p><p>マンデルが振り返って、生真面目な顔で答える。</p><p>コーンウェル商会から借り受けた馬は、灰色の毛並みの大人しいメスだった。ホランド曰く、最高速はそれほどでもないが、体力があり忍耐強い性格だという。今回のような強行軍にはぴったりだ。</p><p>ぶるるっ！</p><p>そしてケイを乗せるサスケはといえば―絶好調だった。クソマズ体力回復薬が効いたのか、それとも元から大して疲れていなかったのか、ほぼ完全に回復していた。体力・速力ともに普通の馬とは隔絶している、バウザーホースの真骨頂。</p><p>ケイが都度、手綱を引いて制御しなければ、徐々に加速して前方のマンデルを抜き去りかねないほどだ。戦いの機運を感じ取り、逸っているのだろうか。はたまた獰猛な魔物としての本能が表に出てきたのか。あるいは、新たに加入した商会のメス馬にいいところを見せようとしているだけか―</p><p>“竜鱗通し”を片手に周囲を警戒しつつ、思わず苦笑いしてしまうケイであった。</p><p>町が見えてきた！</p><p>と、先頭のアイリーンが知らせる。</p><p>少し休憩にしよう！</p><p>日の傾き具合を確認して、ケイは答えた。</p><p>できるなら今日中にサティナ-ウルヴァーンの中間にある、湖畔の町ユーリアまで行きたいところだ。到着時にベストな体調(コンディション)を望むなら、野宿は極力避けて、きちんとしたベッドで体を休めなければならない。現在のペースなら日が沈む前にユーリアに着くだろうが、休憩に時間を割きすぎるとギリギリ間に合わなくなる。</p><p>一口に『強行軍』と言っても、細かい調節がなかなか難しいことを、ケイはここに来て改めて感じていた。</p><p>†††</p><p>小さな宿場町にて。</p><p>水差し(ピッチャー)に直接口をつけて、グビグビと冷たい水をあおったアイリーンが ……ぷはぁ！　生き返るぜ と声を上げる。</p><p>井戸から汲み上げた冷たい水が、乗馬に火照った体に心地よい。自分の足で走るよりマシだが、ただ馬上で揺られているだけでも、人体はそれなりに消耗するのだ。</p><p>サスケ、よく走ってくれた。休憩後も頼んだぞ</p><p>馬具を外して楽にしてやり、白く泡立った汗の跡を拭き取ってあげながら、ケイはサスケに礼を言った。 まかせて！ と言わんばかりに目を瞬いたサスケは、そのまま ヘイ、彼女！　いい走りだったね！ と、隣で水を飲む商会の灰毛馬へ絡みに行く。</p><p>灰毛馬は困惑気味―というか、ちょっと引き気味だ。そのさらに隣では、スズカが フン！ と不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。</p><p>ケイも飲むか？</p><p>おう</p><p>アイリーンから水差しを受け取り、グビッと水分補給するケイ。</p><p>その横で、井戸脇のベンチに腰掛けたマンデルが、伸脚するような動きで足を伸ばしていた。少しばかり険しい表情で、太腿をさすっている。</p><p>マンデル、どうかしたのか？</p><p>いや……</p><p>心配するケイに、マンデルは渋面を作った。</p><p>これだけの距離を駆けるのは初めてなんだ。……股が痛くなってきた</p><p>顔を見合わせたケイとアイリーンは、 あー…… と事情を察する。</p><p>乗馬とは、特殊技能だ。</p><p>馬への指示の出し方はもちろん、馬上で揺られ続けるため特殊な筋肉を使う。衝撃を受ける腰や太腿、尻なんかも、慣れがなければ痛みで悲鳴を上げ始める。</p><p>ケイとアイリーンは、ゲーム時代から乗馬に親しんでいた上、『完成された肉体(アバター)』を引き継いでいるのでその手の苦しみとは無縁だ。だが、こうして実際に苦しんでいる人間を前にすると、ずる(チート)しているような感覚に襲われてしまう。</p><p>……かなり痛むのか？</p><p>ま(・)だ(・)、それほどではない。……だがこのペースで進むとどうなるかわからん</p><p>マンデルは意地を張るでもなく、正直に申告した。</p><p>少し、不安だ。……今は平気だが、開拓村に着く頃には足腰立たなくなっていました―では笑えないからな。絶対に無理はできない</p><p>強がることなく話しているのは、そういうわけだ。</p><p>忘れてはならない。ヴァーク村へたどり着くことが目的ではなく、そこで”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“と戦える状態にあることが重要なのだ。</p><p>せっかく騎馬で移動できるというのに、足手まといになるようでは本末転倒だ、とマンデルが嘆息する。</p><p>馬まで用意してもらったのに、この体たらく。……自分で自分が情けない</p><p>……仕方ない、こればかりは慣れの問題だ</p><p>マンデルを責める気にはとてもなれず、ケイも慰めの言葉をかける。ゲーム由来の肉体で苦労していない自分が言うと、どこか薄っぺらく感じられた。</p><p>最悪の場合、おれを置いて先に行くことも視野に入れてほしい……</p><p>痛恨の極みの表情で、絞り出すように言うマンデル。確かに、ここでマンデルに合わせてペースを落としては、ここまで急いできた意味がない。</p><p>そっか……じゃあ、これ使ってみてくれよ</p><p>何やら腰のポシェットをゴソゴソと探ったアイリーンが、金属製の小さなケースを取り出した。</p><p>これは？</p><p>軟膏だ。―『アビスの先駆け』を使った傷薬</p><p>声を潜めて、囁くようにアイリーン。</p><p>これもまた、レシピを覚えていたアイリーンが試行錯誤して調合した品だ。体力回復薬とは違い、傷を癒やす治療薬になっている。もちろんその効能は、高等魔法薬(ハイポーション)とは比べるべくもないささやかなものだが……塗れば効果を発揮するので、少なくともゲロマズフレーバーは味わわずに済む。</p><p>太腿に塗れば、かなり痛みが引くはずだ。痛み止めじゃなくて治療薬だから、乗馬の揺れにも適応できるかも</p><p>アイリーンに押し付けられるようにして軟膏を受け取ったマンデルは、おっかなびっくりといった様子でケースを撫でた。</p><p>これは貴重なものでは？　……戦いに取っておくべきだろう</p><p>いや、正直あまり意味がない</p><p>首を振って否定したのはケイだ。</p><p>“森大蜥蜴”相手に戦うなら、その程度の傷薬が活躍できる場面がないのさ。無傷で生き残るか、即死するかの二択だ</p><p>淡々と、『事実』として語るケイに、マンデルがごくりと唾を飲み込んだ。</p><p>そうか。……わかった、使わせてもらおう</p><p>頷いたマンデルがその場でいそいそとズボンを脱ぎ始めたので、アイリーンが慌ててそっぽを向く。困ったような顔で ワイルドだぜ…… と口を動かすアイリーンを見て、ケイは思わず笑ってしまった。</p><p>……しかし、マンデルはどうして馬に乗れるんだ？</p><p>太腿に軟膏を塗り込む姿を見ていて、ケイはふと疑問に思う。</p><p>マンデルは、狩人だ。それも森のそばの田舎村の住人だ。主に森の中で活動する彼は、本来馬に乗る必要があまりない。そんな彼がなぜ、そしていかに乗馬の技術を身に着けたのか、不思議だった。</p><p>ああ……</p><p>入念に局部にも塗っていたマンデルは、その手を止めて、遠い目をする。質問しておいて何だが、ズボンは早く穿いてほしい。</p><p>昔、習ったんだ。……草原の民からな</p><p>マンデルの答えは意外なものだった。 草原の民から？ とオウム返しにするケイとアイリーン。公国の平原の民と、草原の民は仲が悪かったのでは―</p><p>昔は、普通に交流があったんだよ。……１０年前の”戦役”、草原の民の反乱が起きるまでは……</p><p>その口調は、懐かしむような、寂しがるような。</p><p>タアフの、おれくらいの歳のヤツはみんなそうだ。……昔、村に物々交換にやってくる部族がいた。気さくで、優しい連中だったよ。村にやってくるたび、当時ガキだったおれたちに、手取り足取り乗馬を教えてくれたんだ……</p><p>じっと自分の手を―弓を引き慣れ、あざになった指先を―見つめながら、ぽつぽつと呟くようにマンデルは言った。</p><p>だが、“戦役”で争うことになった。……仲が良かった部族とも刃を交えた。彼らは今、草原の奥地に引きこもっていて、滅多に姿を現さない。村との交流も完全に途絶えてしまった……</p><p>ため息交じりに語り、マンデルは再び軟膏を塗り始めた。</p><p>そう、だったのか……</p><p>転移当初、草原の民と誤認されかけていたケイに、マンデルは公平な態度で接してくれた。そしてケイが草原の民ではないことを見抜き、様々な助言もくれた。</p><p>マンデル自身は、“戦役”で徴兵され、平兵士から十人長に昇格するほど活躍していたらしい。その胸中がどれだけ複雑だったことか―</p><p>ふむ。……なるほど、この軟膏はよく効くな……！</p><p>ぺちぺち、と太腿を叩いたマンデルが、感心したように言う。</p><p>ありがとう。……かなり楽になった。このままのペースでも大丈夫そうだ</p><p>礼を言いながら、軟膏のケースをアイリーンに返すマンデル。散々局部に軟膏を塗り込んだ手で、そのまま。</p><p>あ……いいよ、そのケースは持っておいてくれ、まだ使うだろ？</p><p>む、そうか。……わかった、じゃあそろそろ行こう。おれのせいで休みすぎた</p><p>マンデルが立ち上がり、荷物袋に軟膏を仕舞ってから、ひょいと灰毛馬に跨る。</p><p>もう痛がる様子はなかった。軟膏の効き目は確からしい。</p><p>そうだな。行こうぜ</p><p>ちょっと待ってくれ、サスケに馬具を付け直す</p><p>手早く準備を整え、ケイたちは再び出発した。</p><p>それから、以前のペースで進んでも、マンデルは 少し痛む 程度で平気なようだった。むしろスズカの疲労具合の方が心配だったほどだ。</p><p>休むことなく駆け続け、日が暮れる前には、シュナペイア湖に面するユーリアの町に到着した。</p><p>相変わらず、清らかな湖とは対照的に、猥雑な雰囲気で満ちた町だ。行商人やその護衛、彼らを相手にする物売りや芸人、娼婦などで賑わっている。前回、ここを訪れたときは領主の館に呼び出され、アイリーンが 夫に黙って愛人にならないか？ などと誘われたりしたものだ。ケイの面前で。</p><p>ありゃ傑作だったなぁケイ</p><p>ああ。二度と御免だが</p><p>もちろん領主の館などスルー。呼ばれてもいないし、呼ばれる予定もない。実に素晴らしいことだ。</p><p>少しでも疲れを癒やすため、高級な宿に泊まる。マンデルは遠慮しようとしたが、有無を言わさず宿代はケイたちが出した。風呂で汗を流し、ゲロマズ体力回復薬を服用し、口直しするようにたらふく食ってから、その日は早々に就寝。</p><p>その甲斐あってか、翌日は疲れもなく、ベストコンディションで出発できた。マンデルも寝る前に軟膏を塗ったようで、股が痛むことなく強行軍を続ける。</p><p>そして。</p><p>見えた！</p><p>街道の果て―丸太の防壁で囲まれた開拓村が見えてくる。</p><p>見たところ、壁が壊された様子もない。周囲には人影もあった。</p><p>おぉーい！</p><p>ケイたちが手を振ると、住民もこちらに気づいたようで、手を振り返してくる。</p><p>サティナを発ってから、およそ一日半。</p><p>ヴァーク村は―まだ無事だったのだ。</p><p>いつも感想ありがとうございます！　実は昨日、短編を投稿しました。</p><p>神 お主のチート能力は『いらすとや召喚』じゃ</p><p>サクッと読めるコメディなので、オススメです！　なんと挿絵もついてます！</p><p>92. 状況</p><p>前回のあらすじ</p><p>マンデル（下半身露出のすがた） この軟膏の半分は。……優しさでできている</p><p>ケイ＆アイリーン アビス軟膏～♪</p><p>そしてケイたち一行は、ヴァーク村に到着した。</p><p>ヴァーク村の男たちから、ケイは熱烈な歓迎を受けた。</p><p>英雄が来たぞ！</p><p>“大熊殺し”だーッ！</p><p>公国一の狩人ーッ！</p><p>“疲れ知らず(タイアレス)“ーッ！</p><p>公国一の木こりーッ！</p><p>何か変な二つ名も混じっていたが。</p><p>ケイ！！　来てくれたのか！！</p><p>村長のエリドアが、ホッとした顔で飛び出てきた。チャームポイントのハの字の眉は相変わらずだが、前回会ったときに比べ、かなりやつれている。</p><p>エリドア！　無事だったか</p><p>ああ、何とか。テオは立派に仕事をやり遂げたんだな。想像以上に早い到着だよ、ありがとう</p><p>テオ―コーンウェル商会に遣いとしてやってきた少年のことだ。</p><p>テオは今、商会で世話になってるはずだ。俺たちも全力で駆けて来たが、間に合わないんじゃないかと気が気でなかったよ……</p><p>村の中で下馬しながら、ケイは周囲を見回す。</p><p>ヴァーク村―ぐるりと丸太の壁で囲まれた開拓村。この防壁は、人間や普通の獣を防ぐには充分だろうが、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“相手では紙細工ほども役には立たない。襲われればひとたまりもないだろう。女子供は避難させた、と聞いていた通り、村内には男たちしか残っていなかった。</p><p>だが。</p><p>それでも村は、賑(・)わ(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)。</p><p>興味深いことに、村の出入口の付近、門の周辺にはテントや天幕が張られており、よそ者連たちが大勢そこで過ごしているのだ。野心に燃える駆け出しと思しき行商人、いかにもガラの悪い食い詰めた傭兵、身一つで乗り込んできた素人、森に溶け込みやすい格好をした狩人や野伏、などなど。</p><p>“森大蜥蜴”の脅威が迫る中、てっきり村の男たちしかいないと思っていたケイは、まだこの場に留まる命知らずがいたことに驚いた。</p><p>意外と人がいるんだな</p><p>率直な感想を漏らすと、エリドアはなんとも言えない顔で頷く。</p><p>ああ。頼もしい奴らさ。いつでも逃げ出せるよう、準備に余念がない</p><p>皮肉げな言葉だが、責めるような色はなかった。</p><p>まあ、両者とも気持ちはわかる。</p><p>この壁に囲まれた村には、出入口の門が一つしかない。村内で過ごしているところを襲われれば、みなが門に押し寄せて大パニックになるだろう。少なくない数が逃げ遅れるはず―村人たちは各々の家があるので仕方なく村内で過ごしているが、よそ者がそれに付き合う義理はない。村の外で過ごすのは当たり前の選択だ。</p><p>村人側としても、その気持ちはわかるが、いざというときは見捨てると宣言されているようなものなので、複雑な心境だろう。</p><p>……正直、ケイも好き好んで壁の内側にいたいとは思わない。いざというときに動きが制限されるのは困る。</p><p>彼らはなぜここに？</p><p>サスケの汗を拭いてやりながら、ケイは尋ねた。</p><p>『森の恵み』を求めてるのさ</p><p>というと？</p><p>深部(アビス) の動物が迷い出てきたり、普段は生えないような珍しい薬草が群生したりしてるんだ、今のあの森は</p><p>壁の向こうに広がる森を見やるようにして、エリドアは言った。</p><p>アイツら、この状況下で森に入ってんのか？</p><p>アイリーンが驚愕の顔でよそ者たちを見る。何人かの荒くれ者たちが、アイリーンの美貌を目にして囃し立てるような声を上げた。</p><p>……命知らずだな</p><p>マンデルがぼそりと呟く。ケイも全く同感だった。討伐に来ておいて何だが、森の中で”森大蜥蜴”とやり合うのは御免だ。ケイの足では絶対逃げ切れない。</p><p>当然、森に入り込む探索者―そのほとんどが素人の食い詰め者―が、怪物に出くわして生きて帰れるとは思えなかった。</p><p>それだけ、カネになるんだ……噂が噂を呼んで、むしろ”森大蜥蜴”が出る前より、人の出入りが増えたぐらいだ</p><p>エリドアが苦笑する。『アビスの先駆け』とまでは言わないが、高値で取引される薬草やキノコ、美しい毛皮の珍獣、そんな存在が森には溢れているらしい。“森大蜥蜴”の出現直後は逃げ出す者が多かったが、その隙に珍しい獣を生け捕りにして大儲けした剛の者が現れ、結局それを羨んだ多くの探索者たちが戻ってきたそうだ。</p><p>今では、一攫千金を夢見て森に入る命知らずたちと、それらの”商品”を高値で買い取る行商人で、村は大賑わいなのだという。</p><p>ただし、経済活動のほとんどが村外で行われる上、村内の施設も休業状態であり、村にはあまり利益が還元されていないとか何とか。</p><p>話を聞いたケイは、 随分と悠長に構えているんだな という感想を抱いた。と同時に、それほどまでに森の生態系が変わっているということは―あまり良い傾向とは言えない、と危惧した。</p><p>……この近辺には、まだ”森大蜥蜴”が姿を現してないのか？</p><p>何より気になるのは”森大蜥蜴”の動向だ。流石に近くにヤツが『出た』となれば、探索者はともかく、商人たちが真っ先に逃げ出すはず。</p><p>いや……それが、はっきりとは言えないんだ。ヤツの行動範囲が、少しずつ広くなってるのは間違いないんだ……</p><p>エリドアは何とも困ったような顔。</p><p>……詳しい事情を説明しよう。こっちに来てくれ</p><p>村に入るときも思ったが、門の周辺は混沌していた。</p><p>まるでバザールのようだ。色とりどりの天幕、熱心に探索者たちと交渉する商人、飲食物を売る簡易屋台、酒瓶片手に英気を養うごろつきたち―</p><p>おーい、キリアンはいるか</p><p>エリドアが声をかけると、探索者たちが顔を見合わせた。</p><p>キリアン、見たか？</p><p>さあな、おれは見てねぇ</p><p>ってかキリアンって誰だ？</p><p>そんなこと言い出したらよォ、まずお前が誰だよ！</p><p>違いねぇな！　ガハハ！　知らねえ顔ばっかりだぜ</p><p>それよりエリドア、その別嬪さんを紹介してくれよ！</p><p>誰かが叫び、 そうだそうだ！ と野太い声が重なる。</p><p>やいのやいの。ケイの傍らのアイリーンに、口笛を吹く者、見惚れる者、下品な野次を飛ばす者―いくらこの場が賑わっているといっても、女っ気はゼロだ。流石にこんな危険な開拓村にまで出向いてくる商売女はいなかったのだろう。お陰で女に飢えた男たちが、砂糖菓子に吸い寄せられるアリのようにわらわらと―</p><p>あー。ダメだ、オレがいちゃ話にならねぇなコレ</p><p>ぼりぼりと頭をかいたアイリーンが、小さくため息をつく。</p><p>オレぁ一旦村に戻るぜ、ケイ。話は聞いといてくれ</p><p>わかった</p><p>こりゃ仕方ない、とばかりに頷くケイ。</p><p>おうおう、そんなこと言わずに、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃないかよぉ～、お嬢ちゃん</p><p>などと言いながら、酒焼けした赤ら顔の男が絡んでこようとしたが―アイリーンが、トンッと地を蹴る。</p><p>へ？</p><p>赤ら顔の男からすると、アイリーンが消えたように見えただろう。</p><p>軽々と宙を舞うアイリーン。真正面から男の頭を飛び越えたのだ。</p><p>そのまま、群がる男たちを避けるようにして、トンットンッと飛び跳ねていき、三メートルはあろうかという丸太の壁に取り付いて、そのまま向こう側へと消えた。門があるのに、わざわざ壁を越えてみせたのだ。</p><p>…………</p><p>ごろつきたちが、呆気に取られている。</p><p>エリドア……何者(なにもん)だありゃぁ……</p><p>強力な助っ人だよ</p><p>苦笑交じりに答えるエリドア。</p><p>と、ごろつきたちの間をすり抜けるようにして、一人の男が前に出てきた。</p><p>……アッシを呼んでると聞きやしたが</p><p>ぴったりとした皮の服に身を包んだ男だ。三十代後半といったところか。ツルツルに剃り上げたスキンヘッドで、頭部には爪で引っかかれたような傷があり、前歯が何本か欠けている。少し間抜けな顔立ちにも見えるが、その立ち居振る舞いには隙がなく、特に足運びにただならぬものを感じさせた。腰の後ろには山刀を差し、小型のクロスボウを背負っている。</p><p>おお、キリアン。この人に、森の様子を話してやってくれないか</p><p>エリドアがケイを示す。</p><p>どうやら、このスキンヘッド男はキリアンというらしい。察するに、今もなお森に踏み込む命知らずの一人といったところか。</p><p>こちらの旦那は？</p><p>以前話した、“大熊殺し”のケイさ</p><p>ほう！</p><p>じろじろとケイを見ていたキリアンは、感心したような声を上げる。</p><p>それはまた。アッシは流れ者のキリアンと申しやす</p><p>ケイだ。狩人をやっている</p><p>よろしく、と目礼する二人。</p><p>森の様子、とのことで。何を話しやしょう？</p><p>できれば”森大蜥蜴”の動向を知りたいんだが……</p><p>ケイはあまり期待せずに尋ねる。</p><p>ふぅむ。いくらで？</p><p>目を細めて、キリアンが笑う。</p><p>命がけで拾ってきた情報でやすからね</p><p>タダでやるわけにはいかない、と。</p><p>もっともなことだ、とケイは納得した。しかしどれほど払ったものか。</p><p>……こういうとき、いくらぐらいが相場なんだ？</p><p>いや。……おれに聞かれても困る……</p><p>突然ケイに聞かれ、困惑するマンデル。</p><p>こんな情報の売買は経験がないからな……</p><p>そうか……</p><p>……。ただ、山狩りの類で、軍が地元の猟師や狩人を案内人に雇うときは、一日あたり小銀貨２～３枚が相場だと聞いたことがある。……それより安いということはないだろう</p><p>悩むケイに、マンデルもどうにか記憶をたどり、そんなアドバイスをくれた。</p><p>じゃあ、これくらいでいいか</p><p>財布代わりの革袋から、銀貨を数枚取ってキリアンに手渡すケイ。小銀貨ではなく銀貨にしたのは、これより細かい硬貨を持っていなかったからだ。命がけの情報なのは間違いないので、多めに払ってもいいだろうという考えもある。</p><p>ほほう。これはこれは……</p><p>キリアンは手の内の感触だけで金額を察し、サッと懐に銀貨を隠した。</p><p>お話ししやしょう。ただ場所を変えたいところでやすね</p><p>そのリクエストに応じ、一行は近くの天幕の中へと移る。</p><p>さて。アッシも、“森大蜥蜴”には直接お目にかかったわけじゃないんでやすが</p><p>キリアンは石ころを拾い、地面に大雑把な地図を描き始めた。</p><p>曰く、キリアンはいつもヴァーク村から三十分ほどの距離を探索しているそうだ。目的は薬草の採取と、狩猟。真っ黒で艷やかな毛皮の狐や、緑色の鹿のような動物など、 深部(アビス) から迷い出てきたと思しき、珍しい獲物が目白押しだという。</p><p>で、“森大蜥蜴”は、どうやらこのあたり</p><p>キリアンは、自分の行動圏の外にザッと線を引く。</p><p>村から歩いて四十分あたりのところを、うろついているようでやして。足跡やら、これ見よがしに派手に倒された木やら、“森大蜥蜴”の通ったあとが目立ってやした。だからアッシも不意に出くわさないよう、ここらで引き返すようにしてるんでやすが</p><p>……なるほど</p><p>探索者の二人が喰われたのは、 深部(アビス) の領域付近だったはずだ。そのときに比べ、少し行動圏が広がっているように見える。</p><p>このあたりの地形は？</p><p>キリアンが引いた線を示して、ケイは尋ねた。以前、ケイもこの村から 深部(アビス) まで歩いていったので、道中の起伏は薄っすらと覚えている。なので、心当たりがあった。“森大蜥蜴”がさまよっている理由にも。</p><p>ここは……少しばかり、『谷』みたいに地形が凹んでるところでやすね</p><p>……わかった、ありがとうキリアン。ところでこの話は、皆にもしてるのか？</p><p>ケイの問いに、キリアンは首を振った。</p><p>正直、あまり。アッシに金まで払って聞こうってヤツぁそういやせん。みんな勝手にやってやすから。酒を奢られて少し話したことはありやすが、これほど詳しくは、まだ……せいぜいエリドアの旦那に話したくらいのもので</p><p>エリドアは数少ない『客』なのだとか。</p><p>ふむ。キリアンぐらい森に詳しいヤツは、他にいるか？</p><p>アッシが見たところ、アッシほど森歩きに慣れてるヤツも少ないかと</p><p>普通、確かな技術を持つ森の専門家なら、こんな場所に出稼ぎに来たりしない。森の恐ろしさを知っていれば、 深部 の化け物がいるかもしれないような場所に近づこうとは思わないからだ。</p><p>必然的に今、森に入っているのは、楽観的な素人ばかりだった。</p><p>ふーむ。エリドア、一つ質問なんだが、森に入ったきり帰ってこない探索者はどれほどいる？</p><p>えっ？</p><p>突然、水を向けられたエリドアが困惑の声を返す。</p><p>いや、……俺は把握できていない。なにせこの数だ。出入りも激しい</p><p>エリドアが外を示す。賑やかな探索者たちのテント村を。</p><p>こうしてケイたちが話している間にも、何組かの探索者たちが帰還し、それと入れ違うようにして森に入っていく者たちもいる。取引を終えて去っていく行商人もいれば、新しく村にやってくる商人もいる。今日、噂を聞きつけてやってきたごろつきが何人になるのか、把握している者は一人もいない。冒険者ギルドのような監督する組織があるわけでもなく、皆が好き勝手にやっているのだ。</p><p>ましてや誰が森に入り、誰が帰ってきたか、など―</p><p>なるほどな……</p><p>おおよそ、事態が把握できたケイは、顎を撫でながら唸った。</p><p>……何か、まずいのか？　ケイ</p><p>エリドアは不安げに。</p><p>まずい、というか……。なあエリドア、俺は『“森大蜥蜴”が出た』って知らせを受けたときは、正直もう間に合わないかもしれない、って思ったんだ</p><p>……えっ？</p><p>いつ襲われてもおかしくはなかった。こんな魔力が薄い土地で、“森大蜥蜴”が体を維持するには、そこそこ魔力を持つ生物を食べなきゃいけない。その筆頭が人間だ</p><p>野生動物に比べると、人間は魔力を豊富に持つ。特に中年以降の個体ともなれば、下手な 深部(アビス) の獣より魔力は高い。</p><p>だが、それでもヴァーク村は無事だ。</p><p>人の味を覚えた怪物が、いつ匂いをたどって襲いにきてもおかしくなかったというのに。</p><p>命知らずの『冒険者』たちに感謝した方がいいな。彼らの犠牲でこの村は保ってるようなもんだ</p><p>おそらく―日に何組かが喰われている。</p><p>キリアンの言っていた『谷』の周辺が、狩場(キルゾーン)なのだ。</p><p>俺の予測では、その『谷』に”森大蜥蜴”は巣を作ったんだろう。あいつらは山や谷の斜面を掘って、ヨダレで壁を固めて巣穴にするんだ。派手に倒された木は、通った跡じゃなく、縄張りの主張。そして”森大蜥蜴”の得意技は―待ち伏せだ。巣穴の近くに身を潜めて、通りがかった獲物を確実に仕留めてるんだろう</p><p>この森は、人の手が入っていない原生林だ。草木が鬱蒼と生い茂り、視界も悪い。体長十メートルを超える化け物でも、じっと身じろぎしなければ姿を紛れさせられる茂みや地形の起伏は、いくらでもある。</p><p>また、先入観。獰猛な”森大蜥蜴”は、地響きを立てて獲物を追いかけ回す―そんな風に勘違いしている者も多いだろう。実際は気配を殺して身を潜め、ギリギリまで獲物が近づいたところで、初めてその俊敏さを発揮するのだ。</p><p>キリアンは、“森大蜥蜴”の『通った跡』を警戒し、近づきすらしなかった。だからおそらく、“森大蜥蜴”の確殺圏に入らずに済んだのだろう。</p><p>だが、これが素人だったら？　ただのごろつきだったら？　この期に及んで、怪物はもっと森の奥地にいると勘違いしている愚か者だったら―？</p><p>その末路は、言うまでもない。</p><p>今はまだ、巣の近くに『餌』が豊富にあるからいいが</p><p>問題は、この話が知れ渡った場合。</p><p>もしも探索者たちが森に入らなくなったら―餌が不足する</p><p>そうすれば”森大蜥蜴”は、どうするか。</p><p>匂いをたどって、まっすぐ来るぞ。この村に</p><p>ケイに告げられ、エリドアの顔が引きつった。</p><p>―“森大蜥蜴”に仲間たちが喰われた、という探索者が戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。</p><p>93. 準備</p><p>前回のあらすじ</p><p>森大蜥蜴 この森当たりだわｗｗｗ　めっちゃ餌あるやんｗｗｗ</p><p>―最初は誰も、そいつのことなんて気にも留めなかった。</p><p>森からフラフラと一人で彷徨い出てきた探索者。見るからにみすぼらしい格好で、ろくな装備もない。</p><p>大方、一攫千金を夢見てやってきた食い詰め者が、ロクな成果も上げられずに帰ってきただけ―</p><p>誰もがそう思った。</p><p>そいつが、探索者たちのキャンプにたどり着くなり、わんわんと子供のように泣き出すまでは。</p><p>お、おい、どうしたんだよ</p><p>見かねた他の探索者が声をかける。</p><p>近寄ってみれば、酷い匂いだった。その探索者の下半身は汚物まみれだった。よほど恐ろしい目にあったのか、失禁してもそれを気にする余裕もなく、必死で逃げてきたらしい。</p><p>……死んじまった。死んじまったんだよぅ</p><p>この世の終わりを見てきたような顔で、そいつは言った。</p><p>でけえトカゲに、みんな喰われちまった</p><p>†††</p><p>―で、こうなったと</p><p>翌日、すっかり人気のなくなったキャンプを眺めて、ケイは呟いた。</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“が近場に出た、という噂はあっという間に広まった。まず、怖気づいた探索者が去り、そこそこ稼いでいて未練のない者がそれに続き、彼らの商品を買い取っていた商人たちも引き上げた。</p><p>残ったのは、それでも『森の恵み』を諦めきれない強欲者か、危機感に乏しい命知らずか、それ以外の理由で残った奇人・変人か。</p><p>さて、自分はどれだろう、などとケイは思う。</p><p>むしろまだ何人か残ってることに驚きだぜ</p><p>サーベルの鞘でトントンと肩を叩きながら、アイリーンが言った。</p><p>―へへっ。アッシのような物好きもおりやすからね</p><p>天幕の陰から声。傷だらけの禿頭をぺたりと撫でながら、キリアンがひょっこりと顔を出した。</p><p>あんた、残ってたのか</p><p>意外だった。</p><p>キリアンは、慎重に慎重を重ねた結果、“森大蜥蜴”の狩場(キルゾーン)に踏み込むことなく生き延びた、腕利きの探索者だ。リスク管理に優れているからこそ、真っ先に姿を消しているだろう、とケイは思っていたのだが。</p><p>歩く災害とも謳われる”森大蜥蜴”―その姿、一度は拝んでみたいと思っておりやして。アッシも、森歩きなぞを生業としている者でやすからねえ</p><p>昨日、“森大蜥蜴”の生態を事細かに解説され、自分も危ういところだったと知らされたときは青い顔をしていたのに、剛毅なことだ。</p><p>それに……旦那は、“森大蜥蜴(あれ)“を狩るつもりなのでしょう？　アッシもお供させていただきたく</p><p>……ただの酔狂かもしれんぞ？</p><p>そりゃあ、他の連中なら鼻で笑うところですがね。旦那は話が別でさぁ</p><p>キリアンはニヤリと笑う。“大熊殺し”ならではの説得力といったところか。</p><p>それは光栄だな。実際、人手は欲しいと思ってたんだ</p><p>流石にケイも、アイリーンとマンデルだけを仲間に”森大蜥蜴”を狩り切れるとは思っていない。基本的には森から出てくる”森大蜥蜴”を迎撃する形を取るつもりだが、簡単な落とし穴―“森大蜥蜴”が蹴躓く程度の深さでいい―などを準備するために、人手を集めなければならなかった。</p><p>村の男たちには、もちろん手伝ってもらう予定だ。しかし、探索者―特にキリアンのような腕も度胸もある人材は、いくらでも欲しい。</p><p>声をかけたら、もう少し集まると思うか？</p><p>報酬次第かと思いやすね</p><p>身も蓋もない答えに、 そりゃそうだ とケイは苦笑する。</p><p>キリアンだったら何が欲しい？</p><p>アッシはもちろん、金子(きんす)をいただけるならそれに越したことはありやせんが。手持ちが少ないならば、討伐成功の暁に獲物の素材を分け前に―という手もアリだと思いやす</p><p>なるほど</p><p>確かに、こういった大物狩りでは成功報酬が一般的かもしれない。大物狩りそのものが一般的かどうかはさておき。</p><p>ただしケイの場合は、そこそこ懐に余裕がある。</p><p>仕留めた”森大蜥蜴”は、コーンウェル商会に売り払う手はずになってるんだ。俺の一存じゃ素材の扱いは決められない</p><p>ほほう</p><p>だが幸い、金はある。できればキリアンのような、クソ度胸のヤツを雇いたいんだが……心当たりはないか？</p><p>わかりやした。何人か、声をかけてみやしょう</p><p>頷いたキリアンは、そう言ってまた天幕の陰に姿を消した。</p><p>よし、落とし穴でも掘るか</p><p>人材探しはキリアンに任せ、ケイは村の外で作業に取り掛かった。</p><p>念のため”竜鱗通し”と”氷の矢”を携え、手近にサスケも控えさせているが、ケイは少なくとも明日の朝まで”森大蜥蜴”は動かない、と見ている。</p><p>昨日犠牲になった探索者は最低でも四名。“森大蜥蜴”も腹が膨れて、そこそこ満足しているはずだ。ここしばらく、狩場では獲物に不自由していなかったので、今日も巣穴周辺で待ち構えていることだろう。</p><p>そして”森大蜥蜴”は昼行性なので、日が暮れて気温が下がってしまえば、明日の昼前までは動けない―</p><p>（―と、説明したんだがな……）</p><p>自らもシャベルを振るいながら、ケイは辺りを見回して肩を竦めた。</p><p>周囲には、村長のエリドアをはじめとした村の男たちの姿もある。みな、農具を手に作業に従事しているが、いつ森から怪物が飛び出してくるか気が気でないようだ。背水の陣を敷く軍隊の兵士でも、もうちょっとマシな顔をしているだろう。</p><p>（まあ、気持ちはわかるが）</p><p>かく言うケイも、絶対に100%安全だと思っているわけではない。アイリーンにはすぐそばで森を見張ってもらっているし、短弓を手に控えているマンデルにも”氷の矢”を数本渡してある。</p><p>当のケイたちが気を緩めていないのだから、村人たちが気楽に構えていられるはずがないのだ。</p><p>ケイ、ちょっといいか</p><p>と、鋤を担いだエリドアが、眉をハの字にした困り顔で話しかけてくる。</p><p>どうした？</p><p>そこそこ掘ったところに、デカい石が出てきた。どうしたものか</p><p>エリドアに連れて行かれると、確かに、どデカい石―というより岩―が地面に埋まっていた。</p><p>……うーむ、これを動かすのは確かに骨だな。ツルハシかデカいハンマーがあれば砕けそうだが</p><p>ツルハシはないな。ハンマーも木槌しか……</p><p>そうか、なら仕方ない……そのまま動かすか</p><p>できれば道具を使って楽をしたかったのだが。</p><p>ケイは一抱えもあるような巨石を、 どっせい！ と無理やり持ち上げて、豪快に放り捨てた。</p><p>よし、これでいいだろう</p><p>……相変わらずの怪力だな</p><p>ぱんぱん、と手の土埃を払うケイに、エリドアが呆れている。周囲の村人たちも、 何を食ったらあんな筋肉つくんだ にしてもこの石デカすぎだろ デカすぎて税金取られそうだな などと話している。</p><p>しかし、エリドアたちも頑張ったんだな……</p><p>切り株だらけの景色を見回しながら、ケイは感慨深げに言う。</p><p>以前来たときよりも、ヴァーク村の周囲はずっと拓けていた。“大熊(グランドゥルス)“襲撃時は、村から目と鼻の先の距離にあった森が、今は５０メートルほども離れている。 深部(アビス) の領域変動、その影響を少しでも抑えるために、森そのものを削る―村人たちの涙ぐましい努力の賜物だった。</p><p>お陰で、戦いやすい</p><p>サスケが駆け回るスペースがあるし、射線も通る。足場の悪さが玉に瑕だが、森の中と違って”弓騎兵”として立ち回れる。もしも村が以前のように森と近いままだったら、村への被害を度外視して、街道の辺りまで”森大蜥蜴”をおびき出す必要があったかもしれない。</p><p>しかし……ケイ、こんな落とし穴が、本当に”森大蜥蜴”に効くのか？</p><p>穴を掘り進めながら、エリドアが問う。</p><p>“森大蜥蜴”は１０メートル近い化け物なんだろう？　こんな、子供でも這い出せるような穴、それこそ子供だましにしか思えないんだが……</p><p>いや、意外と有効なんだコレが</p><p>土を掻き出しながらケイは答える。</p><p>“森大蜥蜴”、図体の割に脚が短くてな。力が強いお陰で、それでも素早く動き回れるんだが、だからこそ、猛スピードで走ってきて脚が引っかかると―</p><p>かなりバランスを崩す。腹を地面に擦ってしまい、突進の勢いは大幅に減じる。</p><p>で、そこを狙うというわけだ。“大熊(グランドゥルス)“と違ってバカだから、何度でも引っかかるしな</p><p>ふぅむ……なるほど</p><p>エリドアも納得したようだ。他の村人たちもやる気が出てきたらしく、穴を掘る手に力がこもっている。</p><p>おおい、旦那</p><p>と、村の方からキリアンがやってきた。背後には探索者たちを引き連れている。</p><p>キリアン！　……なんか、多くないか</p><p>引き連れている―ぞろぞろと、まるで遠足のように。</p><p>話を耳に挟んで、人足として雇ってくれという連中がいやして</p><p>親指で背後を指し示しながら、キリアンが肩をすくめる。</p><p>―ザッと顔ぶれを見てみると、色々と酷い。</p><p>どうやら大半は、 とりあえず少しでも金を稼ぎたい という者たちのようだ。みすぼらしく覇気もない。 “森大蜥蜴”に挑んでやろう という気概に満ちた者は、数えるほどもいなかった。</p><p>ええと……じゃあ、人足志望の奴らは、ここにいる村長のエリドアの指示を聞いてくれ</p><p>ケイがそう言うと、探索者たちがぞろぞろとエリドアの方に行く。 道具が足りないぞケイ！ という悲鳴を聞き流しつつ、キリアンを見やる。</p><p>……で、彼らが？</p><p>へえ。アッシが声をかけた連中でさ</p><p>残ったのは、たった二人だ。</p><p>まず、ゴリラのような筋肉隆々の男。装甲をうろこ状に重ねたスケイルアーマーを装備しており、短めの槍を四本も背負っているのが印象的だ。探索者というよりは、傭兵といった趣を呈している。先ほどからぎらぎらした目でケイを睨みつけてくるのだが、理由に心当たりはない。</p><p>次に、浅黒い肌のイケメン。場違いに思えるほどの美丈夫で、革鎧を身につけていなければ吟遊詩人か何かかと勘違いしてしまいそうだ。腰にはショートソードを差し、草原の民の複合弓を握っている。身のこなしはなかなか様になっており、武具も使い込まれた風で、ただのイケメンではなさそうだった。</p><p>おい、あんた……ケイか</p><p>と、ゴリラのような男が、クワッと歌舞伎役者のような表情でケイに迫る。</p><p>あ、ああ、そうだが</p><p>警戒心高めで引き気味のケイ。</p><p>ゴリラ男はサッと手を差し出す。何事だ、と身構えるケイに、</p><p>あ……握手……してくれねえか</p><p>……は？</p><p>……武闘大会……見ていた。あんたのファンなんだ……</p><p>ゴリラ男はうつむきがちにそう言った。</p><p>94. 助人</p><p>前回のあらすじ</p><p>あ……あんたの……ファンなんだ…… （もじもじ）</p><p>あんたのファンなんだ……</p><p>ケイの人生において、そうそう言われたことない台詞だった。</p><p>あ……ああ、……それはどうも</p><p>我に返ったケイは、手を差し出し、ギュッと握手した。</p><p>なんか力いっぱいに握って握力を確かめてくる、などということもなく、ゴリラ男は ははッ…… と照れたように笑って、ただ嬉しそうにしている。</p><p>……旦那。こいつは『ゴーダン』っていう名前なんですが、見かけによらず純朴なヤツでして</p><p>妙な空気の中、キリアンがフォローを入れた。</p><p>旦那の大ファンで、キャンプの古参なのに、昨日からモジモジするばかりで全く話しかけもできやせんで。見かねて連れて来たわけでさぁ</p><p>……そのためだけにか？</p><p>ああ、もちろん、槍投げの名手でもありやす。おいゴーダン、ボサッとしてねえで旦那に見せてやんな</p><p>お、おう</p><p>モジモジしていたゴーダンが、気を取り直して、背中の槍を一本抜き取る。さらに右手には、投槍器(アトラトル)と呼ばれる補助具を持っていた。</p><p>投槍器(アトラトル)とは、槍の石突を引っ掛けるための窪みがある棒状の道具だ。腕の力を無駄なく推進力に変換して槍を打ち出すことにより、射程と威力を飛躍的に上昇させられる。</p><p>槍の石突を窪みにセットし、ゴーダンが振りかぶった。</p><p>ふッ！</p><p>ビュゴッ、と弓矢とは全く異なる重量感のある音とともに、槍が投射される。</p><p>緩やかに放物線を描いた槍は、その実、恐るべき速さで風を切り、遠方の木の幹にドガッと突き立った。着弾点には樹皮が剥げた楕円形の模様があり、適当に投げたのではなく、狙って命中させたのは明らかだった。</p><p>ほう！　すごいな</p><p>大した威力、そして正確性だ。ケイの”大ファン”で、あれほど照れていたにも関わらず、即座に命中させてみせる度胸もポイントが高い。</p><p>旦那、いかがでしょう</p><p>雇おう。彼が協力してくれるなら心強い</p><p>おっ、よかったじゃねえかゴーダン、即決してくだすったぞ</p><p>ははッ……そっか……</p><p>嬉しそうに笑ったゴーダンは、照れてそれ以上は言葉にならなかったのか、浮かれた足取りで木に刺さった槍を取りに行く。</p><p>それで、次はこっちでやすが―</p><p>俺の番か！</p><p>続いて、キリアンがもうひとりの方を見ると、浅黒肌のイケメンが待ってましたとばかりに口を開く。</p><p>俺の名前はロドルフォ！　流れの用心棒だ！　栄えある”大熊殺し”のケイ殿に出会えるとは恐悦至極！　ってとこかな！？</p><p>芝居がかった仕草で一礼するロドルフォ。とても威勢がいい。ゴーダンの影響か、ロドルフォもナチュラルに握手を求めてきた。</p><p>そしてあんたほどじゃないが、弓が得意だ！</p><p>言うが早いか、右手で矢筒から数本まとめて矢を抜いたロドルフォは、複合弓を構えて速射を披露する。</p><p>シュカカッ、と耳に心地よい音を立てて、木の幹に矢が３本突き立った。</p><p>なかなかの早業だ。しかし……</p><p>……４本、放ってなかったか？</p><p>一矢、どこかへすっ飛んでいったようだが。</p><p>うむ！　これでもマシになった方なんだがな！　百発百中とはいかないから、数で補うことにした！</p><p>なるほど</p><p>数撃ちゃ当たる理論。連射の速さそのものはケイにも迫る技量だ。ロドルフォなりの修練の成果なのだろう、と理解した。</p><p>ただ、連射用に調整した結果か、複合弓の”引き”が少し甘いのが気になる。弓の威力を十全に引き出せていない―</p><p>（―いかんな、同業者(ゆみつかい)となると見る目が厳しくなりそうだ）</p><p>ケイはそんな自分に気づいて苦笑した。</p><p>（……まあ、いくら狙いが甘いといっても、“森大蜥蜴”のバカでかい図体を外すことはないだろう。１、２本は魔法の矢を預けても大丈夫か？）</p><p>うーむ、と考え込む。</p><p>今のところ、“氷の矢”はマンデルに５本ほど預けてあり、残りの１５本はケイが持っている。“森大蜥蜴”の巨体を効率的に冷却するには、できるだけ多方向から複数の矢を打ち込む必要があるのだが、肝心の射手がいなかった。</p><p>その点、ロドルフォは悪くない。射手としては。度胸もありそうだし……</p><p>……。ダメか？！</p><p>ケイの沈黙をどう受け取ったか、ロドルフォがこてんと首を傾げる。</p><p>ああいや、すまない、少し考え込んでいた。……もしよければ、使っている弓を触らせてもらえないか</p><p>え？　ああ、構わないが。見せるほどのものではないぞ！</p><p>ロドルフォがヒョイッと弓を渡してくる。他人に触らせることを全く気にしていないようだ。ケイは”竜鱗通し”を他人に扱わせる際、それなりに緊張するのだが。</p><p>（草原の民からの流用品、あくまで換えのきく道具ってことか）</p><p>複合弓をグイッと引いて、張りの強さを確かめたケイは、 まあこんなもんか と納得する。ロドルフォの引き具合から考えると、速射時の威力は本来の８割といったところか。</p><p>威力が不安か？</p><p>ケイの懸念を、ロドルフォは汲み取ったようだ。</p><p>―なら、ここを狙ったらどうだ！</p><p>とんとん、と指先で自分の目の下をつつき、ロドルフォは笑う。</p><p>柔らかく、脆い眼球を狙うつもりらしい。</p><p>……それは、おれも考えていた</p><p>と、いつの間にか近くに来ていたマンデルが話に加わってくる。</p><p>ケイ。……実際のところ、目は弱点になりうるのか？　以前、“森大蜥蜴”は熱を探知する器官を持っていて、視覚に頼らず獲物の位置を特定できる、と言っていたが、目を潰しても意味はあるのだろうか</p><p>マンデルの質問に、ロドルフォが え？　なにそれ、そんなの知らない とばかりにスンッと真顔になった。</p><p>もちろん、意味はある。目をやられて平気な生き物はいないさ、痛みで怯むだろうしな。ただし命中すればの話だ</p><p>ケイは手で、十センチほどの円を作ってみせた。</p><p>“森大蜥蜴”の目の玉はだいたいこれくらいの大きさだ。図体の割に目はそんなにデカくない。そして、ヤツはこうやって</p><p>ケイはシャドーボクシングをするように、ぐいんぐいんと首を振ってみせた。</p><p>頭を振りながら移動するから、命中させるのも至難の業でな</p><p>……ケイでも難しいのか？</p><p>ああ。走ってる最中は、とてもじゃないが狙って当てられん。人間と違って次にどう動くか読めないんだ。だから少しでも動きを鈍らせられるように、落とし穴を準備しているわけさ</p><p>なるほど、そういうことか</p><p>マンデルはふんふんと頷いて、表情を曇らせた。</p><p>このサイズか。……おれの腕では、止まっていても必中とはいかないな</p><p>自分も、手で十センチ大の円を作ってみながら、思案顔のマンデル。</p><p>なぁに、数撃ちゃ当たる！！</p><p>ロドルフォはなぜか胸を張っているが、それは自分に言い聞かせているようでもあった。</p><p>それで、ケイ殿！　俺は使い物になるかな！？</p><p>ああ、雇おう</p><p>なんだかんだで、この威勢の良さは気に入った。ケイ基準だと見劣りがするだけで、弓の腕前も及第点だ。“森大蜥蜴”を相手に目を狙ってやろうという気概も悪くない。</p><p>ありがたい！　全力を尽くさせてもらおう！</p><p>白い歯をキラッとさせて笑いながら、再び大仰に一礼するロドルフォ。</p><p>……まあ目潰しに関しては、当たったら儲けもの、くらいに思うといいさ。それに眼球から脳までの距離が遠くて、横合いから深く突き刺さらない限り、致命傷にはならないんだ</p><p>もちろんケイとしても積極的に狙うつもりだが、以前の”大熊”のように即死させるのは難しいだろう。魔法の矢が目にぶっ刺されば話は別かもしれないが―</p><p>旦那、それに関してはアッシに考えがあるんでさ</p><p>と、ここでキリアンが腰のポーチから黒い小さな壺を取り出す。クッションに包まれ、厳重に封がしてあるが……何やら物騒な気配だ。</p><p>……それは？</p><p>アッシ特製の毒でさぁ。猛毒のキノコ、毒ガエルと毒虫の汁、それに薬草と香辛料を混ぜてありやす</p><p>思った以上に物騒な代物だった。キリアンの森の知識の結晶。</p><p>肉を溶かす毒なんで、危なっかしくて普通の狩りには使えやせんが。“森大蜥蜴”が相手なら、と思いやして。流石に、これっぽっちの毒じゃデカブツは殺しきれんでしょうが、動きはかなり鈍くなると思いやすぜ</p><p>毒か……</p><p>魔法の矢は用意していたが、その発想は抜け落ちていた。</p><p>……旦那、毒はお嫌いで？</p><p>渋い顔をするケイに、キリアンが顔を曇らせる。こういった『道具』は人によって主義主張信条があり、トラブルの種になりかねないのだ。</p><p>いや、あまりいい思い出がないだけだ。使えるものは使うべきだと思う</p><p>ひょいと肩を竦めるケイ。</p><p>アッシは矢弾(ボルト)にこれを塗り込むつもりでやすが、こっちの坊(ぼん)にも使わせてやろうかと</p><p>おいおい、坊(ぼん)はよしてくれよ！</p><p>ロドルフォが苦笑している。だが、彼の速射と毒矢はなかなか相性がいいかもしれない。</p><p>旦那は、お使いになりやすか？</p><p>いや、俺はやめておこう。毒はそっちで使ってくれ</p><p>毒なんざ使わなくとも、旦那の強弓は威力充分でやすからね</p><p>ケイの”竜鱗通し”を見やり、眩しげに目を細めるキリアン。</p><p>そういえば、その強弓！　“大熊”さえ一矢で射殺したと名高いが、ぜひその威力を見せてはもらえないか！？</p><p>ロドルフォが鼻息も荒く頼み込んでくる。</p><p>…………</p><p>その背後では、槍を回収して戻ってきたゴーダンが、目を輝かせていた。</p><p>あー……すまないな、本気で使うと矢がダメになってしまうんだ。今は一本でも温存しておきたい</p><p>期待に応えられず申し訳なく思いつつも、ケイは断る。“竜鱗通し”は全力で矢を放てば細木を折るほどの威力だが、代償として矢も砕けてしまう。“森大蜥蜴”を射殺すには、矢が何本あっても足りないほどだ。デモンストレーションのために無駄にするわけにはいかない。</p><p>そうか。それは確かに、そうだな！</p><p>…………</p><p>納得するロドルフォ、しゅんとするゴーダン。</p><p>代わりと言っちゃなんだが、引いてみるか？</p><p>おっ！！　いいのか！？</p><p>……！！</p><p>喜ぶロドルフォ、元気を取り戻すゴーダン。</p><p>ケイは苦笑しながら、“竜鱗通し”を貸してやった。まあ、この二人なら変な扱いはしないだろう。</p><p>思ったより軽いな！　……って、なんて張りだコレは！？</p><p>……指が千切れそうだ</p><p>やはり、みな同じような反応をするもんだな。……かくいうおれもそうだった</p><p>やんややんやと騒ぐ二人に、マンデルが腕組みしたままうんうんと頷いていた。</p><p>ちなみに、キリアンも興味がありそうな顔をしていたが、年甲斐もなくはしゃぐのが恥ずかしかったのか、触らなかった。</p><p>ところでロドルフォ。渡しておきたいものがある</p><p>“竜鱗通し”体験会が落ち着いたところで、ケイは話を切り出す。</p><p>おお、なんだ？</p><p>魔法の矢だ</p><p>！？　そんなものがあるのか！</p><p>ああ。友人の魔術師に作ってもらった。氷の精霊の力で、刺さった部分を凍りつかせる力がある</p><p>“森大蜥蜴”が寒さに弱く、体温を下げれば劇的に動きが鈍くなる、という旨の説明をしたケイは、腰の矢筒から”氷の矢”を抜き取ってみせた。鏃の留め具にブルートパーズがはめ込まれている、特殊な矢だ。</p><p>これが……！</p><p>魔法の矢……！</p><p>初めてお目にかかりやした</p><p>興味津々なロドルフォ、ゴーダン、キリアンの三人組。</p><p>ロドルフォ、お前にはコイツを持っていてもらいたい</p><p>いいのか！？　俺が！？</p><p>ああ。だがその前に使い方を教えよう</p><p>ケイは”氷の矢”を矢筒に戻し、代わりに普通の矢を抜いた。</p><p>これは普通の矢だが、とりあえず魔法の矢だと思ってくれ。魔法の矢は、放つ前に合言葉(キーワード)を唱える必要がある</p><p>ぐっ、と矢をつがえて引いてみせる。</p><p>この状態だ。放つ直前に、 オービーヌ と唱えろ。そうすることによって、矢に封じられた精霊の力が目覚める。そして矢が刺されば、氷の魔力が解き放たれるんだ</p><p>なるほど</p><p>ただし、一度精霊の力を目覚めさせると、もう矢筒には戻せない。絶対に命中させる必要がある。そして合言葉を唱えずに放つと、普通の矢と変わらない。絶対に合言葉を唱えるのを忘れるな。いいか。絶対にだ</p><p>な、なるほど……</p><p>ロドルフォはケイの気迫に圧されて引き気味だ。</p><p>とりあえず、２本渡しておく。 ロドルフォ、お前にこの２本を譲る</p><p>あ、ああ……わかった</p><p>その２本が自分のものであることを宣言してくれ</p><p>え？　…… この魔法の矢は、俺のものだ</p><p>よし。それで所有権がお前に移った。お前がその矢をつがえて、合言葉を唱えると魔法の矢として機能する</p><p>ほほー……！</p><p>しげしげと鏃に埋め込まれた青い宝石を眺めていたロドルフォだったが、やがて大事そうに腰の矢筒にしまった。</p><p>合言葉は覚えてるな？</p><p>オービーヌ だな？</p><p>そうだ。これから俺が、『合言葉！』と叫んだら即座に オービーヌ と言い返せよ。いざというときに忘れてちゃ話にならんからな</p><p>覚えているような気がしていても、“森大蜥蜴”を前にして緊張したら合言葉が出てこないかもしれない。来襲までどれほど時間があるかは謎だが、できる限り訓練しておこうというわけだ。</p><p>ちなみに、マンデルにも同じことをやっている。</p><p>はっはっは、任せてくれ。女の名前を覚えるのは得意なんだ！</p><p>ちなみに、 オービーヌ は氷の精霊の名前だ</p><p>そ、それは畏れ多いな……！</p><p>ロドルフォはぎょっとして仰け反った。</p><p>旦那。その魔法の矢、アッシには使えないもんですかい？</p><p>キリアンの得物はクロスボウだからな……</p><p>クロスボウは太く短い矢弾(ボルト)を射出する。弓で放つ矢とは形が全く違うのだ。無理やりセットすれば発射はできるだろうが、まっすぐ飛ばないだろう。キリアンもプロなので ああ、確かに とすぐに理解し、諦める。</p><p>……ケイ、……その……</p><p>と、ここでゴーダンがもじもじと。</p><p>……魔法の槍とかは、ないか……</p><p>羨ましかったらしい。</p><p>……。すまない、流石に持ってないな……</p><p>そうか…………</p><p>……ま、まあ、なんだゴーダン。お前さんにもアッシの毒を分けてやるよ、魔法の槍たぁいかないが、毒の槍にしようぜ</p><p>お、おう……</p><p>キリアンが慰めなのか何なのかよくわからない言葉をかけたが、ゴーダンは依然として残念そうな顔をしていた。</p><p>なんとなく不憫に思ったケイは、</p><p>……お前の槍に、風の精霊への祈りを込めておこう。狙いを違わず突き刺さるように</p><p>…………！</p><p>ゴーダンがパッと明るい表情になった。</p><p>†††</p><p>ケイが祈りを捧げると、シーヴが気を利かせて（ケイの魔力を消費し）風を吹かせてくれたので、ゴーダンは大喜びだった。</p><p>めちゃくちゃはしゃいでいた。</p><p>また、アイリーンとマンデル以外の面々も、『風の精霊が顕現した』ことに驚きつつも、好意的に受け止めていた。ケイは自らが魔術師であることを特に喧伝していなかったからだ。</p><p>もっとも、皆の士気が上がるのは良いことなので、ケイも無粋な解説などはせず口をつぐんでおいたが。</p><p>それから森を警戒しつつ土木作業を進め、多数の落とし穴を掘った。子供がすっぽりと埋まる程度の深さの穴に、木の枝で軽くフタをしただけの稚拙極まる罠だが、“森大蜥蜴”の頭脳ではおそらく見破れまい。賢い”大熊”だったら引っかからなかっただろう。</p><p>日が暮れてからは、村で英気を養う。アイリーンが”警報(アラーム)“の魔術で万が一の備えをしたが、“森大蜥蜴”は昼行性なので夜には襲撃がないはず、ということでゆっくりと体を休める。</p><p>そして翌朝―</p><p>ケイは借り受けた民家の寝室で、ガヤガヤと騒がしい外の気配に目を覚ます。</p><p>まさか、出たのか……！？</p><p>朝飯食う暇もねえなケイ！</p><p>アイリーンともども、最低限の装備を身に着けて家を飛び出す。</p><p>しかし外に出てみれば、“森大蜥蜴”の来襲ではないようだった。</p><empty-line/><p>見れば村の入口のキャンプに、一台の荷馬車が停まっている。</p><p>あれはコーンウェル商会の……！</p><p>御者台には、数日前に知り合った護衛・オルランドの姿があった。</p><p>想像以上に早い到着だな！</p><p>ピウッと口笛を吹くアイリーン。</p><p>囮の山羊も積んでるはずだ。これは助かる―</p><p>ケイも満足げに頷いたが、</p><p>ケイさーん！！！</p><p>荷台に見覚えのある顔があって、目が点になった。</p><p>やった！！　どうやら間に合ったようですね！！　世紀の大物狩りに！！</p><p>竪琴を片手に大感動している吟遊詩人。</p><p>―これで僕も伝説の目撃者になれるッッ！</p><p>なぜかコーンウェル商会の馬車に、ホアキンが同乗してきていた。</p><p>サスケ ケイにファンだって</p><p>スズカ あなたのファンはいるのかしらね</p><p>サスケ そりゃいるよ。…………いるよね？</p><p>95. 伝説</p><p>前回のあらすじ</p><p>サスケ イカれたメンバーを紹介するぜ！</p><p>スキンヘッドであり断じてハゲじゃない！　森歩きの達人キリアン！</p><p>ケイの大ファン、シャイ系ゴリラ投槍マン！　ゴーダンんん！！</p><p>やたらイケメン！　爽やか用心棒のロドルフォぉぉぉ！</p><p>あとなんか商会の馬車にひっついてきた吟遊詩人</p><p>以上だ！！</p><p>ホアキン なんか僕の扱い雑すぎません？</p><p>ホアキン！　なんでこんなところに―って聞くまでもないか</p><p>伝説の目撃者とやらになるためだろう。</p><p>ケイさん！　本当に間に合ってよかったです！</p><p>荷馬車から飛び降りて駆け寄ってきたホアキンは、聖地へ巡礼に訪れた信者のような、感動した面持ちで村を見つめた。</p><p>素晴らしい……ここが伝説の舞台になるわけですね……！　おお―</p><p>ホアキン、悪いが話はあとだ</p><p>そのまま一曲吟じかねないテンションのホアキンを、ケイは押し止める。</p><p>今日ぐらいからぼちぼちヤバいんだ、“森大蜥蜴”が出てくるかもしれん。仕上げに色々と準備することがあるから、話は作業しながら聞かせてくれ</p><p>わ、わかりました</p><p>流石に邪魔する気はないらしく、ホアキンは素直に頷いた。</p><p>荷馬車の護衛・オルランドと話し、商会からの物資を受け取る。</p><p>健康な山羊が五頭、医薬品や食料、そしてショベルやツルハシといった道具類。</p><p>人手はあっても道具が不足していた現状、少しでも土木作業を進めておきたいケイたちにとって、物資の到着は福音だった。</p><p>エリドア！　道具の分配と落とし穴は任せるぞ！</p><p>わかった！</p><p>新品のショベルを片手に、緊張気味のエリドアが頷く。</p><p>他の者は、作業でわからんところがあったら村長のエリドアに聞け！</p><p>了解ー！</p><p>村人や人足たちが各々の持ち場に散っていく。みな、日が昇って気温が上がると”森大蜥蜴”襲来の可能性が高まるとのことで、早めに作業を終わらせてしまおうと必死だった。</p><p>襲来の可能性があるのにそれでも逃げ出さないのは、森のすぐ近くに哀れな山羊たちが繋がれていて、 あいつらが先に喰われるから大丈夫だ という安心感があるからだろう。</p><p>メェ～～～</p><p>雲行きが怪しいことを察しているのか、不安げに鳴く山羊たちを尻目に、ケイは落とし穴に目印の小さな旗を立てていた。</p><p>おい、サスケ。よく見ておけ</p><p>サスケの手綱を引いて、旗を見せておく。 なにこれ？ とばかりにしげしげと覗き込むサスケ。</p><p>これは落とし穴だ</p><p>ぶるるっ</p><p>……その、彼(サスケ)は言葉がわかるんですか？</p><p>黙って作業を見守っていたホアキンだが、思わずといった様子で尋ねてくる。</p><p>いや、流石に全部わからないと思うが、コイツは賢いからな</p><p>ぶるるっ！</p><p>サスケ、この木の枝の部分をちょっと踏んでみろ</p><p>くいくい、とケイは再び手綱を引き、地面の落とし穴のフタを指し示す。サスケが前脚を伸ばし、ズボッ！　と勢いよく踏み込んで転びそうになった。</p><p>ぶるふぉォ！</p><p>おっとと！　ちょっとって言っただろ！</p><p>なんじゃこりゃぁと目を剥くサスケ、慌てて体を支えるケイ、 賢い……？ と疑惑の目を向けるホアキン。</p><p>まあ、これでお前もわかっただろう。これが落とし穴だ。この旗と木の枝っぽいフタが目印だからな、踏まないよう気をつけろよ</p><p>ケイがそう言うと、キョロキョロと周囲を見回したサスケは、 え、これぜんぶ落とし穴なの……？　こわ……近寄らんどこ…… とばかりに落ち着きなく足踏みし、ケイに寄り添ってきた。</p><p>これでよし</p><p>戦闘中は”森大蜥蜴”に集中することになるので、ケイがいちいちサスケに指示を出す暇がない。サスケには自発的に落とし穴を避けてもらう必要があるのだ。今の一幕で落とし穴のヤバさは体感できただろうし、サスケも迂闊に踏み込まないはず。</p><p>警戒に戻るかな</p><p>とりあえず作業らしい作業は終わった。ケイがやるべきことは、いつ”森大蜥蜴”が出てきてもいいように警戒するだけだ。</p><p>穴掘りに従事する村人たちに囲まれながら、自分は何もしないのは少し居心地が悪いが、昨日と違って今日は無駄に体力を消耗するわけにはいかなかった。もっとも、周囲の人間は誰もそんなことを気にしていなかったが……</p><p>急げー！</p><p>さっさと終わらせるぞー！</p><p>とっとと持ち場の作業を終わらせて退避することしか頭にないようだ。</p><p>しかしケイさん、こんな落とし穴が”森大蜥蜴”に通用するものなんですか？</p><p>ああ、これはな―</p><p>休憩タイムに移ったと判断したのか、ホアキンが話しかけてくる。ケイは昨日したように、この罠の有効性を説明した。</p><p>はは～～～なるほど、参考になりますねえ！</p><p>感心して頷いたホアキンは、目をぱちぱちと瞬かせながら、空を見上げて何やら呟いていた。ケイが話した内容を復唱して完璧に記憶しようとしているらしい。吟遊詩人は見聞きした物語を咀嚼し、アレンジして歌い上げる。当然、記憶力も良くなければ務まらないのだろう。</p><p>ホアキンも物好きだな、今回は流石に危険だぞ</p><p>それでも見たかったんですよ、だって”森大蜥蜴”ですよ？　しかも”大熊殺し”がその討伐に赴いた―これで血が騒がなかったら吟遊詩人失格ですよ</p><p>その割には、他に吟遊詩人の姿はないようだが？</p><p>わざわざ現場まで出向くのはホアキンくらいのものではないか。</p><p>いや、僕はたまたま、コーンウェル商会で今回の一件を小耳に挟んだんですよ。幸運でした……ケイさんたちは既に旅立ったとのことで、同業者に教える暇もなくそのまま追いかけてきたわけです</p><p>ひょいと肩を竦めるホアキン。</p><p>どうやらロクに準備も整えず、街道をひたすら北に走ってきたらしい。その道中でオルランド率いる商会の馬車に追いつき、頼み込んで同乗させてもらったそうだ。</p><p>よく追いついたな……</p><p>この男、武芸の心得はないが、身一つで各地を渡り歩いているだけあってかなりの健脚だ。騎馬よりは遥かに低速とはいえ、先行した馬車に追いつくとはどれほどの速さで駆けたのか。</p><p>まあでも、今頃はサティナの街でも話が広まってるでしょうし。吟遊詩人たちがこぞってヴァーク村を目指してきているかもしれませんよ？</p><p>―ドドドドドと土煙を巻き上げながら、竪琴を手にした吟遊詩人たちが大挙して押し寄せる光景を想像し、思わずケイは笑ってしまった。</p><p>彼らが間に合えばいいんだがな</p><p>おや。見世物になるのはあまりお好きじゃないかと思ってましたが</p><p>ケイの一言に、ホアキンが意外そうな顔をする。</p><p>彼らが間に合うということは、まだしばらく”森大蜥蜴”が出てこないってことだからな。俺だって戦いたくてたまらないわけじゃないんだ</p><p>これだけ迎撃準備を整えておいてなんだが、何かの間違いで”森大蜥蜴”が 深部(アビス) に引き返すなら、それはそれでアリだと思っているほどだ。</p><p>まあ、おそらく今回の個体は、 深部 の境界線の変動により本来の縄張りを失って移動を余儀なくされたのだろうから、引き返す目算は低かったが……。</p><p>なるほど、そういうものですか……“森大蜥蜴”を狩るためではなく、あくまで村を守るために義によって立ち上がった、と。そういうわけですね……</p><p>うんうんと頷くホアキン。着々とストーリーが練り上げられているようだ。</p><p>噂によると、魔法の矢も用意されているとか</p><p>ああ。“流浪の魔術師”殿にお願いしたよ</p><p>流石の人脈ですね……！　まさか”呪われし姫君”に加え、“流浪の魔術師”とまでお知り合いだったとは思いませんでしたが。こうしてみると最近この辺りで流行っている歌、全てケイさんたちが関わってますね？</p><p>言われてみれば、確かにそうだな……</p><p>サティナの正義の魔女。大熊殺し。流浪の魔術師と呪われし姫君の物語。</p><p>まさに英雄の星の下に生まれた、と……そんなケイさんと巡り会えたのが、僕の人生の最高の幸運かもしれません……</p><p>ポロロン……と竪琴を鳴らしながら、ホアキンは感じ入っている。必死に穴を掘る村人たちが なんでコイツこんなに暢気なんだ…… と別種族を見るような目を向けていた。ケイやアイリーンでさえある程度緊張しているというのに、肝が据わりすぎている……</p><p>ところで今回、ケイさんとアイリーンさんの御二方で戦うつもりなのですか？　荷馬車の護衛の方たちは―</p><p>ホアキンは村の方をチラッと見やった。</p><p>―あくまで”荷馬車の護衛”で、参加されないそうですけど</p><p>護衛のオルランドたちは、今も任務に忠実に、村の入り口の探索者キャンプで荷馬車を”護衛”している。“森大蜥蜴”が出現すれば、荷馬車を守るために速やかに退避するだろう。元からそういう契約なのでケイとしては特に言うこともない。</p><p>いや、流石にアイリーンと俺だけじゃあな。何人か協力者もいるぞ</p><p>ケイは、各所で武器を手に警戒する四人を示した。</p><p>あの羽飾りのついた帽子をかぶっているのが、マンデル。タアフ村から来た狩人だ。あっちのクロスボウ使いはキリアン。かなり腕利きで森歩きを生業にしているらしい。んで、あの大男がゴーダン。投槍の名手だ。そしてあの美丈夫はロドルフォ、流れの用心棒だ。四人とも、“森大蜥蜴”狩りで戦闘要員として雇った</p><p>タアフ村……マンデル……ひょっとすると”十人長”のマンデルですか？　確か武闘大会の射的部門でも活躍されてましたよね</p><p>詳しいな。そのマンデルだ</p><p>ほほう！！　皆さん、お話を伺っても？</p><p>本人がいいと言うなら、もちろん構わないぞ</p><p>それではちょっと聞いてきます！</p><p>マントを翻して、ホアキンがダッと駆け出した。とりあえず一番手近なゴーダンに話を聞きに行ったようだ。</p><p>初めまして！　あの、僕、吟遊詩人のホアキンっていうんですが―！</p><p>あ、ああ……</p><p>よろしければ、今回の大物狩りへの意気込みなど―！</p><p>そ、それは……その……</p><p>なぜ参加されようと思ったんですか！？　危険極まりない大物狩りに！</p><p>やはりケイの存在が大きい俺がケイを初めて知ったのは酒場で”大熊殺し”の噂を小耳に挟んだときだ最初は半信半疑だったがウルヴァーンで開催された武闘大会の射的部門を観戦していた俺は―</p><p>最初はしどろもどろだったが、突然早口で語り始めるゴーダン。ケイがいかに武勇に優れているか、賞賛の言葉が風に流れて聞こえてきて、ケイはひどくこっ恥ずかしい気持ちになった。</p><p>なるほど……！　ケイさんの義勇に感化されたと……！</p><p>ホアキンは逐一相槌を打ちながら耳を傾け、 英雄への憧れ、実にいい……！ などと呟きながらぱちぱち目を瞬いて空を見上げていた。</p><p>ゴーダンから話を聞き終えたホアキンは、マンデルやキリアンにも積極的に話しかけていく。キリアンはどうやらホアキンが苦手だったらしく、それを察したホアキンが早めに話を切り上げていた。逆に、マンデルとはケイの話題で盛り上がったようだ。</p><p>最後にロドルフォ。</p><p>初めまして！　ホアキンです― ¿Eres del mar?</p><p>Sí! ¿Tú también?</p><p>ニカッ！　と白い歯を輝かせて笑うロドルフォ。</p><p>どうやら二人とも”海原の民(エスパニャ)“の末裔のようだ。</p><p>Hola soy Rodolfo!</p><p>¡Oh, mucho mejor!　Entonces, me gustaría saber por qué decidiste participar en esta cacería―</p><p>De hecho, me voy a casar con una mujer pronto … por eso necesito un poco de dinero…</p><p>何やら話が弾んでいる。ケイもスペイン語は少しかじっているのだが、流石にネイティブの速さというべきか、何を言っているかはさっぱりだった。ただ、ホアキンがこの狩りに参加した理由諸々を尋ねていることだけは、なんとなくわかった。</p><p>（登場人物たちのバックストーリー掘り下げに余念がないな……）</p><p>これまで色々と付き合いのあったホアキンだが、ケイは彼の本質を完全には理解できていなかったようだ。</p><p>骨の髄まで吟遊詩人。まさか、ここまで徹底していたとは―</p><p>―ん</p><p>アイリーンがぴくりと森を見やった。</p><p>―静かだ。</p><p>いつの間にか。</p><p>鳥たちのさえずりも、何も聞こえない。</p><p>全てが息を潜めている。</p><p>まるで、何か、とてつもなく巨大な脅威を。</p><p>やり過ごそうとしているかのように―</p><p>メェ～～～！</p><p>メ～～～～ェ！</p><p>メェ～～～～！</p><p>繋がれた山羊たちが、狂ったように騒ぎ出した。首に巻かれたロープを引き千切る勢いで、必死に逃げ出そうとしている。つんざくような悲惨な鳴き声に、止まっていた時が再び動き出す。</p><p>退避！</p><p>ケイが短く叫ぶと、固まっていた村人や人足たちが、一目散に逃げ出した。</p><p>合言葉！</p><p>！　 オービーヌ ！</p><p>オービーヌ ッ！</p><p>マンデルとロドルフォが叫び返す。</p><p>ホアキン、お前も戻れ！</p><p>ケイに命じられ、ホアキンが弾かれたように走り出す。チラチラと背後を振り返りながら。こんなときまで、“森大蜥蜴”の登場を見逃すまいとするかのように。</p><p>だが、もはや吟遊詩人に居場所はない。</p><p>舞台に立つ役者は―</p><p>ケイたちだ。</p><p>ズンッ、と森の奥で何かが動いた。</p><p>木々が、茂みが、ざわめく。</p><p>―ぬるり、と。</p><p>木々の隙間を縫うように、青緑の巨体が姿を現した。</p><p>でけえ……</p><p>呆れたようなゴーダンの呟き。</p><p>グルルル……と遠雷のような音が響く。</p><p>それは地を這う竜の唸り声だった。</p><p>チロチロ、と細長い舌を出し入れしながら、“森大蜥蜴”が睨めつける。</p><p>いや、ただ餌の場所を確認しただけだ。</p><p>とりあえず手近なお(・)や(・)つ(・)にかじりつく。</p><p>メェ～～～～！</p><p>最期まで悲惨に、そして呆気なく。</p><p>パキッ、ポキッと捕食されていく。</p><p>ケイはその隙に、サスケに飛び乗った。</p><p>“竜鱗通し”を構える。“氷の矢”を引き抜く。</p><p>来るぞッ！　予定通りありったけ矢をブチ込め！</p><p>そして弦を引き絞り―</p><p>ズズンッ、と再び森が揺れた。</p><p>―は？</p><p>誰かの、呆気に取られたような声。</p><p>眼前の”森大蜥蜴”の背後に―揺らめく影。</p><p>ぬるり、と。</p><p>木々の隙間を縫うようにして、《《もうひとつ》》巨体が這い出してきた。</p><p>隣り合った二頭の竜は、お互いの頭を擦り付けるようにして。</p><p>ゴロゴロゴロ……と遠雷のような唸り声。</p><p>―愛情表現の一種。</p><p>ケイの知識が、場違いなまでに冷静に、それが何かを告げてくる。</p><p>つがい……？</p><p>冗談だろ……というアイリーンのつぶやきが、やけに大きく響いた。</p><p>そして存分に、仲睦まじさを見せつけた二頭の竜は。</p><p>グルルル……</p><p>だらだらと口の端から涎を垂れ流し。</p><p>―ルルロロロロォァァァ―！！</p><p>ケイたちに狙いを定め、咆哮する。</p><p>―ここに、伝説の狩りが幕を開けた。</p><p>96. 死線</p><p>―無理だ。</p><p>地響きを立てて迫る二頭の巨竜に、ゴーダンはすくみ上がった。</p><p>常人が心折れるには、充分すぎる光景だった。</p><p>グルロロロロォォ―ォ！！</p><p>雷鳴のごとき咆哮に打ちのめされ、身体が強張って動かない。</p><p>はるか格上の捕食者を前に本能が告げる。</p><p>―なりふり構わず逃げ出せ、と。</p><p>う、ぁ……</p><p>息が詰まる。腰が引ける。後ずさる。</p><p>Aubine ！</p><p>だがそこで、凛とした声が響いた。</p><p>思わず振り返る。</p><p>ケイだ。</p><p>馬上で朱(あか)い複合弓を構え、ぎりぎりと弦を引き絞っている。“氷の矢”に込められた精霊の力が目覚め、青い光が溢れ出していた。</p><p>―解き放つ。</p><p>カァン！　と唐竹を割るような快音。かつて武闘大会で、ゴーダンを魅了したあの音が高らかに響き渡った。</p><p>青き燐光を散らす、一条の流星と化した魔法の矢―それは吸い込まれるように”森大蜥蜴”の鼻先へと突き立った。</p><p>グルロロロロォ―ッ！？</p><p>予期せぬ痛みにたじろぐ”森大蜥蜴”。矢を中心に、青緑の皮膚にパキパキと霜が降りていく。凍傷の激痛もさることながら、冷気がピット器官を麻痺させる。これで熱探知の能力も使い物にならない。</p><p>Aubine ！</p><p>すかさず二の矢をつがえるケイ。狙うはもう一頭の”森大蜥蜴”。最初の個体より小柄だ、おそらくこちらが雌か。</p><p>快音再び。</p><p>青き流星が空を穿つ。</p><p>雌竜の前脚に氷の矢が突き立ち、凍傷で動きを鈍らせた。</p><p>効くぞ！　魔法の矢は！</p><p>ケイが叫ぶ。</p><p>たったの二射で巨大な怪物の突進を止めた、稀代の英雄が。</p><p>臆するな！　確かに手間は増えたが―</p><p>少し強張った顔で、それでもニヤリと笑ってみせる。</p><p>―その分、名誉も報酬も二倍だ！　狩るぞッ！！</p><p>つがえる魔法の矢。</p><p>Aubine ッ！</p><p>まるで流星群のように、青く煌めく矢の雨が降り注ぐ。</p><p>グルロロロロロロォ―ッ！！</p><p>顔が、脚が、穿たれ凍てつく痛みに、“森大蜥蜴”たちがじりじりと後退る。</p><p>……行けるぞ！</p><p>うおおおおッ！</p><p>マンデルとロドルフォも”氷の矢”をつがえ、 オービーヌ！ と合言葉(キーワード)を叫び、次々に放った。</p><p>青い光を灯した矢が”森大蜥蜴”の横腹に突き刺さり、凍りつかせていく。</p><p>さらにキリアンもクロスボウを構え、毒の矢弾(ボルト)を打ち込んでいた。</p><p>（そうか……俺も……）</p><p>ゴーダンは、気づく。</p><p>己もまた、英雄譚の一員であることに。</p><p>（このまま……何もせずに……）</p><p>―終われるものか。</p><p>背中に担いだ槍を引き抜く。</p><p>震える手で投槍器(アトラトル)を構える。</p><p>おお―</p><p>臆するな。</p><p>おおおおッ！！</p><p>狙え、そして穿て。</p><p>おおおおおおお―ッッ！</p><p>雄叫びを上げたゴーダンは、投槍器(アトラトル)を握る手に力を込める。</p><p>踏み込む。</p><p>全身をバネにして、持てる力を注ぎ込む。</p><p>ぶぉん、と投槍器(アトラトル)が唸りを上げた。</p><p>美しい放物線を描いた投槍は、無防備な”森大蜥蜴”の横腹に食らいつく。</p><p>そしてキリアン特製の毒をたっぷりと塗り込んだ穂先は、青緑の皮膚に深々と突き刺さるのだった。</p><p>†††</p><p>グルロロロロロロォ―ッ！？</p><p>横腹に槍がぶっ刺さり、絶叫する”森大蜥蜴”。大柄な体格から、おそらくこちらが雄の個体だろう。</p><p>いいぞ、ゴーダン！</p><p>横合いから痛撃をお見舞いしたゴーダンに、ケイは快哉を叫ぶ。</p><p>“氷の矢”の大盤振る舞いで”森大蜥蜴”たちがたじろぎ、突進を止められたのは幸いだった。お陰で戦線が―そう呼べるかは、人数が少なすぎて疑問だが―かろうじて維持されている。ここでゴーダンたちに逃げられたら、勝ち目がさらに薄くなるところだった。</p><p>（―しかし、まずいな）</p><p>その実、状況は芳しくなかった。</p><p>『矢継ぎ早』とはまさにこのこと。“森大蜥蜴”の目を狙って次々に矢を放ちながらも、ケイは冷めた思考で戦局を俯瞰している。</p><p>まず、想定よりも多く”氷の矢”を浪(・)費(・)してしまった。ケイは正面から、“森大蜥蜴”の顔面や脚部に命中させたが、あれは本来、アイリーンが注意を引いている間に横合いから胴体に打ち込むべきものだった。</p><p>そうすることでより効率的に体温を下げ、機動力を奪う狙いがあったのだ。</p><p>翻って顔面は効果が薄い。“森大蜥蜴”の頭蓋骨は分厚く、皮膚の下にもウロコ状の『骨状組織の鎧』があるため非常に堅牢で、ほとんどダメージが通らないのだ。それこそ目や、額に一箇所だけ存在する光感細胞が密集した部分―通称『第三の目』―を狙わない限りは。</p><p>そして今こそ、未知の痛みで”森大蜥蜴”たちも怯んでくれているが、まもなくそれは狂気的な怒りで塗り潰され、多少の痛みは歯牙にかけなくなるだろう。ゲーム時代から身にしみている”森大蜥蜴”の習性、一度(ひとたび)怒りに火が付けば、文字通り死ぬまで止まらない。</p><p>そう、ケイたちは”森大蜥蜴”を『圧(お)して』いるように見えるが、実際は、ただ”森大蜥蜴”が こんな痛み知らない！ とビビっているだけなのだ。生命に関わるような打撃は与えられていない。それこそゴーダンが腹にぶっ刺した槍くらいのものか。</p><p>あの大型トラックのような巨体が『暴走』すれば―いったい、何人が犠牲になることか。</p><p>ちら、と果敢に攻撃を続けるゴーダンたちを見やる。</p><p>マンデルとロドルフォは”氷の矢”を使い果たし、今は普通の矢で顔に集中砲火を浴びせている。キリアンはクロスボウでの狙撃。同じく目を狙っているようだ。だが、上下左右に動き回る頭部で、さらに小さな目を射抜くのは容易ではなく、よしんば目の付近に命中しても、強靭な皮膚と頭蓋骨で弾かれる矢がほとんどだった。</p><p>ゴーダンはキリアンから毒壺の一つを借り受け、追加で穂先に塗布しているようだ。毒でてらてらと輝く槍を構え、慎重に投げるタイミングを見計らっている。矢と違って槍は残りの本数が少ない。</p><p>皆、必死だ。</p><p>犠牲は、抑えなければ。</p><p>―そのために最善を尽くす。</p><p>アイリーン！</p><p>矢を放ちながら、ケイはその名を呼んだ。</p><p>―小さい方の気を引いてくれ！　デカいのは俺が引き受ける！</p><p>オーライ！　任せろ！</p><p>威勢よく答え、アイリーンが地を蹴った。</p><p>右手にサーベルを。左手に鞘を。それぞれ握って風のように駆ける。</p><p>オラッ、こっちだクソトカゲ！</p><p>そして、左手の鞘には大きなスカーフがくくりつけられていた。雌竜の前で派手に飛び跳ねながら、鞘を振り回すアイリーン。その姿はさながら闘牛士、ひらひらとたなびくスカーフが、否が応でも注意を引きつける。</p><p>ほれほれ！　どうしたどうした！</p><p>それだけでは飽き足らず、無謀にも眼前で立ち止まりさらに挑発するアイリーン。右手のサーベルを日差しにかざし、太陽光を反射させる。</p><p>目の辺りにチカチカと、眩い光―</p><p>グロロロ……と喉を鳴らした雌竜が突如、グワッと大口を開けて喰らいついた。</p><p>なっ……</p><p>思わず、マンデルたちの攻撃の手も止まる。これまでのゆったりとした動きからは想像もつかないほど、俊敏な、目にも留まらぬ一撃。</p><p>よっ、と</p><p>しかし、アイリーンはそれを上回る機敏さで回避。どころか、ビシュッ、と右手のサーベルを閃かせ、チロチロと空気の匂いを嗅ぐ舌先を斬り飛ばした。</p><p>どちゃっ、と地に落ちたピンク色の舌が、蛇のようにのたうち回る。</p><p>グルロロォォォ―ッ！！</p><p>鋭い痛みに仰け反る雌竜。その目に、明らかに、狂気の光が宿った。頭から尻尾の先にまで、力がみなぎる。巨体が何倍にも膨れ上がるかのような錯覚。</p><p>―ロロロロガアアァァァァァッッ！！</p><p>咆哮。絶叫。空気がびりびりと震える。</p><p>そして猛進。土を蹴散らしながら、狂える竜がアイリーンに肉薄する。</p><p>―ッ！</p><p>ここに来て余裕はなく、アイリーンが全力で走り出す。追いつかれれば轢殺必至、命がけの鬼ごっこが始まった。</p><p>グロロ……</p><p>暴走し始めた雌竜につられ、雄竜もまた頭を巡らせる。</p><p>が、その右目の真下に、ズビシッと矢が突き立った。</p><p>おおっと、お前の相手は俺だ！</p><p>ケイは手綱を引く。サスケが後ろ足で立ち、いななきを上げた。</p><p>お互いカップル同士、仲良くやろうじゃないか！　なあ！</p><p>デカいとはいえ所詮トカゲの脳みそ、ケイの言葉など理解できないだろう。</p><p>ただし―それが挑発であることだけは、伝わったに違いない。</p><p>グルロロロロ……</p><p>ケイを、そしてサスケを睨み、口の端から涎を垂れ流して、雄竜が唸る。すかさず目を狙ってケイが矢を放つも、即座に首を傾けた雄竜は側頭部で弾(・)い(・)た(・)。</p><p>ああ―こいつも確かに 深部(アビス) の怪物だ、と。</p><p>思わず舌打ちするケイ。ただでさえ上下左右に動いて狙いづらいのに、回避までされては―</p><p>―ロロログァアアアァァァァッッ！</p><p>そしてこちらもとうとう、怒りに火がついた。全身の筋肉を隆起させた雄竜が、狂ったように吼えたけりながら、猛烈な勢いで突進してくる。</p><p>サスケ！</p><p>ケイの叫びに応え、サスケが駆け始めた。振り向きざまに矢を放つ。ほとんど牽制にしかならないが、今は注意を引きつけることが重要だ。</p><p>雄竜のはるか後方では、アイリーンが円を描くようにして立ち回りながら、雌竜の攻撃を躱し続けているのが見える。噛みつきだけでなく、尻尾の薙ぎ払いや爪の一撃まで、当たれば即死の攻撃を紙一重で避けている。</p><p>ケイは、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。</p><p>だが―今―この状況で―こんな感情をどうしろというのだ。</p><p>せめて援護を。ケイは、残数が心許なくなってきた”氷の矢”を、ためらいなく引き抜く。</p><p>揺れる馬上、それでも風を読み、慎重に狙いをつけ、</p><p>Aubine ！</p><p>一条の青き閃光が、雄竜を飛び越えて空を切り裂いた。アイリーンを追う雌竜の横腹、前脚の付け根部分に見事着弾する。</p><p>アイリーンがちらりとこちらを見た。 ナイス とその口が動く。痛みからではなく、筋肉の収縮が阻害され、動きの鈍った雌竜を前に小休止。アイリーンはぜえぜえと肩で息をしていた。化け物を相手に鬼ごっこ。彼女の体力も無限ではない。</p><p>―一刻も早く、こちらを仕留める。</p><p>そらそら、どうしたァ！</p><p>続けざまに雄竜の顔面に矢の雨を見舞う。ぶおんぶおんと頭を振る雄竜、頭蓋骨と皮膚に阻まれ弾かれる矢。</p><p>雄竜に追いすがるようにして、マンデルたちが後方から矢を射掛けているが、効果抜群とは言えなさそうだ。ただでさえ強靭な皮膚を持つのに、遠ざかっているようでは相対的に矢の威力も減衰してしまう。</p><p>どうするか。一瞬、考えを巡らせたケイは、</p><p>―マンデル！</p><p>緩やかに、弧を描くようにサスケを走らせながら、“竜鱗通し”を構える。</p><p>お前にこれを譲る ！　受け取れ！</p><p>軽く弦を引き、カヒュカヒュッと続けざまに矢を放った。</p><p>突然、射掛けられたマンデルがギョッとして立ち止まる。その足元にトストスッと突き立つ矢。ハッとして引き抜けば、鏃部分に青い宝石が輝く。</p><p>“氷の矢”だ。</p><p>確かに受け取った！　……これはおれの矢だ！</p><p>マンデルは即座に意図を汲んだ。宣言するなり、“氷の矢”をつがえる。</p><p>オービーヌ ！</p><p>ケイを追って側面を見せる”森大蜥蜴”へ、二連射。精確な射撃で見事、“氷の矢”を命中させる。その隣で、自分には何もなかったことにロドルフォが一瞬悔しげな表情を見せたが、気を取り直して援護射撃を続けた。</p><p>グロロロロォォ―ッッ！</p><p>胴体を二箇所、さらに凍てつかされ雄竜が咆哮する。本来ならば冷気で動きが鈍るところ、むしろ怒りを燃やしてさらに突進の勢いを増す雄竜。</p><p>だが、今はそれでもいい。</p><p>激しく揺れる馬上で、ケイは獰猛に笑う。</p><p>今やオリンピックの馬術競技のように、サスケは複雑な動きで蛇行している。</p><p>―周囲が『旗』だらけだからだ。</p><p>狙い通り、このエリアに誘い込むことができた。</p><p>果たして、怒り狂う”森大蜥蜴”は、不自然な木の枝や旗に一切頓着することなく、そのまま最高速で突っ込んでくる。</p><p>―グロロガァッ！？</p><p>太い前脚で落とし穴を踏み抜き、素っ頓狂な声を上げる雄竜。</p><p>四脚ゆえに転びはしないが、顔からつんのめるようにして地面に腹を擦り、盛大に土砂を撒き散らして速度を失う。</p><p>―今だ！　サスケ！</p><p>サスケの腹を蹴り、全力で駆けさせる。慌てる雄竜が体勢を立て直す前に、側面へ回り込む。矢筒から引き抜いたのは、かつて”大熊”を一撃で絶命させた必殺の一矢、青い矢羽の『長矢』―</p><p>ケイの肩の筋肉が盛り上がる。“竜鱗通し”の弦を、耳元まで引き絞る。</p><p>一点、“森大蜥蜴”の胸元を睨んだ。肺と心臓と大動脈、重要な器官が全て一直線に並ぶ、その箇所を―</p><p>―喰らえ</p><p>カァンッ！　と一際大きく響き渡る快音。</p><p>銀色の閃光が、雄竜の胸に突き刺さる。深く、深く―</p><p>が、突然、バキャッという音とともに矢が砕け散った。雄竜の胸部の肉が波(・)打(・)っ(・)た(・)ようにも見える。</p><p>―肋骨か！</p><p>分厚い皮膚と筋肉の下、肋骨にぶち当たったらしい。心臓は撃ち抜けなかったが、音からして骨はへし折れたはず。破片が肺に刺されば、いかに”森大蜥蜴”といえどもただでは済まされない。</p><p>……援護を！</p><p>さらに、マンデルたちも追撃する。ロドルフォが連射し、キリアンが狙撃し、ゴーダンが毒を塗りたくった投槍を見舞う。</p><p>Siv ！</p><p>ケイも自前の魔法の矢を取り出した。エメラルドがはめ込まれた”爆裂矢”―爆発の威力はそれなりで名前負けもいいとこだが、体内に食い込んだ鏃が破裂すれば相応の出血を強いられる。</p><p>それを、連続して打ち込む。</p><p>風をまとった矢が胴体に潜り込み、バンッバァンッ！　と炸裂する。大きく開いた傷口から血肉が飛び散り、雄竜が絶叫した。</p><p>いいぞ！　畳みかけろ！</p><p>続いて、サスケの鞍にくくりつけた大型の矢筒から、筒状に穴が空いた太矢を取り出す。木工職人のモンタンが趣味で開発した、対大型獣用の出血矢だ。</p><p>コヒュンッ！　と独特の音を立てて飛んだ出血矢が、青緑の肌を食い破って突き刺さる。矢尻の穴から、まるで蛇口のように、どぽっどぽっと鮮血が溢れ出した。“森大蜥蜴”の図体に比べればささやかな量、しかし確実に命を削り取る出血―</p><p>うおおおおお―ッッ！</p><p>ゴーダンが再び槍を投じる。三本目だ。首付近に突き立ち、肉を溶かす毒が筋肉を痙攣させる。</p><p>グルロロロアァァァ……ッ</p><p>流石に堪えたか、これまでより情けない声で鳴く雄竜。先ほどマンデルに打ち込まれた”氷の矢”もボディーブローのように効いてきたらしく、動きにキレがない。</p><p>このまま仕留められる―</p><p>ケイたちはさらに攻勢を強める。</p><p>が。</p><p>―ッッ！！</p><p>その瞬間、筆舌に尽くしがたい爆音が耳朶を打った。</p><p>くらっ、と目眩に襲われて、少ししてから、その正体に気づく。</p><p>咆哮だ。</p><p>見れば、アイリーンが引きつけていたはずの雌竜が、凄まじい勢いでこちらに向かってきている。伴侶が危機に陥っていることに気づき、血相を変えて駆けつけようとしているのだ。</p><p>（アイリーンはどうした……！？）</p><p>ケイもまた、愛する彼女の姿がないことに、心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に襲われる。しかしよくよく見れば、雌竜を背後から必死で追いかけるアイリーンの姿があった。</p><p>無事だ。アイリーンは無事だ。</p><p>しかし安心している暇はない。一度、“森大蜥蜴”の注意が別のものに強く向いてしまえば、アイリーンはその敵意(ヘイト)を奪い返す手段を持たない。</p><p>―逃げろッ！</p><p>ケイは叫んだ。このままではマンデルたちが背後から襲われる。雌竜の接近に気づいた彼らも、泡を食って距離を取ろうとしているが、間に合わない。自分が前に出て引きつけるしかない。だが雄竜はどうする。深手は負わせたが、まだ絶命するほどではない―</p><p>グロロロ……ルロロロォァアアアアアッッ！</p><p>ケイたちの動揺を感じ取ったか。あるいは、相方の声に勇気づけられたか。</p><p>雄竜もまた、戦意を取り戻す。満身創痍の身体に、再び怒りと狂気を宿す。</p><p>グロガアァァァアアアアア―ッッ！</p><p>その巨体を振り回し、尻尾を薙ぎ払った。</p><p>地表がめくれ上がり、土砂が撒き散らされる。</p><p>土や砂だけならいいが、地中の石ころも凄まじい勢いで弾き飛ばされていた。マンデルたちの叫びがかすかに聞こえ、ケイの視界にもズッと黒い影が差す。</p><p>まず―ッ</p><p>土に紛れて、木の切り株が飛んできていた。</p><p>咄嗟に矢を放つ。ビシィッ、と命中した矢が衝撃のあまり砕け、切り株の軌道も僅かに逸れる。風の唸りを耳元に感じながら、間一髪のところで回避した。</p><p>マンデル―ッ！　無事か―ッ！？</p><p>ぱらぱらと降り注ぐ土砂を振り払い、サスケを駆けさせながらケイは叫ぶ。</p><p>なんとか……！</p><p>返事があった。土煙が晴れてみればごっそりと辺り一帯が掘り返されている。苦労して掘った落とし穴も、丸ごとえぐられるか土で埋め戻されるかのどちらかで、最早何の役にも立たない。</p><p>ロロロロ……という唸り声が響いた。</p><p>ぞわっ、と背筋に悪寒が走る。</p><p>サスケ！</p><p>ぐいっ、と手綱を引く。サスケがまるでカモシカのように跳ねる。</p><p>ガチンッ、という死神の鎌の音が背後から聞こえた。あるいは地獄の門が閉じる音か。生臭い息を感じるほどの至近、いつの間にか距離を詰めていた雄竜が噛みつこうとしていたのだ。</p><p>ロロロ……ッッ！</p><p>真っ黒な目、視線と視線がぶつかり合う。</p><p>馬鹿め</p><p>惜しかったな、という称賛と、よくぞここまで近づいたな、という歓喜が混じり合い、ケイはそんな言葉を吐いた。</p><p>Dodge this(避けてみろ)</p><p>この距離。流石に外さない。</p><p>目にも留まらぬ一撃は”森大蜥蜴”の専売特許ではない。素早く”竜鱗通し”を構えたケイは、快音、いとも容易く左目を射抜いた。</p><p>グルガアアアアァァ―ッ！</p><p>激痛と視覚の喪失に、絶叫した雄竜が闇雲に暴れ回る。これだけ矢を射てようやく抜いたか、という疲労感。折角なら”氷の矢”をブチ込んでやればよかった、と今さらのように思ったが、時既に遅し。</p><p>いい加減、くたばれ……ッッ！</p><p>首元や胴体に、長矢をブチ込む。ここまで連続して”竜鱗通し”を使ったのは馬賊と戦って以来だ、腕の筋肉が引きつったような感覚がある。早くケリをつけなければ、そろそろ雌竜もこちらに来るはず。</p><p>―は？</p><p>そう思って、チラッと視線を向けたケイは、唖然とすることになった。</p><p>伴侶の危機に怒り狂い、猛進する雌竜。</p><p>その進行方向に、立ちはだかる者がいたからだ。</p><p>右手に携える投槍器(アトラトル)―</p><p>何をやっている、ゴーダン！？</p><p>臨戦態勢で投槍を構えているのは、ゴーダンだった。</p><p>風の精霊よッ！　ご照覧あれッ！</p><p>地響きを立てて迫る巨竜を前に、ゴーダンは叫ぶ。</p><p>俺の槍は―！</p><p>投槍器(アトラトル)を握る手に力を込める。</p><p>狙いを違わず―！</p><p>全身をバネにして、持てる力を全て注ぎ込む。</p><p>突き刺さるんだぁ―ッッ！</p><p>投じた。</p><p>真正面から、唸りを上げて槍は飛ぶ。</p><p>激しく首を振り、突き進む竜めがけて。</p><p>それは芸術的なまでに美しい放物線を描き―</p><p>“森大蜥蜴”の額。</p><p>『第三の目』と呼ばれる、最も脆い部分を貫いた。</p><p>―ルロロロロァァァァァァッッ！</p><p>ビクンッ、と体を震わせ雌竜が絶叫した。</p><p>わずかにたたらを踏み、速度が減じる。</p><p>そして突進の方向も少しだけ逸れた。</p><p>ゴーダンッ！</p><p>だからケイが間に合った。</p><p>自らがもたらした一撃に茫然自失していたゴーダンを、襲歩(ギャロップ)の勢いもそのままに、馬上から蹴り飛ばす。</p><p>グがっ</p><p>悲鳴にもならない声を上げ、吹っ飛ばされて地面を転がるゴーダン。その目と鼻の先を雌竜の巨体が過ぎ去っていく。まるで列車が通過したかのような風圧、あのまま突進を食らっていればゴーダンは挽き肉になっていただろう。</p><p>すまん、許せ！</p><p>しかし騎馬の突撃の勢いで蹴り飛ばされれば、無傷では済まされない。衝撃と痛みでゴーダンは悶え苦しんでいる。ケイも、ゴーダンがせめてもう少し小柄なら、馬上に引き上げるなり引きずって走るなり、もっとやりようもあったのだが。</p><p>流石に大柄すぎて、このような手段を取るしかなかった。</p><p>立てるか！？</p><p>ど、どうにか……</p><p>村の方に逃げろ！　もう槍は使い切っただろ！</p><p>まさしく奇跡的な一撃だったが、あれが最後の槍のはずだ。</p><p>わ、わかった……</p><p>よろよろと立ち上がったゴーダンが、頼りない足取りで村の方へ逃げていく。</p><p>ゴーダン！　見事な一撃だった！　あとは俺に任せろ！！</p><p>その背中に声をかけると、チラッと振り返ったゴーダンは、この上なく誇らしげな顔をしていた。</p><p>微笑み返してから、ケイは改めて、二頭の巨竜に向き直る。</p><p>ちょうど、頭を振って額の槍を振り落とそうとする雌竜に、満身創痍の雄竜が寄り添うところだった。</p><p>舌を伸ばし、額に突き刺さった槍をどうにか抜き取る雄竜。</p><p>毒の痛みが酷いのか、雄竜に頭を擦り付けながらぶるぶると体を震わせる雌竜。</p><p>二頭の、憎悪のこもった視線が、ケイに突き刺さった。</p><p>ぶるるっ、とサスケが鼻を鳴らす。</p><p>ケイも、背中にじっとりと嫌な汗が滲んでいた。</p><p>それほどまでに、凄まじいプレッシャーを感じる。</p><p>もはやケイとサスケ以外、眼中にないといった雰囲気だ。</p><p>槍はゴーダンの仕業なんだがな……</p><p>そう呟くも、通じるはずもなく。</p><p>横目で見れば、ゴーダンは無事に村の方へと逃げおおせたようだ。ゴーダンが目をつけられるよりかは、まだ自分に敵意(ヘイト)が向いている方がいい。ずっとマシだ。</p><p>さて……ケリをつけようか</p><p>腰から長矢を引き抜く。</p><p>つがえる。引き絞る。放つ。</p><p>何千、何万回と繰り返した動作。</p><p>カァンッ！　という高らかな快音が均衡を打ち破り、再び、死力を尽くす闘いが始まった。</p><p>†††</p><p>みんな！　無事か！</p><p>汗だくになったアイリーンは、マンデルたちの元へ駆けつけた。</p><p>尻尾の薙ぎ払いにやられ、全員、土まみれのひどい格好だ。</p><p>無事だ、……おれは、どうにか</p><p>俺もだ！　しかし、クソッ、ほとんど何もできていない！</p><p>言葉少なにマンデル、歯噛みするロドルフォ。</p><p>アッシは、情けねえ話、ですが、ちと骨をやっちまいまして……</p><p>キリアンが胸を押さえながら、苦しげに呻く。どうやら薙ぎ払いで飛ばされた石塊か何かが直撃してしまったらしい。</p><p>しかし……これ以上、おれたちは何をすればいいんだ</p><p>マンデルは無力感に苛まれているようだった。</p><p>その視線の先では、サスケを駆るケイが二頭の竜に追いかけ回されている。ケイは”氷の矢”や長矢で脚部に集中砲火を浴びせ、“森大蜥蜴”たちの機動力を削り取りながら、挟み撃ちにされないよう巧みに立ち回っているようだ。</p><p>雄の方は、たぶん時間の問題だ。そのうち力尽きると思う。問題は雌の方だな、額に槍がぶっ刺さったのはかなりキ(・)く(・)だろうが、致命傷にはほど遠い</p><p>アイリーンは、ケイの危機にジリジリとした焦燥感を覚えながらも、冷静に言葉を紡ぐ。</p><p>で、だ。オレに考えがある</p><p>すぐに援護に向かわず、こちらに戻ってきたのは、そのためだ。</p><p>キリアンの旦那、例の毒はまだあるか？</p><p>へ？　そりゃ、ありやすが……</p><p>痛みで顔をしかめながら、キリアンが腰のポーチから小さな壺を取り出す。厳重に布でくるんでいたお陰か、衝撃で割れずに済んだようだ。</p><p>よし。ありったけくれ</p><p>これが目当てだった。率直に求める。</p><p>あの雌トカゲをブッ殺す</p><p>アイリーンの目は、完全に据わっていた。</p><p>97. 果敢</p><p>アイリーンは、しゃらりとサーベルを抜き放つ。</p><p>そしてキリアンから受け取った毒壺を傾け、どろどろとした黒い毒を全て鞘の中に流し込んだ。</p><p>コイツを、</p><p>ぱちん、とサーベルを鞘に戻し、しゃかしゃかと振り回すアイリーン。毒液を刃によく馴染ませる。</p><p>―アイツの目ン玉にブチ込んでやる</p><p>アイリーンの得物はサーベルと投げナイフだ。こんなちっぽけな武器で”森大蜥蜴”に致命傷を与えるには、それこそ眼球のような弱点を狙うしかない。無論、暴れる”森大蜥蜴”に接近戦を挑むなど、無謀以外の何物でもないが―</p><p>目を狙う、か……俺もやる、やってやるぜ</p><p>唸るようにしてロドルフォも言う。</p><p>ちらっと横目で見やるのは、村の方だ。自分たちが必死で戦っているというのに、物陰からこちらを覗き見る野次馬の姿がちらほらあった。なまじケイたちが善戦していたために、好奇心が恐怖を上回ってしまったらしい。</p><p>それは固唾を呑んで見守る村人たちであったり、探索者たちであったり、伝説を見逃すまいと目を血走らせたホアキンであったり。正直、村の未来がかかっている住民たちは仕方ないとしても、物見遊山な探索者たちの目は煩わしく感じられた。</p><p>―なぜ煩わしく感じられるのか？</p><p>決まっている。大して何もできていないからだ。</p><p>衆目にさらされる無力な自分が、我慢ならないのだ。</p><p>このまま引き下がれるかってんだ……！</p><p>ロドルフォは歯噛みする。自他ともに認める自信家で(・)あ(・)っ(・)た(・)ロドルフォは今、その自尊心を著しく傷つけられていた。</p><p>本当に何もできていない。</p><p>栄誉を求め意気揚々と参加した”森大蜥蜴”討伐だが、蓋を開けてみればペチペチと遠巻きに矢を射掛けただけ。魔法の矢はケイからの貰い物、自らの矢は”森大蜥蜴”の強靭な皮膚に歯が立たず弾き返された。</p><p>無力感に苛まれているのはマンデルも同じだが、彼はまだ、ケイに頼られている。ケイから魔法の矢のキラーパスを受けて、それでも慌てることなく命中させしっかりと仕事をこなしている。</p><p>だがロドルフォには何もなかった―弓の腕前が信用ならないからだ。ケイはロドルフォを頼らなかった。弓の命中率の低さは自覚しているものの、それでも、やはり屈辱ではあった。</p><p>加えて、ゴーダンの蛮勇だ。突進する”森大蜥蜴”の前に立ちふさがり、見事、額の弱点に槍でぶち抜いた―まるで英雄譚の一節ではないか。</p><p>それにひきかえ、自分は……。</p><p>この大物狩りの舞台で、主役を張ろうなどとは思っていない。だがせめて名のある脇役にはなりたい。そのためには、多少の無茶もしよう。ここで退いては男がすたるというものだ。</p><p>ロドルフォはまだ、己の可能性を信じていた。</p><p>それに命を賭す価値があるとも。</p><p>……おれもやろう</p><p>と、重々しく、マンデルも頷いた。</p><p>それは一種の義務感から出た言葉だった。ケイを助けねば―タアフ村まで助力を請いに来た、彼の期待に応えねばという思い。マンデルはロドルフォほど楽天的ではなく、死の香りを感じ取っていた。家で帰りを待つ娘たちの顔が脳裏をよぎる。</p><p>それでも。</p><p>それでもなお、ケイの力にならねば―と。</p><p>そんな気持ちに駆られていた。</p><p>助かるぜ</p><p>ニヤッとアイリーンは笑みを浮かべる。しかし、二頭の”森大蜥蜴”を翻弄しながらも、疲労の色が濃いケイとサスケを見やり、すぐに顔を引き締めた。</p><p>アッシも、お力になれりゃよかったんですが……</p><p>胸のあたりを押さえながら、苦しげに呻くキリアン。“森大蜥蜴”の尻尾の薙ぎ払いで石か何かが飛んできたようで、重傷ではないが思うようには動けないらしい。</p><p>せいぜい、クロスボウで射掛けることぐらいしか</p><p>無理はしなくていいさ、オレたちのために祈っといてくれ。……じゃあ二人とも、覚悟はいいか？　行くぞ！</p><p>アイリーンは、マンデルとロドルフォを連れて駆け出した。</p><p>死地へと、恐れを見せることもなく。</p><p>はぁ～……</p><p>その後ろ姿を見送って、キリアンは細く長く息を吐いた。</p><p>―もともとは、ただ”森大蜥蜴”をひと目見たい、それだけだった。</p><p>伝説の怪物の姿を拝んでみたい。そう思って討伐に参加した。</p><p>故郷を捨て、身寄りもなく、そこそこ歳を食っている。</p><p>特にやりたいこともないし、悲しむ人もいない。</p><p>ここが人生の終着点になってもいいか。</p><p>最期に一花咲かせてみよう。</p><p>そんな風に考えて。</p><p>だが、“森大蜥蜴”の薙ぎ払いが眼前をかすめたとき、心の底から思った。</p><p>『死にたくない』と。</p><p>自分で考えていたより、生に執着があることに気づいた。</p><p>気づいてしまった。</p><p>そこで心がぽっきりと折れた。</p><p>それでも、尻尾を巻いて今すぐに逃げ出さないのは、討伐組の中でおそらく一番の年長で、あまりにもみっともないからだ。キリアンをこの場に押し留めているのは、なけなしの意地だけだった。</p><p>だが、それもいつまでもつか……</p><p>勝ってくれ……</p><p>胸の痛みをこらえつつ、震える手でノロノロとクロスボウの弦を巻き上げながら、キリアンは呟く。</p><p>頼む……</p><p>早く終わってくれ。</p><p>それが誰のための祈りなのか―</p><p>もはやキリアン自身にもわからなかった。</p><p>†††</p><p>アイリーンは駆ける。</p><p>背後からは、ともに走るマンデルとロドルフォの荒い息遣い。たとえ自分一人でも突貫するつもりだったが、二人の存在が思いのほか心強い。</p><p>できれば無事に帰したいが―</p><p>（……なんとかするしかない）</p><p>不吉な思いを振り払い、暴れ回る二頭の巨竜を観察する。</p><p>大柄な個体、雄竜は満身創痍だ。爆裂矢や長矢を受け、胴体からの出血がおびただしい。顔面にも矢が突き立ち、左目は潰されている。おそらくもう長くはない―放っておいても明日には息絶えるだろう。</p><p>だが、今この瞬間、脅威たるには充分すぎる生命力。流石に動きは鈍っているようだが、執拗にサスケとケイを追い回しており、止まる気配はない。</p><p>もう一頭、小柄な雌竜は比較的軽傷だ。顔面はケイの集中砲火でハリネズミのようになっているものの、未だ致命傷は負っていない。先ほど、ゴーダンの投槍が脳天を直撃したのが一番の傷か。</p><p>雌竜は、ケイの射線から重傷の雄竜を庇うように立ち回っているようだ。ケイも魔法の矢や長矢はあらかた使い果たしたらしく、何本も矢を撃ち込んでいるが、雌竜は怯むどころか怒りでむしろ動きが速くなっているようにも見える。</p><p>どちらを狙うか。</p><p>重傷の雄竜か、まだピンピンしている雌竜か。</p><p>……やはり雌竜だろう、とアイリーンは結論づけた。</p><p>ここで弱っている雄竜にトドメを刺してしまい、雌竜討伐に本腰を入れるという手もあるが―</p><p>（ただでさえ荒ぶってんのに、相方が殺されたらどれだけ怒り狂うか）</p><p>それが恐ろしい。見境なく暴れ回り、トチ狂って村の方にでも突撃し始めたら今度こそ止めるすべがない。</p><p>ケイの―自分たちの身の安全を第一に考えるなら、それもアリではある。ケイもアイリーンも、その気になれば振り切れるのだ。一通り暴れて体力を使い果たしたところで、再び攻撃を仕掛けてもいい。</p><p>（―けど、それはお望みじゃないだろう？）</p><p>ケイは”森大蜥蜴”を狩りに来たのではない。</p><p>村を守りに来たのだ。</p><p>ならば。</p><p>雌竜を引きつける。ヤツの動きが止まったら、二人とも頼むぜ</p><p>……わかった</p><p>おうとも！</p><p>緊張気味のマンデル、向こう見ずなロドルフォ。走りながらいつでも放てるよう、それぞれ矢をつがえる。</p><p>アイリーンは、すぅぅっ、と息を吸い込んだ。</p><p>Ураааааааа(ウラァァァァァァァァ)！！</p><p>吠える。裂帛の気合で。</p><p>小柄なアイリーンが放ったとは思えない、びりびりと耳朶を震わせる咆哮。驚いて思わず速度を緩めるマンデルたちとは対照的に、さらに加速する。</p><p>雌竜は相変わらずケイを追うのに夢中で、アイリーンなど気にも留めない。圧倒的な体格差―いくらアイリーンが殺気を放とうとも、人間でいうなら、足元から仔猫が シャーッ！ と威嚇してきているようなものだ。殺し合いの最中に道端の仔猫を気にする者がいるだろうか。</p><p>だが、その仔猫が、威嚇するだけでなく爪で引っ掻いてきたとしたら。</p><p>そしてその爪に猛毒が仕込まれていたとしたら―？</p><p>果たしてアイリーンは、“森大蜥蜴”の暴風圏に踏み込んだ。</p><p>巨大な四足が大地を踏み荒らし、大蛇のような尻尾が暴れ回る。常人なら接触しただけで致命傷、巻き込まれれば圧殺必至。死地。ビュゴゥッと空を引き千切る尻尾の薙ぎ払いを紙一重で躱し、肉薄する。</p><p>視界いっぱいに広がる青緑の体躯―最高の革防具素材として名高い”森大蜥蜴”の表皮。強靭な皮膚組織は大抵の武具を弾き返し、分厚い肉が衝撃を無効化する。</p><p>サーベルは量産品に過ぎない。“地竜”を屠るにはあまりにもお粗末な得物。</p><p>が、その使い手の技量は生半可ではなかった。</p><p>雌竜の後脚、サスケに飛びかかろうと、力が込められたその瞬間。張り詰めた関節部分、力学的に脆くなった部位を一瞬にして見切る。</p><p>サーベルが鞘走った。</p><p>黒光りする刃が弧を描く。</p><p>ビッ、と青緑の表皮に、赤い一文字(いちもんじ)が刻み込まれた。</p><p>グルルルルアァァ―ッッ！？</p><p>猛毒の激痛が神経を焼き、雌竜がビクンッと体を震わせて振り返る。</p><p>アイリーンは視線を感じた。雌竜ではない、その背後、ケイだ。アイリーンが仕掛けたのを見て、汗だくのサスケの首を励ますように叩き、雄竜に矢を射かけて注意を引きつけている。</p><p>ケイと雄竜、アイリーンと雌竜。</p><p>つかの間の分断、各個撃破の構図。</p><p>―うおおおお！</p><p>と、アイリーンの左右後方から、マンデルとロドルフォが雌竜の顔面めがけて続けざまに矢を放った。</p><p>喰らいやがれ―！</p><p>ロドルフォがここぞとばかりに怒涛の速射を見舞う。マンデルの狙い澄ました一撃も含め、眼球を射抜く軌道の矢もあったが、雌竜はブルンブルンと頭を振り全て弾き返してしまう。</p><p>だが、その間にアイリーンは次なる一手を打っていた。懐から取り出すは、革袋。中にはぎっしりと、水晶の塊と大粒のラブラドライト。</p><p>大盤振る舞いだ―</p><p>陽はまだ高く。</p><p>ゆえに影は濃く。</p><p>革袋を開け、ざららぁと中身をぶちまける。</p><p>Kerstin!</p><p>アイリーンの足元の影に、とぷん、とぷんと触媒が沈んでいく。</p><p>Kage, Matoi, Otsu.</p><p>素早く印を切り、叫ぶ。</p><p>Vi kovras(覆い隠せ)!</p><p>アイリーンの影がたわみ―爆発した。</p><p>影の触手が雌竜の頭部にまとわりつき、完全に覆い隠す。視界が暗闇で閉ざされた雌竜は、一瞬、何が起きたのか理解できずに動きを止めた。</p><p>だがそれも、長くは続かない。</p><p>手持ちの触媒全てと、少なくない魔力を捧げたにもかかわらず、さんさんと照りつける陽光に灼かれ影のヴェールはほどけるようにして消えていく。</p><p>グルァ―？</p><p>しかし雌竜が視界を取り戻したとき―そこにアイリーンの姿はなかった。</p><p>わかるはずもない。</p><empty-line/><p>自らの頭部に―</p><p>ぽつんと影が差していることなど。</p><p>―上等</p><p>跳躍の頂点。</p><p>サーベルをまっすぐ下に構えたアイリーンは、獰猛に笑う。</p><p>ゴーダンの槍がぶち抜いた雌竜の額、『第三の目』―</p><p>死ね！</p><p>舞い降りたアイリーンは、そこへ全体重をかけた一撃を叩き込む。</p><p>ガツンと頭蓋骨に刃が食い込む感触―</p><p>（浅いッ！！）</p><p>しかし、アイリーンは顔を歪める。狙い違わず、確かに傷口を抉ったが、それでも硬すぎる―貫通には至らない―</p><p>グルルオオァァ―ッ！？</p><p>再び頭頂部を襲った激痛に、雌竜が思わず仰け反る。振り落とされそうになりながらも、ぐりぐりと刃をねじ込むアイリーン。無尽蔵の生命力を持つ”森大蜥蜴”も脳を破壊されれば流石に倒れる、ここで仕留めるのだ、と―</p><p>が、限界は唐突に訪れた。</p><p>あっ</p><p>バキン、という鈍い音。</p><p>サーベルが根本から、へし折れた。</p><p>DEMONDAL から持ち込んだとはいえ量産品、しかも本来は『斬る』ための武器だ。全体重をかけた刺突だの、硬い骨を抉るだの、度重なる酷使に耐えられなかった―</p><p>身を支えるすべを失い、空中へ投げ出されるアイリーン。咄嗟に手を伸ばし、何か固いものを掴んだ。ケイが雌竜の顔面に撃ち込んだ矢―それを支えにして、かろうじてぶら下がる。</p><p>至近。</p><p>“森大蜥蜴”の横顔。</p><p>雌竜と目が合う。</p><p>アイリーンの姿を認めた瞳孔が、ギュンッと収縮する。</p><p>―　オ　マ　エ　カ　―</p><p>そう言わんばかりに。牙を剥き出しにして。</p><p>次の瞬間、稲妻のように首を巡らせ、半身を食い千切られる。</p><p>そんな確信。</p><p>考えるよりも先に身体が動いた。</p><p>左手に握ったサーベルの鞘。</p><p>それを鞘口から雌竜の目に突き入れた。</p><p>ゴガッ―</p><p>鞘の中の猛毒が逆流し、眼球が内側から焼かれる。これまでと比にならない激痛、雌竜は悲鳴さえ上げられずに痙攣した。</p><p>こいつァ効くぜ―</p><p>身体を支えていた矢から手を離し、アイリーンはひらりと宙に舞う。</p><p>ここでケリをつける。</p><p>―NINJA舐めんな！</p><p>目から突き出た鞘の尻に、回し蹴りを叩き込んだ。</p><p>ぐりゅん、と鞘が柔らかい組織を突き抜けていく。怖気が走るような感触だった。鞘の本体が、完全に、雌竜の頭部に埋没して見えなくなった。</p><p>―！！</p><p>形容しがたい断末魔の叫びを上げ、めちゃくちゃに暴れ回る雌竜。この一撃はおそらく脳まで届いた。さらに毒まで流し込まれたとなれば。</p><p>殺った、という確信があった。</p><p>だが喜ぶ暇もなく、アイリーンの視界が青緑色で埋め尽くされる。</p><p>ガツン、と衝撃があり、瞼の裏で星が散った。</p><p>がっ―！？</p><p>暴れる雌竜の頭部がアイリーンを直撃したのだ。牙が当たらなかったのが不幸中の幸いだが、そのまま吹っ飛ばされてしまう。</p><p>―なっ、に。が―</p><p>一瞬、気を失ったらしい。前後不覚。ひゅうひゅうと耳元で風が唸る。奇妙な浮遊感を覚えたアイリーンは、パッと目を見開いてから、愕然とした。</p><p>嘘だろ</p><p>天地が、逆転していた。―違う。ほぼ真上に吹っ飛ばされて、驚くような高度にいた。『身体軽量化』の紋章を刻んでいるアイリーンはとにかく体重が軽い。だから巨体の頭突きを受けて、こんな高さまで―</p><p>いや、今はそんなことはどうでもいい。</p><p>どうやって着地する。このままじゃ頭から落ちる。</p><p>受け身？　取れるか？　数秒の間に何とか―体勢を―</p><p>Siv !</p><p>落ちていくアイリーンを見上げながら、ケイは叫んだ。</p><p>Vi helpos ŝin !</p><p>皮のマントを外し、宙に放り投げる。風が渦を巻く。一同は、羽衣をまとった乙女の姿を幻視した。</p><p>― Vi estas tiel rapida, huh ? ―</p><p>あどけない、それでいて妖艶な囁きが聴こえたかと思うと、突風がケイのマントをさらっていく。ばたばたとはためいて飛んでいくマント―それは上空のアイリーンにまとわりつき、落下の軌道をわずかに逸らした。</p><p>ぬわーっ！</p><p>森の方へと落ちていったアイリーンは、そのまま木立に突っ込み、バキバキと枝を折る音を響かせながら姿を消した。多少怪我はするかもしれないが、地面に叩きつけられるよりはマシなはずだ―</p><p>ぐぅッ―</p><p>馬上で揺られながらケイはうめく。えげつないほど魔力を持っていかれたからだ。咄嗟の術の行使、触媒を取り出す暇も、きちんと呪文を唱える余裕もなかった。精霊(シーヴ)に全て丸投げ、この程度で済んだのはむしろ手心があったと考えるべきか。</p><p>グルルルオアアアァ―ッ！</p><p>それをよそに、満身創痍の雄竜が悲痛な叫びを上げて、痙攣する雌竜に駆け寄っていく。鼻先を雌竜の顔に押し当てて揺するも、反応はない。</p><p>相方が事切れたことを悟った雄竜は、ぴたりと動きを止める。</p><p>グロロロロ……と地響きのような唸り声。</p><p>振り返る雄竜。残された片目が爛々と光っている。</p><p>ゴガアアァァァ―ッ！！</p><p>咆哮し、土煙を巻き上げながら突進してくる。激情に駆られ、全身の傷から噴水のように血煙を噴き上げていた。</p><p>これが最後の突進だ。ケイは悟った。</p><p>残り少なくなった矢を放ちながら、サスケを走らせる。追跡してくる敵へ矢を浴びせかける引き撃ち戦法、弓騎兵の真骨頂。</p><p>（―速い！）</p><p>が、徐々に距離が詰められる。足場が悪い。直線勝負でも不整地ではサスケより”森大蜥蜴”に軍配が上がるようだった。この勢い―下手に方向転換すれば、足が緩んだところを飛びかかりや薙ぎ払いで狩られてしまう。</p><p>刺し違えてでも貴様は殺す、とそんな気迫が伝わってくる。</p><p>（今を凌げば、奴は力尽きるはず）</p><p>とにかく時間を稼がねば、そう考えながら矢筒に手を伸ばすケイ。</p><p>しかしその手が空を切った。</p><p>クソッ、矢が……！</p><p>とうとう尽きた。</p><p>腰の矢筒も、鞍に備え付けた矢筒も、いつの間にか空っぽになっていた。</p><p>竜の鱗さえ貫く弓を持っていても、矢がなければ弓使いは無力―</p><p>―うおおおお！！！</p><p>と、雄叫びが響いた。</p><p>村の方を見れば、逃げたはずのゴーダンが槍を構えていた。投槍ではなく、普通の短槍のようだが、無理やり投槍器(アトラトル)にセットしている。どこかで新しく調達してきたのか。</p><p>おおおおおおおおッ！</p><p>遠投。ビュゴォッと重い風切り音を響かせ、弧を描いた短槍が雄竜の足の付け根に突き刺さる。</p><p>わずかに―ほんのわずかに、突進の勢いが鈍った。</p><p>その隙に、ぐいと手綱を引く。</p><p>サスケが急激に方向転換し、雄竜を振り切る。追随しきれず木立に突っ込んだ雄竜は、それでも木々を薙ぎ倒しながら無理やり追いかけてきた。</p><p>喰らいやがれ―！</p><p>その横っ面にロドルフォが仕掛ける。無事な右目の周囲に、矢の雨が降り注ぐ。</p><p>ゴガァッ！</p><p>ケイとサスケしか眼中になかった雄竜も、流石に鬱陶しかったのかロドルフォを睨んで吠えかかった。が、その瞬間、開いた口にロドルフォが連射していた矢が一本、ひょいと入り込んでしまう。</p><p>ゴゲッ</p><p>そのまま喉に刺さったか、素っ頓狂な鳴き声を上げて目を白黒させる雄竜。思わずその足が止まる。</p><p>ケイは、雄竜を中心に弧を描くようにサスケを駆けさせながら、歯噛みする。絶好のチャンスだが、矢がないことには―</p><p>ケ―イ！</p><p>マンデルの声。</p><p>見れば、雌竜の身体によじ登ったマンデルが、弓を構えている。</p><p>つがえられているのは―血塗れの矢。</p><p>青い矢羽。ケイが雌竜に撃ち込んだ長矢の一本だった。ケイの矢が尽きたことを察したマンデルは、まだ使える矢を探していたらしい。</p><p>これを使え！！</p><p>曲射。マンデルの弓から放たれた長矢が、風に乗って飛ぶ。時間がやけにゆっくりと流れているように感じた。極限の集中状態。空中でわずかにしなる矢が、はためく矢羽が、その羽毛の一本一本までもが、はっきりと視えた。</p><p>手を伸ばす。</p><p>握り込む。</p><p>ビゥンッ、と伝わる振動。</p><p>ケイの手の中に、青い矢羽の、必殺の一矢があった。</p><p>“竜鱗通し”を構える。矢をつがえる。</p><p>―引き絞る。</p><p>駆けるサスケの揺れも、風の流れも、全てが計算され尽くしているように感じた。</p><p>世界が止まっているようだった―マンデルの声援も、ゴーダンの雄叫びも、サスケの息遣いも、あらゆる音を置き去りにしてケイは静寂の中にいた。</p><p>標的を睨む。頭を巡らせてこちらを見やる、満身創痍の”森大蜥蜴”を。</p><p>視線が交錯する。『奴』が次にどう動くか―</p><p>なぜか、手に取るようにわかった。</p><p>放つ。</p><p>カァンッ！　と快音。</p><p>周囲の音が押し寄せるようにして、世界があるべき速度に戻った。矢が突き進む。ただならぬ気配を察して、本能的に避けようと頭を動かす雄竜。</p><p>その額に、吸い込まれるように、矢が着弾した。</p><p>カツーンと硬質な音が響き渡る。数少ない弱点―『第三の目』。矢は砕けずに、深く深く突き刺さった。</p><p>―</p><p>雄竜が仰け反る。ほとんど後ろ脚で立ち上がるようにして。</p><p>天を睨んだ右目の端から、涙のように赤い血が溢れ出した。</p><p>巨体が傾く。</p><p>地響きを上げて、倒れ伏す。</p><p>そしてそのまま、二度と再び、動くことはなかった。</p><p>98. 始末</p><p>前回のあらすじ</p><p>森大蜥蜴 グエーッ！</p><p>ズ、ズン、と地響きを立てて倒れ伏す”森大蜥蜴”。</p><p>―やったか！？</p><p>矢筒に手を伸ばした格好のまま、ロドルフォが叫んだ。</p><p>ケイは速やかに距離を取り、伏して動かぬ雄竜を睨む。</p><p>……死んだ、のか？</p><p>半信半疑。すぐさま駆け寄ってきたマンデルが、追加で何本か矢を手渡してきた。油断なく”竜鱗通し”を構え、いつでも矢を放てるよう待機する。</p><p>それでも、動かない。</p><p>どうやら仕留めたらしい―そんな実感が、じわじわと染み込んできた。</p><p>終わった……？</p><p>傍らのマンデルが茫然と呟く。</p><p>……ああ</p><p>ふぅ、と溜息をついて、ケイは”竜鱗通し”を下ろした。</p><p>俺たちの、勝ちだ……！</p><p>ケイの宣言に、マンデルが声もなく脱力して、その場に座り込んだ。</p><p>やった……やったのか！　―やったんだぁ！！</p><p>ロドルフォが喜色満面で跳び上がる。</p><p>その叫び声に、うおおおお―ッ！　と村の方からも歓声が上がった。</p><p>固唾を飲んで見守っていた村の住民たちが互いに抱き合って喜んでいる。野次馬の探索者たちも大興奮で、一部の吟遊詩人(ホアキン)に至っては涙を流しながら天に感謝の祈りを捧げていた。</p><p>片膝をつき、苦しげに肩で息をしていたゴーダンは、そのまま力尽きたように大の字になって地べたに寝転がった。キリアンはどこか皮肉げな笑みを浮かべ、首を振りながら何事か呟いている。元気にはしゃいでいるのはロドルフォくらいのもので、他はケイも含め疲労困憊といった様子だ。</p><p>やったぞォ―！</p><p>うおおおおお！</p><p>英雄だああ！</p><p>ひとしきり喜んだ村人たちが、今度はズドドドと大挙して押し寄せてきた。ケイはサスケから飛び降りて彼らを迎え入れ―ることなく、木立へと急ぐ。</p><p>アイリーン！！</p><p>吹っ飛ばされたまま、姿を見せないアイリーンが心配でならなかったのだ。</p><p>アイリーン！　どこだー！　アイリーン！！！</p><p>……こっちだよ～</p><p>頭上から声。</p><p>振り仰げば、木の枝にアイリーンがブラーンと引っかかっていた。</p><p>アイリーン！！　大丈夫か！？　降りられないのか！？</p><p>いや、だいじょうぶ……でもちょっと痛くてさ</p><p>なんだって！？　怪我したのか！？　アイリーン！！</p><p>そんなに叫ばなくても。よっ、と</p><p>勢いをつけて飛び降りたアイリーンは、しかし着地すると同時に イテテ と呻いて尻もちをついた。</p><p>アイリーン！　大丈夫かっっ！？</p><p>へへっ……体の節々が痛えや</p><p>苦笑いするアイリーン。ケイのマントに包まれていたおかげで、擦り傷などはないようだが、服の下は痣だらけだろう。</p><p>これを</p><p>ケイはすぐさま腰のポーチから高等魔法薬(ハイポーション)を取り出した。もう在庫がほとんどない貴重な薬だ―とろみのある青い液体の入った小瓶。受け取ったアイリーンは、少しためらってから、グイッと中身を煽った。</p><p>―ヴぉェッ、まっっっっず！　……うぇっ、まっず……。トイレの消臭剤を炭酸で割っても、もうちょいマシな味がするぜ……</p><p>気持ちはわかるぞ</p><p>うんうん、と頷くケイ。ついでに、アイリーンの髪の毛に芋けんぴのような木の枝がくっついていたので、取り払っておく。</p><p>あ～……けど、やっぱ効くなぁ～</p><p>痛みが引いてきたらしく、表情を緩めたアイリーンは、三分の一ほど飲んでから瓶を返してきた。</p><p>サンキュ。これくらいでいいや</p><p>いいのか？</p><p>だいぶ良くなった。致命傷でもなし、ここは節約しとこう</p><p>ひょいと立ち上がるアイリーンだが、 おっとと と早速フラついている。</p><p>……本当に大丈夫か？</p><p>咄嗟にその体を支えながら、ケイは心配げに尋ねた。ハイポーションが貴重なのは確かだが、それを惜しんで後遺症が残ったりするようでは本末転倒だ。気を遣わずに一気飲みしてほしかった―いや、今からでも口に突っ込むべきか？</p><p>……おい、待て、待て待て</p><p>瓶を片手ににじり寄るケイを、アイリーンは慌てて押し留めた。</p><p>だいじょーぶだって！　まだちょっと痛えけど、死ぬほどじゃない。……別に強がって言ってるわけじゃないぞ？　優先順位の問題だ</p><p>そう言って、ケイが持つ小瓶を指で弾く。キン、と澄んだ音がした。</p><p>オレは今、確かに万全じゃないが、寝とけばそのうち治る。それに対しこれぐらいのポーションを残しておけば、理論上腸(はらわた)が飛び出るような怪我でも治せる。……少なくとも生命力(HP)的には、な。どれだけ安静にしても、飛び出た腸は戻らない。だから『今』ポーションは飲み干すべきじゃない、そうだろ？</p><p>すっ、と優しく、ケイの手を押し戻す。</p><p>……そうだな</p><p>瞑目したケイは、頷いて、ポーションをしまった。</p><p>本音を言えば―やはり飲んで欲しくはある。ケイの無茶に付き合った結果、負傷してしまったのだから。だが、アイリーンの言葉は尤もだったし、本人にそのつもりがない以上、いくら心苦しく思ってもそれはケイの独りよがりにすぎない。</p><p>もともと、アイリーンはリスクを全て承知で付いてきてくれたのだ―この期に及んであれこれ言い募るのは、野暮というもの。</p><p>……ありがとう</p><p>ケイにできるのは、心から感謝の念を伝えることだけだった。</p><p>おかげで、助かった</p><p>なぁに、お安い御用さ</p><p>なんでもないことのように軽く言ってのけて、ニカッと笑うアイリーン。傷だらけで、へとへとで、それでも笑顔が眩しくて―愛おしい。</p><p>ありがとう。本当に……</p><p>無事で良かった―</p><p>抱きしめる。こんな華奢な体で”森大蜥蜴”を屠ったとは、にわかには信じ難い。</p><p>いや～、今回は流石に疲れたぜ</p><p>無理もない、大活躍だったからな</p><p>こつん、とアイリーンがケイの胸板に額をぶつけてくる。</p><p>あの跳躍は見事だったよ</p><p>へへ、だろ？　人生でも屈指の大ジャンプさ</p><p>まさか、あれで仕留めてしまうとは思わなかった</p><p>そのあと吹っ飛ばされて死にかけたけどな</p><p>アイリーンがケイの腰に手を回し、ギュッと抱きしめ返してくる。</p><p>あの魔術はナイスアシストだったぜ、ケイ。おかげで頭から落ちずに済んだ</p><p>いやあ、実はもうちょっとで失敗(ファンブル)するところだったんだ。噛まずに呪文を唱えられてよかった</p><p>はははっ、そいつぁ助かったな</p><p>おどけてケイが答えると、アイリーンはからからと笑った。互いが互いに、幼子をあやすように、抱きしめあったままゆらゆらと体を揺らしている。体温と鼓動がじんわり伝わってきて、鉛のようだった疲労感が心地よいものに変わっていく。</p><p>するっ、とアイリーンがケイの腰に回していた手をほどいた。代わりに、ケイの頬を撫でる。慈しむように。ぬくもりを確かめるように。</p><p>……ん</p><p>そっと―。</p><p>…………</p><p>これほどまでに、互いの吐息を熱く感じたことはなかった。</p><p>……ふふ</p><p>顔が離れてから、アイリーンがぺろりと唇を舐める。怪我がなければ、ケイはその身体を、強く強く抱きしめていただろう。</p><p>……お～い</p><p>……どこだ～</p><p>と、木立の外から、皆の声。</p><p>おっと。ほら、英雄様をお呼びだぜ</p><p>パッと体を離したアイリーンが、肘で小突いてくる。</p><p>ああ……そうだな</p><p>微笑んだケイは、不意に、アイリーンを優しく抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。</p><p>あっ、おい……</p><p>もうひとりの英雄様も連れて行かないとな。……万全じゃないんだ、せめてこれぐらいさせてくれ</p><p>ん……まあ、そういうことなら、くるしゅうないぞ</p><p>腕の中でふんぞり返るアイリーンは、相変わらず羽のように軽い。</p><p>うおおおお！　ケイだーッ！！</p><p>“正義の魔女”も無事だーッ！</p><p>木立から姿を現したケイとアイリーンに、集まっていた村人たちが沸き立つ。ケイは笑顔で、アイリーンはぶんぶんと手を振って声援に応えた。</p><p>“大熊殺し”ーッ！　ありがとおおおおう！！</p><p>馬っ鹿、もう”大熊殺し”じゃなくて”地竜殺し”だろ！</p><p>それもそうだな！　じゃあ”正義の魔女”はどうすんだ？</p><p>そりゃお前―“地竜殺しの魔女”だよ！</p><p>うおおおお！　“地竜殺し”ーッ！</p><p>“地竜殺しの正義の魔女”ーッ！</p><p>やんややんや。</p><p>もう何がなんだかわかんねえな</p><p>大興奮の男たちを前に、アイリーンが苦笑している。ヴァーク村の住民がこれほど喜んでいるのは、それこそ”大熊(グランドゥルス)“の一件以来か。</p><p>ケイーッ！　お前はッ！　お前という奴はーッ！</p><p>そのヴァーク村の村長、ハの字眉がチャームポイントのエリドアが、号泣しながら駆け寄ってくる。</p><p>お前という奴は……ッ！　本っ当に……大した奴だ……ッ！　ありがとう……村を救ってくれて、ありがとう……ッッ！</p><p>ケイの肩をバシバシ叩きながら、泣きに泣いている。“大熊”襲来を乗り越え、村の発展を目指して頑張っていたら、今度は 深部(アビス) の境界線が迫ってきて、終いには”森大蜥蜴”が出現。村を預かる者として、そのプレッシャーは並々ならぬものがあったことだろう。</p><p>これで村は救われた。怪物は討ち取られ、村人に被害はなく、避難していた女子供たちも戻ってこられる。エリドアの男泣きも無理はなかった―たとえ、今回の一件が一時しのぎにすぎないとしても。</p><p>まあ、なんとか被害もなく済んでよかった。落とし穴が役に立ったぞ、手伝ってくれた皆もありがとう！</p><p>ケイがそう言うと、 うおおおお！ と男たちが拳を天に突き上げて応える。奇声を発しながら飛び跳ねる者、その場で小躍りする者、精霊に感謝の祈りを捧げる者、喜びようもそれぞれだ。</p><p>おっかなびっくり”森大蜥蜴”の死骸に近づく者たちもおり、恐る恐るつついたり、青緑の皮を撫でたりする人々を、ケイは微笑ましげに見守っていた―</p><p>―ん！？</p><p>が、その中に不審な連中を見つけ、顔色を変える。みすぼらしい格好の、探索者の端くれと思しき男たちが、死骸のそばに屈み込んでコソコソと―</p><p>おい、お前ら！　何をやっている！</p><p>ケイが駆け寄ると、 げっ という顔をした探索者たちが一目散に逃げ出した。</p><p>あっ！　アイツら皮剥ぎ取ってやがる！</p><p>アイリーンも気づいて、ケイの腕からぴょんと飛び降りる。</p><p>逃がすか！</p><p>幸い、マンデルが回収してくれた矢が何本かあった。カヒュンッ！　と”竜鱗通し”にしては控えめな音を立て、逃走する探索者―いや、『コソ泥』たちの足元に矢が突き立つ。</p><p>止まれェ―ッ！　次は当てる！</p><p>ケイの怒号に震え上がったコソ泥たちが、両手を上げて立ち止まる。握っているのは青緑の皮の切れ端だった。</p><p>貴様ら……何のつもりだ……</p><p>のしのしと歩み寄り、唸るようにして問うたケイに、顔を見合わせたコソ泥たちは媚びるような笑みを浮かべ、</p><p>そ、その……記念品に、と思って……</p><p>―記念で他人の獲物の皮を剥ぐ奴がいるか馬鹿野郎！</p><p>反射的に、答えた奴にゲンコツを落としそうになったが、頭がかち割れたら事(こと)なのでケイは自重した。</p><p>……っふぅー。気持ちはわかるが、それを許すわけにはいかん</p><p>オレたちが命がけで倒したんだ、何もしてねえヤツが『記念品』をご所望とは少々虫が良すぎねえか？　それにお前ら、見たところ穴掘りさえ手伝ってねーだろ</p><p>アイリーンの指摘に、ぐうの音も出ずに黙るコソ泥たち。</p><p>よくわかったな、コイツらが人足じゃないって</p><p>人足なら給料受け取ってから事に及ぶと思ってな</p><p>なるほど、それもそうだ</p><p>思わず感心してしまったケイだが、気を取り直して、再び憤怒の形相を作る。</p><p>それで……貴様ら</p><p>ハ、ハイ</p><p>せっかく犠牲もなく討伐できたんだ……今日という日を『無血』で終わらせたい。そうは思わないか</p><p>思います</p><p>というわけで、盗ったものを置いていったら勘弁してやろう。とっとと出せ</p><p>ケイがオラつくと、コソ泥たちは一も二もなく素材を差し出してきた。皮の切れ端―どうやら、戦いでついた傷をナイフでこじ開けるようにして、無理やり引っ剥がしてきたらしい。こんなしょーもない剥ぎ方をしてもほとんど使いみちがないだろうに、本当に記念品くらいにしかならないな、と遣る瀬無い気持ちになるケイ。</p><p>これで全部か？</p><p>全部です</p><p>……これで、全部、か？</p><p>一人、何となく怪しい奴がいたので圧をかける。</p><p>……あっ、忘れてました！　こっちのポケットにも</p><p>その業突く張りは、素知らぬ顔でやり過ごそうとしていたが、ケイがそっと矢筒に手を伸ばしたところで音を上げた。</p><p>まったく、最初から素直に出せ</p><p>これでケイの気が変わって、 やっぱ全員ブチ殺しておくか…… とでもなったらどうするつもりだったのか。</p><p>いっ、いえ忘れてただけで……</p><p>あーもういい、解散！</p><p>ケイが言い放つと、コソ泥たちは脱兎の如く走り去っていった。 バカ野郎！ 気が変わったらどうするつもりだったんだよ！ とコソ泥たちが業突く張りをなじる声を聞き流しながら、アイリーンと顔を見合わせる。</p><p>……勝利の余韻もへったくれもあったもんじゃないなぁ、ケイ？</p><p>全くだ</p><p>苦笑するアイリーンに、ケイはうんざり顔で頷いた。</p><p>死骸のそばに戻ると、一部始終を見ていた村人たちが、それとなく探索者たちを見張っていてくれているようだ。</p><p>自然、ケイの周りに関係者が集まる。</p><p>厚かましい奴もいたもんだな</p><p>すっかり泣き顔から村長の顔に切り替わったエリドアが話しかけてきた。</p><p>ああ。油断も隙もない</p><p>盗人対策もしなきゃならんのか……</p><p>ぺし、と額を叩いて溜息をつくエリドア。</p><p>……今夜は、討伐祝も兼ねて皆で不寝番かな</p><p>『伝説の狩り』とはいっても、舞台裏はこんなもんか、と一同苦笑を隠せない。</p><p>まあ、なにはともあれ</p><p>パン、と手を叩いて、ケイはその場の面々に向き直る。</p><p>静かな面持ちのマンデルは、達成感と、危険な仕事を終えたという安堵を噛み締めているようだった。</p><p>汗まみれのゴーダンは、疲労の色が濃いながらも晴れ晴れとした顔をしている。</p><p>はしゃぎまわっていたロドルフォは、賢者タイムとでも言うべきか、反動が来たらしくどこか虚脱した様子。</p><p>負傷した胸を押さえて苦しげなキリアンは、一気に老け込んだようだ。ポーションは流石に分けられないが、あとで『アビスの先駆け』の軟膏を渡しておこう、とケイは思った。</p><p>―そして、そんな彼らから一歩下がったところで、ホアキンがツヤッツヤの満面の笑みで立っている。満足そうで何よりだ。</p><p>……みんな、ありがとう。おかげで犠牲もなく倒せた。俺ひとりでは、絶対に不可能だった―改めて本当にありがとう</p><p>ケイが一礼すると、皆、口々に いやいや こちらこそ と返してくる。</p><p>それで―報酬に関してだが、まさかの想定外が起きたからな</p><p>ちらっ、と二頭の死骸を見やるケイ。</p><p>『名誉も報酬も二倍』、この言葉を違えるつもりはない。コーンウェル商会との交渉次第ではあるが、皆、期待していてくれ！</p><p>ケイの宣言に、やはり現金なもので、笑顔にならない奴はいなかった。</p><p>ぶるるっ</p><p>が、そのときケイの後ろ髪がグイッと引っ張られる。</p><p>イテテっ何だ！？　―サスケェ！</p><p>振り返れば、ふんすふんすと鼻を鳴らす汗だくのサスケ。 ねえぼくは？？？ と言わんばかりの凄まじい圧を発している。</p><p>もちろん、お前も忘れてないよ。ありがとう</p><p>大活躍だったもんな！</p><p>ケイの騎兵戦術も、サスケ抜きでは成立しない。</p><p>縁の下の力持ちとはまさにこのことだ</p><p>偉いぞサスケ！</p><p>帰ったら美味いものいっぱい食べような</p><p>ブラシもかけてやるぞ～！</p><p>ケイとアイリーンにわしゃわしゃと撫でられて、口々に褒められて、不満げだったサスケもようやく機嫌を直した。</p><p>どこか締まらない様子のケイたちに、周囲の面々も笑い出す。</p><p>晩秋の澄んだ青空に笑い声が響き渡り、冬の訪れを予感させる冷たい風が、狩りのあとの血生臭い空気を吹き流していった。</p><p>ひとまず決着。次回、狩りの面々の後日譚とかやりたいと思います。</p><p>感想、ポイント評価、にゃーんなど、大変励みになっております。 更新遅いぞ！ という方は、直接言われるとナイーブに傷つくので、 フシャーッ！ と威嚇する程度に留めていただけると幸いです。がんばります。</p><p>今年もどうぞよろしくお願い申し上げます！</p><p>99. 後日</p><p>『公都』ウルヴァーン。</p><p>公国でも屈指の巨大都市。小高い岩山に築かれた領主の居城を中心に、貴族たちの館や邸宅が整然と建ち並び、さらにその外側には、壺から溢れ出したミルクのように雑然とした一般区の街並みが広がっている。</p><p>そんな市井の片隅―宿屋”HungedBug”亭。</p><p>一階は酒場も兼ねており、夕暮れ時は宿泊客や常連たちで大賑わいだ。</p><p>はぁーい、お待ち遠様、エール２つにソーセージとチーズの盛り合わせね</p><p>HungedBug亭の看板娘、『ジェイミー』は、今日も給仕に会計に掃除にと、忙しく働いていた。</p><p>よっ、待ってました</p><p>ジェイミーちゃんいつもカワイイねぇ</p><p>はいはい、ありがとね</p><p>常連セクハラ親父の手をパシッと払い除けながら、ぞんざいに答えるジェイミー。健康的な小麦色の肌、グラマラスな体型、その上かなりの美人なジェイミーは、良くも悪くも男にモテる。</p><p>はぁ～どっかにいい男いないかな……</p><p>が、寄ってくる男は大抵、砂糖菓子に群がるアリのごときロクでもない連中ばかりなので、本人は灰色の日々を過ごしていた。養父にして宿屋の主人、『デリック』が悪い虫に睨みを利かせているということもある。そのへんの若い男は、父の名前を出すと青い顔をして逃げてしまうのだ。過去に一体何をやらかしたのか―</p><p>いい男ならここにもいるぞぉ～～！</p><p>ジェイミーの独り言を聞きつけて、酔っ払った赤ら顔の親父が自己アピール。</p><p>はいはい、いい男いい男</p><p>溜息混じりにあしらい、食器を片付けるジェイミー。とりあえず酒臭い男にはもううんざりだった。</p><p>―そういや聞ききました？　例の話</p><p>―あれか？　ヴァーク村の……</p><p>テーブルを拭いていると、酒場の隅、宿泊客たちの会話が聞こえてくる。</p><p>なんと、本当に”森大蜥蜴”が出たって話ですよ</p><p>聞いた聞いた。それも二頭も、だろう？</p><p>おれは三頭って聞いたぞ</p><p>群れに襲われたんじゃなかったか？</p><p>そいつぁ世も末だな！</p><p>ワッハッハと大笑いする男たち。</p><p>……で、実際のとこ、どうなんだ</p><p>“森大蜥蜴”が出たのは確かのようですが</p><p>ヴァーク村の連中も気の毒にな。真面目に開拓してたのに</p><p>深部(アビス) の領域が移動してきてたんだろ？　遅かれ早かれじゃないか</p><p>深部 の話題ともなると、自然、声を潜めて話し合う。不思議なもので、コソコソ話されると何が何でも聞きたくなってしまい、ジェイミーはテーブルの頑固な汚れを取るふりをして注意深く耳を傾けた。</p><p>二頭や三頭ってのは尾ひれがついたか</p><p>本当だったら、今頃もっと大騒ぎになってるさ</p><p>しかし、二頭まとめて討伐されたって小耳に挟みましたよ</p><p>それこそまさかだ、まだ軍は動いてないだろ？</p><p>でもコーンウェル商会が大規模な商隊を送り出してるんですよ、南の方に</p><p>若手の行商人の言葉を、皆が黙り込んで吟味した。</p><p>確かに、革職人ギルドも今日は忙しそうにしてたな……</p><p>旅人風の男があごひげを撫でながら唸る。</p><p>しかし……誰がどうやって討伐したんだ？</p><p>自分が聞いたところによると―どうも”大熊殺し”が動いたとか</p><p>“大熊殺し”！　あの武闘大会の奴か</p><p>―えっ、ケイのこと？</p><p>思わず口を挟んでしまうジェイミーに、男たちは一瞬びっくりしたような顔をしたが、美人のウェイトレスが興味を示したとあって嫌な顔はしなかった。</p><p>そうそう、“公国一の狩人”のケイさ</p><p>嬢ちゃんも『ファン』なのかい？</p><p>からかうように尋ねられたので、ジェイミーは心外だとばかりに、</p><p>ファンも何も、顔見知りよ。“HungedBug(ウチ)“にしばらく泊まってたんだもの</p><p>そう答えると、男たちは へえ！ と興味深げに身を乗り出した。</p><p>どんな奴だったんだ？</p><p>ものすごい大男らしいじゃないか</p><p>本当に大熊を一撃でぶっ倒すような弓使いなのか？</p><p>そうねぇ……</p><p>問われて、ジェイミーははたと気づく。なんだかんだで、ケイが弓を扱う姿を直接見たことがないことに。実はあれだけ話題の武闘大会でさえ、当日は宿屋で忙しく働いていて観戦どころではなかったのだ。</p><p>―わたしの人生って……</p><p>ど、どうしたんだ嬢ちゃん、急に死んだ魚みたいな目をして……</p><p>いや……いいの。そうね。ケイは確かに大柄だったわ。わたしより２０ｃｍくらい大きかったかしら？　でも、『ものすごい大男』ってほどでもないわね、義父さんの知り合いでもっと大きい人見たことあるし</p><p>ジェイミーは女にしては背の高い方なので、それほどケイが『でかい』とは思わなかったこともある。</p><p>弓の威力はよく知らないんだけど、腕のいい弓使いなんだなぁ、とはいつも思ってたわ。フラッと出かけていったと思ったら、草原で兎を何羽も仕留めて戻ってきて、明日の飯にでも使ってくれ～なんて言ってくることもザラにあったし</p><p>ほほー。そんなに長いことココに泊まってたのか？</p><p>そうねー２ヶ月くらい？</p><p>長いな。その間、ずっと何してたんだ？</p><p>問われて思い浮かんだ光景は―</p><p>『おっ、アイリーン、このサラミ美味いぞ。ほれ』</p><p>『あーむ』</p><p>『うおッ直接食うやつがあるか！』</p><p>『んー！　香草が効いてんな。こっちのチーズも絶品だぞ』</p><p>『あ、あー……ちょ、ちょっと恥ずかしいなコレ』</p><p>『ケイが先にやってきたんだろー！　ほら食え食え！』</p><p>『あ、あーん……』</p><p>所構わず―恋人と仲睦まじく―</p><empty-line/><p>クッ―っ！！</p><p>どっどうしたんだ急に嬢ちゃん、唇から血が出てるぞ……！？</p><p>い、いえ……いいの。そうね。武闘大会で優勝してから、ずっと図書館に通って調べ物してたみたい</p><p>図書館んぅ？</p><p>男たちは顔を見合わせた。</p><p>図書館っつーと……第一城壁の向こうにあるとかいう、アレ？</p><p>そそ</p><p>たしか入館料がすごく高かった気がするんですが……金貨とか……</p><p>あー、それくらいするって言ってたわねー</p><p>ひぇぇ、想像もつかねえ</p><p>狩人が図書館に何の用があるんだよ……</p><p>そんな金をかけて何を調べてたんだ？</p><p>なんか伝承とかを調べてるって言ってたわねー</p><p>伝承……？　と再び顔を見合わせて、さらに困惑する男たち。</p><p>なんだってそんなものを……</p><p>そんな高い金を払ってまで……</p><p>っていうか、狩人なんだよな……？</p><p>ケイって、なんか違う大陸？　から来たんだって。精霊様のいたずらか何かで迷い込んじゃったんだってさ。それで『故郷に帰る方法を探してる』って言ってた。結局見つからなかった、というか、『遠すぎて帰れないことがわかった』らしいけど―</p><p>おおい、ジェイミー！</p><p>と、厨房の方からダミ声が―養父デリックの声が聞こえてきた。</p><p>いつまでも喋ってないで、早く運んでくれ！</p><p>あっ、はーい。それじゃ</p><p>―このままくっちゃべっていたら確実に雷が落ちる。そう判断したジェイミーは速やかに離脱し、仕事に舞い戻った。</p><p>はぁ～いお待たせ、エールと蒸留酒と、兎肉のシチューね～</p><p>あくせく皿を運びながら、ふと思う。ケイは今頃どうしているのだろうと。</p><p>“森大蜥蜴”狩りに動いた―とのことだが、“大熊”を一撃で撃ち倒したというケイならば確かに、伝説の地竜でも狩れてしまうかもしれない。</p><p>（きっと、すごく儲かるんだろうなぁ……）</p><p>“大熊”の毛皮が売れて、ずいぶんと羽振りが良かった。きっと”森大蜥蜴”狩りでも巨万の富を得るのだろう。自分が迫ったときは満更でもなさそうだったし、デリックもケイ相手ならとやかく言わないだろう―あの恋人の女さえいなければ―</p><p>はぁ……</p><p>溜息をついた。『もしも』を思い描いても虚しいだけ。</p><p>いい男、いないかなぁ……</p><p>ジェイミーの呟きは、酒場の喧騒に紛れて消えていく―</p><p>†††</p><p>ヴァーク村。</p><p>“森大蜥蜴”の討伐・解体後、落ち着きを取り戻したかのように見えた開拓村だが、噂を聞きつけた旅人や吟遊詩人らが押し寄せ、逃げていた探索者たちもまた森に入るようになり、彼らを相手に商売する商人たちまで戻ってきた。</p><p>さらには、避難していた村の女子供が帰ってきたことも重なって、以前より遥かに混沌とした様相を呈している。村を取り囲むように色とりどりの天幕が張り巡らされ、もはや開拓村というよりは小さな町といった規模になりつつあった。</p><p>そんな村の片隅で、村長宅を間借りしている男がいた。</p><p>ホアキンだ。</p><p>吟遊詩人として誰よりも先に駆けつけたこの男は、伝説を見逃し絶望する同業者らを尻目に、今回の英雄譚をいかにして一曲にまとめるか―羽根ペンを片手に毎日唸っていた。すでに主役たるケイたちはサティナへと帰還しているのだが、伝説の熱気が冷めやらぬうちに、この伝説の地で、伝説の英雄譚を仕上げてしまうべきだと判断し、村に残ったのだ。</p><p>うぅーむ……</p><p>始まりのフレーズ、曲調、登場人物たちの活躍―それぞれ詰め込みたい要素が多すぎる。普通、こういった英雄譚は事実を『少しばかり』脚色するのが常だが、今回の一件に関してはその必要が一切なかった。自身が目撃した全てを観客にそのまま伝えたいくらいだ。</p><p>むむぅ……</p><p>参考がてら、かたわらのメモ用紙に目を落とす。討伐後の、登場人物たちへのインタビュー集だ。ぱらぱらとめくる。</p><p>***</p><p>―マンデルさん、どのような心境ですか</p><p>『ひとまず、一息ついた。……無事に終えられてホッとしている』</p><p>―ケイさんをここぞというところでアシストされていましたね</p><p>『活躍らしい活躍なんてものはなかったが、最善は尽くしたと思う』</p><p>―今、何かしたいことはありますか</p><p>『……家で帰りを待つ娘たちに早く会いたい』</p><p>―今回の狩りをまとめるならば</p><p>『おれの人生において、最も困難で、輝かしい一日だった』</p><p>―またケイさんから助太刀を頼まれたら、どうしますか</p><p>『…………最善は尽くすが、今回の一件で身の丈というものを思い知った。この村に平和が訪れることを祈る』</p><p>***</p><p>―キリアンさん、お疲れのようですね</p><p>『ああ……へへ、そうかもしれやせん。疲れやしたね』</p><p>―今、何かしたいことはありますか</p><p>『特には。ただゆっくり酒でも呑みたい』</p><p>―今後はどうなさるおつもりですか</p><p>『アッシは、故郷へ帰ろうかと。森歩きは引退……しやしょうかね。恥ずかしい話、ちょっと森に入るのが怖くなってしまいやして』</p><p>―故郷、ですか</p><p>『もう何年も……何十年も帰っていやせん。捨てたものと思ってやしたが―幸い、報酬はたっぷりいただきやしたし、静かに暮らそうと思いやす』</p><p>***</p><p>―ゴーダンさん、今どんなお気持ちですか？</p><p>『まだ……夢でも見ているみたいだ。生きていることが信じられない』</p><p>―あの投槍、見事でした。大活躍でしたね</p><p>『風の大精霊のお導きがあればこそ。自分の実力ではない』</p><p>―今回の狩りをまとめるならば</p><p>『ケイとともに戦えたことを、誇りに思う』</p><p>―もしまた助太刀を頼まれたら</p><p>『絶対に参加する』</p><p>***</p><p>―ロドルフォさん、やりましたね</p><p>『ああ、何とかな！　生きて帰ってこれて良かったさ！』</p><p>―今、どんな心境ですか</p><p>『概ね満足だな！　力及ばず歯痒い思いもしたが、最後に役に立ててよかった。自分のベストは尽くしたと思う！』</p><p>―これから、何かしたいことはありますか</p><p>『実は……女を一人、待たせていてな。近々結婚を申し込もうとしてたんだ。今回の大物狩りのおかげでいい土産話ができた。報酬で資金も用立てられたし、いいことづくめさ！』</p><p>―おめでとうございます</p><p>『ありがとう！　ありがとう！！』</p><p>―それで、結婚されるのはどんな方なんです</p><p>『うむ！　サンドラという名前でな、出会ったのは二年前で―』</p><p>***</p><p>うーん、ロドルフォに関係ないこと聞きすぎたな……</p><p>その後、ロドルフォの惚気話が延々と続くメモを傍らに置いて、ホアキンは溜息をつく。同じ海原の民(エスパニャ)のよしみで、ついつい話が弾んでしまった。</p><p>掘り下げといっても限度があるしなぁ……</p><p>考えすぎで頭から湯気が出そうだ。間借りしている部屋、小さなベッドに寝転がって頭を冷やそうとする。</p><p>もっといいものを作れるはずだ……後世まで歌い継がれるような名曲を……</p><p>そして完成した暁には、アイリーンに魔道具を注文し、曲と影絵の相乗効果で一世を風靡するのだ―</p><p>う～ん……</p><p>吟遊詩人はひとり思い悩む。</p><p>頭の熱は、当分下がりそうにない―</p><p>†††</p><p>一方その頃、ウルヴァーン北部のとある宿場街。</p><p>ランプの明かりが揺れる宿屋の一室で、静かに商談が進められていた。</p><p>本日はご足労いただきありがとうございます</p><p>『いやいや、こちらこそ』</p><p>一人は身なりの良い、緊張気味の中年男。そして対面、ローテーブルを挟んで―椅子の背に止まっているのは、一羽の鴉だ。</p><p>契約条件に関してですが、事前にお送りした書簡通り―</p><p>『ああ、訳は確認したよ。特に問題はなかったと思う』</p><p>それは何よりです。念の為、口頭でも確認させていただきたく</p><p>『お願いしよう』</p><p>男は公国語を、鴉は雪原語(ルスキ)を操っているが、コミュニケーションに不自由はない。テーブルに置かれた水晶のペンダントから影の手が伸び、壁に影絵の文字を描いてそれぞれの言語を翻訳しているからだ。</p><p>『いやはや、これは本当に便利だな！』</p><p>改めて感嘆の声を上げる鴉。その名を『ヴァシリー＝ソロコフ』という。雪原の民の告死鳥(プラーグ)の魔術師だ。ちなみに本体ではなく、使い魔の一羽に憑依している。</p><p>同感です</p><p>しみじみとした顔で頷く身なりのいい男は、コーンウェル商会の商人。今日、ヴァシリーといくつかの契約を結ぶために、この宿場街に派遣されてきていた。ヴァシリーの住む緩衝都市ディランニレンと、ウルヴァーンの中間地点が選ばれた形だ。</p><p>おかげでこうして、良いご縁をいただけましたし</p><p>『全くだね』</p><p>朗らかに笑い合う二人。しかし、実はヴァシリーは、コーンウェル商会そのものは割とどうでもよく思っている。現在所属しているガブリロフ商会だけでも、研究費は充分に賄えているからだ。</p><p>コーンウェル商会の伝手で、北の大地には生息しない珍しい鳥が手に入るかもしれない―とは期待しているものの、それはあくまでおまけに過ぎない。ヴァシリーの目的は、コーンウェル商会にパイプを繋いでおくことで、アイリーンと定期的に連絡を取ることにあった。</p><p>（『全く、大した技術力だ……これほどの魔道具をいともたやすく完成させてしまうとはね』）</p><p>商人の言葉に相槌を打ちながら、翻訳の魔道具に視線を落とすヴァシリー。</p><p>（『まだ若いというのに……流石に嫉妬してしまいそうだ』）</p><p>以前、『茶会』で話し合ったときもそうだったが、アイリーンとその連れのケイが保持している魔術の知識は、かなり洗練されている。それを少しでも吸収したい―自らの研究にも取り込んでいきたい。同じ商会に所属して接点を設ければ、また魔術談義もできるかもしれない。そんな知的好奇心と、貪欲な探究心が、この度の契約につながった。</p><p>―というわけで、いかがでしょうか</p><p>『ああ、うん。私としては問題ない』</p><p>ありがとうございます。では―</p><p>『―しかし、ひとつ疑問があるんだが…… 契約者は、死傷の危険性がある狩猟やその他のイベントに、自発的には参加しないよう努力する 、この条文は本当に必要なのかね……？』</p><p>あ、ああ、それですか</p><p>ヴァシリーの指摘に、商人は苦笑い。</p><p>実はその……ヴァシリー殿もご存知の、我らが商会の専属魔術師たちがですね</p><p>『アイリーンとケイのことかい？』</p><p>そうです。その、御二方がですね、その～……実はつい先日、ウルヴァーン郊外の開拓村に”森大蜥蜴”が出現しまして。そちらの討伐に赴かれてしまったんです</p><p>『はぁ？』</p><p>一瞬、ヴァシリーは誤訳を疑ったが、この条文を見る限り―つまりは、そういうことなのだろう。</p><p>『それでこの条文か……いや、そんなことより、二人はどうなったんだね？』</p><p>ご無事です。どころか、“森大蜥蜴”を二頭も仕留めてしまわれて</p><p>『はぁ？　二頭……！？』</p><p>椅子の背に止まって目を丸くする鴉に、商人の男は、（鳥もこんなに表情豊かになるんだなぁ）などと可笑しく思った。</p><p>おかげで、我らが商会も素材を捌くのに大わらわですよ</p><p>『それは……凄まじいな。しかし、まさか、たった二人で討伐を？』</p><p>ケイの強弓、そして馬賊相手の死闘を知るヴァシリーは、あの二人ならばやりかねないと考えた。</p><p>いえ、流石に現地の住民や有志の方々と協力して、とのことですが</p><p>『それにしても大したものだな。いやはや……無茶するもんだ』</p><p>全く、同感です</p><p>これ以上なく、しみじみと頷く商人。</p><p>そういった事情で、こちらの条文が追加されたというわけです</p><p>『確かに、投資するだけして死なれたのでは商会側も堪るまいよ』</p><p>まあ私は心配はいらないから安心してくれ、とおどけて言うヴァシリーに、商人の男は朗らかに笑った。今後ウルヴァーン支店でヴァシリーを担当することになるわけだが、この魔術師とはうまくやっていけそうだ、と密かに胸を撫で下ろす。</p><p>というわけで、よろしければ契約書にサインを</p><p>『相分かった。……あ』</p><p>ぴょん、とテーブルに乗り移ったヴァシリーが、『しまった』という顔をする。遅れて商人も気づく。この鴉(からだ)でどうやってサインするのか、と。</p><p>『あ～……その、あれだ。インク壺を貸してくれたまえ、鉤爪で何とか』</p><p>あ、はい……こちらをどうぞ</p><p>『ありがとう。いやしかし、脚で文字を書くわけか。なかなか骨だぞコレは……』</p><p>ローテーブルの上で片足立ちし、四苦八苦するヴァシリー。書類がズレないように慌てて押さえる商人。</p><p>『ああっインクがこぼれた！』</p><p>ああっ契約書が！！</p><p>一人と一羽がぎこちなく奮闘する様は、傍から見れば噴飯ものだったが、幸いにして覗き見る者は誰もいなかった。</p><p>静かに始まった商談は、こうして、にぎやかに終わっていく。</p><p>次回 100. 平穏</p><p>サティナに帰還し、平穏な日々のありがたみを噛みしめるケイだったが―</p><p>100. 平穏</p><p>前回のあらすじ</p><p>ジェイミー どっかにいい男いないかなぁ</p><p>ホアキン　 なかなか歌がまとまらない……！</p><p>ヴァシリー 鳥の脚でサインするのは難しいという知見を得た</p><p>やっぱり家は落ち着くな……</p><p>自宅のリビングでどさりと荷物を下ろし、ケイはホッと一息ついた。</p><p>違いねえ。愛しの我が家！</p><p>その隣ではアイリーンが猫のように、 うーん と背伸びをしている。</p><p>（……そうか、俺も『落ち着く』ようになったか、この家で）</p><p>ケイはそんな感慨を抱く。見慣れた家具。古びた木の香り。思い出深い窓ガラス。しばらく暮らすうちに、この家にもすっかり愛着が湧いていたらしい。留守中も商会で雇った使用人たちは、きちんと手入れをしていてくれたようで、埃もなく綺麗に片付いている。</p><p>そう、ケイたちは、サティナへと帰還していた。</p><p>嵐のような日々だった。“森大蜥蜴”の討伐。素材の監視を兼ねた宴。コーンウェル商会の人員の到着、商人との交渉、解体、報酬の分配、etc, etc… 休めたのは討伐直後くらいのもので、それからは目の回るような忙しさだった。</p><p>どうにかやるべきことを済ませて、村人たちに惜しまれながらヴァーク村を発ったのが四日前。マンデルを除く、討伐のメンバーたちと別れたのもそのときだ。</p><p>『本当に……夢のようだった。ありがとう』</p><p>『これで胸を張って結婚を申し込める！　さらばだ！』</p><p>ゴーダンとロドルフォは、それぞれの故郷に帰っていった。ゴーダンは東の辺境の村へ、ロドルフォは西の沿岸部へ。ケイがボーナスを弾んだこともあり、銀貨ではち切れそうな革袋と、『記念品』の色鮮やかな”森大蜥蜴”の皮の切れ端を携えて。</p><p>『今回のことは……家族に話しても、信じてもらえないかもしれないな』</p><p>そう言って笑うゴーダンはちょっとした豪農の次男坊らしく、家族に金を預けたら今度はサティナまで遊びに来るつもりとのこと。ちなみに、ケイを追う雄竜に投げつけた５本目の槍は、商会の護衛『オルランド』から借り受けたものだったそうだ。</p><p>『いやーもうこれ家宝にするっス！　ありがてえ』</p><p>“森大蜥蜴”の血がついた短槍を回収して、オルランドは童心に帰ったように顔を輝かせていた。討伐には参加せず馬車の『護衛』に専念していたオルランドたちだが、そのあとの素材の監視や商会の人員の誘導などでは、よく働いてくれた。</p><p>『この鮮やかな青緑！　サンドラのブルネットの髪によく似合うに違いない！』</p><p>ロドルフォは恋人に結婚を申し込むそうだ―“森大蜥蜴”の皮を髪飾りにして贈るのだとはしゃいでいた。実はケイは別れ際まで結婚の件を全く知らなかったのだが、もし事前に話を聞いていたら討伐のメンバーに選ばなかったかもしれないな、とは思った。</p><p>ちなみにキリアンだが、報酬を受け取ったあと、人知れず姿を消していた。討伐の日を境に、めっきりと老け込んでしまったように見えたキリアン―彼の助力がなければ、森の様子もわからず、ゴーダンとロドルフォも仲間にならず、アイリーンが毒で雌竜を仕留めることもできなかった。今回の狩りの成功も、彼に依るところが大きい。</p><p>何度も礼は言ったが、それでも別れの挨拶くらいはしたかった。なぜ何も言わずに去ってしまったのか―正直なところ、少し悲しく思う。ただ、ヴァーク村に残ったホアキンによれば、キリアンは”森大蜥蜴”との戦いで、心に傷を負ってしまったらしいとのこと。</p><p>忘れたかったのかもしれない。</p><p>忘れられたかったのかもしれない―</p><p>†††</p><p>荷物を置いたケイたちは、大通りを挟んで斜向いの商業区を訪れた。コーンウェル商会傘下の高級宿―いつもサスケとスズカを預かってもらっている宿だが、今日はマンデルがここで一泊する。ヴァーク村からサティナまで、四日間の旅の疲れを癒やしてから、タアフ村に凱旋しようというわけだ。</p><p>マンデル、いるかー？</p><p>レセプションで教えてもらった二階の部屋。ドアをノックすると いるぞー と間延びした声が返ってきた。</p><p>中に入ると、そこは広々とした上品な部屋。</p><p>ベッドだけではなく、頑丈そうな物入れのチェストに、小さな丸テーブルと椅子が何脚か。テーブルの下には小洒落た模様のカーペットも敷いてある。弓形に張り出した出窓―俗に言う『ボウウィンドウ』というやつだ―には、なんとガラスがはめられており、冷たい外気を遮断しつつも柔らかな日差しが差し込んでいた。窓際には花まで飾られている。</p><p>そして肝心のマンデルはというと、ゆったりとしたダブルベッドに寝転がり、存分にくつろいでいるようだった。</p><p>いやぁ、快適だな。……いいのか、こんなに上等な部屋に泊まっても</p><p>と言いつつ、全く遠慮する様子は見せないマンデル。言葉の割にふてぶてしい態度に、ケイは声を上げて笑った。</p><p>もちろんだとも。コーンウェル商会は太っ腹だからな</p><p>今回の宿代はコーンウェル商会持ちだ。先ほど本部で顔を合わせたホランドがマンデルのために手配してくれた。ケイとしても、存分に楽しんで元を取ってもらいたいと思う。</p><p>そいつはありがたい。せっかくだし、風呂にでも入ってみるかな。飲み物も好きに頼んでいいんだったか</p><p>好き放題にやっていいんだぜ、マンデルの旦那。そのうち『あの地竜殺しの英傑が一人、マンデルの泊まった部屋！』って名物になるだろうからな</p><p>壁に名前でも刻んだらどうだ、とからかうアイリーンに、マンデルは うへぇ と渋面になった。髭もじゃで表情が分かりづらいが、どうやら照れているらしい。</p><p>このあと、マンデルは風呂に入ってのんびりするとのことだったので、ケイたちは夕食の約束を取り付けてから、今度は木工職人モンタンの家を訪ねた。</p><p>ケイさん！　よくぞご無事で！！</p><p>おねえちゃん！！</p><p>五体満足なケイに、ホッと胸を撫で下ろすモンタン。その横から勢いよくリリーが飛び出してきて、アイリーンに抱きついた。</p><p>お二人とも……うまくいったんですね？</p><p>さらに家の奥から、モンタンの妻キスカも顔を出す。</p><p>ああ、お陰様で。モンタンの矢も大活躍だったぞ</p><p>ケイたちが”森大蜥蜴”を撃破したのは一週間ほど前のこと。まだサティナにまでは詳細が伝わっていないらしい。立ち話も何だということで、中でお茶をいただく。</p><p>正直、もうヴァーク村はダメかもしれないと思ってたんだが、驚くべきことに到着するとまだ無事だった</p><p>どころか、探索者やら商人やらで大賑わいでさ―</p><p>キリアンという熟練の森歩きの話によると、実は―</p><p>っつーわけで、人を集めて落とし穴を掘ったり、迎撃準備を―</p><p>交互にことのあらましを語るケイとアイリーン。モンタンたちは目を輝かせて聞き入っていた。何せ、『伝説』の当事者たちから直に話を聞けるのだ。現代地球に比べ娯楽の少ない世界で、これ以上のエンターテイメントはなかった。</p><p>それでこれが、活躍してくれた矢たちだ</p><p>ケイは矢筒から矢を取り出した。“森大蜥蜴”の死骸から回収したものだ。モンタン特製の出血矢や宝石の消滅した魔法矢、最後に額を撃ち抜いた長矢などなど。黒ずんだ血の跡がこびりついており、見方によっては汚かったが、モンタンには最高の手土産になるだろうと思ったのだ。</p><p>おお……！　これが……！！</p><p>モンタンは震える手で受け取り、惚れ惚れと眺める。自ら手掛けた矢が伝説の怪物を打ち倒した―職人として、その感慨はいかほどか。</p><p>で、こっちが”森大蜥蜴”の皮だ</p><p>今度はアイリーンが１０ｃｍ四方の切れ端を差し出す。リリーとキスカが、色鮮やかな青緑色に目を見張った。</p><p>……触っていい？</p><p>もちろん</p><p>リリーはおっかなびっくりといった様子で皮を受け取り、恐る恐る、指先で表面をつついた。</p><p>……こんな色、はじめて見た</p><p>確かに、こちらの世界では珍しい色合いかもしれない。ケイが持ち込んだ革鎧も”森大蜥蜴”製ではあるが、硬化処理などをした関係で、これほど鮮やかな色は残っていない。</p><p>……ありがと</p><p>しばらくキスカとともに、しげしげと観察していたリリーだが、やがて満足したのか皮を返してきた。</p><p>ん？　それはお土産だからリリーのだぞ</p><p>えっ！？</p><p>アイリーンが告げると、リリーとキスカが マジで！？ と言わんばかりに皮を二度見する。目と口がまん丸くなった表情があまりにもそっくりで、 ああ、やっぱり親子だなぁ と納得しつつもアイリーンは笑ってしまった。</p><p>いいんですか？！　こんな貴重なものを……</p><p>まあ、貴重といえば貴重なんだけど……</p><p>あまり使いみちがない。傷跡を避けて皮を剥ぐと、どうしてもこのような切れ端も出てきてしまった。もちろん、普通の動物の皮に比べると市場価値は非常に高いが、使うとしてもサイズ的にはせいぜい小物を作るぐらいだろうか。ケイたちは記念品として、こういった端材を商会からいくらか譲り受けていた。</p><p>もちろん、ケイは革鎧を新調し、アイリーンもちょっとした防具を別途作るつもりではあるが。</p><p>ほんとうにいいの、お姉ちゃん？</p><p>ああ。なにせ二頭も倒したからな</p><p>配って回る余裕は充分にある―ヴァーク村に到着した商会職員も、二頭の巨大な死骸を見て卒倒しそうになっていたほどだ。一応、使者を送って事前に伝えてはいたが、『番(つがい)を倒した』という情報だけは半信半疑だったらしい。しかし落ち着いてからは、いったいどれほどの儲けを生み出せるか、文字通り皮算用で大興奮していた。</p><p>ありがとう、おねえちゃん！</p><p>いいってことさ。どうだろう、リリーも髪飾りでも作ってみるかな？</p><p>えへへ……にあうかな？</p><p>青緑の皮を頭に当ててみるリリー。ケイはそんな幼女の姿を微笑ましげに見守りながら、</p><p>いずれにせよ、モンタンの矢は本当に役に立ったよ。ありがとう</p><p>改めてモンタンに礼を言う。</p><p>魔法の矢も出血矢もそうだが、特に長矢だ。今まで何度窮地を救われたか</p><p>いえいえ、お礼を言いたいのはこちらの方です。職人としてこれにまさる名誉はありませんよ</p><p>良かった。それで、今晩あたり打ち上げをやろうと思うんだが……あ、そういえばマンデルは知り合いだったよな？</p><p>ええ、以前矢を買っていただいたこともありますし</p><p>彼も誘ってるんだ。コーンウェル商会の飯屋を貸し切るから、肩肘張らなくて済むパーティーになると思う。モンタンたちもどうだろう？</p><p>いいんですか！　それじゃあ、お呼ばれして……</p><p>伝説の狩りの打ち上げともなれば相当期待できる。モンタンもホクホク顔だ。</p><p>夕方にまた合流する約束を取り付けて、モンタン宅を辞去する。</p><p>ケイ、コウたちはどうする？</p><p>ああ、そうだな……</p><p>今日も今日とて、サティナのメインストリートは大賑わいだ。人々の間を縫うようにして歩きながら、しばし考える。</p><p>誘えるものなら誘いたいが……</p><p>立場的にすぐ来れるか、謎だよなぁ。コウの旦那はともかく、イリスは……</p><p>うーむ、とアイリーンもちょっと難しい顔。イリスはお姫様設定が足を引っ張ってフットワーク軽めに動けないのが難点だった。</p><p>まあ、でも、お忍びでなんとかするんじゃね？　最悪コウの旦那は来れるだろ</p><p>一応連絡だけしておくか</p><p>そうしてコーンウェル商会本部を訪ね、コウの屋敷に使者を送ったり革鎧の仕様を話し合ったり、諸々の手配をするうちにあっという間に日が暮れた。</p><p>久しぶりだな、キスカ。……元気にしてたか</p><p>もっちろん。あんたこそ大活躍だったらしいじゃん</p><p>マンデル、そしてモンタン一家を連れて商会が手配したレストランに向かう。マンデルとキスカはタアフ村出身の顔馴染みだ―キスカの方が年齢的に一回り下のはずだが、かなり馴れ馴れしい。いつもモンタンの妻、リリーの母としての顔しか知らなかったケイは、キスカが途端に若々しい村娘のように見えて少し驚いた。よくよく考えれば二十代、ケイとそれほど年齢は変わらないのだ……</p><p>リリーも、しばらく見ないうちに大きくなったな。……あっという間だ</p><p>はい。おひさしぶり、です</p><p>お行儀よく挨拶するリリーを、マンデルは優しい眼差しで見ていた。もしかすると自分の娘たちの幼い頃と重ね合わせているのかもしれない。</p><p>こうしてみると、本当に目元はキスカにそっくりだな。……ベネットが会いたがっていたぞ</p><p>あー……父さんねえ。たまには里帰りしたいもんだけど、あんまり家を空けられないのよねぇ……</p><p>この頃、装飾矢やら何やらの注文がけっこう詰まってるんですよ。ありがたいことなんですけどね</p><p>それに加えて、ケイたちの魔道具の『ガワ』を作ったりもしているので、モンタンは忙しい。</p><p>そうか。……まあせめて、手紙くらいは届けよう</p><p>ありがとー</p><p>そんなことを話しているうちに目的地に着いた。二階建てのそこそこ高級なレストラン―上のフロアは、今晩貸し切りだ。</p><p>おお！　みんな、主役のご到着だぞ！</p><p>階段を登ると、商会関係者はすでに集まっているようだった。ホランドがいち早くケイたちの来訪に気づき、皆に知らせる。小綺麗におめかししたエッダと、以前隊商護衛で同道したダグマルの姿もあった。</p><p>ケーイ、聞いたぞ、とんでもない大活躍だな！　かーっ俺もあんときサティナにいればなぁ、一緒に行きたかったぞヴァーク村に！</p><p>ダグマルがバシバシとケイの背中を叩いてくる。ヴァーク村から救援依頼が届いた当時、ダグマルは別の隊商を護衛していたため不在だったのだ。もしダグマルがいたら、荷馬車の護衛はオルランドではなく、ダグマルとその仲間たちになっていたかもしれない。</p><p>（だが、そうすると最後のゴーダンの援護はどうなっていたかな？）</p><p>ダグマルは剣と短弓を使う。それに対しオルランドは短槍使いなので、ゴーダンが槍を借りることができた。もしもオルランドがいなかったら、ゴーダンはどうしたのだろう？　ちょっとした違いで、戦闘の流れが大きく変わっていたかもしれない―</p><p>残念だったな。旦那も一緒に来てたら、“大熊”と”森大蜥蜴”、 深部《アビス》 の双璧の討伐をどっちも見届けられたのに</p><p>アイリーンがからかうように言うと、 そうそう、そうなんだよー！ とダグマルは悔しげに地団駄を踏んだ。</p><p>本っ当に、惜しいことをした！　どんな風だったのか、あとで絶対に話を聞かせてくれよな！　な！</p><p>お兄ちゃん！　お帰りー！</p><p>そんなダグマルをよそに、今度はエッダがトテトテと駆け寄ってきて、ケイに抱きつく。</p><p>ただいま。といっても、あっという間だったかな</p><p>待ってるこっちは気が気じゃなかったけどねー！</p><p>すりすりと腹に頬ずりしていたエッダだが、ふと、その背後、モンタンたちに連れられてきたリリーの存在に気づく。</p><p>あ……どうも</p><p>こんばんは……</p><p>同じ年頃の女の子ということで、互いに興味を持ったようだ。</p><p>（あれ、顔を合わせるのは初めてか？）</p><p>よくよく考えてみれば、ホランドたちがサティナに定住し始めてしばらく経つが、仕事でモンタンと顔を合わせることはあっても、家族ぐるみの付き合いはなかった気がする。</p><p>わたしエッダ。あなたは？</p><p>リリー、です</p><p>リリーは塾に通うのもやめて引きこもりがちだった。アイリーンと魔術の修行（というか勉強）を始めて少しは明るくなってきたものの、出会った当初の快活さは見る影もない。</p><p>（新しく友達ができたら、何か良い変化があるかもな）</p><p>そんなことを考えつつ、商会関係者たちに挨拶する。ホランドのようによく世話になっている者から、顔見知りではあるが名前までは知らない者まで。皆、等しく今回の一件で奔走してくれた人たちだ―ダグマルを除いて。</p><p>（ってかダグマル、今回は何もしてないじゃないか）</p><p>にもかかわらず、ちゃっかり打ち上げに潜り込んでいる要領の良さに、遅れて気づいたケイは、挨拶回りの最中、吹き出してしまわないよう笑いを噛み殺していた。</p><p>おっと、お待たせしてしまったかな？　申し訳ない</p><p>と、新たに階段を登ってくる人影があった。フードを目深にかぶった二人組。</p><p>コウ！　イリスも来れたか</p><p>やあ。二人とも無事だったようで何より</p><p>えへへ。あたしも来ちゃった！</p><p>コウはフードを取っ払ったが、イリスはかぶったままだ。顔よりも、頭の豹耳が見られたらまずいので、こういうときは不便だろう。</p><p>俺たちも今来たところだ。問題ないさ</p><p>それは良かった</p><p>揃ったみたいだね。それでは始めよう！</p><p>ホランドが音頭を取り、皆に酒が振る舞われる。湯気を立てる料理―仔羊の丸焼きやシチューパイ、ローストビーフなどが大皿に盛られて運ばれてきた。</p><p>では―英雄たちから一言！</p><p>さて食事にありつこうか、と思っていた矢先、ホランドから水を向けられ、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。</p><p>あ～……</p><p>コホン。まずはコーンウェル商会の皆様方に―</p><p>こういう咄嗟の英語スピーチが苦手なケイのために、アイリーンが口火を切って、少し時間を稼いでくれる。</p><p>―と、まあ、あまり長くなっても悪いのでこのへんで。ケイは？</p><p>ん、共に戦ってくれた戦友たちに。影から支えてくれた関係者の皆に。そして、俺たちを見守り、導いてくれた偉大なる精霊たちに―</p><p>隙間風がランプの灯りを揺らし、影が蠢き、コウの吐息が冷気で白くなる。</p><p>―最大限の感謝を。乾杯！</p><p>乾杯！！</p><p>そうして賑やかな宴が始まった。</p><p>†††</p><p>それから夜遅くまで飲み明かした。ケイは肩の力を抜いてコウと日本語会話を楽しみ、アイリーンは浴びるように高い蒸留酒を呑みながら、武勇伝を語って皆を楽しませていた。一番楽しんでいたのは、アイリーン本人だろうが。</p><p>翌日、珍しく羽目を外して呑みすぎたマンデルがダウンしてしまったため、タアフ村への帰還は延期し、体調の回復を待ってからさらに次の日、サティナを出発した。</p><p>ケイとアイリーンは、マンデルに同行することにした。マンデルは必要ないと固辞したが、現金や貴重品を多数抱えていることから、護衛としてついていくことにしたのだ。マンデルの娘たちに、父親を無事に帰すと約束した義理もある。家に帰るまでが大物狩りだろう。</p><p>当然、タアフ村でも歓迎と祝いの宴が開かれ、ケイたちも招かれることとなった。マンデルの娘二人が、安堵のあまり号泣していたのが印象的だった。</p><p>いやー……今回は色々あったなぁ</p><p>タアフ村からサティナに戻る道中、アイリーンが感慨深げに呟いた。</p><p>全くだ。盛りだくさんだったな……</p><p>しみじみと、ケイも頷く。</p><p>少し肌寒い晩秋の草原に、サスケとスズカの蹄の音。</p><p>今更言うのも何だが……けっこう、危ない橋だったな</p><p>違いない</p><p>ほんの少しでも運が悪ければ、ケイもアイリーンも死んでいたかもしれない。死者もなく、大した怪我もなく、たった数人で”森大蜥蜴”の番を撃破した― DEMONDAL の中でさえ聞いたことがないような偉業だ。</p><p>で、ヴァーク村からまた助けを呼ばれたらどうする？　ケイ</p><p>揺れる馬上、アイリーンが振り返り、いたずらっぽい笑みで尋ねてくる。</p><p>う～～～～～ん……</p><p>ケイは難しい顔で唸った。人々を助けるために、“大物狩り”専門の狩人として活動したい―それが夢だったが、正直なところ、今回の一件はかなりキツかった。</p><p>…………当分、遠慮したいな</p><p>あっはっは。オレもー！</p><p>屈託なく笑うアイリーン。まあ、しばらくはのんびり過ごそうぜ、と気楽な調子で言う。ケイも全く同意見だった。大物狩りはこりごりだ―</p><p>家に帰って、いつもの日々が戻ってくる。</p><p>季節は巡り、サティナにも初雪が降った。</p><p>この世界で初めての冬だ。皆が冬ごもりの準備を始めている。</p><p>ケイたちは、主に魔道具の研究開発をしながら、のんびりと過ごしていた。</p><p>なあ、ケイ―ちょっと、相談があるんだが</p><p>ある日、アイリーンが神妙な顔で話しかけてきた。ストーブで温めて使うタイプのアイロンを応用したヘアドライヤーの試作品をいじっていたケイは、改まった態度のアイリーンに姿勢を正す。</p><p>どうしたんだ？</p><p>んー。その、な。……アレが、来ないんだわ</p><p>ぽんぽん、とアイリーンが自分の腹を軽く叩いた。</p><p>―</p><p>ケイの思考は止まった。</p><p>……それは、その……アレか？　月の</p><p>うん</p><p>…………つまり</p><p>アイリーンの顔と、腹部を交互に見比べたケイは、ガタッと立ち上がる。</p><p>子供が……！？</p><p>……まだわかんないけど、その可能性が……うん……</p><p>少し頬を赤らめたアイリーンは、ぺし、と自らの額に手を当てた。</p><p>なんかこの頃ちょっと……微熱があるみたいな感じがして、だるいし。風邪かなーって思ってたんだけど、アレも来ないから。キスカとかにも相談してみたんだけど、その、やっぱりそういうことじゃないかって……</p><p>…………！</p><p>検査薬などないので、確定的ではないが。</p><p>そうか……！</p><p>同様に、現代地球のような避妊具もなかったわけで。それでいて愛は育んでいたのだから、当然―</p><p>……嬉しいよ</p><p>ケイはアイリーンをギュッと抱き寄せた。実感は湧かないが、それでも、素直に嬉しかった。</p><p>……良かった</p><p>アイリーンもホッとしたように肩の力を抜いて身を預けてくる。しばらくそうしていたが、顔を見合わせて、なんだか互いに気恥ずかしくなった。</p><p>そうか……俺、父親になるのか……</p><p>やはり、どう考えても実感が湧かない。</p><p>うーん。オレも、母親か……うーむ……！</p><p>アイリーンは再び頬を赤らめ、両手で顔を覆う。</p><p>こっちの世界だと普通なんだけど……地球基準だと、年齢的にちょっと早すぎる気がしないでもない……！</p><p>わかる。その気持ちはめっちゃわかる</p><p>不安だーーーーー！</p><p>ううむ、色々準備しないとなぁ</p><p>とりあえず身近に、子持ちのキスカがいて色々相談できるのは助かる。</p><p>……赤ちゃん、か……</p><p>ケイは身をかがめて、アイリーンのお腹に耳を当ててみた。</p><p>バーカまだそんな時期じゃないって！</p><p>はっはっは</p><p>コツンとアイリーンに頭を小突かれて、ケイは笑う。</p><p>―地球では、骨と神経の塊になって死ぬしかなかった自分が。</p><p>父親になれるのか、と。</p><p>しかし、そうなるとアイリーンも断酒しないとだな</p><p>うぐぅッ！　やっぱ……そうだよなぁ……そうなるよな……</p><p>……まあ、俺も一緒に禁酒するから……</p><p>―ケイはそこまで酒好きじゃないだろぅ、もぉぉぉ！</p><p>ぬあ～と呻きながら、ふざけてケイの胸をポカポカ殴ってくるアイリーン。</p><p>はっはっはっは</p><p>オレには笑いごとじゃないんだよぉぉ</p><p>大して痛くもない打撃を受け止めながら、ケイは、幸せを噛み締めていた―</p><p>が。</p><p>それからさらに数日後のことだった。</p><p>寒い朝だった。</p><p>まだ夜が明けて間もない、ようやく空が白み始めたころ。</p><p>蹄の音。それも複数。</p><p>目を覚ましたケイは、傍らで眠るアイリーンをよそに身を起こす。</p><p>家の前が騒がしい。</p><p>ダン、ダン！　と遠慮なくドアが叩かれた。</p><p>……なに？</p><p>アイリーンも目を覚ます。</p><p>わからない、と答えたケイは、着の身着のまま外へ出た。</p><empty-line/><p>―そしてそんなケイを出迎えたのは。</p><p>ケイチ＝ノガワだな！</p><p>フル装備の騎士が数名。さらに、豪奢な装束に身を包み、竜の紋章が描かれた旗を掲げて馬に跨る壮年の男。</p><p>……そう、だが</p><p>突然の事態に困惑しつつ、どうにか答えるケイ。</p><p>よし。ケイチ＝ノガワ！　これより、公王陛下のお言葉を伝える！！</p><p>懐より書状を取り出し、壮年の男が馬上でふんぞり返る。</p><p>それに合わせて、騎士たちが剣を抜き、儀仗兵のように直立不動の姿勢を取った。</p><p>は？</p><p>公王？　お言葉？　―呆気に取られて立ち尽くすケイ。</p><p>…………</p><p>しかし壮年の男は、何やら非難がましい目でこちらを見るばかりで一向に話し出す気配がない。</p><p>……ひざまずけ、ひざまずけ</p><p>見かねた騎士が、兜の下、直立不動のまま小声で伝えてきた。</p><p>ハッと我に返ったケイは、慌てて跪く。そして思い出した。武道大会の表彰式を前に少しだけ教わった礼儀作法。</p><p>王の言葉は、最大の礼をもって拝聴せねばならない―</p><p>―オホン。『余、エイリアル＝クラウゼ、大精霊の加護により、アクランド連合公国のウルヴァーン公にしてアクランド大公は―』</p><p>ようやく正しい姿勢を取ったケイに、咳払いした使者が書状を読み始める。</p><p>『―きたる、ディートリヒ＝アウレリウスの成人に際し、大公の位をこれに譲るものとする』</p><p>ディートリヒ―武闘大会でケイを表彰した、公王のただ一人の孫。</p><p>『そして此度の譲位を祝すため、古(いにしえ)の継承の儀を、ここに執り行う』</p><p>王の言葉―それは絶対のものである。決定事項であり、至上命令である。</p><p>『ケイチ＝ノガワよ』</p><p>そこに民草の意志など介在しない―</p><p>『公国一の狩人として―』</p><p>『―“飛竜”狩りに馳せ参じよ』</p><p>はい！　というわけで 飛竜狩り 編が始まります。いつも感想、ポイント評価、にゃーん、大変励みになっております！　ありがとうございます！</p><p>カクヨムでも1話先行で連載中です。</p><p>次話 幕間. Monster</p><p>幕間. Monster</p><p>霧がかった、深い深い森の奥。</p><p>深部(アビス) と呼ばれ、只人の踏み入れることのない領域に、その古城はあった。</p><p>フフフン　フ～ン　フン　フフフン～♪</p><p>古城のそばの丘。肌寒く、お世辞にも過ごしやすい陽気とは言えなかったが、のんびりと草っぱらに寝転がり、鼻歌を歌う者が一人。</p><p>異形だった。</p><p>毛皮を荒く縫い合わせただけの、原始人のような服装。鋼のような筋肉がゴツゴツと張り出した体躯、全身を覆う鱗、鋭い手足の鉤爪―そして獰猛な爬虫類そのものの頭部と、たてがみのようにふさふさした金髪。</p><p>―怪物の名を、『バーナード』といった。草地に寝転がり、傍らでパチパチと燃える焚き火を木の枝でつつきながら、何やら上機嫌だ。</p><p>フフフン　オー　ダ　ピーポー♪</p><p>盛り上がってきたのか、鼻歌ではなく歌詞を口ずさみ始めるバーナード。それにしても酷いだみ声だ。かつて、とある世界で流行った曲を熱唱している―想像してみよう、今日という日のために生きる全ての人々を。天国もなく、地獄もなく、国も国境もない。何かのために殺し合ったり、死んだりすることもない―</p><p>バーナードは焚き火から木の枝を引き抜いた。</p><p>枝の先端に突き刺さっていたのは―スイートポテトに似た感じの芋。</p><p>想像してみよう、全ての人々が、平和に暮らしている―</p><p>ユッウ～ウウゥ～♪</p><p>俗に言う石焼き芋だった。焼き立てのそれを無謀にも手で掴み、 アチチッ とお手玉しながらも、二つに割る。美味しそうな黄色、スイートポテト特有の甘い香りとともに、ホカホカと湯気が上がった。</p><p>ハッハァ～よく焼けてやがる！　ユ～　メイセイ～♪　アイマ―</p><p>ご機嫌だな</p><p>歌いながらノリノリでかぶりつこうとしたところで、背後から声がかかる。</p><p>振り返れば、見上げるような大男が立っていた。</p><p>野性的な顔つき。筋骨隆々で、純粋に生物としての強さを感じさせる巨躯。圧倒的な存在感を放っており、ともすれば近寄りがたく感じてしまいそうだったが、その瞳には理知的な光があり、獣性と理性が同居しているような不思議な魅力を放っていた。また、肩には大人しい鴉を止まらせており、どこかユーモラスな雰囲気も漂わせている。</p><p>よォ、デンナー。オメーも食うか？</p><p>気さくに挨拶したバーナードは、芋の片割れを大男―デンナーに差し出す。</p><p>それが居候の態度か？　まあいい、もらおう</p><p>苦笑したデンナーは芋を受け取り、豪快にかぶりつく。</p><p>しばし、金髪の蜥蜴怪人と、肩に鴉を乗せた大男が無言で焼き芋を頬張るという奇妙な光景が繰り広げられた。</p><p>ところで、さっきの歌</p><p>ぺろりと芋を平らげたデンナーが、尋ねてくる。</p><p>初めて聴くメロディだった。故郷の歌か？</p><p>そうさ、流行ってたんだ。だいぶん昔にな</p><p>バーナードは素直に首肯した。デンナーは度々、こういった会話でこちらの素性を探ってこようとする。</p><p>俺の故郷だけじゃねェ、それこそ国を超えて大流行した。何十億もの人々がこの歌を聞き、口ずさんでいた時代があったのさ</p><p>なのでバーナードは、いつも、ただひたすら嘘(・)を(・)吐(・)く(・)こ(・)と(・)な(・)く(・)答えることにしていた。『元は人間だったが気づけば竜人(ドラゴニア)になっていた』『故郷はおそらく遠く離れている』『故郷の人口は十億を超える』『音の速さで空を飛ぶ乗り物がある』『誰もが肉体から精神を切り離し精霊のように振る舞える社会だった』―などなど。</p><p>それはありのままの事実だったのだが、あえて簡潔に、具体性に欠く語り口にしたことで、デンナーにとっては荒唐無稽な話に聞こえていたらしい。そのせいか、『元人間である』という一点以外は、バーナードが大ボラ吹きなのか、あるいははぐらかそうとしているとでも解釈しているようだった。</p><p>（―高度に発達した科学は魔法と区別がつかねェ、ってか）</p><p>VR技術など、この世界の住人からすれば想像の埒外だろう。高度なインフラに支えられた億単位の人口も、眉唾ものに違いない。ただ事実を語っているだけなのに、デンナーが疑ったり、呆れたりしている様子を、バーナードは密かに楽しんでいるのだった。</p><p>お前の故郷には、吟遊詩人の精霊とやらもいるんだったか。それは国を超えて流行りもするだろうよ</p><p>そう言って肩を竦めるデンナー。バーナードは何も答えず、ただフフンと鼻を鳴らすに留めた。</p><p>しかし、俺の耳が正しければ、平和だの何だのと言っていた気がするが</p><p>おゥよ。ラブ＆ピース、人類愛と世界平和を祈る歌だぜ。名曲だ</p><p>……お前みたいなやつは、そういうのを毛嫌いしてそうなもんだが</p><p>違うのか？　と首を傾げるデンナー。</p><p>いや？　そんなことはない。俺はむしろ平和を愛してるぜェ</p><p>お前が……？</p><p>あァそうさ。平和とは、不断の努力と幸運なくして成立しない、脆く、儚く、愛おしいものだ―</p><p>蜥蜴怪人の口の端が釣り上がり、鋭い歯が剥き出しになった。</p><p>―だからこそブチ壊したくなる</p><p>黄色い瞳を爛々と輝かせて。</p><p>ハハハッ、この人でなしめ</p><p>見たらわかるだろ？</p><p>思わず吹き出すデンナーに、悪びれる風もなくおどけるバーナード。</p><p>争(・)い(・)ば(・)か(・)り(・)の(・)世(・)の(・)中(・)は(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わねェか？　何にでもメリハリが必要なンだよ</p><p>その気持ちはわからんでもないが、だからといって弱い者を無意味に殺して回って楽しいか？</p><p>おそらく、バーナードが壊滅させたラネザ村のことを言っているのだろう。しかし純粋に興味本位の質問らしく、そこに非難するような色はなかった。</p><p>楽しいさ。強い奴と戦うのとは、また別の楽しみがある。俺は、平和を、幸せを、かけがえのないものを、尊いものを、台無しにするのが好きなんだよォ</p><p>ラネザ村での自らの凶行を思い出したか、バーナードは興奮に背筋を震わせる。</p><p>もちろん、弱っちいヤツのさ(・)さ(・)や(・)か(・)な(・)抵(・)抗(・)もスパイスの一つだぜェ。ただ、同じことを延々繰り返すだけじゃあつまんねェ、そのうち飽きちまう。だからメリハリが必要ってわけだ―それと一つ訂正しておきてェんだが、俺は別に殺しが好きってわけじゃねェ。最大限にブチ壊したら結果的に死んじまうってだけで</p><p>なるほど。熱しやすく冷めやすい破壊の美学というわけか</p><p>デンナーはゴワゴワとした顎髭を撫で、得心がいったという風に頷いた。その、さもわかったかのような態度が癪に障ったバーナードは、逆に聞き返す。</p><p>……そういうオメーはどうなんだよ、デンナー。オメーは強いやつと戦うの、好きそうだよなァ</p><p>ぬぅ、まあ否定はせんな。強敵と対峙すれば血が滾るのは事実だ……ただ戦いそのものが好きかと問われると、違うな</p><p>ほう？</p><p>その戦いから何が得られるか―強敵との戦いは、何らかの教訓をもたらすことが多い。相手そのものが興味深く、面白いこともある。お前みたいにな</p><p>ニッ、と不敵に笑うデンナー。打ち負かされた側であるバーナードは、ますます不機嫌になってフンと鼻を鳴らした。</p><p>そして俺は欲張りでもあるからな。そういう面白い奴がいると、つい手勢に加えたくなっちまうわけだ</p><p>ああそうかい。お陰でこうして食っちゃ寝していられるんだ、ありがたいこった</p><p>焚き火に枝を突っ込んだバーナードは、また新たに焼き芋を取り出した。今度は爪先で器用に皮を剥ぎ取り、デンナーに差し出すでもなく一人で食べ始める。</p><p>ハッハッハッハ！　そう不貞腐れるなよ</p><p>デンナーは大笑いしながら、バーナードの背中をバシンと叩いた。焼き芋を咀嚼しながら、ギロリと剣呑な目を向けるバーナード。普通の人間ならひと睨みされただけで震え上がってしまいそうな眼光だったが、デンナーは動じない。</p><p>―残念ながら、食っちゃ寝の生活もそろそろ終わりだ</p><p>その言葉は、バーナードの興味を引いた。</p><p>……というと？</p><p>でかい仕事がある。お前にも当然働いてもらうからな</p><p>ほーん。まあ構わねェけどよ、細かいのは苦手だぜ？　誰彼を守れとか、逆に誰彼だけを殺せ、とかはなァ。それに自分でも言うのもなんだが、俺のこの容姿で参加できンのか？</p><p>できるとも。好き勝手に暴れて、殺し回って、呑気に過ごしている奴らを大混乱に叩き落とす。そんな怪物を探していたんだ、おあつらえ向きじゃないか？</p><p>―ハッ。なんだそりゃあ</p><p>蜥蜴面でもそれとわかる、満面の笑み。</p><p>俺様にぴったりじゃねえか</p><p>だろう？　平(・)和(・)す(・)ぎ(・)る(・)世(・)の(・)中(・)も(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わないか？</p><p>デンナーの問いに、バーナードは牙を剥き出しにした。</p><p>はハァ♪</p><p>101. 出陣</p><p>とうとう出発の朝が来た。</p><p>公国の地にも、厳しい冬が訪れつつある。</p><p>戸口に立ち、朝日を睨むケイの吐息は白い―</p><p>ケイ……</p><p>振り返れば、ケープを羽織ったアイリーン。</p><p>青い瞳が、ケイを見つめて揺れていた。そっと目を伏せる。伸ばした手が、ケイの袖を掴む。</p><p>強く―関節が白く染まるほど指先に込められた力が、何よりも雄弁にアイリーンの心情を物語っていた。</p><p>……アイリーン</p><p>ケイはただ、その手に、自らの手を重ねることしかできなかった。冷え切った指先に、せめて別れのときまで、わずかなぬくもりを与えることしか―</p><p>“飛竜”狩りに馳せ参じよ、との王命からはや一ヶ月。</p><p>サティナ郊外には、ウルヴァーンとキテネの兵団が集結しつつある。本日、そこにサティナの戦力も合流し、飛竜狩りの舞台たる辺境―鉱山都市ガロンを目指して東進する予定だ。</p><p>兵団の総指揮官は、公子ディートリヒ＝アウレリウス＝ウルヴァーン＝アクランド。今年で成人を迎え、１６歳という若さで次期公王として即位する。そして今回の飛竜狩りは、他ならぬ彼の箔付けのためのものだった。</p><p>実績作り、軍事力の誇示、他都市への牽制、軍部のガス抜き、領土拡大および辺境開拓の一環―政治的な思惑はさておき、最大の問題は、ケイがそれに巻き込まれてしまうことだ。</p><p>『どうしても行かないと駄目か……？』</p><p>尊大な使者が去ってから、ケイが残された説明役の下級役人に力なく問うと、彼はギョッとして周囲をはばかるように見回した。</p><p>『……とんでもない、なんてことを言うんだ。大物狩りの英雄だか腕利きの魔術師だか知らないが、一市民が王の言葉に逆らえるわけないだろう』</p><p>お偉方に聞かれなくてよかった、と下級役人は額の汗を拭う。頼むから迂闊なことは口に出すなよ、と言わんばかりにジロッとケイを睨んだ役人は、こう続けた。</p><p>『公王陛下からの直々のご指名、子々孫々にまで語り継ぐ名誉と心得よ！　それに、ケイチ＝ノガワ殿。あなたは栄えある名誉市民となったときに、誓ったはずだ。公王陛下と都市ウルヴァーンへの忠誠を』</p><p>―詰まるところ、ケイもアイリーンも、現代人だったというわけだ。</p><p>十全に理解できていなかった。封建主義的な社会における、『忠誠を誓う』ことの重みを、真の意味を。</p><p>これまで名誉市民として、少なからず権利を享受してきた。それに付帯した義務(ツケ)が、今になって回ってきた。それだけの話だ……</p><p>アイリーンは、荒れた。</p><p>『なんでケイがそんな目に遭わなきゃいけないんだ！！』</p><p>飛竜狩りに徴集された、と告げた直後は呆然としていたが、すぐに激怒した。何に対しての怒りか。公王か、その使いか、それとも状況そのものか……</p><p>『逃げよう、ケイ！　むざむざ死にに行くようなもんだ。若造の箔付けのためなんかに、ケイが命を賭ける必要はない！』</p><p>アイリーンの主張は尤もだったが、ケイはゆるゆると首を振る。全てを放り出して逃げる―もちろん、検討した。</p><p>しかし、逃げるとしても、どこへ逃げる？</p><p>『アイリーン、俺たちは有名になりすぎた』</p><p>片や黒髪黒目の狩人にして、風の精霊と契約した魔術師。片や金髪碧眼の雪原の民で、影の精霊と契約した魔女。</p><p>地竜を相手取った伝説の狩りも、麻薬組織を壊滅させた大立ち回りも、吟遊詩人を介して公国全土に広がっている。こんな特徴的な二人組では、どこに逃げてもすぐに足がついてしまう。</p><p>かといって、国外に居場所があるかと問われると、難しい。アイリーンならば北の大地でも生きていけるが、馬賊のせいでケイは肩身が狭い。アジア系の顔つきは例外なく草原の民と解釈されるだろう。</p><p>“魔の森”近くのアレクセイの故郷の村なら、気心の知れたケイたちを快く受け入れてくれるだろうが、北の大地を横断する長旅になるし、第一、旅する間に冬が来る。</p><p>『家ごと凍りついて死ぬ』ほどの極寒の地を踏破する―あまりにも無謀。飛竜に挑む方がまだマシなくらいだ。</p><p>公国は駄目、北の大地も危険、となれば残された土地は何処だ……？</p><p>『それこそ、飛竜狩りが行われる東の辺境に隠れ住むか、港湾都市キテネから船で別の大陸を目指すくらいしかない……』</p><p>ゲーム DEMONDAL に設定のみ存在した『フォートラント』と呼ばれる大陸。現在の公国の民は、フォートラントを発った植民船団の末裔だ。今でもフォートラントとの交流は続いているが、外洋の巨大水棲生物のせいで沈む船はあとを絶たないという。</p><p>フォートラントへの船旅は、無事に海を渡れるかどうかの博打。かといって東の辺境は、豹人(パンサニア)や竜人(ドラゴニア)が数多く生息する危険地帯。</p><p>『それに……仮に逃げたところで、今みたいに豊かな暮らしは二度とできない』</p><p>現状の安定した生活は、得難いものだ。特にこの世界においては。</p><p>公国で有数の大都市に住まいを構え、国内でも指折りの規模の商会に支援されながら、気ままに魔道具を作成するだけで食って行ける。使用人のおかげで家事はしなくていいし、最低限のインフラも整っている。飢える心配もない。</p><p>何より、アイリーンのお腹の子に、これらの資産を遺してあげられる―</p><p>そう考えたとき、逃げるという選択肢は、ケイの中で消えた。</p><p>『俺には……できない。今さら全てを捨てることなんて』</p><p>仮に自分が野垂れ死んでも、アイリーンは食いっぱぐれないし、子供にだって遺すものがある。</p><p>ケイはそう考えたが―</p><p>『暮らしなんてどうだっていい！』</p><p>アイリーンは違った。</p><p>『そんなもん、命に比べたらはした金だ！　どこに移り住んだって、生きてさえいればやり直せる！　ケイが帰ってこないのが一番イヤだよ！　死んだら……死んだら、お終いなんだ、ケイ……！！　頼む、頼むから……』</p><p>アイリーンの悲痛な叫びは、徐々に勢いを失い、力なき懇願へと変わった。ケイの胸板に顔をうずめ、『行かないでくれ……！』と消え入るような声で。</p><p>『アイリーン……』</p><p>気持ちは痛いほどにわかる。</p><p>だが……それでも、ケイは……</p><p>†††</p><p>話し合いは平行線だったので、コーンウェル商会へ相談に行った。</p><p>『飛竜狩りについては聞いたよ……ついさっき、ね』</p><p>商談室のソファに腰掛けながら、ホランドは太った腹をポンと叩いた。行商を辞め、本部つき商会員になったホランドは、ケイたちの魔道具販売で辣腕を振るい、この頃は一流商人としての貫禄を醸し出すようになっていた。</p><p>が、今日ばかりは少しやつれて見える。</p><p>『我らが商会も、もちろん飛竜狩りを支援するけど、ケイくん個人用の物資についても役人と話はついたよ。糧秣(りょうまつ)に関しては心配しなくていい』</p><p>飛竜狩りに同道する場合、ケイの懸案事項の一つがサスケの秣(まぐさ)だった。これまでの旅路では、文字通り道草を食わせたり、宿場街で調達する分で事足りたが、今回の目的地は東部の辺境だ。</p><p>公国は東に行くにつれ草原から荒原へと変わっていき、さらに大人数の兵団がともに移動することを考えると、現地調達では絶対に足りない。秣をかなりの量、事前に用意しておかないとサスケは飢え死にしてしまう。</p><p>行軍速度が非常に遅いであろうことを鑑みれば、ケイが徒歩でついていく手もあったが、それではケイの強みである騎射が活かせなくなる。</p><p>件の下級役人にも『歩いてくりゃいいじゃん』という旨のことを言われたが―おそらくは調整を面倒くさがったのだ―飛竜を相手取るには機動力が欠かせないと、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩った経験を混じえながら滾々と語った結果、『じゃあ後でコーンウェル商会と交渉してくるわ……』と根負けしたわけだ。</p><p>『あの役人が怠け者じゃなくて良かった』</p><p>『すこぶる働き者だったさ。話はすぐにまとまったよ。商会が追加で供出する分には、いくらでもどうぞ、とのことだった』</p><p>ホランドは肩をすくめる。要は、コーンウェル商会が独自に支援する分には、国の財布は痛まないので好きにしろ、ということだ。</p><p>役人も言っていたが、今回の狩りは成功報酬だ。最低限の食事などは軍が手配するものの、快適な旅路を望むならば諸々の経費は自腹となる。</p><p>目覚ましい活躍をした者には、帰還後にそれ相応の名誉と褒美を。</p><p>ただし労災は下りない―死んだらそれまでだ。</p><p>『ありがとう。苦労をかけることになる』</p><p>『なに。我が商会の腕利き魔術師を失うわけにはいかないからね』</p><p>ケイとホランドは、ぎこちなく微笑みあった。</p><p>『……なあ、旦那。どうしても行かないと駄目なのか？』</p><p>と、黙りこくっていたアイリーンが、縋るような目で尋ねる。</p><p>ホランドは困惑したように口をつぐむ。ケイは、アイリーンが自分と同じような言い方をしたのが可笑しくて、小さく笑った。半ば諦めたように。</p><p>『…………せめて、都市からの要請、くらいならばまだ、辞退する手もあったかもしれない。……だけど今回は、……王命だ。しかも名指しでの』</p><p>ホランドは苦しげに言葉を絞り出す。『とんでもない！』などと声を荒らげないあたり、これでも精一杯アイリーンの心情に寄り添った回答と言えるだろう。</p><p>『あまり、私の立場から無責任なことは言えないが』</p><p>沈痛の面持ちのアイリーンに、ホランドは慌てたように言葉を付け足した。</p><p>『先々代の陛下の飛竜狩りを思えば、ケイくんはそれほど心配しなくてもいいんじゃないかと思うんだ』</p><p>『ほう』</p><p>『……というと？』</p><p>ケイもアイリーンも、身を乗り出す。</p><p>『基本的に、ほとんど軍が矢面に立つんだよ。少なくとも先々代の狩りでは、告死鳥の魔術師と斥候が飛竜を一頭だけ釣って、魔術兵団と攻城兵器でタコ殴りにしたそうだ。従軍した兵士と、後方の支援部隊にはほとんど被害が出なかったらしい―』</p><p>対飛竜戦術はゲーム内のそれとは大差ないようだったが、ホランドの話を聞く限り、どうやら投じられるリソース量が桁違いだった。</p><p>具体的には、魔術師及び魔道具の数。</p><p>数百人単位で、魔術師たちが一斉に術を行使する。これはゲーム内では見られなかった光景だ。</p><p>ゲームでは、周年イベントの飛竜狩りはお祭り騒ぎのようなもので、数千人の廃人プレイヤーたちが一堂に会し飛竜に挑んだものの、その中で『魔術師』と呼べるプレイヤーはごくごく少数に過ぎなかった。</p><p>なぜかと言うと、飛竜を倒したあとは素材を巡るバトルロイヤルになだれ込むのが恒例だったため、ほとんど全員が『失っても怖くない』キャラ＆装備を選択していたからだ。</p><p>その点、魔術師は触媒やら魔道具やら高価なアイテムを所持していることが多く、火事場強(・)盗(・)の被害に遭いやすい。１周年のイベントではそこそこ見かけた魔術師プレイヤーも、翌年には開き直って腰布に棍棒のみの蛮族スタイルで参戦していたくらいだ。</p><p>『百人単位の魔術師、か……』</p><p>個々の力量はゲームの廃人より劣るだろうが、その数は質を補って余りある。極めて強力に統率された兵団がどれほどの威力を発揮するか、冷静に考えれば、ケイたちもおぼろげに推察することはできた。</p><p>―案外、いけるか？</p><p>魔術師がどのような精霊と契約しているか、また使用される魔道具がどの系統のものかにも依るが、一般的な契約精霊である”妖精”の眠りの術も、百人単位で重ねがけした場合は飛竜の抵抗(レジスト)を十分に打ち破れるのでは、などと考えるうちに、ケイも少しばかり前向きになってきた。希望的観測の感は否めなかったが。</p><p>『主役はあくまで兵団だから、ケイくんの出番は……正直、自分から前に出ない限りないんじゃないかなぁ。単騎で”森大蜥蜴”を二頭相手取るよりは、よほど安全だと私は思うけどね』</p><p>ホランドの遠慮ない物言いに、思わず苦笑する。</p><p>『そういう意味だと、ケイくんより、お友達の”流浪の魔術師”殿の方が危ない立場なんじゃないか。……彼はまず間違いなく、サティナの軍団に組み込まれるだろうから。最前線だよ』</p><p>そう言って、ホランドは物憂げに小さくため息をつく。</p><p>『あ～……』</p><p>ケイは、同郷の日系人の顔を思い浮かべた。サティナの領主のもとで厄介になっている彼は、なるほど、お誂え向きなことに氷の魔術師だ。飛竜狩りにも引っ張り出されるに違いない―困り顔が目に浮かぶようだった。</p><p>―結局、アイリーンは納得したとは言い難かったが、ケイたちは少しばかり気を取り直して商会を辞した。</p><p>『……なあに、心配いらないさ。アイリーン』</p><p>帰り道、ケイはあえて気楽な調子で言う。</p><p>『いざとなったら……俺たちには切り札がある』</p><p>トン、と胸元を叩いた。</p><p>服の下、首からチェーンで吊り下げているのは―飾り気のない指輪。</p><p>『本当にヤバくなったら、この”ランプの精”にお願いするよ』</p><p>一つだけ、何でも願いを叶えてくれるという、“魔の森”の大悪魔に。</p><p>『だから、大丈夫だ。俺(・)は(・)絶(・)対(・)に(・)生(・)き(・)て(・)帰(・)る(・)』</p><p>アイリーンの手を引きながら、ケイはニッと笑ってみせた。</p><p>『…………うん』</p><p>アイリーンも小さく笑ってうなずく。</p><p>それでも彼女の手は、可哀想なほどに震えて、冷たくなっていた―</p><p>†††</p><p>あの日の指先を思い出しながら、ケイはアイリーンの手を握りしめる。</p><p>あれから、またたく間に時間が過ぎ去っていった。それでいて、頼りないロウソクの火が、ジリジリと芯を焦がしていくかのように、気が気でない一ヶ月だった。</p><p>ほんの僅かでも、ぬくもりを与えられただろうか。残せて行けるだろうか。</p><p>それを確かめるより先に、冬の到来を告げる風が熱を奪っていく。</p><p>カァン、カァンと遠くで鐘が鳴る。</p><p>出陣のときが近いことを知らせる鐘の音が。</p><p>商会の使用人が、厩からサスケを連れてきた。 今日も寒いね とばかりに鼻を寄せてくるサスケを撫で、鞍に荷物を載せる。矢筒。携帯食料。飲水の革袋。寝床にもなる毛皮、などなど……。</p><p>……行かなきゃ、な</p><p>無言のアイリーンとともに道を行く。</p><p>左手でサスケの手綱を引き、右手はアイリーンとつないだまま。指と指を絡めて、しっかりと握りしめる。恋人つなぎと呼ぶには、それはあまりに切ないものだった。</p><p>昨夜は、別れを惜しんで語り明かした。</p><p>それでもまだまだ語り足りなく感じる。</p><p>なのに、今は言葉が出てこない。</p><p>傍らのうつむきがちなアイリーンを見るに―彼女もどうやら、同じだった。</p><p>飛竜狩りに馳せ参じるんだってな！　頑張れよ！</p><p>武勇伝、楽しみにしてるぞー！</p><p>無事に帰ってこいよ、英雄！</p><p>道端で、顔見知りとなった町の住民たちが声をかけてくる。</p><p>ケイは少し硬い笑顔で、それに応えた。</p><p>ケイさん……どうか、ご無事で</p><p>お兄ちゃん、気をつけて、ね！</p><p>木工職人のモンタンと妻のキスカ、その娘リリーも、街の正門にケイを見送りに来ていた。</p><p>ありがとう。……行ってくるよ</p><p>モンタンと握手を交わし、リリーの頭を撫でてから、改めて向き直る。</p><p>アイリーン。</p><p>世界で一番、愛しい人。</p><p>言葉もなく、二人は抱きしめ合い、口づけを交わした。</p><p>思えば―この世界に来てからは、いつも一緒だった。</p><p>片時も離れずにいたい。その気持ちは今も変わらない。</p><p>互いが、互いのいない日々を想像できない。</p><p>それなのに、</p><p>ケイは行く。</p><p>アイリーン</p><p>その頬に手を添えて、名前を呼んだ。</p><p>……行ってくるよ。必ず無事で戻る</p><p>アイリーンは、愛しげにケイの手に頬ずりして、頷いた。</p><p>……待ってる。絶対に待ってるから</p><p>ケイの緊張をほぐすように、微笑みを浮かべて。</p><p>……これほど、離れがたく感じたことはない。</p><p>だが、ケイは手を離した。</p><p>ブルルッ、といななくサスケに、颯爽とまたがる。</p><p>これ以上の迷いを振り払うように。</p><p>横腹をポンと軽く蹴ると、忠実な俊馬は滑るように駆け出した。</p><p>サティナの城門を抜けると―視界が一気にひらける。</p><p>朝焼けを浴びて輝く草原が、風にそよいで波打っていた。</p><p>そこに、公国の赤い旗がはためく。</p><p>おびただしい数の軍勢が、展開している。</p><p>ドン、ドンと太鼓が打ち鳴らされ、高らかにラッパの音が響いた。</p><p>巨獣が目覚めるかのごとく、軍勢は緩やかに動き出す。</p><p>ケ―イ！！</p><p>背後から、かすかな叫び声。</p><p>弾かれたように振り返れば、アイリーンが手を振っていた。</p><p>ケイの目は、二人の距離を物ともせず、しかと捉える。</p><p>青い瞳から溢れ出した涙が、風に散らされていく。</p><p>わななく唇から漏れる言葉は、もはや意味をなさない。</p><p>だが―これ以上ないほど、気持ちは伝わってきた。</p><p>せめて、己の心も届くように。</p><p>必ず戻る</p><p>ぐっと手を掲げてみせ、ケイは前へ向き直った。</p><p>公国の歴史に刻まれる、飛竜狩りが―</p><p>ここに、始まった。</p><p>飛竜狩り編、開幕。</p><p>102. 合流</p><p>（これほどの人数が行軍してるところは、初めて見たかもしれないな）</p><p>パッカパッカとサスケを駆けさせながら、ケイは胸の内でひとりごちた。</p><p>ゲーム内でもイベントや傭兵団(クラン)同士の戦争で大勢のプレイヤーが集まることはあったが、どんなに多くても千人がせいぜいだった。</p><p>対して、眼前に集結した軍勢は万単位だ。統一された装備で隊列をなし、歩みを進めるさまは相当な威圧感がある。街道沿いには近隣住民が見物に出ていて、お祭り騒ぎの様相を呈していた。</p><p>飛竜狩りに出陣する公国軍―きっとこの光景は絵画として残され、後世に語り継がれていくのだろうな、とケイは他人事のように思う。</p><p>そしてこのとんでもない大所帯は、とんでもなく動きが鈍い。この人員を飢えさせないだけの物資を運ぶ、大量の荷馬車が同道しているからだ。軍が自前で用意した補給部隊に加え、それを補助する形で大商会の馬車も続く。</p><p>勇ましく行軍する兵士たちも、そのほとんどが陣地構築のための工兵か、物資を守る警備兵だろう。彼らの任務は、飛竜を相手取る魔術兵団と、バリスタや投石機といった攻城兵器群を無事に現地まで送り届けることだ。工兵はそのまま戦う羽目になるかもしれないが。</p><p>（それにしてもちょっと多すぎるんじゃないか……）</p><p>いくらなんでも、こんな大所帯に襲いかかるならず者はいないと思うのだが―警備の人員はもっと減らせなかったのだろうか？　ひょっとすると、公国の支配に反感を抱く草原の民に対しての示威行動も兼ねているのかもしれない。</p><p>（だとしたらご苦労なことだ）</p><p>この飛竜狩りのためだけにどれほどの物資が消費されるのか、考えるだけで頭が痛くなりそうだ。それを可能とする公国の力を内外にアピールする目的があるのだろうが、いくら年若い次期公王の箔付けのためとはいえ、ケイとしては、費用対効果的にどうなんだと思わずにいられない。特に、お上の事情に巻き込まれた身としては―</p><p>そんなことを馬上でつらつらと考えるうち、竜の紋章が刻まれた赤い旗が見えてきた。ウルヴァーンの本隊だ。</p><p>最後尾あたりを歩く歩兵隊のうち、そこそこ偉そうだが、気位はそこまで高くなさそうな隊長格の兵士に声をかける。</p><p>狩人のケイだ。公王陛下の命により、飛竜狩りに馳せ参じた</p><p>自分で口に出しておいてなんだが、多分に皮肉な響きが混じってしまった。ここに来て不満たらたらな様子を見せるのは得策ではない、グッとわだかまる内心を飲み込んで誠実な公国市民の仮面をかぶる。</p><p>―義勇隊に合流したいのだが、何処か？</p><p>ケイのように民間から招集されたクチ、及び自分から名乗りを上げた物好きなんかは、義勇隊とやらにひとまとめにされているそうだ。</p><p>へえ、するとアンタが例の”大物狩り”か</p><p>兵士たちがケイにじろじろと無遠慮な視線を投げかける。</p><p>噂に違わぬ精悍さだな</p><p>そうか？　俺はもっとデカいかと思ってた</p><p>なあ、槍で森大蜥蜴の頭をかち割ったってのは本当か？</p><p>俺は背中に飛び乗って首をねじ切ったって聞いたぞ！</p><p>どんな噂だ。やいのやいのと勝手なこと言う兵士たちに思わず苦笑する。</p><p>義勇隊ならもうちょっと前の方だ。まあ見りゃわかる</p><p>そうか、ありがとう</p><p>隊長格に礼を言ってさらにサスケを進ませると、なるほど、統一された装備の中に、雑多な雰囲気を漂わせる一団がいた。</p><p>近寄ってみれば―なんというか、寄せ集めという表現がぴったりだった。山賊かと見紛うばかりの薄汚れた戦士がいるかと思えば、小綺麗な衣装に身を包んだ田舎の名士のような人物まで。大荷物だが武器を持たずローブに身を包んでいる奴は、まさかとは思うが流れの魔術師だろうか。狩人(どうぎょう)と思しき人員もちらほら。</p><p>そしてその中には、知っている顔もあった。</p><p>やあケイ、しばらくぶりだな。……来てくれて安心したよ</p><p>マンデル！</p><p>サスケから飛び降りて、馴染みの狩人の肩を叩く。</p><p>そう、他でもないタアフ村の狩人、マンデルだ。先の大物狩りでは生死を共にした仲間でもある。</p><p>マンデルも参加するらしい、とは聞いていたが……</p><p>関係者づてに話は聞いていた。しかし森大蜥蜴の狩りで精根尽き果てて、危険な目に遭うのはもう懲り懲り、と言わんばかりだったマンデルと、よりによって飛竜狩りの軍団で再会する羽目になるとは。</p><p>まあな。……恐れ多くも陛下の名において召集令状が届いたんだ</p><p>気まずそうなケイをよそに、マンデルは飄々と肩をすくめる。</p><p>例の武道大会。……繰り上がりではあるが、おれも一応入賞者だからな</p><p>ああ、そっちか……</p><p>大物狩りの一員として名を上げたから、ではないらしい。無理を言ってマンデルを大物狩りに巻き込んだケイとしては、自分が原因でないとわかって少し気が楽になったが、それにしても気の毒であることに違いはない。</p><p>とんだ災難―</p><p>いや、この物言いはまずい。</p><p>―とてつもなく名誉なことだな</p><p>まったく、違いない。……身に余るよ</p><p>ケイの意図を汲んで、マンデルも真面目くさって頷いた。</p><p>お話中のところ悪いが</p><p>と、雑多な集団にあって、正規兵らしい格好をした軍人が声をかけてくる。顔は悪くないが、どこか不貞腐れたような雰囲気のせいで小物臭く見える男だった。</p><p>ケイチ＝ノガワで違いないか？</p><p>ああ、そうだ</p><p>よし</p><p>男は羊皮紙をチェックして、くるくると丸めながら溜息をつく。</p><p>お前が来ないんじゃないかと気が気じゃなかった。英雄は遅れてやってくる、とはよく言ったものだな</p><p>……名残惜しくてアイリーンと見つめ合っていたが、どうやら自分が思っていたよりも時間が経っていたらしい、とケイは思った。できることなら何ヶ月だって見つめ合っていたかった。</p><p>申し訳ない</p><p>大目に見よう。王命通りに馳せ参じた、その事実が重要だ。……しかし、馬連れとはな。うちは糧秣(りょうまつ)の面倒までは見んぞ</p><p>男はサスケをじろりと一瞥して顔をしかめる。 人間って歩くのおそいよねー と言わんばかりにキョロキョロと周囲を見回していたサスケは、突然視線を向けられて戸惑ったように首を傾げている。</p><p>ああ、それに関しては心配ない。コーンウェル商会が提供してくれることになってる、一応証書もある</p><p>ケイが懐から書類を取り出して見せると、男は途中まで斜め読みしてあっさりと興味を失った。</p><p>そうか、気前のいい話だな。騎射の達人と名高い英雄殿、その活躍に期待しよう</p><p>踵を返し足早に去っていく男。しかし途中で思い出したかのように振り返り、</p><p>おっと。一応、隊長を務めるフェルテンだ。せいぜい皆とは仲良くして、問題は起こさないでくれよ</p><p>今度こそ足早に、隊列の前方へと姿を消した。</p><p>……なんというか、あまり部隊の運用に熱心なタイプではなさそうだな</p><p>無理もない。……こんな軍人でもない平民の寄せ集め部隊ではな</p><p>ケイの感想に、マンデルが笑った。</p><p>彼は正規の軍人のようだし、そりゃあやる気もあまり出ないだろう</p><p>堅苦しくても息が詰まるから、このくらいの方が楽だけどな俺は</p><p>おれもだ。……それはそうと、ケイ。キスカが手紙で言っていたが、アイリーンがご懐妊だとか。遅ればせながらおめでとう</p><p>ああ、……ありがとう</p><p>ケイは曖昧な笑みを浮かべた。</p><p>……身重の妻を置いて出征とは、ひと悶着あっただろうな</p><p>マンデルも困ったような顔をしている。</p><p>まあ、そうだが、王命だからな……</p><p>ケイのところには、直々に使者が来たんだったか。……まあ大変に名誉なことだからな、こればかりは</p><p>もちろん、喜び勇んで馳せ参じたわけだが</p><p>かくいうマンデルも、娘二人を残して来ている。ケイたちの心はひとつだった。</p><p>今から、凱旋のときが楽しみでならないよ</p><p>それはいいことだ。……ケイと一緒だと、五体満足に生きて帰られる気がする</p><p>マンデルは急に改まって、ケイをじっと見つめた。</p><p>飛竜が出てきても、ケイなら何とかしてくれるだろう？</p><p>……いやあ、うーむ……</p><p>ケイは唸りながら、手の中の朱い弓に視線を落とした。</p><p>“竜鱗通し”―理論上二百メートル先の竜の鱗をもブチ抜く、その絶大な威力から、この弓は銘打たれた。</p><p>（飛竜か……）</p><p>実際にやれと言われたら、どうだろうか……森大蜥蜴を超えるデカブツとはいえ、高速で飛び回るし、最強の防具の代名詞たる竜の鱗で全身が覆われている。ヤツらを仕留めるなら、ただ矢が刺さるだけではダメだ。鱗を貫通した上で、致命傷を与えねばならない。となると狙うのは、頭部か、臓器が密集した腹部か、……それにしても何本の矢を命中させればいいものか……</p><p>……飛竜は、流石にちょっと厳しいな</p><p>渋い顔でそう答えると、マンデルはクックックと低い声で笑みを漏らした。</p><p>ケイ。……普通の狩人はな、『飛竜を何とかしろ』と言われたら『無理』と即答するんだよ。それに対してケイは、しばらく悩んだ上で『ちょっと厳しい』なんて答える。この時点できみは尋常じゃない</p><p>マンデルはニヤッと笑った。</p><p>そして、それがこの上なく頼もしい</p><p>ばん、とケイの背中を叩くマンデル。彼にしては珍しいボディタッチだった。……極力いつもどおり振る舞っているが、やはり不安なのかもしれない。</p><p>そういえばケイ、鎧を新調したんだな</p><p>あ、ああ。そうさ、この間の森大蜥蜴でな。腕のいい職人に頼んだんだ―</p><p>ほぼ新品の革鎧を撫でながら、ケイはチラッと振り返った。</p><p>街道の向こう、サティナの街はちっとも―ケイの視力基準でだが―小さくなっていなかった。わかってはいたものの、遅々とした歩み。</p><p>これでは東の辺境ガロンまで、どれだけかかるかわからない。</p><p>（……長い旅になりそうだな）</p><p>そしてそれ以上に疲れそうだ。</p><p>願わくば、旅路の間に話題のストックが尽きませんように―気だるさをごまかすようにサスケの首をぽんぽんと叩いて、ケイは小さく溜息をつくのだった。</p><p>103. 親睦</p><p>やはりというべきか、飛竜討伐軍の歩みはあくびが出るほど鈍(のろ)かった。</p><p>ケイも最初から覚悟していたし、隊商護衛の経験からこんなもんだろうとは思っていたので、それほど苦痛には感じない。</p><p>ただ、大人数の行軍ゆえ、もうもうと舞い上がる砂埃には参った。</p><p>冬場で空気が乾燥していることもあって、視界が常に霞んでいるようだ。サスケも ねー、ちょっと空気わるくなーい？ と言わんばかりに、不満げに鼻をスピスピさせている。</p><p>視力が落ちやしないか心配だ……</p><p>少しでも埃が入らないように目を細めて、苦々しげに言うケイ。</p><p>大丈夫だ。……そのうち慣れる</p><p>対して、マンデルは達観した様子で肩をすくめる。</p><p>彼は従軍経験者だ。適度に諦めることを知っていた。</p><p>緩やかな起伏の丘陵の間を縫うようにして、ゆったりと蛇行しながら伸びる石畳の道―“サン＝レックス街道”。</p><p>寒風が吹き荒む中、兵士たちはぞろぞろと歩いていく。都市近郊ではまだ『軍隊の行進』の体をなしていたが、見物客がまばらになると気も緩み、その歩みはのんびりとしたものに変わっていった。</p><p>とても飛竜狩りに赴いているようには見えないが、目的地は遠いし、飛竜と出くわすのはまだまだ先のことだ。今の段階で怯えたり不安がったりする必要はない―気を張り続けていたら参ってしまうので、実際、兵士としては彼らは正しい。</p><p>ダラダラと歩き続けること数時間。昼食の休憩となった。出てきたのは堅焼きビスケットに薄いワイン、それに干し肉の欠片。</p><p>わびしい……としょんぼりするケイをよそに、マンデルは、</p><p>おっ、干し肉がついてるとは豪勢だな。……さすがは飛竜討伐軍</p><p>などと感心していて、色々と察するほかなかった。</p><p>長く続いた街暮らし（使用人つき）のせいで、自分はすっかり贅沢になってしまったらしい、とケイは忸怩たる思いになる。</p><p>このぶんだと夕食も期待できない、何か彩りを確保せねば……と草原に目を向けると、夏場ほどではないがウサギの姿がチラホラあった。</p><p>“竜鱗通し”と銘打たれたこの弓も、一番血を吸っているのはウサギかもしれない。</p><p>それから特筆すべきことはなく、夕暮れ前に行軍は止まり、野営の準備が始まる。夕食はそれぞれの部隊ごとに食材が配られ、自分たちでシチュー的なものを作る形式だった。</p><p>案の定、配給されたのは穀類や干し肉など非常にわびしい内容だったので―マンデルいわく、これは量的にも質的にもびっくりするほど豪勢―ケイは快く部隊の皆にもウサギ肉を提供した。これから数週間、下手すれば数ヶ月、同道する仲間たちなのだ。仲良くなるに越したことはない。</p><p>よっ、太っ腹！</p><p>さすがは公国一の狩人！</p><p>無論、義勇隊の面々も大喜びだった。</p><p>近隣の部隊より具だくさんになったシチューを味わいながら、焚き火を囲んで親睦を深める。</p><p>義勇隊に集まったのは、マンデルのように武闘大会で入賞した者や、弓や弩の扱いに秀でる退役軍人、高名な狩人、森歩き、流れの魔術師などで、出自は様々だがそれなりの人物が多かった。</p><p>一部、名声や実績のためだけに参加した者たちもいたが、彼らは実力がない代わりに相応の身分（といっても田舎の名士とか豪農の子とか）の出で、こちらもまともに話が通じる手合だ。</p><p>総じて、付き合いやすい者たちばかりだった。夕飯に彩りを添えてくれるケイに絡んでくるような無作法者ももちろんおらず、良好な関係を構築しつつあると言えるだろう。</p><p>ちなみに、ほぼ強制参加だったのはケイとマンデル、その他武闘大会入賞者くらいで、あとは志願者が主だった。</p><p>それで、</p><p>シチューをかき込んだ大柄な傭兵が、目を輝かせながら尋ねてくる。</p><p>あんたは、森大蜥蜴を２頭も狩ったんだろう？　吟遊詩人の歌は飽きるくらい聞いたけどさぁ、実際のところどうだったんだ？　教えてくれよ！</p><p>野性味あふれる笑顔が素敵な彼は、その名をフーベルトという。もともと東の辺境の傭兵で、竜人(ドラゴニア)から商隊を守るため剣を振るっていたらしいが、わざわざサティナまでやってきてから義勇隊に参加したらしい。</p><p>目的は金。そしてひとかけらの名声。蜥蜴人とやり合うのにはもう飽き飽きだよ、とはフーベルトの談だ。</p><p>これからまた東へ行くのにサティナまで来るのは無駄足ではなかったのか、と尋ねると、 実はサティナに妹夫婦がいてな、ついでに会いに来たんだ！　新しくガキが生まれててさぁ、可愛いんだなぁこれが！ とニカッと笑っていた。</p><p>森大蜥蜴か……そうだな……</p><p>問われて、ケイはマンデルと顔を見合わせた。</p><p>ヴァーク村を守るため、 深部(アビス) の化け物と演じた死闘はまだ記憶に新しい。</p><p>マンデル、せっかくだから頼めないか？　俺は説明がヘタだからさ……</p><p>……おれだって口下手なんだが</p><p>マンデル？　マンデルというと、あの大物狩りにも同行したという”十人長”のマンデルですかな？</p><p>少しぽっちゃりとした青年が口を挟んでくる。彼はとある田舎の名士の次男坊で、名前はクリステンというらしい。</p><p>丸顔で、くりくりとした瞳が印象的。いかにも人が良さそうだ。少し気弱なきらいがあるものの、健脚らしく、行軍には問題なくついてこれる程度の体力はある。彼の体型は自堕落によるものではなく、単に裕福さを示すもののようだ。</p><p>今回、義勇軍に参加したのは、意中の女性に告白するためらしい。無事に帰ったらプロポーズするつもりなのだとか……</p><p>ああ、そのマンデルであってるよ。彼には随分と助けられたもんだ</p><p>ケイはしたり顔で頷く。そのまま さあ皆に語ってあげてくれ！ とマンデルに促すが、 その手に乗るか とばかりにジロッとした目で返される。</p><p>しばし、英語力の問題で語りたくないケイと、口下手だから遠慮したいマンデルで押し付け合ったが、皆に急かされたこともあってマンデルが折れた。</p><p>そう、だな。……あれは秋も終わりに近づいた頃。おれが、いつものように森から戻ると、突然、ケイが村を訪ねてきた。そして、告げられたんだ。『ヴァーク村から救援要請が届いた。手を貸してほしい』と―</p><p>ぽつぽつと、マンデルは語りだす。</p><p>確かにマンデルは、彼自身が言う通り、舌が回るタイプではなかった。しかしその実直な語り口には、当事者ゆえの真に迫った凄みがあり、かえって聞き手たちの心を捉えて離さなかった。皆、大仰な吟遊詩人たちの歌はもう聞き飽きていたということもある。</p><p>―そしてとうとう、やつが姿を現した。……途轍もなくデカい、化け物だった。そこの馬車くらいは優に超える背丈で、おれたちは皆、そいつを見上げながら覚悟を決めた。ここでやらねばならないと。……だが、武器を構えたそのとき、再び大地が揺れた。そして背後からもう一頭、同じくらいデカい化け物が出てきたんだ―</p><p>ごくり……と誰かが生唾を飲み込む。</p><p>当事者どころか主役なのに、ケイもハラハラして聞いていたところ、不意に髪の毛を引っ張られた。</p><p>イテッ、イテテッ、なんだ？　……サスケェ！</p><p>振り返ると、サスケが少し不機嫌そうに尻尾を振っている。</p><p>あ、すまん。サスケも腹減ったよな</p><p>道草と、さっきちょっと分け与えたウサギのローストくらいでは食べ足りないか。コーンウェル商会の馬車から糧秣を受け取らなければならない。</p><p>悪い、ちょっと席を外すぞ</p><p>と、ケイは中座したが、皆マンデルの話に聞き入っていたので特に残念がることもなく、そのまま抜け出すことができた。</p><p>（なんだ、口下手とかいって、語り部にもなれそうじゃないか……）</p><p>熱のこもった口調で、森大蜥蜴との死闘を語るマンデルを尻目に、軍隊の後方を目指す。</p><p>―討伐軍のあとには、長い車列ができていた。</p><p>大量の人員の胃袋を満たす補給部隊に加え、商会の馬車も出張ってきているのだ。兵士相手に商売をする者、士官を相手に高級嗜好品をさばく者、流れの医者もいれば大道芸人や吟遊詩人、はたまた娼婦たちのテントなんてものまで。</p><p>その並外れた視力で即座にコーンウェル商会の旗を見つけたケイは、サスケを伴って馬車を訪れた。</p><p>よぉ、ケイ！　どうだった、義勇隊ってのは？</p><p>親しげに出迎えてくれたのは、眉毛が濃い、よく日に焼けたヒゲモジャの傭兵―ダグマルだった。コーンウェル商会の専属傭兵で、サティナ－ウルヴァーン間の隊商護衛でも一緒に仕事をしたことがある。ケイの”大熊殺し”の目撃者の一人だ。</p><p>やあ。義勇隊は、気のいい奴らばかりだったよ。しかしなんというか、歩みがのんびりしてるな。それに土埃のひどいこと……普通の隊商護衛が懐かしいよ</p><p>はははっ、違いない！</p><p>同感なのか、苦笑いするダグマル。ホランドと幼馴染な関係で、何かとケイとも縁のある男だが、この度は自ら商隊に志願したらしい。</p><p>『―いやぁ俺も歳だからよ。ボチボチ腰を落ち着けようと思うんだが、最後に箔をつけたくってなぁ』</p><p>最後の護衛任務が飛竜討伐軍への同道なら、これに勝る名誉はないというわけだ。戻ったら、サティナ本部の用心棒的なポストに就くらしい。</p><p>『それにせっかくケイの”大熊殺し”は見てたのに、“森大蜥蜴”の方は見損ねちまったからな。今回、“飛竜”は見逃さないぜ！』</p><p>―と、そんな思惑もあるとかないとか。</p><p>ほーれ、サスケ。たんとお食べ</p><p>ぶるふふ</p><p>サスケは、秣(まぐさ)に野菜にとたっぷり与えられて大満足の様子だ。</p><p>どうだ、ケイ。あんまり出せないけどよ、ついでに一杯やってくか？</p><p>サスケを待つ間、ひょっこりと馬車に引っ込んだダグマルが、再び顔を出して小声で言ってきた。その手には、金属製の水筒(スキットル)。</p><p>いや！　……うーん</p><p>非常に心惹かれるものがあったが、ここはぐっと堪える。</p><p>ありがたいけど、禁酒中なんだ</p><p>……ああ、嬢ちゃんと一緒にやってるんだっけ</p><p>嬢ちゃん、とは、言うまでもなくアイリーンのこと。ほぼ妊娠が確定している彼女は、ここしばらく断腸の思いで酒を断っている。ケイもその苦しみを分かち合う覚悟だった。……血涙を流すアイリーンの前で酒を楽しめるほど、無神経ではない。</p><p>でも、別にいいじゃねえか、従軍中くらい</p><p>いや、まあ、そうなんだが、今も独り待ってるアイリーンを想うとな……</p><p>溜息をつきながら、日が暮れゆく空を見上げるケイ。</p><p>―いかん。出立一日目にして、もう帰りたくなってきた。いや、最初から帰りたいのは確かだが。</p><p>……それに、俺だけ呑んで戻って、隊の皆に気取(けど)られてみろ。総スカン食らうぞ</p><p>何せ勘の鋭い傭兵から、鼻が利く森歩きまで勢揃いだ。</p><p>はははっ、そりゃあ確かに肩身が狭いな。これはしばらく、お預けにしとこうか。んで、狩りが終わったら祝杯をあげようや</p><p>それくらいはいいんだろう？　とお茶目にウィンクするダグマル。</p><p>もちろん</p><p>ケイも笑顔で答えた。</p><p>サスケが満足したところで、ダグマルに礼を言い部隊に戻る。</p><p>歩いていると、道の端々で、夕食を終えた兵士たちが寝床の用意を始めていた。</p><p>（野宿かー……）</p><p>久々の地べただなぁ、と情けない顔をするケイ。街暮らしで本当にすっかり、贅沢な身体になってしまった。</p><p>今更テントに寝袋なんかで、ちゃんと眠れるんだろうか……吹き荒む木枯らしが、わびしい気持ちに拍車をかける。</p><p>しかも、独り寝だ。人肌が恋しい。より正確に言えば、アイリーンが。</p><p>一応、アイリーン謹製の影の魔道具を持ってきているケイは、夕暮れ以降に魔力を消費すればアイリーンと通信できる。</p><p>が、距離が開くごとに負担が増えていっておいそれとは使えないことと、軍に目をつけられたらヤバそうなことが相まって、一人になれるタイミングを見計らった上で数日に一回程度、ケイ側から連絡を取るように決めていた。</p><p>（今日はまだ、やめておくか……）</p><p>野営がどんな感じになるかという様子見と―あと、初日の夜さえ我慢できなかったら、多分、毎日連絡を取ってしまいそうだという恐れから。</p><p>（早く帰りたい……早々に飛竜が突っ込んできて勝手に墜落死しないかな）</p><p>などと愚にもつかないことを考えながらセンチメンタルな溜息をつくケイに、サスケが呆れたように、ブルヒヒと鼻を鳴らした。</p><p>104. 指名</p><p>おひさしブリリアント（光り輝く）</p><p>寒空の下、目が覚めた。</p><p>もぞもぞと簡易テントを抜け出したケイは、空を見上げて溜息をつく。</p><p>体中、バッキバキだった……皮のマントを敷いて寝たが、地面の寝心地は最悪。布を敷き詰めていた自宅のベッドとは比べるまでもない。そして毛布だけでは寒くて、なかなか寝付けなかった。</p><p>その上、起きたら曇天。</p><p>灰色の空が見えた瞬間、思ったのは おうちかえりたい 。</p><p>それでも軍隊は動き出す。個人の意志など関係ないとばかりに……</p><p>朝食が支給された。堅焼きのビスケット。薄いワイン。干しぶどう。</p><p>以上。</p><p>贅沢は言わないから、温かいものが食べたい</p><p>贅沢な話だ。……夕食はともかく、朝食は難しいぞ</p><p>もっしゃもっしゃとビスケットを頬張りながら、無慈悲に告げるマンデル。その横では、サスケが寝転がったままもっしゃもっしゃと草を食んでいた。彼は、どうやら問題ないらしい。 ふふん、鍛え方がちがうんだよ と言わんばかりの顔だった。</p><p>公国は水源が豊富で、北の大地ほど極寒でもない。水不足で行き倒れしかけた北の大地での旅に比べれば、この行軍なんて天国みたいなもんだ―とケイは自分に言い聞かせた。</p><p>それにしても、隊商護衛をやっていたときは、なんで色々と平気だったのだろう。自分でも不思議に思ったが、冷静に考えれば、割と温かい季節だったので問題なかったのだ。テントでも別に寒くはなかったし、朝食が温かくなくても関係なかったし。</p><p>周囲を見れば、皆、黙々と朝食を詰め込んでいる。</p><p>ここでこれ以上、不平不満をこぼしても、空気が悪くなるだけだ。贅沢を言っちゃいけない……ケイも大人しく諦めることにした。</p><p>まあ、</p><p>ビスケットを口に放り込んで、ケイは独り言のように言った。</p><p>せめて夕食は、肉でも食べたいところだな</p><p>期待しているぞ、ケイ</p><p>任せろ。獲物がいる限りは獲ってくるよ</p><p>それを耳にした皆も笑みを浮かべている。空気が少しだけ軽くなった気がした。</p><p>†††</p><p>食材を獲ってくるという大義名分を得たことで、ノロすぎる行軍から堂々と離れられるようになったのは良いことだ。</p><p>草原に出れば土煙からも解放されるし、歩く速度を制限されてストレスが溜まることもない。サスケも自由に走り回れて楽しそうだ……まるで街で暮らしていたときのように、思いついてぶらりと狩りに出てきた気分になる。</p><p>背後の街道にはずらずらと行列が続いていて、この場にいるのがケイとサスケだけという点に目を瞑れば。</p><p>アイリーンはどうしてるかな……</p><p>新たに仕留めたウサギの血抜きをしながら、寒空を見上げる。今頃、彼女もつまらなさそうな顔をして、テーブルに頬杖をついて空を見上げているのではないか―</p><p>―ケイは知る由もないが、このときアイリーンは、ふて寝していた。</p><p>それにしても、ひとたび曇ってしまうと星が見えず、ケイお得意の天気予報も使えなくなるのは困りものだ。昨日まで観測した分には、しばらく晴れと曇りが続きそうだったが……</p><p>少しでも雨が降れば、草原はかなり―しっとりした状態になる。このあたりの土は特に柔らかく、まるでスポンジみたいだ。たっぷりと水気を吸えばずぶずぶと脚が沈み込んで、サスケ単体ならともかく、ケイを乗せた状態で駆け回るのは、かなり難しくなるだろう。</p><p>土埃が立たなくなるのは利点だろうけどな……</p><p>デメリットの方が多そうだ。</p><p>……そう思うだろ？</p><p>話しかける相手がいないので、仕方なくサスケに同意を求めてみる。</p><p>耳をピコピコさせながら、 何が？ と言わんばかりに振り向くサスケ。彼は賢いし、何かと色々通じてる気分にはなるが、話し相手にはならないのだ。</p><p>ケイは苦笑して、サスケの耳の後ろを掻いてやった。</p><p>サスケは嬉しそうに目を細めていた。</p><p>寒風から身を守るように革のマントを羽織り直しながら、深呼吸してみる。</p><p>冷たい空気が肺に流れ込んで、酸素を取り込んだ熱い血潮が、全身を駆け巡っているのを実感する。</p><p>ああ―自分は確かに、この世界に存在して、生きている。</p><p>（忘れていたな、この感覚を）</p><p>ゲーム DEMONDAL の中では、天気を心配したことなんてなかった。せいぜい雨が降ったら視認性が悪くなるとか、特定のモンスターが見つかりにくくなるとか、その程度で、 寒くて風邪を引くかもしれない なんて懸念は皆無だった。</p><p>そもそも、『寒さ』が存在しなかった。どれほどリアルに近い感覚を標榜していても、プレイヤーに苦痛を与えかねない感覚はオミットされていたのだ。だから雪山でも、火山の火口でも、ゲーム内はいつも穏やかで、暑くもなく寒くもなく―それが当たり前だった。</p><p>まるで病院の無菌室みたいに。</p><p>今の自分とゲームの自分。どっちが快適か？　と問われれば後者だ。</p><p>だが戻りたいか？　と問われれば、否。</p><p>今の方がいいに決まっている。明日の天気とか寒さとかを、リアルに悩める贅沢。そのありがたみを―自分は今一度、噛みしめるべきだな、とケイは自戒した。</p><p>贅沢になってしまったと嘆くことができる。それ自体が、すでに贅沢なのだ。</p><p>よし、気持ちを切り替えていこう</p><p>こうして独りで物思いに耽っていると、転移した直後のことを思い出す。あのときの自分に比べれば、今の自分はかなり―明るくなっていると思う。前向きで、人生を楽しむことを知り始めていると思う。</p><p>常に上り調子の人生なんてない。そうだろう？　今は不満があったり苦しかったりするかもしれないが、これを乗り越えたら幸せな家庭が待っている。</p><p>せいぜい、飛竜狩りをそつなく終えて、辺境の都市ガロンでお土産を買い込んで、サティナまで凱旋しようじゃないか。そして、そのときには、ちょっとお腹が大きくなっているであろうアイリーンに、ただいまのキスをする。</p><p>その日を夢見て頑張ろう。</p><p>もうちょっと狩るか</p><p>まず目の前のことからコツコツと。血抜きしたウサギを鞍にくくりつけたケイは、少しでも夕食を賑やかなものにするべく、再びサスケにまたがった。</p><p>―それから狩りを終えて義勇隊に戻ると、隊長の正規軍人フェルテンが待ち構えていた。</p><p>おお、ようやく戻ったか</p><p>ケイの姿を認め、あからさまにホッとした様子のフェルテン。</p><p>何か用事が？</p><p>聞いて驚け。なぜか参謀本部からお前に呼び出しがあった</p><p>その言葉に、ケイはマンデルや義勇隊の面々と顔を見合わせた。</p><p>俺……何かやっちゃいました？</p><p>知らん</p><p>恐る恐る尋ねるケイに、にべもなく答えるフェルテン。</p><p>まあ、呼び出しというか、面会というか。アレだ、お前は公国一の狩人だからな。俺たち有象無象とは違って、お偉いさんも何ぞ話を聞きたがっているのかもしれん</p><p>皮肉げに口をへの字に曲げて、フェルテンは鼻を鳴らした。</p><p>とにかく、これが召喚状だ。昼飯休憩時に出頭しろとのことだ</p><p>ケイの手に書類を押し付けたフェルテンは、 確かに渡したぞー とひらひら手を振りながら去っていった。</p><p>……どうしよう？</p><p>そりゃあ、ケイ。……出頭するしかない</p><p>マンデルが、羽飾りのついた帽子を目深にかぶり直しながら、肩をすくめて言う。</p><p>お偉いさん相手とか、俺、何を話せばいいのかわかんないんだが</p><p>安心しろ、ケイ。……おれもわからない</p><p>マンデル……</p><p>呼び出しを受けたのはケイだぞ。……おれではない</p><p>つっと目を逸らすマンデル。ケイは助けを求めて周囲を見回したが、皆、白々しく 今日は冷えるなー 骨身にしみる寒さですねー などと雑談していて、こちらを見向きもしない。</p><p>…………</p><p>孤立無援であることを悟ったケイは、手の中の召喚状に視線を落とし、手負いの獣ような唸り声を上げるしかなかった。</p><p>†††</p><p>そのまま昼休憩になってしまったので、手早くビスケットと干し肉だけを詰め込み、ケイは参謀本部がある天幕へ赴いた。</p><p>長く伸びた軍隊の中間あたりには貴族や軍の高官が多く、馬車や色とりどりの天幕が展開されている。行軍中だというのに、メイド付きでティーセットを広げてお茶を楽しむお偉いさんの姿まで散見された。</p><p>まるで別世界だ―自分がここにいることの違和感がすごい。</p><p>そして、召喚状を持ってきたはいいが、具体的にどの天幕に顔を出せばいいのかがわからない。</p><p>あの、悪いんだが</p><p>通りすがりの、比較的人が良さそうな軍人に声をかける。</p><p>なんだ</p><p>呼び出しを受けたんだが―</p><p>召喚状を見せると、その軍人はケイと書面を二度見して、狐につままれたような顔をした。</p><p>お前が？　これを？　……すごいお偉いさんに用があるんだな</p><p>俺には用がないんだが</p><p>ああ……なるほど。まあ、そういうこともあるか</p><p>何やら察したらしい軍人は、同情の色を浮かべる。</p><p>案内してやろう。くれぐれも失礼のないようにしろよ―他ならぬお前自身のためにな</p><p>『召喚状で呼ばれてきた。俺の名はケイイチ＝ノガワだ』……こんな感じか？</p><p>その場で仰々しく一礼しながら言ってみせると、軍人は、食料庫ですっかりカビに覆われたチーズでも見つけてしまったような、何とも言えない表情を浮かべた。</p><p>もうちょっと、こう、言い方があるだろ。……『本日はお招きに預かり光栄至極、狩人の○○、参上仕りました』くらいは言え</p><p>ケイは英語の細かいニュアンスがよくわからなかったが、少なくとも自分の脳みそでひねり出した直訳より、よっぽど気の利いた言い方であることはわかった。</p><p>『本日はお招きに預かり光栄至極、狩人のケイイチ＝ノガワ、参上仕りました』</p><p>よし、それでいい。……多分な</p><p>助かったよ、ありがとう。見ての通り異邦人でな、言葉の違いに苦労してるんだ</p><p>なぁに、まだよく喋れてる方さ。ほれ、ここがお前の目的地だ</p><p>数ある中でも、指折りに良質な布地の天幕を顎で示して、軍人が言った。</p><p>あっ！　そうだ、お前に礼儀作法を教えたのが俺だってことは言うなよ。万が一、失礼があった場合は責任を取り切れんからな……</p><p>軍人が真面目くさった口調で釘を刺してくる。</p><p>俺は田舎者だからな</p><p>ケイも空とぼけた調子で応じた。</p><p>誰(・)に(・)作法を教わったかなんて、もうすっかり忘れてしまったよ。俺のマナーの先生は、恩知らずな生徒だと怒るかもしれないな</p><p>安心しろ。きっとお(・)前(・)の(・)先(・)生(・)は、そんなことで腹を立てるほど狭量な奴じゃないさ……多分な</p><p>ケイと軍人は顔を見合わせて、ニヤッと笑ってから別れた。</p><p>さて。</p><p>天幕だ。</p><p>入り口には物々しく、槍を携えた警備兵の姿まである。どうにも気が重い……</p><p>警備兵に召喚状を渡すと、 拝見します と受け取ったひとりが、天幕の中に引っ込んだ。</p><p>ケイチ＝ノガワが出頭したようです</p><p>よし</p><p>ガシャンガシャンと金属鎧の音が近づいてきた。</p><p>来たか</p><p>ヌッ、と天幕の薄暗闇から、ガタイのいいフル装備の騎士が姿を現した。目的地はまだ遠い行軍のさなかだというのに、この重装備……薔薇の花や蔓、駆ける馬などの装飾が施されたかなり高級な鎧であり、身分の高さを窺わせる。</p><p>入れ、ケイチ＝ノガワ</p><p>クイと手招きする騎士。バイザーを下ろしているせいでその顔は見えない。しかしこのつっけんどんな、堅苦しい声……どこかで聞いたことがあるような……</p><p>こちらに御座(おわ)すは、飛竜討伐軍の総指揮官アウレリウス公子―</p><p>―まさか公子その人がいるのか！？　と目を剥きそうになるケイだったが、</p><p>―の、後見人たる公国宰相ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー閣下だ</p><p>なんだ公子じゃないのか……</p><p>（いや、公国宰相！？）</p><p>やっぱり大物じゃないか！！　と目を剥くケイ。</p><p>くれぐれも失礼のないように。いいか。くれぐれも失礼のないように……！</p><p>ズイと顔を寄せて、念押しする騎士。ケイとて決して無礼を働きたいわけではないが、それにしてもそんな人物が自分に何の用だというのか。</p><p>あと、兜の下から響いてくる、真面目が服を着ているようなこの声……やはり聞き覚えがあるような……</p><p>モヤモヤした気持ちを抱えつつも、目線を下げて天幕に入ったケイは、中で椅子に腰掛けて待ち受けるお偉いさん―宰相閣下の靴を視界の端っこに収めて、その場に跪いた。</p><p>本日はお招きに預かり光栄至極、狩人のケイイチ＝ノガワ、参上仕りました―</p><p>めっちゃ手の込んだ絨毯敷いてるなー、などと考えながら、棒読み気味に名乗る。</p><p>……面を上げよ</p><p>厳かな声が響き、ケイは素直に顔を上げた。</p><p>そして今度こそ、目の玉が飛び出そうなくらい驚く羽目になった。</p><p>眼前に腰掛ける、公国の宰相閣下とやら。丸顔に団子鼻、どこか愛嬌のある目元。顔に見覚えがあるとかないとか、そういう次元ではなかった。</p><p>初めて出会ったのは公都の図書館で、銀色のキノコヘアーだった。</p><p>次に出会ったときは、つややかでサラサラな茶色のロングヘアーだった。</p><p>だが今回は。</p><p>もう最初から。</p><p>ツルッとした頭を、丸出しにされておられる。</p><p>『ヴァルグレン＝クレムラート』―その人物は、そう名乗っていたはずだった。</p><p>公都図書館が誇る”大百科事典(エンサイクロペディア)“の著名な編集者の一人であり、希少な癒やしの力を持つ”白光の妖精”と契約する魔術師であり、夜中に開閉できないはずの公都の第１城壁の門を出入りできる『お偉いさん』であり―</p><p>いやでも、まさか、公国宰相とは―</p><p>公国宰相、ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー伯である</p><p>威厳に満ちた表情で、ヴァルグレン―いや、ヴァルターは告げる。</p><p>ケイチ＝ノガワ。此度の参上、大儀であった</p><p>そしてその威厳を崩すことなく、パチンとウィンクした。</p><p>あまりにも久々なので念のため補足しますと、 幕間. Urvan 35. 助言 62. 星見 に出てきた人です。</p><p>今回は装いも新たに登場でした。</p><p>105. 宰相</p><p>前回のあらすじ</p><p>(｀・ω・)　……。</p><p>(｀ゝω・)</p><p>↑公国宰相ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー伯</p><p>くれぐれも、失礼のないように……！</p><p>今一度、押し殺した声が背後から響いてきて、ケイはハッと我に返った。</p><p>まじまじとヴァルグレン―もとい、宰相ヴァルターの顔を凝視していたところ、慌てて視線を逸らす。</p><p>―そしてこの声、思い出したぞ。</p><p>背後に控えている、重装備の騎士。ヴァルグレン氏のお付きの、堅物な騎士っぽいやつだ。騎士っぽいというか実際に騎士のようだが、確かカジトールだかカモミールだか、そんな名前だったはず。</p><p>直答を許す。我が盟友ヴァルグレンより、そなたの話は聞いておる</p><p>厳かな声で、ヴァルターは告げる。</p><p>我が盟友。つまり 別人だから、そこんとこよろしくね というわけだ。この場においてヴァルターは公国の重鎮。いかに図書館や天体観測などで親しくさせてもらっていたケイでも、馴れ馴れしく振る舞うことは許されない―</p><p>ははーっ！</p><p>どう答えていいかわからなかったので、さらに一礼するケイ。</p><p>聞けば、そなたの妻は身重だそうだな。大事な時期に家をあけるのは辛かろう</p><p>そこまで知られている、という事実に、ケイはおののいた。これがヴァルグレン氏なら、 よくご存知で！ とびっくりするくらいで済んだろうが、宰相にまで近況を把握されているとなると、酷く落ち着かない気分になる。</p><p>（第一『辛い』も何も、お上(あんたら)の都合で家をあける羽目になったんだが）</p><p>そう思いながら、チラッとヴァルターの顔色を窺うと、相変わらず厳(いかめ)しい顔だったが、その瞳にはちょっとだけ申し訳無さそうな色もあった。</p><p>……はっ。赤子のため、大好きな酒を断って苦しんでいるようです</p><p>相槌を打つだけでは芸がないので、少しだけ言及しておく。ヴァルターが、真面目な表情はそのままに、 んフッ と小さく笑った。</p><p>オホン</p><p>背後でわざとらしく、騎士が咳払い。（やれやれ、おちおち世間話もできんな）とばかりに、口をすぼめるヴァルター。</p><p>……さて、此度そなたに来てもらったのは、他でもない。狩猟に関してだ</p><p>どうやら本題に入るらしい。椅子に座り直すヴァルター。</p><p>（狩猟？　やはり何かまずかったか……？）</p><p>隊から離れて、積極的に夕飯の献立を豊かにしに行っていることだ。一応、時間内に戻ってくる分には、そして成果を上げる分には、許可されているはずだが。</p><p>というより、なぜ一般狩人に過ぎない自分の動向が、こんな上層部にまで把握されているのか……。</p><p>そなたほどの狩人であれば知っておるやもしれぬが、このあたりから辺境ガロンにかけての地域は、猛禽類が非常に多い</p><p>突然始まる鳥類の話に、ケイは面食らった。</p><p>だが―内容については理解できる。あくまでゲームとしての DEMONDAL での話だが、このあたりのエリアは大型猛禽類の宝庫として知られており、ケイのような弓使いのプレイヤーには人気の狩猟スポットでもあった。</p><p>『こちら』に転移して以来、専ら食用のウサギや鳥を狩るばかりで、猛禽類はスルーしていたケイだが、ゲーム内では全鳥類の羽根をコンプリートすべく、目を皿のようにして猛禽類を探し、超レアなアルビノなんかを見つけた日にはテンション爆上がりしていたものだ。</p><p>そして、公都ウルヴァーンと我らが飛竜討伐軍の間では、伝書鴉(ホーミングクロウ)によって定期的に連絡が取られている……</p><p>少々もったいぶった口調で、ヴァルターは続ける。</p><p>話がちょっと見えてきた。</p><p>無論、複数の伝書鴉を運用することで、不測の事態には備えてはあるが……此度の栄えある飛竜狩りで、まかり間違って公子殿下のお心を煩わせることは許されぬ。故に我ら臣下は、ありとあらゆる可能性を想定し、万全を期さねばならないのだ</p><p>そこで、そなただ―と身を乗り出すヴァルター。</p><p>この飛竜討伐軍において、そなたを”Archducal Huntsman”に任命する</p><p>アークデューカルハンツマン……！？</p><p>オウム返しにするケイ。</p><p>意味がわからない。</p><p>ヴァルターの言動が意味不明、というわけではなく、単純に、単語の意味がわからない……！！</p><p>おおいに焦るケイをよそに、背後の騎士がつかつかと歩み寄ってきて、何やら書類じみたものを差し出してきた。</p><p>羊皮紙に長々と文言が書き込まれており、大きめの身分証のようにも見える。文末には、おそらくヴァルターのものと思しき署名。</p><p>辞令だ。身分証も兼ねているので、紛失しないように</p><p>つっけんどんな口調で、ケイの手に書類を押し付けてくる重装騎士。</p><p>現時点をもって、そなたは原隊を離れ、飛竜討伐軍の行動範囲内において、そなたの裁量で行動する権限を得た。そなたの任務は、付近一帯の伝書鴉の障害となりうるものを排除し、通信の安全性をより高めることである</p><p>ここで、おどけたようにヴァルターが口の端に笑みを浮かべる。</p><p>そなたほどの狩人であれば、猛禽と伝書鴉を見間違えることもあるまい？</p><p>……はっ！　それだけはありえません</p><p>ケイにとっては、赤と青を区別するくらい簡単だ。</p><p>よろしい。……無論、そなたが全力を尽くしたところで、軍そのものが移動しつつある都合上、全ての障害の排除は難しかろう。万が一、不測の事態が発生したとしても、ただちにそなたの責を問うことはない。いずれにせよ、たとえ微々たる影響しか及ぼさぬとしても、我らは万難を排す覚悟で臨まねばならないのだ</p><p>要約すれば、伝書鴉が途中で襲われたら面倒だから、ここら一帯の猛禽類を事前に狩っておいてね。でも流石に狩り尽くすのは難しいだろうし、万が一不測の事態が起きても、全部が全部きみの責任にはならないから安心してね。ということだろう。</p><p>また、狩りの成果を提出すれば、そなたの献身に報いるだけの追加報酬は出そう。詳しくはその者に聞くように</p><p>重装騎士を示しながら。</p><p>追加報酬！　思っても見なかった話だ。公国宰相が直々に持ちかけてきた案件で、はした金ということはあるまい。</p><p>……はっ！　ありがたき幸せ！</p><p>現金なもので、（ボーナスタイムだ！）と喜びながら一礼するケイ。</p><p>どちらかといえば、こちらがメインかもしれない、という気がした。アイリーンが妊娠中なのに呼び出してしまったことに対する埋め合わせなのだろう。</p><p>うむ。武闘大会での活躍は聞いておる。そなたほどの狩人がおれば我らも心強い、期待しておるぞ。……そして、我が盟友ヴァルグレンより、よろしく、と</p><p>付け足された言葉は、優しく響いた。</p><p>さがってよい</p><p>ははっ……！</p><p>ケイはもう一度ヴァルターの顔を見てから、深々と頭を下げ、その場を辞した。</p><p>薄暗い天幕から日なたに出ると、まるで別世界から帰ってきたような気分だ。</p><p>報酬についてだが</p><p>一緒に出てきた件の重装騎士が、付近の大きな天幕と、その横の大きな竜の旗を掲げた馬車を指差す。</p><p>あちらの参謀本部に狩りの成果を持っていけば、都度、相応の銀貨が支払われる</p><p>おお……！</p><p>破格。破格の報酬といっていい。</p><p>ケイの能力なら、金貨を稼ぐのだって夢じゃない。</p><p>その他、細々とした注意点や、成果を提出しに来るのに向いている手すきな時間帯などを教えてもらう。</p><p>何から何まで、大変ありがとう。ええと―</p><p>この騎士の名前。</p><p>（カモミールなら、流石に特徴的すぎて覚えているはずだ。であれば―）</p><p>消去法的に考えたケイは、</p><p>ありがとう、カジトール卿</p><p>愛想よく笑顔で言う。</p><p>私の名はカジミールだ</p><p>カシャッ、とバイザーを跳ね上げた騎士―カジミールは、ケイの記憶にある通りの、堅物が服を着ているような不機嫌な仏頂面で応じた。</p><p>あっ、それは、失礼を……ええと、それではごきげんよう</p><p>ケイは逃げるようにして、その場をあとにした。</p><p>（何はともあれ、自由の身になったことだし……）</p><p>懐に、大事にしまい込んだ書類。</p><p>（単語の意味もよくわからないし、ここはバイリンガルを頼るか）</p><p>彼(・)の様子も気になっていたので、ちょうどいい。</p><p>この飛竜討伐軍に、サティナの軍団の一員と同行している、もう一人の顔見知り。</p><p>“流浪の魔術師”こと同郷の日系人・コウに会いに行くべく、ケイはサティナの旗印を探し始めた。</p><p>106. 同郷</p><p>前回のあらすじ</p><p>(｀・ω・) そなたを”Archducal Huntsman”に任命する！</p><p>(；゜Д゜) 何ですかそれは！？</p><p>ウルヴァーン本隊のあとには港湾都市キテネの軍団が続いており、サティナの軍団はどうやら殿(しんがり)のようだった。</p><p>港湾都市キテネは、文字通り沿岸部に位置する。ここまで遠路はるばる歩き通しのキテネの軍団は、曇天のもと、砂埃にまみれていることもあって、お疲れムードを漂わせていた。</p><p>休憩時なので、今は殊更だらけているのもあるかもしれないが、こんな調子で辺境のガロンまで大丈夫なのか、他人事ながら心配になる。</p><p>それに対し、サティナの兵士たちは、まだ出立したばかりで元気そうだ。仲間に囲まれて踊るお調子者や、何やらレスリングじみた運動に興ずる者たちまで。</p><p>おっ、“地竜殺し”だ！</p><p>よーう、調子はどうだい！</p><p>今(・)回(・)も頼りにしてるぞー！</p><p>サティナの面々には広く顔を知られているケイは、行く先々で気さくに声をかけられた。</p><p>おかげさまで元気さ。領主様お抱えの”流浪の魔術師”殿に用があるんだが、どこにいるか知らないか？</p><p>快く応じながら、コウを探す。</p><p>聞けば、お抱え魔術師たちは皆、専用の馬車を割り当てられているらしく、そちらを目指すことにした。青い旗を掲げた馬車の群れ。訪ねて回ることしばし―</p><p>『やあ、ケイくん。数日ぶりだね』</p><p>お目当ての馬車が見つかった。いかにも魔術師らしいローブを身にまとう、どこかくたびれた雰囲気を漂わせる日系人。</p><p>“流浪の魔術師”こと、コウタロウ＝ヨネガワだ。</p><p>『どうも、こんにちは』</p><p>会釈しながら、母国語のありがたみが身にしみる。先ほど未知の単語で焦りまくっただけに、なおさらだ。</p><p>『義勇隊(そっち)はどんな感じ？　あ、上がってよ、狭いけど』</p><p>こじんまりとした馬車の扉を開いて、手招きするコウ。</p><p>『お邪魔します』</p><p>特に気負うことなく乗り込んだケイだったが―</p><p>こんにちは</p><p>思わぬ先客の姿に、固まってしまった。……狭い馬車には、コウの他、もう一人顔見知りの女性がいたからだ。</p><p>こ、こんにちは。ヒルダさん</p><p>挙動不審になりながらも、どうにか挨拶を返す。</p><p>黒を基調に、メイド服をベースにしたような旅装の、上品な女性。それはコウが身を寄せる、サティナの領主邸宅で度々世話になっていた、使用人のヒルダだった。</p><p>ＶＩＰ待遇の魔術師に使用人がついているのは、何もおかしいことではない。だが女性が？　しかも狭い車内で二人きり？　もしかして自分はお邪魔虫だったのでは、しまった出直すべきか―</p><p>そんな思考がグルグルと巡るケイをよそに、コウとヒルダはごく自然体で、 悪いけどお茶をお願いできるかな、ヒルダさん かしこまりました、コウ様 と言葉をかわしている。</p><p>では、用意して参ります</p><p>ケイと入れ替わりに、馬車を出ていくヒルダ。</p><p>ふぅ、と溜息をついて座席に背を預けるコウと、何をどう言ったものか迷うケイ。</p><p>『えーと……リア充爆発しろ？』</p><p>『既婚者がそれ言う？』</p><p>二人は顔を見合わせて、困ったように笑いあった。</p><p>『びっくりしました。まさか……“丘田(おかだ)さん”がここにいるなんて』</p><p>頭に手をやりながら、馬車の外を見やってケイは言う。</p><p>丘田というのはコウが発案したヒルダのあだ名だ。丘は英語でHill、そこに田を足して丘田(ヒルダ)。日本語で会話しても固有名詞はそのままなので、本人に聞かれてもバレないように言い換えている。</p><p>『僕もねえ、まさか彼女がついてくるとは思ってなかったよ』</p><p>コウも戸惑いがちに答えた。</p><p>『大丈夫なんですか？　こんな行軍についてくるなんて、何というか、その……』</p><p>『妙齢の美人メイド、おっさん魔術師、狭い馬車で二人きり。何も起こらないはずがなく……ってな感じかい？』</p><p>おどけたようにお手上げのポーズを取ってみせるコウだったが、がっくりと肩を落として溜息をつく。</p><p>『実際ねえ。領主様が彼女を寄越してきたのは、そ(・)う(・)い(・)う(・)意(・)図(・)があってのことだと思うよ。自分で言うのもなんだけどさ、僕ってほら、最前線に配置される可能性が高いから……』</p><p>『うわー、やっぱそうなんですか……』</p><p>コウは氷の魔術師であり、“飛竜(ワイバーン)“のブレス―火炎放射への数少ない対抗策でもある。攻城兵器や前線指揮官を守るため、攻撃部隊の中心に据えられるのは、まず間違いない。</p><p>言うまでもなく危険な役割だ。訓練を受けている戦士でもなし、いつ臆病風に吹かれて逃げ出してもおかしくない。そして、いわゆる由緒正しき家々出身の魔術師とは違い、流れ者であるコウには社会的に縛るものがない。</p><p>―なら、縛っちゃえ。</p><p>つまり、そういうことだろう。ヒルダは上級使用人で、本人は授爵こそしていないものの男爵家出身だったはず。</p><p>飛竜討伐軍に派遣され、しかも流れ者の異邦の男性に仕えさせられている時点で、けっこう酷い扱いだが―そんじょそこらの一般人ではない。お手つきにしてもいいから頑張ってね、という領主側の無言の圧力を感じた。</p><p>『まあ……正直なところ、彼女がいてくれて助かってるのは事実だ』</p><p>コウは極めて渋い顔で認める。</p><p>『何せ、こんな馬車に缶詰じゃロクな娯楽がなくってね……』</p><p>『……えっ、まさか……』</p><p>『……ああいや違う違う、そういう意味じゃない！』</p><p>やはり自分はお邪魔虫だったのでは―とビビるケイに、一拍置いて、語弊を招く言い方であったこと気づいてコウが慌てて手を振った。</p><p>『そうじゃなくて！　話し相手とか、遊技盤(チェス)の相手とか、そういうことだよ！』</p><p>バッ、と折りたたみテーブルの上の、遊びかけの盤面を指差すコウ。どうやら一局指している途中だったらしい。</p><p>『彼女とは健全な関係だから！　まだ手は出してないから！』</p><p>『ま(・)だ(・)……？』</p><p>『あっ、いや、その……』</p><p>コウは深く溜息をついて、座席に沈み込んだ。</p><p>『……ケイくん、こんな密室でさ。向こうがその気だったら、男ができる抵抗なんてたかが知れてるよ……』</p><p>『まあ、もちろん、気持ちはわかりますが……あっ、自分は、決して非難してるわけじゃないんで、悪しからず。むしろ仕方ないっつーか』</p><p>『そう言ってもらえると助かる。既婚者という点も心強いね』</p><p>『いやー言うて自分は恋愛結婚ですんで……相手も国籍こそ違えど同郷ですし』</p><p>『ン……まあそうなんだけどさ……』</p><p>頬杖をついたコウは、おもむろに盤面の女王(クイーン)の駒をつまみ、コツンと魔術師(ビショップ)を小突いた。</p><p>どうやら磁石が仕込んであるらしく、グラッと揺れるものの、倒れまではしない。まあ、移動中に馬車が揺れることを鑑みれば、これぐらい強度がなければ遊べたものではないだろうが。</p><p>『単純な色仕掛けなら、どうにか耐えられるんだけどね。四六時中一緒で同情を引くような言動を取られると、僕はそういうのに弱いんだ……時間の問題だよ……』</p><p>『アレな聞き方になりますけど、寝るときも一緒なんです？』</p><p>『拒否したら彼女だけ外で野宿』</p><p>ケイのあけすけな質問に、肩を竦めてみせるコウ。</p><p>ああ、……とケイは唇を引き結んだ。コウはそういうのに弱いタイプだ―</p><p>『……正直なところ、事実関係は抜きにしても、床を共にしちゃった時点で丘田さんの嫁入り先は限定されるでしょうし……責任を取った方が楽になれるのでは』</p><p>ケイの容赦ない意見に、コウは両手で顔を覆った。</p><p>『そうだよね……そうなるよねぇ……』</p><p>そのとき、神妙な顔をしながらも、ケイは思う。ケイとアイリーンもことあるごとにアレコレ言われたものだが、確かに、他人のこういう話題は楽しい……！　コウには気の毒だが。</p><p>影の魔道具でアイリーンと通信するとき、話のネタができた。</p><p>『ちなみに、肝心の丘田さんはどんな感じで……？』</p><p>『……言い渡されたお役目とはいえ、実は、前々からお慕いしていました……みたいなことを囁きかけてくる。でもさ、こんな外人のおっさんに、良家の娘さんが恋するなんて、そんな恋愛小説でもあるまいし……僕に少しでも気に入られようと、心にもないこと言ってるんだろうなぁ、と考えたら気の毒で気の毒で』</p><p>『あ～……』</p><p>いずれにせよ、その台詞は遺憾なく効力を発揮しているわけだ……。コウの陥落はそう遠くないな、とケイは思った。コウを狙っているであろう、もうひとりの同郷、豹耳娘(イリス)には気の毒だが。</p><p>お待たせしました、お茶をお持ちしました</p><p>と、金属製のポットとカップを手に、ヒルダが戻ってきた。</p><p>ありがとう、ヒルダさん。いつもすまないね</p><p>コウが座り直しながら、何事もなかったように穏やかな笑みを浮かべる。ヒルダも自然に微笑み返し、お茶の用意をしながら、コウの隣に楚々と腰掛けた。</p><p>いえいえ。ケイさんも、どうぞ</p><p>ありがとうございます</p><p>お茶を受け取りながら、（なんかもう長年連れ添った夫婦みたいな距離感だな）とケイは呑気なことを思った。</p><p>『こんな外人のおっさんに』とコウは卑下していたが、……まあヒルダが恋(・)し(・)て(・)いるかは別にしても、傍から見る分には、案外まんざらでもないんじゃないか、という気がした。</p><p>コウは言うまでもなく、この世界ではトップクラスの魔術師だ。しかも希少な氷の精霊との契約者。冷蔵庫は作る先から飛ぶように売れていくし、その他、高度な魔道具だって何でもござれ。出自なんて関係なく、才覚だけで新たに家を興せるレベルの男だ。</p><p>しかも、こう見えてかなりの杖術の使い手でもあるので、ゲーム由来の肉体はほどよく鍛えられている。ゲーム内では熟練プレイヤーから初心者まで容赦なく殴り殺す無法者だったが、現実では思いやりのある紳士で、女性にも優しい。</p><p>翻ってヒルダ。女性にしては背が高く、割とがっしりめの体格をしている。顔立ちは凛々しいタイプの美人、それでいてその所作は柔らかく上品だ。聞けば、海原語(エスパニャ)と高原語(フランセ)を話せ、雪原語(ルスキ)さえも学んでいるとか。意志の強そうなキリッとした瞳は、彼女の豊かな教養と知性を覗わせた。</p><p>そんな、男爵家出身の才媛なのに、飛竜狩りに派遣されたり、異邦人に仕えさせられたりと、扱いが雑なのが気になるところだが―それだけ領主側がコウを重視しているというポーズなのか、それともヒルダの実家での立場がそんなに良くないのか。</p><p>いずれにせよ、ヒルダの立場から見ると、コウはかなりの優良物件だと思う。</p><p>ふと、対局中のチェス盤に視線を落とすと、―ケイは決して優れたチェスプレイヤーではないが―かなり白熱した戦局であるように思われた。というか、おそらくヒルダ側が押している。</p><p>コウに忖度することなく、いい勝負をしても大丈夫、そんなことでヘソを曲げられることはない、とヒルダが安心して指せる程度には、信頼関係があるわけだ。</p><p>（―割とお似合いなのでは……？）</p><p>行儀よくお茶を口にしながら、そんなことを考えるケイ。</p><p>『ところで、僕に用事でもあったのかい？　少し焦ってるようにも見えたけど。長々と喋っておいてなんだけどさ』</p><p>改めて日本語で、そして話題もさっぱりと切り替えて、コウが話しかけてきた。</p><p>いくら言葉を聞き取られる心配がないとはいえ、本人を前に、センシティブな会話ができるほど豪胆ではない。ケイも、コウも……。</p><p>『ああ、それなんですが……実は先ほど、宰相閣下に呼び出されまして』</p><p>『誰に呼び出されたって？』</p><p>『宰相閣下です』</p><p>『さいしょうかっか……？』</p><p>コウが首を傾げている。日本語が流暢なので忘れがちだが、彼は英国育ちで英語がメインなので、日常的に使わない日本語は通じないことがある。</p><p>『Chancellorです。Chancellor His Excellency』</p><p>『えっ、あっ、さいしょうってその宰相か！』</p><p>コウはびっくりしているし、その隣でかしこまっていたヒルダも、突然の理解可能な思わぬ単語に驚いている。</p><p>『ほえーなんでまた？』</p><p>『それがなんか……新しい役目を俺に与えるとかで……Archducal Huntsman？　とかいうのに任命されたんですが、意味がよくわからなくて』</p><p>コウに書類を差し出しながら、ケイ。</p><p>ざっと目を通したコウは、 あー と声を上げた。</p><p>『確かにそういうことが書いてある。Archducal Huntsmanは、日本語で言うなら……そうだな……、なんて言えばいいか』</p><p>あっという間に読み終わって、自然に隣のヒルダにも紙面を見せながら、考え込むコウ。ヒルダも書類を一瞥して、 わあ、おめでとうございますケイさん などと言ってきた。</p><p>『Archdukeが、この国の王様、つまり大公って意味なんだ。Archducalは『大公の』という形容詞で、キングに対してのロイヤルみたいな単語なんだけど』</p><p>ここが公国じゃなくて王国だったら、ロイヤルハンツマンだったというわけだ。</p><p>『ああ、なんとなくわかりました。王様お抱えの狩人的な』</p><p>『そうそう。なんかなー、これを言い表すのに、何かいい感じの日本語があった気がするんだけど。王に近いエスコートみたいな単語で……ちか……ごえい……ああそうだ、近衛だ！　近衛狩人ってとこかな』</p><p>『このえかりうど』</p><p>強そう。</p><p>ヒルダさん、この役職について何か知ってる？</p><p>英語に切り替えて、コウが尋ねる。</p><p>はい。確か、公王陛下直轄の森や狩猟場において、管理維持を任される役人だったと記憶しています。特例的に、この飛竜討伐軍において、それと同等の権限を与える旨が記されていますね</p><p>ははぁ、なるほど……それで、権限とはどんなものが？</p><p>申し訳ありません、具体的な法規までは。ただ、聞きかじった話ですが、公王陛下主催の狩猟会で、警備のため近衛狩人が１００人ほどの兵士を率いたことがあるそうで、裁量は軍の百人長と同等ではないかと。狩猟に関することに限る、と条件はつくでしょうが</p><p>しかし、なんだってケイくんが任命されたんだい？</p><p>それがですね……</p><p>ケイが伝書鴉の安全確保のため、障害となるものを片っ端から狩るよう要請されたことを説明すると、ふたりとも なるほど と感心していた。</p><p>『つまり、軍団長とか高位の貴族とかに絡まれない限り、通信の保全をタテに干渉を突っぱねられるだけの権限を付与しつつ、それでいて軍への指揮権は持たないという絶妙な采配だねこれは』</p><p>『ははぁ、そんな意図が……つまり、勝手に狩りしてていいよ、というお墨付き以外の何物でもないってことですかね』</p><p>『身も蓋もない言い方をするなら、そうだね』</p><p>コウに太鼓判を押されて、ケイはようやく安心したように座席に身を預けた。</p><p>『良かった。これでホッとしましたよ、自分が何になったのかわかんなくて……』</p><p>『言葉がわからなかったらそうだろうね。僕だって急に宰相に呼び出されて、お前を近衛狩人に任命する！　とか言われたらビビるもん』</p><p>おどけたコウの言葉に苦笑しつつ、お茶を一口。今更のように、旅の道中でありながら、香り高い高級なお茶であることに気づいた。</p><p>味わう余裕もありませんでした。おいしいです</p><p>それはよかったです</p><p>ヒルダもくすくすと笑っている。</p><p>さて、それじゃあ、自分はそろそろ失礼します。せっかく任命されたんで、役目を果たさないと。コウさん、改めてありがとうございました</p><p>いやいや、お役に立ててよかったよ。あんまり根を詰めないようにね……といっても、きみは狩り好きだから、むしろ楽しめるかな？</p><p>はは、実は猛禽を一羽狩るごとにボーナスがつくんですよ</p><p>ケイがニヤリと笑って指で輪っかを作って見せると、コウもヒルダもからからと笑っていた。</p><p>そりゃあいい。じゃあ、頑張っておいで</p><p>はい。ヒルダさんも、美味しいお茶をありがとうございました</p><p>いえいえ。精霊様の御加護がありますように</p><p>そんなわけで、ケイは馬車をあとにした。</p><p>チラッと振り返れば、中でコウとヒルダが何事か話しているのが見える。</p><p>ケイが去ったというのに、ヒルダは隣りに座ったまま。</p><p>『……お似合いだと思うんだよなぁ』</p><p>ふふっと笑いながら小さく呟いて、ケイはコキコキと首を鳴らしながら、元いた義勇隊に戻ることにする。</p><p>ひとまず、マンデルをはじめ仲間たちに事の顛末を伝えてから、『近衛狩人』としての任務を果たしにいくことにしよう。</p><p>……銀貨のボーナスも、欲しいことだし。</p><p>107. 一狩</p><p>寒空の下、ウサギが一羽―</p><p>草原の只中で、耳をピクピクさせながら草をはんでいる。</p><p>周囲を警戒しているつもりなのだろう。だがそのウサギは、自らがどれほど危機的状況にあるかを、まるで理解していなかった。</p><p>ウサギから、三十歩ほどの距離。</p><p>サスケにまたがるケイの姿があった。</p><p>ウサギも、ケイの存在は認知していた。 だけどこれくらいの距離があれば大丈夫だろう、人間は鈍いし とでも思っているようだった。その手の”竜鱗通し”が何なのかを、ウサギは理解できない。そこにつがえられた矢の意味も。</p><p>ケイがウサギを捕捉してから、かれこれ数分が経っていた。もしもケイがその気であれば、ウサギは既に四、五百回は死んでいただろう。比喩表現や誇張ではなく統計的な事実として。</p><p>だが、ウサギは今も生きながらえている。</p><p>なぜか？　それはケイがちらちらと空を見上げていたからだ。</p><p>何かの様子を―タイミングを計るように―</p><p>フッ、とウサギに影がさした。</p><p>音もなく、まるで流星のように、猛禽が舞い降りてきたのだ。</p><p>それは鷲(ワシ)だった。翼は広げれば優に二メートルを超えるであろう大物。胴体は茶と灰色のまだら模様で、頭の部分だけが初雪のように白い。頭部には冠状の羽毛を生やしており、まさに空の王者といった風格を漂わせていた。</p><p>ぎらりと、大振りな爪を光らせて―呑気に草をはんでいたウサギを狙う。果たして獲物は、弾かれたように逃げ出した。『脱兎のごとく』と言葉になるだけあって、それはもう見事な逃げっぷりを披露する。</p><p>だが、その全力の疾走も、天空から襲い来る捕食者の羽ばたきには、わずかに及ばない―鋭い爪がウサギの背を抉る―</p><p>と、思われた瞬間。</p><p>カァン！　と唐竹を割るような快音。</p><p>鷲の爪は届かなかった。ドチュンッと水気のある音を立てて、必殺の一矢がその身を貫いたからだ。空の王者は一転、獲物と化し、それでいて地に堕ちるより先に空中で散った。</p><p>あわやというところで、九死に一生を得たウサギ。</p><p>―が、鷲を貫いた程度で”竜鱗通し”の矢が止まるはずもなく。</p><p>そのまま直線上にいたウサギにも襲いかかった。</p><p>―キュィッ！</p><p>断末魔の叫びじみた悲鳴とともに、矢を受けたウサギがひっくり返る。</p><p>よしっ</p><p>当然のように、一石二鳥ならぬ一矢二羽をキメたケイは、ご満悦でサスケから飛び降りた。心なしか弾む足取りで、成果をチェック。</p><p>鷲は首の付け根あたりを貫かれ、即死だった。それでいて肉体の損傷は最小限に抑えられており、さぞかし立派な剥製になるだろう。</p><p>そして、ウサギも虫の息。サクッととどめを刺して血抜きを始める。</p><p>うーむ、もういなさそうだな</p><p>空を見上げて、 こんなもんか と頷くケイ。近寄ってきたサスケの鞍に、立派な鷲をくくりつける。</p><p>一日の稼ぎとしては充分だろ。今日はこれくらいにしておくか</p><p>続いてウサギもくくりつけ、サスケの手綱を引いて歩き出す。</p><p>―くるりと向きを変えたサスケの反対側の鞍には、びっしりと、鷹や鷲といった猛禽類が吊り下げられていた。</p><p>……あ、もうちょっとお土産も狩っとくか</p><p>思い出したように、今しがたウサギの仕留めたばかりの、血塗られた矢をつがえて草原に視線を走らせるケイ。</p><p>―いた</p><p>引き絞って、リリース。</p><p>カヒュンッと軽やかな音とともに矢が飛んでいく。</p><p>そしてまたその先から、 キュイッ！ と短い断末魔の叫び。</p><p>～～♪</p><p>口笛を吹きながら回収に向かうケイ。どことなく呆れたような顔を見せるサスケ、鞍で揺れる無数の獲物たち。『この世界』に来てから、おそらく最大効率で、ケイはその才能を遺憾なく発揮していた。</p><p>革のマントをはためかせる寒風だけが、戦々恐々としているようでもあった―</p><p>†††</p><p>時を遡ることしばし。</p><p>コウと別れたケイは、一旦、義勇隊の皆に事の顛末を伝えることにした。</p><p>おお、ケイ。……生きて帰ったか</p><p>明るい顔で戻ってきたケイに、マンデルはホッとした様子を見せる。</p><p>ああ。どうにか無礼討ちされずに済んだよ</p><p>それは何より。……それで、いったい何の用事だったんだ？</p><p>それがだな―</p><p>かいつまんで説明する。参上したらまさかの宰相閣下だったこと。伝書鴉の通信の保全のため狩りを依頼されたこと。そして近衛狩人なるものに任命されたことなど。</p><p>ほっほう、近衛狩人ですか！</p><p>横で話を聞いていた、ぽっちゃり系の田舎名士の次男坊・クリステンが感嘆の声を上げた。</p><p>知ってるのか？</p><p>ええ、書物で読んだことがあります！　出自に関わらず大変優れた狩人のみが任命される、大変名誉な役職だとか……！</p><p>ほほー</p><p>大物狩りとして既に名誉をほしいままにしているケイは、現時点でさらなる名誉は求めていなかったが、それでも尊敬の眼差しで見られるのは気分が良かった。</p><p>近衛狩人という、なんか強そうな字面も気に入っている。それでいて大仰な名前の割に、大した責任が付随していない点もポイントが高い。</p><p>そういうわけで、俺は義勇隊を離れることになった</p><p>ケイが告げると、マンデルも含めて皆がシュンと悲しげな顔をする。</p><p>そうか。……それは残念だ</p><p>寂しくなるな……晩飯が</p><p>彩りが……</p><p>現金な奴らだ、と思わず苦笑する。</p><p>安心してくれ。何か食えそうなモノを仕留められたら、お裾分けに来るからさ</p><p>ケイの言葉に、パッと表情を明るくする面々。</p><p>よっ、旦那！　太っ腹！</p><p>さっすが公国一の狩人！</p><p>近衛狩人、ばんざーい！</p><p>やんややんや。やっぱり現金な奴らだ、とケイも笑みが溢れた。</p><p>それに、どうせ―</p><p>夜になったら戻ってくるし―と言いかけて、言葉を飲み込んだ。もしかしたら、コーンウェル商会の馬車で厄介になるかもしれないと思ったからだ。</p><p>昨晩、野宿をしてみて気づいたが、アイリーンと影の魔道具で通信しづらい。一般部隊の野宿には、明かりがほとんどないからだ。反対に馬車の近くでは獣避けや防犯のため何かしら火が焚いてあるので、影の魔術を使いやすい。</p><p>さらに、臨時収入でキャンプ用品を増強しても、コーンウェル商会なら馬車に載せてもらえそうなのはデカかった。</p><p>そういうわけで、たぶん、夜はコーンウェル商会の馬車に身を寄せることになる。皆には悪いが……。</p><p>ともあれ、そういうわけさ。隊長殿(フェルテン)にも伝えておいてもらえるか？　問題がありそうなら、俺が書類を見せて直接対応するからさ</p><p>わかったー、頑張れよー、などと皆の声援を背に。</p><p>ケイは意気揚々と”任務”に取り掛かるのであった―</p><p>†††</p><p>―夕方、参謀本部に猛禽類を提出しに行ったら、担当者が目を丸くしていた。</p><p>……こんなに！？　今日一日で仕留めたのか？　嘘だろ……</p><p>木箱に板を敷いただけの簡易机の上に、どっさりと山積みの猛禽類。周囲の軍人がぞろぞろと集まってくる。</p><p>これは見事な鷲だな……</p><p>見ろよこの尾羽根、いい矢になるぞ</p><p>あ～～～これ生きてればなぁ、飼いたかった……！</p><p>感心する者、はしゃぐ者、恨めしげに見てくる者―反応は様々だった。非難がましい視線には肩身が狭い思いをしつつ、報酬の銀貨を受け取る。</p><p>革袋にぎっしり、ずっしり。これは飛竜狩りの”行き”だけで金貨数枚は稼げるな、とケイは確信した。</p><p>少なくとも、狩り尽くさない限りは。逆に帰り道にはあまり期待できないかもしれない。街道沿いの森にはまだ生き残りがいるだろうが、それにしても大幅に数を減らしてしまうだろうから。</p><p>貴様……弓の腕前は大したものだが、全滅させたらタダじゃおかんからな……！</p><p>鷹好きと思しき軍人が、若干血走った目でケイの肩を掴み、唸るようにして言う。 宰相閣下のご命令なので と抗弁しても、理屈が通じそうにない目つきだった。</p><p>いや、これでも若い個体や雌は避けたんだ</p><p>闇雲に狩ったわけじゃない、と主張するケイに、鷹好き軍人が固まる。</p><p>なん……だと……</p><p>振り返ってよくよく見れば、鷹好きゆえに気づいてしまった。机の上に並ぶのは、ほとんどが雄であるという事実に……</p><p>再来年には数は回復するから……たぶん</p><p>さら……ええ……？</p><p>鷹好きが呆然とした隙に、本部を脱出。</p><p>ケイは晴れて自由の身となった。</p><p>銀貨の袋は、ぴっちりと革紐で口が縛ってあり、ポケットにそのまま放り込んでもチャラチャラと音を立てない。</p><p>あからさまに大金を持ち歩くと、懐が寂しい兵士が気の迷いに駆られかねないので非常に助かる。このあたりも、きちんと考えられているんだろう。</p><p>さて……ちょっと行商人たちでも覗いてみるかな</p><p>義勇隊の皆のためにウサギは確保済みだが、せっかく臨時収入もあることだし、何かお裾分けがあってもいいだろう。</p><p>ついでに、コーンウェル商会の馬車に、近くでキャンプを張っていいか打診もしておこうか。ケイなら二つ返事で了承をもらえるはずだ。晩飯は義勇隊の皆と摂ってもいいし、商会にも肉を持っていって、ご相伴に預かってもいい……</p><p>～～♪</p><p>サスケの手綱を引きながら、ケイは自然と、鼻歌交じりに歩いていた。地球で流行っていたポップミュージック―</p><p>（―そして日が沈んだら、）</p><p>曇り空の合間から覗く、夕焼けを見上げてケイは微笑んだ。</p><p>（アイリーンに連絡を取ってみよう）</p><p>おそらくこの世界で初になるだろう、遠距離リアルタイム通信での恋人たちのひとときだ。</p><p>～～～♪</p><p>自然と足取りも軽やかになる。</p><p>その浮かれっぷりたるや、きつく口を縛ってあるはずの銀貨の袋さえ、チャリッと涼やかな音を立てるほどだった。</p><p>108. 交信</p><p>前回のあらすじ</p><p>鷹・鷲・兎</p><p>従軍商人の馬車を巡り、色々と買い物をしたケイはご機嫌だった。</p><p>（やはり買い物はストレス解消になるな……！）</p><p>商品はどれも割高であり、今日の報酬はほぼほぼ使い切ってしまったが、全く後悔していない。</p><p>こんな行軍で、銀貨を後生大事に貯め込んでいても仕方がないのだ。紙幣と違って重いし、嵩張るし、行軍で疲れ果てた兵士たちに妙な気を起こさせるかも知れない。</p><p>第一、どうせ明日になればまた手に入る。</p><p>なら使っちゃえ、そして行軍ライフをより豊かに便利にするのだ……とケイは開き直ることにした。</p><p>まず買い求めたのは、クッションや毛布の類だ。</p><p>いくらサスケを連れているとはいえ、旅にあまり嵩張るものは持ってこられなかったので、ケイの寝具や野営具は最低限に抑えられていた。</p><p>が、実際に野宿してみた思ったが、けっこう寒い。</p><p>諸々の道具を揃えるのに、色々アドバイスしてくれたアイリーンがロシア人であることを失念していた。 ロシア人は寒さに強いんじゃねえ、寒さに負けないようガッツリ着込んでるんだ！ と日頃から豪語していたアイリーンだが、ケイからすれば、やっぱりそこらの日本人より寒さに強い。</p><p>秋口にケイが長袖を着始めても、アイリーンはしばらく半袖のままだったし……。ほぼ１００％ゲーム由来の筋肉質ボディで、体脂肪率が低いケイは、そもそも寒さに弱かった。</p><p>持ってきた毛布や皮のマントだけでは足りない。地面の最悪な寝心地も何とかするため、邪魔になるのを承知で、予備の毛布をしっかりと買い込んだ。</p><p>これらを全てサスケに載せたら負担になってしまうので、あとで残りの銀貨を引っさげて、コーンウェル商会の馬車と交渉するつもりだ。クッションみたいな軽いものなら、多分載せてくれるだろう。</p><p>次に、食料。</p><p>特に嗜好品の類だ。昨日は義勇隊の皆と侘しい食事を共にしたが、従軍商人の中には濃い目の味付けの料理をご奉仕価格(ボッタクリ)で提供している者もいた。</p><p>香辛料をたっぷりと使ったソーセージの香ばしい匂いに、ケイは抗うことができなかった。</p><p>立ったままかぶりついた、串焼きソーセージのこれまた美味いこと！</p><p>おっ、見事な食いっぷりだねえ。もう一本いくかい？</p><p>頼もう</p><p>毎度！！</p><p>と、店主に勧められるがまま、ぺろりと何本も食べてしまった。</p><p>（こりゃ、匂いを落としてからじゃないと義勇隊には近寄れないな……）</p><p>鼻のいい森歩きや狩人たちが多数いるのだ。自分だけ濃厚なスパイス臭を漂わせていたら、一発でバレてひんしゅくを買ってしまう！</p><p>いや、ケイに表立っては文句を言ってこないだろうが、絶対裏で羨ましがられる。……少しでも誤魔化せるように、ケイは義勇隊の皆への差し入れとして、香辛料の類も買い足すことにした。これで彼らの食事も少しは彩りが出るだろう。</p><p>そうして、デザートの新鮮な果物―みかんとオレンジの合いの子のような柑橘類―も平らげて、今日狩ったウサギ肉を、義勇隊へお裾分けしにいった。</p><p>また侘しい食事に逆戻りかと恐れていた義勇隊の面々は、ケイが約束通りウサギとともに姿を現したことで安心したようだ。</p><p>おれたちも、自力で確保しようとしたんだが</p><p>マンデルが、いち狩人として忸怩たる思いを滲ませていた。</p><p>……残念ながら、ケイほどには狩れなくてな</p><p>マンデルがかろうじて２羽仕留めただけで、他の狩人たちは１羽か、矢を無駄にしたかのどちらかのようだった。</p><p>近づいたら逃げられるし……</p><p>逃げられない距離からだと必中ってわけにもいかないし</p><p>そもそも見つけられねえよ……</p><p>と、狩人の面々は口惜しげにしている。普段、彼らは畑を荒らすイノシシや鹿なんかを相手にしていて、草原のウサギのように、すばしこくて小柄な獲物にはあまり慣れていないとのことだった。</p><p>ケイは、弓の腕もさることながら、抜群の視力で、かつサスケに乗って視点を高くして狩りに挑んでいるので、徒歩で慣れない獲物を狩ろうとしていた彼らと比べるのはあまりフェアとは言えなかった。</p><p>ともあれ、ケイが供給したウサギ肉と、お裾分けの香辛料に皆は大喜びだ。</p><p>ちゃっかりケイも夕食のスープのご相伴に預かってから、 また明日 と別れを告げて、今度はコーンウェル商会の馬車へ向かった。</p><p>交渉するまでもなく諸々に二つ返事でOKをもらい、馬車の直ぐ側のスペースを借りてテントを設営することになったのだった―</p><p>―よし</p><p>すっかり日も暮れて、夜番の兵士や護衛の戦士以外は、早々に眠りにつこうとしている。</p><p>ケイもまた、テントの中、新たに購入した毛皮やクッションでパワーアップした寝床にいそいそと潜り込んだ。</p><p>かなりいい感じだ。今夜はよく眠れるだろう。</p><p>泥棒避けの篝火の明かりが外で揺れている。夜番を担当する兵士や護衛の戦士たちの、かすかな話し声だけが響いていた。</p><p>テントの中はほぼ真っ暗闇だが、ケイの視力なら、入り口の隙間からかすかに差し込む光だけでも充分だった。</p><p>胸元から、アイリーン謹製・お守り型の通信用魔道具”小鳥(プティツァ)“を取り出す。</p><p>目覚めろ小鳥(プティツァ)</p><p>ケイがキーワードを囁くと、ズズッと手元の影が蠢き、かすかに魔力が抜き取られていく感覚があった。</p><p>これはサティナの自宅の魔道具”黒い雄鶏(チョンリピトゥフ)“と対になっており、今頃は”警報機”を応用した機構で、着信を知らせる呼び鈴が鳴っているだろう。</p><p>待つこと数十秒。手元で再び影が蠢き、ズズ……と文字を形作った。</p><p>『元気？』</p><p>アイリーンからの通信。彼女の手癖が再現された筆致に、思わず笑みがこぼれた。</p><p>元気だよ</p><p>外の夜番たちに気取られないよう、最小限の声量で答える。</p><p>『……良かった』</p><p>数秒後、返事があった。</p><p>そっちこそ、元気か？</p><p>『……ケイの目がなくなって、酒を堪えるのが大変』</p><p>アイリーンが断酒に苦しんでいるのは、このところいつものことなので―つまり元気というわけだ。</p><p>俺も、アイリーンと一緒に断酒続けてるから、頑張ろう</p><p>『……（大きな溜息）』</p><p>この通信機は出発前にテスト済みだったが、実際に使ってみると、字幕機能みたいで妙に可笑しかった。</p><p>そっちは、何か変わったことは？</p><p>『……特にない。飛竜討伐軍が何日で帰ってくるか、賭けが流行ってるくらい』</p><p>アイリーンは賭けた？</p><p>『……毎日明日に賭け続ける羽目になる。やめておく』</p><p>……一日でも早く会いたいのは、お互い様だ。</p><p>こうしてリアルタイムに連絡が取れるだけでも、この世界ではありえないほど恵まれているが。</p><p>……それがいいな</p><p>『……そっちは何か、ニュースは？』</p><p>ああ、そうだ。ビッグニュースがある</p><p>こっちには話題が山盛りだ。ケイは寝転がったまま、ぐいと通信機に向けて身を乗り出した。まるで目の前にアイリーンがいるかのように。</p><p>なんと近衛狩人に任命されたぞ</p><p>『……Что(シュト)？』</p><p>ロシア語での表示。英語で言うなら What？ だ。</p><p>思わず母国語で はァ？ と漏らしてしまったであろうアイリーンの困惑顔が目に浮かぶようで、ケイは周りに気取られぬよう、笑い声を噛み殺すのに必死だった。</p><p>それから、ぽつぽつと説明した。</p><p>ヴァルグレン氏が実は宰相だったこと。いきなり呼び出しを食らったこと。通信保全を建前にボーナスタイムに突入したこと。それからコウとヒルダについても。</p><p>アイリーンも、『……マジかよ！』『……やったじゃねえか！』『……おう、コウの旦那がそんなことに！？』『……イリスが泣くなぁ！』などと大盛り上がりで。</p><p>お互い、相手の言葉は文字で表示されているので、ちょっとした通信のラグを挟みつつ、久々の（二日ぶりだが、二人にとってはもっともっと長く感じられた）会話であることを鑑みても、話題は尽きる様子を見せなかった。</p><p>ケイはいつの間にか、傍らにアイリーンが寝転がっていて、戯れに至近距離で手紙のやり取りでもしているような、そんな錯覚に陥りつつあった。</p><p>きっとアイリーンも、ふたりの部屋のベッドに寝転んで、ランプに揺れる影文字を眺めながら、似たような気持ちを抱いているに違いない―</p><p>このまま夜が更けるどころか、朝まで語り尽くせそうな気分だったが。</p><p>残念ながら、１回あたりごくわずかとはいえ、自前の魔力を消費する魔道具なので徐々に限界が近づきつつあった。</p><p>肉体的な疲労に、魔力の消耗まで加わって、まぶたがどんどん重くなってくる。</p><p>『……眠いんだろ？　今日はこれくらいにしとこうぜ』</p><p>ケイの状態を察したのか、アイリーンが気遣いを見せた。</p><p>あるいは、気を利かした影の精霊(ケルスティン)が、『（眠たそうな目）』とでも表示したのかもしれない。</p><p>ホントは、もっと話したいけど……そうしようか</p><p>目をこすりながら、ケイは言った。</p><p>…………</p><p>名残惜しげに、手の中の魔道具に視線を落とす。木の板に水晶や宝石が組み込んである作りで、どことなく地球のスマホを彷彿とさせるデザインだった。</p><p>画面なんてないけれど―アイリーンと見つめ合っているような気がした。</p><p>ヤ ティビャー リュブリュー、アイリーン</p><p>ちょっとだけはっきりした声で、ケイは告げた。</p><p>アイリーンと一緒に暮らすうちに、ちょっとずつロシア語もかじり始めたケイが、一番言い慣れている言葉だ。</p><p>『……けい、すき。あいしてる』</p><p>アイリーンの返信が日本語で、ひらがなで表示されていたのは―つまりそういうことだ。彼女もまた、ケイに暇を見ては日本語を教わっていたから。</p><p>愛おしくてたまらなくて、思わずケイが チュッ と唇で音を立てると、ほぼ同時に『（キスの音）』と表示された。</p><p>笑い声を堪えるのに苦労した。</p><p>……おやすみ、アイリーン。明日もまた、連絡するよ</p><p>『……楽しみにしてる。おやすみ、ケイ。いい夢を』</p><p>名残惜しいが、そこで通信を切り上げた。</p><p>大事に胸元に魔道具をしまい込んだケイは、仰向けに寝転がり直す。</p><p>……ふふ</p><p>テントの中、独り、ガラでもなく幸せそうな微笑みを浮かべたケイは、毛布にくるまって、ほどなく寝息を立て始めるのだった。</p><p>109. 機嫌</p><p>改良したフカフカの寝床で、ケイは爽やかな朝を迎えた。</p><p>……正確には、ちょっと寝過ごした。寝心地の良さに加えて、昨日は夜ふかしまでしていたからだ。</p><p>おーい、ケイ。起きろー</p><p>……んが</p><p>コーンウェル商会の馬車の護衛、ダグマルが起こしに来るまでいびきをかいていたくらいだ。</p><p>初冬にもかかわらず、テントの外が明るい。つまり朝日はかなり昇っているということだ。</p><p>このまま寝てたら置いていかれるぜ？</p><p>うおっ、まずい！</p><p>テントを片付けたり身支度したりで、何気に準備に時間がかかるのだ。ケイは慌てて飛び起きた。</p><p>よく眠れたみたいじゃないか。それにしても、こいつはまたずいぶん色々と買い込んだもんだな</p><p>テントの中の、クッションや毛布を覗き見て、ひげモジャのダグマルはクックックと忍び笑いを漏らす。</p><p>まあな、せっかくの臨時収入だったから。起こしてくれてありがとう</p><p>なぁに。まあ今すぐ出発ってわけでもねえし、ぼちぼち朝飯だからよ。ケイの分も取っといてやるから、慌てず安心して支度しな！</p><p>ガハハと笑いながら、ダグマルは去っていった。夜番の明け方担当は朝食係も兼ねていたらしく、焚き火には鍋がかけられていて、粥(ポリッジ)的なものがぐつぐつと湯気を立てていた。</p><p>おお、ありがたい！</p><p>待望の温かな朝ごはんだ。ケイは手早く、革鎧を身に着けてテントや毛布を片付け始めた。</p><p>―粥はお世辞にも美味とは言い難かったが、初冬の冷える朝には、温かいものを口にできるだけで涙が出るほどありがたかった。</p><p>義勇隊の皆には悪いが、これだけでも商隊側に来た甲斐があるというもの……</p><p>お礼といっちゃなんだけど、昼頃には兎を獲ってくるよ</p><p>余分な荷物の運送代としていくらか支払ってはいるものの、毎度タダ飯にありついていては世間体が悪かろうと、ケイはそう申し出た。</p><p>おっ、そいつぁいいねえ！　せっかくなら、食料には余裕があるし、しばらく馬車に吊るして熟成させようぜ。すぐに食うより美味えぞー</p><p>ケイの弓の腕をよく理解しているダグマルとコーンウェル商会の関係者は、兎肉が確定したことで大喜びしていた。</p><p>やはり馬車があると大違いだな、とケイはしみじみする。肉は熟成させた方がより美味い。それは常識だが、徒歩で余計な荷物を極力減らしたい義勇隊では、熟成させるひと手間なんてかけてられないのだ……しかも、わびしい食事に耐えながら、皆が皆、肉を我慢できるかと問われると……。</p><p>（しかし、義勇隊にも兎を持っていかないといけないしな）</p><p>そして本部に上納する猛禽類も狩らなきゃいけない。</p><p>うーむ、今日は忙しくなるな！</p><p>言葉とは裏腹に、ケイはルンルン気分だった。昨日、一昨日のケイとは同一人物と思えない。</p><p>クッションのおかげで快適に眠れたし、アイリーン成分も補給できたし、さらには温かな飯まで！こりゃ周囲にも貢献せねばバチが当たる、とばかりに。</p><p>ハイヨー！</p><p>“竜鱗通し”を握りしめて、颯爽とサスケに跨った。 えっ、普段そんなかけ声なくない？ とびっくりした様子のサスケに二度見で振り返られながら、ケイは草原へと繰り出すのであった。</p><p>†††</p><p>サティナ周辺からウルヴァーンにかけては、ゲーム内だとリレイル地方と呼ばれていた。</p><p>草原や丘陵など、緑豊かな風景が広がる地域だ。</p><p>ただ、鉱山都市ガロンのある東部の辺境へ―つまり海側から陸側へどんどん進んでいくごとに、地形が起伏を増していく。</p><p>あと数日も進めば、草原はまばらになっていって、今ほどは兎の肉にありつけなくなるだろう。その代わり、森の動物を狩れるかもしれないが―草原ほど見晴らしはよくないので、狩りに専念でもしない限りは、やはり運が絡む。</p><p>公国は豊かだな</p><p>街道の周りを駆け巡り、獲物を探しながら、ケイは呟いた。その視線の先には、街道沿いに流れる河川がある。</p><p>北の大地では、ルート選択を失敗して、水不足で行き倒れそうになったものだ。</p><p>それに対し公国は、そこら中に水源がある。おかげで大軍でも水の調達には困っていないようだ。</p><p>サスケに澄んだ川の水を飲ませる。……すぐ近くを軍隊が通っているというのに、驚くほどの水質の良さ。</p><p>それもそのはず、みだりに水を汚すと精霊が怒り狂って何が起こるかわからないので、公国は水源の管理にかなり神経を尖らせているのだ。</p><p>なので、飛竜討伐軍においても、休憩のたびに工兵が穴を掘り、割としっかりしたトイレや食器の洗い場などが敷設されている。従軍魔術師だか錬金術師だかが、薬品などで汚物処理しているところも見かけた。</p><p>（あれは、ゲーム内にはなかったなぁ）</p><p>ポーション作成をはじめとした”錬金術”は存在したが、汚物処理の薬品なんてものは実装されていなかった。いくら現実に限りなく近いVRMMOを標榜していても、流石にそういった要素は。</p><p>だがこの世界にはあ(・)る(・)のだろう。</p><p>サティナやウルヴァーンといった大都市には必ず下水施設があって、街から離れた処理場では、犯罪奴隷なんかが浄化作業に従事していると聞く。具体的にどうやって処理しているのかはわからないが、おそらく、あの手の薬品のノウハウが蓄積されているのだろう……</p><p>そんなことを考えながら、兎や猛禽を仕留めていく。</p><p>昼前には、兎が十数羽、猛禽数羽がサスケの鞍にぶら下がっていた。</p><p>ケイにしては、割と控えめな成果だった。……兎はともかく、猛禽類は単純に見つからなかったのだ。</p><p>ひょっとすると昨日殺しすぎたせいで、付近一帯の猛禽類が恐れて逃げ出したのかもしれない―</p><p>（いや、まさかな）</p><p>言葉が喋れるわけでもあるまいし、と苦笑するケイ。兎も思ったより少ないが、代わりに、木立に狐や野生の猫といった生物を見かけた。</p><p>この辺りは小型の捕食者が多いので、競合する猛禽類が少ないのだろう。</p><p>（今日は、昨日ほどは稼げなさそうだな）</p><p>しかしケイは、あまり気にしていなかった。寝床など、この行軍中にずっと使うであろうものには初期投資を終えたし、買い食いで散財するにも限度がある。</p><p>―せめて、酒でも呑んでいたら話は別だったのだろうが、よりによって断酒中。</p><p>いやー、アイリーンはキツいだろうなぁ……</p><p>馬上で、曇り時々晴れなそれを見上げながら、ケイは嘆息した。</p><p>大して酒好きでもない自分が、これだけ飲みたい気分になるのだ。大の酒好きで、毎日晩酌するのを楽しみにしていたアイリーンが、どれだけ我慢に我慢を重ねていることか―</p><p>アイリーン、頑張れー！</p><p>周囲にサスケ以外誰もいないので、ケイは空に向かって叫んだ。</p><p>……いくら風の乙女(シーヴ)の加護があろうとも、サティナにまで声は届かないだろうが。 まったく何やってるの と言わんばかりに、クスクスクス、というかすかな笑い声が聞こえた気がした。</p><p>兎を持ってきたぞー</p><p>昼時の休憩時に、ケイは義勇隊を訪ねた。</p><p>よっ！　待ってました！</p><p>でかした！！</p><p>近衛狩人ばんざーい！</p><p>やんややんやと出迎える皆に混じって、しかし、何やらムスッとした顔の男。</p><p>おお、隊長殿</p><p>ご機嫌斜めな人物にわざわざ話しかけたくはなかったが、あまりにこちらをガン見してくるので、ケイは仕方なく声をかけた。</p><p>……狩りの成果は上々のようだな。流石は英雄殿、いや近衛狩人様だ</p><p>ふん、と鼻を鳴らしながら皮肉げに言うのは、他でもない。</p><p>顔は悪くないが、どこか不貞腐れたような雰囲気のせいで小物臭く見える男こと、義勇隊の隊長フェルテンだった。</p><p>110. 立身</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ よーし、今日もお仕事頑張るぞ！</p><p>ケイ あ、そうだ、義勇隊の皆にお裾分けしにいこう</p><p>隊長 ……ふん、狩りの成果は上々のようだな！ （プンスコ</p><p>ケイ（なんかめっちゃ機嫌悪いぞコイツ……）</p><p>兎を手土産に、昼時の義勇隊を訪ねると、何やら苛々した様子の隊長・フェルテンに出迎えられた。</p><p>聞けば、特別任務だとか</p><p>落ち着きなく足先で地面を叩きながら、皮肉げな口調でフェルテンは言った。</p><p>一応、こいつらから話は聞いたが、正式な書類があれば見せてもらいたい</p><p>もちろん構わないが</p><p>早速、辞令兼身分証が役に立つときが来たようだ。……ただ、仮にも義勇隊の責任者なら、フェルテンにも通達がいってそうなものだが。</p><p>ケイが胸元から書類を取り出して見せると、文面をチラッと一瞥したのち、最後の署名―公国宰相ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー伯名義―を確認して、フェルテンは鼻の横の筋肉を痙攣させた。</p><p>……相わかった！　流石に英雄は違うな、一足飛びにお役人様と来た！</p><p>半ば憤慨しながら、書類を突き返してくるフェルテン。</p><p>いや、役人というか、あくまで飛竜討伐の間だけなんだが……</p><p>なんでこんなキレてんだ、と困惑気味に答えるケイだったが、 ああそうかい！ とフェルテンはますます不機嫌が加速したようだ。</p><p>結局、 今後の活躍をお祈り申し上げる！ 的なことを慇懃無礼に言い放ち（早口だったのでケイにはよく聞き取れなかった）、荒々しい足取りでフェルテンは去っていった。</p><p>……なんだアレ</p><p>顔を合わせたと思ったら、原因不明の不機嫌を撒き散らして、ただ消えた。ワケがわからないのでケイが周りに尋ねると、彼らもまた微妙な顔をしていた。</p><p>ケイと同じく、理解に苦しみ首をかしげる者から、フェルテンを小馬鹿にしたように笑う者、憐れむような顔をする者まで、それぞれ。</p><p>単純に、ケイ殿が気に食わないのでしょう</p><p>田舎名士のぽっちゃり次男坊・クリステンがしたり顔で答えた。</p><p>む。何か失礼だっただろうか</p><p>いえ、ケイ殿が直接というわけではなく、雲上人から目をかけられた上に出世していくのを羨んでいるのかと。自分の記憶が正しければ、近衛狩人は軍の百人長に匹敵する役職だったはずです</p><p>クリステンは記憶を反芻するように、こめかみに指を当てながら言う。</p><p>そして、我らが義勇隊をよく見てみてください。何人くらいです？</p><p>ケイは隊の面々を見回した。</p><p>……１００人には届かない。数えたわけではないが、だいたい８０人かそこらだ。</p><p>この義勇隊の長は、つまり今のケイと同格以下なのさ</p><p>従軍経験者のマンデルが、肩を竦めながら言う。</p><p>あー……</p><p>流石のケイも、おぼろげながら事情を察した。</p><p>当初から、己の待遇に不満がありそうだったフェルテンのことだ。ただでさえ英雄扱いでチヤホヤされていたケイが、一気に同格以上の役職をホイッと与えられるのを見て、苛立ちが抑えられなくなってしまったのかもしれない。</p><p>そういうことなのか？</p><p>イマイチ実感が湧かずに、ボリボリと頭をかくケイ。その様子に、マンデルをはじめ周囲の面々も気が抜けたように苦笑していた。</p><p>ケイはピンと来ないかもしれないが。……百人長とは大したものだぞ</p><p>マンデルいわく、平民がなれるのは十人長がせいぜいだという。</p><p>十人長でさえ、任命されるのは従士や騎士の一族だったりするんだ。ちなみにウチの、タアフ村の村長ベネットも元々は従士だぞ</p><p>へえ！　かの御仁も戦働きしていたのか</p><p>あの老人もかつてはそんな時代があったらしい。</p><p>しかし、その割に、息子のダニー氏はあまり……運動的には見えなかったが？</p><p>たぷんたぷんな体型の、どちらかと言えば商人のような男を思い浮かべながらケイは問う。</p><p>ああ。……彼は戦役の際も、カネを払って兵役を免除されたくらいだからな。武力より経済力でウチの村に貢献しているよ</p><p>マンデルは極めて平静な顔で、つっとケイから目を逸らしながら訥々と語った。</p><p>そいや、オレの村の村長も元従士で、十人長だったって話だな</p><p>ウチもだ。三年くらい十人長やってたって、耳が腐るほど聞かされたよ</p><p>他の連中も口々にそう言っている。少なくとも一般庶民のレベルでは、十人長とは想像よりも重みがある役職のようだ。</p><p>そして百人長ともなれば、ほぼ確実にお貴族様の血筋さ。……場合によっては騎士の子さえ『部下』になるんだから、それも当然だが</p><p>なるほど</p><p>そうしてみると、近衛狩人がどれほど例外的な存在かがよくわかった。軍への指揮権がないからこそ許されているのだろう。やはり従軍経験者の話はためになる……</p><p>翻って我らが隊長殿も、おそらくは貴族の次男坊か三男坊でしょう</p><p>クリステンがマンデルの言葉を引き継いだ。</p><p>軍で汗を流すこと数年。飛竜討伐軍に志願し、どうにか出世しようと息巻いてみれば―割り当てられたのは義勇隊の隊長！　その上、部下に吟遊詩人に歌われるような英雄がいて、二日と経たずに自分と同格以上に出世……</p><p>クリステンの芝居がかった語りに、ケイは渋い顔をし、他の面々はくすくすと笑っていた。当事者じゃなければ笑えていたかもしれない。</p><p>だが、そうは言っても、あくまで討伐軍の間だけだぞ？</p><p>それを言うならケイ殿。義勇隊の隊長だって同じですよ</p><p>あ</p><p>指摘されて初めて気づいた。</p><p>しまったー！</p><p>フェルテンの不機嫌が加速した理由がわかり、思わず額を叩いて呻くケイ。謙遜のつもりだったが、この場合だと煽りに受け取られかねない―！</p><p>……うん、まあ。言ってしまったものは仕方がないな。俺もあまり調子に乗らないよう気をつけよう</p><p>腕組みして、うんうんと頷くケイ。</p><p>自分としては 自由に動けてラッキー くらいにしか思っていなかったが、一時的とはいえ、この肩書がかなりい(・)か(・)つ(・)い(・)ものであることをようやく理解した。</p><p>何かしらで絡まれたら、印籠よろしく身分証を出して切り抜ければいいや、と甘く考えていたが、そのせいで逆恨みや余計な妬み嫉みを買うかもしれないし、そもそもそんな目に遭わないよう立ち回るべきだろう。</p><p>堂々と我が物顔で陣地を歩き回っていたのも、きっとよろしくない。元々異邦人なこともあるし、もうちょっとこう、肩身が狭い感じで動いた方が良さそうだ……</p><p>……なんというか</p><p>……あんたらしいな</p><p>何やら一人で納得し、反省するケイに、義勇隊の面々は呆れたように笑っている。</p><p>ケイ殿はそのままでもいいですよ。我ら庶民の希望の星ですからね！</p><p>そうそう。威張り散らすお偉いさんより、よっぽどいいや！</p><p>飯も持ってきてくれるしな！</p><p>お調子者の誰かの一言に、全員が噴き出して笑う。</p><p>まあ、まあ。よくわかったよ。みんなありがとう</p><p>隊長はアレだったが、この隊の皆は気のいい奴らばかりだ。</p><p>見方を変えればあの隊長も、ケイが無自覚に調子に乗りつつあったことをわかりやすく教えてくれたとも言える。</p><p>そういう意味では、最小限の被害で済んで良かったかもしれない。</p><p>（やはり人間、無駄に目立たないよう気をつけないとな……）</p><p>……などと、周囲が聞けば噴飯ものなことを考えながら、ケイはこれからもっと慎ましやかに立ち回ろう、などと思いを新たにするのであった。</p><p>†††</p><p>そんな反省も踏まえて、夕方。</p><p>猛禽類をそこそこ仕留めたケイは、獲物をこそこそと隠しながら参謀本部へ向かっていた。</p><p>昨日よりもさらに遅めの時間帯をチョイスしたことにより、夕餉の準備で周囲が慌ただしい。薄暗さも相まって、目立ちにくいという寸法だ。</p><p>……と、ケイ本人は考えている。</p><p>マントで猛禽類の束を必死に隠そうとしながらぎこちなく歩く、朱色の強弓を背負った馬連れの狩人が目立つかどうかは、また別問題だ。</p><p>しかし本部が近づいてきたところで、何やら、ざわっと異様な空気が流れた。</p><p>（目立ったか？）</p><p>と少し慌てたが、どうやら自分ではなかったらしい。</p><p>……見れば、向こうから、小姓の少年たちを引き連れた、赤い衣をまとった人影が歩いてくるではないか。</p><p>（げっ、公子！！）</p><p>ケイの視力は、一発でそれが誰かを見抜いた。</p><p>まさかこんなところで鉢合わせようとは……</p><p>いや、名目上、飛竜討伐軍は彼が率いる軍勢であり、いくら警備の問題があるとはいえ、四六時中引きこもっているわけにもいかないだろうから、我が物顔で歩き回っていても誰も文句は言わないのだが。</p><p>ケイは慌てて物陰に引っ込もうとしたが、周りの兵士や軍人たちが先んじでひざまずきつつあり、しかもサスケの存在があったので機敏に動けなかった。</p><p>というか、ここでサスケを引っ張ってテントの陰に隠れたりしたら、あからさま過ぎる。</p><p>仕方がないので、その場でひざまずいてやり過ごすことにした―</p><p>―む</p><p>問題があるとすれば、いち平民にすぎぬケイではあるが、武道大会で表彰されたために、公子と面識があることだった。</p><p>公国一の狩人、ケイチであるか。大儀である</p><p>……まさか直接、話しかけられることになろうとは。</p><p>111. 公子</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ これからは目立たないようにするぞ！ (｀・ω・´)</p><p>公子 公国一の狩人、ケイチであるか。大儀である</p><p>ケイ 目立たない……ように…… （´・ω…:.;::..</p><p>公子ディートリヒ＝アウレリウス＝ウルヴァーン＝アクランド。</p><p>１６歳という若さで、公王の座に就こうと―あるいは、就かせられようと―している少年だ。その重責のためか、歳の割に顔つきは厳しい。現公王にして祖父・クラウゼ公ゆずりの鷲鼻(わしばな)、きりりとつり上げられた細眉、鳶色の瞳にライトブラウンの髪。よく言えば高貴な、悪く言えばツンとした高慢な雰囲気を漂わせているが、それはむしろ、この少年が雲上人であることを自他共に認めさせるような、超然とした風格を与えているようにも思えた。</p><p>そう、雲上人。</p><p>普通はわざわざ、自ら一般人に声をかけてくるようなことはない。</p><p>だが―ケイにとっては不幸なことに、今のケイは厳密には一般人ではなかった。</p><p>なんといっても”近衛(Archducal)狩人( Huntsman)“だ。</p><p>果てしなく末端に近いとはいえ、名目上、公王直参の家臣。次期公王(Archduke)たる公子ディートリヒが、一言くらい声かけしてもおかしくはない。</p><p>これがまだ平時ならスルーしていたかもしれないが、今は陣中であり、ここにいる全員は何かしらの理由で、公子のために命を賭けて馳せ参じている。</p><p>ケイのような平民出身者もちゃんと気にかけてますよ、というアピールは、ディートリヒからすれば、いくらしても損にはならないのだ。それがケイにとって有り難いかどうかは別問題だが。</p><p>ちなみに、ケイのような身分の者は、公子から個人として認識されている時点で、一般には相当に名誉なことだ。それだけで周囲から妬まれてもおかしくないのだが、幸か不幸か、それはケイの与り知らぬこと―</p><p>（―どうすりゃいいんだ！？）</p><p>そんなことより、ケイは跪いた状態でとにかく焦っていた。</p><p>公子からわざわざ声をかけられたにもかかわらず、だんまりがヤバいことくらいは流石にわかる。</p><p>何か。</p><p>何か答えなければ。</p><p>先日、礼儀作法の教師、もとい親切な軍人に教わった表現を思い浮かべつつ―</p><p>ははっ！　お声をいただき恐悦至―</p><p>そなたは近衛狩人として―</p><p>言葉がかぶった。</p><p>よりによって公子と。</p><p>…………</p><p>沈黙。</p><p>その場に、異様な緊張感が満ちる―</p><p>（あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛―ッッ！！）</p><p>やっちまった。</p><p>ケイは全身がカッと熱くなり、嫌な汗が吹き出るのを感じた。</p><p>ぎりっぎり、ケイの方が先に口を開いていたので、公子の言葉を遮るという最悪の事態は避けられたが。</p><p>それにしても気まずいことこの上ない。下手に表現なんてこねくり回そうとせず、 ははーっ！ とだけ答えておけばよかったとケイは心底後悔した。</p><p>（そもそも直答は許されてたのか！？　わからん！！）</p><p>何にもわからない……！</p><p>口の中がカラカラに乾いていた。咄嗟に謝ろうかと思ったが、 Excuse me は日本語では すいません と訳されていても 許してください という命令形であり、それを公子に使っていいのかわからない。</p><p>かといって ごめんなさい(I’m sorry) も何か違う気がする。いや、多分というか絶対ダメだ。それとも I beg your pardon（お詫び申し上げます） だろうか？　切実に、今この瞬間に、コウの助けが欲しい……！！</p><p>―おそらくコウがこの場にいたら、ケイの肩を叩いて、首を振りながらこのように言っただろう。</p><p>『ケイくん、平民が自分のやらかしに対して、王侯貴族にあれこれ言って、少しでも失敗を軽減しようとするのがそもそも間違いなんだよ。頭を垂れて、向こうの出方を待ちつつ、慈悲が与えられることを祈るしかないんだ……』</p><p>つまり、色々考えて黙り込んでいる現状が正解だった。</p><p>ふふ……っ</p><p>と、かすかに笑い声。</p><p>公子のお付きの者―小姓のひとりが、くすくすと笑っている。決して馬鹿にするような雰囲気はなく、ただ可笑しくて仕方がないといった様子で。</p><p>それを皮切りに、他の小姓の少年たちも忍び笑いを漏らし始めた。ケイの錯覚、あるいは希望的観測かもしれないが、その場の空気が弛緩したように思える―</p><p>そう肩肘張らなくともよい</p><p>苦笑交じりに、再び公子が口を開いた。</p><p>式典ではないのだ。……ここには口うるさい儀典長もおらんしな</p><p>冗談めかして公子が言うと、小姓たちの笑い声がさらに大きくなった。</p><p>狩りの成果は上々のようだな。これからも励むがよい</p><p>そうして、赤い衣を翻し、公子は颯爽と歩み去っていった。</p><p>はは……っ！</p><p>ケイはさらに頭を下げつつ、そう絞り出すのがやっとだった。</p><p>（た、助かった……）</p><p>たっぷりと時間を置いてから、面を上げる。公子の背中と、それに付き従う小姓の少年たち。</p><p>どこのどなたかは存じ上げないが―笑い飛ばして空気を変えてくれた小姓の少年には感謝しかない。</p><p>平伏していた周囲の者たちもそれぞれに作業を再開し、辺りはガヤガヤと夕飯時の活気を取り戻しつつあった。</p><p>（酷い目に遭ったな……）</p><p>半ば自業自得だが胸の内で呟き、公子の背中を見送りながら歩き出そうとしたケイだったが―</p><p>おっと</p><p>前方不注意だったため、目の前の小間使い風の男にぶつかりそうになった。</p><p>が。</p><p>ぬ(・)る(・)り(・)とした動きでケイをかわし、何事もなかったかのように歩いていく男。公子が去っていった方へ―</p><p>なんだか、アイリーンを思い出すような、なめらかな足さばきだった。</p><p>ケイがそう感じたということは、つまり、達人級の動きだったということだ。</p><p>（あれ……只者じゃないな）</p><p>不審者か？　まさか公子を狙っている？　とケイの心がにわかに物騒な方向へ傾き始めたが、その視点で周囲を見回すと、公子をゆるく取り囲むような形で、その手の『人員』がところどころに配置されていることに気づいた。</p><p>（ああ……SP的な感じか）</p><p>そりゃそういうのもいるよな、と今さらのように気づく。鎧を着込んだ騎士が表の護衛だとすれば、暗殺などを未然に防ぐ裏の護衛も存在するはず。</p><p>雲上人は大変だな、などと思いつつ、その場を去ろうとしたところで。</p><p>ケイの視界から外れるように、不自然な動きをする者がいた。</p><p>―ん</p><p>一般人なら見過ごしていただろう。</p><p>だがケイはゲーム内で、そういう動きをして死角に潜り込もうとしてきたヤツを、何百と弓でブチ抜いてきたのだ。</p><p>辺りが薄暗くなろうと、人混みに紛れようと、そんな『怪しい』挙動をケイの目が見過ごすはずもなく。</p><p>あっ、おい……</p><p>テントの陰に隠れてコソコソと移動するその男に、ケイは声をかける。</p><p>しかし、ケイの声を認識していながら、男はむしろ足を早めた。</p><p>む、怪しいヤツ……！</p><p>行商人のような格好をしているが、帽子を目深にかぶって顔を隠しているし、そもそもなぜ声をかけられて逃げるのか。</p><p>ケイは早足でその男を追う。さらにサスケが まってー とケイを追う。</p><p>……ああっもう、なんで追いかけてくるんだよ！</p><p>しかしすぐに、追走劇は幕を下ろした。肝心の男がキレ気味に足を止めたからだ。</p><p>あっ、……お前！</p><p>夕闇が降りてこようと、ケイの瞳は正確に、その人物の顔を認識した。</p><p>あまりにも見覚えのある顔。</p><p>思い出すのは、北の大地―ガブリロフ商会の隊商護衛の日々。</p><p>公国の薬商人として隊商に参加していた、あの男―！</p><p>……えっと、確かランダール！　なんでここに！？</p><p>辛うじて名前を思い出したケイに、苦虫を噛み潰したような顔をするランダール。</p><p>アイリーンの話によれば、馬賊の襲撃を受けた際、ランダールは一介の商人とは思えないような豪剣を披露して、一瞬で二人を斬り捨てたという。</p><p>今となっては、と(・)て(・)も(・)胡散臭い男だ。それが、なぜ飛竜討伐軍にいるのか。その腰に吊り下げられた無骨な長剣が、実に行商人の姿に馴染んでいる―</p><p>いやー奇遇だな。悪ィ、積もる話もあるけどよ</p><p>チラッと背後を―公子たちが歩いていく方向を振り返ったランダールは、サッと表情を切り替えて ヘヘッ と愛想笑いを浮かべた。</p><p>今ちょっと忙しいんだわ……あとでお前んトコ訪ねるからよ、ちょっと今は勘弁してくれや！　な？</p><p>ええ……といっても、俺がどこにいるのか知ってるのか？</p><p>コーンウェル商会んとこだろ！　知ってるよ！</p><p>ヤケクソ気味に答えたランダールは、 またあとでな！ と有無を言わせぬ口調で言い放ち、踵を返す。</p><p>するすると―泳ぐように、陣中の人混みに紛れて消えていく。</p><p>ああ……</p><p>取り残されたケイは、ある種、納得の声を上げた。</p><p>見る者が見れば……それは明らかに、一般人の足さばきではなかった。</p><p>（仕(・)事(・)中(・)だったか……）</p><p>アイリーンの推測通り、やっぱり只者じゃなかったんだなぁと思いつつ、邪魔して悪かったな……などと今更のように申し訳なさも抱く。</p><p>ぶるるっ</p><p>と、ケイの背中をサスケが鼻面で押した。振り返れば、 おなかすいてきました と言わんばかりの、純真な瞳が見返してくる。</p><p>そして背中をぐりぐりされたせいで、マントの下にはまだ猛禽類を山ほどぶら下げたままであることを思い出す。</p><p>……そうだな、飯にするか</p><p>参謀本部に、今日の成果を提出しに行かなければ。</p><p>公子やランダールと鉢合わせしたのは想定外もいいところだったが、それはそれとして、夕食にはありつきたいし、支払いもしてもらいたいし。</p><p>（今夜のアイリーンとの話題ができたな）</p><p>そんな呑気なことを考えながら、ケイもまた足早に、参謀本部へ出向くのだった。</p><p>112. 旧交</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ 目立つのはどうにか最低限で済んだな……</p><p>日も暮れて、コーンウェル商会の皆と夕食をともにして。</p><p>馬車の近くにテントを張り、アイリーンに連絡しようかと思ったところで、ケイに来客があった。</p><p>よう、来たぜ</p><p>酒の壺を片手に掲げた、三十代前半の男。四角い顔が印象的だ―茶色の髪を短く刈り上げて角刈りにしているせいで、尚更そう見える。人好きのする笑顔に、夜番の篝火の明かりが濃い陰影を投じていた。黒っぽいくりくりとした瞳が、薄暗い中でもケイをしかと捉えている。</p><p>自称”公国の薬商人”こと、ランダールだ。</p><p>本当に来たのか……</p><p>ケイは驚きを隠さずに出迎えた。『あとでお前んトコ訪ねるからよ』とは言っていたが、こんなにすぐやってくるとは。</p><p>さっき言っただろ？　積もる話も色々あるし、まあ呑みながら話そうや</p><p>テントの外、切り株にどっかと腰を下ろしながら、ケイに木製のゴブレットを勧めてくるランダール。</p><p>お気持ちはありがたいが、今は断酒中なんだ</p><p>しかしケイが軽く手を挙げてそれを押し止めると、きょとんとした顔を見せる。</p><p>なんでまた？</p><p>妻が妊娠中で、酒を断っててな……その苦しみを分かち合うために、俺も飲まないことにしてるんだ</p><p>へえ！　結婚してたのか。それに赤ん坊とはめでたい……っていうかおい、まさか妻って、あの嬢ちゃんか？</p><p>ランダールは目を丸くして身を乗り出す。</p><p>どの嬢ちゃんかは知らんが、アイリーンだ</p><p>へえー！　はっはは、そいつはめでたい。おめでとうおめでとう。まったく、ケイも隅に置けないな！</p><p>うりうり、と肘で小突いてくるランダールに、 よせやい と笑顔で応じながら、ケイは思った。</p><p>（俺が結婚してることも、アイリーンが妊娠してることも知らないのか……）</p><p>公国には何もかも把握されてるんじゃないか、と思っていたが。上司は宰相閣下ではないのだろうか？　もしくは現場の人間には、そんな細かい情報までは共有されていないだけか。……ケイの重要度を考えれば別におかしくはない。</p><p>（……あるいは、知らないフリをしているだけか）</p><p>ケイの目には、ランダールが本当に驚いていたように見えたが、仮に裏稼業の人間ならば、ケイ程度を誤魔化すことなどお茶の子さいさいだろう。</p><p>ただでさえ外国語環境では、ケイは鈍(・)い(・)。母国語(にほんご)と違って、相手の言葉の裏に滲む、細かい機微を読み取れないからだ。</p><p>しかしここで知らないフリをすることに、どんな意味があるかはわからない。</p><p>（まあ、どっちでもいいか）</p><p>ランダールはどのみち、公子を守る側の人間なのだろうとケイは推測している。少なくとも公子を狙う曲者ではないだろう。ケイが気づくレベルの『不審人物』なら、早々に公子側の人員に処分されているはずだ。</p><p>こうしてホイホイとケイを訪ねてこられる時点で白、と考えていい。</p><p>仕事はもういいのか？</p><p>今は暇だからよ</p><p>さり気なく探りを入れたが、軽く返された。はてさて……</p><p>（いずれにせよ公国側の人員なら、“小鳥(プティツァ)“について知られるわけにはいかないな）</p><p>あの通信用魔道具は危険すぎる。早くアイリーンに連絡を取りたいし、ここは聞きたいことだけ聞いて、さっさとお引き取り願おう。</p><p>暇ならちょうどいいな、まあ呑んでくれよ。俺は人が呑んでるところを見るだけでも楽しくて好きなんだ</p><p>心にもないことを言いながら、 つまみもあるぞ などと、香辛料たっぷりのジャーキーを差し出すケイ。</p><p>え、そうか？　じゃあ、まあ、仕方ねえなー、そこまで言われちゃなあー</p><p>ランダールは嬉々としてジャーキーを咥えながら、トクットクッ……と澄んだ蒸留酒をゴブレットに注ぎ始めた。</p><p>今宵、ケイにこうして話をしに来たのも、何らかの意図があるはず。酒で口を軽くして……という魂胆だったのだろうが、こんな機会がなければ、ランダールの立場では早々酒など飲めまい。</p><p>悪いなぁ、俺だけ</p><p>並々と蒸留酒を注いだゴブレットを掲げて、目を細めるランダール。お互い、予定調和という感じがする。酒でケイの口を軽くする、という建前で、ランダールも上等な酒を持ち出したのかもしれない。</p><p>まあ俺にはこれがあるからな、気にするなよ</p><p>なんだぁ、お前さんもしっかり呑むんじゃないか</p><p>これは仕方ないだろ</p><p>ケイが取り出したのは、うっすい葡萄酒の革袋だ。それをゴブレットに注ぐ。</p><p>これはノーカンだ。酒ではない。アイリーンとの協定でも、そう定められている。度数がめちゃくちゃ低いので、『身体強化』の紋章で耐毒性も強化されているケイには、ほとんど水と変わらないのだ。それこそ樽いっぱいでも飲まない限りは。</p><p>そも、行軍中は、常に清潔な飲み水が手に入るとは限らない。衛生上の問題から、エールやワインで水分補給も余儀なくされる。</p><p>なのでこれは仕方ない。それにアイリーンの言う『酒』とはウォッカみたいな強めの蒸留酒のことだ。これはぶどうジュース。ぶどうジュースなのでノーカン。</p><p>久々の再会を祝して、乾杯</p><p>太っ腹な近衛狩人殿に乾杯！</p><p>こつん、とゴブレットをぶつけてグイッと。</p><p>かぁーッ生き返るなぁ～</p><p>ランダールはジャーキーをもしゃもしゃと味わい、そこに蒸留酒を流し込んで至福の顔を見せる。とても公国の裏の人員には見えないが……</p><p>このまま、ただ酒盛りをして終わりともいくまい。</p><p>ケイとしても、離脱したあとのガブリロフ商会の動向は気になるところ。</p><p>それで、あのあとはどうなったんだ？</p><p>先手を打って、本題に入ってみる。</p><p>大騒ぎだったよ。十中八九くたばると思われてたピョートルが蘇ったんだ</p><p>変わらぬ調子で答えるランダール。</p><p>あんときの、ゲーンリフの慌てっぷりは見せてやりたかったな。アイツがお前さんにキツく当たってたせいで逃げられたんだ、と突き上げるやつが多くてな……自分らの態度は棚に上げてさ</p><p>ちょっと意地の悪い顔で、くつくつと喉を鳴らして笑う。ケイも思わず苦笑した。異民族への風当たりが強くて、あの北の大地での隊商護衛は、お世辞にも快い思い出とは言えなかった。</p><p>そんな中でも、ケイには親身で接してくれたピョートルと、その仲間たちは一服の清涼剤だったが―</p><p>ピョートルは、どうしてた？</p><p>自分が快復してることが信じられないみたいだったぜ。目を覚まして、事の顛末を聞いて、もっとケイに礼を言いたかったと後悔していたな</p><p>そうか……</p><p>そのとき、ランダールはふと思い出したように、杯を傾ける手を止めた。</p><p>そういえば、俺もちゃんと礼を言ってなかったな。本当にありがとう、ケイ。お前さんがいなけりゃ、俺も今頃、異国の地で骨を晒していたところだ。本当に命の恩人だよ</p><p>どういたしまして。俺自身も助かりたい一心だったよ</p><p>馬賊との壮絶な騎射戦、その後の敵魔術師との魔術戦、さらに後味の悪い戦後処理やピョートルとの別れ―そういったものを生々しく思い出しそうになって、ケイは首を振って、ぶどうジュースを口に流し込んだ。</p><p>……ふぅ</p><p>…………</p><p>夜空を見上げて、溜息をつくケイの横顔を眺めながら、ランダールは思案するように盃を傾けている。</p><p>ピョートルも、もし俺がまたケイに出会うことがあれば、『心から感謝している』と伝えてくれ、って言ってたよ</p><p>そうか。……彼には随分と助けられたからな、恩返しができてよかったよ</p><p>……いやはや、デカい恩返しだ。アレに懲りて、ゲーンリフどもも、ちったぁ身内以外にも優しくなればいいんだがな</p><p>そうなるとは欠片も思ってなさそうな口調で、苦笑いするランダール。</p><p>―それにしても、あれはいったい、どういう魔(・)法(・)だったんだ？</p><p>そら来た。</p><p>……いや、なに。薬商人としては、俺も興味があってよ</p><p>その設定はまだ有効らしい。</p><p>どうもこうも、魔法だよ</p><p>ケイは何食わぬ顔で、懐に手を突っ込む。ひょい、とランダールに放ってみせたのは、缶入りの軟膏だ。</p><p>これは？</p><p>アビスの先駆け をすりつぶした軟膏</p><p>えっ？</p><p>手の中の缶をまじまじと見つめ、フタを開けてみて、青白いクリーム状の軟膏に目を丸くするランダール。じっくりと観察する目つきが、完全に、『そのスジの者』になっていた。</p><p>これで、あれだけの傷を……？</p><p>いや？　もちろん違う。あのとき使ったのは魔法薬(ポーション)さ</p><p>……ポーション</p><p>単語を反芻しながら、ランダールはどのような表情をするべきか、迷っているようにも見えた。</p><p>ポーションを口移しで飲ませたんだよ。もっとも、あのときの戦闘と、ピョートルの治療で使い果たしてしまったけどな</p><p>その軟膏は余り物で作ったやつさ、と。</p><p>俺とアイリーンは、昔 深淵(アビス) に潜ったことがあってな。本当に運良く、材料が揃ってたんだ</p><p>そんなに貴重なものを、よく他人のために使ったな……</p><p>迷ったさ。でもピョートルは見捨てられなかったし、後悔はしてないよ</p><p>ケイは清々しい顔で言い切る。……とはいえ、ハイポーションの瓶は、本当に僅かながらまだ残してあるのだが。</p><p>漢だなあ。……しかし、今回みたいな飛竜狩りに連れ出されるくらいなら、余らせといた方が良かったんじゃないか？</p><p>声を潜めて、冗談めかして尋ねてくるが、まだケイに手持ちがあるのか言外に探ってきているようでもあった。</p><p>それを予測していたケイは、困ったような顔で肩をすくめて答える。</p><p>たとえ温存しておいても、飛竜相手には役に立つとは思えないな。アレは怪我一つなく生き延びるか、黒焦げにされるか、八つ裂きにされるかの、どれかだよ</p><p>それもそうだ。……ま、ケイみたいな強弓の使い手がいてくれるってだけでも、俺みたいな商(・)人(・)は心強いよ</p><p>どこか白々しく、ランダールは笑って言った。</p><p>……若手の腕利き薬商人が、支援してくれているのは俺としても心強いよ</p><p>ケイも白々しくそれに応じる。</p><p>ところで、商(・)売(・)は(・)順(・)調(・)なのか</p><p>まあ、ぼちぼちだな。俺も今は、さ(・)る(・)商(・)会(・)に(・)属(・)し(・)て(・)る(・)からよ、独りで切り盛りしなくて済むってのは、まあ気楽っちゃ気楽な話だ</p><p>ああ、独立じゃなくなったのか……北の大地じゃ商品の薬を配りまくってて散々だったみたいだが、ランダールが破産したんじゃないかって心配してたんだ</p><p>おうおう、聞いてくれよ。ホントに酷い目にあってよぉ……あのあとも何だかんだと理由をつけられて、ほとんど薬を取られちまってさ、目的地のベルヤンスクに着く頃にはもう香水しか―</p><p>その後も、あくまで一介の商人としての苦労話を、ランダールはあれこれと聞かせてきた。</p><p>ケイも興味深く聞いていたが、アイリーンに連絡したい気持ちがじわじわと高まってきたので、ランダールにぐいぐいと酒を飲ませて、空になったタイミングで 疲れたから休みたい という理由で、お開きにした。</p><p>ありがとうよ。美味い酒を独り占めにさせてもらって</p><p>なあに、久々に話せて楽しかったさ</p><p>強い蒸留酒を呑みきって、ランダールも流石に赤ら顔だった。少しばかりふらふらした足取りで、ケイに別れを告げる。</p><p>ふと。</p><p>月光の下、足を止めて、振り返ったランダールは。</p><p>そんなわけで、俺にも今は頼りになる仲間がいるからよ。ケイも何かあったら話してくれや、助けになれるかもしれねえ</p><p>お、おう……覚えておくよ、ありがとう</p><p>あんまり関わり合いになりたくはないなぁ、と思いながらもケイは笑顔で答えた。</p><p>まぁ、また何かあったら話に来るわ……それじゃあな</p><p>ひらひらと手を振りながら、ランダールは闇夜に消えていった―</p><p>（また何かあったら話に来るのか……）</p><p>ケイは微妙に渋い顔で、その背中を見送る。</p><p>暗闇に紛れたと判断したのか、先ほどの千鳥足はどこへやら、機敏な動きで足音もなく去っていく背中を―</p><p>月明かりに篝火の光まであれば、この程度の暗闇はケイの前では意味を成さないのだが、ランダールは知る由もないことだ。</p><p>（面倒なヤツに目をつけられてしまった）</p><p>強引に呼び止めたのはケイなので、自業自得といえば、それまでだ。</p><p>ボリボリと頭をかいたケイは、何はさておき愛しのアイリーンに連絡を取るため、そのままモゾモゾとテントに潜り込むのだった―</p><p>88. 助勢</p><p>前回のあらすじ</p><p>草原爆走　初村再訪　狩人再会　幸福家庭</p><p>言葉を飾らず、ケイは率直に説明した。</p><p>今日、とある開拓村から手紙が届いた―</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“の出現。ヴァーク村の知己からの救援要請。ケイとアイリーンが討伐に向かうこと。こちらの装備、陣容、想定されるリスク。それらを鑑みた上で、マンデルの助けが欲しいこと。</p><p>―あっという間に語り終えてしまった。マンデルの娘が茶を淹れようとして、火にかけた鍋の水は、まだ湯気すら立てていない。</p><p>まあ、それもそうか、とケイは思った。</p><p>・助けを求められた</p><p>・怪物を殺しに行く</p><p>・力を貸してほしい</p><p>要はこれだけなのだ。思っていたより自分は言葉を飾っていたらしい、と気づいたケイは、思わず苦笑しそうになったが、この場面で笑うとあらぬ誤解を与えかねないので、真剣(シリアス)な表情の維持に努めた。</p><p>巫山戯(ふざけ)ているわけではない、決して。</p><p>だが、苦境に陥ると、人は時として笑いたくなる。不思議なことに。</p><p>…………</p><p>マンデルは、腕組みしたまま黙って考え込んでいた。</p><p>お父さん……</p><p>どうするの……？</p><p>背後から、娘たちがおずおずと声をかけてくる。動揺、困惑、そして恐れ。父親が危険極まりない冒(・)険(・)に連れ出されようとしている。心配するのも当然だ―娘たちがケイを見る目にも、怯えの色が浮かんでいた。</p><p>自分が平和な家庭を乱す疫病神に思えてきて、ケイは罪悪感に苛まれると同時に、断られたらスパッと諦めよう、と改めて決意した。</p><p>正直なところ</p><p>やがて、マンデルが口を開く。</p><p>力になりたいのは、やまやまだ。……しかしおれが、 深部(アビス) の怪物相手に、何かできるとは思わない</p><p>見てくれ、と手に取ったのは、使い込まれた短弓(ショートボウ)だ。</p><p>おれの相棒だ。……取り回しはいいが大した威力はない。普通の野獣、それこそ猪でも、当たりどころが悪ければ矢が刺さらないような代物(しろもの)だ</p><p>ことん、と机の上に置かれる短弓。優美な曲線を描くリムは艷やかな光沢を帯びており、日頃からマンデルが丁寧に、そして愛着をもって手入れしていることが窺い知れた。いい弓だ、とケイは思う。</p><p>しかしこのマンデルの口ぶり。 自分では力になれない ―つまりはオブラートに包んだ不承諾(おことわり)だと解釈したケイは、 そうか…… と諦めようとした。</p><p>だが</p><p>マンデルは言葉を続ける。</p><p>そんなこと、ケイは百も承知のはずだ。……おれの短弓では威力が不足していることくらい、わかっているだろう？　そ(・)の(・)上(・)で(・)、頼んできた</p><p>ずい、とマンデルは身を乗り出す。</p><p>おれに、何をさせたいんだ？　……教えてくれ、ケイ</p><p>その目にあるのは―面白がるような光。</p><p>マンデルは、知っている。</p><p>自分は決して英雄の器ではないと。</p><p>だが、眼前の青年、ケイは違う。凶悪極まりないイグナーツ盗賊団の一味を単身で撃破し、 深部 の怪物・森の王者”大熊(グランドゥルス)“を一矢で仕留め、武闘大会の射的部門でも文句なしの優勝を果たした英雄だ。さらには風の精霊と契約しており、魔術にも造詣が深い。</p><p>そんな傑物が―自分に助太刀を頼みに来た。</p><p>それだけでも身に余る光栄だが、 なぜ という疑問が先立つ。今しがた語った 自分では力になれない という言葉は、悔しいが、偽らざる思いだ。地を駆ける竜、暴威の化身、 深部 の怪物―もはや天災とさえ呼ばれる”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を相手に、自分がいったい何をできるというのか？</p><p>―いや、もしかすると。</p><p>―『何か』が、できるのか？</p><p>―こんな自分にも？</p><p>マンデルは、胸の内に、めらっと小さな炎が灯るのを感じた。</p><p>ケイの人間性はよくわかっている。自分に声をかけてきたのは、決して囮や肉壁をさせるためではないはずだ。『狩人のマンデル』に、『何か』を求めているのだ。 深部 の怪物と、戦うために―</p><p>忘れてはならない。</p><p>このマンデルという男。</p><p>一見、冷静沈着で落ち着き払っているが。</p><p>武闘大会でケイと弓の腕前を競う程度には―</p><p>誉(ほま)れを求めている。</p><p>果たしてケイは、マンデルの期待に応えた。</p><p>……“森大蜥蜴”は恐るべき怪物だが、弱点がある</p><p>机の上で手を組み、ケイはおもむろに切り出した。</p><p>“森大蜥蜴”の成体は、小さくても１０メートルを超える。村長の屋敷がそのまま這いずり回るようなものだ。それでいて動きは素早く、突進を食らえば人間なんてひとたまりもない。さらには鼻先に、生物の熱を感じ取る器官まで備えている。そのお陰で、たとえ暗がりの中でも、獲物の位置を正確に察知できるんだ</p><p>……弱点に聞こえないのだが？</p><p>裏を返せば、それを潰せばヤツは大幅に弱体化する</p><p>ケイは組んでいた手を解いて、とんとん、と指で机を叩いた。</p><p>本質的に、ヤツは『でかいトカゲ』だ。ゆえに寒さに弱い</p><p>“森大蜥蜴”は昼行性の変温動物だ。 深部(アビス) の怪物だけあって、多少の気温の変動ではビクともしないが、それでも体温を急激に下げられれば劇的に動きが鈍くなる。</p><p>そして俺は、サティナに氷の魔術師の友人がいる。彼に魔法の矢―対象を凍てつかせる”氷の矢”を、可能な限り注文しておいた</p><p>魔法の矢、と聞いて、マンデルが目を見開く。</p><p>今頃、アイリーンの依頼を受けたコウが、大急ぎで水色の宝石(ブルートパーズ)に魔力を込めているだろう。魔力が尽きるギリギリまで可能な限り作ってくれ、と無茶な注文を出したが、あのコウのことだ。十数本は確保してくれるはず、とケイは踏んでいる。</p><p>ヤツが姿を現したら、しこたま氷の矢を撃ち込んで体温を下げる。動きが鈍くなれば、弱点を射抜きやすい。ここで重要なのは、短時間でできるだけ多くの氷の矢を、体の各所に打ち込むことだ。しかし俺が一人で射るには限界がある―</p><p>ここまで語れば、わかるだろう。</p><p>多人数で、多方面からの射撃。必要なのは矢を命中させる確かな腕前と、化け物の前でもビビらないクソ度胸。そして俺が知る限り、それをできるのは―あんたしかいない、マンデル</p><p>―だから、手伝ってほしい。</p><p>ケイにまっすぐ見つめられ、マンデルの身体に力がみなぎった。目を見開き、知らず識らずのうちに拳を握りしめ、口元には獰猛な笑みが浮かぶ。</p><p>―俺でよければ</p><p>！　ありがとう！</p><p>……と、言いたいところだが</p><p>ふにゃっと体から力を抜いて、マンデルが椅子の背に身を預ける。思わぬ肩透かしを食らったケイは、ズルッと滑り転けそうになった。</p><p>だ、だめなのか？</p><p>おれとしては俄然、加勢したい。……だがおれは、この村の狩人だ。おれの一存で村を留守にするわけにはいかない</p><p>許可が必要だ―とマンデルは言う。</p><p>誰の許可か？</p><p>言うまでもない。村長だ。</p><p>わかった。つまり了解が取れればいいわけだな？</p><p>そういうことだ。……早速、行くか</p><p>そそくさと席を立つ二人だったが、 待って！ と悲鳴のような声。</p><p>いやだよ！　やめてよ、お父さん！</p><p>声を上げたのは、マンデルの娘の一人―意外にも、そのうち年下の、気の弱そうな方だった。上の娘が ちょっと、ソフィア― と慌てて押し留めようとするも、それを振り払い涙目で叫ぶ。</p><p>ぜったい危ないよ！　行かないで！！</p><p>ソフィア。……案ずることはない、ケイは公国一の狩人だ。“大熊”と不意に遭遇しても、たったの一矢で仕留めた男だぞ？　ましてや今回は、魔法の矢まで用意して狩りに赴くんだ。滅多なことは起きないよ</p><p>でも―</p><p>いや、娘さんの言う通りだ</p><p>マンデルの了解が得られたことでテンションが上がり、家族の説得をないがしろにするところだった。恥じ入ったケイは、身をかがめ、下の娘(ソフィア)と目線の高さをあわせてから改めて話し出す。</p><p>俺は万全を期すつもりだが、戦いに『絶対』はない。もしかしたら俺は死ぬかもしれない。だがそれでも、あなたたちのお父さんは無事に帰すことを誓おう</p><p>ケイは真摯に語りかけるも、娘たちは微妙な表情だ。そんな『誓い』に何の意味がある、とでも言わんばかりの態度。ケイも気持ちはよくわかる。必要なのは有耶無耶な言葉ではなく、具体案だ。</p><p>―マンデルのために、馬を一頭用意する。何が起きてもすぐに逃げられるように。マンデルの役目は、横合いから氷の矢を射掛けることだ。“森大蜥蜴”を引きつけるのは俺の相方が担当して、メインの攻撃は俺が受け持つ。『絶対に』とは言い切れないが、“森大蜥蜴”の敵意がマンデルに向くことは少ないと思う。仮に俺が殺られても、逃げる時間くらいは稼げるはずだ</p><p>たった一人の父親の命を預けろというのだ。</p><p>ならばケイが担保にできるのは、己の命くらいのものだろう。</p><p>もちろん死ぬつもりは微塵もないが―万が一への備えを怠るほど、不義理もしないつもりだ。</p><p>だから、頼む</p><p>ケイが頭を下げると―</p><p>ソフィアは、不承不承、といった感じに、それでも頷いた。</p><p>……ありがとう</p><p>もう一度頭を下げ、マンデルとともに足早に家を出る。村長と交渉するために。</p><p>残された二人の娘は、不安げに顔を見合わせ、ひしと抱き合った。</p><p>今さらのように沸いた鍋のお湯が、かまどでぐつぐつと揺れていた。</p><p>マンデル テンション上がってきた</p><p>ケイ テンション上がってきた</p><p>作者 テンション上がってきた</p><p>いつも感想コメントにゃーんありがとうございます！</p><p>お陰様で頑張れてます！　ありがとう……ありがとう……</p><p>89. 交渉</p><p>前回のあらすじ</p><p>マンデル テンション上がってきた</p><p>娘たち お父さん！　やめてぇ！</p><p>ケイ （説得中）</p><p>上の娘(マリア)（お父さん死ぬほど行きたそうな顔してる……）</p><p>下の娘(ソフィア)（こんなの頷くしかないじゃん……）</p><p>その日、ベネットは平和に過ごしていた。</p><p>本来は村長としてタアフ村を預かる身だが、この頃は長男のダニーが村長代理として業務を回してくれるようになり、半隠居状態にある。</p><p>ジェシカや～～～</p><p>お陰でこうして、のんきに最愛の孫娘と遊んでいられるのだ。屋敷のリビングで孫娘のジェシカを膝に抱えて、だらしなく相好を崩すベネット。</p><p>やぁ～～！</p><p>ベネットのあごひげがくすぐったいのか、ジェシカがイヤイヤするかのように身をよじる。しかし同時にキャッキャと笑っており、そこまでいやがっている様子もなかった。</p><p>さあジェシカや、ABCの歌を歌おうねえ</p><p>うたう～！</p><p>A B C D ～　E F G ～♪</p><p>え～び～し～でぃ～　い～えふ～じ～♪</p><p>公国に古くから伝わる『ABCの歌』を、紙に書きつけたアルファベットを指し示しながら歌う。</p><p>（なんと、ジェシカは天才じゃ―！）</p><p>孫娘の利発さにベネットは鼻高々だ。今年で四歳になる孫娘は、ABCの歌をあっという間に覚え、一人で歌えるようになったのだ。</p><p>しかも、最近では文字まで書けるようになってきた。</p><p>この間は棒を使って地面に I(アイ) の字を書いてみせた。素晴らしい才能だ。―満面の笑みで じぇー！ と言っていたが、IとJは隣同士なので、ちょっと間違えてしまったのだろう。それは仕方がないことだ。</p><p>Now I know my ABCs ～♪　Next time won’t you sing with me ～♪</p><p>歌うジェシカのふわふわのくせっ毛を撫でながら、リズムにあわせてベネットも体を揺らす。</p><p>（本当に賢い子じゃのう……）</p><p>将来はどうしたものか、などと考える。</p><p>このまま村で暮らすのも、もちろんいい。タアフは近隣の村々に比べてもかなり裕福な方だ。しかしサティナの街に出る、という手もある。可愛い可愛いジェシカが遠くに行ってしまう―考えただけで泣きそうになるが、孫娘の幸せを願うならばそれもアリだ。村にとどまるよりも、文化的で豊かな生活を送れるかもしれない。</p><p>これだけの賢さ、街の商会で礼儀作法を身につければ上級使用人の道もあるやもしれぬ。そして幼いながらにはっきりとわかる目鼻立ちの良さ、ともすれば貴族様のお手つきに―いや、側室などという道も―</p><p>おじーちゃん！　もっかいうたお！</p><p>ん？　ああ、いいよ、歌おうねえ</p><p>え～び～し～でぃ～♪</p><p>ほほほぉ～ジェシカは本当にお歌が上手じゃのう～</p><p>目尻を下げて、デレデレと笑いながらベネット。きゃっきゃと屈託なくはしゃぐジェシカを見ていると、全てどうでもよくなってきた。ジェシカは幼い。教育も嫁入りもまだまだ先の話だ。今は全身全霊で可愛がってあげよう―</p><p>（―それに、そろそろジェシカだけに構ってあげられなくなるしのぅ）</p><p>ほんの少しだけ、申し訳なさで表情が曇る。</p><p>ジェシカは、ベネットの次男クローネンの子だ。</p><p>次期村長こと長男ダニーには、長いこと子どもができなかったのだが、数ヶ月前、とうとうダニーの妻が妊娠したのだ。ダニーは優秀だがあまり人望がなく、そのせいで村内には次男クローネンを次期村長として望む声もある。跡継ぎの不在が攻撃材料の一つになっていたのは確かだ。</p><p>ダニーの妻シンシアも、石女(うまずめ)だの何だのと陰口を叩かれていたが、ベネットの知る限り、ダニー本人はシンシアを一言も責めなかった。あれはあれなりに妻を愛しておるのだろう、などと思う。</p><p>それはさておき、孫の話だ。</p><p>何事もなければ半年もしないうちに、ダニーとシンシアの子が生まれるだろう。そうなるとジェシカ一辺倒の生活も、どうしても終わらざるを得ない。</p><p>おじーちゃん！　のどかわいた！</p><p>おお、じゃあお茶を淹れてあげようかねぇ</p><p>よっこらせ、と席を立つべネット。</p><p>―ベネットも長男だから、わかる。両親は自分を大切にしてくれたが、年の離れた弟が生まれたときはそっちにかかりきりで、自分がおざなりにされたように感じたものだ。実際、赤子は手がかかるので仕方がないのだが―できればジェシカには、あんな思いはさせたくない。</p><p>老骨には少々堪えるが、どちらも同じくらい可愛がらねば―！　と決意を新たにする。</p><p>孫と言えば、サティナにもうひとりいるのだが、赤子の頃に一度顔を合わせたのみで、それ以来会えていない。向こうは自分のことなど覚えていないだろう、と思うと少し寂しくもある。サティナとタアフ、自分のような老人が気軽に行き来できる距離ではないが、本格的に隠居したら再び娘夫婦を訪ねるのもいいかもしれない―</p><p>―お義父様</p><p>と、背後から、か細い声がかけられる。</p><p>振り返れば、色白の美しい女が顔を覗かせていた。ダニーの妻シンシアだ。まだ妊娠四ヶ月で、ゆったりとした服を着ていることもあり、その腹は目立たない。</p><p>美人薄命―というわけではないが、これまで、シンシアは気を抜けばふっと消えてしまいそうな儚い雰囲気をまとっていた。だが、妊娠して以来、少しずつ生命力に満ちてきているように思える。やはり母は強し、ということか―</p><p>どうかしたかの？</p><p>お客様みたいです</p><p>シンシアの知らせに、ベネットは顔をしかめた。</p><p>ベネットはあまり、この手の来訪者が好きではない。シンシアが『お客様』と呼ぶからには身内ではなく、定期的に村を訪ねてくる行商人でもない。その『客』とやらは何かしら『用事』があってこの村にやってくる。そしてその『用事』は、往々にして厄介事だ。</p><p>客人かのぅ……ジェシカや、おじいちゃんは、ちょっとお客さんの相手をしてくるからね。おとなしくしてるんじゃぞ</p><p>ん～～……わかった</p><p>存外、聞き分けのいいジェシカは、こてんと首を傾げてから、頷いた。その様子がまた可愛らしく、ベネットはニコニコと笑う。</p><p>シンシア、のどかわいた～！</p><p>はいはい。じゃあ、お茶でも淹れましょうね</p><p>そんな二人の声を背後に、玄関へと向かうベネットは好々爺然とした、よそ行きの表情を貼り付ける。誰が来たんだ、などと思いながら外に出ると―</p><p>―やあ。久しいな、村長</p><p>待ち受けていたのは。</p><p>……ケイ殿</p><p>ベネットにとって、深い因縁がある異邦の青年だった。</p><p>†††</p><p>村長宅のリビングに、村の主だった面々が集っている。</p><p>村長のベネット。その次男、クローネン。狩人のマンデル。そしてケイだ。</p><p>いやはや、お久しぶりですなケイ殿……</p><p>席についたベネットが、ニコニコとにこやかに笑いながら言う。</p><p>そうだな……半年ほどにもなるか</p><p>長かったような、あっという間だったような。この村を訪れた転移直後のことを思い出し、ケイも感慨深く思う。</p><p>（イグナーツの報復がなくてよかった……）</p><p>イグナーツ盗賊団の構成員を二人、仕留めきれずに逃したこと。あのまま逃げ帰ったのか、それとも野垂れ死んだのか―定かではないが、タアフ村が無事だったことは確かだ。当時、タアフ村より自分たちの身の安全を取ったことに関して、罪悪感がないと言えば嘘になるが、後悔もしていない。</p><p>ただ、せめて罪滅ぼしとして、今回は村側に花を持たせられれば、とは思う。</p><p>ところで、ダニー殿は？</p><p>リビングの面々に、次期村長たる男の顔がないことに気づき、ケイは素朴な疑問を投げかける。ベネットがビクッとしたような気がした。</p><p>あ、ああ……倅は今、ちょうどサティナに買い出しに出ておりまして……</p><p>おお、そうだったのか</p><p>自分はサティナから来たというのに、入れ違いのようで少し可笑しくもある。</p><p>まあ、ダニーはアイリーンへのセクハラ疑惑もあり、会っても気まずいだけなのでこの場にいなくて良かったかもしれない。</p><p>……などとケイはのんきに考えていたが、ケイがダニーに言及した時点で、タアフ村の面々は充分に気まずそうであった。</p><p>最初、この村に訪れたときは、右も左もわからず苦労していたところ、助けていただいて感謝している。お陰様で、今はアイリーンも俺も元気でやっているよ。改めてありがとう</p><p>なんのなんの。お礼を申し上げなければならぬのは手前の方です、孫娘を救っていただいただけではなく、今でも大変お世話になっているようで……</p><p>ベネットが深々と頭を下げる。</p><p>―孫娘、と言われてすぐにはわからなかった。</p><p>しかし思い出す。ベネットの娘、キスカ。そしてキスカの子がリリー。</p><p>（そういや祖父と孫の関係なのか……）</p><p>ベネットとは転移直後の数日しか付き合いがなく、逆にリリーは誘拐事件に魔術の弟子にと深い関わりがあるので、ベネットとリリーが頭の中で結びついていなかった。ケイにとっては、ベネットの孫というより木工職人モンタンの娘、という印象が強いこともある。</p><p>リリーは……元気にしているよ。一時期は、落ち込んでいたが……</p><p>事件のトラウマか、はたまた麻薬への依存症か―精神的に不安定で、しきりに蜂蜜飴を求めていたリリーだが、近ごろは魔術の修行に打ち込んでいることもあり、かなり改善の傾向が見られている。</p><p>以前のように、明るく笑ってくれることも増えてきた。</p><p>最近、リリーは精霊語の勉強を始めたんだ。彼女はとても物覚えがいい。精霊と契約さえできれば、将来は立派な魔術師になるだろう。俺が保証する</p><p>現在、ケイとアイリーンが二人がかりであれこれ教えている。それになんといっても、将来的には”黒猫(チョンリーコット)“による魔力鍛錬も解禁する予定だ。魔術は才能よりも、知識と鍛錬が物を言う世界。その鍛錬の部分を安全かつ堅実にこなせるのだから、成長は確約されたようなものだ。</p><p>そうですか……あの子が、魔術師に……</p><p>ベネットは、あまり実感が湧かない、と言わんばかりの表情で頷いている。その隣のクローネンに至っては、別世界の話を聞くような顔でポケーッとしていた。</p><p>実のところ、ワシはリリーが赤子のころ、一度顔を合わせたのみでしてな。あの子が今どんな風に成長したのか、いまいちピンとこんのです</p><p>ああ……なるほど。そうそう気軽に行き来はできないしな</p><p>ケイのように騎馬をぶっ飛ばしても、数時間はかかる道のりだ。ベネットに騎乗の心得があるかはしらないが、村には農耕馬が一頭しかいなかったし、基本的に移動は徒歩になるだろう。</p><p>あの距離を歩くのは骨だな、と思い返しながら、ケイは頭をかく。</p><p>すまない、気が利かなかったな。キスカの手紙の一つでも配達できればよかったんだが、俺も急いで来たもので―</p><p>―お茶をお持ちしました</p><p>と、リビングの扉がノックされ、ポットと木製のコップを載せたトレイを手に、色白の麗人―シンシアが姿を現す。</p><p>おっと</p><p>腕組みをして黙っていたマンデルが、素早く席を立った。</p><p>身重(みおも)のご婦人のお手をわずらわせるのは、しのびない</p><p>そう言って、紳士的にシンシアからトレイを受け取るマンデル。</p><p>……</p><p>しかしシンシアは礼のひとつも言わず、サッと顔を背けてリビングを出ていってしまった。目すら合わせないとは、随分冷たい対応だ。あのシンシアという女性、かなり礼儀正しい人物であったと記憶しているが、あんな人だっただろうか……？　と疑問に思うケイをよそに、マンデルは気にした風もなく、各人の前にコップを置き、茶を注いでいった。</p><p>ベネットとクローネンは、何とも複雑な顔をしている。同情と憐憫と気まずさが入り混じったような―</p><p>（なんだこの空気……）</p><p>困惑するケイをよそに、 さて とベネットが切り出した。</p><p>ケイ殿。いかなるご用向で我が村に？</p><p>本題の時間だ。</p><p>ああ。実は、狩人としてマンデルを借り受けたく思う</p><p>……マンデルを？　理由をお聞きしても？</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩る</p><p>は？</p><p>ベネットが呆気に取られる。隣のクローネンも同じようにポカンとしており、その表情があまりにも似通っていて、可笑しかった。</p><p>実は今日、ウルヴァーン郊外の開拓村から手紙を受け取ってな―</p><p>順を追って説明する。ケイが冗談ではなく本気(マジ)で言っていることを察したベネットは、頭痛をこらえるように額を押さえ、クローネンは わからねぇ……おれにはなにも…… と思考放棄したかのようにホゲーッとしていた。</p><p>そう……ですか、そのためにマンデルを……</p><p>唸り声を上げたベネットは、深い皺の刻まれた顔を厳しく引き締める。</p><p>……ケイ殿。個人的に大恩ある身としては、非常に心苦しいのですが、マンデルは我が村にとって貴重な人材。斯様に危険な狩りに参加させることは、村長としては承諾いたしかねます</p><p>マンデルの娘さんたちにも同じことを言われた</p><p>ケイは動じることなく頷く。</p><p>しかし、俺とて、友人を徒(いたずら)に危険に晒したいわけではない。そこで安全策として、マンデルには専用の馬を一頭用意する。彼には騎乗の心得があるだろう？　いざというときは迅速に退避できるはずだ</p><p>ケイはマンデルに視線をやりながら言う。 友人 と言われてマンデルは少し嬉しそうだった。</p><p>そも、絶対に、とは言い切れないが、マンデルには”森大蜥蜴”の敵意は向きづらいはずだ。“森大蜥蜴”の注意を引く囮役は、俺の相方がする。そして主に攻撃を担当するのは俺だ</p><p>相方、ですか？</p><p>アイリーンだ</p><p>…………</p><p>ベネットはクローネンと顔を見合わせた。アイリーン―サティナではリリーを救い出し、“正義の魔女”と名高い彼女だが、この村の面々からすると毒矢を食らって寝込んでいた印象が強い。</p><p>……森の中で”森大蜥蜴”並の速さで動き回れるのは、公国広しといえど、おそらく彼女くらいのものだぞ。それに影の魔術も使えるからな……</p><p>ベネットたちの懸念を感じ取ったケイは、言い含めるように注釈する。実際のところ”森大蜥蜴”は昼行性なので、影の魔術の出番はないだろうが……。</p><p>うぅむ……しかし……</p><p>いずれにせよ、マンデルの役目は、横合いから魔法の矢で動きを鈍らせることだ。“森大蜥蜴”とことを構える時点で、危険なのは確かだが、正面切ってやり合う俺よりは安全だ。万が一のことがあっても、彼が逃げる時間くらいは稼ぐことを刃に誓おう</p><p>腰の短剣を抜き、改めて宣誓する。</p><p>ぬぬぅ……。マンデル、近ごろの森の様子は？</p><p>ベネットはそれでも気が進まない様子だったが、マンデルに水を向ける。</p><p>森は静かなもんだ。……収穫も片付いたし、獣も荒らしには来ないだろう。おれの出番はそれほどない。罠の扱いなら『フィル坊』にも一通り仕込んであるしな</p><p>静かに答えるマンデル。フィル？　と首をかしげるケイに気づいて、</p><p>フィルは、マリア―おれの上の娘の婚約者だ。我が家に婿入りして狩人を継ぐことになっている。弓扱いはまだまだだが、罠に関しては筋がいい</p><p>ほう、そういうことか</p><p>納得するケイをよそに、クローネンと何事かコソコソ話し合っていたベネットは、咳払いして話を戻す。</p><p>……ケイ殿。事情はわかりました。しかしマンデルは我が村の防衛をも担う人物でもあり、そう容易くお貸しするわけには参りません。近ごろはこの辺りも平和なものではありますが、それでもマンデルの不在は大きいですからの</p><p>公国の各所で暴れていたイグナーツ盗賊団も、とんと噂を聞かなくなった。ケイが大打撃を与えたお陰かもしれない―とは思ったものの、ベネットは口には出さずに堪える。話す前からケイに先回りされているような感覚だった。</p><p>ふむ。それは当然のことだな。マンデルほどの人物を借り受け、さらには村にリスクを負わせるとなると、無料(タダ)で、というわけにはいかないだろう。相応の対価は払わせていただきたい</p><p>……もちろん、相応の対価をいただけるならば……しかし、どれほど期間をご予定されているので？</p><p>それは、難しいな。相手次第だ</p><p>痛いところを突かれ、ケイも顔をしかめる。</p><p>仮に、ケイたちが駆けつけるころには時既に遅く、ヴァーク村が壊滅していたとしても、そのまま帰るわけにはいかない。おそらく”森大蜥蜴”は近辺に潜んでいるはずだ。他の村に被害が出る前に、引きずり出して叩く必要がある。</p><p>たらふく食った”森大蜥蜴”が満足し、そのまま 深部(アビス) に引き返す―そんな可能性もなくはないが、ケイの見立てでは低い。魔力の薄い地において、人間は野生動物に比べると『濃いめの』魔力を持つ生物だ。そして数も多い。味を覚えたからには『次』を求めるはず―</p><p>……最短でも２週間。長引けば……１ヶ月といったところか。討伐成功か否かにかかわらず、２５日が過ぎればマンデルは離脱させる。移動の時間を鑑みても、１ヶ月とちょっとでタアフ村に帰還できる、というわけだ。これでどうか？</p><p>２５日というのは、ゲーム内での経験を現実世界に拡張させ、ケイが適当に考えた日数だ。具体的な根拠があるわけではないが、それぐらい時間をかければいずれにせよ決着は着く、と踏んだ。</p><p>それならば……まあ……。マンデルは、それでも構わないのか？</p><p>もちろんだ</p><p>不承不承、といった様子でベネットが問いかけるが、マンデルは是非もないとばかりに即答。この男、ノリノリであった。</p><p>なら決まりだな。期間は二週間から一ヶ月。そして俺はそちらが満足するだけの相応の対価を払う、と</p><p>よしよし、と頷くケイ。まだ対価の中身すら交渉していないというのに。</p><p>それでよろしいか？　ベネット村長</p><p>……わかりました。それで、対価についてですが―</p><p>いや、悪いがちょっと待ってくれ。マンデルの加勢が確定したからには、知らせを送りたい</p><p>ベネットを手で制し、ケイはおもむろに席を立つ。</p><p>知らせ？　と首をかしげる面々をよそに、リビングの雨戸を開け放つ。</p><p>日が傾いてきたな……</p><p>空を見上げ、ううむ、と唸るケイ。できればサティナに日帰りしたかったが、秋の暮れ、日が短くなってきた。日が沈むとサティナの市壁の門は閉じられる。閉門は正確な時間が決まっているわけではなく、衛兵たちの判断で閉められるので（仮にまだ待っている人がいたとしても！）、今から全力で戻っても、ギリギリで間に合わない可能性が出てきた。</p><p>……マンデル。明日の明け方、村を出てサティナへ向かおう。馬は俺が連れてきたスズカを貸す。それでもいいか？</p><p>ああ。……しかし、ケイの馬か。おれに御しきれるかな？</p><p>大丈夫だ、スズカは大人しいからな</p><p>なにせ草原の民から殺して奪った上で懐いた馬だ、とケイは胸の内で呟く。サスケは、人懐っこく見えてケイたち以外は乗せないが（面識のあるリリーやエッダならイケるかもしれない）、スズカならマンデルでも問題ないだろう。</p><p>では……</p><p>空を見上げて、ケイは腰のポーチから澄んだ緑の宝石(エメラルド)を取り出す。</p><p>おお……！</p><p>思わず、ベネットは感嘆の声を上げた。ケイの指先できらめくそれは、大粒でかなり上質なもの。まさかあれが対価なのか―？　と期待に胸を高鳴らせたベネットは、しかし次の瞬間、悲鳴を上げることになる。</p><p>Siv ! Arto, Kaze no Sasayaki.</p><p>ケイが呪文を唱えると同時、その見事なエメラルドに無数のヒビが入ったかと思うと、ざらあっと崩れ、虚空に溶けるように消えてしまったからだ。</p><p>ぞわ、と場が異様な気配を孕む。</p><p>窓から踊るように風が吹き込む。</p><p>そして一同は、羽衣をまとい艶やかに笑う少女の姿を幻視した。</p><p>『アイリーン、話はまとまった。明日の朝、８時頃にはマンデルと一緒にサティナへ戻る。マンデルのために馬を一頭用意してもらえるよう、ホランドに頼んでおいてくれ。頼んだ』</p><p>一息に言い切ったケイは、</p><p>Ekzercu(執行せよ).</p><p>くすくすくす、と少女の笑い声。</p><p>― Konsentite ―</p><p>びゅごう、と風が渦を巻いて去った。</p><p>―全てが幻だったかのように、穏やかな午後の空間が戻ってくる。</p><p>……ケイ、殿……？</p><p>いや、なに。サティナのアイリーンに声を送った</p><p>なんでもないことのように、笑って答えるケイ。</p><p>あれが……</p><p>ベネットは、未だ衝撃から立ち直れなかった。実は、この部屋の面々は、ケイの『声を届ける魔術』を体験したことがある。アイリーンが毒矢に倒れた際、毒の種類を突き止めたケイから、服用させるべき解毒剤をあの魔術を通して指示されたのだ。</p><p>だが、まさか―</p><p>（―あれほどの宝石を対価とするものだったとは！）</p><p>愕然。</p><p>ベネットは村長として、普通の村人より遥かに多くの経験・知識を持つが、流石に魔術は埒外だった。</p><p>知らなかった。あんな、村では一財産になるような宝石を、いとも容易く触媒として使い捨てるとは。</p><p>リリーが魔術の修行を受けている―その意味を、ベネットはまた違った側面からまざまざと見せつけられた気分だった。</p><p>そして何より、それを為したケイだ。なぜこうも平然としていられるのか？　惜しくはないのか？　あんなに素晴らしい宝石を捧げてしまっても？</p><p>……む？</p><p>そんなベネットをよそに、ケイは何かに気づいた様子で、そそくさと窓から距離を取る。</p><p>―ケイが数歩、窓の日差しから離れると、途端に、部屋の空気が再びぞわりと異様な気配を孕んだ。</p><p>ケイの足元の影が、うごめく。</p><p>影法師のように壁へと伸びたそれは、ドレスをまとった貴婦人の輪郭を取る。</p><p>『―了解。氷の矢は２０本。対価はとびきりの矢避けの護符』</p><p>影絵の文字を描いた貴婦人は、優雅に一礼して、ふわりと消えた。</p><p>解けるようにして、ケイの影が元に戻る。</p><p>まだ日が高いのによくやる……</p><p>窓の外を見ながら、ケイはニヤリと笑う。</p><p>アイリーンが契約する”黄昏の乙女”ケルスティン―影の魔術は、夕方から夜にかけては低燃費だが、日中は消費魔力が激増する特徴がある。</p><p>だが。“黒猫”の恩恵に与っているのは、ケイだけではない。</p><p>アイリーンもまた着々と成長しているというわけだ―日中に影絵のメッセージを送るくらいなら、どうということはない程度には。</p><p>（それにしても、氷の矢が２０本、か）</p><p>依頼を受けたコウは、ケイたちのために奮発してくれるらしい。『対価はとびきりの矢避けの護符』―代わりに出来の良い風のお守りを寄越せ、ということか。</p><p>（この件が片付いたら、とびきり高性能なやつを作ってみるか。持ち主の魔力を消費するタイプでもコウなら平気だろう……）</p><p>ふふっ、と穏やかに笑うケイ。</p><p>そんな彼を―部屋の面々は、畏怖の念をもって見つめていた。</p><p>今しがたの影の精霊。『正義の魔女』―影を操るアイリーンの仕業であることは一目瞭然だ。ケイが声を送ったなら、アイリーンは影絵を返してきた―</p><p>サティナ。騎馬を全力で駆けさせても、数時間はかかる遠方の都市。そこにいるアイリーンとの、ほぼリアルタイムでの意思の疎通。</p><p>ネットに馴染みがあるケイとアイリーンからすれば、何でもないようなことだったが、この世界の住人にとっては頭をぶん殴られたようなカルチャーショックだった。</p><p>仮に伝書鴉(ホーミングクロウ)を飛ばしても、一時間や二時間はかかるだろう。その距離の通信が―まさに一瞬で―</p><p>魔術師とは皆、こ(・)う(・)い(・)う(・)も(・)の(・)なのか？</p><p>ベネットは目眩がしそうだった。隣でのんきに すげぇ…… とただびっくりしているだけのクローネンが羨ましい。</p><p>おっと、今の影の魔術に関しては、他言無用で頼む。一応、あれでも秘奥の類なんだ。他の者に軽々しく話したら呪われるから注意してくれ</p><p>影はどこからでも見ているからな、と言いつつ、人差し指を唇に当てて茶目っ気たっぷりにウィンクするケイ。全員が―マンデルさえも―ぎょっとしたように身を仰け反らせた。</p><p>も、もちろんです、決して、決してそのようなことは……</p><p>冷や汗をかきながらブンブンと首を振るベネット。 頼むよ とケイは苦笑しているが、魔術の秘奥？　ならなぜそんなものを軽々しく見せつけてくれたのか。それに呪いだと？　なぜ笑っていられる？　何が可笑しいのか？　理解できない―</p><p>さて、すまなかった。それで対価の話だったな</p><p>再び席について、ケイが話を戻す。</p><p>ベネットも気づいた。すっかり忘れていた、報酬の話がまだ済んでいなかったことを。</p><p>そ、そうですな……対価……</p><p>服の袖で額の汗を拭いながら、交渉に向け考えを巡らせようとするベネット。</p><p>ふむ。正直なところ、俺は、どれだけ払えばいいのかわからんのだ。助力を願うマンデルにこちらから値段をつけるのも、無粋な気がしてならないしな</p><p>マンデルに微笑みかけながら、ケイは机の上で手を組む。</p><p>―なので、そちらに決めていただきたい。何がどれだけ必要だ？</p><p>ごくごく自然体で、問うた。</p><p>……それは</p><p>ベネットは言葉に詰まる。</p><p>ケイは、今回、村側に花を持たせるつもりだ。それは以前、気持ちの上で村を見捨てた罪滅ぼしでもあり、マンデルの助力を重要視していることを示すためでもあった。</p><p>また、狩りが成功裏に終われば、“森大蜥蜴”の素材で莫大な収入も期待できる。</p><p>だからベネットに多少ふっかけられても、全く構わないと考えていたのだ。</p><p>―その、圧倒的な『持つ者』の余裕に、ベネットは気圧された。</p><p>今の俺の手持ちで渡せるものとなると……</p><p>懐に手を入れようとして、革鎧と鎖帷子の存在を思い出したケイは、 すまん、マンデル手伝ってくれ と声をかけ、いそいそと武装を解除し始めた。</p><p>まずは革鎧を脱ぎ、椅子に置く。ところどころに傷がついているが、歴戦の風格を漂わせる逸品。</p><p>以前、あの革鎧の手入れを頼まれた村の職人が、 “森大蜥蜴”の革らしい！ と大興奮していたのを思い出す。当時のベネットは 確かに見事な革鎧だが、流石に話を盛っているのだろう と鼻で笑ったものだ―</p><p>艷(・)や(・)か(・)な(・)青(・)緑(・)色(・)の革鎧。</p><p>今となっては笑う気にもなれない。</p><p>っと、どこにしまったか……</p><p>これまた最上級品に近い鎖帷子を脱いで、胸ポケットをごそごそと探るケイ。</p><p>とりあえず邪魔な懐中時計を外に出しておく。鎖にぶら下がって無造作に揺れるそれを、ギョッとして凝視するベネット。</p><p>えーと、金と、触媒と、……これもアリか</p><p>懐から硬貨が詰まった革袋、宝石類を包んだ巾着を取り出し、机に置く。さらに腰のベルトのポーチから、いくつか護符を抜き取った。</p><p>こんなところだな。まずはコレを渡しておこう―アンカの婆様は元気か？</p><p>布にくるまれた護符を差し出し、唐突にケイが問う。</p><p>アンカ―村の呪い師の婆様のことだ。前回の訪問時、ケイとアイリーンが精霊語をレクチャーした結果、精霊に祈願し病魔を退ける簡単な呪術を扱えるようになり、豊作祈願に病気の治療にと大活躍している。</p><p>ええ、それはもう、近ごろはむしろ若返ったようで……</p><p>そうか。それはよかった、ならこれが使えるな</p><p>……それは、なんなんだ？</p><p>恐る恐る、といった様子でクローネンが尋ねる。これまで終始圧倒されて黙り込んでいたクローネンだが、好奇心が勝ったらしい。</p><p>使い捨ての”突風”の護符だ。呪文を唱えれば、大の男でも吹っ飛ばすような風を、ピンポイントで吹かせられる</p><p>―まさかの魔道具。それも攻撃用の。ヒュッと引きつったような呼気を漏らしビビるクローネン。</p><p>ああいや、それほど怖がる必要は……あるか。核になってる宝石部分は絶対に傷つけないでくれ。暴発して大変なことになる</p><p>だから布でくるんであるわけだが、というケイの説明にマンデルさえ顔をひきつらせる。</p><p>それは……その……それが対価ということですかの？</p><p>確かに価値は凄そうだが、こんなもん渡されても困る、とばかりにベネット。</p><p>いや、これは迷惑料みたいなもんだ。マンデルがいない分、村の戦力が落ちるだろう？　万が一ならず者が村を襲ったら使うといい。強そうなヤツを二、三人吹っ飛ばしてやれば、相手も腰が引けて戦いやすくなる。多少魔力を使うが、アンカの婆様なら問題ないはずだ。あとで挨拶かたがた、起動用の呪文も教えておくよ</p><p>タイミングは難しいが矢を逸らすのにも使えるぞ、騎馬の突撃だって工夫すれば止められるぞ、などと、自作魔道具の活用法を生き生きとした様子で語るケイ。</p><p>…………</p><p>迷惑料―迷惑料とは―そんな言葉がベネットの頭の中でぐるぐる回る。</p><p>で、対価の方だが、どっちがいい？</p><p>ずい、とベネットの前に、革袋と巾着袋を押し出すケイ。</p><p>ベネットは無言で、まず革袋を検めた。―中にぎっしりと、銀貨が詰まっていた。何枚あるか、数える気にもならない。村の収入の何年分だ？　計算しようとするが思考が上滑りするばかりで、頭がうまく働かない。</p><p>仕方ないので、巾着袋を調べる。―先ほどケイが使い捨てたような、良質なエメラルドの原石が、お互いが傷つかないように小分けしてごろごろと入っていた。</p><p>ちなみに、価値は宝石の方が高いかな</p><p>俺としてもそっちを取ってもらった方が助かるかもしれない、とケイ。</p><p>えぇ……？</p><p>なぜ高い方が助かるのか理解できず、妙な声を上げるクローネン。</p><p>確かに、……見事な宝石ではありますが、ワシらには換金の手段が限られておりますからの。倅(ダニー)ならサティナの街でさばけるかもしれませんが、宝石商の宛てとなると……それに、これほどの宝石は経験がありませんし、うまく交渉できるかどうか……それならば現金の方が―</p><p>コーンウェル商会を訪ねればいい</p><p>ケイはニヤリと笑う。</p><p>―アイリーンと俺はコーンウェル商会の専属魔術師でもある。俺からの紹介ともなれば無下には扱われない。どうだ？</p><p>コーンウェル商会……専属……</p><p>ベネットは今日何度目になるかわからない衝撃を受けた。</p><p>娘(キスカ)の手紙から、ケイたちがコーンウェル商会と交流があることは知っていた。だが専属契約まで結んでいることは知らなかったのだ。何分、ケイたちが本格的に魔術師として活動し始めたのはここ１～２ヶ月のことで、最後にキスカの手紙を受け取ったのが数ヶ月前だ。知りようがなかった。</p><p>そして、宝石について。</p><p>ケイからすれば、この宝石はコーンウェル商会から割引価格で購入したもので、ベネットがコーンウェル商会に売るのであれば、それらは再び魔道具の材料として手元に『戻ってくる』。どこの商会に使われるかわからない現金を渡すより、コーンウェル商会、ひいては自分たちに利益が還元される可能性が高いわけだ。</p><p>また、ベネットからすれば、ケイの口利きのもとコーンウェル商会で安全に取引ができる。コーンウェル商会に問い合わせれば医薬品でも嗜好品でも、常識的なものはほとんど揃うだろう。宝石を対価に大量の、かつ良質な物資を得られるのだ。何よりコーンウェル商会とつながりができる。その利益は計り知れない―</p><p>可愛い可愛い孫娘(ジェシカ)のことが頭をよぎる。麻痺していた脳がここにきて、バチバチとそろばんを弾き始めた。</p><p>……ケイ殿</p><p>ベネットは深々と頭を下げた。</p><p>こちらの宝石を、対価としていただけませぬか。それと、もしよろしければ一筆したためていただけると、非常に助かるのですが……</p><p>ああ、そうだな、何か証拠があった方がいいか。もちろんだとも</p><p>鷹揚に頷くケイ。</p><p>（なんとも、まぁ……）</p><p>合意の握手をしながら、ベネットはもう笑うしかなかった。</p><p>半年前―</p><p>そう、久々といっても、たった半年前だ。ケイがこの地を訪れたのは。</p><p>あのとき、この青年は右も左も分からない、怪しい身元不詳の異邦人だった。</p><p>だが、今の彼を見よ。まるで別人ではないか。圧倒的武力はそのままに、魔術の秘奥を使いこなし、財力も人脈も並外れている。武闘大会でケイと再会したマンデルが、村に戻ってからしきりにケイを褒め称えていたが、ようやくその心がわかった。</p><p>（交渉にもならん）</p><p>本来、こういう細々した交渉というのは、対等に近い立場でするものだ。</p><p>互いの『格』が隔絶していては、交渉の余地などない。弱い方が強い方におもねるだけ。そういう意味では、今回の『交渉』は大成功といってもいい―</p><p>（ノガワ＝ケイチ、か）</p><p>あの夜の名乗りを思い出す。</p><p>草原の民の格好をして家名持ちか？　などと思ったものだが。</p><p>（本当に、家名持ちだった、ということかの……）</p><p>これだけの財を持ちながら、自然体。</p><p>故郷では一角の人物だったのだろう―などと納得するベネット。</p><p>実際は、ゲーム時代の感覚を引きずっていることに加え、魔道具の売れ行きが好調で金銭感覚が狂っているだけなのだが。</p><p>何はともあれ、ケイはマンデルの同行がスムーズに決まり、ごきげんだ。</p><p>それが全てだった。</p><p>†††</p><p>リビングの隣の部屋。</p><p>壁にぴったりと身を寄せる、憂いを含んだ面持ちの女がひとり。</p><p>かすかに響く会話に、じっと耳を澄ませている。</p><p>話し合いは一段落したのか、今は和やかな笑い声が―</p><p>―シンシア？</p><p>と、足元からの舌足らずな声がして、ビクッと震えた。</p><p>見れば、ジェシカが、つぶらな瞳でこちらを見上げている。</p><p>……なにしてるの？</p><p>幼女の問いに、色白の女―シンシアは なんでもないわ と微笑む。</p><p>ジェシカ。おやつにしましょう</p><p>！　わーい！　おやつ！</p><p>ジェシカが喜んで部屋を出ていく。</p><p>何事もなかったかのように、シンシアもゆっくりと、そのあとを追った。</p><p>―かすかに膨らんだ腹を、心配げに撫でながら。</p><p>90. 出発</p><p>前回のあらすじ</p><p>（不穏）</p><p>翌朝。</p><p>うっすらと空が明らむ中、ケイとマンデルはタアフ村を発つ。</p><p>お父さ～ん！　気をつけてーッ！</p><p>無事に帰ってきてね～ッ！</p><p>マンデルの二人の娘はもちろん、ベネットやクローネンをはじめとした村人たちも見送りに出ている。シンシアはいなかったが、ケイの鷹並の視力は、村長屋敷の窓から心配そうにこちらを覗き見る彼女の姿を捉えていた。</p><p>―なぜ堂々と見送らないんだろう？　マンデルと確執でもあるのか？</p><p>などと疑問に思いつつも、ポンッと軽くサスケの腹を蹴るケイ。</p><p>常歩(なみあし)から駈歩(かけあし)へ。サスケがゆるやかに加速していく。マンデルの駆るスズカも問題なくついてくる。</p><p>そうして二騎は、木立を抜け、草原へと駆け出した。</p><p>草原の緑と、朝焼けに燃える空の対比が美しい。思わず見惚れそうになるが、ぶわっと吹き寄せた風の冷たさにケイは身震いした。</p><p>秋でこれなら、冬になったら相当な寒さだろうな―と革のマントの襟を手繰り寄せながら、顔布を装着する。白地にひらひらと踊る赤い花の刺繍。これで顔面が冷えずに済む。</p><p>それ、相変わらず使ってるんだな</p><p>隣のマンデルが、刺繍に目を留めて声をかけてきた。</p><p>ああ。重宝してるよ</p><p>この顔布は、イグナーツ盗賊団との戦闘で破損してしまったものだ。それをシンシアが修繕し、花の刺繍までしてくれた。基本的には、戦闘時に表情を読まれにくくするために使うのだが、そこに可愛らしい花のモチーフをあしらうとは―独特なセンスを感じる。</p><p>しかし……あんまり付けない方がいいかな？</p><p>以前、マンデルに 草原の民と誤認されるから気をつけろ と言われたことを思い出し、顔布に手をかけるケイ。</p><p>いや。……どうせおれたちしかいない。大丈夫だろう</p><p>そうか</p><p>それと、昨日はありがとう。……娘二人も呼んでくれて</p><p>昨夜、あのあとケイは村長屋敷で歓待された。</p><p>マンデルが仕留め、熟成させていたとっておきの鹿肉が夕餉に振る舞われた。マンデル本人はもちろん、その娘二人も同席しての食事会だ。娘たちを招くことを提案したのはケイで、突然父親を連れ去ってしまうことへの詫びも兼ねていた。</p><p>食事の席で、ケイは武闘大会以降の旅路を語った。村に着くなり大物狩りの話になって、マンデルにもその後の経緯を伝えていなかったからだ。</p><p>ウルヴァーンで名誉市民権を取得するために奔走したこと。図書館での調査で『魔の森』の伝承を見つけたこと。緩衝都市ディランニレンを抜けて北の大地を放浪したこと。水不足に苦しみ、独力での北の大地横断を諦めてディランニレンへ引き返したこと。ガブリロフ商会の隊商に参加し、馬賊と激突したこと―</p><p>己の武勇伝に関しては、少し誇張した。自分はそれなりに武力があるから、無事に狩りを終わらせてマンデルを無事に帰す―という、娘たちに向けてのメッセージのつもりだったのだ。しかし当の本人たちは、慣れない村長屋敷での食事会に緊張して、それどころではなかったようだ。</p><p>招いたのは余計なお世話だったかもしれないな、と苦笑したケイは、昨夜の席を思い返す―</p><p>†††</p><p>『―それで、しこたま矢を食らってハリネズミみたいになってな。そのときの傷がこれだよ』</p><p>食後の葡萄酒を味わいながら、席の後ろに置いてある革鎧を示すケイ。</p><p>『ずいぶん多いな。……これ、全部が？』</p><p>『ああ』</p><p>『……よく生きてるな』</p><p>革鎧に近づいたマンデルが、補修された傷跡を指でなぞりながら言う。同席したクローネンが『化け物かよ』と呟いて、横合いからベネットに頭を叩かれていた。</p><p>『“高等魔法薬(ハイポーション)“のおかげさ』</p><p>ケイは何気なく答える。ハイポーションと聞いて、ランプの明かりの下、ベネットの目がギラッと光った。</p><p>『もっとも、この戦いで飲み干してしまったが』</p><p>当然、それに気づいた上で、しれっと付け加えるケイ。</p><p>タアフ村では以前、ハイポーションの存在を明かしている。村を去る際、特に口止めはしていなかったが、今のところ噂が広まる気配もないようだ。しかし、ケイたちがサティナへの定住を決めた以上、 あいつは奇跡の霊薬を持っている と近隣で噂されるのはまずい。</p><p>なので、もう『使い切った』ことにしてしまおう、というわけだ。</p><p>（まさかサティナに定住することになるとは、思ってもみなかったからな……）</p><p>転移直後ということもあり、脇が甘かった。アイリーンを助けるためだったので致し方ないことだったが。</p><p>ちなみにポーションは、少量だがまだ残っている。これ以上、使う機会に恵まれないことを祈るのみ……。</p><p>『まあ、後悔はしていない。全てを出し切らなければ、とてもじゃないがあの戦いを生き残ることはできなかった』</p><p>『ううむ……そうでしたか……』</p><p>なぜか口惜しげな表情のベネット。仮にハイポーションが潤沢にあったところで、譲る気はさらさらないので安心してほしい―</p><p>そうして、ポーションが原因のゴタゴタを避けるため隊商を離脱したこと、ついに魔の森へたどり着いたことなどを話す。霧の中に棲む、不気味でおぞましい化け物たち。それをどうにかやり過ごし、赤衣の賢者と邂逅し、『故郷』への帰還が難しいことを教えられ、公国へ戻ってきた―</p><p>『あとは、知っての通りだ。そんなわけで、アイリーンと俺は、サティナに移住することにしたのさ』</p><p>ケイが長い長い冒険譚を語り終える頃には、すっかり夜も更けていた。明日は早いのでそこで解散となり、ケイは以前アイリーンが寝かされていた村長屋敷の一室で、柔らかい上等なベッドの感触を楽しみつつ就寝した―</p><p>―しかし、マンデル</p><p>しばらく無言で駆けていたが、ふと気になることに思い当たり、ケイはマンデルを呼んだ。</p><p>ん、どうした</p><p>ソフィア嬢は、本当に大丈夫だったのか？　さっきの見送りのとき、随分とやつれているようだったが……</p><p>マンデルを心配げに見送っていた娘二人―そのうち妹のソフィアは、目の下に濃いクマを作って、どこかげっそりとした様子だった。</p><p>心配のあまり、よく眠れなかったのだろうか……。</p><p>ああ、あれか</p><p>が、マンデルはクックックと喉を鳴らして、笑いを噛み殺す。</p><p>どうやら、昨日のケイの話のせいらしいぞ</p><p>……え？</p><p>“魔の森”の化け物の話が、よほど恐ろしかったらしい。そのせいでなかなか寝付けなかったそうだ</p><p>…………</p><p>思っていたのと大分違う理由に、思わずケイは閉口した。それを見てマンデルが愉快そうに、声を上げて笑い出す。</p><p>やっぱり、お招きしたのは余計なお世話だったかもしれない―と、ケイは渋い顔をするのであった。</p><p>†††</p><p>それから、ケイとマンデルがサティナに到着したのは、おおよそ二時間後のことだった。</p><p>マンデルを連れていたにもかかわらず、スズカの速度が落ちることもなく、行きよりもスムーズに帰ってこれた。昨日、思い切り走ったことで、二頭ともむしろ調子が上がってきたのかもしれない。</p><p>早朝ということもあり、市壁の門もそれほど混雑していなかった。ケイとマンデルはそれぞれ身分証を提示し、街の西門をくぐり抜けてから、まずアイリーンが待つ自宅へと向かう。</p><p>ケイ！　戻ったか！</p><p>石畳を打つ蹄の音を聞きつけて、家からアイリーンが飛び出てきた。</p><p>アイリーン！</p><p>突進してきた、羽根のように軽い体を抱きとめて、二人で踊るようにくるくると回ってからキスする。</p><p>ただいま</p><p>待ってたぜ</p><p>……お熱いことだな</p><p>やれやれ、とばかりに苦笑したマンデルが、ひょいと帽子を脱いで一礼した。</p><p>久しぶりだな、アイリーン。……変わりないようで何よりだ</p><p>マンデルの旦那こそ、久しぶり。元気にしてたか？</p><p>ああ。……特に今は、若返ったような気さえしている</p><p>よほど気合が入っているらしい、マンデルは覇気に満ち溢れていた。</p><p>今回は、ケイに付き合ってもらって悪いな。来てくれてありがとう</p><p>なに。……礼を言いたいのはこっちの方さ、英雄殿の狩りに同行できるんだ</p><p>挨拶もそこそこに、今後の打ち合わせに移る。</p><p>サスケとスズカは絶好調のようだが、タアフ－サティナ間を駆け抜けて流石に疲労の色が見られる。いつもの宿の厩に預けて、しばし休憩を取らせることにした。</p><p>その際、忘れずに、自作の体力回復薬を二頭ともに舐めさせておく。以前ヴァーク村の 深部(アビス) で採取した『アビスの先駆け』から、薬効成分を抽出したものだ。アイリーンがレシピを覚えていたため、しばらく前に器具を買い揃えて調合してみたのだ。</p><p>ゲーム内ではしばらくの間、スタミナを回復させる効果があった。再出発は昼前を予定しており、それまでには二頭ともかなり疲労が取れるはず。</p><p>―なお、ケイも舐めて見たが、エグい苦さで死ぬほど不味かった。 ハイポーションのゲロマズ成分はお前か！！ と叫びたくなるほどに。</p><p>舐めさせられたサスケは ぼくがんばったのに、なんでこんなことするの と悲しげな顔を見せ、スズカは鼻息も荒く前脚で地面をかいて、すこぶる不機嫌になった。</p><p>体力は回復するかもしれないが、精神的な面ではしばし問題がありそうだ。使わない方がマシだったかもしれない―</p><p>モンタン！　矢はできたか？</p><p>ケイさん！　ばっちりですよ！</p><p>次に、木工職人のモンタンの家を訪ねる。キスカに、ベネットから預かった手紙を渡しつつ、“氷の矢”を見せてもらう。</p><p>突貫作業でしたが、何とかなりました</p><p>モンタンの役割は、コウが魔力を込めた宝石を矢にしっかりとはめ込んで固定することだった。これは、鏃が特殊な構造をしており、もともとケイが”爆裂矢”を作るために注文していた矢だ。『鏃に宝石をはめ込む』という点では”氷の矢”も変わらないので、流用が可能だった。</p><p>用意された”氷の矢”は、２０本。さらに、エメラルドをはめ込んだだけの”爆裂矢”の素体(ベース)も何本か。ケイが宣之言(スクリプト)と魔力を込めれば”爆裂矢”の一丁上がり、というわけだ。</p><p>一本一本、重心などを確かめたが、どれも申し分ない出来だった。</p><p>見事な仕上がりだ。ありがとう</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“狩りと聞いて、気合が入ってしまいましたよ</p><p>一仕事終えた感を出しつつ、爽やかな笑みを浮かべるモンタン。</p><p>お兄ちゃん……がんばってね！　気をつけてね！</p><p>心配げなリリーに見送られつつ、ケイはその足でコーンウェル商会へ向かう。</p><p>ケイくん。待ってたよ</p><p>商会本部の前では、ホランドが既に必要な物資の準備を終えていた。</p><p>荷馬車が一台。健康な山羊が五頭。マンデル用の乗用馬が一頭。食料や医薬品、野営用品、etc, etc…</p><p>うっス。自分は護衛を担当する、オルランドっス</p><p>そして、荷馬車を護衛する戦士たちとも顔合わせした。オルランドという強面の男がリーダーの四人組で、それぞれ交代で馬車の御者も担当するらしい。ケイが見たところ、そ(・)こ(・)そ(・)こ(・)できる。オルランドは槍使いらしく、かなり手強そうな雰囲気を漂わせていた。他の三人も槍や斧を扱うようで、粒ぞろいな戦士たちだ。コーンウェル商会の護衛の中でも腕利きだろう。</p><p>が。</p><p>それで……自分たちはあくまで馬車の護衛で、“森大蜥蜴”狩りには参加しなくてもいい、ってことっスよね？</p><p>強面をわずかに緊張させて、オルランドが念押ししてきた。</p><p>ああ。無理強いはしないよ、手助けしてくれるならそりゃ助かるが……</p><p>今回、オルランドたちの役目は、荷馬車を護衛して物資をつつがなくヴァーク村へ届けること。また、討伐成功の暁には、“森大蜥蜴”の素材を持ち帰ることだ。</p><p>対人をメインとする彼らに怪物狩りの経験などあるはずもなく、またケイが彼らに指揮権を持っているわけでもないので、彼らは彼らの裁量で動くことになっていた。</p><p>ケイとしても、土壇場でビビって逃げそうな者に背中を任せるつもりはない。それなら最初からアテにしない方がマシだ。だからこそ、信頼できる仲間を求めて、タアフ村までマンデルの協力を仰ぎにいったわけだが―</p><p>ところでホランドの旦那、気が早い話かもしれないが―</p><p>と、荷馬車を点検していたアイリーンが、ホランドに話しかける。</p><p>このサイズだと、“森大蜥蜴”の素材は載せきれないかもしれないぜ？</p><p>コンコン、と荷馬車を叩きながらアイリーン。取らぬ狸の皮算用もいいとこだが、すでに討伐後の心配をしているようだ。だがこれにはケイも同感で、商会が用意した馬車は質こそいいものの、サイズはかなり控えめであるように思われた。</p><p>ああ。ウルヴァーン支部と”伝書鴉(ホーミングクロウ)“でやりとりがあってね。協議の結果、素材の大部分はウルヴァーン側に運ぶことになったんだよ。サティナはちょっと遠いから</p><p>ホランドの答えに、ケイたちも納得する。ヴァーク村からウルヴァーンまでは馬車で一日足らずだ、素材を運ぶならたしかに向こうの方が好都合だろう。</p><p>……それと、ウルヴァーン支部からの知らせによると、昨日の段階ではまだヴァーク村は無事だったらしい</p><p>通りを行き交う人々に聞かれないよう、声をひそめてホランドが告げる。</p><p>なるほど……それは重畳だが</p><p>これから間に合うか、だな</p><p>アイリーンが腕組みして、ため息をついた。</p><p>……そろそろ出発するかい？</p><p>ああ。あまり余裕はなさそうだ</p><p>ケイ、アイリーン、マンデルの三人は、うなずきあった。軽くサンドイッチで昼食を摂り、トイレを済ませ、必要物資をチェックしてから一同はサティナを発った。</p><p>お気をつけて！</p><p>ご武運を！</p><p>精霊様の御加護があらんことを！</p><p>荷馬車の護衛、オルランドたちの声援を背に、ケイたちは進む。</p><p>足の速い三騎で先行するのだ。</p><p>“竜鱗通し”を片手に、身軽さ重視で革鎧のみを身に着けたケイ。</p><p>サーベルを背負い、動きやすい黒装束に身を包むアイリーン。</p><p>四肢に革製のプロテクターをつけ、腰に剣を佩いた旅装のマンデル。</p><p>よし、行くぞ！</p><p>ダガガッ、ダガガッと硬質な蹄の音を響かせ。</p><p>一行はヴァーク村を目指し、街道を北上し始めた。</p><p>91. 疾駆</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ 体力回復薬を飲ませるか……</p><p>サスケ まっず！　なんでこんなことするの</p><p>スズカ 不味すぎてキレそう</p><p>城郭都市サティナから公都ウルヴァーンまで、リレイル地方を南北に結ぶ大動脈。</p><p>―サン＝アンジュ街道。</p><p>整備された石畳の道を、荒々しく駆ける騎馬の姿があった。</p><p>その数、三騎。</p><p>先頭は、スズカに跨るアイリーン。</p><p>続いて商会から借り受けた馬を駆るマンデル。</p><p>そして殿(しんがり)を務めるのが、ケイとお馴染みサスケだ。</p><p>アイリーン！　スズカの調子はどうだ！？</p><p>最後尾から、ケイは声を張り上げる。</p><p>大丈夫だ！　でも汗かいてるから、ぼちぼち水飲んだ方がいいかもな！</p><p>金色のポニーテールを揺らしながら、アイリーンが叫び返した。彼女を乗せたスズカは、黒色の毛並みがてらてらと光って見えるほど汗にまみれている。</p><p>現在、スズカが一行のペースメーカーだ。</p><p>サティナで多少休息を取ったとはいえ、スズカの疲労は完全には抜けていない。体重が極端に軽いアイリーンを乗せているので負担は少ないだろうが、それでも疲労具合を見つつ、走る速度を調節しているのだ。</p><p>スズカからすると、バテないギリギリのラインでずっと走らされるので、堪ったものではないかもしれない。だがもともと草原の民と共に暮らしていた馬だ。この程度で音を上げるほどヤワな育ちではないだろう。</p><p>マンデルの方は、変わりないか？</p><p>ああ。……いい馬だ、こっちは問題ない</p><p>マンデルが振り返って、生真面目な顔で答える。</p><p>コーンウェル商会から借り受けた馬は、灰色の毛並みの大人しいメスだった。ホランド曰く、最高速はそれほどでもないが、体力があり忍耐強い性格だという。今回のような強行軍にはぴったりだ。</p><p>ぶるるっ！</p><p>そしてケイを乗せるサスケはといえば―絶好調だった。クソマズ体力回復薬が効いたのか、それとも元から大して疲れていなかったのか、ほぼ完全に回復していた。体力・速力ともに普通の馬とは隔絶している、バウザーホースの真骨頂。</p><p>ケイが都度、手綱を引いて制御しなければ、徐々に加速して前方のマンデルを抜き去りかねないほどだ。戦いの機運を感じ取り、逸っているのだろうか。はたまた獰猛な魔物としての本能が表に出てきたのか。あるいは、新たに加入した商会のメス馬にいいところを見せようとしているだけか―</p><p>“竜鱗通し”を片手に周囲を警戒しつつ、思わず苦笑いしてしまうケイであった。</p><p>町が見えてきた！</p><p>と、先頭のアイリーンが知らせる。</p><p>少し休憩にしよう！</p><p>日の傾き具合を確認して、ケイは答えた。</p><p>できるなら今日中にサティナ-ウルヴァーンの中間にある、湖畔の町ユーリアまで行きたいところだ。到着時にベストな体調(コンディション)を望むなら、野宿は極力避けて、きちんとしたベッドで体を休めなければならない。現在のペースなら日が沈む前にユーリアに着くだろうが、休憩に時間を割きすぎるとギリギリ間に合わなくなる。</p><p>一口に『強行軍』と言っても、細かい調節がなかなか難しいことを、ケイはここに来て改めて感じていた。</p><p>†††</p><p>小さな宿場町にて。</p><p>水差し(ピッチャー)に直接口をつけて、グビグビと冷たい水をあおったアイリーンが ……ぷはぁ！　生き返るぜ と声を上げる。</p><p>井戸から汲み上げた冷たい水が、乗馬に火照った体に心地よい。自分の足で走るよりマシだが、ただ馬上で揺られているだけでも、人体はそれなりに消耗するのだ。</p><p>サスケ、よく走ってくれた。休憩後も頼んだぞ</p><p>馬具を外して楽にしてやり、白く泡立った汗の跡を拭き取ってあげながら、ケイはサスケに礼を言った。 まかせて！ と言わんばかりに目を瞬いたサスケは、そのまま ヘイ、彼女！　いい走りだったね！ と、隣で水を飲む商会の灰毛馬へ絡みに行く。</p><p>灰毛馬は困惑気味―というか、ちょっと引き気味だ。そのさらに隣では、スズカが フン！ と不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。</p><p>ケイも飲むか？</p><p>おう</p><p>アイリーンから水差しを受け取り、グビッと水分補給するケイ。</p><p>その横で、井戸脇のベンチに腰掛けたマンデルが、伸脚するような動きで足を伸ばしていた。少しばかり険しい表情で、太腿をさすっている。</p><p>マンデル、どうかしたのか？</p><p>いや……</p><p>心配するケイに、マンデルは渋面を作った。</p><p>これだけの距離を駆けるのは初めてなんだ。……股が痛くなってきた</p><p>顔を見合わせたケイとアイリーンは、 あー…… と事情を察する。</p><p>乗馬とは、特殊技能だ。</p><p>馬への指示の出し方はもちろん、馬上で揺られ続けるため特殊な筋肉を使う。衝撃を受ける腰や太腿、尻なんかも、慣れがなければ痛みで悲鳴を上げ始める。</p><p>ケイとアイリーンは、ゲーム時代から乗馬に親しんでいた上、『完成された肉体(アバター)』を引き継いでいるのでその手の苦しみとは無縁だ。だが、こうして実際に苦しんでいる人間を前にすると、ずる(チート)しているような感覚に襲われてしまう。</p><p>……かなり痛むのか？</p><p>ま(・)だ(・)、それほどではない。……だがこのペースで進むとどうなるかわからん</p><p>マンデルは意地を張るでもなく、正直に申告した。</p><p>少し、不安だ。……今は平気だが、開拓村に着く頃には足腰立たなくなっていました―では笑えないからな。絶対に無理はできない</p><p>強がることなく話しているのは、そういうわけだ。</p><p>忘れてはならない。ヴァーク村へたどり着くことが目的ではなく、そこで”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“と戦える状態にあることが重要なのだ。</p><p>せっかく騎馬で移動できるというのに、足手まといになるようでは本末転倒だ、とマンデルが嘆息する。</p><p>馬まで用意してもらったのに、この体たらく。……自分で自分が情けない</p><p>……仕方ない、こればかりは慣れの問題だ</p><p>マンデルを責める気にはとてもなれず、ケイも慰めの言葉をかける。ゲーム由来の肉体で苦労していない自分が言うと、どこか薄っぺらく感じられた。</p><p>最悪の場合、おれを置いて先に行くことも視野に入れてほしい……</p><p>痛恨の極みの表情で、絞り出すように言うマンデル。確かに、ここでマンデルに合わせてペースを落としては、ここまで急いできた意味がない。</p><p>そっか……じゃあ、これ使ってみてくれよ</p><p>何やら腰のポシェットをゴソゴソと探ったアイリーンが、金属製の小さなケースを取り出した。</p><p>これは？</p><p>軟膏だ。―『アビスの先駆け』を使った傷薬</p><p>声を潜めて、囁くようにアイリーン。</p><p>これもまた、レシピを覚えていたアイリーンが試行錯誤して調合した品だ。体力回復薬とは違い、傷を癒やす治療薬になっている。もちろんその効能は、高等魔法薬(ハイポーション)とは比べるべくもないささやかなものだが……塗れば効果を発揮するので、少なくともゲロマズフレーバーは味わわずに済む。</p><p>太腿に塗れば、かなり痛みが引くはずだ。痛み止めじゃなくて治療薬だから、乗馬の揺れにも適応できるかも</p><p>アイリーンに押し付けられるようにして軟膏を受け取ったマンデルは、おっかなびっくりといった様子でケースを撫でた。</p><p>これは貴重なものでは？　……戦いに取っておくべきだろう</p><p>いや、正直あまり意味がない</p><p>首を振って否定したのはケイだ。</p><p>“森大蜥蜴”相手に戦うなら、その程度の傷薬が活躍できる場面がないのさ。無傷で生き残るか、即死するかの二択だ</p><p>淡々と、『事実』として語るケイに、マンデルがごくりと唾を飲み込んだ。</p><p>そうか。……わかった、使わせてもらおう</p><p>頷いたマンデルがその場でいそいそとズボンを脱ぎ始めたので、アイリーンが慌ててそっぽを向く。困ったような顔で ワイルドだぜ…… と口を動かすアイリーンを見て、ケイは思わず笑ってしまった。</p><p>……しかし、マンデルはどうして馬に乗れるんだ？</p><p>太腿に軟膏を塗り込む姿を見ていて、ケイはふと疑問に思う。</p><p>マンデルは、狩人だ。それも森のそばの田舎村の住人だ。主に森の中で活動する彼は、本来馬に乗る必要があまりない。そんな彼がなぜ、そしていかに乗馬の技術を身に着けたのか、不思議だった。</p><p>ああ……</p><p>入念に局部にも塗っていたマンデルは、その手を止めて、遠い目をする。質問しておいて何だが、ズボンは早く穿いてほしい。</p><p>昔、習ったんだ。……草原の民からな</p><p>マンデルの答えは意外なものだった。 草原の民から？ とオウム返しにするケイとアイリーン。公国の平原の民と、草原の民は仲が悪かったのでは―</p><p>昔は、普通に交流があったんだよ。……１０年前の”戦役”、草原の民の反乱が起きるまでは……</p><p>その口調は、懐かしむような、寂しがるような。</p><p>タアフの、おれくらいの歳のヤツはみんなそうだ。……昔、村に物々交換にやってくる部族がいた。気さくで、優しい連中だったよ。村にやってくるたび、当時ガキだったおれたちに、手取り足取り乗馬を教えてくれたんだ……</p><p>じっと自分の手を―弓を引き慣れ、あざになった指先を―見つめながら、ぽつぽつと呟くようにマンデルは言った。</p><p>だが、“戦役”で争うことになった。……仲が良かった部族とも刃を交えた。彼らは今、草原の奥地に引きこもっていて、滅多に姿を現さない。村との交流も完全に途絶えてしまった……</p><p>ため息交じりに語り、マンデルは再び軟膏を塗り始めた。</p><p>そう、だったのか……</p><p>転移当初、草原の民と誤認されかけていたケイに、マンデルは公平な態度で接してくれた。そしてケイが草原の民ではないことを見抜き、様々な助言もくれた。</p><p>マンデル自身は、“戦役”で徴兵され、平兵士から十人長に昇格するほど活躍していたらしい。その胸中がどれだけ複雑だったことか―</p><p>ふむ。……なるほど、この軟膏はよく効くな……！</p><p>ぺちぺち、と太腿を叩いたマンデルが、感心したように言う。</p><p>ありがとう。……かなり楽になった。このままのペースでも大丈夫そうだ</p><p>礼を言いながら、軟膏のケースをアイリーンに返すマンデル。散々局部に軟膏を塗り込んだ手で、そのまま。</p><p>あ……いいよ、そのケースは持っておいてくれ、まだ使うだろ？</p><p>む、そうか。……わかった、じゃあそろそろ行こう。おれのせいで休みすぎた</p><p>マンデルが立ち上がり、荷物袋に軟膏を仕舞ってから、ひょいと灰毛馬に跨る。</p><p>もう痛がる様子はなかった。軟膏の効き目は確からしい。</p><p>そうだな。行こうぜ</p><p>ちょっと待ってくれ、サスケに馬具を付け直す</p><p>手早く準備を整え、ケイたちは再び出発した。</p><p>それから、以前のペースで進んでも、マンデルは 少し痛む 程度で平気なようだった。むしろスズカの疲労具合の方が心配だったほどだ。</p><p>休むことなく駆け続け、日が暮れる前には、シュナペイア湖に面するユーリアの町に到着した。</p><p>相変わらず、清らかな湖とは対照的に、猥雑な雰囲気で満ちた町だ。行商人やその護衛、彼らを相手にする物売りや芸人、娼婦などで賑わっている。前回、ここを訪れたときは領主の館に呼び出され、アイリーンが 夫に黙って愛人にならないか？ などと誘われたりしたものだ。ケイの面前で。</p><p>ありゃ傑作だったなぁケイ</p><p>ああ。二度と御免だが</p><p>もちろん領主の館などスルー。呼ばれてもいないし、呼ばれる予定もない。実に素晴らしいことだ。</p><p>少しでも疲れを癒やすため、高級な宿に泊まる。マンデルは遠慮しようとしたが、有無を言わさず宿代はケイたちが出した。風呂で汗を流し、ゲロマズ体力回復薬を服用し、口直しするようにたらふく食ってから、その日は早々に就寝。</p><p>その甲斐あってか、翌日は疲れもなく、ベストコンディションで出発できた。マンデルも寝る前に軟膏を塗ったようで、股が痛むことなく強行軍を続ける。</p><p>そして。</p><p>見えた！</p><p>街道の果て―丸太の防壁で囲まれた開拓村が見えてくる。</p><p>見たところ、壁が壊された様子もない。周囲には人影もあった。</p><p>おぉーい！</p><p>ケイたちが手を振ると、住民もこちらに気づいたようで、手を振り返してくる。</p><p>サティナを発ってから、およそ一日半。</p><p>ヴァーク村は―まだ無事だったのだ。</p><p>いつも感想ありがとうございます！　実は昨日、短編を投稿しました。</p><p>神 お主のチート能力は『いらすとや召喚』じゃ</p><p>サクッと読めるコメディなので、オススメです！　なんと挿絵もついてます！</p><p>92. 状況</p><p>前回のあらすじ</p><p>マンデル（下半身露出のすがた） この軟膏の半分は。……優しさでできている</p><p>ケイ＆アイリーン アビス軟膏～♪</p><p>そしてケイたち一行は、ヴァーク村に到着した。</p><p>ヴァーク村の男たちから、ケイは熱烈な歓迎を受けた。</p><p>英雄が来たぞ！</p><p>“大熊殺し”だーッ！</p><p>公国一の狩人ーッ！</p><p>“疲れ知らず(タイアレス)“ーッ！</p><p>公国一の木こりーッ！</p><p>何か変な二つ名も混じっていたが。</p><p>ケイ！！　来てくれたのか！！</p><p>村長のエリドアが、ホッとした顔で飛び出てきた。チャームポイントのハの字の眉は相変わらずだが、前回会ったときに比べ、かなりやつれている。</p><p>エリドア！　無事だったか</p><p>ああ、何とか。テオは立派に仕事をやり遂げたんだな。想像以上に早い到着だよ、ありがとう</p><p>テオ―コーンウェル商会に遣いとしてやってきた少年のことだ。</p><p>テオは今、商会で世話になってるはずだ。俺たちも全力で駆けて来たが、間に合わないんじゃないかと気が気でなかったよ……</p><p>村の中で下馬しながら、ケイは周囲を見回す。</p><p>ヴァーク村―ぐるりと丸太の壁で囲まれた開拓村。この防壁は、人間や普通の獣を防ぐには充分だろうが、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“相手では紙細工ほども役には立たない。襲われればひとたまりもないだろう。女子供は避難させた、と聞いていた通り、村内には男たちしか残っていなかった。</p><p>だが。</p><p>それでも村は、賑(・)わ(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)。</p><p>興味深いことに、村の出入口の付近、門の周辺にはテントや天幕が張られており、よそ者連たちが大勢そこで過ごしているのだ。野心に燃える駆け出しと思しき行商人、いかにもガラの悪い食い詰めた傭兵、身一つで乗り込んできた素人、森に溶け込みやすい格好をした狩人や野伏、などなど。</p><p>“森大蜥蜴”の脅威が迫る中、てっきり村の男たちしかいないと思っていたケイは、まだこの場に留まる命知らずがいたことに驚いた。</p><p>意外と人がいるんだな</p><p>率直な感想を漏らすと、エリドアはなんとも言えない顔で頷く。</p><p>ああ。頼もしい奴らさ。いつでも逃げ出せるよう、準備に余念がない</p><p>皮肉げな言葉だが、責めるような色はなかった。</p><p>まあ、両者とも気持ちはわかる。</p><p>この壁に囲まれた村には、出入口の門が一つしかない。村内で過ごしているところを襲われれば、みなが門に押し寄せて大パニックになるだろう。少なくない数が逃げ遅れるはず―村人たちは各々の家があるので仕方なく村内で過ごしているが、よそ者がそれに付き合う義理はない。村の外で過ごすのは当たり前の選択だ。</p><p>村人側としても、その気持ちはわかるが、いざというときは見捨てると宣言されているようなものなので、複雑な心境だろう。</p><p>……正直、ケイも好き好んで壁の内側にいたいとは思わない。いざというときに動きが制限されるのは困る。</p><p>彼らはなぜここに？</p><p>サスケの汗を拭いてやりながら、ケイは尋ねた。</p><p>『森の恵み』を求めてるのさ</p><p>というと？</p><p>深部(アビス) の動物が迷い出てきたり、普段は生えないような珍しい薬草が群生したりしてるんだ、今のあの森は</p><p>壁の向こうに広がる森を見やるようにして、エリドアは言った。</p><p>アイツら、この状況下で森に入ってんのか？</p><p>アイリーンが驚愕の顔でよそ者たちを見る。何人かの荒くれ者たちが、アイリーンの美貌を目にして囃し立てるような声を上げた。</p><p>……命知らずだな</p><p>マンデルがぼそりと呟く。ケイも全く同感だった。討伐に来ておいて何だが、森の中で”森大蜥蜴”とやり合うのは御免だ。ケイの足では絶対逃げ切れない。</p><p>当然、森に入り込む探索者―そのほとんどが素人の食い詰め者―が、怪物に出くわして生きて帰れるとは思えなかった。</p><p>それだけ、カネになるんだ……噂が噂を呼んで、むしろ”森大蜥蜴”が出る前より、人の出入りが増えたぐらいだ</p><p>エリドアが苦笑する。『アビスの先駆け』とまでは言わないが、高値で取引される薬草やキノコ、美しい毛皮の珍獣、そんな存在が森には溢れているらしい。“森大蜥蜴”の出現直後は逃げ出す者が多かったが、その隙に珍しい獣を生け捕りにして大儲けした剛の者が現れ、結局それを羨んだ多くの探索者たちが戻ってきたそうだ。</p><p>今では、一攫千金を夢見て森に入る命知らずたちと、それらの”商品”を高値で買い取る行商人で、村は大賑わいなのだという。</p><p>ただし、経済活動のほとんどが村外で行われる上、村内の施設も休業状態であり、村にはあまり利益が還元されていないとか何とか。</p><p>話を聞いたケイは、 随分と悠長に構えているんだな という感想を抱いた。と同時に、それほどまでに森の生態系が変わっているということは―あまり良い傾向とは言えない、と危惧した。</p><p>……この近辺には、まだ”森大蜥蜴”が姿を現してないのか？</p><p>何より気になるのは”森大蜥蜴”の動向だ。流石に近くにヤツが『出た』となれば、探索者はともかく、商人たちが真っ先に逃げ出すはず。</p><p>いや……それが、はっきりとは言えないんだ。ヤツの行動範囲が、少しずつ広くなってるのは間違いないんだ……</p><p>エリドアは何とも困ったような顔。</p><p>……詳しい事情を説明しよう。こっちに来てくれ</p><p>村に入るときも思ったが、門の周辺は混沌していた。</p><p>まるでバザールのようだ。色とりどりの天幕、熱心に探索者たちと交渉する商人、飲食物を売る簡易屋台、酒瓶片手に英気を養うごろつきたち―</p><p>おーい、キリアンはいるか</p><p>エリドアが声をかけると、探索者たちが顔を見合わせた。</p><p>キリアン、見たか？</p><p>さあな、おれは見てねぇ</p><p>ってかキリアンって誰だ？</p><p>そんなこと言い出したらよォ、まずお前が誰だよ！</p><p>違いねぇな！　ガハハ！　知らねえ顔ばっかりだぜ</p><p>それよりエリドア、その別嬪さんを紹介してくれよ！</p><p>誰かが叫び、 そうだそうだ！ と野太い声が重なる。</p><p>やいのやいの。ケイの傍らのアイリーンに、口笛を吹く者、見惚れる者、下品な野次を飛ばす者―いくらこの場が賑わっているといっても、女っ気はゼロだ。流石にこんな危険な開拓村にまで出向いてくる商売女はいなかったのだろう。お陰で女に飢えた男たちが、砂糖菓子に吸い寄せられるアリのようにわらわらと―</p><p>あー。ダメだ、オレがいちゃ話にならねぇなコレ</p><p>ぼりぼりと頭をかいたアイリーンが、小さくため息をつく。</p><p>オレぁ一旦村に戻るぜ、ケイ。話は聞いといてくれ</p><p>わかった</p><p>こりゃ仕方ない、とばかりに頷くケイ。</p><p>おうおう、そんなこと言わずに、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃないかよぉ～、お嬢ちゃん</p><p>などと言いながら、酒焼けした赤ら顔の男が絡んでこようとしたが―アイリーンが、トンッと地を蹴る。</p><p>へ？</p><p>赤ら顔の男からすると、アイリーンが消えたように見えただろう。</p><p>軽々と宙を舞うアイリーン。真正面から男の頭を飛び越えたのだ。</p><p>そのまま、群がる男たちを避けるようにして、トンットンッと飛び跳ねていき、三メートルはあろうかという丸太の壁に取り付いて、そのまま向こう側へと消えた。門があるのに、わざわざ壁を越えてみせたのだ。</p><p>…………</p><p>ごろつきたちが、呆気に取られている。</p><p>エリドア……何者(なにもん)だありゃぁ……</p><p>強力な助っ人だよ</p><p>苦笑交じりに答えるエリドア。</p><p>と、ごろつきたちの間をすり抜けるようにして、一人の男が前に出てきた。</p><p>……アッシを呼んでると聞きやしたが</p><p>ぴったりとした皮の服に身を包んだ男だ。三十代後半といったところか。ツルツルに剃り上げたスキンヘッドで、頭部には爪で引っかかれたような傷があり、前歯が何本か欠けている。少し間抜けな顔立ちにも見えるが、その立ち居振る舞いには隙がなく、特に足運びにただならぬものを感じさせた。腰の後ろには山刀を差し、小型のクロスボウを背負っている。</p><p>おお、キリアン。この人に、森の様子を話してやってくれないか</p><p>エリドアがケイを示す。</p><p>どうやら、このスキンヘッド男はキリアンというらしい。察するに、今もなお森に踏み込む命知らずの一人といったところか。</p><p>こちらの旦那は？</p><p>以前話した、“大熊殺し”のケイさ</p><p>ほう！</p><p>じろじろとケイを見ていたキリアンは、感心したような声を上げる。</p><p>それはまた。アッシは流れ者のキリアンと申しやす</p><p>ケイだ。狩人をやっている</p><p>よろしく、と目礼する二人。</p><p>森の様子、とのことで。何を話しやしょう？</p><p>できれば”森大蜥蜴”の動向を知りたいんだが……</p><p>ケイはあまり期待せずに尋ねる。</p><p>ふぅむ。いくらで？</p><p>目を細めて、キリアンが笑う。</p><p>命がけで拾ってきた情報でやすからね</p><p>タダでやるわけにはいかない、と。</p><p>もっともなことだ、とケイは納得した。しかしどれほど払ったものか。</p><p>……こういうとき、いくらぐらいが相場なんだ？</p><p>いや。……おれに聞かれても困る……</p><p>突然ケイに聞かれ、困惑するマンデル。</p><p>こんな情報の売買は経験がないからな……</p><p>そうか……</p><p>……。ただ、山狩りの類で、軍が地元の猟師や狩人を案内人に雇うときは、一日あたり小銀貨２～３枚が相場だと聞いたことがある。……それより安いということはないだろう</p><p>悩むケイに、マンデルもどうにか記憶をたどり、そんなアドバイスをくれた。</p><p>じゃあ、これくらいでいいか</p><p>財布代わりの革袋から、銀貨を数枚取ってキリアンに手渡すケイ。小銀貨ではなく銀貨にしたのは、これより細かい硬貨を持っていなかったからだ。命がけの情報なのは間違いないので、多めに払ってもいいだろうという考えもある。</p><p>ほほう。これはこれは……</p><p>キリアンは手の内の感触だけで金額を察し、サッと懐に銀貨を隠した。</p><p>お話ししやしょう。ただ場所を変えたいところでやすね</p><p>そのリクエストに応じ、一行は近くの天幕の中へと移る。</p><p>さて。アッシも、“森大蜥蜴”には直接お目にかかったわけじゃないんでやすが</p><p>キリアンは石ころを拾い、地面に大雑把な地図を描き始めた。</p><p>曰く、キリアンはいつもヴァーク村から三十分ほどの距離を探索しているそうだ。目的は薬草の採取と、狩猟。真っ黒で艷やかな毛皮の狐や、緑色の鹿のような動物など、 深部(アビス) から迷い出てきたと思しき、珍しい獲物が目白押しだという。</p><p>で、“森大蜥蜴”は、どうやらこのあたり</p><p>キリアンは、自分の行動圏の外にザッと線を引く。</p><p>村から歩いて四十分あたりのところを、うろついているようでやして。足跡やら、これ見よがしに派手に倒された木やら、“森大蜥蜴”の通ったあとが目立ってやした。だからアッシも不意に出くわさないよう、ここらで引き返すようにしてるんでやすが</p><p>……なるほど</p><p>探索者の二人が喰われたのは、 深部(アビス) の領域付近だったはずだ。そのときに比べ、少し行動圏が広がっているように見える。</p><p>このあたりの地形は？</p><p>キリアンが引いた線を示して、ケイは尋ねた。以前、ケイもこの村から 深部(アビス) まで歩いていったので、道中の起伏は薄っすらと覚えている。なので、心当たりがあった。“森大蜥蜴”がさまよっている理由にも。</p><p>ここは……少しばかり、『谷』みたいに地形が凹んでるところでやすね</p><p>……わかった、ありがとうキリアン。ところでこの話は、皆にもしてるのか？</p><p>ケイの問いに、キリアンは首を振った。</p><p>正直、あまり。アッシに金まで払って聞こうってヤツぁそういやせん。みんな勝手にやってやすから。酒を奢られて少し話したことはありやすが、これほど詳しくは、まだ……せいぜいエリドアの旦那に話したくらいのもので</p><p>エリドアは数少ない『客』なのだとか。</p><p>ふむ。キリアンぐらい森に詳しいヤツは、他にいるか？</p><p>アッシが見たところ、アッシほど森歩きに慣れてるヤツも少ないかと</p><p>普通、確かな技術を持つ森の専門家なら、こんな場所に出稼ぎに来たりしない。森の恐ろしさを知っていれば、 深部 の化け物がいるかもしれないような場所に近づこうとは思わないからだ。</p><p>必然的に今、森に入っているのは、楽観的な素人ばかりだった。</p><p>ふーむ。エリドア、一つ質問なんだが、森に入ったきり帰ってこない探索者はどれほどいる？</p><p>えっ？</p><p>突然、水を向けられたエリドアが困惑の声を返す。</p><p>いや、……俺は把握できていない。なにせこの数だ。出入りも激しい</p><p>エリドアが外を示す。賑やかな探索者たちのテント村を。</p><p>こうしてケイたちが話している間にも、何組かの探索者たちが帰還し、それと入れ違うようにして森に入っていく者たちもいる。取引を終えて去っていく行商人もいれば、新しく村にやってくる商人もいる。今日、噂を聞きつけてやってきたごろつきが何人になるのか、把握している者は一人もいない。冒険者ギルドのような監督する組織があるわけでもなく、皆が好き勝手にやっているのだ。</p><p>ましてや誰が森に入り、誰が帰ってきたか、など―</p><p>なるほどな……</p><p>おおよそ、事態が把握できたケイは、顎を撫でながら唸った。</p><p>……何か、まずいのか？　ケイ</p><p>エリドアは不安げに。</p><p>まずい、というか……。なあエリドア、俺は『“森大蜥蜴”が出た』って知らせを受けたときは、正直もう間に合わないかもしれない、って思ったんだ</p><p>……えっ？</p><p>いつ襲われてもおかしくはなかった。こんな魔力が薄い土地で、“森大蜥蜴”が体を維持するには、そこそこ魔力を持つ生物を食べなきゃいけない。その筆頭が人間だ</p><p>野生動物に比べると、人間は魔力を豊富に持つ。特に中年以降の個体ともなれば、下手な 深部(アビス) の獣より魔力は高い。</p><p>だが、それでもヴァーク村は無事だ。</p><p>人の味を覚えた怪物が、いつ匂いをたどって襲いにきてもおかしくなかったというのに。</p><p>命知らずの『冒険者』たちに感謝した方がいいな。彼らの犠牲でこの村は保ってるようなもんだ</p><p>おそらく―日に何組かが喰われている。</p><p>キリアンの言っていた『谷』の周辺が、狩場(キルゾーン)なのだ。</p><p>俺の予測では、その『谷』に”森大蜥蜴”は巣を作ったんだろう。あいつらは山や谷の斜面を掘って、ヨダレで壁を固めて巣穴にするんだ。派手に倒された木は、通った跡じゃなく、縄張りの主張。そして”森大蜥蜴”の得意技は―待ち伏せだ。巣穴の近くに身を潜めて、通りがかった獲物を確実に仕留めてるんだろう</p><p>この森は、人の手が入っていない原生林だ。草木が鬱蒼と生い茂り、視界も悪い。体長十メートルを超える化け物でも、じっと身じろぎしなければ姿を紛れさせられる茂みや地形の起伏は、いくらでもある。</p><p>また、先入観。獰猛な”森大蜥蜴”は、地響きを立てて獲物を追いかけ回す―そんな風に勘違いしている者も多いだろう。実際は気配を殺して身を潜め、ギリギリまで獲物が近づいたところで、初めてその俊敏さを発揮するのだ。</p><p>キリアンは、“森大蜥蜴”の『通った跡』を警戒し、近づきすらしなかった。だからおそらく、“森大蜥蜴”の確殺圏に入らずに済んだのだろう。</p><p>だが、これが素人だったら？　ただのごろつきだったら？　この期に及んで、怪物はもっと森の奥地にいると勘違いしている愚か者だったら―？</p><p>その末路は、言うまでもない。</p><p>今はまだ、巣の近くに『餌』が豊富にあるからいいが</p><p>問題は、この話が知れ渡った場合。</p><p>もしも探索者たちが森に入らなくなったら―餌が不足する</p><p>そうすれば”森大蜥蜴”は、どうするか。</p><p>匂いをたどって、まっすぐ来るぞ。この村に</p><p>ケイに告げられ、エリドアの顔が引きつった。</p><p>―“森大蜥蜴”に仲間たちが喰われた、という探索者が戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。</p><p>93. 準備</p><p>前回のあらすじ</p><p>森大蜥蜴 この森当たりだわｗｗｗ　めっちゃ餌あるやんｗｗｗ</p><p>―最初は誰も、そいつのことなんて気にも留めなかった。</p><p>森からフラフラと一人で彷徨い出てきた探索者。見るからにみすぼらしい格好で、ろくな装備もない。</p><p>大方、一攫千金を夢見てやってきた食い詰め者が、ロクな成果も上げられずに帰ってきただけ―</p><p>誰もがそう思った。</p><p>そいつが、探索者たちのキャンプにたどり着くなり、わんわんと子供のように泣き出すまでは。</p><p>お、おい、どうしたんだよ</p><p>見かねた他の探索者が声をかける。</p><p>近寄ってみれば、酷い匂いだった。その探索者の下半身は汚物まみれだった。よほど恐ろしい目にあったのか、失禁してもそれを気にする余裕もなく、必死で逃げてきたらしい。</p><p>……死んじまった。死んじまったんだよぅ</p><p>この世の終わりを見てきたような顔で、そいつは言った。</p><p>でけえトカゲに、みんな喰われちまった</p><p>†††</p><p>―で、こうなったと</p><p>翌日、すっかり人気のなくなったキャンプを眺めて、ケイは呟いた。</p><p>“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“が近場に出た、という噂はあっという間に広まった。まず、怖気づいた探索者が去り、そこそこ稼いでいて未練のない者がそれに続き、彼らの商品を買い取っていた商人たちも引き上げた。</p><p>残ったのは、それでも『森の恵み』を諦めきれない強欲者か、危機感に乏しい命知らずか、それ以外の理由で残った奇人・変人か。</p><p>さて、自分はどれだろう、などとケイは思う。</p><p>むしろまだ何人か残ってることに驚きだぜ</p><p>サーベルの鞘でトントンと肩を叩きながら、アイリーンが言った。</p><p>―へへっ。アッシのような物好きもおりやすからね</p><p>天幕の陰から声。傷だらけの禿頭をぺたりと撫でながら、キリアンがひょっこりと顔を出した。</p><p>あんた、残ってたのか</p><p>意外だった。</p><p>キリアンは、慎重に慎重を重ねた結果、“森大蜥蜴”の狩場(キルゾーン)に踏み込むことなく生き延びた、腕利きの探索者だ。リスク管理に優れているからこそ、真っ先に姿を消しているだろう、とケイは思っていたのだが。</p><p>歩く災害とも謳われる”森大蜥蜴”―その姿、一度は拝んでみたいと思っておりやして。アッシも、森歩きなぞを生業としている者でやすからねえ</p><p>昨日、“森大蜥蜴”の生態を事細かに解説され、自分も危ういところだったと知らされたときは青い顔をしていたのに、剛毅なことだ。</p><p>それに……旦那は、“森大蜥蜴(あれ)“を狩るつもりなのでしょう？　アッシもお供させていただきたく</p><p>……ただの酔狂かもしれんぞ？</p><p>そりゃあ、他の連中なら鼻で笑うところですがね。旦那は話が別でさぁ</p><p>キリアンはニヤリと笑う。“大熊殺し”ならではの説得力といったところか。</p><p>それは光栄だな。実際、人手は欲しいと思ってたんだ</p><p>流石にケイも、アイリーンとマンデルだけを仲間に”森大蜥蜴”を狩り切れるとは思っていない。基本的には森から出てくる”森大蜥蜴”を迎撃する形を取るつもりだが、簡単な落とし穴―“森大蜥蜴”が蹴躓く程度の深さでいい―などを準備するために、人手を集めなければならなかった。</p><p>村の男たちには、もちろん手伝ってもらう予定だ。しかし、探索者―特にキリアンのような腕も度胸もある人材は、いくらでも欲しい。</p><p>声をかけたら、もう少し集まると思うか？</p><p>報酬次第かと思いやすね</p><p>身も蓋もない答えに、 そりゃそうだ とケイは苦笑する。</p><p>キリアンだったら何が欲しい？</p><p>アッシはもちろん、金子(きんす)をいただけるならそれに越したことはありやせんが。手持ちが少ないならば、討伐成功の暁に獲物の素材を分け前に―という手もアリだと思いやす</p><p>なるほど</p><p>確かに、こういった大物狩りでは成功報酬が一般的かもしれない。大物狩りそのものが一般的かどうかはさておき。</p><p>ただしケイの場合は、そこそこ懐に余裕がある。</p><p>仕留めた”森大蜥蜴”は、コーンウェル商会に売り払う手はずになってるんだ。俺の一存じゃ素材の扱いは決められない</p><p>ほほう</p><p>だが幸い、金はある。できればキリアンのような、クソ度胸のヤツを雇いたいんだが……心当たりはないか？</p><p>わかりやした。何人か、声をかけてみやしょう</p><p>頷いたキリアンは、そう言ってまた天幕の陰に姿を消した。</p><p>よし、落とし穴でも掘るか</p><p>人材探しはキリアンに任せ、ケイは村の外で作業に取り掛かった。</p><p>念のため”竜鱗通し”と”氷の矢”を携え、手近にサスケも控えさせているが、ケイは少なくとも明日の朝まで”森大蜥蜴”は動かない、と見ている。</p><p>昨日犠牲になった探索者は最低でも四名。“森大蜥蜴”も腹が膨れて、そこそこ満足しているはずだ。ここしばらく、狩場では獲物に不自由していなかったので、今日も巣穴周辺で待ち構えていることだろう。</p><p>そして”森大蜥蜴”は昼行性なので、日が暮れて気温が下がってしまえば、明日の昼前までは動けない―</p><p>（―と、説明したんだがな……）</p><p>自らもシャベルを振るいながら、ケイは辺りを見回して肩を竦めた。</p><p>周囲には、村長のエリドアをはじめとした村の男たちの姿もある。みな、農具を手に作業に従事しているが、いつ森から怪物が飛び出してくるか気が気でないようだ。背水の陣を敷く軍隊の兵士でも、もうちょっとマシな顔をしているだろう。</p><p>（まあ、気持ちはわかるが）</p><p>かく言うケイも、絶対に100%安全だと思っているわけではない。アイリーンにはすぐそばで森を見張ってもらっているし、短弓を手に控えているマンデルにも”氷の矢”を数本渡してある。</p><p>当のケイたちが気を緩めていないのだから、村人たちが気楽に構えていられるはずがないのだ。</p><p>ケイ、ちょっといいか</p><p>と、鋤を担いだエリドアが、眉をハの字にした困り顔で話しかけてくる。</p><p>どうした？</p><p>そこそこ掘ったところに、デカい石が出てきた。どうしたものか</p><p>エリドアに連れて行かれると、確かに、どデカい石―というより岩―が地面に埋まっていた。</p><p>……うーむ、これを動かすのは確かに骨だな。ツルハシかデカいハンマーがあれば砕けそうだが</p><p>ツルハシはないな。ハンマーも木槌しか……</p><p>そうか、なら仕方ない……そのまま動かすか</p><p>できれば道具を使って楽をしたかったのだが。</p><p>ケイは一抱えもあるような巨石を、 どっせい！ と無理やり持ち上げて、豪快に放り捨てた。</p><p>よし、これでいいだろう</p><p>……相変わらずの怪力だな</p><p>ぱんぱん、と手の土埃を払うケイに、エリドアが呆れている。周囲の村人たちも、 何を食ったらあんな筋肉つくんだ にしてもこの石デカすぎだろ デカすぎて税金取られそうだな などと話している。</p><p>しかし、エリドアたちも頑張ったんだな……</p><p>切り株だらけの景色を見回しながら、ケイは感慨深げに言う。</p><p>以前来たときよりも、ヴァーク村の周囲はずっと拓けていた。“大熊(グランドゥルス)“襲撃時は、村から目と鼻の先の距離にあった森が、今は５０メートルほども離れている。 深部(アビス) の領域変動、その影響を少しでも抑えるために、森そのものを削る―村人たちの涙ぐましい努力の賜物だった。</p><p>お陰で、戦いやすい</p><p>サスケが駆け回るスペースがあるし、射線も通る。足場の悪さが玉に瑕だが、森の中と違って”弓騎兵”として立ち回れる。もしも村が以前のように森と近いままだったら、村への被害を度外視して、街道の辺りまで”森大蜥蜴”をおびき出す必要があったかもしれない。</p><p>しかし……ケイ、こんな落とし穴が、本当に”森大蜥蜴”に効くのか？</p><p>穴を掘り進めながら、エリドアが問う。</p><p>“森大蜥蜴”は１０メートル近い化け物なんだろう？　こんな、子供でも這い出せるような穴、それこそ子供だましにしか思えないんだが……</p><p>いや、意外と有効なんだコレが</p><p>土を掻き出しながらケイは答える。</p><p>“森大蜥蜴”、図体の割に脚が短くてな。力が強いお陰で、それでも素早く動き回れるんだが、だからこそ、猛スピードで走ってきて脚が引っかかると―</p><p>かなりバランスを崩す。腹を地面に擦ってしまい、突進の勢いは大幅に減じる。</p><p>で、そこを狙うというわけだ。“大熊(グランドゥルス)“と違ってバカだから、何度でも引っかかるしな</p><p>ふぅむ……なるほど</p><p>エリドアも納得したようだ。他の村人たちもやる気が出てきたらしく、穴を掘る手に力がこもっている。</p><p>おおい、旦那</p><p>と、村の方からキリアンがやってきた。背後には探索者たちを引き連れている。</p><p>キリアン！　……なんか、多くないか</p><p>引き連れている―ぞろぞろと、まるで遠足のように。</p><p>話を耳に挟んで、人足として雇ってくれという連中がいやして</p><p>親指で背後を指し示しながら、キリアンが肩をすくめる。</p><p>―ザッと顔ぶれを見てみると、色々と酷い。</p><p>どうやら大半は、 とりあえず少しでも金を稼ぎたい という者たちのようだ。みすぼらしく覇気もない。 “森大蜥蜴”に挑んでやろう という気概に満ちた者は、数えるほどもいなかった。</p><p>ええと……じゃあ、人足志望の奴らは、ここにいる村長のエリドアの指示を聞いてくれ</p><p>ケイがそう言うと、探索者たちがぞろぞろとエリドアの方に行く。 道具が足りないぞケイ！ という悲鳴を聞き流しつつ、キリアンを見やる。</p><p>……で、彼らが？</p><p>へえ。アッシが声をかけた連中でさ</p><p>残ったのは、たった二人だ。</p><p>まず、ゴリラのような筋肉隆々の男。装甲をうろこ状に重ねたスケイルアーマーを装備しており、短めの槍を四本も背負っているのが印象的だ。探索者というよりは、傭兵といった趣を呈している。先ほどからぎらぎらした目でケイを睨みつけてくるのだが、理由に心当たりはない。</p><p>次に、浅黒い肌のイケメン。場違いに思えるほどの美丈夫で、革鎧を身につけていなければ吟遊詩人か何かかと勘違いしてしまいそうだ。腰にはショートソードを差し、草原の民の複合弓を握っている。身のこなしはなかなか様になっており、武具も使い込まれた風で、ただのイケメンではなさそうだった。</p><p>おい、あんた……ケイか</p><p>と、ゴリラのような男が、クワッと歌舞伎役者のような表情でケイに迫る。</p><p>あ、ああ、そうだが</p><p>警戒心高めで引き気味のケイ。</p><p>ゴリラ男はサッと手を差し出す。何事だ、と身構えるケイに、</p><p>あ……握手……してくれねえか</p><p>……は？</p><p>……武闘大会……見ていた。あんたのファンなんだ……</p><p>ゴリラ男はうつむきがちにそう言った。</p><p>94. 助人</p><p>前回のあらすじ</p><p>あ……あんたの……ファンなんだ…… （もじもじ）</p><p>あんたのファンなんだ……</p><p>ケイの人生において、そうそう言われたことない台詞だった。</p><p>あ……ああ、……それはどうも</p><p>我に返ったケイは、手を差し出し、ギュッと握手した。</p><p>なんか力いっぱいに握って握力を確かめてくる、などということもなく、ゴリラ男は ははッ…… と照れたように笑って、ただ嬉しそうにしている。</p><p>……旦那。こいつは『ゴーダン』っていう名前なんですが、見かけによらず純朴なヤツでして</p><p>妙な空気の中、キリアンがフォローを入れた。</p><p>旦那の大ファンで、キャンプの古参なのに、昨日からモジモジするばかりで全く話しかけもできやせんで。見かねて連れて来たわけでさぁ</p><p>……そのためだけにか？</p><p>ああ、もちろん、槍投げの名手でもありやす。おいゴーダン、ボサッとしてねえで旦那に見せてやんな</p><p>お、おう</p><p>モジモジしていたゴーダンが、気を取り直して、背中の槍を一本抜き取る。さらに右手には、投槍器(アトラトル)と呼ばれる補助具を持っていた。</p><p>投槍器(アトラトル)とは、槍の石突を引っ掛けるための窪みがある棒状の道具だ。腕の力を無駄なく推進力に変換して槍を打ち出すことにより、射程と威力を飛躍的に上昇させられる。</p><p>槍の石突を窪みにセットし、ゴーダンが振りかぶった。</p><p>ふッ！</p><p>ビュゴッ、と弓矢とは全く異なる重量感のある音とともに、槍が投射される。</p><p>緩やかに放物線を描いた槍は、その実、恐るべき速さで風を切り、遠方の木の幹にドガッと突き立った。着弾点には樹皮が剥げた楕円形の模様があり、適当に投げたのではなく、狙って命中させたのは明らかだった。</p><p>ほう！　すごいな</p><p>大した威力、そして正確性だ。ケイの”大ファン”で、あれほど照れていたにも関わらず、即座に命中させてみせる度胸もポイントが高い。</p><p>旦那、いかがでしょう</p><p>雇おう。彼が協力してくれるなら心強い</p><p>おっ、よかったじゃねえかゴーダン、即決してくだすったぞ</p><p>ははッ……そっか……</p><p>嬉しそうに笑ったゴーダンは、照れてそれ以上は言葉にならなかったのか、浮かれた足取りで木に刺さった槍を取りに行く。</p><p>それで、次はこっちでやすが―</p><p>俺の番か！</p><p>続いて、キリアンがもうひとりの方を見ると、浅黒肌のイケメンが待ってましたとばかりに口を開く。</p><p>俺の名前はロドルフォ！　流れの用心棒だ！　栄えある”大熊殺し”のケイ殿に出会えるとは恐悦至極！　ってとこかな！？</p><p>芝居がかった仕草で一礼するロドルフォ。とても威勢がいい。ゴーダンの影響か、ロドルフォもナチュラルに握手を求めてきた。</p><p>そしてあんたほどじゃないが、弓が得意だ！</p><p>言うが早いか、右手で矢筒から数本まとめて矢を抜いたロドルフォは、複合弓を構えて速射を披露する。</p><p>シュカカッ、と耳に心地よい音を立てて、木の幹に矢が３本突き立った。</p><p>なかなかの早業だ。しかし……</p><p>……４本、放ってなかったか？</p><p>一矢、どこかへすっ飛んでいったようだが。</p><p>うむ！　これでもマシになった方なんだがな！　百発百中とはいかないから、数で補うことにした！</p><p>なるほど</p><p>数撃ちゃ当たる理論。連射の速さそのものはケイにも迫る技量だ。ロドルフォなりの修練の成果なのだろう、と理解した。</p><p>ただ、連射用に調整した結果か、複合弓の”引き”が少し甘いのが気になる。弓の威力を十全に引き出せていない―</p><p>（―いかんな、同業者(ゆみつかい)となると見る目が厳しくなりそうだ）</p><p>ケイはそんな自分に気づいて苦笑した。</p><p>（……まあ、いくら狙いが甘いといっても、“森大蜥蜴”のバカでかい図体を外すことはないだろう。１、２本は魔法の矢を預けても大丈夫か？）</p><p>うーむ、と考え込む。</p><p>今のところ、“氷の矢”はマンデルに５本ほど預けてあり、残りの１５本はケイが持っている。“森大蜥蜴”の巨体を効率的に冷却するには、できるだけ多方向から複数の矢を打ち込む必要があるのだが、肝心の射手がいなかった。</p><p>その点、ロドルフォは悪くない。射手としては。度胸もありそうだし……</p><p>……。ダメか？！</p><p>ケイの沈黙をどう受け取ったか、ロドルフォがこてんと首を傾げる。</p><p>ああいや、すまない、少し考え込んでいた。……もしよければ、使っている弓を触らせてもらえないか</p><p>え？　ああ、構わないが。見せるほどのものではないぞ！</p><p>ロドルフォがヒョイッと弓を渡してくる。他人に触らせることを全く気にしていないようだ。ケイは”竜鱗通し”を他人に扱わせる際、それなりに緊張するのだが。</p><p>（草原の民からの流用品、あくまで換えのきく道具ってことか）</p><p>複合弓をグイッと引いて、張りの強さを確かめたケイは、 まあこんなもんか と納得する。ロドルフォの引き具合から考えると、速射時の威力は本来の８割といったところか。</p><p>威力が不安か？</p><p>ケイの懸念を、ロドルフォは汲み取ったようだ。</p><p>―なら、ここを狙ったらどうだ！</p><p>とんとん、と指先で自分の目の下をつつき、ロドルフォは笑う。</p><p>柔らかく、脆い眼球を狙うつもりらしい。</p><p>……それは、おれも考えていた</p><p>と、いつの間にか近くに来ていたマンデルが話に加わってくる。</p><p>ケイ。……実際のところ、目は弱点になりうるのか？　以前、“森大蜥蜴”は熱を探知する器官を持っていて、視覚に頼らず獲物の位置を特定できる、と言っていたが、目を潰しても意味はあるのだろうか</p><p>マンデルの質問に、ロドルフォが え？　なにそれ、そんなの知らない とばかりにスンッと真顔になった。</p><p>もちろん、意味はある。目をやられて平気な生き物はいないさ、痛みで怯むだろうしな。ただし命中すればの話だ</p><p>ケイは手で、十センチほどの円を作ってみせた。</p><p>“森大蜥蜴”の目の玉はだいたいこれくらいの大きさだ。図体の割に目はそんなにデカくない。そして、ヤツはこうやって</p><p>ケイはシャドーボクシングをするように、ぐいんぐいんと首を振ってみせた。</p><p>頭を振りながら移動するから、命中させるのも至難の業でな</p><p>……ケイでも難しいのか？</p><p>ああ。走ってる最中は、とてもじゃないが狙って当てられん。人間と違って次にどう動くか読めないんだ。だから少しでも動きを鈍らせられるように、落とし穴を準備しているわけさ</p><p>なるほど、そういうことか</p><p>マンデルはふんふんと頷いて、表情を曇らせた。</p><p>このサイズか。……おれの腕では、止まっていても必中とはいかないな</p><p>自分も、手で十センチ大の円を作ってみながら、思案顔のマンデル。</p><p>なぁに、数撃ちゃ当たる！！</p><p>ロドルフォはなぜか胸を張っているが、それは自分に言い聞かせているようでもあった。</p><p>それで、ケイ殿！　俺は使い物になるかな！？</p><p>ああ、雇おう</p><p>なんだかんだで、この威勢の良さは気に入った。ケイ基準だと見劣りがするだけで、弓の腕前も及第点だ。“森大蜥蜴”を相手に目を狙ってやろうという気概も悪くない。</p><p>ありがたい！　全力を尽くさせてもらおう！</p><p>白い歯をキラッとさせて笑いながら、再び大仰に一礼するロドルフォ。</p><p>……まあ目潰しに関しては、当たったら儲けもの、くらいに思うといいさ。それに眼球から脳までの距離が遠くて、横合いから深く突き刺さらない限り、致命傷にはならないんだ</p><p>もちろんケイとしても積極的に狙うつもりだが、以前の”大熊”のように即死させるのは難しいだろう。魔法の矢が目にぶっ刺されば話は別かもしれないが―</p><p>旦那、それに関してはアッシに考えがあるんでさ</p><p>と、ここでキリアンが腰のポーチから黒い小さな壺を取り出す。クッションに包まれ、厳重に封がしてあるが……何やら物騒な気配だ。</p><p>……それは？</p><p>アッシ特製の毒でさぁ。猛毒のキノコ、毒ガエルと毒虫の汁、それに薬草と香辛料を混ぜてありやす</p><p>思った以上に物騒な代物だった。キリアンの森の知識の結晶。</p><p>肉を溶かす毒なんで、危なっかしくて普通の狩りには使えやせんが。“森大蜥蜴”が相手なら、と思いやして。流石に、これっぽっちの毒じゃデカブツは殺しきれんでしょうが、動きはかなり鈍くなると思いやすぜ</p><p>毒か……</p><p>魔法の矢は用意していたが、その発想は抜け落ちていた。</p><p>……旦那、毒はお嫌いで？</p><p>渋い顔をするケイに、キリアンが顔を曇らせる。こういった『道具』は人によって主義主張信条があり、トラブルの種になりかねないのだ。</p><p>いや、あまりいい思い出がないだけだ。使えるものは使うべきだと思う</p><p>ひょいと肩を竦めるケイ。</p><p>アッシは矢弾(ボルト)にこれを塗り込むつもりでやすが、こっちの坊(ぼん)にも使わせてやろうかと</p><p>おいおい、坊(ぼん)はよしてくれよ！</p><p>ロドルフォが苦笑している。だが、彼の速射と毒矢はなかなか相性がいいかもしれない。</p><p>旦那は、お使いになりやすか？</p><p>いや、俺はやめておこう。毒はそっちで使ってくれ</p><p>毒なんざ使わなくとも、旦那の強弓は威力充分でやすからね</p><p>ケイの”竜鱗通し”を見やり、眩しげに目を細めるキリアン。</p><p>そういえば、その強弓！　“大熊”さえ一矢で射殺したと名高いが、ぜひその威力を見せてはもらえないか！？</p><p>ロドルフォが鼻息も荒く頼み込んでくる。</p><p>…………</p><p>その背後では、槍を回収して戻ってきたゴーダンが、目を輝かせていた。</p><p>あー……すまないな、本気で使うと矢がダメになってしまうんだ。今は一本でも温存しておきたい</p><p>期待に応えられず申し訳なく思いつつも、ケイは断る。“竜鱗通し”は全力で矢を放てば細木を折るほどの威力だが、代償として矢も砕けてしまう。“森大蜥蜴”を射殺すには、矢が何本あっても足りないほどだ。デモンストレーションのために無駄にするわけにはいかない。</p><p>そうか。それは確かに、そうだな！</p><p>…………</p><p>納得するロドルフォ、しゅんとするゴーダン。</p><p>代わりと言っちゃなんだが、引いてみるか？</p><p>おっ！！　いいのか！？</p><p>……！！</p><p>喜ぶロドルフォ、元気を取り戻すゴーダン。</p><p>ケイは苦笑しながら、“竜鱗通し”を貸してやった。まあ、この二人なら変な扱いはしないだろう。</p><p>思ったより軽いな！　……って、なんて張りだコレは！？</p><p>……指が千切れそうだ</p><p>やはり、みな同じような反応をするもんだな。……かくいうおれもそうだった</p><p>やんややんやと騒ぐ二人に、マンデルが腕組みしたままうんうんと頷いていた。</p><p>ちなみに、キリアンも興味がありそうな顔をしていたが、年甲斐もなくはしゃぐのが恥ずかしかったのか、触らなかった。</p><p>ところでロドルフォ。渡しておきたいものがある</p><p>“竜鱗通し”体験会が落ち着いたところで、ケイは話を切り出す。</p><p>おお、なんだ？</p><p>魔法の矢だ</p><p>！？　そんなものがあるのか！</p><p>ああ。友人の魔術師に作ってもらった。氷の精霊の力で、刺さった部分を凍りつかせる力がある</p><p>“森大蜥蜴”が寒さに弱く、体温を下げれば劇的に動きが鈍くなる、という旨の説明をしたケイは、腰の矢筒から”氷の矢”を抜き取ってみせた。鏃の留め具にブルートパーズがはめ込まれている、特殊な矢だ。</p><p>これが……！</p><p>魔法の矢……！</p><p>初めてお目にかかりやした</p><p>興味津々なロドルフォ、ゴーダン、キリアンの三人組。</p><p>ロドルフォ、お前にはコイツを持っていてもらいたい</p><p>いいのか！？　俺が！？</p><p>ああ。だがその前に使い方を教えよう</p><p>ケイは”氷の矢”を矢筒に戻し、代わりに普通の矢を抜いた。</p><p>これは普通の矢だが、とりあえず魔法の矢だと思ってくれ。魔法の矢は、放つ前に合言葉(キーワード)を唱える必要がある</p><p>ぐっ、と矢をつがえて引いてみせる。</p><p>この状態だ。放つ直前に、 オービーヌ と唱えろ。そうすることによって、矢に封じられた精霊の力が目覚める。そして矢が刺されば、氷の魔力が解き放たれるんだ</p><p>なるほど</p><p>ただし、一度精霊の力を目覚めさせると、もう矢筒には戻せない。絶対に命中させる必要がある。そして合言葉を唱えずに放つと、普通の矢と変わらない。絶対に合言葉を唱えるのを忘れるな。いいか。絶対にだ</p><p>な、なるほど……</p><p>ロドルフォはケイの気迫に圧されて引き気味だ。</p><p>とりあえず、２本渡しておく。 ロドルフォ、お前にこの２本を譲る</p><p>あ、ああ……わかった</p><p>その２本が自分のものであることを宣言してくれ</p><p>え？　…… この魔法の矢は、俺のものだ</p><p>よし。それで所有権がお前に移った。お前がその矢をつがえて、合言葉を唱えると魔法の矢として機能する</p><p>ほほー……！</p><p>しげしげと鏃に埋め込まれた青い宝石を眺めていたロドルフォだったが、やがて大事そうに腰の矢筒にしまった。</p><p>合言葉は覚えてるな？</p><p>オービーヌ だな？</p><p>そうだ。これから俺が、『合言葉！』と叫んだら即座に オービーヌ と言い返せよ。いざというときに忘れてちゃ話にならんからな</p><p>覚えているような気がしていても、“森大蜥蜴”を前にして緊張したら合言葉が出てこないかもしれない。来襲までどれほど時間があるかは謎だが、できる限り訓練しておこうというわけだ。</p><p>ちなみに、マンデルにも同じことをやっている。</p><p>はっはっは、任せてくれ。女の名前を覚えるのは得意なんだ！</p><p>ちなみに、 オービーヌ は氷の精霊の名前だ</p><p>そ、それは畏れ多いな……！</p><p>ロドルフォはぎょっとして仰け反った。</p><p>旦那。その魔法の矢、アッシには使えないもんですかい？</p><p>キリアンの得物はクロスボウだからな……</p><p>クロスボウは太く短い矢弾(ボルト)を射出する。弓で放つ矢とは形が全く違うのだ。無理やりセットすれば発射はできるだろうが、まっすぐ飛ばないだろう。キリアンもプロなので ああ、確かに とすぐに理解し、諦める。</p><p>……ケイ、……その……</p><p>と、ここでゴーダンがもじもじと。</p><p>……魔法の槍とかは、ないか……</p><p>羨ましかったらしい。</p><p>……。すまない、流石に持ってないな……</p><p>そうか…………</p><p>……ま、まあ、なんだゴーダン。お前さんにもアッシの毒を分けてやるよ、魔法の槍たぁいかないが、毒の槍にしようぜ</p><p>お、おう……</p><p>キリアンが慰めなのか何なのかよくわからない言葉をかけたが、ゴーダンは依然として残念そうな顔をしていた。</p><p>なんとなく不憫に思ったケイは、</p><p>……お前の槍に、風の精霊への祈りを込めておこう。狙いを違わず突き刺さるように</p><p>…………！</p><p>ゴーダンがパッと明るい表情になった。</p><p>†††</p><p>ケイが祈りを捧げると、シーヴが気を利かせて（ケイの魔力を消費し）風を吹かせてくれたので、ゴーダンは大喜びだった。</p><p>めちゃくちゃはしゃいでいた。</p><p>また、アイリーンとマンデル以外の面々も、『風の精霊が顕現した』ことに驚きつつも、好意的に受け止めていた。ケイは自らが魔術師であることを特に喧伝していなかったからだ。</p><p>もっとも、皆の士気が上がるのは良いことなので、ケイも無粋な解説などはせず口をつぐんでおいたが。</p><p>それから森を警戒しつつ土木作業を進め、多数の落とし穴を掘った。子供がすっぽりと埋まる程度の深さの穴に、木の枝で軽くフタをしただけの稚拙極まる罠だが、“森大蜥蜴”の頭脳ではおそらく見破れまい。賢い”大熊”だったら引っかからなかっただろう。</p><p>日が暮れてからは、村で英気を養う。アイリーンが”警報(アラーム)“の魔術で万が一の備えをしたが、“森大蜥蜴”は昼行性なので夜には襲撃がないはず、ということでゆっくりと体を休める。</p><p>そして翌朝―</p><p>ケイは借り受けた民家の寝室で、ガヤガヤと騒がしい外の気配に目を覚ます。</p><p>まさか、出たのか……！？</p><p>朝飯食う暇もねえなケイ！</p><p>アイリーンともども、最低限の装備を身に着けて家を飛び出す。</p><p>しかし外に出てみれば、“森大蜥蜴”の来襲ではないようだった。</p><empty-line/><p>見れば村の入口のキャンプに、一台の荷馬車が停まっている。</p><p>あれはコーンウェル商会の……！</p><p>御者台には、数日前に知り合った護衛・オルランドの姿があった。</p><p>想像以上に早い到着だな！</p><p>ピウッと口笛を吹くアイリーン。</p><p>囮の山羊も積んでるはずだ。これは助かる―</p><p>ケイも満足げに頷いたが、</p><p>ケイさーん！！！</p><p>荷台に見覚えのある顔があって、目が点になった。</p><p>やった！！　どうやら間に合ったようですね！！　世紀の大物狩りに！！</p><p>竪琴を片手に大感動している吟遊詩人。</p><p>―これで僕も伝説の目撃者になれるッッ！</p><p>なぜかコーンウェル商会の馬車に、ホアキンが同乗してきていた。</p><p>サスケ ケイにファンだって</p><p>スズカ あなたのファンはいるのかしらね</p><p>サスケ そりゃいるよ。…………いるよね？</p><p>95. 伝説</p><p>前回のあらすじ</p><p>サスケ イカれたメンバーを紹介するぜ！</p><p>スキンヘッドであり断じてハゲじゃない！　森歩きの達人キリアン！</p><p>ケイの大ファン、シャイ系ゴリラ投槍マン！　ゴーダンんん！！</p><p>やたらイケメン！　爽やか用心棒のロドルフォぉぉぉ！</p><p>あとなんか商会の馬車にひっついてきた吟遊詩人</p><p>以上だ！！</p><p>ホアキン なんか僕の扱い雑すぎません？</p><p>ホアキン！　なんでこんなところに―って聞くまでもないか</p><p>伝説の目撃者とやらになるためだろう。</p><p>ケイさん！　本当に間に合ってよかったです！</p><p>荷馬車から飛び降りて駆け寄ってきたホアキンは、聖地へ巡礼に訪れた信者のような、感動した面持ちで村を見つめた。</p><p>素晴らしい……ここが伝説の舞台になるわけですね……！　おお―</p><p>ホアキン、悪いが話はあとだ</p><p>そのまま一曲吟じかねないテンションのホアキンを、ケイは押し止める。</p><p>今日ぐらいからぼちぼちヤバいんだ、“森大蜥蜴”が出てくるかもしれん。仕上げに色々と準備することがあるから、話は作業しながら聞かせてくれ</p><p>わ、わかりました</p><p>流石に邪魔する気はないらしく、ホアキンは素直に頷いた。</p><p>荷馬車の護衛・オルランドと話し、商会からの物資を受け取る。</p><p>健康な山羊が五頭、医薬品や食料、そしてショベルやツルハシといった道具類。</p><p>人手はあっても道具が不足していた現状、少しでも土木作業を進めておきたいケイたちにとって、物資の到着は福音だった。</p><p>エリドア！　道具の分配と落とし穴は任せるぞ！</p><p>わかった！</p><p>新品のショベルを片手に、緊張気味のエリドアが頷く。</p><p>他の者は、作業でわからんところがあったら村長のエリドアに聞け！</p><p>了解ー！</p><p>村人や人足たちが各々の持ち場に散っていく。みな、日が昇って気温が上がると”森大蜥蜴”襲来の可能性が高まるとのことで、早めに作業を終わらせてしまおうと必死だった。</p><p>襲来の可能性があるのにそれでも逃げ出さないのは、森のすぐ近くに哀れな山羊たちが繋がれていて、 あいつらが先に喰われるから大丈夫だ という安心感があるからだろう。</p><p>メェ～～～</p><p>雲行きが怪しいことを察しているのか、不安げに鳴く山羊たちを尻目に、ケイは落とし穴に目印の小さな旗を立てていた。</p><p>おい、サスケ。よく見ておけ</p><p>サスケの手綱を引いて、旗を見せておく。 なにこれ？ とばかりにしげしげと覗き込むサスケ。</p><p>これは落とし穴だ</p><p>ぶるるっ</p><p>……その、彼(サスケ)は言葉がわかるんですか？</p><p>黙って作業を見守っていたホアキンだが、思わずといった様子で尋ねてくる。</p><p>いや、流石に全部わからないと思うが、コイツは賢いからな</p><p>ぶるるっ！</p><p>サスケ、この木の枝の部分をちょっと踏んでみろ</p><p>くいくい、とケイは再び手綱を引き、地面の落とし穴のフタを指し示す。サスケが前脚を伸ばし、ズボッ！　と勢いよく踏み込んで転びそうになった。</p><p>ぶるふぉォ！</p><p>おっとと！　ちょっとって言っただろ！</p><p>なんじゃこりゃぁと目を剥くサスケ、慌てて体を支えるケイ、 賢い……？ と疑惑の目を向けるホアキン。</p><p>まあ、これでお前もわかっただろう。これが落とし穴だ。この旗と木の枝っぽいフタが目印だからな、踏まないよう気をつけろよ</p><p>ケイがそう言うと、キョロキョロと周囲を見回したサスケは、 え、これぜんぶ落とし穴なの……？　こわ……近寄らんどこ…… とばかりに落ち着きなく足踏みし、ケイに寄り添ってきた。</p><p>これでよし</p><p>戦闘中は”森大蜥蜴”に集中することになるので、ケイがいちいちサスケに指示を出す暇がない。サスケには自発的に落とし穴を避けてもらう必要があるのだ。今の一幕で落とし穴のヤバさは体感できただろうし、サスケも迂闊に踏み込まないはず。</p><p>警戒に戻るかな</p><p>とりあえず作業らしい作業は終わった。ケイがやるべきことは、いつ”森大蜥蜴”が出てきてもいいように警戒するだけだ。</p><p>穴掘りに従事する村人たちに囲まれながら、自分は何もしないのは少し居心地が悪いが、昨日と違って今日は無駄に体力を消耗するわけにはいかなかった。もっとも、周囲の人間は誰もそんなことを気にしていなかったが……</p><p>急げー！</p><p>さっさと終わらせるぞー！</p><p>とっとと持ち場の作業を終わらせて退避することしか頭にないようだ。</p><p>しかしケイさん、こんな落とし穴が”森大蜥蜴”に通用するものなんですか？</p><p>ああ、これはな―</p><p>休憩タイムに移ったと判断したのか、ホアキンが話しかけてくる。ケイは昨日したように、この罠の有効性を説明した。</p><p>はは～～～なるほど、参考になりますねえ！</p><p>感心して頷いたホアキンは、目をぱちぱちと瞬かせながら、空を見上げて何やら呟いていた。ケイが話した内容を復唱して完璧に記憶しようとしているらしい。吟遊詩人は見聞きした物語を咀嚼し、アレンジして歌い上げる。当然、記憶力も良くなければ務まらないのだろう。</p><p>ホアキンも物好きだな、今回は流石に危険だぞ</p><p>それでも見たかったんですよ、だって”森大蜥蜴”ですよ？　しかも”大熊殺し”がその討伐に赴いた―これで血が騒がなかったら吟遊詩人失格ですよ</p><p>その割には、他に吟遊詩人の姿はないようだが？</p><p>わざわざ現場まで出向くのはホアキンくらいのものではないか。</p><p>いや、僕はたまたま、コーンウェル商会で今回の一件を小耳に挟んだんですよ。幸運でした……ケイさんたちは既に旅立ったとのことで、同業者に教える暇もなくそのまま追いかけてきたわけです</p><p>ひょいと肩を竦めるホアキン。</p><p>どうやらロクに準備も整えず、街道をひたすら北に走ってきたらしい。その道中でオルランド率いる商会の馬車に追いつき、頼み込んで同乗させてもらったそうだ。</p><p>よく追いついたな……</p><p>この男、武芸の心得はないが、身一つで各地を渡り歩いているだけあってかなりの健脚だ。騎馬よりは遥かに低速とはいえ、先行した馬車に追いつくとはどれほどの速さで駆けたのか。</p><p>まあでも、今頃はサティナの街でも話が広まってるでしょうし。吟遊詩人たちがこぞってヴァーク村を目指してきているかもしれませんよ？</p><p>―ドドドドドと土煙を巻き上げながら、竪琴を手にした吟遊詩人たちが大挙して押し寄せる光景を想像し、思わずケイは笑ってしまった。</p><p>彼らが間に合えばいいんだがな</p><p>おや。見世物になるのはあまりお好きじゃないかと思ってましたが</p><p>ケイの一言に、ホアキンが意外そうな顔をする。</p><p>彼らが間に合うということは、まだしばらく”森大蜥蜴”が出てこないってことだからな。俺だって戦いたくてたまらないわけじゃないんだ</p><p>これだけ迎撃準備を整えておいてなんだが、何かの間違いで”森大蜥蜴”が 深部(アビス) に引き返すなら、それはそれでアリだと思っているほどだ。</p><p>まあ、おそらく今回の個体は、 深部 の境界線の変動により本来の縄張りを失って移動を余儀なくされたのだろうから、引き返す目算は低かったが……。</p><p>なるほど、そういうものですか……“森大蜥蜴”を狩るためではなく、あくまで村を守るために義によって立ち上がった、と。そういうわけですね……</p><p>うんうんと頷くホアキン。着々とストーリーが練り上げられているようだ。</p><p>噂によると、魔法の矢も用意されているとか</p><p>ああ。“流浪の魔術師”殿にお願いしたよ</p><p>流石の人脈ですね……！　まさか”呪われし姫君”に加え、“流浪の魔術師”とまでお知り合いだったとは思いませんでしたが。こうしてみると最近この辺りで流行っている歌、全てケイさんたちが関わってますね？</p><p>言われてみれば、確かにそうだな……</p><p>サティナの正義の魔女。大熊殺し。流浪の魔術師と呪われし姫君の物語。</p><p>まさに英雄の星の下に生まれた、と……そんなケイさんと巡り会えたのが、僕の人生の最高の幸運かもしれません……</p><p>ポロロン……と竪琴を鳴らしながら、ホアキンは感じ入っている。必死に穴を掘る村人たちが なんでコイツこんなに暢気なんだ…… と別種族を見るような目を向けていた。ケイやアイリーンでさえある程度緊張しているというのに、肝が据わりすぎている……</p><p>ところで今回、ケイさんとアイリーンさんの御二方で戦うつもりなのですか？　荷馬車の護衛の方たちは―</p><p>ホアキンは村の方をチラッと見やった。</p><p>―あくまで”荷馬車の護衛”で、参加されないそうですけど</p><p>護衛のオルランドたちは、今も任務に忠実に、村の入り口の探索者キャンプで荷馬車を”護衛”している。“森大蜥蜴”が出現すれば、荷馬車を守るために速やかに退避するだろう。元からそういう契約なのでケイとしては特に言うこともない。</p><p>いや、流石にアイリーンと俺だけじゃあな。何人か協力者もいるぞ</p><p>ケイは、各所で武器を手に警戒する四人を示した。</p><p>あの羽飾りのついた帽子をかぶっているのが、マンデル。タアフ村から来た狩人だ。あっちのクロスボウ使いはキリアン。かなり腕利きで森歩きを生業にしているらしい。んで、あの大男がゴーダン。投槍の名手だ。そしてあの美丈夫はロドルフォ、流れの用心棒だ。四人とも、“森大蜥蜴”狩りで戦闘要員として雇った</p><p>タアフ村……マンデル……ひょっとすると”十人長”のマンデルですか？　確か武闘大会の射的部門でも活躍されてましたよね</p><p>詳しいな。そのマンデルだ</p><p>ほほう！！　皆さん、お話を伺っても？</p><p>本人がいいと言うなら、もちろん構わないぞ</p><p>それではちょっと聞いてきます！</p><p>マントを翻して、ホアキンがダッと駆け出した。とりあえず一番手近なゴーダンに話を聞きに行ったようだ。</p><p>初めまして！　あの、僕、吟遊詩人のホアキンっていうんですが―！</p><p>あ、ああ……</p><p>よろしければ、今回の大物狩りへの意気込みなど―！</p><p>そ、それは……その……</p><p>なぜ参加されようと思ったんですか！？　危険極まりない大物狩りに！</p><p>やはりケイの存在が大きい俺がケイを初めて知ったのは酒場で”大熊殺し”の噂を小耳に挟んだときだ最初は半信半疑だったがウルヴァーンで開催された武闘大会の射的部門を観戦していた俺は―</p><p>最初はしどろもどろだったが、突然早口で語り始めるゴーダン。ケイがいかに武勇に優れているか、賞賛の言葉が風に流れて聞こえてきて、ケイはひどくこっ恥ずかしい気持ちになった。</p><p>なるほど……！　ケイさんの義勇に感化されたと……！</p><p>ホアキンは逐一相槌を打ちながら耳を傾け、 英雄への憧れ、実にいい……！ などと呟きながらぱちぱち目を瞬いて空を見上げていた。</p><p>ゴーダンから話を聞き終えたホアキンは、マンデルやキリアンにも積極的に話しかけていく。キリアンはどうやらホアキンが苦手だったらしく、それを察したホアキンが早めに話を切り上げていた。逆に、マンデルとはケイの話題で盛り上がったようだ。</p><p>最後にロドルフォ。</p><p>初めまして！　ホアキンです― ¿Eres del mar?</p><p>Sí! ¿Tú también?</p><p>ニカッ！　と白い歯を輝かせて笑うロドルフォ。</p><p>どうやら二人とも”海原の民(エスパニャ)“の末裔のようだ。</p><p>Hola soy Rodolfo!</p><p>¡Oh, mucho mejor!　Entonces, me gustaría saber por qué decidiste participar en esta cacería―</p><p>De hecho, me voy a casar con una mujer pronto … por eso necesito un poco de dinero…</p><p>何やら話が弾んでいる。ケイもスペイン語は少しかじっているのだが、流石にネイティブの速さというべきか、何を言っているかはさっぱりだった。ただ、ホアキンがこの狩りに参加した理由諸々を尋ねていることだけは、なんとなくわかった。</p><p>（登場人物たちのバックストーリー掘り下げに余念がないな……）</p><p>これまで色々と付き合いのあったホアキンだが、ケイは彼の本質を完全には理解できていなかったようだ。</p><p>骨の髄まで吟遊詩人。まさか、ここまで徹底していたとは―</p><p>―ん</p><p>アイリーンがぴくりと森を見やった。</p><p>―静かだ。</p><p>いつの間にか。</p><p>鳥たちのさえずりも、何も聞こえない。</p><p>全てが息を潜めている。</p><p>まるで、何か、とてつもなく巨大な脅威を。</p><p>やり過ごそうとしているかのように―</p><p>メェ～～～！</p><p>メ～～～～ェ！</p><p>メェ～～～～！</p><p>繋がれた山羊たちが、狂ったように騒ぎ出した。首に巻かれたロープを引き千切る勢いで、必死に逃げ出そうとしている。つんざくような悲惨な鳴き声に、止まっていた時が再び動き出す。</p><p>退避！</p><p>ケイが短く叫ぶと、固まっていた村人や人足たちが、一目散に逃げ出した。</p><p>合言葉！</p><p>！　 オービーヌ ！</p><p>オービーヌ ッ！</p><p>マンデルとロドルフォが叫び返す。</p><p>ホアキン、お前も戻れ！</p><p>ケイに命じられ、ホアキンが弾かれたように走り出す。チラチラと背後を振り返りながら。こんなときまで、“森大蜥蜴”の登場を見逃すまいとするかのように。</p><p>だが、もはや吟遊詩人に居場所はない。</p><p>舞台に立つ役者は―</p><p>ケイたちだ。</p><p>ズンッ、と森の奥で何かが動いた。</p><p>木々が、茂みが、ざわめく。</p><p>―ぬるり、と。</p><p>木々の隙間を縫うように、青緑の巨体が姿を現した。</p><p>でけえ……</p><p>呆れたようなゴーダンの呟き。</p><p>グルルル……と遠雷のような音が響く。</p><p>それは地を這う竜の唸り声だった。</p><p>チロチロ、と細長い舌を出し入れしながら、“森大蜥蜴”が睨めつける。</p><p>いや、ただ餌の場所を確認しただけだ。</p><p>とりあえず手近なお(・)や(・)つ(・)にかじりつく。</p><p>メェ～～～～！</p><p>最期まで悲惨に、そして呆気なく。</p><p>パキッ、ポキッと捕食されていく。</p><p>ケイはその隙に、サスケに飛び乗った。</p><p>“竜鱗通し”を構える。“氷の矢”を引き抜く。</p><p>来るぞッ！　予定通りありったけ矢をブチ込め！</p><p>そして弦を引き絞り―</p><p>ズズンッ、と再び森が揺れた。</p><p>―は？</p><p>誰かの、呆気に取られたような声。</p><p>眼前の”森大蜥蜴”の背後に―揺らめく影。</p><p>ぬるり、と。</p><p>木々の隙間を縫うようにして、《《もうひとつ》》巨体が這い出してきた。</p><p>隣り合った二頭の竜は、お互いの頭を擦り付けるようにして。</p><p>ゴロゴロゴロ……と遠雷のような唸り声。</p><p>―愛情表現の一種。</p><p>ケイの知識が、場違いなまでに冷静に、それが何かを告げてくる。</p><p>つがい……？</p><p>冗談だろ……というアイリーンのつぶやきが、やけに大きく響いた。</p><p>そして存分に、仲睦まじさを見せつけた二頭の竜は。</p><p>グルルル……</p><p>だらだらと口の端から涎を垂れ流し。</p><p>―ルルロロロロォァァァ―！！</p><p>ケイたちに狙いを定め、咆哮する。</p><p>―ここに、伝説の狩りが幕を開けた。</p><p>96. 死線</p><p>―無理だ。</p><p>地響きを立てて迫る二頭の巨竜に、ゴーダンはすくみ上がった。</p><p>常人が心折れるには、充分すぎる光景だった。</p><p>グルロロロロォォ―ォ！！</p><p>雷鳴のごとき咆哮に打ちのめされ、身体が強張って動かない。</p><p>はるか格上の捕食者を前に本能が告げる。</p><p>―なりふり構わず逃げ出せ、と。</p><p>う、ぁ……</p><p>息が詰まる。腰が引ける。後ずさる。</p><p>Aubine ！</p><p>だがそこで、凛とした声が響いた。</p><p>思わず振り返る。</p><p>ケイだ。</p><p>馬上で朱(あか)い複合弓を構え、ぎりぎりと弦を引き絞っている。“氷の矢”に込められた精霊の力が目覚め、青い光が溢れ出していた。</p><p>―解き放つ。</p><p>カァン！　と唐竹を割るような快音。かつて武闘大会で、ゴーダンを魅了したあの音が高らかに響き渡った。</p><p>青き燐光を散らす、一条の流星と化した魔法の矢―それは吸い込まれるように”森大蜥蜴”の鼻先へと突き立った。</p><p>グルロロロロォ―ッ！？</p><p>予期せぬ痛みにたじろぐ”森大蜥蜴”。矢を中心に、青緑の皮膚にパキパキと霜が降りていく。凍傷の激痛もさることながら、冷気がピット器官を麻痺させる。これで熱探知の能力も使い物にならない。</p><p>Aubine ！</p><p>すかさず二の矢をつがえるケイ。狙うはもう一頭の”森大蜥蜴”。最初の個体より小柄だ、おそらくこちらが雌か。</p><p>快音再び。</p><p>青き流星が空を穿つ。</p><p>雌竜の前脚に氷の矢が突き立ち、凍傷で動きを鈍らせた。</p><p>効くぞ！　魔法の矢は！</p><p>ケイが叫ぶ。</p><p>たったの二射で巨大な怪物の突進を止めた、稀代の英雄が。</p><p>臆するな！　確かに手間は増えたが―</p><p>少し強張った顔で、それでもニヤリと笑ってみせる。</p><p>―その分、名誉も報酬も二倍だ！　狩るぞッ！！</p><p>つがえる魔法の矢。</p><p>Aubine ッ！</p><p>まるで流星群のように、青く煌めく矢の雨が降り注ぐ。</p><p>グルロロロロロロォ―ッ！！</p><p>顔が、脚が、穿たれ凍てつく痛みに、“森大蜥蜴”たちがじりじりと後退る。</p><p>……行けるぞ！</p><p>うおおおおッ！</p><p>マンデルとロドルフォも”氷の矢”をつがえ、 オービーヌ！ と合言葉(キーワード)を叫び、次々に放った。</p><p>青い光を灯した矢が”森大蜥蜴”の横腹に突き刺さり、凍りつかせていく。</p><p>さらにキリアンもクロスボウを構え、毒の矢弾(ボルト)を打ち込んでいた。</p><p>（そうか……俺も……）</p><p>ゴーダンは、気づく。</p><p>己もまた、英雄譚の一員であることに。</p><p>（このまま……何もせずに……）</p><p>―終われるものか。</p><p>背中に担いだ槍を引き抜く。</p><p>震える手で投槍器(アトラトル)を構える。</p><p>おお―</p><p>臆するな。</p><p>おおおおッ！！</p><p>狙え、そして穿て。</p><p>おおおおおおお―ッッ！</p><p>雄叫びを上げたゴーダンは、投槍器(アトラトル)を握る手に力を込める。</p><p>踏み込む。</p><p>全身をバネにして、持てる力を注ぎ込む。</p><p>ぶぉん、と投槍器(アトラトル)が唸りを上げた。</p><p>美しい放物線を描いた投槍は、無防備な”森大蜥蜴”の横腹に食らいつく。</p><p>そしてキリアン特製の毒をたっぷりと塗り込んだ穂先は、青緑の皮膚に深々と突き刺さるのだった。</p><p>†††</p><p>グルロロロロロロォ―ッ！？</p><p>横腹に槍がぶっ刺さり、絶叫する”森大蜥蜴”。大柄な体格から、おそらくこちらが雄の個体だろう。</p><p>いいぞ、ゴーダン！</p><p>横合いから痛撃をお見舞いしたゴーダンに、ケイは快哉を叫ぶ。</p><p>“氷の矢”の大盤振る舞いで”森大蜥蜴”たちがたじろぎ、突進を止められたのは幸いだった。お陰で戦線が―そう呼べるかは、人数が少なすぎて疑問だが―かろうじて維持されている。ここでゴーダンたちに逃げられたら、勝ち目がさらに薄くなるところだった。</p><p>（―しかし、まずいな）</p><p>その実、状況は芳しくなかった。</p><p>『矢継ぎ早』とはまさにこのこと。“森大蜥蜴”の目を狙って次々に矢を放ちながらも、ケイは冷めた思考で戦局を俯瞰している。</p><p>まず、想定よりも多く”氷の矢”を浪(・)費(・)してしまった。ケイは正面から、“森大蜥蜴”の顔面や脚部に命中させたが、あれは本来、アイリーンが注意を引いている間に横合いから胴体に打ち込むべきものだった。</p><p>そうすることでより効率的に体温を下げ、機動力を奪う狙いがあったのだ。</p><p>翻って顔面は効果が薄い。“森大蜥蜴”の頭蓋骨は分厚く、皮膚の下にもウロコ状の『骨状組織の鎧』があるため非常に堅牢で、ほとんどダメージが通らないのだ。それこそ目や、額に一箇所だけ存在する光感細胞が密集した部分―通称『第三の目』―を狙わない限りは。</p><p>そして今こそ、未知の痛みで”森大蜥蜴”たちも怯んでくれているが、まもなくそれは狂気的な怒りで塗り潰され、多少の痛みは歯牙にかけなくなるだろう。ゲーム時代から身にしみている”森大蜥蜴”の習性、一度(ひとたび)怒りに火が付けば、文字通り死ぬまで止まらない。</p><p>そう、ケイたちは”森大蜥蜴”を『圧(お)して』いるように見えるが、実際は、ただ”森大蜥蜴”が こんな痛み知らない！ とビビっているだけなのだ。生命に関わるような打撃は与えられていない。それこそゴーダンが腹にぶっ刺した槍くらいのものか。</p><p>あの大型トラックのような巨体が『暴走』すれば―いったい、何人が犠牲になることか。</p><p>ちら、と果敢に攻撃を続けるゴーダンたちを見やる。</p><p>マンデルとロドルフォは”氷の矢”を使い果たし、今は普通の矢で顔に集中砲火を浴びせている。キリアンはクロスボウでの狙撃。同じく目を狙っているようだ。だが、上下左右に動き回る頭部で、さらに小さな目を射抜くのは容易ではなく、よしんば目の付近に命中しても、強靭な皮膚と頭蓋骨で弾かれる矢がほとんどだった。</p><p>ゴーダンはキリアンから毒壺の一つを借り受け、追加で穂先に塗布しているようだ。毒でてらてらと輝く槍を構え、慎重に投げるタイミングを見計らっている。矢と違って槍は残りの本数が少ない。</p><p>皆、必死だ。</p><p>犠牲は、抑えなければ。</p><p>―そのために最善を尽くす。</p><p>アイリーン！</p><p>矢を放ちながら、ケイはその名を呼んだ。</p><p>―小さい方の気を引いてくれ！　デカいのは俺が引き受ける！</p><p>オーライ！　任せろ！</p><p>威勢よく答え、アイリーンが地を蹴った。</p><p>右手にサーベルを。左手に鞘を。それぞれ握って風のように駆ける。</p><p>オラッ、こっちだクソトカゲ！</p><p>そして、左手の鞘には大きなスカーフがくくりつけられていた。雌竜の前で派手に飛び跳ねながら、鞘を振り回すアイリーン。その姿はさながら闘牛士、ひらひらとたなびくスカーフが、否が応でも注意を引きつける。</p><p>ほれほれ！　どうしたどうした！</p><p>それだけでは飽き足らず、無謀にも眼前で立ち止まりさらに挑発するアイリーン。右手のサーベルを日差しにかざし、太陽光を反射させる。</p><p>目の辺りにチカチカと、眩い光―</p><p>グロロロ……と喉を鳴らした雌竜が突如、グワッと大口を開けて喰らいついた。</p><p>なっ……</p><p>思わず、マンデルたちの攻撃の手も止まる。これまでのゆったりとした動きからは想像もつかないほど、俊敏な、目にも留まらぬ一撃。</p><p>よっ、と</p><p>しかし、アイリーンはそれを上回る機敏さで回避。どころか、ビシュッ、と右手のサーベルを閃かせ、チロチロと空気の匂いを嗅ぐ舌先を斬り飛ばした。</p><p>どちゃっ、と地に落ちたピンク色の舌が、蛇のようにのたうち回る。</p><p>グルロロォォォ―ッ！！</p><p>鋭い痛みに仰け反る雌竜。その目に、明らかに、狂気の光が宿った。頭から尻尾の先にまで、力がみなぎる。巨体が何倍にも膨れ上がるかのような錯覚。</p><p>―ロロロロガアアァァァァァッッ！！</p><p>咆哮。絶叫。空気がびりびりと震える。</p><p>そして猛進。土を蹴散らしながら、狂える竜がアイリーンに肉薄する。</p><p>―ッ！</p><p>ここに来て余裕はなく、アイリーンが全力で走り出す。追いつかれれば轢殺必至、命がけの鬼ごっこが始まった。</p><p>グロロ……</p><p>暴走し始めた雌竜につられ、雄竜もまた頭を巡らせる。</p><p>が、その右目の真下に、ズビシッと矢が突き立った。</p><p>おおっと、お前の相手は俺だ！</p><p>ケイは手綱を引く。サスケが後ろ足で立ち、いななきを上げた。</p><p>お互いカップル同士、仲良くやろうじゃないか！　なあ！</p><p>デカいとはいえ所詮トカゲの脳みそ、ケイの言葉など理解できないだろう。</p><p>ただし―それが挑発であることだけは、伝わったに違いない。</p><p>グルロロロロ……</p><p>ケイを、そしてサスケを睨み、口の端から涎を垂れ流して、雄竜が唸る。すかさず目を狙ってケイが矢を放つも、即座に首を傾けた雄竜は側頭部で弾(・)い(・)た(・)。</p><p>ああ―こいつも確かに 深部(アビス) の怪物だ、と。</p><p>思わず舌打ちするケイ。ただでさえ上下左右に動いて狙いづらいのに、回避までされては―</p><p>―ロロログァアアアァァァァッッ！</p><p>そしてこちらもとうとう、怒りに火がついた。全身の筋肉を隆起させた雄竜が、狂ったように吼えたけりながら、猛烈な勢いで突進してくる。</p><p>サスケ！</p><p>ケイの叫びに応え、サスケが駆け始めた。振り向きざまに矢を放つ。ほとんど牽制にしかならないが、今は注意を引きつけることが重要だ。</p><p>雄竜のはるか後方では、アイリーンが円を描くようにして立ち回りながら、雌竜の攻撃を躱し続けているのが見える。噛みつきだけでなく、尻尾の薙ぎ払いや爪の一撃まで、当たれば即死の攻撃を紙一重で避けている。</p><p>ケイは、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。</p><p>だが―今―この状況で―こんな感情をどうしろというのだ。</p><p>せめて援護を。ケイは、残数が心許なくなってきた”氷の矢”を、ためらいなく引き抜く。</p><p>揺れる馬上、それでも風を読み、慎重に狙いをつけ、</p><p>Aubine ！</p><p>一条の青き閃光が、雄竜を飛び越えて空を切り裂いた。アイリーンを追う雌竜の横腹、前脚の付け根部分に見事着弾する。</p><p>アイリーンがちらりとこちらを見た。 ナイス とその口が動く。痛みからではなく、筋肉の収縮が阻害され、動きの鈍った雌竜を前に小休止。アイリーンはぜえぜえと肩で息をしていた。化け物を相手に鬼ごっこ。彼女の体力も無限ではない。</p><p>―一刻も早く、こちらを仕留める。</p><p>そらそら、どうしたァ！</p><p>続けざまに雄竜の顔面に矢の雨を見舞う。ぶおんぶおんと頭を振る雄竜、頭蓋骨と皮膚に阻まれ弾かれる矢。</p><p>雄竜に追いすがるようにして、マンデルたちが後方から矢を射掛けているが、効果抜群とは言えなさそうだ。ただでさえ強靭な皮膚を持つのに、遠ざかっているようでは相対的に矢の威力も減衰してしまう。</p><p>どうするか。一瞬、考えを巡らせたケイは、</p><p>―マンデル！</p><p>緩やかに、弧を描くようにサスケを走らせながら、“竜鱗通し”を構える。</p><p>お前にこれを譲る ！　受け取れ！</p><p>軽く弦を引き、カヒュカヒュッと続けざまに矢を放った。</p><p>突然、射掛けられたマンデルがギョッとして立ち止まる。その足元にトストスッと突き立つ矢。ハッとして引き抜けば、鏃部分に青い宝石が輝く。</p><p>“氷の矢”だ。</p><p>確かに受け取った！　……これはおれの矢だ！</p><p>マンデルは即座に意図を汲んだ。宣言するなり、“氷の矢”をつがえる。</p><p>オービーヌ ！</p><p>ケイを追って側面を見せる”森大蜥蜴”へ、二連射。精確な射撃で見事、“氷の矢”を命中させる。その隣で、自分には何もなかったことにロドルフォが一瞬悔しげな表情を見せたが、気を取り直して援護射撃を続けた。</p><p>グロロロロォォ―ッッ！</p><p>胴体を二箇所、さらに凍てつかされ雄竜が咆哮する。本来ならば冷気で動きが鈍るところ、むしろ怒りを燃やしてさらに突進の勢いを増す雄竜。</p><p>だが、今はそれでもいい。</p><p>激しく揺れる馬上で、ケイは獰猛に笑う。</p><p>今やオリンピックの馬術競技のように、サスケは複雑な動きで蛇行している。</p><p>―周囲が『旗』だらけだからだ。</p><p>狙い通り、このエリアに誘い込むことができた。</p><p>果たして、怒り狂う”森大蜥蜴”は、不自然な木の枝や旗に一切頓着することなく、そのまま最高速で突っ込んでくる。</p><p>―グロロガァッ！？</p><p>太い前脚で落とし穴を踏み抜き、素っ頓狂な声を上げる雄竜。</p><p>四脚ゆえに転びはしないが、顔からつんのめるようにして地面に腹を擦り、盛大に土砂を撒き散らして速度を失う。</p><p>―今だ！　サスケ！</p><p>サスケの腹を蹴り、全力で駆けさせる。慌てる雄竜が体勢を立て直す前に、側面へ回り込む。矢筒から引き抜いたのは、かつて”大熊”を一撃で絶命させた必殺の一矢、青い矢羽の『長矢』―</p><p>ケイの肩の筋肉が盛り上がる。“竜鱗通し”の弦を、耳元まで引き絞る。</p><p>一点、“森大蜥蜴”の胸元を睨んだ。肺と心臓と大動脈、重要な器官が全て一直線に並ぶ、その箇所を―</p><p>―喰らえ</p><p>カァンッ！　と一際大きく響き渡る快音。</p><p>銀色の閃光が、雄竜の胸に突き刺さる。深く、深く―</p><p>が、突然、バキャッという音とともに矢が砕け散った。雄竜の胸部の肉が波(・)打(・)っ(・)た(・)ようにも見える。</p><p>―肋骨か！</p><p>分厚い皮膚と筋肉の下、肋骨にぶち当たったらしい。心臓は撃ち抜けなかったが、音からして骨はへし折れたはず。破片が肺に刺されば、いかに”森大蜥蜴”といえどもただでは済まされない。</p><p>……援護を！</p><p>さらに、マンデルたちも追撃する。ロドルフォが連射し、キリアンが狙撃し、ゴーダンが毒を塗りたくった投槍を見舞う。</p><p>Siv ！</p><p>ケイも自前の魔法の矢を取り出した。エメラルドがはめ込まれた”爆裂矢”―爆発の威力はそれなりで名前負けもいいとこだが、体内に食い込んだ鏃が破裂すれば相応の出血を強いられる。</p><p>それを、連続して打ち込む。</p><p>風をまとった矢が胴体に潜り込み、バンッバァンッ！　と炸裂する。大きく開いた傷口から血肉が飛び散り、雄竜が絶叫した。</p><p>いいぞ！　畳みかけろ！</p><p>続いて、サスケの鞍にくくりつけた大型の矢筒から、筒状に穴が空いた太矢を取り出す。木工職人のモンタンが趣味で開発した、対大型獣用の出血矢だ。</p><p>コヒュンッ！　と独特の音を立てて飛んだ出血矢が、青緑の肌を食い破って突き刺さる。矢尻の穴から、まるで蛇口のように、どぽっどぽっと鮮血が溢れ出した。“森大蜥蜴”の図体に比べればささやかな量、しかし確実に命を削り取る出血―</p><p>うおおおおお―ッッ！</p><p>ゴーダンが再び槍を投じる。三本目だ。首付近に突き立ち、肉を溶かす毒が筋肉を痙攣させる。</p><p>グルロロロアァァァ……ッ</p><p>流石に堪えたか、これまでより情けない声で鳴く雄竜。先ほどマンデルに打ち込まれた”氷の矢”もボディーブローのように効いてきたらしく、動きにキレがない。</p><p>このまま仕留められる―</p><p>ケイたちはさらに攻勢を強める。</p><p>が。</p><p>―ッッ！！</p><p>その瞬間、筆舌に尽くしがたい爆音が耳朶を打った。</p><p>くらっ、と目眩に襲われて、少ししてから、その正体に気づく。</p><p>咆哮だ。</p><p>見れば、アイリーンが引きつけていたはずの雌竜が、凄まじい勢いでこちらに向かってきている。伴侶が危機に陥っていることに気づき、血相を変えて駆けつけようとしているのだ。</p><p>（アイリーンはどうした……！？）</p><p>ケイもまた、愛する彼女の姿がないことに、心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に襲われる。しかしよくよく見れば、雌竜を背後から必死で追いかけるアイリーンの姿があった。</p><p>無事だ。アイリーンは無事だ。</p><p>しかし安心している暇はない。一度、“森大蜥蜴”の注意が別のものに強く向いてしまえば、アイリーンはその敵意(ヘイト)を奪い返す手段を持たない。</p><p>―逃げろッ！</p><p>ケイは叫んだ。このままではマンデルたちが背後から襲われる。雌竜の接近に気づいた彼らも、泡を食って距離を取ろうとしているが、間に合わない。自分が前に出て引きつけるしかない。だが雄竜はどうする。深手は負わせたが、まだ絶命するほどではない―</p><p>グロロロ……ルロロロォァアアアアアッッ！</p><p>ケイたちの動揺を感じ取ったか。あるいは、相方の声に勇気づけられたか。</p><p>雄竜もまた、戦意を取り戻す。満身創痍の身体に、再び怒りと狂気を宿す。</p><p>グロガアァァァアアアアア―ッッ！</p><p>その巨体を振り回し、尻尾を薙ぎ払った。</p><p>地表がめくれ上がり、土砂が撒き散らされる。</p><p>土や砂だけならいいが、地中の石ころも凄まじい勢いで弾き飛ばされていた。マンデルたちの叫びがかすかに聞こえ、ケイの視界にもズッと黒い影が差す。</p><p>まず―ッ</p><p>土に紛れて、木の切り株が飛んできていた。</p><p>咄嗟に矢を放つ。ビシィッ、と命中した矢が衝撃のあまり砕け、切り株の軌道も僅かに逸れる。風の唸りを耳元に感じながら、間一髪のところで回避した。</p><p>マンデル―ッ！　無事か―ッ！？</p><p>ぱらぱらと降り注ぐ土砂を振り払い、サスケを駆けさせながらケイは叫ぶ。</p><p>なんとか……！</p><p>返事があった。土煙が晴れてみればごっそりと辺り一帯が掘り返されている。苦労して掘った落とし穴も、丸ごとえぐられるか土で埋め戻されるかのどちらかで、最早何の役にも立たない。</p><p>ロロロロ……という唸り声が響いた。</p><p>ぞわっ、と背筋に悪寒が走る。</p><p>サスケ！</p><p>ぐいっ、と手綱を引く。サスケがまるでカモシカのように跳ねる。</p><p>ガチンッ、という死神の鎌の音が背後から聞こえた。あるいは地獄の門が閉じる音か。生臭い息を感じるほどの至近、いつの間にか距離を詰めていた雄竜が噛みつこうとしていたのだ。</p><p>ロロロ……ッッ！</p><p>真っ黒な目、視線と視線がぶつかり合う。</p><p>馬鹿め</p><p>惜しかったな、という称賛と、よくぞここまで近づいたな、という歓喜が混じり合い、ケイはそんな言葉を吐いた。</p><p>Dodge this(避けてみろ)</p><p>この距離。流石に外さない。</p><p>目にも留まらぬ一撃は”森大蜥蜴”の専売特許ではない。素早く”竜鱗通し”を構えたケイは、快音、いとも容易く左目を射抜いた。</p><p>グルガアアアアァァ―ッ！</p><p>激痛と視覚の喪失に、絶叫した雄竜が闇雲に暴れ回る。これだけ矢を射てようやく抜いたか、という疲労感。折角なら”氷の矢”をブチ込んでやればよかった、と今さらのように思ったが、時既に遅し。</p><p>いい加減、くたばれ……ッッ！</p><p>首元や胴体に、長矢をブチ込む。ここまで連続して”竜鱗通し”を使ったのは馬賊と戦って以来だ、腕の筋肉が引きつったような感覚がある。早くケリをつけなければ、そろそろ雌竜もこちらに来るはず。</p><p>―は？</p><p>そう思って、チラッと視線を向けたケイは、唖然とすることになった。</p><p>伴侶の危機に怒り狂い、猛進する雌竜。</p><p>その進行方向に、立ちはだかる者がいたからだ。</p><p>右手に携える投槍器(アトラトル)―</p><p>何をやっている、ゴーダン！？</p><p>臨戦態勢で投槍を構えているのは、ゴーダンだった。</p><p>風の精霊よッ！　ご照覧あれッ！</p><p>地響きを立てて迫る巨竜を前に、ゴーダンは叫ぶ。</p><p>俺の槍は―！</p><p>投槍器(アトラトル)を握る手に力を込める。</p><p>狙いを違わず―！</p><p>全身をバネにして、持てる力を全て注ぎ込む。</p><p>突き刺さるんだぁ―ッッ！</p><p>投じた。</p><p>真正面から、唸りを上げて槍は飛ぶ。</p><p>激しく首を振り、突き進む竜めがけて。</p><p>それは芸術的なまでに美しい放物線を描き―</p><p>“森大蜥蜴”の額。</p><p>『第三の目』と呼ばれる、最も脆い部分を貫いた。</p><p>―ルロロロロァァァァァァッッ！</p><p>ビクンッ、と体を震わせ雌竜が絶叫した。</p><p>わずかにたたらを踏み、速度が減じる。</p><p>そして突進の方向も少しだけ逸れた。</p><p>ゴーダンッ！</p><p>だからケイが間に合った。</p><p>自らがもたらした一撃に茫然自失していたゴーダンを、襲歩(ギャロップ)の勢いもそのままに、馬上から蹴り飛ばす。</p><p>グがっ</p><p>悲鳴にもならない声を上げ、吹っ飛ばされて地面を転がるゴーダン。その目と鼻の先を雌竜の巨体が過ぎ去っていく。まるで列車が通過したかのような風圧、あのまま突進を食らっていればゴーダンは挽き肉になっていただろう。</p><p>すまん、許せ！</p><p>しかし騎馬の突撃の勢いで蹴り飛ばされれば、無傷では済まされない。衝撃と痛みでゴーダンは悶え苦しんでいる。ケイも、ゴーダンがせめてもう少し小柄なら、馬上に引き上げるなり引きずって走るなり、もっとやりようもあったのだが。</p><p>流石に大柄すぎて、このような手段を取るしかなかった。</p><p>立てるか！？</p><p>ど、どうにか……</p><p>村の方に逃げろ！　もう槍は使い切っただろ！</p><p>まさしく奇跡的な一撃だったが、あれが最後の槍のはずだ。</p><p>わ、わかった……</p><p>よろよろと立ち上がったゴーダンが、頼りない足取りで村の方へ逃げていく。</p><p>ゴーダン！　見事な一撃だった！　あとは俺に任せろ！！</p><p>その背中に声をかけると、チラッと振り返ったゴーダンは、この上なく誇らしげな顔をしていた。</p><p>微笑み返してから、ケイは改めて、二頭の巨竜に向き直る。</p><p>ちょうど、頭を振って額の槍を振り落とそうとする雌竜に、満身創痍の雄竜が寄り添うところだった。</p><p>舌を伸ばし、額に突き刺さった槍をどうにか抜き取る雄竜。</p><p>毒の痛みが酷いのか、雄竜に頭を擦り付けながらぶるぶると体を震わせる雌竜。</p><p>二頭の、憎悪のこもった視線が、ケイに突き刺さった。</p><p>ぶるるっ、とサスケが鼻を鳴らす。</p><p>ケイも、背中にじっとりと嫌な汗が滲んでいた。</p><p>それほどまでに、凄まじいプレッシャーを感じる。</p><p>もはやケイとサスケ以外、眼中にないといった雰囲気だ。</p><p>槍はゴーダンの仕業なんだがな……</p><p>そう呟くも、通じるはずもなく。</p><p>横目で見れば、ゴーダンは無事に村の方へと逃げおおせたようだ。ゴーダンが目をつけられるよりかは、まだ自分に敵意(ヘイト)が向いている方がいい。ずっとマシだ。</p><p>さて……ケリをつけようか</p><p>腰から長矢を引き抜く。</p><p>つがえる。引き絞る。放つ。</p><p>何千、何万回と繰り返した動作。</p><p>カァンッ！　という高らかな快音が均衡を打ち破り、再び、死力を尽くす闘いが始まった。</p><p>†††</p><p>みんな！　無事か！</p><p>汗だくになったアイリーンは、マンデルたちの元へ駆けつけた。</p><p>尻尾の薙ぎ払いにやられ、全員、土まみれのひどい格好だ。</p><p>無事だ、……おれは、どうにか</p><p>俺もだ！　しかし、クソッ、ほとんど何もできていない！</p><p>言葉少なにマンデル、歯噛みするロドルフォ。</p><p>アッシは、情けねえ話、ですが、ちと骨をやっちまいまして……</p><p>キリアンが胸を押さえながら、苦しげに呻く。どうやら薙ぎ払いで飛ばされた石塊か何かが直撃してしまったらしい。</p><p>しかし……これ以上、おれたちは何をすればいいんだ</p><p>マンデルは無力感に苛まれているようだった。</p><p>その視線の先では、サスケを駆るケイが二頭の竜に追いかけ回されている。ケイは”氷の矢”や長矢で脚部に集中砲火を浴びせ、“森大蜥蜴”たちの機動力を削り取りながら、挟み撃ちにされないよう巧みに立ち回っているようだ。</p><p>雄の方は、たぶん時間の問題だ。そのうち力尽きると思う。問題は雌の方だな、額に槍がぶっ刺さったのはかなりキ(・)く(・)だろうが、致命傷にはほど遠い</p><p>アイリーンは、ケイの危機にジリジリとした焦燥感を覚えながらも、冷静に言葉を紡ぐ。</p><p>で、だ。オレに考えがある</p><p>すぐに援護に向かわず、こちらに戻ってきたのは、そのためだ。</p><p>キリアンの旦那、例の毒はまだあるか？</p><p>へ？　そりゃ、ありやすが……</p><p>痛みで顔をしかめながら、キリアンが腰のポーチから小さな壺を取り出す。厳重に布でくるんでいたお陰か、衝撃で割れずに済んだようだ。</p><p>よし。ありったけくれ</p><p>これが目当てだった。率直に求める。</p><p>あの雌トカゲをブッ殺す</p><p>アイリーンの目は、完全に据わっていた。</p><p>97. 果敢</p><p>アイリーンは、しゃらりとサーベルを抜き放つ。</p><p>そしてキリアンから受け取った毒壺を傾け、どろどろとした黒い毒を全て鞘の中に流し込んだ。</p><p>コイツを、</p><p>ぱちん、とサーベルを鞘に戻し、しゃかしゃかと振り回すアイリーン。毒液を刃によく馴染ませる。</p><p>―アイツの目ン玉にブチ込んでやる</p><p>アイリーンの得物はサーベルと投げナイフだ。こんなちっぽけな武器で”森大蜥蜴”に致命傷を与えるには、それこそ眼球のような弱点を狙うしかない。無論、暴れる”森大蜥蜴”に接近戦を挑むなど、無謀以外の何物でもないが―</p><p>目を狙う、か……俺もやる、やってやるぜ</p><p>唸るようにしてロドルフォも言う。</p><p>ちらっと横目で見やるのは、村の方だ。自分たちが必死で戦っているというのに、物陰からこちらを覗き見る野次馬の姿がちらほらあった。なまじケイたちが善戦していたために、好奇心が恐怖を上回ってしまったらしい。</p><p>それは固唾を呑んで見守る村人たちであったり、探索者たちであったり、伝説を見逃すまいと目を血走らせたホアキンであったり。正直、村の未来がかかっている住民たちは仕方ないとしても、物見遊山な探索者たちの目は煩わしく感じられた。</p><p>―なぜ煩わしく感じられるのか？</p><p>決まっている。大して何もできていないからだ。</p><p>衆目にさらされる無力な自分が、我慢ならないのだ。</p><p>このまま引き下がれるかってんだ……！</p><p>ロドルフォは歯噛みする。自他ともに認める自信家で(・)あ(・)っ(・)た(・)ロドルフォは今、その自尊心を著しく傷つけられていた。</p><p>本当に何もできていない。</p><p>栄誉を求め意気揚々と参加した”森大蜥蜴”討伐だが、蓋を開けてみればペチペチと遠巻きに矢を射掛けただけ。魔法の矢はケイからの貰い物、自らの矢は”森大蜥蜴”の強靭な皮膚に歯が立たず弾き返された。</p><p>無力感に苛まれているのはマンデルも同じだが、彼はまだ、ケイに頼られている。ケイから魔法の矢のキラーパスを受けて、それでも慌てることなく命中させしっかりと仕事をこなしている。</p><p>だがロドルフォには何もなかった―弓の腕前が信用ならないからだ。ケイはロドルフォを頼らなかった。弓の命中率の低さは自覚しているものの、それでも、やはり屈辱ではあった。</p><p>加えて、ゴーダンの蛮勇だ。突進する”森大蜥蜴”の前に立ちふさがり、見事、額の弱点に槍でぶち抜いた―まるで英雄譚の一節ではないか。</p><p>それにひきかえ、自分は……。</p><p>この大物狩りの舞台で、主役を張ろうなどとは思っていない。だがせめて名のある脇役にはなりたい。そのためには、多少の無茶もしよう。ここで退いては男がすたるというものだ。</p><p>ロドルフォはまだ、己の可能性を信じていた。</p><p>それに命を賭す価値があるとも。</p><p>……おれもやろう</p><p>と、重々しく、マンデルも頷いた。</p><p>それは一種の義務感から出た言葉だった。ケイを助けねば―タアフ村まで助力を請いに来た、彼の期待に応えねばという思い。マンデルはロドルフォほど楽天的ではなく、死の香りを感じ取っていた。家で帰りを待つ娘たちの顔が脳裏をよぎる。</p><p>それでも。</p><p>それでもなお、ケイの力にならねば―と。</p><p>そんな気持ちに駆られていた。</p><p>助かるぜ</p><p>ニヤッとアイリーンは笑みを浮かべる。しかし、二頭の”森大蜥蜴”を翻弄しながらも、疲労の色が濃いケイとサスケを見やり、すぐに顔を引き締めた。</p><p>アッシも、お力になれりゃよかったんですが……</p><p>胸のあたりを押さえながら、苦しげに呻くキリアン。“森大蜥蜴”の尻尾の薙ぎ払いで石か何かが飛んできたようで、重傷ではないが思うようには動けないらしい。</p><p>せいぜい、クロスボウで射掛けることぐらいしか</p><p>無理はしなくていいさ、オレたちのために祈っといてくれ。……じゃあ二人とも、覚悟はいいか？　行くぞ！</p><p>アイリーンは、マンデルとロドルフォを連れて駆け出した。</p><p>死地へと、恐れを見せることもなく。</p><p>はぁ～……</p><p>その後ろ姿を見送って、キリアンは細く長く息を吐いた。</p><p>―もともとは、ただ”森大蜥蜴”をひと目見たい、それだけだった。</p><p>伝説の怪物の姿を拝んでみたい。そう思って討伐に参加した。</p><p>故郷を捨て、身寄りもなく、そこそこ歳を食っている。</p><p>特にやりたいこともないし、悲しむ人もいない。</p><p>ここが人生の終着点になってもいいか。</p><p>最期に一花咲かせてみよう。</p><p>そんな風に考えて。</p><p>だが、“森大蜥蜴”の薙ぎ払いが眼前をかすめたとき、心の底から思った。</p><p>『死にたくない』と。</p><p>自分で考えていたより、生に執着があることに気づいた。</p><p>気づいてしまった。</p><p>そこで心がぽっきりと折れた。</p><p>それでも、尻尾を巻いて今すぐに逃げ出さないのは、討伐組の中でおそらく一番の年長で、あまりにもみっともないからだ。キリアンをこの場に押し留めているのは、なけなしの意地だけだった。</p><p>だが、それもいつまでもつか……</p><p>勝ってくれ……</p><p>胸の痛みをこらえつつ、震える手でノロノロとクロスボウの弦を巻き上げながら、キリアンは呟く。</p><p>頼む……</p><p>早く終わってくれ。</p><p>それが誰のための祈りなのか―</p><p>もはやキリアン自身にもわからなかった。</p><p>†††</p><p>アイリーンは駆ける。</p><p>背後からは、ともに走るマンデルとロドルフォの荒い息遣い。たとえ自分一人でも突貫するつもりだったが、二人の存在が思いのほか心強い。</p><p>できれば無事に帰したいが―</p><p>（……なんとかするしかない）</p><p>不吉な思いを振り払い、暴れ回る二頭の巨竜を観察する。</p><p>大柄な個体、雄竜は満身創痍だ。爆裂矢や長矢を受け、胴体からの出血がおびただしい。顔面にも矢が突き立ち、左目は潰されている。おそらくもう長くはない―放っておいても明日には息絶えるだろう。</p><p>だが、今この瞬間、脅威たるには充分すぎる生命力。流石に動きは鈍っているようだが、執拗にサスケとケイを追い回しており、止まる気配はない。</p><p>もう一頭、小柄な雌竜は比較的軽傷だ。顔面はケイの集中砲火でハリネズミのようになっているものの、未だ致命傷は負っていない。先ほど、ゴーダンの投槍が脳天を直撃したのが一番の傷か。</p><p>雌竜は、ケイの射線から重傷の雄竜を庇うように立ち回っているようだ。ケイも魔法の矢や長矢はあらかた使い果たしたらしく、何本も矢を撃ち込んでいるが、雌竜は怯むどころか怒りでむしろ動きが速くなっているようにも見える。</p><p>どちらを狙うか。</p><p>重傷の雄竜か、まだピンピンしている雌竜か。</p><p>……やはり雌竜だろう、とアイリーンは結論づけた。</p><p>ここで弱っている雄竜にトドメを刺してしまい、雌竜討伐に本腰を入れるという手もあるが―</p><p>（ただでさえ荒ぶってんのに、相方が殺されたらどれだけ怒り狂うか）</p><p>それが恐ろしい。見境なく暴れ回り、トチ狂って村の方にでも突撃し始めたら今度こそ止めるすべがない。</p><p>ケイの―自分たちの身の安全を第一に考えるなら、それもアリではある。ケイもアイリーンも、その気になれば振り切れるのだ。一通り暴れて体力を使い果たしたところで、再び攻撃を仕掛けてもいい。</p><p>（―けど、それはお望みじゃないだろう？）</p><p>ケイは”森大蜥蜴”を狩りに来たのではない。</p><p>村を守りに来たのだ。</p><p>ならば。</p><p>雌竜を引きつける。ヤツの動きが止まったら、二人とも頼むぜ</p><p>……わかった</p><p>おうとも！</p><p>緊張気味のマンデル、向こう見ずなロドルフォ。走りながらいつでも放てるよう、それぞれ矢をつがえる。</p><p>アイリーンは、すぅぅっ、と息を吸い込んだ。</p><p>Ураааааааа(ウラァァァァァァァァ)！！</p><p>吠える。裂帛の気合で。</p><p>小柄なアイリーンが放ったとは思えない、びりびりと耳朶を震わせる咆哮。驚いて思わず速度を緩めるマンデルたちとは対照的に、さらに加速する。</p><p>雌竜は相変わらずケイを追うのに夢中で、アイリーンなど気にも留めない。圧倒的な体格差―いくらアイリーンが殺気を放とうとも、人間でいうなら、足元から仔猫が シャーッ！ と威嚇してきているようなものだ。殺し合いの最中に道端の仔猫を気にする者がいるだろうか。</p><p>だが、その仔猫が、威嚇するだけでなく爪で引っ掻いてきたとしたら。</p><p>そしてその爪に猛毒が仕込まれていたとしたら―？</p><p>果たしてアイリーンは、“森大蜥蜴”の暴風圏に踏み込んだ。</p><p>巨大な四足が大地を踏み荒らし、大蛇のような尻尾が暴れ回る。常人なら接触しただけで致命傷、巻き込まれれば圧殺必至。死地。ビュゴゥッと空を引き千切る尻尾の薙ぎ払いを紙一重で躱し、肉薄する。</p><p>視界いっぱいに広がる青緑の体躯―最高の革防具素材として名高い”森大蜥蜴”の表皮。強靭な皮膚組織は大抵の武具を弾き返し、分厚い肉が衝撃を無効化する。</p><p>サーベルは量産品に過ぎない。“地竜”を屠るにはあまりにもお粗末な得物。</p><p>が、その使い手の技量は生半可ではなかった。</p><p>雌竜の後脚、サスケに飛びかかろうと、力が込められたその瞬間。張り詰めた関節部分、力学的に脆くなった部位を一瞬にして見切る。</p><p>サーベルが鞘走った。</p><p>黒光りする刃が弧を描く。</p><p>ビッ、と青緑の表皮に、赤い一文字(いちもんじ)が刻み込まれた。</p><p>グルルルルアァァ―ッッ！？</p><p>猛毒の激痛が神経を焼き、雌竜がビクンッと体を震わせて振り返る。</p><p>アイリーンは視線を感じた。雌竜ではない、その背後、ケイだ。アイリーンが仕掛けたのを見て、汗だくのサスケの首を励ますように叩き、雄竜に矢を射かけて注意を引きつけている。</p><p>ケイと雄竜、アイリーンと雌竜。</p><p>つかの間の分断、各個撃破の構図。</p><p>―うおおおお！</p><p>と、アイリーンの左右後方から、マンデルとロドルフォが雌竜の顔面めがけて続けざまに矢を放った。</p><p>喰らいやがれ―！</p><p>ロドルフォがここぞとばかりに怒涛の速射を見舞う。マンデルの狙い澄ました一撃も含め、眼球を射抜く軌道の矢もあったが、雌竜はブルンブルンと頭を振り全て弾き返してしまう。</p><p>だが、その間にアイリーンは次なる一手を打っていた。懐から取り出すは、革袋。中にはぎっしりと、水晶の塊と大粒のラブラドライト。</p><p>大盤振る舞いだ―</p><p>陽はまだ高く。</p><p>ゆえに影は濃く。</p><p>革袋を開け、ざららぁと中身をぶちまける。</p><p>Kerstin!</p><p>アイリーンの足元の影に、とぷん、とぷんと触媒が沈んでいく。</p><p>Kage, Matoi, Otsu.</p><p>素早く印を切り、叫ぶ。</p><p>Vi kovras(覆い隠せ)!</p><p>アイリーンの影がたわみ―爆発した。</p><p>影の触手が雌竜の頭部にまとわりつき、完全に覆い隠す。視界が暗闇で閉ざされた雌竜は、一瞬、何が起きたのか理解できずに動きを止めた。</p><p>だがそれも、長くは続かない。</p><p>手持ちの触媒全てと、少なくない魔力を捧げたにもかかわらず、さんさんと照りつける陽光に灼かれ影のヴェールはほどけるようにして消えていく。</p><p>グルァ―？</p><p>しかし雌竜が視界を取り戻したとき―そこにアイリーンの姿はなかった。</p><p>わかるはずもない。</p><empty-line/><p>自らの頭部に―</p><p>ぽつんと影が差していることなど。</p><p>―上等</p><p>跳躍の頂点。</p><p>サーベルをまっすぐ下に構えたアイリーンは、獰猛に笑う。</p><p>ゴーダンの槍がぶち抜いた雌竜の額、『第三の目』―</p><p>死ね！</p><p>舞い降りたアイリーンは、そこへ全体重をかけた一撃を叩き込む。</p><p>ガツンと頭蓋骨に刃が食い込む感触―</p><p>（浅いッ！！）</p><p>しかし、アイリーンは顔を歪める。狙い違わず、確かに傷口を抉ったが、それでも硬すぎる―貫通には至らない―</p><p>グルルオオァァ―ッ！？</p><p>再び頭頂部を襲った激痛に、雌竜が思わず仰け反る。振り落とされそうになりながらも、ぐりぐりと刃をねじ込むアイリーン。無尽蔵の生命力を持つ”森大蜥蜴”も脳を破壊されれば流石に倒れる、ここで仕留めるのだ、と―</p><p>が、限界は唐突に訪れた。</p><p>あっ</p><p>バキン、という鈍い音。</p><p>サーベルが根本から、へし折れた。</p><p>DEMONDAL から持ち込んだとはいえ量産品、しかも本来は『斬る』ための武器だ。全体重をかけた刺突だの、硬い骨を抉るだの、度重なる酷使に耐えられなかった―</p><p>身を支えるすべを失い、空中へ投げ出されるアイリーン。咄嗟に手を伸ばし、何か固いものを掴んだ。ケイが雌竜の顔面に撃ち込んだ矢―それを支えにして、かろうじてぶら下がる。</p><p>至近。</p><p>“森大蜥蜴”の横顔。</p><p>雌竜と目が合う。</p><p>アイリーンの姿を認めた瞳孔が、ギュンッと収縮する。</p><p>―　オ　マ　エ　カ　―</p><p>そう言わんばかりに。牙を剥き出しにして。</p><p>次の瞬間、稲妻のように首を巡らせ、半身を食い千切られる。</p><p>そんな確信。</p><p>考えるよりも先に身体が動いた。</p><p>左手に握ったサーベルの鞘。</p><p>それを鞘口から雌竜の目に突き入れた。</p><p>ゴガッ―</p><p>鞘の中の猛毒が逆流し、眼球が内側から焼かれる。これまでと比にならない激痛、雌竜は悲鳴さえ上げられずに痙攣した。</p><p>こいつァ効くぜ―</p><p>身体を支えていた矢から手を離し、アイリーンはひらりと宙に舞う。</p><p>ここでケリをつける。</p><p>―NINJA舐めんな！</p><p>目から突き出た鞘の尻に、回し蹴りを叩き込んだ。</p><p>ぐりゅん、と鞘が柔らかい組織を突き抜けていく。怖気が走るような感触だった。鞘の本体が、完全に、雌竜の頭部に埋没して見えなくなった。</p><p>―！！</p><p>形容しがたい断末魔の叫びを上げ、めちゃくちゃに暴れ回る雌竜。この一撃はおそらく脳まで届いた。さらに毒まで流し込まれたとなれば。</p><p>殺った、という確信があった。</p><p>だが喜ぶ暇もなく、アイリーンの視界が青緑色で埋め尽くされる。</p><p>ガツン、と衝撃があり、瞼の裏で星が散った。</p><p>がっ―！？</p><p>暴れる雌竜の頭部がアイリーンを直撃したのだ。牙が当たらなかったのが不幸中の幸いだが、そのまま吹っ飛ばされてしまう。</p><p>―なっ、に。が―</p><p>一瞬、気を失ったらしい。前後不覚。ひゅうひゅうと耳元で風が唸る。奇妙な浮遊感を覚えたアイリーンは、パッと目を見開いてから、愕然とした。</p><p>嘘だろ</p><p>天地が、逆転していた。―違う。ほぼ真上に吹っ飛ばされて、驚くような高度にいた。『身体軽量化』の紋章を刻んでいるアイリーンはとにかく体重が軽い。だから巨体の頭突きを受けて、こんな高さまで―</p><p>いや、今はそんなことはどうでもいい。</p><p>どうやって着地する。このままじゃ頭から落ちる。</p><p>受け身？　取れるか？　数秒の間に何とか―体勢を―</p><p>Siv !</p><p>落ちていくアイリーンを見上げながら、ケイは叫んだ。</p><p>Vi helpos ŝin !</p><p>皮のマントを外し、宙に放り投げる。風が渦を巻く。一同は、羽衣をまとった乙女の姿を幻視した。</p><p>― Vi estas tiel rapida, huh ? ―</p><p>あどけない、それでいて妖艶な囁きが聴こえたかと思うと、突風がケイのマントをさらっていく。ばたばたとはためいて飛んでいくマント―それは上空のアイリーンにまとわりつき、落下の軌道をわずかに逸らした。</p><p>ぬわーっ！</p><p>森の方へと落ちていったアイリーンは、そのまま木立に突っ込み、バキバキと枝を折る音を響かせながら姿を消した。多少怪我はするかもしれないが、地面に叩きつけられるよりはマシなはずだ―</p><p>ぐぅッ―</p><p>馬上で揺られながらケイはうめく。えげつないほど魔力を持っていかれたからだ。咄嗟の術の行使、触媒を取り出す暇も、きちんと呪文を唱える余裕もなかった。精霊(シーヴ)に全て丸投げ、この程度で済んだのはむしろ手心があったと考えるべきか。</p><p>グルルルオアアアァ―ッ！</p><p>それをよそに、満身創痍の雄竜が悲痛な叫びを上げて、痙攣する雌竜に駆け寄っていく。鼻先を雌竜の顔に押し当てて揺するも、反応はない。</p><p>相方が事切れたことを悟った雄竜は、ぴたりと動きを止める。</p><p>グロロロロ……と地響きのような唸り声。</p><p>振り返る雄竜。残された片目が爛々と光っている。</p><p>ゴガアアァァァ―ッ！！</p><p>咆哮し、土煙を巻き上げながら突進してくる。激情に駆られ、全身の傷から噴水のように血煙を噴き上げていた。</p><p>これが最後の突進だ。ケイは悟った。</p><p>残り少なくなった矢を放ちながら、サスケを走らせる。追跡してくる敵へ矢を浴びせかける引き撃ち戦法、弓騎兵の真骨頂。</p><p>（―速い！）</p><p>が、徐々に距離が詰められる。足場が悪い。直線勝負でも不整地ではサスケより”森大蜥蜴”に軍配が上がるようだった。この勢い―下手に方向転換すれば、足が緩んだところを飛びかかりや薙ぎ払いで狩られてしまう。</p><p>刺し違えてでも貴様は殺す、とそんな気迫が伝わってくる。</p><p>（今を凌げば、奴は力尽きるはず）</p><p>とにかく時間を稼がねば、そう考えながら矢筒に手を伸ばすケイ。</p><p>しかしその手が空を切った。</p><p>クソッ、矢が……！</p><p>とうとう尽きた。</p><p>腰の矢筒も、鞍に備え付けた矢筒も、いつの間にか空っぽになっていた。</p><p>竜の鱗さえ貫く弓を持っていても、矢がなければ弓使いは無力―</p><p>―うおおおお！！！</p><p>と、雄叫びが響いた。</p><p>村の方を見れば、逃げたはずのゴーダンが槍を構えていた。投槍ではなく、普通の短槍のようだが、無理やり投槍器(アトラトル)にセットしている。どこかで新しく調達してきたのか。</p><p>おおおおおおおおッ！</p><p>遠投。ビュゴォッと重い風切り音を響かせ、弧を描いた短槍が雄竜の足の付け根に突き刺さる。</p><p>わずかに―ほんのわずかに、突進の勢いが鈍った。</p><p>その隙に、ぐいと手綱を引く。</p><p>サスケが急激に方向転換し、雄竜を振り切る。追随しきれず木立に突っ込んだ雄竜は、それでも木々を薙ぎ倒しながら無理やり追いかけてきた。</p><p>喰らいやがれ―！</p><p>その横っ面にロドルフォが仕掛ける。無事な右目の周囲に、矢の雨が降り注ぐ。</p><p>ゴガァッ！</p><p>ケイとサスケしか眼中になかった雄竜も、流石に鬱陶しかったのかロドルフォを睨んで吠えかかった。が、その瞬間、開いた口にロドルフォが連射していた矢が一本、ひょいと入り込んでしまう。</p><p>ゴゲッ</p><p>そのまま喉に刺さったか、素っ頓狂な鳴き声を上げて目を白黒させる雄竜。思わずその足が止まる。</p><p>ケイは、雄竜を中心に弧を描くようにサスケを駆けさせながら、歯噛みする。絶好のチャンスだが、矢がないことには―</p><p>ケ―イ！</p><p>マンデルの声。</p><p>見れば、雌竜の身体によじ登ったマンデルが、弓を構えている。</p><p>つがえられているのは―血塗れの矢。</p><p>青い矢羽。ケイが雌竜に撃ち込んだ長矢の一本だった。ケイの矢が尽きたことを察したマンデルは、まだ使える矢を探していたらしい。</p><p>これを使え！！</p><p>曲射。マンデルの弓から放たれた長矢が、風に乗って飛ぶ。時間がやけにゆっくりと流れているように感じた。極限の集中状態。空中でわずかにしなる矢が、はためく矢羽が、その羽毛の一本一本までもが、はっきりと視えた。</p><p>手を伸ばす。</p><p>握り込む。</p><p>ビゥンッ、と伝わる振動。</p><p>ケイの手の中に、青い矢羽の、必殺の一矢があった。</p><p>“竜鱗通し”を構える。矢をつがえる。</p><p>―引き絞る。</p><p>駆けるサスケの揺れも、風の流れも、全てが計算され尽くしているように感じた。</p><p>世界が止まっているようだった―マンデルの声援も、ゴーダンの雄叫びも、サスケの息遣いも、あらゆる音を置き去りにしてケイは静寂の中にいた。</p><p>標的を睨む。頭を巡らせてこちらを見やる、満身創痍の”森大蜥蜴”を。</p><p>視線が交錯する。『奴』が次にどう動くか―</p><p>なぜか、手に取るようにわかった。</p><p>放つ。</p><p>カァンッ！　と快音。</p><p>周囲の音が押し寄せるようにして、世界があるべき速度に戻った。矢が突き進む。ただならぬ気配を察して、本能的に避けようと頭を動かす雄竜。</p><p>その額に、吸い込まれるように、矢が着弾した。</p><p>カツーンと硬質な音が響き渡る。数少ない弱点―『第三の目』。矢は砕けずに、深く深く突き刺さった。</p><p>―</p><p>雄竜が仰け反る。ほとんど後ろ脚で立ち上がるようにして。</p><p>天を睨んだ右目の端から、涙のように赤い血が溢れ出した。</p><p>巨体が傾く。</p><p>地響きを上げて、倒れ伏す。</p><p>そしてそのまま、二度と再び、動くことはなかった。</p><p>98. 始末</p><p>前回のあらすじ</p><p>森大蜥蜴 グエーッ！</p><p>ズ、ズン、と地響きを立てて倒れ伏す”森大蜥蜴”。</p><p>―やったか！？</p><p>矢筒に手を伸ばした格好のまま、ロドルフォが叫んだ。</p><p>ケイは速やかに距離を取り、伏して動かぬ雄竜を睨む。</p><p>……死んだ、のか？</p><p>半信半疑。すぐさま駆け寄ってきたマンデルが、追加で何本か矢を手渡してきた。油断なく”竜鱗通し”を構え、いつでも矢を放てるよう待機する。</p><p>それでも、動かない。</p><p>どうやら仕留めたらしい―そんな実感が、じわじわと染み込んできた。</p><p>終わった……？</p><p>傍らのマンデルが茫然と呟く。</p><p>……ああ</p><p>ふぅ、と溜息をついて、ケイは”竜鱗通し”を下ろした。</p><p>俺たちの、勝ちだ……！</p><p>ケイの宣言に、マンデルが声もなく脱力して、その場に座り込んだ。</p><p>やった……やったのか！　―やったんだぁ！！</p><p>ロドルフォが喜色満面で跳び上がる。</p><p>その叫び声に、うおおおお―ッ！　と村の方からも歓声が上がった。</p><p>固唾を飲んで見守っていた村の住民たちが互いに抱き合って喜んでいる。野次馬の探索者たちも大興奮で、一部の吟遊詩人(ホアキン)に至っては涙を流しながら天に感謝の祈りを捧げていた。</p><p>片膝をつき、苦しげに肩で息をしていたゴーダンは、そのまま力尽きたように大の字になって地べたに寝転がった。キリアンはどこか皮肉げな笑みを浮かべ、首を振りながら何事か呟いている。元気にはしゃいでいるのはロドルフォくらいのもので、他はケイも含め疲労困憊といった様子だ。</p><p>やったぞォ―！</p><p>うおおおおお！</p><p>英雄だああ！</p><p>ひとしきり喜んだ村人たちが、今度はズドドドと大挙して押し寄せてきた。ケイはサスケから飛び降りて彼らを迎え入れ―ることなく、木立へと急ぐ。</p><p>アイリーン！！</p><p>吹っ飛ばされたまま、姿を見せないアイリーンが心配でならなかったのだ。</p><p>アイリーン！　どこだー！　アイリーン！！！</p><p>……こっちだよ～</p><p>頭上から声。</p><p>振り仰げば、木の枝にアイリーンがブラーンと引っかかっていた。</p><p>アイリーン！！　大丈夫か！？　降りられないのか！？</p><p>いや、だいじょうぶ……でもちょっと痛くてさ</p><p>なんだって！？　怪我したのか！？　アイリーン！！</p><p>そんなに叫ばなくても。よっ、と</p><p>勢いをつけて飛び降りたアイリーンは、しかし着地すると同時に イテテ と呻いて尻もちをついた。</p><p>アイリーン！　大丈夫かっっ！？</p><p>へへっ……体の節々が痛えや</p><p>苦笑いするアイリーン。ケイのマントに包まれていたおかげで、擦り傷などはないようだが、服の下は痣だらけだろう。</p><p>これを</p><p>ケイはすぐさま腰のポーチから高等魔法薬(ハイポーション)を取り出した。もう在庫がほとんどない貴重な薬だ―とろみのある青い液体の入った小瓶。受け取ったアイリーンは、少しためらってから、グイッと中身を煽った。</p><p>―ヴぉェッ、まっっっっず！　……うぇっ、まっず……。トイレの消臭剤を炭酸で割っても、もうちょいマシな味がするぜ……</p><p>気持ちはわかるぞ</p><p>うんうん、と頷くケイ。ついでに、アイリーンの髪の毛に芋けんぴのような木の枝がくっついていたので、取り払っておく。</p><p>あ～……けど、やっぱ効くなぁ～</p><p>痛みが引いてきたらしく、表情を緩めたアイリーンは、三分の一ほど飲んでから瓶を返してきた。</p><p>サンキュ。これくらいでいいや</p><p>いいのか？</p><p>だいぶ良くなった。致命傷でもなし、ここは節約しとこう</p><p>ひょいと立ち上がるアイリーンだが、 おっとと と早速フラついている。</p><p>……本当に大丈夫か？</p><p>咄嗟にその体を支えながら、ケイは心配げに尋ねた。ハイポーションが貴重なのは確かだが、それを惜しんで後遺症が残ったりするようでは本末転倒だ。気を遣わずに一気飲みしてほしかった―いや、今からでも口に突っ込むべきか？</p><p>……おい、待て、待て待て</p><p>瓶を片手ににじり寄るケイを、アイリーンは慌てて押し留めた。</p><p>だいじょーぶだって！　まだちょっと痛えけど、死ぬほどじゃない。……別に強がって言ってるわけじゃないぞ？　優先順位の問題だ</p><p>そう言って、ケイが持つ小瓶を指で弾く。キン、と澄んだ音がした。</p><p>オレは今、確かに万全じゃないが、寝とけばそのうち治る。それに対しこれぐらいのポーションを残しておけば、理論上腸(はらわた)が飛び出るような怪我でも治せる。……少なくとも生命力(HP)的には、な。どれだけ安静にしても、飛び出た腸は戻らない。だから『今』ポーションは飲み干すべきじゃない、そうだろ？</p><p>すっ、と優しく、ケイの手を押し戻す。</p><p>……そうだな</p><p>瞑目したケイは、頷いて、ポーションをしまった。</p><p>本音を言えば―やはり飲んで欲しくはある。ケイの無茶に付き合った結果、負傷してしまったのだから。だが、アイリーンの言葉は尤もだったし、本人にそのつもりがない以上、いくら心苦しく思ってもそれはケイの独りよがりにすぎない。</p><p>もともと、アイリーンはリスクを全て承知で付いてきてくれたのだ―この期に及んであれこれ言い募るのは、野暮というもの。</p><p>……ありがとう</p><p>ケイにできるのは、心から感謝の念を伝えることだけだった。</p><p>おかげで、助かった</p><p>なぁに、お安い御用さ</p><p>なんでもないことのように軽く言ってのけて、ニカッと笑うアイリーン。傷だらけで、へとへとで、それでも笑顔が眩しくて―愛おしい。</p><p>ありがとう。本当に……</p><p>無事で良かった―</p><p>抱きしめる。こんな華奢な体で”森大蜥蜴”を屠ったとは、にわかには信じ難い。</p><p>いや～、今回は流石に疲れたぜ</p><p>無理もない、大活躍だったからな</p><p>こつん、とアイリーンがケイの胸板に額をぶつけてくる。</p><p>あの跳躍は見事だったよ</p><p>へへ、だろ？　人生でも屈指の大ジャンプさ</p><p>まさか、あれで仕留めてしまうとは思わなかった</p><p>そのあと吹っ飛ばされて死にかけたけどな</p><p>アイリーンがケイの腰に手を回し、ギュッと抱きしめ返してくる。</p><p>あの魔術はナイスアシストだったぜ、ケイ。おかげで頭から落ちずに済んだ</p><p>いやあ、実はもうちょっとで失敗(ファンブル)するところだったんだ。噛まずに呪文を唱えられてよかった</p><p>はははっ、そいつぁ助かったな</p><p>おどけてケイが答えると、アイリーンはからからと笑った。互いが互いに、幼子をあやすように、抱きしめあったままゆらゆらと体を揺らしている。体温と鼓動がじんわり伝わってきて、鉛のようだった疲労感が心地よいものに変わっていく。</p><p>するっ、とアイリーンがケイの腰に回していた手をほどいた。代わりに、ケイの頬を撫でる。慈しむように。ぬくもりを確かめるように。</p><p>……ん</p><p>そっと―。</p><p>…………</p><p>これほどまでに、互いの吐息を熱く感じたことはなかった。</p><p>……ふふ</p><p>顔が離れてから、アイリーンがぺろりと唇を舐める。怪我がなければ、ケイはその身体を、強く強く抱きしめていただろう。</p><p>……お～い</p><p>……どこだ～</p><p>と、木立の外から、皆の声。</p><p>おっと。ほら、英雄様をお呼びだぜ</p><p>パッと体を離したアイリーンが、肘で小突いてくる。</p><p>ああ……そうだな</p><p>微笑んだケイは、不意に、アイリーンを優しく抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。</p><p>あっ、おい……</p><p>もうひとりの英雄様も連れて行かないとな。……万全じゃないんだ、せめてこれぐらいさせてくれ</p><p>ん……まあ、そういうことなら、くるしゅうないぞ</p><p>腕の中でふんぞり返るアイリーンは、相変わらず羽のように軽い。</p><p>うおおおお！　ケイだーッ！！</p><p>“正義の魔女”も無事だーッ！</p><p>木立から姿を現したケイとアイリーンに、集まっていた村人たちが沸き立つ。ケイは笑顔で、アイリーンはぶんぶんと手を振って声援に応えた。</p><p>“大熊殺し”ーッ！　ありがとおおおおう！！</p><p>馬っ鹿、もう”大熊殺し”じゃなくて”地竜殺し”だろ！</p><p>それもそうだな！　じゃあ”正義の魔女”はどうすんだ？</p><p>そりゃお前―“地竜殺しの魔女”だよ！</p><p>うおおおお！　“地竜殺し”ーッ！</p><p>“地竜殺しの正義の魔女”ーッ！</p><p>やんややんや。</p><p>もう何がなんだかわかんねえな</p><p>大興奮の男たちを前に、アイリーンが苦笑している。ヴァーク村の住民がこれほど喜んでいるのは、それこそ”大熊(グランドゥルス)“の一件以来か。</p><p>ケイーッ！　お前はッ！　お前という奴はーッ！</p><p>そのヴァーク村の村長、ハの字眉がチャームポイントのエリドアが、号泣しながら駆け寄ってくる。</p><p>お前という奴は……ッ！　本っ当に……大した奴だ……ッ！　ありがとう……村を救ってくれて、ありがとう……ッッ！</p><p>ケイの肩をバシバシ叩きながら、泣きに泣いている。“大熊”襲来を乗り越え、村の発展を目指して頑張っていたら、今度は 深部(アビス) の境界線が迫ってきて、終いには”森大蜥蜴”が出現。村を預かる者として、そのプレッシャーは並々ならぬものがあったことだろう。</p><p>これで村は救われた。怪物は討ち取られ、村人に被害はなく、避難していた女子供たちも戻ってこられる。エリドアの男泣きも無理はなかった―たとえ、今回の一件が一時しのぎにすぎないとしても。</p><p>まあ、なんとか被害もなく済んでよかった。落とし穴が役に立ったぞ、手伝ってくれた皆もありがとう！</p><p>ケイがそう言うと、 うおおおお！ と男たちが拳を天に突き上げて応える。奇声を発しながら飛び跳ねる者、その場で小躍りする者、精霊に感謝の祈りを捧げる者、喜びようもそれぞれだ。</p><p>おっかなびっくり”森大蜥蜴”の死骸に近づく者たちもおり、恐る恐るつついたり、青緑の皮を撫でたりする人々を、ケイは微笑ましげに見守っていた―</p><p>―ん！？</p><p>が、その中に不審な連中を見つけ、顔色を変える。みすぼらしい格好の、探索者の端くれと思しき男たちが、死骸のそばに屈み込んでコソコソと―</p><p>おい、お前ら！　何をやっている！</p><p>ケイが駆け寄ると、 げっ という顔をした探索者たちが一目散に逃げ出した。</p><p>あっ！　アイツら皮剥ぎ取ってやがる！</p><p>アイリーンも気づいて、ケイの腕からぴょんと飛び降りる。</p><p>逃がすか！</p><p>幸い、マンデルが回収してくれた矢が何本かあった。カヒュンッ！　と”竜鱗通し”にしては控えめな音を立て、逃走する探索者―いや、『コソ泥』たちの足元に矢が突き立つ。</p><p>止まれェ―ッ！　次は当てる！</p><p>ケイの怒号に震え上がったコソ泥たちが、両手を上げて立ち止まる。握っているのは青緑の皮の切れ端だった。</p><p>貴様ら……何のつもりだ……</p><p>のしのしと歩み寄り、唸るようにして問うたケイに、顔を見合わせたコソ泥たちは媚びるような笑みを浮かべ、</p><p>そ、その……記念品に、と思って……</p><p>―記念で他人の獲物の皮を剥ぐ奴がいるか馬鹿野郎！</p><p>反射的に、答えた奴にゲンコツを落としそうになったが、頭がかち割れたら事(こと)なのでケイは自重した。</p><p>……っふぅー。気持ちはわかるが、それを許すわけにはいかん</p><p>オレたちが命がけで倒したんだ、何もしてねえヤツが『記念品』をご所望とは少々虫が良すぎねえか？　それにお前ら、見たところ穴掘りさえ手伝ってねーだろ</p><p>アイリーンの指摘に、ぐうの音も出ずに黙るコソ泥たち。</p><p>よくわかったな、コイツらが人足じゃないって</p><p>人足なら給料受け取ってから事に及ぶと思ってな</p><p>なるほど、それもそうだ</p><p>思わず感心してしまったケイだが、気を取り直して、再び憤怒の形相を作る。</p><p>それで……貴様ら</p><p>ハ、ハイ</p><p>せっかく犠牲もなく討伐できたんだ……今日という日を『無血』で終わらせたい。そうは思わないか</p><p>思います</p><p>というわけで、盗ったものを置いていったら勘弁してやろう。とっとと出せ</p><p>ケイがオラつくと、コソ泥たちは一も二もなく素材を差し出してきた。皮の切れ端―どうやら、戦いでついた傷をナイフでこじ開けるようにして、無理やり引っ剥がしてきたらしい。こんなしょーもない剥ぎ方をしてもほとんど使いみちがないだろうに、本当に記念品くらいにしかならないな、と遣る瀬無い気持ちになるケイ。</p><p>これで全部か？</p><p>全部です</p><p>……これで、全部、か？</p><p>一人、何となく怪しい奴がいたので圧をかける。</p><p>……あっ、忘れてました！　こっちのポケットにも</p><p>その業突く張りは、素知らぬ顔でやり過ごそうとしていたが、ケイがそっと矢筒に手を伸ばしたところで音を上げた。</p><p>まったく、最初から素直に出せ</p><p>これでケイの気が変わって、 やっぱ全員ブチ殺しておくか…… とでもなったらどうするつもりだったのか。</p><p>いっ、いえ忘れてただけで……</p><p>あーもういい、解散！</p><p>ケイが言い放つと、コソ泥たちは脱兎の如く走り去っていった。 バカ野郎！ 気が変わったらどうするつもりだったんだよ！ とコソ泥たちが業突く張りをなじる声を聞き流しながら、アイリーンと顔を見合わせる。</p><p>……勝利の余韻もへったくれもあったもんじゃないなぁ、ケイ？</p><p>全くだ</p><p>苦笑するアイリーンに、ケイはうんざり顔で頷いた。</p><p>死骸のそばに戻ると、一部始終を見ていた村人たちが、それとなく探索者たちを見張っていてくれているようだ。</p><p>自然、ケイの周りに関係者が集まる。</p><p>厚かましい奴もいたもんだな</p><p>すっかり泣き顔から村長の顔に切り替わったエリドアが話しかけてきた。</p><p>ああ。油断も隙もない</p><p>盗人対策もしなきゃならんのか……</p><p>ぺし、と額を叩いて溜息をつくエリドア。</p><p>……今夜は、討伐祝も兼ねて皆で不寝番かな</p><p>『伝説の狩り』とはいっても、舞台裏はこんなもんか、と一同苦笑を隠せない。</p><p>まあ、なにはともあれ</p><p>パン、と手を叩いて、ケイはその場の面々に向き直る。</p><p>静かな面持ちのマンデルは、達成感と、危険な仕事を終えたという安堵を噛み締めているようだった。</p><p>汗まみれのゴーダンは、疲労の色が濃いながらも晴れ晴れとした顔をしている。</p><p>はしゃぎまわっていたロドルフォは、賢者タイムとでも言うべきか、反動が来たらしくどこか虚脱した様子。</p><p>負傷した胸を押さえて苦しげなキリアンは、一気に老け込んだようだ。ポーションは流石に分けられないが、あとで『アビスの先駆け』の軟膏を渡しておこう、とケイは思った。</p><p>―そして、そんな彼らから一歩下がったところで、ホアキンがツヤッツヤの満面の笑みで立っている。満足そうで何よりだ。</p><p>……みんな、ありがとう。おかげで犠牲もなく倒せた。俺ひとりでは、絶対に不可能だった―改めて本当にありがとう</p><p>ケイが一礼すると、皆、口々に いやいや こちらこそ と返してくる。</p><p>それで―報酬に関してだが、まさかの想定外が起きたからな</p><p>ちらっ、と二頭の死骸を見やるケイ。</p><p>『名誉も報酬も二倍』、この言葉を違えるつもりはない。コーンウェル商会との交渉次第ではあるが、皆、期待していてくれ！</p><p>ケイの宣言に、やはり現金なもので、笑顔にならない奴はいなかった。</p><p>ぶるるっ</p><p>が、そのときケイの後ろ髪がグイッと引っ張られる。</p><p>イテテっ何だ！？　―サスケェ！</p><p>振り返れば、ふんすふんすと鼻を鳴らす汗だくのサスケ。 ねえぼくは？？？ と言わんばかりの凄まじい圧を発している。</p><p>もちろん、お前も忘れてないよ。ありがとう</p><p>大活躍だったもんな！</p><p>ケイの騎兵戦術も、サスケ抜きでは成立しない。</p><p>縁の下の力持ちとはまさにこのことだ</p><p>偉いぞサスケ！</p><p>帰ったら美味いものいっぱい食べような</p><p>ブラシもかけてやるぞ～！</p><p>ケイとアイリーンにわしゃわしゃと撫でられて、口々に褒められて、不満げだったサスケもようやく機嫌を直した。</p><p>どこか締まらない様子のケイたちに、周囲の面々も笑い出す。</p><p>晩秋の澄んだ青空に笑い声が響き渡り、冬の訪れを予感させる冷たい風が、狩りのあとの血生臭い空気を吹き流していった。</p><p>ひとまず決着。次回、狩りの面々の後日譚とかやりたいと思います。</p><p>感想、ポイント評価、にゃーんなど、大変励みになっております。 更新遅いぞ！ という方は、直接言われるとナイーブに傷つくので、 フシャーッ！ と威嚇する程度に留めていただけると幸いです。がんばります。</p><p>今年もどうぞよろしくお願い申し上げます！</p><p>99. 後日</p><p>『公都』ウルヴァーン。</p><p>公国でも屈指の巨大都市。小高い岩山に築かれた領主の居城を中心に、貴族たちの館や邸宅が整然と建ち並び、さらにその外側には、壺から溢れ出したミルクのように雑然とした一般区の街並みが広がっている。</p><p>そんな市井の片隅―宿屋”HungedBug”亭。</p><p>一階は酒場も兼ねており、夕暮れ時は宿泊客や常連たちで大賑わいだ。</p><p>はぁーい、お待ち遠様、エール２つにソーセージとチーズの盛り合わせね</p><p>HungedBug亭の看板娘、『ジェイミー』は、今日も給仕に会計に掃除にと、忙しく働いていた。</p><p>よっ、待ってました</p><p>ジェイミーちゃんいつもカワイイねぇ</p><p>はいはい、ありがとね</p><p>常連セクハラ親父の手をパシッと払い除けながら、ぞんざいに答えるジェイミー。健康的な小麦色の肌、グラマラスな体型、その上かなりの美人なジェイミーは、良くも悪くも男にモテる。</p><p>はぁ～どっかにいい男いないかな……</p><p>が、寄ってくる男は大抵、砂糖菓子に群がるアリのごときロクでもない連中ばかりなので、本人は灰色の日々を過ごしていた。養父にして宿屋の主人、『デリック』が悪い虫に睨みを利かせているということもある。そのへんの若い男は、父の名前を出すと青い顔をして逃げてしまうのだ。過去に一体何をやらかしたのか―</p><p>いい男ならここにもいるぞぉ～～！</p><p>ジェイミーの独り言を聞きつけて、酔っ払った赤ら顔の親父が自己アピール。</p><p>はいはい、いい男いい男</p><p>溜息混じりにあしらい、食器を片付けるジェイミー。とりあえず酒臭い男にはもううんざりだった。</p><p>―そういや聞ききました？　例の話</p><p>―あれか？　ヴァーク村の……</p><p>テーブルを拭いていると、酒場の隅、宿泊客たちの会話が聞こえてくる。</p><p>なんと、本当に”森大蜥蜴”が出たって話ですよ</p><p>聞いた聞いた。それも二頭も、だろう？</p><p>おれは三頭って聞いたぞ</p><p>群れに襲われたんじゃなかったか？</p><p>そいつぁ世も末だな！</p><p>ワッハッハと大笑いする男たち。</p><p>……で、実際のとこ、どうなんだ</p><p>“森大蜥蜴”が出たのは確かのようですが</p><p>ヴァーク村の連中も気の毒にな。真面目に開拓してたのに</p><p>深部(アビス) の領域が移動してきてたんだろ？　遅かれ早かれじゃないか</p><p>深部 の話題ともなると、自然、声を潜めて話し合う。不思議なもので、コソコソ話されると何が何でも聞きたくなってしまい、ジェイミーはテーブルの頑固な汚れを取るふりをして注意深く耳を傾けた。</p><p>二頭や三頭ってのは尾ひれがついたか</p><p>本当だったら、今頃もっと大騒ぎになってるさ</p><p>しかし、二頭まとめて討伐されたって小耳に挟みましたよ</p><p>それこそまさかだ、まだ軍は動いてないだろ？</p><p>でもコーンウェル商会が大規模な商隊を送り出してるんですよ、南の方に</p><p>若手の行商人の言葉を、皆が黙り込んで吟味した。</p><p>確かに、革職人ギルドも今日は忙しそうにしてたな……</p><p>旅人風の男があごひげを撫でながら唸る。</p><p>しかし……誰がどうやって討伐したんだ？</p><p>自分が聞いたところによると―どうも”大熊殺し”が動いたとか</p><p>“大熊殺し”！　あの武闘大会の奴か</p><p>―えっ、ケイのこと？</p><p>思わず口を挟んでしまうジェイミーに、男たちは一瞬びっくりしたような顔をしたが、美人のウェイトレスが興味を示したとあって嫌な顔はしなかった。</p><p>そうそう、“公国一の狩人”のケイさ</p><p>嬢ちゃんも『ファン』なのかい？</p><p>からかうように尋ねられたので、ジェイミーは心外だとばかりに、</p><p>ファンも何も、顔見知りよ。“HungedBug(ウチ)“にしばらく泊まってたんだもの</p><p>そう答えると、男たちは へえ！ と興味深げに身を乗り出した。</p><p>どんな奴だったんだ？</p><p>ものすごい大男らしいじゃないか</p><p>本当に大熊を一撃でぶっ倒すような弓使いなのか？</p><p>そうねぇ……</p><p>問われて、ジェイミーははたと気づく。なんだかんだで、ケイが弓を扱う姿を直接見たことがないことに。実はあれだけ話題の武闘大会でさえ、当日は宿屋で忙しく働いていて観戦どころではなかったのだ。</p><p>―わたしの人生って……</p><p>ど、どうしたんだ嬢ちゃん、急に死んだ魚みたいな目をして……</p><p>いや……いいの。そうね。ケイは確かに大柄だったわ。わたしより２０ｃｍくらい大きかったかしら？　でも、『ものすごい大男』ってほどでもないわね、義父さんの知り合いでもっと大きい人見たことあるし</p><p>ジェイミーは女にしては背の高い方なので、それほどケイが『でかい』とは思わなかったこともある。</p><p>弓の威力はよく知らないんだけど、腕のいい弓使いなんだなぁ、とはいつも思ってたわ。フラッと出かけていったと思ったら、草原で兎を何羽も仕留めて戻ってきて、明日の飯にでも使ってくれ～なんて言ってくることもザラにあったし</p><p>ほほー。そんなに長いことココに泊まってたのか？</p><p>そうねー２ヶ月くらい？</p><p>長いな。その間、ずっと何してたんだ？</p><p>問われて思い浮かんだ光景は―</p><p>『おっ、アイリーン、このサラミ美味いぞ。ほれ』</p><p>『あーむ』</p><p>『うおッ直接食うやつがあるか！』</p><p>『んー！　香草が効いてんな。こっちのチーズも絶品だぞ』</p><p>『あ、あー……ちょ、ちょっと恥ずかしいなコレ』</p><p>『ケイが先にやってきたんだろー！　ほら食え食え！』</p><p>『あ、あーん……』</p><p>所構わず―恋人と仲睦まじく―</p><empty-line/><p>クッ―っ！！</p><p>どっどうしたんだ急に嬢ちゃん、唇から血が出てるぞ……！？</p><p>い、いえ……いいの。そうね。武闘大会で優勝してから、ずっと図書館に通って調べ物してたみたい</p><p>図書館んぅ？</p><p>男たちは顔を見合わせた。</p><p>図書館っつーと……第一城壁の向こうにあるとかいう、アレ？</p><p>そそ</p><p>たしか入館料がすごく高かった気がするんですが……金貨とか……</p><p>あー、それくらいするって言ってたわねー</p><p>ひぇぇ、想像もつかねえ</p><p>狩人が図書館に何の用があるんだよ……</p><p>そんな金をかけて何を調べてたんだ？</p><p>なんか伝承とかを調べてるって言ってたわねー</p><p>伝承……？　と再び顔を見合わせて、さらに困惑する男たち。</p><p>なんだってそんなものを……</p><p>そんな高い金を払ってまで……</p><p>っていうか、狩人なんだよな……？</p><p>ケイって、なんか違う大陸？　から来たんだって。精霊様のいたずらか何かで迷い込んじゃったんだってさ。それで『故郷に帰る方法を探してる』って言ってた。結局見つからなかった、というか、『遠すぎて帰れないことがわかった』らしいけど―</p><p>おおい、ジェイミー！</p><p>と、厨房の方からダミ声が―養父デリックの声が聞こえてきた。</p><p>いつまでも喋ってないで、早く運んでくれ！</p><p>あっ、はーい。それじゃ</p><p>―このままくっちゃべっていたら確実に雷が落ちる。そう判断したジェイミーは速やかに離脱し、仕事に舞い戻った。</p><p>はぁ～いお待たせ、エールと蒸留酒と、兎肉のシチューね～</p><p>あくせく皿を運びながら、ふと思う。ケイは今頃どうしているのだろうと。</p><p>“森大蜥蜴”狩りに動いた―とのことだが、“大熊”を一撃で撃ち倒したというケイならば確かに、伝説の地竜でも狩れてしまうかもしれない。</p><p>（きっと、すごく儲かるんだろうなぁ……）</p><p>“大熊”の毛皮が売れて、ずいぶんと羽振りが良かった。きっと”森大蜥蜴”狩りでも巨万の富を得るのだろう。自分が迫ったときは満更でもなさそうだったし、デリックもケイ相手ならとやかく言わないだろう―あの恋人の女さえいなければ―</p><p>はぁ……</p><p>溜息をついた。『もしも』を思い描いても虚しいだけ。</p><p>いい男、いないかなぁ……</p><p>ジェイミーの呟きは、酒場の喧騒に紛れて消えていく―</p><p>†††</p><p>ヴァーク村。</p><p>“森大蜥蜴”の討伐・解体後、落ち着きを取り戻したかのように見えた開拓村だが、噂を聞きつけた旅人や吟遊詩人らが押し寄せ、逃げていた探索者たちもまた森に入るようになり、彼らを相手に商売する商人たちまで戻ってきた。</p><p>さらには、避難していた村の女子供が帰ってきたことも重なって、以前より遥かに混沌とした様相を呈している。村を取り囲むように色とりどりの天幕が張り巡らされ、もはや開拓村というよりは小さな町といった規模になりつつあった。</p><p>そんな村の片隅で、村長宅を間借りしている男がいた。</p><p>ホアキンだ。</p><p>吟遊詩人として誰よりも先に駆けつけたこの男は、伝説を見逃し絶望する同業者らを尻目に、今回の英雄譚をいかにして一曲にまとめるか―羽根ペンを片手に毎日唸っていた。すでに主役たるケイたちはサティナへと帰還しているのだが、伝説の熱気が冷めやらぬうちに、この伝説の地で、伝説の英雄譚を仕上げてしまうべきだと判断し、村に残ったのだ。</p><p>うぅーむ……</p><p>始まりのフレーズ、曲調、登場人物たちの活躍―それぞれ詰め込みたい要素が多すぎる。普通、こういった英雄譚は事実を『少しばかり』脚色するのが常だが、今回の一件に関してはその必要が一切なかった。自身が目撃した全てを観客にそのまま伝えたいくらいだ。</p><p>むむぅ……</p><p>参考がてら、かたわらのメモ用紙に目を落とす。討伐後の、登場人物たちへのインタビュー集だ。ぱらぱらとめくる。</p><p>***</p><p>―マンデルさん、どのような心境ですか</p><p>『ひとまず、一息ついた。……無事に終えられてホッとしている』</p><p>―ケイさんをここぞというところでアシストされていましたね</p><p>『活躍らしい活躍なんてものはなかったが、最善は尽くしたと思う』</p><p>―今、何かしたいことはありますか</p><p>『……家で帰りを待つ娘たちに早く会いたい』</p><p>―今回の狩りをまとめるならば</p><p>『おれの人生において、最も困難で、輝かしい一日だった』</p><p>―またケイさんから助太刀を頼まれたら、どうしますか</p><p>『…………最善は尽くすが、今回の一件で身の丈というものを思い知った。この村に平和が訪れることを祈る』</p><p>***</p><p>―キリアンさん、お疲れのようですね</p><p>『ああ……へへ、そうかもしれやせん。疲れやしたね』</p><p>―今、何かしたいことはありますか</p><p>『特には。ただゆっくり酒でも呑みたい』</p><p>―今後はどうなさるおつもりですか</p><p>『アッシは、故郷へ帰ろうかと。森歩きは引退……しやしょうかね。恥ずかしい話、ちょっと森に入るのが怖くなってしまいやして』</p><p>―故郷、ですか</p><p>『もう何年も……何十年も帰っていやせん。捨てたものと思ってやしたが―幸い、報酬はたっぷりいただきやしたし、静かに暮らそうと思いやす』</p><p>***</p><p>―ゴーダンさん、今どんなお気持ちですか？</p><p>『まだ……夢でも見ているみたいだ。生きていることが信じられない』</p><p>―あの投槍、見事でした。大活躍でしたね</p><p>『風の大精霊のお導きがあればこそ。自分の実力ではない』</p><p>―今回の狩りをまとめるならば</p><p>『ケイとともに戦えたことを、誇りに思う』</p><p>―もしまた助太刀を頼まれたら</p><p>『絶対に参加する』</p><p>***</p><p>―ロドルフォさん、やりましたね</p><p>『ああ、何とかな！　生きて帰ってこれて良かったさ！』</p><p>―今、どんな心境ですか</p><p>『概ね満足だな！　力及ばず歯痒い思いもしたが、最後に役に立ててよかった。自分のベストは尽くしたと思う！』</p><p>―これから、何かしたいことはありますか</p><p>『実は……女を一人、待たせていてな。近々結婚を申し込もうとしてたんだ。今回の大物狩りのおかげでいい土産話ができた。報酬で資金も用立てられたし、いいことづくめさ！』</p><p>―おめでとうございます</p><p>『ありがとう！　ありがとう！！』</p><p>―それで、結婚されるのはどんな方なんです</p><p>『うむ！　サンドラという名前でな、出会ったのは二年前で―』</p><p>***</p><p>うーん、ロドルフォに関係ないこと聞きすぎたな……</p><p>その後、ロドルフォの惚気話が延々と続くメモを傍らに置いて、ホアキンは溜息をつく。同じ海原の民(エスパニャ)のよしみで、ついつい話が弾んでしまった。</p><p>掘り下げといっても限度があるしなぁ……</p><p>考えすぎで頭から湯気が出そうだ。間借りしている部屋、小さなベッドに寝転がって頭を冷やそうとする。</p><p>もっといいものを作れるはずだ……後世まで歌い継がれるような名曲を……</p><p>そして完成した暁には、アイリーンに魔道具を注文し、曲と影絵の相乗効果で一世を風靡するのだ―</p><p>う～ん……</p><p>吟遊詩人はひとり思い悩む。</p><p>頭の熱は、当分下がりそうにない―</p><p>†††</p><p>一方その頃、ウルヴァーン北部のとある宿場街。</p><p>ランプの明かりが揺れる宿屋の一室で、静かに商談が進められていた。</p><p>本日はご足労いただきありがとうございます</p><p>『いやいや、こちらこそ』</p><p>一人は身なりの良い、緊張気味の中年男。そして対面、ローテーブルを挟んで―椅子の背に止まっているのは、一羽の鴉だ。</p><p>契約条件に関してですが、事前にお送りした書簡通り―</p><p>『ああ、訳は確認したよ。特に問題はなかったと思う』</p><p>それは何よりです。念の為、口頭でも確認させていただきたく</p><p>『お願いしよう』</p><p>男は公国語を、鴉は雪原語(ルスキ)を操っているが、コミュニケーションに不自由はない。テーブルに置かれた水晶のペンダントから影の手が伸び、壁に影絵の文字を描いてそれぞれの言語を翻訳しているからだ。</p><p>『いやはや、これは本当に便利だな！』</p><p>改めて感嘆の声を上げる鴉。その名を『ヴァシリー＝ソロコフ』という。雪原の民の告死鳥(プラーグ)の魔術師だ。ちなみに本体ではなく、使い魔の一羽に憑依している。</p><p>同感です</p><p>しみじみとした顔で頷く身なりのいい男は、コーンウェル商会の商人。今日、ヴァシリーといくつかの契約を結ぶために、この宿場街に派遣されてきていた。ヴァシリーの住む緩衝都市ディランニレンと、ウルヴァーンの中間地点が選ばれた形だ。</p><p>おかげでこうして、良いご縁をいただけましたし</p><p>『全くだね』</p><p>朗らかに笑い合う二人。しかし、実はヴァシリーは、コーンウェル商会そのものは割とどうでもよく思っている。現在所属しているガブリロフ商会だけでも、研究費は充分に賄えているからだ。</p><p>コーンウェル商会の伝手で、北の大地には生息しない珍しい鳥が手に入るかもしれない―とは期待しているものの、それはあくまでおまけに過ぎない。ヴァシリーの目的は、コーンウェル商会にパイプを繋いでおくことで、アイリーンと定期的に連絡を取ることにあった。</p><p>（『全く、大した技術力だ……これほどの魔道具をいともたやすく完成させてしまうとはね』）</p><p>商人の言葉に相槌を打ちながら、翻訳の魔道具に視線を落とすヴァシリー。</p><p>（『まだ若いというのに……流石に嫉妬してしまいそうだ』）</p><p>以前、『茶会』で話し合ったときもそうだったが、アイリーンとその連れのケイが保持している魔術の知識は、かなり洗練されている。それを少しでも吸収したい―自らの研究にも取り込んでいきたい。同じ商会に所属して接点を設ければ、また魔術談義もできるかもしれない。そんな知的好奇心と、貪欲な探究心が、この度の契約につながった。</p><p>―というわけで、いかがでしょうか</p><p>『ああ、うん。私としては問題ない』</p><p>ありがとうございます。では―</p><p>『―しかし、ひとつ疑問があるんだが…… 契約者は、死傷の危険性がある狩猟やその他のイベントに、自発的には参加しないよう努力する 、この条文は本当に必要なのかね……？』</p><p>あ、ああ、それですか</p><p>ヴァシリーの指摘に、商人は苦笑い。</p><p>実はその……ヴァシリー殿もご存知の、我らが商会の専属魔術師たちがですね</p><p>『アイリーンとケイのことかい？』</p><p>そうです。その、御二方がですね、その～……実はつい先日、ウルヴァーン郊外の開拓村に”森大蜥蜴”が出現しまして。そちらの討伐に赴かれてしまったんです</p><p>『はぁ？』</p><p>一瞬、ヴァシリーは誤訳を疑ったが、この条文を見る限り―つまりは、そういうことなのだろう。</p><p>『それでこの条文か……いや、そんなことより、二人はどうなったんだね？』</p><p>ご無事です。どころか、“森大蜥蜴”を二頭も仕留めてしまわれて</p><p>『はぁ？　二頭……！？』</p><p>椅子の背に止まって目を丸くする鴉に、商人の男は、（鳥もこんなに表情豊かになるんだなぁ）などと可笑しく思った。</p><p>おかげで、我らが商会も素材を捌くのに大わらわですよ</p><p>『それは……凄まじいな。しかし、まさか、たった二人で討伐を？』</p><p>ケイの強弓、そして馬賊相手の死闘を知るヴァシリーは、あの二人ならばやりかねないと考えた。</p><p>いえ、流石に現地の住民や有志の方々と協力して、とのことですが</p><p>『それにしても大したものだな。いやはや……無茶するもんだ』</p><p>全く、同感です</p><p>これ以上なく、しみじみと頷く商人。</p><p>そういった事情で、こちらの条文が追加されたというわけです</p><p>『確かに、投資するだけして死なれたのでは商会側も堪るまいよ』</p><p>まあ私は心配はいらないから安心してくれ、とおどけて言うヴァシリーに、商人の男は朗らかに笑った。今後ウルヴァーン支店でヴァシリーを担当することになるわけだが、この魔術師とはうまくやっていけそうだ、と密かに胸を撫で下ろす。</p><p>というわけで、よろしければ契約書にサインを</p><p>『相分かった。……あ』</p><p>ぴょん、とテーブルに乗り移ったヴァシリーが、『しまった』という顔をする。遅れて商人も気づく。この鴉(からだ)でどうやってサインするのか、と。</p><p>『あ～……その、あれだ。インク壺を貸してくれたまえ、鉤爪で何とか』</p><p>あ、はい……こちらをどうぞ</p><p>『ありがとう。いやしかし、脚で文字を書くわけか。なかなか骨だぞコレは……』</p><p>ローテーブルの上で片足立ちし、四苦八苦するヴァシリー。書類がズレないように慌てて押さえる商人。</p><p>『ああっインクがこぼれた！』</p><p>ああっ契約書が！！</p><p>一人と一羽がぎこちなく奮闘する様は、傍から見れば噴飯ものだったが、幸いにして覗き見る者は誰もいなかった。</p><p>静かに始まった商談は、こうして、にぎやかに終わっていく。</p><p>次回 100. 平穏</p><p>サティナに帰還し、平穏な日々のありがたみを噛みしめるケイだったが―</p><p>100. 平穏</p><p>前回のあらすじ</p><p>ジェイミー どっかにいい男いないかなぁ</p><p>ホアキン　 なかなか歌がまとまらない……！</p><p>ヴァシリー 鳥の脚でサインするのは難しいという知見を得た</p><p>やっぱり家は落ち着くな……</p><p>自宅のリビングでどさりと荷物を下ろし、ケイはホッと一息ついた。</p><p>違いねえ。愛しの我が家！</p><p>その隣ではアイリーンが猫のように、 うーん と背伸びをしている。</p><p>（……そうか、俺も『落ち着く』ようになったか、この家で）</p><p>ケイはそんな感慨を抱く。見慣れた家具。古びた木の香り。思い出深い窓ガラス。しばらく暮らすうちに、この家にもすっかり愛着が湧いていたらしい。留守中も商会で雇った使用人たちは、きちんと手入れをしていてくれたようで、埃もなく綺麗に片付いている。</p><p>そう、ケイたちは、サティナへと帰還していた。</p><p>嵐のような日々だった。“森大蜥蜴”の討伐。素材の監視を兼ねた宴。コーンウェル商会の人員の到着、商人との交渉、解体、報酬の分配、etc, etc… 休めたのは討伐直後くらいのもので、それからは目の回るような忙しさだった。</p><p>どうにかやるべきことを済ませて、村人たちに惜しまれながらヴァーク村を発ったのが四日前。マンデルを除く、討伐のメンバーたちと別れたのもそのときだ。</p><p>『本当に……夢のようだった。ありがとう』</p><p>『これで胸を張って結婚を申し込める！　さらばだ！』</p><p>ゴーダンとロドルフォは、それぞれの故郷に帰っていった。ゴーダンは東の辺境の村へ、ロドルフォは西の沿岸部へ。ケイがボーナスを弾んだこともあり、銀貨ではち切れそうな革袋と、『記念品』の色鮮やかな”森大蜥蜴”の皮の切れ端を携えて。</p><p>『今回のことは……家族に話しても、信じてもらえないかもしれないな』</p><p>そう言って笑うゴーダンはちょっとした豪農の次男坊らしく、家族に金を預けたら今度はサティナまで遊びに来るつもりとのこと。ちなみに、ケイを追う雄竜に投げつけた５本目の槍は、商会の護衛『オルランド』から借り受けたものだったそうだ。</p><p>『いやーもうこれ家宝にするっス！　ありがてえ』</p><p>“森大蜥蜴”の血がついた短槍を回収して、オルランドは童心に帰ったように顔を輝かせていた。討伐には参加せず馬車の『護衛』に専念していたオルランドたちだが、そのあとの素材の監視や商会の人員の誘導などでは、よく働いてくれた。</p><p>『この鮮やかな青緑！　サンドラのブルネットの髪によく似合うに違いない！』</p><p>ロドルフォは恋人に結婚を申し込むそうだ―“森大蜥蜴”の皮を髪飾りにして贈るのだとはしゃいでいた。実はケイは別れ際まで結婚の件を全く知らなかったのだが、もし事前に話を聞いていたら討伐のメンバーに選ばなかったかもしれないな、とは思った。</p><p>ちなみにキリアンだが、報酬を受け取ったあと、人知れず姿を消していた。討伐の日を境に、めっきりと老け込んでしまったように見えたキリアン―彼の助力がなければ、森の様子もわからず、ゴーダンとロドルフォも仲間にならず、アイリーンが毒で雌竜を仕留めることもできなかった。今回の狩りの成功も、彼に依るところが大きい。</p><p>何度も礼は言ったが、それでも別れの挨拶くらいはしたかった。なぜ何も言わずに去ってしまったのか―正直なところ、少し悲しく思う。ただ、ヴァーク村に残ったホアキンによれば、キリアンは”森大蜥蜴”との戦いで、心に傷を負ってしまったらしいとのこと。</p><p>忘れたかったのかもしれない。</p><p>忘れられたかったのかもしれない―</p><p>†††</p><p>荷物を置いたケイたちは、大通りを挟んで斜向いの商業区を訪れた。コーンウェル商会傘下の高級宿―いつもサスケとスズカを預かってもらっている宿だが、今日はマンデルがここで一泊する。ヴァーク村からサティナまで、四日間の旅の疲れを癒やしてから、タアフ村に凱旋しようというわけだ。</p><p>マンデル、いるかー？</p><p>レセプションで教えてもらった二階の部屋。ドアをノックすると いるぞー と間延びした声が返ってきた。</p><p>中に入ると、そこは広々とした上品な部屋。</p><p>ベッドだけではなく、頑丈そうな物入れのチェストに、小さな丸テーブルと椅子が何脚か。テーブルの下には小洒落た模様のカーペットも敷いてある。弓形に張り出した出窓―俗に言う『ボウウィンドウ』というやつだ―には、なんとガラスがはめられており、冷たい外気を遮断しつつも柔らかな日差しが差し込んでいた。窓際には花まで飾られている。</p><p>そして肝心のマンデルはというと、ゆったりとしたダブルベッドに寝転がり、存分にくつろいでいるようだった。</p><p>いやぁ、快適だな。……いいのか、こんなに上等な部屋に泊まっても</p><p>と言いつつ、全く遠慮する様子は見せないマンデル。言葉の割にふてぶてしい態度に、ケイは声を上げて笑った。</p><p>もちろんだとも。コーンウェル商会は太っ腹だからな</p><p>今回の宿代はコーンウェル商会持ちだ。先ほど本部で顔を合わせたホランドがマンデルのために手配してくれた。ケイとしても、存分に楽しんで元を取ってもらいたいと思う。</p><p>そいつはありがたい。せっかくだし、風呂にでも入ってみるかな。飲み物も好きに頼んでいいんだったか</p><p>好き放題にやっていいんだぜ、マンデルの旦那。そのうち『あの地竜殺しの英傑が一人、マンデルの泊まった部屋！』って名物になるだろうからな</p><p>壁に名前でも刻んだらどうだ、とからかうアイリーンに、マンデルは うへぇ と渋面になった。髭もじゃで表情が分かりづらいが、どうやら照れているらしい。</p><p>このあと、マンデルは風呂に入ってのんびりするとのことだったので、ケイたちは夕食の約束を取り付けてから、今度は木工職人モンタンの家を訪ねた。</p><p>ケイさん！　よくぞご無事で！！</p><p>おねえちゃん！！</p><p>五体満足なケイに、ホッと胸を撫で下ろすモンタン。その横から勢いよくリリーが飛び出してきて、アイリーンに抱きついた。</p><p>お二人とも……うまくいったんですね？</p><p>さらに家の奥から、モンタンの妻キスカも顔を出す。</p><p>ああ、お陰様で。モンタンの矢も大活躍だったぞ</p><p>ケイたちが”森大蜥蜴”を撃破したのは一週間ほど前のこと。まだサティナにまでは詳細が伝わっていないらしい。立ち話も何だということで、中でお茶をいただく。</p><p>正直、もうヴァーク村はダメかもしれないと思ってたんだが、驚くべきことに到着するとまだ無事だった</p><p>どころか、探索者やら商人やらで大賑わいでさ―</p><p>キリアンという熟練の森歩きの話によると、実は―</p><p>っつーわけで、人を集めて落とし穴を掘ったり、迎撃準備を―</p><p>交互にことのあらましを語るケイとアイリーン。モンタンたちは目を輝かせて聞き入っていた。何せ、『伝説』の当事者たちから直に話を聞けるのだ。現代地球に比べ娯楽の少ない世界で、これ以上のエンターテイメントはなかった。</p><p>それでこれが、活躍してくれた矢たちだ</p><p>ケイは矢筒から矢を取り出した。“森大蜥蜴”の死骸から回収したものだ。モンタン特製の出血矢や宝石の消滅した魔法矢、最後に額を撃ち抜いた長矢などなど。黒ずんだ血の跡がこびりついており、見方によっては汚かったが、モンタンには最高の手土産になるだろうと思ったのだ。</p><p>おお……！　これが……！！</p><p>モンタンは震える手で受け取り、惚れ惚れと眺める。自ら手掛けた矢が伝説の怪物を打ち倒した―職人として、その感慨はいかほどか。</p><p>で、こっちが”森大蜥蜴”の皮だ</p><p>今度はアイリーンが１０ｃｍ四方の切れ端を差し出す。リリーとキスカが、色鮮やかな青緑色に目を見張った。</p><p>……触っていい？</p><p>もちろん</p><p>リリーはおっかなびっくりといった様子で皮を受け取り、恐る恐る、指先で表面をつついた。</p><p>……こんな色、はじめて見た</p><p>確かに、こちらの世界では珍しい色合いかもしれない。ケイが持ち込んだ革鎧も”森大蜥蜴”製ではあるが、硬化処理などをした関係で、これほど鮮やかな色は残っていない。</p><p>……ありがと</p><p>しばらくキスカとともに、しげしげと観察していたリリーだが、やがて満足したのか皮を返してきた。</p><p>ん？　それはお土産だからリリーのだぞ</p><p>えっ！？</p><p>アイリーンが告げると、リリーとキスカが マジで！？ と言わんばかりに皮を二度見する。目と口がまん丸くなった表情があまりにもそっくりで、 ああ、やっぱり親子だなぁ と納得しつつもアイリーンは笑ってしまった。</p><p>いいんですか？！　こんな貴重なものを……</p><p>まあ、貴重といえば貴重なんだけど……</p><p>あまり使いみちがない。傷跡を避けて皮を剥ぐと、どうしてもこのような切れ端も出てきてしまった。もちろん、普通の動物の皮に比べると市場価値は非常に高いが、使うとしてもサイズ的にはせいぜい小物を作るぐらいだろうか。ケイたちは記念品として、こういった端材を商会からいくらか譲り受けていた。</p><p>もちろん、ケイは革鎧を新調し、アイリーンもちょっとした防具を別途作るつもりではあるが。</p><p>ほんとうにいいの、お姉ちゃん？</p><p>ああ。なにせ二頭も倒したからな</p><p>配って回る余裕は充分にある―ヴァーク村に到着した商会職員も、二頭の巨大な死骸を見て卒倒しそうになっていたほどだ。一応、使者を送って事前に伝えてはいたが、『番(つがい)を倒した』という情報だけは半信半疑だったらしい。しかし落ち着いてからは、いったいどれほどの儲けを生み出せるか、文字通り皮算用で大興奮していた。</p><p>ありがとう、おねえちゃん！</p><p>いいってことさ。どうだろう、リリーも髪飾りでも作ってみるかな？</p><p>えへへ……にあうかな？</p><p>青緑の皮を頭に当ててみるリリー。ケイはそんな幼女の姿を微笑ましげに見守りながら、</p><p>いずれにせよ、モンタンの矢は本当に役に立ったよ。ありがとう</p><p>改めてモンタンに礼を言う。</p><p>魔法の矢も出血矢もそうだが、特に長矢だ。今まで何度窮地を救われたか</p><p>いえいえ、お礼を言いたいのはこちらの方です。職人としてこれにまさる名誉はありませんよ</p><p>良かった。それで、今晩あたり打ち上げをやろうと思うんだが……あ、そういえばマンデルは知り合いだったよな？</p><p>ええ、以前矢を買っていただいたこともありますし</p><p>彼も誘ってるんだ。コーンウェル商会の飯屋を貸し切るから、肩肘張らなくて済むパーティーになると思う。モンタンたちもどうだろう？</p><p>いいんですか！　それじゃあ、お呼ばれして……</p><p>伝説の狩りの打ち上げともなれば相当期待できる。モンタンもホクホク顔だ。</p><p>夕方にまた合流する約束を取り付けて、モンタン宅を辞去する。</p><p>ケイ、コウたちはどうする？</p><p>ああ、そうだな……</p><p>今日も今日とて、サティナのメインストリートは大賑わいだ。人々の間を縫うようにして歩きながら、しばし考える。</p><p>誘えるものなら誘いたいが……</p><p>立場的にすぐ来れるか、謎だよなぁ。コウの旦那はともかく、イリスは……</p><p>うーむ、とアイリーンもちょっと難しい顔。イリスはお姫様設定が足を引っ張ってフットワーク軽めに動けないのが難点だった。</p><p>まあ、でも、お忍びでなんとかするんじゃね？　最悪コウの旦那は来れるだろ</p><p>一応連絡だけしておくか</p><p>そうしてコーンウェル商会本部を訪ね、コウの屋敷に使者を送ったり革鎧の仕様を話し合ったり、諸々の手配をするうちにあっという間に日が暮れた。</p><p>久しぶりだな、キスカ。……元気にしてたか</p><p>もっちろん。あんたこそ大活躍だったらしいじゃん</p><p>マンデル、そしてモンタン一家を連れて商会が手配したレストランに向かう。マンデルとキスカはタアフ村出身の顔馴染みだ―キスカの方が年齢的に一回り下のはずだが、かなり馴れ馴れしい。いつもモンタンの妻、リリーの母としての顔しか知らなかったケイは、キスカが途端に若々しい村娘のように見えて少し驚いた。よくよく考えれば二十代、ケイとそれほど年齢は変わらないのだ……</p><p>リリーも、しばらく見ないうちに大きくなったな。……あっという間だ</p><p>はい。おひさしぶり、です</p><p>お行儀よく挨拶するリリーを、マンデルは優しい眼差しで見ていた。もしかすると自分の娘たちの幼い頃と重ね合わせているのかもしれない。</p><p>こうしてみると、本当に目元はキスカにそっくりだな。……ベネットが会いたがっていたぞ</p><p>あー……父さんねえ。たまには里帰りしたいもんだけど、あんまり家を空けられないのよねぇ……</p><p>この頃、装飾矢やら何やらの注文がけっこう詰まってるんですよ。ありがたいことなんですけどね</p><p>それに加えて、ケイたちの魔道具の『ガワ』を作ったりもしているので、モンタンは忙しい。</p><p>そうか。……まあせめて、手紙くらいは届けよう</p><p>ありがとー</p><p>そんなことを話しているうちに目的地に着いた。二階建てのそこそこ高級なレストラン―上のフロアは、今晩貸し切りだ。</p><p>おお！　みんな、主役のご到着だぞ！</p><p>階段を登ると、商会関係者はすでに集まっているようだった。ホランドがいち早くケイたちの来訪に気づき、皆に知らせる。小綺麗におめかししたエッダと、以前隊商護衛で同道したダグマルの姿もあった。</p><p>ケーイ、聞いたぞ、とんでもない大活躍だな！　かーっ俺もあんときサティナにいればなぁ、一緒に行きたかったぞヴァーク村に！</p><p>ダグマルがバシバシとケイの背中を叩いてくる。ヴァーク村から救援依頼が届いた当時、ダグマルは別の隊商を護衛していたため不在だったのだ。もしダグマルがいたら、荷馬車の護衛はオルランドではなく、ダグマルとその仲間たちになっていたかもしれない。</p><p>（だが、そうすると最後のゴーダンの援護はどうなっていたかな？）</p><p>ダグマルは剣と短弓を使う。それに対しオルランドは短槍使いなので、ゴーダンが槍を借りることができた。もしもオルランドがいなかったら、ゴーダンはどうしたのだろう？　ちょっとした違いで、戦闘の流れが大きく変わっていたかもしれない―</p><p>残念だったな。旦那も一緒に来てたら、“大熊”と”森大蜥蜴”、 深部《アビス》 の双璧の討伐をどっちも見届けられたのに</p><p>アイリーンがからかうように言うと、 そうそう、そうなんだよー！ とダグマルは悔しげに地団駄を踏んだ。</p><p>本っ当に、惜しいことをした！　どんな風だったのか、あとで絶対に話を聞かせてくれよな！　な！</p><p>お兄ちゃん！　お帰りー！</p><p>そんなダグマルをよそに、今度はエッダがトテトテと駆け寄ってきて、ケイに抱きつく。</p><p>ただいま。といっても、あっという間だったかな</p><p>待ってるこっちは気が気じゃなかったけどねー！</p><p>すりすりと腹に頬ずりしていたエッダだが、ふと、その背後、モンタンたちに連れられてきたリリーの存在に気づく。</p><p>あ……どうも</p><p>こんばんは……</p><p>同じ年頃の女の子ということで、互いに興味を持ったようだ。</p><p>（あれ、顔を合わせるのは初めてか？）</p><p>よくよく考えてみれば、ホランドたちがサティナに定住し始めてしばらく経つが、仕事でモンタンと顔を合わせることはあっても、家族ぐるみの付き合いはなかった気がする。</p><p>わたしエッダ。あなたは？</p><p>リリー、です</p><p>リリーは塾に通うのもやめて引きこもりがちだった。アイリーンと魔術の修行（というか勉強）を始めて少しは明るくなってきたものの、出会った当初の快活さは見る影もない。</p><p>（新しく友達ができたら、何か良い変化があるかもな）</p><p>そんなことを考えつつ、商会関係者たちに挨拶する。ホランドのようによく世話になっている者から、顔見知りではあるが名前までは知らない者まで。皆、等しく今回の一件で奔走してくれた人たちだ―ダグマルを除いて。</p><p>（ってかダグマル、今回は何もしてないじゃないか）</p><p>にもかかわらず、ちゃっかり打ち上げに潜り込んでいる要領の良さに、遅れて気づいたケイは、挨拶回りの最中、吹き出してしまわないよう笑いを噛み殺していた。</p><p>おっと、お待たせしてしまったかな？　申し訳ない</p><p>と、新たに階段を登ってくる人影があった。フードを目深にかぶった二人組。</p><p>コウ！　イリスも来れたか</p><p>やあ。二人とも無事だったようで何より</p><p>えへへ。あたしも来ちゃった！</p><p>コウはフードを取っ払ったが、イリスはかぶったままだ。顔よりも、頭の豹耳が見られたらまずいので、こういうときは不便だろう。</p><p>俺たちも今来たところだ。問題ないさ</p><p>それは良かった</p><p>揃ったみたいだね。それでは始めよう！</p><p>ホランドが音頭を取り、皆に酒が振る舞われる。湯気を立てる料理―仔羊の丸焼きやシチューパイ、ローストビーフなどが大皿に盛られて運ばれてきた。</p><p>では―英雄たちから一言！</p><p>さて食事にありつこうか、と思っていた矢先、ホランドから水を向けられ、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。</p><p>あ～……</p><p>コホン。まずはコーンウェル商会の皆様方に―</p><p>こういう咄嗟の英語スピーチが苦手なケイのために、アイリーンが口火を切って、少し時間を稼いでくれる。</p><p>―と、まあ、あまり長くなっても悪いのでこのへんで。ケイは？</p><p>ん、共に戦ってくれた戦友たちに。影から支えてくれた関係者の皆に。そして、俺たちを見守り、導いてくれた偉大なる精霊たちに―</p><p>隙間風がランプの灯りを揺らし、影が蠢き、コウの吐息が冷気で白くなる。</p><p>―最大限の感謝を。乾杯！</p><p>乾杯！！</p><p>そうして賑やかな宴が始まった。</p><p>†††</p><p>それから夜遅くまで飲み明かした。ケイは肩の力を抜いてコウと日本語会話を楽しみ、アイリーンは浴びるように高い蒸留酒を呑みながら、武勇伝を語って皆を楽しませていた。一番楽しんでいたのは、アイリーン本人だろうが。</p><p>翌日、珍しく羽目を外して呑みすぎたマンデルがダウンしてしまったため、タアフ村への帰還は延期し、体調の回復を待ってからさらに次の日、サティナを出発した。</p><p>ケイとアイリーンは、マンデルに同行することにした。マンデルは必要ないと固辞したが、現金や貴重品を多数抱えていることから、護衛としてついていくことにしたのだ。マンデルの娘たちに、父親を無事に帰すと約束した義理もある。家に帰るまでが大物狩りだろう。</p><p>当然、タアフ村でも歓迎と祝いの宴が開かれ、ケイたちも招かれることとなった。マンデルの娘二人が、安堵のあまり号泣していたのが印象的だった。</p><p>いやー……今回は色々あったなぁ</p><p>タアフ村からサティナに戻る道中、アイリーンが感慨深げに呟いた。</p><p>全くだ。盛りだくさんだったな……</p><p>しみじみと、ケイも頷く。</p><p>少し肌寒い晩秋の草原に、サスケとスズカの蹄の音。</p><p>今更言うのも何だが……けっこう、危ない橋だったな</p><p>違いない</p><p>ほんの少しでも運が悪ければ、ケイもアイリーンも死んでいたかもしれない。死者もなく、大した怪我もなく、たった数人で”森大蜥蜴”の番を撃破した― DEMONDAL の中でさえ聞いたことがないような偉業だ。</p><p>で、ヴァーク村からまた助けを呼ばれたらどうする？　ケイ</p><p>揺れる馬上、アイリーンが振り返り、いたずらっぽい笑みで尋ねてくる。</p><p>う～～～～～ん……</p><p>ケイは難しい顔で唸った。人々を助けるために、“大物狩り”専門の狩人として活動したい―それが夢だったが、正直なところ、今回の一件はかなりキツかった。</p><p>…………当分、遠慮したいな</p><p>あっはっは。オレもー！</p><p>屈託なく笑うアイリーン。まあ、しばらくはのんびり過ごそうぜ、と気楽な調子で言う。ケイも全く同意見だった。大物狩りはこりごりだ―</p><p>家に帰って、いつもの日々が戻ってくる。</p><p>季節は巡り、サティナにも初雪が降った。</p><p>この世界で初めての冬だ。皆が冬ごもりの準備を始めている。</p><p>ケイたちは、主に魔道具の研究開発をしながら、のんびりと過ごしていた。</p><p>なあ、ケイ―ちょっと、相談があるんだが</p><p>ある日、アイリーンが神妙な顔で話しかけてきた。ストーブで温めて使うタイプのアイロンを応用したヘアドライヤーの試作品をいじっていたケイは、改まった態度のアイリーンに姿勢を正す。</p><p>どうしたんだ？</p><p>んー。その、な。……アレが、来ないんだわ</p><p>ぽんぽん、とアイリーンが自分の腹を軽く叩いた。</p><p>―</p><p>ケイの思考は止まった。</p><p>……それは、その……アレか？　月の</p><p>うん</p><p>…………つまり</p><p>アイリーンの顔と、腹部を交互に見比べたケイは、ガタッと立ち上がる。</p><p>子供が……！？</p><p>……まだわかんないけど、その可能性が……うん……</p><p>少し頬を赤らめたアイリーンは、ぺし、と自らの額に手を当てた。</p><p>なんかこの頃ちょっと……微熱があるみたいな感じがして、だるいし。風邪かなーって思ってたんだけど、アレも来ないから。キスカとかにも相談してみたんだけど、その、やっぱりそういうことじゃないかって……</p><p>…………！</p><p>検査薬などないので、確定的ではないが。</p><p>そうか……！</p><p>同様に、現代地球のような避妊具もなかったわけで。それでいて愛は育んでいたのだから、当然―</p><p>……嬉しいよ</p><p>ケイはアイリーンをギュッと抱き寄せた。実感は湧かないが、それでも、素直に嬉しかった。</p><p>……良かった</p><p>アイリーンもホッとしたように肩の力を抜いて身を預けてくる。しばらくそうしていたが、顔を見合わせて、なんだか互いに気恥ずかしくなった。</p><p>そうか……俺、父親になるのか……</p><p>やはり、どう考えても実感が湧かない。</p><p>うーん。オレも、母親か……うーむ……！</p><p>アイリーンは再び頬を赤らめ、両手で顔を覆う。</p><p>こっちの世界だと普通なんだけど……地球基準だと、年齢的にちょっと早すぎる気がしないでもない……！</p><p>わかる。その気持ちはめっちゃわかる</p><p>不安だーーーーー！</p><p>ううむ、色々準備しないとなぁ</p><p>とりあえず身近に、子持ちのキスカがいて色々相談できるのは助かる。</p><p>……赤ちゃん、か……</p><p>ケイは身をかがめて、アイリーンのお腹に耳を当ててみた。</p><p>バーカまだそんな時期じゃないって！</p><p>はっはっは</p><p>コツンとアイリーンに頭を小突かれて、ケイは笑う。</p><p>―地球では、骨と神経の塊になって死ぬしかなかった自分が。</p><p>父親になれるのか、と。</p><p>しかし、そうなるとアイリーンも断酒しないとだな</p><p>うぐぅッ！　やっぱ……そうだよなぁ……そうなるよな……</p><p>……まあ、俺も一緒に禁酒するから……</p><p>―ケイはそこまで酒好きじゃないだろぅ、もぉぉぉ！</p><p>ぬあ～と呻きながら、ふざけてケイの胸をポカポカ殴ってくるアイリーン。</p><p>はっはっはっは</p><p>オレには笑いごとじゃないんだよぉぉ</p><p>大して痛くもない打撃を受け止めながら、ケイは、幸せを噛み締めていた―</p><p>が。</p><p>それからさらに数日後のことだった。</p><p>寒い朝だった。</p><p>まだ夜が明けて間もない、ようやく空が白み始めたころ。</p><p>蹄の音。それも複数。</p><p>目を覚ましたケイは、傍らで眠るアイリーンをよそに身を起こす。</p><p>家の前が騒がしい。</p><p>ダン、ダン！　と遠慮なくドアが叩かれた。</p><p>……なに？</p><p>アイリーンも目を覚ます。</p><p>わからない、と答えたケイは、着の身着のまま外へ出た。</p><empty-line/><p>―そしてそんなケイを出迎えたのは。</p><p>ケイチ＝ノガワだな！</p><p>フル装備の騎士が数名。さらに、豪奢な装束に身を包み、竜の紋章が描かれた旗を掲げて馬に跨る壮年の男。</p><p>……そう、だが</p><p>突然の事態に困惑しつつ、どうにか答えるケイ。</p><p>よし。ケイチ＝ノガワ！　これより、公王陛下のお言葉を伝える！！</p><p>懐より書状を取り出し、壮年の男が馬上でふんぞり返る。</p><p>それに合わせて、騎士たちが剣を抜き、儀仗兵のように直立不動の姿勢を取った。</p><p>は？</p><p>公王？　お言葉？　―呆気に取られて立ち尽くすケイ。</p><p>…………</p><p>しかし壮年の男は、何やら非難がましい目でこちらを見るばかりで一向に話し出す気配がない。</p><p>……ひざまずけ、ひざまずけ</p><p>見かねた騎士が、兜の下、直立不動のまま小声で伝えてきた。</p><p>ハッと我に返ったケイは、慌てて跪く。そして思い出した。武道大会の表彰式を前に少しだけ教わった礼儀作法。</p><p>王の言葉は、最大の礼をもって拝聴せねばならない―</p><p>―オホン。『余、エイリアル＝クラウゼ、大精霊の加護により、アクランド連合公国のウルヴァーン公にしてアクランド大公は―』</p><p>ようやく正しい姿勢を取ったケイに、咳払いした使者が書状を読み始める。</p><p>『―きたる、ディートリヒ＝アウレリウスの成人に際し、大公の位をこれに譲るものとする』</p><p>ディートリヒ―武闘大会でケイを表彰した、公王のただ一人の孫。</p><p>『そして此度の譲位を祝すため、古(いにしえ)の継承の儀を、ここに執り行う』</p><p>王の言葉―それは絶対のものである。決定事項であり、至上命令である。</p><p>『ケイチ＝ノガワよ』</p><p>そこに民草の意志など介在しない―</p><p>『公国一の狩人として―』</p><p>『―“飛竜”狩りに馳せ参じよ』</p><p>はい！　というわけで 飛竜狩り 編が始まります。いつも感想、ポイント評価、にゃーん、大変励みになっております！　ありがとうございます！</p><p>カクヨムでも1話先行で連載中です。</p><p>次話 幕間. Monster</p><p>幕間. Monster</p><p>霧がかった、深い深い森の奥。</p><p>深部(アビス) と呼ばれ、只人の踏み入れることのない領域に、その古城はあった。</p><p>フフフン　フ～ン　フン　フフフン～♪</p><p>古城のそばの丘。肌寒く、お世辞にも過ごしやすい陽気とは言えなかったが、のんびりと草っぱらに寝転がり、鼻歌を歌う者が一人。</p><p>異形だった。</p><p>毛皮を荒く縫い合わせただけの、原始人のような服装。鋼のような筋肉がゴツゴツと張り出した体躯、全身を覆う鱗、鋭い手足の鉤爪―そして獰猛な爬虫類そのものの頭部と、たてがみのようにふさふさした金髪。</p><p>―怪物の名を、『バーナード』といった。草地に寝転がり、傍らでパチパチと燃える焚き火を木の枝でつつきながら、何やら上機嫌だ。</p><p>フフフン　オー　ダ　ピーポー♪</p><p>盛り上がってきたのか、鼻歌ではなく歌詞を口ずさみ始めるバーナード。それにしても酷いだみ声だ。かつて、とある世界で流行った曲を熱唱している―想像してみよう、今日という日のために生きる全ての人々を。天国もなく、地獄もなく、国も国境もない。何かのために殺し合ったり、死んだりすることもない―</p><p>バーナードは焚き火から木の枝を引き抜いた。</p><p>枝の先端に突き刺さっていたのは―スイートポテトに似た感じの芋。</p><p>想像してみよう、全ての人々が、平和に暮らしている―</p><p>ユッウ～ウウゥ～♪</p><p>俗に言う石焼き芋だった。焼き立てのそれを無謀にも手で掴み、 アチチッ とお手玉しながらも、二つに割る。美味しそうな黄色、スイートポテト特有の甘い香りとともに、ホカホカと湯気が上がった。</p><p>ハッハァ～よく焼けてやがる！　ユ～　メイセイ～♪　アイマ―</p><p>ご機嫌だな</p><p>歌いながらノリノリでかぶりつこうとしたところで、背後から声がかかる。</p><p>振り返れば、見上げるような大男が立っていた。</p><p>野性的な顔つき。筋骨隆々で、純粋に生物としての強さを感じさせる巨躯。圧倒的な存在感を放っており、ともすれば近寄りがたく感じてしまいそうだったが、その瞳には理知的な光があり、獣性と理性が同居しているような不思議な魅力を放っていた。また、肩には大人しい鴉を止まらせており、どこかユーモラスな雰囲気も漂わせている。</p><p>よォ、デンナー。オメーも食うか？</p><p>気さくに挨拶したバーナードは、芋の片割れを大男―デンナーに差し出す。</p><p>それが居候の態度か？　まあいい、もらおう</p><p>苦笑したデンナーは芋を受け取り、豪快にかぶりつく。</p><p>しばし、金髪の蜥蜴怪人と、肩に鴉を乗せた大男が無言で焼き芋を頬張るという奇妙な光景が繰り広げられた。</p><p>ところで、さっきの歌</p><p>ぺろりと芋を平らげたデンナーが、尋ねてくる。</p><p>初めて聴くメロディだった。故郷の歌か？</p><p>そうさ、流行ってたんだ。だいぶん昔にな</p><p>バーナードは素直に首肯した。デンナーは度々、こういった会話でこちらの素性を探ってこようとする。</p><p>俺の故郷だけじゃねェ、それこそ国を超えて大流行した。何十億もの人々がこの歌を聞き、口ずさんでいた時代があったのさ</p><p>なのでバーナードは、いつも、ただひたすら嘘(・)を(・)吐(・)く(・)こ(・)と(・)な(・)く(・)答えることにしていた。『元は人間だったが気づけば竜人(ドラゴニア)になっていた』『故郷はおそらく遠く離れている』『故郷の人口は十億を超える』『音の速さで空を飛ぶ乗り物がある』『誰もが肉体から精神を切り離し精霊のように振る舞える社会だった』―などなど。</p><p>それはありのままの事実だったのだが、あえて簡潔に、具体性に欠く語り口にしたことで、デンナーにとっては荒唐無稽な話に聞こえていたらしい。そのせいか、『元人間である』という一点以外は、バーナードが大ボラ吹きなのか、あるいははぐらかそうとしているとでも解釈しているようだった。</p><p>（―高度に発達した科学は魔法と区別がつかねェ、ってか）</p><p>VR技術など、この世界の住人からすれば想像の埒外だろう。高度なインフラに支えられた億単位の人口も、眉唾ものに違いない。ただ事実を語っているだけなのに、デンナーが疑ったり、呆れたりしている様子を、バーナードは密かに楽しんでいるのだった。</p><p>お前の故郷には、吟遊詩人の精霊とやらもいるんだったか。それは国を超えて流行りもするだろうよ</p><p>そう言って肩を竦めるデンナー。バーナードは何も答えず、ただフフンと鼻を鳴らすに留めた。</p><p>しかし、俺の耳が正しければ、平和だの何だのと言っていた気がするが</p><p>おゥよ。ラブ＆ピース、人類愛と世界平和を祈る歌だぜ。名曲だ</p><p>……お前みたいなやつは、そういうのを毛嫌いしてそうなもんだが</p><p>違うのか？　と首を傾げるデンナー。</p><p>いや？　そんなことはない。俺はむしろ平和を愛してるぜェ</p><p>お前が……？</p><p>あァそうさ。平和とは、不断の努力と幸運なくして成立しない、脆く、儚く、愛おしいものだ―</p><p>蜥蜴怪人の口の端が釣り上がり、鋭い歯が剥き出しになった。</p><p>―だからこそブチ壊したくなる</p><p>黄色い瞳を爛々と輝かせて。</p><p>ハハハッ、この人でなしめ</p><p>見たらわかるだろ？</p><p>思わず吹き出すデンナーに、悪びれる風もなくおどけるバーナード。</p><p>争(・)い(・)ば(・)か(・)り(・)の(・)世(・)の(・)中(・)は(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わねェか？　何にでもメリハリが必要なンだよ</p><p>その気持ちはわからんでもないが、だからといって弱い者を無意味に殺して回って楽しいか？</p><p>おそらく、バーナードが壊滅させたラネザ村のことを言っているのだろう。しかし純粋に興味本位の質問らしく、そこに非難するような色はなかった。</p><p>楽しいさ。強い奴と戦うのとは、また別の楽しみがある。俺は、平和を、幸せを、かけがえのないものを、尊いものを、台無しにするのが好きなんだよォ</p><p>ラネザ村での自らの凶行を思い出したか、バーナードは興奮に背筋を震わせる。</p><p>もちろん、弱っちいヤツのさ(・)さ(・)や(・)か(・)な(・)抵(・)抗(・)もスパイスの一つだぜェ。ただ、同じことを延々繰り返すだけじゃあつまんねェ、そのうち飽きちまう。だからメリハリが必要ってわけだ―それと一つ訂正しておきてェんだが、俺は別に殺しが好きってわけじゃねェ。最大限にブチ壊したら結果的に死んじまうってだけで</p><p>なるほど。熱しやすく冷めやすい破壊の美学というわけか</p><p>デンナーはゴワゴワとした顎髭を撫で、得心がいったという風に頷いた。その、さもわかったかのような態度が癪に障ったバーナードは、逆に聞き返す。</p><p>……そういうオメーはどうなんだよ、デンナー。オメーは強いやつと戦うの、好きそうだよなァ</p><p>ぬぅ、まあ否定はせんな。強敵と対峙すれば血が滾るのは事実だ……ただ戦いそのものが好きかと問われると、違うな</p><p>ほう？</p><p>その戦いから何が得られるか―強敵との戦いは、何らかの教訓をもたらすことが多い。相手そのものが興味深く、面白いこともある。お前みたいにな</p><p>ニッ、と不敵に笑うデンナー。打ち負かされた側であるバーナードは、ますます不機嫌になってフンと鼻を鳴らした。</p><p>そして俺は欲張りでもあるからな。そういう面白い奴がいると、つい手勢に加えたくなっちまうわけだ</p><p>ああそうかい。お陰でこうして食っちゃ寝していられるんだ、ありがたいこった</p><p>焚き火に枝を突っ込んだバーナードは、また新たに焼き芋を取り出した。今度は爪先で器用に皮を剥ぎ取り、デンナーに差し出すでもなく一人で食べ始める。</p><p>ハッハッハッハ！　そう不貞腐れるなよ</p><p>デンナーは大笑いしながら、バーナードの背中をバシンと叩いた。焼き芋を咀嚼しながら、ギロリと剣呑な目を向けるバーナード。普通の人間ならひと睨みされただけで震え上がってしまいそうな眼光だったが、デンナーは動じない。</p><p>―残念ながら、食っちゃ寝の生活もそろそろ終わりだ</p><p>その言葉は、バーナードの興味を引いた。</p><p>……というと？</p><p>でかい仕事がある。お前にも当然働いてもらうからな</p><p>ほーん。まあ構わねェけどよ、細かいのは苦手だぜ？　誰彼を守れとか、逆に誰彼だけを殺せ、とかはなァ。それに自分でも言うのもなんだが、俺のこの容姿で参加できンのか？</p><p>できるとも。好き勝手に暴れて、殺し回って、呑気に過ごしている奴らを大混乱に叩き落とす。そんな怪物を探していたんだ、おあつらえ向きじゃないか？</p><p>―ハッ。なんだそりゃあ</p><p>蜥蜴面でもそれとわかる、満面の笑み。</p><p>俺様にぴったりじゃねえか</p><p>だろう？　平(・)和(・)す(・)ぎ(・)る(・)世(・)の(・)中(・)も(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わないか？</p><p>デンナーの問いに、バーナードは牙を剥き出しにした。</p><p>はハァ♪</p><p>101. 出陣</p><p>とうとう出発の朝が来た。</p><p>公国の地にも、厳しい冬が訪れつつある。</p><p>戸口に立ち、朝日を睨むケイの吐息は白い―</p><p>ケイ……</p><p>振り返れば、ケープを羽織ったアイリーン。</p><p>青い瞳が、ケイを見つめて揺れていた。そっと目を伏せる。伸ばした手が、ケイの袖を掴む。</p><p>強く―関節が白く染まるほど指先に込められた力が、何よりも雄弁にアイリーンの心情を物語っていた。</p><p>……アイリーン</p><p>ケイはただ、その手に、自らの手を重ねることしかできなかった。冷え切った指先に、せめて別れのときまで、わずかなぬくもりを与えることしか―</p><p>“飛竜”狩りに馳せ参じよ、との王命からはや一ヶ月。</p><p>サティナ郊外には、ウルヴァーンとキテネの兵団が集結しつつある。本日、そこにサティナの戦力も合流し、飛竜狩りの舞台たる辺境―鉱山都市ガロンを目指して東進する予定だ。</p><p>兵団の総指揮官は、公子ディートリヒ＝アウレリウス＝ウルヴァーン＝アクランド。今年で成人を迎え、１６歳という若さで次期公王として即位する。そして今回の飛竜狩りは、他ならぬ彼の箔付けのためのものだった。</p><p>実績作り、軍事力の誇示、他都市への牽制、軍部のガス抜き、領土拡大および辺境開拓の一環―政治的な思惑はさておき、最大の問題は、ケイがそれに巻き込まれてしまうことだ。</p><p>『どうしても行かないと駄目か……？』</p><p>尊大な使者が去ってから、ケイが残された説明役の下級役人に力なく問うと、彼はギョッとして周囲をはばかるように見回した。</p><p>『……とんでもない、なんてことを言うんだ。大物狩りの英雄だか腕利きの魔術師だか知らないが、一市民が王の言葉に逆らえるわけないだろう』</p><p>お偉方に聞かれなくてよかった、と下級役人は額の汗を拭う。頼むから迂闊なことは口に出すなよ、と言わんばかりにジロッとケイを睨んだ役人は、こう続けた。</p><p>『公王陛下からの直々のご指名、子々孫々にまで語り継ぐ名誉と心得よ！　それに、ケイチ＝ノガワ殿。あなたは栄えある名誉市民となったときに、誓ったはずだ。公王陛下と都市ウルヴァーンへの忠誠を』</p><p>―詰まるところ、ケイもアイリーンも、現代人だったというわけだ。</p><p>十全に理解できていなかった。封建主義的な社会における、『忠誠を誓う』ことの重みを、真の意味を。</p><p>これまで名誉市民として、少なからず権利を享受してきた。それに付帯した義務(ツケ)が、今になって回ってきた。それだけの話だ……</p><p>アイリーンは、荒れた。</p><p>『なんでケイがそんな目に遭わなきゃいけないんだ！！』</p><p>飛竜狩りに徴集された、と告げた直後は呆然としていたが、すぐに激怒した。何に対しての怒りか。公王か、その使いか、それとも状況そのものか……</p><p>『逃げよう、ケイ！　むざむざ死にに行くようなもんだ。若造の箔付けのためなんかに、ケイが命を賭ける必要はない！』</p><p>アイリーンの主張は尤もだったが、ケイはゆるゆると首を振る。全てを放り出して逃げる―もちろん、検討した。</p><p>しかし、逃げるとしても、どこへ逃げる？</p><p>『アイリーン、俺たちは有名になりすぎた』</p><p>片や黒髪黒目の狩人にして、風の精霊と契約した魔術師。片や金髪碧眼の雪原の民で、影の精霊と契約した魔女。</p><p>地竜を相手取った伝説の狩りも、麻薬組織を壊滅させた大立ち回りも、吟遊詩人を介して公国全土に広がっている。こんな特徴的な二人組では、どこに逃げてもすぐに足がついてしまう。</p><p>かといって、国外に居場所があるかと問われると、難しい。アイリーンならば北の大地でも生きていけるが、馬賊のせいでケイは肩身が狭い。アジア系の顔つきは例外なく草原の民と解釈されるだろう。</p><p>“魔の森”近くのアレクセイの故郷の村なら、気心の知れたケイたちを快く受け入れてくれるだろうが、北の大地を横断する長旅になるし、第一、旅する間に冬が来る。</p><p>『家ごと凍りついて死ぬ』ほどの極寒の地を踏破する―あまりにも無謀。飛竜に挑む方がまだマシなくらいだ。</p><p>公国は駄目、北の大地も危険、となれば残された土地は何処だ……？</p><p>『それこそ、飛竜狩りが行われる東の辺境に隠れ住むか、港湾都市キテネから船で別の大陸を目指すくらいしかない……』</p><p>ゲーム DEMONDAL に設定のみ存在した『フォートラント』と呼ばれる大陸。現在の公国の民は、フォートラントを発った植民船団の末裔だ。今でもフォートラントとの交流は続いているが、外洋の巨大水棲生物のせいで沈む船はあとを絶たないという。</p><p>フォートラントへの船旅は、無事に海を渡れるかどうかの博打。かといって東の辺境は、豹人(パンサニア)や竜人(ドラゴニア)が数多く生息する危険地帯。</p><p>『それに……仮に逃げたところで、今みたいに豊かな暮らしは二度とできない』</p><p>現状の安定した生活は、得難いものだ。特にこの世界においては。</p><p>公国で有数の大都市に住まいを構え、国内でも指折りの規模の商会に支援されながら、気ままに魔道具を作成するだけで食って行ける。使用人のおかげで家事はしなくていいし、最低限のインフラも整っている。飢える心配もない。</p><p>何より、アイリーンのお腹の子に、これらの資産を遺してあげられる―</p><p>そう考えたとき、逃げるという選択肢は、ケイの中で消えた。</p><p>『俺には……できない。今さら全てを捨てることなんて』</p><p>仮に自分が野垂れ死んでも、アイリーンは食いっぱぐれないし、子供にだって遺すものがある。</p><p>ケイはそう考えたが―</p><p>『暮らしなんてどうだっていい！』</p><p>アイリーンは違った。</p><p>『そんなもん、命に比べたらはした金だ！　どこに移り住んだって、生きてさえいればやり直せる！　ケイが帰ってこないのが一番イヤだよ！　死んだら……死んだら、お終いなんだ、ケイ……！！　頼む、頼むから……』</p><p>アイリーンの悲痛な叫びは、徐々に勢いを失い、力なき懇願へと変わった。ケイの胸板に顔をうずめ、『行かないでくれ……！』と消え入るような声で。</p><p>『アイリーン……』</p><p>気持ちは痛いほどにわかる。</p><p>だが……それでも、ケイは……</p><p>†††</p><p>話し合いは平行線だったので、コーンウェル商会へ相談に行った。</p><p>『飛竜狩りについては聞いたよ……ついさっき、ね』</p><p>商談室のソファに腰掛けながら、ホランドは太った腹をポンと叩いた。行商を辞め、本部つき商会員になったホランドは、ケイたちの魔道具販売で辣腕を振るい、この頃は一流商人としての貫禄を醸し出すようになっていた。</p><p>が、今日ばかりは少しやつれて見える。</p><p>『我らが商会も、もちろん飛竜狩りを支援するけど、ケイくん個人用の物資についても役人と話はついたよ。糧秣(りょうまつ)に関しては心配しなくていい』</p><p>飛竜狩りに同道する場合、ケイの懸案事項の一つがサスケの秣(まぐさ)だった。これまでの旅路では、文字通り道草を食わせたり、宿場街で調達する分で事足りたが、今回の目的地は東部の辺境だ。</p><p>公国は東に行くにつれ草原から荒原へと変わっていき、さらに大人数の兵団がともに移動することを考えると、現地調達では絶対に足りない。秣をかなりの量、事前に用意しておかないとサスケは飢え死にしてしまう。</p><p>行軍速度が非常に遅いであろうことを鑑みれば、ケイが徒歩でついていく手もあったが、それではケイの強みである騎射が活かせなくなる。</p><p>件の下級役人にも『歩いてくりゃいいじゃん』という旨のことを言われたが―おそらくは調整を面倒くさがったのだ―飛竜を相手取るには機動力が欠かせないと、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩った経験を混じえながら滾々と語った結果、『じゃあ後でコーンウェル商会と交渉してくるわ……』と根負けしたわけだ。</p><p>『あの役人が怠け者じゃなくて良かった』</p><p>『すこぶる働き者だったさ。話はすぐにまとまったよ。商会が追加で供出する分には、いくらでもどうぞ、とのことだった』</p><p>ホランドは肩をすくめる。要は、コーンウェル商会が独自に支援する分には、国の財布は痛まないので好きにしろ、ということだ。</p><p>役人も言っていたが、今回の狩りは成功報酬だ。最低限の食事などは軍が手配するものの、快適な旅路を望むならば諸々の経費は自腹となる。</p><p>目覚ましい活躍をした者には、帰還後にそれ相応の名誉と褒美を。</p><p>ただし労災は下りない―死んだらそれまでだ。</p><p>『ありがとう。苦労をかけることになる』</p><p>『なに。我が商会の腕利き魔術師を失うわけにはいかないからね』</p><p>ケイとホランドは、ぎこちなく微笑みあった。</p><p>『……なあ、旦那。どうしても行かないと駄目なのか？』</p><p>と、黙りこくっていたアイリーンが、縋るような目で尋ねる。</p><p>ホランドは困惑したように口をつぐむ。ケイは、アイリーンが自分と同じような言い方をしたのが可笑しくて、小さく笑った。半ば諦めたように。</p><p>『…………せめて、都市からの要請、くらいならばまだ、辞退する手もあったかもしれない。……だけど今回は、……王命だ。しかも名指しでの』</p><p>ホランドは苦しげに言葉を絞り出す。『とんでもない！』などと声を荒らげないあたり、これでも精一杯アイリーンの心情に寄り添った回答と言えるだろう。</p><p>『あまり、私の立場から無責任なことは言えないが』</p><p>沈痛の面持ちのアイリーンに、ホランドは慌てたように言葉を付け足した。</p><p>『先々代の陛下の飛竜狩りを思えば、ケイくんはそれほど心配しなくてもいいんじゃないかと思うんだ』</p><p>『ほう』</p><p>『……というと？』</p><p>ケイもアイリーンも、身を乗り出す。</p><p>『基本的に、ほとんど軍が矢面に立つんだよ。少なくとも先々代の狩りでは、告死鳥の魔術師と斥候が飛竜を一頭だけ釣って、魔術兵団と攻城兵器でタコ殴りにしたそうだ。従軍した兵士と、後方の支援部隊にはほとんど被害が出なかったらしい―』</p><p>対飛竜戦術はゲーム内のそれとは大差ないようだったが、ホランドの話を聞く限り、どうやら投じられるリソース量が桁違いだった。</p><p>具体的には、魔術師及び魔道具の数。</p><p>数百人単位で、魔術師たちが一斉に術を行使する。これはゲーム内では見られなかった光景だ。</p><p>ゲームでは、周年イベントの飛竜狩りはお祭り騒ぎのようなもので、数千人の廃人プレイヤーたちが一堂に会し飛竜に挑んだものの、その中で『魔術師』と呼べるプレイヤーはごくごく少数に過ぎなかった。</p><p>なぜかと言うと、飛竜を倒したあとは素材を巡るバトルロイヤルになだれ込むのが恒例だったため、ほとんど全員が『失っても怖くない』キャラ＆装備を選択していたからだ。</p><p>その点、魔術師は触媒やら魔道具やら高価なアイテムを所持していることが多く、火事場強(・)盗(・)の被害に遭いやすい。１周年のイベントではそこそこ見かけた魔術師プレイヤーも、翌年には開き直って腰布に棍棒のみの蛮族スタイルで参戦していたくらいだ。</p><p>『百人単位の魔術師、か……』</p><p>個々の力量はゲームの廃人より劣るだろうが、その数は質を補って余りある。極めて強力に統率された兵団がどれほどの威力を発揮するか、冷静に考えれば、ケイたちもおぼろげに推察することはできた。</p><p>―案外、いけるか？</p><p>魔術師がどのような精霊と契約しているか、また使用される魔道具がどの系統のものかにも依るが、一般的な契約精霊である”妖精”の眠りの術も、百人単位で重ねがけした場合は飛竜の抵抗(レジスト)を十分に打ち破れるのでは、などと考えるうちに、ケイも少しばかり前向きになってきた。希望的観測の感は否めなかったが。</p><p>『主役はあくまで兵団だから、ケイくんの出番は……正直、自分から前に出ない限りないんじゃないかなぁ。単騎で”森大蜥蜴”を二頭相手取るよりは、よほど安全だと私は思うけどね』</p><p>ホランドの遠慮ない物言いに、思わず苦笑する。</p><p>『そういう意味だと、ケイくんより、お友達の”流浪の魔術師”殿の方が危ない立場なんじゃないか。……彼はまず間違いなく、サティナの軍団に組み込まれるだろうから。最前線だよ』</p><p>そう言って、ホランドは物憂げに小さくため息をつく。</p><p>『あ～……』</p><p>ケイは、同郷の日系人の顔を思い浮かべた。サティナの領主のもとで厄介になっている彼は、なるほど、お誂え向きなことに氷の魔術師だ。飛竜狩りにも引っ張り出されるに違いない―困り顔が目に浮かぶようだった。</p><p>―結局、アイリーンは納得したとは言い難かったが、ケイたちは少しばかり気を取り直して商会を辞した。</p><p>『……なあに、心配いらないさ。アイリーン』</p><p>帰り道、ケイはあえて気楽な調子で言う。</p><p>『いざとなったら……俺たちには切り札がある』</p><p>トン、と胸元を叩いた。</p><p>服の下、首からチェーンで吊り下げているのは―飾り気のない指輪。</p><p>『本当にヤバくなったら、この”ランプの精”にお願いするよ』</p><p>一つだけ、何でも願いを叶えてくれるという、“魔の森”の大悪魔に。</p><p>『だから、大丈夫だ。俺(・)は(・)絶(・)対(・)に(・)生(・)き(・)て(・)帰(・)る(・)』</p><p>アイリーンの手を引きながら、ケイはニッと笑ってみせた。</p><p>『…………うん』</p><p>アイリーンも小さく笑ってうなずく。</p><p>それでも彼女の手は、可哀想なほどに震えて、冷たくなっていた―</p><p>†††</p><p>あの日の指先を思い出しながら、ケイはアイリーンの手を握りしめる。</p><p>あれから、またたく間に時間が過ぎ去っていった。それでいて、頼りないロウソクの火が、ジリジリと芯を焦がしていくかのように、気が気でない一ヶ月だった。</p><p>ほんの僅かでも、ぬくもりを与えられただろうか。残せて行けるだろうか。</p><p>それを確かめるより先に、冬の到来を告げる風が熱を奪っていく。</p><p>カァン、カァンと遠くで鐘が鳴る。</p><p>出陣のときが近いことを知らせる鐘の音が。</p><p>商会の使用人が、厩からサスケを連れてきた。 今日も寒いね とばかりに鼻を寄せてくるサスケを撫で、鞍に荷物を載せる。矢筒。携帯食料。飲水の革袋。寝床にもなる毛皮、などなど……。</p><p>……行かなきゃ、な</p><p>無言のアイリーンとともに道を行く。</p><p>左手でサスケの手綱を引き、右手はアイリーンとつないだまま。指と指を絡めて、しっかりと握りしめる。恋人つなぎと呼ぶには、それはあまりに切ないものだった。</p><p>昨夜は、別れを惜しんで語り明かした。</p><p>それでもまだまだ語り足りなく感じる。</p><p>なのに、今は言葉が出てこない。</p><p>傍らのうつむきがちなアイリーンを見るに―彼女もどうやら、同じだった。</p><p>飛竜狩りに馳せ参じるんだってな！　頑張れよ！</p><p>武勇伝、楽しみにしてるぞー！</p><p>無事に帰ってこいよ、英雄！</p><p>道端で、顔見知りとなった町の住民たちが声をかけてくる。</p><p>ケイは少し硬い笑顔で、それに応えた。</p><p>ケイさん……どうか、ご無事で</p><p>お兄ちゃん、気をつけて、ね！</p><p>木工職人のモンタンと妻のキスカ、その娘リリーも、街の正門にケイを見送りに来ていた。</p><p>ありがとう。……行ってくるよ</p><p>モンタンと握手を交わし、リリーの頭を撫でてから、改めて向き直る。</p><p>アイリーン。</p><p>世界で一番、愛しい人。</p><p>言葉もなく、二人は抱きしめ合い、口づけを交わした。</p><p>思えば―この世界に来てからは、いつも一緒だった。</p><p>片時も離れずにいたい。その気持ちは今も変わらない。</p><p>互いが、互いのいない日々を想像できない。</p><p>それなのに、</p><p>ケイは行く。</p><p>アイリーン</p><p>その頬に手を添えて、名前を呼んだ。</p><p>……行ってくるよ。必ず無事で戻る</p><p>アイリーンは、愛しげにケイの手に頬ずりして、頷いた。</p><p>……待ってる。絶対に待ってるから</p><p>ケイの緊張をほぐすように、微笑みを浮かべて。</p><p>……これほど、離れがたく感じたことはない。</p><p>だが、ケイは手を離した。</p><p>ブルルッ、といななくサスケに、颯爽とまたがる。</p><p>これ以上の迷いを振り払うように。</p><p>横腹をポンと軽く蹴ると、忠実な俊馬は滑るように駆け出した。</p><p>サティナの城門を抜けると―視界が一気にひらける。</p><p>朝焼けを浴びて輝く草原が、風にそよいで波打っていた。</p><p>そこに、公国の赤い旗がはためく。</p><p>おびただしい数の軍勢が、展開している。</p><p>ドン、ドンと太鼓が打ち鳴らされ、高らかにラッパの音が響いた。</p><p>巨獣が目覚めるかのごとく、軍勢は緩やかに動き出す。</p><p>ケ―イ！！</p><p>背後から、かすかな叫び声。</p><p>弾かれたように振り返れば、アイリーンが手を振っていた。</p><p>ケイの目は、二人の距離を物ともせず、しかと捉える。</p><p>青い瞳から溢れ出した涙が、風に散らされていく。</p><p>わななく唇から漏れる言葉は、もはや意味をなさない。</p><p>だが―これ以上ないほど、気持ちは伝わってきた。</p><p>せめて、己の心も届くように。</p><p>必ず戻る</p><p>ぐっと手を掲げてみせ、ケイは前へ向き直った。</p><p>公国の歴史に刻まれる、飛竜狩りが―</p><p>ここに、始まった。</p><p>飛竜狩り編、開幕。</p><p>102. 合流</p><p>（これほどの人数が行軍してるところは、初めて見たかもしれないな）</p><p>パッカパッカとサスケを駆けさせながら、ケイは胸の内でひとりごちた。</p><p>ゲーム内でもイベントや傭兵団(クラン)同士の戦争で大勢のプレイヤーが集まることはあったが、どんなに多くても千人がせいぜいだった。</p><p>対して、眼前に集結した軍勢は万単位だ。統一された装備で隊列をなし、歩みを進めるさまは相当な威圧感がある。街道沿いには近隣住民が見物に出ていて、お祭り騒ぎの様相を呈していた。</p><p>飛竜狩りに出陣する公国軍―きっとこの光景は絵画として残され、後世に語り継がれていくのだろうな、とケイは他人事のように思う。</p><p>そしてこのとんでもない大所帯は、とんでもなく動きが鈍い。この人員を飢えさせないだけの物資を運ぶ、大量の荷馬車が同道しているからだ。軍が自前で用意した補給部隊に加え、それを補助する形で大商会の馬車も続く。</p><p>勇ましく行軍する兵士たちも、そのほとんどが陣地構築のための工兵か、物資を守る警備兵だろう。彼らの任務は、飛竜を相手取る魔術兵団と、バリスタや投石機といった攻城兵器群を無事に現地まで送り届けることだ。工兵はそのまま戦う羽目になるかもしれないが。</p><p>（それにしてもちょっと多すぎるんじゃないか……）</p><p>いくらなんでも、こんな大所帯に襲いかかるならず者はいないと思うのだが―警備の人員はもっと減らせなかったのだろうか？　ひょっとすると、公国の支配に反感を抱く草原の民に対しての示威行動も兼ねているのかもしれない。</p><p>（だとしたらご苦労なことだ）</p><p>この飛竜狩りのためだけにどれほどの物資が消費されるのか、考えるだけで頭が痛くなりそうだ。それを可能とする公国の力を内外にアピールする目的があるのだろうが、いくら年若い次期公王の箔付けのためとはいえ、ケイとしては、費用対効果的にどうなんだと思わずにいられない。特に、お上の事情に巻き込まれた身としては―</p><p>そんなことを馬上でつらつらと考えるうち、竜の紋章が刻まれた赤い旗が見えてきた。ウルヴァーンの本隊だ。</p><p>最後尾あたりを歩く歩兵隊のうち、そこそこ偉そうだが、気位はそこまで高くなさそうな隊長格の兵士に声をかける。</p><p>狩人のケイだ。公王陛下の命により、飛竜狩りに馳せ参じた</p><p>自分で口に出しておいてなんだが、多分に皮肉な響きが混じってしまった。ここに来て不満たらたらな様子を見せるのは得策ではない、グッとわだかまる内心を飲み込んで誠実な公国市民の仮面をかぶる。</p><p>―義勇隊に合流したいのだが、何処か？</p><p>ケイのように民間から招集されたクチ、及び自分から名乗りを上げた物好きなんかは、義勇隊とやらにひとまとめにされているそうだ。</p><p>へえ、するとアンタが例の”大物狩り”か</p><p>兵士たちがケイにじろじろと無遠慮な視線を投げかける。</p><p>噂に違わぬ精悍さだな</p><p>そうか？　俺はもっとデカいかと思ってた</p><p>なあ、槍で森大蜥蜴の頭をかち割ったってのは本当か？</p><p>俺は背中に飛び乗って首をねじ切ったって聞いたぞ！</p><p>どんな噂だ。やいのやいのと勝手なこと言う兵士たちに思わず苦笑する。</p><p>義勇隊ならもうちょっと前の方だ。まあ見りゃわかる</p><p>そうか、ありがとう</p><p>隊長格に礼を言ってさらにサスケを進ませると、なるほど、統一された装備の中に、雑多な雰囲気を漂わせる一団がいた。</p><p>近寄ってみれば―なんというか、寄せ集めという表現がぴったりだった。山賊かと見紛うばかりの薄汚れた戦士がいるかと思えば、小綺麗な衣装に身を包んだ田舎の名士のような人物まで。大荷物だが武器を持たずローブに身を包んでいる奴は、まさかとは思うが流れの魔術師だろうか。狩人(どうぎょう)と思しき人員もちらほら。</p><p>そしてその中には、知っている顔もあった。</p><p>やあケイ、しばらくぶりだな。……来てくれて安心したよ</p><p>マンデル！</p><p>サスケから飛び降りて、馴染みの狩人の肩を叩く。</p><p>そう、他でもないタアフ村の狩人、マンデルだ。先の大物狩りでは生死を共にした仲間でもある。</p><p>マンデルも参加するらしい、とは聞いていたが……</p><p>関係者づてに話は聞いていた。しかし森大蜥蜴の狩りで精根尽き果てて、危険な目に遭うのはもう懲り懲り、と言わんばかりだったマンデルと、よりによって飛竜狩りの軍団で再会する羽目になるとは。</p><p>まあな。……恐れ多くも陛下の名において召集令状が届いたんだ</p><p>気まずそうなケイをよそに、マンデルは飄々と肩をすくめる。</p><p>例の武道大会。……繰り上がりではあるが、おれも一応入賞者だからな</p><p>ああ、そっちか……</p><p>大物狩りの一員として名を上げたから、ではないらしい。無理を言ってマンデルを大物狩りに巻き込んだケイとしては、自分が原因でないとわかって少し気が楽になったが、それにしても気の毒であることに違いはない。</p><p>とんだ災難―</p><p>いや、この物言いはまずい。</p><p>―とてつもなく名誉なことだな</p><p>まったく、違いない。……身に余るよ</p><p>ケイの意図を汲んで、マンデルも真面目くさって頷いた。</p><p>お話中のところ悪いが</p><p>と、雑多な集団にあって、正規兵らしい格好をした軍人が声をかけてくる。顔は悪くないが、どこか不貞腐れたような雰囲気のせいで小物臭く見える男だった。</p><p>ケイチ＝ノガワで違いないか？</p><p>ああ、そうだ</p><p>よし</p><p>男は羊皮紙をチェックして、くるくると丸めながら溜息をつく。</p><p>お前が来ないんじゃないかと気が気じゃなかった。英雄は遅れてやってくる、とはよく言ったものだな</p><p>……名残惜しくてアイリーンと見つめ合っていたが、どうやら自分が思っていたよりも時間が経っていたらしい、とケイは思った。できることなら何ヶ月だって見つめ合っていたかった。</p><p>申し訳ない</p><p>大目に見よう。王命通りに馳せ参じた、その事実が重要だ。……しかし、馬連れとはな。うちは糧秣(りょうまつ)の面倒までは見んぞ</p><p>男はサスケをじろりと一瞥して顔をしかめる。 人間って歩くのおそいよねー と言わんばかりにキョロキョロと周囲を見回していたサスケは、突然視線を向けられて戸惑ったように首を傾げている。</p><p>ああ、それに関しては心配ない。コーンウェル商会が提供してくれることになってる、一応証書もある</p><p>ケイが懐から書類を取り出して見せると、男は途中まで斜め読みしてあっさりと興味を失った。</p><p>そうか、気前のいい話だな。騎射の達人と名高い英雄殿、その活躍に期待しよう</p><p>踵を返し足早に去っていく男。しかし途中で思い出したかのように振り返り、</p><p>おっと。一応、隊長を務めるフェルテンだ。せいぜい皆とは仲良くして、問題は起こさないでくれよ</p><p>今度こそ足早に、隊列の前方へと姿を消した。</p><p>……なんというか、あまり部隊の運用に熱心なタイプではなさそうだな</p><p>無理もない。……こんな軍人でもない平民の寄せ集め部隊ではな</p><p>ケイの感想に、マンデルが笑った。</p><p>彼は正規の軍人のようだし、そりゃあやる気もあまり出ないだろう</p><p>堅苦しくても息が詰まるから、このくらいの方が楽だけどな俺は</p><p>おれもだ。……それはそうと、ケイ。キスカが手紙で言っていたが、アイリーンがご懐妊だとか。遅ればせながらおめでとう</p><p>ああ、……ありがとう</p><p>ケイは曖昧な笑みを浮かべた。</p><p>……身重の妻を置いて出征とは、ひと悶着あっただろうな</p><p>マンデルも困ったような顔をしている。</p><p>まあ、そうだが、王命だからな……</p><p>ケイのところには、直々に使者が来たんだったか。……まあ大変に名誉なことだからな、こればかりは</p><p>もちろん、喜び勇んで馳せ参じたわけだが</p><p>かくいうマンデルも、娘二人を残して来ている。ケイたちの心はひとつだった。</p><p>今から、凱旋のときが楽しみでならないよ</p><p>それはいいことだ。……ケイと一緒だと、五体満足に生きて帰られる気がする</p><p>マンデルは急に改まって、ケイをじっと見つめた。</p><p>飛竜が出てきても、ケイなら何とかしてくれるだろう？</p><p>……いやあ、うーむ……</p><p>ケイは唸りながら、手の中の朱い弓に視線を落とした。</p><p>“竜鱗通し”―理論上二百メートル先の竜の鱗をもブチ抜く、その絶大な威力から、この弓は銘打たれた。</p><p>（飛竜か……）</p><p>実際にやれと言われたら、どうだろうか……森大蜥蜴を超えるデカブツとはいえ、高速で飛び回るし、最強の防具の代名詞たる竜の鱗で全身が覆われている。ヤツらを仕留めるなら、ただ矢が刺さるだけではダメだ。鱗を貫通した上で、致命傷を与えねばならない。となると狙うのは、頭部か、臓器が密集した腹部か、……それにしても何本の矢を命中させればいいものか……</p><p>……飛竜は、流石にちょっと厳しいな</p><p>渋い顔でそう答えると、マンデルはクックックと低い声で笑みを漏らした。</p><p>ケイ。……普通の狩人はな、『飛竜を何とかしろ』と言われたら『無理』と即答するんだよ。それに対してケイは、しばらく悩んだ上で『ちょっと厳しい』なんて答える。この時点できみは尋常じゃない</p><p>マンデルはニヤッと笑った。</p><p>そして、それがこの上なく頼もしい</p><p>ばん、とケイの背中を叩くマンデル。彼にしては珍しいボディタッチだった。……極力いつもどおり振る舞っているが、やはり不安なのかもしれない。</p><p>そういえばケイ、鎧を新調したんだな</p><p>あ、ああ。そうさ、この間の森大蜥蜴でな。腕のいい職人に頼んだんだ―</p><p>ほぼ新品の革鎧を撫でながら、ケイはチラッと振り返った。</p><p>街道の向こう、サティナの街はちっとも―ケイの視力基準でだが―小さくなっていなかった。わかってはいたものの、遅々とした歩み。</p><p>これでは東の辺境ガロンまで、どれだけかかるかわからない。</p><p>（……長い旅になりそうだな）</p><p>そしてそれ以上に疲れそうだ。</p><p>願わくば、旅路の間に話題のストックが尽きませんように―気だるさをごまかすようにサスケの首をぽんぽんと叩いて、ケイは小さく溜息をつくのだった。</p><p>103. 親睦</p><p>やはりというべきか、飛竜討伐軍の歩みはあくびが出るほど鈍(のろ)かった。</p><p>ケイも最初から覚悟していたし、隊商護衛の経験からこんなもんだろうとは思っていたので、それほど苦痛には感じない。</p><p>ただ、大人数の行軍ゆえ、もうもうと舞い上がる砂埃には参った。</p><p>冬場で空気が乾燥していることもあって、視界が常に霞んでいるようだ。サスケも ねー、ちょっと空気わるくなーい？ と言わんばかりに、不満げに鼻をスピスピさせている。</p><p>視力が落ちやしないか心配だ……</p><p>少しでも埃が入らないように目を細めて、苦々しげに言うケイ。</p><p>大丈夫だ。……そのうち慣れる</p><p>対して、マンデルは達観した様子で肩をすくめる。</p><p>彼は従軍経験者だ。適度に諦めることを知っていた。</p><p>緩やかな起伏の丘陵の間を縫うようにして、ゆったりと蛇行しながら伸びる石畳の道―“サン＝レックス街道”。</p><p>寒風が吹き荒む中、兵士たちはぞろぞろと歩いていく。都市近郊ではまだ『軍隊の行進』の体をなしていたが、見物客がまばらになると気も緩み、その歩みはのんびりとしたものに変わっていった。</p><p>とても飛竜狩りに赴いているようには見えないが、目的地は遠いし、飛竜と出くわすのはまだまだ先のことだ。今の段階で怯えたり不安がったりする必要はない―気を張り続けていたら参ってしまうので、実際、兵士としては彼らは正しい。</p><p>ダラダラと歩き続けること数時間。昼食の休憩となった。出てきたのは堅焼きビスケットに薄いワイン、それに干し肉の欠片。</p><p>わびしい……としょんぼりするケイをよそに、マンデルは、</p><p>おっ、干し肉がついてるとは豪勢だな。……さすがは飛竜討伐軍</p><p>などと感心していて、色々と察するほかなかった。</p><p>長く続いた街暮らし（使用人つき）のせいで、自分はすっかり贅沢になってしまったらしい、とケイは忸怩たる思いになる。</p><p>このぶんだと夕食も期待できない、何か彩りを確保せねば……と草原に目を向けると、夏場ほどではないがウサギの姿がチラホラあった。</p><p>“竜鱗通し”と銘打たれたこの弓も、一番血を吸っているのはウサギかもしれない。</p><p>それから特筆すべきことはなく、夕暮れ前に行軍は止まり、野営の準備が始まる。夕食はそれぞれの部隊ごとに食材が配られ、自分たちでシチュー的なものを作る形式だった。</p><p>案の定、配給されたのは穀類や干し肉など非常にわびしい内容だったので―マンデルいわく、これは量的にも質的にもびっくりするほど豪勢―ケイは快く部隊の皆にもウサギ肉を提供した。これから数週間、下手すれば数ヶ月、同道する仲間たちなのだ。仲良くなるに越したことはない。</p><p>よっ、太っ腹！</p><p>さすがは公国一の狩人！</p><p>無論、義勇隊の面々も大喜びだった。</p><p>近隣の部隊より具だくさんになったシチューを味わいながら、焚き火を囲んで親睦を深める。</p><p>義勇隊に集まったのは、マンデルのように武闘大会で入賞した者や、弓や弩の扱いに秀でる退役軍人、高名な狩人、森歩き、流れの魔術師などで、出自は様々だがそれなりの人物が多かった。</p><p>一部、名声や実績のためだけに参加した者たちもいたが、彼らは実力がない代わりに相応の身分（といっても田舎の名士とか豪農の子とか）の出で、こちらもまともに話が通じる手合だ。</p><p>総じて、付き合いやすい者たちばかりだった。夕飯に彩りを添えてくれるケイに絡んでくるような無作法者ももちろんおらず、良好な関係を構築しつつあると言えるだろう。</p><p>ちなみに、ほぼ強制参加だったのはケイとマンデル、その他武闘大会入賞者くらいで、あとは志願者が主だった。</p><p>それで、</p><p>シチューをかき込んだ大柄な傭兵が、目を輝かせながら尋ねてくる。</p><p>あんたは、森大蜥蜴を２頭も狩ったんだろう？　吟遊詩人の歌は飽きるくらい聞いたけどさぁ、実際のところどうだったんだ？　教えてくれよ！</p><p>野性味あふれる笑顔が素敵な彼は、その名をフーベルトという。もともと東の辺境の傭兵で、竜人(ドラゴニア)から商隊を守るため剣を振るっていたらしいが、わざわざサティナまでやってきてから義勇隊に参加したらしい。</p><p>目的は金。そしてひとかけらの名声。蜥蜴人とやり合うのにはもう飽き飽きだよ、とはフーベルトの談だ。</p><p>これからまた東へ行くのにサティナまで来るのは無駄足ではなかったのか、と尋ねると、 実はサティナに妹夫婦がいてな、ついでに会いに来たんだ！　新しくガキが生まれててさぁ、可愛いんだなぁこれが！ とニカッと笑っていた。</p><p>森大蜥蜴か……そうだな……</p><p>問われて、ケイはマンデルと顔を見合わせた。</p><p>ヴァーク村を守るため、 深部(アビス) の化け物と演じた死闘はまだ記憶に新しい。</p><p>マンデル、せっかくだから頼めないか？　俺は説明がヘタだからさ……</p><p>……おれだって口下手なんだが</p><p>マンデル？　マンデルというと、あの大物狩りにも同行したという”十人長”のマンデルですかな？</p><p>少しぽっちゃりとした青年が口を挟んでくる。彼はとある田舎の名士の次男坊で、名前はクリステンというらしい。</p><p>丸顔で、くりくりとした瞳が印象的。いかにも人が良さそうだ。少し気弱なきらいがあるものの、健脚らしく、行軍には問題なくついてこれる程度の体力はある。彼の体型は自堕落によるものではなく、単に裕福さを示すもののようだ。</p><p>今回、義勇軍に参加したのは、意中の女性に告白するためらしい。無事に帰ったらプロポーズするつもりなのだとか……</p><p>ああ、そのマンデルであってるよ。彼には随分と助けられたもんだ</p><p>ケイはしたり顔で頷く。そのまま さあ皆に語ってあげてくれ！ とマンデルに促すが、 その手に乗るか とばかりにジロッとした目で返される。</p><p>しばし、英語力の問題で語りたくないケイと、口下手だから遠慮したいマンデルで押し付け合ったが、皆に急かされたこともあってマンデルが折れた。</p><p>そう、だな。……あれは秋も終わりに近づいた頃。おれが、いつものように森から戻ると、突然、ケイが村を訪ねてきた。そして、告げられたんだ。『ヴァーク村から救援要請が届いた。手を貸してほしい』と―</p><p>ぽつぽつと、マンデルは語りだす。</p><p>確かにマンデルは、彼自身が言う通り、舌が回るタイプではなかった。しかしその実直な語り口には、当事者ゆえの真に迫った凄みがあり、かえって聞き手たちの心を捉えて離さなかった。皆、大仰な吟遊詩人たちの歌はもう聞き飽きていたということもある。</p><p>―そしてとうとう、やつが姿を現した。……途轍もなくデカい、化け物だった。そこの馬車くらいは優に超える背丈で、おれたちは皆、そいつを見上げながら覚悟を決めた。ここでやらねばならないと。……だが、武器を構えたそのとき、再び大地が揺れた。そして背後からもう一頭、同じくらいデカい化け物が出てきたんだ―</p><p>ごくり……と誰かが生唾を飲み込む。</p><p>当事者どころか主役なのに、ケイもハラハラして聞いていたところ、不意に髪の毛を引っ張られた。</p><p>イテッ、イテテッ、なんだ？　……サスケェ！</p><p>振り返ると、サスケが少し不機嫌そうに尻尾を振っている。</p><p>あ、すまん。サスケも腹減ったよな</p><p>道草と、さっきちょっと分け与えたウサギのローストくらいでは食べ足りないか。コーンウェル商会の馬車から糧秣を受け取らなければならない。</p><p>悪い、ちょっと席を外すぞ</p><p>と、ケイは中座したが、皆マンデルの話に聞き入っていたので特に残念がることもなく、そのまま抜け出すことができた。</p><p>（なんだ、口下手とかいって、語り部にもなれそうじゃないか……）</p><p>熱のこもった口調で、森大蜥蜴との死闘を語るマンデルを尻目に、軍隊の後方を目指す。</p><p>―討伐軍のあとには、長い車列ができていた。</p><p>大量の人員の胃袋を満たす補給部隊に加え、商会の馬車も出張ってきているのだ。兵士相手に商売をする者、士官を相手に高級嗜好品をさばく者、流れの医者もいれば大道芸人や吟遊詩人、はたまた娼婦たちのテントなんてものまで。</p><p>その並外れた視力で即座にコーンウェル商会の旗を見つけたケイは、サスケを伴って馬車を訪れた。</p><p>よぉ、ケイ！　どうだった、義勇隊ってのは？</p><p>親しげに出迎えてくれたのは、眉毛が濃い、よく日に焼けたヒゲモジャの傭兵―ダグマルだった。コーンウェル商会の専属傭兵で、サティナ－ウルヴァーン間の隊商護衛でも一緒に仕事をしたことがある。ケイの”大熊殺し”の目撃者の一人だ。</p><p>やあ。義勇隊は、気のいい奴らばかりだったよ。しかしなんというか、歩みがのんびりしてるな。それに土埃のひどいこと……普通の隊商護衛が懐かしいよ</p><p>はははっ、違いない！</p><p>同感なのか、苦笑いするダグマル。ホランドと幼馴染な関係で、何かとケイとも縁のある男だが、この度は自ら商隊に志願したらしい。</p><p>『―いやぁ俺も歳だからよ。ボチボチ腰を落ち着けようと思うんだが、最後に箔をつけたくってなぁ』</p><p>最後の護衛任務が飛竜討伐軍への同道なら、これに勝る名誉はないというわけだ。戻ったら、サティナ本部の用心棒的なポストに就くらしい。</p><p>『それにせっかくケイの”大熊殺し”は見てたのに、“森大蜥蜴”の方は見損ねちまったからな。今回、“飛竜”は見逃さないぜ！』</p><p>―と、そんな思惑もあるとかないとか。</p><p>ほーれ、サスケ。たんとお食べ</p><p>ぶるふふ</p><p>サスケは、秣(まぐさ)に野菜にとたっぷり与えられて大満足の様子だ。</p><p>どうだ、ケイ。あんまり出せないけどよ、ついでに一杯やってくか？</p><p>サスケを待つ間、ひょっこりと馬車に引っ込んだダグマルが、再び顔を出して小声で言ってきた。その手には、金属製の水筒(スキットル)。</p><p>いや！　……うーん</p><p>非常に心惹かれるものがあったが、ここはぐっと堪える。</p><p>ありがたいけど、禁酒中なんだ</p><p>……ああ、嬢ちゃんと一緒にやってるんだっけ</p><p>嬢ちゃん、とは、言うまでもなくアイリーンのこと。ほぼ妊娠が確定している彼女は、ここしばらく断腸の思いで酒を断っている。ケイもその苦しみを分かち合う覚悟だった。……血涙を流すアイリーンの前で酒を楽しめるほど、無神経ではない。</p><p>でも、別にいいじゃねえか、従軍中くらい</p><p>いや、まあ、そうなんだが、今も独り待ってるアイリーンを想うとな……</p><p>溜息をつきながら、日が暮れゆく空を見上げるケイ。</p><p>―いかん。出立一日目にして、もう帰りたくなってきた。いや、最初から帰りたいのは確かだが。</p><p>……それに、俺だけ呑んで戻って、隊の皆に気取(けど)られてみろ。総スカン食らうぞ</p><p>何せ勘の鋭い傭兵から、鼻が利く森歩きまで勢揃いだ。</p><p>はははっ、そりゃあ確かに肩身が狭いな。これはしばらく、お預けにしとこうか。んで、狩りが終わったら祝杯をあげようや</p><p>それくらいはいいんだろう？　とお茶目にウィンクするダグマル。</p><p>もちろん</p><p>ケイも笑顔で答えた。</p><p>サスケが満足したところで、ダグマルに礼を言い部隊に戻る。</p><p>歩いていると、道の端々で、夕食を終えた兵士たちが寝床の用意を始めていた。</p><p>（野宿かー……）</p><p>久々の地べただなぁ、と情けない顔をするケイ。街暮らしで本当にすっかり、贅沢な身体になってしまった。</p><p>今更テントに寝袋なんかで、ちゃんと眠れるんだろうか……吹き荒む木枯らしが、わびしい気持ちに拍車をかける。</p><p>しかも、独り寝だ。人肌が恋しい。より正確に言えば、アイリーンが。</p><p>一応、アイリーン謹製の影の魔道具を持ってきているケイは、夕暮れ以降に魔力を消費すればアイリーンと通信できる。</p><p>が、距離が開くごとに負担が増えていっておいそれとは使えないことと、軍に目をつけられたらヤバそうなことが相まって、一人になれるタイミングを見計らった上で数日に一回程度、ケイ側から連絡を取るように決めていた。</p><p>（今日はまだ、やめておくか……）</p><p>野営がどんな感じになるかという様子見と―あと、初日の夜さえ我慢できなかったら、多分、毎日連絡を取ってしまいそうだという恐れから。</p><p>（早く帰りたい……早々に飛竜が突っ込んできて勝手に墜落死しないかな）</p><p>などと愚にもつかないことを考えながらセンチメンタルな溜息をつくケイに、サスケが呆れたように、ブルヒヒと鼻を鳴らした。</p><p>104. 指名</p><p>おひさしブリリアント（光り輝く）</p><p>寒空の下、目が覚めた。</p><p>もぞもぞと簡易テントを抜け出したケイは、空を見上げて溜息をつく。</p><p>体中、バッキバキだった……皮のマントを敷いて寝たが、地面の寝心地は最悪。布を敷き詰めていた自宅のベッドとは比べるまでもない。そして毛布だけでは寒くて、なかなか寝付けなかった。</p><p>その上、起きたら曇天。</p><p>灰色の空が見えた瞬間、思ったのは おうちかえりたい 。</p><p>それでも軍隊は動き出す。個人の意志など関係ないとばかりに……</p><p>朝食が支給された。堅焼きのビスケット。薄いワイン。干しぶどう。</p><p>以上。</p><p>贅沢は言わないから、温かいものが食べたい</p><p>贅沢な話だ。……夕食はともかく、朝食は難しいぞ</p><p>もっしゃもっしゃとビスケットを頬張りながら、無慈悲に告げるマンデル。その横では、サスケが寝転がったままもっしゃもっしゃと草を食んでいた。彼は、どうやら問題ないらしい。 ふふん、鍛え方がちがうんだよ と言わんばかりの顔だった。</p><p>公国は水源が豊富で、北の大地ほど極寒でもない。水不足で行き倒れしかけた北の大地での旅に比べれば、この行軍なんて天国みたいなもんだ―とケイは自分に言い聞かせた。</p><p>それにしても、隊商護衛をやっていたときは、なんで色々と平気だったのだろう。自分でも不思議に思ったが、冷静に考えれば、割と温かい季節だったので問題なかったのだ。テントでも別に寒くはなかったし、朝食が温かくなくても関係なかったし。</p><p>周囲を見れば、皆、黙々と朝食を詰め込んでいる。</p><p>ここでこれ以上、不平不満をこぼしても、空気が悪くなるだけだ。贅沢を言っちゃいけない……ケイも大人しく諦めることにした。</p><p>まあ、</p><p>ビスケットを口に放り込んで、ケイは独り言のように言った。</p><p>せめて夕食は、肉でも食べたいところだな</p><p>期待しているぞ、ケイ</p><p>任せろ。獲物がいる限りは獲ってくるよ</p><p>それを耳にした皆も笑みを浮かべている。空気が少しだけ軽くなった気がした。</p><p>†††</p><p>食材を獲ってくるという大義名分を得たことで、ノロすぎる行軍から堂々と離れられるようになったのは良いことだ。</p><p>草原に出れば土煙からも解放されるし、歩く速度を制限されてストレスが溜まることもない。サスケも自由に走り回れて楽しそうだ……まるで街で暮らしていたときのように、思いついてぶらりと狩りに出てきた気分になる。</p><p>背後の街道にはずらずらと行列が続いていて、この場にいるのがケイとサスケだけという点に目を瞑れば。</p><p>アイリーンはどうしてるかな……</p><p>新たに仕留めたウサギの血抜きをしながら、寒空を見上げる。今頃、彼女もつまらなさそうな顔をして、テーブルに頬杖をついて空を見上げているのではないか―</p><p>―ケイは知る由もないが、このときアイリーンは、ふて寝していた。</p><p>それにしても、ひとたび曇ってしまうと星が見えず、ケイお得意の天気予報も使えなくなるのは困りものだ。昨日まで観測した分には、しばらく晴れと曇りが続きそうだったが……</p><p>少しでも雨が降れば、草原はかなり―しっとりした状態になる。このあたりの土は特に柔らかく、まるでスポンジみたいだ。たっぷりと水気を吸えばずぶずぶと脚が沈み込んで、サスケ単体ならともかく、ケイを乗せた状態で駆け回るのは、かなり難しくなるだろう。</p><p>土埃が立たなくなるのは利点だろうけどな……</p><p>デメリットの方が多そうだ。</p><p>……そう思うだろ？</p><p>話しかける相手がいないので、仕方なくサスケに同意を求めてみる。</p><p>耳をピコピコさせながら、 何が？ と言わんばかりに振り向くサスケ。彼は賢いし、何かと色々通じてる気分にはなるが、話し相手にはならないのだ。</p><p>ケイは苦笑して、サスケの耳の後ろを掻いてやった。</p><p>サスケは嬉しそうに目を細めていた。</p><p>寒風から身を守るように革のマントを羽織り直しながら、深呼吸してみる。</p><p>冷たい空気が肺に流れ込んで、酸素を取り込んだ熱い血潮が、全身を駆け巡っているのを実感する。</p><p>ああ―自分は確かに、この世界に存在して、生きている。</p><p>（忘れていたな、この感覚を）</p><p>ゲーム DEMONDAL の中では、天気を心配したことなんてなかった。せいぜい雨が降ったら視認性が悪くなるとか、特定のモンスターが見つかりにくくなるとか、その程度で、 寒くて風邪を引くかもしれない なんて懸念は皆無だった。</p><p>そもそも、『寒さ』が存在しなかった。どれほどリアルに近い感覚を標榜していても、プレイヤーに苦痛を与えかねない感覚はオミットされていたのだ。だから雪山でも、火山の火口でも、ゲーム内はいつも穏やかで、暑くもなく寒くもなく―それが当たり前だった。</p><p>まるで病院の無菌室みたいに。</p><p>今の自分とゲームの自分。どっちが快適か？　と問われれば後者だ。</p><p>だが戻りたいか？　と問われれば、否。</p><p>今の方がいいに決まっている。明日の天気とか寒さとかを、リアルに悩める贅沢。そのありがたみを―自分は今一度、噛みしめるべきだな、とケイは自戒した。</p><p>贅沢になってしまったと嘆くことができる。それ自体が、すでに贅沢なのだ。</p><p>よし、気持ちを切り替えていこう</p><p>こうして独りで物思いに耽っていると、転移した直後のことを思い出す。あのときの自分に比べれば、今の自分はかなり―明るくなっていると思う。前向きで、人生を楽しむことを知り始めていると思う。</p><p>常に上り調子の人生なんてない。そうだろう？　今は不満があったり苦しかったりするかもしれないが、これを乗り越えたら幸せな家庭が待っている。</p><p>せいぜい、飛竜狩りをそつなく終えて、辺境の都市ガロンでお土産を買い込んで、サティナまで凱旋しようじゃないか。そして、そのときには、ちょっとお腹が大きくなっているであろうアイリーンに、ただいまのキスをする。</p><p>その日を夢見て頑張ろう。</p><p>もうちょっと狩るか</p><p>まず目の前のことからコツコツと。血抜きしたウサギを鞍にくくりつけたケイは、少しでも夕食を賑やかなものにするべく、再びサスケにまたがった。</p><p>―それから狩りを終えて義勇隊に戻ると、隊長の正規軍人フェルテンが待ち構えていた。</p><p>おお、ようやく戻ったか</p><p>ケイの姿を認め、あからさまにホッとした様子のフェルテン。</p><p>何か用事が？</p><p>聞いて驚け。なぜか参謀本部からお前に呼び出しがあった</p><p>その言葉に、ケイはマンデルや義勇隊の面々と顔を見合わせた。</p><p>俺……何かやっちゃいました？</p><p>知らん</p><p>恐る恐る尋ねるケイに、にべもなく答えるフェルテン。</p><p>まあ、呼び出しというか、面会というか。アレだ、お前は公国一の狩人だからな。俺たち有象無象とは違って、お偉いさんも何ぞ話を聞きたがっているのかもしれん</p><p>皮肉げに口をへの字に曲げて、フェルテンは鼻を鳴らした。</p><p>とにかく、これが召喚状だ。昼飯休憩時に出頭しろとのことだ</p><p>ケイの手に書類を押し付けたフェルテンは、 確かに渡したぞー とひらひら手を振りながら去っていった。</p><p>……どうしよう？</p><p>そりゃあ、ケイ。……出頭するしかない</p><p>マンデルが、羽飾りのついた帽子を目深にかぶり直しながら、肩をすくめて言う。</p><p>お偉いさん相手とか、俺、何を話せばいいのかわかんないんだが</p><p>安心しろ、ケイ。……おれもわからない</p><p>マンデル……</p><p>呼び出しを受けたのはケイだぞ。……おれではない</p><p>つっと目を逸らすマンデル。ケイは助けを求めて周囲を見回したが、皆、白々しく 今日は冷えるなー 骨身にしみる寒さですねー などと雑談していて、こちらを見向きもしない。</p><p>…………</p><p>孤立無援であることを悟ったケイは、手の中の召喚状に視線を落とし、手負いの獣ような唸り声を上げるしかなかった。</p><p>†††</p><p>そのまま昼休憩になってしまったので、手早くビスケットと干し肉だけを詰め込み、ケイは参謀本部がある天幕へ赴いた。</p><p>長く伸びた軍隊の中間あたりには貴族や軍の高官が多く、馬車や色とりどりの天幕が展開されている。行軍中だというのに、メイド付きでティーセットを広げてお茶を楽しむお偉いさんの姿まで散見された。</p><p>まるで別世界だ―自分がここにいることの違和感がすごい。</p><p>そして、召喚状を持ってきたはいいが、具体的にどの天幕に顔を出せばいいのかがわからない。</p><p>あの、悪いんだが</p><p>通りすがりの、比較的人が良さそうな軍人に声をかける。</p><p>なんだ</p><p>呼び出しを受けたんだが―</p><p>召喚状を見せると、その軍人はケイと書面を二度見して、狐につままれたような顔をした。</p><p>お前が？　これを？　……すごいお偉いさんに用があるんだな</p><p>俺には用がないんだが</p><p>ああ……なるほど。まあ、そういうこともあるか</p><p>何やら察したらしい軍人は、同情の色を浮かべる。</p><p>案内してやろう。くれぐれも失礼のないようにしろよ―他ならぬお前自身のためにな</p><p>『召喚状で呼ばれてきた。俺の名はケイイチ＝ノガワだ』……こんな感じか？</p><p>その場で仰々しく一礼しながら言ってみせると、軍人は、食料庫ですっかりカビに覆われたチーズでも見つけてしまったような、何とも言えない表情を浮かべた。</p><p>もうちょっと、こう、言い方があるだろ。……『本日はお招きに預かり光栄至極、狩人の○○、参上仕りました』くらいは言え</p><p>ケイは英語の細かいニュアンスがよくわからなかったが、少なくとも自分の脳みそでひねり出した直訳より、よっぽど気の利いた言い方であることはわかった。</p><p>『本日はお招きに預かり光栄至極、狩人のケイイチ＝ノガワ、参上仕りました』</p><p>よし、それでいい。……多分な</p><p>助かったよ、ありがとう。見ての通り異邦人でな、言葉の違いに苦労してるんだ</p><p>なぁに、まだよく喋れてる方さ。ほれ、ここがお前の目的地だ</p><p>数ある中でも、指折りに良質な布地の天幕を顎で示して、軍人が言った。</p><p>あっ！　そうだ、お前に礼儀作法を教えたのが俺だってことは言うなよ。万が一、失礼があった場合は責任を取り切れんからな……</p><p>軍人が真面目くさった口調で釘を刺してくる。</p><p>俺は田舎者だからな</p><p>ケイも空とぼけた調子で応じた。</p><p>誰(・)に(・)作法を教わったかなんて、もうすっかり忘れてしまったよ。俺のマナーの先生は、恩知らずな生徒だと怒るかもしれないな</p><p>安心しろ。きっとお(・)前(・)の(・)先(・)生(・)は、そんなことで腹を立てるほど狭量な奴じゃないさ……多分な</p><p>ケイと軍人は顔を見合わせて、ニヤッと笑ってから別れた。</p><p>さて。</p><p>天幕だ。</p><p>入り口には物々しく、槍を携えた警備兵の姿まである。どうにも気が重い……</p><p>警備兵に召喚状を渡すと、 拝見します と受け取ったひとりが、天幕の中に引っ込んだ。</p><p>ケイチ＝ノガワが出頭したようです</p><p>よし</p><p>ガシャンガシャンと金属鎧の音が近づいてきた。</p><p>来たか</p><p>ヌッ、と天幕の薄暗闇から、ガタイのいいフル装備の騎士が姿を現した。目的地はまだ遠い行軍のさなかだというのに、この重装備……薔薇の花や蔓、駆ける馬などの装飾が施されたかなり高級な鎧であり、身分の高さを窺わせる。</p><p>入れ、ケイチ＝ノガワ</p><p>クイと手招きする騎士。バイザーを下ろしているせいでその顔は見えない。しかしこのつっけんどんな、堅苦しい声……どこかで聞いたことがあるような……</p><p>こちらに御座(おわ)すは、飛竜討伐軍の総指揮官アウレリウス公子―</p><p>―まさか公子その人がいるのか！？　と目を剥きそうになるケイだったが、</p><p>―の、後見人たる公国宰相ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー閣下だ</p><p>なんだ公子じゃないのか……</p><p>（いや、公国宰相！？）</p><p>やっぱり大物じゃないか！！　と目を剥くケイ。</p><p>くれぐれも失礼のないように。いいか。くれぐれも失礼のないように……！</p><p>ズイと顔を寄せて、念押しする騎士。ケイとて決して無礼を働きたいわけではないが、それにしてもそんな人物が自分に何の用だというのか。</p><p>あと、兜の下から響いてくる、真面目が服を着ているようなこの声……やはり聞き覚えがあるような……</p><p>モヤモヤした気持ちを抱えつつも、目線を下げて天幕に入ったケイは、中で椅子に腰掛けて待ち受けるお偉いさん―宰相閣下の靴を視界の端っこに収めて、その場に跪いた。</p><p>本日はお招きに預かり光栄至極、狩人のケイイチ＝ノガワ、参上仕りました―</p><p>めっちゃ手の込んだ絨毯敷いてるなー、などと考えながら、棒読み気味に名乗る。</p><p>……面を上げよ</p><p>厳かな声が響き、ケイは素直に顔を上げた。</p><p>そして今度こそ、目の玉が飛び出そうなくらい驚く羽目になった。</p><p>眼前に腰掛ける、公国の宰相閣下とやら。丸顔に団子鼻、どこか愛嬌のある目元。顔に見覚えがあるとかないとか、そういう次元ではなかった。</p><p>初めて出会ったのは公都の図書館で、銀色のキノコヘアーだった。</p><p>次に出会ったときは、つややかでサラサラな茶色のロングヘアーだった。</p><p>だが今回は。</p><p>もう最初から。</p><p>ツルッとした頭を、丸出しにされておられる。</p><p>『ヴァルグレン＝クレムラート』―その人物は、そう名乗っていたはずだった。</p><p>公都図書館が誇る”大百科事典(エンサイクロペディア)“の著名な編集者の一人であり、希少な癒やしの力を持つ”白光の妖精”と契約する魔術師であり、夜中に開閉できないはずの公都の第１城壁の門を出入りできる『お偉いさん』であり―</p><p>いやでも、まさか、公国宰相とは―</p><p>公国宰相、ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー伯である</p><p>威厳に満ちた表情で、ヴァルグレン―いや、ヴァルターは告げる。</p><p>ケイチ＝ノガワ。此度の参上、大儀であった</p><p>そしてその威厳を崩すことなく、パチンとウィンクした。</p><p>あまりにも久々なので念のため補足しますと、 幕間. Urvan 35. 助言 62. 星見 に出てきた人です。</p><p>今回は装いも新たに登場でした。</p><p>105. 宰相</p><p>前回のあらすじ</p><p>(｀・ω・)　……。</p><p>(｀ゝω・)</p><p>↑公国宰相ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー伯</p><p>くれぐれも、失礼のないように……！</p><p>今一度、押し殺した声が背後から響いてきて、ケイはハッと我に返った。</p><p>まじまじとヴァルグレン―もとい、宰相ヴァルターの顔を凝視していたところ、慌てて視線を逸らす。</p><p>―そしてこの声、思い出したぞ。</p><p>背後に控えている、重装備の騎士。ヴァルグレン氏のお付きの、堅物な騎士っぽいやつだ。騎士っぽいというか実際に騎士のようだが、確かカジトールだかカモミールだか、そんな名前だったはず。</p><p>直答を許す。我が盟友ヴァルグレンより、そなたの話は聞いておる</p><p>厳かな声で、ヴァルターは告げる。</p><p>我が盟友。つまり 別人だから、そこんとこよろしくね というわけだ。この場においてヴァルターは公国の重鎮。いかに図書館や天体観測などで親しくさせてもらっていたケイでも、馴れ馴れしく振る舞うことは許されない―</p><p>ははーっ！</p><p>どう答えていいかわからなかったので、さらに一礼するケイ。</p><p>聞けば、そなたの妻は身重だそうだな。大事な時期に家をあけるのは辛かろう</p><p>そこまで知られている、という事実に、ケイはおののいた。これがヴァルグレン氏なら、 よくご存知で！ とびっくりするくらいで済んだろうが、宰相にまで近況を把握されているとなると、酷く落ち着かない気分になる。</p><p>（第一『辛い』も何も、お上(あんたら)の都合で家をあける羽目になったんだが）</p><p>そう思いながら、チラッとヴァルターの顔色を窺うと、相変わらず厳(いかめ)しい顔だったが、その瞳にはちょっとだけ申し訳無さそうな色もあった。</p><p>……はっ。赤子のため、大好きな酒を断って苦しんでいるようです</p><p>相槌を打つだけでは芸がないので、少しだけ言及しておく。ヴァルターが、真面目な表情はそのままに、 んフッ と小さく笑った。</p><p>オホン</p><p>背後でわざとらしく、騎士が咳払い。（やれやれ、おちおち世間話もできんな）とばかりに、口をすぼめるヴァルター。</p><p>……さて、此度そなたに来てもらったのは、他でもない。狩猟に関してだ</p><p>どうやら本題に入るらしい。椅子に座り直すヴァルター。</p><p>（狩猟？　やはり何かまずかったか……？）</p><p>隊から離れて、積極的に夕飯の献立を豊かにしに行っていることだ。一応、時間内に戻ってくる分には、そして成果を上げる分には、許可されているはずだが。</p><p>というより、なぜ一般狩人に過ぎない自分の動向が、こんな上層部にまで把握されているのか……。</p><p>そなたほどの狩人であれば知っておるやもしれぬが、このあたりから辺境ガロンにかけての地域は、猛禽類が非常に多い</p><p>突然始まる鳥類の話に、ケイは面食らった。</p><p>だが―内容については理解できる。あくまでゲームとしての DEMONDAL での話だが、このあたりのエリアは大型猛禽類の宝庫として知られており、ケイのような弓使いのプレイヤーには人気の狩猟スポットでもあった。</p><p>『こちら』に転移して以来、専ら食用のウサギや鳥を狩るばかりで、猛禽類はスルーしていたケイだが、ゲーム内では全鳥類の羽根をコンプリートすべく、目を皿のようにして猛禽類を探し、超レアなアルビノなんかを見つけた日にはテンション爆上がりしていたものだ。</p><p>そして、公都ウルヴァーンと我らが飛竜討伐軍の間では、伝書鴉(ホーミングクロウ)によって定期的に連絡が取られている……</p><p>少々もったいぶった口調で、ヴァルターは続ける。</p><p>話がちょっと見えてきた。</p><p>無論、複数の伝書鴉を運用することで、不測の事態には備えてはあるが……此度の栄えある飛竜狩りで、まかり間違って公子殿下のお心を煩わせることは許されぬ。故に我ら臣下は、ありとあらゆる可能性を想定し、万全を期さねばならないのだ</p><p>そこで、そなただ―と身を乗り出すヴァルター。</p><p>この飛竜討伐軍において、そなたを”Archducal Huntsman”に任命する</p><p>アークデューカルハンツマン……！？</p><p>オウム返しにするケイ。</p><p>意味がわからない。</p><p>ヴァルターの言動が意味不明、というわけではなく、単純に、単語の意味がわからない……！！</p><p>おおいに焦るケイをよそに、背後の騎士がつかつかと歩み寄ってきて、何やら書類じみたものを差し出してきた。</p><p>羊皮紙に長々と文言が書き込まれており、大きめの身分証のようにも見える。文末には、おそらくヴァルターのものと思しき署名。</p><p>辞令だ。身分証も兼ねているので、紛失しないように</p><p>つっけんどんな口調で、ケイの手に書類を押し付けてくる重装騎士。</p><p>現時点をもって、そなたは原隊を離れ、飛竜討伐軍の行動範囲内において、そなたの裁量で行動する権限を得た。そなたの任務は、付近一帯の伝書鴉の障害となりうるものを排除し、通信の安全性をより高めることである</p><p>ここで、おどけたようにヴァルターが口の端に笑みを浮かべる。</p><p>そなたほどの狩人であれば、猛禽と伝書鴉を見間違えることもあるまい？</p><p>……はっ！　それだけはありえません</p><p>ケイにとっては、赤と青を区別するくらい簡単だ。</p><p>よろしい。……無論、そなたが全力を尽くしたところで、軍そのものが移動しつつある都合上、全ての障害の排除は難しかろう。万が一、不測の事態が発生したとしても、ただちにそなたの責を問うことはない。いずれにせよ、たとえ微々たる影響しか及ぼさぬとしても、我らは万難を排す覚悟で臨まねばならないのだ</p><p>要約すれば、伝書鴉が途中で襲われたら面倒だから、ここら一帯の猛禽類を事前に狩っておいてね。でも流石に狩り尽くすのは難しいだろうし、万が一不測の事態が起きても、全部が全部きみの責任にはならないから安心してね。ということだろう。</p><p>また、狩りの成果を提出すれば、そなたの献身に報いるだけの追加報酬は出そう。詳しくはその者に聞くように</p><p>重装騎士を示しながら。</p><p>追加報酬！　思っても見なかった話だ。公国宰相が直々に持ちかけてきた案件で、はした金ということはあるまい。</p><p>……はっ！　ありがたき幸せ！</p><p>現金なもので、（ボーナスタイムだ！）と喜びながら一礼するケイ。</p><p>どちらかといえば、こちらがメインかもしれない、という気がした。アイリーンが妊娠中なのに呼び出してしまったことに対する埋め合わせなのだろう。</p><p>うむ。武闘大会での活躍は聞いておる。そなたほどの狩人がおれば我らも心強い、期待しておるぞ。……そして、我が盟友ヴァルグレンより、よろしく、と</p><p>付け足された言葉は、優しく響いた。</p><p>さがってよい</p><p>ははっ……！</p><p>ケイはもう一度ヴァルターの顔を見てから、深々と頭を下げ、その場を辞した。</p><p>薄暗い天幕から日なたに出ると、まるで別世界から帰ってきたような気分だ。</p><p>報酬についてだが</p><p>一緒に出てきた件の重装騎士が、付近の大きな天幕と、その横の大きな竜の旗を掲げた馬車を指差す。</p><p>あちらの参謀本部に狩りの成果を持っていけば、都度、相応の銀貨が支払われる</p><p>おお……！</p><p>破格。破格の報酬といっていい。</p><p>ケイの能力なら、金貨を稼ぐのだって夢じゃない。</p><p>その他、細々とした注意点や、成果を提出しに来るのに向いている手すきな時間帯などを教えてもらう。</p><p>何から何まで、大変ありがとう。ええと―</p><p>この騎士の名前。</p><p>（カモミールなら、流石に特徴的すぎて覚えているはずだ。であれば―）</p><p>消去法的に考えたケイは、</p><p>ありがとう、カジトール卿</p><p>愛想よく笑顔で言う。</p><p>私の名はカジミールだ</p><p>カシャッ、とバイザーを跳ね上げた騎士―カジミールは、ケイの記憶にある通りの、堅物が服を着ているような不機嫌な仏頂面で応じた。</p><p>あっ、それは、失礼を……ええと、それではごきげんよう</p><p>ケイは逃げるようにして、その場をあとにした。</p><p>（何はともあれ、自由の身になったことだし……）</p><p>懐に、大事にしまい込んだ書類。</p><p>（単語の意味もよくわからないし、ここはバイリンガルを頼るか）</p><p>彼(・)の様子も気になっていたので、ちょうどいい。</p><p>この飛竜討伐軍に、サティナの軍団の一員と同行している、もう一人の顔見知り。</p><p>“流浪の魔術師”こと同郷の日系人・コウに会いに行くべく、ケイはサティナの旗印を探し始めた。</p><p>106. 同郷</p><p>前回のあらすじ</p><p>(｀・ω・) そなたを”Archducal Huntsman”に任命する！</p><p>(；゜Д゜) 何ですかそれは！？</p><p>ウルヴァーン本隊のあとには港湾都市キテネの軍団が続いており、サティナの軍団はどうやら殿(しんがり)のようだった。</p><p>港湾都市キテネは、文字通り沿岸部に位置する。ここまで遠路はるばる歩き通しのキテネの軍団は、曇天のもと、砂埃にまみれていることもあって、お疲れムードを漂わせていた。</p><p>休憩時なので、今は殊更だらけているのもあるかもしれないが、こんな調子で辺境のガロンまで大丈夫なのか、他人事ながら心配になる。</p><p>それに対し、サティナの兵士たちは、まだ出立したばかりで元気そうだ。仲間に囲まれて踊るお調子者や、何やらレスリングじみた運動に興ずる者たちまで。</p><p>おっ、“地竜殺し”だ！</p><p>よーう、調子はどうだい！</p><p>今(・)回(・)も頼りにしてるぞー！</p><p>サティナの面々には広く顔を知られているケイは、行く先々で気さくに声をかけられた。</p><p>おかげさまで元気さ。領主様お抱えの”流浪の魔術師”殿に用があるんだが、どこにいるか知らないか？</p><p>快く応じながら、コウを探す。</p><p>聞けば、お抱え魔術師たちは皆、専用の馬車を割り当てられているらしく、そちらを目指すことにした。青い旗を掲げた馬車の群れ。訪ねて回ることしばし―</p><p>『やあ、ケイくん。数日ぶりだね』</p><p>お目当ての馬車が見つかった。いかにも魔術師らしいローブを身にまとう、どこかくたびれた雰囲気を漂わせる日系人。</p><p>“流浪の魔術師”こと、コウタロウ＝ヨネガワだ。</p><p>『どうも、こんにちは』</p><p>会釈しながら、母国語のありがたみが身にしみる。先ほど未知の単語で焦りまくっただけに、なおさらだ。</p><p>『義勇隊(そっち)はどんな感じ？　あ、上がってよ、狭いけど』</p><p>こじんまりとした馬車の扉を開いて、手招きするコウ。</p><p>『お邪魔します』</p><p>特に気負うことなく乗り込んだケイだったが―</p><p>こんにちは</p><p>思わぬ先客の姿に、固まってしまった。……狭い馬車には、コウの他、もう一人顔見知りの女性がいたからだ。</p><p>こ、こんにちは。ヒルダさん</p><p>挙動不審になりながらも、どうにか挨拶を返す。</p><p>黒を基調に、メイド服をベースにしたような旅装の、上品な女性。それはコウが身を寄せる、サティナの領主邸宅で度々世話になっていた、使用人のヒルダだった。</p><p>ＶＩＰ待遇の魔術師に使用人がついているのは、何もおかしいことではない。だが女性が？　しかも狭い車内で二人きり？　もしかして自分はお邪魔虫だったのでは、しまった出直すべきか―</p><p>そんな思考がグルグルと巡るケイをよそに、コウとヒルダはごく自然体で、 悪いけどお茶をお願いできるかな、ヒルダさん かしこまりました、コウ様 と言葉をかわしている。</p><p>では、用意して参ります</p><p>ケイと入れ替わりに、馬車を出ていくヒルダ。</p><p>ふぅ、と溜息をついて座席に背を預けるコウと、何をどう言ったものか迷うケイ。</p><p>『えーと……リア充爆発しろ？』</p><p>『既婚者がそれ言う？』</p><p>二人は顔を見合わせて、困ったように笑いあった。</p><p>『びっくりしました。まさか……“丘田(おかだ)さん”がここにいるなんて』</p><p>頭に手をやりながら、馬車の外を見やってケイは言う。</p><p>丘田というのはコウが発案したヒルダのあだ名だ。丘は英語でHill、そこに田を足して丘田(ヒルダ)。日本語で会話しても固有名詞はそのままなので、本人に聞かれてもバレないように言い換えている。</p><p>『僕もねえ、まさか彼女がついてくるとは思ってなかったよ』</p><p>コウも戸惑いがちに答えた。</p><p>『大丈夫なんですか？　こんな行軍についてくるなんて、何というか、その……』</p><p>『妙齢の美人メイド、おっさん魔術師、狭い馬車で二人きり。何も起こらないはずがなく……ってな感じかい？』</p><p>おどけたようにお手上げのポーズを取ってみせるコウだったが、がっくりと肩を落として溜息をつく。</p><p>『実際ねえ。領主様が彼女を寄越してきたのは、そ(・)う(・)い(・)う(・)意(・)図(・)があってのことだと思うよ。自分で言うのもなんだけどさ、僕ってほら、最前線に配置される可能性が高いから……』</p><p>『うわー、やっぱそうなんですか……』</p><p>コウは氷の魔術師であり、“飛竜(ワイバーン)“のブレス―火炎放射への数少ない対抗策でもある。攻城兵器や前線指揮官を守るため、攻撃部隊の中心に据えられるのは、まず間違いない。</p><p>言うまでもなく危険な役割だ。訓練を受けている戦士でもなし、いつ臆病風に吹かれて逃げ出してもおかしくない。そして、いわゆる由緒正しき家々出身の魔術師とは違い、流れ者であるコウには社会的に縛るものがない。</p><p>―なら、縛っちゃえ。</p><p>つまり、そういうことだろう。ヒルダは上級使用人で、本人は授爵こそしていないものの男爵家出身だったはず。</p><p>飛竜討伐軍に派遣され、しかも流れ者の異邦の男性に仕えさせられている時点で、けっこう酷い扱いだが―そんじょそこらの一般人ではない。お手つきにしてもいいから頑張ってね、という領主側の無言の圧力を感じた。</p><p>『まあ……正直なところ、彼女がいてくれて助かってるのは事実だ』</p><p>コウは極めて渋い顔で認める。</p><p>『何せ、こんな馬車に缶詰じゃロクな娯楽がなくってね……』</p><p>『……えっ、まさか……』</p><p>『……ああいや違う違う、そういう意味じゃない！』</p><p>やはり自分はお邪魔虫だったのでは―とビビるケイに、一拍置いて、語弊を招く言い方であったこと気づいてコウが慌てて手を振った。</p><p>『そうじゃなくて！　話し相手とか、遊技盤(チェス)の相手とか、そういうことだよ！』</p><p>バッ、と折りたたみテーブルの上の、遊びかけの盤面を指差すコウ。どうやら一局指している途中だったらしい。</p><p>『彼女とは健全な関係だから！　まだ手は出してないから！』</p><p>『ま(・)だ(・)……？』</p><p>『あっ、いや、その……』</p><p>コウは深く溜息をついて、座席に沈み込んだ。</p><p>『……ケイくん、こんな密室でさ。向こうがその気だったら、男ができる抵抗なんてたかが知れてるよ……』</p><p>『まあ、もちろん、気持ちはわかりますが……あっ、自分は、決して非難してるわけじゃないんで、悪しからず。むしろ仕方ないっつーか』</p><p>『そう言ってもらえると助かる。既婚者という点も心強いね』</p><p>『いやー言うて自分は恋愛結婚ですんで……相手も国籍こそ違えど同郷ですし』</p><p>『ン……まあそうなんだけどさ……』</p><p>頬杖をついたコウは、おもむろに盤面の女王(クイーン)の駒をつまみ、コツンと魔術師(ビショップ)を小突いた。</p><p>どうやら磁石が仕込んであるらしく、グラッと揺れるものの、倒れまではしない。まあ、移動中に馬車が揺れることを鑑みれば、これぐらい強度がなければ遊べたものではないだろうが。</p><p>『単純な色仕掛けなら、どうにか耐えられるんだけどね。四六時中一緒で同情を引くような言動を取られると、僕はそういうのに弱いんだ……時間の問題だよ……』</p><p>『アレな聞き方になりますけど、寝るときも一緒なんです？』</p><p>『拒否したら彼女だけ外で野宿』</p><p>ケイのあけすけな質問に、肩を竦めてみせるコウ。</p><p>ああ、……とケイは唇を引き結んだ。コウはそういうのに弱いタイプだ―</p><p>『……正直なところ、事実関係は抜きにしても、床を共にしちゃった時点で丘田さんの嫁入り先は限定されるでしょうし……責任を取った方が楽になれるのでは』</p><p>ケイの容赦ない意見に、コウは両手で顔を覆った。</p><p>『そうだよね……そうなるよねぇ……』</p><p>そのとき、神妙な顔をしながらも、ケイは思う。ケイとアイリーンもことあるごとにアレコレ言われたものだが、確かに、他人のこういう話題は楽しい……！　コウには気の毒だが。</p><p>影の魔道具でアイリーンと通信するとき、話のネタができた。</p><p>『ちなみに、肝心の丘田さんはどんな感じで……？』</p><p>『……言い渡されたお役目とはいえ、実は、前々からお慕いしていました……みたいなことを囁きかけてくる。でもさ、こんな外人のおっさんに、良家の娘さんが恋するなんて、そんな恋愛小説でもあるまいし……僕に少しでも気に入られようと、心にもないこと言ってるんだろうなぁ、と考えたら気の毒で気の毒で』</p><p>『あ～……』</p><p>いずれにせよ、その台詞は遺憾なく効力を発揮しているわけだ……。コウの陥落はそう遠くないな、とケイは思った。コウを狙っているであろう、もうひとりの同郷、豹耳娘(イリス)には気の毒だが。</p><p>お待たせしました、お茶をお持ちしました</p><p>と、金属製のポットとカップを手に、ヒルダが戻ってきた。</p><p>ありがとう、ヒルダさん。いつもすまないね</p><p>コウが座り直しながら、何事もなかったように穏やかな笑みを浮かべる。ヒルダも自然に微笑み返し、お茶の用意をしながら、コウの隣に楚々と腰掛けた。</p><p>いえいえ。ケイさんも、どうぞ</p><p>ありがとうございます</p><p>お茶を受け取りながら、（なんかもう長年連れ添った夫婦みたいな距離感だな）とケイは呑気なことを思った。</p><p>『こんな外人のおっさんに』とコウは卑下していたが、……まあヒルダが恋(・)し(・)て(・)いるかは別にしても、傍から見る分には、案外まんざらでもないんじゃないか、という気がした。</p><p>コウは言うまでもなく、この世界ではトップクラスの魔術師だ。しかも希少な氷の精霊との契約者。冷蔵庫は作る先から飛ぶように売れていくし、その他、高度な魔道具だって何でもござれ。出自なんて関係なく、才覚だけで新たに家を興せるレベルの男だ。</p><p>しかも、こう見えてかなりの杖術の使い手でもあるので、ゲーム由来の肉体はほどよく鍛えられている。ゲーム内では熟練プレイヤーから初心者まで容赦なく殴り殺す無法者だったが、現実では思いやりのある紳士で、女性にも優しい。</p><p>翻ってヒルダ。女性にしては背が高く、割とがっしりめの体格をしている。顔立ちは凛々しいタイプの美人、それでいてその所作は柔らかく上品だ。聞けば、海原語(エスパニャ)と高原語(フランセ)を話せ、雪原語(ルスキ)さえも学んでいるとか。意志の強そうなキリッとした瞳は、彼女の豊かな教養と知性を覗わせた。</p><p>そんな、男爵家出身の才媛なのに、飛竜狩りに派遣されたり、異邦人に仕えさせられたりと、扱いが雑なのが気になるところだが―それだけ領主側がコウを重視しているというポーズなのか、それともヒルダの実家での立場がそんなに良くないのか。</p><p>いずれにせよ、ヒルダの立場から見ると、コウはかなりの優良物件だと思う。</p><p>ふと、対局中のチェス盤に視線を落とすと、―ケイは決して優れたチェスプレイヤーではないが―かなり白熱した戦局であるように思われた。というか、おそらくヒルダ側が押している。</p><p>コウに忖度することなく、いい勝負をしても大丈夫、そんなことでヘソを曲げられることはない、とヒルダが安心して指せる程度には、信頼関係があるわけだ。</p><p>（―割とお似合いなのでは……？）</p><p>行儀よくお茶を口にしながら、そんなことを考えるケイ。</p><p>『ところで、僕に用事でもあったのかい？　少し焦ってるようにも見えたけど。長々と喋っておいてなんだけどさ』</p><p>改めて日本語で、そして話題もさっぱりと切り替えて、コウが話しかけてきた。</p><p>いくら言葉を聞き取られる心配がないとはいえ、本人を前に、センシティブな会話ができるほど豪胆ではない。ケイも、コウも……。</p><p>『ああ、それなんですが……実は先ほど、宰相閣下に呼び出されまして』</p><p>『誰に呼び出されたって？』</p><p>『宰相閣下です』</p><p>『さいしょうかっか……？』</p><p>コウが首を傾げている。日本語が流暢なので忘れがちだが、彼は英国育ちで英語がメインなので、日常的に使わない日本語は通じないことがある。</p><p>『Chancellorです。Chancellor His Excellency』</p><p>『えっ、あっ、さいしょうってその宰相か！』</p><p>コウはびっくりしているし、その隣でかしこまっていたヒルダも、突然の理解可能な思わぬ単語に驚いている。</p><p>『ほえーなんでまた？』</p><p>『それがなんか……新しい役目を俺に与えるとかで……Archducal Huntsman？　とかいうのに任命されたんですが、意味がよくわからなくて』</p><p>コウに書類を差し出しながら、ケイ。</p><p>ざっと目を通したコウは、 あー と声を上げた。</p><p>『確かにそういうことが書いてある。Archducal Huntsmanは、日本語で言うなら……そうだな……、なんて言えばいいか』</p><p>あっという間に読み終わって、自然に隣のヒルダにも紙面を見せながら、考え込むコウ。ヒルダも書類を一瞥して、 わあ、おめでとうございますケイさん などと言ってきた。</p><p>『Archdukeが、この国の王様、つまり大公って意味なんだ。Archducalは『大公の』という形容詞で、キングに対してのロイヤルみたいな単語なんだけど』</p><p>ここが公国じゃなくて王国だったら、ロイヤルハンツマンだったというわけだ。</p><p>『ああ、なんとなくわかりました。王様お抱えの狩人的な』</p><p>『そうそう。なんかなー、これを言い表すのに、何かいい感じの日本語があった気がするんだけど。王に近いエスコートみたいな単語で……ちか……ごえい……ああそうだ、近衛だ！　近衛狩人ってとこかな』</p><p>『このえかりうど』</p><p>強そう。</p><p>ヒルダさん、この役職について何か知ってる？</p><p>英語に切り替えて、コウが尋ねる。</p><p>はい。確か、公王陛下直轄の森や狩猟場において、管理維持を任される役人だったと記憶しています。特例的に、この飛竜討伐軍において、それと同等の権限を与える旨が記されていますね</p><p>ははぁ、なるほど……それで、権限とはどんなものが？</p><p>申し訳ありません、具体的な法規までは。ただ、聞きかじった話ですが、公王陛下主催の狩猟会で、警備のため近衛狩人が１００人ほどの兵士を率いたことがあるそうで、裁量は軍の百人長と同等ではないかと。狩猟に関することに限る、と条件はつくでしょうが</p><p>しかし、なんだってケイくんが任命されたんだい？</p><p>それがですね……</p><p>ケイが伝書鴉の安全確保のため、障害となるものを片っ端から狩るよう要請されたことを説明すると、ふたりとも なるほど と感心していた。</p><p>『つまり、軍団長とか高位の貴族とかに絡まれない限り、通信の保全をタテに干渉を突っぱねられるだけの権限を付与しつつ、それでいて軍への指揮権は持たないという絶妙な采配だねこれは』</p><p>『ははぁ、そんな意図が……つまり、勝手に狩りしてていいよ、というお墨付き以外の何物でもないってことですかね』</p><p>『身も蓋もない言い方をするなら、そうだね』</p><p>コウに太鼓判を押されて、ケイはようやく安心したように座席に身を預けた。</p><p>『良かった。これでホッとしましたよ、自分が何になったのかわかんなくて……』</p><p>『言葉がわからなかったらそうだろうね。僕だって急に宰相に呼び出されて、お前を近衛狩人に任命する！　とか言われたらビビるもん』</p><p>おどけたコウの言葉に苦笑しつつ、お茶を一口。今更のように、旅の道中でありながら、香り高い高級なお茶であることに気づいた。</p><p>味わう余裕もありませんでした。おいしいです</p><p>それはよかったです</p><p>ヒルダもくすくすと笑っている。</p><p>さて、それじゃあ、自分はそろそろ失礼します。せっかく任命されたんで、役目を果たさないと。コウさん、改めてありがとうございました</p><p>いやいや、お役に立ててよかったよ。あんまり根を詰めないようにね……といっても、きみは狩り好きだから、むしろ楽しめるかな？</p><p>はは、実は猛禽を一羽狩るごとにボーナスがつくんですよ</p><p>ケイがニヤリと笑って指で輪っかを作って見せると、コウもヒルダもからからと笑っていた。</p><p>そりゃあいい。じゃあ、頑張っておいで</p><p>はい。ヒルダさんも、美味しいお茶をありがとうございました</p><p>いえいえ。精霊様の御加護がありますように</p><p>そんなわけで、ケイは馬車をあとにした。</p><p>チラッと振り返れば、中でコウとヒルダが何事か話しているのが見える。</p><p>ケイが去ったというのに、ヒルダは隣りに座ったまま。</p><p>『……お似合いだと思うんだよなぁ』</p><p>ふふっと笑いながら小さく呟いて、ケイはコキコキと首を鳴らしながら、元いた義勇隊に戻ることにする。</p><p>ひとまず、マンデルをはじめ仲間たちに事の顛末を伝えてから、『近衛狩人』としての任務を果たしにいくことにしよう。</p><p>……銀貨のボーナスも、欲しいことだし。</p><p>107. 一狩</p><p>寒空の下、ウサギが一羽―</p><p>草原の只中で、耳をピクピクさせながら草をはんでいる。</p><p>周囲を警戒しているつもりなのだろう。だがそのウサギは、自らがどれほど危機的状況にあるかを、まるで理解していなかった。</p><p>ウサギから、三十歩ほどの距離。</p><p>サスケにまたがるケイの姿があった。</p><p>ウサギも、ケイの存在は認知していた。 だけどこれくらいの距離があれば大丈夫だろう、人間は鈍いし とでも思っているようだった。その手の”竜鱗通し”が何なのかを、ウサギは理解できない。そこにつがえられた矢の意味も。</p><p>ケイがウサギを捕捉してから、かれこれ数分が経っていた。もしもケイがその気であれば、ウサギは既に四、五百回は死んでいただろう。比喩表現や誇張ではなく統計的な事実として。</p><p>だが、ウサギは今も生きながらえている。</p><p>なぜか？　それはケイがちらちらと空を見上げていたからだ。</p><p>何かの様子を―タイミングを計るように―</p><p>フッ、とウサギに影がさした。</p><p>音もなく、まるで流星のように、猛禽が舞い降りてきたのだ。</p><p>それは鷲(ワシ)だった。翼は広げれば優に二メートルを超えるであろう大物。胴体は茶と灰色のまだら模様で、頭の部分だけが初雪のように白い。頭部には冠状の羽毛を生やしており、まさに空の王者といった風格を漂わせていた。</p><p>ぎらりと、大振りな爪を光らせて―呑気に草をはんでいたウサギを狙う。果たして獲物は、弾かれたように逃げ出した。『脱兎のごとく』と言葉になるだけあって、それはもう見事な逃げっぷりを披露する。</p><p>だが、その全力の疾走も、天空から襲い来る捕食者の羽ばたきには、わずかに及ばない―鋭い爪がウサギの背を抉る―</p><p>と、思われた瞬間。</p><p>カァン！　と唐竹を割るような快音。</p><p>鷲の爪は届かなかった。ドチュンッと水気のある音を立てて、必殺の一矢がその身を貫いたからだ。空の王者は一転、獲物と化し、それでいて地に堕ちるより先に空中で散った。</p><p>あわやというところで、九死に一生を得たウサギ。</p><p>―が、鷲を貫いた程度で”竜鱗通し”の矢が止まるはずもなく。</p><p>そのまま直線上にいたウサギにも襲いかかった。</p><p>―キュィッ！</p><p>断末魔の叫びじみた悲鳴とともに、矢を受けたウサギがひっくり返る。</p><p>よしっ</p><p>当然のように、一石二鳥ならぬ一矢二羽をキメたケイは、ご満悦でサスケから飛び降りた。心なしか弾む足取りで、成果をチェック。</p><p>鷲は首の付け根あたりを貫かれ、即死だった。それでいて肉体の損傷は最小限に抑えられており、さぞかし立派な剥製になるだろう。</p><p>そして、ウサギも虫の息。サクッととどめを刺して血抜きを始める。</p><p>うーむ、もういなさそうだな</p><p>空を見上げて、 こんなもんか と頷くケイ。近寄ってきたサスケの鞍に、立派な鷲をくくりつける。</p><p>一日の稼ぎとしては充分だろ。今日はこれくらいにしておくか</p><p>続いてウサギもくくりつけ、サスケの手綱を引いて歩き出す。</p><p>―くるりと向きを変えたサスケの反対側の鞍には、びっしりと、鷹や鷲といった猛禽類が吊り下げられていた。</p><p>……あ、もうちょっとお土産も狩っとくか</p><p>思い出したように、今しがたウサギの仕留めたばかりの、血塗られた矢をつがえて草原に視線を走らせるケイ。</p><p>―いた</p><p>引き絞って、リリース。</p><p>カヒュンッと軽やかな音とともに矢が飛んでいく。</p><p>そしてまたその先から、 キュイッ！ と短い断末魔の叫び。</p><p>～～♪</p><p>口笛を吹きながら回収に向かうケイ。どことなく呆れたような顔を見せるサスケ、鞍で揺れる無数の獲物たち。『この世界』に来てから、おそらく最大効率で、ケイはその才能を遺憾なく発揮していた。</p><p>革のマントをはためかせる寒風だけが、戦々恐々としているようでもあった―</p><p>†††</p><p>時を遡ることしばし。</p><p>コウと別れたケイは、一旦、義勇隊の皆に事の顛末を伝えることにした。</p><p>おお、ケイ。……生きて帰ったか</p><p>明るい顔で戻ってきたケイに、マンデルはホッとした様子を見せる。</p><p>ああ。どうにか無礼討ちされずに済んだよ</p><p>それは何より。……それで、いったい何の用事だったんだ？</p><p>それがだな―</p><p>かいつまんで説明する。参上したらまさかの宰相閣下だったこと。伝書鴉の通信の保全のため狩りを依頼されたこと。そして近衛狩人なるものに任命されたことなど。</p><p>ほっほう、近衛狩人ですか！</p><p>横で話を聞いていた、ぽっちゃり系の田舎名士の次男坊・クリステンが感嘆の声を上げた。</p><p>知ってるのか？</p><p>ええ、書物で読んだことがあります！　出自に関わらず大変優れた狩人のみが任命される、大変名誉な役職だとか……！</p><p>ほほー</p><p>大物狩りとして既に名誉をほしいままにしているケイは、現時点でさらなる名誉は求めていなかったが、それでも尊敬の眼差しで見られるのは気分が良かった。</p><p>近衛狩人という、なんか強そうな字面も気に入っている。それでいて大仰な名前の割に、大した責任が付随していない点もポイントが高い。</p><p>そういうわけで、俺は義勇隊を離れることになった</p><p>ケイが告げると、マンデルも含めて皆がシュンと悲しげな顔をする。</p><p>そうか。……それは残念だ</p><p>寂しくなるな……晩飯が</p><p>彩りが……</p><p>現金な奴らだ、と思わず苦笑する。</p><p>安心してくれ。何か食えそうなモノを仕留められたら、お裾分けに来るからさ</p><p>ケイの言葉に、パッと表情を明るくする面々。</p><p>よっ、旦那！　太っ腹！</p><p>さっすが公国一の狩人！</p><p>近衛狩人、ばんざーい！</p><p>やんややんや。やっぱり現金な奴らだ、とケイも笑みが溢れた。</p><p>それに、どうせ―</p><p>夜になったら戻ってくるし―と言いかけて、言葉を飲み込んだ。もしかしたら、コーンウェル商会の馬車で厄介になるかもしれないと思ったからだ。</p><p>昨晩、野宿をしてみて気づいたが、アイリーンと影の魔道具で通信しづらい。一般部隊の野宿には、明かりがほとんどないからだ。反対に馬車の近くでは獣避けや防犯のため何かしら火が焚いてあるので、影の魔術を使いやすい。</p><p>さらに、臨時収入でキャンプ用品を増強しても、コーンウェル商会なら馬車に載せてもらえそうなのはデカかった。</p><p>そういうわけで、たぶん、夜はコーンウェル商会の馬車に身を寄せることになる。皆には悪いが……。</p><p>ともあれ、そういうわけさ。隊長殿(フェルテン)にも伝えておいてもらえるか？　問題がありそうなら、俺が書類を見せて直接対応するからさ</p><p>わかったー、頑張れよー、などと皆の声援を背に。</p><p>ケイは意気揚々と”任務”に取り掛かるのであった―</p><p>†††</p><p>―夕方、参謀本部に猛禽類を提出しに行ったら、担当者が目を丸くしていた。</p><p>……こんなに！？　今日一日で仕留めたのか？　嘘だろ……</p><p>木箱に板を敷いただけの簡易机の上に、どっさりと山積みの猛禽類。周囲の軍人がぞろぞろと集まってくる。</p><p>これは見事な鷲だな……</p><p>見ろよこの尾羽根、いい矢になるぞ</p><p>あ～～～これ生きてればなぁ、飼いたかった……！</p><p>感心する者、はしゃぐ者、恨めしげに見てくる者―反応は様々だった。非難がましい視線には肩身が狭い思いをしつつ、報酬の銀貨を受け取る。</p><p>革袋にぎっしり、ずっしり。これは飛竜狩りの”行き”だけで金貨数枚は稼げるな、とケイは確信した。</p><p>少なくとも、狩り尽くさない限りは。逆に帰り道にはあまり期待できないかもしれない。街道沿いの森にはまだ生き残りがいるだろうが、それにしても大幅に数を減らしてしまうだろうから。</p><p>貴様……弓の腕前は大したものだが、全滅させたらタダじゃおかんからな……！</p><p>鷹好きと思しき軍人が、若干血走った目でケイの肩を掴み、唸るようにして言う。 宰相閣下のご命令なので と抗弁しても、理屈が通じそうにない目つきだった。</p><p>いや、これでも若い個体や雌は避けたんだ</p><p>闇雲に狩ったわけじゃない、と主張するケイに、鷹好き軍人が固まる。</p><p>なん……だと……</p><p>振り返ってよくよく見れば、鷹好きゆえに気づいてしまった。机の上に並ぶのは、ほとんどが雄であるという事実に……</p><p>再来年には数は回復するから……たぶん</p><p>さら……ええ……？</p><p>鷹好きが呆然とした隙に、本部を脱出。</p><p>ケイは晴れて自由の身となった。</p><p>銀貨の袋は、ぴっちりと革紐で口が縛ってあり、ポケットにそのまま放り込んでもチャラチャラと音を立てない。</p><p>あからさまに大金を持ち歩くと、懐が寂しい兵士が気の迷いに駆られかねないので非常に助かる。このあたりも、きちんと考えられているんだろう。</p><p>さて……ちょっと行商人たちでも覗いてみるかな</p><p>義勇隊の皆のためにウサギは確保済みだが、せっかく臨時収入もあることだし、何かお裾分けがあってもいいだろう。</p><p>ついでに、コーンウェル商会の馬車に、近くでキャンプを張っていいか打診もしておこうか。ケイなら二つ返事で了承をもらえるはずだ。晩飯は義勇隊の皆と摂ってもいいし、商会にも肉を持っていって、ご相伴に預かってもいい……</p><p>～～♪</p><p>サスケの手綱を引きながら、ケイは自然と、鼻歌交じりに歩いていた。地球で流行っていたポップミュージック―</p><p>（―そして日が沈んだら、）</p><p>曇り空の合間から覗く、夕焼けを見上げてケイは微笑んだ。</p><p>（アイリーンに連絡を取ってみよう）</p><p>おそらくこの世界で初になるだろう、遠距離リアルタイム通信での恋人たちのひとときだ。</p><p>～～～♪</p><p>自然と足取りも軽やかになる。</p><p>その浮かれっぷりたるや、きつく口を縛ってあるはずの銀貨の袋さえ、チャリッと涼やかな音を立てるほどだった。</p><p>108. 交信</p><p>前回のあらすじ</p><p>鷹・鷲・兎</p><p>従軍商人の馬車を巡り、色々と買い物をしたケイはご機嫌だった。</p><p>（やはり買い物はストレス解消になるな……！）</p><p>商品はどれも割高であり、今日の報酬はほぼほぼ使い切ってしまったが、全く後悔していない。</p><p>こんな行軍で、銀貨を後生大事に貯め込んでいても仕方がないのだ。紙幣と違って重いし、嵩張るし、行軍で疲れ果てた兵士たちに妙な気を起こさせるかも知れない。</p><p>第一、どうせ明日になればまた手に入る。</p><p>なら使っちゃえ、そして行軍ライフをより豊かに便利にするのだ……とケイは開き直ることにした。</p><p>まず買い求めたのは、クッションや毛布の類だ。</p><p>いくらサスケを連れているとはいえ、旅にあまり嵩張るものは持ってこられなかったので、ケイの寝具や野営具は最低限に抑えられていた。</p><p>が、実際に野宿してみた思ったが、けっこう寒い。</p><p>諸々の道具を揃えるのに、色々アドバイスしてくれたアイリーンがロシア人であることを失念していた。 ロシア人は寒さに強いんじゃねえ、寒さに負けないようガッツリ着込んでるんだ！ と日頃から豪語していたアイリーンだが、ケイからすれば、やっぱりそこらの日本人より寒さに強い。</p><p>秋口にケイが長袖を着始めても、アイリーンはしばらく半袖のままだったし……。ほぼ１００％ゲーム由来の筋肉質ボディで、体脂肪率が低いケイは、そもそも寒さに弱かった。</p><p>持ってきた毛布や皮のマントだけでは足りない。地面の最悪な寝心地も何とかするため、邪魔になるのを承知で、予備の毛布をしっかりと買い込んだ。</p><p>これらを全てサスケに載せたら負担になってしまうので、あとで残りの銀貨を引っさげて、コーンウェル商会の馬車と交渉するつもりだ。クッションみたいな軽いものなら、多分載せてくれるだろう。</p><p>次に、食料。</p><p>特に嗜好品の類だ。昨日は義勇隊の皆と侘しい食事を共にしたが、従軍商人の中には濃い目の味付けの料理をご奉仕価格(ボッタクリ)で提供している者もいた。</p><p>香辛料をたっぷりと使ったソーセージの香ばしい匂いに、ケイは抗うことができなかった。</p><p>立ったままかぶりついた、串焼きソーセージのこれまた美味いこと！</p><p>おっ、見事な食いっぷりだねえ。もう一本いくかい？</p><p>頼もう</p><p>毎度！！</p><p>と、店主に勧められるがまま、ぺろりと何本も食べてしまった。</p><p>（こりゃ、匂いを落としてからじゃないと義勇隊には近寄れないな……）</p><p>鼻のいい森歩きや狩人たちが多数いるのだ。自分だけ濃厚なスパイス臭を漂わせていたら、一発でバレてひんしゅくを買ってしまう！</p><p>いや、ケイに表立っては文句を言ってこないだろうが、絶対裏で羨ましがられる。……少しでも誤魔化せるように、ケイは義勇隊の皆への差し入れとして、香辛料の類も買い足すことにした。これで彼らの食事も少しは彩りが出るだろう。</p><p>そうして、デザートの新鮮な果物―みかんとオレンジの合いの子のような柑橘類―も平らげて、今日狩ったウサギ肉を、義勇隊へお裾分けしにいった。</p><p>また侘しい食事に逆戻りかと恐れていた義勇隊の面々は、ケイが約束通りウサギとともに姿を現したことで安心したようだ。</p><p>おれたちも、自力で確保しようとしたんだが</p><p>マンデルが、いち狩人として忸怩たる思いを滲ませていた。</p><p>……残念ながら、ケイほどには狩れなくてな</p><p>マンデルがかろうじて２羽仕留めただけで、他の狩人たちは１羽か、矢を無駄にしたかのどちらかのようだった。</p><p>近づいたら逃げられるし……</p><p>逃げられない距離からだと必中ってわけにもいかないし</p><p>そもそも見つけられねえよ……</p><p>と、狩人の面々は口惜しげにしている。普段、彼らは畑を荒らすイノシシや鹿なんかを相手にしていて、草原のウサギのように、すばしこくて小柄な獲物にはあまり慣れていないとのことだった。</p><p>ケイは、弓の腕もさることながら、抜群の視力で、かつサスケに乗って視点を高くして狩りに挑んでいるので、徒歩で慣れない獲物を狩ろうとしていた彼らと比べるのはあまりフェアとは言えなかった。</p><p>ともあれ、ケイが供給したウサギ肉と、お裾分けの香辛料に皆は大喜びだ。</p><p>ちゃっかりケイも夕食のスープのご相伴に預かってから、 また明日 と別れを告げて、今度はコーンウェル商会の馬車へ向かった。</p><p>交渉するまでもなく諸々に二つ返事でOKをもらい、馬車の直ぐ側のスペースを借りてテントを設営することになったのだった―</p><p>―よし</p><p>すっかり日も暮れて、夜番の兵士や護衛の戦士以外は、早々に眠りにつこうとしている。</p><p>ケイもまた、テントの中、新たに購入した毛皮やクッションでパワーアップした寝床にいそいそと潜り込んだ。</p><p>かなりいい感じだ。今夜はよく眠れるだろう。</p><p>泥棒避けの篝火の明かりが外で揺れている。夜番を担当する兵士や護衛の戦士たちの、かすかな話し声だけが響いていた。</p><p>テントの中はほぼ真っ暗闇だが、ケイの視力なら、入り口の隙間からかすかに差し込む光だけでも充分だった。</p><p>胸元から、アイリーン謹製・お守り型の通信用魔道具”小鳥(プティツァ)“を取り出す。</p><p>目覚めろ小鳥(プティツァ)</p><p>ケイがキーワードを囁くと、ズズッと手元の影が蠢き、かすかに魔力が抜き取られていく感覚があった。</p><p>これはサティナの自宅の魔道具”黒い雄鶏(チョンリピトゥフ)“と対になっており、今頃は”警報機”を応用した機構で、着信を知らせる呼び鈴が鳴っているだろう。</p><p>待つこと数十秒。手元で再び影が蠢き、ズズ……と文字を形作った。</p><p>『元気？』</p><p>アイリーンからの通信。彼女の手癖が再現された筆致に、思わず笑みがこぼれた。</p><p>元気だよ</p><p>外の夜番たちに気取られないよう、最小限の声量で答える。</p><p>『……良かった』</p><p>数秒後、返事があった。</p><p>そっちこそ、元気か？</p><p>『……ケイの目がなくなって、酒を堪えるのが大変』</p><p>アイリーンが断酒に苦しんでいるのは、このところいつものことなので―つまり元気というわけだ。</p><p>俺も、アイリーンと一緒に断酒続けてるから、頑張ろう</p><p>『……（大きな溜息）』</p><p>この通信機は出発前にテスト済みだったが、実際に使ってみると、字幕機能みたいで妙に可笑しかった。</p><p>そっちは、何か変わったことは？</p><p>『……特にない。飛竜討伐軍が何日で帰ってくるか、賭けが流行ってるくらい』</p><p>アイリーンは賭けた？</p><p>『……毎日明日に賭け続ける羽目になる。やめておく』</p><p>……一日でも早く会いたいのは、お互い様だ。</p><p>こうしてリアルタイムに連絡が取れるだけでも、この世界ではありえないほど恵まれているが。</p><p>……それがいいな</p><p>『……そっちは何か、ニュースは？』</p><p>ああ、そうだ。ビッグニュースがある</p><p>こっちには話題が山盛りだ。ケイは寝転がったまま、ぐいと通信機に向けて身を乗り出した。まるで目の前にアイリーンがいるかのように。</p><p>なんと近衛狩人に任命されたぞ</p><p>『……Что(シュト)？』</p><p>ロシア語での表示。英語で言うなら What？ だ。</p><p>思わず母国語で はァ？ と漏らしてしまったであろうアイリーンの困惑顔が目に浮かぶようで、ケイは周りに気取られぬよう、笑い声を噛み殺すのに必死だった。</p><p>それから、ぽつぽつと説明した。</p><p>ヴァルグレン氏が実は宰相だったこと。いきなり呼び出しを食らったこと。通信保全を建前にボーナスタイムに突入したこと。それからコウとヒルダについても。</p><p>アイリーンも、『……マジかよ！』『……やったじゃねえか！』『……おう、コウの旦那がそんなことに！？』『……イリスが泣くなぁ！』などと大盛り上がりで。</p><p>お互い、相手の言葉は文字で表示されているので、ちょっとした通信のラグを挟みつつ、久々の（二日ぶりだが、二人にとってはもっともっと長く感じられた）会話であることを鑑みても、話題は尽きる様子を見せなかった。</p><p>ケイはいつの間にか、傍らにアイリーンが寝転がっていて、戯れに至近距離で手紙のやり取りでもしているような、そんな錯覚に陥りつつあった。</p><p>きっとアイリーンも、ふたりの部屋のベッドに寝転んで、ランプに揺れる影文字を眺めながら、似たような気持ちを抱いているに違いない―</p><p>このまま夜が更けるどころか、朝まで語り尽くせそうな気分だったが。</p><p>残念ながら、１回あたりごくわずかとはいえ、自前の魔力を消費する魔道具なので徐々に限界が近づきつつあった。</p><p>肉体的な疲労に、魔力の消耗まで加わって、まぶたがどんどん重くなってくる。</p><p>『……眠いんだろ？　今日はこれくらいにしとこうぜ』</p><p>ケイの状態を察したのか、アイリーンが気遣いを見せた。</p><p>あるいは、気を利かした影の精霊(ケルスティン)が、『（眠たそうな目）』とでも表示したのかもしれない。</p><p>ホントは、もっと話したいけど……そうしようか</p><p>目をこすりながら、ケイは言った。</p><p>…………</p><p>名残惜しげに、手の中の魔道具に視線を落とす。木の板に水晶や宝石が組み込んである作りで、どことなく地球のスマホを彷彿とさせるデザインだった。</p><p>画面なんてないけれど―アイリーンと見つめ合っているような気がした。</p><p>ヤ ティビャー リュブリュー、アイリーン</p><p>ちょっとだけはっきりした声で、ケイは告げた。</p><p>アイリーンと一緒に暮らすうちに、ちょっとずつロシア語もかじり始めたケイが、一番言い慣れている言葉だ。</p><p>『……けい、すき。あいしてる』</p><p>アイリーンの返信が日本語で、ひらがなで表示されていたのは―つまりそういうことだ。彼女もまた、ケイに暇を見ては日本語を教わっていたから。</p><p>愛おしくてたまらなくて、思わずケイが チュッ と唇で音を立てると、ほぼ同時に『（キスの音）』と表示された。</p><p>笑い声を堪えるのに苦労した。</p><p>……おやすみ、アイリーン。明日もまた、連絡するよ</p><p>『……楽しみにしてる。おやすみ、ケイ。いい夢を』</p><p>名残惜しいが、そこで通信を切り上げた。</p><p>大事に胸元に魔道具をしまい込んだケイは、仰向けに寝転がり直す。</p><p>……ふふ</p><p>テントの中、独り、ガラでもなく幸せそうな微笑みを浮かべたケイは、毛布にくるまって、ほどなく寝息を立て始めるのだった。</p><p>109. 機嫌</p><p>改良したフカフカの寝床で、ケイは爽やかな朝を迎えた。</p><p>……正確には、ちょっと寝過ごした。寝心地の良さに加えて、昨日は夜ふかしまでしていたからだ。</p><p>おーい、ケイ。起きろー</p><p>……んが</p><p>コーンウェル商会の馬車の護衛、ダグマルが起こしに来るまでいびきをかいていたくらいだ。</p><p>初冬にもかかわらず、テントの外が明るい。つまり朝日はかなり昇っているということだ。</p><p>このまま寝てたら置いていかれるぜ？</p><p>うおっ、まずい！</p><p>テントを片付けたり身支度したりで、何気に準備に時間がかかるのだ。ケイは慌てて飛び起きた。</p><p>よく眠れたみたいじゃないか。それにしても、こいつはまたずいぶん色々と買い込んだもんだな</p><p>テントの中の、クッションや毛布を覗き見て、ひげモジャのダグマルはクックックと忍び笑いを漏らす。</p><p>まあな、せっかくの臨時収入だったから。起こしてくれてありがとう</p><p>なぁに。まあ今すぐ出発ってわけでもねえし、ぼちぼち朝飯だからよ。ケイの分も取っといてやるから、慌てず安心して支度しな！</p><p>ガハハと笑いながら、ダグマルは去っていった。夜番の明け方担当は朝食係も兼ねていたらしく、焚き火には鍋がかけられていて、粥(ポリッジ)的なものがぐつぐつと湯気を立てていた。</p><p>おお、ありがたい！</p><p>待望の温かな朝ごはんだ。ケイは手早く、革鎧を身に着けてテントや毛布を片付け始めた。</p><p>―粥はお世辞にも美味とは言い難かったが、初冬の冷える朝には、温かいものを口にできるだけで涙が出るほどありがたかった。</p><p>義勇隊の皆には悪いが、これだけでも商隊側に来た甲斐があるというもの……</p><p>お礼といっちゃなんだけど、昼頃には兎を獲ってくるよ</p><p>余分な荷物の運送代としていくらか支払ってはいるものの、毎度タダ飯にありついていては世間体が悪かろうと、ケイはそう申し出た。</p><p>おっ、そいつぁいいねえ！　せっかくなら、食料には余裕があるし、しばらく馬車に吊るして熟成させようぜ。すぐに食うより美味えぞー</p><p>ケイの弓の腕をよく理解しているダグマルとコーンウェル商会の関係者は、兎肉が確定したことで大喜びしていた。</p><p>やはり馬車があると大違いだな、とケイはしみじみする。肉は熟成させた方がより美味い。それは常識だが、徒歩で余計な荷物を極力減らしたい義勇隊では、熟成させるひと手間なんてかけてられないのだ……しかも、わびしい食事に耐えながら、皆が皆、肉を我慢できるかと問われると……。</p><p>（しかし、義勇隊にも兎を持っていかないといけないしな）</p><p>そして本部に上納する猛禽類も狩らなきゃいけない。</p><p>うーむ、今日は忙しくなるな！</p><p>言葉とは裏腹に、ケイはルンルン気分だった。昨日、一昨日のケイとは同一人物と思えない。</p><p>クッションのおかげで快適に眠れたし、アイリーン成分も補給できたし、さらには温かな飯まで！こりゃ周囲にも貢献せねばバチが当たる、とばかりに。</p><p>ハイヨー！</p><p>“竜鱗通し”を握りしめて、颯爽とサスケに跨った。 えっ、普段そんなかけ声なくない？ とびっくりした様子のサスケに二度見で振り返られながら、ケイは草原へと繰り出すのであった。</p><p>†††</p><p>サティナ周辺からウルヴァーンにかけては、ゲーム内だとリレイル地方と呼ばれていた。</p><p>草原や丘陵など、緑豊かな風景が広がる地域だ。</p><p>ただ、鉱山都市ガロンのある東部の辺境へ―つまり海側から陸側へどんどん進んでいくごとに、地形が起伏を増していく。</p><p>あと数日も進めば、草原はまばらになっていって、今ほどは兎の肉にありつけなくなるだろう。その代わり、森の動物を狩れるかもしれないが―草原ほど見晴らしはよくないので、狩りに専念でもしない限りは、やはり運が絡む。</p><p>公国は豊かだな</p><p>街道の周りを駆け巡り、獲物を探しながら、ケイは呟いた。その視線の先には、街道沿いに流れる河川がある。</p><p>北の大地では、ルート選択を失敗して、水不足で行き倒れそうになったものだ。</p><p>それに対し公国は、そこら中に水源がある。おかげで大軍でも水の調達には困っていないようだ。</p><p>サスケに澄んだ川の水を飲ませる。……すぐ近くを軍隊が通っているというのに、驚くほどの水質の良さ。</p><p>それもそのはず、みだりに水を汚すと精霊が怒り狂って何が起こるかわからないので、公国は水源の管理にかなり神経を尖らせているのだ。</p><p>なので、飛竜討伐軍においても、休憩のたびに工兵が穴を掘り、割としっかりしたトイレや食器の洗い場などが敷設されている。従軍魔術師だか錬金術師だかが、薬品などで汚物処理しているところも見かけた。</p><p>（あれは、ゲーム内にはなかったなぁ）</p><p>ポーション作成をはじめとした”錬金術”は存在したが、汚物処理の薬品なんてものは実装されていなかった。いくら現実に限りなく近いVRMMOを標榜していても、流石にそういった要素は。</p><p>だがこの世界にはあ(・)る(・)のだろう。</p><p>サティナやウルヴァーンといった大都市には必ず下水施設があって、街から離れた処理場では、犯罪奴隷なんかが浄化作業に従事していると聞く。具体的にどうやって処理しているのかはわからないが、おそらく、あの手の薬品のノウハウが蓄積されているのだろう……</p><p>そんなことを考えながら、兎や猛禽を仕留めていく。</p><p>昼前には、兎が十数羽、猛禽数羽がサスケの鞍にぶら下がっていた。</p><p>ケイにしては、割と控えめな成果だった。……兎はともかく、猛禽類は単純に見つからなかったのだ。</p><p>ひょっとすると昨日殺しすぎたせいで、付近一帯の猛禽類が恐れて逃げ出したのかもしれない―</p><p>（いや、まさかな）</p><p>言葉が喋れるわけでもあるまいし、と苦笑するケイ。兎も思ったより少ないが、代わりに、木立に狐や野生の猫といった生物を見かけた。</p><p>この辺りは小型の捕食者が多いので、競合する猛禽類が少ないのだろう。</p><p>（今日は、昨日ほどは稼げなさそうだな）</p><p>しかしケイは、あまり気にしていなかった。寝床など、この行軍中にずっと使うであろうものには初期投資を終えたし、買い食いで散財するにも限度がある。</p><p>―せめて、酒でも呑んでいたら話は別だったのだろうが、よりによって断酒中。</p><p>いやー、アイリーンはキツいだろうなぁ……</p><p>馬上で、曇り時々晴れなそれを見上げながら、ケイは嘆息した。</p><p>大して酒好きでもない自分が、これだけ飲みたい気分になるのだ。大の酒好きで、毎日晩酌するのを楽しみにしていたアイリーンが、どれだけ我慢に我慢を重ねていることか―</p><p>アイリーン、頑張れー！</p><p>周囲にサスケ以外誰もいないので、ケイは空に向かって叫んだ。</p><p>……いくら風の乙女(シーヴ)の加護があろうとも、サティナにまで声は届かないだろうが。 まったく何やってるの と言わんばかりに、クスクスクス、というかすかな笑い声が聞こえた気がした。</p><p>兎を持ってきたぞー</p><p>昼時の休憩時に、ケイは義勇隊を訪ねた。</p><p>よっ！　待ってました！</p><p>でかした！！</p><p>近衛狩人ばんざーい！</p><p>やんややんやと出迎える皆に混じって、しかし、何やらムスッとした顔の男。</p><p>おお、隊長殿</p><p>ご機嫌斜めな人物にわざわざ話しかけたくはなかったが、あまりにこちらをガン見してくるので、ケイは仕方なく声をかけた。</p><p>……狩りの成果は上々のようだな。流石は英雄殿、いや近衛狩人様だ</p><p>ふん、と鼻を鳴らしながら皮肉げに言うのは、他でもない。</p><p>顔は悪くないが、どこか不貞腐れたような雰囲気のせいで小物臭く見える男こと、義勇隊の隊長フェルテンだった。</p><p>110. 立身</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ よーし、今日もお仕事頑張るぞ！</p><p>ケイ あ、そうだ、義勇隊の皆にお裾分けしにいこう</p><p>隊長 ……ふん、狩りの成果は上々のようだな！ （プンスコ</p><p>ケイ（なんかめっちゃ機嫌悪いぞコイツ……）</p><p>兎を手土産に、昼時の義勇隊を訪ねると、何やら苛々した様子の隊長・フェルテンに出迎えられた。</p><p>聞けば、特別任務だとか</p><p>落ち着きなく足先で地面を叩きながら、皮肉げな口調でフェルテンは言った。</p><p>一応、こいつらから話は聞いたが、正式な書類があれば見せてもらいたい</p><p>もちろん構わないが</p><p>早速、辞令兼身分証が役に立つときが来たようだ。……ただ、仮にも義勇隊の責任者なら、フェルテンにも通達がいってそうなものだが。</p><p>ケイが胸元から書類を取り出して見せると、文面をチラッと一瞥したのち、最後の署名―公国宰相ヴァルター＝べルクマン＝シュムデーラー伯名義―を確認して、フェルテンは鼻の横の筋肉を痙攣させた。</p><p>……相わかった！　流石に英雄は違うな、一足飛びにお役人様と来た！</p><p>半ば憤慨しながら、書類を突き返してくるフェルテン。</p><p>いや、役人というか、あくまで飛竜討伐の間だけなんだが……</p><p>なんでこんなキレてんだ、と困惑気味に答えるケイだったが、 ああそうかい！ とフェルテンはますます不機嫌が加速したようだ。</p><p>結局、 今後の活躍をお祈り申し上げる！ 的なことを慇懃無礼に言い放ち（早口だったのでケイにはよく聞き取れなかった）、荒々しい足取りでフェルテンは去っていった。</p><p>……なんだアレ</p><p>顔を合わせたと思ったら、原因不明の不機嫌を撒き散らして、ただ消えた。ワケがわからないのでケイが周りに尋ねると、彼らもまた微妙な顔をしていた。</p><p>ケイと同じく、理解に苦しみ首をかしげる者から、フェルテンを小馬鹿にしたように笑う者、憐れむような顔をする者まで、それぞれ。</p><p>単純に、ケイ殿が気に食わないのでしょう</p><p>田舎名士のぽっちゃり次男坊・クリステンがしたり顔で答えた。</p><p>む。何か失礼だっただろうか</p><p>いえ、ケイ殿が直接というわけではなく、雲上人から目をかけられた上に出世していくのを羨んでいるのかと。自分の記憶が正しければ、近衛狩人は軍の百人長に匹敵する役職だったはずです</p><p>クリステンは記憶を反芻するように、こめかみに指を当てながら言う。</p><p>そして、我らが義勇隊をよく見てみてください。何人くらいです？</p><p>ケイは隊の面々を見回した。</p><p>……１００人には届かない。数えたわけではないが、だいたい８０人かそこらだ。</p><p>この義勇隊の長は、つまり今のケイと同格以下なのさ</p><p>従軍経験者のマンデルが、肩を竦めながら言う。</p><p>あー……</p><p>流石のケイも、おぼろげながら事情を察した。</p><p>当初から、己の待遇に不満がありそうだったフェルテンのことだ。ただでさえ英雄扱いでチヤホヤされていたケイが、一気に同格以上の役職をホイッと与えられるのを見て、苛立ちが抑えられなくなってしまったのかもしれない。</p><p>そういうことなのか？</p><p>イマイチ実感が湧かずに、ボリボリと頭をかくケイ。その様子に、マンデルをはじめ周囲の面々も気が抜けたように苦笑していた。</p><p>ケイはピンと来ないかもしれないが。……百人長とは大したものだぞ</p><p>マンデルいわく、平民がなれるのは十人長がせいぜいだという。</p><p>十人長でさえ、任命されるのは従士や騎士の一族だったりするんだ。ちなみにウチの、タアフ村の村長ベネットも元々は従士だぞ</p><p>へえ！　かの御仁も戦働きしていたのか</p><p>あの老人もかつてはそんな時代があったらしい。</p><p>しかし、その割に、息子のダニー氏はあまり……運動的には見えなかったが？</p><p>たぷんたぷんな体型の、どちらかと言えば商人のような男を思い浮かべながらケイは問う。</p><p>ああ。……彼は戦役の際も、カネを払って兵役を免除されたくらいだからな。武力より経済力でウチの村に貢献しているよ</p><p>マンデルは極めて平静な顔で、つっとケイから目を逸らしながら訥々と語った。</p><p>そいや、オレの村の村長も元従士で、十人長だったって話だな</p><p>ウチもだ。三年くらい十人長やってたって、耳が腐るほど聞かされたよ</p><p>他の連中も口々にそう言っている。少なくとも一般庶民のレベルでは、十人長とは想像よりも重みがある役職のようだ。</p><p>そして百人長ともなれば、ほぼ確実にお貴族様の血筋さ。……場合によっては騎士の子さえ『部下』になるんだから、それも当然だが</p><p>なるほど</p><p>そうしてみると、近衛狩人がどれほど例外的な存在かがよくわかった。軍への指揮権がないからこそ許されているのだろう。やはり従軍経験者の話はためになる……</p><p>翻って我らが隊長殿も、おそらくは貴族の次男坊か三男坊でしょう</p><p>クリステンがマンデルの言葉を引き継いだ。</p><p>軍で汗を流すこと数年。飛竜討伐軍に志願し、どうにか出世しようと息巻いてみれば―割り当てられたのは義勇隊の隊長！　その上、部下に吟遊詩人に歌われるような英雄がいて、二日と経たずに自分と同格以上に出世……</p><p>クリステンの芝居がかった語りに、ケイは渋い顔をし、他の面々はくすくすと笑っていた。当事者じゃなければ笑えていたかもしれない。</p><p>だが、そうは言っても、あくまで討伐軍の間だけだぞ？</p><p>それを言うならケイ殿。義勇隊の隊長だって同じですよ</p><p>あ</p><p>指摘されて初めて気づいた。</p><p>しまったー！</p><p>フェルテンの不機嫌が加速した理由がわかり、思わず額を叩いて呻くケイ。謙遜のつもりだったが、この場合だと煽りに受け取られかねない―！</p><p>……うん、まあ。言ってしまったものは仕方がないな。俺もあまり調子に乗らないよう気をつけよう</p><p>腕組みして、うんうんと頷くケイ。</p><p>自分としては 自由に動けてラッキー くらいにしか思っていなかったが、一時的とはいえ、この肩書がかなりい(・)か(・)つ(・)い(・)ものであることをようやく理解した。</p><p>何かしらで絡まれたら、印籠よろしく身分証を出して切り抜ければいいや、と甘く考えていたが、そのせいで逆恨みや余計な妬み嫉みを買うかもしれないし、そもそもそんな目に遭わないよう立ち回るべきだろう。</p><p>堂々と我が物顔で陣地を歩き回っていたのも、きっとよろしくない。元々異邦人なこともあるし、もうちょっとこう、肩身が狭い感じで動いた方が良さそうだ……</p><p>……なんというか</p><p>……あんたらしいな</p><p>何やら一人で納得し、反省するケイに、義勇隊の面々は呆れたように笑っている。</p><p>ケイ殿はそのままでもいいですよ。我ら庶民の希望の星ですからね！</p><p>そうそう。威張り散らすお偉いさんより、よっぽどいいや！</p><p>飯も持ってきてくれるしな！</p><p>お調子者の誰かの一言に、全員が噴き出して笑う。</p><p>まあ、まあ。よくわかったよ。みんなありがとう</p><p>隊長はアレだったが、この隊の皆は気のいい奴らばかりだ。</p><p>見方を変えればあの隊長も、ケイが無自覚に調子に乗りつつあったことをわかりやすく教えてくれたとも言える。</p><p>そういう意味では、最小限の被害で済んで良かったかもしれない。</p><p>（やはり人間、無駄に目立たないよう気をつけないとな……）</p><p>……などと、周囲が聞けば噴飯ものなことを考えながら、ケイはこれからもっと慎ましやかに立ち回ろう、などと思いを新たにするのであった。</p><p>†††</p><p>そんな反省も踏まえて、夕方。</p><p>猛禽類をそこそこ仕留めたケイは、獲物をこそこそと隠しながら参謀本部へ向かっていた。</p><p>昨日よりもさらに遅めの時間帯をチョイスしたことにより、夕餉の準備で周囲が慌ただしい。薄暗さも相まって、目立ちにくいという寸法だ。</p><p>……と、ケイ本人は考えている。</p><p>マントで猛禽類の束を必死に隠そうとしながらぎこちなく歩く、朱色の強弓を背負った馬連れの狩人が目立つかどうかは、また別問題だ。</p><p>しかし本部が近づいてきたところで、何やら、ざわっと異様な空気が流れた。</p><p>（目立ったか？）</p><p>と少し慌てたが、どうやら自分ではなかったらしい。</p><p>……見れば、向こうから、小姓の少年たちを引き連れた、赤い衣をまとった人影が歩いてくるではないか。</p><p>（げっ、公子！！）</p><p>ケイの視力は、一発でそれが誰かを見抜いた。</p><p>まさかこんなところで鉢合わせようとは……</p><p>いや、名目上、飛竜討伐軍は彼が率いる軍勢であり、いくら警備の問題があるとはいえ、四六時中引きこもっているわけにもいかないだろうから、我が物顔で歩き回っていても誰も文句は言わないのだが。</p><p>ケイは慌てて物陰に引っ込もうとしたが、周りの兵士や軍人たちが先んじでひざまずきつつあり、しかもサスケの存在があったので機敏に動けなかった。</p><p>というか、ここでサスケを引っ張ってテントの陰に隠れたりしたら、あからさま過ぎる。</p><p>仕方がないので、その場でひざまずいてやり過ごすことにした―</p><p>―む</p><p>問題があるとすれば、いち平民にすぎぬケイではあるが、武道大会で表彰されたために、公子と面識があることだった。</p><p>公国一の狩人、ケイチであるか。大儀である</p><p>……まさか直接、話しかけられることになろうとは。</p><p>111. 公子</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ これからは目立たないようにするぞ！ (｀・ω・´)</p><p>公子 公国一の狩人、ケイチであるか。大儀である</p><p>ケイ 目立たない……ように…… （´・ω…:.;::..</p><p>公子ディートリヒ＝アウレリウス＝ウルヴァーン＝アクランド。</p><p>１６歳という若さで、公王の座に就こうと―あるいは、就かせられようと―している少年だ。その重責のためか、歳の割に顔つきは厳しい。現公王にして祖父・クラウゼ公ゆずりの鷲鼻(わしばな)、きりりとつり上げられた細眉、鳶色の瞳にライトブラウンの髪。よく言えば高貴な、悪く言えばツンとした高慢な雰囲気を漂わせているが、それはむしろ、この少年が雲上人であることを自他共に認めさせるような、超然とした風格を与えているようにも思えた。</p><p>そう、雲上人。</p><p>普通はわざわざ、自ら一般人に声をかけてくるようなことはない。</p><p>だが―ケイにとっては不幸なことに、今のケイは厳密には一般人ではなかった。</p><p>なんといっても”近衛(Archducal)狩人( Huntsman)“だ。</p><p>果てしなく末端に近いとはいえ、名目上、公王直参の家臣。次期公王(Archduke)たる公子ディートリヒが、一言くらい声かけしてもおかしくはない。</p><p>これがまだ平時ならスルーしていたかもしれないが、今は陣中であり、ここにいる全員は何かしらの理由で、公子のために命を賭けて馳せ参じている。</p><p>ケイのような平民出身者もちゃんと気にかけてますよ、というアピールは、ディートリヒからすれば、いくらしても損にはならないのだ。それがケイにとって有り難いかどうかは別問題だが。</p><p>ちなみに、ケイのような身分の者は、公子から個人として認識されている時点で、一般には相当に名誉なことだ。それだけで周囲から妬まれてもおかしくないのだが、幸か不幸か、それはケイの与り知らぬこと―</p><p>（―どうすりゃいいんだ！？）</p><p>そんなことより、ケイは跪いた状態でとにかく焦っていた。</p><p>公子からわざわざ声をかけられたにもかかわらず、だんまりがヤバいことくらいは流石にわかる。</p><p>何か。</p><p>何か答えなければ。</p><p>先日、礼儀作法の教師、もとい親切な軍人に教わった表現を思い浮かべつつ―</p><p>ははっ！　お声をいただき恐悦至―</p><p>そなたは近衛狩人として―</p><p>言葉がかぶった。</p><p>よりによって公子と。</p><p>…………</p><p>沈黙。</p><p>その場に、異様な緊張感が満ちる―</p><p>（あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛―ッッ！！）</p><p>やっちまった。</p><p>ケイは全身がカッと熱くなり、嫌な汗が吹き出るのを感じた。</p><p>ぎりっぎり、ケイの方が先に口を開いていたので、公子の言葉を遮るという最悪の事態は避けられたが。</p><p>それにしても気まずいことこの上ない。下手に表現なんてこねくり回そうとせず、 ははーっ！ とだけ答えておけばよかったとケイは心底後悔した。</p><p>（そもそも直答は許されてたのか！？　わからん！！）</p><p>何にもわからない……！</p><p>口の中がカラカラに乾いていた。咄嗟に謝ろうかと思ったが、 Excuse me は日本語では すいません と訳されていても 許してください という命令形であり、それを公子に使っていいのかわからない。</p><p>かといって ごめんなさい(I’m sorry) も何か違う気がする。いや、多分というか絶対ダメだ。それとも I beg your pardon（お詫び申し上げます） だろうか？　切実に、今この瞬間に、コウの助けが欲しい……！！</p><p>―おそらくコウがこの場にいたら、ケイの肩を叩いて、首を振りながらこのように言っただろう。</p><p>『ケイくん、平民が自分のやらかしに対して、王侯貴族にあれこれ言って、少しでも失敗を軽減しようとするのがそもそも間違いなんだよ。頭を垂れて、向こうの出方を待ちつつ、慈悲が与えられることを祈るしかないんだ……』</p><p>つまり、色々考えて黙り込んでいる現状が正解だった。</p><p>ふふ……っ</p><p>と、かすかに笑い声。</p><p>公子のお付きの者―小姓のひとりが、くすくすと笑っている。決して馬鹿にするような雰囲気はなく、ただ可笑しくて仕方がないといった様子で。</p><p>それを皮切りに、他の小姓の少年たちも忍び笑いを漏らし始めた。ケイの錯覚、あるいは希望的観測かもしれないが、その場の空気が弛緩したように思える―</p><p>そう肩肘張らなくともよい</p><p>苦笑交じりに、再び公子が口を開いた。</p><p>式典ではないのだ。……ここには口うるさい儀典長もおらんしな</p><p>冗談めかして公子が言うと、小姓たちの笑い声がさらに大きくなった。</p><p>狩りの成果は上々のようだな。これからも励むがよい</p><p>そうして、赤い衣を翻し、公子は颯爽と歩み去っていった。</p><p>はは……っ！</p><p>ケイはさらに頭を下げつつ、そう絞り出すのがやっとだった。</p><p>（た、助かった……）</p><p>たっぷりと時間を置いてから、面を上げる。公子の背中と、それに付き従う小姓の少年たち。</p><p>どこのどなたかは存じ上げないが―笑い飛ばして空気を変えてくれた小姓の少年には感謝しかない。</p><p>平伏していた周囲の者たちもそれぞれに作業を再開し、辺りはガヤガヤと夕飯時の活気を取り戻しつつあった。</p><p>（酷い目に遭ったな……）</p><p>半ば自業自得だが胸の内で呟き、公子の背中を見送りながら歩き出そうとしたケイだったが―</p><p>おっと</p><p>前方不注意だったため、目の前の小間使い風の男にぶつかりそうになった。</p><p>が。</p><p>ぬ(・)る(・)り(・)とした動きでケイをかわし、何事もなかったかのように歩いていく男。公子が去っていった方へ―</p><p>なんだか、アイリーンを思い出すような、なめらかな足さばきだった。</p><p>ケイがそう感じたということは、つまり、達人級の動きだったということだ。</p><p>（あれ……只者じゃないな）</p><p>不審者か？　まさか公子を狙っている？　とケイの心がにわかに物騒な方向へ傾き始めたが、その視点で周囲を見回すと、公子をゆるく取り囲むような形で、その手の『人員』がところどころに配置されていることに気づいた。</p><p>（ああ……SP的な感じか）</p><p>そりゃそういうのもいるよな、と今さらのように気づく。鎧を着込んだ騎士が表の護衛だとすれば、暗殺などを未然に防ぐ裏の護衛も存在するはず。</p><p>雲上人は大変だな、などと思いつつ、その場を去ろうとしたところで。</p><p>ケイの視界から外れるように、不自然な動きをする者がいた。</p><p>―ん</p><p>一般人なら見過ごしていただろう。</p><p>だがケイはゲーム内で、そういう動きをして死角に潜り込もうとしてきたヤツを、何百と弓でブチ抜いてきたのだ。</p><p>辺りが薄暗くなろうと、人混みに紛れようと、そんな『怪しい』挙動をケイの目が見過ごすはずもなく。</p><p>あっ、おい……</p><p>テントの陰に隠れてコソコソと移動するその男に、ケイは声をかける。</p><p>しかし、ケイの声を認識していながら、男はむしろ足を早めた。</p><p>む、怪しいヤツ……！</p><p>行商人のような格好をしているが、帽子を目深にかぶって顔を隠しているし、そもそもなぜ声をかけられて逃げるのか。</p><p>ケイは早足でその男を追う。さらにサスケが まってー とケイを追う。</p><p>……ああっもう、なんで追いかけてくるんだよ！</p><p>しかしすぐに、追走劇は幕を下ろした。肝心の男がキレ気味に足を止めたからだ。</p><p>あっ、……お前！</p><p>夕闇が降りてこようと、ケイの瞳は正確に、その人物の顔を認識した。</p><p>あまりにも見覚えのある顔。</p><p>思い出すのは、北の大地―ガブリロフ商会の隊商護衛の日々。</p><p>公国の薬商人として隊商に参加していた、あの男―！</p><p>……えっと、確かランダール！　なんでここに！？</p><p>辛うじて名前を思い出したケイに、苦虫を噛み潰したような顔をするランダール。</p><p>アイリーンの話によれば、馬賊の襲撃を受けた際、ランダールは一介の商人とは思えないような豪剣を披露して、一瞬で二人を斬り捨てたという。</p><p>今となっては、と(・)て(・)も(・)胡散臭い男だ。それが、なぜ飛竜討伐軍にいるのか。その腰に吊り下げられた無骨な長剣が、実に行商人の姿に馴染んでいる―</p><p>いやー奇遇だな。悪ィ、積もる話もあるけどよ</p><p>チラッと背後を―公子たちが歩いていく方向を振り返ったランダールは、サッと表情を切り替えて ヘヘッ と愛想笑いを浮かべた。</p><p>今ちょっと忙しいんだわ……あとでお前んトコ訪ねるからよ、ちょっと今は勘弁してくれや！　な？</p><p>ええ……といっても、俺がどこにいるのか知ってるのか？</p><p>コーンウェル商会んとこだろ！　知ってるよ！</p><p>ヤケクソ気味に答えたランダールは、 またあとでな！ と有無を言わせぬ口調で言い放ち、踵を返す。</p><p>するすると―泳ぐように、陣中の人混みに紛れて消えていく。</p><p>ああ……</p><p>取り残されたケイは、ある種、納得の声を上げた。</p><p>見る者が見れば……それは明らかに、一般人の足さばきではなかった。</p><p>（仕(・)事(・)中(・)だったか……）</p><p>アイリーンの推測通り、やっぱり只者じゃなかったんだなぁと思いつつ、邪魔して悪かったな……などと今更のように申し訳なさも抱く。</p><p>ぶるるっ</p><p>と、ケイの背中をサスケが鼻面で押した。振り返れば、 おなかすいてきました と言わんばかりの、純真な瞳が見返してくる。</p><p>そして背中をぐりぐりされたせいで、マントの下にはまだ猛禽類を山ほどぶら下げたままであることを思い出す。</p><p>……そうだな、飯にするか</p><p>参謀本部に、今日の成果を提出しに行かなければ。</p><p>公子やランダールと鉢合わせしたのは想定外もいいところだったが、それはそれとして、夕食にはありつきたいし、支払いもしてもらいたいし。</p><p>（今夜のアイリーンとの話題ができたな）</p><p>そんな呑気なことを考えながら、ケイもまた足早に、参謀本部へ出向くのだった。</p><p>112. 旧交</p><p>前回のあらすじ</p><p>ケイ 目立つのはどうにか最低限で済んだな……</p><p>日も暮れて、コーンウェル商会の皆と夕食をともにして。</p><p>馬車の近くにテントを張り、アイリーンに連絡しようかと思ったところで、ケイに来客があった。</p><p>よう、来たぜ</p><p>酒の壺を片手に掲げた、三十代前半の男。四角い顔が印象的だ―茶色の髪を短く刈り上げて角刈りにしているせいで、尚更そう見える。人好きのする笑顔に、夜番の篝火の明かりが濃い陰影を投じていた。黒っぽいくりくりとした瞳が、薄暗い中でもケイをしかと捉えている。</p><p>自称”公国の薬商人”こと、ランダールだ。</p><p>本当に来たのか……</p><p>ケイは驚きを隠さずに出迎えた。『あとでお前んトコ訪ねるからよ』とは言っていたが、こんなにすぐやってくるとは。</p><p>さっき言っただろ？　積もる話も色々あるし、まあ呑みながら話そうや</p><p>テントの外、切り株にどっかと腰を下ろしながら、ケイに木製のゴブレットを勧めてくるランダール。</p><p>お気持ちはありがたいが、今は断酒中なんだ</p><p>しかしケイが軽く手を挙げてそれを押し止めると、きょとんとした顔を見せる。</p><p>なんでまた？</p><p>妻が妊娠中で、酒を断っててな……その苦しみを分かち合うために、俺も飲まないことにしてるんだ</p><p>へえ！　結婚してたのか。それに赤ん坊とはめでたい……っていうかおい、まさか妻って、あの嬢ちゃんか？</p><p>ランダールは目を丸くして身を乗り出す。</p><p>どの嬢ちゃんかは知らんが、アイリーンだ</p><p>へえー！　はっはは、そいつはめでたい。おめでとうおめでとう。まったく、ケイも隅に置けないな！</p><p>うりうり、と肘で小突いてくるランダールに、 よせやい と笑顔で応じながら、ケイは思った。</p><p>（俺が結婚してることも、アイリーンが妊娠してることも知らないのか……）</p><p>公国には何もかも把握されてるんじゃないか、と思っていたが。上司は宰相閣下ではないのだろうか？　もしくは現場の人間には、そんな細かい情報までは共有されていないだけか。……ケイの重要度を考えれば別におかしくはない。</p><p>（……あるいは、知らないフリをしているだけか）</p><p>ケイの目には、ランダールが本当に驚いていたように見えたが、仮に裏稼業の人間ならば、ケイ程度を誤魔化すことなどお茶の子さいさいだろう。</p><p>ただでさえ外国語環境では、ケイは鈍(・)い(・)。母国語(にほんご)と違って、相手の言葉の裏に滲む、細かい機微を読み取れないからだ。</p><p>しかしここで知らないフリをすることに、どんな意味があるかはわからない。</p><p>（まあ、どっちでもいいか）</p><p>ランダールはどのみち、公子を守る側の人間なのだろうとケイは推測している。少なくとも公子を狙う曲者ではないだろう。ケイが気づくレベルの『不審人物』なら、早々に公子側の人員に処分されているはずだ。</p><p>こうしてホイホイとケイを訪ねてこられる時点で白、と考えていい。</p><p>仕事はもういいのか？</p><p>今は暇だからよ</p><p>さり気なく探りを入れたが、軽く返された。はてさて……</p><p>（いずれにせよ公国側の人員なら、“小鳥(プティツァ)“について知られるわけにはいかないな）</p><p>あの通信用魔道具は危険すぎる。早くアイリーンに連絡を取りたいし、ここは聞きたいことだけ聞いて、さっさとお引き取り願おう。</p><p>暇ならちょうどいいな、まあ呑んでくれよ。俺は人が呑んでるところを見るだけでも楽しくて好きなんだ</p><p>心にもないことを言いながら、 つまみもあるぞ などと、香辛料たっぷりのジャーキーを差し出すケイ。</p><p>え、そうか？　じゃあ、まあ、仕方ねえなー、そこまで言われちゃなあー</p><p>ランダールは嬉々としてジャーキーを咥えながら、トクットクッ……と澄んだ蒸留酒をゴブレットに注ぎ始めた。</p><p>今宵、ケイにこうして話をしに来たのも、何らかの意図があるはず。酒で口を軽くして……という魂胆だったのだろうが、こんな機会がなければ、ランダールの立場では早々酒など飲めまい。</p><p>悪いなぁ、俺だけ</p><p>並々と蒸留酒を注いだゴブレットを掲げて、目を細めるランダール。お互い、予定調和という感じがする。酒でケイの口を軽くする、という建前で、ランダールも上等な酒を持ち出したのかもしれない。</p><p>まあ俺にはこれがあるからな、気にするなよ</p><p>なんだぁ、お前さんもしっかり呑むんじゃないか</p><p>これは仕方ないだろ</p><p>ケイが取り出したのは、うっすい葡萄酒の革袋だ。それをゴブレットに注ぐ。</p><p>これはノーカンだ。酒ではない。アイリーンとの協定でも、そう定められている。度数がめちゃくちゃ低いので、『身体強化』の紋章で耐毒性も強化されているケイには、ほとんど水と変わらないのだ。それこそ樽いっぱいでも飲まない限りは。</p><p>そも、行軍中は、常に清潔な飲み水が手に入るとは限らない。衛生上の問題から、エールやワインで水分補給も余儀なくされる。</p><p>なのでこれは仕方ない。それにアイリーンの言う『酒』とはウォッカみたいな強めの蒸留酒のことだ。これはぶどうジュース。ぶどうジュースなのでノーカン。</p><p>久々の再会を祝して、乾杯</p><p>太っ腹な近衛狩人殿に乾杯！</p><p>こつん、とゴブレットをぶつけてグイッと。</p><p>かぁーッ生き返るなぁ～</p><p>ランダールはジャーキーをもしゃもしゃと味わい、そこに蒸留酒を流し込んで至福の顔を見せる。とても公国の裏の人員には見えないが……</p><p>このまま、ただ酒盛りをして終わりともいくまい。</p><p>ケイとしても、離脱したあとのガブリロフ商会の動向は気になるところ。</p><p>それで、あのあとはどうなったんだ？</p><p>先手を打って、本題に入ってみる。</p><p>大騒ぎだったよ。十中八九くたばると思われてたピョートルが蘇ったんだ</p><p>変わらぬ調子で答えるランダール。</p><p>あんときの、ゲーンリフの慌てっぷりは見せてやりたかったな。アイツがお前さんにキツく当たってたせいで逃げられたんだ、と突き上げるやつが多くてな……自分らの態度は棚に上げてさ</p><p>ちょっと意地の悪い顔で、くつくつと喉を鳴らして笑う。ケイも思わず苦笑した。異民族への風当たりが強くて、あの北の大地での隊商護衛は、お世辞にも快い思い出とは言えなかった。</p><p>そんな中でも、ケイには親身で接してくれたピョートルと、その仲間たちは一服の清涼剤だったが―</p><p>ピョートルは、どうしてた？</p><p>自分が快復してることが信じられないみたいだったぜ。目を覚まして、事の顛末を聞いて、もっとケイに礼を言いたかったと後悔していたな</p><p>そうか……</p><p>そのとき、ランダールはふと思い出したように、杯を傾ける手を止めた。</p><p>そういえば、俺もちゃんと礼を言ってなかったな。本当にありがとう、ケイ。お前さんがいなけりゃ、俺も今頃、異国の地で骨を晒していたところだ。本当に命の恩人だよ</p><p>どういたしまして。俺自身も助かりたい一心だったよ</p><p>馬賊との壮絶な騎射戦、その後の敵魔術師との魔術戦、さらに後味の悪い戦後処理やピョートルとの別れ―そういったものを生々しく思い出しそうになって、ケイは首を振って、ぶどうジュースを口に流し込んだ。</p><p>……ふぅ</p><p>…………</p><p>夜空を見上げて、溜息をつくケイの横顔を眺めながら、ランダールは思案するように盃を傾けている。</p><p>ピョートルも、もし俺がまたケイに出会うことがあれば、『心から感謝している』と伝えてくれ、って言ってたよ</p><p>そうか。……彼には随分と助けられたからな、恩返しができてよかったよ</p><p>……いやはや、デカい恩返しだ。アレに懲りて、ゲーンリフどもも、ちったぁ身内以外にも優しくなればいいんだがな</p><p>そうなるとは欠片も思ってなさそうな口調で、苦笑いするランダール。</p><p>―それにしても、あれはいったい、どういう魔(・)法(・)だったんだ？</p><p>そら来た。</p><p>……いや、なに。薬商人としては、俺も興味があってよ</p><p>その設定はまだ有効らしい。</p><p>どうもこうも、魔法だよ</p><p>ケイは何食わぬ顔で、懐に手を突っ込む。ひょい、とランダールに放ってみせたのは、缶入りの軟膏だ。</p><p>これは？</p><p>アビスの先駆け をすりつぶした軟膏</p><p>えっ？</p><p>手の中の缶をまじまじと見つめ、フタを開けてみて、青白いクリーム状の軟膏に目を丸くするランダール。じっくりと観察する目つきが、完全に、『そのスジの者』になっていた。</p><p>これで、あれだけの傷を……？</p><p>いや？　もちろん違う。あのとき使ったのは魔法薬(ポーション)さ</p><p>……ポーション</p><p>単語を反芻しながら、ランダールはどのような表情をするべきか、迷っているようにも見えた。</p><p>ポーションを口移しで飲ませたんだよ。もっとも、あのときの戦闘と、ピョートルの治療で使い果たしてしまったけどな</p><p>その軟膏は余り物で作ったやつさ、と。</p><p>俺とアイリーンは、昔 深淵(アビス) に潜ったことがあってな。本当に運良く、材料が揃ってたんだ</p><p>そんなに貴重なものを、よく他人のために使ったな……</p><p>迷ったさ。でもピョートルは見捨てられなかったし、後悔はしてないよ</p><p>ケイは清々しい顔で言い切る。……とはいえ、ハイポーションの瓶は、本当に僅かながらまだ残してあるのだが。</p><p>漢だなあ。……しかし、今回みたいな飛竜狩りに連れ出されるくらいなら、余らせといた方が良かったんじゃないか？</p><p>声を潜めて、冗談めかして尋ねてくるが、まだケイに手持ちがあるのか言外に探ってきているようでもあった。</p><p>それを予測していたケイは、困ったような顔で肩をすくめて答える。</p><p>たとえ温存しておいても、飛竜相手には役に立つとは思えないな。アレは怪我一つなく生き延びるか、黒焦げにされるか、八つ裂きにされるかの、どれかだよ</p><p>それもそうだ。……ま、ケイみたいな強弓の使い手がいてくれるってだけでも、俺みたいな商(・)人(・)は心強いよ</p><p>どこか白々しく、ランダールは笑って言った。</p><p>……若手の腕利き薬商人が、支援してくれているのは俺としても心強いよ</p><p>ケイも白々しくそれに応じる。</p><p>ところで、商(・)売(・)は(・)順(・)調(・)なのか</p><p>まあ、ぼちぼちだな。俺も今は、さ(・)る(・)商(・)会(・)に(・)属(・)し(・)て(・)る(・)からよ、独りで切り盛りしなくて済むってのは、まあ気楽っちゃ気楽な話だ</p><p>ああ、独立じゃなくなったのか……北の大地じゃ商品の薬を配りまくってて散々だったみたいだが、ランダールが破産したんじゃないかって心配してたんだ</p><p>おうおう、聞いてくれよ。ホントに酷い目にあってよぉ……あのあとも何だかんだと理由をつけられて、ほとんど薬を取られちまってさ、目的地のベルヤンスクに着く頃にはもう香水しか―</p><p>その後も、あくまで一介の商人としての苦労話を、ランダールはあれこれと聞かせてきた。</p><p>ケイも興味深く聞いていたが、アイリーンに連絡したい気持ちがじわじわと高まってきたので、ランダールにぐいぐいと酒を飲ませて、空になったタイミングで 疲れたから休みたい という理由で、お開きにした。</p><p>ありがとうよ。美味い酒を独り占めにさせてもらって</p><p>なあに、久々に話せて楽しかったさ</p><p>強い蒸留酒を呑みきって、ランダールも流石に赤ら顔だった。少しばかりふらふらした足取りで、ケイに別れを告げる。</p><p>ふと。</p><p>月光の下、足を止めて、振り返ったランダールは。</p><p>そんなわけで、俺にも今は頼りになる仲間がいるからよ。ケイも何かあったら話してくれや、助けになれるかもしれねえ</p><p>お、おう……覚えておくよ、ありがとう</p><p>あんまり関わり合いになりたくはないなぁ、と思いながらもケイは笑顔で答えた。</p><p>まぁ、また何かあったら話に来るわ……それじゃあな</p><p>ひらひらと手を振りながら、ランダールは闇夜に消えていった―</p><p>（また何かあったら話に来るのか……）</p><p>ケイは微妙に渋い顔で、その背中を見送る。</p><p>暗闇に紛れたと判断したのか、先ほどの千鳥足はどこへやら、機敏な動きで足音もなく去っていく背中を―</p><p>月明かりに篝火の光まであれば、この程度の暗闇はケイの前では意味を成さないのだが、ランダールは知る由もないことだ。</p><p>（面倒なヤツに目をつけられてしまった）</p><p>強引に呼び止めたのはケイなので、自業自得といえば、それまでだ。</p><p>ボリボリと頭をかいたケイは、何はさておき愛しのアイリーンに連絡を取るため、そのままモゾモゾとテントに潜り込むのだった―</p></section></body></FictionBook>